O型はリスクが低い?

日経新聞(7/5付け)に『「O型、リスク低い?」報告、コロナ重症化』という記事があった。
新型コロナウイルス感染症で患者の血液型と重症化するリスクとの関連を調べる研究が相次いでいる。欧米などの研究チームによると、O型の人はリスクが低いとされる。ただ重症化リスクは高血圧や糖尿病など持病の影響が大きく、追加の研究が必要になりそうだ。

ドイツのクリスティアン・アルブレヒト大学などは新型コロナウイルスで起きる呼吸不全のリスクについて、イタリアとスペインの7病院で入院した1980人の重症患者を対象に調べた。

血液型を決める遺伝子を手掛かりに比べたところ、A型は平均に比べて発症率が45%高く、O型は同35%低かった。6月上旬に米医学誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に論文を発表した。

米遺伝子検査大手の23アンドミーは新型コロナへの感染と血液型の関係について調査結果をまとめた。75万人の参加者のデータを血液型別に比べたところ、O型で感染率が他の血液型と比べて9〜18%低かった。他の血液型では感染率に統計的な差は見られなかった。

ただ世界各国で人口に占めるA型やO型などの割合はまちまち。リスクが低いはずのO型の人が多い米国とブラジルは、新型コロナの累積感染者数がそれぞれ約260万人と約140万人を上回り、世界で1、2番目に多い。日本人ではAは4割、O型は3割だが、患者数は2万人弱にとどまる。各国における感染率と血液型の割合には相関はみられない。

血液型は酸素を運ぶ赤血球の表面にある「糖鎖」と呼ばれる分子の形によってA型やB型、AB型、O型などに分かれる。この糖鎖は肺や小腸などほかの細胞の表面にもあることが知られている。

血液型によってリスクが異なることについて、順天堂大学の入村達郎特任教授は「新型コロナウイルスがこの分子を手掛かりに感染している可能性があるが、詳しいメカニズムは分からない」と今後さらなる研究が必要だと指摘する。

O型は、重症化するリスクが低くなるということなのかな?
新型コロナウイルス感染症に関する調査研究は各国で精力的に行われている。ちょっとデータが古いが、日経新聞では下のような図が掲載されていた。日本発の発表が進まない背景には、個々の症例データを把握する国の仕組みが十分に整備されていない面があると指摘されている。

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感染者数が少ないことも影響しているのだろうか。日本人の感染者数の割合がなぜ少ないのかといった点はぜひ解明してほしいところだ。

いずれにせよ血液型によらず感染対策をしっかりしていくことが必要ということだろう。









あしたの地震学

あしたの地震学

神沼克伊著『あしたの地震学 ―日本地震学の歴史から「抗震力」へ−』(青土社)を読んだ。

地震大国日本。いかに地震を予知するかこそが日本地震学の悲願だった。しかし、いまだにその願いは叶えられていない。日本地震学の歴史をつぶさにひもとき、実際に経験したことから、専門家のあるべき姿と、どのように地震と向き合うべきかを、第一人者が考える、という内容。

そのなかで第7章「でも地震は起こらない」では、今後の大地震(関東地震、南海トラフ地震)の発生について次のように書かれている。
仁治関東地震と明応関東地震の間が253年、明応と元禄の間が203年、元禄と大正の間が220年である。つまり最近の800年間をみると関東地震は200〜250年ぐらいの間隔で発生しているのである。(略)したがって、「次の関東地震は2130〜80年ぐらい、22世紀の中ごろに起こるが、その100年前の2050年ごろからは、南関東でM6からM7程度の地震が起こりはじめ局地的な被害が出る可能性がある」、が私の結論である。M7の地震の中には東京直下地震も含まれる。関東地震の震源地に住む私はあと20〜30年ぐらいは地震の発生を心配しなくてよいと考えている。

「危ない、備えろ」という注意ばかりではなく、このように起こらないという情報も地震学者が出す必要があろうと考え、私は「関東地震は当分の間は起こらない」と宣伝している。

(略)

南海トラフ沿いでは天武天皇の684年から昭和時代の1945年前後まで、およそ1300年間に9回の巨大地震が起きている。この海域の地震では西側の南海、東側の東南海や東海地震が続発する傾向があるので、そのような地震は1回と数えてある。その間の発生間隔は90年から260年と幅がある。1970年代の東海地震発生説はその短い90年を考慮して発せられた。1990年代から云われだした大地震の切迫性も同じである。

しかし、逆に間隔の長い200年や260年に注目すると、次の巨大地震の発生は2145年から2200年ごろになる可能性もあるのだ。長期間、南海トラフ沿いの地震が起きないことはよいのだが、最悪の場合、関東地震と同じ時期に、両方の地震がほぼ同時に起こる可能性もある。発生間隔に幅があるので、その間隔の取り方で、「南海トラフ沿いの地震は明日起こるかもしれないが、22世紀になってからかもしれない」と云える。

(略)

南海トラフ沿いの巨大地震が、過去3回と同じように関東地震とのペアなパターンで起こるとすれば、21世紀中に1度起こるかもしれないが、さらに次の関東地震の予測からは22世紀の中頃から後半に発生することが推測できる。22世紀の後半以降、数年から20年程度の時間間隔で、首都圏と中部(名古屋)、関西の日本の中枢部が相次いで巨大地震に襲われるのである。これを私は「22世紀問題」として考え始めている。

(略)

大地震の発生で遭遇する数々の危険な出来事を知ることは重要である。できるだけその現実を記憶にとどめたうえで、抗震力を身につけてほしい。生き延びる為、地震に備えるための注意事項を10項目にまとめ、それを「抗震力」と名付けた。中には多少の地震の科学も入っている。相手を知るためには少しは、その相手(地震)がどんなものか知っておいた方がよいと考えたからだ。

抗震力は個人個人が大地震に遭遇しても生き抜く力である。地震に遭遇した時命さえあれば、後は道が開ける。どんなに強い揺れでも無事に生き延びる術を身につけること、日頃から無理のない範囲で自分自身にその能力をつけておくことである。

地震対策は中地震に対しても大地震に対しても、巨大地震に対しても同じである。揺れに対してはとにかく震度7の揺れに備えることだ。自宅の壁に亀裂が入った、屋根瓦が落ちたなどの多少の被害があっても、家が潰れなければ、たとえ屋根をブルーシートで覆ってでも地震後も住み続けることはできるのだ。家の中には背の高い家具を置かないようにするとか、転倒防止をすることによって、家の中で命を落とすようなことも無くなる。

大地震に遭遇した時に自分自身が生き延びられる方法、それをまとめたのが抗震力なのだ。
(以下省略)

次の巨大地震の発生は22世紀と思っていいのだろうか。たとえ巨大地震がおきても対応できるように「抗震力」を鍛えておく必要がある、と。

最近は地殻の変動などを捉えるための観測データがあるだろう。もちろん深い地盤の動きまでは直接把握できないにしても、そうしたデータは地震の予測に役立たないのだろうか。本書では22世紀問題が提起されているものの、その地震の発生は過去の地震発生間隔に基づいて予測されていると思われる。これは一般の人たちにも分かりやすくするために、あえてそうされたのだろうか。

本書では、日本の地震学の歴史やこれからの地震対策「抗震力」について学べる。








おしえて!イチロー先生

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「おしえて!イチロー先生」では、イチローが、小学生や大人からの質問に答えています。

『お寿司屋さんを開きたいけど、どう思いますか?』


「プロになると心から楽しめなくなることは知っておきましょう!」


『宿題のある意味ってなんですか?』


「宿題はやりたくないことをやれるようになる訓練」








おじぎは互いを敬う証し

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日経新聞(7/3付け夕刊)に『おじぎは互いを敬う証し―明治時代に作法を統一』という記事があった。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、日本の「おじぎ」が注目されている。欧米では握手やハグなど体を触れあうあいさつは見直しを余儀なくされている。おじぎは相手との距離を保てるとあって、海外の要人も注目し、外交の場でも使われ始めている。そもそも、おじぎって?

敬意を表すために、頭を下げるおじぎ。その起源は遠い昔だ。民俗学者の神崎宣武さんによると「古代から中世のあたりまで、アジアやアフリカなどに共通して見られた」という。「当時の対象は神仏に対して」だった。

国内で人と人との間でおじぎが共有されるようになるのは、江戸時代の武家社会の安定期だ。約300もの藩があり「江戸幕府は反乱が起きないよう、作法の統一を必要とした」(神崎さん)。伊勢流、小笠原流などの礼法が重んじられるようになる。武士が刀を自分の右側に置き攻撃できない状態でおじぎをすることから「刃向かうことはしません」という意味もあった。

おじぎが頭を下げるという意味で一般化するのは明治になってからだ。「今のおじぎにつながる形を作り上げたのは、明治時代の文部省」。こう指摘するのは教育関係の出版社、さくら社の横山験也社長だ。江戸時代、庶民もおじぎはしていたが「身分や地方によってばらばら。政府はこれを整えようとした」(横山さん)

おじぎの他、朝晩のあいさつなどが「作法要項」として学校を通して広まった。普通のおじぎは上体を30度、会釈は15度傾ける作法で、今のおじぎに近い。身分制度が廃止され「出身や習慣など互いの違いを認めた上で、敬意をもって付き合っていくため」(横山さん)に生まれた。頭を下げ合うことで、互いの違いを肯定し合う意味があったのだ。

日常に溶け込んだおじぎだが、高度成長期になり、海外との関わりが増えると、外からの目が気になり始める。「ぺこぺこ頭を下げるのはみっともない」という雰囲気が生まれ、「田中角栄首相(当時)は、海外と渡り歩くのにふさわしくないと、意識しておじぎをしなかった」(神崎さん)。今でもビジネスマナーでは「握手をしながらのおじぎはNG」とされる。おじぎの意味を意識することがなくなり、存在感も低下した。

「ojigi」――。
ここにきて、にわかに海外から注目を集め始めた。6月18日、英ジョンソン首相が官邸で仏マクロン大統領を出迎えた際、2人がしたのは、握手ではなく軽いおじぎだった。

米ビジネスインサイダーは4月、米国人千人以上が対象の調査で、コロナウイルスの流行が落ち着いた後も「握手はなくていい」と半数以上が答えたと公表した。握手に代わるものについては「手を振る」が22%、「口頭での挨拶のみ」は15%。「おじぎ」は8%だった。

非接触という点で注目されるおじぎだが、「過去であればありえなかった」。聖学院大学の小川隆夫特任教授はこう話す。「欧米では、かつておじぎは王や神など身分の高い相手にするもので、対等な相手にはしない。できればしたくないもの」なのだ。

さらに、英語で頭を下げる意味の「bow」ではなく「ojigi」として認識されている。「互いに敬意を表すものと理解されている」(小川さん)からだろう。訪日外国人観光客も増え「日本人以上に、おじぎを理解している人もいる」(神崎さん)

コロナウイルスの感染拡大により、人とリアルにつながりにくい状況が続いている。そんな今だからこそ、あいさつの場面では、その意味をかみしめながら、おじぎしてみるのもいいかもしれない。

日本文化の相手を察する、あうんの呼吸というのもあるのかもしれないし、スキンシップに慣れていないこともあるのではないか。それにしても、学校教育の影響って大きいんですね。

大学での授業はオンラインとなっている。そのためパソコンの前に座って話をすることになる。いつもの授業だと教壇に立って授業をしている。すわって話をするのと立って話をするのはちょっと違う。立って授業をすると結構なエネルギー(カロリー)を消費すると思うけど、座っての授業はそこまでないように感じている。声の出方も当然ちがっている(大きな声をだす必要がない)。

後期授業でもオンライン授業が続くようなら、立って授業ができるようにパソコンの高さ位置などを工夫しなくては・・・









治水の抜本対策が急務

日経新聞(7/8付け)に『治水、抜本対策急務、熊本、「ダムなし」整備進まず』という記事があった。
九州の記録的な大雨による被害は自然災害への備えが不十分な現実を改めて突きつけた。死者が最も多い熊本県が標榜していた「ダムなし治水」は整備が間に合わず成果を出せなかった。気候変動で災害リスクがかつてなく高まる中、実効性の高い治水対策への練り直しが急務だ。

豪雨で氾濫した熊本県の球磨川は「日本三大急流」の一つで、国が1966年に川辺川ダムの計画を発表した。地元の反対などで工事が進まず、2008年に熊本県の蒲島郁夫知事が白紙撤回を要求。民主党政権時の09年に当時の前原誠司国土交通相が建設中止を表明した。

それから約11年後に起きた今回の豪雨災害。蒲島知事は「ダムによらない治水を目指してきたが費用が多額でできなかった。非常に悔やまれる」と述べた。「ダムによらない治水を極限まで検討する」としたが、具体策は明らかにしなかった。

壁になったのはコストだ。ダム計画が中止になった09年以後、国と熊本県、流域市町村は協議を重ねてきた。環境問題に配慮するため堤防の強化や遊水地の設置、宅地のかさ上げといった複数の対策を検討した。それらを組み合わせた10の案を19年6月に示した。

10案の概算事業費は最少でも堤防かさ上げを中心とした案の約2800億円で、遊水地を中心とする案なら約1兆2千億円まで膨らんだ。工期も最低で45年、最長なら200年もかかる。「ダムを避けたがために、かえって治水対策の柔軟性が欠ける」(国土交通省幹部)現実に直面した。

理念には賛同も多かったが、一向に実現可能性を見いだせない。逡巡(しゅんじゅん)して時間を浪費するうちに豪雨に襲われた。

今回、大きな被害が出た球磨川流域は、事前に浸水が予想されていた地域だ。国土交通省八代河川国道事務所は17年3月、球磨川水系で想定できる最大規模の降雨があった場合の「洪水浸水想定区域」を公表していた。

このハザードマップと今回の被害を受けて国土地理院が公表した浸水の推定図を比べると、想定区域と実際の浸水地域はほぼ重なった。つまり被害を予想できたはずなのに、有効な対策を打てなかったことを意味する。

近年は気候変動の影響で水害が多発している。1976〜85年と2010〜19年を比べると、1時間に50ミリ以上を記録する激しい雨の発生回数が1.4倍に増えた。土砂災害の件数も1990〜2009年までの年間平均が1000件程度なのに対し、10年以降は1500件だ。
降水量50mm以上
<全国の1時間降水量50mm以上の年間発生回数、出典:気象庁>
日降水量400mm以上
<全国の日降水量400mm以上の年間日数は2.7倍に、出典:気象庁>

国土交通省の技監や水管理・国土保全局長を歴任した足立敏之参院議員は「毎年のように激甚災害級の豪雨被害が起き、治水対策がついていけていない」と話す。

河川改修や堤防のかさ上げなどに使う国の治水予算はかつてより低水準だ。00年度ごろまでは年1.3兆円程度に達することもあったのに対し、現在は1兆円を少し超える水準にとどまる。少ない予算を効果的な対策に結びつけられていない。

被害は今回の熊本県に限らない。約100人の死者を出した昨年の台風19号では、都心部で人的被害が抑えられた一方、宮城や福島、長野では堤防の決壊によって甚大な被害が出た。特に地方ほど被害が大きくなる傾向が目立つ。

公共事業予算の大幅な積み増しが見込みづらい中、重要性を増すのはハード整備とソフト対策を組み合わせることだ。

ハード面ではダムや堤防といった巨額の費用と期間が必要な施設だけではなく、貯水池や避難施設も整備する。ソフト面は土地の利用規制やハザードマップに沿った街づくりも含め、複眼的に非常時に備える。

国もようやくハード偏重を改め、避難体制の強化も含めた「流域治水」を重視する姿勢を探り始めた。九州大学の島谷幸宏教授は「これまで治水の専門家で議論をしてきた。これからは都市計画などの専門家とも議論するなど総合的に考えていく必要がある」と話す。

2017年7月には「九州北部豪雨」が、2018年7月には「西日本豪雨」が、そして今年7月には熊本などで災害が起きた。数十年に1度といわれるような豪雨災害が数年に1度の頻度で(地域によっては毎年のように)発生している。数十年に1度の豪雨という言い方も変えた方がいいのではないだろうか。

「流域治水」では、流域の開発規制、既存住宅移転などの私権制限を検討しているという。ダムをつくったり堤防を高くしたとしても、それを上回る豪雨となるかもしれない。ハード対策もできるだけ必要だろうが、これからは「まちづくり」そのものを変えていくことを考えないといけないのではないか。これは河川の氾濫だけでなく、地震や土砂災害なども含めて、できるだけ安全な地域に移り住むことを長期的に実施していくことが必要ではないだろうか。もちろん、そのためには国民の理解を得るための説明を丁寧に行っていくことが求められる。

ただ、災害が多い日本で、安全な都市や地域がどこに、どれだけあるのか?
こちらのサイト「日本一安全な都市はどこ?」では、島根県と鳥取県がもっとも安全なところとなってはいるが・・・









超高層都市は終わり、自然との一体型へ変わる

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イタリア・ミラノにある高層建物(Bosco Verticale)

週刊東洋経済誌(7/4号)の特集は「激震!不動産」で、その記事の中で建築家の隈 研吾氏がインタビューに答えている。

−−コロナ禍は、建築にどんな影響を及ぼしますか
まず、都市の定義が変わる。われわれが今、都市と思っているものは20世紀に米国が定義した都市だ。オフィスや工場といった「大きな箱」をつくり、そこに人を集めて効率的に働かせている。郊外から都市へと人を送り迎えするのも電車や自動車という「鉄の箱」だ。

しかし、この都市の形ができてまだ100年ぐらい。日本がそうなったのは第2次世界大戦後だから数十年ぐらい。今回のコロナ禍により、そのような都市は時代遅れでその先を考えなければいけない、ということを突きつけられた。

−−時代遅れですか
大箱=効率的という大前提が崩れた。ICTが進化し、今はどこにいても仕事ができる。大箱に詰め込まれて働くことは、むしろストレスになる。これからは分散型のライフスタイルや働き方が基本になってくる。
(略)
−−都市はどう変わりますか
今ある超高層の高密都市から、環境一体型の都市へ変わっていくだろう。都市だから高いビルが必要、ということはない。これからは高いビルがおしゃれではないと見なされる可能性がある。もっと自然を大切にし、環境と一体化した都市に変わっていくだろう。

−−高いビルは必要ない?
高いビルに住んでいる人ほどエリート、というのは古い価値観だ。これからは都心の高いビルよりも、自然の中の低層のビルに本社を構える企業が増えてくるのではないか。コロナはそのきっかけになる。

いま輝いているIT企業の本社の多くは、新しい高層ビルを渡り歩く形になっている。しかし、それは変わっていくだろう。人々におしゃれだと思われることがビジネスに直結する企業は、緑の中のオフィスや、リモートのワーキングスタイルなど、新しい企業理念をアピールできる本社のあり方を模索している。

−−働く人はどう変わりますか
時間から自由になれる。みんなが定時に通勤して都心のオフィスを使うというのは20世紀型の発想だ。通勤時の交通の負荷も高い。早朝に働く人とか、夕方以降に働く人とか、多様なほうがいい。そのほうが密を避けることができる。アフターコロナの社会にいい。都市にとって健康なことだと思う。

感染症に強い都市とは、各人が勝手に生きられるところだ。1つの場所に閉じ込められ、1つの時間帯に働くという優等生的な都市ではなく、各人に自由度がある都市のほうが感染症には強い。

そうした意味で、働く人一人ひとり、個人個人が変革を迫られる。どこに住み、どこで働き、時間をどう使うか。それを自分でデザインすることが求められる。

日本人は米国発の大箱型のシステムに優等生的に従ってきた。ここから変わるのは苦手かもしれない。しかし、都市構造としてみると、江戸の町は決して大箱型ではない。低層型でストリートと建築は融合していた。日本が大箱型の都市になったのは、たかだか戦後数十年の話。日本人が新しいワーキングスタイルを発見する可能性は十分ある。

富士通が働き方改革を進めるという。富士通では、テレワークを原則とする働き方に改め、勤務時間を自由に選べるフレックス勤務に移行する。また、働く場所を選べるよう、サテライトオフィスを全国に増やす一方、余分なスペースは減らしオフィスの面積を3年後には今の半分にするとも。

まさに、隈研吾氏がいう方向だ。ただ富士通のような会社がどれくらい増えるかだろう。コロナが一段落すれば、これまでと同じ働き方に戻るのではないか。変化を求めない、これまで通りが楽かもしれないけれど、変化しないといけないと思う。

それは教育の現場でも同じ。とある新聞記事に、日本の学校教育でのデジタル化は欧米にくらべ20年遅れているとあった。いま学校教育が再開されてきているが、もとの教育のままだという指摘も。学校の教員が忙しいということもあるだろうが、変化のために教員を支援する体制をつくることが必要ではないだろうか。








遠隔授業

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WokandapixによるPixabayからの画像

日経新聞(6/30付けの夕刊)の「あすへの話題」欄に放送大学教授の松原隆一郎氏が『遠隔授業』と題して寄稿している。
緊急事態宣言を受け4月、5月と在宅ワークだったが、私の生活にあまり変わりはなかった。2年前に東京大学から放送大学に移籍して、講義室に出向くのは年に2度の面接集中授業だけになっていたからだ。それも今年はZoomで実施される。大教室での授業は教科書を執筆した上でのテレビ・ラジオ放送、少人数授業はオンライン授業へと入れ替わっていた。

私は遠隔授業を望んで放送大学に移ったが、今期はステイホームが必須となり、日本中の大学教員が同様の体験をしている。授業を毎回大教室で行うべしとする考え方は揺らいでいるのではないか。

何故大学ではこれまで大教室、時には出席を取る授業が一般的だったのだろうか。それは大学の役割を専門知識の伝達およびそれを反映する単位取得とみなした上で、学生の学習意欲に疑念を抱き、教室での対面講義を実施すれば教育したことになると考えてきたからではないか。そうした授業は遠隔でも置き換えられるだろう。

義務教育であれば、生徒を1カ所に閉じ込める授業にも意味はある。他人と一定の時間、空間をともにすることに慣れるためだ。けれども大学、とりわけ文系では、文学や憲法といった専門知識がそのままで就職先や社会から待望されるとは思われない。むしろ初歩的であれ、仮説を思いつき自分の足で調べ頭で考えて、論文を書き上げる能力の習得が要請されるだろう。それにこそ対面授業が向いている。コロナ禍が転じて授業法が刷新されることに期待したい。いかなる組織でも、在宅と対面の是非につき再検討が進んでいくことだろう。

今回のコロナ禍で遠隔授業にはじめて挑戦した。多くの大学の教員もはじめての経験をしたのではないだろうか。遠隔授業については、いい面、よくない面などすでにいろいろと語られている。遠隔授業のノウハウをさらに蓄積していけば、効果的な遠隔授業もできるだろうし、そうしていくことも必要ではないかと思っている。今回のはじめての経験をこれで終わりにするのはもったいないとも感じている。

授業の特性にあわせて、遠隔授業か対面授業か、あるいは両者のミックスかを授業担当者が選択することができるようになってほしい。ただ、そうなると授業時間割の関係で大学には来ているのに、遠隔授業のクラスが入り込むような時間割の組み方をしないようなことも考えないといけないだろう。

これまで大学で当たり前だった対面授業を見直し、よりよい授業となるような工夫をする、変化するということが求められている。オンデマンドで録画された授業を視聴してから、実際の授業に参加して議論したりすることも可能となろう。ただ、学生間での議論を活性化させるには、別のノウハウも必要だが・・・

今回のコロナ禍の経験を活かしたいものだ。







「わからない」と言う勇気を

朝日新聞(7/4付け)の「多事奏論」欄に論説委員の郷富佐子氏が『「わからない」と言う勇気を』と題して寄稿している。
「科学にはわからない。そして、私たちに『疑え』と教えている」

イタリアの主要紙コリエレ・デラ・セラに最近、こんな題名の寄稿が掲載された。
筆者のパオロ・ジョルダーノ(37)は、イタリアの若手作家で、優れた物理学者でもある。本国で今年3月に出版されたエッセー「コロナの時代の僕ら」はいま、世界で最も幅広く読まれている新型コロナウイルス本の一つだろう。感染拡大初期の日々を数学的な視点から描き、日本語を含む20以上の言語に翻訳された。

欧州で最も早く感染爆発に襲われたイタリアでも、徐々に経済活動の再開が進む。第2波の襲来を恐れつつ、「通常に戻せ」と「まだ早い」の間で揺れている。そんな時期にジョルダーノが寄稿で放ったのは、科学と政治への痛烈な皮肉だった。

〈(制限緩和で)私たちが前に進む一方、科学者たちはいまだに「だめ、だめ、だめ」と同じことを言っている。楽しみを禁じている。でも、はっきりさせようじゃないか。科学者だってコロナのことを、それほどよくわかってはいないのだ〉

〈政策決定者たちは、こんなふうに私たちを段階的緩和へと導く。「テーブルを離して、再生産数とやらが減るのを待ちなさい。あとはこっちでやるから。あなたも大人になればわかるよ。おっと、外出するときはマスクを忘れないように」〉

イタリアで医療の前線にいる友人は、コロナ問題を「マスク視点」から考えるようになった、という。「マスクは、科学と政治がせめぎあいと混乱の末にたどり着いた妥協の象徴だと思う。一番わかりやすいし、とりあえずマスクをさせておけば国民も落ち着くだろうってね」

「もう外出していいのか」や「夏には収まるのか」などへの答えを早急に求める国民と、煮え切らない科学者たち。困った政府が発したのが、「マスクをして」というメッセージだったという。実際、3月上旬に2割台だったマスク着用率は、4月下旬には約9割へと飛躍的に伸びた。

イタリアの科学者には、苦い経験がある。300人以上が死亡した11年前のラクイラ地震で、発生6日前の会議で「群発地震を大地震の予兆とする根拠はない」とした科学者6人が過失致死罪に問われ、一審で有罪判決を受けた。最高裁で無罪が確定したが、科学界では「もう公的部門へ協力したり、リスク判断に関わったりできなくなってしまう」と危機感が高まった。

コロナ対策で、イタリア政府への助言を担ってきた科学技術委員会の報告書には、マスクに関するこんなくだりがある。

「科学的証拠が限られており、一般人にとってマスクの有効性は明確ではない。だが、その着用を強く推奨するものである」

確かに科学っぽい文章ではあるが、歯切れが悪い。そうか、科学も政治と無関係ではいられないのだと気づく。だから「どちらも疑え」と、ジョルダーノは言う。

思えばコロナ禍の世界で、マスクは政治化され、人々を振り回してきた。「私はしない」と突っ張ったり、小さすぎるのが配られたり。国民が自主的にマスクを着けてきた日本で、科学と政治が妥協することはあったのだろうか。考えていたら、コロナ対策の専門家会議の廃止が発表された。

際立つのは、議事録もつくらない政府の無責任さだ。判断できないまま、専門家へ難問を丸投げしていたとしか思えない。互いの意見がぶつかり、譲歩して生まれる妥協以前の問題だ。政府が科学的助言を受け止め、自らの言葉で語らなければ、新しい会議体を立ち上げても意味がない。

ジョルダーノは、地元メディアに「政府は『わからない』と言う勇気を持ち、たとえ居心地の悪い答えであっても正直に国民へ伝えるべきだ」とも話している。結局、問われているのは政治の質なのだ。

九州地方で豪雨が続いている。熊本県の球磨川の流域では多くの建物が水没し、死者も出ている。2年前の西日本豪雨で被災した人たちはまだ仮設住宅に住んでいる方々もいる。こうした災害がなぜ防げないのだろうか。豪雨になれば河川が氾濫することは予測されているのではないか。しかし、河川の改修などには時間とお金がかかるから後回しになっているのだろうか。こうも頻繁に災害に見舞われるのは、地球温暖化のせいばかりにはできないのではないか。

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国土地理院による球磨川 人吉市の浸水推定

新型コロナ感染症も災害のようなものだと考えたときに、災害(感染症の発生)の予測はできないし、災害がどこでどんな規模で起きているのかがわからないという点では豪雨や地震災害とは大きく違っている。こうしたことに対して、専門家は我々にはわからない点が把握できるのだろうか。

天気予報では、今後も雨は降るという。
建築を専門としてはいるものの、こうした豪雨災害に何もできないのがもどかしい。










クリエイティブの処方箋

クリエイティブの処方箋

ロッド・ジャドキンス著『「クリエイティブ」の処方箋』(2015年初版)を読んだ。
中身はサブタイトルにもあるように86の発想のアイデアが、芸術家、映画監督、建築家などとともに紹介されている。本書はちょっと自分を変えてみたい、新しい方法を試してみたい、何をやっているのかよくわからない人たちに効く薬のような役割をもっているのかもしれない。

フランク・ロイド・ライトはマジソン高等学校に通ったが卒業しなかった。大学にも入ったが学士号を得ずに途中で辞めた。製図工として設計事務所に雇われたライトは独学で建築デザインを勉強した。(略)ライトはルールを破り続けたが、それは反逆精神によるものではなく、単にルールを習っていなかったからだった。自分が正しいと感じたことをやっただけだった。「正統な方法」を知っていることが、足かせにもなるということだ。

大学も含めて、学校というのはうまくいくことが確認された方法だけを教える。学校教育というのは銀行的な方法論で教えるのだ。知識は貨幣のようなものであり、蓄財されたら金庫にしまって鍵をかけておくもんだと言わんばかりに。学生は疑問を抱えて入学し、答えをもらって卒業していく。誰もが自分が気づかない潜在能力を持って、天才としてこの世に生まれ出るのだが、学校教育と伝統によって凡人になっていくのである。

あなたは、歩き方の本を読んで歩けるようになったのではない.歩いてみて、転んで立ち上がりながら歩けるようになったのだ。何かをするときに、「正しい方法」などはない。あるのは「自分のやり方」だけだ。何をするにも、自分のやり方が何か考えながらやろう。

バックミンスター・フラーは、極度に視力が低いため、手触り(触覚)に頼っていたという。その彼が建物の模型を爪楊枝でつくったときに、立方体ではなく、三角錐の格子構造をつくったそうだ。

私たちは、考えることで答えが得られると思いがちだ。問題があれば、考えて抜け道をみつけ出そうとする。あるいは迂回する方法を考える。または駆け抜ける方法を考えようとする。答えが欲しければシンクタンクに頼るし、ブレインストーミングをして頭を絞る。私たちの文化は、考えることを強調するあまり、感じることを忘れてしまう。思考は罠にもなる。私たちの考え方や知識は、大抵の場合文化そのものから、学校から、そして親から借りてきたものに過ぎない。確かに何をどうやって考えるかは教わったが、クリエイティブな人に聞けば、思考だけでは限られたところにしか行けないと教えてくれるだろう。考えるというのは本質的であるが、考えすぎるとそれ以外の感覚が犠牲になるのである。

オリジナルなんてものは存在しない。ひらめきを感じそうにな気がしたら、想像力を刺激されそうなら、何からでも盗め。昔の映画も新しい映画も見尽くせ。音楽を聴け。本を読め。絵画、写真、詩、夢、行きずりの会話、建築物、橋、道路標識、樹木、雲、湖や海、そして光も影も食い尽くせ」
ジム・ジャームッシュ(映画作家)










訪問者数100万人を超えました

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このブログを始めた2004年から約16年で、総訪問者が100万人を超えました。

最初のころは、何気ない日常の出来事を書いていました。そして2009年ごろからは毎日ブログを更新するようになりました。約10年間続けてきましたが、今年は、週末は休むようになりました。コロナ禍の影響ともいえますし、ネタが・・・

最近のブログでは、新聞記事などをアップすることが増えています。これは私の備忘録のようなもので、ブログによるスクラップだと思っていただければ幸いです。

いずれにしても、多くの方々の支えがあった結果だろうと思います。
還暦を迎え、どこまで続けることができるかわかりませんが、今後ともよろしくお願いします。









ノーマルを求めないニューノーマルを

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週刊東洋経済(6/27号)の「少数異見」欄に『ノーマル(標準)を求めないニューノーマルを』という記事があった。
「ニューノーマル」という言葉をよく耳にする。新型コロナウイルス感染症が収束した後も、日常生活や産業構造などが元に戻らず、新しい世界となるといった意味で使われている。

もともとはエコノミストのモハメド・エラリアン氏が、リーマンショック後の世界経済は景気が回復しても以前の状態に戻らないという意味で唱えた概念だった。このため今回は「ニューノーマル2.0」と称することもある。

1か2かはともかく、ウイルス感染の防止のためにこれまでのやり方を変えなくてはいけないのは確かだ。日常生活については専門家会議の提言を踏まえて厚生労働省が「新しい生活様式」の実践例をまとめており、企業に対しては各業界団体がガイドラインを発表している。

こうしたガイドラインには「それぞれの実情に沿った創意工夫を推奨する」という趣旨が記されている。しかし、実際に中身を読んでみると各社の創意工夫の余地はほとんどないことがわかる。

例えば、外食産業の業界団体である日本フードサービス協会のものを見ると、飲食店のテーブルはパーティションで区切る、最低1メートル、できれば2メートル以上の間隔を空ける、真正面の配置を避けるなどと事細かく記している。さらに会話は控えめにして、BGMを聴くなどを勧める、お酌や回し飲みは避けるように注意喚起するといった客の行動も規定している。

もちろん感染防止の指針は大事だが、同調圧力の強い日本では、ガイドラインの文言が事実上のルールとなってしまうことを懸念している。ガイドラインにはなくても斬新で効果的な感染防止のアイデアが生まれる芽を摘んでしまうことにならないか。

これは飲食店だけの問題ではない。落ち込んだ経済を立て直していくには、大企業もベンチャーも新しい挑戦をしていかなくてはならない。多くの企業が思考停止し創意工夫を失えば、日本経済の活力が失われてしまう。

ガイドラインを参考にしつつ、自分たちの頭で考えて対応していく、そうしたしたたかな強さ=レジリエンスこそが求められるはずだ。一方、消費者もガイドライン「だけ」で判断して、それに即していなければ嫌がらせをする自警団的な行動を慎む必要がある。

新しい「ノーマル=標準」をお上に決めてもらうのはやめにしないか。個々人が創意工夫や多様性を認め合う社会が新しい常態となることを願っている。

大学もニューノーマルが求められるのだろうか。
本学は前期期間は実験や実習が必要な授業以外は遠隔授業となっている。しかし、後期からは通常授業に戻すという声も聞こえてくる。通常授業となれば、密は避けられない。教室にいっぱいに多数の学生が座る授業も珍しくないし、昼時ともなれば混雑した学食でマスクを外して話すだろう。こうした状態を避けるためにも、なにか方針やガイドラインがほしい。

文科省は「学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル〜「学校の新しい生活様式」〜」というマニュアルを発表している。これは小中学校を念頭において作成されたもので、大学にそのまま適用できないと思われるが、大学でもこれに準じたものを作成しておく必要があるのではないか。

また、大学入試もどうするのか。受験生をこれまで通りの密度で教室に入れていいものかどうか。さらに、文科省は大学入学共通テストを2段階で実施するという。これでは私立大学の受験日程は大きく見直さないといけなくなる。こちらも大変だ・・・

いずれにしても、大学をどうやって以前の状態に戻していくためには十分な対策が求められる。










「落ちこぼれ」と「浮きこぼれ」

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

日経産業新聞(6/26付け)の「眼光紙背」欄に『「落ちこぼれ」と「浮きこぼれ」』という記事があった。
一握りの進学校を除いて、大多数の高校の先生の悩みは教室内の学力のばらつきだ。クラスのトップ層に照準をあわせて授業すると、下位層が置き去りに。逆に下位層に分かりやすい内容だと、上位層が物足りないと感じる、「落ちこぼれ」ならぬ「浮きこぼれ」現象が発生してしまう。

この難問を克服する手掛かりがコロナ危機で見えてきた。どの授業を視聴するか生徒が自分で選択するオンライン教育の普及だ。例えばリクルートグループの「スタディサプリ」は高校1年で履修する「数学IA」だけでもベーシック、スタンダード、ハイ、トップと4レベルの講座があり、そこから自分の学力や目的にあったものを選ぶ仕組みだ。

当然のことだが、教室の先生が生徒一人ひとりにカスタマイズした授業をするのはまず不可能。しかし、オンラインではそれが相当程度、可能になるのだ。

思わぬ発見もあった。100万人をこえる高校生が今回、オンライン教育を体験したが、スマホ経由の利用が7割を占めた。机に座って教科書を開いたり、パソコンを起動したりするのはハードルが高いが、すきま時間にスマホで授業を聴くのはユーチューブの延長線感覚で抵抗を感じない生徒が多いという。その結果「成績や素行の悪い子が熱心に取り組むことも多く、驚いた」(茨城県の商業高校の先生)という声もある。学力格差の是正に期待したい。

「浮きこぼれ」なる言葉があることを初めて知った。義務教育の段階だと、そういう子どもは授業は面白くないし、周りにあわせることも苦痛になるかもしれない。海外だと飛び級で学年を飛び越していくこともできるようだが、日本では年齢で縛られてしまう。

大学は入試があるので、入学してくる学生の学力はほぼほぼ同じといえる(それでもだいぶ違いもあるが)。それでも、授業についてこれない学生もたまにいるので、授業のレベルをどうするかは悩ましいところもある。平均的なレベルで授業内容を構成すると、学力上位の学生にとってみれば、少々つまらない、もしくは大学の授業なんて楽勝だと思うかもしれない。

大学生も入学して授業がはじまって本当のことを知ることも多いだろう。ちょっと違うとか、もっとこんなことを学びたいといったときに他の大学に移ることができるようにした方がいいのではないだろうか。ただ、現在のように大学の入学時点で学力試験を課す制度では難しい。やはり、卒業時点で学業を評価する、出口管理をしっかりするようにしなければならない。

「落ちこぼれ」も「浮きこぼれ」もできるだけないようにしたい・・・
(大学としては限界もあるだろうけど)









クレヨンの肌色

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日経新聞(6/20付け)の「春秋」欄にこんな記事があった。
資生堂の「マイ・クレヨン・プロジェクト」は、長年肌の研究を重ねる化粧品メーカーならではの小学生向け出前授業だ。さまざまな人の肌の色を計測し再現したクレヨンから自分に近いものを選んで自画像を描かせる。肌色は人の数だけあると実感してもらう試みだ。

日本では1990年代の終わりにクレヨンの「肌色」をペールオレンジ(薄橙(だいだい)色)などと言い換えるようになった。国際化が進み人の肌色は多様だとの意識が広まったからだ。米国でも20世紀半ばクレヨンの薄桃色をフレッシュ・カラー(肉色)と呼ぶのをやめた。しかし肌色をめぐる議論は今も続くことを最近、知った。

化粧品や服飾品でよく使われる「ヌード」なる言葉。いわゆる肌色系の色を指すが、辞書では「白人の肌の色」と説明されてきた。米国人編集者の近著「ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険」によればこれが見直され、「身につけている人の肌の色に合う(淡いベージュや黄褐色などの)色」と修正されたそうだ。

資生堂プロジェクトのクレヨンには「ゆうと色」「あんり色」と人の名前がつけられた。そもそも昔は「肌色」なんてなかった。画家たちは緑地に赤やシルバーを混色し、白い胡粉(ごふん)に朱を混ぜて唯一無二の個性を表現してきたのだ。お仕着せでない「自分色」を手にした子供たちの自画像も、どれも誇らしげに輝いている。

僕が小さい頃など、普通に「肌色」と呼んで気にもしなかったが、クレヨンだけでなく化粧品にもその影響は広がっているようだ。

朝日新聞(6/30付け)には、『化粧品の「美白」表現、欧米で外す動き』という記事もあった。
欧米の化粧品大手で、スキンケア商品やブランド名から「美白」に相当する文言を外す動きが広がっている。米国で起きた黒人暴行死事件をきっかけに人種差別につながる社会行動への反発が強まり、「白い肌」を強調する化粧品業界の風潮も見直しを迫られた。

欧米メディアによると、世界最大手の仏ロレアルは27日、スキンケア商品について「ホワイト(白い)、フェア(色白)、ライト(明るい)の文言を取り除くことを決めた」と発表した。米大手のジョンソン・エンド・ジョンソンや欧州大手のユニリーバも今月、同様の措置を相次いで表明した。

ジョンソン・エンド・ジョンソンは一部商品名などが「白いことが本来の肌の色より良いかのような表現になっていた」とし、「健康な肌こそ美しい肌だ」と表明。ユニリーバは声明で、アジアで展開する「フェア&ラブリー」のブランド名を変更する方針を示した。広告起用も見直し、「異なる肌の色の女性を取り上げ、インドや他地域の美の多様性を表せるようにしたい」と述べた。欧米では化粧品メーカー各社に対し、一部の製品が肌の色による差別を助長していると批判の声があがっていた。

さて、日本の化粧品大手はどう対応するのだろうか。資生堂は今後の対応について、「現時点でお答えできることはない」とのことのようだが、「マイ・クレヨン・プロジェクト」を開催している会社として期待したいところだ。

多様な価値、他との違いを認め合う、そうした社会になることを願いたい。








呼子のイカ

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日経新聞(6/22付けの夕刊)にJR九州会長の唐池恒二氏が『呼子のイカ』と題して寄稿している。
昨年、呼子(よぶこ)名物のケンサキイカが記録的な不漁に見舞われた。イカの不漁は全国同時多発的に発生し、北海道のスルメイカの漁獲量も激減した。

わが国の食卓に欠かせない魚介類の不漁がこのところよく話題に上る。特に、養殖化が進んでいないサンマやイカは、天然ものが獲れないとたちまち食生活に響く。

流通しているイカは、まず天然ものといっていい。イカの養殖は難しい。水温、エサ、共食いなどさまざまな阻害要因があげられる。後ろ向きに高速で泳ぐイカが水槽の壁面に激突死するから養殖に適さない、という説もある。動物行動学者のコンラッド・ローレンツ博士が「イカは人工飼育できない唯一の動物」と述べている。

イカのもう一つ大きな特徴は、神経質でストレスに弱いこと。生きたまま輸送するとほとんどが途中で死んでしまうほど、足がはやい。24時間が限界という。産地で食べる生イカが断然おいしいのはこのためだ。

呼子は、玄界灘に面した漁港のまち。岸壁横に停泊している船がイカ料理店だ。

漫画「ワンピース」の海上レストラン船「バラティエ」を思わせるその店に、はじめて訪れたのが30年前。出てきた活造りを見て驚いた。水のように透明できらきらと輝いている。なんと美しいことか。イカは白色という概念が覆された。こりっとした食感と口の中に広がる甘味が格別だ。

先日、おじさん仲間とそこで会食した。活造りに舌鼓を打ちながら、「イカは足がはやいんだよ」と蘊蓄(うんちく)を披露したところ、「足が10本もあるからねえ」と返された。

友もまた、愛すべき"天然"だった。

今日で今年も半分が過ぎたことになる。早いな〜と感じるのは僕だけだろうか。この半年の半分はコロナ禍の影響で県外に出ることはなかった。授業は遠隔授業になり、学会などの委員会も遠隔会議となった。最初は、出張にいかないで大丈夫かとか、授業もパソコンを通じてだけで大丈夫か、などと気をもんだものの、案外慣れればうまくいきそうだという感触。

ただ、やはり会って授業をしたり、委員会で議論をしたりすることも必要だと思う面もある。でも、すべてを元に戻す必要もないかなという気持ちもある。両者をうまく使い分けることもこれからは必要だなと思う。

週刊東洋経済(7/4号)の「経済を見る眼」欄で大阪大学の延岡健太郎教授は『対面会議が優れる3つの領域』として、
第一に、参加者の考えや感情が正確に把握できる。複雑な議論では、単に賛成か反対かではなく、3割賛成なのか8割賛成なのか、表情や場の雰囲気で判断する。リモート会議ではわかりにくい。第二に、創造性を刺激する場としては対面会議がよい。熱気あふれる掛け合いの中から新しいひらめきが生まれる。リモートで、そのような場の醸成は難しい。最後に、信頼関係の構築である。信頼が長期的な協業関係や生産性にもたらす貢献は大きい。
と書いている。

おいしいイカ(だけに限らない)を食べるには現地に行くのがいいだろう。リモートによる観光というのも試みられているようだが、雰囲気や匂いといったものはスクリーンからは伝わらない。やはり、その土地の料理をその土地のお酒でいただくというのは格別だと思う。









必ず来る震災で日本を終わらせないために

必ず来る震災で日本を終わらせない

福和伸夫著『必ず来る震災で日本を終わらせないために』(時事通信社)を読んだ。

著者のこれまでの活動から得たことが書かれており、これから来る震災に対して「我がこと感」を持ってもらえるようにリアルに書かれている。

「それでも東京に住みますか」(4章)では、首都はリスクだらけなので、現代版の参勤交代制が提案されている。東京にある会社は、真剣に本社の移転を考えた方がいいと提案し、都内に住まなければいけない人は、家族まで巻き込まないためにふるさとに家族をおいて単身で住むのがベストだという。地方に拠点をおいて、ときどき東京に来るという参勤交代を確立することで、生まれ育った地域に知恵も残し、地方創生も容易になる、と。さらに、リニア中央新幹線が開業すれば、名古屋・大阪を含めた巨大な経済圏が形成される。そうなれば、ますます東京に住み続ける意味がどれだけあるのだろう、と。

「やはり危ない建物が多い」(5章)では、建築の設計について解説しながら問題点を指摘している。
ものづくりは失敗の連続です。失敗しながら少しずつ改良していくのが日本の技術力でした。ところが最近は失敗が許されない。工場でつくったものは不良品がなく、コンピュータで計算したものは間違いがない、との思い込みも大きくなっている。

過去に失敗をした人は、自分たちの力はたいしたことがないし、人間は失敗するものだと知っています。そういう人が組織の上司だと、下の人の仕事がちゃんとチェックされます。ところが、今の超高層の制振や免震は新しい技術なので、多くの上司はそうした設計を余り経験していません。だからチェックする力が足りないのです。技術の変化に追いつくのも大変です。一方で若手は新しい技術は得意だけど、計算機を信じすぎ、現場や地震被害調査の経験が少なく、そのため問題が見つかりにくくなるのです。その上、人、金、時間の余裕がありません。このところいろいろなところで見つかる不祥事の原因とよく似ています。

「これからの防災、減災」(7章)では社会を守る対策が紹介されている。そのなかで既存建物の耐震化については次のように述べている。
国全体で見ても、一軒の家が地震で壊れれば、建物の解体・撤去費用に約100万円、応急仮設住宅の建設費に約600万円、生活再建支援金に約300万円、災害復興住宅(賃貸)に約2000万円・・・と実に3000万円のコストが公の負担となります。地震保険の保険金、建物で最大5000万円も国が負担する可能性もありますが、これらが家一軒を耐震化すれば、すべて浮くわけです。

一戸150万円の耐震化費用で、1000万戸を直すと15兆円。これを10年間でやると年1.5兆円。それを1億2600万人で割れば、一人1万2000円、1日40円にも満たない。国民一人が毎日ワンコインで建物を直せるのです。必ずやってくる南海トラフ地震に備えるお金は、失うお金よりはるかに安いはずなのです。
やはり国民の意識の問題なのか、それとも政府の政策に問題があるのか。これから建てる建物は耐震性をより高めたものが標準になるべきではないだろうか。

最後に研究者への苦言(?)も・・・
本当に大切なことに取り組む人が少ない。論文を出しやすい研究ばかりしがちになる。短期で論文を出しやすい研究とは「重箱の隅をつつく」ことです。(略)学者は自分の研究ばかりをやっていて、隣の領域を勉強しようとしません。それぞれ学会をもっていて論文を出すところが違うから、他の分野の人と価値観を共有することができません。大学教員は社会からまつりあげられているので、人と対等に付き合ったり、一緒にやったりするのが苦手な人が多いようにも思います。組織でプロジェクトを動かす会社とは違った雰囲気です。重箱の隅やセクショナリズムを脱して、大きく大切な問題に取り組まねばいけません。

建築関係者だけでなく自治体で防災に関係している人たち、一般市民の人たちにも読んでもらいたい内容といえる。










最高速度を全車180キロメートルに制限

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kalhhによるPixabayからの画像

日経新聞(6/13付け夕刊)の「よりみちカーライフ」欄に『最高速度制限 ボルボ、「安全」へ英断』という記事があった。
ボルボが2021年モデルから最高速度を全車180キロメートルに制限する。高いボルボは1000万円を超すが、どんなモデルでも「もうこれ以上スピードは追いません宣言」である。

日本で販売される日本車は昔から最高速度が180キロメートルである。事故につながる無用な高性能競争を避けるために、メーカーが自主規制しているからだ。

どんなハイパワー車でも、国内仕様は180キロメートルでスピードリミッターが作動する。そもそも日本で合法的に出せるのは、新東名など一部高速道路での120キロメートルがマックスだ。

しかし、出せる出せないは別にして、これまで「高速化」が自動車の進歩や人気を支えてきたのは事実である。いまでもスーパーカーは最高速を競っているし、レースやラリーなどのモータースポーツも「より速く」が至上命令だ。そう考えると、メーカー自ら今後開発する自社製品すべてに最高速度の足かせをはめるのはなかなかの英断だと思う。

さらにボルボは同じく21年モデルから"ケアキー"という装備を導入する。車にはリモコンキーが2個付いてくる。そのうちオレンジ色のケアキーを車内に持ち込み、ダッシュボードのタッチディスプレーで簡単な操作を行うと、その車の最高速度を任意に設定できる。下限は60キロメートル。

たとえば、免許とりたての息子に車を貸すときは、120キロメートルにセットしたケアキーを渡す。もう高速道路で遠出するつもりはないが、これからも不退転の決意で運転は続ける。免許返納なんかしないぞと言っているもみじマークのボルボオーナーには、子供たちが交渉し、70キロメートルに設定したケアキーと引き換えにメインキーを召し上げる、なんていう使い方もできる。

スピードが低ければ低いほど、事故は軽くてすむ。安全第一を社是に掲げてきたボルボならではの新趣向だが、こうした取り組みが"売り"になるようになったのだ。アクセルを踏めばスピードが出ると思ったら大間違いの時代になってきたのである。

車を運転する目的はなんだろうか。仕事やレジャーのための移動の手段ということであれば、最高速度は関係ないだろう。一方で、自動車の運転が愉しみという人たちもいる。こうした人たちにとってみれば、最高速度だけでなく車のほかの性能にも関心があるだろう。自動車としての性能を測るうえで最高速度は一つの目安になっているのは間違いない。

しかし、ボルボは安全を優先する判断をした。ボルボは、「こうした安全対策により、一部の顧客を失うことになっても、安全性(死亡者や重傷者をゼロにするため)のために、メーカーの権利と義務をめぐる議論においても、先駆者でありたい」と表明している。

そのうち自動車は自動運転が装備され、自分で運転する機会は減っていくのではないか。さらにすべての自動車が相互に情報を交換し、自律的に走行するようになるかもしれない。そうした時代になったときに、自動車メーカーはどういう価値を提供しようとするのだろうか。










テレワーク時のコミュニケーション

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建設通信新聞(6/19付け)の「建設論評」欄に『テレワーク時のコミュニケーション』という記事があった。
コロナ禍の中、働き方改革の目玉の1つとされる“テレワーク(在宅勤務)”に関して時間管理型の日本の働き方を、見直す契機に位置付ける専門家が増えつつある。そこで、テレワークの現状とコミュニケーションツールとして重要なICT活用の、昨今の良否と課題を探ってみる。

ワークライフバランス(仕事と生活の調和)の改善を目指すテレワークは、移動時間の節約、夜の会食や休日出勤の減少など生産性の向上を意識した従事者自身で時間をコントロールできる就業スタイルで、家族と過ごす時間が増えるなど、働き方改革で重要な柱の1つになっている。

業務を展開する上で重要な相手との対面(リアル)とリモート(通信機材使用)のコミュニケーションについて振り返ってみる。対面時では論理的にしっかりと話す力と簡潔な言葉で自分の意見や物事を伝え、文章作成力含む言語能力が必要である。また、情報は参加者の姿勢、言動、服装などからも発せられており、実際の職場では人を通じて多くを学んでいるとも言える。

リモートによるコミュニケーションは決して現実の代替えにはならないと考える。双方向性が強調されるが、実際は一方通行性が強いようだ。報告と確認であればテレワーク会議は有効、しかし創造性や結論を導く会議体などには不向きである。また、テレワークはリアル会議より約2倍前後の大人数相手の講師に近いパワーが必要だとも言われている。しかも常にカメラ目線の上、討議テーマに参加集中し、いつ発言を求められても適切なコメントを発信できる姿勢が求められる。オンライン会議では、論点整理を始め発言者の指名と要旨など、仕切り役のファシリテーターが会議の成否に結びつくと考える。

一般社団法人営業部女子課の会の調査では、テレワーク営業職調査で6割がリモート営業に「とても困っている」「困っている」と回答。「信頼関係を築きにくい」「アポイントが取りにくい」などを理由に挙げている。

テレワーク導入時の経営者側のメリットは、オフィスの不要あるいは縮小と管理運営費および通勤費の削減など目に見える項目が多々ある。一方で、テレワーク効果を高める不可欠な項目も増えるだろう。例えば、IT機器の整備と書類のデジタル化などの業務環境整備、情報セキュリティー関連教育、就労時間および健康管理、成果評価の仕組みなど、ハード・ソフト両面の構築が喫緊の課題と思われる。

リモートワークは、ますます拡大すると言われている。社内は進むが問題は社外とのやり取りだそうだ。リアルとリモートの組み合わせを大事にしたい。仕事の生産性を上げるというのが働き方改革の趣旨だが、正直、休業要請や外出自粛に伴い社会経済活動が停止あるいは縮小に追い込まれているこの時期、リモートワークの導入、普及に適切なタイミングか疑問を抱く。最後に、職場でのチームワークや学びを尊重する企業文化は個人や企業の長期的な生産性アップに寄与すると考える。

リモートワーク(Remote Work)とテレワーク(Telework)の違いが、いまいちよくわからない。ググるとRemote Workの方が5倍くらい多くヒットする。日本では同じような意味で使われているようだけど。Remoteには遠隔操作とかコンピュータを通じて接続されたという意味もあるので、なんとなく語感が良くないかな、と個人的には思うが。

さて、大学の授業も一部では対面授業が再開されたところもあるようだが、本学はまだまだ遠隔授業だ。遠隔授業は英語でなんと表現するのだろうか。Online Learning, Remote Learning, Tele-Education, Distance Learningなどといろいろ使われているようで、それぞれニュアンスが異なると思う。

GENEVA COLLEGEのサイトには、Online LearningRemote Learningについて次のような説明があった。
"Remote learning has more accountability but requires scheduled class times. Online learning has more flexibility but requires learners to be self-motivated. "

オンライン学習では学習者が自発的に行動する必要があるということのようだ。この説明に従うと、本学の遠隔授業はリモート授業、リモート学習といえそうだ。遠隔授業では学生と対面していないので、学生の姿勢や言動、そして服装などといった言語化されない情報が得られないので、なんとももどかしい面もある。

遠隔授業の初心者としては学生とのコミュニケーションをどうとるかが課題だ。遠隔授業の開催では従来のウェブ会議システムを流用しているが、教育用にもっと機能を付加したシステムがほしいと思う今日この頃。

受講する学生の通信環境の改善も必要だと思う。はやく5Gが普及しないかな・・・









もったいないジャパン

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朝日新聞(6/20付け)の「天声人語」欄に『もったいないジャパン』という記事があった。
「モッタイナイ・グランマ」と題したアニメが、ユーチューブで今月から無料公開中だ。講談社と環境省の共同事業で、新作が毎週1本ずつ配信されている。全編英語の中で、「もったいない」という日本語が耳に新鮮である。

原作は2004年から刊行が続く絵本『もったいないばあさん』。作者真珠まりこさんと4歳だった長男の会話から生まれた。ご飯の食べ残しを「もったいない」と注意すると、「もったいないってどういう意味?」。高齢女性を主人公にした絵を描き始めた。

「もったいない」という言葉が海外で注目を集めたのはその翌年。ノーベル平和賞に輝いたケニアの環境活動家マータイさんが広めた。来日のたび、真珠さんは対談を重ね、「もったいないには愛がある」と励まされた。

絵本シリーズの中で、ばあさんは天国や地獄、魔法の国を自在に旅し、ごはん粒も地球も粗末にしないよう訴える。真珠さんは「あらゆる命はつながっているというのが共通テーマです」と語る。

真珠さんの話を聴いて考え込んだ。コロナ禍で見えたのは、人と物を日々、遠くから大量に運んで成り立つ社会のもろさではないか。地に足のついた生活を取り戻すとき、「もったいない」はかけがえのない指針となるだろう。

アニメの3作目はきのう公開された。ばあさんはいつものかっぽう着姿だ。来月には日英両語に加え、中国語、ヒンディー語版などもお目見えする。ドラえもんやピカチュウのように世界に羽ばたく日は近い。

もったいない動画は↓↓↓


私の両親は共働き(兼業農家)だったので、小さい頃は祖母に面倒をみてもらっていた。祖母は何でも大事にする性分で、それこそ「もったいないばあさん」そのものだった。我が家で新米を収穫しても、新米を食べるのは1回だけで、それ以降は古米(昨年できた米)を食べていた。何もない時代を生き抜いてきた祖母にとっては、それが当たり前だったのだと思う。

一方で今では、モノが溢れている時代。コンビニやスーパーは24時間オープンしているし、お金さえあれば買える。地球環境や持続可能な社会のためにも、本当に必要なモノを見極めることも大切なことだ。

今回のコロナ禍で在宅勤務となった人も多いだろう。在宅勤務の良い点、悪い点などいろいろあるだろう。在宅で仕事ができるスペースがないとか、子どもの面倒もみないといけないとか。一方で通勤時間がなくなりその分有効に時間が使える、家族との時間が増えた、という声も。

1日は24時間、というのは誰でも同じだ。その限られた時間をいかに有効に使っていたか、いなかったかが明確になったのではないだろうか。コロナ後、どういう働き方や時間の使い方をするのかは、大事な視点だと思う。でも、コロナ後っていつ?

ところで、かっぽう着は「白」というイメージがあったが・・・










開かれた知の共有

日経新聞(6/19付け)に「コロナと企業 変わる土俵(4)」の最終回で『世界を駆ける知、「開く」ことが活力に』という記事があった。
米国で新型コロナウイルスの感染者が急増した3月。米ゼネラル・モーターズ(GM)は医療現場で不足感が強まった人工呼吸器の生産に名乗りを上げた。頼ったのは米ベンテック・ライフ・システムズ。持ち運び可能な小型軽量型を開発したスタートアップだ。

創業10年足らずで規模が小さいベンテックの生産能力は月数百台程度。そこにGMが大量生産のノウハウを注ぎ込んだ。8月には米政府から受注した3万台を供給し終える見通しだ。

ワクチンも治療薬もないウイルスとの戦い。この危機に海外では企業やスタートアップ、大学などが知恵を出し合って立ち向かう動きが広がった。

4月末に欧州連合(EU)の欧州委員会が開いたビジネスアイデアのコンテスト「ハッカソン」で高い評価を得たのが、頭にかぶると、内蔵センサーが即座に体温や血中酸素、呼吸数を検知するヘッドギアだった。医師や看護師が安全な距離から容体を確認でき、感染リスクの軽減に役立つ。

開発したのはハンガリーやオランダ、スウェーデンなどの学生とエンジニアからなる6人のチームだ。ロボット工学やデータサイエンスの知識やスキルを持ち寄った。「2020年末には改良した試作品を実際の病院で試験導入したい」と開発チームのピーター・ラカトシュ氏。すでにスペインの病院から引き合いがあるという。

医療に限らない。
バルト3国の一角、エストニア。3月中旬に企業同士で従業員を融通し合う「労働シェアリング」サービスが始まった。提供するのはレストランや小売店などの経営者が集まって設立したシェアフォースワン。コロナ禍で従業員の仕事がなくなった企業と、集荷や配達などで人手不足になった企業を短時間でつなぐ。

このアイデアも政府後援のコンテストで見いだされた。失業対策に役立つとみた政府は同社に資金を提供。誰でも無料で利用できるようにした。

アイデアを幅広く募り、国境や業種も超えて連携して危機に素早く対応する世界。翻って日本はどうか。動きは鈍い。

新型コロナ感染者との濃厚接触を知らせるアプリでは企業の枠を超えて集まったエンジニアが開発する準備をしていたのに政府は生かせなかった。官民連携を隔てる壁が5月の感染拡大期に必要なアプリの投入を1カ月以上遅らせた。

欧米では組織の壁を崩して連携するオープンイノベーションの土壌がある。産学連携でイノベーション創出に取り組むドイツでは、産業界の研究開発費に占める大学への拠出割合は4%近く。日本は0.5%に満たない。学習院大学の米山茂美教授は「外部連携の体制が不十分な日本ではイノベーションを生むにも時間がかかる」と指摘する。
研究開発費

知と知をつなぎ、いかに革新の種を育てる環境を整えるか。開かれた知の共有が、危機克服の活力になる。それは、革新のスピードが問われる時代の生き残りの条件でもある。

コロナ禍のなかで何度「スピード感」をもってという言葉に触れただろうか。スピードが出せなかった原因はどこにあるのだろうか。これからの日本を考える上でとても大切な視点だと思う。

政府の骨太の方針では、「国・地方ともに行政サービスをデジタル化し、デジタルガバメント(電子政府)を国民目線で構築していくことはもはや一刻の猶予もない」と述べられたとか。はたしてどこまでデジタル化が進むのか。まずが各省庁の垣根をなくして(低くして)、規制も緩和して、もっと行政の効率化をはかる必要があるのではないだろうか。










地震の発生確率とその取り扱いに関して

確率分布

日本自然災害学会の機関誌「自然災害科学」の巻頭言に、東京大学の目黒公郎教授が『自然災害のメカニズムと不確実性ー地震の発生確率とその取り扱いに関してー』と題して寄稿している。
確率統計学では、サイコロの目のように、次に起こる事象がそれ以前の事象の影響を受けない状況をポアソン過程に従うという。一方、特定の断層による大きな地震は、それまでに蓄積されたひずみ(の多く)が解放されることで発生し、その後また徐々にひずみが蓄積され、次の限界に達すると次の地震が発生するので、サイコロの目とは異なる。

ある再現期間(回帰周期)の中で事象が起こる回数が1回である事象はBPT分布(Bwownian Passage Time分布)に従うと仮定できる。BPT分布に従う地震では、今年大地震が起これば来年の発生確率は低下し、起こらなければ高くなる。来年も起こらなければ、再来年の発生確率はもっと高くなるが、ポアソン過程に従うサイコロではいつも一定である。

現在一般的に地震を確率論的に扱う場合は、特定の断層(明確な内陸活断層、南海トラフ沿いの巨大地震など)を対象とした地震の発生確率はBPT分布、首都直下地震のように、どの断層の破壊現象かが特定できない地震はポアソン過程に従うと仮定している。

活断層のトレンチ調査から、「過去少なくとも5回ほど地震を起こした形跡が確認され、最後に地震を起こしたのは約2400年前である。その前には概ね、2600年、1600年、1500年、2800年の間隔で地震が発生している」という過去の活動履歴が判明したとする。この事例は平均発生間隔も間隔のばらつきも標準的なものである。

この状況を以下の3通りの方法で説明する。いずれも物理的にも数学的にも間違ってはいないが、一般市民には大きく異なる印象を与える。この印象の差は防災対策の推進に大きな差を生むと考えられるが、現在、この点への配慮は乏しいと言わざるを得ない。
1)今後30年間の地震発生確率は4.66%である。
2)過去5回の地震の発生周期の平均は2125年であるが、最後に地震が起こってからすでに2400年経過している。
3)最後の地震から現在までに地震が発生してもおかしくなかった確率(ここではこれを累積確率と呼ぶ)は70.8%である。

1)では地震が発生する可能性はずいぶん低いと感じるのに対して、2)と3)ではかなり起こりそうな感じがする。また、1)と3)は共に確率的な説明であるが印象は全く異なる。
(略)
一方、平均変位速度の大きなプレート境界型の地震ではどうだろうか。例えば、南海地震が最後に発生したのは1944年であるが、遡ると記録が残っている範囲でも、684年の白鳳地震から、203年、209年、265年、137年、209年、147年、92年の間隔で8回地震が発生し、その平均は約180年である。さらにこの地震に関しては、プレート境界で蓄積される平均変位速度と過去の各地震における変位解放量(隆起量から評価)の関係から、次の地震までの時間を予測するモデルが提案されている。これによると、直前の地震による変位解放量が小さかったので、次回の地震までの時間は88.2年と予想されている。これらのデータに基づいてBPT分布による確率密度と累積確率の関数を作り、(略)活断層型と同様の説明を行うと次のようになる。
1)今後30年間の地震発生確率は約74%である。
2)次の地震までの期間は88.2年と予想されているが、すでに74年が経過している。
3)累積確率は25.3%である。

同様の説明であるにもかかわらず、活断層型とプレート境界型で印象が大きく異なるのはなぜか。最大の理由は回帰周期が大きく異なる事象の発生確率を、同じ長さの時間を対象として評価するからである。
(略)
回帰周期が大きく異なる事象の発生確率を、同じ長さの時間を対象として評価して比較する問題についてご理解いただけたであろう。その点、累積確率を評価し、これを1から引いた残余確率(BPT分布で次の事象の発生までに残された確率)を比較すると、回帰周期の影響が考慮され、両者が比較しやすい値になる。本稿で取り上げた活断層型とプレート境界型の2つの地震の30年発生確率は、現時点で(4.66%、73.8%)、30年後には(4.72%、89.1%)と大きく乖離しているが、残余確率は、現時点で(29.2%、74.7%)、30年後には(27.9%、19.8%)となり、両者の差はずっと小さくなる。

政府地震調査研究本部は活断層のリスクを、今後30年間の地震発生確率を指標として、0.1%〜3%のものを「やや高い」、3%以上のものを「高い」として啓発に活用している。活断層の活動度としては高いので、地震リスクが高いと言われても、一般的な生活の中での確率と比べると非常に低いので、実際の備えにはつながりにくい。

例えば天気予報で、本日の降水確率が3%と言われて、確率が高いから傘を携帯する人は稀であろう。しかも活断層地震は30年確率なので、同じ3%でも実際の確率は1万分の1(1/(30年×365日))以下である。また一方で、同じ地震の発生確率として、「南海トラフのプレート境界の巨大地震の30年発生確率は70〜80%」と言われると、同様に危険性が高いと言われても戸惑ってしまう。

一般市民に適切な危機感を持ち、対策を推進して欲しいと思うのであれば、説明の仕方をもっと工夫すべきだ。回帰周期の大きく異なる地震の危険性の説明においては、未発生の累積確率から、切迫度を評価する方法(の併記)も考慮に値すると著者は考える。

地震発生の危険度を知ってもらう方法をもっとわかりやすくすることは賛成だ。2016年の熊本地震では今後30年間の発生確率は1%未満とされていた。もちろん布田川断層の周辺に住んでいる人たちのなかには地震発生のリスクを承知していた人たちもいただろうが、1%未満という数値を見て、地震の切迫度を感じる人は多くないだろう。

地震の発生確率とともに、地震動の大きさをあわらす指標についても検討したいところだ。専門家は、地震動の強さや大きさを、加速度や速度、そして応答スペクトルなどを用いて表現している。しかし、こうした指標は一般の方々には馴染みがないし、理解するのは困難だろう。だから、地震動の強さを震度(階)で表現することになる。しかし、震度6強の揺れとかいっても、それが建物に与える影響は同じではない。

これまでも震度7が観測された地域で建物被害がとても少ないといったケースもあった。震度階の求め方がよくないとして、震度階の修正をするという提案もある。

いずれにしても、一般の人たちにわかってもらえるような指標のあり方について検討することは今後も不可欠なことだと思われる。









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『耐震・制震・免震が一番わかる』
共著ですが、このような本を技術評論社から出しました。数式などを使わずに耐震構造、制震構造、免震構造のことを、できるだけわかりやすく解説しています。
『免震構造−部材の基本から設計・施工まで−』
免震構造協会の委員会活動の成果として、このような本をオーム社から出しました。免震構造の基本をしっかり学べるような内容となっています。
『4秒免震への道−免震構造設計マニュアル−』
いまでは少し内容が古いかもしれませんが、免震構造の基本的な考えを述べています。初版は1997年に理工図書から出ていて、2007年に改訂版を出しました。
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