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週刊東洋経済誌(9/23号)にオックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏が『日本人はなぜ英語が話せないのか』と題して寄稿している。
文部科学省によれば、2020年度から始まる大学入試改革で、英語については英検やTOEFLなどの外部団体の試験に委ねるという。中学・高校で英語を学んでも日本人の多くは英語を話せない。そのため、「読む」「書く」「聞く」に加え、「話す」力もテストする。これら「英語4技能」を測るために、試験を外部化するというのだ。特に話す力の試験を大学が行うのは困難だからという。

前提には、日本人は英語が話せない、それは読解力や文法ばかりをテストする受験英語のせいだという常識がある。だから、話す力を受験に組み込めば、英語教育も変わるはずだという期待感が改革を後押しする。グローバル化が進む時代には、オーラルな英語力が必要だという理屈も付け加わる。

そもそもこの常識には問題はないのか。たとえば、受験英語で日本人は、英語は読めるが話せないという。これは大きな誤解だ。あえて言うが、大学を出ても、多くの日本人は英語が読めない。英語が読めるとは、文字どおり左から右に文章を訳さずそのまま理解できることを指すからだ。それができなければ、聞き取りもできない。それも、発音の聞き分けの問題ではない。発話の順に日本語に訳さずにそのまま理解できなければ、聞き取ったことにはならないからだ。そのインプットができなければ、英語で考え、それを声に出す(話す)ことも当然できない。

初歩レベルの英会話なら定型のフレーズを覚えれば済む。だが自分の意見を伝える(話す)ためには、訳すのではなく最初から英語で考えなければならない。この力を支えるのは、発音の巧拙よりも、私たちが日本語でやっているように、英語なら英語のまま反応する頭の働きだ。

この力をつけるために必須なのが、読む訓練である。それもある程度内容のある文章を、英語のまま理解できるようにする教育だ。入試で測るのではなく、大学に入ってから行うべき英語教育である。

はたして日本の大学で学生たちにどれだけ英語の文献を読ませているのか。英語で教える授業は増えたが、講義形式が中心だ。ここでもオーラルなコミュニケーションに偏る傾向にある。日本語の読解力が読書量に比例するように、英語の理解力も何をどれだけ読んだかが決め手となる。日本語の授業でも、英語文献を英語のまま理解できる教育は可能だ。そこに手をつけなければ、入試を変えても日本人の英語力は改善されない。

そのためにも読解はできるという幻想を捨てることが必要だ。大学を出ても日本人は英語を読めない。だから聞くことも話すことも、最難関の書くこともできない。インプットが少なければ、アウトプットは自由にならない。聞き取りや発音といった技能に偏りすぎると、知的な能力としての英語で考える力には到達できないのだ。

ビジネスの世界でも、相手を説得する力を発揮するには、自分の頭で英語で考えなければならないだろう。英会話学校では身につかない能力だ。その土台が読む力を鍛えることにある。教育の優先順位を間違えてはならない。口先だけの英語使いを育てるのが目的ではないはずだ。

大学でも英語の授業は行われているものの、苅谷氏が指摘しているような内容のある文章を読ませる授業はあまり行われていない(と思う)。卒業研究でも英語の文献を読むように指導することもあるが、英語は苦手だという学生もいる。

入試で4技能が測られて入学してきた学生に対して、大学でどのような英語教育をすべきなのか。高校の英語の授業の方がレベルが高かったなんてことにならないようにしないといけない。入試で英語の4技能を測ることは決まっているが、どのような資格検定が使えるのか、その際に採点の公平性をどのように確保するのか、などまだ確定していないところが多い。

当面は大学入試センター試験での英語の試験も残されるようだが、一部の高校ではセンター試験の英語を存続させて欲しいという要望も出ている。さてさて、入試における英語がどうなっていくののだろうか。そしてこうした改革で本当に大学生の英語力は向上するのだろうか・・・