中公文庫「解説」によると井伏鱒二の代表作だそうです。知らなかったなあ・・・。
僕は30代の前半頃の一時期、井伏鱒二と安岡章太郎をかなりガツガツ読んでました。二人とも、特に安岡のほうかな、絶版になった本が多く、大阪の古本屋で二人の古本はかなり買い漁って読みました。僕は街を歩いていて古本屋があったら必ず入るというタイプで、そこで井伏と安岡の本は必ずチェックしていました。ある時はどこかの駅の改札を出たところで一週間だけの古本のワゴンセールをやっていて、そこで存在すら知らなかった安岡のエッセイの文庫本があるのを目ざとく見つけて買った時は、「こんなところでこんな本を見つけるとは!」って思って、その後何ヶ月もの間、「何という運命だろう・・・」なんて思ってました。そんな熱の冷めた今思えば、別に運命ではなくて、要するにそのぐらい熱心な関心をもって古本屋めぐりをして井伏と安岡の絶版本を探していたということですね。でも大阪近辺の古本屋は僕一人がいたせいでそれらの古本はかなり少なくなったはずです。10年以上も繰り返し繰り返しいろんな古本屋を回って、また新しいペンペン草は生えてないかみたいな勢いで買い回ってましたから。
この本もそんな時期に古本屋で見つけてきた一冊です。150ページ余りの薄っぺらい文庫本です。「こんな作品もあったのか、聞いたことなかったなあ」って思いました。今回気まぐれに本棚から取り出すまで、とっくに絶版になってる本だとばかり思ってたら、今でも出版されてて、しかも井伏の代表作ですって。
井伏の代表作としてよく挙がるのが長編の「黒い雨」とか、短編の「山椒魚」とか、あとは色々ですけど、なんせ井伏の創作期間は70年ほどあるので(1923年にデビュー作の「幽閉」(のちに「山椒魚」と改名)を発表し、1993年、95歳で死ぬまで創作活動があった)、作品の数は膨大です。そして井伏は長編、中篇の小説もあるけど基本は短編作家なので、年譜なんかにも載ってない作品がいくらもあって、その全体がどのぐらいの数量になるのか見当もつかないです。かなり有名な大作家ですが、今では新刊本でも全集でも触れることができず、中には散逸してしまった作品も少なからずあるのでは?と思ったりもします。僕は井伏を読んでいてモーツァルトのような印象を持つことがよくあります。これは僕だけの突飛な連想ではなくて、確か三浦哲郎の文章にも書いてあったし、きっとよくある感想にちがいないと思いますが、井伏の作品にもケッヘル番号みたいなのを振ってくれる人が出てきてもいいように思います。ケッヘルは626までですが、井伏の作品数は、短編が主だしエッセイも多いし詩もあるし、創作期間も長いので1000は越すんちゃうやろか?そんな膨大な作品の中で、これはすごい、これは大したことない、という違いが全くないわけではないんですが、他の作家と比べてその差は大きくないし、そもそもある作品の価値を客観的に定めるのが難しい作家でもあります。
その一例として、引用の便から、「あの山」という三行だけの詩を挙げましょう。
あれは誰の山だ
どつしりとした
あの山は
僕にとってこの詩は井伏を象徴するような、無視できない存在感を持っていますが、井伏を読んだことのない人にとっては、くそしょーもないゴミ同然の短い言葉にすぎないでしょう。これは一方で井伏を川端と並ぶ「日本語の魔術師」と言う人がいる一方で、「ナンセンス文学」という評も定着しているところにも現われています。井伏文学はすごく価値があるという見方と、まったく無価値だという見方が両立しています。また、そうでなくてはならない。つまり、僕は井伏文学は日本の古典として後世に残さねばならないと思いますが、一方で「井伏の作品下らない」って言える余地がなくてはならない。事実下らなかったりもするんで。
僕が井伏を読み始めたのはNZのワーキングホリデーから帰って間もない頃に読んだ「ジョン万次郎漂流記」からでした。帰国したばかりで西洋と日本の2つの文化の間にいる意識が強かったので、西洋に初めて触れた日本人の話は強い興味がありました。新潮文庫で読んだんですけど、その中に「二つの話」という聞いたこともない短編も入っていて、ついでだから読んだんですけど、読みながら、なんか魔術をかけられたような気持ちになったのを覚えています。これはNZ、西洋の一部といってもいいでしょう、ロジカルなものが文化の底にある場所での物の感じ方が残っていたから起った感覚だったと思います。西洋人からみると東洋って神秘的にみえるとよく指摘されますが、それと直接つながる感覚だったと思います。「うわあ!」って思ったんです。「え?何これ?」って。それで井伏を読むようになったんですけど、その後も井伏の作品を読むと「え?今自分を訪れたこの感覚なに?」みたいな感じに時々なりました。そこを読み直しても、普通のありふれた文章があるだけで、僕を襲ったものすごい感覚がどんな仕掛けで起ったのか、わかんないんです。もう「日本語の魔術師」って呼ぶしかないですよ。
井伏の本って読み進めれば読み進むほどはまっていきます。文庫本の「解説」にこの作品を「近代日本文学に独自の位置を占める名品と評価される」なんて書いてあるけど、ある文学作品を「これは名作」「これは古典作品」って呼ぶ時、野菜にたとえると、畑になっていたのを切って陳列棚に並べて値段をつけてるような感覚があると思います。でも井伏の作品って、あんまり陳列棚に並べることを考えず、庭で勝手に野菜とか果物を作ってるって感じがします。だから井伏をどんどん読んでいくと、八百屋に出掛けて野菜を選ぶんじゃなくて、井伏の庭に行ってそこでまだ根っこがついたままの野菜を見てるって気がします。もちろん八百屋みたいに値段なんかついてないし、「こんな曲がってるキュウリは出荷できないでしょ」っていうものも「これはこれでいいじゃないか」っていう感じ。「八百屋に並べるといくらぐらいになるのかな」って発想自体がなくなってくるんですよね。「変な形でもこの庭でとれた野菜ならどれもおいしい」っていう感じで読んでます。
でもこの「珍品堂主人」はわりと「これは特別に出荷するぶん」っていう意識が高いものだと思います。三人称形式で書かれていますが、ナレーションがですます調で、これは井伏にしては珍しいです。なんでですます調にしたのか分んないんですが、「普段とはちがった書き物にしよう」という意識の表われかもしれないです。150ページと、中編小説あるいは短い長編小説ですが、最初から最後まで章分けが一切ありません。骨董の目利きの話で、僕自身は骨董のことなんか全く分らないんですが、初めの数十ページはその道の通しか書きえないような知識を織り交ぜながらユーモラスで興味深いエピソードをこれでもかこれでもかと数珠つなぎにしていっきに何十ページも読ませますね。その数珠つなぎ具合が「おっと井伏普段より気合入ってるね」という感じが伝わってきます。話はやがて主人公が料理屋という異業種に参入してまた別の興味が開けてきます。主人公は、高級料亭で出す料理の食材や陶器を日本各地に旅して調達しますがそこでも目利き具合を発揮します。なんだか北大路魯山人みたいな世界だなと思ったら、この小説の登場人物は魯山人を含む人間群をモデルにしてるんだそうです。
魯山人は大正14年、東京に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」という会員制高級料亭を中村竹四郎という人と設立して、中村が経営者、魯山人が顧問となり、魯山人は秦秀雄という人を抜擢して支配人とした。後に魯山人は秦秀雄と仲違いして秦をクビにする。その後、経営者の中村は魯山人の出費の多さや横暴さに耐えられなくなって魯山人をクビにする。
「珍品堂主人」の主人公は高級料亭「途上園」の支配人ということなのでいちおうそのモデルは秦秀雄ということになっているようですが、もともと「途上園」を構想し、出す料理や陶器を選び出してくるのは主人公なので魯山人とダブるところも多いように思います。小説の時代は戦後ということになってるし、顧問は蘭々女という女性だったりして、実際の「星岡茶寮」とは違うことは明瞭ながら、秦秀雄が号を珍堂と称していたところは、この小説の主人公が珍品堂と呼ばれているところとダブるし、料亭の支店を大阪の曽根に作るところは、井伏が「星岡茶寮」とその人間群をモデルにしたことは明らかでしょう。
料亭は出資者も見つけ、繁盛しますが、出資者が顧問として雇ったやはり目利きで仕事は滅法出来るが一癖も二癖もある蘭々女という謎めいた女と組織内でパワーゲームを繰り広げる。その凝った道具立てとストーリー展開は井伏らしいのですが、普段よりもてんこ盛りで、そこに井伏の気合いを感じると共に、一方で普段の天衣無縫という感じではなくて、人為が入ったという感じがなくもない。井伏の小説はお色気シーンというのは初期の若い頃の作品にすごく淡くユーモラスな感じで控え目に出てくるぐらいですが、この作品の中では「お、井伏にしては頑張ったな」という感じで出て来ます。他の作家と比べたら「そんなのお色気と呼ぶほどでもない」という程度ですが50すぎてからの井伏の作品としては実に珍しいことだと思います。どういう事情があったか知りませんが、この作品にはいつもと別種の気合いが入っているように思います。頑張った甲斐あって「代表作」って言われてよかったね、という感じです。
上にも書いたけど、井伏の作品を読んでると非常にしばしばモーツァルトを思い出すんです。昔っからずっとです。でも今回なぜなのかということについて明確な答えが分ったように思います。僕は去年、柄谷行人の「日本近代文学の起源」を読んでたんですけど、そこに近代の芸術家と前近代の職人のちがいについて読みました。
ある作品を作る時、そこに自分を表現するかどうかの違いがあります。クラシック音楽の場合、曲数にその違いが出ていると思います。ハイドンは交響曲を100曲以上作り、モーツァルトも35歳の若さで死んだにも関わらず約40曲作っています。でもハイドンのお弟子だったベートーヴェンは交響曲作家と言われたけどたった9曲。それ以降の人はシューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラーと9曲とか10曲ぐらいの人がすごく多いです。ドイツの主要な交響曲作曲家と言われるブラームスやシューマンはたった4曲、メンデルスゾーンも5曲。ブラームスなんか交響曲1番を着想して完成するまで20年かかってます。そこには作品で自己表現しようという姿勢が色濃く伺え、こういう姿勢で作品を作る人は、ハイドンみたいに100曲なんて書けないですよね。でも職人なら作れる。モーツァルトは近代的な自我、「この自分の内面を作品で表現しよう」なんていう自我はなくって、単にすぐれた作品を書こうという意識があっただけだと思う。同じことは井伏にも言えて、そういう我執のない感じが井伏とモーツァルトの印象が似てくるんだと思う。
井伏も職人と芸術家の違いには充分意識的で、しかも職人のほうが上だという視点を持っている。この本の中にそれがストレートに出てくるところがある。
主人公が料亭で出す陶器の注文に岐阜県の名高い陶工を訪ねる。その陶工は「芸術作品をつくろうとして精進している」という。
珍品堂は持って行った見本を古山に見せ、こんな注文をつけました。
「あんたの作ぶりを止して、この通りの贋物をつくってもらいたいのです。名品をつくろうとせずに、あくまでも職人のつもりでやって頂きます。それを承知してもらえますか。」
(中略)・・・古山は美濃伊賀の皿を長いこと手に取って見ていましたが、一つこっくりをしてそれを畳の上に置くと、また手に取って見つけているのでした。この皿なども、桃山時代に発達した伊賀焼の贋物で、陶工が自分の作ぶりを無視して取りかかったからこそ骨董として見られるのです。陶工が職人の道に徹していたおかげです。乾山にしても、芸術家らしさが無くなったときにいいものをつくっている。おのれを出した焼物にろくなものはない。焼物は芸術作品とは違う。要は、見る人が芸術品として感ずるかどうかであって、見る人の如何にある。これが焼物に関する珍品堂の持論であるのです。 (引用p54-55)
井伏の作品もこれです。井伏の作品にウェルテルとかジュリアン・ソレルとかボヴァリー夫人みたいな近代的自我を持った登場人物は一切出て来ない。
日本の作品でいうと、漱石なんか日本の近代的自我の葛藤を描いたと言われますが、「彼岸過迄」や「行人」なんかそれがすごく出てますよね。三島の「金閣寺」の主人公も強烈に自分という意識とこだわりを持ってます。安岡の小説の主人公も、庶民的でいじけた、小さな自我の主人公ですけど、紛れもなく自分という意識とこだわりを強烈に持った近代人ですね。・・・これはあくまで僕がそう見ているということなんですが、すべて「これは近代的自我」とか「これはちがう」とかクッキリ分けられるというものではないですね。「源氏物語」の浮舟の葛藤はどうでしょう。彼女が選んだ「出家」という結論は大きく確固とした自我の否定とも言え、あんまり近代的ではないでしょうが、そこに至るまでの心の葛藤は、環境が環境ならば「緋文字」のヘスター・プリンにも似たような自我形成を行なう人生を選ぶ準備が充分にできた状態とも言えると思う。近代の川端康成の作品には、浮舟に似て、社会的には無個性の女を演じざるを得ないけど内面では強烈な個性を持ったヒロインたちが登場しますよね。そのうちの一人に「千羽鶴」のヒロイン・太田夫人がいます。僕は近代の日本の作家でいちばん好きな人を挙げよと言われたら、川端と答えるかもしれないですが、そのうちでいちばん好きなのが「千羽鶴」です。僕はその中で、文子が好きなんですが、「千羽鶴」の主人公はその母の太田夫人。この小説もやはり骨董の陶器の美が大きなテーマで、1898〜99年とほぼ同じ頃に生まれた二人の「日本語の魔術師」川端と井伏が骨董をテーマにした小説を書くとこんなに違う、という興味深い比較もできると思いますが、僕はどこかで井伏が「千羽鶴」を評して、「太田夫人は志野茶碗から思いついたんじゃないか?」と誰かに語ったという話を読んだことがあります。年代的には「千羽鶴」が昭和27年で「珍品堂主人」が昭和34年と川端のほうが7年ほど先行していて、井伏はこの作品で、骨董と女のアナロジーについてしばしば言及してるが、これは本文庫本の解説によると「骨董を女と見る論法の出自は小林秀雄と聞く」なんて書いてあるけど、「千羽鶴」の影響かもしれないですよね。あるいは骨董を知ってる人なら誰から言われなくてもそういう発想になるのかもしれない。
長くなりましたが、近代的自我ということについて最後にもう少し。
なんか近代的自我近代的自我って書くと僕が近代的自我とは何か?ってハッキリ理解して書いてる感じがしますが、実は分ったようで分らないようなボワーンとした感じであります。でもものすごく単純な分別法としては、僕みたいなお堅い家庭に育ったとして、ある文学作品を机の上に置いといて、親に見られてもいいか、見られたら嫌か。嫌だったらそれは近代的自我を扱ってる可能性が高い。(それがエロ小説だとか物騒な宗教カルトの本だとかいうケースは除く。)親がですね、仮に「お前の机の上に置いてあった本を読んだぞ。その内容についてじっくり語り合おう」と言われたと思ってみましょう。それが「珍品堂主人」ならまあいいけど、「千羽鶴」なんか絶対嫌でしょ?僕なら家出しますね。鴎外の「高瀬舟」ならOKでしょ?でも漱石も「坊ちゃん」とか「猫」ならいいけど、「彼岸過迄」とか「行人」についてじっくり語り合おうなんて親に言われたら、手足に突然赤いポツポツが出てくるかもしれませんね、拒否反応のあまり。
「野菊の墓」だって嫌でしょう?でも「永遠の0」とか、あるいは「世界の中心で愛を叫ぶ」だったら、気乗りはしないまでも、家出してまで拒絶する理由もないでしょう。読んだことないけど「もしドラ」もOKっぽい気がする。もう「珍品堂主人」の話でもなんでもなくなってますが、最近の小説って、近代的自我を扱わなくなってるのかな?って。村上春樹も、性行為のシーンが多いのはあれだけど、それを除けば親とも論じ合って気まずくなるって感じではない。「永遠の0」は主題が先の戦争ということもあるけど、出てくる人物に特に個性ってないですしね。「世界の中心で愛を叫ぶ」も恋愛小説であるにも関わらず、真に個性を持った人物って一人も出て来ない。
・・・今という時代は、個人で誰でも情報が発信できて直接世界のどことでもつながることができて、個人の存在が過去のどの時代よりも大きいという感じがしませんか?だから僕は梅田望夫の「ウェブ時代をゆく」を読んでた時、とても意外な感じがしたところがありました。この中で梅田は、はてな創業者・近藤淳也の「インターネットは知恵を預けると利子をつけて返してくれる銀行のようなものだという感じ」(p160)という言葉を紹介しながら、自らもある考えをネット上で紹介したら、多くの人から意見をもらい、「「知恵を預けると利子をつけて返してくれる」なんてものではなく「脳を預けたらそれが膨らんで戻ってくる」ような気がした。」(p161)と言っている。これを読んだ時、新しい時代の人間は、“肥大化した”と言われる近代的自我とは別の、もっと軽々とした自我を持つんじゃないか、という印象を持った。知恵を預けて利子がついて帰ってくるならいいけど、脳みそって、自分の中にあるものなのに、それを外に貸し出すという発想は、自分と他人の区別をつけてないっていう印象がとても強い。それが自分の考えなのか他人の考えなのかもはや関係ないという発想は、良し悪しは別ですが、近代的自我とは異質だという印象を持ち、僕はこれを読んだ時、当惑というのか驚きというのか、どう判断していいのか分らなくなったのを覚えています。
従来、どこかの大統領とか大経営者とか偉い学者とかが写真入りで紹介される時、よくあるパターンとして、自分の書斎の、難しそうな本がぎっしり詰まった本棚を背にして大きな机の前に座ってるみたいな写真がよくある。でも最近の知的空間は、本棚なんかなくて曲線を描いた机の上にパソコンが置いてあるだけ、みたいな感じになっていて、そのスッキリした感じが、新しい時代の人間の自我が象徴されているような感じがするんですね。
このどちらが良いか悪いかとか、好きか嫌いかということは度外視しています。堺屋太一は80年代に「知価革命」という本で、モノがあふれかえったのが豊かだという工業社会は終わり、モノの豊かさを重視しない新中世のような時代が来る、と予言したんです。全部当ってるとは言わなくても、わりと当ってる気もします。堺屋はそういう時代の傾向を、この85年の著書の中で、「ポストモダン」という、当時まだ成熟してなかったけど、今や多少老朽化した感じの言葉で語っているが、ポストモダンは自我にも及んでいるということですかね。だから逆に、こういう中世の生き残りみたいな井伏の世界は、意外と今の人が読むと新鮮味というか、昔の日本(人)を新鮮な目で再発見した!という感じになるかも。
僕は20年前は井伏を熱心に読んでいたんですが、今はもうほとんど読まないです。今回読んだのは、難しい本を読んでいて疲れちゃったから、息抜きのために読んだんですが、なんだか怠けてるっていう後ろめたさがあったんだけど、読み終わったらなんだか「自分の本来の場所に戻って来た」みたいな充実感を覚え、自分でも意外でした。やっぱ人間って昔からなじんだことをやると「これだよ」っていう安心感に包まれるってことですかね。それともう一つ、ここについ最近まであった日本、今は失われてしまった日本に触れて、個人としてではなく日本民族として、正しいところに戻って来た、という感じになったということもあるように思います。井伏のような感覚の作家、これと似た作家は、非常に日本的でありながらすでのもう今はいなくて、今後も二度と出ない種類の作家だと思います。それはすでにそういう伝統が途切れてしまっているからだけど、考えてみれば井伏に似た作家、それに匹敵する作家なんて昔も今もいないように思います。井伏を師とあおぐ作家たち、太宰治、安岡章太郎、三浦哲郎、開高健は、みな井伏にどこか似ながらも、近代の作家です。それはちょうど、モーツァルトがロマン派以前の作曲家だったのに、ベートーヴェンはじめ多くのロマン派の作曲家に崇められたのと似てると思います。ドヴォルザークなんかロマン派のド真中の作曲家で作風全然違うのに、モーツァルトは我々の太陽だなんて言った。モーツァルトのすごいところは、ベートーヴェン以降の作曲家たちのように近代的自我とは関係ないところで、いわば職人として曲を量産したのに、それ以降の異質な人たちに今も崇められているところです。僕はそこに、近代にない可能性のすごさを感じるのですが、井伏についてもまったく同じことが言えると思っています。