2020年04月12日

イースターメッセージ

2020419日 「死に勝つ命」

(ローマの信徒ヘの手紙8:9〜11)

 

(序論) 暗闇の中の光

 

 私は神戸長田教会の代理牧師も引き受けておりまして、毎月第2週は神戸長田教会での説教奉仕と小会議長としての働きをするために神戸に行くことになっていますけれども、先週政府から「緊急事態宣言」が出されましたし、それを受けて養父市も「非常事態宣言」を出して、都市部への行き来を自粛するようにと呼び掛けていますので、本日の神戸長田での奉仕は中止いたしました。国方先生のご奉仕もしばらくはお休みいただくことになります。また419日に予定されていました、私の就職式も524日に延期となりました。大変厳しい状況が続いています。先週も、私が着任後最初の礼拝で「私たちは既に新しい一人の人なのです!」と言うお話を、別々にしなければなりませんでした。心を合わせて一つになりたいのですが、しばらくの間はこの別々の礼拝が続きます。SF映画でしか見たことがないような事態が、次第に目の前の現実として迫ってくる。そういう試練の中で、私達の但馬みくに伝道所は新しい船出を始めました。漕ぎ出す前からいきなり嵐に遭遇したような、それでも漕ぎ出して行かなければならないというような状況です。けれども、こういう試練の中でこそ、私たちはきっと共に「真のキリストの教会らしさ」を現わし輝かせて行くことが出来るに違いないと、私は信じています。何故なら私たちの信仰は、「鰯の頭も信心から」と言うような、単なる「心の支え」程度のものではなくて、実際にこの天地を造られた創造主なる神様を信じる信仰なのであり、実際にこの歴史の只中に来て下さって、私たちのために十字架の上で死んで蘇ってくださった、主イエス・キリストを信じて従う信仰だからです。闇が深ければ深いほど、本当の光を持っている人はその中で輝くことが出来ます。たとえその光がろうそくの光のように小さくても、暗闇の中で確かに輝いて、周りの人々を照らし、温めることが出来るのです。私たちはそういう本当の光に照らされながら、またそのともし火を心の中に灯しながら、共に歩み始めているのです。本日はこのことを覚えつつ、厳しい現実の中にあってもなお喜んで、共に主の復活を祝うイースターの礼拝を捧げたいと願っています。

 

(本論1) 心に宿って下さる聖霊

 

さて、本日はこのローマの信徒ヘの手紙の御言葉から共に教えられたいと思います。このローマの信徒への手紙は使徒パウロが、イエス・キリストの救いの恵みがいかに素晴らしいものであるかということを順序建てて体系的に教えてくれている手紙でありまして、特に3章21節以降では、イエス・キリストを信じて神様から義と認められた者たちはどのように造り変えられるのか、ということが教えられています。そういう流れの中で今日の御言葉を含む8章は、その教えの頂点と申しますか、福音の恵みが最も鮮やかに輝きを放っている箇所と言っても過言ではないと思います。そしてそういうロマ書8章のキーワードは「霊」という言葉です。聖霊なる神様のことです。この8章では「霊」という言葉が繰り返し出てまいります。福音の恵みが最も鮮やかに輝くときに、そこに働いておられるのは聖霊なる神様なのです。聖霊なる神様は、時と場所を超えて私たちを十字架のイエス・キリストと結び付けて下さるお方です。私たちにイエス様を信じる信仰を与えてくださって、悔い改めの心を与えてくださって、十字架のイエス・キリストと結びつけ、すべての罪を赦していただけるようにして下さる。そして肉の思いではなく霊の思いに従って生きる者、神様を愛し、隣人を愛することができる者へと少しずつ造り変えて下さるお方。それが聖霊なる神様です。本日の個所の始めである9節にはこう書かれています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」。こうあります。神の霊、すなわち聖霊なる神様が心の内に「宿っているかぎり」、あなたがたは生まれながらの古い性質である「肉」ではなくて「霊の支配下」にいるのだと、パウロは教えているのです。こういう御言葉を読みますと、もしかすると私たちはふと、不安になってしまうのかもしれません。「わたしの心には、本当に神の霊が宿っているのだろうか。」という不安です。例えば牧師がこの箇所からこういう語りかけをしたら、どうでしょうか。「あなたがたは肉ではなく霊の支配下にいます。ただし、神の霊が本当にあなたがたの内に宿ってるかぎり、ですけども。」と、そんなふうに言われたら、誰もが不安になってしまうと思います。さらに、「あなた方の実際の生活を正直に振り返ってみましょう。神の霊が宿っている者にふさわしい生活だったでしょうか!?」などと言われますと、ますます不安になってしまいます。でも、この箇所が教えていることはそういうことではありません。「神の霊があなたがたのうちに宿っている限り」という言葉は「宿っているのですから」というニュアンスの言葉です。10節の「キリストがあなたがたの内におられるならば」という言葉も同じです。「おられるのですから」というニュアンスの表現なのです。しかも、パウロはこの手紙の宛先であるローマの教会の人々とまだ会ったことがないのです。彼らがどれほど信仰熱心で清い生活をしているかいないか、そういうことをパウロは知らないのです。そういうローマ教会の人々に向かって「神の霊があなたがたに宿っているのですから」「キリストがあなたがたの内におられるのですから」とパウロは書きました。なぜそう言えるのでしょうか。それは、聖霊の働きを信じていたからです。聖霊なる神様は人の心に信仰と悔い改めの思いを与えてくださって、十字架のイエス様と結びつけてくださいまして、キリストの体なる教会につながるものとしてくださいます。従いまして、そのイエス・キリストに罪の赦しを請い願い、罪赦された喜びを持って礼拝を捧げている、つまりキリストの教会につながっている人には皆「神の霊が宿っている」と、パウロは確信していたのです。このことを私たちも覚えたいと思います。私たちは先週1週間の歩みを振り返りましても、様々な罪を犯してしまったと思います。それは事実です。けれどもまた、そこで私たちは罪の赦しを求めてイエス・キリストの名によって神様に祈ったのではないでしょうか。「どうぞ罪深い私をお赦しください」と祈ったに違いないと思います。またこの礼拝の場で「一週間の歩みの中で、様々に犯してしまいました罪を、どうぞお赦しください。」と司式者が祈るときに、「私には関係ない。私はちゃんとしてたもん」などと思わないと思います。司式者の祈りに心を合わせて、十字架のイエス・キリストにすがりながら、「アーメン」と唱えたに違いありません。もしもそういう思いが全くなかったとしたら、残念ながらその人の内には聖霊は宿っておられません。そして「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と書かれていますので、大変厳しい言い方ですが、そういう人はたとえ洗礼を受けていたとしてもクリスチャンではないのです。ですからそういう人は、真剣に悔い改めて救いを求めなければなりません。けれども、たとえ弱い信仰であっても、繰り返し罪を犯してしまう欠けや弱さを持っていたとしても、イエス様を信じて、イエス様の十字架にすがって罪を赦していただきたいという願いがあるなら、そういう願いを心の中に起こしてくださるのは聖霊なる神様なのです。つまり、その人の心の中には確かに神の霊が宿っているのです。ですからその人は、もう既に「肉」ではなく「霊」の支配下にいます。時には誘惑に負けてしまって、「自分はまだ肉の支配下にいるのではないか」と落ち込んでしまうことがあったとしても、そこで終わることは決してありません。必ず悔い改めて罪の赦しを願うはずです。そのまま罪深い生活に飲み込まれてしまうのではなくて、必ずこの礼拝の場に戻って来るはずです。心の中に聖霊なる神様が宿っていてくださるなら、必ず「肉」ではなく「霊」がその人を支配してくださって、最後まで導いてくださいます。私たちの心の中には相変わらず罪がありますけれども、「神の霊」が「罪の力」に負けるなどということは決してありません。(「われは聖霊を信ず」と毎週告白している)私たちはこのことを信じたいと思います。そして10節を見ますと、このように神の霊が私たちの心に宿っていてくださるということが、「キリストがあなたがたの内におられるならば」と書かれています。このことに注目したいと思います。9節後半にあります通り「神の霊」とは「キリストの霊」なのです。つまり聖霊が心に宿っていてくださるということは、イエス様が私たちの心の中に住んでいてくださるということと同じなのです。

 

(本論2) 私たちの内に宿って下さるイエス様

 

イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださって、三日目に蘇られ、天に昇り、今は父なる神様の右の座にお付きになって世界を支配するお方となられました。その復活されたイエス・キリストが、同時に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださいました。その約束がどのようにして具体的に実現するのかと申しますと、それは聖霊において実現するのです。「神の霊」は「キリストの霊」であり、その「キリストの霊」が私たちの心の中に宿っていて下さるということを通して、イエス様はいつも私たちと共に居てくださるのです。それは極めて「霊的な現実」ですけれども、同時に極めてリアルな「物理的現実」とさえ言えるのではないかと私は思います。なぜなら、「私」という人間は「心と体」の両方で「私」なのであって、霊的中心から言えば「私」とは「心」であり、時間的な現れということから言えば、わたしとはこの「体」なのです。写真を撮って写るのは私の「体」なのです。地上ではこの「体」なくして私は存在しないのです。ということは、この私の「体」の中にイエス様が宿っていて下さる、イエス様がこの体の中に住んでいてくださる、と言っても間違いではありません。そういう極めてリアルな仕方で、イエス様は私たちと共にいてくださるのです。私たちの「気持ちの持ちよう」とか「心理的効果」というようなことではなくて、また遥か彼方の天国からイエス様がいつも見守っていて下さる、ということでもなくて、もっとリアルに、この私の体の中にイエス様が住んでいてくださるという、この驚くべき信仰の現実を私たちは心新たに覚えたいと思います。パウロはガラテヤの信徒ヘの手紙2:19〜20でこのように語りました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」こうあります。それは私たちにも言えることです。パウロ先生のような特別に立派な信仰者にだけ言えることではなくて、イエス・キリストを信じているクリスチャンなら皆、その信仰が未熟であろうと弱かろうと関係なく、聖霊においてイエス・キリストが私たちの内に宿っていてくださるのです。私が生きているということは、私の内におられるイエス・キリストが生きておられるということなのです。このことを真剣に覚えます時に、私たちの生き方は変わると思います。私たちが罪の誘惑に負けそうになるとき、人を裁き怒りをぶちまけそうになるとき、汚れた思いで心が支配されそうなるとき、この私の内にイエス様が宿っておられて、今その様子をまざまざとご覧になって悲しんでおられる、ということを真剣に覚えるなら、私たちの行動は変わると思うのです。そしてさらに、弱く小さな私たちですけれども、そんな私たちが心から罪を悔い改めて主に従おうとするときに、主は私たちを赦しながら、そんな私たちの具体的なこの手や足や口を通して、毎日の平凡な暮らしの中で共に働いて下さる。この私の内に住んでいて下さるイエス様がこの私の体を通して良いことを始めて下さるのです。このことを真剣に覚えます時に、私たちの生き方は変わると思います。私たちが日々主の御言葉に導かれながら、祈りながら、「イエス様ならどうなさるだろう。この場面で、イエス様は何をなそうとしておられるだろう。」ということをいつも考えながら、イエス様に従って行動する。そういう一つ一つの行動を通して、イエス様のご支配がそこに始まるのです。このことを真剣に信じるなら、私たちの平凡な日々は平凡でなくなります。目には見えませんけれども、イエス様が日々共に居てくださって「さあ、今日も私たちにはやるべきことがあるよ!今日も一緒に神の国のために働こう」とおっしゃって下さるのです。私たちは生かされている限り、そういう一日一日を主と共に、丁寧に歩んでゆきたいと思うのです。「主イエスの復活を信じる」ということは、そういうことなのです。

 

(本論3) 体の復活という希望に生きる

 

このようにして今も生きておられる主イエス・キリストは、聖霊において私たちの心と体の中に住んでくださるという仕方で共に居てくださって、私たちを「肉の支配」から解放して「霊の支配」の元に置いて下さって導いてくださるのですけれども、そんなわたしたちの「この体」は、次第に衰えてゆきまして、やがては死の時を迎えます。10節にはこう書かれています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、は義によって命となっています。」つまり私たちの体は「罪によって死ぬ体」なのです。お一人お一人が経験いたします病や事故や様々な痛み悲しみが、その人の犯した罪の裁きであるという意味ではありません。誠実に生きている人が病気になることもありますし、悪どいことをしている人がいつまでも元気であるということもあるわけです。けれども、そもそも人間が罪を犯さなければ「死」はこの世界に入ってこなかったわけですから、そして人間は皆罪人ですから、そういう意味では私たちの体はやがて「罪によって死ぬ体」であり、死に向かってだんだんと衰えてゆく体なのです。先程も申しましたように、人間は時間的な現れから言えば「体」ですから、「私とはこの体である」とも言えるわけですから、その体がだんだんと衰えていって、いろんなことができなくなって、様々な痛みや悲しみを経験しながら、やがては死の時を迎えるというこの現実は、決して生易しいものではありません。私たちは多かれ少なかれ、既にその厳しさを味わっていると思います。にもかかわらず、わたしたちは聖霊なる神様のお働きによって、そのような「死の支配」から解放されて生かされています。なぜなら、聖霊においてキリストが私たちの内におられますので、体は罪によって死んでいても、「霊は義によって命となって」いるからです。この「霊は義によって命となっています。」という表現は少しわかりにくいかもしれませんけれども、義とは「義認」の恵みを表すと考えてよいと思います。つまり、「聖霊なる神様は義認の恵みによって命となっておられる」。すなわち、「永遠の命を私たちに与えて下さる」ということです。そしてその「永遠の命の希望」とは、私たちの「魂」が天国に挙げられるというだけではなくて、この「体の復活」という、極めてリアルな希望なのだということを、共に確認したいと思います。11節にはこう書かれています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」こう書かれています。「イエスを使者の中から復活させた方の霊」とは「神の霊」すなわち聖霊なる神様のことです。聖霊なる神様は地上を歩まれたイエス様の内にも宿っておられました。その聖霊なる神様の力によって、父なる神様はイエス様を死から蘇らせてくださいました。そしてその同じ霊が私たちの心と体の中にも宿っていてくださいますので、同じように神様はわたしたちの死ぬはずの体をも生かして下さる。すなわち、復活させてくださるということです。イエス様が再び帰ってこられてこの世界が神の国として完成するときに、私たちは幽霊のような存在ではなくて、ちゃんと「心と体」の両方を持つ「私」として復活させていただいて、永遠に生きることが出来るのです。その時に具体的にどういう体に蘇るのか、何歳くらいなのか、「できれば二十歳くらいがいい」とか、そういう詳しいことはわかりません。でも、ヨハネの手紙3:2〜3にはこう書かれています。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」つまり具体的にはわかりませんけれども、その時に私たちは「御子に似た者」、すなわち蘇られた復活の主イエスに似た者によみがえることができるということです。完全に罪を赦された清い心にふさわしい「栄光の体」を持って、「完全な心と体」を持って私たちは復活し、永遠の命を生きることができる。神様と人が、完全な愛の交わりの中で共に生きる。もう悲しみも苦しみも、争いも死もない神の国で、永遠に生きることができる。これが私たちに約束されているゴールなのです。神の国の完成です。私たちはこの地上でどんなに辛く苦しい経験をいたしましても、それで終わりではありません。この栄光のゴールが約束されています。そしてそれは「そうだったらいいなぁ」というような夢物語ではありません。イエス・キリストはこの歴史の真っ只中に確かに「復活」なさいました。あのイエス様を見捨てて逃げてしまった情けない弟子たちが、復活のキリストと出会って、そして聖霊を注がれて、この良き知らせを伝え始めましたので、私たちもその福音を聞いて、信じて、今ここにいるのです。単なる心の問題ではなくて、「そう信じることができたら、この苦難に満ちた世界を生きてゆくための心の支えになる」というような心理的なことではなくて、「神の国の完成」は、「キリストの復活」という極めてリアルな歴史の中の事実に基づく「確かな約束」なのです。私たちはそういう「確かな希望」に生かされているということを新ためて覚えたいと思います。そしてこのことをしっかりと覚えます時にわたしたちは、自分と、他人と、世界に対する関わり方が変わると思うのです。

 先程引用いたしましたヨハネの手紙の最後にはこう書かれています。「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」。こうあります。「自分を清める」のです。様々な衰えを感じ、病気にもなり、痛みや悲しみを味わう厄介な私の体ですけれども、イエス様が再び帰ってこられたときに、この私の体が復活するのです。もちろんもう病気になったり衰えたりはしない、新しい霊の体として復活するのですけれども、でもこの私と全然違う別者に復活するのではありません。復活されたイエス様は、突然現れたり消えたりもできる、時間や空間に束縛されない霊の体に蘇られましたけれども、でも別人ではなくイエス様御自身が蘇られたのです。釘や槍の傷跡が残っていたのはそのことの印です。同じように、この私の体が蘇るのです。ですから、このことを信じるときに、この体はどうせ衰えて死んでしまう「どうでもよいもの」ではなくなります。また「魂は救われるけれども体は滅びるので、この体で罪を犯そうが別に構わない」というような、昔のギリシャ人のようなことも考えないのです。この「体の復活」を信じる人は「この体」を大切にして、御子が清いように自分を清めるのです。自分を誇るために清めるのではなくて、神様の御用に用いていただけるように清めるのです。神様が与えてくださったこの心と体、私自身を大切にして、出来る限り汚れないように努めて、そして与えられた人生を最後まで、神様に従って神様の御用にために自らを捧げて生きるようになるのです。

 またこの「体の復活」を信じる人は、他の人との関係を大切にするようになります。愛する人々との交わりが地上だけで終わるのではなく「永遠の交わり」となりますように、生かされている間に精一杯福音を宣べ伝える努力するようになると思いますし、既に与えられている教会の兄弟姉妹たちとの交わりを大切にするようになると思います。この世においては腹の立つことも時にはあるのですけれども、私たちの交わりは「永遠に続く交わり」なのであり、私たちは共にその栄光のゴールに向かって歩んでいる「神の家族」なのです。このことを真剣に覚えるときに、兄弟姉妹をさばいたり、「あの人はダメだ」と諦めたりすることは、だんだんとなくなってゆくはずです。

 また、この「体の復活」を信じるときに私たちは、「この世界」を大切にするようになります。なぜなら、私の体が復活し完成するのと同じように、この世界がやがては完成するからです。もちろん、この世界が人間の努力によってだんだん良くなっていって、やがて神の国になるというのではありません。そういう単純な連続線上に神の国が来るのではなくて、そこには決定的な変化が生じるのですけれども、でもこの世界が完全に滅んで「全く別物の世界」が突然現れるのでもありません。神様が造られたときに「極めて良かった」と言われたこの世界を、神様はやがて「神の国」として完成させようとしておられるのです。このことを真剣に受け止めるときに、わたしたちはこの世界の問題に無関心でいることは出来なくなります。環境問題や戦争や様々な社会問題も、それこそ「新型コロナウイルスによるパンデミック」というこの問題も、「信仰の問題」として受け止めて、キリスト者として努力する道がそこに開かれてゆくと思います。この世界は「神の国」として完成すべき、神様が造られた大切な世界なのですから、必ずそういう栄光に満ちた完成に向かって行くのですから、この事を真剣に考えるキリスト者は、どんなに厳しい現実の中にあっても、この世界を良くすることを諦めないのです。

このように、「復活」ということを夢物語ではなくリアルな信仰の現実として受け止めるときに、私たちの生き方は必ず変わるのです。

 

(結論) 私たちの生活から神の国はここに来る

 

私たちにとりまして救いとは「単なる心の支え」ではなくて、また「私が天国に入れたらそれで良い」というような自己中心的なものでもなくて、この世界が「神の国」として完成することなのです。この視点を持つときに、私の信仰と毎日の生活、そして世界の様々な問題がバラバラの関係ないことではなくて、ひとつのこととして統合されてゆきます。この私の毎日の生活の中で起こる様々なことやお一人お一人との出会いは、ちっぽけな無意味なことではなくて、この世界の一部なのであり、この世界の完成と深くつながっているのです。私たちの内に宿っていて下さるイエス様がそこに働いて下さるからです。このことはなかなか具体的に実感しにくいのかもしれません。けれども、私たちは「聖霊を信じたい」と思います。この私に確かにイエス様を信じる信仰と、罪を悔い改める思いを与えてくださっている聖霊なる神様が、この私を支配してくださっているということを信じたいと思います。この私の内に聖霊なる神様は住んでいてくださって、イエス様が宿っていてくださって、世界の完成のために私たちの具体的な手や足や口を用いてくださって、私たちと一緒に行動してくださるのです。私たちの毎日の生活の具体的な一歩から、一つの行いや一言の言葉から、そこに神の国が来るということです。私たちはこのことを心から信じて、共にいて下さる主イエス・キリストに従って、厳しい現実が待つそれぞれの場所に、希望をもって遣わされてゆきたいと思います。暗闇が深いほど、確かな光を持つ者はそこで輝くというのはそういうことです。「さあ今週も、わたしたちには一緒にするべき大切なことがあるよ。私があなたの足と一緒に歩むから、あなたの手を通して働くから、あなたの口を通して語るから、周りの状況は厳しいけれども、勇気を出して一緒に行こう!」と、今も生きておられる復活の主イエスが語り掛けてくださいます。私たちは「はい!ついて行きます!」と答えて、神の国のために、神様の正義と愛のご支配の実現のために、ここから遣わされて行きたいと願います。お祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(祈祷)

父なる神様、私たちは弱く小さなものであり、この体は日々衰えて行き、私たちのできることは次第に減ってゆきます。また私たちを取り巻く社会の現実は複雑で厳しく、特にこの度の新型コロナウイルスによるパンデミックという未知の事態を前に、私たちは時に恐れや不安や無力感に襲われてしまうのかもしれません。しかし、そんな私たちの心にも罪を悔い改め、主イエス様を信じる信仰が与えられていますので、この小さな私たちの内にも聖霊においてイエス様が宿っていてくださいますから、私たちも復活の希望の光をいつも心に灯し、暗闇を照らすことが出来ますから、感謝しありがとうございます。どうぞ私たちがこのことを心から信じて、毎日の具体的な行動を主に捧げて、一日一日を丁寧に生きることができますように。私たちの手や足や口を、この体を、どうぞ清めて神の国の前進のために、あなたの愛と正義のご支配の実現のために用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 



minoru60 at 21:08|PermalinkComments(1)

2018年03月22日

第25回神戸アートバイブルカフェのご案内

神戸アートバイブルカフェのご案内
青衣の女

神戸長田教会では、今年も春のアートバイブルカフェを開催いたします。教会音楽家の久米小百合さんによる「ローマの旅レポート」を是非お楽しみに!
私はリクエストもいただきまして、今回は特定の作家ではなく、ジョットからミケランジェロ、レオナルド、レンブラント、ゴッホ、ルオー、シャガール、そして日本の画家堀江優まで、リジョイスやスピリチュアリティ―誌の「絵画と御言葉」シリーズで連載してまいりました作品を、できる限りご紹介したいと考えています。バンド演奏もあります。春の暖かな午後のひと時、音楽とおいしいお茶とお菓子とアートなお話でご一緒しませんか?皆様のおいでを心よりお待ちしています。

日時:2018年4月28日(土)午後2時〜
場所:神戸長田教会 幼稚園園舎
会費:500円(茶菓代)

*事前にメールか電話でお申し込みください。
筺複娃沓検烹僑坑院檻娃毅横
メール minoru6068@deluxe.ocn.ne.jp



minoru60 at 08:57|PermalinkComments(0)

2017年10月13日

秋のバイブルカフェ中止のお知らせ

ごめんなさい大変申し訳ございませんが、私たちの教会が所属しております日本キリスト改革派教会西部中会の創立70周年記念信徒大会の準備に追われておりまして、秋のバイブルカフェは中止とさせていただくこととなりました。来年の春には開催させていただきたいと願っています。なにとぞご理解のほど、よろしくお願いいたします。皆様のまたのおいでを心よりお待ちしています。



minoru60 at 17:45|PermalinkComments(0)