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桜井那朋著『日本語は本当に「非論理的」か』(祥伝社新書)を読んだ。著者は高エネルギー宇宙物理学を専門とする研究者でNASAをはじめ欧米での研究経験も長い。そんな著者が考えた日本語論が本書である。
我が国において母語である日本語に関して、読み、書き、話し、聞くという4つの大切な活用法の教育を、中等・高等教育の機関でも実施すべきである。物事の成り立ちについて論理的に考えることは、その物事の成り立つ要素と要因とを徹底的に、恣意を交えずに客観的に分析し、そこから論理・推論を論理的に展開すること通じる。このような思考様式は誰にでも必ずできることなのに、我が国の教育では、これに対し重きをおいてこなかった。その理由の一つが、自分の意見を持つことに慣れ親しんでいないこと、時の為政者や知的文化人などの権威に従うことで安心してきたこと、にあるのではないか。

和英辞典をみると「思う」を英語にすると13通りもの表現がある。これだけの異なった使い方が「思う」にはある。
(1)「考える」という表現(thinkとつながる)
(2)懸念に関わる表現
(3)見なす
(4)信じる。例文としては「正しいと思う(believe)」
(5)予期。例文としては「思った通り(as one expected)」
(6)回想。往時を思えばという言い表し方
(7)感じる(feel)
(8)希望。”wish”と”want”
(9)誤認。・・・と思っていた。
(10)つもり。例文として「・・・しようと思っている」
(11)怪しむ。英語では”wonder”や”suspect”
(12)想像。英語では”suppose”や”imagine”
(13)念願に対し”think of”

特に感情に絡んだあいまいな表現となる「思う」「思います」「・・・という感じ」「いや」などという言い表し方をやめて、きちんと対応する表現を試みれば、英語など他の言語に翻訳されても、奇妙な表現となることはない。このことを心して、日本語の体系を論理的に組み上げるよう試みるのが、私たち一人ひとりに課せられた義務なのだといえよう。
著者は、まず「思う」を使わないで話すことから始めてはどうかと提案している。
具体的な事例をあげて次のように説明している。
「相手は強いと思うので、しっかり戦わないといけないと思うから、頑張りたいと思います

最初の「思う」は試合の相手となるチームの力が手強いと見なしていることを意味する推測にあたろう。二つ目の「思う」はやはり自分の見解で、選手個人の決意に関わる。三つ目の「思う」は、これも決意で、断固とした表現にあたろう。これらを意識すると、上の例文は次のようになる。

「相手は強いとの評判が高いし、自分もそのように見なしているから、しっかり戦わないと負けてしまうかもしれないので、頑張るつもりです(または、頑張ります)」
確かに何を言いたいのか明瞭になった。なんとなく雰囲気で話すのではなく、自分の考えていること、感じていることをはっきり説明する必要がある。また筆者は次のようにも述べている。
私たち一人ひとりは誰でも、語彙について端折ることをしないで、ていねいに語を重ねていけば、公平で客観的、そのうえで論理的な表現ができるはずなのに「思う」「思います」を使うことにより、こうした行き方を自分から棄ててしまっているのである。こんな行き方でやっていながら、日本語の表現は情緒的で、科学上の諸問題についての表現に向かないのだと主張する人たちがいるのだから、呆れてしまう。まずは、自分の日本語表現がどのようなものかという反省にたって、物申してもらいたい。

「思う」「思います」という表現は、この表現を用いた当人のきわめて主観的な物言いを表すものとなってしまうので、普遍性をもたないし、客観性を持ちえない。さらに、この表現は論理に立つことも拒絶してしまう。自分の意見や考えをいかに表現すべきか、あるいは表現できるかについて考えめぐらし、論理的により説得力のある表現の仕方を見つけるよう試みられるべきなのである。

日本語による表現では、話しことばでも、書きことばでも、語順に対する許容度が大きく、そこにあいまいさや非論理性が入ってくる可能性がある。これを是正するには、私たちのことば(言語)に対する感覚を鋭くするという習慣を身につけることである。したがって非論理性がはいってくることは、きわめて個人的なことで、日本語の持つ表現法が正しくないことから生じるのではない。

日本語の言語体系に非論理性や曖昧さがあるのではなく、あくまでそれを使う側に問題があるとの認識である。「思う」「思います」を急に話したり、書いたりするなと言われても難しいだろうから、「思う」「思います」と話したり書いたりした時には、これはこういう意味で使っているんだということを意識することから始めるのがよさそうだ。