生きてる感想

僕が好きなことを書いて、誰かが楽しんでくれれば、それ以上は望むべくもないでーす

井伏鱒二「珍品堂主人」



 中公文庫「解説」によると井伏鱒二の代表作だそうです。知らなかったなあ・・・。

 僕は30代の前半頃の一時期、井伏鱒二と安岡章太郎をかなりガツガツ読んでました。二人とも、特に安岡のほうかな、絶版になった本が多く、大阪の古本屋で二人の古本はかなり買い漁って読みました。僕は街を歩いていて古本屋があったら必ず入るというタイプで、そこで井伏と安岡の本は必ずチェックしていました。ある時はどこかの駅の改札を出たところで一週間だけの古本のワゴンセールをやっていて、そこで存在すら知らなかった安岡のエッセイの文庫本があるのを目ざとく見つけて買った時は、「こんなところでこんな本を見つけるとは!」って思って、その後何ヶ月もの間、「何という運命だろう・・・」なんて思ってました。そんな熱の冷めた今思えば、別に運命ではなくて、要するにそのぐらい熱心な関心をもって古本屋めぐりをして井伏と安岡の絶版本を探していたということですね。でも大阪近辺の古本屋は僕一人がいたせいでそれらの古本はかなり少なくなったはずです。10年以上も繰り返し繰り返しいろんな古本屋を回って、また新しいペンペン草は生えてないかみたいな勢いで買い回ってましたから。

 この本もそんな時期に古本屋で見つけてきた一冊です。150ページ余りの薄っぺらい文庫本です。「こんな作品もあったのか、聞いたことなかったなあ」って思いました。今回気まぐれに本棚から取り出すまで、とっくに絶版になってる本だとばかり思ってたら、今でも出版されてて、しかも井伏の代表作ですって。

 井伏の代表作としてよく挙がるのが長編の「黒い雨」とか、短編の「山椒魚」とか、あとは色々ですけど、なんせ井伏の創作期間は70年ほどあるので(1923年にデビュー作の「幽閉」(のちに「山椒魚」と改名)を発表し、1993年、95歳で死ぬまで創作活動があった)、作品の数は膨大です。そして井伏は長編、中篇の小説もあるけど基本は短編作家なので、年譜なんかにも載ってない作品がいくらもあって、その全体がどのぐらいの数量になるのか見当もつかないです。かなり有名な大作家ですが、今では新刊本でも全集でも触れることができず、中には散逸してしまった作品も少なからずあるのでは?と思ったりもします。僕は井伏を読んでいてモーツァルトのような印象を持つことがよくあります。これは僕だけの突飛な連想ではなくて、確か三浦哲郎の文章にも書いてあったし、きっとよくある感想にちがいないと思いますが、井伏の作品にもケッヘル番号みたいなのを振ってくれる人が出てきてもいいように思います。ケッヘルは626までですが、井伏の作品数は、短編が主だしエッセイも多いし詩もあるし、創作期間も長いので1000は越すんちゃうやろか?そんな膨大な作品の中で、これはすごい、これは大したことない、という違いが全くないわけではないんですが、他の作家と比べてその差は大きくないし、そもそもある作品の価値を客観的に定めるのが難しい作家でもあります。
 その一例として、引用の便から、「あの山」という三行だけの詩を挙げましょう。

 あれは誰の山だ
 どつしりとした
 あの山は


 僕にとってこの詩は井伏を象徴するような、無視できない存在感を持っていますが、井伏を読んだことのない人にとっては、くそしょーもないゴミ同然の短い言葉にすぎないでしょう。これは一方で井伏を川端と並ぶ「日本語の魔術師」と言う人がいる一方で、「ナンセンス文学」という評も定着しているところにも現われています。井伏文学はすごく価値がある見方と、まったく無価値だという見方が両立しています。また、そうでなくてはならない。つまり、僕は井伏文学は日本の古典として後世に残さねばならないと思いますが、一方で「井伏の作品下らない」って言える余地がなくてはならない。事実下らなかったりもするんで。

 僕が井伏を読み始めたのはNZのワーキングホリデーから帰って間もない頃に読んだ「ジョン万次郎漂流記」からでした。帰国したばかりで西洋と日本の2つの文化の間にいる意識が強かったので、西洋に初めて触れた日本人の話は強い興味がありました。新潮文庫で読んだんですけど、その中に「二つの話」という聞いたこともない短編も入っていて、ついでだから読んだんですけど、読みながら、なんか魔術をかけられたような気持ちになったのを覚えています。これはNZ、西洋の一部といってもいいでしょう、ロジカルなものが文化の底にある場所での物の感じ方が残っていたから起った感覚だったと思います。西洋人からみると東洋って神秘的にみえるとよく指摘されますが、それと直接つながる感覚だったと思います。「うわあ!」って思ったんです。「え?何これ?」って。それで井伏を読むようになったんですけど、その後も井伏の作品を読むと「え?今自分を訪れたこの感覚なに?」みたいな感じに時々なりました。そこを読み直しても、普通のありふれた文章があるだけで、僕を襲ったものすごい感覚がどんな仕掛けで起ったのか、わかんないんです。もう「日本語の魔術師」って呼ぶしかないですよ。

 井伏の本って読み進めれば読み進むほどはまっていきます。文庫本の「解説」にこの作品を「近代日本文学に独自の位置を占める名品と評価される」なんて書いてあるけど、ある文学作品を「これは名作」「これは古典作品」って呼ぶ時、野菜にたとえると、畑になっていたのを切って陳列棚に並べて値段をつけてるような感覚があると思います。でも井伏の作品って、あんまり陳列棚に並べることを考えず、庭で勝手に野菜とか果物を作ってるって感じがします。だから井伏をどんどん読んでいくと、八百屋に出掛けて野菜を選ぶんじゃなくて、井伏の庭に行ってそこでまだ根っこがついたままの野菜を見てるって気がします。もちろん八百屋みたいに値段なんかついてないし、「こんな曲がってるキュウリは出荷できないでしょ」っていうものも「これはこれでいいじゃないか」っていう感じ。「八百屋に並べるといくらぐらいになるのかな」って発想自体がなくなってくるんですよね。「変な形でもこの庭でとれた野菜ならどれもおいしい」っていう感じで読んでます。
 
 でもこの「珍品堂主人」はわりと「これは特別に出荷するぶん」っていう意識が高いものだと思います。三人称形式で書かれていますが、ナレーションがですます調で、これは井伏にしては珍しいです。なんでですます調にしたのか分んないんですが、「普段とはちがった書き物にしよう」という意識の表われかもしれないです。150ページと、中編小説あるいは短い長編小説ですが、最初から最後まで章分けが一切ありません。骨董の目利きの話で、僕自身は骨董のことなんか全く分らないんですが、初めの数十ページはその道の通しか書きえないような知識を織り交ぜながらユーモラスで興味深いエピソードをこれでもかこれでもかと数珠つなぎにしていっきに何十ページも読ませますね。その数珠つなぎ具合が「おっと井伏普段より気合入ってるね」という感じが伝わってきます。話はやがて主人公が料理屋という異業種に参入してまた別の興味が開けてきます。主人公は、高級料亭で出す料理の食材や陶器を日本各地に旅して調達しますがそこでも目利き具合を発揮します。なんだか北大路魯山人みたいな世界だなと思ったら、この小説の登場人物は魯山人を含む人間群をモデルにしてるんだそうです。
 魯山人は大正14年、東京に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」という会員制高級料亭を中村竹四郎という人と設立して、中村が経営者、魯山人が顧問となり、魯山人は秦秀雄という人を抜擢して支配人とした。後に魯山人は秦秀雄と仲違いして秦をクビにする。その後、経営者の中村は魯山人の出費の多さや横暴さに耐えられなくなって魯山人をクビにする。
 「珍品堂主人」の主人公は高級料亭「途上園」の支配人ということなのでいちおうそのモデルは秦秀雄ということになっているようですが、もともと「途上園」を構想し、出す料理や陶器を選び出してくるのは主人公なので魯山人とダブるところも多いように思います。小説の時代は戦後ということになってるし、顧問は蘭々女という女性だったりして、実際の「星岡茶寮」とは違うことは明瞭ながら、秦秀雄が号を珍堂と称していたところは、この小説の主人公が珍品堂と呼ばれているところとダブるし、料亭の支店を大阪の曽根に作るところは、井伏が「星岡茶寮」とその人間群をモデルにしたことは明らかでしょう。
 料亭は出資者も見つけ、繁盛しますが、出資者が顧問として雇ったやはり目利きで仕事は滅法出来るが一癖も二癖もある蘭々女という謎めいた女と組織内でパワーゲームを繰り広げる。その凝った道具立てとストーリー展開は井伏らしいのですが、普段よりもてんこ盛りで、そこに井伏の気合いを感じると共に、一方で普段の天衣無縫という感じではなくて、人為が入ったという感じがなくもない。井伏の小説はお色気シーンというのは初期の若い頃の作品にすごく淡くユーモラスな感じで控え目に出てくるぐらいですが、この作品の中では「お、井伏にしては頑張ったな」という感じで出て来ます。他の作家と比べたら「そんなのお色気と呼ぶほどでもない」という程度ですが50すぎてからの井伏の作品としては実に珍しいことだと思います。どういう事情があったか知りませんが、この作品にはいつもと別種の気合いが入っているように思います。頑張った甲斐あって「代表作」って言われてよかったね、という感じです。

 上にも書いたけど、井伏の作品を読んでると非常にしばしばモーツァルトを思い出すんです。昔っからずっとです。でも今回なぜなのかということについて明確な答えが分ったように思います。僕は去年、柄谷行人の「日本近代文学の起源」を読んでたんですけど、そこに近代の芸術家と前近代の職人のちがいについて読みました。
 ある作品を作る時、そこに自分を表現するかどうかの違いがあります。クラシック音楽の場合、曲数にその違いが出ていると思います。ハイドンは交響曲を100曲以上作り、モーツァルトも35歳の若さで死んだにも関わらず約40曲作っています。でもハイドンのお弟子だったベートーヴェンは交響曲作家と言われたけどたった9曲。それ以降の人はシューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラーと9曲とか10曲ぐらいの人がすごく多いです。ドイツの主要な交響曲作曲家と言われるブラームスやシューマンはたった4曲、メンデルスゾーンも5曲。ブラームスなんか交響曲1番を着想して完成するまで20年かかってます。そこには作品で自己表現しようという姿勢が色濃く伺え、こういう姿勢で作品を作る人は、ハイドンみたいに100曲なんて書けないですよね。でも職人なら作れる。モーツァルトは近代的な自我、「この自分の内面を作品で表現しよう」なんていう自我はなくって、単にすぐれた作品を書こうという意識があっただけだと思う。同じことは井伏にも言えて、そういう我執のない感じが井伏とモーツァルトの印象が似てくるんだと思う。
 井伏も職人と芸術家の違いには充分意識的で、しかも職人のほうが上だという視点を持っている。この本の中にそれがストレートに出てくるところがある。

 主人公が料亭で出す陶器の注文に岐阜県の名高い陶工を訪ねる。その陶工は「芸術作品をつくろうとして精進している」という。

 珍品堂は持って行った見本を古山に見せ、こんな注文をつけました。
「あんたの作ぶりを止して、この通りの贋物をつくってもらいたいのです。名品をつくろうとせずに、あくまでも職人のつもりでやって頂きます。それを承知してもらえますか。」

(中略)・・・古山は美濃伊賀の皿を長いこと手に取って見ていましたが、一つこっくりをしてそれを畳の上に置くと、また手に取って見つけているのでした。この皿なども、桃山時代に発達した伊賀焼の贋物で、陶工が自分の作ぶりを無視して取りかかったからこそ骨董として見られるのです。陶工が職人の道に徹していたおかげです。乾山にしても、芸術家らしさが無くなったときにいいものをつくっている。おのれを出した焼物にろくなものはない。焼物は芸術作品とは違う。要は、見る人が芸術品として感ずるかどうかであって、見る人の如何にある。これが焼物に関する珍品堂の持論であるのです。 (引用p54-55)

 井伏の作品もこれです。井伏の作品にウェルテルとかジュリアン・ソレルとかボヴァリー夫人みたいな近代的自我を持った登場人物は一切出て来ない。

 日本の作品でいうと、漱石なんか日本の近代的自我の葛藤を描いたと言われますが、「彼岸過迄」や「行人」なんかそれがすごく出てますよね。三島の「金閣寺」の主人公も強烈に自分という意識とこだわりを持ってます。安岡の小説の主人公も、庶民的でいじけた、小さな自我の主人公ですけど、紛れもなく自分という意識とこだわりを強烈に持った近代人ですね。・・・これはあくまで僕がそう見ているということなんですが、すべて「これは近代的自我」とか「これはちがう」とかクッキリ分けられるというものではないですね。「源氏物語」の浮舟の葛藤はどうでしょう。彼女が選んだ「出家」という結論は大きく確固とした自我の否定とも言え、あんまり近代的ではないでしょうが、そこに至るまでの心の葛藤は、環境が環境ならば「緋文字」のヘスター・プリンにも似たような自我形成を行なう人生を選ぶ準備が充分にできた状態とも言えると思う。近代の川端康成の作品には、浮舟に似て、社会的には無個性の女を演じざるを得ないけど内面では強烈な個性を持ったヒロインたちが登場しますよね。そのうちの一人に「千羽鶴」のヒロイン・太田夫人がいます。僕は近代の日本の作家でいちばん好きな人を挙げよと言われたら、川端と答えるかもしれないですが、そのうちでいちばん好きなのが「千羽鶴」です。僕はその中で、文子が好きなんですが、「千羽鶴」の主人公はその母の太田夫人。この小説もやはり骨董の陶器の美が大きなテーマで、1898〜99年とほぼ同じ頃に生まれた二人の「日本語の魔術師」川端と井伏が骨董をテーマにした小説を書くとこんなに違う、という興味深い比較もできると思いますが、僕はどこかで井伏が「千羽鶴」を評して、「太田夫人は志野茶碗から思いついたんじゃないか?」と誰かに語ったという話を読んだことがあります。年代的には「千羽鶴」が昭和27年で「珍品堂主人」が昭和34年と川端のほうが7年ほど先行していて、井伏はこの作品で、骨董と女のアナロジーについてしばしば言及してるが、これは本文庫本の解説によると「骨董と女と見る論法の出自は小林秀雄と聞く」なんて書いてあるけど、「千羽鶴」の影響かもしれないですよね。あるいは骨董を知ってる人なら誰から言われなくてもそういう発想になるのかもしれない。

 長くなりましたが、近代的自我ということについて最後にもう少し。
 なんか近代的自我近代的自我って書くと僕が近代的自我とは何か?ってハッキリ理解して書いてる感じがしますが、実は分ったようで分らないようなボワーンとした感じであります。でもものすごく単純な分別法としては、僕みたいなお堅い家庭に育ったとして、ある文学作品を机の上に置いといて、親に見られてもいいか、見られたら嫌か。嫌だったらそれは近代的自我を扱ってる可能性が高い。(それがエロ小説だとか物騒な宗教カルトの本だとかいうケースは除く。)親がですね、仮に「お前の机の上に置いてあった本を読んだぞ。その内容についてじっくり語り合おう」と言われたと思ってみましょう。それが「珍品堂主人」ならまあいいけど、「千羽鶴」なんか絶対嫌でしょ?僕なら家出しますね。鴎外の「高瀬舟」ならOKでしょ?でも漱石も「坊ちゃん」とか「猫」ならいいけど、「彼岸過迄」とか「行人」についてじっくり語り合おうなんて親に言われたら、手足に突然赤いポツポツが出てくるかもしれませんね、拒否反応のあまり。
 「野菊の墓」だって嫌でしょう?でも「永遠の0」とか、あるいは「世界の中心で愛を叫ぶ」だったら、気乗りはしないまでも、家出してまで拒絶する理由もないでしょう。読んだことないけど「もしドラ」もOKっぽい気がする。もう「珍品堂主人」の話でもなんでもなくなってますが、最近の小説って、近代的自我を扱わなくなってるのかな?って。村上春樹も、性行為のシーンが多いのはあれだけど、それを除けば親とも論じ合って気まずくなるって感じではない。「永遠の0」は主題が先の戦争ということもあるけど、出てくる人物に特に個性ってないですしね。「世界の中心で愛を叫ぶ」も恋愛小説であるにも関わらず、真に個性を持った人物って一人も出て来ない。
 ・・・今という時代は、個人で誰でも情報が発信できて直接世界のどことでもつながることができて、個人の存在が過去のどの時代よりも大きいという感じがしませんか?だから僕は梅田望夫の「ウェブ時代をゆく」を読んでた時、とても意外な感じがしたところがありました。この中で梅田は、はてな創業者・近藤淳也の「インターネットは知恵を預けると利子をつけて返してくれる銀行のようなものだという感じ」(p160)という言葉を紹介しながら、自らもある考えをネット上で紹介したら、多くの人から意見をもらい、「「知恵を預けると利子をつけて返してくれる」なんてものではなく「脳を預けたらそれが膨らんで戻ってくる」ような気がした。」(p161)と言っている。これを読んだ時、新しい時代の人間は、“肥大化した”と言われる近代的自我とは別の、もっと軽々とした自我を持つんじゃないか、という印象を持った。知恵を預けて利子がついて帰ってくるならいいけど、脳みそって、自分の中にあるものなのに、それを外に貸し出すという発想は、自分と他人の区別をつけてないっていう印象がとても強い。それが自分の考えなのか他人の考えなのかもはや関係ないという発想は、良し悪しは別ですが、近代的自我とは異質だという印象を持ち、僕はこれを読んだ時、当惑というのか驚きというのか、どう判断していいのか分らなくなったのを覚えています。
 bookshelf pc従来、どこかの大統領とか大経営者とか偉い学者とかが写真入りで紹介される時、よくあるパターンとして、自分の書斎の、難しそうな本がぎっしり詰まった本棚を背にして大きな机の前に座ってるみたいな写真がよくある。でも最近の知的空間は、本棚なんかなくて曲線を描いた机の上にパソコンが置いてあるだけ、みたいな感じになっていて、そのスッキリした感じが、新しい時代の人間の自我が象徴されているような感じがするんですね。
このどちらが良いか悪いかとか、好きか嫌いかということは度外視しています。堺屋太一は80年代に「知価革命」という本で、モノがあふれかえったのが豊かだという工業社会は終わり、モノの豊かさを重視しない新中世のような時代が来る、と予言したんです。全部当ってるとは言わなくても、わりと当ってる気もします。堺屋はそういう時代の傾向を、この85年の著書の中で、「ポストモダン」という、当時まだ成熟してなかったけど、今や多少老朽化した感じの言葉で語っているが、ポストモダンは自我にも及んでいるということですかね。だから逆に、こういう中世の生き残りみたいな井伏の世界は、意外と今の人が読むと新鮮味というか、昔の日本(人)を新鮮な目で再発見した!という感じになるかも。

 僕は20年前は井伏を熱心に読んでいたんですが、今はもうほとんど読まないです。今回読んだのは、難しい本を読んでいて疲れちゃったから、息抜きのために読んだんですが、なんだか怠けてるっていう後ろめたさがあったんだけど、読み終わったらなんだか「自分の本来の場所に戻って来た」みたいな充実感を覚え、自分でも意外でした。やっぱ人間って昔からなじんだことをやると「これだよ」っていう安心感に包まれるってことですかね。それともう一つ、ここについ最近まであった日本、今は失われてしまった日本に触れて、個人としてではなく日本民族として、正しいところに戻って来た、という感じになったということもあるように思います。井伏のような感覚の作家、これと似た作家は、非常に日本的でありながらすでのもう今はいなくて、今後も二度と出ない種類の作家だと思います。それはすでにそういう伝統が途切れてしまっているからだけど、考えてみれば井伏に似た作家、それに匹敵する作家なんて昔も今もいないように思います。井伏を師とあおぐ作家たち、太宰治、安岡章太郎、三浦哲郎、開高健は、みな井伏にどこか似ながらも、近代の作家です。それはちょうど、モーツァルトがロマン派以前の作曲家だったのに、ベートーヴェンはじめ多くのロマン派の作曲家に崇められたのと似てると思います。ドヴォルザークなんかロマン派のド真中の作曲家で作風全然違うのに、モーツァルトは我々の太陽だなんて言った。モーツァルトのすごいところは、ベートーヴェン以降の作曲家たちのように近代的自我とは関係ないところで、いわば職人として曲を量産したのに、それ以降の異質な人たちに今も崇められているところです。僕はそこに、近代にない可能性のすごさを感じるのですが、井伏についてもまったく同じことが言えると思っています。

Nebraska / Bruce Springsteen



I saw her standing on her front lawn just twirling her baton
Me and her went for a ride, sir, and ten innocent people died

   彼女が前庭でバトンを回してるのを見かけた
   俺と彼女はドライブに出かけて、10人の罪のない人が死んだ

From the town of Lincoln, Nebraska, with a sawed-off .410 on my lap
Through to the badlands of Wyoming I killed everything in my path

   ネブラスカ州のリンカーンの町から、先を切り落とした41口径を膝に置いて
   ワイオミング州の荒涼地帯まで、道にいたものを順番に殺していった

I can't say that I'm sorry for the things that we done
At least for a little while, sir, me and her we had us some fun

   二人でしたことを悔やんでるなんて言えないな
   少なくとも、俺も彼女もひと時の楽しみを味わわせてもらった

The jury brought in a guilty verdict and the judge he sentenced me to death
Midnight in a prison storeroom with leather straps across my chest

   陪審員は有罪判決を下し、裁判長は俺に死刑宣告をした
   真夜中の拘置所で俺の胸には皮ひもが架けてある

Sheriff, when the man pulls that switch, sir, and snaps my poor head back
You make sure my pretty baby is sittin right there on my lap

   執行官さん、そのスイッチを入れたら、俺の頭が後ろに折れ曲がるんだよな
   その時にちゃんと俺のひざの上にあの娘が乗るようにするように頼んだぞ

They declared me unfit to live, said into that great void my soul'd be hurled
They wanted to know why I did what I did
Well, sir, I guess there's just a meanness in this world

   奴らは俺は生きるに適さないと宣言し、俺の魂はまったくの無の中に放り込まれると言った
   奴らはなぜ俺があんなことをしたのかを知りたがったけど
   まあ、この世界には、ただ単に卑劣ってことがあるんじゃないかな

ビルマの竪琴(竹山 道雄)


 もう僕も50代半ばなので「日暮れて道遠し」という言葉が実感を伴って迫ってくるようになりましたね。まだ勉強する意欲はあるのですが、読みたい本が無数にあって、中でもこれだけは最重要、と思うリストだけでも20冊近くなって、しかもその数は年々自分の中で増えていきます。その中の1冊を僕は今読んでいるのですが、半年たってもまだ読み終わりません。こんなペースでしか読めないので、死ぬまでにリスト全部を読み終わる自信がありません。
 それで夏バテのせいか、左脳ばかり使う本しか読んでないせいか、脳みその動きが遅くなっているのを如実に感じるこの頃。社会科学系統の本を読んでるうちにこういう感じになるのは今までも味わったことが何度もあります。そういう時には小説でも読んで右脳を動かしながら左脳を休ませる必要があるので、今読んでる本は読み止しにして何か簡単な小説類を何冊か読むことにしました。
 
 それで、なるべく簡単そうで、それで名作としての質も保証されていて季節的にも合ってると思い、この本を読むことにしました。なんだか、この頃毎日パスタばかり食べてたのが久しぶりに和食を食べたという感じで、脳みそも喜んでました。しばらくは和食を立て続けに食べて、今度は逆に、久しぶりにパスタ食べたいね、という感じに持っていって、難しい本の残りを読んでしまえればという計画です。

 久しぶりに小説(童話?)読んだ、ということもあるだろうけど、やっぱ名作の誉れ高い本で、面白く読みました。この作品は初出は子供向けの童話雑誌に連載されたものなので、「子供向けの本」というレッテルはしょうがないのでしょう。でも僕はこれを「子供の頃に読んでおけばよかったな」とは全然思いませんでした。むしろ今この年齢だからこそがっぷり四つでこの作品の意図も受け留められる。十年前、二十年前にそれができたろうか?と思います。つまり、この本は大人だから充分に受け留められると思いますし、それとは別に、今という時代だからこそ、という意味でもあります。
 
 我々の意識は今の日本という社会・情報・時代環境の中で形成されていますよね。それは七十数年前に終わった戦争の大きな影響を受けていますよね。あの戦争は無謀な一面も確かにあったのでしょう。それがどの程度の割合かは人によって解釈が分かれるところでしょうが、とにかく我々は子供の頃から「もう二度と戦争はしません」と合言葉のように社会のあちこちで言ってましたが、そこには、「こちらから戦争を仕掛けなければ戦争に巻き込まれずに平和でいられる」という発想があると思います。個々人でそういう発想に疑問を持つ人はいくらでもありますが、まあそういう発想でいけばそれで通る社会でした。それが今、音を立てて崩れ去る現実的な可能性に我々は直面している。
 北朝鮮という明らかに常軌を逸した国が核兵器とそれを飛ばすミサイルを持ちつつある、あるいはすでに持ってしまった。それで現実に「日本列島ごときは一瞬で焦土化できる」(8月9日)、「日本列島の4つの島を核爆弾で海中に沈める」(9月13日)わが軍は「地球も壊す絶対的力を持つ」(9月13日)なんて言い出した。まともな国家がこれを言ったら宣戦布告と受け取られると思います。イカれてるとはいえ一国家が明確なメッセージとしてこういうことを発信していて、もしそれが実行された場合、「我々は、戦争を放棄して憲法9条も持って、核兵器も持たずすごい平和国家で来た結果が、平和ではなかったですね。核攻撃されて大惨事になりましたね」ということが誰の目にも明らかになる。かの国の拉致事件が明らかになった時、それまで「拉致はない」と断言していた社会党は社会的信用を失い、彼らの凋落に拍車をかけた。今度は、「戦争を放棄すれば平和でいられる」という論調を張ってた人たちが同じように誰にも顧みられなくなる。冷戦終了の時、社会主義とか共産主義が決定的に過去のものになったように、もし北朝鮮が日本を核攻撃したら、日本にとっては冷戦終了以上の社会的ショック、価値観の劇的なシフトが起りますよね。僕は実際、北が日本を攻撃する蓋然性は低いと思いたいけど、もしそうならなかった場合でも、「おじさんを惨殺し、お兄さんを毒殺した指導者の狂気の矛先がたまたまこっちに向かなかったから助かったけど、かの人の狂気がもう少し進んでた場合のことを考えんといかんのちゃうか?」という思いは多くの人の心を去来している。
 個人的には僕は2010年9月の中国漁船が尖閣に来た時にスイッチが入っちゃいましたね。それまでチベットやウイグルの人かわいそう、というのは知識の上でそう思っていた、いや、頭で考えていただけで、実感は全然わかなかったけど、あれ以来、実際に中国が民間人を装い巧妙に攻めてきて、おまけにレアメタルも日本に輸出しないってなった時、「あ、日本やられる・・・」って思ってゾッとしました。反戦平和っていうけど、戦争放棄しただけでは、その結果は平和じゃなくて隷属なのでは?って。

 ・・・まあ色んな意見はあるでしょうが、日本の独特の反戦平和思想は、戦後形成されたもので、それをもし見直すならば、「あ、日本は無理な戦争をして負けて無残な結果になりましたね」( 砲箸いΔ箸海蹐泙婆瓩蕕覆韻譴个い韻覆い隼廚い泙后つまり、,里△箸法屬世らもう戦争はやめましょう。そしたら平和をエンジョイできます」(◆砲搬海のだけど、△発せられる前のところまで。時代で言ったら、敗戦直後、たとえば「ビルマの竪琴」が書かれた昭和21〜23年頃に。
 実際、その頃は日本は敗けて、それまで国を挙げて声高に叫んでいた価値観も方向も崩壊してしまった。その価値観の空白を埋めてくれたのがアメリカ的価値観、民主主義とか人権の尊重とかですよね。それは大変けっこうなもので、敗れた相手、日本を占領したのがアメリカでよかったですよね。もしソ連だったらと思うと、韓国と北朝鮮のコントラストをみても、暗澹たる気持ちになります。今頃北朝鮮と気が合う国になっちゃっていたのでしょうか・・・
 
 でも、アメリカがくれなかったもの、むしろ潰そうとしたのが民族的なプライドですよね。それはアメリカがくれなかったし、戦後日本で主流になった反戦平和の思想も、日本のプライドということは顧みられなかったですよね。「自虐史観」という言葉がそれを象徴しています。

 この本にはそれがあるのです。この本の中には、日本兵の死体に蛆がわいてるとか、白骨死体の山とかいう描写も出てくるし、ビルマの風景描写が具体的で、すごくリアルなんですけど、それでもこの作品は写実主義の小説ではなくて、「子供のための童話」です。先の戦争を扱った他の文学作品を僕はいくつか読んだことがあります。大岡昇平「野火」なんかエグいし、安岡章太郎「僕の昭和史」、野間宏「真空地帯」なんか読んでると、あの戦争は決してきれいごとではありえないと感じるのですが、「ビルマの竪琴」は、もちろん日本のダメなところも少しは出て来ますが、そういうところはあまり掘り下げず、希望につながるようなところを強調するような手法だと思いますし、何よりも、戦った相手への敵意を感じさせることは一切書かれていません。ビルマで日本と戦ったイギリス兵は、尊敬すべき行動をし、我々と価値観を充分共有できる人たちとして書かれています。

 たぶん、反戦平和論者は、日本民族のプライドと世界平和は相容れないと考えている。少なくとも前者は後者を脅かすものであると。しかし本書は、日本人としてのプライドを持つことで希望を見出し、それが繁栄につながるというビジョンを提供している。
 「ビルマの竪琴」はドイツ文学者で文明評論家の竹山道雄が敗戦直後の昭和21年に書き始め、昭和22〜23年にかけて「赤とんぼ」という子供向けの雑誌に連載され、23年に単行本になり、同年毎日出版文化賞、25年に文部大臣賞を受賞した。単行本は大ベストセラーになり、世間からの反響も非常に大きかったという。この本のあとがきで著者はある話を紹介している。戦争でフィリピンに赴き行方不明のある人について、その友人は「中村は生きている・・・《ビルマの竪琴》を読んでそう思った」と言ったという。当時の人にとってこれは単に子供向けの童話ではなく、大人たちが現実を生きる中での具体的な希望と結びついていたようなのだ。この物語は創作であるが、当時の人々の現実と直接結びつくような力を持った非常にすぐれた作品である。だから70年を経た今も価値を失わず、我々に感じさせ、考えさせる力を持っている。

 この本はその後も長く読み継がれる古典的な地位を獲得したといえるし、その後、映画化もされたし英訳も出版された。今はどうか知らないけど、小学生の課題図書にもなって、僕も国語の先生だった父に何度か読め読めって言われたものだけど、けっきょくこの年になるまで読まなかったです。これは決して子供用の本ではなく、大人にも真正面から訴えてくる本なので、読んでない人は読むといいですよ。読むとしたら、ビルマという暑い地方の話なので、冬よりは夏のほうが読むのに適していると言えましょう。僕はまず初日に2時間ぐらい時間がとれてそれで70ページぐらい読んで、翌々日もやはり2時間ぐらい読んで、また翌々日に2、3時間ぐらい読んで、それで読み終わったという感じで、僕は読書のスピードはわりと遅いほうだと思うのですが、10時間かからずに1冊の本を読めましたね。本書は3つの部分からなり、第一話はベースになる部分で、ビルマのある部隊のことが書かれていて、異国情緒もあって興味深く読めました。第二話はある謎をめぐって、その謎が深まっていくような筋立てなので、次から次へと読み進めたくなります。でも第二話が終わったところでその謎はいちおう解決するので、ここで読み進めたい気持ちが一旦切れました。第三話はダレてしまうんんじゃないかなと思って読んだんですが、でもけっきょく第三話がいちばん面白かったです。これは水島上等兵が隊から離れて一人でビルマの各地を数奇な体験をしながら旅する冒険譚といった感じで、この第三話は小説の最も古い形式ともいわれる、日本でいうと「道行き」という形式で書かれていて、僕が読んだ中では「ロビンソン・クルーソー」とか「ハックルベリー・フィンの冒険」とか、日本のものでは井伏鱒二の「集金旅行」とか、こういう話は、旅をしながら色んなことに次々に出会うという形でエキゾチックで面白いエピソードを次々に連ねられるので単純に読み物として面白いですね。
 作者はビルマのことを知らないそうで、まったくの創作だそうですが、浅田次郎が「鉄道員」を書いた時も、現地を知ってしまうと作品をロマンチックに書けなくなるからあえて現地を取材せずに書いたといいますが、そういう効果が「ビルマの竪琴」にもあると思います。もし作者が現地を体験してたら、こんなふうに結晶化することはできなかったのではないかなあ。
 

little girl : Journey



it was just the month of May
words got in my way, girl I'm so sorry
so I'm reaching out to you
with the hope to see you through
just another day

   それはただの5月だった
   言葉が出て来なかったんだ、ガール俺が悪かった
   だから俺はお前を追いかけた
   また別の日に
   伝えられるだろうと思って
   do you see
the words I'm trying to say
but words get in my way, girl I really mean it
yes I warned you from the start
that I could break your heart
so girl don't stay

   分るかい?
   俺が言おうとしてる言葉
   でも言葉が出てこない、嘘じゃない
   そう俺は最初から警告してた
   俺はお前の心を壊してしまうかもしれないと
   だからお前はここにいちゃいけない

[chorus:]
ooh, ooh little girl
ooh, ooh little girl
ooh, ooh little girl

   おお、おおリトルガール
   おお、おおリトルガール
   おお、おおリトルガール

I'm the fool that plays the part
the one that broke your heart
girl I'm so sorry
so what more can a poor boy do
I'm reaching out to you
so now don't you stay

   俺はこんな役回りを引き受ける馬鹿者さ
   お前の心を壊す役回り
   こんなはずじゃなかった
   馬鹿な俺に他に何ができるだろう?
   俺はお前を追いかける
   さあ、お前はもうここにいちゃいけない

[chorus:]
ooh, ooh little girl
ooh, ooh little girl
ooh, ooh little girl

   おお、おおリトルガール
   おお、おおリトルガール
   おお、おおリトルガール

shades turn red from green to blue
what more can I do
I told you this before
so please walk out that door
I told you from the start
that love could break your heart
girl I'm so sorry,

   緑から青に変わった陰が赤く染まる
   俺にこれ以上何ができるんだ
   俺は前もってこう言ってたはずだ
   さああのドアから出て行ってくれ
   最初から言ってたはずだ
   愛しててもお前の心を壊してしまうかもしれないって
   ガールこんなはずじゃなかった

[chorus:]
ooh, ooh little girl
ooh, ooh little girl
ooh, ooh little girl

   おお、おおリトルガール
   おお、おおリトルガール
   おお、おおリトルガール

第3次安倍第3次改造内閣閣僚名簿

平成29年8月3日発足

■■■自民党執行部■■■
▼総理 自民党総裁  安倍晋三(62)(衆8回)山口4区 成蹊大法卒 神戸製鋼所従業員・自民党幹事長・内閣官房長官・90代首相。 

▼副総裁 高村正彦(75)留任(衆12回)山口1区 中央大法 弁護士 外相 防衛相 法務相 経企庁長官など。

▼幹事長 二階俊博(78)留任衆11回 和歌山3区 中央大法卒 国会議員秘書 和歌山県議員を経て自民党から国政に。1993年に宮沢内閣不信任案に賛成し離党し小沢一郎らと新生党を結成。小沢一郎の側近として行動を共にする。小渕内閣の自自連立で運輸大臣兼北海道開発庁長官に。小沢と分かれ野田毅らと保守党を結成し、自公保連立政権に参加。保守新党幹事長などを経て自民党に復党。経済産業大臣、自民党総務会長、衆議院予算委員長などを歴任。

▼政務調査会長 岸田文雄(60)(衆8回)広島1区 岸田派。早大法。外務大臣 沖縄北方・規制改革・科学技術担当大臣 再チャレンジ担当大臣 党国対委員長 日本長期信用銀行員 宮沢洋一はいとこ 安倍政権で外務大臣を4年7ヶ月勤めた。

▼総務会長 竹下 亘(70)(衆6回)島根2区 額賀派。慶大経卒。自民党国対委員長 復興大臣 財務副大臣 環境大臣政務官 衆議院予算委員長、自民党組織運動本部長 NHK職員 異母兄である竹下登元総理の秘書を経て政界入り。

▼選対委員長 塩谷立(67)(衆8回)静岡8区 細田派。慶大法卒。文部科学大臣 官房副長官 党総務会長。世襲2世。

▼国会対策委員長 森山裕(ひろし)(72)(衆5回、参1回) 鹿児島5区 農林水産大臣 財務副大臣 党経理局長 財務大臣政務官 党TPP対策委員長 衆院農林水産委員長 鹿児島市議会議長 鹿児島・日新高卒 石原派

▼幹事長代行 萩生田 光一(53) (衆4回)東京24区 明大卒 官房副長官 党総裁特別補佐 内閣官房副長官 千葉科学大学客員教授  文科政務官 党青年局長 東京都議(1期) 八王子市議(3期)。保守派の論客で安倍総理の側近。


■■■閣僚■■■
▼副総理・財務 麻生太郎(76)留任(衆12回)福岡8区 学習院大政経卒 首相 外相 総務相 経企庁長官 麻生セメント社長

▼総務 野田聖子(56)(衆8回)岐阜1区 無派閥。ミシガン州ジョーンズヴィル・ハイスクール卒 上智大卒。党総務会長 郵政大臣 消費者・食品安全・科学技術政策担当大臣 衆院災害対策特別委員長 岐阜県議会議員(1期) 帝国ホテル従業員。祖父は経企庁長官、建設大臣などを歴任した野田卯一。内閣府特命担当相などを勤めた鶴保庸介参院議員とかつて事実婚だったが今は一般人男性と正式に婚姻。安倍政権と一定の距離を置いてきた。

▼法務 上川陽子(64)(衆5回)静岡1区 東大教養卒 ハーバード大ケネディスクール 三和総研研究員 グローバリンク綜合研究所代表取締役 少子化対策担当大臣 総務副大臣 前回は第2次安倍改造内閣で辞任に追いやられた松島みどりの後任として法務大臣に就任し今回は2度目の法務大臣。

▼外務 河野太郎(54)(衆7回)神奈川15区 慶大経卒 ジョージタウン大卒。 党行革推進本部長 米ジョージタウン大卒 麻生派 国家公安委員会委員長 内閣府特命担当大臣 法務副大臣 総務大臣政務官 富士ゼロックス社員。父は自民党総裁や外相などの要職を歴任した河野洋平、祖父は副総理や自民党総務会長などを歴任した河野一郎。 

▼文部科学 林芳正(56)(参4回)山口県選挙区 岸田派。東大法卒 党税調副会長 農水相 防衛相 経済政策担当相 衆院議員秘書 三井物産社員。2012年の自民党総裁選挙に立候補した。高祖父の時代からたびたび国会議員を輩出する名家の出。

▼厚生労働 加藤勝信(61)(衆5回)岡山5区 東大経卒 大蔵省出身 一億総活躍担当大臣 加藤六月秘書 内閣府政務官 官房副長官 額賀派。将来総理候補になる人材の一人とみなされている。

▼農林水産 齋藤健(58)初入閣(衆3回)千葉7区 石破派。 東大経卒 ハーバード大ケネディスクールで修士号。 農林水産副大臣 環境大臣政務官 埼玉県副知事 通産省官僚 多摩大学大学院客員教授。衆院当選3回での抜擢。

▼経済産業 世耕弘成(54)留任(参3回)和歌山選挙区 早大政経卒 ボストン大院 官房副長官 総理補佐官 参院政審会長 総務政務官。

▼国土交通 石井啓一(59)留任(衆8回)公明党 東大卒。比例北関東 財務副大臣 党税調会長、政調会長 

▼環境 中川雅治(70)(参3回)東京選挙区 東大法卒業後、大蔵省に入省、理財局長を務めた後環境省で総合環境政策局長、事務次官を務め、政界に進出。 事務次官経験者の入閣は、相澤英之(大蔵事務次官→金融再生委員長)以来17年ぶり、事務次官を務めた省庁において大臣に就任したのは池田勇人(大蔵事務次官→大蔵大臣)以来59年ぶり。
参議院議員副会長。

▼防衛 小野寺五典(57)(衆6回)宮城6区 岸田派。東京水産大卒 東大院法学政治学研究科修士課程 防衛大臣 外務副大臣 党政調会長代理 党外交部会長 松下政経塾 東北福祉大助教授 宮城県職員。

▼官房長官 菅義偉(68)留任(衆7回)神奈川2区 秋田県出身。高校卒業後、上京。段ボール工場で働きながら法政大法卒。衆院議員小此木彦三郎の秘書を11年。横浜市議2期 総務大臣 党幹事長代行 党神奈川県連会長

▼復興 吉野正芳(68)留任(衆6回)福島5区

▼国家公安委員長 小此木八郎(52)(衆7回)神奈川3区 国会対策委員長代理

▼沖縄・北方担当 江崎鉄麿(73)(衆6回)愛知10区 国土交通副大臣

▼経済再生  茂木 敏充(61)(衆8回)栃木5区 東大経卒 丸紅社員 読売新聞社員 ハーバード大学ケネディ行政大学院で行政学修士号 日本新党で国会議員初当選 党政調会長 経産大臣 金融担当大臣 沖縄・北方対策担当大臣 外務副大臣 通産政務次官などを歴任。

▼1億総活躍 松山政司(58)(参3回)福岡選挙区 参議院国会対策委員長

▼地方創生 梶山弘志(61)(衆6回)茨城4区 日大法卒。 国土交通副大臣。党幹事長・内閣官房長官・法務大臣等を務めた父・梶山静六の秘書をしていたが、父の死去に伴い政界へ。

▼五輪 鈴木俊一(64)(衆8回)岩手2区 早大教卒 環境大臣 外務副大臣 厚生政務次官 衆議院厚生労働委員長 衆議院外務委員長。全国漁業協同組合連合会に就職したが父は鈴木善幸元総理。

官房副長官
西村康稔(衆院)    元内閣府副大臣
野上官房副長官 留任





僕の感想

第1次安倍政権は366日と短命だったが、野田民主党政権の後、2012(平成24)年12月26日にに発足した第2次以降の安倍政権は連続4年半、オバマ政権の2期目をまるまる呑み込んでトランプ政権も半年たった。今回の第3次安倍第3次改造内閣発足時点(平成29年8月3日)で首相在職期間2048日間(1次政権含む)は歴代5位です。

歴代首相在職期間ベスト10
1位 桂太郎 2886日 (明治34年から大正2年にかけて断続的に)

2位 佐藤榮作 2798日 (昭和39〜47年)

3位  伊藤博文 2720日(明治18〜31年にかけて断続的に)

4位  吉田茂 2616日 (昭和21〜27年にかけて断続的に)


5位 安倍晋三 2048日 (平成18〜19年と、平成24年〜H29.08.03現在)

6位 小泉純一郎 1980日 (平成13〜17年)

7位 中曽根康弘 1806日(昭和57〜62年)

8位 池田勇人 1575日(昭和35〜39年)

9位 西園寺公望 1400日 (明治39〜大正元年にかけて断続的に)

10位 岸信介 1241日(昭和32〜35年)



 来年2018年9月に自民党総裁選があります。従来、自民党総裁は連続3選が禁じられていたが去年、党則を変えて連続3期9年まで続けられることになった。もし来年の総裁選で3選を果たせば、その時点で在職2400日を超える。その3年後の総裁選のある2021年9月まで党総裁在任、従って首相在任が可能になる。仮に2018年9月の総裁選に勝ち総裁・首相続投ということになれば、2019年2月22日に4位の吉田茂と並び、同年6月6日に3位の伊藤博文と、8月23日に2位の佐藤榮作と、そして2019年11月19日に1位の桂太郎と並んで在職期間長さトップの首相ということになる。現実的だ。(日付は間違ってないと思うけど手で計算したので間違ってたらごめんね。)

 今回の内閣改造だが、共同通信社の8月3、4両日実施の世論調査によると、安倍内閣の支持率は44.4%(先月比+8.6ポイント)、不支持は43.2%(−9.9ポイント)と、落ち込んでいた支持率が回復している。今回の内閣改造、自民党役員人事を「評価する」は45.5%、「評価しない」は39.6%。

 今回の改造人事のきっかけは内閣支持率が下がっていることを受けてのものだったので、まあ目的はいちおう果たせたということになろうかと思うが、前回の改造がちょうど1年前の2016年8月3日だったので、支持率低下がなくても変えようと思っていたかもしれない。
 失言問題などでガタガタになった稲田防衛相の後任に小野寺五典、不安定答弁が目立った金田法相の後任に上川陽子と経験者を登用。環境大臣には環境省で事務方のトップを務めた経験のある中川雅治。加計学園問題などで揺れる文科省の火消し役として総理大臣も務まると言われる林芳正が大臣に。アベノミクスのアイデアを安倍晋三に吹き込んだと言われる山本幸三は問題発言をしたりして政治センスを疑わせる人だった。丸川珠代は稲田朋美と共に人材育成の観点から安倍首相に重用されてきたが、これらの人は閣外へ去った。農水大臣に当選3回の齋藤健を抜擢したが、これは将来性をというよりすでに充分な実力を持っているから登用したということだろう。他にも茂木経済再生相、世耕経産相、加藤厚労相など安定感があり、失言とは無縁な人たちで固められた内閣になったと思う。第2次政権発足時に匹敵するような欠点の少ない内閣になると思われる。

 ここ数ヶ月、内閣支持率が下がったと言って、保守派からは心配の声が、左翼系からは期待の声が多かったが、このぐらいの下げは想定内で心配するほどのことはないと思う。都議会選挙で自民党が惨敗したのは国政で自民党政権の支持が下がったのが影響したと言われているが、リアリティがない。これは都民ファーストと、内田茂に象徴されるような悪役・自民党都連の対立の構図であって、国政とは関係がない。もし国政に関係あるんだったら同じ国政与党の公明党が議席を増やしたことが説明できない。都議選は単に、都民ファーストに近い勢力が勝って、それに敵対する勢力が負けた、ということだ。
 
 これだけ長期政権が続けば、有権者も飽きが来る。小泉政権時代も、新しい政策がない時期が続けば低迷し、何かサプライズをやればまた支持率が回復した。お店と一緒で、新商品があれば客が来る。なければ店のレイアウトを変える(内閣改造をする)ことでちょっと新鮮味が出る。最近の支持率低迷程度で朝日、毎日新聞がワイワイ言っているのは、アンチ安倍勢力が期待を込めて騒いでいるだけで、これだけのことでこの政権が揺らぐことはない。第一、交替する勢力がない。野党第一党の民進党は長島昭久が既に離党し、細野豪志も今回離党表明、櫻井充も離党を検討しているというし、蓮舫も代表辞任に追い込まれ、支持率が低迷している自民党どころではないほど内部崩壊が顕わになっている。

 安倍政権はおととしの安保法制の時には最高に盛り上がったが、その後、これほど盛り上がる政策はまだ出していない。それは一つには政権のエネルギーの多くが、北朝鮮や中国をめぐる有事の可能性に割かれているからだと思う。水面下でかなりの動きがあると思われるが物事の性質上、表に出せるものは少ない。一旦有事になれば安倍政権の支持率は跳ね上がる。また、その他に、2020年に憲法改正をするという目玉商品があるので、それが本格的に出てくれば反対勢力は、安保法制の時と同じようにものすごい反対運動をするし、支持勢力はそのぶん安倍政権を熱烈に支持し、喧々諤々の議論の中でやはり安倍政権の支持率は上がると思う。政治家は、楽勝と思われる選挙の前でも自信ありげなことは言わないもので、逆に危機感を表明して緊張を維持しようとするもので、最近の安倍首相の支持率低迷に対する危機感の表明もそれだと思う。だって代わりに政権交替できる勢力がいないのだから。森友学園問題でも加計学園問題でも、反対勢力が火のないところに煙を立てようと思ってやたら騒いでいる感があるが、実のある結果は何も出て来ていない。


【数字を後日訂正しました】首相在任期間の計算、やっぱ手書き手写しでやったので間違ってる箇所が2箇所あったので訂正しました。このような→太字で書いてある数字2つが訂正した箇所です。ドンマイです。
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