Cahier No機 mars1973−janvier1998]

ふと足をとめたのは懐かしい歌が聞こえたような気がしたからだ。あの頃の歌だ。




カーリング




意識とは、具体的な、しかも外面性の中に囚われているところの知識としての精神である。しかし、この対象の進展運動は、あらゆる自然的、並びに精神的使命の展開と同様に、全く純粋本質性の本性に基くものである。ところで、この純粋本質性こそ論理学の内容をなすものである。現象する精神としての意識はその展開の道程において、その直接性と外的な具体的形態から解放され、これらの純粋本質性そのものをその即且向自的の相においてそれ自身を対象とするところの純粋知識となる。これらの純粋本質性は純粋思想であり、自分の本質を思惟するところの精神である。その純粋本質性の自己運動こそ、それの精神的生命であって、これが即ち論理学を構成するものなのである。つまり論理学とは、この精神的生命の叙述にほかならない。

 

 

 

なんて不可解なんて難解・・・そして何と魅力的な

 

哲学書を参考書片手に読むことは苦しい

哲学書を解説書片手に読むことはむなしい

 

哲学書は自分の感性で自分勝手に読むものなのだ

ヘーゲルは思想家哲学者なのではなく作家なのだ。

 

 

飽きてしまっているという方が正しい。ネットとつきあうのは少々つかれるのだ。いつまでたっても微熱がひかない。胸のゼイゼイといやな咳が追いかけてくる。身体に酸素がはいらない。締め切りだけはやってくる。世の中の祝日・土日とは無縁の生活パターンで暮らし始めてから何年にナルだろう。
桜はまだ咲かない。 

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歌を忘れて20年になる。カナリアなんてかわいいのもではないけれど。それにはそれなりの理由がある。あの日は京都の地下鉄東西線が初めて走った日で、その日、その地下鉄に僕らは乗った。長いはなしだ。昔のはなしだ。今日、気温は低かった。桜島は右肩にまだ雪を残していた。


 

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中央公園の前で雪を捕まえた。昨日の午後だ。子供たちは喜んで駆け回っていた。犬は、最近の犬は寒いから家の中に引きこもってしまっているのかも知れない。いっぴきも出会わなかった。
映画64を観た。前編・後編を一気に観た。近頃の若い俳優はなかなかだ。小田和正の音楽も何の邪魔にもならず字幕とともに流れていた。自分的には堪能した。
 

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気の置けない男たちだ。楽しい酒だった。天ぷら屋さんでちゃんこ鍋を食べて、飲んだ。他の客はみな天ぷらを食べていて、僕らだけが特別にちゃんこだったのだった。そのことに僕が気づいたのはもうずいぶんたってからのことだった。理由もちゃんと教えてもらったけれど・・・まあどうでもいいことではある。彼らはそこにいるだけで楽しい。
できる人間、優秀な人間は楽しい。彼らは大変優秀なのだ。

 

橋本マナミの絵も目にした。すこし変わったなと思った。いつまでも若いなと思った。それにしても若いなと思い始めた。最近の技術はスゴイのだろうなと思った。自分の目が衰えているのだろうと思った。まるで別の人のようだと思った。当然だ。別の人間だったのだから。僕の思い描いていた人物は「本上まなみ」だったのだ。彼女は好きだ。彼女の顔は好きだ。

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