大学

勝手に壁をつくる

日経新聞(6/5付け)にゲーム作家の山本貴光氏が『勝手に壁をつくる』と題して書いている。
文系か理系か、それがモンダイだ。

高校生の頃、この二択を迫られておおいに戸惑った。なにもこんなに早く絞り込まなくてもいいのに。と思ったのはどちらにもそれなりの楽しさを感じていたからだ(念のために申せば、よくできたわけではない)。クラス分けのためにいずれかを選べと言われて、文系に後ろ髪を引かれながら理系を選んだ。

高校を卒業して1年浪人した際も予備校の理系コースに通った。そんなふうに曲がりなりにも高校、予備校と理系コースにいて、物理学だの化学だの生物学だの数学だのの受験勉強に取り組んでいると、自分でもだんだんと理系のような気がしてくるからいい加減なものである。

結局、慶応義塾大学の環境情報学部という当時できたばかりで、海のものとも山のものとも知れない学部へ運よくもぐりこんだ。

なぜ選んだのか。そりゃあ学びたいことがあったからですよ。と言えれば格好もつくのだが残念ながらそうではない。そこには1990年という時期には珍しくインターネットを使える環境があった。なんのことはない、設備に釣られたわけである。ついでに申せば、入試科目は英語か数学のどちらかと言われて英語を選んだ。理系という選択はなんだったのか。でも、人生とはそんなものだ。

大学では、現代芸術(岡田隆彦)、心理学(小此木啓吾)、文学(江藤淳)、社会学(富永健一)、建築(槇文彦)といった教養科目のなかに科学論の講義があった。担当は赤木昭夫先生。この講義が大変面白く、どんな先生だろうと思って、ある日教員プロフィルを載せた冊子を読んでみた。するともともとご自身は英文学を専攻していたとある。先生はNHKで科学番組を制作する過程を通じて科学史家に(も)なったのだった。

ゼミに出てみると、研究テーマはルネサンス文化だったり、ハリウッドの映画産業だったり、これまた科学論とも違う。そのたび驚いた。なぜ驚いたのか。考えてみたら私が勝手に壁をつくっていたからだ。文系か理系か。こっちはこっち、そっちはそっち。赤木先生の話を聞くたび、自分で勝手につくっていた壁が壊れていった。分野は気にせず面白いと思う問題を追跡しよう。必要ならそのつど勉強すればいい。それでいいのだ。

そんなふうにして壁が崩れてみると、気になることも出てくる。ではいったい文系/理系といった区別や、さまざまな学問の分類は、どんな経緯をたどって現在のようになったのか。それ以来、学術や教育制度の歴史が気になって調べている。

日本の場合、明治期に西欧から学術を移入したものが今日の学術の基礎となった。その頃、西周という人が「百学連環」という私塾で行った講義で、ヨーロッパの学術全体と相互の関係を総覧しようと試みている(講義録が残る)。彼は後に教育制度の設計にも携わり、学問全体をいまでいう文系と理系に二分する案を提示した人物でもある。

理系文系

高校では、2年生、早いところでは1年生の段階で文系・理系に分けられ、分野ごとの科目に特化した受験勉強を行うようだ。しかし、将来の目標が定まっていなかったり、大学で学ぶ学問について十分理解しないまま受験科目の得意・不得意で「なんとなく」文理を決める人が多いのではないか。「文理分け」により片方の科目群しか勉強しないシステムは、弊害があるのではないか。「私は文系だから数学は必要ない」「私は理系だから政治や文学について考えなくてもいい」という発想も出てくる。「文系人間」「理系人間」という言葉も、そうした発想に基づいている。

よく言われるように全ての学問が理系・文系にくっきり区分できるわけではない。経済学は「文系」に所属しているものの数学の知識が必須だし、心理学は実験を行い結果を統計で処理する点で、研究手法は科学的だ。一方、「理系」とされる認知科学・情報科学では、哲学の知見が援用されることもあるし、建築は工学部に属しているものの、思想・美術とも密接に絡んでいる。

現在の入試を考えれば、文理選択も必要なのかもしれないものの、勝手に自分の壁をつくってしまわないことが必要だろう。そういう意味では、大学での「学部・学科」の壁というものも、もう少し薄く・低くなってもいいように思う。











なにを勉強すればよい?

日経新聞(5/29付けの夕刊)にゲーム作家の山本貴光氏が『なにを勉強すればよい?』と題して寄稿しいる。
ゲームクリエイターになるにはなにを勉強すればよいですか。しばしば中高生のみなさんからお尋ねいただく。

そうか、そうなのか。勉強しちゃうのか。はじめて問われたときは少々戸惑った。私自身はゲームの作り方を勉強したという自覚がなかったからかもしれない。勉強というよりは、作りたいから勝手に試行錯誤する。その過程で足りない知識や技術に気づいたら調べて試す。

とはいえご質問の意味も分かる。そうだよな。時代も違えば環境も違うもの。私が趣味でゲームを作り始めた1980年代は、そうはいってもハードの性能はいまと比べて低かったし、できることにも制限があった。
(略)
現在はどうか。パソコンの性能は段違いに向上した。3Dグラフィックを駆使できるのはもちろんのこと、人の声でも楽器の多い音楽でも動画でも自在に再生できるし、ネット接続も当たり前。視野を覆うヘッドマウントディスプレーのような装置や、人工知能をはじめとする各種既成のプログラムだって活用できる。ウェブにはプログラム入門の解説ページや独学のためのサービスもあり、書店に行けば多種多様な指南書や技術書がある。ゲーム開発に使える便利な道具や材料が多々提供されている。

なんだ、あとは作るだけじゃん。と言いたくなるものの、たしかに道具や環境がありさえすれば作れるというものでもない。頭に入れておくとよいこともある。

第一にゲームとはルールの複合物だ。例えば「オセロ」でも将棋でもサッカーでも「スプラトゥーン」でもよいけれど、それらはみな複数のルールを組み合わせてできている。自分で考案しようと思ったら、論理やモデルを考え、頭のなかで動かして予想する必要がある。これは数学や科学で鍛えられる。ゲームによっては物理学や計算機科学や統計学も活用できる。

また、ゲームは遊んでもらってなんぼのもの。遊ぶ人を楽しませたり、悔しがらせたりするのが仕事。そもそもゲームが提示する目的に挑んでみようとその気にさせねばならないし、できれば飽きずに遊んでもらいたい。そう、ゲームを作るには、なにより人間を知る必要がある。心理学、認知科学、社会学、歴史、文学の出番だ。

加えて言えば、ゲームの題材はゲームの外にこそある。古代の神話以来の諸芸術とその歴史、テクノロジー、各種の自然現象、社会現象、政治経済など、何を知っているかで出せるアイデアも大きく左右される。自分の経験と記憶を材料に発想するしかないからだ。

そして複数の専門家が集まって作る場合、なにをどう作るのかを適切に伝え、意思疎通できなければならない。読み書き会話がとてつもなく重要であるのは言うまでもない。

なんだか大変な話になってきた。でも大丈夫。以上に述べたことは、高校までの科目を理解していればなんとかなるものだ。ことに分野を問わずものを読んで理解するための基礎があれば申し分ない。そうすれば、自分で自分をバージョンアップできるから。

星新一の作品に「あるエリートたち」という短編がある。だいたいこんな感じ。
とあるゲーム会社、新しいゲームを開発しようと超優秀な社員を選抜した。選抜された社員たちは無人島に送られてしまう。あまりにやることがない彼らは、いろんな遊びをし始め、気がつくと、時間を忘れて没頭できるゲームができていた。
「面白い遊びというものは、理屈からはうまれない。また、軽薄な思いつきでは成長しない。」

僕が学生だった頃、流行ったのはインベーダーゲームでしたね。喫茶店や飲み屋にもこうしたゲーム機が置いてあった。こうしたゲームに熱中していた友人もいました。
インベーダーゲーム

大学に入学してくる学生は何かを学びにきている。勉強すれば、何かが身について、良い企業に就職できるとか資格が取得できるとか考えている。まっ、確かにそういう面はあるけれど、何かの役にたつための勉強だけをすれば良いわけじゃない。

人間の幅を広げるためにも、勉強に限らずさまざまなことに挑戦してほしい。そうした自由な時間が与えられているのが、大学だと思う。もちろん、勉学が疎かになれば、留年したり卒業できなかったりすることもあるけれど、自己管理ができるようになることも大切だよね。

記事の最後にある「自分で自分をバージョンアップ」できることが大切だと思います。










大学進学者12万人減!?

朝日新聞(2/22付け)に『2040年 大学進学者12万人減』という記事があった。
2040年度の大学への進学者は、17年度より12万人減り51万人弱になる――。文部科学省は将来の大学進学状況を初めて詳細に試算し、21日に中央教育審議会の部会に示した。大学進学率は上がり続けるものの、18歳人口の大幅減少を反映し、大学進学者数も現在より2割少ない結果となった。
18歳人口の将来推計
高等教育の将来構想に関する基礎データ 平成29年4月11日

現在の全国の大学の定員は合計で約60万人。試算によると、このままで推移した場合、現在104%の定員充足率は40年度に約84%まで落ち込み、東北地方などでは60%台となる県もある。中教審は今後、これらの数字などを参考に、40年ごろの大学や高等教育のあり方について議論する予定で、大学の数や定員も焦点の一つになりそうだ。

文科省は試算にあたって、14年度から17年度までの都道府県・男女別の大学進学率の傾向や、18歳人口の推移予測などを使用。女子の大学進学率は49.1%から56.3%まで伸び、全体でも52.6%から57.4%に上がると予測している。だが、18歳人口は120万人から88万人と26%も急減するため、進学者も大きく減り、約50万6千人になるとみている。推計は、19年度から始まる専門職大学の数字は含んでいない。

18歳人口の推計によれば、いま120万人ほどいる18歳の人たちが2030年には100万人くらいになり、2040年には80万人くらいまで減る。2040年には40万人も18歳人口が減ることになる。こうした人口の急減がここ20年ほどのうちに起こるわけで、大学(高校も含め)は何らかの対応を検討する必要がある。

特に、地方の私立大学では状況は厳しいだろう。それぞれの大学が置かれた立場が異なれば対応も変わるかもしれないものの、他大学との統合して規模を拡大するのか、入学定員を減らしていくのか、社会人などの学び直しといった入学者の多様化をはかるのか、地域・自治体との連携などを強化するのか、などといった対策を検討する必要があろう。









タテカンとネット検索

朝日新聞(2/21付け)の「天声人語」では大学のタテカンについて取り上げていた。
個人的な話で恐縮だが、大学時代、立て看板をひとりで作ったことがある。音楽サークルの仲間を募ると書いて、ギターを弾く男の絵を添えた。看板の前に椅子を置き、ずっと座っていた。サークルといっても本当は自分だけだった。

何日も待つと、話しかけてくる男がいた。「何人くらいいるんですか」「いや、いまは俺一人なんだけど・・・。誰の歌が好き?」。そんなふうに仲間が増えていった。タテカンのおかげで。

昔のことを思い出したのは、大学の立て看板が消えていくとの記事を目にしたからだ。大学当局の規制が強まり、情報伝達もネット上のSNSが主流になったという話だった。タテカン文化が残る京都大も規制の方針が出ていると知り、訪ねた。

催し物、勉強会、大学への抗議・・・。立て看板を出している人たちに連絡して聞いてみた。なぜタテカンを。SNSじゃだめですか。「SNSもやってるけど興味のある人たちしか見てくれない。タテカンだと普通に歩いてたら目に入る。存在するだけで発信してくれる」「周りの人すべてにメッセージを伝える手段って、意外と少ない気がする。タテカンは貴重です」

ネットで誰もが発信できる時代になった。垣根のない空間ができるかと思いきや、むしろ主張や好みによる分断が起きている気がする。板に大きな字を書くという単純さが懐かしくもなる。押しつけがましく暑苦しい。でも誰かに届けと願う。そんな手作りのメディアが追いやられるのは、いかにも惜しい。

確かに大学校内のタテカンは減っている。学生のメディアとしてSNSが主流になっているからだろうか。いまではネット上に大変多くの情報が存在している。論文などは昔は論文集を読むしかなかったものの、いまではネットでPDF化された論文を読むこともできる。

確かに便利である。
しかし、お目当ての論文を探すには適切なキーワードを入れないと検索されてこない。適切なキーワードを入れるためには、その研究分野について熟知していることが必要だ。その分野の初心者にとってネット検索で適切な論文を探すのは結構大変な作業となる。
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ウェブサイトを見て回ったり、本のページをパラパラめくって拾い読みするという英語は ”BROWSE” という。そこから ”BROWSER” というウェブサイトを表示するソフトを表す言葉にも使われる。しかし、 ”BROWSE” という言葉には、放牧された家畜が若草を食べるという意味もある。

新しい分野を調べたり、知らないことを発見したりするためには、本をめくったり、論文集を拾い読みしたりすることが必要となる。それは、いまの時代からすれば、手間がかかり、効率が悪いということになろう。しかし、そうしたことを通じて、初めて新たな知識を獲得したり、新たな研究テーマを見つけることにつなげることができると思う。

タテカンには、ネット検索では出会えない情報に巡り会える可能性があると思える。







大学の研究・教育の将来像

朝日新聞(12/18付け)に『地域ニーズ沿う、人材育成に力点』という記事があった。
高度な研究活動か、学生の教育の充実か。海外を視野にいれた研究拠点の確立か、地域のニーズにあった人材育成か――。朝日新聞と河合塾が今夏に共同で実施した調査「ひらく 日本の大学」から、日本の大学が今、何を重視してどんな将来を見据えているのかについて、特徴や傾向を紹介する。

「ひらく日本の大学」は今夏、全国の国公私立751大学を対象に行った。88%の664大学から寄せられた回答を元に分析した。まず、大学としてどんなことを重視しているのかについて聞いた。「研究の高度化」「教育の充実」の二つのうち、「最も重視」している方を挙げてもらった。

「教育の充実」を選択したのは568大学。国立が50大学、公立が65大学、私立が453大学あり、全体の92%を占めた。私立大が多数で、私立大全体でみると96%が「教育の充実」を選んでいた。

一方、「研究の高度化」と答えたのは54大学。国立が27大学、公立が10大学、私立が17大学あった。旧帝大や地方の国立大、伝統ある大規模私立大なども、研究の高度化を「最も重視」とした。

教育の充実を「最も重視」とした568大学のうち、地方にある大学は60%で、入学定員3千人未満の大学が97%を占めた。規模の小さい地方の私立大学ほど、教育の充実を重視する傾向にあるようだ。

また、目指す方向性について、「地域・社会のニーズに応える人材育成を担う」「特色ある分野で全国的な教育研究」「海外大学と伍して世界で卓越した教育研究」の三つのうち、最も重視するものを聞いた。

最も多かった回答は「人材育成」で496大学。大学全体の80%を占め、私立大全体のうち82%がこれを選んだ。「全国的な教育研究」を選択したのは78大学、「世界で卓越した教育研究」は49大学。全国的や世界的な教育研究よりも、地域や社会に貢献できる人材育成にシフトしていることがうかがえる。

さらに、大学の現状について細かく分析するため、「大学の機能として何を最も重視するか」、「育成すべき資質・能力として何を最も重視するか」という二つの質問への回答を元に4グループに分類した。

その結果、「職業能力育成重視」が284大学、「教養・人格の形成重視」が222大学、「学術育成重視」が61大学、「世界的研究・教育拠点」が52大学、となった。
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「職業能力育成重視」グループの大学数は最も多く、全体の46%にのぼった。このグループには、入学定員3千人以上の大規模大学はない。また、グループの62%は地方にあり、入学定員300人未満の小規模な大学も46%を占めた。

「教養・人格形成重視」を選んだグループは、学生数が最も多く91万人で、大学数でも全体の36%を占めた。国立大より中規模の私立大や公立大が多く、多数の女子大もこれを選んだ。

「学術育成重視」を選んだグループは、大学数全体の10%。私立に比べると国公立が多く、国立大全体の26%がこれを選んだ。総合大学も含まれているが、畜産や工学、芸術、医療などの単科大もこれを選んだ。

「世界的研究・教育拠点」と回答したグループには、国立の旧帝大や有名私大が含まれた。大学数としては全体の8%だが、入学定員3千人以上の大規模大学が含まれるため、全体の学生数の20%を占めた。このグループの大学の63%が東京や大阪、愛知など大都市圏にあることも特徴だ。

このグループ分けからも、世界的な研究教育拠点としての確立を目指す大学よりも、地域や社会で卒業後に求められる即戦力として活躍できる職業能力を育て、学生の人格形成や必要な教養を身につけさせることに注力する大学が増えていることがわかる。

高校を卒業して大学へ進学する高校生が5割を超えている。こうした状況では、大学の役割も学生の人格形成や必要な教養を身につけさせること、そして職業能力育成を重視するようになるのは、ある意味必然かもしれない。しかし、教養を身につけさせて人格の形成をはかったり、職業能力を育成するためには、これまでの大学のカリキュラムでは不十分なところがないだろうか。他大学のカリキュラムを調べているわけではないので、間違っているかもしれないが。

カリキュラムを教育内容にあわせて変更するとともに、卒業認定も変える必要もあると思われる。これまで大学は入学できれば、ほぼ自動的に卒業できるとも言われてきた。さすがに、今では「ところてん」のようにはいかないかもしれないものの、単位さえ取れば卒業できるというのは、これからの大学の役割にとってはそぐわないように思う。
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さらに、就職・採用活動にあたっては、4年間の学業成績をみてから判断できるようにすることも必要だと思う。今後、若者が減って大学も厳しさを増すが、企業にとっても人材を確保することは重要な課題となってこよう。そうしたときこそ、大学できちんと学び、教養や職業能力などを身につけた学生を採用するような仕組みとなっていってほしい。

明日死ぬかのように生きよ

東大

朝日新聞(12/17付け)の「折々のことば」から。
大学って、早く出たいですけどずっといたい不思議なところですね。
(谷川キヨコ)

哲学を学ぼうと大学院に入学した関西の人気ラジオパーソナリティーは、4年かけて修士論文を書き上げた後、私にこう言った。多くの番組や取材をこなす中、一つの問いを、急いで答えを出そうとせずに温め、ゼミ生とも存分に語りあえた。異なるもう一つの時間をもてた。この先にはさらに深い問いがありそうと、おぼろげに感じつつ大学を去る。でもまた戻ってくればいい。

ガンジーの言葉に「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」、というのがある。学ぶことは大学でなくても、ある意味どこでもできるだろう。ただ、大学では学ぶための環境が整備されている(はず)。大学教育の改革も叫ばれているが、これからますます社会の期待に応える必要があるだろう。

「人生100年時代構想会議」の中間報告案では、超長寿社会を控えて「年齢や既成概念にとらわれない自由なキャリア選択が可能となる社会にしていく必要がある」と指摘している。その一環で「リカレント教育(学び直し)」の整備が重要とされ、多様な教育プログラムの開発が求められている。

大学で学ぶ学生も多様化することで、より深い学びに結びつくのではないだろうか。

学校の未来

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日経新聞(12/7付け)の「プロムナード」欄に森田真生氏が『学校の未来』と題して寄稿している。
最近息子が盛んに「がっこー!?」と言うようになった。保育園にも通っていないし、幼稚園に入る予定も当分ないが、どうやら「学校」という場所に興味を持ち始めているようである。

自分自身のことを振り返ってみると、アメリカのシカゴで過ごした小学生時代は、楽しく充実した毎日だった。通っていたのは現地の公立校だが、生徒の学習の進度に合わせたグループごとの授業があって、固定された時間割はなく、宿題も基本的にほとんどなかった。いま思うと、随分恵まれた環境である。

日本の小学校に編入したのは4年生の夏だ。時間割が決まっていることも、机が同じ向きに並んでいることも、授業が先生の話を一方的に聞くだけということも、すべてがそれまでとは違ったけれど、違和感よりも、むしろ新鮮さの方が勝って、2年半を楽しく過ごすことができた。

ただ、アメリカの小学校では自分の意見を持って、それをはっきりと主張することが「かっこいい」と思われていたのに対し、日本でそれをすると「うざい」と言われることには戸惑った。自分の意見を堂々と述べるより、周囲と同調する方がよしとされる空気は、授業中も、「先生の言うことをただ素直に受け入れる」文化として浸透していた

一つだけ強烈に覚えていることがある。理科の実験の授業のとき、本来ならば芽が出るはずのない条件下で育てた種から、なぜか芽が出たことがあった。このとき、観察した通りの事実をレポートに書いたら、先生にバツをつけられたのである。実験にマルもバツもないだろうと、このときばかりは頭に来た。

アメリカで通っていた小学校では、生徒はいつでも率直に先生に意見を述べることができた。ところが、帰国後に通い始めた地元の小学校では、先生が一方的に「正解」を握り、先生と生徒の対等なやり取りが生まれる機会は稀だった

とはいえ、この学校の友人たちとはいまでも付き合いがあり、みなそれぞれの分野で活躍している。小学校時代の経験が、そうした活動の糧になっていることは間違いない。

「よい教育」とは何かについて考えるのが難しいのは、知性というのが本質的に文脈に依存したものだからだ。「何にでも役に立つ知性」などあり得ない。人間の知性は、アリの6本脚を操るのには少しも使えない。だから、人間の脳を何らかの方法でアリに接続したところで、「賢いアリ」になるわけではない。

知性は身体や、それを囲む社会や文化という文脈の中ではじめて生きる。個人としての知識を蓄えるだけなら、いまより効率のいい方法はいくらでもある。だが、せっかく身につけた知も、それが周囲の文脈に着地しなければ、そもそも生かす方法がない。

学校は、知を身につけるだけでなく、知を生かす文脈を学ぶ共同体である。だから、生活の文脈が異なる場所で成功した方法を単純に輸入すればいいという話でもない。

学校の未来について考えることは、家族や地域、社会の未来を考えることだ。「がっこー!?」という息子の声に、「どんな学校をつくっていこうか!」と逆に問いかけてみた。彼は、何か企むようないたずらっぽい顔で笑ったように見えた。未来を彼らとつくっていくのが、私は楽しみなのである。

「学校は、知を身につけるだけでなく、知を生かす文脈を学ぶ共同体」という点は、大学にもっともふさわしいのではないだろうか。最近、大学生たちの話を聞いていると、
  「明日、学校にくる?」
というように大学を「学校」と呼んでいる学生たちが多いと感じる。確かに、大学も学校の一種ではあるかもしれないが、大学も中学や高校と同じだと考えているのだろうか。とりあえず「学校」に来ていれば、卒業はできるだろうと?

大学、特に理系では実験や実習があり、そこで得られた結果に基づいてレポートをつくることになる。得られた実験結果をきちんと整理して説明することも求められるが、それに加えて分析や考察が必要となる。実験結果から何をどのように読み取るのかが問われており、そこに「正解」はない。

「正解」を教員と学生が求めていくことが大学での研究につながっていくし、そうした探究心をもった学生を育てていくことが大学の役割の一つといえる。それにしても未来の大学、そして学び方はどうなっていくのだろうか。

良い人材育てるには

日経新聞(11/13付けの夕刊)の「就活のリアル」欄に『良い人材育てるには』という記事があった。
仕事で成果を出す力=コンピテンシーとは、経験や知識、技能などに加えて、本人のもともとの性格や基礎能力など、様々な要素が絡まりあってできている。それだけ複雑なものだから、何かが足りない人でもその分、自分の持ち味を加えて、コンピテンシーを整えることができる。

会社は「できない」人に烙印(らくいん)を押す仕組みであってはならない。人それぞれに持ち味があるから、それらの要素をうまく組み合わせて、仕事がうまくいくようにコンピテンシーを育む仕組みであるべきだと考える。

たとえば、気弱なA君とずぶといB君が営業に配属されたとしよう。

B君は新人に任されがちな飛び込み営業など平気の平左。常に良い成績を挙げ、入社1年目を過ごす。一方、A君は気弱さのためうまく営業ができず、毎日が針のむしろ。ともすれば鬱になりがちな精神状態で1年目を過ごす。

この双方に対し、会社はしっかり指導・支援をしないと、両者とも立派な営業マンには育たない。

まずB君は、度胸だけの営業が身につき、年次が上がって、複雑な企画や提案が必要になると、全く業績が上がらなくなってしまう。一方、A君は新人時代に精神面を同僚や上司がケアしながら、彼の繊細さが顧客のかゆいところに手が届くということを教え、年次が上がったときに備えて、企画提案力を磨くようサジェスチョンしていくべきだ。

こんな周囲のフォローがあれば、そのうち彼は、持ち味の繊細さで顧客に痛しかゆしの提案ができるハイパフォーマーになるだろう。そうして、たくさんの成功を収めた暁には、ひとかたならぬ自信を持ち、気の弱さや口下手さえも、すっかり吹き飛んでいるはずだ。

つまり、できそうな人を採っても、育て方を間違えればうまくいかないし、その逆もある。だから、学生時代の出来不出来だけで「コンピテンシー採用」を行うことを私は勧めない。学生それぞれの持ち味を見て、自社でうまく育成できる環境にあるかどうか、照らし合わせた結果、育てられそうな人を採る。

即戦力でなくとも、それが長期的にはお互いの「ウィンウィン」となるだろう。要は、採用が企業の将来を決めるなどとは思わないことだ。人事格言は言ったものだ。良い人は採るのではない、育てるのだ、と。

近年、各業界での活用が広がりをみせているAI(人口知能)を、採用業務にも活用するという動きが活発になっているらしい。これまで蓄積された採用データをAIが学習し、企業が求める人材の傾向を分析、求めている人材を選び出すことができるようになると期待されている。
AI採用
HR Technology
従来は、履歴書だけを見ても、企業にマッチする判断ができないため、採用担当者の感覚や経験に基づいた選定方法が主流だったが、AIが精度の高い選定をおこなってくれることになるという。つまり、AIシステムを導入することで、採用担当者の感情を挟まずに評価することができるようになる、そうだ。

将来的にAIの採用システムの精度が向上すれば、一次面接までAIが担うことも近い未来に現実になるかもしれない。

すごい時代になってきた。
しかし、AIでの採用選考ができるようになるということは、大学入試にも使える可能性はある。受験生から提出された書類をAIが評価したり、さらには面接もAIに任せる、ということも可能になるかもしれない。

一方で、優秀な学生が入学したとしても、その学生をきちんと育てていくことが大学には求められる。高校まで優秀であっても大学での学びや環境に対応できないという学生も少なからずいる。大学に入学した学生を「育てる」ということを大学の役割として再認識することも必要だろう。大学進学がユニバーサル化した今こそ重要な課題となっている。

大学無償化は選択と集中で

日経新聞(10/17付け)の「大機小機」欄に『大学無償化は選択と集中で』という記事があった。
衆議院選挙を控えて大学教育費の無償化論が唱えられているが、その根拠は明確ではない。大学卒の平均賃金は高校卒よりも安定して高いが、それは本当に両者の労働の質の差を反映したものだろうか。

大学教育の社会的有用性を疑問視する選別理論がある。企業が大卒者を好むのは、大学教育の価値ではなく、企業内訓練を習得する潜在的な能力のシグナルとして用いるためという。これは海外と比べて、博士や修士課程の比率の低さにも反映されている。こうした大企業に選抜されるための大学進学は、学生個人にとって利益があっても、社会的な価値は小さい

もっとも大学無償化は低所得層の負担を軽減し、教育機会を均等化させる効果はあるという。しかし、低所得層にとって、大学教育の費用は、高卒で働いた場合の収入を失うため「タダでも高すぎる」。従って、真の教育機会均等化には、在学中の生活費も含めた奨学金が必要とされる。

他方で、その場合には就業後の返済負担も大きくなる。現在、四年制大学生の半分以上が奨学金を受給しているが、賃金水準が長期低迷する下で、学費だけの返済でも困難な者が増えている。

こうした状況下で、中高所得層も対象とした大学授業料を、すべて国債で賄うという選挙公約は、財政の厳しい状況を考えれば、無責任極まりない。まずは、学力と所得水準を基準とした給付型奨学金の充実を優先すべきであろう。

供給面では、大学の質を考慮しない大学無償化にも問題が多い。大学無償化を人気の高い東京23区の私立大学定員の抑制策と結び付ければ、結果的に定員割れ大学の救済策となるだけである。少子化が進むなかで大学が多すぎるという批判には、参入制限ではなく、逆に質の低い大学の退出促進で対応すべきだ。

これまでの画一的な基準での大学評価ではなく、教員の研究主体の大学と、学生の付加価値を向上させる教育主体の大学の、いずれに重点を置くかを明確にすべきだ。また、グローバル人材育成のため、レベルの高い外国大学の誘致や、学生の海外留学への公的な支援にも重点を置く必要がある。大学教育への支援には、現行制度のままでの無償化ではなく、選択と集中が重要である。

ビジネスインサイダー”It costs more to go to college in America than anywhere else in the world”という記事のなかで、アメリカの大学の授業料が突出して高いと説明している。左側の図が公立大学の平均授業料で、右側が私立大学となっている。
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日本の大学の授業料も高いことがわかる。大学教育の役割や価値を日本社会としてどう考えるのかによって、授業料の負担や奨学金のあり方も変わってくるだろう。

本学でも給付型奨学金として「七隈の杜」奨学金を設けている。しかし、これは1年次だけの適用であり、給付額も授業料相当額とはなっていない。財源が確保できれば、給付型奨学金を4年間継続して支給できるのだが、いまは難しい。

大学の授業料の無償化の前に、給付型奨学金を充実できる支援をお願いしたいところだ。

「必修7科目」に打ち込んで

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日経新聞(夕刊)に「就活のリアル」という連載がある。執筆者はハナマルキャリア総合研究所の上田昌美さん(ブログ)で、10/2付けの記事は『低学年から始める準備 「必修7科目」に打ち込んで』というもの。
「大学生になったら、就活の準備でやった方がよいことはありますか?」
1年生の親御さんにこんなことを聞かれた。あります!

実は大学生にも、就活のための必修科目のようなものがあると私は考えている。まるで高校時代までの「5教科・部活動・委員会活動」のように。これは勉学だけでなくその他の活動も含めたものだ。

詳しく言うと「学業(ゼミ)、部活(サークル)、アルバイト、留学、趣味、ボランティア、インターンシップ」が挙げられる。

なぜこれらの項目かというと、企業に志願書として送る履歴書に似た「エントリーシート」でよく聞かれる質問だからだ。

エントリーシートは各社違うが、おおよそ聞かれることはその7つに集約される。エントリーシートや履歴書には空欄がない方がいい。なぜなら、空欄が多いと志望意欲が高いとは思われないからだ。大学生活のこれらの活動を枠内にぎっしり書いて、盛りだくさんに詰め込みたい。

3年生の終わりになって、いよいよ就活というときに「書くことがない」と嘆くことのないようにしてほしい。そのためには、低学年のうちに自分の大学指定の履歴書があれば、それを見てみるとよい。毎年そう変わらないので、そこにある項目は大学生活のガイドラインのようなものといえるだろう。

「資格は必要ないのか」という疑問を持つかもしれない。「資格」は取ってもいいが、まずは大学4年間で「○○学士」という資格を取る勉強をしていることを忘れずに。短大、専門学校も同様で卒業した時にもらえる資格というのが一番大事だ。極端な話、それ以外は特に資格は必要ないともいえる。

ただし、自動車の運転免許があった方がいい職業や、専門のために取った方がいい資格がある場合は別である。また英語力を表すTOEICについては書かされるケースもあるので、スコアを上げていくようにしたい。

もちろん、大学生活が就活のエントリーシートを埋めるためにあるのではない。その活動の中から、自分の働く価値観に気づいたり、やりたいことが見つかったりすれば一番よいと思う。

一つ言えることがある。企業の人事担当者は、大学生活という「ゆとりある時代」を十分に充実した自己成長の日々として活動してきた人を好む。その人の人となりを見るときに、中学・高校時代よりも直近の大学時代の方に目を向けるのは当然のことだ。

新入生に大学入学の目的や将来のことを聞くと、「できるだけ良い企業に就職するためです」、「一級建築士になるためです」といった回答が多い。確かに、大学を卒業して、やりたいことができる企業に就職できれば幸せだろう。そのためには、ここで示された「7科目」をバランス良く修得することがテクニックとしては必要なのかもしれない。

では、大学は就職や資格取得のためにあるのか。大学の役割として、そういう面もあるだろうが、それだけではないはずだ。ここに大学の役割と学生(入学者)とのギャップがあるように思う。一方で、採用する側としては学生の「自己成長力」や「潜在能力」「態度や資質」などを評価する傾向が強い。ここでは学業(成績)というのは、あまり重要視されていない。これは企業の評価項目と学業があまり相関がないと思われているのか、あるいは大学の成績評価が信頼されていない?

大学と企業との間にもギャップがあるようだ。入学者やその保護者は就職に関して関心が高いため、大学は学生の就職支援に力を注ぎ就職率の高さを誇示するようになる。しかし、それをやり過ぎると、大学が「就職予備校」となってしまいかねない(保護者の評価は高くなる?)。

大学教育がユニバーサル型となった今、大学と学生と企業のギャップを埋めていく作業が必要に思う。

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「アイソレータ・マン」。頭部は積層ゴムで、胸にはダンパーのマークでエネルギー充填
『耐震・制震・免震が一番わかる』
共著ですが、このような本を技術評論社から出しました。数式などを使わずに耐震構造、制震構造、免震構造のことを、できるだけわかりやすく解説しています。
『免震構造−部材の基本から設計・施工まで−』
免震構造協会の委員会活動の成果として、このような本をオーム社から出しました。免震構造の基本をしっかり学べるような内容となっています。
『4秒免震への道−免震構造設計マニュアル−』
いまでは少し内容が古いかもしれませんが、免震構造の基本的な考えを述べています。初版は1997年に理工図書から出ていて、2007年に改訂版を出しました。
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