期待の若手映画監督たちが横浜黄金町に集結します!
★未来の批評キャンペーン実施中! 詳細はこちらまで

未来の批評キャンペーン

未来の批評キャンペーン|三宅唱

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(*写真は、三宅唱『スパイの舌』より)

未来の批評キャンペーン、まだまだ継続中です。

本日、14時からの上映となる三宅唱監督。

三宅映画について、ご投稿がありました。

ありがとうございます。


会期中、会期後も引き続きキャンペーンは続行します。

みなさま、ぜひお気軽にご応募ください!

未来の批評キャンペーンについてはこちら
http://blog.livedoor.jp/mirai_kyosho/archives/51393279.html



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三宅唱監督作品について


初めて彼の名前を目にしたのはとあるブログの記事だった。凄い映画を撮るやつがいる、彼の名前を覚えておけ、と、その友人と思しき日記の書き手は書いていたと思う。その名前の主はそれからしばらくして、オンライン映画批評誌「flowerwild」で映画批評を書いていた。ロバート・アルトマンの遺作である『今宵、フィッツジェラルド劇場で』について、そこに映り込む物や聴こえてきたものについての精密な分析を中心に据えた、「映画の皺」( )と題された文章を読んで、どこか奇妙なつっかかりを覚えた。というのも、彼の文章には、「終わり」の気配とでも言うべきものがないのだ。座りが悪いというわけではない。構成に不備があるだとか、書き足りていないことがあるといったものとも違う。綺麗にまとめられ、簡潔な論旨によって紡がれた文章を書くことは、決して彼にとって難しいことではないように思われたのだが、どうにもそういう文章を書くことを拒否しているような素振りがあるように思えた。

それからしばらく後に、池袋シネマロサで開催されていた「CO2 in Tokyo 09」にて、ようやく彼の、三宅唱の映画を見た。その作品の力に驚くと同時に、彼の文章にあった奇妙な感覚の正体にはたと触れた気がした。そしてそれは彼の映画そのものを貫いている運動でもあるように思えたのだった。

三宅唱の文章は、そして映画は、「終わり」を拒否しているのではない。「終わる」ことは彼にとってひとつの「きっかけ」でしかないのである。「終わる」ことと同時に「始まる」ことがそこに存在することが何よりも重要である。『スパイの舌』において顕著であるように、完結したかのように見えるひとつの物語や出来事が、次の瞬間にはまったく異なる出来事に繋げられることこそが、彼の映画の速度と運動とを生み出しているように見える。「彼女はスパイである」という物語は、「彼もまたスパイ」であるという別の物語が出現することによって、一度は終わってしまう。しかしその「終わり」の余韻に浸っている暇はない。すでに口火は切られている。「終わる」ことと「始まる」ことが猛スピードで継続する運動こそが、彼のフィルムの原動力にほかならない。

彼の映画においてひとつの物事が適切にフレームに収まる瞬間は、決してそれ自体の充足を確かめるために撮られているのではない。『4』の4人の人物たちの時間の停滞が外国人女性の言動によって切断される瞬間、『マイムレッスン』の窓ガラス越しのレッスンが越境する瞬間、三宅の映画はそのフレームを更新している。ひとときの「終わり」を迎えることに充足するのではなく、つねにそれとともに訪れる「始まり」を捉え逃さまいとすること。それが三宅唱の映画なのだ。
言い換えれば、彼は「何か」について映画を撮るのではなく、常に「すべて」についての映画を撮っているのだとも言えるかもしれない。現在、わたしたちが目にすることができる三宅唱の映画は、いずれも短編作品ではあるが、そのスケールの大きさに驚いてほしい。そうすれば、彼の来るべき長編作品『最初の商売』が、きっと待ちきれなくなるはずだ。

(田中竜輔)

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三宅唱監督の映画は、1月28日14時より上映いたします。
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html

三宅 唱(みやけ・しょう)
1984年札幌生れ。在学中より、映画美学校フィクション科コースに通う。『スパイの舌』が第5回CO2オープンコンペ部門最優秀賞を受賞。また映画批評ウェブサイト「flowerwild」にて新作映画レビューも担当。現在、CO2助成作品として初長編を鋭意制作中。

http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/satomiya.html

未来の批評キャンペーン|小出豊

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(*写真は、小出豊『こんなに暗い夜』より)

おはようございます。

昨日の桃まつり〈黄金町の宴〉に引き続き、本日は、小出 豊特集でございます。

今回も、援護射撃となるレビューが送られてきました。

『お城が見える』に関するレビューですが、小出映画の全体を見渡す、絶好のイントロダクションになっております。

みなさま、ぜひお読み下さい。

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『お城が見える』について

夫は妻に暴力を振るい、妻は子に暴力を振るって殺した。夫はそれを隠すために子の死体を海に捨てた。逮捕された夫は更正プログラムとして、妻に振るった暴力を〈再現〉することを求められる。壁の中で起こったことが、キャメラというガラスの壁の前で再び演じられる。

そのさまを描く小出の手つきには、ひとつの無駄もない。無駄のないアクションが次々に生起し、細かいカット割りがそれを的確に捉えてゆく、そのスピード。次に起こることの予測もできないので、とにかく画面に集中しなければ、取り残されてしまう。おばちゃん笑顔で殴った! マネキン来た! 飛んだ!観客は目を見開いて「いま起こっていること」を把握しようと必死になる。徹底した「いま」に置かれる。

とにかく起こっていることを見ろ。小出はぶっきらぼうにそう言うかのようだ。見たいんだろ? じゃあ見ろよ、と。だが、この映画で描かれるのはそれでも〈再現〉にすぎない。ほんとうに悪いことは、それが「かつてあった」ということしか知らされない。あとは観客の想像力に任されている。世の中にあまたある壁の中では何が起こっているのか。この映画以上に悲惨なことが起こっているかもしれない。いや起こっているだろう。それも想像するしかない。

その意味で『お城が見える』という映画は、観客を信じている。一見いかにぶっきらぼうで暴力的に見えようとも、観客の想像力という一点にすべては賭けられている。だからこの映画の中には希望がないかもしれないが、この映画には希望がある。いや、それは希望というよりも、祈りといったほうがよい何かかもしれない。映画中、自らの声で「変わることの困難」を表明してみせたりもする小出は、それでも世界が少しでも救われることを祈っているし、だからこそ「お城が見える」と断言すると同時に、問いかける。「お城が見える?」と。傑作と呼ぶべきすべての映画がそうであるように、『お城が見える』は断言であり、問いだ。そして、同時に祈りでもある。

この映画の終盤に、妻に見立てたマネキンを頭から足まで、いくぶんかブレながらの移動撮影でじっくりとなめるカットがある。キャメラが足のほうまで来ると、夫は足の裏にマジックで「残念」と書いている。このカットは気になる。ここだけがどうも異質なのだ。無駄な装飾の一切ない、機能的なカットのみで構成されているこの映画の中で唯一、叙情が入ってくるカットに見える。ほかのカットでの突き放すキャメラに対し、ここでのキャメラはブレも含め、まるでマネキンを慈しんでいるかのようなのだ。

以前テレビで放映された小出豊脚本・万田邦敏監督作品『県境』を見て、思い当たったことなのだが、「DVを再現する話」である『お城が見える』は、同時に「死んだ子供が親に復讐する話」でもある。

『県境』はかつて身勝手な母親に家出された経験を持つ女の子が、家出しかえす話である。その際、女の子の家出を携帯電話を通じてナビゲートする男の子がいて、この二人の繋がりがこの作品を爽やかな恋愛ものにしているのだが(きゅんとする万田作品!)、ここに出てくる「ナビゲートする男の子」は、『お城が見える』の「スピーカーから夫に指示する声」と同じ役割を果たしている。どちらも「声」の存在なのだ。いまや「導く声」は天から降ってはこない。それは携帯電話やスピーカーといった音声機器を通じて降ってくる。その意味で小出の映画は、まぎれもない現代映画である。次作『こんなに暗い夜』でも電話が印象的に使われることになる。オムニバス『葉子の結婚』中の一篇、『月曜日』において、小出はついに劇中に「天の声」を登場させることになるが、もちろんそれが映画内で音声として響くことは決してない。今回はじめて小出作品に触れる方々には、シャープな画面連鎖だけでなく、その「声」の使用にもぜひご注目いただきたい。

本筋に戻ろう。『お城が見える』における冷徹なキャメラアイは、復讐に燃える子供の視点ではないか。冒頭部、やはり「残念」と書かれた子供の足(に見立てた人形)が海面に浮かぶカットがあるが、「残念」とは「念が残る」ことだ。夫に「残念」と書かれた妻に念が残り、その念が子に暴力を振るわせ、母に「残念」と書かれた子に念は残るが、その念の行き場はないまま子は死ぬ。その念の行き着く先こそが、この映画である(この念は次作『こんなに暗い夜』において、画面上には一度も登場しない未生の胎児として再び立ち現れることになる)。

だがそこに、マネキン=母親を慈しむような視点が唐突に入り込むことになる。父に殴られ憔悴しきって横たわる母=マネキンを、いたわるようにそっと見る子供......。しかもこの時点で、すでに子供は母親に虐待を加えられている。1カットだけ唐突にこのような視点が紛れこんでいるというその唐突さ、わかりにくさ。そこに小出の祈りが、希望がある。ほんとうに悪いことが起こっているのに、それでも......。それでも。ひとより早く老いたビリー・ホリデイが潰れた声で歌う、“But Beautiful”の“but”とは、そのようなものではなかったか。小さく、そっと呟かれる“but”、それは変わらないすべてを変えるための祈りである。

あの1カットは映画の完成度にとっては邪魔ではなかったか。しかし、あの1カットを入れざるをえないのが小出豊という映画作家なのだ。ジム・トンプスンの小説のように残酷でロマンチックな映画を撮れるのは彼しかいないと僕が信ずる所以はそこにある。

(本多夏夫)
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本日は、小出作品のほか、小出監督の選ぶ「この1本」として、フリッツ・ラング監督『条理ある疑いの彼方に』も上映いたします。

また、19時10より、万田邦敏(映画監督)との対談もございます。


小出 豊(こいで・ゆたか)
映 画美学校フィクション科コース修了。万田邦敏監督に師事し、『接吻』ではスクリプターを担当した他、同監督の短編TVドラマ『県境』、『一日限りのデー ト』では脚本も担当。『お城が見える』で第4回CO2オープンコンペ部門優秀賞を受賞し、CO2助成を得て撮り上げた初長編『こんなに暗い夜』が大きな話 題となる。また映画批評紙「シネ砦」の執筆者。

『お城が見える』
ひとりの男が、妻に家庭内暴力をふるい、それがきっかけとなり妻は息子を殺害してしまう。犯 行を隠蔽しようと、男は息子の死体を海に遺棄する……。第4回CO2オープンコンペ優秀賞。監督・脚本:小出豊/撮影:山岡太郎、深田晃司、四宮秀俊、川 口力/出演:吉岡陸雄、おぞねせいこ、大谷伸
2006年/DV/11分

本日のスケジュール

14h00 『綱渡り』『お城が見える』『月曜日』
15h30 『こんなに暗い夜』
17h30 この1本! 『条理ある疑いの彼方に』(フリッツ・ラング)
19h10 トーク 小出豊×万田邦敏(映画監督)|司会:松井 宏

http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html

未来の批評キャンペーン|加藤直輝

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(*写真は、加藤直輝『A Bao A Qu』より)

本日の加藤直輝特集を直前にして、ふいに援護射撃が!!

「未来の批評キャンペーン」にご投稿いただきました。

ツイッター上では、瀬田映画に興奮した方々のツイートが次から次へとあらわれ、私たちスタッフもその反響に驚いておりました。

本日もよろしくお願いします。

そして、キャンペーンへの投稿もあわせてよろしくお願いします。

http://blog.livedoor.jp/mirai_kyosho/archives/51393279.html


若手監督が一堂に会する、またとない機会。

ぜひ、一緒に盛り上げてまいりましょう!

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加藤直輝『A Bao A Qu』

『A Bao A Qu』は、重力の暴力性を次のように叙事的に顕在化してみせる。

屋上から投げ落とされた「白いもの」は、どこに落ちてゆくのかわからないまま、宙づりにされた状態でシーンが転換する。その宙づりにされたものの行方は、最後まで分からない。その一方で、まったく唐突に「黒いもの」が落ちてきて、ベビーカーを押しつぶす。はたして、どこから落ちてきたのか。子供を押しつぶされた母親は、目の当たりにした出来事に泣き崩れるばかりである。なぜ、こんなことがおこったのか。なぜ、私ではなく私の愛する人が……。

不可避の運命を受け入れるしかない、血縁に苛まれたギリシャ悲劇を想起することもできるだろう。しかし、子供を殺された母親にとっては、血縁すら因果となりえない。「なぜ」と問うこと自体が、虚しい。このフィルムのいたるところで、ものの因果関係は瓦解し、歪曲している。ものごとの行く先も来る先もともに不明なまま、人も出来事も唐突にあらわれて、消える。

ここに生起する特異なものとは、あるべきものの欠如がもたらす悲劇性、ものごとの関係性を剥奪しようとする暴力性、そして他との関係を失ったものたちがそれでもなお重力をもってそこにあるという驚きである。ベビーカーがつぶされた瞬間、それらは一挙に押し寄せてくる。

(森山聡平)

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加藤直輝監督の映画は、本日1月24日に上映いたします。

しつこいようですが、もう一度、スケジュールのご確認を!

1月24日(日)加藤直輝
14h00 『a perfect pain』『FRAGMENTS Tokyo murder case』
15h50 『Nice View』『りんごの皮がむけるまで』
17h40 『A Bao A Qu』
19h20 トーク 加藤直輝×藤井仁子(映画研究者)

チケット料金
1回・当日券 800円
1日券 1500円
3日券 3000円
フリーパス 6000円
※トークショーには同日の入場券または半券でご参加いただけます

プログラム詳細はこちら
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html

作品紹介はこちら
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/kato.html

加藤直輝
1980 年東京生まれ。立教大学フランス文学科卒業。在学時は映画研究会に所属。2007年、東京藝術大学大学院映像研究科(映画専攻・監督領域1期生)を修了。修了制作作品『A Bao A Qu』が第12回釜山国際映画祭コンペ部門にノミネートされるほか、ドイツやオーストラリアなど世界各国の映画祭で上映。現在、新作『アブラクサスの祭』を準備中。玄侑宗久原作の初映画化、スネオヘアー初主演でも話題になっている。

未来の批評キャンペーン|小出豊(2)

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(写真は、小出豊『綱渡り』より)

小出監督の『綱渡り』に関して、ご投稿をいただきました。
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小出豊『綱渡り』に寄せて

10年前に撮られたこの作品は題名が示す通り、ある地点からある地点へと移動する作品である。しかし、綱渡りの緊張感などは皆無だ。周りと上手くコミュニケーションを取れない葉一君が過ごす日常はどこにでもある日常で、学校で糸電話を作ったり、草むらに行ったり、なぞなぞに答えてみたりとどこにでもいる小学生の日常がそこにあるのだ。劇的な出来事が起きるのではなく、ほんの少し移動することで普段の日常とは異なる風景がそこに広がっていることを子供がわかっていたのかどうかはわからない。しかし、葉一君の視線は地面を見つめるのではなく窓越しに見える外へと向かっていく。

こうしたどこにでもある日常を描いているこの短編の中には様々な線がある。糸電話の糸、バスの路線、そして視線。これらの線を葉一君がいつもと違うつなぎ方をすることで、その線をたどることによって他人の声を確認し、見知らぬ風景が広がっていることを見ることに成功する。こうした日常の小さな接続する道具のつなぎ間違いの連鎖が物語を緩やかに動かし、最終的にとてつもなく大きな広がりを持つところへたどりつく。その瞬間、ある映画作家の処女長編を思い出したと同時に清々しい気分になった。再びこの作品を見て、小出監督のこの10年間の軌跡を追いつつ、前回見た時と同じように清々しい気分に浸ってみようと思う。

(吉岡香織)

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小出豊監督の映画は、1月27日(水)に上映いたします。
また、小出監督の選ぶ「この1本」として、フリッツ・ラング監督『条理ある疑いの彼方に』も上映いたします。
また、19時10より、万田邦敏(映画監督)との対談もございます。
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html

小出 豊(こいで・ゆたか)
映 画美学校フィクション科コース修了。万田邦敏監督に師事し、『接吻』ではスクリプターを担当した他、同監督の短編TVドラマ『県境』、『一日限りのデー ト』では脚本も担当。『お城が見える』で第4回CO2オープンコンペ部門優秀賞を受賞し、CO2助成を得て撮り上げた初長編『こんなに暗い夜』が大きな話 題となる。また映画批評紙「シネ砦」の執筆者。


『綱渡り』
外界とのコミュニケーションがうまくとれない少年の成長を描いた短篇ドラマ。高崎映画祭正式出品作品。
監督・脚本:小出豊
撮影:篠原悦子
出演:浅野翔太、松橋かずき、長谷川智也
2000年/16ミリ/33分

http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/koide.html

未来の批評キャンペーン|瀬田なつき

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(*写真は、瀬田なつき『あとのまつり』より)

今日は、いつになく問い合わせをいただき、事務局が慌ただしい雰囲気になってきています。

またまた、投稿をいただきました。

瀬田なつき監督の『あとのまつり』について。

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瀬田なつき『あとのまつり』

昨年「桃まつりpresents Kiss!」シリーズの1本として上映された『あとのまつり』が再び上映されるとのこと、とても嬉しく思い、投稿させていただきます。

『あとのまつり』は、真面目に出鱈目を見せる映画、だと思います。ファンタジーやおとぎ話というよりも出鱈目と言いたい。「出鱈目」という言葉の語源は、さいころを振って出た目のままにする、というものだそうですが、『あとのまつり』という映画にはどこか即興的な側面が不意打ちで現れて、その不意打ちによって時間が前に進んでいるような、そんな不思議な感覚を覚えるのです。本当に即興で撮られているシーンがあるかどうかはわからないけれど、この先少女がどこに行って何をするのかわからない、けれど、その小鹿のような身軽な足取りに着いていきたくなるような、そんなシーンが随所に散りばめられています。

私はこの映画を見た時に、ジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974年)という映画を思い出しました。『セリーヌとジュリー』は本当に即興の積み重ねでできているし、女優たちがリヴェットと一緒に台詞を考えていったそうだし、何しろ3時間以上もある映画だから、20分もない『あとのまつり』と比較することは無理があるかもしれません。でも、ひとり(『セリーヌとジュリー』はふたり)の女の子が世界を変える、あるいは、物語は終わりから始まる、という出鱈目であると同時に真実でもあるテーマを共有しているのではないでしょうか。

もっとこんな映画、「はじめまして」と言いたくなる映画に出会いたいものです。

(白水冬実・大学生)

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瀬田なつき『あとのまつり』は、1月23日(土)15時50より、上映いたします。
その他の上映作品は、『とどまるか なくなるか』(2002年)、『港の話』(2006年)、『むずめごころ』(2007年)、『彼方からの手紙』(2007年)です。
また、瀬田監督の選ぶ「この1本」は、クレール・ドゥニ『ネネットとボニ』(19時10分より上映)です
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html

瀬田なつき(せた・なつき)
1979 年大阪生まれ。2005年、横浜国立大学大学院を修了。在学中より、映画美学校フィクション科コースに通う。2008年、東京藝術大学大学院映像研究科 (映画専攻・監督領域2期生)を修了。井口奈己『人のセックスを笑うな』(2007年)では、メイキングを担当した(※瀬田監督と井口監督の対談は、1月 23日(土)17時50分より


『あとのまつり』
その街では忘れてしまうことが日常と なっていた。だから13歳のノリコたちは、忘れられることも忘れることも恐れないように、挨拶は「はじめまして」にしている。ある日、彼女は友達のトモオ とふたりで、自分たちのことを書いた手紙を風船に託す。遠くの誰かに、ふたりがこの世界にいたことを知ってもらうために。だがやがてノリコたちにも忘却が 訪れる……。
監督・脚本・編集:瀬田なつき
撮影:佐々木靖之
出演:中山絵梨奈、福田佑亮、太賀
2009年/HD/19分

http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/seta.html

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