生きてる感想

僕が好きなことを書いて 誰かが楽しんでくれれば それ以上は望むべくもないでーす

井伏鱒二

井伏鱒二「珍品堂主人」



 中公文庫「解説」によると井伏鱒二の代表作だそうです。知らなかったなあ・・・。

 僕は30代の前半頃の一時期、井伏鱒二と安岡章太郎をかなりガツガツ読んでました。二人とも、特に安岡のほうかな、絶版になった本が多く、大阪の古本屋で二人の古本はかなり買い漁って読みました。僕は街を歩いていて古本屋があったら必ず入るというタイプで、そこで井伏と安岡の本は必ずチェックしていました。ある時はどこかの駅の改札を出たところで一週間だけの古本のワゴンセールをやっていて、そこで存在すら知らなかった安岡のエッセイの文庫本があるのを目ざとく見つけて買った時は、「こんなところでこんな本を見つけるとは!」って思って、その後何ヶ月もの間、「何という運命だろう・・・」なんて思ってました。そんな熱の冷めた今思えば、別に運命ではなくて、要するにそのぐらい熱心な関心をもって古本屋めぐりをして井伏と安岡の絶版本を探していたということですね。でも大阪近辺の古本屋は僕一人がいたせいでそれらの古本はかなり少なくなったはずです。10年以上も繰り返し繰り返しいろんな古本屋を回って、また新しいペンペン草は生えてないかみたいな勢いで買い回ってましたから。

 この本もそんな時期に古本屋で見つけてきた一冊です。150ページ余りの薄っぺらい文庫本です。「こんな作品もあったのか、聞いたことなかったなあ」って思いました。今回気まぐれに本棚から取り出すまで、とっくに絶版になってる本だとばかり思ってたら、今でも出版されてて、しかも井伏の代表作ですって。

 井伏の代表作としてよく挙がるのが長編の「黒い雨」とか、短編の「山椒魚」とか、あとは色々ですけど、なんせ井伏の創作期間は70年ほどあるので(1923年にデビュー作の「幽閉」(のちに「山椒魚」と改名)を発表し、1993年、95歳で死ぬまで創作活動があった)、作品の数は膨大です。そして井伏は長編、中篇の小説もあるけど基本は短編作家なので、年譜なんかにも載ってない作品がいくらもあって、その全体がどのぐらいの数量になるのか見当もつかないです。かなり有名な大作家ですが、今では新刊本でも全集でも触れることができず、中には散逸してしまった作品も少なからずあるのでは?と思ったりもします。僕は井伏を読んでいてモーツァルトのような印象を持つことがよくあります。これは僕だけの突飛な連想ではなくて、確か三浦哲郎の文章にも書いてあったし、きっとよくある感想にちがいないと思いますが、井伏の作品にもケッヘル番号みたいなのを振ってくれる人が出てきてもいいように思います。ケッヘルは626までですが、井伏の作品数は、短編が主だしエッセイも多いし詩もあるし、創作期間も長いので1000は越すんちゃうやろか?そんな膨大な作品の中で、これはすごい、これは大したことない、という違いが全くないわけではないんですが、他の作家と比べてその差は大きくないし、そもそもある作品の価値を客観的に定めるのが難しい作家でもあります。
 その一例として、引用の便から、「あの山」という三行だけの詩を挙げましょう。

 あれは誰の山だ
 どつしりとした
 あの山は


 僕にとってこの詩は井伏を象徴するような、無視できない存在感を持っていますが、井伏を読んだことのない人にとっては、くそしょーもないゴミ同然の短い言葉にすぎないでしょう。これは一方で井伏を川端と並ぶ「日本語の魔術師」と言う人がいる一方で、「ナンセンス文学」という評も定着しているところにも現われています。井伏文学はすごく価値があるという見方と、まったく無価値だという見方が両立しています。また、そうでなくてはならない。つまり、僕は井伏文学は日本の古典として後世に残さねばならないと思いますが、一方で「井伏の作品下らない」って言える余地がなくてはならない。事実下らなかったりもするんで。

 僕が井伏を読み始めたのはNZのワーキングホリデーから帰って間もない頃に読んだ「ジョン万次郎漂流記」からでした。帰国したばかりで西洋と日本の2つの文化の間にいる意識が強かったので、西洋に初めて触れた日本人の話は強い興味がありました。新潮文庫で読んだんですけど、その中に「二つの話」という聞いたこともない短編も入っていて、ついでだから読んだんですけど、読みながら、なんか魔術をかけられたような気持ちになったのを覚えています。これはNZ、西洋の一部といってもいいでしょう、ロジカルなものが文化の底にある場所での物の感じ方が残っていたから起った感覚だったと思います。西洋人からみると東洋って神秘的にみえるとよく指摘されますが、それと直接つながる感覚だったと思います。「うわあ!」って思ったんです。「え?何これ?」って。それで井伏を読むようになったんですけど、その後も井伏の作品を読むと「え?今自分を訪れたこの感覚なに?」みたいな感じに時々なりました。そこを読み直しても、普通のありふれた文章があるだけで、僕を襲ったものすごい感覚がどんな仕掛けで起ったのか、わかんないんです。もう「日本語の魔術師」って呼ぶしかないですよ。

 井伏の本って読み進めれば読み進むほどはまっていきます。文庫本の「解説」にこの作品を「近代日本文学に独自の位置を占める名品と評価される」なんて書いてあるけど、ある文学作品を「これは名作」「これは古典作品」って呼ぶ時、野菜にたとえると、畑になっていたのを切って陳列棚に並べて値段をつけてるような感覚があると思います。でも井伏の作品って、あんまり陳列棚に並べることを考えず、庭で勝手に野菜とか果物を作ってるって感じがします。だから井伏をどんどん読んでいくと、八百屋に出掛けて野菜を選ぶんじゃなくて、井伏の庭に行ってそこでまだ根っこがついたままの野菜を見てるって気がします。もちろん八百屋みたいに値段なんかついてないし、「こんな曲がってるキュウリは出荷できないでしょ」っていうものも「これはこれでいいじゃないか」っていう感じ。「八百屋に並べるといくらぐらいになるのかな」って発想自体がなくなってくるんですよね。「変な形でもこの庭でとれた野菜ならどれもおいしい」っていう感じで読んでます。
 
 でもこの「珍品堂主人」はわりと「これは特別に出荷するぶん」っていう意識が高いものだと思います。三人称形式で書かれていますが、ナレーションがですます調で、これは井伏にしては珍しいです。なんでですます調にしたのか分んないんですが、「普段とはちがった書き物にしよう」という意識の表われかもしれないです。150ページと、中編小説あるいは短い長編小説ですが、最初から最後まで章分けが一切ありません。骨董の目利きの話で、僕自身は骨董のことなんか全く分らないんですが、初めの数十ページはその道の通しか書きえないような知識を織り交ぜながらユーモラスで興味深いエピソードをこれでもかこれでもかと数珠つなぎにしていっきに何十ページも読ませますね。その数珠つなぎ具合が「おっと井伏普段より気合入ってるね」という感じが伝わってきます。話はやがて主人公が料理屋という異業種に参入してまた別の興味が開けてきます。主人公は、高級料亭で出す料理の食材や陶器を日本各地に旅して調達しますがそこでも目利き具合を発揮します。なんだか北大路魯山人みたいな世界だなと思ったら、この小説の登場人物は魯山人を含む人間群をモデルにしてるんだそうです。
 魯山人は大正14年、東京に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」という会員制高級料亭を中村竹四郎という人と設立して、中村が経営者、魯山人が顧問となり、魯山人は秦秀雄という人を抜擢して支配人とした。後に魯山人は秦秀雄と仲違いして秦をクビにする。その後、経営者の中村は魯山人の出費の多さや横暴さに耐えられなくなって魯山人をクビにする。
 「珍品堂主人」の主人公は高級料亭「途上園」の支配人ということなのでいちおうそのモデルは秦秀雄ということになっているようですが、もともと「途上園」を構想し、出す料理や陶器を選び出してくるのは主人公なので魯山人とダブるところも多いように思います。小説の時代は戦後ということになってるし、顧問は蘭々女という女性だったりして、実際の「星岡茶寮」とは違うことは明瞭ながら、秦秀雄が号を珍堂と称していたところは、この小説の主人公が珍品堂と呼ばれているところとダブるし、料亭の支店を大阪の曽根に作るところは、井伏が「星岡茶寮」とその人間群をモデルにしたことは明らかでしょう。
 料亭は出資者も見つけ、繁盛しますが、出資者が顧問として雇ったやはり目利きで仕事は滅法出来るが一癖も二癖もある蘭々女という謎めいた女と組織内でパワーゲームを繰り広げる。その凝った道具立てとストーリー展開は井伏らしいのですが、普段よりもてんこ盛りで、そこに井伏の気合いを感じると共に、一方で普段の天衣無縫という感じではなくて、人為が入ったという感じがなくもない。井伏の小説はお色気シーンというのは初期の若い頃の作品にすごく淡くユーモラスな感じで控え目に出てくるぐらいですが、この作品の中では「お、井伏にしては頑張ったな」という感じで出て来ます。他の作家と比べたら「そんなのお色気と呼ぶほどでもない」という程度ですが50すぎてからの井伏の作品としては実に珍しいことだと思います。どういう事情があったか知りませんが、この作品にはいつもと別種の気合いが入っているように思います。頑張った甲斐あって「代表作」って言われてよかったね、という感じです。

 上にも書いたけど、井伏の作品を読んでると非常にしばしばモーツァルトを思い出すんです。昔っからずっとです。でも今回なぜなのかということについて明確な答えが分ったように思います。僕は去年、柄谷行人の「日本近代文学の起源」を読んでたんですけど、そこに近代の芸術家と前近代の職人のちがいについて読みました。
 ある作品を作る時、そこに自分を表現するかどうかの違いがあります。クラシック音楽の場合、曲数にその違いが出ていると思います。ハイドンは交響曲を100曲以上作り、モーツァルトも35歳の若さで死んだにも関わらず約40曲作っています。でもハイドンのお弟子だったベートーヴェンは交響曲作家と言われたけどたった9曲。それ以降の人はシューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラーと9曲とか10曲ぐらいの人がすごく多いです。ドイツの主要な交響曲作曲家と言われるブラームスやシューマンはたった4曲、メンデルスゾーンも5曲。ブラームスなんか交響曲1番を着想して完成するまで20年かかってます。そこには作品で自己表現しようという姿勢が色濃く伺え、こういう姿勢で作品を作る人は、ハイドンみたいに100曲なんて書けないですよね。でも職人なら作れる。モーツァルトは近代的な自我、「この自分の内面を作品で表現しよう」なんていう自我はなくって、単にすぐれた作品を書こうという意識があっただけだと思う。同じことは井伏にも言えて、そういう我執のない感じが井伏とモーツァルトの印象が似てくるんだと思う。
 井伏も職人と芸術家の違いには充分意識的で、しかも職人のほうが上だという視点を持っている。この本の中にそれがストレートに出てくるところがある。

 主人公が料亭で出す陶器の注文に岐阜県の名高い陶工を訪ねる。その陶工は「芸術作品をつくろうとして精進している」という。

 珍品堂は持って行った見本を古山に見せ、こんな注文をつけました。
「あんたの作ぶりを止して、この通りの贋物をつくってもらいたいのです。名品をつくろうとせずに、あくまでも職人のつもりでやって頂きます。それを承知してもらえますか。」

(中略)・・・古山は美濃伊賀の皿を長いこと手に取って見ていましたが、一つこっくりをしてそれを畳の上に置くと、また手に取って見つけているのでした。この皿なども、桃山時代に発達した伊賀焼の贋物で、陶工が自分の作ぶりを無視して取りかかったからこそ骨董として見られるのです。陶工が職人の道に徹していたおかげです。乾山にしても、芸術家らしさが無くなったときにいいものをつくっている。おのれを出した焼物にろくなものはない。焼物は芸術作品とは違う。要は、見る人が芸術品として感ずるかどうかであって、見る人の如何にある。これが焼物に関する珍品堂の持論であるのです。 (引用p54-55)

 井伏の作品もこれです。井伏の作品にウェルテルとかジュリアン・ソレルとかボヴァリー夫人みたいな近代的自我を持った登場人物は一切出て来ない。

 日本の作品でいうと、漱石なんか日本の近代的自我の葛藤を描いたと言われますが、「彼岸過迄」や「行人」なんかそれがすごく出てますよね。三島の「金閣寺」の主人公も強烈に自分という意識とこだわりを持ってます。安岡の小説の主人公も、庶民的でいじけた、小さな自我の主人公ですけど、紛れもなく自分という意識とこだわりを強烈に持った近代人ですね。・・・これはあくまで僕がそう見ているということなんですが、すべて「これは近代的自我」とか「これはちがう」とかクッキリ分けられるというものではないですね。「源氏物語」の浮舟の葛藤はどうでしょう。彼女が選んだ「出家」という結論は大きく確固とした自我の否定とも言え、あんまり近代的ではないでしょうが、そこに至るまでの心の葛藤は、環境が環境ならば「緋文字」のヘスター・プリンにも似たような自我形成を行なう人生を選ぶ準備が充分にできた状態とも言えると思う。近代の川端康成の作品には、浮舟に似て、社会的には無個性の女を演じざるを得ないけど内面では強烈な個性を持ったヒロインたちが登場しますよね。そのうちの一人に「千羽鶴」のヒロイン・太田夫人がいます。僕は近代の日本の作家でいちばん好きな人を挙げよと言われたら、川端と答えるかもしれないですが、そのうちでいちばん好きなのが「千羽鶴」です。僕はその中で、文子が好きなんですが、「千羽鶴」の主人公はその母の太田夫人。この小説もやはり骨董の陶器の美が大きなテーマで、1898〜99年とほぼ同じ頃に生まれた二人の「日本語の魔術師」川端と井伏が骨董をテーマにした小説を書くとこんなに違う、という興味深い比較もできると思いますが、僕はどこかで井伏が「千羽鶴」を評して、「太田夫人は志野茶碗から思いついたんじゃないか?」と誰かに語ったという話を読んだことがあります。年代的には「千羽鶴」が昭和27年で「珍品堂主人」が昭和34年と川端のほうが7年ほど先行していて、井伏はこの作品で、骨董と女のアナロジーについてしばしば言及してるが、これは本文庫本の解説によると「骨董を女と見る論法の出自は小林秀雄と聞く」なんて書いてあるけど、「千羽鶴」の影響かもしれないですよね。あるいは骨董を知ってる人なら誰から言われなくてもそういう発想になるのかもしれない。

 長くなりましたが、近代的自我ということについて最後にもう少し。
 なんか近代的自我近代的自我って書くと僕が近代的自我とは何か?ってハッキリ理解して書いてる感じがしますが、実は分ったようで分らないようなボワーンとした感じであります。でもものすごく単純な分別法としては、僕みたいなお堅い家庭に育ったとして、ある文学作品を机の上に置いといて、親に見られてもいいか、見られたら嫌か。嫌だったらそれは近代的自我を扱ってる可能性が高い。(それがエロ小説だとか物騒な宗教カルトの本だとかいうケースは除く。)親がですね、仮に「お前の机の上に置いてあった本を読んだぞ。その内容についてじっくり語り合おう」と言われたと思ってみましょう。それが「珍品堂主人」ならまあいいけど、「千羽鶴」なんか絶対嫌でしょ?僕なら家出しますね。鴎外の「高瀬舟」ならOKでしょ?でも漱石も「坊ちゃん」とか「猫」ならいいけど、「彼岸過迄」とか「行人」についてじっくり語り合おうなんて親に言われたら、手足に突然赤いポツポツが出てくるかもしれませんね、拒否反応のあまり。
 「野菊の墓」だって嫌でしょう?でも「永遠の0」とか、あるいは「世界の中心で愛を叫ぶ」だったら、気乗りはしないまでも、家出してまで拒絶する理由もないでしょう。読んだことないけど「もしドラ」もOKっぽい気がする。もう「珍品堂主人」の話でもなんでもなくなってますが、最近の小説って、近代的自我を扱わなくなってるのかな?って。村上春樹も、性行為のシーンが多いのはあれだけど、それを除けば親とも論じ合って気まずくなるって感じではない。「永遠の0」は主題が先の戦争ということもあるけど、出てくる人物に特に個性ってないですしね。「世界の中心で愛を叫ぶ」も恋愛小説であるにも関わらず、真に個性を持った人物って一人も出て来ない。
 ・・・今という時代は、個人で誰でも情報が発信できて直接世界のどことでもつながることができて、個人の存在が過去のどの時代よりも大きいという感じがしませんか?だから僕は梅田望夫の「ウェブ時代をゆく」を読んでた時、とても意外な感じがしたところがありました。この中で梅田は、はてな創業者・近藤淳也の「インターネットは知恵を預けると利子をつけて返してくれる銀行のようなものだという感じ」(p160)という言葉を紹介しながら、自らもある考えをネット上で紹介したら、多くの人から意見をもらい、「「知恵を預けると利子をつけて返してくれる」なんてものではなく「脳を預けたらそれが膨らんで戻ってくる」ような気がした。」(p161)と言っている。これを読んだ時、新しい時代の人間は、“肥大化した”と言われる近代的自我とは別の、もっと軽々とした自我を持つんじゃないか、という印象を持った。知恵を預けて利子がついて帰ってくるならいいけど、脳みそって、自分の中にあるものなのに、それを外に貸し出すという発想は、自分と他人の区別をつけてないっていう印象がとても強い。それが自分の考えなのか他人の考えなのかもはや関係ないという発想は、良し悪しは別ですが、近代的自我とは異質だという印象を持ち、僕はこれを読んだ時、当惑というのか驚きというのか、どう判断していいのか分らなくなったのを覚えています。
 bookshelf pc従来、どこかの大統領とか大経営者とか偉い学者とかが写真入りで紹介される時、よくあるパターンとして、自分の書斎の、難しそうな本がぎっしり詰まった本棚を背にして大きな机の前に座ってるみたいな写真がよくある。でも最近の知的空間は、本棚なんかなくて曲線を描いた机の上にパソコンが置いてあるだけ、みたいな感じになっていて、そのスッキリした感じが、新しい時代の人間の自我が象徴されているような感じがするんですね。
このどちらが良いか悪いかとか、好きか嫌いかということは度外視しています。堺屋太一は80年代に「知価革命」という本で、モノがあふれかえったのが豊かだという工業社会は終わり、モノの豊かさを重視しない新中世のような時代が来る、と予言したんです。全部当ってるとは言わなくても、わりと当ってる気もします。堺屋はそういう時代の傾向を、この85年の著書の中で、「ポストモダン」という、当時まだ成熟してなかったけど、今や多少老朽化した感じの言葉で語っているが、ポストモダンは自我にも及んでいるということですかね。だから逆に、こういう中世の生き残りみたいな井伏の世界は、意外と今の人が読むと新鮮味というか、昔の日本(人)を新鮮な目で再発見した!という感じになるかも。

 僕は20年前は井伏を熱心に読んでいたんですが、今はもうほとんど読まないです。今回読んだのは、難しい本を読んでいて疲れちゃったから、息抜きのために読んだんですが、なんだか怠けてるっていう後ろめたさがあったんだけど、読み終わったらなんだか「自分の本来の場所に戻って来た」みたいな充実感を覚え、自分でも意外でした。やっぱ人間って昔からなじんだことをやると「これだよ」っていう安心感に包まれるってことですかね。それともう一つ、ここについ最近まであった日本、今は失われてしまった日本に触れて、個人としてではなく日本民族として、正しいところに戻って来た、という感じになったということもあるように思います。井伏のような感覚の作家、これと似た作家は、非常に日本的でありながらすでのもう今はいなくて、今後も二度と出ない種類の作家だと思います。それはすでにそういう伝統が途切れてしまっているからだけど、考えてみれば井伏に似た作家、それに匹敵する作家なんて昔も今もいないように思います。井伏を師とあおぐ作家たち、太宰治、安岡章太郎、三浦哲郎、開高健は、みな井伏にどこか似ながらも、近代の作家です。それはちょうど、モーツァルトがロマン派以前の作曲家だったのに、ベートーヴェンはじめ多くのロマン派の作曲家に崇められたのと似てると思います。ドヴォルザークなんかロマン派のド真中の作曲家で作風全然違うのに、モーツァルトは我々の太陽だなんて言った。モーツァルトのすごいところは、ベートーヴェン以降の作曲家たちのように近代的自我とは関係ないところで、いわば職人として曲を量産したのに、それ以降の異質な人たちに今も崇められているところです。僕はそこに、近代にない可能性のすごさを感じるのですが、井伏についてもまったく同じことが言えると思っています。

井伏は二流だから一流と言えよう4

 少し前僕はドラッカー「現代の経営」という本をやっと読み終えた。読み始めたのが去年の夏の初めぐらいだったろうか、ずいぶん間延びして読んだものだ。途中で、読みさしにしておいたら忘れてしまったので、また少し前のきりのいいところから読み返したりしながら読んだ。普通、これはすごい、という本は読んでいて面白かったりするが、なぜかこの本は、「よし、続きを読もう」という気が起きない本だった。ではすごくないかというと、圧倒されるぐらい、体系的で、ためになるし、これからも読み返さなくてはいけないような本だと思ったけど、なぜか弾むような気持ちで読めない本だった。でもまあすごい本だった。たぶん、考えたいけど、歯が立たなくて消化不良を起こしているのかもしれない。これについて何か考えようとすると、グッタリしたりする。
 僕はこの本を読んで、どこに何が書いてあるかすぐに思い出せるようにまとめたいと思いつつも未だしてなくて、かわりに、新しく読み始めた井伏鱒二「漂民宇三郎」を読み始めた。それが先々週か先々々週ぐらいだったと思う。読み始めると、心が文章に吸い付いたまま、いっきに何ページも読んだ。何ページも読み進めるのに、何の努力も要らず、下り坂を橇で滑っていくのと同じで、時間が許すだけ、スーッと読んでいってしまう。ああこんな読書は久しぶりだ、と思った。それを、ページが減るのを勿体無く思ってチョボチョボと読んで、昨日読み終わった。

 僕は途中で、この長編小説に飽きたような気がした。この小説の内容は、江戸の末期、海で嵐に遭って漂流した日本の漁民たちが、アメリカ船に助けられハワイで降ろされ、そこから日本へ帰国すべく極東ロシアへ行く船に乗せてもらって、そこで数年を過ごし、その後日本へ帰国する、という漂流記だ。エキゾチックだし、珍しいし、ユーモラスだし、読んでいて面白いエピソードが連なって書かれているという感じだが、途中でさすがにだれてきた。それで思ったのが、「井伏はやはり短編作家なのだ」ということ。僕は日本文学の中でも、井伏をたいへん高く買っているのだが、考えてみれば僕が読んだ井伏の作品は、短編小説と、短編エッセイ群だ。その中には、中篇小説といってもいいかもしれない長さのものも、いくつかあった。そして、「黒い雨」というれっきとした長編小説も読んだが、僕が読んだ井伏の長編はこれ一冊だけだった。また彼の全作品の中でも、長編作品は、たぶん数えるほどしかない。80年に及ぶと言われる彼の創作活動のほとんどは、短編の小説とかエッセイだと思う。僕はそれら短編を無数に読み、読めば読むほどどんどん井伏ワールドの思うつぼみたいになっていった。たぶん、井伏の何を読めばすごいのか、と言われても、なかなか一つ二つだけでは井伏の魅力はなかなか分らないように思う。たとえば、有名な「山椒魚」を一つ読んだら井伏の虜になるかと言ったら、普通ならないと思う。もっとも若き太宰治はこれ一作品だけ読んで、天才が現れたとか思ったらしいが。僕などは「山椒魚」は今だにその魅力がよく分らない。でも、どんどん読んでいくと、こんな作家は他にないなあ、とどんどん思っていく。僕はある時、「鐘の音」とかいう題名の短いエッセイを読んでいた。自分が今まで出会った寺の鐘について述べている。あそこでこういう鐘があった。また、あそこにはこういう鐘があった、というふうだ。これはどうみても面白いテーマではない。そう思いながら読んでも、なぜか引き込まれるように読んでしまっている。「なぜ、寺の鐘について羅列しただけのエッセイが、これだけ吸い込まれるように読ませるのだろう?」考えても分らなかった。それで、「何だこの作家は?」ということになる。「二つの話」という中篇小説があるが、これは疎開に来ている子供たちのために話を作ってあげるという話だが、その話と、地である現実の話とがうまく境目がつかなくなって、僕は非常に奇妙な感覚に襲われた。僕はNZから帰ってそれほど間がなかった頃、「ジョン万次郎漂流記」というものに興味(日本が近代西洋に最初に接した時はどんな具合だったのかという興味)を持ち、新潮文庫でそれを見つけて読んだ。作者が誰かは別に気にしなかった。で、「ジョン万」を読んだので、一緒に載っているこの「二つの話」を読んで、言葉の魔法を使われているような気分になった。僕は大学の時、ドストエフスキー「罪と罰」を読んでいる時、最後近くでめくるめく怪しげな場面が展開する時に、ちょっと似た気分を味わったことがあった。また、レスピーギ「ローマの松」(だったと思うが)を聞いている時にも、メリーゴーラウンドみたいな音楽と、地響きみたいな音が交互に出てくる時にも、似たような不思議な感覚に襲われたことがあるが、とにかく井伏の文章に目をくるくる回されるような気分がした。また、井伏の短編「かきつばた」という、井伏にしては珍しく暗い作品があるが、広島に原爆が落ちたことを、隣町にいて知ることになった時のことについて書いてあるが、それが生々しく伝わってくる。「生々しさ」にもいろんな種類があるが、「かきつばた」に出てくる種類の感覚には、他の幾多の戦争描写でも味わったことのないような感じがあった。なぜそういう気持ちになったのかを、文章を読み返しても、わからない。そこには、淡々と、隣の広島市に大きな爆弾が落ちたらしい、という噂を聞いたみたいに書いてあるだけだ。井伏を読んでいると、そういう感じがすることが多い。井伏のことを「言葉の魔術師」というのは、そのあたりを指して言うに違いないと思う。読み返してもタネがわからないのだ。そうすると、もう井伏を有り難がって読むようになるせいかもしれないが、「何だこの詩は、最初は拍子がついている感じなのに、最後は散文になってるじゃないか」みたいなことも、しゃれたユーモアに思えてくる。「追剥の話」という短編は、戦争直後の、追剥がよく出ていた頃、ある集落の公民館で、住民たちが追剥対策を話し合っている様子を記録するという体裁をとっているが、発表をする住民たちの話がどんどんズレていって、だんだん追剥の話でも何でもなくなる。その馬鹿馬鹿しい展開が面白くてしょうがない、という気分になってくる。こうなるとちょっと井伏を買いかぶりすぎたために騙されているという領域に入っているような気もする。井伏の文学のことを「ナンセンス文学」と言ったりもする。ふと素に戻ると、井伏って、ただの二流作家だろ、という気分にもなってくる。井伏は晩年、「自分のような二流作家は、そんなに分厚い全集は必要ない」みたいなことを言ったという。彼が自分のことを二流作家と呼ぶのは、よくある謙遜だろうかというと、たぶんそればかりではなく、彼は自分のアイデンティティとして、二流作家だと本当に思っていたかもしれない。と僕は思う。一流よりも二流の良いところというのは、一流の人には、二流であることが許されないという面があると思う。でも、二流の人は、別に一流であってもいいし、二流でもいいし、という幅がある。その幅が、井伏らしい余裕を確保している気がする。一流というのがどうしても気詰まりな感じを伴うとすれば、それは井伏の属性ではない。井伏には、二流である自由とか、二流だからこそ許される下らなさ、というのがある気がする。
 とにかく僕は久しぶりに井伏を読んでいて、「ああやっぱり長編になると、さすがにダレるな」と思った。短編なら、面白い切り口と、面白いエピソードで走り出して、息切れがする前にゴールだから、ダレるということがない。「黒い雨」の場合は、広島原爆という、かなり強烈なテーマで、広島出身の井伏としては思いいれも強いので、文の構成がなってなくても、エモーションだけで引き締まった作品の体をとれた。あれは井伏としては例外的に緊張を保てたが、やはり井伏は基本的に長編に向いていないのだ、と思いながら読み進めた。要するに、長めの短編だと思って読めば、それぞれのエピソードは面白いとも言える、なんて思いながら読み進めた。でも、読み終わった時には、思いがけなく切なくキュンとした気分になっていた。読後感というのは、作家ごとの特徴が出てくるものだと思う。ちょっと鴎外の読後感に通じるものがあるかもしれない。鴎外の長い小説を読むと、「この主人公はこの話が終わった後も、背筋を曲げずに、しっかりと生き続けているに違いない」という感じがする。小説世界と変わらない、地味だが確固とした生活がずっと続くのだ、という感じ。それがどこかしんみりと切なくさせるものがある。井伏の登場人物は、鴎外のそれよりもだらしがないが、それでもそこに確かな生活があり、その生活がずっと続いていくのだ。それで、意気地がないし、意志を貫く強さもない、でもとにかくそこに生活があるのだ、と思わせるものがある。井伏のある小説の最後に、主人公が結婚して所帯を持つ。で、新妻の友人が、男関係の悩みを持ってくる。新妻が部屋の中でその友人を慰めるのが途切れ途切れ聞こえてくる。「あきらめが肝心よ…私だってねえ…でも、本当に好きな人は振り向いてもくれないし…でも、幸せは考え次第…」なんて言うのが、新妻の旦那である、主人公の耳に入ってくる。ユーモラスな場面だけど、切ない場面でもある。「勝手にしろ」と主人公は思う。こんな冴えない生活にまみれながら、それでも一凡人として生きていくしたたかさを井伏の主人公は持っている。井伏の小説に、男女の恋の話が出てくると、必ずそういう切ない感じになっていく。男はいつでも、魅力に欠け、女のほうは少し魅力的だけど、超魅力的なヒロインというほどではない。結局は主人公と妥協の心で一緒になることを決意するような、どこか冴えない女だ。男も、それを知ってて女と一緒になる、みたいな。そういう感じの切なさが井伏の小説には繰り返し出てくる。
 で、思いがけなく、「あー、いい小説だったなあ」なんて結局は思わされている。どんなテクニックがそう思わせるのだろう、と考えてみると、この小説の最初は、漂民が遭難して、アメリカの船に救助され、各地をさまよい、帰国するまでの大筋をコンパクトにまとめて最初に書いてある。その後に続く国際的漂泊のエピソードが時系列的に出てくる。アメリカの船に助けられる前に、飢えと渇きの中で仲間が何人も死にながら過ごすことが非常にリアルに描かれている。サメが寄ってきて、それを捕まえようとしたり、追い払おうとしたりする描写も、生々しくかつユーモラスで印象深い。アメリカ船に助けられ、ハワイに暮らしている間は、意味不明瞭な英語がたくさん出てくる。アメリカ人たちは、挨拶する時は「ハリリウリ」とか「ホーローリ、ホーローリ」と言ったりするという。何のことだかよく分らない。お礼を言う時は「タンキ」といいう。これはthank youだ。
「ハリリウリに対してワレワレタンキと答えるのは、たったいま異国船同志で取り交わして見せた挨拶である。他意ないという符牒と思われた。」とある。すると、ハリリウリは、how are you?みたいな意味だろうか。ワレワレタンキは、well, well, thank you.だろうか。
 だんだん言葉を覚えていく。「メリケン語で蒸気船のことはステンボリ、船中に用いる茶碗のことはパツ、鯨の皮切り道具はショースペル、紙はパイパ、木製の筆はペンセル、よからぬことはノーゴリ(私;no goodだろう)、私によこせはゲブメ、出て失せろはゲラウェー、汝はヨー、自分はミー、麦餅を食べよはブライリー・エーテ、知らないはノーサ、話せないはノースッペキ・エンゲレッス、繰り返して云えはパードン、行けはヨーゴー…」
 という具合にエピソードがすすみ、舞台はロシアへ移り、やがて漂民たちは政治的な意図のため、ロシア政府から日本へおみやげつきで日本に丁重に送られる。そこで漂泊の記録は終わるが、日本で数年にわたって厳しい取調べを受けるさまも、非常に詳しく、まとまったページを割いて書かれている。日本の役人の杓子定規さ、味気なさがよく描写されているが、それを読んでいくうちに、今までの漂泊の記録が、夢のような感じがしてくる。いちばん最後に、一人だけ日本に帰らなかった宇三郎の後日の話とか、小説の最初の概略に戻ったりと、いくつもの場面の移り変わりが忙しい中、この作品は終わる。その場面の移り方のいちいちが、読者にどういう効果を生むか、井伏は計算のうえでそういう配置をしているらしい、と僕は考えた。僕は読み終わってしばらく余韻に浸りながら、ボーッと空を見ていた。こういう読後感は本当に久しぶりだった。やっぱり左脳ばかり使いがちな社会科学の本ばかり読んでないで、小説も読まなくてはいけないのだ、と思った。
 どうも、若い頃は、自分の心のことをよくケアすることを考えていたと言えよう。たとえば、音楽などをよく聴こうとするのも、バイクとか車でスピードを出しすぎながら走ろうというのも、それだと言える。ある時は楽しい音楽を聴き、それに飽きれば悲しげな音楽を聴いたり、また激しい音楽を聴き、感動的なものを聴いたりするというのも、心に喜怒哀楽を感じさせる、いわば心にラジオ体操をさせているとも言える。用もないのにわが心を悲しませたり楽しませたり興奮させたりするのだから。バイクで猛スピードで走ってみるのも、これは心の動きというよりは、もっと表層的な、感覚的な刺激といえようか。これは、仔犬が、用もないのに人間に構ってもらって、いつまでもじゃれたり走り回ったりしているようなもので、若いと、心も体も、用もないのに動かしたいに違いない。ところが年取ってくると、犬も人間も、あまりそういうことをしなくなる。そういう欲求は、減ってくる。たとえば僕が20歳ぐらいの時は、感動的な音楽とか、小説とか読んで、背筋に氷の砂の粒が移動するような感覚を味わいたくて、それを定期的に味わわなければ気がすまない気がしていたが、最近ではそんなことはすっかりご無沙汰である。だから気が付くと社会科学の本ばかりたてつづけに読んで、しかもそれらが詰まらないことにさえ気づかずに読み続けているのだ。たぶん、年寄りの心よりは、若い人の心のほうがより大事だと言えよう。でも、たとえ年寄りでも、心が大事である以上は、やはりケアをたまにはする必要があろう。たまに小説を読むとそういうことを思い出す。

2007年の読書計画と2006年の読書の反省3

 2006年の読書計画はこうだった(実際に読んだものは打ち消し線で消した)

・ドラッカー「断絶の時代」
・体系的に学びなおすパソコンの仕組み(日経BPソフトプレス編)
・ひとりで学べる初級簿記(大津弘)
・民法と刑法(ほんの一部だけ読んだ)
・キルケゴール「死に至る病」
・リルケ「マルテの手記」
・サンテグジュペリ「夜間飛行」
・ハンチントン「文明の衝突」
・ドラッカー「現代の経営」(読んでいる途中)
・浅田彰「構造と力」

短いもの
1.土佐日記(去年読んだ)
2.伊勢物語
3.自殺について(ショーペンハルエル)
4.夢十夜
5.一千一秒物語(稲垣足穂)
6.花伝書
7.和泉式部日記
8.茶の本
9.ローマ字日記
10.おくのほそ道
11.鉄道屋(浅田次郎)
12.ゲルマニウムの夜
13.ベートーベンの生涯(ロラン)
14.赤い花(ガルシン)
15.春琴抄
16.変身(カフカ)
17.マンフレッド
18.北の岬(辻邦夫)
19.ランゲルスにて(辻邦夫)
20.白川夜話(吉本ばなな)
21.一夜(漱石)
22.淫売婦
23.幻影の盾(漱石)
24.川(井伏鱒二)

2006年の読書の反省
・英語の本を一冊も読まなかった。これはいけないことだ。どんなに薄っぺらい本でも一冊ぐらいは読むべきだった。
・これでも実行率は僕にしては薄気味悪いほど高いほうだ。


 2007年の読書計画

現代の経営(ドラッカー)
神曲(ダンテ)
自殺論(デュルケーム)
経済学史(シュンペーター)
本居宣長(小林秀雄)
未知の次元(カスタネダ)
Christmas Carol(Dickens)
漂民宇三郎(井伏鱒二)
古都(川端康成)
美しさと哀しさと(川端康成)
 
 短い本
・武士道(新渡戸稲造)
・伊勢物語
・花伝書
・和泉式部日記
・ベートーベンの生涯(ロラン)
・赤い花(ガルシン)
・春琴抄
・マンフレッド
・北の岬(辻邦夫)
・ランゲルスにて(辻邦夫)
・白川夜話(吉本ばなな)

 僕がいちばん熱心に読書をしたのが30代の10年間だったが、その時は、冊数を多く読むことに興味があったが、今はそういうのはなくなった。難しい本や長い本は、いつでも読めるというものではないけど、もし時間とか予定などを見計らって、読めるようであればいつでもそういうのを読んでやろう、という気持ちになって、やさしい本はあとまわしにしてもいいという気持ちになった。それがこの頃はまた心境が変化し、もし必要がないなら、いっそ本など読むのをやめてしまってもいいのではないか、という気持ちになってきている。つまり、読書のための読書、みたいなものに興味が薄くなってきた。で、2007年は、「これだけ読んでおけば、僕の読書煩悩みたいなのが、すっかりとはいかなくても、かなりおさまるのではないか」というようなものを選んで、なるべく読んでみようと思った。

 僕はこの頃ちょっと児童文学を読んでいる。児童文学は普通、大人になったら読まないものだが、でも名作だけでも膨大にあるので、大人になってからでも読むのがいいけど、文章が簡単なので、英語で読めば、英語の勉強にもなるし、と思って、僕は今年は英語で児童文学と呼ばれるものを何冊か英語で読んでみようかな、と思っている。
 何年か前、サイデンステッカーが関西に講演に来たので聞きに行った。そこでこのアメリカ人は、「日本ではフランス文学ばかり過大評価されて、アメリカ文学が過小評価されている」と憤慨してみせていた。それも、憎たらしくではなく、自国の文学があなたたちの国で認められなくて嫉妬しちゃう、みたいに思われるような感じであったので、会場は、この怒った顔をしたアメリカ人を前に、なんかいい雰囲気が流れていた。西洋人ってこういうのが得意だよね。
 そこでサイデンステッカーは、アメリカ文学の最高峰はMark Twainの"Huckleberry Finn"だと言った。日本では彼は児童文学者だと誤解されているが、そうではない、と言った。あと、ソロー「森の生活」についても触れていたので、僕はいつかこの二冊は読んでみたいなあ、と思った。でも「ハックルベリー・フィン」の前の話の「トム・ソーヤーの冒険」を僕は読んでいないので、それを先に読むべきか、それとも別にいいのか、と迷ううちについ読みさしにしてしまっていた。僕は英文で、「ハックルベリー・フィン」とか「鏡の国のアリス」をすでに持っている。またケストナー「飛ぶ教室」とかスピリ「ハイジ」も持っているので、それらを気の向くまま何冊か読もう。ハックルベリー・フィンを最初に読むべきかもしれない。僕にスラスラ読めるほど簡単な英文であるといいなあ、と思う。
 そうそう。僕は昔、"Dr. Dolittle's Travel"を原文の英語で読んだ。僕のレベルにぴったりの、スラスラ読める易しい英文だった。大江健三郎はこの「ドリトル先生」のいろんなシリーズがあるけど、それらのいくつかを、いろんな言語で読んだという。英語、フランス語、スペイン語とか。たしかに、それほどその言語が得意でなくても読めるような易しい本だが、大江が言うには、その中でも井伏鱒二の日本語訳がいちばんガリバーに合っていると言っていた。原文よりもいいと言っていたが、たしかにそうかもしれない。あのフワフワした感じの物語と、井伏の飄々とした文章は、すごいいい雰囲気を出すことだろう。どこか図書館の児童書のコーナーにあったら、これだけは井伏の日本語訳で、読んでみてもいいかもしれない。
 僕は7、8年前ぐらいに、井伏にはまってたくさん読んでいたことがあった。よく、「あの作家は文章がうまい」なんて言う。昔の僕は、作家なら当然文章がうまいだろ、と思っていた。で、たとえば「志賀直哉は文章がうまい」なんて言うけど、実際読んでも、僕には「志賀が他の作家よりうまいのかどうか、さっぱりわからない」という感想しか持たなかった。(今でもまったくわからないが…)で、僕が「ああこの作家は文章がうまい!」と本気で思った最初が、井伏だった。でもこの頃思うことは、ある作家の文章がうまい、というのは、ちょっと読んだだけでは絶対に分らない性質のものだろう。おそらく、一冊ぐらい読んでも、「この作品は魅力的だ」というのは分っても、文章がうまいか下手かは、分らないだろう。つまり、「ああ、この作家はこういう作家か」という実感がまず伝わってきて、話はそれからだ、という感じがする。たぶん、文芸でも、音楽でも、絵画鑑賞でも、骨とう品鑑賞でも、その作品、作家の出す雰囲気みたいなものを体感するのが、鑑賞の前提ではないかな。雰囲気を感じるには、なんらかの意味で「慣れ」がないと難しいのではないかな。で、その雰囲気に包まれて、ある一文が、その場でどう鳴り響くのか、初めて聞ける。なんて自分で書いててうざいぐらいスノッブだな。
 でもこの頃は井伏は読んでない。井伏は作家活動が70年ほどあるので、作品はいくらでもある。今では手に入りにくいものも多い。全体でどれだけあるかも僕はよく実感できない。でもまだ読んでないもので、「漂民宇三郎」というのだけは、いつか読んでみたいものだ、と思って、もう数年前、古本屋で全集の一冊が100円とかで売っているので、中にこれが入っているのを見つけたので、読んでもいいかな。この人がノリノリになるとどこまでいくのか分らないぐらい幼児的になっていく。
 誰が言ったか忘れたが、川端と井伏という同世代の二人が日本語の魔術師だ、と言ったとかいう。川端の文章も、いいと僕は思う。でもどこがいいかは、よく分らない。でも、僕は昔、彼の「千羽鶴」という本を読んでいた。たいして面白くもない内容だと僕は感じたが、でもそれを読んでいると、その時たまたま体調がすぐれないと感じていたのが、それを読んでいるうちに気持ちよく治っていくような気がした。なんか「晴れ晴れしたなあ」ということを感じることが少なかったのだが、それを午後いっぱい机に腰掛けて読んでいるのが、とても心地よかった。心が整っていって。村上春樹がエッセイで、ブラームスのピアノ協奏曲2番のコンサートを聞きにいって、体調が悪かったのが、最初のホルンを聞いたとたんにその世界にひきつけられ、演奏が終わった頃には体調がうそのように治っていた、と書いているけど、すぐれた芸術作品には、そういう体調とか心を整える効果がたしかにあると思う。そうそう。医者は多忙な商売だから、少ない余暇には、なるべく一流のものに触れていたいということで、絵とか宝石とか、高いけどいいものを身近に置いて、ちょっとの余暇でもそれらを鑑賞してリフレッシュする人がいるという話を誰かに聞いたことがある。

 僕は、西洋の思想で、アリストテレス、ヘーゲル、シュンペーターという、どれもすごい体系的広がりを持っていそうな人たちを少しは読みたいと思っているが、そういうことを言い出すとたぶん一生かかってしまいそうだ。今年はとりあえずシュンペーターの「経済学史」あたりを読んで、もしそれで満足したらそれでいいではないか、と思う。

 僕はこの頃読書について思うことは、「もっともっと読みたい」というよりは、「読むのは最低限にして、もっとコンピューターなど実用的なことを学んだり、自分で考えたり、作ったり、そういうことにより時間をかけたい」という感じである。これは、それだけの量の本を読んだから、というよりは、30代の10年間たっぷり読んだからだと思う。僕は大学ぐらいの時は、「この世の中の超一流のものに触れてみたいものだ」と思った。それで、世界文学のいちばんいいところだと思うような、ドストエフスキーとかを読んだりして、たしかにそれはものすごいセンセーショナルなものだったが、「ああ、人間の可能性のいっぱいいっぱいのところは、ここらへんだろうか」なんて思ったりもした。僕がそれ以降も読書する時には、そういう、人間のいっぱいいっぱいのところを感じたい、ということが常に頭にあった。で、僕のできる限りで、各分野の最高の成果、みたいに言われている本などを読んだりしてきた。他に残っていて、とりあえず僕に読めそうなものと言えば、ということで今年の読書計画の内容になった。たとえば、「自殺論」は、ウェーバー「プロ倫」と並んで、社会学の最高の成果の一つに挙げられるが、「プロ倫」は読んだので、次はこれだろ、という感じである。思えば僕は大学で社会学のようなものを専攻したはずなのに、今までこれを読んでいなかったというのは、いかにも劣等生まるだしであろう。
 でも僕はもう本ばかり読んでいようとは思わず、たとえば絵とか茶碗とかを見て、本当にいいものを「あ、これはいいですね」なんて分かるような、そんな目を養いたい、そんなほうに興味が向いてきているような気がする。
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