Unsplashのnote thanunが撮影した写真
日経新聞(6/23付け夕刊)の「プロムナード」欄に文筆家の寺尾紗穂氏が『愛から遠くはなれて』と題して寄稿している。
ネットニュースに、養老孟司さんの文章を見つけた。「いまの子どもは、早く大人になれと言われています。都市は大人がつくる世界です。都市の中にさっさと入れ(と)」
私は以前から、子供たちが通っていた区部の小学校で行われていた「ノーチャイム運動」を気持ち悪く感じていた。休み時間も校庭から5分前に引きあげ、休み時間の終わりには教室の席に座っているように、という指導である。このためにチャイムをあえて鳴らさないという運動だった。これを話したとき、知り合いが言った「そんなサラリーマンみたいな子供たくさん作ってどうすんだ?」という返答は実に的確だった。
しかし、大人として社会生活にいち早く適合できる人間「小さな大人」を作るための教育が、教師にも親にも都合がいいのだろう。私は当時PTA役員もやっていたが、ノーチャイムについて違和感を言う人に全く出会わなかった。公園にも禁止の文句が掲示され、ボールが人家の庭に入ったら迷惑、窓ガラスが割れたら大変、遊び声も苦痛とされる。一部の人はおかしいと感じている。でも世のスタンダードはおかしな方に流れている。さっさと大人になってくれれば、迷惑が何も起こらない。なんともさみしい考えではないか。
養老さんが同時に、都会の中で木が「ない」ものになっている、と指摘していることも印象に残った。都会にあるのは土地で、売買の次元では木は「ない」ものとされる。土地の価値に比して、木はゼロ以下の価値しかない。あってもなくてもよく、むしろ邪魔である。木も子供状態も「なくていい」という暗黙のメッセージが、社会のあちこちで生み出されている。あたかも大人であることと、大人が作りだす社会が唯一最善であるかのように。
(以下省略)
僕が小学生の頃、学校から帰る途中には田んぼや小川があり、格好の遊び場だった。家に帰ってからも、友だちと山の中を駆け回り、チャンバラごっこなどをしていた。すべて子ども達で遊び方を考え、チャンバラなども竹を切って自作していた。大人達からは、悪いことをすると親でなくても怒鳴られたので、どこまでが迷惑になるかを自然と学んでいたと思う。
そんなことができたのも田舎に住んでいたからかもしれないが。
いま都会に住んでいる子ども達は、大人達がつくった安全とされる環境で遊んでいる。子ども達じゃない誰からつくった囲い(環境)の中で遊んでいる。さらに、スマホを持っている小学生もいる。他人と係わらなくても自分のなかで閉じていることもできる(ネット上ではつながっている)。
子どもが子どもらしく遊んで生活できる環境を整えるのは大人の役割だろう。
でも、これって都会では難しいのかな・・・
記事の最後はこう締めくくられている。
「自分たちが、他者を愛することからあまりに長いこと、遠く離れていたということを。」
ところで、記事のタイトルは中島みゆきの歌「愛から遠く離れて」と同じですね。