
中央公論(2月号)の特集は、「大学改革の混迷」。
その中にオックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏による『「小さな政府」に高等教育は可能か イギリスから見たニッポンの大学の問題点』があった。
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多くのヨーロッパの国々は、高等教育の無償制を掲げてきた。大学のほとんどが国立である。それを問題なく維持できていたのは、大学が高度な知識の生産やそうした知識をもった人材の養成機関として社会に裨益する、そういう「公共財」としての認識が受け入れられていたこと、加えて、大学に進学する人々が一定数に限られていたことにもよる。
ところが、この20、30年の間にヨーロッパでも事情は一変した。グローバル化した「知識経済」のもとでは、より高い知識や技能をもった人材が以前にも増して必要となる。そのためには、大学教育の拡張が欠かせない。だが、大学教育の機会をあまねく提供するためには、国の財政負担が増えるというネックが存在する。
イギリス政府は、大学の授業料をこれまでの年額3290ポンド(1ポンドを122円とすれば約40万円)を上限とする仕組みから、それぞれの大学の決定によって年額9000ポンド(約110万円)にまで引き上げることを可能にする政策への転換をはかった(1998年までは無償)。国による財政負担増を軽減するためだといわれている。
イギリスでは、授業料の支払いは、学生が大学卒業後に得る収入に応じて、給与から天引きされる後払い方式をとっている。いわば大学教育はほぼ自動的に国からの学生ローンを引き受ける形で、受益者の負担となるのである。
一方、日本では先進国の中でも際だって高等教育費の公的負担が小さい。言い換えれば、財政面での国家の役割は、もともともっとも「小さな政府」だったのである。教育費の私的な負担といっても、イギリスのように受益者負担にはなっていない。
日本では、大学にかかる費用の多くは、親たちが支払う。貸与による奨学金を利用する学生の比率は日本でも高まっているとはいえ、親から子への財産贈与の一部とみなした方がよい。学生の側からみれば、自分が将来負担すべき自らへの投資ではなく、親への依存によって大学に行っているという意識につながる。大学で学ぶことにへの意識の低さにもつながる「甘えの構造」はこうした費用負担の仕組みと関係している。
しかも、私学が全体の学生数の8割を抱えている。「小さな政府」ゆえの私学依存・家計依存による高等教育の拡大が、日本の大学教育のもっとも本質的かつ構造的な特徴である。
教育機会を拡張しようにも、家計の経済力による不平等を残してしまうのも、教育の質を高めようとする議論の多くが空振りに終わってしまうのも、その根本には、国による財政負担を小さくしたまま、高等教育の機会を(安上がりに)提供・拡張してきた日本型高等教育の発展史にもその原因があるのだ。市場原理に任せて教育の拡張をはかり、国による財政的な負担を最小限にとどめておく「小さな政府」を、高等教育の世界で日本がいち早く実践してきたことのツケである。
これまでも指摘されてきていることだが、大学が抱える古くて新しい問題は、以下のとおり。
(1)就職活動
就職活動の早期化により4年間の教育が十分に確保されない。
(2)カリキュラム
広く浅い学習になっている。学生たちは実質3年間で単位をとろとするから、一週あたりの登録授業数も多い。そのためほとんどの授業が予習を課さない、話を聞いて試験を受ければよい講義形式の教育に終止する。ベネッセが行った「大学生の学習・生活実態調査」(2008年)によれば、一週間に予習や課題に費やす時間が3時間未満の学生は73%、一週間に大学の授業以外の自主的な学習をする時間が3時間未満は81%におよぶ。日本の大学とは、授業中にしか学ばないところなのである(授業中だけでも学ぶ方はまし?)。
(3)付加価値
何をどれだけ学び、身につけたのかが問われないうちに、就職の内定が決まってしまうのは、日本の社会が大学教育の付加価値に関心を持たないことを象徴している。
(4)修士プレミアム
高度な人材養成が必要だ、教育の質の保証が重要だ、といわれる割には、大学院教育へのシフトが起きていない。修士号をとってもそれが雇用市場では全く評価されない(特に文系では)。
これらの問題が長年指摘されながらも現在でも大きく変わらないのは、このような大学教育の仕組みが一定の機能を果たしてきたからである。たとえ大学教育が付加価値をつけずとも、大学入試が訓練能力のシグナルを提供している限り、大学は一定の役割を果たしてきたとみることができる。
このような理解は、日本という閉じた社会の中での競争の仕組みを言い当てるものだった。あくまでも相対的な順位が問題にされるのであって、国内の閉じた空間の中で競争をする限り、教育の中身が伴おうと伴うまいとそれは問題にされない。閉じた競争の中での相対的な順位争いが受験競争であり、就職競争だった。
ところが、日本国内で閉じた競争が続いているうちに、日本の外側では大きな変化が生じている。大学教育においても、企業の人材獲得においても、急速な勢いでグローバル化している。大学がグローバルな人材育成競争の担い手として注目され、いわゆるワールドクラスの大学がしのぎを削り合う。しかも、そうした変化の舞台は、研究者養成だけに限らない大学院教育に移行しつつある。
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オックスフォード大学の授業で課せられる課題文献の量は、一つの授業で1学期に20冊近くの文献を読ませ、それをもとにエッセイ(論文、毎回A4で10頁くらい)を書かせ、議論する。しかも、個別指導が中心で、ゼミ形式の授業もきわめて少人数で行われるという。多くの文献を読ませ、多くのエッセイを書かせ、批判的に思考する力、議論する力を身につけさせる。そういう付加価値をつけることが、グローバルな競争で求められている、という。
日本の平均的な大学生は4年間でも本を20冊くらい読んでいるだろうか。企業の採用活動もかわってくるだろうし、企業が求める人材も変化するだろう。ユニクロは学年や国籍を問わない通年採用に踏み切った。企業の採用活動がかわれば、大学も自ずと変わらざるをえない。外圧に頼らないと変われないところが少々悲しいが、これまでのやり方を急には変えられない。教員の対応力にも課題があるだろうし、できるところから変わっていくしかないのだろう。東大の秋入学もグローバル化を意識したものだろうが、入学時期を変えただけでグローバル化に対応できるわけではない。大学の改革は待ったなしということか。









