数学

未来の種

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<出典:http://www.yukawanet.com/archives/5199097.html
日経新聞(9/28付けの夕刊)の「プロムナード」欄に森田真生氏が『未来の種』と題して寄稿されている。 
オックスフォード大学ボドリアン図書館の科学者チームが行った放射性炭素年代測定により、インド最古の数学書と言われる『バクシャーリー写本』の製作時期が3〜4世紀にまで遡ることが特定された。この写本には数字「0」の最古の使用例があり、これで「0」の起源が、いままで信じられていたより実際には約500年も古いことが明らかになったことにる。

数の「不在」にあえて記号を割り当てたのはインド人の独創である。有限個の記号であらゆる数を表せるのも、筆算によって大きな数の計算ができるのも、すべては「0」があるからこそだ。いまや「0」のない世界を想像することは難しい。

ヨーロッパに出かけると、意外なところで「0」を見かける。エレベータの階数表示のボタンだ。今年出かけたフランスでもイギリスでも、地上階は0階の扱いだった(※地上階が"G"と表示され、2階が"1"などと記されていたりする)。最初こそ戸惑うけれど、考えてみれば、日本のように、1階の下が地下1階という方が不合理なのだ。数学的にはもちろん、「1」と「マイナス1」の間に「0」がある。

0を中心として正の数と負の数が、互いに逆方向に整然と並ぶ「数直線」の描像が、ヨーロッパで確立されたのはようやく17世紀に入ってからのことだ。イギリスの数学者ジョン・ウォリスが記した『代数学』の中にその最初期の描写が見られる。彼は、「ある地点から5ヤード右に歩いたあと、8ヤード左に戻ると、最初の地点に較べて3ヤード左の場所に辿り着く」ということを懇切丁寧に説明しながら、「5―8=―3」という式の意味を解説している。なぜこんなに当たり前なことを懸命に説明するのか、いまとなっては理解に苦しむところもあるが、17世紀のヨーロッパの数学者たちは、数は個数や長さや面積などの「量」を表すという考えにとらわれていたのだ。そのため、「負の数」が出てくる計算にまっとうな意味を見いだすことができなかった。

同じ時代のフランスでは、数学者のパスカルが自著『パンセ』の中で「ゼロから四を引いてゼロが残ることを理解できない人たちがいる」と書いている。彼にとって「5―8=―3」などは不合理な式でしかなかったのだ。実際、5個のリンゴから8個のリンゴを取り除いたとき、3個の「負のリンゴ」が生じるなどと考える人はいないはずである。

「数直線」の見方が広く普及するようになってようやく、ヨーロッパの数学者たちは負の数の存在を受け入れるようになっていった。ヨーロッパでは律義にエレベータが0階からスタートするのも、数直線に辿り着く苦労を深く味わってきた文明だからこそだろうか。

ウォリスやパスカルの時代に比べて、現代の数学はさらに抽象的で難しくなった。計算をしながら意味を見失うこともしばしばである。しかし、300年前の数学者には無意味であった式が、いまでは小学生にも十分理解できるのだ。思わぬ着想や発見によって、現代数学の見晴らしが一挙に開ける日も来るかもしれない。

300年後の子どもたちはどんな数学を学ぶだろうか。「数」や「空間」の概念について、いまの私たちとどのように違う常識を持っているだろうか。数学の中に宿された未来の種を大切に育んでいきたいと思う。

300年後か・・・
どんな社会になっているのだろうか、そして科学や技術はどこまで進歩しているのだろうか。そうした世界を自分は見ることはできないが、空想やSFの世界でしかなかったコトが現実になっているのかもしれない。

そうした発展のためには、思わぬ着想や新しい発見が必要となる。「0」という概念が浸透するまでずいぶん長い時間がかかった。それと同じように、今は理解できない、役に立たないと思われる研究が将来大きな変革をもたらすこともある。

研究者が自由な発想で研究できる環境を整える、さらに子供たちや若者の発想を育める学校教育になっていくことが求められよう。

アリになった数学者

日経新聞(8/24付けの夕刊紙)の「プロムナード」欄に森田真生氏が『アリになった数学者』と題して寄稿されています。
息子が「ママ」と「パパ」を使い分けられるようになった。
(略)
最近は「ママは?」と聞くと母の方を指し、「パパは?」と聞くと私を指さす。「じゃあ、ジョーは?」と聞くと、部屋に置いてある自分の写真の方に駆け寄り、それを得意げに指し示す。まだ、自分自身のからだを指すという発想はないようである。

彼にとって「自分」はきっと、世界と一緒くたなのだろう。自分が嬉しいときは世界も丸ごと嬉しくなるし、自分が心細いときは世界の隅々が心細くなる。幼子の心は周囲のすべてに浸透していて、他から切り離された自己の意識は芽生えていない。彼はまだ自分が「一人」だという自覚を持たないのである。だから、家族揃ってもそれを「三人」と数えることができない。

「自分」すら、世界のなかの対象としてフラットに認識できるようになったとき、人は初めて冷静に、世界の対象を平面に並べて、互いに比べたり、測ったり、数えたりすることができるようになる。
(略)
今月、『アリになった数学者』(「たくさんのふしぎ」9月号)という絵本を福音館書店から刊行した。「『1』とは何か」を主題にした絵本を作ろうという企画が動き始めたのはちょうど今から3年前だ。これは大変な仕事になるぞと覚悟すると同時に、「1」が無機的な記号ではなく、人間に深く根ざした実感であることを絵の力を借りて表現できたら、どんなに素敵なことだろうかとも思った。

「数える」というふるまいが、いかに人間の生命に深く根ざしているか。そのことに気づくためには、一度人間でなくなってみる必要がある。たとえば、折って数える指もなく、視覚よりも化学物質の分布を頼りに生きるアリたちにとっては、数とはどんなものだろうか。そんな疑問から「アリになった数学者」というモチーフが生まれた。
(略)
数とは何かを突き詰めていくと、数がわかる人間とは何かという問いにぶつかる。この問いを、絵本を通して一人でも多くの人と分かち合えたら嬉しい。

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アリたちは「数」という概念があるのでしょうか? 
それはこの絵本を読んでもらいたいですが、きっと人間がわからない方法をもっているのかもしれませんね。

この本の中からちょっとだけ引用させてもらいます。
アリになるまえ、僕は数学者だった。
「算数」は数や図形を便利に使う方法を教えてくれるが、
「数学」は数や図形をつかうだけではない。
「数や図形がそもそもどのようなものか」を考えるのだ。
「数」や「図形」は、からだや星とちがって
この宇宙のどこを探してもない。
数学者は、存在しないものについて研究しているのだ。

数学者は、家族や友だちや、好きな人を思うのと同じくらい、
真剣に数や図形のことをかんがえているのだ。
そうやってじっと関心をあつめていると、
数や図形の心がすこしずつわかるようになってくる。

数学をわかることも、これに似ている。
ただうまく計算したり、
知識を増やしたりするだけじゃない。
数や図形の声に耳をかたむけ、心をかよわせあうこと。
それが、数学者のいちばん大切な仕事なのだ。

絵本というには、少々文字が多いかな、と感じますが、こうした絵本を読んで、数学のことを理解する人が増えるといいかな、と思います。学校教育で「数学」がきらいになる生徒や学生がいますが、入試のための「数学」ではなく、その楽しさなどもわかってもらうといいかな、と思いました。

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講義中・・・
著書など
『耐震・制震・免震が一番わかる』
共著ですが、このような本を技術評論社から出しました。数式などを使わずに耐震構造、制震構造、免震構造のことを、できるだけわかりやすく解説しています。
『免震構造−部材の基本から設計・施工まで−』
免震構造協会の委員会活動の成果として、このような本をオーム社から出しました。免震構造の基本をしっかり学べるような内容となっています。
『4秒免震への道−免震構造設計マニュアル−』
いまでは少し内容が古いかもしれませんが、免震構造の基本的な考えを述べています。初版は1997年に理工図書から出ていて、2007年に改訂版を出しました。
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