「メンソール、やめて。離して…」と歌緒留が言った。しばらく後に「ごめんなさい。よく判らないの…」とつぶやいた。彼女はいつもそうだ。キスを求めるのはいつも彼女。でも、謝るのも彼女。メンソールの方がよく判らない。「判らないのは歌緒留だろ。メンソールのせいにするなよ」とメンソールは言う。彼女が応えた「いいえ、メンソールのせいよ」
 
 歌緒留とは昨年11月からのつきあいで、だいたい月に一回のペースで会う。彼女の自宅が福島区にあるので、デートはいつも福島周辺。でも今回は、難波へ行こうと誘った。彼女はいつも車で移動する。これまでも何度か良いムードになって、抱きたいとか泊まろうとか言ったことはあるんだけど、彼女は決まって「バカ、帰りなさい」と応える。で、メンソールを最寄りの駅に降ろすと、車で走り去ってしまう。メンソールの立てた作戦は、彼女を車から降ろすことだった。だから福島界隈ではなく難波というロケーションが必要だった。そして彼女を酔わせるためにメンソールが選んだ店は『新阜(におか)』だった。
 
 店にはいると、すでに女性二人組の客がいた。メンソールは何度か会ったことがあるんだけど、それこそ漫才みたいに面白い二人組で、歌緒留は飲む前から笑い転げていた。彼女達とマスターの間では、イタリアにあるハリーズというバーが話題になっていた。話題の中心はもちろんベリーニ。ベリーニというのは、ピーチジュースをシャンペンで割るカクテルなんだけど、ピーチジュースがなかなか入手困難なので、作ってくれる店は少ない。「俺の作るベリーニの方がハリーズなんかより 150倍うまいよ」とマスターは言う。彼女達は桃を差し入れしたので、そこからハリーズのベリーニの話になったらしい。「今日は特製の、フローズン・ピーチ・ベリーニを作ったるで、ハリーズより185倍は旨いで…」とマスターが言う。いつの間にか倍率が上がっている。
 
 フレッシュな桃と、ピーチリキュール、ピーチフレーバーのウォッカ、レモンジュースを、氷と共にブレンダーに入れて粉砕する。それをグラスに入れ、上からシャンペンを軽く注ぐ。ベリーニ自体を作ってくれるバーが少ないので、メンソールにとっては初めてのベリーニだった。しかもフローズン。こんな贅沢なカクテルは、二度と飲めないかもしれない。「大人のベリーニね。甘さを押さえてあるでしょ」とはマスターの弁。さらにブレンダーに残っていたものを、今度は別のグラスに入れ、そちらにはラムとコアントローを入れる。フローズン・ピーチ・ダイキリの出来上がりだけど、こちらもセクシーな味だった。
 
 「メンソール、今日はエッチなワインが入ってるで…」とマスターが言う。チリのワインで、小売りは\6,000-位すると思うとのこと。これは最後にしとき。まずブルゴーニュあたりからいっとき…、ということだったので、最初はブルゴーニュ。ピノ・ノワールだったんだけど、まだ若いといった感じのワインで、ジャムのような濃厚な香りはまだ希薄だし、やや酸味もあった。二杯目と三杯目はイタリアのワインで、こちらもなかなかのものだった。
 
 ノストラダムスの予言が正しいなら、今日で人類は滅亡するのかな、メンソールはつぶやき、いいじゃない、そしたら一緒に死ねるじゃない、と彼女が言った。そして生まれ変わってフィレンツェで一緒に暮らしましょ。そうか、7月31日に一緒に過ごしている彼女とは、ひょっとしたら生死を共にすることになるのか…、メンソールは彼女に言われるまで気がつかなかった。歌緒留とは12月31日のデートを約束しているけれど、2000年問題のパニックの中で、彼女と生死を共にすることになるのだろうか。
 
 いよいよエッチなワインの登場。うまく表現は出来ないけれど、これは凄かった。むせ返るような芳香に仰け反り返りそうになる。マスターによると、最低でも30分くらいはおいといた方がええで、とのこと。この香に歌緒留は酔ったんだろうな。以前メンソールと二人でワインを3本空けても平気だったので、歌緒留には飲ませても大丈夫だと思ってたんだけど、「ねぇ、メンソール、キスして」といきなり言い出した。「後でね」とメンソールが応える。「私、今日はどうなるか判れへんわ…」というのはまだ可愛い方で、「メンソール、絡まってもええ」とか、「いっぱいいっぱいしてくれる…」とか意味不明な言葉を喋りだした。文字通りに解釈すると、メンソールにとってはとっても嬉しい言葉なんだけど、ちょっとなんか違ってたような気がするし、実際は違ってたんだな。
 
 しばらくして歌緒留が言った。ねぇ、メンソール、キスして…。バーのカウンターでキスしたのは初めてではないし、けっこうゲリラ的に唇を奪うにはバーのカウンターっていい場所だと思うけど、そういうときは、バーテンダー周りの客が気がつかないように素早く、文字通り盗むようにするものだ。『新阜』は狭い店なので、彼女が言った「キスして」という言葉は、店にいた全員が聞こえていたはずだ。メンソールは軽く唇を会わせた。
 
 次に彼女が言ったのは、「ねぇ、マスター、キスしていい」だった。「いいよ」とマスターが言った。歌緒留はカウンターの中に入り、マスターに抱きついた。カウンターからでるときに、グラスを割ったりしよった。さらに隣の客にも「ねぇ、キスしていい」といって抱きついた。これはやばいとメンソールは思ったけど、マスターがまだ大丈夫だよ…というから、もう少し様子を見ることにした。この店には若芽とも来たこともあるし、若芽もけっこう酒には強いんだけど、若芽の時は、もう飲ませない方が良い、とアドバイスしてくれたので、マスターの目は確かだと思っている。
 
 その後もロングのスカートを、膝上40cm位までたくし上げて、「これくらいなら見せられるよ。マスターも見に来ない…」とかやっていたので、ついにメンソールは彼女の腕を取って店を出た。
 
 メンソールが彼女を難波まで呼びだしたのは訳がある。『新阜』から駐車場までにはラブホが沢山あるのだ。今回彼女は逃げれないはずだ…。でも結局は逃げられちゃった。それが冒頭の言葉、「メンソール、やめて。離して…、ごめんなさい。よく判らないの…」なんだ。
 
 翌朝10:00頃、歌緒留に電話した。私、昨日のこと覚えてないねんと彼女が言うので、ちゃんと説明したら、びっくりしてた。「なぁ、メンソール、ホテルに連れ込もうとせえへんかったか…」彼女が聞くので、連れ込もうとしたと応えると、「私、それだけは覚えてるわ…」とのことだって。なんでそんなことだけ覚えてんねん。身の危険を感じるからか…、メンソールが聞いたけど、彼女は笑うばかりで応えなかった。「メンソール、今夜空いてる?。食事せえへん、奢るから…」と、初めて彼女が誘ってくれた。メンソールはいいよと応えた。
 
 彼女が連れていってくれたのは、新梅田シティーにある「くそったれ」という名前のパスタハウス。けっこう美味しいと評判の店ではあるが、メンソールの実家にあまりにも近いので、灯台もと暗しで行ったことはなかった。歌緒留のオーダーはアサリのトマトソースのパスタ、メンソールはチーズとバターのパスタと、カルツォーネ。カルツォーネはピザの欄に書かれていたけれど、あれはピザじゃないと思うぞ…。
 
 チーズとバターのパスタは、茹で上がったパスタに、大量のパルメジャーノチーズをかけ、バターが一切れ置かれているというシンプルなもの。メンソールはもう少し固い目の面が好きだけれど、味付けは良かった。たぶんかなり塩を効かせて茹で上げるんだろうと思う。ちょっと塩辛かったけど、たぶんこれが本場の味なんだろうと思う。
 
 メンソールが以前食べたカルツォーネは、四種類のチーズだけで作ったものだったけど、今回のは卵とモツァレラチーズ、ケッパー、トマトの四種類。但し、トマトは中ではなく、ソースのようにしてかけられていた。カルツォーネはメンソールが好きな料理の一つなんだけど、歌緒留は初めて食べたと言っていた。
 
 それから新梅田シティーの裏にある、遊歩道を散歩した。ベンチに座るとかおるが言う。ねぇ、メンソール、キスして…。メンソールがキスをすると、ごめんなさい…といって、メンソールを突き放す。「ごめん、私って甘えてばっかりだよね」と彼女が言う。「そうだよ。甘えてばっかりだよ」とメンソールが応える。「ねぇ、帰ろうか」と彼女が言い。メンソールも「そうだな」と同意した。しばらく歩いたとき歌緒留が言った。ねぇ、コーヒーでも飲まない。どこで…と聞かなくても答えが判っている質問をメンソールはする。私の部屋で…歌緒留は言った。昼間のコーヒーが残ってるの…。おいおい、残りもんかい。ちゃんと新しく煎れてくれー。豆も最初から挽いてくれー、とメンソールが主張したので、ちゃんと新しいコーヒーを入れてくれた。テーブルに座ってコーヒーを飲むメンソールの膝元に、歌緒留がじゃれついてくる。メンソールは彼女の首に手を回し、顔をこちら側に向けさせた。「ダメよ、メンソール」と彼女は言ったけど、そのまま床に押し倒した。そしてキス。いつもと同じ優しいキスだったし、いつもと同じように彼女は言った。ダメなの、メンソール、ごめんなさい、離して…、と言ってメンソールを押しのけた。ごめんなさい、メンソール、今日は帰って…と彼女が言った。
 
 メンソールが玄関から出ようとすると、メンソール、キスして…、彼女が言った。キスすると、ダメよと言って、突き放した。無理を言ってごめんなさいと彼女が言い、慣れたから大丈夫だよ、とメンソールが言う。彼女は、メンソールがエレベーターに乗るまでの間、しっかりと見送ってくれた。

 メンソールと歌緒留は、いったいどうなっていくんだろう。歌緒留に聞いたことがある。僕らは友達なのか、それとも恋人同士なのか…。歌緒留は一言、判らないわ…と答えた。メンソールにも判らなかったりす
る。