哺乳類の尻呼吸

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日経新聞(9/16付け)の「春秋」欄に『きっかけはドジョウの不思議な生態だった』という記事があった。
きっかけはドジョウの不思議な生態だった。田んぼなどの酸素のうすい土壌では、えら呼吸に加えて「腸呼吸」をしながら生きている。ならば哺乳類で同じことが起きてもおかしくない。ブタのお尻に酸素をたっぷり含んだ液を注入すると、血中の酸素濃度が高まった。

思わずプッと噴き出す研究をたたえるイグ・ノーベル賞。2024年の「生理学賞」に、日本のチームの研究「哺乳類の尻呼吸」が選ばれた。率いたのはiPS細胞によるミニ臓器作製の先駆者である武部貴則博士だ。6年前、31歳の若さにして国立大学の教授に就いた。かの湯川秀樹よりも早い「出世」と話題になった。
(略)
優れた科学研究は常識にとらわれない好奇心や探究心から始まる。「くだらない」と一笑に付されそうな発見や発明も、見方を変えればイノベーションの芽といえるだろう。斬新さではイグ・ノーベル賞は本家にまけない。日本人の受賞は18年連続だ。この国の科学力も若手の遊び心を生かせばまだまだ捨てたものでない。

さて、今年のノーベル賞受賞者の発表がされている。日経新聞(10/8付け)には『ノーベル賞受賞者の出身国』という記事があった。
ノーベル賞は成果発表から受賞まで20年以上かかるとされている。20〜30年代に米国内で盛んになった研究が50年代以降に認められて受賞につながったケースが多い。

日本は49年に湯川秀樹が物理学賞を受賞した後、受賞者数の伸びは低調だったが、2000年代に入り一気に増えた。23年までに25人が受賞し、世界第5位となった。

00年代以降に日本出身の受賞者が急増した要因は、高度経済成長期以降の科学技術分野への研究開発投資が他国より多かった点にありそうだ。

文部科学省の科学技術・学術政策研究所の「科学技術指標2024」によると、1981〜2000年の主要国の研究開発費の総額(実質額)で、日本は米に次ぐ2位(約220兆円)。ドイツの約1.7倍、フランスの約2.7倍だった。

ただ足元の20年間をみると、日本は研究資金や研究者数の伸びが、欧米の主要国のほか、中国や韓国などと比べても見劣りしている。質の高い研究論文数の世界順位では10位以下に低迷するなど、研究力の低下が指摘されている。今後、中長期的にノーベル賞3賞の受賞が続く保証はない。

イグ・ノーベル賞は日本人が毎年受賞しているようだが、ノーベル賞の受賞は今後どうなるだろうか。ノーベル賞の受賞には基礎研究も大事だ。そのためには研究資金も必要だし、若い研究者の柔軟な発想も求められよう。

くだらないと思われる研究も継続できる研究環境も求められる。









イーロン・マスク氏が抱く恐怖

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週刊東洋経済誌(10/12号)の「少数異見」欄に『イーロン・マスク氏が抱く恐怖』という記事があった。
本来、環境派の旗手だったイーロン・マスク氏が、今回の米大統領選ではトランプ氏を熱烈に支持している。「このままなら人類が絶滅する」との恐怖からだ。氏は人工妊娠中絶や出産制限が人類絶滅を招くと信じている。

「子どもを持つことは、未来に投票すること」とマスク氏は言う。もし、”絶滅主義者” たちの政策が実行されたら、「文明は、紙おむつをした大人がすすり泣く中で死に絶えるだろう」。だから、子どものいない女性を「子なしのキャットレディー」とあざ笑った副大統領候補・バンス氏とがっちりスクラムを組むのである。

当然、「マイボディー、マイチョイス」(産むも産まないも女の自由、自分の体なのだから)を唱えるリベラルな女性たちは怒り狂っている。EV(電気自動車)の売れ行きに急ブレーキがかかったのは、1つにはテスラ社が彼女たちの総スカンを食ったせいかもしれない。

マスク氏は3度離婚し、12人の子どもがいる。自分の会社の女性社員やセレブたちとのロマンスも噂されている。リベラルな女性たちにすれば、氏の人類滅亡論は己の行状を無理やり正当化するための煙幕である。

とはいえマスク氏の恐怖は必ずしも杞憂ではない。
国連の予想によれば、現在82億の人口は2084年に103億でピークに達し、以降減少する。人口を横ばいで維持するには合計特殊出生率(1人の女性が出産する子どもの数)が2.1以上でなければならないが、世界の半分以上の国・地域で2.1を下回り、世界の5分の1では1.4に届いていない。中絶が厳しく制限されているイタリアも1.4以下だ。

出生率急落の理由として多くの社会学者が指摘するのは、次の点だ。ずばり、子どもは不可欠無二のものではなく、人生を送るうえで選択するパーツになったということ。人生の楽しみはほかにいくらもある。母性は「チョイス」の1つになってしまった。

ならば凡百の子育て支援策など無力だろう。ミケランジェロの「ピエタ像」に象徴されるように、母性は人類至上の価値とされてきた。それが打ち捨てられるなら、人類絶滅はもって瞑すべし、かもしれない。

かく言えば即、叱声が飛んでくるだろう。「その母性神話の下で、どれほど女性が虐げられてきたか。不適切にもほどがある!」。

はい、昭和のジジイの妄言でありました。

人はそれぞれの価値観で選択をしている。その選択が自由にできるようにすることが大事だと思う。結果として、人口が減ってたとしても、それはしかたがないことではないか。人口が減少している日本においては、子育て支援や雇用環境の改善、移民の受入などが考えられる。子育て支援などには力が入れられているようだが、その効果は限定的のようだ。東京一極集中の改善など地方に雇用を生み子育てしやすい環境と整えることも必要だろう。

東京新聞(昨年の3月5日)に「男性の育児分担で出生率低下を食い止められる?」という記事があった。
日本と米国、スウェーデンの比較研究で、男女間の家事・育児の分担が均等に近い国ほど出生率が高くなる傾向を示すという結果が出た。3カ国で調査した米ハーバード大ライシャワー日本研究所所長のメアリー・ブリントン教授は、男性の育児休業に対する考え方の違いが影響していると分析する。政府が検討している「異次元の少子化対策」では、制度の拡充だけでなく、「男性は仕事、女性は家庭」という意識の変革を後押しする取り組みも焦点になる。

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日本社会の意識が変わらないと少子化はとまらない・・・







避難所の風景

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朝日新聞(10/5付け)の天声人語は『避難所の風景』
災害の発生直後から冷暖房つきのテントが並び、温かい食事が出る。トイレやシャワーも完備。同じ災害大国なのに、日本にない光景がイタリアの被災地にはある。手本のように語られることが多いが、ここに至るまでには多くの曲折があった。

イタリアの防災関係者が「あの失敗を忘れるな」と話すのが約1千人が亡くなった1976年のフリウリ地方地震だ。私はその7年後、震災復興策の一環でできた高校で学ぶ機会を得た。当時の混乱ぶりは、地元で語りぐさになっていた。

寸断された道路での誘導で、警察と軍が別々の方向を指した。海外から届いた支援物資が配給されない――。原因の多くは、司令塔の不在と縦割り行政だった。数年後に南部で起きた地震でも混乱から犠牲者が増え、仕組みづくりの必要性が叫ばれるようになった。

そうして82年に発足した首相府直轄の組織が、現在の市民保護局だ。40年余で法改正を重ね、約700人の職員を擁する司令塔に育った。発生直後から消防、軍、警察、研究機関、ボランティアらを束ねて調整にあたる。

さて、日本はどうか。きのうの所信表明で、石破首相は避難所の環境を改善し、災害関連死をなくすと決意を述べた。具体例で挙げたキッチンカーはイタリアが念頭にあったか。大切なのは、有能な司令塔をつくることだ。役所ができても縦割りでは意味がない。

元日に地震で被災した能登半島が豪雨に襲われてからきょうで2週間。今も避難所生活で耐える人々がいる。

なぜ、日本では災害がおきるたびに空調もない体育館に避難し、トイレや食事の心配をしないといけない場所で過ごさないといけないのだろう? 何度となく同じ光景が繰り返されているのに、改善されないのはなぜだろう?

「防災庁」をつくるそうだが、ちゃんと機能するものにしてほしい。今後、災害がおきても被災者が安心して避難できるような態勢を整えてほしいものだ。防災庁ができたとしても、それが十分機能するように常に改善ができる組織にもなってほしい。

災害後もできるだけ自宅で生活できるようになることも大事だろう。耐震性の低い建物の改修・補強の実施、災害リスクの高い地域からの移住など、災害に強い地域にする努力も求められる。








フランス革命の精神とは?

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日経新聞(9/27付け)の「プロムナード」蘭に武蔵野美術大学教授の新見隆氏が『革命の精神とは』と題して寄稿していた。
ミュージアムの学芸員人生で、世界中に師と呼ぶべき人はあまたいる。その一人に、パリ市の近代美術館や装飾美術館の主任学芸員を歴任した、大先輩、ダニエル・マルシェッソーさんがいる。
(略)
師であるダニエルは執務室でいつも背広・ネクタイ姿。

思いあまって、ある時、聞いたことがある。「ダニエルよ。僕らの仕事は別に役所じゃあるまいし、背広・ネクタイは要らないだろ? 僕みたいにジーパン・Tシャツで来たらどうだ?」と。

「リュウちゃん。それは、駄目だよ。我々は、国家公務員、公僕だ。だから皆・平等。警備のおじさんは職務上、制服を強要されている。お掃除のおばさんも同じ。僕だけ好き勝手な格好で来るのは、我々フランス人の、平等の思想に反するんだぜ

恐れ入りました。流石(さすが)、市民の権利を勝ち取るために、王と王妃を断頭台に送った民だけのことはある。

最初にパリに行った1980年代の半ば、驚いたことがあった。地下鉄の優先席に、こう書いてある。記憶だが。

「ここは優先席である。その優先順位を以下に、書く。その一、国家を守るために戦って、負傷した人。その二、お年寄り。その三、障害のある人。その四、妊娠しているお母さん、云々(うんぬん)かんぬん」

恐れ入った。これが市民社会を世界で初めてこの世に生んだ社会である、その責任と大義である、と。もはや、日本がどうこうとは、私は思いもしなかったものであった。

革命の精神ではないが、大学の授業をスーツにネクタイ姿で行っていた大先輩がいた。それを見習ってではないが、私もスーツにネクタイ締めて授業を行っている。といっても最近の夏は暑く、冷房が入っていても授業で話しをすると汗をかいてしまう。ということで、夏場はネクタイははずすようになりましたが。

以前はネクタイもたくさん持っていて、毎週違うネクタイをしていったら、学生から毎回違うネクタイでしたね、と言われたことがあった。ただ、最近は教員がどんな服装をしているかにはあまり関心がないようだ。それはちょっと残念だが、服装に関心がなくても授業内容には関心をもってほしい・・・

一方で、授業を受ける学生の服装も変化してきている。夏場はTシャツに短パンという服装も普通になっている。筑波大学で「大学生の服装と景観・授業態度との関連分析」という研究が行われている。この研究では、運動着(ジャージ・スウェット)の日常的な着用が大学内の景観と授業態度に与える影響を明らかにしようとしている。運動着での登校は大学内の景観イメージに「似合わない」とネガティブな影響を及ぼすこと、運動着で登校している学生は遅刻や居眠りをする度合いが高いなど授業態度との間にネガティブな関係が存在することが明らかとなった、としている。

服装は個性の表現でもありますが、お互いに気をつけたいですね。








日本における基盤的研究費の重要性

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『科学』(10月号)の科学通信欄に『日本における基盤的研究費の重要性』と題して東京大学の後藤由季子さんが寄稿している。
日本の研究力低下が叫ばれている。例えば論文のトップ10%(分野補正後)引用論文数について、日本は過去最高4位であったが2023年には13位にまで下落している。日本で若手研究者が極端に減ってきていることを考慮すると、今後さらに日本の研究力が下落することが予想される。

トップ10%引用論文数は、大まかには研究のインパクトや影響力を反映すると考えられている。まらこれとは別の軸で、日本の研究力の低下を如実に表しているのが、東京大学浅谷公威先生らの解析で示された「日本は海外の先進諸国に比べて研究が大きく遅れている」という衝撃的な事実である。網羅的に論文で扱われたトピックの類似性を算出すると、先進諸国がほぼ同じタイミングでトピックが扱われているのに対して、日本は1年近くも全体のトピックが遅れていた。同じく浅谷先生らの解析では、国ごとの補正後論文引用数と研究トピックの先進性が大まかに相関していることや、日本の研究トピックが大きく遅れ始めたのが2000〜2005年くらいであることも示されている。

「日本の研究は遅れている/影響力が少ない」ことは、これまで科学技術立国として繁栄してきた日本の未来にとって致命的である。当然ながら、先進的な研究であるほど競争力が高く、イノベーションにつながり、産業に貢献する。例えば鈴鹿医療科学大学豊田長康先生の解析によれば、トップ10%引用論文はその他の論文に比べて特許への引用度が高いことが示されている。つまり日本の研究が産業に貢献する程度が近年低下していることを間接的に示している。

では、なぜ研究が遅れたのか?
まだトレンドにもなっていない「将来の研究トレンドを作る種」となるような研究は、科学研究費(科研費)に代表される研究者の自由な発想にもとづく詭弁的研究費が支えている。しかし科学技術関係の予算総額が横ばいであり、むしろ2004年以降「実質的に大きく目減り」している。
(略)
そして経常的資金と科研費が減少した状況では、大学における研究のみならず教育も薄くなってしまっている(特に地方は深刻である)。そして若門の博士課程への進学が減少し、アカデミア離れが進み、成功したトップ層若手研究者の海外への流出が顕著になっている。それは翻って、日本の未来を担う次世代の教育が大学においておろそかになることも意味する。

朝日新聞(10/4付け)に「最先端半導体 量産化へさらに4兆円必要」という記事があった。
ラピダスが量産化をめざす2ナノ世代のロジック半導体は、生成AIなどの高性能なコンピュータを動かすために使われる。大きな需要が見込めるだけに、開発競争は熾烈だ。

台湾積体電路製造(TSMC)をはじめ、韓国サムスン電子と米インテルは、25年に2ナノの量産を始めるとする。日本企業に残る製造技術は40ナノ世代までで、15年前の水準で止まっている。しかもラピダスが2ナノの量産を開始する予定の27年には、先行3社は次の世代となる1.4ナノまで進める計画を立てている。

それでも政府が肩入れをするのは、経済安全保障の観点から、先端半導体の重要性が増しているからだ。

半導体は「産業のコメ」ともいわれ、いろいろな産業で使われている。かつて日本は半導体産業が非常に強く、1988年には世界全体の半導体の売上トップ10社のうち5社が日本だったものの、2019年には10%を切っている。しかし、半導体のサプライチェーンを支える半導体の製造装置や、部素材(例:シリコンウエハ)の分野では、日本は依然として競争力を有しているという。こうした状況の中、回路幅が2ナノという先端半導体を量産できるのだろうか。

若手研究者だけでなく、先端半導体の製造を担う技術者も減少しているのではないか。人材育成は簡単にはできない。先を見据えた計画が必要だろう。








君たちはどう生きるか

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日本建築構造技術者協会(JSCA)の機関誌「structure」(10月号)の特集は『構造設計U-35 君たちはどう生きるか』である。特集では若手構造設計者たちが手がけた構造設計などを紹介したり、JSCAの各支部の活動などがまとめられている。

そのなかで若手構造設計者に向けたメッセージの一つとして、平岩構造計画の平岩良之さんが『100点と90点は10点差ではない』と題して書いている。
筆者の通っていた高校に、名物教師と言われる英語の先生がいた。まぁとにかく授業がつまらない。日本語の滑舌が悪く、英単語以外はゴニョゴニョと何を言っているのかわからない。おまけに授業内容は一般的な高校での英語の授業とかけ離れており難解。

試験内容を簡単に紹介すると、大問[1]の英単語の問題が以下である。
[1]以下の単語の英語訳を (a) アングロサクソン由来、(b) ラテン語由来、それぞれで答えよ。
(1)住む  (2)尋ねる

ちなみに正解は、(1)(a) live (b) inhabit (2)(a) ask (b) inquire なのだが、どちらも正解しないと点数はもらえない。初っ端の英単語の問題からこの調子なので、赤点を取る生徒が続出する。ただ先生本人もそれを自覚してか、試験は250点満点なのだ。なので試験が4割できれば、なんと成績としては100点である。

負けず嫌いで、意味があるのかないのか、そんな損得勘定を抜きにして、なんにでもぶつかっていかなければ気がすまなかった当時の筆者は、英語よりも日本語のリスニング能力が試されているようにしか思えない滑舌に耳を傾け、レイアウトという概念はもちろん、そもそも余白がほとんどない授業プリントに目を懲らし、授業に食らいついていった。

そうすると試験の結果として意味なく200点となるのだが、成績表の評価としてはあくまで100点頭打ちなので、90点の人とは10点差でしかない。今風に言えば、なんともタイパが悪い。

建築設計の仕事は、遵守すべき法令があり設計条件としてのクライアントの要求もある。その点では明確でないにせよ合格ラインのある仕事だが、同時に創意工夫の余地もあるという意味で、青天井な側面もある。250点満点のあの英語の試験とそっくりではないかと思う。

そして、個人的にはあの試験の本当の恐ろしさとは、難しすぎて赤点をとることではなく90点の人から見たときに、満点の人との差が10点としか見えないところではないかと今さらながらに思う。目に見える10点以上の差が試験のたびに蓄積されていくのだ。
(以下省略)

建築学科の学生も設計課題に取り組むときに、時間が足りなかった、もっとこうすればよかったなどと口にする。もっと時間をかければ、良い作品になったと言いたいのだろう。たしかにそうした面もあるかもしれないが、設計課題だけでなく現実の設計でも使える時間は限られている。そのなかで、良い作品にしていくためにみんな努力をしている。

大学では試験などの点数が60点以上で合格となり、単位を取得できる。なぜ60点なのだろうか。40点でも単位を取得できるようにできないものかと思ったりする。結局、試験の難しさは受験生との関係で決まってくるし、合格点をとれるように難易度を調整するのもちょっと違うような気もする。

構造設計はどういう点が評価されるのだろうか。
これまでにない形態を実現した、新しい材料や構法を使った、などという点はわかりやすいポイントだろう。設計した建物のほんとうの耐震性は地震がこない限りわからない。そこに10点の蓄積が影響してくるかも・・・








未来を夢想するSF

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日経新聞(9/25付け夕刊)に北海道大学特任助教の宮本道人さんが『未来を夢想するSF』と題して寄稿していた。
SFはときおり、誰かに力を与えることがある。ここではそれを「エンパワーメント性」と呼ぼう。一人ひとりに希望を与え、社会に対する影響力(パワー)を持てるようにしていく、といった性質だと考えてほしい。
(略)
SFが持つエンパワーメント性は、マイノリティーや女性の活躍にも大きく関わってきた。その代表が、現在まで続いているテレビドラマをはじめとするシリーズ作品「スター・トレック」だ。未来の宇宙艦隊が未知の生命や不可思議な現象と出合うといった設定で、世界的な人気を博した。初代の放送が始まった1966年のアメリカは、人種差別を禁止する公民権法が成立したわずか2年後。偏見がまだ根強い時代、ヒカル・スールーというアジア系のキャラクターなど、様々な民族を主要メンバーとして登場させた。

特にここで取り上げたいのは、黒人女性の宇宙艦隊士官「ウフーラ」だ。当時は女性の社会進出事例も少なく、もちろん黒人女性宇宙飛行士という前例自体がまだなかった。初期はヘイト的な風当たりも強く、ウフーラを演じたニシェル・ニコルズは降板を考えたこともあったそうだ。しかし、「I Have a Dream」の演説で有名なキング牧師が、ウフーラは黒人の子どもたちの目標だと説得したこともあり、ニコルズはこの役を演じ続ける。さらにニコルズは米航空宇宙局(NASA)の採用活動にも関わり、マイノリティーや女性の宇宙飛行士を当たり前の存在にした。

そうして、現実がSFについてくる。(略)SFと現実は、いつもこうしてぐるぐると螺旋を描きながら前に進む。(略)もし、SFを通して夢想される未来が、これまでにない多様な社会進出のあり方を生み、新しい視点の獲得につながったなら。そこにこそ、真の意味で世界の構造を変えるほどのイノベーションが生まれるのだ。

「スタートレック」はよく見ていた。
最初は「宇宙戦争」といったタイトルだったように記憶しており、当時は単純に楽しんでいたように思う。スタートレックの新しいシリーズでも、さまざまな人種(宇宙人には適切ではないか)が登場し、ときには哲学的な問いを投げかけたりする。SFで描かれた世界がいつか現実になるのかもしれない。

ところで、「建築防災」(10月号)では『宇宙居住と防災』という特集が組まれている。日本建築学会に「宇宙居住特別研究委員会」が設置され、そこで国内外の産官学の研究者・技術者が集まって議論したそうだ。その委員会で行われた活動の一部が記事として紹介されている。SFでは宇宙基地や月面基地が登場したりする。将来、人類が月や火星に住むようになるのだろうか・・・









全米大学ランキング

プリンストン大

日経新聞(9/25付け夕刊)に『全米大学ランキング25年版、トップ3校は変わらず』という記事があった。
全米大学ランキングの作成で知られる「USニュース&ワールド・リポート」は24日、2025年版のランキングを発表した。総合大学部門の上位3校はプリンストン大、マサチューセッツ工科大、ハーバード大で前年と変わらなかった。

USニュースのランキングは、学生の卒業率、負債額、教員と生徒の比率、論文の引用回数など17の基準評価を総合している。米国で複数ある大学ランキングの中でも認知度が高く、受験生が進学先を決める際に影響力が大きい。

ランキングの上位10校は、いずれも年間の学費(手数料含む)が6万〜7万ドル(860万〜1000万円程度)の範囲だった。米大学では学費が上昇している。学生や家族にとって経済的負担に見合う価値のある進学先かどうかが、大学選びにおいて重要になっている。

USニュースは、ランキングの審査基準の約半分が「多様な(社会・経済的背景を持つ)学生が過剰な債務を抱えず卒業できているかを様々な角度から計る内容になっている」と説明している。

朝日新聞(9/26付け)の「論壇時評」欄では雑誌「中央公論」での特集について論じている。そのなかで、教育社会学の苅谷剛彦氏は、日本は学生の授業料負担が大きく、行政からの財政支援が少ないという意味で「高負担・低支援型」であり、もっとも歓迎されないケースだという。また本田由紀氏は日本の大学教育の費用負担は私費への依存が大きく、このことが授業料が高額である私立大学が大学全体のなかで大きな役割をしめることになっている、と。

東京大学が授業料を値上げしたと話題になった。しかし、米国のトップ大学の授業料に比べれば10分の1くらいである。米国の大学ではそれぞれ学生の支援もあるのだろうが、それにしても学費は高額だ。大卒の資格にそれだけの価値があるということかもしれない。

もし日本の大学が米国並みの学費になったら・・・

ちなみに、大学院の修士課程についてもランキングがある。第1位はマサチューセッツ工科大学、2位はスタンフォード大、3位はカリフォルニア大学バークレー校となっている。1位と2位の大学院の学費は6万ドル程度だけど、カリフォルニア大学は3万ドル以下と半額だ。それでも、日本の大学院に比べて高い。








日本で行われる検診・健診の問題

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週刊東洋経済誌(9/21ー9/28号)に一橋大学の井伊雅子教授が『日本で行われる検診・健診 その深刻な問題とは何か』と題して寄稿している。
日本の医療・介護制度は「世界に冠たる皆保険制度」といわれるが、皆保険制度を持つ国や地域は多い。それらの国や地域では行政機関が医療の質の評価を責任を持って行い、その開示を含めて医療や健康に関する情報をわかりやすく発信している。そうした情報発信は医療サービスの提供に公費を投入しているすべての国や地域で必須とされているが、日本では大変遅れている。

例えば、日本には地方自治体や職場のがん検診、健康診断・診査(健診)、個人が自発的に受ける人間ドックなど、多くの検査があるが、その対象範囲や頻度を臨床研究のエビデンスを基に検討する仕組みはほとんどない。雑誌メディアなどには、予防や早期発見のメリットばかりを強調した広告が掲載され、高額な検査を多数受けないと重篤な疾患を見逃してしまうとばかりに読者の不安をあおる。

OECDの報告でも、日本は高齢化による医療費の財源逼迫の中、「健康促進と疾病の早期発見を目的とした健康診断を幅広く取り入れているが、異常なほど多くの健康診断を頻繁に行っても効果はなく、費用対効果も低く、有害にすらなりかねない」「健康診断項目の削減を優先すべきだが、そこには全国民に対して行われているがん検診のよりよい調整を含むべきである」と指摘されている。

「早期発見、早期治療をして医療費を節約」ともいわれるが、早期発見が医療費節約に結びつかないことは少なくないし、進行が遅く寿命に影響を与えない性質のがんを「早期発見」された市民が、かえって精神的な負担を抱えてしまうこともある。
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確率的なものの考え方とリスクの伝え方について、医療者と住民双方の理解を高めることで、少ない費用でよりよい医療を受けることが可能となる。

検診の効果を高めるためには、利益と不利益を医療者が住民にわかりやすく説明したうえで、本人が検診を受けるかどうか、あるいは自分のリスクを知るために遺伝子検査が必要なのか、といった方針を共同で考え、意思決定していくことが必要だ。

個々人の思いや家族背景などは異なるので、画一的な検診を勧奨するだけでは十分ではない。受診率を上げることを目標にした現行の政策には問題が多い。

本学では毎年全職員を対象に健康診断が実施される。これを受けない場合は病院などで自分で健康診断を受けた書類を提出するよう求められる。いわば半強制的に健診を受ける。もちろん、こうした健診で異常が見つかり、病気の早期発見につながる場合もあるだろうが、多くは日常の食習慣とか運動などに関する注意喚起くらいで終わる。

確かにテレビや雑誌などでは健康に関する話題が盛りだくさんだ。なにか身体に不調があり病院で検査をしても、その原因がはっきりしないことも多い。素人考えだが、身体はとても複雑なシステムなので、不調の原因がこれだと特定することが難しい場合があるのではないか。身体全体のバランスを整えることも必要だろう。

私は、ときたま体調が優れないときは、鍼灸治療にいくことがある。そうするとなんとなく体調が整ったように感じる。気のせいかもしれないが・・・








小学生の時間割が負担に

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日経新聞(9/20付け)に『小学生の時間割、6時間目必要?』という記事があった。
小学生の時間割は負担が大きすぎないか。毎日6時間授業(1時間は1こま45分)を受けるのは妥当なのか。そんな疑問に教員や大学教授らが挑む「学校の時数をどうするか」(明石書店)がこのほど刊行された。きっかけは、授業時間数と学習内容が多くなり、過大な負担がかかる「カリキュラム・オーバーロード」(教育課程の過積載)の深刻化だ。

2017年告示の学習指導要領で顕著になり、不登校の増加や子どもが自分で考える習慣の喪失につながっているのではないかと懸念されている。同書は「子どもにとって適切な授業は5時間まで」と結論付ける。

国が定める年間の標準時数は小4〜6で1015時間。実際は学力低下不安などを背景に積み増す学校が多く、月曜から金曜まで6時間授業をしても時間数をこなせないケースも少なくない。

ゆとり教育への批判を受け、文部科学省は学習内容と授業時間数の増加にかじを切ったが、同書は「多くの子どもを消化不良に陥らせ、多数の落後者をつくり出している」と問題提起する。
(略)
ユニークなのは、新型コロナウイルス禍で20年度に授業時間数が大幅に減った経験を踏まえ、今後どうあるべきかを検討した点だ。教員の経験からの振り返りで、年100時間程度授業を減らしても「問題はなかった」との結論に行き着く。

編者の大森直樹東京学芸大教授(教育史)は「学習量や時間は増やすほどいいという量の魅力に大人は引きずられがちだ。しかしコロナ禍での想定外の経験は、私たちの固定観念が必ずしも正しくないことに気付かせてくれた。国も標準時数の在り方を見直すべきではないか」と話す。

小学校で外国語やプログラミングなどの学習が追加されたことも学習時間が増えた要因だろう。早い時期から学習に取り組むことで効果を高めたいというのもなんとなくわかる。鉄は熱いうちに打てという言葉もある。しかし、あまりに学習時間が過剰だと消化不良を起こすだろうし、子どもたちが学びたいと思うこともできなくなるのではないか。

私が通った小学校は田舎で、田圃のなかを歩いて通学していた。帰りは、小川で小魚やドジョウを捕まえたり、レンゲ草などが咲いている中を飛び跳ねていた。そうした遊びのなかでも学ぶことはたくさんあったように思う。

大人たちも残業を減らして生産性を高めようという動きがある。子どもたちに、もっと自由な時間があってもいいんじゃないだろうか・・・









なぜ鏡は左右だけ反転させるのか

鏡はなぜ左右だけ反転

加地大介著『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』(教育評論社)を読んだ。

本書のタイトルから物理や科学書だと思い手に取ったが、哲学書だった。
ほとんどの人は鏡(あるいはスマホのカメラ)は毎日見ているだろう。そのとき、鏡のなかの自分は左右が反転しているぞ、と思う人はどれだけいるだろう。さらになぜ左右だけが反転しているのだろうと考える人は稀ではないか(私もそのひとり)。

本書の疑問は、鏡はなぜ頭足方向は反転させないで、左右方向だけ反転させるのか。

それに対して、マーティン・ガードナーの「自然界における左と右」という本では、『数学的に厳密な言い方をすれば、鏡は左右を逆転してはいない。本当は前後を逆転している』と述べられている。鏡面に垂直な軸(たとえばX軸)を設定して、X軸の座標のa点が鏡像ではーa点になっていると考えればいい。

この説明で理解できるものの、頭足を回転軸として左右を反転しているという説明には答えていない。その後も、デカルト座標、回転座標などをつかった考察が行われている(ちょっと難しいが)。

なぜ回転軸として「頭足」方向を特権視するのか?
それは、我々が重力の中で生きているからだという。あまりにも当たり前で意識さえしていない事実が鏡を見るという些細な日常の認識までも強く支配している。
意識されないほど絶対的な前提となってしまっているようなものに意図的に目を注ぐことが、人間にはときに必要なのです。ふだん意識されないだけに、何か問題が起きていることに気づいたときにはもはや手遅れ、ということが起きかねないからです。特に、そういったふだんは意識されないものを意識させるほどの問題とはきわめて重大なものであることが多いので、なおさらです。ひょっとしたら、地球温暖化、自然破壊などの環境問題は、空気や自然という生のための絶対条件を人間が疎かにしてしまったことの帰結かもしれません。もっと身近なレベルで言えば、長くつきあった恋人や長年連れ添った伴侶から突然別れを告げられた後の後悔、「親孝行したいときに親はなし」という格言などもそれに近い教訓を含んでいるでしょう。

次の章は「なぜ私たちは過去や行けないのか」で、タイムトラベルについて哲学的に論考が展開されている。

興味のある方はぜひお読みください。








首掛けAI

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朝日新聞(9/18付け)に『首掛けAI』という記事があった。
シャープは17日、生成AI(人工知能)と自然なやりとりができる首掛け端末を開発したと発表した。来年度の実用化を目指すという。

18日まで東京都内で開く自社の技術展示会「テックデー」で披露した。「AIスマートリンク」という名前で、端末に内蔵したカメラとマイクで利用者の問いかけや周囲の状況を把握し、音声で応答する。

試作機のデモでは、「レストランに行きたい」と口に出すと、AIが近くの看板を読み取るなどして「500メートル先にありますよ」と教える機能を紹介した。

同社は現在、端末側で情報を素早く処理する「エッジAI」の技術開発に力を入れている。これに、ネットを介して情報処理を行うクラウド型のAIを合わせて運用することで、自然なやりとりが可能になるという。

このデバイスは利用者の問いかけに対し、内蔵したマイクとカメラで周囲環境を把握した上で、音声で応答するため、スマホの画面を見る必要がない。そのため自転車や自動車の運転中も「ながらスマホ」の抑制につながるという。

なんかオンライン会議のときに使うネックスピーカーにも似ているが、AIによる回答が音声で聞けるのはいいかもしれない。例えば、目が不自由な方にAIが音声で道案内をしたり、点字ブロックと通信ができたりすると視覚障害者の方にとっては行動範囲が広がるかもしれないと思った。

それにしても、スマホなどの電子機器やAIの技術はものすごいスピードで進歩して、実際に使われている。これに比べて、建築の技術の進歩や適用はとてもゆっくりしているように思えるのは、単に対象物が大きく、数が少ないという理由だけだろうか・・・






飲みづらいビールグラス

日経新聞(9/19付け夕刊)に『飲みづらいグラス開発、ゆっくり適正飲酒』という記事があった。
クラフトビール大手のヤッホーブルーイング(長野県軽井沢町)は7月、お酒の飲み過ぎを防ぐビアグラスを発表した。中央にくびれがあるためガブガブと飲めず、通常のグラスと比べて飲み終わるのに約3倍の時間がかかる。「爽快感はゼロだけど、ゆっくり飲んでもビールは楽しいことを知ってほしい」。飲みづらいビアグラスの企画・開発を手がけた同社の河津愛美さんは狙いをこう語る。

厚生労働省が2月に適正飲酒のガイドラインを公表するなど、健康に配慮しながらお酒を楽しむ機運が高まっている。ヤッホーでも1月ごろにユーモアを交えて適正飲酒を促す企画が立ち上がり、社内横断で集まった9人の社員で飲みづらいビアグラスの開発が始まった。

手を伸ばすとセンサーが反応して逃げるグラス、重すぎて持ち上げるのに苦労するグラス……。約30種類のアイデアが浮かんだが、「どれもビールをおいしく味わえるものではなかった」。砂時計の形状が、時間をかけておいしく味わえると判断。約半年かけてビールが通るくびれ部分の内径をミリ単位で調整し続け、「香りと味わいをゆっくり楽しめる」内径6ミリメートルのビアグラスが完成した。
(略)
時間をかけた飲酒は肝臓への負担も軽いとされる。飲みづらいグラスを通じて自分のペースで飲酒を楽しむ人が増えれば、「ビールファンのすそ野がこれまで以上に広がる」。
(以下省略)

いまの若い人はあまりビールは飲まない。私も学生時代はビールが苦くて飲めなかった。それが飲めるようになったのは、暑い実験で汗もかいた後に飲んだバドワイザーがきっかけだった。バドワイザーは日本のビールよりも苦みが少なく、喉が渇いていたためだろう。

日本ではビールを冷やして飲むことが多いが、海外ではそれほど冷やして飲まない。ビールジョッキでゆっくり飲んでいるようだ。最近では日本でもビールが多様化しており、それぞれの嗜好に合わせて飲めるようになった(昔はビールといえばキリンしかなかった)。

下の写真は先日ミュンヘンでビアホールに行ったときのもの。持っているジョッキは1リットルのビールが入っている。ジョッキが重たくて、とてもグビグビ飲めるような状況ではなかった・・・
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後悔しない死に方

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UnsplashMartha Dominguez de Gouveiaが撮影した写真

学士会会報(No.968)に久坂部 羊氏が『後悔しない死に方』と題して寄稿している。
死が迫ってきた時、後悔する人は大勢います。私は医者としてそういう人を大勢看取ってきました。知性の高い人ほど医療に対する期待値が高いため、後悔の多い死に方をしている印象を受けます。医療者は医療の矛盾や限界について口を閉ざします。自己否定につながるからです。しかし、本当のことが伝わらず、医療への期待値だけが上がり、たった一度の死を上手に迎えられない人が増えています。そこで今日は本当のことをお話します。
(略)
私はこれまで大勢の人を看取ってきましたが、病院で「儀式」(注)を受けながら亡くなる人より、在宅で何もしないで亡くなる人の方が圧倒的に穏やかで静かです。死に対して医療は無力です。それどころか、有害です。害されるのは死にゆく人です。
(略)
今の患者は、延命治療によって死にもせず助かりもしない「尊厳のない状態」に陥ることが多く、悲惨な状況です。(略)延命治療を一旦始めてしまったら、尊厳死法のない日本では、途中でやめられません。患者に意識がなく、誰の目にも治療をやめた方がよく、家族も「やめてくれ」と懇願していても、後日、現場にいない親族から、「医師が途中で治療を打ち切ったから死んだ」と訴えられたら、医師は殺人罪で警察に調べられるかもしれません。そのため、治療をやめられないのです。
(略)
世間では長寿が礼賛されていますが、長生きをすれば老い、元気でいられなくなります。この現実を受け入れられない人ほど苦しみます。一方、現実を受け入れた人は楽に上手に老い、余計なことで煩いません。
(略)
「ピンピンコロリ」も推奨されていますが、コロリと死ぬのは、好きな物だけを食べ、酒や煙草、夜遊びをやり放題で過ごして太った不摂生な人です。健康に注意している人は、だらだらと長生きします。

「理想の死に方」についてアンケートをとると、一番人気は「ぽっくり死」です。実際のぽっくり死の原因の大半は、くも膜下出血や心筋梗塞ですが、どちらも死ぬ直前の五分くらいは非常に痛くて苦しく、死の恐怖にさらされ、しかも突然起きるので、「見られたらまずいメールをまだ消去していない」「仕事の引き継ぎが全くできていない」など、後悔に苛まれます。

「老衰死」も人気ですが、現実には筋力低下と間接の痛みで身体を動かせなくなり、五感の衰えで見たり聞いたり味わったりもできなくなり、言葉を発するのも難しくなり、寝たきりとなって下の世話などを人にしてもらい、申し訳なさと惨めさ、不如意と不自由に十年以上堪えた後、やっと楽になれるのです。

その点、がんは治療しなければ、二〜三年で必ず死にます。その間に仕事の整理はできるし、行きたい所に行って、会いたい人に会えます。がんも無断は治療をすると延命して苦しみますが、治療しなければそんなに辛い思いをせずに死ねます。今は緩和ケアも進歩していますから、痛みもありません。
(略)
人は「与えられた自分」を生きるしかありません。足るを知り、ある日突然、死を突きつけられても、感謝して死ねるようにありたいものです。

(注)
「儀式」とは蘇生措置のこと。がんや老衰などで危篤状態の患者に心臓マッサージや強心剤の注射を施すこと。これを儀式と呼ぶのは、付き添いの家族に、「できる限り救命措置を行った」と納得してもらうため。パフォーマンスとして必要なだけで効果はありません。


私の母親は働き者で、毎日建設業で働いて、帰ってきたら農作業に出るというのも珍しくなかった。農繁期には自分も手伝いにかり出されていた。元気いっぱいだった母親は自分が大学生の時に癌で亡くなった。40年前に比べると、いまの癌治療は進んでいると思いたい。

私も母の年齢をはるかに超えて64歳となった。死に方は選べないので、死ぬことよりも、残りの人生をどう過ごすかを考えないといけないのだろう。

定年も近づいてきたので、定年後のことも考えないと・・・








万博への直言

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UnsplashStefano Bazzoliが撮影した写真

朝日新聞(9/18付け)の「耕論」蘭に『万博への直言』という記事で、3名の識者が述べている。
中身伝える魂の発信、探れ 東浩紀さん(批評家)
大阪・関西万博に決定的に欠けているのは、「何のためにやるのか」という理念を誰も熱量のある言葉で語らず、「何をやるのか」という中身も十分に発信されていないことです

「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマや各事業の説明も抽象的でわかりにくいです。プロデューサー陣には著名な人が並びますが、発信が消極的に映るのはなぜでしょうか。

思い当たるのは東京五輪のゴタゴタです。エンブレムデザインの盗用疑惑をはじめ、開閉会式の演出担当者らが続々と降板するなどトラブルが続きました。

この国では目立つだけで足を引っ張られます。最近はSNSによってそういう風潮が増幅され、過剰に攻撃的な社会になっています。万博で主体的にメッセージを発する人がいない背景には、変に目立ったことでクリエーターらが激しい批判にさらされた東京五輪の経験が、変な形で影響しているのかもしれません。
(以下省略)
 

開催前に問題点の検証を 松本創さん(ノンフィクション作家)
大阪・関西万博には問題が山積しています。
代表的なものとして、会場建設費は当初の1250億円から2350億円に膨張し、海外パビリオンの建設は大幅に遅れ、参加国が独自に設計する「タイプA」の出展は60カ国から47カ国に減りました。3月には、会場内の別の建設現場でガス爆発が起きました。

大半は会場の大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)に起因します。廃棄物を埋め立てた軟弱地盤、交通事情の悪さ、地中の可燃性ガスの存在などです。島を所有する大阪市側はこうしたリスクを認識していたはずですが、2016年に松井一郎・大阪府知事(当時)の提案通りに夢洲が会場に選ばれました。
(略)
深刻なトラブルが続出する現状を見れば、準備段階での「失敗」は明らかです。ただ、万博のような公的なメガイベントは「成功」の基準があいまいで、終われば「開催して良かった」という空気が何となく生まれ、関わった人たちは評価を都合良く語ります。不透明な意思決定や、なし崩し的に進められた事業の過程が詳細に検証される機会はほぼなく、「もう済んだこと」として見過ごされてしまう恐れがあります


日本の経験の継承、足りぬ 岡田朋之さん(万博研究者)
2005年の愛知万博以降、世界の八つの万博を視察しました。かつての万博は国威発揚の機会でしたが、近年は地球の気候変動など世界規模の課題を各国がどう受け止め、解決しようとしているのかを披露しあう場に変わっています。

万博のあり方の変化に伴い、パビリオンの展示も、来場者に同じ内容を一方的に見せる形から、個人の属性に応じてアレンジされた物語を提供する双方向の参加型が増えています。(略)万博を「問題解決型」に転換させる成功例を示したのです。

ところが、日本国際博覧会協会や関係事業者などの話を聞いていると、70年万博の成功体験にとらわれすぎているためか、21世紀の万博の潮流や、日本の蓄積してきた開催ノウハウ、人気パビリオンを生み出した経験などがうまく継承されていない印象を受けます。

万博の成否は長い目で見て判断する必要があります。閉幕後の跡地や施設の利活用、地域のブランド力への貢献も判断材料の一つにはなるでしょう。
(以下省略)

東京オリンピックにしろ、万博にしろ昭和の時代を引きずっているように感じるのは、私が昭和の人間だからだろうか。大阪万博で何を世界に伝えようとしているのか、いまいちよくわからない。未来の技術や火星の石を展示したり、いまの環境問題や国際問題を解決する方法などを紹介することで、来場者や日本国民になにを期待しているのだろうか。

準備の遅れや予算の膨張、開催場所の問題などがあるが、これらは万博が終わった後に総括をすべきではないか。終わってよかったというだけでなく、開催の経緯や予算のこと、今後の課題など、今回の開催で得られた教訓をまとめていくことが必要だろう。

日本は公文書の管理がずさんで、廃棄されたり、公開されなかったりする。アメリカでは一定の期間が過ぎると公文書は公開される。こうした姿勢が歴史を正しく判断することにつながる。公文書ではないにしても、国家的なイベントの開催の開催にかかわる資料はきちんと残され、一定の期間が過ぎたら後悔すべきだろう。










積層ゴムの実大実験

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先週、E-Isolationにて免震構造用積層ゴムの実験をしてきました。

試験体は、直径1100mmで、1次形状係数は35、2次形状係数は4.4の天然ゴム系積層ゴムです。試験は圧縮せん断実験で、圧縮荷重を10,600kN(面圧11.2MPa)かけた状態で、水平方向に1008mm(せん断ひずみ400%)の変形を与えました。

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実験には和田章先生の呼びかけで40名以上の方が見学に来られました。なかには初めて積層ゴムの実験を見られる方もいました。また積層ゴムが大変形するとハードニングすることを知らない人も。カタログ設計ではなく、実験をしっかり見ることが大事ですね。

詳細なデータ分析はこれからですが、こうした実験の成果が免震構造の設計に役立つことを期待しています。ちなみに、11月には鉛プラグ入り積層ゴム(直径1300mm)を用いた同様の実験を行う予定です。









「儲けすぎ」って、それちゃうで

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UnsplashPaulina Milde-Jachowskaが撮影した写真

週刊東洋経済誌(9/7号)の「ヤバい会社烈伝」ではゼネコンが取り上げられている。
読者からお怒りのメールをいただいた。
「ゼネコンばっか、いじめるんじゃねーよ」
Dさん(50代)はゼネコンに長く勤務している。国交省やデベロッパー、下請けに怒り心頭である。
(略)
「マスコミもゼネコンばっかいじめるのは筋違いだよ。オレたち、下請けにいじめられているからね」
えーと、下請けをいじめるんじゃなくて?
「逆だよ。だって、あの連中、図面も読めねえ作業員を送り込んできて、1日2万5000円もぶったくるんだぞ」
結構、高いっすね。
「で、5時ぴったりに現場は誰もいなくなるからね。休憩所はもう汚物だらけだし」
(略)
外国人労働者が多いんすか。
「別にいいんだよ。でも、下請けがちゃんと指導してから現場によこせってんだよ。図面も読めないし、指示も通じない」
そこ、安全に関わりますね。
「そう。だから、外人さんを我々が教育しながら使っている。そうしないと工事が遅れるしね」
かー、きついっすね。
「だろ。こっちは頭使ってやってんのよ。だから、ゼネコンを『どんぶり勘定』とか批判するなよ」
いや、私はしてないですけど。
「あのさ、本当に『どんぶり勘定』なのはデベロッパーだからね」
それは三井不動産とか三菱地所とかのことですか。
「そう。あの連中、120億円って言っていた案件を、『100億円にしろ』って言い出す。その20億円をどう圧縮するんだっての
具体的なコスト削減策はない?
「ない。こっちは資材の価格表を確認しながら見積もりを作っているから。『どんぶり』じゃねえの」
はあ。
「それを提案すると、デベロッパーの査定担当者が『この作業、2000円でできるだろ』とか言い出す。『そういう実績があるって』。それ、いつの時代のことですか、と。『その業者を教えてください。その見積もりを全部作り直します』って言ってやる」
で、やっぱり下請けは、そんな価格じゃできないわけっすね。
「それがさ、『なんとか、その値段でやります』って言うんだよ」
えっ、がんばっちゃう。
「いや、本当にできればいいよ。でも、デカい仕事って3〜4年かかるわけ。その間に『やっぱりコストが上がります』って言い出す」
それで利益が出ない。
「うちがちょっとでも支払いを渋ると、国交省とか労基が飛んでくるからね」
(略)
でも、大手ゼネコンは業績が絶好調なのでは。
「見た目はね。でも、利益はヤバいよ」
大手5社の売上高(単体)は増収が続いてそれぞれ1兆円を超えている。だが、営業利益は厳しく、大林組433億円(前期比27%減)、大成建設55億円(同86%減)、清水建設に至っては、501億円の営業赤字である。え、1兆円企業が赤字・・・
「つまり、4〜5年前に請けた工事が真っ赤ってことよ」
「だからゼネコンって『請負(うけおい)なんですよ。
えっ!
「請けたら負けなんです」
(以下省略)

ゼネコンの人も板挟みなのかなぁ。資材も人件費もあがっているわけなので、それを請求できるようにした方がいいのではないか。

先日、3年前に卒業した卒業生(女性)に連絡をすることがあった。彼女は大手ゼネコンで施工管理をしている。在学中からとても優秀で、目に見えるものづくりがしたいということで施工管理の道を選んだ。元気に働いているようで嬉しい。

本学を卒業する学生の約3割はゼネコン(施工管理)に就職している。そうした学生がゼネコンの仕事に誇りを持てるようになってほしいし、働く環境がすこしでも改善されることを期待したい。








大学生の「戦略的休学」広がる

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UnsplashS O C I A L . C U Tが撮影した写真

日経新聞(9/12付け)に『大学生の「戦略的休学」広がる』という記事があった。
起業や長期インターンシップなどに取り組むため、「戦略的」に休学する大学生が増えている。文部科学省によると、2023年までの15年で全国の休学者数は1.6倍に増加。学生の身分を担保しながら大胆な挑戦に集中したい学生が目立つ。学生の意欲を評価し休学を後押しする大学や支援団体も出てきた。
(略)
文科省の学校基本調査によると、学部生の休学者数は23年5月時点で過去最高の3万7832人。15年間で65%増えた。東京大学の休学者数は24年5月時点で415人と10年間で1.6倍に増加。中央大学も23年度は477人で18年度の1.8倍に膨らんだ。

背景には学生の身分を残しながら学外で多様な挑戦をしたい学生の増加がある。就職活動の早期化で学生が自由に使える時間が短くなる中、キャリアにつながる経験やスキルを身につけるため、休学を活用する学生が増えている。

国際基督教大学(ICU)教養学部長の生駒夏美教授は「近年は休学し多様な経験をしてから卒業する学生が多い。4年で卒業しないといけないという意識も薄れている」と語る。ICUは23年度までの9年間で休学者が2.7倍に増え、総学生数の1割超を占める。
(略)
休学中の学費を抑える大学もある。国立大学は休学中の学費が不要だが、私立大学は通常の約半分の学費が必要な場合が多く、学生の負担が大きいためだ。立命館大学は休学中の負担を年間1万円の在籍料のみにしている。教学推進課は「様々な事情で休学する学生の実態を踏まえて設定している」と説明する。ICUも在籍料を年9万円に抑えており、京都女子大学は休学中は費用がかからない。
(以下省略)

休学を前向きにとらえる学生が増えてきたということか。大学に入学すると多くの学生が4年で卒業したいと思っている(はず)。留年すればその分授業料も払わないといけないので、それを避けたいということもあるだろう。海外に留学したいと考えても、それだと4年で卒業できないとなれば留学を躊躇することもある。

学生時代にいろいろな経験を積むことができる環境を整えることも必要だろう。欧州やオーストラリアでは毎年多くの若者が大学入学前や在学中に教育の場を離れ、多様な経験を積む「ギャップイヤー」を利用しているという。

以前、大学の秋入学が議論されていたことがある。秋入学にすれば、大学入試の時期を高校卒業後にできたり、大学入学までの期間をギャップイヤーとして利用できるのではないか。また大学を卒業して翌年の4月までに就活を行うようにすれば4年間学業に専念できる。良いことばかりのように思うけど・・・








今の災害報道は過剰ではないか

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UnsplashKenny Eliasonが撮影した写真

週刊東洋経済誌(9/7号)の「少数異見」欄に『今の災害報道は過剰ではないか』という記事があった。
7月に東北の某市に仕事で出かけた。この街は観光地でもある。ちょうど記録的豪雨に見舞われたタイミングと重なった。そのため筆者は周囲から出張をやめるように言われた。豪雨の中、空港に降り立ったが、街の中心や周辺部には被害は出ていなかった。死者も出たが、被害は山間部の一部の地区にとどまっていた。

そこで気づいたのが災害報道のあり方だ。東京でテレビを見る限り、街全体が線状降水帯の下でたいへんな状況になっているかのような印象を抱いた。全国放送では痛ましい土砂崩れの映像が画面に映し出されていた。

心配なのは、これから数ヵ月間はこの街を訪れる観光客が減るのではないかという点だ。災害報道では、メディアが印象的な映像を流し、その後の復興を妨げてしまうことがある。いわば天災の後に人為的な被害を生み出している。

ここ数年、一部の報道機関の災害報道は過剰だと思う。テレビでは通常の番組が一斉に消え、何時間も災害報道一色に変わる。人命は大事だが、台風情報を生でずっと伝えるかどうかは別である。スマートフォンが普及し、気象や災害の情報は個別に届けることができるようになった。関東の台風情報を東海地方の人がテレビで詳しく知る必要もないのではないか。

8月の南海トラフ地震への警戒も、災害演習をしているのではないかと邪推してしまう。沿岸の観光地や海水浴場は、経済的な被害があっても、その補償は受けられない。天災だから免責なのか。

思い返すと、新型コロナ禍の最初の時期に似たような経験をした。当時、医師と経済人などが集まって、経済活動をどう制限するかをビデオ会議で話し合った。

感染症の専門家は、経済活動を即座に全面停止せよと主張した。経済活動全面停止の弊害が意見として出されると、人命第一だと反論された。典型的なパターナリズムだと思った。コロナの当初、確かに経済を制限すべき局面があったが、そこに行き過ぎがあった。

災害報道を担う人にも同じパターナリズムが感じられる。使命感に燃えているのかもしれないが、報道には予期せぬパワーもある。結果として被害が狭い範囲にとどまったなら、それも伝えてほしい。被災地はもう大丈夫ですよという情報も大事だ。それをしないと間違ったイメージが定着してしまう。

災害報道のあり方にきれいな解答はないが、過剰とも思える報道は慎み、復興状況まで報道してはどうだろうか。

9月1日の防災の日に放送されたNHKスペシャル「MEGAQUAKE 巨大地震 “軟弱地盤”新たな脅威」をご覧になった方もいると思う。能登半島地震で7階建てのビルが横倒しになった被害をうけて、軟弱地盤による基礎や杭の被害に焦点が当てられた。この番組シリーズはずいぶん前から制作されてきているが、だんだんと危機をあおる内容になってきているように感じる。国民に地震などの災害の危険性を周知し、対応しもらいたということなのだろうが、オオカミ少年になっていないか。

地盤や基礎のことはまだわからないことが多い。研究でわかったこと、まだわからないことをちゃんと伝えられていただろうか。国民がリスクを知ることは大事だけど、いまのテレビではこうした内容でないと伝わらないという認識なのだろうか。

それと、番組に登場する研究者を「科学者」と呼んでいたことも違和感を感じる。








平易な日本語を心がけよう

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出典:四国おへんろ
日経新聞(8/22付け)の「私見卓見」蘭に東洋大学名誉教授の山田肇氏が『平易な日本語を心がけよう』と題して寄稿していた。
日本の府省庁は主要な行政策を紙一枚で説明する資料を作成する。この資料は「曼荼羅(まんだら)と呼ばれ、関係部局からの要望に応えて、多くの情報が盛り込まれている。しかし、読者にとっては、必要な情報が見つけづらく、情報間の関係もわかりにくい。

また、企業の年次報告書には最高経営責任者(CEO)の挨拶がある。だが、150文字を超える長い文が多く、「ESG(環境・社会・企業統治)経営」などのはやり言葉が目立つようでは、投資家に経営方針は伝わらない。

明確な言葉遣いで国民に直接訴えて支持を高めた英国のサッチャー元首相の話法は、情報の受け手が必要な情報を容易に見つけ、理解し、使用できる「プレインランゲージ」の起源の一つとされる。

移民が多い米国では、すべての国民が理解できるように、政府は公文書をプレインランゲージで作成する義務がある。欧州連合(EU)は、全文書を加盟国の各言語に速やかに翻訳するために、プレインランゲージを採用している。こうした国・地域ごとの政策を集約して、国際標準化機構(ISO)は2023年に明確な表現のポイントであるプレインランゲージ原則を規格化した。

明確な表現にするポイントはまず読者を特定することだ。例えば、中学卒業レベルの人に理解できることが米国政府公文書の義務である。次にタイトルや見出しを工夫して、何について書かれているかすぐに判断できるようにする。そして簡単に理解できるよう、読者がよく知っている用語を使うことが重要だ。さらに「一文一意」を心がけ、二重否定は避ける。そのうえで、読者の文書利用を評価し、改善を続けるのがよい。
(以下省略)

日本の官僚が作成する資料を「曼荼羅」と呼ぶとは知らなかった。1枚の紙によくもここまで情報を詰め込めるものといつも感心してみていた。ただ、そこに書かれていることを解読するには時間がかかる。

プレインランゲージに対する反対意見は複数存在していたという。代表的なものが、読者を見下している、テクニカルなトピックには使えない、過剰に単純化している、正確性に欠ける、など。しかし、今ではこのような意見は誤解であることが証明されているという。

分かりやすく説明する資料を作成することが必要だし、講演などでは聴衆にわかりやすい言葉で説明することが求められる。最近はカタカナを使った用語も増えている。カタカナ用語ではなく日本語で表現できることもあるのになぜカタカナを多用するのだろう。さらに、学生らと話しをしていると、若者特有の言い回しがあって、ニュアンスがわからないときがある・・・

著者の山田氏は一般社団法人日本プレインランゲージ協会の理事も務めている。









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講義中・・・
著書など
研究室のマスコット
「アイソレータ・マン」。頭部は積層ゴムで、胸にはダンパーのマークでエネルギー充填
『耐震・制震・免震が一番わかる』
共著ですが、このような本を技術評論社から出しました。数式などを使わずに耐震構造、制震構造、免震構造のことを、できるだけわかりやすく解説しています。
『免震構造−部材の基本から設計・施工まで−』
2022年に改訂版がでました。初版から10年が経ったので新しい情報やデータを追加・更新しています。免震構造の基本をしっかり学べるような内容となっています。
『4秒免震への道−免震構造設計マニュアル−』
いまでは少し内容が古いかもしれませんが、免震構造の基本的な考えを述べています。初版は1997年に理工図書から出ていて、2007年に改訂版を出しました。
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