生きてる感想

僕が好きなことを書いて 誰かが楽しんでくれれば それ以上は望むべくもないでーす

日本論

移民時代

 今年1月8日の成人の日、NHKがニュースで、東京23区の新成人の8人に1人が外国人と報道した。23区の中でもいちばん外国人の比率が多い新宿区は45.7%と、新成人のほぼ半数が外国人だという。他にも豊島区(38.3%)、中野区(27%)などが多い。背景には近年の留学生や技能実習生の急増があり、5年前と比べ留学生が1.7倍(約10.5万人)、技能実習生が3.4倍(約6600人)(都内、すべての年代)になっている、という。

 このニュースはかなりの反響を呼び、ネット上でもこのニュースに触発された各種記事が多く見られた。僕も軽いショックを受けた。

 少子高齢化の進行により、日本の生産年齢人口は1995年をピークに減少に転じ、現在約7500万人。総人口も2008年をピークに減少に転じて、現在1億2500万人を切った。ここには在留外国人も含まれている。日本の人口は1年前より20万人減ったが、もし去年1年間で増えた15万人の外国人をカウントしなければ日本の人口は1年間で35万人減ったことになる。(数字は概数)この「日本の人口」の中には日本に帰化した人も含まれるが、今のところ新たに日本国籍を取得する外国人は年間1千人程度と少ない。
 日本に来る外国人は若者層が多い一方、日本人は高齢化がすすんでいるので、若者層だけでみると外国人の割合は大きくなり、新成人に占める外国人の比率は、場所によっては8人に1人とか、半数近くが外国人ということになってくる。

 この傾向は東京だけではなく、今や47都道府県すべてで有効求人倍率が1を超えるような人手不足で、コンビニの店員も外国人が当たり前になってきているし、製造業の現場とか流通の仕分け作業場でも外国人を普通によく見かける、というか多い。

今、日本はバブル以来四半世紀ぶりに人手不足で、日本人労働者だけでは社会が回らなくなっている。この人手不足は一時的なものかそれとも今後ずっと続くものなのか、僕には分らない。少子高齢化による労働人口の減少に歯止めがかかる徴候が一切ないということを考えると、外国人労働者が必要な現状は基本このままずっと続くようにも思われる。しかし「人手不足」なんて言葉は今の安倍政権下で言われ始めたことで、それまでの四半世紀間は「仕事がない」という状況がバブル崩壊以来ずっと続いてきたのだ。
 5年前、アベノミクスの中でアナウンスされた大胆な金融緩和によってそれまで1ドル75円という空前の円高だったのが劇的に円安方向に動き始めた。自国通貨を好ましい水準に誘導したりデフレを止めたりすることを自在にできる人なんてこの世にいないはずだ。安倍首相はアベノミクスの直接の目的である「デフレからの脱却」はいまだ成功してないが、円安誘導は見事にできた。円高もデフレも、日本円という通貨価値の上昇を意味する。これを止めるには通貨価値を下落させればいいということで金融緩和をしたが、円高だけストップしてデフレはいまだ完全には克服できていない。不思議といえば不思議だが、とにかく結果として見事にできた円安のおかげで、倒産すると言われていたパナソニックやソニーは息を吹き返し、自動車産業も回復した。最近決算発表のあったソニーもトヨタも過去最高益だそうだ。日本経済の現在の好調さも円安に負うところが非常に大きい。その貢献度がどれほどのものかは僕には分らないが、もし1ドル110円ぐらいの今の水準が再び円高に向かい100円を切るようなことになれば、少なくとも景気は大幅に悪化し、雇用情勢も大幅に悪化し、過去最高記録を更新している外国人観光客数も激減するはずだ。そうすると、労働者、観光客どちらの外国人もいっきに減少に転じるはずだ。

 国籍は地域ごとの違いが大きい。大阪市の生野区は区民の4人に1人が外国籍だ。これは今に始まったことではなく、ここは東京・新大久保にコリアタウンができる前は日本で唯一コリアタウンがある場所で、ここの外国籍のほとんどはコリア系の人たちだ。同じ大阪の中の八尾市や藤井寺市には、すでに20年前にベトナムタウンと呼んでもいいような場所が形成されていた。ベトナム人が増えてきたのはここ数年のことなのでこれはかなり早い。京都に行くと同じ外国人でも観光客や、学術関係で大学などに滞在してるっぽい欧米系の人を多くみかけるし、関西を離れて製造業のさかんな地域に行くと電車に乗ってても、関西ではあまり見かけない南米系の人たちが多くてびっくりする。普段着で、手ぶらでスマホだけ持って、リラックスした様子で電話をかけている。横には、やはり普段着の彼女らしい女性がその会話を聞いて笑ってる。彼らは外国語で話しているが、すでに地域に居ついた生活者であることが伝わってくる。今、日本はどこに行っても同じコンビニ、牛丼屋、ブックオフなどがあり地域の違いがなくてがっかりすることが多いが、外国人の違いに地域の差がいちばんよく出ていたりする。これは、条件によってどの外国人がいるかいないかの差異が出ていて、もしその条件が変わってしまえば、これらの現象も劇的に変化しうることを意味するだろう。

 例えばブラジル人はピークの2007年には30万人強いたが2008年にリーマンショックが起きると翌年から数万人ずつ減少し2012年には20万人を切った。逆にベトナム人は2012年には5万人程度だったのが去年(2017年)はほぼ20万人に達し、国別の在留外国人数でブラジルを抜いて4位になった。ブラジル人は日系だと定住者の資格を得て日本で制限なく就労活動ができて、主に製造現場で働く。ベトナム人は日本との経済・文化など色んなレベルでの関係の深まりを背景に留学生や技能実習生という資格で来日して就労している人が多い。それぞれ景気、法令、国交その他社会的条件の変化が起るとたった数年で人数が半減したり倍増したりする非常に不安定な立場にある。
 まさに今日みたいな日は大変だろうねえ。今日、2月6日の世界同時株安。5日のNYダウ平均が取引時間中に1500ドルと暴落、終値も1100ドル安でどちらも過去最高の下げ幅で、それを受けて東京でも欧州でも下げて世界同時株安になった。ファンダメンタルズが堅調な中での長期金利上昇を受けての機械の自動売買が絡んだ一時的な調整であって心配ないということだが、金融関係者は今まだ冷や汗が出続けてるだろうけど、外国人労働者の家も今日は笑顔はないだろうね。無言でニュース見ながら色んなことに思いを巡らしてるんじゃないかな。


 移民の定義は、国際的な基準では、1年を超えてその国に居住する人、ということで、そうすると日系ブラジル人などに認められる定住者、その後一定の条件下で与えられる永住者の増加(現在10万人ぐらいいる)は、国際標準ではすでに移民を受け入れていることを意味する。

 永住外国人は、ずっと日本に住めるのだが、しかし日本国民ではないから選挙権もないし、まだ帰る国がある。だから仕事がなくなれば仕方なく帰る人も多いはずだ。
 まあ彼らは日本にとっては都合の良い景気調整弁である。ここで道徳的なことに思いをはせると、そんな都合よく彼らを使って日本はバチが当らないか、なんて考えても考えなくても経済って道徳的なこととは別個に動くものだ。ただ、日本人の間での格差問題とか非正規雇用が多くなってる、みたいなのは左翼系の野党が中心に政治がなんとかしろ、なんて国に言ってくれる。経済問題を政治でそう簡単に解決できるわけがないけど、同じ日本で働きながら、雇用の安定どころか景気が悪くなれば真っ先に首を切られ、何万人っていう単位で住み慣れた日本から追い出される(政治的にではなく、経済の力で)。自分たちの代弁をしてくれる代表に投票する権利も与えられてない彼らは、かわいそうというか、弱い立場ですよね。・・・日本の左翼政党は格差とか非正規雇用の問題をやかましく言います。僕自身はその切り口自体あんまり筋が良くないと思うのですが、彼らがそんな主張は普遍的な価値に基づくのだと言わんばかりの主張をするわりには、もっともっと不安定な立場にいるこうしたブラジルとかベトナムから来た労働者のことなんか眼中にないみたいなのにはげんなりくるんですよね。日本の政治家だからまず日本人の代弁者だというのは分るし、外国人は基本、票にならないけど、ついでにでも、彼らのことも気にかけてるというジェスチャーをすれば僕は彼らを見る目も多少変わるんだけど、今のような左翼政党の態度は、「ああやっぱ票か。打算か。政治か。普遍的価値なんてタテマエだけか。関心があるのは自分たちの利権だけか」って気分になっちゃうんですよね。
 
 話は戻ります。上で、一年以上居住してる外国人は移民であると言ったけど、一歩すすんで、国籍自体をあげちゃうという移民政策をどう思うかと問われれば、僕は慎重さは必要ながらも前向きに考えることには賛成だ。いろんな留保はある。特に中国からのアグレッシブな意味あいを持つ移民には警戒が必要で、なんだったら中国本土からの移民だけはシャットアウトしたほうがいいかも知れない。しかしそれは移民自体を否定的にみる理由にはならないという考え方である。
 移民は文化が違うから問題が生まれないわけはないです。マイナスも決して無視できないほど大きいことは最初から分かってる。でもそれにも関わらず、それを上回るプラスがあると僕は思っている。アメリカで、人種、ルーツ、宗教、文化的背景が違う色んな人たちがいるから、深刻な暴動とかテロが起きて大変だなあって日本人としては思うけど、それでも「トランプ大統領が移民に敵対的なのはけしからん」とか言って、こんなに問題多いのにまだ移民賛成なの?よく言うわ、っていう感じですよね。いろんな人がいる多様性がアメリカの力なんだとか言って。多様性って、安全とか治安を犠牲にしてまで大事なの?って感じですよね。僕ももう四半世紀前にNZから帰ってからずっと日本なんでやっぱそういう発想に自然になります。でも、NZにいた頃の自分はどう発想していたか、というふうに思い出すと、別のことを考える自分がいる。やっぱ年とってくると、同じ自分でも、違うことを考える二人以上の自分がいたりするんですよね。
 どんな感じかというと、これは日本に滞在するBBCの記者の文章で読んでことがあるんだけど、東京で歩いてたら、日本人の女性に流ちょうな英語で話しかけられて、それで食事をしながら話をしたそうだ。彼女はアメリカやイギリスの滞在が長かった人だという。BBCの記者が、日本は治安がいいから女性にとっては日本のがいいでしょう、と問うと、「あの治安の悪さが刺激的でなつかしい。日本は治安が良すぎて退屈だ」と答えたという。BBCの記者にはそれがどういうことか、よく理解できたろうと思う。僕も今突然聞けば、この女性が言った言葉は感覚的によく分らないけど、僕もNZにいた頃のことを思い出すと、「そういえばこんな感覚だったかな」って思い出せたりしますね。
 僕は上で、日本が移民を受け入れることに賛成と言いました。これは政治的主張ですね。でも以下は、そんな主張とは独立して、個人的に移民ないし外国人、外国文化との接触について僕の個人的に感じてきたことを書いてみよう。
 このブログの他の記事でも何度かチラッと触れたことがあるけど、僕は引きこもり体質で、友達付き合いも下手で苦手で、一人でいるのが好き、みたいなタイプです。僕が政治的に保守的な考えで日本を擁護するような記事をこのブログでもたくさん書いてますが、僕はもともと日本はむしろ嫌いで、だから日本から少しでも離れたくて外国に行ったという面もあります。でも逆に日本が好きになって帰国した。NZがひどかったので日本のがましだとかいう後ろ向きな話ではなくて、日本という理解しがたくまとわりついてくるものから一旦距離を置いたことで、別の日本との間合いの取り方を会得したというか。僕が帰国した頃に活躍していた保守の論客たち、竹村健一、小室直樹、渡部昇一、西尾幹二、彼らはみな充実した留学経験のある人たちだ。僕はたった1年のワーキングホリデーなので彼らと比較するのはおかしいのですが、留学経験と彼らの保守のスタンスは結びつきがあるというのは自分のささやかな渡航経験から確かなことのように思えました。僕も外国滞在を経由して自国を尊重する仕方を学んだというところが明らかにあります。のみならず、人間付き合いってこんなに楽しいのか、って思って、引きこもり体質や人づき合いの悪さを、一時的に、またある程度改善できた。もうNZから帰って20年以上たった今でも、あの頃覚えたスマイルは僕の顔に残っている。向こうの人はあいさつの時におじぎをしない代わりに、満面のスマイルを相手に見せます。僕は日本人だからそんなことしたことなかったんだけど、親切な人たちに"smile. smile."なんてアドバイスされることが度々あって、生まれて初めて"hi!"なんて言ってスマイルしてたんです。しぐさや行動って人の気持ちとか世の中に対する向き合い方にまで影響するもので、引きこもりで無愛想な僕が、帰国してからは、少なくとも表面的にはすごく愛想のいい人になりました。一旦覚えた顔の表情の筋肉って、形状記憶合金みたいに何か機会があるとすぐ顔に戻ってきます。人に僕ぐらいニコニコ顔を向ける日本人ってあんまりいないと思う。

 外国の人と時間を忘れて話し込むという体験を何度かした。僕は日本人なので言うまでもなく日本語に比べたら英語を話す時には不自由ありまくりですが、それでも、僕が人生の中で印象に残る人との会話を3つ4つ挙げろと言ったら、そのすべてが外国人と英語で話したものなんです。
 高校時代に、先生が「皆さんも大学に入ったら友人と朝まで語り明かすなんてことがあると思います」なんて話をしてくれた時は「ああ大学生活楽しみだなあ」って思ったけど、実際入って、「今日は朝まで飲もう」なんて言って友達とお喋りするなんてこともよくあって、子供の頃の話とかする時は盛り上がることが多かったけど、高校時代に憧れてたような人生とか哲学を語り明かすみたいな感じには全然ならなかった。冗談とか言って、人のうわさ話をして、「あー、なんか面白いことないかなあ」とか言って。
 でも外国の人と話し込む時は、高校時代に憧れてたような、人生について真剣にじっくり語り込んで、ものすごく充実してハッピーになるっていう感じの会話をしてたんです。相手は色々で、ドイツ人、アメリカ人、香港人とか、とにかく日本人じゃないんです。自分と違う人、「これが当たり前」という感覚がちがう人と、「あなたと私はこんなに違うんですね。文化の違いって興味深いですね」っていう会話ほど胸がわくわくするものって世の中にそうそうないと思います。日本人は無個性とか単一性とは僕は思いません。でも、「これは当たり前」っていう感覚はものすごく幅広く共有してますよね。「今度生まれ変わるとしたら男と女どっちに生まれたい?」ってきいて「生まれ変わるって意味が分からない」なんて言われることないですよね。「あなたは神様がいるというけど、たぶん見たことないでしょう。なのにどうしているって信じられるの?」って聞いたことがあるんです。自分が乗るはずの車が事故に遭った、もし乗ってたら大惨事だった、神様が助けてくれた、って。途中まで少し分るんですけど、日本人だったらそういう理由で仏教徒にならないと思うんだよね。けんかを避けるためのうそのつき方。お金を借りたり踏み倒す時の態度。時間を守らなかったり約束を破ったりした時の態度。どこで譲ってどこでぐいぐい来るか、とか日本人だったら当然ここでこう来るというところで違う感じだったり。当たり前と思ってたところで立ち止まって考えるというのは刺激的なことです。「こんな当たり前のことが分らないお前は頭がおかしいのか?」みたいことを言う奴を相手にするほどうっとうしいことはないです。こんなのばっかだったらそのうち戦争が起るでしょう。でも、「人間だったらみんなこう考えるとばかり思ってたけど違うんですね。文化の違いって面白いですね」っていう会話ができたら、そういう会話の一つ一つが一生の宝になるぐらいですよ。そしてそういうふうに話せる人が、移民国家だとたくさんいます。移民の人は当然、自分たちの「当たり前」がここでは通じないというのが分かってますから。街の中で居ながらにして文化人類学的な意識を持ちながら暮らしてる人たちと言えましょう。
 ついでに言えば僕はその頃、文化的な違いが、「当たり前」で遮られている心の底のほうまで問題にせざるを得ないことが外国の人たちとこんな深い会話を可能にしてる、ということを意識してたけど、後に、そもそも日本人には個と個がぶつかる手応えのある会話はできないんじゃないか、と帰国後思うようになりました。(あくまで一般的にということです。)つまり「個」とか「我(ego)」というものがない、あるいはとても弱い。個として自立する訓練をしたことがない。目の前の日本人を、世界でただ一人の個性を持った人として対しても、agentを相手にしてるようでprincipalは別のところにあるという感じを持たざるを得ないんですよね。つまりその人は自分の所属する組織・集団の代弁者であって、個性ある主体として話す気なんて全然ないのだな、って。ちゃんと個を持った主体でありえる日本人と知り合ったこともありますが、少ない、珍しいですよね。でも、自分の中の「当たり前」というものが当たり前じゃないこともありうるんだ、って認めた後は、たぶん個でしかありえなくなると思います。「当たり前」って思う感覚は自分が所属すると感じている組織とか集団・文化からきてるはずで、その当たり前が絶対じゃないと意識しはじめたその時から、その集団からはみ出した「個」でしかありえない自分に目覚めちゃうということですから。

 異文化の人とふれ合うことで、自分の中の「当たり前」というものを溶かしていくのが楽しかったのは、それによって日本を自分の中で相対化できたからだと思います。価値観を一つしか知らなければ、そこから脱け出してどこかに行こうにも行けない。でも、日本で日本人に「これが当たり前だろう」って言われても、違うよ、そうじゃない世界を知ってるもん、って。
 それまで、亀が背中の甲羅を持たれてじたばたしてるみたいに、僕は日本というものに背中を持たれてどうあがいてもどうしようもなく日本っていう世界から逃れられなくてしゃくにさわってたのが、やっと背中を離してもらって、日本を突き放して見てた、という感じなんです。そしたら、確かに日本人は奇妙なんですけど、でもどんな文化的存在だって同じ程度には奇妙だと思うし、日本人は真剣で、働き者で、我を捨てて他の人たちのために努力するし、仕事の完成度はやたら高い。時には、心が病んでるんじゃないかと思うほどの高さだけど、でも滅多に壊れることのない機械を作ったり、キメの細かいサービスを提供したり、電車のダイヤを1分も違わず運行し続けたりすることには間違いなくプラスの価値がある。僕は決して悪くない文化の中で育ててもらったんだ、って、外国に行って初めて気づかせてもらったという感じがあります。

 「外こもり」という言葉がありますね。これ何かというと、日本という単一の価値観から逃れることだと思います。日本に他に逃げ込む世界がないなら、自分の部屋に引きこもって、世界を隔絶しなきゃいけない。でも日本の外には、日本じゃない価値観の世界が広がっているので、あの沼みたいな価値観から脱け出せるんです。それを外こもりと言うと思うし、僕の渡航経験もそれだったと思います。でも日本の中にそういう「当たり前」圏外みたいなところがあったら、70万人とも言われ、予備軍155万人いるという引きこもりの人(僕もその一人かも)が活路を開ける場が出てくると思います。たぶん、すでにいると思うけど、日本人で、日本にいながら、ブラジル人とかベトナム人とかムスリムの人たちに混じって、その人たちの言葉を習ってその人たちの中に混じって暮らしている日本人って。僕ももっと若かったら外国行くかわりにそうしてたかもしれない。


 ここで、わりと知ってる人は知ってるという話ではありますが、日本人の非常に変わった特性について触れておきたい。

 日本人は初めて外国に行くと必ず日本人といっしょに住み、食べ、遊びます。100パーセント日本人とつき合います。・・・しかしブラジルに移住した人たちの場合は、選択を迫られています。田舎のほうでは、“リトル・ジャパン”つまり「小さな日本」と呼ばれる日本人町をつくり、いまだに明治時代の雰囲気のなかで、みんな寄り添って暮らしていますが、大都会だと、ブラジル人の中で住まなければならなくなる。その場合は、日本人は完全に同化できるんです。20年、30年のあいだに、ほかの民族にはまねできないスピードで完全にその国の人になる。…ブラジルの例をみたら、日本人は、中国人やアメリカ人、あるいはほかのだれよりも国際人ですね。・・・日本人はもちろん日本人のグループの中にアイデンティティを求めたいのだけれども、そういうグループがないのです。するとブラジルの社会に完全に溶けこまなければならない。それで完全に日本人としてのアイデンティティを否定するのです。こういう現象は、ほかの民族には見られません。…私はそれをブラジルだけでなく、東南アジアでよく見ました。ご承知のように、日本の企業がたくさん進出しました。三井とか三菱とかの大企業の人々はもちろん全然同化せず、現地の社会に溶け込まない。いわゆるアグリー・ジャパニーズ(みにくい日本人)ですね。しかし、たとえばシンガポールとかタイで、一人か二人で小さな企業をつくっているような若い人たちは、白人にもまねできないほど、現地の言葉を覚え、現地の習慣を身につけて、場合によって完全に現地化しています。しかしバンコックの三菱とか三井の連中は、現地の社会に全然接触しない。これも白人にはできません。この二つの極端は非常におもしろいですね。(p91-92「ユニークな日本人」1979年・G・クラーク著)

 日本人が非日本コミュニティに対してとる排他的な態度については昔から同様の指摘が非常に多い。それを告発した「アグリー・ジャパニーズ」という本も昔あったそうです。僕が憎んだ日本、日本人というのも、それなんです。しかし、その先が面白い。日本人は日本のコミュニティから離れると、日本人としてのアイデンティティを失って、完全に非日本化しちゃうんです。上のG・クラークの指摘ではそれは日本人にしか見られないほど徹底したものだという。僕はそういう可能性を含めた時、はじめて日本人が好きになるし、「どうや、なかなかのもんやろ」と日本人であることを心から誇りに思えるんですよね。
 昔流行った映画「ジュラシック・パーク」の原作者マイケル・クライトンだけど、彼には90年代に「ライジング・サン」というやはり映画化された小説がある。これは日本を扱った作品であるにも関わらず日本ではほとんど話題にならなかったみたいだけど、当時の日米貿易摩擦の中でアメリカではわりと話題になったようです。その小説の中で日本通のアメリカ人刑事が、たしかこんな感じのことを言うんですよね。「我々はどこの国の人という以前に、人間じゃないか。でも日本人は、人間であるという前に、日本人なんだよ」だったかな。アイデンティティの問題を言ってるんですね。これは典型的な「アグリー・ジャパニーズ」のイメージですよね。でも現実の日本人には、「ライジング・サン」には出て来ないその先があるんです。日本人はいったん日本人であるアイデンティティを失ったら、「どこにも属さないピュアな人間」になるんだって。そのピュア度は、どうやら他の国の人たちには真似できないほど徹底したものになるって。そこまで含めなきゃ本当に日本人を語ったことにはならないぜ、って僕なんか思うんです。世界じゅうにチェスとか将棋みたいな遊びはあるんだけど日本の将棋は、チェスとかと違って、味方の駒がとられたら敵になっちゃうじゃないですか。あれが日本で生まれたのって象徴的だと思うんです。「人間である前に日本人だ」っていう存在は、普遍性から最も遠い人って感じだけど、その先に、何の文化的背景にも邪魔されない普遍性に最も近い存在に豹変するのもまた日本人かもしれないじゃないですか。

 同様の指摘は多く、たとえばこれはどこで読んだのかよく覚えていませんが、日本人とユダヤ人を比べる中で、両者には教育熱心だとか、優秀さとか、対外的に誤解を受けやすいとか、いろんな共通点が見られるけど、いちばんの違いは、ユダヤ人は何代たっても自分はユダヤ系だというルーツを忘れないし、ユダヤ教の信仰を持ち続ける人も多いけど、日本人は2世になると、親が日本生まれ日本育ちなのに、もう日本語喋れないという人が多く、もう自分は日本人だという感じも全然なくなってるという。たとえばペルーのアルベルト・フジモリ元大統領は日系2世だけど日本語は喋れない。去年ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロなんか日本で5歳まで過ごしたのに日本語はほとんど忘れちゃってるようです。中には、90年代のジャパン・バッシングの時にわりと先頭に立って日本を批判してたフランシス・フクヤマ(日系3世)とか、「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」(2007)の代表提案者であるマイク・ホンダ(日系3世)みたいな日本人としての片鱗も感じさせない人もいたりする。


 上の、G・クラークと同様の指摘を僕は色んなところで何度も読んだことがあるけど、手元にある本からもう一つだけ引用しよう。

・・・アメリカやブラジルに移住した日本人の子孫は、急速に日本語を忘れ日本人的美意識や倫理観を失ってしまう。つまり日本人ではなくなるのである。/サンフランシスコ周辺の中国系の人々は、大半が19世紀後半にアメリカに渡った中国人労働者の子孫で、いまの中年以下では3世ないし4世だが、そのほとんどはいまなお広東語が話せる。それに比べて、アメリカ在住の日本人の3世は、大部分が日本語をほとんど話せない。アメリカに移住した諸民族のなかで、祖先のことばを失うのが最も早い民族の一つが日系人だといわれている。このため、日本国土以外で日本語を常用している人々は、きわめて少ない。・・・ことばを失うことは、文化を失うことに通じる。アメリカ大陸に移住した日本人の子孫は、3世になるとほぼ完全に日本的価値観を持たなくなっている。日本人は、日本の国土を離れ、日本国の統治から切り離されると、たちまちにして日本語と日本的美意識や倫理観を失い、「日本人」ではなくなってしまうのである。・・・その反面、日本国土に居住する外国人の日本化もきわめて早い。今日、われわれが「日本文化」と信じている演歌や相撲なども、昭和初期に日本に渡来した外国人の2世、3世に支えられている面が少なくない。均質的な日本社会には、かなり強い同化力があると見るべきであろう。(p179-180堺屋太一「日本とは何か」講談社文庫、1994)


 どの文化にも「当たり前」というものがあると思います。それは各文化で違うところがあるけど、異文化同士が交流する時、何も共有する価値観もないと困るので、何かあるということにしておきたくて、そういうのを「普遍的な価値」みたいに呼びたいんですね。「人権」なんかはその代表的なものですね。この「人権」を国内で守ってない国があったらよその国が武力を使ってその国の政府をやっつけに行くことも正当化されちゃう。コソボ問題でセルビアをNATOが空爆したみたいに。
 僕はこの齢になるまで結婚したことがなくてフワフワと生きてきた。その僕が結婚とか家庭を作って生きて行くというのをどう思うかというと、それは明確にお芝居ですよね。家庭の中で、夫として、妻として、親として、子供として、演じている。そこでは、絶対に言ってはいけないこと、してはいけない事がたくさんある。赤の他人の前では平気で言えても、妻の前、子供の前では決して言えないこと。言ったら家庭崩壊に直接つながる。
 それをお芝居だなんて感じない人もいるだろう。特にうまくいってる場合はそうだろう。そういう人にとっては、それはお芝居ではないとも言えるだろう。しかし、一旦お芝居だと気づいてしまったら、それはお芝居以外の何物でもない。わけのわからないことを言うてますが、僕が何を指して「お芝居」と言うのかというのを示す具体例として最近の芸能人の離婚から一つ。お笑いコンビ・ますだおかだの岡田圭右(49)はTV番組の中で自らの離婚について「家庭から笑顔が少なくなったり、あまり子供に見せたくない場面が増えた」と説明。子供の前で、家庭というお芝居が破綻した、それが離婚原因に充分なるんです。結婚生活、家庭生活ってそのぐらい厳粛なお芝居の場だ。僕にはそういうお芝居を一つ引き受けて死ぬまで演じ切る自信もないしそれをしなくてはいけない理由も分らない。今、日本人は結婚しても3組に1組は離婚する。いかに結婚、家庭というお芝居を演じ続けることが困難になっているか、ということだと僕は思います。
 しかしお芝居というのは「偽物」みたいなニュアンスのある一方で、この世になぜお芝居というものが存在するかといえば、人はお芝居が好きで、わざわざ見に行って、歓声を送ったり拍手したりする。それはその文化で受け入れられる何かです。歌でもいい。歌も作り物できれいごとで単なる理想論かもしれないけど、でも、小さい頃から歌ってきた歌には愛着があるし、死ぬまで歌いたかったりしますよね。

 僕が子供の頃は、古い日本が残っていた気がする。昔から忠臣蔵とか、森の石松とか決まったお芝居を見て、観客が「よっ!○○屋!」なんて声をかける。今でもNHKの演歌の番組見てると、そういう掛け声をかける人がいるけど、あれは何なんでしょう?見てるほうは、そのお芝居や歌は分かってて、それでいちばん盛り上がるところでかけ声をかけるというのは、よくぞこのお芝居を心を込めて演じてくれた、歌ってくれた、というふうにencourageしてるのだと思う。こんなふうに心を込めて演じたり歌ったりする人がいるから我々の文化は豊かになるし生きがいも持てる、みたいな感じじゃないでしょうか。でもそういうのって少なくなってる。子供の頃、NHKの大河ドラマで忠臣蔵やってて、厳粛な気持ちで見てました。昔は何度も大河ドラマになってました。昔から繰り返し演じられてきたお芝居が、わりと最近になって演じられることが少なくなったのは、時代の変わり目があったということだろうし、現実生活でのお芝居、たとえば結婚生活、家庭生活も、難しくなってきているということ、どちらが卵で鶏かは分らないけど、関連してるんじゃないでしょうか?
 これは、だから昔からの伝統を忘れずに継承しろ、ということを僕は30%か40%ぐらい言いたいけど、もう一方で、その真逆のことを60%、70%ぐらい言いたい気がする。これだけ時代が変化してるんだから、昔ながらの同じ芝居、同じ歌を歌ったりしてるだけでは通用するわけないじゃん、っていう心が矛盾しながら同居してる。新しい状況を取り入れて、新しいストーリーを作る作業をしなくてはいけない。それで大方の人が満足するようなストーリーができないということはそのまま結婚生活、家庭生活を破綻なく営むことが難しい、ということを意味してると思う。それは子供にスマホを与えるかどうかという枝葉末節の問題ではなく、そもそもどういうストーリーをやるの?ということ。そのストーリーは理屈を越えてその文化内の人の心をとらえねばなりません。忠臣蔵なんか、当時は仇討ち禁止令という法令があるのにそれを破って主君に屈辱を与えた奴の首をとって、そしてその法令違反の罰として、四十七士は切腹を命じられ、切腹する。法令違反を正当化するの?とか主君の屈辱を晴らすために腹切らなあかんの?とか。痛いなんてもんやないし。血い出るし死ぬし。何これを賞賛するということは同じ場面になったら僕もやらなあかんの?そもそもこれだけの自己犠牲のしがいのある「主君」みたいな人物像が、想像できにくいしね。「主君って上司?昔大量にリストラしとったで。いざとなったら守ってくれへんで。そんな奴のために切腹?」みたいに思う余地はある中で、「それでもええやん、しびれる」っていう人が多くないと、一つの文化の中でのストーリーの共有ってできない。お芝居するにも、演じ手にかなりの自己犠牲を強いるし、それが家庭生活の場合、メンバーの終生続く協力も必要だし。しかし「お芝居」は演じ手に一方的に負担を押し付けるんじゃなくて、演じ手はそのお芝居から生きがいをもらう。だからこそすすんで自分の他の可能性を封じて、あるお芝居をすすんで引き受けるのだ。そういうお芝居が形成しにくくなってるというのが現在の離婚率の高さに表われていると思う。
 でも、自分たちの文化はすでに絶対でないということはすでに分かってしまった以上、元に戻ることはできない。自分たちの文化が相対的で、時には否定され、批判され、馬鹿にされてもそれでもそんな中でやっていかなくてはいけない。その結果、どんなストーリーができて、どんな演じるべきお芝居が可能で不可能なのか。どんな答えがあるのかないのか分んない中でやっていかなくてはいけないのが今という時代に違いない。それは文化的にはポストモダン。ということでしょう。

 この世界には、自分たちの単一の価値観以外のものとの共存が不可能だと感じている国々がある。北朝鮮なんか、金正日とか金正恩を大絶賛しなきゃいけない。首領さまのやる事は絶対的に正しく、批判は許されない。自分の価値観以外のものと共存するための筋肉というものがあるんです。それを歴史上使ってこなかったから、その筋肉が退化しちゃってるんです。
 中国も体制批判は許されないですね。ある種の歴史的できごとや社会的事実は隠蔽され、ネット上のある種の情報は許されない。習近平をクマのプーさんになぞらえるアニメさえシャットアウトされるという。ロシアもプーチン大統領を中傷するような画像は駄目とか、あんまり政府批判する活動家は何者かに殺されたりしますね。この朝中露という3カ国は地理的に隣接していて、ユーラシア大陸の中央に位置する。彼らの西側の欧州や東側の日本では、体制批判は自由だ。天皇の悪口言うと文句言う右よりの人もいるけど、少なくとも体制自らがそういう人を弾圧しに来ることはない。
 この、アジアの中央部の、自らが絶対だというタテマエでないとやっていけない国と、体制批判いいよ、っていう欧州や日本とは、歴史的に違うところがある。欧州と日本は、世界で唯一、封建制度を歴史的に経験した。一説には紀元前の中国にもちょっとあったらしいけど、かの地ではそれが伝統とか文化の体質になることはなかった。封建勢力は世俗的で、聖を担当する権力は他にあるというのが最大の特徴だった。欧州には宗教的権威のローマ法王がいて、各地の封建的な国王は歴史的に張り合って、聖職者叙任権闘争とか、カノッサの屈辱とかアビニョン捕囚とかしながら、けっきょくはローマ法王は人の内面、道徳面を支配し、封建的国王は外面、世俗の世界を支配するということになって、どちらかの力が一方的に絶対的にふるまうことはない、という社会的体質ができた。日本でも世俗権力の武家政権は、あくまで封建的に世を支配しただけで、その正統性は天皇に保証してもらう必要があった。鎌倉に封建的・世俗的な武家政権ができて以降、天皇は武家政権と共存してきた。次代天皇を選ぶ時、複数の選択肢がある場合は幕府にお伺いを立てたし、幕府側も背景にある事情を考慮して慎重に意見を述べた。いちばん武家政権に敵意をむき出しにした天皇は後醍醐天皇で、彼は鎌倉幕府とも室町幕府とも武力衝突をした。両方とも幕府側が後醍醐天皇を武力的に押し込めることに成功したが、後醍醐天皇の命もとらなかったし、「天皇家目障りだから滅ぼしてしまおう」という発想も持たなかった。武家政権側がとったのは、後醍醐天皇を天皇の地位から追い出して別の天皇を擁立することだった。そしてその天皇の正統性を主張することで自分たちの征夷大将軍としての地位を正当化しようとした。鎌倉幕府は後醍醐天皇を島流しにしたので皇室は分裂しなかったが、足利尊氏の時は後醍醐天皇は吉野に逃れてそこで南朝を作ってしまったために皇室が分裂してしまった。それを合一させたのは室町の三代将軍義満だったが、彼は公家を支配するために、太政大臣になった。ここでも天皇家を滅ぼそうという発想ではなく、天皇の下にいる家来の中のボスになることで公家を内側から支配しようとした。公家を支配しよういう独裁色の強い武家勢力のリーダーたち、平清盛、豊臣秀吉なども太政大臣になるという方法をとった。目障りなお店を潰してしまおうというのではなく、その店の番頭さんになってその店を支配してしまおう、という発想だ。天皇家のほうも、武家政権が出る以前からすでに有力貴族たちのパワーゲームの中で非常に謙虚な権力者で、「俺だけが唯一偉くてあとは俺よりみんな下だ」みたいなタイプではなかった。そういう唯一絶対の権力者というのは日本にはいなかったですね。
 でもユーラシア大陸の真中にいる、前近代的体質を持つ人騒がせなかの国々は、そうではなかった。ロシアでは、東ローマ帝国の国教であった正教を共有する他の国々と同様、皇帝が教会権力を完全に抑え込んでいて、上下関係は明確に皇帝が上、教会が下であった。中国の皇帝も、他の誰かのお墨付きをもらう必要もなく、唯一の絶対者だった。朝鮮半島の国王は中国の属国だったけど、明確に朝鮮国王よりは中国皇帝のほうが偉い、という関係なので、これは欧州や日本のように違う原理の偉い人が並存してるというのではなく、やっぱ単一の絶対的価値観の中で歴史が作られてきた。我々の誰が朝中露のような、絶対単一の価値観の下で、それを批判する奴は弾圧するぞみたいな世界に住みたいと思うでしょうか?そういう単一価値観の中で住むほうが楽は楽だと思うのです。いろんな価値観があるとそれだけで疲れますもんね。でも我々は複数の価値観にさらされて、その中で格闘していくしかないんだと思うのです。古いお芝居が通用しなくなって、全然違う考えを取り入れながら、なんとか答えを見つけていくしんどい道を行くしかなくて、自分たちだけの価値観に閉じこもったら、外の多様な価値観を尊重する外の世界から馬鹿にされて世界の動きから遅れをとるだけだと思うんですよね。 価値観の多様性にさらされるのはしんどいし、そこにどんな答えがあるのかないのかも分らない。ひょっとしたら社会秩序に深刻な混乱が生まれるかもしれない。移民国家のアメリカとかオーストラリア、NZでさえ移民アレルギーのようなものはある。それでも嫌なことだけじゃなくて、日本人同士でいたら決して味わえない未知の世界に触れることもあって、それは感激ですよ。今まで経験したことのない人生を味わえる機会でもありますよ。日本人だけでいるよりはるかに楽しいから。

 今、世の中が右傾化しているといいます。ナショナリズムの台頭が危ういという人もいます。なのでここで、2×2のマトリクスを作ってみます。「日本好き」と「日本嫌い」の2択。それから「外国人歓迎」と「外国人出てけ」の2択。この2×2=4通りの組み合わせを考えます。「日本大好き。外人出てけ」は、現代版尊皇攘夷思想ですね。こういうナショナリズムは不健全だと思う。「日本嫌い、外国人歓迎」この組み合わせは売国的な感じでこれも危ないですね。「日本嫌い。外人出てけ」という組み合わせは理屈上できてしまったもので、こういう人がいるということが想像できないのでパスします。残りの1つは「日本大好き。外国人歓迎」ですが、これがやっぱいいんじゃないでしょうか?「日本いいとこでしょ。だから外国から来た人も住みたいでしょ?一緒にもっといい社会を作っていきましょうよ」っていう日本礼賛だとしたら、とても健全だと思うのですがいかがでしょうか。

複雑な気分にさせる本〜「国家の品格」1

 週末に実家に帰った。病院の父を見舞うためだが、2時間ほどしたら叔父が来るというので、そのまま病室で待つことになったが、母が、そこに本があるから読んでいたらいい、というので、新書だし読みやすいと思って読んでいた。新潮新書の「国家の品格」という本で、名前だけは聞いたことあるなあ、と思いながら読み始めた。で、僕が買ってきたCDを聞いたり、本を読んだりしていたら、予定より30分ぐらい早く叔父が来た。いろんな話をしているうちに、叔父と母が僕に「その本を読んだか?」と聞く。1冊の本をそれほど早く読めるわけがないのに。「まだだ」と答えると、「どんな印象か?」と2人ともが問う。どうも母も叔父も、この本をすでに読んだらしい表情だ。なんだ、身内でマイブームを起こしているのか、と思った。僕はその時、20ページぐらいまで読んで「言ってることが極端だ。話は面白いが」なんて答えた。病院を後にする時も、「本が読みかけなら持って行ってもいいよ」なんて言って、暗に読ませたい風だ。僕は今、ドラッカー「現代の経営」をメインに読んでいるが、これは物語ではないので、なんなら1年かけて読んでもかまわない本なので、他に「マルテの手記」と、それと季節を意識しながら「おくのほそ道」の3冊も同時に読んでいて、「ああ、こんな読み方は失敗したなあ」と思いながら日々を過ごしているのに、また1冊増えてしまった。それをアパートに持ち帰って、さっきやっと読み終わった。こんな肝い本はなるべく早く読み終わりたかったのだ。

 僕は、この本を読む時に、とても複雑な気分になった。本の背表紙をみると、著者は数学者だと書いてあるが、読み始めると、社会科学系統のことが書いてあるので、ああ、そのての本か、と思った。だいたい、ある分野の専門家が、畑違いの社会科学とかを論じるのを読むと、「もう、やめろよな」と言いたくなってくることが多い。電波なことを書いてあるんだろうな、と思って読み進める。この時点で僕は、いくら有名な数学者でも、社会科学に関しては自分のが上だ、と思いながら読んでいる。読み進めると、なるほど生意気に持論を述べているなあ、さすが素人、とか思って、僕自身は素人ではないような気分で読んでいる。この人はアメリカの大学で何年も教えた経験があるという。それで、アメリカをボロクソにけなしている。ビル・トッテンか?と思うほどだが、そう、アメリカに長年住んでた経験のある日本人によくあるパターンは、アメリカの手先になって日本を非難するか、アメリカをけなしまくるか、この2パターンが多いような気がするが、この藤原という人は後者か、という感じで読んでいた。さすが数学者だけあって、専門外の分野では気軽に言いたい放題だなあ、とか。ただ、言うことは極端だが、言ってる内容自体は、かなりしっかりしている。ただの馬鹿話をしてるんじゃなくて、材料は、かなり用意周到に、丁寧に丹精込めて集めたんだろうなあ、と感じた。ただ、そこから導き出す結論が、ちょっとなあ、なんてふうで読んだ。
 僕は読み進めるうちに、「これは画期的な提言かもしれない」と思ってみたり、「いやこれは無茶苦茶だ」と思ったり、感想が二転三転し、この本をどう判断していいか、すっかり分からなくなってしまいながら、読み終えた。
 読み終えた後、検索してみると、この本って200万部のベストセラーなんだってね。どうも名前だけは聞いたことがあると思ったが、たしかに内容はとっても充実している。しかも読みやすい。それにユーモアも適当に配置して、たしかによくできた本だ。
 それにしても、複雑な気分にさせる本だった。この本は、日本という国はアメリカナイズされてしまうにはもったいないほど品のある国だ、と言っているわりには、この本には品がない。僕はそう感じた。でもこの本の前書きで作者自身が「品格なき著者による品格ある国家論、という極めて珍しい書となりました」なんて先回りして言っているのが憎たらしい。これは謙遜ではなく、この本の本質ズバリだ!僕は、こんな下品な著者の本など二度と読みたいとは思わない。仮に読むとしても、しばらくは絶対に読みたくない、そう思った。でも、この本は、いろいろためになった、良質なネタをたくさん仕入れることができたし、下品にも関わらず、読んでよかった、と思った。なんか、こういう感じの複雑な気分を絶えず味わわされる本だった。
 ただ、僕がこの本を「下品」というのは、性描写や暴力描写があるとかいう意味ではない。なんか、論理の持って行き方が強引な気がして、それに抵抗があり、それを下品、と僕は感じるのだ。たとえば著者は、小学生のうちから英語を教えることには反対する、と言っている。日本人として国際的に通用する人間というのは、英語を喋れるというのではなく、その英語で話す内容を持っているのが大事だと。中身がないのに英語だけペラペラ喋れる日本人は恥だ、だから、小学生のうちは、国語を徹底的に教え、自国の言葉でしっかり読み書き考えができる人間になることが大事だそうだ。藤原はある時、イギリス人に「漱石の『こころ』の先生の自殺と、三島由紀夫の自殺の間には何か関係があるのか?」と聞かれたという。そういう問いに答えられる内容のある人間が真の国際人だ、と。
 でもどうだろう?こういう問いをいきなり問われて、しっかりした返答ができるのは、かなり高い教養が要ると思う。ひょっとしたら、いわゆる「エリート」だけが身につけられるものかもしれない。それだったら英語がいちおう喋れる、というほうがまだ簡単ではないか?つまり、藤原は、一部のエリートのための教養のことだけ考えて、平均的な人が、英語ができたほうが色々得だよ、なんて部分はその犠牲になっても構わない、と考えているのか?僕は読みながらそう思った。でも、読み進めると、それに対する答えも藤原は用意しているようだ。経済とか便利とかのために、心を真に豊かにする教育を犠牲にしてはいけない、と言っている。

 明らかに杜撰な見解と思われるものもある。アダム・スミスの「神の見えざる手」の市場原理主義の過去2世紀を、「戦争、植民地競争、恐慌に明け暮れた」としている。それは正しいが、一方でこの時代に、一部の国家は、飢え死にというものが頻繁に起こらない社会を築くことができた。そんな国家が存在したことは、人類史上初のことだ、と僕は以前どこかで読んだことがある。だから、悪いことばかりじゃなかったはずだ。それに、そのアダムスミス路線を、「イギリスの経済学者ケインズが、これを1930年代になって初めて批判しました。当然です。それまで正面から批判する者のいなかったことのほうが驚きです」なんてあるが、19世紀のマルクスを完璧に無視しているようだし。そして、アメリカではケインズ主義の時代はレーガン大統領の登場で終わり、またアダムスミスの路線に戻ったが、どうも著者はそれが気に入らないらしい。ちなみに今の日本は、その頃のアメリカと同じく、ケインズは亀井静香と共に去り、小泉はアメリカ流の新古典主義でやっていくようにみえる。著者は、そのアメリカ路線に靡く今の日本の現状を批判しているのだろう。でも、ケインズ政策がそれほどいいのだろうか?政官業の癒着、談合、公共事業なしでは自立できない地方の体質。これらはケインズ政策がもたらした大きな害ではなかったか?…まあでも、この本は文明論であって経済はザックリと話のタネにしてるだけだから、むきになってもしょうがないか。
 
 僕が読み進めるうちに感心したのが、近代西洋の価値観がどういうふうにできあがってきたか、という説明だ。それを、カルヴァンの予定説から始まった、と説く。予定説によると、神に救われる人は、神が予め決めている。あとで人が努力とか、悔い改めとか、善行とかで、その予定が影響されることはない、と。そうすると、人間は不安だが、「自分はあくまで救われる側に入っていると確信し、疑念がわいたらそれは悪魔の誘惑としてはねつける」というふうになった。そんな自己確信を得るには、「神から義務として与えられている職業、天職に励むことだ」と。で、そういう勤労から得たカネは、自分の快楽のためではなく、社会のために使うのがよい、となり、投資に向かう。ここまでくると、かの有名なウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の内容が出揃うことになる。宗教的動機の勤勉がカネを生み、それが再投資されて、ますますカネがたまって、それがまた投資されて…という循環が起き、かくて、世界の中でプロテスタント社会は例外的に産業が発展した、というのがウェーバーの説だ。近代資本主義の誕生。
 藤原の説明では、このカルヴァンの予定説が、カネ稼ぎを正当化し、それがどうも、投資に回らなくてもOK、ということになったらしく、ロックの「個人は快楽を追及してよい、全能の神が社会に調和をもたらしてくれる」という説につながっていく。もうこうなれば、アダムスミスの「神の見えざる手が経済の市場にあり、人は、それぞれの私益を求めて行動するだけで、世の中うまく回ってく」という説になっていく。…僕は今までカルヴァン→ロック→アダムスミス、とつなげて考えたことがなかったので、すごいなと思った。こういう歴史的な読み替えとか解釈ができるというのは、よっぽど自分の考えとして練れていないとできるもんではない。たいしたもんだなあ、と思った。
 それとか、僕は以前から、日本人の虫愛好について、いろいろ資料を集めてまとめてみたいもんだ、と思っていた。つまり、僕も子供の頃、春には蝶々を追いかけ、それが暑くなってくると、セミが出始め、クワガタ、カブト虫を捕まえに行き、それが秋になってくると、つくつくぼうしを捕まえ、バッタとかを捕まえ、鈴虫を飼い、ナスとかキュウリをあげる、みたいなことをしていた。でもそれはどうも、外国では全然一般的ではないらしい、ということにうすうす気がついてきた。そんなことをいつかまとめて調べてみたい、と思っていたら、この本に、かなりざっくりとだが、まとめて書いてある。これは、何気なく書いてあるが、資料集めには時間がかかったろう、と思った。それと、この作者の海外体験は、僕のと比べて全然質が違う、と遅ればせながら気づいた。彼は、数学の研究者としてアメリカとかイギリスに何年も住んでいたのだ。僕はたかだか1年の間、住んでみて、誰かと話す機会があったら、「ああまた英語の勉強が少しできてよかったな」なんていうレベルだったから、もう全然違うのだ。この本の中のどこかに書いてあったが、「アメリカでは、親孝行という考えは特にないが、それでも、日本人がアメリカに行って、故郷に残してきた親を懐かしんで涙ぐんだりすれば、その人はアメリカで尊敬されるだろう。親孝行という明示的な価値観はなくても、それは普遍的な価値を含んでいる」みたいなことを言っている。この本は、軽いノリの、ちょっとふざけた感じもする本だが、さりげなく、こんなしっかりした洞察を至るところに書いてある。しっかりした異文化体験がなくては、とても書けるものではない。
 
 なぜこの本が200万部も売れたのだろう、と考えてみると、なんだか、本の帯か何かに、「日本文化に自信が持てる本」みたいなことが書かれていたらしい。たしかに、そういうところがあるが、僕としては、このお手軽な本の結論だけ読んだら、かなり害が大きかろうと思う。資料としては、ものすごく良質なものを集めた本だ(僕はこれを読んで、新渡戸稲造は絶対読もう、と思った)が、著者が言っているのは、アメリカのやり方はもうすぐ限界が来て駄目になるから、昔の日本に戻ろう、みたいな無茶を言っているように僕には聞こえる。それと、著者は、国、というものに重きを置いている。著者の説では、人間は4つの愛を身につけるべきだ、と。まずは家族愛、次に郷土愛、次に祖国愛。それがあってはじめて人類愛になる、と。最初の3つがしっかりしてないうちに人類愛が身につくわけがない、と。だから今の教育は、祖国愛なんか無視して人類愛なんか教えているから、空疎な言葉だけになって、身につかないのだ、と。なるほど一理ある。でも、僕は国というものは絶対のものではないと思っている。僕はもちろんどうしようもなく日本人だけど、日本は世界に影響されて変わり、世界も日本に影響されて変わってきていて、そのうち境目がハッキリしなくなっていき、そんな、国とか文化が融合した中でなんとか共存していく道を探るのがこれからの世界じゃないか、なんて思っている。

 たぶん、母とか、年寄りたちは、伝統的な日本がどれだけ海外で評価されているかを聞くのが心地よいから、この本を読んだのかもしれない。僕が見聞きした経験から判断して、この本は日本の国際的評価に関して、決して誇張していない。問題は、著者の、アメリカはだから駄目、みたいな決め付けである。I dare say.

 きわめてまとまりの悪い文章になった。これというのも、この本をどう解釈していいか、わりきれていないからだろう。大変気になる本だった。しばらくはこの著者の本は読みたくない。読むのには簡単な本だが、自分の中でどう位置付けていいのか分からなくなって疲れるから。

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