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寄稿

桝井孝則『夜光』|梅本洋一

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(*写真は、桝井孝則『夜光』より)

上映後、さまざまなサイトで「未来の巨匠たち」上映作品について言葉が交わされております。

「未来の巨匠たち」ウィーク、あっという間に1週間は過ぎ去りましたが、熱気はまだまだ残っています。

作品に刺激され、つぎつぎと新しい言葉が生まれてくることを願っています。

今回の企画にも参加していただいた映画批評家の梅本洋一さんもさっそく『夜光』について書いていますので、ここに掲載いたします。


* * *

「未来の巨匠たち」特集上映の枠で、桝井孝則の『夜光』を見た。プログラミングに携わるひとりなのに、初めて見たと告白する無責任さを許してほしい。関西に住む彼の作品に触れる機会がなかったと言い訳するのも、DV撮影されているのに、ディジタル時代のアナログメディアである映画がなかなか距離を踏破しづらいことを示しているのかもしれない。

「未来の巨匠たち」ブログに掲載されている海老根剛の文章( はこのフィルムにはうってつけのイントロダクションになるだろう。そして桝井孝則のフィルムを、ものの1分も見れば、このフィルムが作っている力学を感じられない人はいないだろうし、その映画を見たことがある人なら一様に「ストローブ=ユイレ!」と呟いてしまうだろう。異様なテンションで語られるリアリズムから遠い台詞回し、長々と続行する風景のショットとノイズを排除しない現場の音……そう書けば、ストローブ=ユイレの真似事は誰にでもできそうなのだが、ゴダールの真似をできる人がいないように、映画の限界体験でもあるストローブ=ユイレの力学をそのままコピーしたところでストローブ=ユイレになれる人など誰もいない。なぜなら、ストローブ=ユイレのフィルムが生成するのは、フォルムではなく、力学からだからであって、その力学は、厳密な弁証法に基づいて成立する。音声と映像と簡単に言ってしまえばそれまでなのだが、その弁証法的な力学に到達できる人は、例外的だ。

つまり桝井孝則は例外的な存在だ。彼のフィルムでは、どんな局面においてもそうした弁証法的な力学が息づいている。台詞と声、ペンと紙、男と女、都会と田舎、停止と移動、時間と空間、仕事と金銭……。表面的には、派遣労働者である女性と同じように写真家になりたいのだがアルバイト生活をする男性の労働についての物語の体裁を採っている。重要なのは、その物語が語る内容ではなく、弁証法の産み出す力学であって、映画は、その要素をひとつひとつ詳細に知的に構成しつつ、弁証法の運動をそのプロセスのまま提示している。『夜光』は、その意味で、撮ってしまった映画とは正反対の位置にある。

むろん、こうした映画が備えている困難さについては誰でもが知っている。映画は商業であり、娯楽であると言われれば、このフィルムは、その範疇には入らない。映画産業から見れば、このフィルムは映画ではない。だが、映画にはどんな可能性があり、映画でどんなことが可能になるか、という商業を括弧に入れて、別の問題を立てれば、このフィルムほど、その問いにまっとうな回答を与えているフィルムはないだろう。つまり映画とは思考である。映画とは弁証法の運動である。

*「nobody」ウェブサイトより
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0126_1950.php

梅本洋一(うめもと・よういち)
1953年生まれ。横浜国立大学・教育人間科学部マルチメディア文化課程教授。パリ第8大学大学院映画演劇研究所博士課程修了(映画論、フランス演劇史専攻)。最近の著書に『建築を読む』(青土社、06年)、『映画旅日記 パリ、東京』(青土社、06年)ほか。

* * *

『夜光』
現代に蔓延する疎外。仕事が生活を圧迫し、生活はただ食べて寝るという単調な繰り返しになっていく、 という日常。印刷会社で働く由佳も、そのひとり。会社の傾きにより、時間外も働くことが当たり前になって自分の生活を見失ってしまう。映画はここから始ま る……。第16回大阪ヨーロッパ映画祭上映作品。
監督・撮影:桝井孝則
録音:松野泉
出演:本倉由佳、濱口香済、植田歩、佐々木一平、田野“JAM”昌子
2009年/DV/51分
映画『夜光』公式HP
http://www.shikounorappasya.or.tv/yako/main.html

桝井孝則(ますい・たかのり)

1979年大阪生まれ。「思考ノ喇叭社」( )の一員。2006年、板倉善之『にく め、ハレルヤ!』に製作助手として参加し、2003年に活動をスタートした「思考の喇叭社」に加入した。同グループは、個々のメンバーが映画、アニメー ションに限らず、イラスト、音楽、人形制作とジャンルを超えて協力し合いながら、活動を続けている。

佐藤央『結婚学入門(恋愛編)』|結城秀勇

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(*写真は、佐藤央『結婚学入門(恋愛篇)』)

本日、ついに初上映となる新作『結婚学入門(新婚篇)』の佐藤央監督。

佐藤監督の映画について、雑誌「nobody」の編集長・結城秀勇さんより、ご寄稿いただきました。

佐藤監督の「結婚学入門」は、3部作を予定しておられるそうで、「恋愛篇」がその第1作目にあたります。

新作「新婚篇」を見る前に、ぜひとも「恋愛篇」を見ておきたいものですねえ。


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佐藤央『結婚学入門(恋愛編)』

「マネキンがなきゃ、どうしようもないじゃない!」……。いったい彼らは、マネキンを用いて「どうしよう」と思っているのか。講習会……? 新作カツラ……? 断片的な情報をつなぎ合わせてもいっこうに見えてこない。だが勘違いしてはいけない。マネキンは不在の中心たるマクガフィンなどでは決してないのだ。ほらあなたも確かに見たでしょう、建物の薄暗い隅っこに置き去りにされたマネキンを。僕も見ました。マネキンはある。だからこそ、いまここにないだけで、あることはあるマネキンのポジションを巡っての交換劇を、笑いもこらえずに見守ることができるのである。

『結婚学入門(恋愛編)』と題されたこの作品には、結婚そのものは週末に控えた友人の結婚式として会話の端に上るだけだ。だがホテルとマネキンという組み合わせはどうも結婚式を連想させる。ホテルの式場で、片隅にウェディングドレスをまとったマネキンが据えられた結婚式に参列したことなどないにもかかわらず。いや気づかなかっただけで、あの時がそうだったのかも。花嫁だったと思っていたアレは実は……。居並ぶ人々をそこにつなぎ止めておく口実にすぎなかったのかもしれない。

この作品のマネキンもまた、放っておけば散り散りになってしまう二組のカップルをつなぎ止め、内に秘めたる交換可能性を発揮して、様々な交差を導き出す。右手に持ったタバコを口の左端にくわえ、次いで左手に持ったタバコを口の右端にくわえる、あの杉山彦々の仕草の素晴らしきなめらかさをもって、混乱を装った秩序が18分を支配する。


結城秀勇(ゆうき・ひでたけ)

1980年生まれ。雑誌「nobody」編集長。

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14時からの三宅唱作品の上映に続き、

佐藤央監督作品は、以下のスケジュールでの上映となります。

15h00 『女たち』『不安』『結婚学入門(恋愛篇)』
16h40 『シャーリーの好色人生』『結婚学入門(新婚篇)』
18h10 トーク 佐藤央×大谷能生(音楽家、批評家)
19h30 この1本 ハワード・ホークス『ヒズ・ガール・フライデー』

http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html

佐藤 央(さとう・ひさし)

1978 年生れ。法政大学卒業後、映画美学校に入学。修了制作作品『女たち』の他、成瀬巳喜男のキャメラマンとして知られる玉井正夫のドキュメンタリー『キャメラ マン 玉井正夫』も監督。また冨永昌敬監督との共作『シャーリーの好色人生と転落人生』(『好色人生』担当)が劇場公開され注目を集めた。本特集では最新作『結 婚学入門(新婚篇)』を本邦初上映。

http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/satomiya.html

桝井孝則『夜光』について|海老根剛

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(*写真は、桝井孝則『夜光』より)


ついにやってまいりました!!

3日目の本日は、桝井孝則、唐津正樹両監督の特集です!

大阪から桝井監督、京都から唐津監督におこしいただき、関東では初上映となる貴重な作品ばかりを上映いたします。

そして、今回も頼もしい援護射撃をご寄稿いただきました。

大阪市立大学で教鞭を執られる海老根剛さんから、大阪の桝井監督に向けてエールが送られてきました。

どうぞお読み下さい。

また、20時40分より、桝井監督、唐津監督をお招きし、トークショーを開催いたします。

司会を務めるのは、「未来の巨匠たち」のひとりである佐藤央監督。

大阪出身で、おふたりと親交のある佐藤監督が、お二人にお話をうかがっていきます。

桝井映画、唐津映画を堪能しに、ぜひご来場ください。

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『夜光』について


ぎりぎりになってしまいましたが、大阪から参戦する桝井監督の『夜光』を応援します。

『夜光』は特権的な個人ではなく、「普通のひと」の映画です。仕事は生活費稼ぎと割り切って、休日に趣味の音楽に没頭しようと思って就職したのに、いつの間にか仕事に追いまくられて気がつけば楽器に触ることもなくなってしまっていたり、研究が続けたくて非常勤講師や塾講師をしていたのに、いつの間にか疲弊して研究へのモチベーションが失われている自分に気がづいたり、マッキンゼー流処世術のカッコ良さに惹かれて勝間本を読んでみたものの、「こりゃ自分には無理だわ」と内心思ってしまったり、長期間の就職活動でへとへとになってしまったりしている、そんなわたしやあなたの現在がこの映画には描かれています。じっさい、この映画に出演しているのは、大阪の中崎町周辺で働き暮らしているひとたちです。

しかしだからといって、『夜光』はわかりきった日常を退屈に反映するだけのリアリズム映画ではありません。むしろその対極にあるといっていいでしょう。厳格なショットのひとつひとつのなかで、登場人物たちはじつに堂々とした存在感をもった立ち姿で現れ、決して日常的ではない言葉遣いで会話を交わします。アクションも発話も、奇妙な感触を強烈に残します。

特にこの映画で話される言葉のありようは、唯一無二と言っていいでしょう。前作では原作の書き言葉から台詞が作られていたのに対して、『夜光』では、桝井監督がインタビューでも語っている通り、現実から採集した言葉をもとに構成された台詞が用いられています。この話し言葉でも書き言葉でもない言葉の魅力をぜひ味わってほしいと思います。映画における言葉のありようにはまだまだ私たちに未知の可能性が潜んでいるのだと知ることになるでしょう。

したがって、『夜光』は私たちの普通の生活を描いていますが、それを強烈に異化してもいるわけです。そして、この映画に登場する普通の人々は、自分の現実を変えようとして、迷い、考え、最初の一歩を踏み出します。それはどんなにささやかなものであろうとも、現実を「いまあるものとは別のもの」として想像=創造しようとする試みです。まさにこの点でこの映画の形式と内容は厳密に一致しているわけです。そのとき、私たちの眼前で、見慣れたものだったはずの世界の相貌が一新されていくことに、私たちは深い感動を覚えることでしょう。夜の闇のなかに光が瞬き出すのです。

海老根 剛(えびね・たけし)
大阪市立大学大学院文学研究科・文学部(表現文化コース)准教授。専門分野は、ドイツ研究・文化学・映画論。大阪都心・船場を拠点に、都市における芸術の可能性を追求する「船場アートカフェ」()にディレクターのひとりとしても関わっている。
ウェブサイト「netz-haut」http://www.korpus.org/

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桝井孝則監督の映画は、本日1月25日14時からの上映となります。

唐津正樹監督の映画は、本日1月25日15時40分からの上映となります。

桝井孝則(ますい・たかのり)

1979年大阪生まれ。「思考ノ喇叭社」の一員。2006年、板倉善之『にくめ、ハレルヤ!』に製作助手として参加し、2003年に活動をスタートした「思考の喇叭社」に加入した。同グループは、個々のメンバーが映画、アニメーションに限らず、イラスト、音楽、人形制作とジャンルを超えて協力し合いながら、活動を続けている。

唐津正樹(からつ・まさき)

1979年京都生まれ。大阪電気通信大学に進学し、映画監督・大森一樹に師事する。在学中より、京都国際学生映画祭にスタッフとして参加し、同映画祭のドキュメンタリーを撮影。卒業後、京都の映画制作団体「町屋プロダクション」に加わる。
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/masukara.html

本日のスケジュール
14h00 『罠を跳び越える女』『夜光』(桝井孝則)
15h40 『座子寝』『団地』『赤い束縛』『喧騒のあと』『太陽と風に叛いて』(唐津正樹)
17h50 この1本!『放蕩息子の帰還/辱められた人々』+シークレット作品
20h40 トーク 桝井孝則×唐津正樹|司会:佐藤央
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html

私の知っている2、3の映画作家について|濱口竜介

なんと「未来の巨匠たち」監督のひとり濱口竜介監督からを寄稿いただきました!

瀬田なつき監督、加藤直輝監督、佐藤央監督について語っています。

同世代の監督たちが互いに認め合い、そして強烈に刺激し合う姿が、
この文章からも窺えるはずです。

「映画」がつねに「驚き」であるためにはどうすればよいのか?

それに対する各々の答えをここで読むことができます。

彼らの映画のみならず濱口監督の映画を理解するためにも必読の文章。

読んだスタッフ一同も、やる気がさらに増したとともに、身が引き締まった檄文です。

どうぞ。

* * *

私の知っている2、3の映画作家について


よく忘れられているが映画とは驚きの言い換えである。

そもそも2時間前後の時間で、ある事柄を描き出す以上、当然映画は現実だったら到底受け入れがたい無茶をその内に含んでいるのであって、その驚きは言わば当たり前の驚きなのだが、この当たり前の驚きという矛盾を生きるのは非常に難しいため、人は時折「映画とは驚きのことだ」という当たり前の事実を忘れてしまう。そうした事態を前にして、「映画作家」という人種が(もしいるとして)常日頃考えているのは「じゃあ、一体どうやって驚かせてやろうか」ということなのである。しかし厄介なことに、彼らが望むのは、「おお!」とか「ああ……」とか「ええ?」とかいう驚きではない。それは例えば「お」とか「あ」とか「え」と口にするしかない、ひょっとしたら気付くこともできないような微細な驚きである。そのような微妙さの一方で、映画作家とはその驚きを連ね、「えおあおいおあうえい」というほとんど統合失調的な驚きをどうやって観客にもたらそうか、と始終考えている(あらゆる意味で)危険極まりない連中なのだ。私の知っている2、3の映画作家を例に挙げる。

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(*写真は、瀬田なつき『港の話』より)

瀬田なつきという監督がいる。彼女の映画に息づく「ここではない何処か」への強い希求を、ある種の未成熟さとして批判する者がもしもいたら、それは大き な間違いである。というのも、彼女の映す光景はどこをどう見ても「今、ここ」でしかないからだ(それはあの、あまりに虚構じみたスクリーン・プロセスでさ えそうなのだ)。別に「今、ここ」にとどまることが、「ここではない何処か」へ飛躍することよりも優れた選択だと言っているのではまったくない。我々の見 慣れた風景(「今、ここ」)が、たったひとつの身振りで、たったひとつの言葉で、「ここではない何処か」へ変容するあらゆる瞬間に、我々はただただ驚くべき だ、と言っているのだ。『港の話』では、断片的だった身振りや言葉は、やがて断片的なまま連なり出し(『彼方からの手紙』『あとのまつり』)、ふぞろいな ダンスへと発展する。彼女の映画はこのとき、「今、ここ」と「ここではない何処か」がまったく同じものである、という矛盾をダンスフロアにして踊り始め る。その魅惑的な危うさを目の当たりにする時、やはり我々は到底言葉にならない「えおあおいうえううい」的な驚きへと誘われるのだ。かつて登場人物の不可 思議な一挙手一投足を「瀬田化」と評した人は言い得て妙であった。映画を見て、心臓が速いリズムを刻んだらすでに「瀬田化」の波はついに我々まで及び始めてい るのかもしれない。世界が瀬田化する日、それは久方ぶりに映画の勝利が叫ばれる日になるだろう。

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(*写真は、加藤直輝『A Bao A Qu』より)
 
加藤直輝という監督がいる。彼のこれまでの映画を「暴力映画」として忌避する人がもしいるとしたら、やはりそれもまた大間違いなのである。というのも彼 はこれまで一度も「暴力映画」など撮ったことがないからだ。彼の映画を見た者は、その圧倒的な暴力描写とともに、叙情的な生活描写を併せ持っていることに驚 くだろう。そのふたつがあまりに似つかわしくない、とさえ。しかし、実はこれは同じものだ。加藤直輝の映画で、通り魔がバットを振り下ろすその瞬間、真に破 壊しているものは、別に「登場人物」ではない。それは「生活/暴力」の間に我々が無意識に仮定していた「/」を破壊するのだ。加藤直輝が徹底して破壊を試 みるのはあくまでこの「日常/非日常」「善/悪」「生/死」「現実/妄想」「事実/物語」の間に我々が自らの安全のために仮定している「/」なのであり、 加藤直輝にもし暴力性があるとすれば、そうした安穏さを彼が決して許さないことだ。こうした「/」が具体的に破壊される瞬間を触知した者は「あ」と呟かざ るを得ず、そこである恐怖を感じるはずだ。もしかして、おそらく加藤直輝の最終的な野心はスクリーンという「/」を破壊することなのではないか。彼が隙あ らば常に爆音上映を仕掛けて来るのはその現れだろう。目の前でスクリーンが破壊されるその事態を前にして、観客が「あえおいうえあいえあ」と逃げ出して も、きっとその時はもう遅い。世界は加藤直輝のものだ。だったらせめてその瞬間を見届けるのがよい。
 
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(*写真は佐藤央、『結婚学入門(恋愛篇)』より)

佐藤央という監督がいる。しかし、誰も決して佐藤央に驚くことはできない。

これは比喩的な意味ではない。佐藤央の映画を見て驚くことは、瀬田なつきや加藤直輝の映画を見て驚くより、遥かに困難なことだ。彼らの映画においては、 何とか可視化されていると言っていいフレームの内と外の無化、言ってみればオン/オフ境界の消失を佐藤央も軽々とやってのける。しかし、彼においてそれが 起こるのは「編集」の次元であり、オフがオンに塗り替えられるその瞬間はただ「編集点」というその一点でのみ起こり、人は「オン」の世界しか見ることがで きない。そこで触知される驚きは「ぁ」とか「ぇ」という極めて微細なものなのだが、一方でその微細な驚きの発見が最も大きな悦びをもたらすこともまた確か なのだ。人が佐藤央を語るためについつい「成瀬巳喜男」や「マキノ雅弘」と言った固有名詞で代表させて済ませてしまうのはその微細さ故だろう。しかし、現 時点での最新作『結婚学入門(恋愛篇)』で、何かが変わり始めている。ここには達人が技に入るために見せる一瞬の隙のようなものがあるのではないか。映画 のスピードと役者のそれが微妙な食い違いを見せ、佐藤央の映画は初めて人の目に留まる速度に達した。一方で、彼はすでに次の次元に入り始めている。驚くべき 早さで繰り出される新作『結婚学入門(新婚篇)』で、それがすでに起こっているのか、まだ誰も知らない。しかし、もし「ぇはひぁふひへへぁは」ともし「笑い ながら驚く」事態が起きていれば、時はすでに遅い。我々はひょっとしたら永遠に佐藤央に辿り着けないかもしれない。「笑い」と「驚き」の不可能な両立を達成 し、彼は誰よりも遠くへ行ってしまう。だが今ならまだ佐藤央を捉えられるかもしれないのだ。だとしたら、この機会を決して逃してはならない。
 
映画のもたらすこうした驚きは、あなたの人生を狂わせるかもしれない。しかし、それこそが彼らの目的だし、案外あなた方が望んでいることなのではないか。しかし、ただ驚かされるのも悔しくはないか。このままでは、言葉はひとり負けである。多くの場合、言葉は映画を愛しているが、映画は言葉を毛嫌いしている。どんな映画も言葉で自らを語られてしまう機会を忌避している。あるショットを叙述しようとする、叙述できると信じていることの醜さを、映画は決して容認することができないからだ。映画は自らを醜く映すことしかしない「言葉」という不出来な鏡を粉々にし、歪みのない欠片にのみ自らの姿を映す機会を常にうかがっている。そうした欠片が「お」とか「あ」とか「え」という驚きなのだ。それでももし言葉が映画と一緒にいたいと思うなら、それは映画にとって鏡ではなく他者でなくてはならない。驚きであるような言葉でなくてはならない。映画とて案外、言葉に狂わされるその時を待っているのだから。

濱口竜介(はまぐち・りゅうすけ)
映画監督。「未来の巨匠たち」特集監督のひとり。29日(金)に上映。
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/taki.html

* * *

瀬田なつき監督の作品たちは、明日1月23日(土)に上映いたします。「この1本!」には『ネネットとボニ』(クレール・ドゥニ)。トークゲストには井口奈己監督(『人のセックスを笑うな』他)をお迎えします。
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/seta.html


加藤直輝監督の作品たちは、明後日1月24日(日)に上映いたします。トークゲストには藤井仁子氏(映画研究者)をお迎えします。
 
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/kato.html


佐藤央監督の作品たちは、5日後1月28日(木)に上映いたします。「この1本!」には『ヒズ・ガール・フライデー』(ハワード・ホークス)。トークゲストには大谷能生氏(音楽家、批評家)をお迎えします。また最新作『結婚学入門(新婚篇)』のワールド・プレミア上映もあり。
 http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/satomiya.html

加藤直輝『FRAGMENTS Tokyo murder case』|槻館南菜子

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(*写真は、加藤直輝『FRAGMENTS Tokyo murder case』より)


槻館南菜子さんより、加藤直輝監督の映画についてご寄稿をいただきました。
 
加藤監督の映画は、1月24 (日)に上映いたしますが、19時20分より、藤井仁子さんと加藤監督との対談もございます。
 
藤井仁子さん主催の「Theatre Oblique」では、藤井さんが加藤作品を論じたテキストが多数掲載されております。
 
こちらもあわせて、お読みください。
 
in a lonely place——加藤直輝 人でなしの契約書(『a perfect pain』と『funeral dinner』について )
http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/JinshiFUJII/inalonelyplace1.htm
 
斬る——加藤直輝『FRAGMENTS Tokyo Murder Case』『Nice View』
http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/JinshiFUJII/fragments_niceview.htm

犬はいない——加藤直輝『りんごの皮がむけるまで』
http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/JinshiFUJII/ringo.htm
 
また、同ウェブサイトでは、加藤監督の書いたテキストや、『A Bao A Qu』に寄せられた中村秀之さんによる「特別寄稿」も掲載されています。
 
巧妙さについて――『エレファント』×『誰も知らない』|加藤直輝
http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/NaokiKATO/elephant_nobody1.htm
 
放心する獣たちの遭遇——『A Bao A Qu』の冒険|中村秀之

http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/NAKAMURA/ABaoAQu1.htm


* * *
 
加藤直輝『FRAGMENTS Tokyo murder case』
 
AM8:00起床、AM10:40学校、PM2:45、PM4:10、PM8:00……。
 
『FRAGMENTS Tokyo murder case』 は、ある女子大生の過ごすありふれた日常、そしてその先にある悲劇にぴったりと寄り添っていく。この作品において出来事は予期せぬものとして生起するとい うより、その結末に向かう過程の中で私たちがただそれを見届けているという感覚の方が近いのかもしれない。すべては起こるべくして起こる。公園でのあの惨劇すらもそう思わせてしまうような不穏さをこの映画は纏っているのだ。
 
電車に揺られながら変わっていく風景をぼんやりと眺める横顔。改札を抜け、足早に大学へ向かう横顔。携帯電話で話しながら声を躍らせる横顔。まるで何も聞こ えていないかのように広場をすり抜け、彼氏との待ち合わせ場所に向かう横顔。彼女はただひたすら時間という点を結ぶ通過を繰り返す。この16分間、私たちは不安の中、何度も身震いするような感覚を覚えることになる。なぜなら、彼女以上に私たちは多くのものを目撃してしまうからだ。彼女が遭遇しな かった、見落とした瞬間に出会うこと。見えること、聞こえることの恐怖。眼前に広がるスクリーンには、多くの予兆が満ちている。私たちは『a perfect pain』から『A Bao A Qu』に到る加藤直輝の作品に、目を凝らし、耳を澄ませてみる必要がありそうだ。
 
槻館南菜子(つきだて・ななこ)

1982年生まれ。横浜国立大学環境情報学府博士後期課程在籍。

* * * 
 
加藤直輝『FRAGMENTS Tokyo murder case』は、1月24日(日)14時より、上映いたします。
http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/program/index.html


加藤直輝
1980 年東京生まれ。立教大学フランス文学科卒業。在学時は映画研究会に所属。2007年、東京藝術大学大学院映像研究科(映画専攻・監督領域1期生) を修了。修了制作作品『A Bao A Qu』が第12回釜山国際映画祭コンペ部門にノミネートされるほか、ドイツやオーストラリアなど世界各国の映画祭で上映。現在、新作『アブラクサスの祭』 を準備中。玄侑宗久原作の初映画化、スネオヘアー初主演でも話題になっている。



『FRAGMENTS Tokyo murder case』
ある女子大生の、いつもと変わらぬ平凡な1日に少しずつ不穏な空気が忍び寄る……。映像と音響のみで際立った緊張度を生み出すサスペンス作品。
監督・脚本・撮影・編集:加藤直輝
撮影:杉原憲明
出演:鈴木智恵、坂ノ下博樹、小津俊之
2005年/DV/16分
 http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/films/kato.html
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