日経新聞(9/25付け)に『専攻選べる教育課程必要 高大接続に欠ける視点』と題して、前大学入試センター副所長で東北大学名誉教授の荒井克弘氏が寄稿していた。
2012年8月の中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」の巻末に、「高等学校教育の質保証、大学入学者選抜の改善、大学教育の質的転換を高校と大学のそれぞれが責任を持ちつつ、連携しながら同時に進めることが必要」との一文が書かれている。

また、13年10月の教育再生実行会議の提言(第4次提言(PDF))、14年12月の中教審高大接続特別部会答申(PDF)においても、高等学校教育、大学入学者選抜、大学教育を「三位一体」で改革することが基本方針とされている。

しかし、いずれの文書にも肝心の「接続論」が欠けており、単純な試験改革論で終わっている。しかも試験改革の諸提案は、その後の検討のなかで技術的な困難さが指摘されて大半が先送りとなった。文部科学省が現在、懸命に取り組んでいるのは「記述式問題」の出題と「英語の4技能試験」の2つである。

教育課程の連結で「接続」という言葉を使うのは高校と大学の間だけである。小・中・高の教育課程はその前の学校段階の上に積み上げられる。学校教育法にもそう定められている。だが、大学だけは別で、単純に高校までの教育に積み上げられたものではない。これは高校と大学の設置目的の違い、制度的な由来に基づくものといえる。

とはいえ、大学の数も800に近く、大学短大進学率も57%に達する現在、両者の違いは質的、水準的な違いだと単純には言いきれない部分がある。大衆化と高度化の要請は高校にも大学にも押し寄せている。両者の根本的な違いは、大学が学術研究と教育の場であるという点であろう。

高校で学ぶ知識・能力は個人が生きていくうえで基盤となる体系化された知識・能力であり、大学での学びは進行形の知識・能力である。常に開発途上であるという未熟さと可能性を併せもっている。

高校と大学という教育の異質さゆえに、両者をいかに接続させるか、各国で工夫が積み重ねられてきた。ヨーロッパの国々では、英国のシックスフォームやドイツのギムナジウム、フランスのリセなど、中等教育の後期に進学予備課程を置いて、異質な2つの教育を接続させている。これらの国の大学教育はすべて専門教育であり、こうした予備課程を介して、中等教育と大学(専門)教育の接続が成り立っているのである。

日本も戦前は旧制高等学校、大学予科のような予備課程があった。それが戦後の学制改革で単線型の学校体系が導入されたことにより、廃止された。だが、新制になったからといって、高校と大学の教育課程がにわかに近づいたわけではない。両者の違いは今よりもはるかに隔絶していた。

にもかかわらず「接続」は大学入試にのみ任された。戦後占領期のこととはいえ、乱暴な話である。しかも、入試は学部単位で通常行われる。受験者は大学のことも知らぬまま、事前に専門や専攻を決めなければならない。大学入試は二重の意味で「一発勝負」を担わされたのである。

同じ単線型でありながら、米国は違う教育システムを作りあげた。課程制の大学院をつくり、そこに専門教育を任せた。全ての学生が大学院へ進むわけではないが、大学入学後に一般教育という「予備課程」を受け、専門教育へ進む準備が整えられた。

戦後日本が羨望してやまなかった米国の大学入学制度は、いわばこの予備課程への入学者選抜に相当する。一般教育なら戦後日本の新制大学にも導入されていたではないか、という声が聞こえてきそうだが、順序が逆転してしまった。専門・専攻が決まってから一般教育を受けるのと、一般教育を受けてから専門・専攻を決めるのとではまるで意味が違う。市川昭午・元国立教育研究所次長はこれを新制大学の「矛盾」とした。

日本の大学入試が著しい機能不全を起こすようになったのは、大学進学者の増加、高校、大学の多様化による。さすがに大学入試だけでは高大接続が成り立たなくなったのだ。共通第1次学力試験や大学入試センター試験が導入されたのは、高大接続の緊張関係を緩和するためであった。

本来、この種の共通試験は標準課程が全国に徹底した国では必要ない。個別入試で事足りるのである。しかし、現行制度下で高大接続を成り立たせようとすれば、こうした共通試験が不可欠だったのである。

図に示すように、高校教育と大学教育は同軸上にあるのではない。互いに軸がクロスしている。高校の科目が出題範囲という制約が課せられているが、その枠のなかで、年間500人以上の大学教員が50日間をかけて30科目のセンター試験問題の作成に従事している。それらは、これから大学教育を受けようとする受験者に対して、大学が情報を発信する貴重なメディアであった。
高大接続

しかし残念ながら、この種の共通試験も、高校と大学の双方で急速に進む多様化に追いつけなくなってきている。いくら、活用力だ、多面的、総合的な評価だと騒いでみても、問題は別のところにある。

必要なのは接続のための「教育課程」である。学生が大学教育を理解して、専門・専攻を選択できる学びのプロセスが必要なのだ。選抜はそれからでよい。現在進められている改革は、高大接続を考える上で最も重要な視点が欠落していると言わざるを得ない。

大学受験のとき、進学したい学部や学科が決まっている高校生はどれくらいいるだろうか。もちろん○○大学△学部に進学し、将来×××の仕事をしたいという考えをしっかりもっている高校生もいるだろう。ただ、そうした高校生は少数派かもしれない。自分は何を学びたいのか、何を基準に大学を選べばいいのか、戸惑っている生徒も多いのではないだろうか。

そうした生徒が大学に入学してくると、大学での学びや思っていた専門分野とは違っていたなどが原因で、学習意欲が低下したり、ドロップアウトするようなケースもみられる。大学としても、そうしたミスマッチを埋めるために、オープンキャンパスや高校への出張講義などを行ってはいるものの、まだ溝は深いままだ。

大学への進学者が少数だった時代はエリート教育でよかった。大学進学率が50%を超えると、ユニバーサル・アクセス型と呼ばれるようになり、大学教育の目的も変わらざるを得なくなっている。こういう時代だからこそ、記事にあるように専攻を選べる教育課程をつくることが求められるのではないだろうか。大学入試において専攻(学部学科)を特定しない方法、あるいは教養学部のように専攻を決めつけない学部で幅広く学ぶという方法などを取り入れていくことも必要ではないだろうか。

いま大学では文科省が進めている大学入試改革への対応をすべく準備していると思われる。ただ、具体的な入試選抜の方法は示されていないため、手をこまねいているのが現状となっている。これで本当に高大接続改革となるのかどうか、不安だ。もう少し時間をかけて、高大接続のあり方を検討することも必要ではないだろうか。