
もう会うことはないんだろうとか思ってたんだけど、仕事も終わったし、飲みに行こうかと思ってたときに、彼女から電話が入った。「メンソール、悪いけど、うちに来てくれる?」の一言で、以前、一度だけ足を踏み入れたことのある夏見のマンションに向かった。部屋の鍵の隠し場所は、電話で教えてもらってたので、そのまま部屋に入った。「雪見」と呼びかけると、「寝室に来て…。それからメンソール、名前を縮めて呼ぶのは止めてくれる。私は夏見。雪見じゃないわ。雪見大福みたいに呼ばないで」と声がした。
寝室に入ると、ベッドの上に、うつ伏せで寝ている夏見がいた。上半身は下着も着けていない。
「メンソール、ごめん。左肩、いわしたの。見てくれる?」
「医者に行けばええんとちゃうの?」
「医者に行けないから呼んでるの。判るでしょ?」
メンソールが夏見の方に近づくと、「脱脂綿とかスピリタスとかはサイドテーブルね」と教えてくれた。スピリタスというのは、アルコール度数96%のウォッカなんだけど、消毒に使うなら薬局でエタノール買うよりはスピリタスを使った方が良いというのはメンソールの師匠から教えられていた。だから、スピリタスを飲めということではなくて、消毒が必要ならスピリタスを使ってくれ、と夏見は言ってるわけだ。
夏見の左肩に触れると、明らかに熱を持っているのが判る。夏見は右利きのはずだが、左利きかと間違うほど左肩が腫れてる。「メンソール、見立ては?」と、夏見が聞く。
「二頭筋の短頭起始と三頭筋外側頭起始が腫れてる。靱帯とか関節とかは痛めてないと思う。何やった?」
「ちょっと強引に、四方投げかけた」
「そうか…。ちょっと痛むぞ」
夏見は、手を伸ばしてハンドタオルを引き寄せ、「いいわ」と言ってタオルを奥歯で噛みしめた。
30分くらい施術して、「いいよ」と、メンソールが告げる。くわえていたタオルを口から外して、夏見が立ち上がった。
「ありがと、楽になったわ」
「それは良いから、服ぐらい着てくれ」
「自宅では服は着ないの。知ってるでしょ」
「じゃ、パンツも脱げ」と言いかけたが、それよりも早く、夏見は右手を差し出してきた。仕方がないのでメンソールも、右手を伸ばして、互いに手首の外側を触れ合わせるような形にした。夏見は、左手を使ってメンソールの右手を圧手で落とし、そのまま右の崩捶を打ち込んできた。メンソールは、左手を炮気味につかって外側にはじき、そのまま外圏を使って夏見の右手を流して、右手で持ち替え、一歩進めて単鞭をかけようとしたんだけど、メンソールの換手より一瞬早く、夏見の左手がメンソールの左手を引っかけていた。そのままくるりと転身して四方投げを仕掛けてきた。メンソールは、右手で、自分の左手を押し込むようにして、夏見の四方投げを外した。
「やっぱりだめか…」と、夏見が言った。
「単鞭に四方投げか…」
「いけると思ったんだけどな。でも、震脚されてたら間に合わなかったと思うし…。うん、左肩は大丈夫そう」
「痛めてる左手で、いきなり四方投げは無謀やと思うで…」
と、いいながら、夏見を見た。形が良くて、一見は固そうなんだけど、触れてみるとテンピュールみたいに柔らかい乳房の触感を思い出しながら、初めてバーで会ったときのことも思いだしていた。30代半ばのはずだが、夏見はずっと若く見えるし、美人だ。必要以上に…。あの時と同じだった。
「ね、メンソール。飲みに行こ」
「あかん。飲んだら治りが遅なるで」
「心配しないで。で、おごってね」
「をい。それはおかしいやろ。それに、医者に行かれへんからメンソールを呼んだんとちゃうの?」
「肩をいわした時ね。なんか、メンソールにもう一度会いたくなったのよ」
メンソールは、「ああ、そうでっか」以外の言葉をなくしてた。そして思い出していた。夏見は、たしか酒豪だったはずだ…。というところで、中心地を外して蕎麦屋に案内してみた。
街屋風になっているいる入り口を開け、「女将、邪魔するで」と言いながら一階のカウンター席に座る。入り口近くで、娘が針仕事をしているのもなんかほっこりと落ち着く。そのうち、一升瓶に玄米を入れて、棒で突いて精米を始めるんじゃないかと思ったりもする。そうした情景があっても全然おかしくはない。
まずはビールはビールをオーダー。「雪見はヴァイツェンやろ」と言ったのが気に触ったらしく。「ヴァイツェンじゃないビールも飲むんです。それと、雪見じゃなくて夏見。8月13日生まれでB型」と言われてしまったけど、1973年生まれだと言うことも判った。と言うことは、34歳なんだ…。
ビールを飲みながらゆっくりとメニューを見る。「肴は任すわ」と、言われたので、メニュー見てたら、「私、なめろう。それから枝豆、それからそばがきも…」と横から口を挟んできた。
「さっき任すというたやろ」
「へへっ、ごめん」
「大阪の夏は鴨やからな。鰻とちゃうで…」と言うことで、メンソールは鴨料理を追加オーダーした。最近でこそ、夏と言えば鰻と言うことになってしまったけど、大阪では夏には鴨料理を食べる。土用の鰻というのは、味が落ちるので売上が悪くなる夏に鰻を売るための宣伝文句であって、土用の鰻が旨いというわけではない。
ビールが終わったら日本酒。ボトル買いしないと行けないものもあるが、基本的には大中小の三種類のサイズを指定してオーダーすることができる。大なら一合、小なら猪口サイズ。多品種を試してみたいという向きには最適な量だと思う。
日本酒をオーダーすると、娘がストッカーからボトルを出してきて、注いでくれる。夏見はそばがきを食べて「美味しい」と言い、日本酒を飲んでは「おいしい」と言い、なめろうを食べて「おいしい」と言った。店の人が恐縮するくらい「美味しい」を連発する。夏見にこんな一面があるとは思わなかった。
「私、蕎麦は好きよ。知ってたの?」
「いや、何となく…。テレパシーみたいなもんやな」
で、蕎麦をオーダーする段になってもめた。夏見はおろし蕎麦をオーダーした。メンソールはもり蕎麦とおろし蕎麦を時間差でオーダーしようと思ってたんだけど、夏見が「私、おろし蕎麦」と言うもんだから、メンソールは「もり蕎麦、で、時間差でとろろ蕎麦」とオーダーした。
「なに、そのオーダーは?。メンソールもおろし蕎麦にしなさいよ」
「蕎麦と言えばもり蕎麦に決まってるやないか。おろし蕎麦もええけど、バリエーションを楽しむのはもり蕎麦を食べてからや」
で、そばつゆが出されたので、まず一口飲んでみる。
「メンソール、何してるの?」
「蕎麦つゆの味を見るのは、蕎麦好きなら当然の行為や」
「もり蕎麦もおろし蕎麦も、つゆの味は同じだよ。容器の形が違うから味が違うように感じるだけだよ」とか言い合ってると、娘が「つゆは同じものです」と説明してくれた。うむ、雪見は意外と手強いのかもしれん。
メンソールは、つゆを使わずに蕎麦だけをかき込む。蕎麦を飲み込んだあとで、鼻孔に蕎麦の薫りが抜ける。それから塩を一振りして一口。箸先にわさびを付けて一口。旨い蕎麦なら蕎麦つゆは不要とメンソールは思ってるんで、蕎麦つゆを使ったのは残り1/3くらいになってから。
半分くらい食べたところで、とろろ蕎麦にゴーサインを出す。ちょうどもり蕎麦を食べ終わった頃に、とろろ蕎麦が出してこられた。「ちょっとメンソール、私にも食べさせてね」と言われたので、半分くらい渡す。「うん、おいしい」とまた声を上げた。
蕎麦を食べ終わったら蕎麦湯が出されるんだけど、これが結構濃厚なもので、メンソール好み。「メンソール、私、蕎麦つゆ使っちゃった」と夏美が言うので、メンソールのもり蕎麦用のものを渡した。カウンターには香りの高い山椒が置かれていたので、何に使うのか聞くと、蕎麦湯に使う人がいると聞いたので、早速チャレンジしてみた。確かに独特の薫りがした。最後は韃靼蕎麦茶が出されが、これまた薫り高い。
「メンソール、送ってくれようとしてるでしょ」
「うん。判るのか?」
「今日は、送らなくて良いわ。また連絡するし…」
「怪我したときだけ連絡というのはごめんこうむりたいかな」
「ふふっ、おバカさんね」
そう言って夏見は背を向けて歩き出した。メンソールは、夏見の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。いや、心配だったからちゃんと家に帰るまで見届けてから帰ったけど…。
(店 名) 十割蕎麦 やまなか
(ジャンル) 蕎麦屋
(所 在 地) 大阪市阿倍野区阪南町1-50-23
(電 話) 06-6622-8061
(営業時間) 11:30-14:00、18:00-21:00
(定 休 日) 火曜日
(ウ ェ ブ) http://www.yamanaka-sake.jp/soba/index.htm
P.S.
蕎麦屋なんですけど、店名から判るとおりで、山中酒の店の直営店です。一階のカウンター席の奥からは、中庭が見えるんですけど、それがまた見事というか衝撃的というか…。蕎麦は十割。北海道産の蕎麦粉を使っているらしいです。日本酒の取りそろえは20種類くらいと少なめ。アテがすばらしいので、しっかりと日本酒を楽しめ、蕎麦が楽しめます。ランチタイムも営業していて、日替わりランチが850円。ただし、1日10食限定だそうです。夜は座席数が少ないので、予約してくださいとのことです。