週刊東洋経済(6/19号)の「一生モノの古典」はトルストイ著『人生論』が取り上げられている。
人生論と謳っているが、実は論理的思考法の本なのではないかと。本書を読み始めたとき、私[この筆者、鎌田浩毅・京大教授]はそうした錯覚に陥った。「すべてものを考える場合、だいじなのは、考えることそのことではなくて、考える順序だということ、つまり、はじめに何を考え、後に何を考えるか」。冒頭からこうした話で始まる人生論も珍しい。

トルストイは言葉をきちんと定義して使う。人生を語るうえで不可欠な「生命」に対しても、「すべての人が理解している意味で、この言葉を使わなければならない」と最初に宣言する。世の中にはバズワードと呼ばれる言葉がある。「地球に優しい」や「クラウド時代」のように、意味があいまいなまま世間で広く使われている言葉だ。トルストイはこうしたバズワードで話を進めることは、極めて危険だと考える。言葉の意味を確認し、共通の理解を得てから議論をしようと提言するのだが、これに私はまったく賛成である。

私は科学のアウトリーチ(啓発・教育活動)を始めた頃に本書と出会って驚いた。価値観や経験の違う人たちに科学の成果を説明するための技術が、明快に指南されていたからである。「たとえ人がどんな研究なり観察なりするにしても、その観察したことを表現するする場合、すべての人がみんなひとしく一様に理解している意味でもって、ひと言ひと言を使わなくてはいけない」。科学者だけに通用する論理を排除し、一般市民にわかってもらえる言葉を模索していた私に、本書の発送は大事な指針となった。

トルストイは人間が求める幸福に二つあるという。一つは自分だけの動物的生存にかかわる幸福で、これを「動物の幸せ」と呼ぶ。これに対して人は、まったく別の幸福、すなわち「理性の幸せ」も求めているという。「人間の真の生活は、動物的な自我をおさえようとする理性の意識として、あらわれる。したがって、動物的な自我の求める幸福が否定されるとき、はじめて、真の生活が始まるのである。」

こうした[理性の幸せ」を求めて、彼は世界史上の賢者たちの思想を渉猟する。孔子・仏陀・老子・ユダヤの賢人・ストア派の学者たちを経て、キリストの言葉にたどり着く。「人生とは、人を幸福にする愛−神と隣人にたいする愛にほかならない」。動物的な欲求によって脅かされる人生は「愛すること」によって克服できると、と説く。

トルストイが夢見た理性の到達点はこうである。「すべての人が他人の幸福のために生き、自分自身よりもいっそう他人を愛すような状態である。(中略)生存競争も、なやましい苦痛も、死の恐怖もなくなる」。人生では自分だけの幸せを願うことは不可能であると知った者にのみ、幸福が訪れると結論するのである。

こうした「理性の幸せ」を得るために、トルストイは宗教の本を熟読せよと助言する。「ただの三つきり、つまり、中国の宗教と、インドの宗教と、ユダヤ・キリスト教(中略)しかも、こうした宗教の本は五ルーブリも出せば買えるし、二週間もあれば読める」と喝破する。

極言すれば、古典を3冊読めば人生上の大抵の危機は乗り越えられる。古典とは、「理性の幸せ」を得るために過去の偉人たちが積み上げた知の財産である。その古典を読まない人は、自らの人生を掌握できずただ生きているだけにすぎない。ちょうど海上を漂っている人が、自分では進みたい方向へ行っているつもりなのに、波に流されているようなものである、と彼は述べる。

大学の一般教養で古典に親しむことは大いに意味がある。古典なんか役に立たない、と言わずに古典に親しんでもらいたい。そのための時間が学生にはあるはずだ(無いというなら時間を作るべきだ)。