生きてる感想

僕が好きなことを書いて、誰かが楽しんでくれれば、それ以上は望むべくもないでーす

煮干し炒め

20160906 096


これが料理のうちに入るのか、レシピと言えるのか
だとしたら何という名前の料理か?
適当に語呂がよさそうな名前を編み出しましたが、プロレスの技で似たような名前があったかもしれない

僕はいつどのようにしてこれを作るようになったのか記憶がない
何かレシピの本で学んだのか、自分で編み出したのか
亡くなった父が和風料理を作るのが好きな人で、なんかこんなものを作っていたような記憶があったけど、
母に作って差し出すと、「おいしい」とは言ったが、初めてのものを食べるような感じでいたので、父が作っていたというのは違うのかもしれない

まあでも作り方はとても単純で、何かの拍子に作るようになったということです

作り方は、まずスーパーで適当に袋に入った煮干を買ってきます。
「食べる煮干」とか書いてあれば、それは食べることができることを意味しますから、この料理に適しています。
それを鍋に入れます。安い雪平鍋にでも入れてください。

それから強火にかける。
チンチンになるまで、20〜30秒ぐらいかけて、煮干をかき混ぜます。

そこで料理酒をふりかけます。
煮干全体にかかるぐらい。いつも目分量で入れてますが、大さじ3〜4杯ぐらい?
強火にかけてますから「ジュー!」って派手に言います。
かき混ぜて、ジューって言わなくなって、煮干に酒がまんべんなく行き渡って、ちょっとしっとりした感じになったら、

次に酢をふりかけます。大さじ2〜3杯ぐらいでしょうか?またかき混ぜます。水分が飛んだら、

次に、火を弱くして、最後に醤油をふりかけます。分量は好みですが、まあ大さじ2杯ぐらいでしょうか。
やはりかき混ぜて、水分が適度に飛んで、醤油が少し焦げるいい匂いがしたら完成。

調理時間はあっという間です。
最初に煮干を強火にかけるのは、20秒か、せいぜい30秒ぐらい
料理酒をかけてかき混ぜるのは、10秒か、せいぜい15秒ぐらい
酢をかけてかき混ぜるのも10秒ぐらい
醤油をかけてかき混ぜるのも、5秒か、せいぜい10秒ぐらいです。

容器に入れて、おやつにつまんだり、ごはんの上にかけて食べたりします。


alone again (naturally) : Gilbert O'Sullivan



In a little while from now
If I'm not feeling any less sour
I promise myself to treat myself
And visit a nearby tower

   今から少し経って
   辛い気持ちが少しでもおさまらなかったら
   すぐに楽にしてあげるよと自分の心に約束して
   近くの塔に行って

And climbing to the top
Will throw myself off
In an effort to
Make it clear to whoever
Wants to know what it's like When you're shattered

   てっぺんまで登って
   そこから身を投げよう
   そうしたら
   みんなに分るだろう
   人が傷つけられるってどんなことかというのが

Left standing in the lurch at a church
Where people saying, My God, that's tough
She stood him up
No point in us remaining

   教会で置き去りにされ立ち尽くし
   来客が言う「何てことだ、これはひどい
   新郎を置き去りにして花嫁が逃げたって
   ここに残っててもしょうがない


We may as well go home
As I did on my own
Alone again, naturally

   みんな家に帰ろう」って
   僕もそうした
   やっぱり、また独りになった

To think that only yesterday
I was cheerful, bright and gay
Looking forward to who wouldn't do
The role I was about to play

   たった昨日までは
   僕は気さくで明るくて元気で
   前向きで、まさかこんな目に
   あうとは思ってもみなかった

But as if to knock me down
Reality came around
And without so much as a mere touch
Cut me into little pieces

   でもまるで僕を打ちのめすかのように
   現実がやってきて
   軽く触れたかと思うと
   僕の心は粉々に打ち砕かれた

Leaving me to doubt
Talk about God in His mercy
Oh, if he really does exist
Why did he desert me

   僕は疑いに包まれ
   神の慈悲深さについて人に聞いてみた
   もし神が存在するなら
   どうして僕を見捨てたのか

In my hour of need
I truly am indeed
Alone again, naturally

   助けが必要な時に
   今僕が本当に必要としてる時に
   やっぱり、また独りになった

 It seems to me that
 There are more hearts broken in the world
 That can't be mended
 Left unattended
 What do we do
 What do we do

    僕が思うのは
    世界には他にも傷ついた心の持ち主がたくさんいる
    傷は癒されず
    放ったままにされている
    僕らはどうしたらいい
    僕らはどうしたらいい

Alone again, naturally
Looking back over the years
And whatever else that appears
I remember I cried when my father died
Never wishing to hide the tears

   やっぱり、また独り
   昔のことなどを
   思い返してみると
   父が死んだ時、僕は泣いた
   人前でも涙を恥ずかしいと思わなかった

And at sixty-five years old
My mother, God rest her soul
Couldn't understand why the only man
She had ever loved had been taken

   そして65歳の時
   母を、神は天に召された
   どうして母が愛したたった一人の人が
   奪われてしまったのか理解できなかった

Leaving her to start
With a heart so badly broken
Despite encouragement from me
No words were ever spoken

   母はひどく傷ついた心で
   一人とり残された
   僕がいくら励ましても
   母は黙ったままだった


And when she passed away
I cried and cried all day
Alone again, naturally
Alone again, naturally

   そして母が亡くなった時
   僕は一日じゅう泣いていた
   やっぱり、また独りになった
   やっぱり、また独りになった

北朝鮮戦争は近く始まると思う

安保理が北朝鮮ミサイル発射を非難する声明、文言巡り米ロ対立も
[国連 20日 ロイター] - 国連安全保障理事会は20日、北朝鮮に対し16日のミサイル発射を非難し、核実験の禁止を要求する報道声明を発表した。報道声明の発表には全15理事国の賛成が必要だが、文言を巡り米国とロシアが対立したため、発表が遅れる異例の事態となった。
これまで公表されてきた北朝鮮への報道声明では「安保理は理事国や他の国々による、対話を通じて平和的かつ包括的な解決を進展させるための取り組みを歓迎した」としていたが、米国は今回「対話を通じ」の部分を削除した草案を提示。これにロシアが異議を唱えた。
ロシアは19日、「政治的に重要であり、協力関係の継続へのコミットメントを表明するため、これまで合意されていた文言を元に戻すようわれわれが求めた際、米国は説明もせずに、草案に関する作業を中止した」と非難した。
安保理は最終的に、問題の文言を復活させることで合意した。
関係筋によると、米国は理事国に対し、この部分の削除は「国際社会が北朝鮮の核問題に対する平和的かつ包括的な解決策に到達するための手段を、過剰に狭めている」ためだと説明したという。北朝鮮の同盟国である中国は、当初から声明に賛同していたもようだ。


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安倍首相がトランプ大統領との初会談をしに米国に行った際、北朝鮮がミサイルを発射し、両首脳は緊急記者会見を行なった。その際トランプ大統領は、「アメリカは100%日本と共にある」、と言った。この100%には、安倍首相がトランプの要求に満額回答したことが示唆されている。トランプ大統領は選挙戦の時、アメリカは自国の利益を優先し、同盟国を助けたいのはやまやまだがそれには同盟国はお金を負担しなければならないということをたびたび強調してきたが、今回、シリア、アフガニスタンを軍事攻撃し、いま北朝鮮付近に軍事力を展開しているが、トランプ大統領はもはや軍事費のことは一切言わなくなった。これはもう同盟国が軍事費ファイナンスの要求に満額回答をしたからに違いない。満額回答をしたのは安倍首相に違いない。二人が楽しそうにゴルフをしたのは単に気が合っただけであるはずがない。難しい話がついたのだ。それもたとえば米軍駐留経費みたいな一般的な話なら外に出せるが、一切出てこないから、軍事機密に属することだ。つまり具体的な戦争の準備をあの時点で日米は始めた。日本が引き上げていた駐韓大使を、問題は何も解決してないのにも関わらず韓国に再び行かせたのも、韓国大統領選挙の情報あつめではなく、戦争が始まるかもしれないから同盟国韓国との意思疎通を密にするためだ。

アメリカの目的は、北朝鮮が度重なる国連決議に違反し核開発などをすすめてきたことをやめさせる、廃棄させることだ。もしやめなければアメリカは北朝鮮を攻撃する。それに伴い北朝鮮は日本も標的にして軍事攻撃すると言っているので集団的ではなく個別的自衛権を発動できるし、そういう前提でアメリカと下準備をしているはずだ。
アメリカは当面、北朝鮮に、もうミサイルとかの実験をこれ以上しないことと、最終的には今持ってる核兵器などをすべて廃棄するように求めていく。そういう要求を圧力をかけながら段階的にしていく。北朝鮮は今、米軍が近所に展開しはじめたのでさらなる核やミサイルの実験を見合わせているっぽいが、アメリカはさらに圧力をかけ、最終的には核兵器の廃棄まで要求していき、それを北朝鮮が最終的に拒否したことがはっきりした時点でアメリカは軍事攻撃に移る。北朝鮮は核兵器の廃棄までは応じないだろう。アメリカもそう想定しているはずだ。だから軍事攻撃はほぼ避けられないだろう。とりあえずこないだの4月15日に戦争が始まるんじゃないかみたいな話もあったけれど、明日あさってというのではなく、北朝鮮に圧力をかけるために、在韓国アメリカ人に避難勧告みたいなのを出して韓国から大量に出国させる、などの儀式が残っている。もしこれがあったらニュースで大きく取り上げられ、戦争が迫っているようだという不気味な圧力になるだろう。そうやってあらためて圧力をかけた上で、再度北朝鮮の出方をみる。北朝鮮は核兵器の廃棄なんかやらないだろうから、どっちみち攻撃はやる。今やらなければ将来はもっとひどいリスクを伴ってしまう。本当は少し遅すぎたかもしれない。北朝鮮は核弾頭を積んだミサイルを撃つ能力をすでに持っているようだが、できたらそうならないうちに攻撃しておくべきだったが、今回やらなければ将来もっとひどいリスクを負うことになるから、今までやらなかった以上は、今やるのがベストということになる。
いつまでにやるかというと、5月9日に韓国の大統領選挙があって、親北朝鮮のムン・ジェインが今のところ支持率が最も高い候補者なので、もしそういう人がなった後だととてもやりにくいので、それまでに行動を起こす可能性が高い。当面は、心配した4月15日(金日成の誕生日)には何もなかったが次は今から4日後の4月25日、軍創建85周年だそうだが、ここに向けてアメリカはじめ国際社会は北朝鮮に圧力をかけていく。もしミサイルでもとばそうものなら、アメリカは具体的な行動に出るだろう。日本はすでに軍事費ファイナンスを約束したはずだ。

アメリカが北朝鮮を攻撃するかどうかをめぐっていろんな意見があったし、今もあるだろう。当面ないという人の具体的根拠としては、アメリカはシリアを攻撃している最中で、二正面攻撃はしない国であるということと、日本の外務省は韓国への渡航に関する注意情報などを出していないではないか、ということが当初あった。しかし4月12日には日本の外務省が韓国への渡航者などを対象に、朝鮮半島情勢への注意を呼びかける海外安全情報を出したし、13日にはアメリカが核兵器以外の通常兵器で最強の爆弾でアフガニスタンのISを攻撃した。

日本は湾岸戦争の時は軍事費負担を渋ってアメリカから大いに反発された。日本がサヨクっぽい首相の時には話はトントン拍子にはいかないが今は安倍首相だ。中曽根とレーガン、小泉とブッシュみたいに、日本が右よりの首相でアメリカの大統領が共和党の場合、ケミストリーが非常に良い場合が多く、今またそういう感じになっている。こういううまく協力関係ができて、しかも北朝鮮がこんなことをやって、そして韓国に親北朝鮮の大統領が出るまでの間が、物事をやるのが最適な時なので、僕は、今日から20日以内、韓国大統領選挙までに北朝鮮戦争が始まるとみている。

a secret love : TOTO



He never felt that she cared
   彼はあの娘が気にかけてくれてると感じたことは一度もなく
Turning to leave
   ここを去っていく
Feeling her lonely stare
   あの娘の乾いた視線を感じながら
If only a secret love
   もし秘密の愛が遺したものが
Left more than a broken heart
   傷ついた心だけじゃなかったなら
Like a fool thinks he felt the start
   馬鹿みたいに彼は夢想する
Of what he hoped for so long
   彼がずっと望んでいたことが叶うことを
He waits though he knows she's gone
   彼は待ってる、彼女はもういないのを知りながら
Alone he climbs
   彼は独りで昇りはじめる
Until he falls
   ころがり落ちるだけなのに
Only a secret love
   もし秘密の愛がもたらすものが
Brings more than a broken heart
   傷ついた心だけじゃなかったら
Like a fool I have played the part
   馬鹿みたいに僕は演じようとしてきた
Of what I hoped for so long
   僕がずっと望み続けてきたことを
The need to belong in love
   愛に包まれた人生を送ることを

フローベール「ボヴァリー夫人」



内容紹介
田舎町の医師と結婚した美しき女性エンマ。平凡な生活に失望し、美しい恋を夢見て愛人をつくった彼女が、やがて破産して死を選ぶまでを描く。世界文学に燦然と輝く不滅の名作。

 これがアマゾンのサイトの内容紹介に書いてあったことですが、これ以上あらすじを述べるつもりはありません。


 こんなに面白いんなら早く言ってよね、と思いました。
 「ボヴァリー夫人」が名作だということはもう中学、高校の時から知ってはいました。でも作者のフローベールの写真は冴えないおっさんで、あらすじが、もっとぜいたくして恋とかしたいおばはんだというし、全然魅力があるという感じがせずに今までフローベールなんか読もうとも思いませんでした。僕は数年前にバルザックを初めて読みました(「谷間の百合」)けど、まあ19世紀の小説は名作でも今読めば色あせてこんなもんかなあ、ぐらいに思いました。なんかバルザックとフローベールは同じような作家が二人いるみたいなイメージだったのですが、「ボヴァリー夫人」を読んだら、バルザックと同じだなんて思ってごめんね、って思いました。でも誰も僕に言いに来てくれなかったし。
 偏見かもしれません。それに世の中にはいろんな意見があって僕と正反対のことを感じる人もいるのでしょう。でも僕の感想は、フローベールはまじすごくて、バルザックとは格が違います。つまり、モームは「世界の十大小説」の中で「バルザックこそ私が躊躇なく天才と呼びたいただ一人の小説家」と言っているんですが、そのバルザックよりもフローベールのほうが比べ物にならないぐらいすごい。この評価は僕の中で死ぬまで変わることはないでしょうから、こう言い切っておきたい。

 たしかに作品数量の膨大さという点ではバルザックは化け物じみています。それに比べてフローベールは寡作も寡作。「ボヴァリー夫人」も、そこそこ長い小説ではありますが、5年もかけて、かなりマニアックな推敲をした後に発表しています。モーム「世界の十大小説」の中には「ボヴァリー夫人」も入っていますが、そこにフローベールの推敲がどんなものだったか具体的に書いてありますが、僕はフランス語は全然分らないのですが、音韻的に好ましくない部分が一箇所あれば、たとえ一週間かかっても解消すべきだ、という考えを持っていたそうです。それでもどうしても直せない部分が残ってしまって、自分はそれを一生悔やみ続けるだろうって言ったそうです。それでも5年で完成するなんていいほうで、中には若い頃に一度書いたものを全面的に書き換えを2度、3度としたりして、20年ごし、30年ごしで完成させたという作品もあったりして、それで完成させた作品のボリュームは、バルザックが毎年1冊ずつ発表してた長編小説という感じです。そしてそこがフローベールのすごさだと思います。フローベールと同時代を生きた文学者ゴンクール兄弟の日記には、フローベールが「作品の卓抜さを生み出すのは、そこにかけた時間の分量」だと信じているという記述がある(1878.9.8日曜日)。これはすごくフローベールらしいなあと思います。じっさい僕はフローベールについてほぼ何の予備知識もなしにこれを読んだんです。去年読んだ柄谷行人「日本近代文学の起源」に触発されて、近代文学とは何かを考えるための資料として何か一冊読んでみよう、ぐらいの気持ちで「ボヴァリー夫人」を読み始めました。そしたら、風景描写とかがほんとしっかりしてて、しっかりしてるだけでなく、一つひとつの、筋にはあまり関係のないような場面でも、作者の心がそこにしっかりと打ち付けられてるような呼吸を感じ、読んでて気持ちよかったです。たった1つの表現が気に入らないだけで徹底的に推敲しまくったというだけあって、この長い小説の中で「あ、ここはいい加減だな」って思うところが1つもないのです。そして、“筋には関係ないところのしっかりした描写”みたいなことを数行上で言いましたが、この作品の無数の解説がネット上にありますが、指摘されて初めて、これら“筋とあまり関係ないところ”のしっかりした描写が作り上げたイメージが別の場面とコントラストを作り上げていて、理屈では指摘されるまでは気づかなくても、言われれば「なるほど!」と言える効果があるのが分ります。一例ですが、シャルルとエンマの田舎の盛大な結婚式の様子がこと細かに書いてあり、その当時の農民にとっての豊かさのイメージが伝わってきますが、筋には直接関係ない。でもその後に出てくるヴォビエサール荘の舞踏会の様子とコントラストを作っているという指摘を見たんです。「そういえばそうだ!」と思ったんです。そのコントラストで、エンマが田舎に退屈して、貴族とのロマンスに憧れるのがどんな感じかというのが具体的に、感覚的に伝わってくるんです。そう、この部分がなければ、こういうイメージはこちらに伝わってこなかったろうな、と指摘されて初めて意識できるんです。


 僕はたぶん今年じゅうに「感情教育」を読むでしょう。「三つの物語」もすでに手許にあるし。そのあとに「聖アントワーヌの誘惑」を読み、「ブヴァールとペキシュ」もなんとか手に入れて読み、もし「サランボー」が手に入ればこれもことによったら読むかもしれない。僕は読みたい文学作品はたくさんあるけれど、今いちばん優先して読みたいのがフローベールです。数年前に「日はまた昇る」を読んでヘミングウェイが好きになって、それで「武器よさらば」も読んだし、あとは少なくとも「誰がために鐘は鳴る」をぜひ原文で読もうと思ったけど、それよりも、ジッドよりも、何よりも、今はフローベールを優先して読みたい気持ちです。今読んでる本を読み終わったら読もうと思うてます。

 昔の作品は、文学でも音楽でも演劇でも何でも、時代がかったぶんだけ色褪せて魅力が半減してしまいますよね。これは避けられない。でも時々びっくりするぐらい色褪せていない作品ってありますよね。音楽でいうと、僕は小さい時から聴いてたというせいもあるかもしれないけど、ヴィヴァルディの「四季」とベートーヴェンの「田園」だけは全然古い昔の音楽だという感じがしないんです。ベートーヴェンなんか他の作品は「ああ時代がたった古い音だなあ」って思うのですが、「田園」だけはなんか「去年作ったの?」みたいな感じを受けるんです。作品と鑑賞者(僕)との間にそんなに長い年月が経ってるという感じが全然しないんです。文学でいうと、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」は1719年ですから、18世紀初頭です。今から300年もたってるけど、特に前半の、本当に一人で孤島で暮らしている時の描写は、全然古さを、みじんも感じさせない。今もし絶海の孤島に一人漂着したら、僕もロビンソンとまったく同じような感じでサバイバルしようとするに違いなくて、そこに時代の隔たりなんてまったく感じない。最初読んだ時、「これが300年前の本?」てほんとびっくりしました。誇張ではなく、本当に本当に、びっくりしました。

 この「ボヴァリー夫人」は1856年の作品、19世紀半ばの小説が、今もこれほど読ませるとは、って思いました。やっぱ、革新的な小説って、色褪せないんですねえ。「ボヴァリー夫人」はリアリズム小説の嚆矢と言われていますが、英語版Wikipediaのフローベールのところにはこんなことが書かれています。

Even after the decline of the Realist school, Flaubert did not lose prestige in the literary community; he continues to appeal to other writers because of his deep commitment to aesthetic principles, his devotion to style, and his indefatigable pursuit of the perfect expression.
 (リアリズムの一派が衰退した後でも、文学者の間でフローベールの名声は衰えなかった。彼の美的原理への深い関与と、スタイルへの傾注と、完璧な表現を倦むことなく追求する姿勢のために、フローベールは新たな別の作家に影響を与え続けている。)

 すごい分るんです。
 ここで、なぜバルザックは色褪せて、フローベールは色褪せないのか、ということについて稚拙な論考ながらしてみたいと思います。バルザックほど現代も読み継がれている作品量の膨大な人というのは他にいないと思います。異常と言ってもいいと思います。かなり長めの長編小説が20編ぐらいあるのでしょうか。他にも中篇小説とか、100作品ぐらいあるのでしょうか。これは人間わざとは思えないすごいことですが、これだけ量産するとなると、量産するシステムみたいなものがなければできないと思います。つまり、読者がこんな小説を待っている、という構えがあって、その構えに応える形で書く、というパターンだったと思います。それでバルザックは当時ものすごく読まれていた。「ボヴァリー夫人」のヒロインであるエンマもバルザックを夢中で読んだと書いてあります。バルザックの膨大な人気作品は、それを歓迎した読者、読者の構えがなくなれば、あとは、そんな読者を失くした作品が残るだけです。それでも今もなおいちおう読まれているということだけでもすごいことだと思いますが、フローベールは読者の期待に応えるというのではなく、何の動機があったのかはともかく、一つの韻律の不具合も許さないという姿勢で、長い年月をかけて作品を完成させた。フローベール自身、ゴンクール兄弟に、読者はそんな細かなことは気にしないことは分かっている、商業的にはまったく報われない部分にこだわっているのは自分でも分かっているんだ、ということを言っています。でもそもそもフローベールは読者の期待に応えるために書いたのではない。リアリズム小説「ボヴァリー夫人」はフローベールのデビュー作ですが、第2作目は、うってかわって古代カルタゴが舞台の歴史小説「サランボー」で、あまりにも調子が違うので読書界はたいそう戸惑ったとか。この第2作の評判があまり良くないのでフローベールは親しい人に愚痴を言っていたようだが、それはフローベールの態度を改めさせる動機にはならない。
 フローベールは1845年、23歳の時に旅行先のイタリアでブリューゲルの「聖アントニウスの誘惑」という絵画をみて作品の着想を得、1849年、27歳の時に「聖アントワーヌの誘惑」を完成させ、親しい文学仲間2人を呼んでこれを朗読している。読み終わるまで4日間、33時間かかったというかなり長大な作品だが、信頼できる文学仲間の評は、「失敗作だ」「原稿を火の中に投げ捨てろ」というものだった。フローベールはその酷評にひどいショックを受けている。文学仲間は「そんな浮世離れした話じゃなくて、もっと卑近なできごとに取材したらどうか。ドラマール事件とか」と忠告した。ドラマール事件というのは彼らが住むフランスのルーアンという地方都市近くで実際に起きた事件で、その事件の関係者とほぼ直接のコンタクトがとれるぐらい身近に起きた事件だったそうですが、フローベールはその忠告に従って、1851年、29歳の時に「ボヴァリー夫人」を書き始め、1856年、34歳の時にこれを完成させると、フローベールは性懲りもなく「聖アントワーヌの誘惑」に再び取組みはじめ、第一稿を大幅に改稿したが出版関係者にも酷評されたりして出版をあきらめた。1869年、47歳の時、「感情教育」を出版。これも24歳の時にいったん完成させた作品を大幅に改稿したもので、しかも出版したら酷評された。1870年、48歳の時には普仏戦争でプロシャ兵に自分の家を占拠されたりした。フローベールは「すべてを忘れるために」と言って、3たび「聖アントワーヌの誘惑」に取組みはじめ、それが最終的に完成、出版されたのは1874年、52歳の時だった。売れ行きはそこそこ好調だったが批評家からの評判は芳しくなかったという。フローベールは自作への酷評には傷ついたりショックを受けたりするが、しかし「ボヴァリー夫人」の大成功については、フローベールはゴンクール兄弟の前でこう語っている。「ひとつのセンテンスから母音の類似(アソナンス)を取り除いたり、ひとつのページから同じ単語の繰り返しをはぶくなんて作業がどんなに阿呆らしいものかって、きみたちもわかるだろう?いったいそれが誰のために必要だっていうのだろう?それでだよ、作品が当ってもだよ、その成功はかねがね思っていたようなものじゃ全然ないのだものね。『ボヴァリー夫人』が上首尾となったのだって、あれのヴォードヴィル的通俗面のおかげなんだよ。成功ってやつはいつも的はずれだ・・・・・・そうだよ、形式なんて、いったい一般読者の誰がそんなものをよろこび満足してくれるんだい?・・・」(1860.1.12 木曜日の日記)フローベールにとって世間からの評判は重要だったとはいえ、創作の本質に影響を与えるものではなかったことは間違いない。世間受けする徴候がまったくみえない作品に20年も30年もこだわり続けているのだ。これはたった一つの表現のまずさをなくすのに一週間かけても惜しくないという姿勢と同じで、彼が一般の読者にウケるために創作しているのではないことを示している。それは何のためというより、フローベールの性格がそうだということじゃないかなと思う。そしてその性格というか姿勢が、フローベールの天才性に直接つながっていると思う。継続は力なりと言うけれど、こういう普通の人には理解できないような執着を持ち続ける能力がフローベールの天才なんだと思う。

 「感情教育」は評判も悪く、売れ行きもさっぱりだったというが、それは20世紀に入ってからカフカやプルーストなどに影響を与え、現代文学を先導する小説として高い評価を得ている。こういう、時を隔てて人に評価される力はどこから出てくるかというと、周りの人つまり同時代の人に受け入れられるかどうかとは関係なく、自分がそれに価値があると思ったものに徹底的にエネルギーをチャージするところに由来すると思うんです。まったく誰からも評価されない作品に何十年もかけて労力を注ぎ込めるのは、彼にだけはそこに価値があるのがはっきり分っていたからだし、それにエネルギーを注ぎ込む努力を躊躇なくしたからですね。

 「ボヴァリー夫人」の世俗的な成功の大きな要素はヒロインのエンマが魅力ある女性だからですね。でもその魅力は完全さからはほど遠く、むしろ不完全さから来る魅力ですね。若く美しいというけれど、それはこの田舎町だからこそ映えるという感じだし、若いといっても髪に白髪が生えて来たのを気にしていて老いの予感に憂鬱になる。性格もうそつきでわがままで目の前のことで満足することを知らない。でもこの人物造型がものすごいと思う。この小説から「ボヴァリズム」(bovarysme、現実と夢との不釣り合いから幻影を抱く精神状態)という言葉が生まれたことから分るように、それまでの文学にこんなヒロインはいなかった。
 近代文学がそれまでの文学と大きく違うことの一つは、主人公が王侯貴族でも超人でも英雄でもない、普通の庶民であることだと思います。そんな庶民の物語が魅力的である条件として、近代に入って庶民が生きるだけでカツカツという状態から、生活に余裕がでてきてエネルギーや個性が発揮できるようになったことがあると思うが、その分りやすい例として恋愛があると思う。スタンダールは平民の男と上流婦人との間の情のもつれから男が婦人をピストルで撃つという事件に、上流社会が失った激しいエネルギーを庶民が持っていると感じ衝撃を受け「赤と黒」を書いた。ゲーテは婚約者のいる女性に恋して自殺まで考えるほど苦しんだ自らの経験をもとに「若きウェルテルの悩み」を書き、当時の若い人はこの本を読んでウェルテルと同じように自殺する人が多発したという。「ボヴァリー夫人」も実際に起きた「ドラマール事件」に取材したもので、小説の筋書きはこの事件をかなり忠実に再現しているという。(そうではないという説もある。)やはり男女関係がつくる事件なんですが、「ボヴァリー夫人」は恋愛小説とは普通呼ばれません。描かれているのは、自分の情欲を恋愛だと偽る男と女の愚かで滑稽で、そしてそれゆえ哀しい姿です。
  恋愛ってステキですよね。甘くて酸っぱくて、時に苦くて、なんか素敵ですよね。我々も人生の中で、今、自分は恋してるって思う時もあって、ラッキーな時には両想いだったりして、いわゆる「恋愛関係」なるものに入ったりするでしょう。でも、映画で見させられるような純度100%の恋愛なんてなくて、我々はお互いに、「これは恋だな」みたいなものを持ち寄って、いわば芝居みたいなものをするとも言えるのではないでしょうか?つまり、男と女は、成り行きはともかく、目の前の相手に本当に熱く夢中にもなるでしょうが、その裏側には、そっと相手の見えないところへ置いてきたものも1つや2つはあるでしょう。本当は別の候補者もいたけど手近なところで間に合わせたとか。この人カネもあるし、とか。でもそんなことを言うのは、きれいな音楽が流れてるところで雑音を鳴らすように気が引けるので言わない、っていうことで、そのうち自分でも忘れちゃうんですね。忘れるけど心の裏側にそういうことがあるのはうすうす感じている。この小説では、エンマがいかにズルくてええかっこしいかということを暴きながら話がすすんでいくのですが、その暴かれるエンマの偽善性は、「でも人間だったらそういうところあるよな」っていうものもあり、気がつくと「これは自分にもあてはまるな」「ああ身に覚えがある」みたいな気にさせられ、つまりうまいこと僕もエンマの共犯者になっていっちゃうようなところがあるんです。作者フローベールも、エンマの悪さを暴きながら書くのですが、「ボヴァリー夫人は私だ」っていう有名なコトバもあるように、糾弾する他人でありながら実は自分のことだったりもするんですねえ。だからこの小説は表面的には「こんな愚かな女がいた」という皮肉で冷たい口調で語られながらも、それが自分の姿でもあると思わされるうちに、この愚かさは人間そのものの愚かさだ、と思わされて、ここには確かに、解決されていない人間の問題がある、と感じずにはいられない。エンマを単に愚かな他者として切り捨てられる人は、自分の心の一部を殺しながら生きてる人だと思う。つまり、結婚した相手がつまらない、自分を殺しながら味気ない人生を歩く人間だとしたら、それに従えば誰にも非難されないだろうけど、それが人間のあるべき姿だとしたら、人間て何てつまらない存在だろう?そんなものを突きつけている。フローベールは、「いまこのとき、フランスの多くの村々で、ボヴァリー夫人が泣いている」っていうのは、そういう思いからに違いない。
 小説の語り口は、エンマのズルさ、嘘を常に指摘しながら進むのですが、でも読者はエンマにどこか共感しながら読むという仕掛けになっていて、こういう、「ただひたすら美しい」とか「どこからどうみても魅力的」みたいな型にはまらない人物造型をし、作者が自分の望むままの展開を作るんじゃなくて、現実をそのまま描いたみたいな作品の構えが、それまでのロマンス的な小説とはちがう、リアリズム文学の嚆矢となった。またナレーションも、「三人称客観」というものが完璧な姿で現われたのがおそらくこの小説で、文学の歴史からみてものすごく画期的だと思います。
 現代の文芸評論家James Woodはこう言っています。
Novelists should thank Flaubert the way poets thank spring; it all begins again with him. There really is a time before Flaubert and a time after him. Flaubert decisively established what most readers and writers think of as modern realist narration, and his influence is almost too familiar to be visible.
(小説家は、詩人が春という季節に感謝するのと同じように、フローベールに感謝すべきである。すべては彼と共に始まる。フローベール以前の時代と、フローベール以降の時代、という区分が確かに存在する。ほとんどの読者が近代リアリズムの語り口と考えているものを確立したのがフローベールであることは間違いなく、彼の影響はあまりに身近すぎてかえって見えにくくなっているほどだ。)
 と言ったあとで、近代小説のいろんな特徴、詳細な描写、視覚的イメージ、客観的な冷静さ、良い召使のように去り際を知り余計なことを言わない語り口、、善悪の中立的な判断、真実を追究する姿勢、作者の痕跡がすべてのページにありながらしかも意識されないこと、などを挙げた上で、
You can find some of this in Defoe or Austen or Balzac, but not all of it until Flaubert.
(これらの一部分だけならデフォー、オースティン、バルザックにも見られるが、これらが完成した姿で見られるのはフローベールを俟たねばならない。)

 と言っている。
 近代小説の三人称客観という語り口は、語り手の痕跡をいかに消すか、読者に意識させないようにするか、ということに工夫を凝らすところに特徴があるが、「ボヴァリー夫人」のそういう語り口は、ただ読んでいるぶんにはそれほど意識しないまま十分な効果を与えているが、そこにどれだけ工夫が凝らされているかについてはネット上でも数多くの論文に論じられているのが見つかる。そうかこんなところにもエネルギーを注いでたんだなあ、これは完成に5年かかるのも無理ないや、と思います。こんなことができたのも、フローベールが、すでに待っている読者に応えるために書いたのではなく、受け入れてくれる人がいるかいないか分らない真新しいものを、ものすごく完成度の高い形で書くことができたフローベールの性格があったからだ。実際、「感情教育」や「聖アントワーヌの誘惑」は、見事な空振りに終わっている。でも、この、すでにみんなが待っている場所に「こんなものがほしかったんでしょー?」という感じではなく、誰もついて来れなくても全力で突っ走るという潔癖みたいなものがこの作品からは感じられ、それがこの150年前の作品が今も色あせない理由だと思うのです。ちなみに「ボヴァリー夫人」に影響を受け、「自然主義」なるものを看板に掲げて、バルザックを思わせるような大作量産型の作家ゾラは、やはり読者の期待する市場に期待される作品を作った人で、これをシュンペーターの「経済発展の理論」でいうと、ゾラの姿勢は「単なる業主」で、フローベールの姿勢は、イノベーションを生み出す「企業者」entrepreneurだと思います。
 また、エンマの現状では満足できないという態度は愚かなものですが、これはのちに社会学者デュルケームが古典的名著「自殺論」で論じたアノミーという状態だと思いました。同様の指摘をしてる人が他にいないかなーと思ってネット上で見ていたら、アマゾンのレビューだったと思うけど、一人、僕と同じことを感じている人がいましたねえ。デュルケームがこのアノミーの指摘をするのは19世紀末の30年後のことで、いかにフローベールが革新的な仕事をしたかというのが分ります。ゴンクール兄弟の日記にフローベールのことがこう書かれています。

年齢が進むにつれて、フロベールはますます田舎の人じみてくる。それに、本当をいえば、わが友から例の牛の要素、勤勉で嫌なことでもやりとげる家畜の性、一時間に一語の割の小説書きの部分を差し引いてしまえば、目の前にいるのは、まこと「人並みの」才能の、独創性のきわめてとぼしい人物である。
フロベールは家のなかの居心地よさと上品さをつくり出すことにかけては稀に見る空想家だと自負しているが、さて、フロベールがこれまで発明したものといえば、しょうがのジャムの壜をいくつか花瓶にしただけだ。もっともこの発明は、彼が相当にご自慢ではあった。そして一事が万事なのだ・・・『ボヴァリー夫人』の著者の思想、趣味、習慣、偏見、能力、悪徳、ことごとくこれ一般大衆と同類のものだ。」(いずれも1873年5月3日の日記)

 そうだったのでしょう。でも他ならぬそういう人だったからこそ、こういう地味だけど着実な独創性を安定した作品にできたのだと思えるのです。

    ※        ※       ※

 この小説の面白さについて。ナレーションの巧みさはそれ自体で小説を面白いものにしますがそれは上で言ったので、もっと具体的にみるとすると、まず話の二重性ということがある。エンマは表面的には平凡な田舎暮らしをしているが、陰では愛人と浮気をする二重生活をしている。そしてその裏の生活は人に知られてはいけないのでピンと張りつめた雰囲気がただよっていてそれ自体この小説を読むのを楽しくするというのがあるが、ボヴァリー夫人が最後に追い詰められていってほとんど狂気といっていいような異常心理が描かれていてそこがこの小説の中でいちばんすごいところだと思います。狂気をわがことにひきよせて描ける作家といえば僕は真っ先にドストエフスキーを思い浮かべますが、フローベールの筆にはドストエフスキーと同じものを感じました。
 そしてこの本を読み終わったあとに知ったのですが、フローベールもまたてんかんの病状があったそうです。フローベールは1841年、もうすぐ20歳という時にパリ大学法学部に入学します。それは父の勧めによるものでフローベールは本当は法律の勉強には乗り気ではなかったのですが、1844年、22歳の時のこと、僕の手元にある年表によると「兄と馬車でポン・レヴェックに向かう途中、最初の神経症の発作に襲われて意識を失う。学業を廃す。」とある。
 …突然、何の前触れもなく、フローベールは「焔の流れに押し流されるのを感じたかと思うと、やがて馬車の床の上にまるで石ころででもあるようにころげ落ちた。」意識を取り戻してみると、身体じゅう血まみれになっていた。(中略)しばらくのあいだ、猛烈な発作を何度も繰り返し、その後数日間というもの、ずたずたに引き裂かれた彼の神経は、狂乱に近い過度の緊張状態をつづけるのだった。この彼の病気には不可解な点が多く、医者もさまざまな立場からいろいろと論じてきている。中にはてんかんだと明らさまに言う者もあるが、友人たちもやはりそのように考えていた。(p10-11モーム「世界の十大小説」(下)岩波新書)

 フローベールのこのてんかんらしき病状は、あまり強調されることが少なく、なんだかこの時1回限り、彼が法律の勉強をやめて文学に専念するきっかけを作った、という感じで言われるだけのことが多いようにみえる。しかしモームは上の文章に続けてこう言っている。

 ・・・この時の発作であるが、家の者にとっては、かならずしも寝耳に水の驚きではなかったらしい。フローベール自身は、12歳の時に最初の幻聴と幻視を経験したと、モーパッサンに語ったそうである。19歳の時、家の者に言われた旅行に出たさい、医者が一人同行しているが、この旅行をして気分を変えるというのは、のちに父親が彼のために用いた治療法の一部となっているところからみて、その頃すでに何か発作性の病気を持っていたのだと、考えられないこともあるまい。(p11-12同上)
 フローベールは、子供の頃でさえ、交渉を持った周囲の人々に比べて、自分が少しも変ったところのない同じ人間だと感じたことは、ただの一度もなかったほどで、青年時代の彼に見られる陰鬱な厭世観は、その頃すでに神経系統をおかしていたに違いない正体不明の病気が、おそらく原因していたのではないかと思われる。(p12同上)
 持病のてんかんに似た発作が起ると、肉体は衰弱し、憂鬱状態が何日もつづく・・・(p16同上)
 てんかん性の発作を繰り返しているうちに、しまいにはデュ・カンの言うようなことになるのではないかと、かねてフローベールは心配していたからである。現にルイーズにあてた手紙の一つで、あと4年もするうちには、自分は白痴になってしまうかもしれないと言っている。(p26-27同上)

 フローベールが死んだのは1880年5月8日で、僕の手元の年表では「脳溢血のため急逝」とあるが、ゴンクールの日記(1880.5.11)にはこんな記述がある。「今朝、プーシェはわたしをわきの小道へ連れて行った。「彼は脳溢血で亡くなったのではありません。癲癇の発作によるものです・・・(中略)・・・若い時にあの人はご存知の通り発作をおこしました・・・(中略)・・・でも近東旅行で、すっかり治ったようでした・・・(中略)・・・ええ、あらゆる症状がありました。口には泡をふいていましたし・・・・・・」

 フローベールのてんかんらしき症状は、同時代の人にも若い頃の一時期だけのものと認識されていたように見受けられるが、どうもそうではなく、一生その病気と付き合ってきたようでもある。
 ドストエフスキーの狂気や異常心理を描く巧みさは定評があり、それはしばしばてんかんと関連づけて語られます。でもフローベールについてはその文学とてんかんを関連づけて論じられることは、僕が目にした範囲内ではほとんどないように感じる。
 僕はこのことにこだわってみたい。僕がこの本でいちばん魅力を感じるのはエンマの最後の狂乱の描写ですが、エンマはこの時はじめておかしくなったのではなく、そもそも自分たちの収入以上にぜいたくをしはじめた時から、このままでは済まないというのはどこかでうすうす分かっていたはずです。それでもエンマがそれをする必然性を、読者はエンマと共有しています。(どういう小説手法や仕掛けがそこにあるのかぼくには分りませんがこれがフローベールのすごさです。)この時点でエンマの破局は約束されていたとも言えますが、まだ狂気とは言えない。あっち(狂気)の人ではなくこっち(正常)の人です。それがだんだんこっちからあっちに移っていくのですが、それが完璧に地つづきなのです。そのプロセスがしっかりと書いてある。そんなふうにあっちの世界を描ける作家自身も、あっちの人でなければ無理だと僕は思うのです。

 僕がこのことにこだわりたい個人的理由というのは、大学時代にドストエフスキーを読んでいた頃にさかのぼります。当時僕は退屈な毎日の中で無気力に苦しんでいました。無気力というのは苦しいもので、階段を一段上るのにも、「なぜこんなことをしなきゃいけない?」と思うぐらい疲れるのです。派手な映画を見て興奮しても、その場限り。友達と空騒ぎしても、けっきょく「あー面白いことないかな」なんて言い出すのがオチだし。正常で、まったくワイルドなところのなかった僕は、平凡な日常に埋もれて、そこから脱け出すすべが全くなかった。音楽も聴いたり、バイト先で知り合った女の子をデートに誘ったり、バイクで行ったことのない所に遠出してみたりしたけど、退屈な日常から脱け出せなかったんですけど、けっきょくそこから抜け出すいちばん大きなきっかけはドストエフスキーでした。僕が大学の時ドストエフスキーを読んでいたのは、文学を読んでいたんではなくて、エピソード集を読んでいたのでした、今から思うと。読んでいると、打ちのめされるようなエピソードがよく出てくる。僕は寝転がりながら「すごい・・・すごい・・・」なんて30分ぐらいうわごとのように言い続けています。
 僕が住んでたアパートから最寄のコンビニに行くのに、坂がちの地形だったので、長い石段を昇り降りするのですが、ドストエフスキーを読んでいる時だけは、その階段の一段一段に意味があるのです。もう退屈なんてことはどこにもありません。キース・リチャーズは、青年の頃、ロックンロールを聴いてから、モノクロの街がフルカラーに変った、みたいなことを言いましたが、僕にとってはドストエフスキーがそれでした。より具体的に言えば、狂気、異常心理の描写でした。正常な僕は、その異常心理描写を読むことで、僕自身の力では決して行けなかった人間の未知の可能性を感じ、それが僕の再生につながった。狂気とか、てんかんみたいな病気は、ネガティブなものとして語られるのが常ですが、決してそれだけではない。僕にはそれに触れることがどうしても必要だった一時期がある。そんな世界を誰もが描けるわけではない。ドストエフスキー以外にも、川端の「雪国」「みずうみ」「千羽鶴」「温泉宿」「青い海黒い海」などなど、源氏物語の浮舟の葛藤、リア王などにもほぼ狂気の瀬戸際がある。ドイツの心理学者クレッチマーは、天才に共通する要素として「デモーニッシュなるもの」を挙げているが、それは僕がここで言っている、魅力的な狂気のことだと思う。フローベールにも紛れもなくそれがあり、ドストエフスキーのそれがてんかんに関連しているのなら、フローベールのそれも当然そうだろう、と思うのです。

 フローベールは生涯独身で、隠遁生活っぽい暮らしを好む、人間ぎらいっぽい人のようなイメージで語られることが多いと思いますが、しかし時にはものすごく一人の人間を好きになり、長年にわたって大切に思うこともあり、僕が知る限り、フローベールにはそんな人が二人いた。一人はエリザ・シュレザンデ。14歳の時、避暑地でこの11歳年上の人妻に一目惚れし、彼女への憧れは生涯続いた。この人は「感情教育」のヒロインのモデルにもなった。もう一人は30歳近く年下の小説家モーパッサン。フローベールは自分の本の売行きよりもモーパッサンの本の売行きを気にしたという。
 そしてこの2人ともが、狂気と関係する人でした。エリザは晩年に強度の神経衰弱に襲われ、1888年、フローベールの死から8年後、精神病院で死去している。モーパッサンも先天的梅毒で、神経系の疾患を持ち、晩年は発狂し、精神病院で死亡している。彼ら3人はみな神経系の異常を持っていたことになります。

eliza 彼の「感情教育」なんて、20世紀に入ってカフカやプルーストなどが評価する以前はあまり顧みられなかった。同時代で親しい交友のあったゴンクール兄弟も、フローベールのことを「ボヴァリー夫人」の作者として高く評価しているが、彼らの日記には「感情教育」への言及が見当たらない。(僕が見落としたのかもしれないけど。)当時、フローベールだけがそこに価値を見出し、それに20年、30年とこだわり続けるさまは迷いが一切ないようです。エリザやモーパッサンへの思いが死ぬまで変らなかったのと同じものを感じます。人間って普通は飽きっぽいから、昔好きでよく遊んだ人でも、別の人を好きになったりして、忘れちゃうと思うんですけどフローベールがこだわり続けた2人の人や自分の作品に関しては「もう飽きちゃった」っていうのがないんですね。このエリザという人の肖像が残っていて(右に掲げたのは中央公論社「世界の文学 新集 14巻にあったものです)、これを見る限りでは、そんなに魅力的な人という感じがしません。フローベールがエリザに初めて会った時の様子はこんな感じだったようです。「ヴィーナスの像が台座から降り立って歩き出すのを見たように、ぼくは呆然と立ちすくんでいたのだったが、それというのも生まれて初めてぼくは自分の心を感じ、なにか新たに授かった感覚のように神秘な奇異なものを身うちに感じたからだった。ぼくは胸に迫る無限の思いに浸り、靄のように漠とした映像に身を委ねて、いつしか自分が偉大になり、誇らかになったと感じていた。僕は恋していたのだった」(「狂人の日記」より)これは、フローベールが「うわ、いい女!」みたいな感じじゃなくて、その人を見た時、「生まれて初めてぼくは自分の心を感じ」と言っているので、外部にある人を発見した時に、自分の内部に何かを見出した。短く言えば共鳴を起こしてるようです。つまり、彼女の中に、自分と同じ要素を感じ、それによって自分の中にそれがあったことを知った。それっていうのが、神経系の何か同じような素質だったんじゃないか。
 これはあくまで僕の推測でしかないですが、僕にとってフローベールの最大の魅力は、狂気、異常心理を内側から書けるところにあり、そのような彼の特殊で天才的な洞察は、ドストエフスキーの類推からてんかんと関連があるに違いない、そして彼の精神を独特の状態に高めたいわゆる狂気なるものは、同じような素質を持った人を見分け、強烈な親近感を抱いたのではないか?たとえ的外れでも僕にとってこのような推測は非常に魅力的なんです。

 あんまり狂気、狂気って書いたんで、少しフローベールから脱線するようですが、僕の狂気についての考えを書き留めます。僕自身は少なくとも今のところの人生において狂気の徴候というものはないですし、身内にも発狂したという人を知りませんで、むしろ平凡で、日常の中に閉じ込められている人みたいな、少なくとも表面的にはそんな人間です。でもひと皮めくったら分らないぞ、と思う時もあります。これは誰でもそんな時があるのかどうかは知りませんが、たまに変な夢を見た寝覚めの時なんかに、人はいつでも気が狂うのなんて簡単にできる、って感じることもあります。めったにないけど、今まで数度そんなふうに感じたことがあります。そんな僕だから思うのかもしれませんが、正常な心理と狂気の境目なんてなくて、それは地つづきだと思うのです。正常な人がある日を境に発狂した、という場合、その境目はハッキリしていますが、それは、今まで背負いきれない荷物をなんとかうまくしょっていたけど、ついにガラガラガッシャーンってぶちまけちゃったのが狂気のはじまりと言えるでしょうが、ほぼすべての人がそういう原因になるような荷物を背負っているという意味では我々正常な人も、狂気とどこかで地つづきだと思うのです。でも一旦発狂した人は、たとえば仕事も辞めたり、生活でも隔離されたりと、正常な我々の世界から締め出されるでしょう。でも狂気が我々と地続きであるとすれば、狂気の隔離は、我々の内側の何かを自己疎外してるってことになると思います。それを締め出したままでいいのか?大学時代の体験を上で書きましたが、正常な世界に正常しか存在しなかったら、人は無気力でのたうち回らなくてはいけないようなのです。だから僕は、ドストエフスキーの異常心理の描写を読んで、やっと何とか階段の昇り降りを普通にできるようになったのです。
 なんか上で、フローベールをドストエフスキーと比べながら書きましたが、じゃあフローベールはドストエフスキーの代わりということか?というとそうではないです。ドストエフスキーの異常心理はなんか飛び道具みたいですね。自分が狂気がかった天才なのでそういう話がポンポン出てくる。天才のインスピレーションがそれを書かせてる、みたいな勢いがありますけど、ぶっ飛んでるので、たとえば「白痴」のムイシュキン公爵とか、「悪霊」のスタヴローギンは、我々と地づつきだとは思えない。どこかで断絶している。でもボヴァリー夫人は、我々とつながっていて、つながっているものとして彼女の狂乱がある。飛び道具じゃなく、インスピレーションにまかせて書くのではなく、じっくりと、狂乱の世界を我々の世界と地つづきにしたという感じで、同じ狂乱、精神異常でも、ドストエフスキーにはこういう書き方はできなかったと思う。フローベールがボヴァリー夫人という人物を我々の世界に持ち来たったことの意義を、僕はそういうところに見るのです。 世界で最も偉大な小説のひとつに挙げられていますよ。万人におすすめしたい。




 最後に、「ボヴァリー夫人」のイメージ映像ですよ。



Here in the dark
I feel electric
I sense my skin in between the waves

   この暗闇の中
   電気が私を貫いて
   肌が波にはさまれるのを感じる

I am human
I am criminal
But I feel life here in my heart again

   私は人間
   私は犯罪者
   でも、命が再び動くのをこの胸に感る

Standing in the rain
Thinking of a way
To keep these feelings inside

   雨の中に立ち
   どうしたらいいか考えている
   この思いを内にとどめるのに

Walk away from here
Before the words appear
I will be silent

   ここから去ろう
   言葉が出る前に
   決して口にしないでおこう

Here in the dark
I feel electric
I sense my skin in between the waves

   この暗闇の中
   電気が私を貫いて
   波の間に自分の肌を感じる

I am human
I am criminal
But I feel life here in my heart again

   私は人間
   私は犯罪者
   でも、命が再び動くのをこの胸に感る

I hide behind the walls
So you don't notice me at all
But it hurts me so

   私は壁の影に隠れる
   あなたが私に気づかないように
   でもそれが私を傷つける

I'm waiting in the wind
Whispering the things
I want you to know

   私は風に吹かれ待っている
   あなたに知ってほしいことを
   囁きながら

Here in the dark
I feel electric
I sense my skin in between the waves

   この暗闇の中
   電気が私を貫いて
   波の間に自分の肌を感じる

I am human
I am criminal
But I feel life here in my heart again

   私は人間
   私は犯罪者
   でも、命が再び動くのをこの胸に感る

Here in the dark
I feel electric
I sense my skin in between the waves

   この暗闇の中
   電気が私を貫いて
   波の間に自分の肌を感じる

I am human
I am criminal
But I feel life here in my heart again

   私は人間
   私は犯罪者
   でも、命が再び動くのをこの胸に感る

Only for you  あなただけのために
Only for you  あなただけのために
Only you    あなただけ
Only you    あなただけ

Only for you  あなただけのために
Only for you  あなただけのために
Only you    あなただけ
Only you    あなただけ
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