生きてる感想

僕が好きなことを書いて 誰かが楽しんでくれれば それ以上は望むべくもないでーす

2019年ニュース

1月3日(木) 韓国裁判所が徴用工問題で韓国国内にある日本企業の資産差し押さえを認める決定を出した。日本は1965年の日韓請求権・経済協力協定に反するとして反発。日韓関係はその後、7月から日本が韓国向けの輸出管理を厳格化。それに反発した韓国は8月に日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を通告。11月23日に同協定の失効が予定されていたが米国からの圧力で韓国政府はGSOMIA失効を停止、当面維持されることに。

1月16日(水) 横綱稀勢の里が引退。2017年初場所で横綱昇進し、続く大阪場所で連続優勝するも、続く春場所から8場所連続休場。続く2018年秋場所では10勝5敗と復活のきざしを見せたが続く九州場所で再び休場し、翌2019年初場所に0勝3敗で迎えた4日目に引退表明。

1月26日(土) 女子テニスの大阪なおみが全豪オープンで初優勝し、世界ランキング1位に。

1月27日(日) 国民的アイドル・嵐が2020年末でグループ活動を休止すると突如発表。

1月24日(木) 投資家のジョージ・ソロスがダボス会議のスピーチで、中国の習近平を開かれた社会に対する最も危険な敵と呼び批判。

1月28日(月)通常国会スタート。会期は6月26日までの150日間。

2月5日(火) 旧正月。中国の長期休暇である春節(2月4日〜2月10日)期間中の中国国内の小売・飲食業の売上高は1兆50億元(約16兆2000億円)と対前年+8.5%で、現行の統計を始めた05年以降で初めて伸び率が2桁を割った。海外への旅行者は過去最高の700万人に達したというが、日本での「爆買い」は15年をピークに3年連続で一人当たり消費額が減少した。

2月8日(金) 北日本に観測史上最強の寒波が襲来。北海道では8日未明に−20℃を、9日朝は−30℃を下回る地域も出た。11日(月)には関東平野部でも積雪。

2月12日(火) 競泳女子の池江璃花子選手(18)が自身のツイッターで白血病と診断されたことを明らかにした。

2月22日(金) トランプ大統領が3月1日に設定していた中国への追加関税の発動を延長する意向を示した。前日の21日、アメリカと中国は通商協議を再開している。

2月27日(水) 米朝首脳会談。昨年6月に続いて2度目の米朝首脳会談がベトナムのハノイで翌28日(木)と2日間行われたが、非核化の進め方をめぐる両者の隔たりが大きく、予定されていた昼食会や合意文書の署名はとりやめになった。

3月13日(水) AKB48が2009年から毎年開催していた『AKB48選抜総選挙』を2019年は実施しないことを発表。

3月15日(金) ニュージーランドのクライストチャーチのモスクで銃乱射事件。死者50人、負傷者50人。豪州国籍の28歳の男が殺人容疑で逮捕された。

3月21日(木) マリナーズ・イチローが引退表明。大リーグで10年連続200安打を達成、日米通算4367安打を記録した。

3月21日(木) 中国江蘇省の化学工場で大規模な爆発と火災、工場から7キロ離れた住宅でも窓が壊れ、当局発表で死者は60人超、けが人も600人超と大きな被害。

3月23日(土) イタリアのコンテ首相が習近平・中国国家主席と会談し一帯一路経済圏構想の協力に関する覚書に署名。G7で一帯一路に参画するのはイタリアが初めてで、懸念する声が国際社会から上がった。

4月1日(月) 新元号が令和であると発表された。

4月3日(水) 第91回選抜高校野球大会決勝戦、愛知の東邦高校が千葉の習志野高校を破り1989年以来30年ぶり単独最多の5度目の優勝。東邦高校は平成時代の最初の甲子園と最後の甲子園で優勝したことになる。

●●安倍内閣の引責辞任相次ぐ。4月1日(月)、塚田一郎国土交通副大臣が北九州市での集会で、同市と山口県下関市を結ぶ下関北九州道路の整備について首相と麻生氏の地元だと言及し「国直轄の調査に引き上げた。私が忖度した」と発言、謝罪し発言撤回したが4日後にに引責辞任。4月10日(水)には桜田五輪担当大臣が自民党高橋比奈子衆院議員のパーティーで「復興以上に大事なのが高橋議員だ」と述べたことが問題になり同日夜辞任。後任には鈴木前五輪相が再び就任。

2019年統一地方選挙。4月7日(日)に前半戦(知事選挙など)、4月21日(日)に後半戦(市区町村長の選挙)が行われた。大阪では7日、大阪都構想を争点に知事、市長、府議会、市議会の選挙が行われ、大阪維新の会が圧勝。新府知事に吉村洋文・前大阪市長(43)、新大阪市長に松井一郎・前大阪府知事(55)が当選、府議会でも維新が単独過半数を獲得、市議会では過半数には至らなかったが第1党として勢力を伸ばし都構想実現に弾みをつけた。

4月10日(水) 英国のEU離脱日が4月12日に迫る中、EU臨時首脳会議が開かれ、10月31日までの延長で合意。英国のEU離脱は当初3月29日の予定だったが、直前になって4月12日まで延期され、それが再延期された形となった。本年も英国はブレグジット問題で揺れた。7月24日にはメイ首相の後任でブレグジット強硬派のジョンソンが首相に就任し、10月末の離脱を目指していたが、議会に押し切られ実現できず、10月28日にEU離脱期日を2020年1月31日まで延期することで英国、EU双方が合意。12月12日イギリス総選挙が行われ、与党保守党は前回選挙より48議席を上乗せし過半数326を上回る365議席を獲得し圧勝。ジョンソン首相は「ブレグジットに対する強力な信任を得たと勝利宣言。

4月10日(水) ブラックホールの輪郭の撮影に世界で初めて成功したと日本などの国際研究グループが発表し、画像を公開。

4月11日(木) ホワイトハウスで行われた米韓首脳会談で実質的な会談時間がわずか2分だったことで話題に。北朝鮮にすり寄る韓国に対する米国の不満が背景にある。

4月12日(金) 韓国政府による福島など8県の水産物の輸入禁止は不当だとして日本がWTOに提訴した問題で、WTOの上級委員会は韓国側に是正を求めた1審の判断を取り消す報告書を公表した。これについて菅義偉官房長官は「わが国の主張が認められなかったことは誠に遺憾だ」と述べ、その上で、日本産食品が科学的に安全だとする事実認定は維持されており、「敗訴したとの指摘はあたらない」と強調した。

4月15日(月) 世界遺産のパリのノートルダム大聖堂で大規模な火災が発生し大きく破損、世界じゅうで大きなニュースに。

4月19日、池袋で80代男性が運転する乗用車が暴走して、自転車に乗っていた母娘が死亡。2日後の4月21日、神戸市中央区JR三ノ宮駅前で、60代男性が運転する市営バスが横断歩道に突っ込み、歩行者をはねて2人が死亡。

4月21日(日) スリランカの計8箇所で爆発テロ。死亡者259人、負傷者約500人の大きな被害。邦人1人死亡、4人負傷。地元のイスラム過激派の犯行。

5月1日(水) 令和時代が始まる。今年のGWは4月27日(土)から5月6日(月)まで、例年の祝日の他に「国民の休日」2日を加えることで10連休となった。

5月9日(木) 韓国の野党議員が記者会見し、文大統領が7日の電話会談でトランプ大統領に「訪日後に少しの間でも韓国を訪問してほしい」と要請し、トランプ氏が「少し立ち寄るなら」と答えていたと公表。文政権は、自国の信頼を揺るがす機密漏洩事件だとして同議員の辞職を求めるとともに刑事告発し、検察が捜査に着手。トランプ大統領の訪日で日米関係の蜜月ぶりとは対照的に韓国の対米屈辱外交として話題に。

■梅雨入り
5月14日(日) 奄美地方が全国で最初に梅雨入り。東海、北陸、関東は6月7日と例年並みだったが、九州北部、四国、中国、近畿は6月26日と、平年より20日ほど遅く、最も遅い梅雨入りとなった。

5月25日(土)夕方、トランプ米大統領がメラニア夫人と共に令和初の国賓として来日。安倍首相とのゴルフ、大相撲観戦、六本木の炉端焼きで安倍首相夫妻と夕食、日米首脳会談、宮中晩餐会、海上自衛隊の護衛艦「かが」視察などの日程をこなし28日に帰国。日米関係の緊密さをアピールし世界各国で大きな注目を浴びた。

5月26日(日) 北海道の佐呂間で39度を記録。5月の全国の最高気温と、年間を通しての北海道の史上最高気温を更新。北海道の上空に5月としては観測史上最も強い暖気が流れ込んだため。

5月28日(火) 川崎市多摩区の路上で岩崎隆一(51)が小学校のスクールバスを待っていた児童らを次々と刃物襲い計19人を殺傷、その後岩崎は自身を刺して死亡。

6月4日(火) 吉本興業所のお笑い芸人カラテカの入江慎也が振り込め詐欺グループとの間で闇営業を行い同社所属タレントを仲介していたとして吉本興業から契約を解消された。同月7日発売の「フライデー」が、雨上がり決死隊の宮迫博之、ロンドンブーツ1号2号の田村亮などが詐欺グループ忘年会に参加していたことを報じ、有名なお笑い芸人多数が謹慎や契約解除などの処分を受けた。今年はこの他、芸人が反社会勢力相手に闇営業をするなどの事案が話題になった。

6月7日(金) 陸上男子100メートル、サニブラウンが9秒97の日本新記録。

6月12日(水)〜14日(金) 安倍首相イラン訪問。ロウハニ大統領や最高指導者のハメネイ師と会談。日本の総理大臣として41年ぶり、1979年のイラン・イスラム革命後は初めてのイラン訪問となった。しかし安倍首相のイラン滞在中の13日、イランとオマーンに挟まれたホルムズ海峡付近で日本のタンカーなど2隻が何者かの攻撃を受け、ポンペイオ米国務長官はイランによる攻撃と断定。イラン政府は関与を強く否定した。

6月18日(火) 独メルケル首相がウクライナ大統領歓迎式典で全身が震える症状。その後、6月27日、7月10日と3度も同じ症状が出て健康不安説が広がる。メルケル氏は2021年秋の議員任期満了まで首相を務め、その後政界を引退する考え。

6月28日(金)〜29日(土) G20大阪サミット。米中貿易摩擦の懸念の中、自由、公正、無差別な貿易体制の推進という基本原則を盛り込んだ大阪宣言を採択し閉幕。

■梅雨明け
6月29日(土) 沖縄が全国で最初に梅雨明け。7月下旬に、全国のほとんどで平年より約1週間遅れで梅雨明け。それまで冷夏の傾向だったが梅雨明けした途端に猛暑に。

6月30日(日) トランプ米大統領がパンムンジョムで金正恩と3度目の面会。現職の米大統領として初めて軍事境界線を越えて北朝鮮側に入った。トランプ大統領が29日朝ツイッターを通してキム委員長に面会を呼びかけ、これに北朝鮮側が応じる形で急きょ2人の面会が実現。今年2月の2回目の首脳会談以来4か月ぶりの面会。

7月1日(月) 日本国政府が半導体製造などに使われ、軍事転用も可能な化学製品3品目について、韓国への輸出管理を強化し、韓国を輸出許可手続きが免除される対象国からも外すと発表。多くのメディアは、韓国人元徴用工らへの損害賠償判決問題への事実上の対抗措置と報道したが日本政府はそれを繰り返し否定した。4日、同措置発動。10日、韓国文在寅大統領は財閥トップらとの懇談会で、日本が政治的な目的で韓国経済に打撃を与える措置を取っているとの見解を示した。同日、日本のFNNが、2015年から2019年3月まで、韓国から戦略物資が無許可で流出した不正輸出案件が156件もあったと記された韓国政府の資料を報道。8月2日、政府は貿易管理上の優遇措置を受け輸出手続きを簡略化できる「ホワイト国」のリストから韓国を除外する政令改正を閣議決定した。7日、同政令公布、28日施行。8日、韓国に対し輸出規制を行っている3品目の中の1品目について軍事転用の可能性がないと判断し規制強化後初めて輸出許可を出したと経産省が発表。

7月1日(月) 日銀短観発表。大企業製造業の景況感を示す業況判断指数(DI)は前回から5ポイント悪化し、+7と2四半期連続の悪化。米中貿易戦争の影響で生産用機械や自動車などの業種で悪化した一方、大企業非製造業は2四半期ぶりに改善。大企業非製造業は+23と2ポイント改善。

7月1日(月) 国税庁が2019年の路線価を発表。全国約32万地点の標準宅地は18年比で1.3%のプラスとなり4年連続で上昇。都道府県別の路線価は主要都市圏など19都道府県で上昇し、27県で下落。

7月1日(月) セブンイレブンがスマホ決済サービズ「7pay(セブンペイ)」を開始。翌2日、最初の不正取引の問い合わせ。3日に社内調査で不正利用が発覚。4日、運営会社のセブン・ペイが記者会見を開き不正利用があり、4日朝までに被害者は約900人、被害額が5500万円に及ぶことを公表。警視庁は同日、不正決済の詐欺容疑で中国籍の男2人を逮捕。8月1日、セブン&アイ・ホールディングスは同サービスの全面再開を断念し9月末で終了すると発表。

7月6日(土) 仁徳陵など大阪の古墳群が世界遺産に登録された。国内の世界遺産は23件目。

7月11日(木)探査機はやぶさ2、小惑星リュウグウに着地成功。

7月18日(木) 京都アニメーション放火事件。36人死亡、33人負傷。平成以降最悪の放火事件となった。犯人の青葉真司(41)が建物に侵入しガソリンをまき放火したもの。

7月21日(日) 参議院選挙。与党は過半数を維持したが、改憲勢力は3分の2を割り込んだ。立憲民主党は大幅に議席を増やした。またワンイシュー政党「NHKから国民を守る党」が国会で初めてとなる1議席を獲得。

7月23日(火) ロシア偵察機が竹島上空に領空侵犯。同島を不法占拠する韓国は軍用機で警告弾を発射したと発表。日本は日本の領土領空で起ったこれらの事態に対してロシアと韓国に抗議。ロシアが竹島近辺を侵犯したのは初めてのケースという。

7月31日(水) 米FRBがフェデラルファンド金利の誘導目標を0.25%引き下げ、年2〜2.25%にすると発表した。利下げは2008年以降で初めてとなる。背後にトランプ大統領からの圧力があったと見られているが、同大統領は下げ幅が小さいと不満を露わに。

8月3日(土) 愛知県で8月1日から2週間開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)で韓国の慰安婦像や、昭和天皇の肖像群が燃える映像作品が展示された企画展「表現の不自由展・その後」に抗議や脅迫が相次ぎ、開催から3日目で展示中止に。表現の自由の問題を含む賛否両論の意見が政治家を含む各方面から出され国民的な議論になった。

8月4日(日) ゴルフ・渋野日向子が全英女子優勝。男女を通じて日本勢が海外メジャーで優勝するのは1977年の樋口久子以来、42年ぶり2人目。

8月9日(金) 韓国・文在寅大統領側近の左派法学者・チョ・グクが次期法務部長官に指名された。その後、娘の不正入学、息子の兵役延期などチョ・グク自身や親族から数々の疑惑が噴出、剥いても剥いても疑惑が出てくることから「タマネギ男」と呼ばれるようになったが文在寅大統領は9月9日、チョ・グクの法務部長官任命を強行。辞任を要求する大規模デモが頻発するなど国民の反発は強く、10月14日辞任に追い込まれた。

8月15日(木)に日本に上陸した台風10号の影響で新潟県などでフェーン現象が起り、新潟県糸魚川市では15日朝、日本の「一日の最低気温」の最高温記録を更新した(31.3℃)。同じ日、新潟県胎内市で40.7℃を記録し、今年の全国最高気温を更新した。

8月18日(日) 茨城県の常磐自動車道であおり運転をし相手を殴打したとして指名手配されていた宮崎文夫容疑者(43)が大阪市内で逮捕された。

8月19日(日) フェイスブックとツィッターが香港デモを否定するような中国からの組織的な工作の結果としてのアカウントを900以上削除、約20万を凍結したと発表。

8月28日(水) トヨタとスズキが資本提携に合意。両社は2016年から業務提携に向けた検討を行っていた。トヨタは既にダイハツの完全子会社化、日野の連結子会社化、スバル・マツダとの資本提携に加えて今回のスズキとの資本提携で、トヨタグループの日本車メーカー・ブランドは6社に。

9月1日(日) 米国が中国への制裁関税第4弾(9月1日と12月15日の2回に分けて発動)が始まる。従来は追加関税の対象としてこなかった中国からの輸入品約3千億ドル(33兆円)分すべてに15%を上乗せするもの。中国も報復として米国からの輸入品750億ドル(8兆円)分の3分の1に5〜10%の追加関税をかけた。

9月4日(水) 香港の林鄭月娥行政長官が、3ヶ月以上続く空前の大規模なデモのきっかけとなった「逃亡犯条例」改正案を撤回すると正式に発表。

★台風と大雨による大規模被害。
 ▲台風15号:9月9日(月)千葉県に上陸。千葉市で最大瞬間風速57.5メートルを記録するなど関東上陸時の勢力では過去最強クラス。死者1名、100名以上の重軽傷、1万棟以上の住宅被害、千葉県などで約100万件の大規模停電、3都県での断水、通信障害、倒木などでの道路の通行止め、交通機関の麻痺、ATMトラブル、公共施設への被害、イベントの中止などの被害が発生。停電復旧作業は異例の長期に亘り、9月30日頃、一部を除きおおむね復旧した。
 ▲台風19号:10月12日(土)伊豆半島に上陸し東日本を中心に豪雨災害。91人死亡、4人行方不明。川の堤防が壊れる「決壊」は7県71河川、140か所。16都県の301河川で氾濫が発生し、浸水した面積は2万5千ha、8万棟余で浸水や全半壊の住宅被害、5万棟余被害の去年の「西日本豪雨」を超える記録的な災害に。土砂災害も1つの台風によるものとしては最も多く、20都県805件確認されている。
 ▲10月25日(金)豪雨:台風21号の影響で千葉県内で半日で1か月分の雨が降り、19の川で越水、土砂災害も相次ぎ、千葉県と福島県で合計13人死亡。
 以上3つの災害で東日本を中心に全国で105人が犠牲に。(11月中旬時点の数字)


9月10日(火) ジョン・ボルトン米大統領補佐官が辞任。マイケル・フリン元陸軍中将(2017年2月に辞任)、H・R・マクマスター将軍(2018年4月に解任)に次ぐ3人目の国家安全保障担当の大統領補佐官だったが、外交政策などでトランプ大統領と意見の対立が目立っていた。

9月14日(土)  サウジアラビア国営石油会社の施設19箇所が巡航ミサイルやドローンによって爆撃された。事件直後、イランと近いイエメンのフーシ派が犯行声明を発表したが、サウジアラビアとアメリカはイランの犯行と断定。イランは完全否定した。

9月20日(金)〜11月2日(土) ラグビーワールドカップ2019が日本で開催された。日本チームは1次リーグでは9月20日ロシア戦、9月28日アイルランド戦、10月5日サモア戦、10月13日スコットランド戦すべてに勝ち初めてベスト8に進んだ。10月20日はNHKは大河ドラマを休止し準々決勝の南アフリカ戦を放映するなど日本じゅうで大きな話題になった。この日の試合は3対26で南アフリカに敗れ初のベスト4入りはならず。

9月23日(月) スウェーデン人で16歳の環境保護活動家のグレタ・トゥンベリさんが米NYの国連本部で開かれた「気候行動サミット」で演説、気候変動問題について行動を起こしていないとして各国首脳を非難。この演説はトランプ米大統領やプーチン露大統領がコメントを発するなど賛否両論の世界的反響を呼んだ。トゥンベリさんはアスペルガー症候群を患っている。2018年8月、学校を休んでスウェーデン議会の前で座り込みを行い注目を浴びた。今回は国連の会議に出席するために15日かけてヨットで大西洋を横断してNYに到着した。

10月1日(火) 消費税率が8%から10%に引き上げられた。

10月1日(火) 中国が建国70周年記念、北京では盛大に祝われたが、香港ではこの日、警察がデモ参加者に対して実弾を発射したと報じられた。

10月6日(日) トランプ米大統領がシリア北東部からの米軍撤退を発表、トルコによるクルド人部隊への軍事作戦に関与しないと表明。これを機に、トルコはシリア国境を越えてクルド人地域を空爆、国境近くの2つの町を制圧。これを受けて、シリア北部のクルド人の武装組織は、これまで対抗していたシリアのアサド政権と協力する道を選んだ。

10月9日(水) 旭化成名誉フェローの吉野彰氏(71)ら3人がノーベル化学賞を受賞。日本のノーベル賞受賞は27人目。

10月22日(火) 即位礼正殿の儀。天皇陛下が即位を内外に宣明。台風20号から変わった温帯低気圧の影響で朝から激しい風雨だったが即位礼正殿の儀が始まるころに収まり、東京には珍しく空に虹が架かりSNS上でも話題に。

10月23日(水) 米グーグルが量子コンピューターを使い、最先端のスーパーコンピューターで1万年かかる計算を3分20秒で解いたと発表。AIなどに続く革新的技術として期待される量子コンピューターの実用化へ、大きく前進する。量子超越の達成により、コンピューターの開発の歴史に新たな一歩が刻まれることになる。

10月25日(金) ペンス米副大統領がワシントンのウィルソン・センターで、去年に続いて中国批判の演説を行い、香港問題で中国を批判し、香港との連帯を表明。

10月25日(金) 菅原一秀経産相が辞職。選挙区の有権者に金品を贈り公職選挙法に違反したとの疑惑を受けて。

10月27日(日) トランプ米大統領が演説、ISの最高指導者・バグダディ容疑者が死亡したと発表。シリア北西部で米軍の軍事行動で追い詰められた同容疑者が自爆したもの。

10月31日(木) 河井克行法相が辞任。先の参院選で初当選した妻の河井案里氏の陣営が法定額を超える日当を運動員に支払っていた公職選挙法違反疑惑が週刊文春で報じられていた。菅原一経産相の辞任からわずか1週間、内閣改造から2カ月足らずで閣僚2人が去るという事態に。

10月31日(木) 沖縄県のシンボル・首里城が焼失。首里城は戦前には国宝に指定されていたが沖縄戦で焼失。30年に及ぶ復元工事を今年1月に終えたばかりだった。

11月8日(金) 首相主催の「桜を見る会」をめぐる問題が臨時国会で野党議員によって取り上げられ野党の追及の的に。公費で開かれた会に首相が後援会関係者らを多数招待していた点が公職選挙法に触れる可能性や、野党が資料請求した直後に内閣府が招待者名簿をシュレッダーで廃棄し公文書管理のあり方に問題があることなどが焦点になった。

11月10日(日) 祝賀御列の儀。東京は晴天でパレードが行われた。

11月11日(月) 抗議活動が続く香港で警察がデモ参加者に発砲、21歳男性が重体。香港では前週、一連の抗議活動が始まって以来、初めての死者が出たあと、警察や政府に対する市民の反発が激しさを増していて混乱が続いている。

11月16日(土) 女優の沢尻エリカ(33)が自宅マンションに違法薬物MDMAを所持したとして麻薬取締法違反で逮捕された。今年は俳優でミュージシャンのピエール瀧がコカイン使用で3月12日に、元タレントの田代まさし(63)が覚醒剤所持で11月6日に逮捕されるなど芸能人の薬物使用による逮捕が相次いだ。

11月18日(月) Yahoo Japanなどを運営するヤフーの親会社Zホールディングス(ZHD)とLINEが経営統合することで基本合意したことを正式に発表。経営統合後はソフトバンクとNAVERが50%ずつ出資する新会社を設立し、ZHDの親会社となり、ヤフーとLINEはZHDの完全子会社としてその傘下に入る形となる。

11月19日(火) 香港人権法案が米上院本会議で全会一致で可決。香港デモ参加者らを支援し、デモを暴力的に制圧しないよう中国に警告するのが目的で、香港に高度の自治を認めた「一国二制度」が守られているかどうか毎年の検証を義務付ける。米国は一国二制度を前提に、関税などで中国本土よりも香港を優遇している。同法案の策定を主導したルビオ上院議員(共和)は「米国は対香港と対中国本土の通商活動を異なる扱いにしているが、この数年間、中国当局による香港の自治と自由を損なおうとする一貫した取り組みが見られる」と指摘。またペンス副大統領はこの日、「香港のデモ参加者らに暴力が行われたり、この問題が適切かつ人道的に対処されなかったりした場合、われわれが中国と取引するのは極めて難しくなるとトランプ大統領は明確にしている」と語った。下院は前月、同様の法案をやはり全会一致で可決しているが若干の違いがあったため調整され、11月27日にトランプ大統領が署名、成立した。

11月20日(水) 安倍首相の通算在職日数が歴代最長の2887日に。

11月23日(土) ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が来日。ローマ教皇の訪日は38年ぶり2度目。教皇は24日に広島、長崎を訪れ、25日には東京ドームでミサを行うなど精力的に活動し26日に帰国した。

11月23日(土) 中国共産党スパイを自称するワンリーチャン(王立強)という27歳の中国人男性がオーストラリアの報道番組「60ミニッツ」で中国共産党による買収工作や脅迫行為がどれほど民主主義国家に浸透しているかを証言し国際社会に衝撃を与えた。11月には他にも16日(土)には中国共産党が新疆ウイグル自治区のイスラム教徒100万人に対して組織的に行っている洗脳や予防拘禁のおぞましい実態を綴った400ページ超の機密文書の漏洩、20日(水)には香港の英国総領事館元職員・鄭文傑(サイモン・チェン)氏が8月に中国当局によって拘束・監禁された際に受けた殴打や睡眠剥奪、自白強要など、執拗な拷問の生々しい詳細を自身のフェイスブックで公表するなど中国の非人道的な実態が暴露される事態が連続した。

11月24日(日) 香港で区議会(地方議会)議員選挙の投票が行われ、民主派候補が圧倒的勝利を収めた。区議会の権限は限定的だが香港では最も民主的な選挙のため、数か月前から続く民主化デモに揺れる香港の民意が最も反映される選挙として結果が注目されてきた。452議席のうち民主派が85%の議席を獲得(前回2015年は4分の1以下だった)。親中派陣営が獲得した議席の割合は4年前の65%から今回は約13%に低下した。投票者数は294万人余りと、有権者の約71%(前回15年のほぼ2倍)となった。

11月29日(金) 中曽根元首相が老衰のため都内の病院で101歳で亡くなる。

12月4日(水) アフガニスタンで長年現地住民の生活環境の改善に尽くした日本人医師の中村哲さん(73)が現地で銃撃され死亡。

12月12日(木) 中国の高裁が、日本の「無印良品」を真似た「北京無印良品」という中国の子会社の商標を侵害したとして本家の「無印良品」を展開する良品計画に約1000万円の損賠賠償支払いを命じた。

12月18日(水) トランプ大統領がいわゆるウクライナ疑惑を巡って「権力乱用」と「議会妨害」で米下院本会議で弾劾訴追された。ジョンソン、クリントン両大統領に続き史上3人目。これを受けて2020年初頭に上院で弾劾裁判が開かれるが、上院では共和党が過半数のため同大統領が無罪となることはほぼ確実。

12月27日 日本郵政グループ3社長(かんぽ生命、日本郵政、日本郵便)がかんぽ生命保険の不適切な販売を巡る問題で引責辞任。保険料の二重徴収など顧客に不利益を与えた可能性のある契約が18万3千件に上るなどした。日本郵政社長のの後任には総務大臣、岩手県知事などを歴任した増田寛也があたる。かんぽ生命と日本郵便は千田副社長、衣川専務が昇格する。

12月30日(月) 東京株式市場大納会。2019年の日経平均株価は年間で18%上昇し、東証1部の時価総額は655兆円に。不祥事で揺れたかんぽ生命保険やゴーン元会長逮捕で経営の混乱が続く日産自動車は時価総額が3割減になった。

12月30日(月) 日産元会長カルロス・ゴーン被告が日本を出国しレバノンの首都ベイルートに到着したと複数の海外メディアが報じた。翌31日、ゴーン被告が「私はレバノンにいる」と声明を発表した。

【2019年に逝去した人々】
1月12日 梅原猛(93歳) 哲学者、日本古代史研究者

1月12日 市原悦子(82歳) 女優

2月8日 堺屋太一(83歳) 経済評論家 小渕内閣で経済企画庁長官を務めた

2月24日 ドナルド・キーン(96歳) 日本文学研究者。東日本大震災後、被災地で懸命に生きる人々の姿に「いまこそ私は日本人になりたい」と言い日本に帰化

3月17日 内田裕也(79歳) ロック歌手

3月26日 萩原健一(68歳) 俳優 ミュージシャン

4月4日 相沢英之(99歳) 政治家 金融担当相などを務めた

4月8日 ケーシー高峰(85歳) 医学漫談

4月19日 保岡興治(79歳) 政治家 元法相で憲法改正論議を主導

5月12日 京マチ子(95歳) 女優

6月6日 田辺聖子(91歳) 作家

6月26日 高島忠夫(88歳) 俳優

7月8日 竹村健一(89歳) 時事評論家

7月9日 ジャニー喜多川(87歳) ジャニーズ事務所社長

7月18日 天野之弥(72歳) 外交官 国際原子力機関(IAEA)の現役の事務局長だった

9月2日 安部譲二(82歳) 作家

9月3日 長谷川慶太郎(91歳) 国際エコノミスト

10月6日  金田正一(86歳) プロ野球で歴代最多の400勝を達成した

10月22日 緒方貞子(92歳) 日本人初の国連難民高等弁務官

10月24日 八千草薫(88歳) 女優

11月3日 眉村卓(85歳) SF作家

11月29日 中曽根康弘元総理(101歳)

12月4日 中村哲(73歳) アフガニスタンで医療活動や用水路の建設に尽力

12月12日 梅宮辰夫(81歳) 俳優

12月25日 村岡兼造(88歳) 政治家 官房長官などを務めた

村田沙耶香「コンビニ人間」の感想文



 この記事はネタバレはしてないけど、内容について色んな角度から触れている。
 この小説のように、数年前に発表されたばかりのコンテンポラリー作品を読む楽しみの一つは、評価が定まっていない作品と素手で向き合ってまっさらな気持ちで自ら判断するっていうことがあると思う。僕自身今までそういう価値を意識したことがなかったが、この作品を読んでそれを強く思った。なのでこの作品をまだ読んでない人はこの記事を前もって読まないほうがいいと思います。せっかくのコンテンポラリー作品、他人の感想や評価で手あかまみれになったものを読むのはもったいない。
 そう断った上で以下に僕の感想文を長々と書いてゆきたい。


 コンビニエンスストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる有線放送で新商品を宣伝するアイドルの声。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。かごに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。全てが混ざり合い、「コンビニの音」になって、私の鼓膜にずっと触れている。

 本作品の冒頭はこんなふうに始まる。
 なんか、あんまりワクワクするような感じではなく、むしろ不器用な、小説書き慣れてない人の文章、と感じた。作者はコンビニで実際に働いている人だという。そういう人がコンビニの合い間に書いた小説だけど、芥川賞の質もこの頃下がったと言う人も多く、だからこんな素人っぽい小説でも芥川賞とれたんだね、みたいな出だしですね。・・・でも、これでよかったんです。この小説は、社会にうまく適応できてるとは言えない女性の一人称形式で語られる話だが、そういう設定にしっくりくるような、主人公の不器用さ、ぎこちなさをごく自然に表現できている。



 一言で言えば「文学にまだこんな力があるなんて」というのが僕の感想だ。
 読後感は、なんか周りの風景がグニャって曲がって見えるような気分にさせられた。
 この小説にはこれといった事件は何も起きない。殺人も、暴力も、恋愛すら起きない。平凡な都会の日常を発達障害っぽい主人公が、なるべく平凡に生きようとしているだけだ。なのに読み終わった後のめまいのような衝撃。それが何日たっても時々よみがえってくる。この小説のレビューに時々、「ただただ気持ち悪い」という感想がある。それも分る気がする。体の中に異物が入って、それがいつまでも体の中でうごめいている感じは、この小説を歓迎する意思がないなら、僕にとっても「気持ち悪い」としか言いようのないものかもしれない。しかし僕は、小説が今のような時代にもまだこんなに力を持っているとは思ってもいなかった。現代文学の質の低下を言う人は多い。たとえば、柄谷行人は現代文学はもう終ってしまった、私はもう文学には何も期待しない、若い人はもう文学をやる必要はない、などと言っている。僕もこれらの権威たちが言うことを間に受けてました。そもそも小説という手段で今の時代をどう「斬れる」のか?と僕自身が感じてきたということもあるし。100年ぐらい前は社会もわりと単純でハンドメイドだった。戦争も刀と鉄砲と大砲で戦って勝てた。今はそれじゃお話にもならない。同じことは小説にも言えて、日常の人間関係ぐらいなら扱えても、世の中全体の問題には、小説という文学手段ではもはや歯が立たないのでは?って。
 かつて人文学的才能のほとんどが文学に集まってきた時代があったろう、それが今は音楽、お笑い、映画、アニメ、マンガなど表現する媒体は広がり、文学に集まる才能の数は分散した。ちょうどプロスポーツといえばほぼ野球しかないみたいな時代から、サッカーのJリーグができて、昔なら野球に集まった才能が他へ分散し、残った才能も、成功したら米メジャーリーグに行くというのが定番のコースになり、今の日本のプロ野球はメジャーリーグの二軍みたいな位置づけになった観がある。今の文学界も、Jポップ、お笑い、アニメ等の新しい表現手段に乗れなくて時代錯誤的に残っている人たちで細々とやってるのかな、っていう感じを僕は持っていた。ミュージシャンやお笑い芸人が小説を書き、芥川賞をとる人も複数出ている。そして芥川賞作家が、たとえば中島みゆきとか佐野元春みたいなミュージシャンにオマージュを捧げたりしている。
 スタンダールが「ひとはもはや小説においてでなければ真実に到達しえない」と言った19世紀前半とは状況は明らかに違っている。井伏鱒二はどこかで、ボッカチオみたいな人が出てきて、また新しい文学の形を生み出してほしいと言った。安岡章太郎も似たようなことを言っている。村上春樹は河井隼雄との対談で、従来のリアリズムの文学の力がなくなってきている、文学の方法論で分岐点がきている、みたいな指摘があるように、このままでは小説という形式は時代の変化を乗り越えられない。時代が変わるごとに文学の主役は劇とか詩とか、いろいろと変化してきて、近代文学の主役は小説だけど、それも終ったのかなぐらいに思っていたけど、「コンビニ人間」を読んで、そうかこんな小説も可能なのか、と思った。

 読書は僕の人生でとても重要な部分を占めるけど、今の読書は、30歳頃からの読書の延長線上にある。あれを読もうこれを読もうと読書計画を立て、読みたい本、これは重要な本だから必ず読まなきゃ、という本は常に変化し続けているけど、社会科学系の古典、現代社会を解説する時事関係の本、文学の古典、という基本的な線はこの四半世紀変わらなかった。しかし「コンビニ人間」を読んで、その基本ラインを初めて揺さぶられるような気がしている。村上春樹「ノルウェイの森」の中に、外交官志望の、頭はいいけど嫌な奴が出て来ますね。その男が、文学は、すでに評価の固まった古典は読むけど、どう評価が固まるか分らないコンテンポラリーの作品なんか、どうせ大半は消えてなくなるようなものばかりだから読む価値がない、みたいなことを言います。僕もそういう方針でずっと来たんです。毎月何冊も出る新刊の小説の、99.9%は100年後はもう顧みられなくなっているのに、そんなの読んでられるか、と。でもこの本を読んで、もっと早く気づけばよかった、と思いました。現代文学はダメになってるどころではない。すごいことが起ってる、と思いました。これからは四半世紀続いてきた読書方針を変えてコンテンポラリーの日本文学読まなきゃ、と思いました。とりあえず村田沙耶香と、彼女が評価するという山田詠美読まなきゃ、と思います。



 「コンビニ人間」は、主人公・古倉恵子が少し変という意味ではゴーゴリ「狂人日記」のようだし、自らが思いがけない異質な存在になり、戸惑っていて、それがもたらす顛末を描くことで文明批判になっているという意味ではカフカ「変身」に似ている。本当は狂人なのに、世の中全体が狂っているために、社会の一角で重宝がられる存在でいる、という意味では井伏鱒二の傑作「遥拝隊長」っぽい感じもする。ただ違うのは、この主人公は魅力があり読者の同情を集めるということ。これは「狂人日記」や「遥拝隊長」にはない。「変身」の主人公には人々は同情はするが魅力的だとは思わない。「それでいいんだよ」とザムザに言いたくなる人はいないだろうが、古倉恵子にはある。ある人はそのように同情や共感をもって見る人もいるだろうし(僕のように)、しかし、この主人公を「狂人日記」の主人公としてみる人もいるだろう。それによって、結末の意味は変わってくる。これはハッピーエンドなのか、それとも痛烈な文明批判なのか。

 主人公は小さい頃から変な子と思われていて、カウンセリングに連れて行かれたりもした。そのエピソードの紹介の仕方が、「坊ちゃん」とか「星の王子様」の冒頭でなされるように魅力的で、主人公の味方になりたいと思わせるような提示の仕方だ。この本を読んだ人のレビューに、古倉恵子は発達障害、ことにアスペルガー症候群ではないかとしばしば出てくる。僕自身、自分をアスペルガーかもしれない、と疑っているが、共感できるし、主人公はアスペ的だなあと思います。もし100年前に今みたいにアスペルガーとかサイコパスとか○○障害みたいな、何かと人を異常呼ばわりするのが好きな時代だったら、「坊ちゃん」も「星の王子様」のナレーターも、何かに分類されている可能性が高いと思う。実際、「坊ちゃん」は発達障害の一つであるADHDっぽいと指摘する人が多い。ただ、「坊ちゃん」や「星の王子様」の語り手は、確かに変な人であっても、作品の中で主人公は正義は自分のほうにあり、おかしいのは周囲の俗世の人間たちである、と自信満々だ。古倉恵子は逆で、おかしいのは自分のほうだ、あるいは少なくとも譲るべきは常に自分のほうだと自覚している。でも本当にそうか?実は周りのほうがおかしいのではないか?と思えてきたりもする。それをどう受け取るかによって、この本は「星の王子様」と同じように切なくきゅんとくる物語にもなるし、カフカ「変身」のようなおどろおどろしい物語にも、「狂人日記」のようなユーモラス・ナンセンスな話にもなる。作者は芥川賞受賞後に出演したTV番組「ゴロウ・デラックス」で、この作品をいろんな読み方をしてほしいと言ったが、それは、見方によっていろんな解釈ができる作品を作ることに成功したと思ってるからだろう。

 古倉恵子は自分をなるべく普通っぽく見せるべく、自分の本性を隠しながら生きている。こういう設定は小説として面白いですよね。たとえば推理小説の面白さって、犯人が誰かという謎解きの面白さの他に、表面にみえる現実が実は犯人が作った偽装で、真実はその裏に隠されている、という二重性が生む緊張感にもあると思う。「ボヴァリー夫人」みたいに日常の平穏の裏側に浮気を隠しながら過ごすストーリーと同じ緊張感を持っている。
 古倉恵子が隠すものは、犯罪でも浮気でもないし、病気というのでもない。発達障害という最近やっと認知されはじめ、わりと身近にあり、でもまだ充分に認知され切ってるとはいえないものだ。作者は「発達障害」と明示していないものの示唆していることは間違いないと思うが、時代的タイミングとしても絶妙だと思うし、それを社会に対峙させた時の切ないような、可笑しいような情緒を描いてみせ、変なのは主人公のほうということになってるけど、実は変なのは、この不自然な現代日本社会のあり方ではないのか?という文明批判にもなっている。発達障害を社会に対峙させた時に生まれる“化学反応”を独特の雰囲気で(僕はこれが好きでたまらない)、見方によって玉虫色に姿を変える文章で文学作品にできたのは、たぶん「コンビニ人間」が初めてではないか?もしこれに先行する作品があれば、この作品は今や英訳だけでなく色んな言語に訳されているそうなので、世界のどこかでそれを指摘する声が出てもよさそうだけど、たぶん今のところないようだから。
 村上春樹はかつて河合隼雄との対談の中で、複雑な現代をリアルに扱うには、お化けみたいなリアルでないものを登場させるしかない、みたいなことを言っている。しかし「コンビニ人間」はお化けも出てこないし、主人公が虫になるのでもない。この作品は芥川賞受賞後、作者自身を描いたノンフィクションに近い私小説のように受け取る読者が多かったようだが、そのぐらいリアルで、しかも寓話になっている。こんな小説を僕は他に一つも知らないです。
 「コンビニ人間」は、ある朝目覚めたら虫になってなくても成立する「変身」だ。「変身」はドイツ社会の病んでいるさまを描くために非現実的な巨大な虫を必要とした。「コンビニ人間」はそれをもはや必要としない。そんな社会に今はなっているという事実がショッキングだ。



 「コンビニ人間」は章立てが一切ないが、前半と後半に分けられると思う。前半はまるで音楽のような情緒が漂っている。どこかユーモラスだけど、ここから一歩踏み込めば辛辣な社会批評にもなりそうな鋭い棘が隠されている気配もし、同時にしんみりもの哀しいような、感動的なような。ストーリー展開はほとんどないけど、こういう雰囲気のものだったらいつまでも読んでいたいと思いながら読んでいた。
 しかし後半、白羽が出てくるあたりから雰囲気が変わってくる。その変わり方もシームレスで、しっとりした音楽は気が付かないうちに止んでいて、ストーリーが展開していく。前半は主人公の内面が常に意識されているが、後半は、気がつくと主人公を外側から描写する表現が多くなる。小説は最初から最後まで古倉恵子の一人称形式だが、後半は三人称形式で語られててもいいような内容を前半と同じ形式で語っていく。それでいて不安定さや不自然さや違和感を感じさせない。

 他人に伝わりにくいのを承知で音楽にたとえると、村上春樹の作品がヤナーチェクやバルトークぐらいの感じだとすると、「コンビニ人間」の複雑な情緒はもうちょっと時代がすすんで、ショスタコービッチ、ストラヴィンスキー、武満徹という感じがする。村上春樹は片足を現代音楽に踏み入れたけど、もう片方の足はまだロマン派の中に残ってるって感じだけど、村田の作品は、もう両足とも現代音楽にどっぷり入っちゃいましたね、という感じがした。「コンビニ人間」はショスタコービッチ交響曲6番に雰囲気や構成が似てると思いました。この交響曲は3楽章だけど2楽章と3楽章は一体感が強いので前半と後半の2部構成と言える。前半つまり1楽章は内省的で、後半の2楽章に入るとテンポが速く派手になり、3楽章は遊園地ではしゃいでいるように盛り上がって終わっていく。1楽章のロシアっぽい暗さがもうちょっと緩ければ両者は本当によく似てる。

 涙ぐんじゃうようなしんみりした感じもあり、同時に笑いたくなったり、しかしグロテスクさもある。怒り寸前の感情が湧き上がってきたり。この小説のレビューを見ていると「かわいい」という言葉と同時に「気持ち悪い」という感想がよく出てくるが、普通こういう感想は同居しないものだと思う。村田沙耶香の文章を読んでいると、玉虫が見る角度がちょっと違うと別の色に見えるのに似ている。こういう微妙な感じを表現できる作家は、僕は安岡章太郎ぐらいしか思いつかないが、村田もそれができる稀有な文章力を持っているように思う。村田の文章は、ぎこちない感じがところどころにありながらも、これほど文章力という作家としての基礎体力がしっかりしている作家は近代日本文学の中でもそうたくさんいないと思う。文学愛好家のコンビニ店員が書いた小説だと思ってたらとんでもなかったです。村田沙耶香はかなり小さい頃から小説を書くことを人生でいちばん大切なこととして文章を書き続けてきた人で、新人どころではない、すでに熟練の域に達した作家だと思う。なんなら「文豪」と呼んでもいいのではないか。僕は村田沙耶香は「コンビニ人間」一作だけで既に古典作家の仲間入りを果たしたと思う。「野菊の墓」一作で伊藤左千夫の名が記憶されているように、「たけくらべ」で樋口一葉の名が、「五重塔」で幸田露伴の名が残っているように、あるいは「ビルマの竪琴」の竹山道雄のように。

 芥川賞の選評でも、奥泉光は「傑作と呼んでよいと思います」と言っている。
 文芸評論家の小谷野敦も「コンビニ人間」を絶賛している。「「コンビニ人間」は、あまりに面白かったので、一時期、村田沙耶香漬けになっていたぐらい、集中的に読んでいた」「私の中では、芥川賞受賞作で三本の指に入るぐらい面白い小説です」僕はかつて小谷野の文芸評論の本を読んで(レビューも書いた→本の本)、この人とは感性がまったく合わない、と思っていたけど、「コンビニ人間」に関してだけは僕は小谷野とまったく同じ受け留め方をしている。

 他の芥川賞選考委員の選評としては、

 「コンビニという小さな箱とその周辺。そんなタイニーワールドを描いただけなのに、この作品には小説のおもしろさのすべてが、ぎゅっと凝縮されて詰まっている。十数年選考委員をやって来たが、候補作を読んで笑ったのは初めて」(山田詠美)

・「読後に差し込む不思議な明るさに、強く引き寄せられた」(堀江敏幸)

・「その手腕は見事であって、わたしは芥川賞にふさわしいと思った。」(宮本輝)

・「おそろしくて、可笑しくて、可愛くて(選評で「可愛い」という言葉を初めて使いました)、大胆で、緻密。圧倒的でした。」(川上弘美)


「コンビニ人間」は現時点で既に英語、仏語、独語、スペイン語、韓国語、中国語などに翻訳されているが、今後の予定も含めて世界30ヶ国語に翻訳が決定しているという。売上部数は去年2018年10月に102万部を突破したというが、今も伸び続けているのだろう。

 「コンビニ人間」の英訳本ハードカバーのアマゾンのサイトにはマスメディアや作家などの書評が延々と載っている。異例の多さだと思うが数えたら56個もあった。


 どんな書評があったかというと、カフカ、ボヴァリー夫人、それとメルヴィルの短編小説「バートルビー」との類似性を指摘したものが複数あった。
 この英訳本の表紙はミスリーディングだと思うけど、外国人にはエキゾチックに感じられるのかなあと思いきや、むしろ同時代的な共感を強調する書評が多かった。

 アマゾンの商品説明から:

 The English-language debut of one of Japan’s most talented contemporary writers, selling over 650,000 copies there, ・・・(日本のコンテンポラリーの最も才能ある作家の一人の英語版デビュー作品、日本では65万部以上を売り上げている・・・)

 A brilliant depiction of an unusual psyche and a world hidden from view, Convenience Store Woman is an ironic and sharp-eyed look at contemporary work culture and the pressures to conform, as well as a charming and completely fresh portrait of an unforgettable heroine.(特異な精神と、日常の風景からは見えない世界を見事に描いた「コンビニ人間」は、現代の労働文化とそこへの同化圧力に対する皮肉で鋭い考察であり、同時に忘れがたいヒロインの魅力的で非常に新鮮な肖像画)


 アマゾンのサイトに載っていた56の書評からいくつか引用してみると・・・

 A thrifty and offbeat exploration of what we must each leave behind to participate in the world.(我々がこの世界の一員になる時にどこかに置き忘れてきた何かへの、つましく風変わりな模索)―Dwight Garner, New York Times


 Murata celebrate[s] the quiet heroism of women who accept the cost of being themselves.(自分自身である為の代価を引き受ける女性の静かな勇敢さを村田は描いてみせた)―John Powers, NPR “Fresh Air”


 Her story of conforming for convenience (literally) is one that woman all over the world know all too well, as is her family’s pressure to get married and settle down, but Murata’s sparkly writing and knack for odd, beautiful details are totally her own.(文字通りコンビニエンス(社会の都合)への迎合についての彼女の物語は、結婚して社会の居場所を見つけるようにという家族の圧力と同じように、世界中の女性が痛いほどよく知っているものだが、生き生きとした書き方や奇妙で美しい細部の技巧は村田独自のものだ)―Vogue, “13 Books to Thrill, Entertain, and Sustain You This Summer”


 A quiet masterpiece that offers a refreshing perspective on human nature through the disarming observations of a social misfit・・・(社会不適合者の無邪気な観察を通して、人間の本性の新鮮な視点を提示する静かな傑作)・・・ and we come to perceive just how tenuous and unconsidered our own attitudes and constructs are, how curious our claims of personhood, and how odd and improbable our own story.(そして、我々は気づかされることになる、我々の姿勢や態度がいかに薄っぺらで配慮に欠けているか、我々が個性について主張してることがいかに変てこか、そして我々自身の物語がいかに奇妙で非現実的かを)―David Wright, Seattle Times


 ・・・And thus Sayaka Murata has written the 7-11 Madame Bovary . . . This is a love story. Only the love affair here is between a woman and the convenience store in which she works.(村田沙耶香は「セブンイレブン版ボヴァリー夫人」を描いたのだ・・・これはラブ・ストーリーだ。ただここでの情事は女性と、彼女が働いているコンビニの間で行われる)―John Freeman, Literary Hub



 Sayaka Murata’s brilliant Convenience Store Woman can be read as a meditation on the world of personal branding・・・(村田沙耶香「コンビニ人間」は、世界的なパーソナルブランドの潮流に対する思索として読める). . . It has been seen as a Gothic romance between a ‘misfit and a store’ and as a fictionalized account of how young people in Japan are increasingly giving up on sex, to name just two readings. It’s a sign of excellent literature to be able to effortlessly hold up multiple interpretations at once. Murata’s book is no exception・・・(この小説は不適応者とコンビニのゴシック・ロマンスという見方もされてきたし、日本の若者のセックスレス化を描いたフィクションという見方もされてきた。ただこれはいろんな読み方のうち2つだけを示したに過ぎない。一度に難なく複数の解釈ができる作品というのは秀逸な文学のしるしであり、村田の本もその例外でない。)―The Millions


 Convenience Store Woman subverts the status quo with the lowliest of settings and the most unlikely warrior. Cunning and seductive(「コンビニ人間」はとても平凡な設定と、戦士と呼ぶにはほど遠い主人公を据えて常識をひっくり返してみせる。巧妙で魅力的) . . . [it] joins the literature of refusal, along with Melville’s ‘Bartleby the Scrivener’・・・, Beckett’s minimal humans・・・ and Kafka’s hapless office workers・・・(メルヴィル「代書人バートルビー」やベケットのminimal humansやカフカの惨めな事務員のような拒否の文学に連なるものだ). . . Murata’s comedy brilliantly reverses the notion that we lose ourselves as cogs in a machine. In anonymity, Keiko slips the knot of convention. For her, the rescue is in the catastrophe.(人は機械の歯車として自分らしさを失うという考えを村田の喜劇作品は見事にひっくり返してみせる。恵子は人知れず慣習のきずなをすり抜ける。悲惨な結末は彼女にとっては救いとなる。)―Laurie Stone, Women’s Review of Books



 Convenience Store Woman, though spare, holds outsized lessons about worth, work, expectations, and contentment that translate well into our changing U.S. economy. Keiko takes the reader through an eye-opening and unconventional argument about what does―and doesn’t―make a happy life.(「コンビニ人間」は短い作品ながら、価値、労働、社会展望、満足についての思いがけなく大きな教訓を掲げるもので、それは急激に変化する米国の経済社会にも充分当てはまる。恵子は、何が幸せな人生を作るのか―あるいは作らないのか―についての目を見張る、型破りな議論に読者を誘う。)―St. Louis Post-Dispatch


 A slim, spare and difficult-to-define little book, both very funny and achingly sad in turns, told from the point of view of a woman who’s trying to find her place in the world (薄くて短く、定義するのが難しい小さな本、可笑しさと心痛むような寂しさが入り混じる話が、この世界に自分の居場所を見つけようとする女性の視点で語られる). . . This empathetic novel is also a touching exploration of loneliness and alienation, feelings and conditions that, for better or for worse, can be recognized by people worldwide.(共感できる小説であると同時に、世界中の人々に理解できるような孤独と疎外、感情と状況の感動的な模索である。)―Book Reporter


 With its understated prose and frequently deadpan narration, many moments of Convenience Store Woman are simultaneously sweet and darkly funny (無駄のない文章とぶっきらぼうな語り口の「コンビニ人間」は甘く、また同時にブラックな可笑しさもある). . . This slim novel [has] a startling heft(この薄っぺらい小説は目を見張るような重みを持っている。)―New York Journal of Books


 Full of wisdom about our modern age . . . Murata’s brief, whimsical, deeply insightful and pleasantly thought-provoking novel reminds us what torture social life can be for those too honest and authentic to be deluded by its trappings.(現代社会についての英智に満ちている…誠実で純真すぎて、うわべの楽しさに惑わされることのない者にとって、この簡潔で風変わりで深い洞察に富み快く思考を喚起する村田の小説は、社会生活がどんな苦痛でありえるかを、思い起こさせてくれる。)―PopMatters


 Murata’s just-below-the-surface acerbity is most skillfully deployed in examining how what we do distorts what we are . . . The result is more than just brief, breezy, and pithy―it is a look at how extraordinarily frightening ordinary is turning out to be.(自分の行動が自分自身を歪めていくさまを吟味する村田の辛辣さ一歩手前の描写が絶妙に展開していく。その結果は、作品自体が与える印象のように簡潔、さわやか、明快というわけにはいかないはない――ここで我々は、正常なものが実はいかに異常で怖ろしいのもであるかを見ることになる。)―Arts Fuse


 …a thought-provoking commentary on the meaning of conforming to the expectations of society. While Murata’s novel focuses on life in Japanese culture, her storytelling will resonate with all people and experiences.(周りの期待に迎合することの意味について思考を喚起させられる文章。村田の小説は日本文化の中の人生に焦点を合わせているが、その巧みな語り口はあらゆる経験を背景にしたすべての人の心に届くだろう。)―Library Journal


 Convenience Store Woman is a gem of a book. Quirky, deadpan, poignant, and quietly profound, it is a gift to anyone who has ever felt at odds with the world―and if we were truly being honest, I suspect that would be most of us.(「コンビニ人間」は珠玉の作品だ。突飛で、さりげなくユーモラスで、心がひりひりするような、そして静かな深遠さを持っている。この本は、世の中に対して居心地の悪さを感じたことのある人すべてに対する贈り物だ。―そして、もし我々が正直に告白するなら、ほとんどの人がそうなのではないか。)―Ruth Ozeki, author of A Tale for the Time Being


 A darkly comic, deeply unsettling examination of contemporary life, of alienation, of capitalism, of identity, of conformity. We’ve all been to this convenience store, whether it’s in Japan or somewhere else.(現代社会における人生、疎外感、資本主義、アイデンティティ、世間迎合についてのブラック喜劇的で深く人の心をかき乱す考察だ。我々は皆このコンビニに一度は行ったことがある、それが東京でも東京でなくても。)―Viet Thanh Nguyen, Pulitzer Prize-winning author of The Sympathizer


 Convenience Store Woman is snarky and tender. It shows a woman trying to puzzle out how to be normal. This brilliant book will resonate with all of us who find life a little strange.(「コンビニ人間」は皮肉でかつ優しい作品だ。そこには女性が普通になりたいともがくさまが描かれる。このすばらしい本は、人生にちょっと違和感を持っている我々すべての心の琴線に触れるだろう。)―Rowan Hisayo Buchanan, author of Harmless Like You


 One of the finest I have seen in a long time from so young a writer.(こんなに若い作家のものとしては、私が長年にわたって見てきた中でも最高の作品の一つ。)―John Freeman, Literary Hub


 いろんな批評の中で、英語のレビューに「ここ最近で最もすごい才能」みたいのがあったし、小谷野が「歴代芥川賞受賞作品の中でも1、2を争う面白い小説」と高い評価もあった。でも僕自身は、たとえばカミュ「異邦人」って、今読んでもそれほど衝撃じゃないけど、発表時は「こんな人間がいてもいいのか!」っていうような衝撃を読者に与えたという。時代がたつと同時代に与えた衝撃というのは消えていくけど、たとえばゴーゴリが「外套」とかを書いてペテルスブルグの読書界で大ウケしたとか。そういうのは今の僕らが読んでも分らない。でも僕は「コンビニ人間」を読んだ感触から、「異邦人」「変身」などが同時代に与えた感触を想像する。短く言えば僕は「コンビニ人間」をこれら古典作品と同列に並べるだけの価値があると思っている。



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 女性の作家の本を読むと、それが小説でも、自叙伝でも、エッセイでも、あるいは文化人類学のような社会科学系の本でも、「ここに世界がある!」とアピールしてくる引力のようなものを感じることがとても多い。そこには男の作家からは感じたためしがないような魅力がある。川端康成の小説は女性が主人公のことが多く、しかも非常に上手く書けていて魅力的だが、豊かな大地からすべてが生まれる、ここが世界の中心だ、というような女性ではない。「雪国」や「温泉宿」のように、滅び行くことが示唆される女性だ。滅び行くというほどではなくても「千羽鶴」や「山の音」のように、少なくとも彼女たちの未来はとてもふくよかなものとはいえないだろうなあ、という、川端がいかに女性を描くのが上手くても、上で僕が言ったようなふくよかさ、ここが世界の中心だ、とアピールして引力を出しているようなものではない。
 女性作家の作品から、滲み出てくるとしか言いようのない、豊饒な大地感みたいなものはどこから出てくるのか?女性は主観的、感情的な書き方をするからだというのでもない。感性的に書く萩原朔太郎とか梶井基次郎、あるいは主観的と言われる私小説作家からはそういう豊饒な世界の中心みたいな感じはまったく滲み出ていない。
 陳腐なイメージかもしれないが、生命は女の体の中からしか生まれない。そういう肉体の感覚が文章にも表われるのではないかと思う。全人類がほぼ滅びて、自分と他に数人だけ生き残ったとする。女性は自分で子供を産み、その子供たちがさらに子供を産むことで再び人類が繁殖していく、みたいに、自分が人類の祖、みたいな妄想を女性は抱くことが可能だが、男には不可能だ。男だって、すべての女性の相手となり自分の子孫を殖やす、という雄ライオンのような妄想はできるが、それは「自分の体の中からすべてが生まれる」という感じではなく、征服者の支配欲みたいな感じだ。いわば、世界というのは、男にとっては出かけて行って獲得するような外部的なものだが、女にとっては自分の内側から始まりうるようなものではないか。だから男性の著作物は「行くぞ!」みたいな感じだけど、女性の著作物は「私のところにいらっしゃい」みたいな感じを受けることが非常に多いんだと僕は思っている。女性の著作物に関しては、魅力的であればあるほどそういう感じを受ける。男は、昔の武士だったら武器を持って遠征して、新しい土地を獲得した。あるいは、学者だと、武器のかわりに原理とか理論を掲げて、この世界を今まで誰もしなかったような仕方で解釈したりする。

 従来は文学に集まった表現の才能が今は他の新しい表現媒体に拡散して文学に集まる才能の数が昔より減ったと上で述べたが、しかしそれを補って余りあるぶんだけ女性が進出している。僕はうかつにもそれに気づかなかった。というか女性作家の本は主に女性の問題を扱ってるだろうから僕には関係ない、ぐらいに思っていたのかもしれない。

 芥川賞と直木賞はともに1935年に始まった。今年2019年で84年目だが、最初の52年間は選考委員は男だけだった。1987年に初めて両賞に女性の選考委員が登場した。今では両賞とも選考委員はだいたい男女半々ぐらいになっている。

 以下は2019年7月13日の産経新聞のサイトの記事「女性作家初独占の「直木賞候補」異変の裏側」https://www.sankei.com/life/news/190713/lif1907130001-n1.htmlから一部を抜粋して引用したものです。

 第161回芥川賞・直木賞・・・が意外な形で注目されている。直木賞候補を女性作家の6作が占めたからだ。候補者が全員女性となるのは芥川賞を含めて初めて。近年の女性作家の躍進を象徴するような出来事…

過去160回の両賞受賞者に占める男性の割合は7割強に上り、全体として男性優位の傾向にある。

ただ、「平成」以降の受賞者だけに着目すれば事情は大きく変わる。直木賞受賞者78人のうち女性は27人で、女性の比率は約35%にまで上昇。芥川賞に至っては、受賞者67人のうち女性は28人で、女性の割合は約42%となる。

1996(平成8)年には芥川賞を川上弘美さん、直木賞を乃南アサさんと両賞を初めて女性2人が独占した。これまで男性作家の多かった社会派ミステリーなどの分野でも、高村薫さんや宮部みゆきさん、桐野夏生さんらがベストセラーを連発していった。「男性の“専有物”のようだった時代小説にも次々と女性作家が新しい視点を持って入ってきた」と文芸評論家の伊藤氏貴さん。その流れは今も続いている。

 文芸評論家の斎藤美奈子さんは著書「日本の同時代小説」(岩波新書)の中で、90年代を「女性作家の時代」と総括し、背景事情をこうつづる。〈八〇年代のさまざまな実験を経て、九〇年代初頭、文学界の周辺では「もう書くことは残っていない」とさえ囁かれていました。しかし、有形無形の壁にはばまれ、差別と偏見の中にいる女性には、書くべき材料がいくらでもあった。書かれていないことだらけだった〉

 伊藤さんも「今の世の中は女性にしか書けない問題をたくさんはらんでいる」と話す。相次ぎ発覚した女子受験生らを不利に扱う大学医学部の不正入試はその典型だという。
(以上引用)



 つまり、男にとっては当たり前の社会に、女は異議、異論をたくさん持っている。女は男の価値観をもとに作られたこの社会で「他者」である。


 カール・ポパーは、命題の普遍性は、命題が反証可能なかたちで提起されていて、それに対する反証が出てこないかぎりにおいてあると考えた。そして、彼は、カントの中にそのような思想が潜在していることを評価した…ある命題が普遍的であるのは、それを反証するかもしれない「他者」を現在及び将来に想定することによってのみである。(柄谷行人「トランスクリティーク」p67)

 ある普遍的にみえる命題を反証する「他者」って、みんなが一つの輪の中にいて、その輪のいちばんキワにいる人、というイメージが浮かんでくる。そしてそれは古倉恵子が置かれた立場と重なる。恵子は、人間集団の中心ではなく、キワのほうからみんなを見ていて、自分の背後にはもう誰もいないと感じている。だから孤独である。白羽も相当おかしいかもしれないが、基本俗物であり、恵子とは何の共鳴も生まない変さである。

 カント…もまた、基本的に、趣味判断が一方で主観的(個人的)でなければならないことを認めながら、なおそれが普遍的でなければならないと考える。…ここで、カントは、「共通感覚」をもちだしてくるのだ。それは歴史的・社会的に形成される慣習である。たとえば、ヴィーコは、共通感覚を、ある階級、ある民族、ある国家、人類の全員が共有する、いささかの反省をも伴わない判断力、とみなしている。・・・共通感覚は歴史的に変化するが、たんに連続的に変わるものではない。それを変えるのはこの共通感覚に対立しそこから逸脱するような諸個人―天才―である。しかし、カントはそれを趣味判断―芸術にだけ限定している。(柄谷行人「トランスクリティーク」p61-62)

 ここに引用した柄谷の文章は、カントが、主観的である芸術において普遍性がいかに可能かを考えた、という文脈の中でのものだが、その普遍的真理の何歩か手前の「共通感覚」に異議を唱えこれを変更する「他者」がいて、そういうことができるのは芸術の分野では「天才」だけだとカントは言ったそうだ。こういう「他者」として文学の世界に女性が進出してきたと言えよう。村田沙耶香あるいは現在活躍している女性作家たちが天才なのかどうか僕は知らない。しかし天才でなくても「共通感覚」は変えられるのではないかと思う。
 ヘッセの小説「荒野のおおかみ」にはこんな言葉が出てくる。「…ある世代全体が、二つの時代と二つの生活様式のあいだにはさみこまれてしまうといった時代があるもので、そうなると、どんな自明なことも、どんな風習も、どんな安心感と無邪気さも、その世代からは失われてしまいます。もちろんだれもがそれをおなじ強さで感じるというわけではありません。ニーチェのような人間は、現代のみじめさを一世代以上も人に先んじて、悩まなければなりませんでした――ニーチェがだれからも理解されずに、たった一人で味わいつくさなければならなかった苦痛を、今日では何千という人間が味わっているのです
 これは時代の変化と天才の関係についての考察だ。「二つの時代と二つの生活様式」の間にはさまれた時代というのは、「共通感覚」が変化せざるを得ない時代だろう。その変化にいちはやく気づくのがニーチェのような天才だけど、一世代たつと何千人も気づくようになり、みんな気づく頃には時代が、したがって共通感覚が変化しているだろう。では共通感覚を変えたのは誰かというと、それをいち早く指摘した人かもしれないけど、指摘する人がいなくたって、やがてひとりでに変わっていくんじゃないだろうか?女性という他者が多数で社会に入ってくればそれまでの共通感覚は当然変更されていくからだ。

 村田沙耶香が提示した古倉恵子は当時のニーチェほど、一世代先立ってはいないが、フリーターで一生を過ごそうという人は、昭和時代には、一般的に、いなかったと言っていいと思う。たとえば、70年代終わり、堺屋太一が、これからは一生正社員にならずアルバイトなどで過ごす人が一般的に存在するようになる、と言った時、僕は「本当かなあ」と思った。僕が20代で会社を辞め、その頃出来たばかりの新語であったフリーターというものになった時、「フリーターで暮らしていけると思う?」って何人かの人に尋ねたのを覚えている。その後、大変な不況が来た時などに「やっぱ不安定な職は不安が大きいから正社員の仕事捜そうかなあ」って考えた時もあったけど、けっきょく50代半ばになる現在までほぼ非正規雇用で働きながら生きてきた。つつましく平々凡々という感じだったが、こんなふうに一人の男が何の専門性もなく定職もなくてもとにかく生きていけるんだ、というのは、僕にとっては自分の人生を使ってやっと最近になって分った事実だ。つまり、随所随所で不安につきまとわれるような実証実験をやったという感じだ。「コンビニ人間」の古倉恵子の場合は、女性版でこれをやっている。やっぱ先行する世代にはない生き方なので恵子もまた不安いっぱいで生きている。それはニーチェのように時代を先がけてはいないが、リアルタイムで、スキルのない非正規で独身で生きて行く中年女性を描き、そこから社会の共通感覚を揺さぶってみせたのだ。見事というしかないと思う。



 天才といえば、クレッチマーは天才は男にしか出ない、天才的な女がいても、それは男性化した女、もしくは間違って女として生まれた男だ、みたいなことを言っている。しかし日本の文学には、紫式部という天才がいる。日本文学の最高峰は何か、という問いにはいくつもの答えがあるが、「源氏物語」ということにしておけば最も異論が少ないだろうと思う。1000年前に書かれたこの作品が今もそんな地位を保っているのだから、その作者は天才と言ってもいいと思う。同時代の、勝ち気で男まさりな清少納言と対照的に、「紫式部日記」を読むと彼女は男性的どころかそれとは正反対の、控え目で自信なさげで、とっても女性的な女性だったという印象を受ける。


 以下は僕の頭の中に常にあることで、それがどこまで正しいのかは分らないがとにかく書いてみる。

 西洋の女性の祖先は、聖書によれば、アダムのあばら骨から、アダムの慰み者として作られたイブ。日本の女性は、アマテラスという女神が最初。男の存在より先んじている。アマテラスは天上にいる神様だが、この地に降り立った最初としては、イザナギという男とイザナミという女だが、女のイザナミは、イザナギを表では立てながら、裏では主導権を握っている。

 古事記によれば、ある日イザナギとイザナミが出逢った。声をかけたのは女のイザナミのほうだった。「私の股間は凹んでいるが、あなたの股間はどうなっているか?」と。これに答えて男のイザナギは、自分の股間は凸だという。それでイザナミは「私の凹とあなたの凸を合わせたらどうか?」と提案し両人は交合した。その結果、子供が生まれたが、それは背骨のない蛭(ヒル)だった。イザナミはそれを捨て、再び提案した。「これは女の私のほうから誘ったのがいけなかったのだ。今度は男のあなたのほうから誘いなさい」と言い、二人は一旦別れ、また再び出逢った時、イザナギは、イザナミに言われた通り、私の凸とあなたの凹を交合させよう、と提案し、交合した結果、今度はちゃんとした子供ができた。それが淡路島だという。その後、四国や九州、本州が次々にでき、今の日本が始まったという。
 僕はこういう神話はその民族の性質をとても良く表わしていると思う。日本の女は、頼んでもないのに男を立てて前面に押し出し、自分たちは裏で男を操る当然の権利があるとでも思っているようだ。僕はそんな目に会うたびに彼女たちはイザナミの末裔だと思わずにいられない。僕は東京人・夏目漱石が「虞美人草」を書いた気持ちがひりひりと分る気がする。この小説は不自然なところの多い、ムキになって書かれたという感じの小説だが、内容は、男を完全に操ることができると信じて疑わない美女・藤尾をやっつけて溜飲を下げるという話だ。そのやっつけ方も不自然この上ない。当時は明治開国の、理念先行(つまり演繹的)で日本には珍しく男性原理が多く働いていた時代だが、その時代ですら、男が女を負かす話が、ここまで不自然になってしまうのだ。そして漱石は晩年、「道草」を書いて、あ、けっきょく女性原理には勝てませんでしたね、となる。最後の作品「明暗」なんか、女性は、男性の運命を宣託する神様のようである。

 以前、河合隼雄の対談でこんな話を読んだことがある。米国では家庭内暴力が問題になっていて、被害者の女性が相談所に来るのだが、男性が相談に来たという珍しいケースがあったという。夫婦喧嘩をしても、気がつくといつでも理不尽に妻の支配下に置かれることになってしまいノイローゼになっているという相談だったが、詳しく聞いてみると、その妻は日本人女性だったという。象徴的な話だと思う。


 西洋では女性の社会進出が日本よりはるかに進んでいるが、女性が女性として社会に進出しているか?たとえばアメリカはオバマ大統領のように黒人大統領が誕生したが、黒人は白人化することでしか社会で地位を築けないと言われている。同様に女性も、社会進出を果たした代わりに男性化したという指摘も多い。
 もしそうだとしたら、日本が国際的に遅れをとっているところの「女性の社会進出」なるものは、女性にとっても不自然に男性化するという無理を強い、男にとってもそんな女性を見てがっかりすることが多いので、それは多くの人にとって理想のあり方とは言えないのではないか。「そもそも男らしさ女らしさ、という考え自体が性差別の結果できた概念だ」という意見もあるのかもしれない。性差を意識せずに働きたいという女性を受け入れる社会を作ることは大切なことだと思うが、もう一方で、女性であることを意識し楽しみながら生きたいという女性が多くいることも確かだ。今の「女性の社会進出が進んだ国」というのは、前者のタイプのためのものであって、後者のタイプを受け入れるようになってはいないのではないか。その場合、女性が女性らしいまま世の中で地位、居場所を確保するようにすることで、日本は他国になかった女性と社会の近代的関係を築ける可能性があるのではないか?

 NZは世界で初めて女性の普通参政権を認めた国で、女性の社会進出もすすんでいるが、だいたいキツい女性が多いという印象を僕は持った。勝気で、よく言っても「女性性をある程度残している」という感じで。アジアでは香港がいちばん女性の社会進出が進んでいる場所の一つだが、香港はNZと比べると、社会に進出した女性も、わりと女性っぽさを残している気がする。東アジアの中では、南へ行くほど女性原理が残されているという話をどこかで聞いたことがある。今、香港の歴史的なデモの指導者の一人、周庭という20代前半の女性。この人は日本のアニメなどが好きで見ているうちに日本語を習得し、ツイッターで日本語で情報発信している。香港警察の横暴についての情報が多いが、あの命がけのデモをしながら、時々は「二宮君が結婚したというニュースを私を悲しませないように周囲の人が教えてくれなかった」とか「たこ焼きがうまくできない」みたいなgirlyなツイートもする。今年目だったもう一人の若き女性リーダー、グレタさんは逆の極端な例かもしれないが、西洋の政治的女性リーダー、メルケル首相、ラガルド専務理事、メイ前英首相などからは想像できないようなgirlyな感じを周庭さんは持っている。
 鈴木大拙は「西洋の底には父がいて東洋の底には母がいる」と言った。日本は女性原理優位な社会とよく言われるが、その中でも関西は比較的男性原理が優位で、関東は女性原理が優位だと僕は感じる。


 僕は関東に住んでいた頃から、関西の女性のほうが颯爽としていると感じたし、関西移住後もその印象は変わらかった。でも関西の女性と関東の女性を比べたら、関東の女性のほうが女性性をたくさん持っている人が多いと思う。西洋の女性のが東洋の女性より勝気で気が強いようにみえるのと同じような対比を、僕は関西と関東の間においても感じる。僕はNZに一年住んだ後に関西に住むようになった者だが、東京だけが日本じゃないんだな、日本にはこんな面もあるんだな、と思った。関西は西洋と東京の間にある文化圏という感じがした。

対比:
 男性原理が優位な場所 : 西洋、 北東アジア、 関西
 女性原理が優位な場所 : 東洋、 南東アジア、 関東


 西洋の女性は実はは強がっているだけで、無意識のどこかで、やっぱ男にはかなわない、という感じを持っていて、それを抑え付けて頑張ってる気がする。関西の女性もそうで、男と女と比べたら、やっぱ男のが上だ、だから負けてられるか、という気の張りを感じる。しかし関東の女性は、心の底のほうまで探っても「男にはかなわない」なんてコンプレックスはないんじゃないか、という気がしてしょうがない。イザナミみたいに男に譲ってみせるけど、裏で男を操るのは女のほうだ、と当然のように思ってる女が多いのではないか。それが英国社会という男性社会を知った上で東京に生きた漱石には気に入らなくて「虞美人草」を書いた、というのが僕の説だ。

 なぜこんなことを書くかというと、村田は関東の女性なのだ。芥川賞受賞後にメディアに登場した彼女はか弱く、とても女性的な人であって、気を張って男の中で与していこうという感じをまったく受けない。いかなる意味でも男性化していない女性にみえる。
 彼女は単に関東の女というだけではない。千葉県出身である。

 千葉県は地理的にはほとんど東京なので東京と違いはないようにも思えるが、たぶん房総半島があるせいだろう、他の場所にはみられないような独特のキャラの人が多く誕生する県のような気がする。まろやかな人あたりで、個性をことさら出してくるキャラとは正反対で、スマートな印象もなく、マイペース型で、自己演出をするタイプとはほど遠いが、にじみ出てくる独特の味。人付き合いにあまり関心のない僕が生涯で唯一親友だと思った男(20代で死んでしまったが)が千葉県出身であった。こんなキャラの男と出会えるのはたった一度きりだと当時から思っていた。有名人でいうと野田元首相。乃木坂46の高山一実。そしてスタップ細胞騒動の小保方晴子さんも、すごく千葉の女、という感じがする。・・・あまり深く考えずに書くが、東京はあまりにもいじられ過ぎて、関東ではない要素もたくさんあるだろうし、外部との化学反応で東日本的なものがグロテスクな形で露出してる部分も多く、また一部ではたしかにかの地独特のいい味を出す人もいるだろうけど、たぶん外部からの刺激に触れていない場所が東京より多いから千葉県には女性原理優位の東日本のいい味を出す人が出てくるんじゃないか。しかし千葉がなぜ埼玉や神奈川と違ったああいう感じなのかは分らない。とにかく村田沙耶香はすごく千葉県出身であると感じる。

 なぜ千葉、千葉と言うのかというところ、上で長々と書いたことをここでまとめながら説明すると、近代文学が行き詰まった時に、文学の世界にまとめてどっと女性が入ってきた。文学全集をみても明らかなように、そこは男が作り上げてきた世界だ。そこに他者としての女性の創造性が、近代文学の行き詰まりをブレイクスルーしたのではないか。イブの末裔は、アダムに対して新しく勝ち取った平等の権利を主張することにエネルギーを使いすぎて他のことに手が回らない。しかし日本の文学界に女性が大量に参入したことは、イザナギを陰で操ることに腐心してきたイザナミが、ついに自ら表現し出したということを意味するのではないか。そして、女性原理の強い東日本の、ことに変な人が多い千葉県(←けなしているのではなく誉めている)からこういう人が出てきたか、という感じである。

 男性的な演繹法ではなく、理念を掲げることなく、帰納法で達成するのも千葉県的である。乃木坂46の高山一実が計算してああいうキャラなのではなく、なぜかああいうふうなのと同じく。


 村田の小説に対する姿勢を彼女の発言から探っていくと・・・


西加奈子との対談から

もともとは人目をすごく気にする子供で、普通になりたいとばかり思っていました。・・・なにもかもうまくできないし、その自意識に苦しめられて、みんなを観察して真似っ子してできるようになりたかった。そのなかで小説を書くことだけが、人目を気にしないでできる唯一のことだったんです。その聖域を汚したら、もうあとは死ぬしかないぐらいの気持ちでいましたね。


私は小学校時代から小説を書いていたんですが、クラスの中でなにも言えない卑怯さを、まるで吐くように、すべて小説にぶつけて書いていました。そのときは少女小説家になりたくて・・・それで私もデビューしたいと、応募するための小説を書くんですが、そのとき小説を汚したと思いました。なにか狙って書くなんて、あさましくて、汚いことだと。教会で祈るように小説を書いていたはずなのに、そこで自己承認欲求を満たそうとするとは、なんて醜いんだろうと。そのときから、小説を書くことにおいて他人にどう見られるかを気にする態度は捨てたんです。


幼少期から「本当の本当」が口癖でした。「本当」のまだその奥にある「本当の本当」のことが知りたかった。空想癖があり、それを紙に書きとめているときに、自分の手には負えない、自分が考えること以上の領域のことがここで起きるとわかって感激したことがあったんです。大人の作家になってしまえば、コントロールできない物語の動きなのだと説明できますが、子供の頃にその力に引きずられたとき、ここに私が知りたい「本当の本当」があるんだと宗教みたいに信じられた。それが小説にとりつかれるきっかけです。・・・なので、いまでも小説を自分で全部コントロールするのではなく、力に引きずられたい。結末を決めずに書くのもそうです。



インタビュー「私にとって、コンビニは世界への扉でした」から

・(「殺人出産」という村田自身の小説について)すごく狂った本ですね(笑)。なんで人を殺しちゃいけないんだろうとか、なんでふたりきりで付き合うんだろうとか、小学生が思うような無邪気な疑問を、大人になってもう一回小説にしてみました。


既成概念が壊れると、自分自身でも書いていて発見があるというか。やっぱり自分の中にも既成概念がたくさんあると思うんです。インド人の人はカレーが好きなんじゃないかとか。家族に対しても、性愛に対しても、何に対しても、そういうものをひとつひとつ壊していく喜びがあるかもしれないですね。書きながら壊してみたい、そういう実験をしてみたいという気持ちがあるんだと思います


自分でも何が起こるか分からない実験をしているような感じで書いていたら、不気味になるという実験結果が出てしまったという感じです。


なんか、マッドサイエンティストみたいな気持ちになることがあります(笑)。小説家というよりは、なんかよく分からない実験をずっとやっていて、「こういう結果が出ました」とグロテスクなものをどんどん出してくる。なんか変な感じです。






 以上の引用には、村田沙耶香の小説に対する態度がはっきり出ている。文章を書いているうちに自分でも思ってもみなかった考えが出てくるというのは、決して珍しいことではない。そこに神秘的なものを見出すことも、やはり珍しいことではない。鈴木大拙が話していたことだが、何か書いているうちに自分の意思を超えたことが出てきてそこに神のお告げを見出して「お筆先」と呼んだ宗教もあったという。それは書くだけではなく、人とお喋りしてる時、1秒前まで思いつきもしなかった新しいアイデアを、喋ってる最中に思いつくということも、たぶん誰にでもある経験だろう。「ブレーンストーミング」もこの原理に頼って成り立っている方法と言えよう。そして小説家が、書いているうちに登場人物が勝手に動き出す、という話もいくらでもある。村田もまたそうなのだが、ただ、それに気づくのが人生の異様に早い時期だったと思う。小説家として幸運なことだったろう。そしてそれをあてにして、あえて結末を考えずに小説を書くという。この「コンビニ人間」の場合、前半の、情緒たっぷりの音楽のような部分をまず書いたのだろう。それはきっと散文詩を書いているようなうっとりする経験だったのではないだろうか。そしてそこまで書くうちに、自然に後半の展開が出てくる、と村田はあてにすることができる。これは村田自身の意識がコントロールできない部分で、それは「千葉県の女」性とでも呼ぶべきか、ひょっとしたらイザナミも混じっているかもしれないが、とにかく村田沙耶香というあまり冴えない感じの女性は、自分の中にとてつもないものがあり、それとコンタクトをとる方法を確立しているというのは、これまで彼女が生み出した作品の高評価が示しているのだろう。

 そしてさらに、村田が言うところによると、マッドサイエンティストみたいな実験を小説でして、それで結果が出るところまでこの方法論が確立しているようなのだ。何の実験かというと、世の中の、子供ぐらいしか疑わないような、当たり前の常識を疑って、それに反したことを書いてみる。これは上で引用した柄谷の文章によれば、天才しか変えることができない「共通感覚」を揺さぶる試みをして、それなりに成果を上げているということになる。

 僕はまだ彼女の作品をほとんど読んでないが、ほんのちょっとだけ読んだ感じでは、作品によってずいぶん印象が違う。こんな感じを持ったのは、僕は中学の時に漱石の、最初「坊ちゃん」を読み、次に「三四郎」を読んだ時、同じ作者なのにこんなに違うものが書けるんだなあと思って以来である。

 僕は文学を専攻しようとして結局社会科学を専攻した者だから、かつては文学を内側から見てた時もあったけど、今では社会科学を専攻した者として文学を外側から見てる気になってる。そうすると、なんかホッとするんですよね。文学の内側にいながら文学を全否定するのは自己否定的な痛みを伴い耐え難い気がするけど、社会科学の足場から他人事のように文学を見たら、否定も肯定も自由に気楽にできる気がするのです。
 それで、僕が今まで文学ってどんな時に価値があると思ったかというと、たとえばNZにいた時は、この国は英語喋ってキリスト教で、国家元首がイギリスのエリザベス女王で、イギリスやオーストラリアとどこが違うんだろ?って思ったんですけど、キャサリン・マンスフィールド読んで、「あ、この国をこの国として愛する人たちがいる」というのを実感したんです。実際そこで暮らしても感じられないものを感じさせる文学ってすごいなあ、って思った覚えがある。ある時は安岡章太郎のエッセイを読んで、社会科学者が数十ページを割いて論じるようなことを分脈の中で、たった一言で同じ結論を説得力をもって示すのを見て、文学の力ってすごいなあ、とか。サン・テグジュペリ「夜間飛行」の序文でジッドは、この作品は「人間の幸福は、自由の中に存在するのではなく、義務の甘受の中に存在するのだという事実」を示した、と言っている。そういうものは、たぶん社会科学では示すことが容易ではない。また文化人類学で、たとえば日本人の特性を論じる時、実例ではなく、漱石の小説の一節をとって論じることもある。(漱石はこういう用いられ方をよくされる小説家だ。)また経済学者はデフォーの小説「ロビンソン・クルーソー」を好むと言われるし、教育学者はルソー「エミール」を研究する。マルクスはバルザックを読んで社会を洞察しようとしたというし。社会科学者は実例よりも文学作品を材料に考察することがよくある。そういうことによって、文学ってすごいなあ、みたいな感じ方を僕はしてきた。この記事の最初のほうで引用した柄谷が現代文学はもう役目を終えた、みたいな言葉もそうだけど、社会にどれだけ貢献するのかってことで文学の価値を測ろうとするのがそもそも文学に対する社会科学の優位性を前提にした見方ではないか。社会科学者としてなら、そうでもいいけど、でも文学には文学の自律的価値があるはずだ。つまり、社会とかに貢献するとか役に立つとか立たないかとは独立した文学の価値がなければ、文学は何かに従属した存在でしかないことになると思う。
 たとえば数学の価値は世の中の役に立つから重宝されるのだろうが、しかし役に立とうが立つまいが数学の独立した価値というものがあり、それが数学を根底から支えているのだと思う。今の数学の基礎である古代ギリシャ数学は実用から離れて純粋な思索や論証のために発展し、それがたまたま結果として色々役に立つに至ったというだけだ。宗教だって、宗教ビジネスが儲かるとか市場で需要があるという理由で価値があるのではなく、それ自体が価値があるから結果として市場でも価値を持つのであって。そして音楽はじめ芸術にもそれがあり、文学にもそれがあるはずだ。なくてはいけないはずだ。僕は今回はじめてそういう考えを持つようになった。(村田は、上に引用した対談の中で、小説を宗教にたとえ、祈るような気持ちで書く、他人にどう見られるかという態度は捨てた、と言っている。こういう態度からのみ、真の価値、革新性が生まれるのではないか。)フェルマーの定理が証明されたことに価値があるのもそういう観点からだろう。量子計算機の実用化のような実用的価値とは別のチャンネルで数学独自の価値というものがある。村田はそういうところを見つめているし、それが数学とかではなく人間に関わるところで起きている。

・・・そしてそいういうところから再び社会的分脈に戻ってきて、僕は、女性の産まない問題、ここにはとにかく産め、というプレッシャーではなく、村田のような文学をかみしめて、その上でセクシーに解決していく問題だと思う。
 環境問題のセクシーな解決策と言って一部の反発、失笑を買った小泉環境相だが、僕はこの発言を積極的に支持したい。英語は、日常で使う形容詞の数は日本語に比べてはるかに種類が豊富だが、その形容詞の選び方のセンスも好きですねえ。それで環境問題だけでなく、少子化問題もセクシーな解決策を模索すべきだと思う。つまり、どこかの学校の校長先生が、女子は二人か三人子供を産んで下さいと言って非難された。僕は内心、この校長の言うことは正論なのに、非難されて気の毒だ、なんて思ったけど、村田の作品を読んでから、見方が変わりました。つまりこの校長の言うことは間違いじゃないけど、セクシーさのかけらもないんだよね。社会の必要のためにしたくもないことをするのは、“社蓄”ならぬ“国蓄”になることを意味する。

我が70年の投資哲学(長谷川慶太郎)



 長谷川の生前に出版された最後の本です。

 長谷川は2009年の動画の中で自分はここ30年ほどの間に250冊の著書を出したと言っている。それから10年たっているが、彼は年間、多い時は10冊近く本を出すので、けっきょく彼の著書は300冊前後になったと思われる。

 長谷川の本はたぶん著作活動の前半はスタイルに変化があり、後半、僕が読み始めた90年代半ば以降は形式も感じも安定して変化がなくなったと思う。それが彼が行き着いたスタイルであり、こんな感じが好き、というより、彼そのものだったのではないか。それについて僕がどう思うかというと、好きなことをやりながら91歳で死ぬまで現役だったのは稀にみるような幸せな人生だったと思うけど、同時に、これ以上の新たな展開っていうのがないだろうなあ、というのは、たとえそれが好きでも、きついというか、どこか虚しいものがあるんじゃないかなあって。もちろん僕の勝手な意見なんですけど、その意味は、こんなに理想に近いような人生でも虚しさを感じさせるものがあるなら、虚しくない人生なんてどこにあるか?という感じ。ディスってる積りは全然なくて、長谷川は僕が社会に出て、社会人であるという自覚が出てからずっと僕の先導者として見ていて、別言すれば人生の理想像かも、って思ってたところもあるから、自分の中の一要素を批判的にみてみると、っていう感じでそう申すのである。

 で、僕が思うに、彼は全力を注ぎすぎたから抜本的なスタイルの変化を作る余裕がなかったんじゃないか。どこか少し余裕があってサボッたり力を抜いたりするところに、新たな遊び心が心に入ってきて、それがやがて今までの自分の世界をガラガラガッシャーンとひっくり返す、みたいな余裕をどこかに持つべきでは?たとえばビートたけしは70歳過ぎて事務所をやめ、離婚し、別の人と再婚というのは、まだそんな年になっても新たな展開をする人なんだなあ、と感心してしまう。

 長谷川の本の話に戻るけど、彼の300冊の本はどれも充実していて、それこそ自己実現の連続の全力投入だったのではないか。だからこの「わが70年の投資哲学」もいつもと変わらぬ調子である。ただ、特別な感じというのもある。本書は約190ページだけど「1章 買える企業と買えない企業の見つけ方」が120ページぐらいで全体の過半を占めるんだけど、これはいつもの長谷川の本と同じで時事的な要素の本。今この会社がどういう調子だから買うべき、買ってはならない、という感じだから、10年後には基本的に読む価値はなくなる。しかし続く2つの章、「2章 私の投資哲学」(約30ページ)と「3章 私の投資法―会社四季報のどこを読むか」(約20ページ)は、時事的なものではなく、ずっと価値を失わない内容なんだよね。でも書いてあることは骨太で、決して珍しいこととか秘伝みたいなことが書いてあるわけではない。ある意味当たり前のことなんだけど、でもこれが最後の本というのは長谷川らしいなあって思っちゃいました。ちなみにあと数日後、10月11日に「2020長谷川慶太郎の大局を読む」が出る予定。これがたぶん本当に最後の本ということになるんだと思う。「大局を読む」はいつも秋の前半に出るので、9月3日に死んだということは「2020大局を読む」を用意した直後という感じだと思うので、タイミングとしては良かったと思う。91歳だから、人間である以上いつかは死ななきゃいけなかったからね。

 この本を読むと株式の勉強が何なのかがよく分る。相場はけっきょく上がるか下がるかの2択でしかないが、その上がる下がるをめぐって、人間は未来のことが分らないから、いろんな分析や研究をしてその未来の上がる下がるの予想を試みる。テクニカルの勉強もある。デリバティブの仕組みもかなり勉強が必要だし、各種指標がいつどんな形で公表され、それはどんな意味や影響をどの相場に与えるかを覚えるだけでも果てしない勉強が必要だと僕には感じられる。そして日々そういう指標や相場を左右する各国要人の発言は、地球上のどこかは必ず昼間なので24時間果てしなく行われる。というか日本の真夜中にあたる時間は世界の中心たる欧米の昼間なので、相場はかえって昼間よりも真夜中に動いたりする。そしてそれらをフォローするだけでもフルタイムの仕事、というか睡眠時間を犠牲にするような仕事だ。そしてそんな仕事の中には、長谷川のこの本に書かれているような各企業の分析は含まれていない。というか、だいたい指標や要人発言は、デイトレード用だと思う。それが出た瞬間あるいはその後数時間に起る変化の中で利ざやを得ようという感じだが。長谷川のやり方は株の中長期保有で利益を出すという方法なので、短期のテクニカル分析ではなく、もっと実のある、社会の勉強といった意味あいの勉強が必要となる。そして、長谷川がここに分析した内容は、いってみれば種も仕掛けもないが、しかしこれだけの勉強をしている人はそうそういないだろうな、と思わせるものがある。僕には無理だが、こういう社会の勉強をし、それがカネになるという世界もいいものだな、と思う。

 本書第1章で、具体的に「この株は買うべき」「買ってはいけない」「持ってたらすぐ売れ」みたいな話は、ぜんぶ日本株だけで、外国株の話はまったく出てこない。そして投資といってもいろんな対象がある。商品とか先物とか外国為替とか、土地、デリバティブ、国債、社債いろいろある中で、日本株の話ばかりしている。その理由は第2章に出てくる。

 株式取引にも国内と海外があるが、筆者は国内株式に投資している。国内株式の個別銘柄なら、その企業の技術力と開発能力がどれくらいあるかについても情報を集めやすく、将来性を見通すことも比較的容易だからである。海外株式で利益を出すには海外企業について確かな情報を収集するのが不可欠だが、これが難しい。(p146-147)

 これはけっきょく知識というよりも「勘」というものについて言及していると思う。そしてそれは生活感だなあと。僕が思うに、勘みたいなものの本質は生活感だと思う。生活感のあるところでは、変化も感覚的につかめる。けっきょく長谷川は国内株にまつわる世界に生活してたんだと思う。その世界に精通していて、どんな景色が見えるかも自分の生活圏のごとく熟知していて、だから見知らぬ人が見えたら「あれ?」と思うとか、同じ人が来てもいつもと違う様子だとか、いつもと違うことを言い始めたぞ、なんていうことがよく分かってて、そういう感覚的なものをあてに長谷川は投資をしてたんじゃないかなあって思いました。

 この本は日本の個人投資家のレベルアップのために書かれたということだが、投資家のレベルを上げるということは、有権者が政治家を選ぶレベルを上げるのと似ていて見た目、話題性などではなくどのように「実」を見るかということ。要するに「経済社会の動向に関心を持つ」ということに尽きるのではないか?


 僕が長谷川を読み始めたのは30歳になった頃だった。僕がサヨクから右翼になったのも長谷川の影響が大きい。

 僕は大学で社会科学を専攻したんだけど、こんな勉強何が面白いんだ?って思ってました。僕が入った大学の学部は、文系だけど、入学した後で、選択肢の幅がかなり広かったんだよね。社会科学の他にも文学、語学、心理学、歴史学、哲学、地理学などなどから選べたんだけど、いちばんサボれそうなところ、「なんかこのゼミは勉強というより遊んでるだけみたいだな」みたいなところだから入ったって感じでした。80年代ということもあっただろうけど、時代も、大学も、周りの学生も、みんなサヨクっぽくて、「右翼」なんて見たこともなかったって感じでした。なんか「右翼」って人がいたら、理由もなく殴られるんじゃないかとか、ひょっとしたら殺されるかも、ぐらいに思うてましたほんまに。そのぐらい右翼っぽい人が少ない時代でした。

 僕はだから自分の専攻の勉強なんか全然しなかったんだけど、ちょっとだけその学問に期待することがあったとしたら、なんか予言ができるようになるかも、なんてことをちらっと思ってました。僕は昔から予言が好きで、その頃はまだ1999年が来てなかったので、「ノストラダムスの大予言」なんていう本が好きで好きで、よく読んで、周りの人から気味悪がられてました。
 別に予言ができれば方法なんて何でもよかったんです。水晶玉を見て分ればそれでもいいし、学問的方法があればそれでもいいし。それで僕が大学時代に小室直樹が「ソビエト帝国の崩壊」なんて本を出して売れてました。これ結果的に1989年に当ることになるんですけど、小室は右翼なのでうちの大学では評判悪かったです。「こいつは頭狂ってる」みたいな感じで。でも僕は、予言してるという時点で興味があったんです。でも時代はサヨクでしたから、なかなか真っ直ぐそちらに行けなかったんですね僕は。

 でも結局、大学卒業したら一人ぼっちになって心おきなく小室直樹とか長谷川慶太郎とか読み始めたんです。そしたら、大学でサヨクっぽい社会科学とは違って、予言のキレがいいのなんの。彼らの予言も当ったり外れたりするんだけど、とにかく当ることもあるというだけで、僕は初めて社会科学に本当に興味が持てたんですね。

 僕にとってサヨクは、今になって思えば、ということですけど、自分たちの理念、道徳から外れた現実に対して、現実のが悪い、と思う心の構えだ。企業の内部留保が悪い。派遣が労働者を苦しめるとか。でもなぜ企業の内部留保が増えるのか、ということを分析しようとしない。デフレ下では、各個人は消費するより貯蓄したほうが賢明であるのと同じように、企業だってデフレならどうしても内部留保のほうが得策である、という分析をせずにサヨクはただ文句を並べている。派遣業だって、企業の側にとっては、材料の調達におけるカンバン方式みたいに、人材だって、単純労働者を年中囲い込むんじゃなくて、必要な時に必要な量だけ調達できればそのほうがいいに決まってるし、一方労働者の側だって同じで、自分の都合のいい時間や曜日だけ働いて、他に優先するものがある時はずっと休むとか、働き方の多様化を与えてくれる。それを、正社員になりたいのになれない人がいるから駄目、という見方をサヨクはする。僕はそれは個人のスキルアップする機会を提供し、企業に「この人を囲い込んでおきたい」と思わせることで解決していくのが正道だと思うけど、サヨクは違うくて、「雇いたくなくてもちょっとだけ使うんだったら正社員にしろ」みたいなことを言う。派遣業を禁止したら、企業が困るだけでなくて、労働者から多様な働き方の可能性を奪うと思う。それをサヨクは理解しようとしない。自分たちの頭の中に「これが正しい」というのがあって、現実が動いていってもいつまでも自分たちの頭の中にあるものにこだわってるんだよね。そういう方式は、旧い考えから脱け出せないような老人の性質にも合うんだよね。だからサヨクは硬直化するし、高齢化して若い人をリクルートできない原因にもなってると僕は思う。


 僕が若い頃は主義主張は持ちたくても持てなかった。朝考えていたことと夕方考えていることがすでに全然違っていて、「一つの考えをしっかり持てる人がうらやましい」なんて思った。いちおう社会が左っぽかったので、左っぽい意見を聞いて左っぽい考えを持ってはいたが、たまに自民党の政治家の意見などに触れる機会があったりすると「ああそうだなあ」なんて思い、今までの考えが簡単にひっくり返ってしまう。でも世間には左翼っぽい考えが多いのでまた左翼っぽい考えになってゆく、という感じだった。

 僕が保守っぽい考えを持つようになったのは、90年代半ば頃にワーキングホリデーでNZへ行って、帰ってきてからだった。ヽ姐颪紡攤澆靴真佑、「けっきょく祖国がいちばんすばらしい」と考えるようになる事は古今東西とてもよく起ることである。僕にもそれが起ったことは間違いない。日本にいた頃は「日本すばらしい」みたいなことはまず考えつかなかったが、そうなった。△海譴六代が左翼から右翼傾向へと変わっていく時期だったということもあろう。もう一つ、頭の老化現象も原因の一つだと思った。十代とか二十代の頃に、自分の考えが朝と夜と正反対、みたいな節操のなさはある意味、頭が柔らかい証拠ともいえる。い修靴討發Π譴弔蓮■裡擇ら帰ってきて、日本と外国の文化の違いを論じるいろんな本に夢中になる中で、長谷川、堺屋などの本が気に入った。一つは、彼らが、NZから帰ったばかりの僕と同じく、保守、基本的に日本文化を肯定し擁護するような論調だったことがあるが、もう一つには、彼らの論調は、僕が80年代触れていた左翼系の文章よりもむしろ客観的であり相対的なスタンスを持っているように思えた。僕は当時そういう言い方をしなかったが、今考えてそういえると思う。それがNZから帰って、どの文化も絶対ではない、日本人として自分が感じることも文化が違えば相対化される、という気分に合っていた。つまり、日本を否定してみせる左翼の論調は、一種の自己否定だから、それこそ自分の利害を超えて客観的立場だと80年代は思っていたが、そこには、日本を否定してみせるある「場」みたいなものを想定していた。その「場」とは抽象的で、けっきょく空論を生み出す仕掛けでしかなかった。しかし80年代の彼ら(僕も含めて)は、その空虚かつ硬直的な「場」の存在に気づかなかった。そういう「場」が、中韓の論客たちに利用されるのは必然だったろう。中韓の論客たちもそういう「場」の存在を意識することはほとんどなかったろう。「なんか気が合って連携可能な人たちがいるなあ」ぐらいの感じだったろう。僕は中韓の社会科学的センスを無闇に否定するつもりはなく、時には立派なものもあることを知っているが、彼らのセンスはどうしても政治が絡むと硬直的でお馬鹿さんになってしまい、はっきり言ってレベルが低く、そういう意味で日本の左翼と波長がちょうど合ったと思う。今言った、意識に上りにくい「場」に硬直的に支配されていることに気づかない日本の左翼と、自分たちが国際的に充分に認知されていない渇望感から自意識過剰になり、そこから脱け出せないという硬直性を持った中韓は、いわば同床異夢の関係にあったと思う。



 投資の話に戻る。

 僕の黒歴史だが、昔、もうかなり昔のことだけど、投資で生計を立てれればいいなって思って、その当時の仕事を辞めて、ほんの小額をもとでにままごとのような投資を試みたことがあった。もし投資で生計を立てられるなら、それは世の中で一番楽な稼ぎ方だと思ったからだ。しかし、貯金を使い果たし、再び働き出さなくてはいけなくなるまでの2年弱の間の短い経験の後には、世に投資家ほど過酷な仕事も他にあるまい、と思うようになった。それが知れただけでも本当にためになった。あの時期がなければ味わうこともなかったような不思議というか奇妙な感覚も色々と味わい、人生観も変わった、というか豊かになった。「額に汗して働く」ことが尊いという感じを日本人は持っている。僕もあの経験の前はそう思ったけど、今では、汗水垂らすだけで食っていけるなんて、チョロいもんだぜって思う。世の中には、投資家もそうだけど、政治家も、経営者も、あるいは、企業その他の組織の中で重い責任を負いながら職責を全うしようとする人たちは、「額に汗して」というより、冷や汗をかきながら、神経を削りながら働き、しかも、どんなに冷や汗をかいても、必ずしも報われるものではない、という世界で生きている。僕も額に汗してどころか、真夏の炎天下で全身汗でずぶ濡れになりながら働く肉体労働の仕事もずいぶん経験したけど、投資とかに比べたらなんて安易なんだろう、って今の僕は思います。だって、これだけ汗かいてなんぼ、って確実に計算できる。たとえば工場で作業して何か作る。その製品が売れようが売れまいが、作業者は必ずカネがもらえる。でもそれを実際に売らなきゃいけない経営陣にとっては、確実なことじゃない。99%売れると分かってても、1%の売れない確率がある。「あなたこれやると1%ぐらいの確率で死にまっせ」って言われて平気な個人って少ないと思う。経営者とか投資家とか、自分で直接リスクをかぶる種類の人たちって、常にそういう自らの身の破滅の可能性を感じながら人生を送っていると思う。もしそういうリスクに鈍感で平気な人は、たぶんそういう地位にいるのにふさわしくない人じゃないかと思うんです。いつか痛い目に遭うんやないかなあ。

 投資には格言がたくさんあるけど、「投資は自分の家も財産もすっからかんにする覚悟が必要」みたいなのがあるんです。当時複数回聞いたことがある格言だけど、今回検索して調べてけっきょく見つけることができなかったですが。
 僕は投資のまねごとをする前はそういうグロテスクな根性論のような言葉は生理的に受け付けなかった。
 今では分るんですよね。
 投資はそれだけの覚悟をもってやれ。片手間でやる仕事じゃない、という意味だし、別の角度から見れば、そんな厳しい覚悟が必要だけど、それでもやりたいっていうぐらい好きだからやる人がいるんだよね。

 投資って、数字を見てるから左脳的な無味乾燥な世界かと思ったら、その数字でできた世界が情緒を伴ってみえてくるんだよね。ちょっと別の話だけど、昔、ある競馬好きな人が、競馬場で鳴るファンファーレほど感動的な音楽は他にない、っていう人がいたそうで、僕には理解を絶したけど、それがどんな感覚なのかって、今では分るんだよね。
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 長谷川は先月、令和元年9月3日に91歳でこの世を去った。各新聞のウェブサイトはそれぞれごく短い記事で長谷川の死を報じた。大したニュースではなかった。僕は、普段閲覧することのないネット掲示板をたまたま見ていて、誰かがこのニュースを紹介していたのをたまたま見かけ、そこで初めて長谷川の死を知った。しかし、予期しないニュースに触れた、という感じは不思議としなかった。一つは、91歳だから彼の死のニュースは遠からず聞くのだろうと思っていたこともあっただろう。しかしそれにしても、なんか予めそのニュースが来ることを知っていたかのように僕の心はその訃報を受け取っている感じがして自分でもそれが意外だった。その訃報を聞いた時、すでに僕の心はしんみりとした無常観の中にいたのだ。それは、長谷川の訃報に接する数日前に、突然僕は頭頂部がハゲはじめたことに気づいたのだった。以前から「頭のてっぺんが、あるいは全体的に髪が薄くなってきたのではないか、と気になることはあった。しかし頭頂部は鏡では見れなくて盲点になりがちだし、時々気になってスマホで頭頂部を撮影して「うん、薄くなってるが、これはハゲのうちには入らないだろう」などとかろうじて判定して、そのつど忙しい日々の中で忘れ去っていた。しかしなぜか長谷川の死の数日前、自分はハゲているのではないか、と何の脈絡もなく思い、スマホで撮影したり、鏡に頭頂部を向け超上目遣いで鏡を見たりして、「椅子に座ってる僕の後ろを通った人で『今自分はハゲの背後を歩き去った』と思った人が何人もいたはずだ!」と思った。あるいは人のことをなるべく良く思ってくれる人ならば「あの人はハゲかけている」という認識になるかもしれない。それは光の具合、洗髪してどのぐらいの時間が経っているかなどによって「ああ俺はもはやハゲだ」「いやまだそこまではいってない」「やっぱハゲだ」「いや、地肌が少し見えるぐらいだ」「それを世間ではハゲと言うのだ」「しかし今日はフサフサしてるようだ。日によって違うものなのかな」「ハゲが気になる時点でハゲだ」と自分の中で揺れ動く。一旦それが気になりだすと、TVで気象庁の人が台風の会見をしてても話の内容そっちのけでその人の頭頂部のことばかりが意識される。「この人は少し薄くてもそれほどみっともなくないな」「こういう髪型は薄毛を気にならないようにプレゼンしてるな」「この人はもう年いってるのになぜ頭頂部がハゲてないんだろう?」と、もう世の中を見る目が「この人は頭頂部が薄いかどうか」ということが一番のポイントとなっている。
 僕の家系は、父方はハゲないようだが母方は若ハゲばかりだった。それも20代から始まるようなかなりの若ハゲだった。だからたぶんハゲに関しては父の遺伝子をもらうか母の遺伝子かによって、ハゲる確率は2分の1だと若い頃の僕は思い、どうかハゲないほうの半分が当りますように、と若い頃の願い事といえばこれが主だった。本当に強く念じる願い事は叶うというが、その強い念力のおかげか、僕は親戚のおじさんやいとこ等のようにはならずに済んだ。しかし頭頂部ハゲについては父母どちらの遺伝子にもないので無防備だった。僕の青春時代を懸けた強い祈りは遺伝子を抑え込むほどの威力を発したが、そこで力の全てを使い果たしたのだろう。額の生え際をかろうじてハゲてない、と言い逃れるレベルに抑え込むだけが精一杯で、頭頂部ハゲを抑え込む余力は残されていないようだった。願い事は一つだけ、しかもとても具体的な一つにしか叶わないのだ、というのが僕の人生観である。
 しかし僕も考えてみれば50代も半ば、あと何年かすれば還暦である。AKBで名前を知ってる女の子は皆卒業し、こないだまで10代だったのにもう30代かあ、なんて他人だけ年とって自分は成長してないこともあり、年をとるという実感が必ずしもなかった。
 



 僕が30代に右翼というか保守派になった以降は、自分の社会観を磨くのに、以下の6人をいちばん頼りにしてましたね。

★山本七平(1921年(大正10年)12月18日 - 1991年(平成3年)12月10日)69歳没
★小室直樹(1932年9月9日 - 2010年9月4日)77歳没
★渡部昇一(1930年〈昭和5年〉10月15日 - 2017年〈平成29年〉4月17日)86歳没
★堺屋太一(1935年(昭和10年)7月13日 - 2019年(平成31年)2月8日)83歳没
★竹村健一(1930年〈昭和5年〉4月7日[1] - 2019年〈令和元年〉7月8日)89歳没
★長谷川慶太郎(1927年11月29日 - 2019年9月3日)91歳没

 過去の記事で、すでに何度か書いたことだが、彼らは数十年に亘って日本の論壇に君臨した。彼らが一つ下の世代に主導権を奪われることがなかったのは、中曽根元首相の言う、敗戦直後の社会混乱で人材の端境期が発生したからだと思う。しかし今はまた質の高い言論をする人がすごくたくさん出ている。著作を出すような著名人に加えて、YouTubeなどで質の高い情報を発信する、一般には無名の人たちがたくさんいる。僕はこれら数世代に亘って言論界に君臨してきた人たちから大きな影響を受けて社会観を形成してきたが、これからはもはや彼らに教えを仰ぐことは出来なくなった。彼らは僕の頭頂部の髪の毛と共に永遠に去ってしまったのだ。

 これら6人の論客、そのうち3人は平成に亡くなり、残った3人も平成から令和に変わった今年、相次いで亡くなり、時代の移り変わりを感じる。アメリカではベビーブーマーの後に来る世代を順にジェネレーションX、Y、Zと言うが、その特徴をインターネットと関連づけて言えば、Xはネットと無関係に人生の大半を送ってきた世代、Yは半分ネットに関係する世代、Zがは生まれた時からネット環境にいた世代ということになる。これは世代の概念だが、日本の時代と関連づければ、ネットが始まる前の時代の昭和、ネットが徐々に導入されていった平成、そして最初からネット環境がすっかり整っている令和が、それぞれX、Y、Zに対応しているといえよう。上記6人は一部ネットを使っていたとはいえ、基本的に自らのコンテンツを書籍、TVなど非ネットのメディアで伝えていた。たとえば長谷川は公式サイトを持ち、twitterのアカウントも持っていたが、それらは彼の著作の紹介とか、主催する会の紹介などが目的だった。twitterなんかここ4、5年は1度も更新したことがなかったと思う。

 それに対して、僕が「ポスト長谷川たち」と見なす人たちは本を出している人も多いがみんな主にネットで自らのコンテンツを発信している。
 いちおう「ポスト長谷川」なんて言うと、長谷川のいた位置に誰か別の人が代わりに立つみたいなイメージで考えたくなるんだけど、けっきょくそういう人は出てこないんだろう。
 つまり、上記6人は、日本に遍く君臨するような状況を数十年続けてきた。しかしこれからはネットでメディアが多様化し、皆が同じTVを見るわけではない。だから、一部ですごく人気のある人でも、別の人たちからは名前も知らない、というような人が、一部で長年にわたって言論活動を続けたりする。すると、ある人にとっての社会観と別の人の社会観が、同じ日本に住み同じく日本社会を考えても認識がずいぶん違うということになる。今までは少数のTVがだいたい同じようなニュースを流し、同じような意見を述べたから、一つの世論というものの形成が簡単だった。

 柄谷行人は著書「日本近代文学の起源」の中で、ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」について触れ、こう言っている。

 彼は、ナショナリズムの「起源」を、西洋でなく、インドネシアの近代化の過程において考察しようとした・・・アンダーソンは「想像の共同体」としてのネーションが、ヴァナキュラーな言語(つまり口語)の形成を通してのみ形成されるといい、そのための重要な役割を果たすものとして、新聞と小説をあげている。それらは、それまでなら相互に無関係であった出来事、人々、対象を併置するような空間を提供するからである。・・・「近代文学」は、国家機構や血縁・地縁的なつながりがけっして提供しない“想像の共同体”をもたらすのである。 (「日本近代文学の起源」p299)

 「想像の共同体」は1983年に出版されたナショナリズムを考察する本だそうですが、たぶんインドネシアに「ネーション」が形成された時には、まだテレビがあまり普及してなかったのでは?僕は80年代あたりによく聞いたんだけど、テレビが最新のニュースを流すので新聞はもう不要では?ということが盛んに言われていた。実際は新聞は生き残ったけど、でもインターネットの時代に、新聞は大変な苦戦を強いられている。今度こそ本当に、インターネットがあれば新聞は不要では?という感じになってきた。少なくとも僕は新聞はもうまったく読まなくなってるし。
 つまり、新聞や小説といった紙媒体によってネーションが、つまり国民を共同体的に結びつける心のよりどころが、形成されたとしたら、その後のテレビやインターネットによっても、そのネーションのあり方は当然影響を受けてきただろうし、人々が新聞を読まなくなってネットで情報を得る時代には、今後さらに影響を受けると考えられよう。ネット上で得られるニュースも意見も多様化すれば、このような国民国家の基礎さえも崩すような情報環境ができてくるのかもしれない。人は、社会を語る時、そこまでに見聞きした情報、言葉で語る。これからの人はいろんな情報を個々に違うふうに取り入れるので、社会全体のトレンドが分らなくなり、それはひいては社会が、日本社会といってももはや一つではなくなる状況が来ると考えるのが自然だろう。

 河添恵子という中国の専門家がいる。彼女の言論を聞いていると、ずいぶん過激に中国嫌いだなあ、こういう言論は間違っていないにしても過激で行き過ぎだなあと思ったら、何のことはない、去年2018年10月のペンス演説以来、世界の主流になってしまった観がある。なんならペンスは河添からレクチャー受けたの?っていうぐらい、ペンスの示した中国観って河添のそれと似ていた。

 僕は国政を何十年もウォッチしてる者として、世の主流の考えがどれだけ急激に変化するかを見てきた。特に印象的だったのは、かつて自民党の主流派だった亀井静香が小泉政権以降いっきに陰の存在になり果てたことだった。これが政治ということか、と思った。政治とは、科学的、論理的思考で答えが決まらない事柄をみんなで議論して世論を形成し、最後は民主的に、つまり多数決で決めよう、ということだ。急激な政治的変化は、その背後に急激な世論の変化がある。これからの世界にはこういうことがいくらでも起るだろう。よって、長谷川らのような長年の君臨を日本全国遍く行う者は、ほぼいなくなるのではないか。


 僕はもう新聞を読まなくなって軽く10年以上はたつと思う。TVだって、目に入ることもあるから見るというだけで、たまたま僕の周囲からTVがなくなっても僕は気にもしないと思う。僕のニュースの入手元はネットニュースと、それ以上詳しい情報としてはYouTubeだったりする。もうそれだけでいっぱいいっぱいで、それ以上の情報源があっても吸収不可能です。

 僕がYouTubeで見るのは、チャンネル桜とか、有名無名の個人がやってる情報発信コンテンツだ。いちおう有名人の部類に入る人としては、元衆院議員松田学、ジャーナリストの深田萌絵、及川幸久(僕は彼の属している政党を支持していないが)、など。中国情報に関しては、川添恵子、福島香織などスペシャリストのきめ細かい情報もあるが、「妙法」というHNの、サングラスとマスクをかけて素性を明らかにしない人のコンテンツも、充実したものをほぼ毎日発信している。これらは日々起るニュースについて深彫りしたり、あるいはTVなどで流れない情報を発信したりして、数ヶ月遅れで書籍で触れるより断然新鮮でかつ質が高い。彼らはいちおう個人の名で情報発信しているが、更新頻度が高くかつ質が高く内容も充実している。及川、深田なども、いちおう個人が発信してることになっているが、彼らは世界のニュースを、その国の法律の第何条にこういう条文があるとか、地元紙はこういう報道をしてるとか、それに対する地元の反応は、とか、そんなニュースを毎日のように発信するんだよね。それだけの材料を集めるだけでも一人では無理だろうけど、10分とか15分のコンテンツ聞いてると、話の構成がしっかりしてて無駄がない。これは裏にかなりしっかりした調査チームがいるなあと思わせるものがある。なんだったら喋ってる人は単にできあがった原稿をうまく読んでるだけではないか、というほどの充実したコンテンツを毎日、なんだったら1日複数回作って流してるんだよね。

 そこで以下のような問いが出てくる。
 社会科学は一人でやるのがいいか、チームがいいか。

 上記の、僕のアイコンだった6人だって、何から何まで一人で情報を集めてるんじゃなくて、たぶん出版社とかの人材を使って情報収集する体制の中で本を作ってたのかもしれない。しかしやはりその情報収集はあくまでサブであって、中心には彼らの個性があったと思う。小室直樹はソ連崩壊をその何年も前に予言した。他にソ連崩壊を言ってた人が皆無だったわけではないけど、珍しかったから評判にもなったんだと思う。長谷川だってオイルショックで日本社会が悲観論一色だった時に、日本はこれをきっかけに強くなるって言って当てたし。デフレが定着する時代になるとか、原油の値段は半値になるとか、当てた予言は多い。堺屋も、人の言わない指摘をずいぶんたくさんして「油断」「地価革命」「生成りの文化」「ええとこ取りの文化」みたいな新しい言葉を作って発信するのが好きな人で、中には「団塊の世代」みたいに普通名詞として定着したものもあるし。竹村も「日本の常識は世界の非常識」とか、流行語をいくつも作った。彼らの裏に情報収集チームがいたとしても、その中心に、彼らの個性があった。
 でも今、毎日のように質の高い情報を発信している人たちには、そういう個性はないですね。彼らが時勢に逆らった大胆な予言をするという感じも、流行語を作る感じも、全然しない。彼らの多くは、こういうニュースは大手メディアで全然報道されてないよ、ということを売りにしてるけど、それは個性とは違う。マスメディアがするべきなのにしていない仕事を代わりにしてるという感じで、既存メディアの補完をしていると思って彼らのコンテンツを聞いている。

 長谷川は、本書でも言ってるけど、「少数派に徹する」ということを昔から言っている。僕は30代から上記の人たちの主に書籍によって影響を受けた。しかし考えてみれば彼らの本、毎年複数の本を出している長谷川以外の本は、考えてみたらこのブログを始めて以降、つまりここ10年ぐらい読んだことがない。山本七平の本なんか、毎年一冊は読もうと思っていたのに。小室の本なんか1ヶ月に20冊も読んだこともあるのに。僕は30代には月に本を4、5冊、多ければ7、8冊という感じで読んでいて、その多くは彼らの本だった。しかしたとえば昨年なんか僕はたぶん本を1年に3冊ぐらいしか読まなかったと思う。毎年そんなもんだ。本自体は常に何か読んでいるのだが、1冊読むのに数ヶ月かかるような本が多い。僕が読むものは昔から社会科学と人文科学系統であることに変わりないが、30代の頃は、上記の人たちから、時事問題のニュース的知識から、考え方、思想、哲学まですべてを求めて読んでいたのが、今では時事的なニュースはYouTubeなどネットで、思想、考え方、哲学はドラッカーとか柄谷みたいな、1冊読むのにずいぶん苦労する本で仕入れるようになった。


 なんか話がまとまらずに終るようだが、長谷川の(たぶん)最後の本は数日後に出版される。もうアマゾンで注文したし、あとは届くのを待つだけ。届くのは来週だ。なんか今週末に恐ろしい予感でいっぱいの台風19号が来るという。もし無事なら僕は来週はその届いた本をすき間時間を利用しながら数日かけて読んで、またレビューを書くことでしょう。この頃は僕はまとまった時間をとるのが難しくなって、本を読むのはこま切れの時間があれば読めるんだけど、この記事みたいな文章を書くのには、ある程度まとまった時間がどうしても必要で、そういう時間がちゃんととれないと、この記事みたいにどこかまとまりの悪い文章になっちゃうんだよね。

第4次安倍第2次改造内閣閣僚名簿

【党役員人事】

▲総理・自民党総裁 自民党総裁 安倍晋三(64)衆9回 山口4区 成蹊大法卒 神戸製鋼所従業員・議員秘書・自民党幹事長・内閣官房長官。無派閥。2012年12月26日に第2次安倍政権が発足してから7年9ヶ月、本日9月11日で2451日目となる。第1次政権と合わせると2817日目。現在、通産在任期間で戦後1位、歴代2位。今年11月19日に通算在任期間で1位の桂太郎(2886日)と並び歴代1位になる予定。もうすぐ(9月21日に)65歳になる。無派閥。

▼幹事長 二階俊博(80)留任 衆12回 和歌山3区 中央大法卒 2016年8月に幹事長に就任した時に77歳、歴代最高齢での幹事長就任となったが、今年2019年8月で幹事長連続在職日数で歴代最長となった。もし来年2020年9月まで幹事長に留まれば通算在職日数でも田中角栄を抜いて歴代最長になる。国会議員秘書、和歌山県議員を経て自民党から国政に。1993年に宮沢内閣不信任案に賛成し離党し小沢一郎らと新生党を結成。小沢一郎の側近として行動を共にする。小渕内閣に自由党として連立政権に参加、運輸大臣兼北海道開発庁長官に。小沢が連立離脱表明すると小沢と分かれ野田毅らと保守党を結成し、自公保連立政権に参加。保守新党幹事長などを経て自民党に復党。その後、経済産業大臣、自民党総務会長、衆議院予算委員長などを歴任。二階派。

▼総務会長 鈴木俊一(66) 衆9回 岩手2区 早大教卒。環境相、五輪相、外務副大臣などを歴任。父は元首相の鈴木善幸。麻生太郎副総理は義兄。麻生派。

▼政務調査会長 岸田文雄(62)留任 衆9回 広島1区 早大法。第1次安倍政権で内閣特命担当大臣として初入閣。第2次安倍政権発足で外務大臣に就任し4年7ヶ月務めた。2年1ヶ月勤めてきた政調会長に留任。宮沢洋一はいとこ。岸田派。

▼税調会長 甘利明(70) 衆12回 神奈川13区 慶大法卒 労働相、経産相、規制改革担当相、経済財政政策担当相、党政調会長、選対委員長などを歴任。戦国時代の武田氏の重臣・甘利虎泰の子孫。ソニー社員、衆院議員の父・正の秘書、新自由クラブから国政に。同党の解党で自民党入党。経済財政政策担当相としてTPP交渉に尽力したが、金銭授受疑惑の責任を取って閣僚を辞任。麻生派。

▼選対委員長 下村博文(65) 衆8回 東京11区 早大教育卒  東京都議員 文部科学大臣 総裁特別補佐 党幹事長代行 党憲法改正推進本部長 党都連会長。細田派。

▽国会対策委員長 森山裕(74) 留任 衆6回 参1回 鹿児島4区 日新高卒 農水大臣 財務副大臣 衆院農林水産委員長 鹿児島市議会議長 郵政民営化関連法の成立時には反対し無所属で立候補し当選し自民党に復党。農業政策に精通。働き方改革関連法やIR整備法などの成立に力を尽くした。2年1ヶ月勤めてきた国体委員長の安定感のある仕事ぶりが評価され留任。石原派。


▽筆頭副幹事長  稲田朋美(60) 衆5回 福井1区 早大法卒 弁護士。内閣府特命担当相、党政調会長、防衛相、総裁特別補佐官などを歴任。細田派。

▽参院幹事長 世耕弘成(56) 参5回 和歌山選挙区 早大政経卒 ボストン大院 NTT職員 伯父の地盤を引き継ぎ国会議員に。首相側近の一人で第1次政権で首相補佐官、第2次政権では官房副長官、直近まで3年1ヶ月務めた経産相と、要職を歴任してきた。今回の人事は、安倍首相の影響力を参院で強めるためと言われている。細田派。


■■■閣僚■■■

▼副総理・財務・金融 麻生太郎(78)留任 衆13回 福岡8区 学習院大政経卒 首相 外相 総務相 経企庁長官 麻生セメント社長。麻生派。もうすぐ(9月20日に)79歳になる。

▼総務 高市早苗(58)再任 衆8回 奈良2区 神大経営卒。松下政経塾出身。平成5年に無所属で立候補し当選。新進党などを経て自民党入り。第1次安倍内閣で内閣特命相として初入閣。第2次安倍政権以降、党政調会長、総務大臣などを歴任。もとは清和会だったが今は無派閥。

▼法務 河井克行(56)初入閣 衆7回 広島3区 慶大法卒 法務副大臣、首相補佐官、などを歴任、直近は総裁外交特別補佐。松下政経塾出身で広島県議を1期つとめた。妻の河井案里は先の参議院選挙で初当選した。無派閥。

▼外務 茂木敏充(63)横すべり 衆9回 栃木5区 東大経卒 丸紅社員 読売新聞社員 ハーバード大学ケネディ行政大学院で行政学修士号 日本新党で国会議員初当選。小泉内閣で外務副大臣、内閣特命担当相として初入閣。野党時代に党政調会長。第2次安倍内閣で政権復帰すると経産大臣に。以後、党選対委員長、党政調会長。2017年8月から直近まで3年1ヶ月間、経済財政・経済再生担当大臣を勤め、米国との貿易協定締結の協議をまとめてきた実績が評価された。経済外交が期待されている。米国との貿易協定交渉の担当を続ける。竹下派。

▼文部科学 萩生田光一(56)初入閣 衆5回 東京24区 明大商卒。八王子市議3期、都議1期を務めた後国政へ。保守派の論客で安部首相の側近。内閣官房副長官、自由民主党幹事長代行などを務めた。今年4月には幹事長代行の立場で消費増税延期に言及し波紋を呼んだ。細田派。

▼厚労 加藤勝信(63)再任 衆6回 岡山5区 東大経卒 大蔵省出身 加藤六月秘書を経て国会議員に。安倍総理と加藤は両者の父親の時代から盟友で、総理は手堅い行政手腕や調整力を発揮してきた加藤を重用してきて、時期総裁候補と目されるようになった。安倍内閣では、第1次で内閣府大臣政務官、第2次で官房副長官、第3次で内閣府特命担当大臣として初入閣、その改造内閣と第4次で厚労大臣、第4次改造で党総務会長を歴任し、今回は1年ぶりに厚労大臣に再任された。今秋以降の社会保障改革での役割が期待される。竹下派。

▼農水 江藤拓(59)初入閣 衆6回 宮崎2区 成城大経卒 父・江藤隆美の引退に伴い国政へ。郵政民営化法案で造反し一時自民党から離れたがその後復党。農水副大臣、首相補佐官などを歴任。無派閥。

▼経済産業 菅原一秀(57)初入閣 衆6回 東京9区 早大政経卒。日商岩井社員を経て練馬区議、都議を経て国政へ。経済産業副大臣、財務副大臣などを歴任。無派閥。

▼国土交通 赤羽一嘉(61)初入閣 公明党 衆8回 兵庫2区 慶大法卒 公明党政調会長代理などを歴任。

▼環境 小泉進次郎(38)初入閣 衆4回 神奈川11区 関東学院大 コロンビア大院修士課程 党青年局長、復興政務官を歴任。34歳の小渕優子、37歳の野田聖子に次いで戦後3番目の若さでの入閣。先月フリーアナウンサーの滝川クリステルと結婚するなど常に話題性があり人気が高い政治家。世襲4世。無派閥。

▼防衛 河野太郎(56)横すべり 衆8回 神奈川15区 慶大経卒 ジョージタウン大卒。 第3次安倍内閣で国家公安委員会委員長 内閣府特命担当大臣として初入閣。2017年8月から直近まで2年1ヶ月間、外務大臣として明確な態度、発言で存在感を示した。今年7月19日には韓国がいわゆる徴用工問題で日韓請求権協定に違反する判決を出し、その後是正措置をとっていないことを非難する「新河野談話」を発表し話題に。父はオリジナル版「河野談話」を出した元外相などの要職を歴任した河野洋平、祖父は副総理や自民党総務会長などを歴任した河野一郎。麻生派。

▼官房長官 菅義偉(70)留任 衆8回 神奈川2区 秋田県出身。高校卒業後、上京。段ボール工場で働きながら法政大法卒。衆院議員小此木彦三郎の秘書を11年 総務大臣 党幹事長代行 党神奈川県連会長。2012年12月から7年近く官房長官を務めていて、2016年7月から在職日数最長記録を更新中。無派閥。

▼復興 田中和徳(70)初入閣 衆8回 神奈川10区 法政大法卒 川崎市議、神奈川県議を経て国政へ。財務副大臣、環境副大臣などを歴任。麻生派。

▼国家公安委員長、防災担当 武田良太(51)初入閣 衆6回 福岡11区 早大文卒 
亀井静香の秘書を経て、伯父・田中六助の地盤から国政進出を狙うも落選。数度の落選を経て国会議員に。防衛副大臣などを務めた。郵政民営化では造反し一時自民党を離れた。二階派。

▼1億総活躍・少子化担当 衛藤晟一(71)初入閣 参3回 比例区 衆4回  大分大経卒 大分市議、同県議を経て国政へ。小泉内閣で厚労副大臣に就任したが郵政民営化法案に反対票を投じ罷免された。第2次安倍政権で首相補佐官。二階派。

▼科学技術担・IT担当 竹本直一(78)初入閣 衆8回 大阪15区 京大法卒 建設・国土官僚。小泉内閣で財務副大臣を務めた。岸田派。

▼経済再生担当 西村康稔(56)初入閣 衆6回 兵庫9区 東大法卒 メリーランド大院で修士 通産省出身 内閣官房副長官 内閣府副大臣 外務大臣政務官 党総裁特別補佐 筆頭副幹事長などを歴任。幅広い分野の政策に精通。細田派。

▼地方創生担当 北村誠吾(72)初入閣 衆7回 長崎4区 早大政経卒 佐世保市議1期途中、長崎県議4期を務めた後国政に。福田・麻生内閣で防衛副大臣。カトリック。岸田派。

▼五輪担当 橋本聖子(54)初入閣 参5回 比例区 駒澤大附属苫小牧高 外務副大臣 党参院政審会長 党参院議員会長などを歴任。スピードスケートや自転車競技の選手として、冬と夏合わせて7回、オリンピックに出場、平成4年のアルベールビル大会銅メダリスト。細田派。

官房副長官
・(衆)西村明宏 (59)衆5回 宮城3区 早大院政治学修了 元国土交通副大臣 細田派。

・(参)岡田直樹 (57)参3回 石川県選挙区 東大文・法卒 元財務副大臣。細田派。
・(事務)杉田和博 (78)。

法制局長官
近藤正春 (63)


【感想】
 閣僚19人のうち留任は菅官房長官、麻生財相の2人だけで残りの17人が交代、初入閣が13人の大幅改造ということだが、実際は菅、麻生の他に河野(外相→防衛相)、茂木(経済担当→外相)の重要な2閣僚が横すべりしてるし、加藤厚労相と高市総務相は同職を過去に経験して再登板なので、あまり大幅に変わったという印象がない。残りの13人も、橋本聖子オリンピック担当大臣、江藤農水大臣はその道のエキスパートで危なげない。西村経産大臣も、たぶん今度の初入閣を機に、前任の世耕みたいに存在感を高めていく人のようにみえるし。萩生田は、僕はその実力をよく知らないが、保守系のネット番組にもよく出ていて既に充分有名な人だし。小泉環境相というニュース性もあるし。その他の人については、名前を聞いたことがないという人も少しいたけど、郵政民営化の時に造反したおかげで当選5回をとっくに過ぎてるのに入閣したことがなかった人たちを「滞貨一掃」みたいな感じもあるけど、でも新人じゃないので大過なくやってくれそうな面々ではないか?多少、菅原とか萩生田あたりから失言等が出る可能性があると思うけど、まずまずではないか?

 自民党には実力はあるのに入閣したことがないという人もまだまだたくさんいる。赤沢亮正(58歳、当選5回)、平将明(52歳、当選5回)そして東大在学中に小学生だった安倍晋三の家庭教師をしていたという平沢勝栄(74歳、当選8回)など。彼らはいずれも副大臣までは経験しているがまだ閣僚を経験してなかったから今回あたり入るかなあと思っていたのだが。

 ちょっと気になるのが、自民党の政権復帰直前に行われた総裁選に出た4人のうち安倍総裁以外の3人は石破、石原、参議院の林芳正だが、彼らは政権復帰直後の第2次安倍政権では入閣したが、今回は誰も入らなかったし、石破派、石原派からも入閣ゼロであった。(党人事では留任した森山国対委員長は石原派だが。)
 石破は安倍政権と距離を置きたがっているのが原因かもしれない。石原派については人数の減少と存在感の低下が原因のような気がする。そもそも総理と官房長官が無派閥の人なので派閥の論理は昔のようではないだろう。
 安倍首相の人事は、菅、麻生を背骨に、茂木、世耕、河野、加藤を政権の中枢に置いて、萩生田、稲田、根本、塩崎などを近くに置いておく、みたいに忠誠心の高い人たちを近くに置いて手堅い感じはするけど、他方で、自分から遠い人を取り込むことがあまりうまくないのではないか?たとえば小池百合子・現都知事。政権復帰後、安倍は女性活躍を掲げながら小池を使わなかった。安倍の師匠格だといわれる森元首相と相性が悪いから取り上げづらかったという説もあるようだが、小池は干された形になって、それで自民党に反旗を翻す形で都知事に転身した。もし稲田のかわりに小池を重用していたらずいぶん今の風景とは違っていただろう。どちらが良いのかよく分らないが。

 安倍自民党総裁の任期は2021年9月までなのであと2年ある。それまでにあと1回内閣改造があっておかしくはないけど、でも今から1年たった時、「今の内閣は安定感あるなあ」となった時、レイムダックを防ぐために内閣改造は行わなくても不思議ではない。でもやっぱり入閣待機組は上にあげた3人の他にもたくさんいるので、やる可能性のほうが大きいでしょう。
 僕としては、政権復帰時の閣僚がいちばん渋くて安定感があった気がする。新藤総務相、田村厚労相、古屋国家公安委員長、それから顔の上半分が長い甘利、林芳正など。甘利はもう閣僚としては戻って来れないのかもしれないけど、安定感と渋みがあってあの内閣が一番良かった気がするよ。

折口信夫「死者の書」感想文



 古墳の闇から復活した大津皇子の魂と藤原郎女との交感。古代への憧憬を啓示して近代日本文学に最高の金字塔を樹立した「死者の書」、その創作契機を語る「山越しの阿弥陀像の画因」、さらに高安長者伝説をもとに“伝説の表現形式として小説の形”で物語ったという「身毒丸」を加えた新編集版。(本書の裏表紙から)

 「死者の書」の初出は1939年(昭和14年)、雑誌に何回かに分けて掲載され、それを今ある形でまとめて出版されたのは1943年(昭和18年)。

 ドイツ文学者の川村二郎は本書の解説で「死者の書」について、

 明治以後の日本近代小説の、最高の成果である。

 現代小説のあり方とか方向とかを考えようとする時、この作品ほど過去の重さと豊かさをそなえながら同時に未来を指し示している小説は、ほかに見当たらない

 近代最高の小説、模範的な小説である。

とベタ褒め。


 そんなに長い本じゃないけど、読みにくい本で(面白かったけど)、二週間ぐらいかけて読んだ気がします。「死者の書」という小説自体は約150ページ。そのあとに、作者の折口自身による、この小説を書いた背景にあるものについての論文で、本編の小説よりもある意味すごいと思った「山越しの阿弥陀像の画因」、これが約30ページ。それに短編小説「身毒丸」約20ページ。最後に、ドイツ文学者・川村二郎による解説。どれも読み応えがありました。本を読み終えてから初めて知ったけど、21世紀に入ってからこの小説は人形アニメーション映画化されたり、この小説を原作としたマンガ作品も発表されているそうです。

 作者は、柳田国男と並ぶ民俗学の泰斗・折口信夫。僕がこの名前と初めて出会ったのは高校の国語の時間だった。国語の先生の板書が下手で、僕は自分のノートに「坂口信夫」って書いた。テスト前か何かに自分のノートを見直して「さかぐちのぶお」って覚えたんだよね。本当は「おりぐちしのぶ」だから「ぐち」しか合ってなかったなあ、って思ってたんだけど、このたび、「おりくち」が正しい読み方だと知ったので、けっきょく一つも合ってなかったんだよね。
 ついでに、この人は釈迢空という名の歌人でもあるということは知ってたけど、小説を書いてたというのは、10年ぐらい前だろうか、この本を古本屋で見つけるまで知らなかった。そこには、川村二郎って人が、「死者の書」は「明治以後の日本近代小説の最高の成果」と評している、と書かれている。ああそうなの?俺、近代日本文学の最高傑作の名前すら知らなかったのかな?って思った。もうこれは読むしかないなあ、と思ったけど、文章が旧かなづかいで、擬古文調なので、電車の中でマンガの代わりに読むみたいな本じゃないので、ずっと読むのを先延ばししてきた。
 ここまで書いてすでに、僕はこの作品のあまり良い鑑賞者じゃないことは明らかだと思うのですが、さらにつけ加えれば、この作品の時代背景である奈良時代とかについて、ほとんど無知だったので、ネットで人名とか調べながら読みました。ネットって便利だなあって改めて思いました。

 昨年の夏、僕は柄谷行人のすごい難しい本を読んでて左脳的に疲れたので、右脳方面から自分を癒そうと思ってこの本を手に取ったんだけど、これは片手間に読める本じゃない、真正面に据える心の構えがないとただ消耗するだけだと思ってやめた。でも冒頭だけ読んで、これは夏に読むべき本だと思ったんだよね。お化けも出てくるし。しかし今回読んで、季節的には冬が終ろうとしている頃から、次の冬が訪れる前の一年弱で、夏の季節はスッと過ぎ去るだけという感じなんだけど、それでもなんか僕的には、夏に読むべき小説だなと感じました。

 でもとにかく楽しんで読めました。ええ本読んだなあ、読んでよかった、って思いました。
 僕は今年の初め、どういういうわけもなく、微分積分と万葉集の勉強をしてたんです。それでゴールデンウィークに村上春樹の「1Q84」読んでたら、主人公が数学の先生なんで、なんか意味ある偶然の一致だなあなんて思ったんですけど、万葉集のほうも、今年は僕は縁があります。立春の頃に、大伴家持の歌を取り上げて記事を書いたのもそのためですし(→平成最後の新春に寄せて)その後、新元号が令和に決まったと発表があった時も、万葉集が典拠だというし。そのあと、あるエッセイ集を読んでたんです。とてもマイナーなものだけど、その著者の知人という人に読めって言われて本を借りて読んだんですけど、その本のタイトルが万葉集からとったものだと言うんですが、その元歌がこの「死者の書」に出てきて、ああなんか偶然だって。今年は万葉集に触れることが多い年だなあって。
 
 舞台は奈良時代、万葉集の最終編者と言われる大伴家持もわりとキャラ立ちしてる登場人物として出て来ます。主人公は藤原郎女、あるいは藤原南家の郎女、あるいは折口自身の上記の論文では「中将姫」と呼ばれる人。この人は実在した人らしいけど、その経歴に伝説っぽさが混じってるため「伝説上の人物」と言われ、昔から色んな文学作品で取り上げられてる人らしいですが僕は今回初めて知った。奈良時代の権力者、藤原不比等のひ孫にあたる人。時代は西暦760年頃だけど、その100年近く前に若くして非業の死を遂げた大津皇子がお化けとなって登場し、この小説のヒロイン・中将姫と神秘的な交信をします。

 上で、この本は旧かなづかいで擬古文調で読みにくいと申し上げました。しかしもしこの擬古文の文章が新かなづかいで書かれてたら、ずいぶん味気ないだろうなあ、って思います。だからあえて旧かなづかいで文庫本になってるんだと思います。
 それと、僕、去年ぐらいに、国木田独歩の短編小説を2、3読んで思ったんですけど、それらは散文なんですけど擬古文調で、しかも五七調、七五調みたいなリズムの文章でした。それが心地いいんです。まったく同じ内容をリズムのない散文で書いたら、ただただ平板な駄文になるだろうなって。現代文学は、こういう昔風の文章の束縛から解放され、新しい可能性を得たのは間違いないでしょう。でも、失ったものも大きいと強く感じました。

 折口のこの小説と論文を読んでる時の、フワッと浮く、とりとめのない感じは、僕がこういう文章に慣れてないから起る事だと思いました。でも、内容が興味深いから、自ずと理解できちゃうんですよね。このフワッとした感じは、ちょっと難しめの英語を読んでる時の感じです。簡単な英語だと、「あれ、さっき読んだのは日本語だっけ英語だっけ?」ってなるけど、ちょっと難しめの英語だと、明らかに英語だと意識し、どこか完璧に理解できてない感が漂う。それと同じような感じを僕はこの折口の擬古文調に感じたんです。それで思ったのが、旧かなづかいの文章をもっと意識して読もう、ということでした。英語を習うということは、自分の外にあるものを学ぶことだけど、歴史的な日本語を習うことは、自分の内側にあるものを学ぶことだと思う。今では使われなくなった言葉を学び、それで和歌を作ろう。「われ恋ひめやも」の「めやも」なんて、和歌を作って、いつかその中でこれを使えば、僕は「めやも」を使ったことのある日本人になれる。今は使われなくなった古語をもっと学び、和歌の中でさりげなく使おう、なんてことを思いましたよ。僕は今年に入って万葉集を習い始めたせいだと思うけど、和歌を作るようになりました。でも、ボキャブラリーがほぼ現代語に限られてるから、詩歌なのに殺ばつとしてるんだよね。この折口の論文でも、たとえば地平線、水平線のことを昔の日本人は「雲居」と言った、なんていう豆知識が出てくる。こんなのを知っておけば、和歌を作る時の幅が広がると思うんですよね。



 以上がこの記事の前半でした。後半では「死者の書」の文学的価値はどうなのかということを考察してみたい。



 解説の川村二郎が「死者の書」を「明治以後の日本近代小説の、最高の成果」だというのはなぜか?川村による本書解説も難しく、僕がその内容をどこまで汲み取れているか心もとないので、まず川村の文章を抜粋したいと思う。(この抜粋の仕方がそもそも適切かどうか分らないけれども、そこはこの記事を書いてる僕の能力の限界だからしょうがないです。)

 ・・・明治以後の近代小説が、ヨーロッパ小説を典範とし、たえずその影響を受けそこから学びながら、自己の道を模索してきたことは、改めていうまでもない。・・・ヨーロッパ文学の本質とは何か、真のヨーロッパとは何か。無遠慮な裁断口調を承知であえていえば、それは弁証法である。相反するものを一つに結ぶ原理である。・・・超越と現実、運命と自由意志、精神と肉体、そういった二元論的対立が、克服しがたい断絶の相を呈しているという認識、それにもかかわらずこの二元の対立が、何らかの媒介、仲保者的契機によって超えられねばならぬ、超えられるはずだとする確信。この認識と確信の協同作業の上に、キリスト教のみならず、すべてのヨーロッパの精神的価値が成り立っている。
 小説の場で考えれば、物語が地上の現実に即しつつ展開する時でも、その動きは単一な平面上の運動ではなく、別の平面、別の現実とかかわり合いながら進行するのが、その本来のあり方だ、ということである。別の現実を無視して地上だけに固執する表現法も、もちろん存在する。というより、近代小説はもっぱらそちらばかりで書かれているとさえ、考えられるだろう。しかしそれは本来からいえば例外であり、逸脱である。原則に離反してあえて例外であろうとするためには、強い緊張の持続が要求される。近代のリアリズム、自然主義などと呼ばれる系列の小説が生気を帯びるのは、ほかならぬこの緊張の持続を通じてである。それを欠いた場合、リアリズムとは、日常のありのままへの無邪気な楽天的な信仰の、結果において衛生無害な表現にすぎなるなるだろう。
 『死者の書』がアクチュアルな意味を持つというのは、まず、このようなおおよその見取図のうちにおいてである。

(だいぶ中略)
 折口の・・・仕事全体は、過去への愛と、過去の観察の結果に得られた認識とのあいだにゆれ動く、精神の軌跡だといっていいかもしれない。・・・この精神の軌跡は、動的な緊張をそのまま形象と化することによって、形象それ自体が生の難問を解決するという言語表現の機微を、あざやかに映しだして見せている。『死者の書』は、折口の他のいかなる著作にもまして透明な、形象による解決の範例である。ほかでもないそのことが、ヨーロッパ文学とかかわりながら自己の城を築き上げようと努力してきた近代日本小説の世界において、この作品が最高の成果である所以と結びついている。
 簡単にいえば、この小説は、その成立に際して、弁証法を本質的な契機としている、ということである。


 以上、川村の解説から抜粋。それを僕なりに言い直してみる。
 日本近代文学はヨーロッパ文学の多大な影響下に成立している、ないしヨーロッパ文学の一部であると言ってもいい。ヨーロッパ文学の本質は弁証法である。小説の場で考えれば、物語が地上の現実を語りながらも、その裏にはそれとは別次元のものと関わり合っている、本来現実とはちがうものと緊張感の中で呼応しながら成立している。折口のこの小説は、現実と超現実が一体となっている。表現も、リアリズム風でありながら幻想的であるなど、相反するものが融合している。それを川村は弁証法的と言っている。人によっては、「弁証法」と言う代わりに「ダイナミズム」と言うかもしれない。・・・とここまで書いて、なんだかダイナミズムって言うけど、改めて考えると、ダイナミズムってどういう意味?って思う。僕は、力を生み出すような構造がそこに存在していること、ぐらいの意味かなあと思って調べたら、「弁証法的ダイナミズム」という言葉が多数出てきて、両者は相性のいい言葉らしい。というか、弁証法っていうと、一時代を画して、それゆえなんか古めかしい言葉になった気がする(なんか一時代前の大人がよく使った言葉みたい)ので、代わりに最近ではダイナムズムって言うのかもしれません。つまり「弁証法的ダイナミズム」を略して単にダイナミズムって言うことが多くなったのかもしれませんが、素人なのでよく分りません。

 要するに民俗学者の折口が、論理的・左脳的な成果を、文学的・右脳的な作品の中に実にうまく練りこんだというか、学問的な知識を文学の中に使ったというわざとらしさ、浮いた感じがないですね、つまり、実によくできた作り物ですね、みたいなことをほめてるような、そんな気がした。うがった見方かもしれない。僕は折口のこの作品からわざとらしさなんていうものを感じず、また、一種の舞台裏である折口自身の解説「山越しの阿弥陀像・・・」を聞いてもそんな感じはしないけど、川村の書評を読むと、なんか「作り物なのに作り物のわざとらしさがなくて立派」みたいなことを言ってる感じがどうもして。そんなふうに聞こえるのは僕自身がひねくれてるのかもしれない。あるいは文学作品を分析するということ自体そういう無粋な試みなのかもしれない。

 この小説を一言で言うなら、高級感あふれる小説、と言ったところでしょうか。文章も内容も格調高く、時代考証も超一流の民俗学者自身が書いてますから、危なげないし説得力がある。読んで良かったと思える小説です。
 では、僕自身この本を「明治以後の日本近代小説の最高の成果」と思うかというと思わない。この文庫本は昭和49(1974)年初版だが、それ以前にも漱石、川端あたりにもっといいものがあると思う。民俗学者であり、本来小説家ではない折口のこの小説は、文章も美しく整って、いい小説だと思うけど、僕は盛り上がりに欠けると思う。これは、若くして死なねばならなかった大津皇子と、その100年後ぐらいの、実在したらしいが、半分伝説っぽい要素の藤原郎女との魂の交流を描くという、実際の伝説や史実を使いながら、読み替えて幻想譚、怪奇譚に仕上げているが、せっかくお化けが出てくるならもっと派手にならないかなあ、と思う。大津皇子の辞世の歌の読み替えなどをして、藤原郎女と結びつけたりして、それはよくできた物語と思うけど、あんまりよくできすぎて小説的起伏に欠け、すばらしいし感心はするけれど、感動はしなかったですね。破綻なくバランスよく仕上げすぎたために起伏がなくなったという気がする。

 でも、川村のこの「明治以後の日本近代小説の最高の成果である」という言葉がなければこの小説を読んでみようとは思わなかったでしょう。この小説を最高傑作に挙げる人も、まあいるのかな、ぐらいには妥協してもいい。特に戦前に書かれたこともあり、その頃は外国との戦争などで、日本文化のアイデンティティを探ることに今より熱心だし、日本の歴史にも多くの感心が向けられていただろうし、そんな価値観でみたら、こういう古代日本、万葉集の時代の日本を舞台にし、ただ史実をなぞるのではなく、「山越の阿弥陀像・・・」の文章にあるように日本人の精神史の謎にも迫るような要素も練りこんだこういう小説は、ある人たちから高く評価されるんでしょう。
 しかし、もし現代の日本人の内面が古代と断絶してしまったとしたら、この折口の作は、戦前の日本人にとっての内面の掘り下げにはなっていても、現代日本人にとってどこまでそうか?
 僕は、同じ民俗学者の柳田も、折口も、ほとんど読んだことはないものの、柳田の「遠野物語」は心の奥深いところを揺さぶられて、本当にすごいと思ったけど、この「死者の書」は心揺さぶられるということはなかったですね。そしてそもそもそういうものを目指してる小説ではないでしょうし。音楽にたとえればベートーヴェンの「運命」ではなくてモーツァルトの室内楽という感じでしょうか。
 ちなみに、モーツァルトの室内楽をナメてはいけません。僕はこないだ、弦楽四重奏曲18番は好きなのに最近聴いてないなと思って聴いていたら、4楽章にドハマリしてしまった。音楽に対してドッペルゲンガーを感じるというのは変だけど、俺の心そのものか?と思うぐらい、聴く音がすべて心のひだに浸み込んでくる感じ。あるいは僕の心がこの音楽のひだまで入り込んでいくというほうがいいのか。・・・けっきょく何を求めるかによって小説の評価って違うのですよね。情緒を揺さぶられる激しい曲が好きな人は、モーツァルトの宮廷音楽っぽい上品さは退屈ですらありうるだろうし。・・・僕はその時、モーツァルトの弦楽四重奏曲18番の4楽章を、最高の音楽だと感じながら聴いていた。でもクラシックファンで、この曲の価値を高く評価する人でも、最高の音楽というのは言い過ぎだろ、と思うでしょう。それと同じで。



 「死者の書」の一般的な評価について探っていきたい。「折口信夫」はウィキペディアでは日本語ページの他、英仏独語にもなってるけど、「死者の書」は日本語ページ(しかも短い)しかない。漱石、谷崎、川端、三島、遠藤周作、安部公房、島崎藤村などの諸作品は各国語のページがあるのに比べても、「近代日本文学の最高峰」という認知は受けてないんじゃないかなあという気がする。本書は2006年に人形アニメーション映画化され、国際アニメフェスティバルの類にも何度か出品されたそうだ。2015年にはマンガ化もされたという。そういうこともあったからだろう、2017年に本書は初めて英訳された。上でも書いたが、この作品は旧かなづかいのまま文庫本になっているのは、新かなづかいにするとそれだけで魅力が半減しかねないとの配慮からだと思う。そういう作品を英語にして、そもそも奈良時代とか万葉集の存在すら知らない読者にどこまでアピールするのか疑問だ。訳して魅力が伝わらないから価値がないとは言わないけど、こういう作品を近代日本文学の最高傑作というのは違和感がありますね。海外の人に伝わらないというだけでなく、同じ日本人でも、世代を超えてアピールするのかどうか。たとえば折口が66歳で死んだ時にまだ生まれてすらいなかった僕みたいな後世の世代の読者にどれだけ評価されるのか。ストレートに言えば、川村二郎の高すぎる評価は、その世代限りの独りよがりの価値観だったのではないかと僕は考える。それはたとえ川村が正しくて、僕の評価が無知による不当な無理解に基づくものだとしても、価値の継承が行われなければそこでその価値は途絶えて、普遍的ではないとして時代に埋もれてしまう。そしてそもそも本作品が同時代人によっても川村のような高評価が一般的だったのかどうか。


 本書に収録されているもう一つの作品「身毒丸」という短編小説について。折口は同性愛者だったそうです。今流行りの表現で言えばLGBTのGにあたります。こういう性向は、森鴎外「ヰタ・セクスアリス」をみると、昔はむしろ一般的だったとさえ言えるものだと思うけど、そういう種類の美意識が感じられるという意味で、より折口らしい部分が出ている作品なのかも。僕が読んだ文学作品の中では三島由紀夫「仮面の告白」を思い出させるような、同性への性的好奇心がにじみ出てくるような小説ですね。
orikuchi pict 折口信夫の英語版Wikipediaによると、三島は折口を「日本のWalter Pater」と言ったそうです。Walter Pater自体を知らないから何のこっちゃ、という感じですが、19世紀英国の人でルネサンス研究者で、オスカー・ワイルドにも影響を与えた人だそうです。オスカー・ワイルドは同性愛者で、46歳で死んだ。三島も、控え目に言っても同性愛的嗜好が色濃い人で、45歳で死んだので、三島とワイルドは重なるイメージがあるけど、三島が折口を評価した要因の一つに共に同性愛的傾向があったことがあるのかなあ、なんて思ったりして。それでもしWalter Paterがゲイだったら、「ゲイの先輩をゲイの後輩が評価した」という構図がペイター→ワイルドにも、折口→三島にも共通することになるなあなんて思って調べたら、やっぱペイターも同性愛者だったそうです。つまり、折口がWalter Paterに似てると三島が言ったのは、歴史の中に精神的なものを模索する中で同性愛者的な視点で行った人、という意味をどうも含んでいるようですね。そんなに明示的に行ったというのではないけれど、ネットで拾った彼らの作品の中の言葉をみると、「ああそうかな」っていうものがありますね。でもこの話は僕の興味の範囲外なのでここでおしまい。

 本書に話をつなぐと、そういえば「死者の書」も、中将姫という女性目線から、大津皇子という男性性に魅かれる、という構図がある。しかも、大津皇子は100年前に死んでるので、直接的、肉体的な交渉はなくて、精神的、宗教的な憧憬がその本質だ。折口は、同性愛は男女間の愛よりも純粋だと言ったというが、そういう折口の性向がそこに現われているのかもしれない。
 そして、「死者の書」と「身毒丸」の2つの小説を読むことで、民俗学者・折口信夫がどういう類の“小説”を書く人かという輪郭が見えてくるような気がする。この2つの作品から僕が感じたのは、デリケートで、言葉の細かいところまで神経が行き届いた完璧な作品だけど、線が細くて、構造はあるんだけど、整いすぎているためにドラマ性に欠ける。小説家っていくつ作品を書いても、読後感に共通性があると思う。折口のこの2つの作品はどちらも、「ハイ、うまくまとめました」という感じで、「あら、盛り上がりそうだったけど、意外に地味に終っちゃったのね」という感じが否めない。こんなにサービス精神が欠けてたら小説家としてはやってけないよ、という感じ。この人は民俗学者としてすごい人だというのは「山越の阿弥陀像・・・」という短い論文を読んだだけで伝わってくる。このてのインスピレーションを働かせて学問をやった人、というだけで本当に特別な存在になれるだろうなあ、という思いにとらわれた。だから彼の研究成果は「折口学」って言われる独自の世界を築いたけどその一端が伺われる論文です。
 だから小説家としては別にウケなくてもいいんだよね。すごいうまい小説を書いたかもしれないけど、やっぱ本当の小説家ではないよね、っていうのが僕の感想。
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