選挙

朝日新聞(10/20付け)の『あえて「選挙はくじ引きで」』という記事で、政治学者の吉田 徹氏(北海道大学教授)が「くじ引き民主主義」を提言している。
選挙ではなく、くじ引きで自分たちの代表を決める仕組み。それを導入することで私たちは民主主義を強化できる、と吉田さんは訴えた。古代ギリシャなど近代以前の民主政治では、実はくじ引きが普通に用いられていたのだ、とも。「地域の名士だけでなく、専業主婦だったおばあちゃん、子育てするお母さん、非正規のフリーターが集まる議会を想像してみよう」と。

引き金は地方選挙の「形骸化」だった。2015年に行われた統一地方選挙では、町村議選での無投票当選者の割合が21%に増えた。投票の洗礼を受けずに議員になる例が常態化しつつあるのだ。また、議員のなり手不足に苦しむ高知県大川村は今年、議会を廃止して代わりに有権者が直接審議する「町村総会」の設置を検討し始め、全国に衝撃を与えた(後に作業を中断)。

いま地方選挙の現場で目撃されているのは「選ぶという行為の空洞化」だと、吉田さんは話す。「選択肢がない状態では、選ぶという行為は意味を失う」

しかし、職業政治家だけでなく多様な人々が集う議会とは本当に良いものなのか。代表制民主主義の「代表」をどうとらえるかによるというのが吉田さんの考えだ。

代表とは何か。

いま標準的なのは「代表=選良(エリート)」という考え方だという。この場合、議員は人々に範を示す役割も期待される。だがもう一つ、「代表=代理人」という見方が歴史のかなたにあった。代表には人々と同じ感覚を共有していることが期待され、議会は社会を映す鏡となる。そんな民主制を実現した手段がくじ引きだった。

「古代ギリシャでは、議会にかかわる公職や官職を担う人を決める際にくじ引きが採り入れられていた。政治的な意思決定に『社会の縮図』を反映させようとする工夫だ。しかし近代になるとエリート主導の民主制モデルが中心的になり、くじ引き型の民主制モデルは忘れられていった」

遠い昔のモデルをなぜ呼び起こすのか。

「エリートに対する人々の信頼が低くなってきたからだ。議員の不倫が重大なスキャンダルと意識される背景にも、議員=選良という発想の強さとエリートへの反感がうかがえる」

能力を基準に議員を選ぶことが必ずしも良いとは限らない、とも指摘する。

「政治理論の世界には、能力で人を競わせる選挙より、くじ引きの方が公正だという議論もある。世襲議員の優位が示す通り、能力はその人の環境に左右される。その点、くじ引きは万人を参加可能にし、立法過程を万人に開放する制度だ」

くじ引きでは原則、当たったら引き受けねばならない。抵抗もありそうだが、義務化することに意味があると語った。

「民主主義はうっとうしいものでもあり、立派な主権者であり続けることはつらいことでもある。『自分が政治家になったらどうするか』と考える機会を増やすことは、主権者としての当事者意識を涵養(かんよう)する効果を持つだろう。代表制を活性化させる可能性がある」
(略)
代表の意味を考えることは目前の衆院選にも無関係ではない、と語った。

「自分より優れた人を選ぶのか、自分と同じような人を選ぶのか。それを考えることは、自分が政治に何を求めているかを知る内省の機会になるだろう」

どんなに大きな選挙であれ、それが終わったあとも政治は続く。

「大事なのは、自分たちでいろいろな民主主義をデザインし続けることなのでは」

選挙の時期になると「選挙カー」を使ったりして候補者の名前を連呼してまわる。まずは名前を覚えてもらうことが先ということなのかもしれない。さて、どの候補者が当選するのかは、結果を待つしかないが、新聞やニュースで各党の獲得議席数の見込みなどが報道されると結果に対する意外性もなくなってしまう。もちろん候補者一人ひとりにとっては、当選と落選では雲泥の差があるのだろうが。

一度、国会を「社会の縮図」にしてみて、本音の議論をしてもらうのは面白いかもしれない。