人に頼る「弱いロボ」

日経新聞(12/2付け)に『人に頼る「弱いロボ」、助け合う寛容さ生む』という記事があった。
人工知能(AI)を搭載したり、ビッグデータを活用したりする高機能のロボットの開発にメーカーや研究者たちがしのぎを削るなか、豊橋技術科学大(愛知県豊橋市)の研究者、岡田美智男さんの作るロボットは一風変わっている。
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「ゴミ箱ロボット」。
姿形はゴミ箱そのものだが、モーター駆動で床を走り、人を見つけるとづいてくる。すごい! と思いきや、足元のゴミを拾うアームがない。紙くずを前に体を振り、困った様子だ。仕方なく、ソファから腰をあげて紙くずをロボットの中に放り込む。ここがミソだ。これは部屋をきれいにするため、人の助けを引き出すロボットなのだ。

「アイ・ボーンズ」というロボットの得意技は、街角でのティッシュ配り。ティッシュを差し出す動きは緩慢で、人々は速足で通り過ぎる。見かねたのか、通行人の一人が腰をかがめてティッシュを受け取ると、礼を言うように頭を垂れる。

研究室はこれらを「弱いロボット」と呼び、商品化やメーカーとの共同開発の話もある。なぜこんなロボットをと記者が尋ねると「『弱さ』の社会実装に興味がある」という。どういうこと? 

近年、導入が進む車の衝突回避システムなどは「能力の高さ」を誇示しがち。だが、機械任せで運転中の注意がおろそかになるなど、人が本来できることも放棄してしまう恐れもある。逆に「弱さ」を示し、人の力も引き出して協働するのが、好ましい社会なのではないかと考える。

身近な例は最近普及したロボット掃除機。スムーズに掃除できるよう、持ち主は邪魔なコードや段差をなくそうとする。掃除機と人の協働でよい結果が生まれるわけだ。

ロボットというと「完璧」なものとイメージしてしまう。きっと将来は、アンドロイド型のロボットが登場して、人間がしている作業や家事を全部やってくれる、なんてことを想像してしまう。

でも、そうした完璧さを備えたロボットがいると人間はどう感じるだろうか。我々の方が不完全に感じてこないだろうか。う〜ん、想像しすぎだろうか。人間はお互いの弱点をカバーしながら働いたり、作業してきていたのではないか。そうした社会であれば、ロボットと協働していくことができる社会の方がいいのかもしれない。


もっと詳しく知りたければ、↓↓↓
豊橋の“若き工学者”たちは、なぜ「役立たずロボット」を作り続けるのか?









免震検査に第三者機関を

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日経新聞(12/13付け)の「私見卓見」欄に東京工業大学名誉教授・和田章氏が『免震検査に第三者機関を』と題して寄稿している。
KYBや川金ホールディングス(HD)の子会社、3年前には東洋ゴム工業などによる、免震・制震装置のデータ改ざんが問題になった。それぞれの製品は建物に組み込まれており、検査や取り換えは容易でなく、社会に混乱を招いている。

地震に負けない建物をつくるには、確実な実験による製品出荷前の検査が必要だ。免震装置の販売には国土交通相の認定も必要だが、揺れの力を抑えるダンパーなどは、実際の製品でしか検査できない。国内では長年、メーカー所有の試験機で検査しているが、データ改ざんの温床になりやすく発覚しにくかった。自社検査だけでは、製品の性能を担保できないのは明白だった。

性善説に基づき技術者を信頼し、性能の確認をメーカーの自社検査に委ねてきたことに過ちがあったと言える。米国や中国などには第三者検査機関があり、製品を任意に抜き取り、検査している。日本でも導入すれば、問題の再発を防ぎ、信頼の回復につながるはずだ。

ダンパーなどは大型化し、求められる性能も高度になっている。共同利用を前提に、大型実験設備による有料実験を実施するのが現実的だ。

設置に30億円以上かかるとされる大型実験設備は、費用対効果の面などから1社でつくれず、競合する複数でつくる動きもなかった。国内メーカーが製品を輸出する際は、設備のある国・地域で実験せざるをえない。20年前に米国に置かれた設備は、1年先まで予約が入り、利用者の3分の1が日本勢といった具合だ。免震・制震で世界をリードしてきた日本メーカーだが、競争力の低下も懸念される。

大型設備を新たに設けるのであれば、国の支援に加え民間から広く出資を募るのがいい。メーカーはもとより不動産や建設会社、設計事務所などにとって、製品の信頼回復は重要な課題だ。問題の再発を防ぐため、出資する価値は十分にあるだろう。

大型設備が稼働すれば、製品を無作為に取り出して持ち込み、検査することができる。製品の破壊を伴う実証も容易になるだろう。技術開発の段階などでの実験にも利用可能だ。年2億円程度とみられる検査料や設備使用料を収入源に、運営できると考える。一連の問題を糧とする取り組みが、免震・制震の分野以外にも広がり、国民の生命や財産を保護する流れが加速するといい。

実大サイズの免震部材(装置)を実変位・実速度で加力できる大型試験装置の必要性は私も以前から訴えていた(例えば国土交通委員会での答弁)。免震部材の性能を十分確認できないまま、大型の免震部材を使っていいのだろうか。縮小試験体で大型製品の性能を測ることができるのだろうか。こうしたことには無理がありそうだということで、欧米や中国では実大試験装置が導入されてきている。日本にこうした試験装置があってもいいはずだ。

もし第三者機関に大型試験装置が導入できて、抜き取りで免震製品の試験を行ったとしよう。その場合、メーカー所有の試験装置で測った性能と同じ性能が得られるだろうか。試験装置の加力の方法や荷重計(ロードセル)の精度などの問題もあり、まったく同じ性能値にはならないかもしれない。特に圧縮力を載荷して実験を行う場合の摩擦力の処理などの影響もある。そのため抜き取り試験で何を確認するのか、その精度をどう考えるかといった点を整理しておく必要があろう。抜き取り試験で、不合格となった場合には、そのプロジェクトで使うために製造した製品全部が不合格となるのだろうか。実際の運用方法や試験結果の評価についても、事前の検討が必要かもしれない。そうしないと民間の支援を得るのは難しくなる?

一方で、試験装置だけでなく、免震部材の大臣認定も見直すべきではないか。私は大臣認定ではなくJISにすべきと主張してきている。そもそも建築基準法37条で「免震材料」として大臣認定が求められているのは、JISがないだったはず。すでに積層ゴムとすべり支承についてはJISがある。ほかの免震部材についてもJISをつくってはどうだろうか。そうした動きがないのは、メーカーも大臣認定制度があったほうがいいと考えているからだろうか? それともJISができても、その実効性がわからないから?

いずれにしても、従来のままで良いとは誰も思っていないと思う。これを契機に免震部材の性能検査のあり方、認定制度について幅広い議論ができたらと思う。








「耐震設計のこれから」シンポジウム

耐震工学研究会では、100回目の研究会を記念したシンポジウムを開催した。

2011年の東日本大震災では津波で甚大な被害が発生し、2016年の熊本地震では新しい住宅でも倒壊するなどの被害も出ている。近い将来発生するとされる南海トラフ巨大地震ではこれまで以上の被害も想定されている。こうしたなか、わが国の構造設計、特に耐震設計はどうあるべきなのか。震災による被害を抑制し、さらには震災からの回復力(レジリエンス)を高め、避難する必要のない住宅をつくっていくためには、建物の耐震性を高めることが求められている(はず)。わが国が抱えている耐震設計の課題、それを克服するためにはどうすべきなのか、そしてこれからの耐震設計のあり方について考えるシンポジウムを開催した。

シンポジウムでは、3人の講師に基調講演をしていただいた。
  緑川光正(建築研究所 理事長)
  北村春幸(東京理科大学 副学長・教授)
  金箱温春(金箱構造設計事務所代表取締役/工学院大学特別専任教授)
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その後のパネルディスカッションでは次のようなやりとりが行われた。

設計用地震動の考え方について
最近日本では各地で大きな地震が発生している。震度7を記録した地震は1995年の兵庫県南部地震以降、5回発生している。さらに、長周期地震動や長周期パルスといった地震動の発生も危惧されている。米国では、免震建物の設計では再現期間2500年相当の地震動を考えることが必要で、日本よりも大きな応答変形となる。こうした点について、パネラーからは最低基準としての設計用地震動(レベル2)はこれまで日本で使われてきた経験も踏まえ妥当な水準ではないか。ただ、断層近傍の地域といった条件などを考慮して、個別に地震動の評価をすることが必要だろう。個別に地域の地震危険度を考慮して入力地震動を推定できるかという課題はある。問題は、入力地震動だけでなく、被害の程度をどう考えるかということではないか。小破・中破の建物でも取り壊されてしまう例もある。どの程度の被害まで許容できるかは、国民(国会?)が決めることだろう。しかし、国民はそうした判断ができるだけの情報や知識はあるのだろうか。

大学における建築教育について
最近はコンピュータを活用した設計(構造も意匠も)が増えている。さらには構造設計にAIを活用しようという動きもある。このように状況が大きく変化していくなかで、大学での建築教育はどうあるべきか。これに対して、構造と意匠の教育が分離されている点が問題ではないか。意匠をやる学生にも構造の勉強は必要だ。創造的な建築のあり方を考える上で、構造も考慮したような設計教育もあっていい。AIが設計で使われるようになっても、「良い」設計か否かを判断するのは、やはり人間の経験や評価が必要となる。コンピュータをうまく活用して、「良い」設計、「良い」建築を生み出していくことにつながるのではないか。AIの進歩はネガティブにとらえられがちだけど、もっとポジティブにとらえていいのではないか。

最後に、構造設計のあり方、若い設計者へのエールなど
昔は手を動かせとか、たくさん計算をしてみることで経験を積んでいたところがある。しかし、これからは経験の積み方を変える必要があるのではないか。自分で考えて経験を積み重ねることが重要となる。国交省から防災拠点施設の機能維持に関するガイドラインが出ている。南海トラフ地震では仮設住宅が200万戸も必要と推定されているが、こんな戸数はとても用意できない。事前に対策をとることが喫緊の課題であり、そうした広い視野をもって設計に取り組むことが必要でないないか。今日のテーマは耐震設計だが、耐震設計は構造設計の一部分であり、さらに構造設計も建築の一部分でしかない。「良い」建築をつくるには、構造設計以外の部分も重要となること理解した上で、創造的な仕事に取り組んで欲しい。

以上です。ちょっとデフォルメした部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。

時間が短くて十分議論できていないところもありますが、これからの耐震設計を考える契機になったとすれば嬉しいです。










建築士法改正で若手受験者を確保へ

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建設通信新聞(12/5付け)に『建築士法改正案が衆院通過 若手受験者を確保』という記事があった。
自民党などが臨時国会に提出した建築士法の改正案が4日の衆院本会議で可決された(改正建築士法は8日未明に成立)。改正案は建築士資格制度の改善が柱となる。受験要件である実務経験を、建築士としての免許登録までに満たすべき要件に置き換えることで、若手を中心とした受験者の確保を後押しすることが狙い。

現行は1級建築士の免許を取得しようとする場合、2年以上の実務経験がないと試験を受けることができない。大学を卒業してすぐに受験できない点や、仮に就業して2年以上の実務経験を満たしたとしても、多忙な業務の合間を縫って受験勉強の時間を十分に割くことができないなどの理由で、そもそもの受験を諦めてしまうケースも指摘されていた。

改正案は、この資格制度としての課題に着目。受験要件としていた2年以上の実務経験を、免許の登録要件に改めることで、大学を卒業後、いつでも受験できるように制度の建て付けを見直す。試験に合格した場合、試験の前後に関わらず、合計で2年以上の実務経験を満たせば、建築士として登録することができる形となる。

受験のタイミングではなく、建築士名簿への登録のタイミングで、一定の実務経験を求める形に変更することで、資格のレベルを維持しながら、より積極的に受験できる環境をつくる。減少傾向にある若手を中心として受験者の確保につなげるだけでなく、その延長線上に資格者の高齢化という現状の課題解決も見据える。

ことし6月の日本建築士事務所協会連合会日本建築士会連合会日本建築家協会の設計3会による共同提案(PDF)を受けて、自民党の建築設計議員連盟(額賀福志郎会長)が建築士資格制度の改善に向けた検討を実施。その成果として建築士法の改正案を臨時国会に提出していた。

国土交通省は、法改正に合わせて、施行規則などの見直しに向けた作業を進める。資格取得に必要となる実務経験の対象範囲の拡大や、学科試験合格の有効期限(3年)の見直しも、改正法の施行に合わせて適用する方向で調整を進めている。

国会は外国人労働者の受け入れ拡大についてばかりじゃなくて、建築士法の改正についても審議していたんだ。

この改正案が実施されれば、大学(4年)を終了すれば1級建築士の受験ができることになる。そうなると学部教育において資格取得を目指した教育をする大学も出てくるかもしれない。本学では2級建築士の受験対策講座を卒業前の3月に実施している。この講座は建築士の予備校によって実施されており、有償(低価格)となっている。

1級建築士が卒業後すぐに受験できるとなれば、この卒業前の講座は1級建築士受験への対応に変わるかもしれない(予備校がどう考えるかによるが)。

一方、大学院生は在学中に受験できることになる。修士研究への影響があるかもしれない。就業した後に働きながら受験することを考えれば在学中に資格を取得しておきたいと考えるのは当然かもしれない。

しかし、1級建築士の受験では、実務経験を踏まえた学科試験や製図試験が課せられているのではないか。もし卒業後すぐに受験できるとすれば、学科試験の問題も変わるのだろうか。大学は資格取得学校ではないので、直接的な資格対策はしないだろうが(表向きは)、資格の合格率ランキングなどというものが公開されるような事態になれば、考えないといけなくなるかも・・・









岐路に立つ医学部

朝日新聞(11/30付け)に「ニッポンの宿題」欄で『岐路に立つ医学部』という記事があった。このなかで、医師で福島県相馬市長の立谷秀清さんが『「地元枠」・ゼネラリストを』と述べられている。
東京医大の入試における女子差別はそもそもあってはならないことで、議論する以前の問題です。この他にも医学部では様々な問題が指摘されてきました。

まず明治以来続く医学部の偏在です。とりわけ東北地方は人口当たりの医学部が少なく、医師の絶対数も不足していました。そこに東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が起きて医師不足が以前にも増して表面化したのです。

被災地を含む自治体の要望が認められて2016年には東北医科薬科大学が新設されました。一歩前進ですが、医師の養成は時間がかかるので、直ちに医師不足が解消されるわけではありません。

そこで私が提案したいのは、国公立大学の医学部入試における「地元枠」の新設です。各大学や都道府県には、地元勤務を条件に入学しやすくしたり、奨学金を出したりする「地域枠」はあるものの、首都圏の子どもが利用して医師免許をとったら首都圏に帰ってしまうといった「想定外」の事態が生じています。本当の地元出身の子どもが入れるよう、人口当たりの医師数が少ない地方の受験生は「地元枠」として優遇し、点数にゲタをはかせるのです。地元枠を相当数多くすれば、東京よりも、田舎に住んだ方が子どもを医学部に入れやすくなります。

医師の東京一極集中は、自分の子どもを医学部に入れる受験対策の観点から居住地を選んでいる側面が大きい。地元枠は「劇薬」かもしれませんが、東北のみならず、医師不足で悩む多くの地方で有効な対策だと思います。

現在は首都圏の進学校を中心に年間14万人が医学部を志願する「医学部バブル」が起きており、異常な事態です。その理由は「不確実な時代」だからです。学力があり、真面目に働く能力があってもいったん非正規労働者になってしまうと、はい上がるのは大変。だから、親も子も確実に食べていける資格として医師を目指す。仕事への憧れではなく、不安の裏返しなのです。

でも、受験勉強漬けで医師になれたとしても、その子は本当に良い医者になれるでしょうか。人間性は、医師にとって大切な要素です。地域社会で生きていくことを考えれば、ゆったりした環境でのびのびと育つことも必要ではないでしょうか。

優秀な理系の子どもがこぞって医学部を目指す現状は日本社会の将来を考えても、決していいことではありません。他の産業界に優秀な人材がいかなくなり、バランスの悪い社会になるからです。

相馬市長である私は、東日本大震災の際、「被災者の生命や健康をいかにして守るか」を問われました。震災では、100%の医療を提供できないという厳しい現実に直面しました。医学教育は常に100%の治療をせよと教えますが、トリアージ(災害時の治療優先順位)を含めて非常時の過酷な条件下の医療も学ぶ必要があります。私が何よりも医学部に求めたいのは、地域医療の現場を大事にする医師を養成することです。地域を守り育てていくことは、少子高齢化と過疎化が進む日本にとって重要なテーマだからです。

最近の若手医師は専門医になると、その治療しかやらなくなる人が目立つようです。これでは、医者が何人いても足りません。医師に最も求められる役割とは、患者さんの健康を守るためのコーディネーターだと思います。患者さんの症状に応じて診療科を指示・紹介する。患者さんが自分の健康を預かってもらい、ときには人生相談もできるような存在です。医学部は、患者さんを全般的に診られる「ゼネラリスト」の医師の養成にこそ力を入れるべきです。

東京の某医大から始まった医学部医学科の入試における不適切な対応について、いくつかの大学から公表されています。そのなかで、本学における医学部の入試に関連しても「不適切」な評価方法があったとして公表をしました。
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本学は、今年の8月に文部科学省から医学部入試に関するアンケート調査に対しては下記のように回答していました。
「調査書については、評定平均値を段階評価して選考に使用していますが、有効性の観点から、時間的な経過(卒業年度)も考慮しています。なお、調査書の評定平均値を除く項目については、総合的な評価に活用しています」

その後、11月には全国医学部長病院長会議が入試に関する規範を公表するなど、本学の評価方法について改めて検証するために「医学部医学科入試改善委員会」を設置しました。その結果、時間的な経過(卒業年度)を考慮した評定平均値の評価は、高校卒後年数により”一律的”に差異を設けており不適切であったとの見解に至りました。

今回の会見は、これから本学を受験する受験生に無用の心配をかけないために実施したものです。今後の医学科入試については、合否判定に至る手続において高校卒後年数による一律的な取り扱いの差異を一切設けないことにしました。受験生の皆さま、安心して医学部医学科を受験してください。

さて、これからの医学部の入試・教育はどうあるべきなのでしょうか。
医者になるためには高い学力が求められることはわかります。医学や医療技術に関することをたくさん憶えないといけないでしょうから。でも、医者が相手にするのは人間です。少子高齢化がますます進行していく日本において、医学教育のあり方や医者の偏在という問題をいかに解決していくのか、課題は山積してるようです。医学科の入試も、そうした点を踏まえて、改善が図られていくのでしょう。











衰退していく側の論理

人生下り坂最高
NHKのBSで放映されている「日本縦断 こころ旅」という番組をご存じだろうか。視聴者から番組に送られてきた手紙に書かれた心に残る風景を自転車に乗って訪ねていくという番組だ。主演は火野正平さんで、彼が自転車で下り坂を走るときに「人生下り坂、最高!」と叫ぶことがある。下り坂も上り坂も最高にしたいものだ。

さて、週刊東洋経済(12/8号)の「少数異見」欄に『大学と地銀に共通する衰退していく側の論理』という記事があった。
先日あるパーティに参加した。国立大学の学長と地方銀行頭取があいさつでまるで同じことを言っていたので、思わず苦笑してしまった。学長は、国の予算削減が厳しく、各地の大学が再編されようとしている。この地域に大学名を残すには、地元企業の皆様のご寄付が大切だとお願いしていた。頭取も地域の広域合併の圧力が高まっていると危機感を募らせている。合併されると、地元との結びつきが今までのようには維持できなくなるという話だった。

今年5月、北海道の三つの国立大学が2022年に統合されると発表された。名古屋大学と岐阜大学、静岡大学と浜松医科大学の統合も検討されているという。

学長と頭取の話に共通したのは、守りの姿勢である。合併を回避してどう生きていくのかという展望はまったく見えない。反面、行政の介入を拒む姿勢は強い。透けて見えるのは、今まで自分たちが潰れるはずがないと思っていたことだ。だから、今になって慌てている。地域特性があるから、公的な役割があるから、皆さん潰れては困るでしょうという暗黙の同意を迫っているようにも感じられる。

彼らは地元の役に立っているという意識が強いものの、顧客のための競争という意識には乏しい。隣の地域にいる顧客を奪ってでも生き延びようという発想はない。

大学の場合、地元企業に優秀な人材を供給する役割を果たしてはいる。ただ、企業のニーズを踏まえて、もっと優秀な人材を育てようという意識は乏しい。最近の大学人は産学連携という言葉をよく使うが、企業活動に十分に貢献できそうには思えない。

大学がもっと競い合って企業にどう貢献できるかを考えられれば、企業はもっと寄付をするだろう。企業との連携で他大学と競い合えば、いくつかの成功モデルが出現して、それをまねする大学も現れるだろう。

筆者は、別のところで、ある組織の全国事業活動を見直していこうとする会合にも参加した。北海道、東北、四国は、今の拠点で事業を維持するには経費負担が重すぎる。東北は仙台、四国は高松だけに事業所を置けばよい。人的資源の配置は、伸びている関東だけでよいという意見もあった。

各都道府県はもっと競い合って、独自性を前面に出し、わが町からわが県から撤退するなと訴えたほうがよい。大学も同様だ。地方に独自性があるとするならば、もっと特徴をだせばよい。地方大学がもっと競争をし合って、人材育成、外国人留学生、研究、地域医療への貢献で特色を出す。自治体の首長も、わが大学が売りになると思えば、もっと行政との連携に乗ってくれるに違いない。

18歳人口は、これからますます減少していく。文部科学省は2040年には受験生が20%も減るだろうと予測している。当然ながら受験生が減るということは、入学生の確保が難しくなることを意味する。特に私学にとっては厳しい状況になるだろう。

そういう状況がわかっているのだから何か対応策を考えなければならない。一番簡単なのは、定員を減らすことだし、学部の統廃合ということになる。そんな消極策ではなく、大学や学部の魅力をさらにさらに高めて、受験生を増やすことを考えるべきかもしれない。

そのためには、大学も守りの姿勢ではなく、積極的に変化を求めていくべきではないだろうか。










睡眠時間が長いと死亡リスクがアップ?

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CNN”Too much sleep linked to a greater risk of disease and death”という記事があった。

成人の睡眠時間として、一晩で6〜8時間が推奨されています。この睡眠時間以上に眠れば、死亡や心臓血管疾患のリスクが高まることが明らかになったと伝えています。

研究チームは、7つの地域の21か国のデータをみて、推奨上限8時間を超える人が脳卒中や心不全などの主要な心血管イベントのリスクを高め、死亡率も最大41%高くなるとしています。

この調査では21ヵ国の35歳から70歳までの116,632人を対象に、睡眠習慣について質問しています。その後、参加者は平均7.8年間追跡調査されています。

8〜9時間眠っている人は、1000人あたり8.4人 が心臓血管疾患を発症したか、毎年亡くなりました。これが、9時間から10時間の睡眠をとっている人は1000人当たり10.4人になり、さらに10時間以上の睡眠だと1000人当たり14.8人とさらに上昇しました。これは、推奨された時間を眠った人と比較して、それぞれリスクが5%、17%、および41%増加することに相当するそうです。

長い時間眠れば慢性疾患を発症しやすくなり、一方、短い睡眠時間でも高血圧、肥満および糖尿病を増加させることが示されている、という。

毎日6から8時間の睡眠時間を確保することができれば理想ということでしょうか。もちろん、睡眠の質も関係するかも知れません。若いときは長い時間(例えば12時間とか)寝ることもありましたが、最近は長時間寝ると逆に疲れてしまうようです。

体調や年齢にあわせて最適な睡眠時間というのがあるのかもしれません。









猫の舌は高性能ブラシ

朝日新聞(11/27付け)に『猫の舌「高性能ブラシ」』という記事があった。
ネコの舌がザラザラしているのは、唾液をうまく使って毛づくろいするため――。

こんな発見を米ジョージア工科大の研究チームが米科学アカデミー紀要に発表した。舌の表面に数百の小さな突起があり、先端についた唾液を体の隅々まで届ける高性能ブラシのような機能が備わっていた。唾液が体を清潔に保ち、体温を下げる効果もあるという。

ネコは起きている間の4分の1を毛づくろいに使っている。研究チームは、高速カメラやコンピューター断層撮影で毛づくろいする舌を分析。表面の突起が毛に覆われた体の奥深くまで届き、1回なめるごとに最大で唾液約4マイクロリットル(マイクロは100万分の1、4マイクロリットルは目薬1滴の約10分の1)を毛や皮膚になすりつけることができていた。突起の先端にU字形のくぼみがあり、そこに唾液がついて効率よく体の奥に運べるという。
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同じネコ科のトラやライオンの舌にも似た突起があった。ネコの舌の構造を3Dプリンターで再現すると、簡単に抜け毛を取り除けるブラシができたという。研究チームは「食べるときなど、ほかにも役立っている機能があるかもしれない」と話している。研究成果は、米科学アカデミー紀要電子版(https://www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.1809544115)に掲載された。

研究のネタはいろいろなところにあるものだ。

猫の舌、確かにザラザラしていることは知っていたが、その構造を確認しよう!という気にはなれなかった。研究には好奇心が必要だし、役にたつかどうかわからないことでもやってみようという気持ちも大切なのだろう。

それにしても、動物や植物の機能というか構造というのはスゴイ! 








イオンの流れで飛ぶ飛行機

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MITの研究者らが、エンジニアなどの可動部品のない飛行機の開発をしている。
詳細は、こちらから。

最初の飛行機は100年以上前につくられたが、それ以来、飛行機はプロペラ、タービンブレード、ファンなどの可動部分の助けを借りて飛行している。

現在、開発中の飛行機は、プロペラやタービンの代わりに、イオンの流れを使う。タービン動力機とは異なり、航空機は飛行する化石燃料には依存しない。それゆえ、より静かで、機械構造が簡単で、排気がない、全く新しい飛行機の可能性が提案される。

この新しい飛行機のための推進システムには電気力学的推力としても知られている「イオン風」を使っている。これは1920年代に初めて発見された物理的原理であり、薄い電極と厚い電極との間に電流が流れるときに発生する風または推力を生成する。十分な電圧が印加されれば、電極間の空気は小さな飛行機を推進するのに十分な推力を生成することができる。

電線に電気が通電されると、鉄線を引き付ける巨大な磁石のように、周囲の空気分子から負に帯電した電子を引き寄せて剥ぎ取るように作用する。残っている空気分子は、新たにイオン化され、次に、平面の後ろにある負に帯電した電極に引き寄せられるようになる。(ビデオで説明がされている)



いまドローンが注目されているものの、近くにいると羽の回転によって発生する音がうるさい。開発中のイオン風を使う飛行機の実用化にはまだ時間がかかりそうだけど、実用化されれば用途は広がりそうだ。









他山の石が多すぎる

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建設通信新聞(11/22付け)の「建設論評」欄に『他山の石が多すぎる』という記事があった。
モノづくりの世界に醜聞が絶えない。データの偽装や差し替え、検査の手抜きなど、機器、電機、計器、車両、製鋼、食品など多種に及んでいる。特にデータ偽装の頻発が目に余る。

建設の世界も例外ではない。データの偽装とは、検査の結果が不合格だったのでその結果を書き換えて合格品のように見せかける犯罪行為である。信用した人にとっては詐欺行為だ。疑うことなく使って危険な目に遭うかもしれない。誠に恐ろしい。

有識者たちがこうした行為を非難し、「これを他山の石として、再発しないように…」と論評する。

他山の石とは、自分の石を磨くのに役に立つような他の山の石を意味する。転じて自分の修養の助け、あるいは自分の戒めとなる他人の誤った言行を指している。

この他山の石が希有であればこそ、その存在が刺激を与え、戒めの具として意識するだろうが、これほど他山の石が多すぎると、またか…と刺激は薄れてしまう。

どうしてこの類の犯行が頻発するのだろうか。
1つ目の理由は、職人神話への過信である。熟練者の腕を疑って監視することは失礼だと考える。

2つ目の理由は、性善説を口実にした怠慢である。性善説とは孟子が主張した説で、人間の本性は善であり、仁義を先天的に具有すると考えて、それに基づく政治を主張したのだが、これをモノづくりの世界に誤用して、結果として怠慢を正当化する口実にしている。

3つ目は、経費削減につながる誘惑である。手抜きしてバレなければ、算盤勘定の上でメリットがある。だから、止められないのだ。

4つ目は厳格な管理とパワーハラスメントのはき違えである。厳しく管理してパワハラと非難されるより、責任放棄して無難にしたほうが良いと考える。

積もり積もって管理監督体制が甘くなり、「バレモト」「ヤリドク」が横行するようになった。

米国での例をあげよう。
不手際があって、日本の製品が米国でリコール騒ぎになった。渡米して弁明にあたったメーカーの社長は激しいバッシングに遭った。責め立てられて社長は絶句して立ち往生し、聴衆の前で不覚の涙を流した。米国に進出した日本の銀行で不正処理が摘発された。その銀行は営業停止処分を受けて米国から追放され、いまではその行名を名乗る銀行は姿を消してしまった。たとえ会社がつぶれようとも容赦しないというその追及の激しさは、日本国内の比ではないのである。

翻ってわが国のこの悪弊を追放撲滅するにはどうすべきか。それには、バレモト、ヤリドクにならないようにすることである。咎めを受けた者は二度と不正を企む気が起きないような、再起不可能になるほどの厳罰に処するべきなのだ。

折から、国を挙げてインフラ輸出に取り組むと政府は言明している。こんな体たらくでは、せっかくの国策が足元から自壊してしまうではないか。

オイルダンパーは機械部品の集合体だから、適切に組み立てれば性能が出ると思っていた。しかし、実際には一品生産的な面があり、そういうことではなかったようだ。組み立ての精度や個々の部品(特にバルブ?)の特性がダンパー性能に影響を与えているようだ。そういう意味では、製造工程における熟練が足りなかったのか。組み立てたダンパーのデータが改ざんされ性能がちゃんと出ていると思えば、製造している人たちも安心しちゃうよね。

一方で、もともとダンパーに求める性能が厳しすぎたのか。速度に応じて抵抗力を変化させるというバイリニアー型の特性を与えるために、たくさんのバルブが必要となり、ちょっと無理をして特性を出しているところもあるようだ。こういう点、使う側と造る側のコミュニケーションが十分にできていたのかどうか。
オイルダンパー荷重-速度関係

付加価値の高い製品は、相応の価格があるべきだと思う。「免震材料」と呼ばれているけど、通常の「建築材料」と一緒にされちゃ困るね。










人間型ロボが建設作業をお手伝い

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経済産業省のウエブサイト「METI Journal」の「60秒解説」のコーナーに『人間型ロボットが建築作業をお手伝い』という解説があった。
近年、建設業における人手不足が進んでおり、今後更に深刻化することが見込まれている。装着型のアシストロボットの導入や、自律型ロボットの導入によって、人の負担を軽減することが期待されている。

今回、産業技術総合研究所(産総研)で、人間の重労働作業や危険な環境での作業を自律的に代替することを目指した人間型ロボットの試作機(HRP-5P)が開発された。

建築途中の建物は床が平らとは限らない。また、床下や屋根裏のような非常に狭い場所での作業も必要となる。このような環境で人に代わって自在に移動し、作業ができるロボットの形態を考えると、やはり人に近い身体構造をもった人間型ロボットが適していると考えられる。




まだちょっと動きがぎこちないけど、近い将来こうしたロボットが建設現場で多数見られるようになるのかな〜









免震・制振データ改ざんに関するシンポジウム

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日本学術会議で、シンポジウム『免震・制振データ改ざんの背景と信頼回復への道筋』が開催されます。

日  時:2019年1月15日(火)13:30〜17:30
場  所:日本学術会議講堂
参加申し込み:以下のサイトから申し込んでください
      https://ws.formzu.net/fgen/S48684885/

開催主旨は以下のとおりです。
世界に先駆けて地震国日本において研究が進み、実用化が図られてきた免震構造や制振構造の信頼性が揺らいでいる。地震に負けない構造物を造るためには、免震や制振の製品の性能を担保することが重要であることは論を待たない。これまで、重要な製品の性能確認を製造会社の自社出荷検査に任せてきたことに直接的な原因があるが、品質管理方法に関して徹底した原因究明のもと、性能確認試験データ改ざんの再発防止策を講じる必要は大きい。

この問題については、出荷される免震・制振製品が十分な品質を確保していることを検証する上で、信頼できる第三者による抜き取り検査体制の確立、海外にあるような本格的な実験設備を備えた検査機関の設置の2点が解決の糸口になると考える。シンポジウムでは、一つの提案を行い、講演者、会場の方々と真剣な議論を行い、信頼回復のためのより良い道筋を見いだしたい。

データ改ざんの背景や原因究明がどこまで進んでいるのか、よく分からないものの、今後どのような取り組みをする必要があるのかについて議論が進むことを期待したい。第三者機関による性能試験とか抜き取り試験を実施するとした場合、巨大な実験装置をどう設置するのか(費用負担や運用なども含めて)、追加の試験費用の負担や時間が余分にかかるといった課題もありそうだ。

そうしたことも含めて議論できることを期待したい。









大学は「知の共有化」を進めよ

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日経新聞(11/29付け)の社説に『大学は「知の共有化」を進め質を高めよ』という記事があった。
日本の大学が目指すべきは学生や教員の流動化による質の向上だ。大学間の単位互換など連携を通じて知を共有化し、いかに社会に貢献するか。「自前主義」を前提にした大学設置基準など関連法規の抜本改正が急務だ。

文部科学相の諮問機関、中央教育審議会が20年後を見据えた大学の将来構想の答申をまとめた。

柱の一つは内部組織の見直しだ。学部や学科といった文系・理系縦割りの組織に、予算や教員、学生定員を割り振る旧来の大学経営から、脱皮するよう促した。

激変する社会を見据え、学生にどんな知識や能力を獲得させるべきなのか。その目標に向かって、どの単位を組み合わせ、履修させるのが最適か。大学が企業や行政を含む社会とともに構想する道筋を示した。

学部などの枠を超えて、学びの集大成である「学位」の課程(プログラム)のもとに定員や教員を再配置するイメージだ。

これは産業界の要請に応えた形だ。経団連は、人工知能(AI)などの先端技術を社会で活用する際の課題の解決には「文理融合」の学びによる高度な人材の育成が必要だ、と提言していた。

もう一つは他大学との連携や統合だ。一つの国立大学法人が複数大を経営する制度や、国公私立の枠組みを超えた一体運営などを例示した。少子化で2040年の大学進学者は今より約12万人減る。規模の適正化は喫緊の課題だ。

だが、連携や統合を定員の調整手段にとどめてはならない。知の共有化を通して人材育成に貢献する視点が大切だ。

たとえば「先端技術と法」を学ぶ文系の学生が検索エンジンのアルゴリズムなど情報工学を他大学で履修する。金融工学の専門家を目指す理系学生が単位互換で経済学や統計学を履修できる。そんな学習者本位の仕組みが必要だ。

こうした取り組みで成果を上げた大学に予算や定員を積み増す政策誘導も課題となろう。

日本では、一つの大学が4年間学生を囲い込み、授業料の見返りに諸外国に比べ緩い審査で学位を与えてきた企業の新卒一括採用の慣行と相まって、学生が何を学んだかより卒業校のブランドが重視される風潮を生んだ。

海外の大学を含めた学生や教員の流動化には評価の厳格化も不可欠だ。学びの履歴や質を重視する社会に変える契機にしたい。

学生が何を学んだかが問われるようにならないといけないと思う。そのためには、大学に入れば就職もできて、4年で卒業できるといった考え方も変えていく必要がある。企業も新卒一括採用というやり方を見直す必要があるのではないか。4年間で何を学んだかを確認するには、大学を卒業してから採用活動をするということをやってもらう必要がある。

逆に、これは大学にとってもより厳しい評価となるかもしれない。しっかりと学生の実力を高めて卒業させるということが求められ、いまよりもさらに教育に力を注ぐ必要がある。教員の業績評価において、研究面だけでなく教育面での評価もきちんと行うことが必要となる。

工学部では、いろいろな学科に分かれて専門教育を受けている。もちろんそれは社会の要請に基づいているのかもしれないものの、社会の変化が激しくなるなか、一つの学問分野だけを学ぶだけでいいのだろうか。学生のいろいろな可能性を広げるという意味でも、複数の専門分野を学ぶことができるコースのようなものを用意してもいいのではないだろうか。

そのためには、大学入試そのものを変えていかないといけないし、高校での受験対策で文系・理系クラスに分けるということもやめていくことが必要なんじゃないだろうか。

いや〜、道のりは長い・・・









それ、いいデータだね

朝日新聞(12/1付け)の「折々のことば:1303」で紹介されていた。

「それ、いいデータだね」と淡々とではなく、「何でそんなオモロいこと、考えられるんや!」
(永田和宏)
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大学は、既知のことを教えるのではなく未知のことに気づかせる場だと、細胞生物学者は言う。だから学生には「安全なほうより、まず、面白そうなほうを選べ」と言っているという。ワクワクという気分が、新たな道を開く原動力だから。皮膚科医・椛島健治との対談《鍛えよ、「知の体力」を》(「週刊医学界新聞」11月12日号)から。

大学は「未知のことに気づかせる場」か・・・

既存の知識を教えることで精一杯という現状を反省しつつ、「ワクワク」感がもてるような工夫が必要なんだろう。









思考力つけるには

朝日新聞(11/26付け)に、灘中学校・高校教頭の大森秀治氏が『思考力つけるには 先回りせず、何でもやらせる』と述べている記事があった。
大学入試改革では思考力、判断力、表現力が問われます。短期間で身につかない力をどうつければいいのでしょうか。思考力を問う入試で有名な灘中高の教頭に聞きました。
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灘中の入試の算数は難しいと言われます。考える力、つまり思考力を問える出題を考えているからでしょう。1日目の算数は正しい答えを出せればいいので答えしか見ない。でも2日目の算数は途中経過をしっかり書かせて、どう考えたか中身を見て部分点もつけて採点する。子どもも考えた答案を出してきます。

一方で社会は入試はしません。なぜか。小学校段階の社会は知識偏重で、ともすれば「マニアックなクイズ」になりがちだから。世界の中の日本、歴史と地理を総合的にみることで初めて考えることにつながる。知識だけの難問は入学後の学習に逆効果です。

よく講演で言うのですが、思考力を育てるのに必要なのは、先回りせず自由にすること何がやりたいのか。どう考えているのかを聞いてやる。失敗を叱らず、喜ぶ。大人が思い通りの答えや結果にならないと叱るから、子どもが自分で考えなくなる。

体育祭で相撲をやりたいと生徒の提案があれば、競技に入れてみる。馬術の大会に出るために必要なら、部員1人でも顧問をつけて部を作る。何でもやらせてみて考えさせる。先回りした正解の詰め込みが子どもを一番ダメにする

入試や授業で思考力を育む教育をしても、親子とも不安なのか、うちの生徒にも先取り詰め込み型の塾に入ってつぶれていく子がいます。さらに近年顕著なのは、医学部に執着する生徒が増えたこと。医学はもちろん大切です。でも、灘で育てた力が生きる職業はほかにもある。弁護士も都市部は満杯、官僚も政治家の言いなり、学者も研究費を集めなきゃ……。

大学入試の先に、力を生かすことができる魅力ある仕事を、社会が子どもに提示できていない。大人の責任です。

灘中学・高校は、神戸市東灘区にある中高一貫の私立男子校。1学年200人程度の小規模校にもかかわらず、東大合格者数ランキングでは例年トップ3に入るという。「菊正宗」の嘉納家と「白鶴」の嘉納家と「桜正宗」の山邑家という3つの酒蔵が資金を出し、柔道の聖地「講道館」の祖であり東京高等師範学校の校長も務めた嘉納治五郎が創立者となり、1928年に灘は開校している。

元教諭・橋本武さんによる『銀の匙(さじ)』のスローリーディング授業が有名であるものの、灘の驚異的な進学実績を支えているのは圧倒的な数学力だと一般にはいわれているそうだ。

こうした学校に入学できる生徒だけでなく、思考力を育てることはできるはず。一番大事なのは、知的好奇心ではないだろうか。興味や関心を抱いたことを突き詰める、などといったことができる環境を用意するのが、大人の責任なのかもしれない。
(あっ、大学も一緒かも。いやもっとそうしたことが必要なのかもしれない)









半壊の涙をなくそう

朝日新聞(11/26付け)の社説に『「半壊の涙」をなくそう 』という記事があった。
かつてないほど、大きな自然災害が相次いでいる。東日本大震災の復興が続くなか、熊本地震、九州北部豪雨があった。ことしは西日本豪雨や大阪北部地震、北海道地震に見舞われた。各地で避難を強いられる人々が続出したことで、暮らしを支える制度の手薄さ、頼りなさがあらわになっている。何とかしなければならない。

こんな現場の声を受け、全国知事会支援策を拡充する提言をまとめ、先週、山本順三防災担当相に実現を要請した。

被災者生活再建支援法に基づく金銭支給の対象を、これまでの住宅の全壊、大規模半壊だけでなく、半壊世帯にも広げるという内容だ。支給額は、全壊が最大300万円、大規模な補修をしないと住めない大規模半壊が最大250万円である現状とのバランスを考え、一律50万円にした。

金額については、住宅の耐震化や地震保険への加入など、個人として対策をとっている人が不公平感を抱かないよう、慎重な検討が要るかもしれない。しかし、半壊世帯への対象拡大は、被災地の切実な求めに応じたものだ。阪神大震災を機に議員立法でできた支援法の改正に、与野党は速やかに乗り出すべきである。

支援金の財源は、都道府県による基金と国の補助金が半分ずつだ。知事会の試算では、50万円とした場合の年間必要額は32億円で、国の負担増は16億円となる。「国土強靱(きょうじん)化」の旗を振り、新たに2次補正予算も組む政府が支出をためらう金額ではあるまい。

支援法の支援額は当初、最大100万円だったが、その後に300万円に増やすなど、改善を重ねてきた。だが、東日本大震災では批判にさらされた。約28万戸にのぼった半壊世帯に一銭も出ない「線引き」は、役所的な切り捨てだとの不満が渦巻いた。

半壊であっても、実際には生活できない住宅も多く、被災地では「半壊の涙」という言葉もささやかれた。今回の知事会案は、この涙をなくす一歩になる。

被災者支援をめぐっては、損壊の基準を全壊、半壊といった大まかなものではなく、もっと細分化して、多段階の援助をすべきだとの意見が根強い。東北の被災地からは、支援額の上限を500万円に上げた方が、仮設住宅を建てるより効率的だとの提言も出ている。

いまの支援策にはまだまだ改善の余地が多い。被災状況に応じた進化が求められている。

半壊の涙を減らそうという主旨は理解できるし、被災された方にとっては力強い支援となるだろう。しかし、半壊といってもいろいろな損傷の程度があるだろうし、それが50万円という支援金でいいのかどうかも議論の余地がありそうだ。

被害の程度を細分化するということも考えられるものの、詳しい調査を迅速に進める時間的人的な余裕があるのかどうか。ここはICTツールを使って速やかに損傷の把握ができる技術の開発なども求められよう。

いずれにしても、地震による被害をできるだけ抑制していくことが求められている。









先入観を疑え

日経新聞(11/26付け夕刊)の「プロムナード」欄に作家の荻原 浩氏が『先入観を疑え』と題して寄稿している。
大谷翔平選手がメジャーリーグで新人王を取りましたね。
疑問視する人もいたようだが、二刀流はやっぱり正解だったってことだ。本人はいたって謙虚で多くを語らないけれど、批判されることもあった時期に、容認し、二刀流で起用し続けた栗山監督が話していた言葉がとても印象的だった。

先入観が・・・
「先入観は可能を不可能にする」

いい言葉だ。
日本で実績があるのに新人王って、日本のプロ野球を舐(な)めとるんか、という気がしないでもないが、外国人選手でも称賛し評価するというのは、大統領がああでも、内部ではいろんなドロドロがあるのだとしても、アメリカは、そういうところはきちんとしているな、と思う。

日本の場合はどうだろう。
外国人選手に王選手のホームラン記録を抜かせたくない、なんて騒いでいた昔に比べればましになったが、プロ野球界ではいまだに外国から来た選手は「助っ人」呼ばわり。活躍しても日本人選手ほど話題にはならない。

大相撲なんてもっと露骨ですよね。
日本人横綱がいないと面白くない、なんて平然と口にしてしまう。一個人の感想として言うのは勝手だが、マスコミにそういうコメントが堂々と流れてしまうのはどうかと思う。誰とは言わないが、負けても負けても土俵に引っ張り上げられる日本人横綱も大変だ。

伝統芸能じゃないんだから。相撲だって世界に門戸を開いたスポーツでしょ。そんなことを言われて土俵に上がる外国人力士の気持ちはどうなる。「日本人の大谷には新人王を獲(と)って欲しくない」なんてコメントがCNNニュースで流れたら、腹立つでしょ。

いま論議されている外国人労働者の受け入れ問題だって、先方の都合や気持ちはないがしろで、こっちの都合ばっかり。日本人が敬遠して人手不足に陥っている職種を、彼らに肩代わりさせようって魂胆しか見えない。働くのは生身の人間なのに。彼らの夢や希望はどこにある?

世界各国では、移民への反発が起きていて、さっきのアメリカだって、難民問題で揺れている。こういう潮流に対して、「やっぱり外国人を容易に受け入れない日本の姿勢は正しい」という受け取られ方もあるようだけれど、そうかな。違う国の人間と本格的な同居を経験していない日本の場合、一周遅れだったのが、二周遅れの乗り遅れになっている気がする。

どうせ彼らは言葉がわからない、日本語を読めっこない、そう思って高をくくっているんじゃありませんかね。

僕の住む街でも仕事場のある街でも、コンビニや飲食店には外国人の店員さんが多い。けっこうみんなうまいですよ、日本語。すっかり聞こえてますよ、こっちの言葉。

そもそも、偉そうにほざいている僕自身が、いま普通に使ってしまった、「外国人」っていう決めつけが良くないですね。外見が違う、言葉がわからない、というだけで、日本人じゃない、つまり外国人、という思考回路を、僕も含めて改めなくちゃいけないと思う。

瞳や肌の色の違う日本人や、日本語が話せない日本人がいてもいいし、そもそもどこの国の人であろうが、同じ街に住んだり働いたりしている以上、ご町内の同じ住民なのだ。
先入観を疑わなくては。

ステレオタイプ(Stereotype)とは、多くの人に浸透している先入観、思い込み、認識、固定観念、レッテル、偏見、差別などの類型化された観念を指す用語である。我々は、人やモノなどをどうしてもステレオタイプで見ることがある(自省を込めて)。こうしたことを少なくするにはどうすればいいのか。それのためには、正しい情報に基づいて、自分で考えて判断をするというプロセスを経ることが必要なのではないだろうか。

誰かが、こう言っているから正しい、間違いない、そうなんだ、と安易に同意しないことが必要なのかもしれない。みんなが「A」と言っているのに、自分だけ「B」とは言いづらいため、みんなに同調してしまうことがあるけど、自分の考えを表明し、周囲もそれを認めるという状況にすることが必要なんだろう。お互いの意見を尊重することから、公平な議論を始めることができる。









大学入試改革の本質

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講談社の『本』(12月号)に劇作家の平田オリザ氏が「22世紀を見る君たちへ」という連載を書いている。その5回目のテーマは『大学入試改革の本質』
従来型の入学試験では、その時点での生徒・学生の持っている知識や情報の量を測って、例えば上から20番目までが合格、21番以下は不合格としてきた。しかし、JAXANASAの選抜試験はそれとは異なる。お互いの命を預け合えるクルー(=仲間)を集める試験である。

そこでは当然、いろいろな能力が要求される。共同体がピンチの時にジョークを言って和ませられるか。明晰な解析力でピンチの本質を整理できるか。斬新な意見で共同体をピンチから救えるか。しかし、どんなにいい意見を言っても、日頃から地道な手作業などに加わっていないと信頼されないなどなど。

また、宇宙空間で生き抜いていくための強くしなやかな共同体を構成するための試験であるから、いろいろなメンバーが必要となる。プロ野球でさえ、読売巨人軍のようにお金の力だけで四番バッターばかりを集めても勝てるものではない。足の速いやつ、バントのうまいやつ、左の変則ピッチャーといろいろな個性がそろっていなければチームは強くならない。

おそらく、今後、日本の大学の入学者選抜もこのように変わっていくだろうと予想されている。

現在、ハーバードやMIT(マサチューセッツ工科大学)あるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは、Massive Open Online Course(MOOC、ムーク)と呼ばれ、多くの場合、インターネット上で誰もが無料で、その講義を受講することができる。

これは一見、不思議な現象だ。厳しい受験競争を勝ち抜き、また高い授業料を払っているのに、そこでの授業はインターネットでも見られるのだ。しかし、世界のトップエリート校ほど、このような授業の公開に踏み切っている。

かつては、例えば熊本の若者なら福岡まで出て行かなければ得られない知識や情報があった。あるいは京都、東京まで出て行かなければ得られない知識や情報もあった。そして、苦労してそれにアクセスできた人間だけが、学歴やある種の資格を獲得して、その恩恵を人生全般にわたって享受することもできた。

しかし、インターネットの時代には、単純な知識や情報は世界共有の財産となる。ネット社会は情報を囲い込むシステムではない。情報をできるだけオープンにして、そこに集まってきた人たちに広告を見せることで、ほとんどのネット産業は成り立っている。

このわかりやすい例は、実は受験産業なのだ。過去10年ほどで、地方の高校生の受験勉強は様変わりした。予備校は次々に潰れ、受験生たちはネットで林修先生などカリスマ講師陣の授業を受けている。しかし、これを囲い込むことは不可能だ。隣に友だちがいて、「おい、おまえのところ貧乏で見られないんだろう。一緒に見ようぜ」と言ってしまえばおしまいだからだ。

もはや情報を囲い込むことはできない。知識や情報を得るコストは、時間的にも経済的にも急速に低減した。そのようなネット時代を前提にして、それでもハーバードで一緒に議論することに意義がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はない。と、世界のトップエリート校ほど考えている。

だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。教職員も含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが問われている。
(略)
文科省は、大学におけるすべての授業をアクティブラーニング化するように求めており、そのような努力を大学評価の大きな軸としている。

だが、ここに一つ、大きな問題がある。
例えば日本で最も改革の進んでいる国立大学の一つである東京工業大学を例に考えてみる。東工大は特に大学一年生のいわゆる「初年次教育」に力を入れており、入学直後の4月から6月に「立志プロジェクト」という授業を展開している。私も毎年呼ばれるのだが、まず、各分野の専門家から90分の特別授業を受ける。それをクラスに持ち帰って4、5人のグループでディスカッションを行い発表もする。一方で、20人前後で1クラスのユニットが形成されており、そこでは毎週のように読書会などが開かれている。

さて、このようにアクティブ化が最も進んだ東工大だが、独自の悩みも抱えている。それを担当教員は「東工大の八・七・六問題」と呼んでいた。八・七・六とは、学生の、
 ・八割以上が男子
 ・七割以上が関東圏の出身
 ・六割が中高一貫校出身
という現状を指している。こんな偏った構成では、授業をアクティブ化しディスカッションを導入しても、結局、同じような意見ばかりが出てしまうのだ。

文科省が掲げる新しい学力観の中の「主体性・多様性・協働性」における多様性とは、個々の生徒・学生の側だけの問題ではない。大学側にも多様性の確保が急務となっているのだ。

大学入試制度改革、とりわけ、これまで示してきたようなユニークな問題を持ち出すと「それで公平性が確保できるのか?」「どうやってきちんと評価するのか?」という問いかけが必ず出てくる。しかし、もはや大学は、従来型の「公平性」は求めていないのだ。

「これまでの学力試験は努力した人間が報われる最も公平な制度だ」と公言する人もいまだにいらっしゃる。しかし、努力は人間の能力の一つの側面に過ぎない。もちろん、こつこつと努力を積み重ねるタイプの人間も世の中にいてもらわなくては困る。しかし、努力は苦手だがアイデアは素晴らしい人間も必要だし、その中庸をとる能力も大事だ。

一つの尺度で一つの能力を測る試験から、多様な尺度で多様な能力を見る試験へ、さらには共同体の構成員を決めていく選抜へ、大学入試改革の本質はそこにある。

これまでの大学入試は、学力試験(テスト)を行う、その点数で合否を決めていた。大学入試改革では、学力試験だけでなく多様な能力を測ることを求めている。逆に言えば、これまで推薦入試とかAO入試では学力試験が課せられないことが多かったものの、これからは何がしか学力を測ることも求められている。

受験生の多面性や多様性を把握する入試へと変わることが求められているものの、一方で従来のテストの点数だけで合否を決めることが合理的であるという考えも残っている。「公平・公正」ということを考えると、点数という具体的な数値で序列化されてしまえば、受験生やその保護者の理解も得やすいし、大学からの説明も楽だということもあるのだろう。

大学入試での面接や高校からの調査書などを点数化することも検討課題ではあるものの、何をどのように評価すればいいのかについては手探りの状態といえる。基本的な考え方は理解できるものの、入試を行う場合に、受験生らが納得できる評価や採点ができるかどうか。従来型の「公平性」は求めていないと書かれているが、日本社会でそうした認識を醸成することも必要だろう。

大学側の意識も変えていかなといけないだろう。ただ、それには時間がかかりそうだけど・・・

「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要という指摘もされている。AIが発達してくれば、無くなる仕事もあると言われている。単なる知識は自分で学ぶこともできるし、AIに置き換えられていくだろう。そうなったとき、問われる能力というのか何だろうか。知識を使って問題解決ができるかどうか、他人とのコミュニケーションや議論がきちんとできるか、といったことが求められるのではないだろうか。そうしたことこそ大学に集まってしかできないことかもしれない。

「学びの共同体」にふさわしい大学教育・授業はどうあるべきなのだろうか。大教室での授業なんて成立しないかもしれない。そういう意味では大学の授業のやり方も変わらないといけない、な。









AI時代の教育では外向性・協調性をより重要視

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日経新聞(11/20付けの夕刊)の「就活のリアル」欄に『AI時代の教育――外向性・協調性、より重要視』という記事があった。書いているのは、雇用ジャーナリストの海老原嗣生氏。
近い将来、AIの発達で難関資格が必要な職務も機械が代替するようになる。一方、物理的・対人的な仕事が含まれる普通の職務は残る。ただし、それぞれの仕事の「核」となるようなコツ・ツボ・判断業務はAIが担当し、人間には簡単な誰でもできる仕事しか残らなくなる。それでも、AIが熟練の職人並みの技を繰り出すため、労働自体の生産性は増し、少子化の人手不足も相まって、給与・待遇は上昇していく。こんな「すき間労働」が広がっている。

このころになると、人は苦役から解放され、高給で余暇を楽しめるようになる。そして、一つの仕事に飽きたら、まったく違う分野の仕事に就くこともできる。たとえば、ケーキ屋から花屋さん、そしてアクセサリー屋さんなどに仕事を変えていける。自分の趣向にそって自由にキャリアを描けるようになる。難しい仕事はAIが担当し、人には簡単な仕事しか残らないから、未経験分野へもシームレスで入職できるのだ。

こんな時代にマッチするにはどんな風に育てれば良いかわからなくなってしまいそうだが、案外、現在の教育方針がそのまま生きることになりそうだ。

まず、いくらでも仕事は変えられたとしても、どの職場でも周囲とうまくやっていけない人は使いものにはならない。時間に遅れる、約束を破る、ウソをつく、けんかをする。そういう人はやはり、嫌われるだろう。

また、仕事はAIが難しい部分を判断・指示してくれるが、それを忠実にこなさない人は使いものにならない。いいかげんな人はやはり通用しない。何より、ルールに従って黙々と処理をする仕事は機械に代替され、人に残るのは対人要素が主になっている。外向性・協調性は今以上に重要視されるだろう。

こうした時代でも店長やマネジャーなど「上」に立つなら、たくさんのスタッフを管理せねばならない。面倒見がよいことや、精神的安定性が求められるのは間違いない。

そのころ最も難しいのは、ライバル企業が多数いて、彼らもAIを使って戦いを挑んでくるような営業合戦だろう。それは相手のAIの上を行く、創意工夫や不屈の精神が必要となる。

そう、キャリアフリーの時代でも、働く人に求められるものはそれほど変わらないのだ。考えてみれば、大昔と現在では技術レベルは大いに発展し社会も変わったが、仕事に求められるものは大して変わっていない。それと同じなのではないか。

AIの発達は未来の社会をどのように変えていくのだろうか。
「未来職安」で描かれたように99%の国民が消費者で働くのは1%だけというのは極端にしても、消えていく仕事というのは増えていくのだろうか。

どんな時代になっても求められる人材というのは変わらないということ、かな。
ただ、外向性・協調性といった要素は大学教育でどうのこうのできないのではないか。教えるようなものではないのではないか。

いや待てよ、AIが発達した未来はそうした要素(性格や感性など)も教育によってなんとかなる?









免震偽装にどう対処するのか

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建設通信新聞(11/9付け)の「建設論評」欄に『どう対処するのか』という記事があった。
建物の安全を守る免震・制振装置の性能が、供給の大半を占める2社で偽装されていたことが明らかになった。シェア1位のKYBは、検査データの書き換えが2003年からあったと公表した。基準値から外れた場合、製品を分解して再調整しなければならないが、検査担当者らが時間を省くためにデータを改ざんしてきたという。

驚くのは偽装された製品の比率である。同社の免震装置出荷総数約1万本のうち、大臣認定の基準に不適合、契約の基準外、また調査を要する製品の総数は7割を超える。他の1社でも出荷され続けてきた基準外の製品の割合は物件数で約5割、製品数で3割弱だった。

これらは製造技術の不完全さを示すものだろう。検査部署の独立性が確保されていれば、不具合の指摘と改善が適切に機能し、こうした事態は避けられたのではないか。契約の基準に外れた製品の納入はむろん契約違反であり、不適合品があれば法違反である。追求すべきは状況を理解せず、手を打たなかった経営の責任だろう。

出荷前検査の目的は製品の保証と不適合品の発見である。その検査ばかりか、品質管理の生命線である規格の要求事項「製造部門から独立した内部監査」も機能しなかった体制の不備に弁明の余地はない。

納入先は公共施設など一部(執筆時)を除いて明らかにされていないが、装置の機能からみて企業や地域の拠点となる大型施設が多いと考えられる。物件数と交換の難しさは、東洋ゴムの免震偽装をしのぐ。

ゼネコンは収拾の有効な策も見えない中、手探りで設計の検証、今後の調査・交換等の計画にやり切れない思いで当たる。新築建物の受け渡し遅延、保険の引き受け停止や一時的に建物が使用できなくなる恐れがあるなど収束までの長期化は免れず、建築物の所有者や使用者等への影響は計り知れない。

10月、JR福知山線脱線事故や中央自動車道笹子トンネル天井板落下事故の遺族らでつくる会のメンバーが、重大事故を起こした企業などの刑事責任を問う「組織罰」の創設を求める請願書と約1万人の署名を法務相に提出した。本件は事故こそ起きていないものの、まさにこれに該当する事案にみえる。

危機感を覚えるのは、神戸製鋼所、三菱マテリアル、東洋ゴム等々、組織的な品質管理を得意としていた製造業に検査不正の発覚が止まらないことだ。不信のふっしょくには、原因究明と再発防止をこのまま企業の自浄作用に任せるだけでは不十分だろう。民事の賠償は個々の問題として、主務官庁には事態収拾に止まらず、刑事上の責任を問うなど不正の抑止力となる措置が求められる。

企業は、改ざんの具体的な経緯をうやむやにしてはならない。本件で不可欠なのは、改ざんのきっかけ、設計の立ち会い検査などの場をどうやって繕ってきたのか、それらにどういった立場のものが関与してきたのか、そして周囲と経営層の実態認識などだ。一つひとつに明確に答えられなければ、抜本的な対策は立てられない。不信は広がり、いまは企業と所管する側の双方に事態への説得力のある対処が問われているのだ。

免震構造や免震装置に関する不信をふっしょくするには、企業の自浄作用に任せることはできないのではないか。やはり製品の検査を第三者の外部機関で実施することが必要なんじゃないだろうか。今回の問題に関する外部有識者委員会が設置されているが、ぜひ実大の試験ができる試験装置を備えた試験機関を設置することを提言してほしい。

一方、免震だけでなく他の製造業においても品質管理上の不正や偽装が行われてきていたことが明らかになっている。そこには、お客様は神様という考え方、品質管理を行う上でのマニュアルや組織の形骸化・制度疲労、そして日本人の気質(集団心理、同調圧力)といったものがあったのではないか。

掘り下げると根が深い問題なのかもしれない。









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「アイソレータ・マン」。頭部は積層ゴムで、胸にはダンパーのマークでエネルギー充填
『耐震・制震・免震が一番わかる』
共著ですが、このような本を技術評論社から出しました。数式などを使わずに耐震構造、制震構造、免震構造のことを、できるだけわかりやすく解説しています。
『免震構造−部材の基本から設計・施工まで−』
免震構造協会の委員会活動の成果として、このような本をオーム社から出しました。免震構造の基本をしっかり学べるような内容となっています。
『4秒免震への道−免震構造設計マニュアル−』
いまでは少し内容が古いかもしれませんが、免震構造の基本的な考えを述べています。初版は1997年に理工図書から出ていて、2007年に改訂版を出しました。
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