Анастасия ГеппによるPixabayからの画像
週刊東洋経済誌(7/27号)の「経済を見る眼」欄に英オックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏が『新大学入試で浮上した「採点問題」』と題して寄稿している。
2021年1月から始まる新しい大学入学共通テストをめぐって、紛糾する事態が生じた。NHKによれば、記述式問題の採点者に、学生アルバイトを含めることを文部科学省が認めたという。機械採点のできない記述式に1万人の採点要員が必要だからだ。
これに対して、入試の公平さが保証されるのかという批判が相次いだ。採点者が誰であれ、採点にズレが生じることは避けられないが、その採点者に学生アルバイトが含まれるという突っ込みやすい問題が加わったのである。
文科省に実施を見合わせるそぶりは見えない。今回の改革には「高等学校に対し、『主体的・対話的で深い学び』に向けた授業改善を促していく大きなメッセージになる」(文科省)という意図が込められているからだ。「思考力・判断力・表現力」を記述式で評価することで、知識の詰め込みに終わらない能力の育成が期待される。
だが、昨年実施された試行テストの国語の問題例を見ると、その期待に応える問題作成がいかに困難かがわかる。問題の狙いの「解説」には、読んだテキストを踏まえて「発展的に自分の考えを形成する」力を測るとある。だが、ここでいう「自分の考え」とは、読んだテキストの的確な言い換えにすぎない。
したがって、そこで求められる思考力も正答主義の域を出ない。自分の個性や主体性を発揮した答えが求められるわけではないのだ。表現の的確さが基準だとすれば、そこで生じる採点者間のズレは、なるほど公平性への信頼を揺るがすことになる。
ところで、私の勤めるオックスフォード大学では、成績評価における最終試験の比重が大きい。論文試験と呼んでいいほどの長文の記述式だ。学生は3時間かけて3問の問題に1問当たりA4で4〜5枚分の解答を書く。全部で12〜15枚の答案になる長大な論文試験だ。しかも問題自体が抽象的で、知識の再現ではなく、学期中に大量に読んだ文献から学んださまざまな知識を自分なりに組み合わせながら解答する。知識を主体的・批判的に再構成する能力が求められるのだ。独創性も評価される。
採点には相当の時間を費やすが、科目を教える教員にもう一人がついて2人で行う。2人の採点を基に、合意された得点が最終結果となる。採点は厳格に行われるが極めて主観的だ。主観的だが、2人の結果を合わせると、ほぼ一定の幅に収まる。それでも10点以上の差が出た場合には、大学外の試験委員が裁定する。その判断も主観的だ。しかも最終試験の結果は、大学院進学や就職などその後の進路に重大な影響を及ぼす。
学生が自分の個性を発揮して主体的に書いた答案を、教員が主観的に採点する。この方法が公平性を疑われずに続いてきたのは、採点者への信頼が根本にあるからだ。独創性のある答案を評価できる読み手の能力への信頼である。
批判的思考力を育て評価するには、コストがかかる。コストに見合う信頼が公平さの基盤だ。時間もコストもかけなければ、主観的評価への信頼が生まれるはずもない。拙速といわれる所以である。
50万人以上の受験生が受ける試験で、「思考力・判断力・表現力」を記述式問題で問うことには無理があるのではないか。英語の4技能の評価では民間試験を活用することになっているが、高校側からも不安視する声があがっている。
ところで、本学では定期試験の真っ最中だ。試験時間は1時間。オックスフォード大学の試験に比べれば解答時間も短く、解答する量も少ない。そもそも、欧米の大学に比べて、日本の大学の授業科目数は多すぎる。これでは、予習・復習する時間も課題にかける時間も十分とれない。
本来、大学入試改革は入試だけでなく、高校教育と大学教育の改革も含まれていた。今回の入試改革ではたしてどこまで高校や大学の教育が変わるだろうか。