2010年04月

2010年04月19日

神戸バイブルカフェのご案内

chagal3_2神戸長田教会では、この春も久米小百合さんのバイブルカフェを開催いたします。今回も美術特集です。久米小百合さんのヨーロッパ美術館めぐりの旅思い出トークに、吉田実牧師のマルク・シャガールについてのお話、そしておいしいお茶とお菓子で素敵な午後のひと時をご一緒しませんか?皆様のお越しを、心よりお待ちしています!
 

日時:2010515()午後2より

場所:神戸長田教会幼稚園園舎

会費:¥500 

    事前に電話,Fax,メールでお申し込み下さい。

653-0831神戸市長田区蓮宮通4丁目82

神戸長田教会 牧師:吉田 実

Tel.(078)691-0527   Fax.(078)691-3950

メール minoru6068@deluxe.ocn.ne.jp



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2010年04月11日

ラジオ キリストへの時間「シャガール2」

シャガールの「白い磔刑」

 

「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」

                            イザヤ書534

 

chagall3私がお話をさせていただきますときは、「絵画と信仰」というテーマで続けてお話をさせていただいておりますけれども、今回は20世紀のフランスを中心に活躍いたしましたロシア系ユダヤ人画家、シャガールの作品をご紹介しています。シャガールは大変幻想的な、まるで夢の世界のような絵を沢山描きましたけれども、彼が描いた世界は決して気まぐれな幻想ではなくて、ロシア系ユダヤ人として生きた、故郷の町の思い出や文化と結びついています。シャガールは幻想画家というよりも、むしろ自分にとっての真実を描いたレアリストだったのです。そんなシャガールは、ユダヤ人として深い苦悩を味わった人でもありました。帝政ロシアの時代、ユダヤ人は定住許可区域から自由に町を出ることが出来ませんでした。しかしシャガールは幸運にもある弁護士の計らいでパリに留学することが認められ、そこで新しい芸術の空気に触れながら、美しい色彩と独特の表現スタイルを身に着けてゆきます。しかし、ベルリンで初めての個展を開く機会が与えられ、ベルリンから一時故郷のヴィテブスクに戻ったときに第一次世界大戦が勃発いたしまして、彼はそのまま故郷に留まります。そして、やがてロシア革命が起こり、シャガールも一時は熱心に革命に協力いたしました。そして1917年の十月革命は、ロシア全土のユダヤ人にとって輝かしい解放の時に思えました。彼らはついに、平等な市民権を与えられたのです。しかしそれもつかの間、再びユダヤ人排斥運動が起こります。燃えるような情熱を持って始めた仕事も短命に終わり、幻滅と不安にとらわれたシャガールは、一家を連れて再びパリに戻ります。しかし、やがてヒットラーの演説の声がヨーロッパ各地に響き渡り始め、1933年にはドイツのマンハイム美術館においてシャガールの作品が退廃芸術として、ナチスの手によって人々の目の前で焼却されるという事件が起こります。また1935年、ポーランドを訪れたシャガールは、ゲットーで暮らす人々の悲惨な現実や蔓延するユダヤ人狩りの実態を知り衝撃を受けます。そして1939年、シャガール自身も身の危険を感じ、フランスを離れる決意をし、危機一髪でマルセイユからニューヨーク行きの船に乗り込みます。このとき、シャガールが有名な画家であったためにアメリカの緊急援助委員会の援助の手が差し伸べられまして、シャガール一家は船に乗ることが出来ました。けれども、もし彼らの助けがなければ、おそらくはシャガール一家は特別警察によって連行され、強制収容所に送られていたと思います。実際、シャガールとその一家は船に乗ることが出来ましたけれども、目の前の大勢の同胞たちは船に乗ることが出来なかったのです。シャガールはこの厳しい現実に直面し、理不尽な暴力とわが身の無力さを嘆き、悲しみました。そんなシャガールが描きました『白い磔刑』という作品があります。手に剣や手榴弾を持った一団が平和なロシアの村に火を放っています。村の住民たちは船に乗って逃れようとし、胸にトーラーを抱いて逃げているユダヤ人の男性は、大声で何かを叫んでいるようです。その後ろではシナゴーグから火の手が上がり、上空ではユダヤの祖先たちが嘆き悲しみながら中を漂っています。そしてそんな画面の真ん中に、シャガールは十字架にかけられた白いキリストの姿を描きました。ユダヤ人としての伝統の中で生まれ育ち、また同時に『私はパリでもう一度生まれ変わりました。』と語ったシャガールが、このキリストをどういう気持ちで描いたのか、はっきりしたことは分かりません。ユダヤ人としてのアイデンティティーを大切にした彼に対して『シャガールは精神的にはクリスチャンだったのではないか。』というようなことを安易に言うべきではないとも思います。けれども、この白い光に照らし出されたキリストの姿は、単なるユダヤ民族の苦しみの象徴ということに留まることなく、そこからは確かに希望の光が放たれ輝いている、そんな風に私には見えます。そして優れた芸術作品は、作者の意図さえも超えて、それ自体が一人歩きして人々に語りかける、そして広く影響を及ぼすということが有ると、私は思います。お決まりの形式にのっとった形だけのキリスト教美術が力を失ってしまったような状況の中で、シャガールが描いた、この人々の苦難の真っ只中に立つ白い十字架は、今も私達に語りかけてくるように思います。様々な苦難の中に生きる私達に対して、「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。ここに希望がある!」と、語りかけてくるように、私には思えるのです。



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ラジオ キリストへの時間「シャガール1」

シャガールの「楽園を追放されるアダムとエバ」

 

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」 創世記3:15

 

楽園を追放されるアダムとエバ私がお話をさせていただきますときは、「絵画と信仰」というテーマで続けてお話をさせていただいておりますけれども、今回は20世紀のフランスを中心に活躍いたしましたロシア系ユダヤ人画家、シャガールの作品をご紹介いたします。皆さんはシャガールと聞きますと、どういう作品を思い浮かべますでしょうか。おそらくは、人間や動物が宙を舞っているような、幻想的な、夢のような作品を思い浮かべる方が少なくないのではないでしょうか。実際に、シャガールはそういう作品を沢山描きました。抱き合った恋人たちが空に舞い上がり、動物や魚も空を飛び、巨大な鶏が踊るというような、遠近法も重力の法則も無視した夢のような世界を彼は描きました。ですからシャガールは『幻想画家』と呼ばれたりいたします。けれどもシャガール自身は、じつはそうは思っていなかったのです。『作品制作に当たって、あなたの夢は重要な役割を果たしていますか?』と質問されたときに、彼は答えました。『私は夢を見ない。』、また、彼は自伝の中でこうも述べています。『私を幻想的と呼ばないで欲しい。反対に私はレアリストなのだ。』シャガールの絵に登場する動物たちは故郷の町、ロシアのヴィテブスクのユダヤ人居住地で共に暮らした仲間たちであり、魚は、にしんの倉庫で働いていて事故で亡くなった父親の記憶と一つであり、空に浮かぶ恋人たちの姿は、シャガールが慣れ親しんだ言葉であるイディッシュ語の表現の反映でした。すなわち、イディッシュ語では、「非常に嬉しい」という気持ちを表すのに『空中に舞い上がる』という言い方をするのだそうです。つまりシャガールは勝手気ままな空想の世界に遊んでいたのではなくて、彼の心の中に刻まれた風景や人物や言葉や文化を再構成して表現しているのであって、それは彼にとっての生活であり、現実であり、真実だったのです。そんなシャガールは、敬虔なユダヤ人の家庭に育ち、幼い頃から聖書に親しんで育ちましたので、常に聖書の言葉を心に刻んでいましたし、聖書の物語を主題にした作品を沢山残しています。そんなシャガールが描きました、『楽園を追放されるアダムとエバ』という作品があります。最初の人間であるアダムとエバは、エデンの園の中でどの木からでもその実を取って食べることが許されていましたが、善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと、神様に命じられていました。そのことを通して彼らは、造り主なる神様への従順を示さなければならなかったのです。ところが、悪魔の使いである蛇にだまされてその実を食べてしまった二人は、罰としてエデンの園から追放されてしまいます。その場面を描いた作品です。この作品の中で、アダムとエバは確かに少し悲しそうな表情を浮かべて、白い天使に追い立てられるようにしてエデンの園から追放されています。けれども、そのアダムとエバの姿はまるで宙に浮いているように見えますし、鳥の背中に乗っているようにも見えます。また周りの動物や鳥も楽しげに舞い踊っているように見えるのです。作品全体として、重たいテーマの割には悲壮感に欠けると申しますか、優しさや楽しささえ感じるような画面となっています。けれども、レアリストであるシャガールは、決して甘ったるい幻想を描いたのではないと思います。はじめにお読みいたしました聖書の言葉は、エバを誘惑した蛇、つまり悪魔に対する神様の裁きの言葉です。神様は悪魔と人間の間に敵意を置いてくださって、そしてついには、人間は悪魔との戦いに勝利するということを、この裁きの言葉の中で約束してくださいました。そしてその約束は、やがてこの世に真の人間として来てくださいました救い主イエス・キリストにおいて成就したのです。最初の人間が、神様に逆らい罪を犯し堕落してしまった、その最も悲惨な出来事の只中に、すでに神様の救いのご計画は動き始めている。神様の愛の歌は、楽園追放という厳しい裁きの只中にも響いている。それが、幼い頃から旧約聖書に親しんだシャガールの確信だったのではないでしょうか。この画面の右上の端をよく見ますと、黄色い動物の陰にキャンバスに向かっている画家の姿が描かれています。それは他でもない、シャガール自身の姿だと思います。そしてその対角線上に、黄色い動物と響きあうように黄色い光を放つ花束が描かれています。この花束は神様の愛の光の象徴であり、その光は確かに私にも届いている。自分自身も堕落した罪人の子孫であるけれども、そんな私にも神様の愛の光は確かに注がれている。それは甘ったるい幻想ではなくて、彼自身の、そして私達の、確かな信仰の現実なのです。



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