地球一周の旅をする船「ピースボート」で世界に出会う

世界中のNGOや学生たち、子ども達と交流しながら「国と国の利害関係」とは違う新たな繋がりを作っていくことを目的とした旅をする船、「ピースボート」を聞いたことがありますか?

その船旅をコーディネイトするのが、「NGOピースボート」。

そこで働く女性、小野寺愛さんが今回登場する“夢をかなえた先輩”です。


取材を申し込むと、小野寺さんから、
「私にはまだたくさんの課題があります。にもかかわらず、その先にはまた新しいものを描いていたりもして、決して“夢をかなえた先輩”ではないんです」と言う返事が返ってきました。

 しかし、彼女が描いていた夢が今、ひとつの形となってスタートしていると聞き、そのお話がどうしても聞きたくて、訪ねることにしました。「世界一周する仕事」と聞くと、きっと多くの人が「楽しそう!」と言うでしょう。小野寺さんがそんな楽しそうな仕事にたどり着くまでの道のりは、どんなものだったのでしょう? そして、その先に描かれた新しい夢とは?

 



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「海と旅で使い果たしてほとんどお金を持っていないのに、それでも『もっと旅がしたい!』といつも思っていました」と、自身の学生時代を振り返って小野寺さんは言います。

「そんな時に、『ピースボートでは、通訳スタッフとしてならタダで地球一周する船に乗れるらしい』と友達から聞いたんです」

それが、ピースボートとの出会いだったのだそう。

 

——最初に通訳スタッフとしてピースボートで行った旅は、どんな旅だったんですか?

22歳の私が最初に経験したのは、紛争地から留学生たちが参加している旅でした。それまでもバックパックで旅したり、留学したりと、海外には慣れていたんです。でも、訪れた国の人たちの本当の生活には出会っていなかったんだ…って、ピースボートに乗って初めて気がつきました。

ピースボートでは、タヒチに行けばリゾートだけでなく先住民のコミュニティへ、イスラエルに行けばエルサレムと死海だけでなくパレスチナの難民キャンプも訪れる…といった感じで、世界中の多様な人々の「普通の暮らし」に直接出会う機会があります。当然、貧困や紛争、環境破壊の現場などの世界の問題も目の当たりにすることになります。衝撃でした。それまでの自分の旅にはなかった出会いばかりでしたから。

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コロンビアの町、アロージョ・デ・ピエドラではマングローブを植樹。
家畜のえさにするほか、エビの養殖もおこなっています。

——その学生時代のピースボートの旅をきっかけにそのままピースボートに就職されたのかと思ったら、違う道に進まれていますよね?

 

そうなんです。ピースボートからも卒業後はスタッフとして働かないかという誘いをもらっていたんですが、そういう気はありませんでした。旅はすごく楽しかったけれど、なんというか漠然と「NGOで働いても食べていけないんだろうな」という考え方があったんでしょうね。NGOに勤務する自分を現実的に想像することができないまま、金融機関に就職しました

 

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仏領ポリネシアの核実験を止めたタヒチの先住民リーダー、ガブリエル・ティティアラヒと。
「地に足をついて生きることの意味を教えてくれた、人生の師匠」と小野寺さん。

——世界一周という開放的な経験をした後で、なんでまた金融関係のお仕事だったんですか?

 

今となっては「青かったな」って思うんですけど。貧困や紛争、気候変動などの問題を本気で解決したいと願うとき、世界をいちばんダイナミックに動かしているのは何だろうと考えました。今なら「人のつながり」や政治、他の要素もいろいろあるとわかるのですが、当時は「本当に世界を変えたかったら、お金の流れを変えるのが一番の近道だ」と思ったんですね。今ではよく言われているけれど、当時はまだ斬新な方法だった「社会的責任投資」について勉強して、金融機関に入りました。

 

——世界を旅した後に日本の金融機関に勤務。生活のスタイルやテンションは切り替えられるものでしょうか?

 

入社してすぐ、「ああ、辞めるだろうな」って思いました。笑

だって、「もう一周、地球の南半球にも行ってみたい」と思って乗った二度目のピースボートから降りたのが入社式の前日でしたから。その旅の最後の寄港地が、パプアニューギニア。貨幣経済がそれほど浸透していない小さな村を訪ねたのですが、そこでは首飾りにしている小さな貝を地域通貨として使っていた。日本からの来客を、とにかく笑顔いっぱいの村の人々が踊りで歓迎してくれた。そんな旅をしていた船を降りた次の日に、スーツで六本木ヒルズのオフィスにいましたから、とんでもない逆カルチャーショックです。

でもね、「辞めるだろうな」って思う違和感は、はじめは小さなことばかりだったんですよ。同じ会社の人でも顔見知りでなければ挨拶しない文化とか、本当に必要かどうかも問われずに文房具を好きなだけオーダーできてしまう仕組みとか、ミーティングで大量にケータリングした食べものを残すとか、小さなこと一つひとつが自分の感覚に合わない、という。なにより、「だけど、ここはそんなことを言う場所じゃないのかな」と思わされる空気と、その空気を読んでしまう自分に、違和感を感じていました。

初日に言われた「あなたたちに期待するのは、効率よく合理的に利益を生むためのクリエイティビティです」という言葉にも、全然ワクワクしなくて。それでも、「お金の流れが分からないままだと、私は何もできない。だからそれを学ぶんだ」という気持ちでなんとか働いていました。

 

——その後、いざ辞めようと思ったきっかけはいつやってきたんですか?

 

就職したのが2002年。2001年に9.11があって、アメリカがイラク戦争を仕掛けようとしていたころ、ピースボートで一緒にボランティアしていた仲間たちがアメリカ大使館の前で、「イラクを攻撃しないで」というデモやハンガーストライキをやっていたんです。私も、その戦争の原因がアラブの人たちにあると言われているのを見ていて辛かった。ピースボートの旅をしていた時にパレスチナで出会って友達になった人やその友達かもしれない人たちが現地でデモを起こしているのも、メディアでは悪いところだけが切り取られて流されているように見えました。私も、戦争は始まって欲しくないという思いで、お昼休みに友人たちのもとに駆け付けて、昼休みが終わる前に急いで会社に戻るという感じで参加していました

 

——ランチタイムだけデモって、すごいですね……。

 

そう。でもね、会社に戻ると、戦争が始まる前提で中東圏の株価の動きについてミーティングが行われているんですよ。それは別にその同僚たちが悪者なわけではなくて、彼らがたまたまそれを仕事としているだけなのだけど。その頃、「この会社にあと10年いたら社会的責任投資にも携われるかもしれない。でも私は、もっと直接的にひとりでも多くの人が幸せになるために、今働きたい」って、思い始めたんです。中東に支社のある会社の株で儲けるよりも、もしかしたら戦争が止まるかもしれない活動をする側にいたかった。結局イラク戦争は始まってしまい、私は「いつ」というのを悶々としながら考えていました。

でも、それ以前から、きっと自分の中にあったんですよ。本当はピースボートやNGOに興味があったのに、なぜその思いにふたをして条件だけ良い方を選んだんだろうっていう思いが。それで、思い切って会社を辞めて、ずっと誘ってくれていたピースボートに参加することにしたんです。

 

そこが、ターニングポイントだったんですね。それからの生活は、どんなふうに変わったんですか?

 

ピースボートに入ってからは、もう本当に楽しくて、無我夢中で働いていました。お給料が安くても仲間が最高だし、年に一度は世界一周できるし。それに、パレスチナでアラファト議長に会い、カリフォルニアでオリバー・ストーン監督に会い、世界の第一線で活躍している方たちの通訳をして、開発教育のプログラムを作って…、20代の小娘だった私がそんな場に関わっていけることが、嬉しくて、楽しくて仕方がありませんでした。


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