2013年11月05日

【追悼・萩原克己】エレックレコード社長の通夜に行った

先週亡くなったエレックレコードの社長、萩原克己さんの通夜が、五反田の桐谷斎場で行われた。告別式は翌6日の予定だった。僕はこの日新宿のヘッドパワーに出演予定だったが、幸い出番が最初だったので、多少遅くなっても通夜に駆けつけたいと考えた。

リハは午後3時20分からだったのに、間違えて一時間早く電車に乗ってしまった。会場に着いて、この日の出演者の多くが専門学校の生徒だったこと、出演が決まったあとで主催者が僕のプロフィールを見て驚いていること、アウェイだと思っていたイベントで僕の演奏に期待してる人がいることを知る。

6時になり、トップバッターとしてステージにあがって「必ず塁に出ます」と宣言すると、フロアの出演者が「バントで送ります」と返しきて、ウケた。1曲やるたびに「スゲエ」「カッケー」という声も聞こえて、ノリにのった25分間。最後の曲の前で自己紹介して、走者一掃してステージを降りた。汗びっしょり。またいつか、彼らと会えるといいな。

16-280


終ると急いで着替えて、新大久保から五反田へ。タクシーで桐谷斎場に向かう。会場に着いたのは7時20分ぐらいだっただろうか。

萩原家と書かれた斎場の前で、名刺と香典を渡し、中に入る。部屋には20人くらいの人が残っていて、生田敬太郎さんとよしだよしこの姿が目に入った。線香をあげさせてもらい、棺桶の前の列に並ぶ。

華やかな笑顔の遺影が飾られ、棺桶の中の克己さんは、派手なベストに白のスーツ、ソフト帽をかぶり、最後までバンドマンらしい粋な格好をしていた。無言で手を合わせる。よしことひと言交わし、敬太郎さんと二階の控室へ。

昔の相棒の伊藤薫と40年ぶりに逢えるかと期待していたが、すでに帰ってしまったようだった。Charも来ていたらしい。学校の教室ほどの控え室には、故人に縁のある何十人もの人が残って、料理を前に酒を酌み交わしていた。

一番奥のテーブルに元エレックレコード専務で全権プロデューサーだった浅沼勇さんと、ラジオ関東(今のラジオ日本)から元エレックの常務になった浮田さんがいて、二人の間に空席があったので、ひとまずそこに座った。波乱万丈だったエレックの最後のバトンを浅沼さんから受け取った克己さんに想いを馳せながら、昔話に花が咲いていた。

エレックレコードは僕にとっては学校みたいなもので、19歳で契約し、若くて無名で生意気だった僕らが、プロとして活動する場を与えられ、育成・プロモートしてもらえたのはラッキーだった。泉谷さんやケメの稼ぎのおかげでもあった。そう言ったら、浅沼さんが「いや違う、お前らは力があった」と言ってくれて、その気持ちが嬉しかった。

向いの席にはフォーライフのプロデューサー西原さんがいて、初対面ながら名刺をいただく。ふと斜め前の席を見ると、そこにいたのは音楽評論家の富澤一誠さんだった。一誠さんも気付かなかったらしく「あ、龍じゃないか」と言った。一誠さんは70年代に、竜とかおるのシングル「エミリア」や、僕の「あわせ鏡」を、今月のイチ押しとして雑誌「新譜ジャーナル」などで推薦してくれ、僕はそのことをずっと覚えていた。どこかで会えないかな、新しいアルバムを聴いて欲しいなと長い間思っていたのだ。早速名刺を頂いて、LOST&FOUNDを送ることを約束する。

故人の縁で他にも40年振りの再会があった。作詞家の門谷憲二さんだ。門谷さんは伝説の音楽制作集団「サイクル・ギス」の主催者として、泉谷しげる、古井戸、佐藤公彦(ケメ)、ピピ&コットといったメンバーを連れてエレックに入社、制作・宣伝を担当していた。ケメの「通りゃんせ」泉谷さんの「白雪姫の毒リンゴ」、布施明、山口百恵など千曲以上作詞している。

竜とかおる時代、僕の作詞能力を最初に認めてくれたのが浅沼さんと門谷さんだった。僕らのアルバムにも2作書いてもらったし、盟友とみたいちろうの「12時過ぎのシンデレラ」も門谷さんの手になるものだ。「エミリア」では門谷さんがディレクターを担当し、僕が作詞と編曲とギター、克己さんがドラムを叩いた。

門谷さんは昔とちっとも変わらない笑顔で、共に積もる話をした。門谷さんがアマチュア時代に組んでたバンドの相棒が井上信男さんで、僕をエレックにスカウトしてくれた人物だった。井上さんは後にエレックから独立し、僕も彼に付いてエレックを出た。「それが間違いだった」と言われたが、後の祭りだ。その会社にはエルザと三上寛と僕とかおるがいた。

井上さんはずっと昔に亡くなってしまったが、元加藤和彦のマネージャーだった。その後、門谷さんも加藤さんのマネージャーをやっていたことがあるというのは初耳だった。門谷さん、僕のアルバムも聴いてくれたそうで「面白かったよ。闘ってるねえ」と言われ、ちょっと照れた。

克己さんのお兄さん、萩原暁さんとも再会した。マックスのギタリストで、かつて、Charの「逆光線」や小坂明子の「あなた」などのヒット曲を飛ばしたプロデューサーだ。「弟の事をブログに書いてくれてありがとう」と言われ、逆に驚いた。ブログは誰が読んでいるかわからない。

マックスは本当に凄いバンドで、暁さんの弾くギブソン335とボリュームペダルによる演奏に若い頃の僕はあこがれたものだ。マックスのドラムは萩原克己さん、ベースは山口剛さん。1968年、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国大会のグループサウンド部門で優勝し、吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸などのエレックレコードのリズムセクションを支えてきた。

その暁さんがギターを弾かなくなったのはCharと出会ったからだという。「おじさんギター下手だね」と面と向って言ったらしい。若い頃のCharは本当に生意気だったが、それを上回る実力で、時代の扉を開いた。エレックのスタジオでデモテープを録音しているスモーキーメディスンを見たが、洋楽にしか聴こえず、目が点になった。その時はスリー・ドッグ・ナイトの「Joy To The World」をカバーしていた。

エレック時代、マックスの山口さん(タケちゃん)はずうとるびのディレクターを担当、克己さんは山崎ハコ、大瀧詠一のナイアガラ、シュガー・ベイブ(山下達郎他)などを担当し、後にポリドールと契約。水越けいこや香坂みゆき、欧陽菲菲、秋吉久美子、カシオペア、外道などをプロデュースしている。 相棒だった伊藤薫も、作曲家としてのキャリアを克己さんの元でスタートし「ラブ・イズ・オーバー」などの名曲を産んでいった。

克己さんは昔ながらのバンドマンで、仲間内だと言葉の順番をひっくりがえすバンド言葉を早口で喋るので、知らない人は何を言っているのまるでかわからない。雀荘で「あの人どこの国の人ですか」と言われたこともあった。勝ち気で、ちょっとコワモテだったけど、ミュージシャン・マインドを持った情熱的な人だった。

権利関係が複雑なこの世界でURC、ベルウッド、エレックの3大レーベルのカタログを一ヶ所に残しておきたいという夢を語っていた。ミュー音楽出版という出版社もやっていて、僕のエレック時代の楽曲も預かってくれるように頼んだことがあった。その時はうちでやるよりと、大手の日音を紹介してもらい、20曲位の著作権をそこに預けた。

新生エレックで契約プロデューサーとして会社を手伝っていた伊藤幸毅とも会った。幸毅は元はフュージョンバンド、プリズムのキーボードプレイヤーで、その後プロデューサーとして活躍している。家が近所だったので、仕事に関係なくよく一緒に遊んだ。何でも話せる友達のひとりだ。

元エレックのミュージシャンたちは別のテーブルを囲んでいた。加奈崎芳太郎さん、生田敬太郎さん、ピピ&コットのメンバーだったよしだよしこ、金谷あつし、早川君など。みんなが生きているうちに、また「唄の市」を企画できたらいいなと思う。2010年、2012年と二度やったきりだ。克己さんもそれを望んでいることだろう。

午後9時をまわり、浅沼さんがどこかに行って2次会をしようと言い出す。おそらく金谷の店「風に吹かれて」に行くんだろう。長野に帰る加奈崎さんが席を立つ。僕と敬太郎さんもそれに続く。みんな、生き延びてくれ。

タクシーを捕まえ、加奈崎さんのギターケースをトランクに入れて、敬太郎さんと3人で車に乗りこむろ、運転手が言う。「お客さん、失礼ですけどCharさんですか」「え?」「Charさんがここに来てると聞いたもので」「40年前だったら、ハイそうですって言っただろうな」と僕が言って、大笑いになった。

加奈崎さんが「また一緒にやろうな、来年の早いうちでも」と言って五反田で別れ、僕は敬太郎さんと山手線に乗った。敬太郎さんは克己さんと最も近い所にいた友人だったかもしれない。僕にとってはエレックで最初に出会った先輩で、今では「何でも話せる友達」のひとりだ。ここには書けない話をしながら、長い夜は更けていった。




miotron at 23:56│Comments(0)TrackBack(0)clip!

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔