1年前に、ちゃっちゃと入籍を済ませた娘が「1年後くらいに挙げたい」といっていた結婚式が9月に決まりました~。
もう結婚していて形だけの結婚式だから、会食形式みたいにあっさりするのかな、と思っていたら…。
なんだか本格的…。
おまけに新郎のかーちゃんとばーちゃんが留め袖を着るそうで…。
わしも留め袖着らんとあかんやんOrz…。
盆踊り好きで、中学生の頃から一人で浴衣着付けて盆踊りに行ってたし、ウールの着物くらいまでは来ていたのですが…。
社会人になって、家を出てからはそういう余裕もなくて…。
その後、30歳のときに作ってもらった(ちぃとばかり、というかものすごく遅い気がする…)振り袖を美容院で着付けて写真を撮った…。
結婚式のときに白無垢を着た…。
旦那の妹の結婚式でレンタルで黒留め袖を着た…。
おおお、なんと貧しい私の和服生活!
今回もレンタル、という手はあったのですが、母の形見の黒留袖、こういう時ででもないと着ることがない、と挑戦してみることにしました。
母の留め袖は、魚の意匠です。
父が釣り好きだったので、魚の意匠のものであれば父の財布が緩み…。
やたら魚の意匠が多いのです。
母はおしゃれで、和服も好きでした。
私が小さい子供の頃は、まだ帰宅した父が和服に着替えてくつろいだり、母が和服を着たりすることが普通でした。
中学・高校の頃は、帰宅して母が和服姿だと「やばい!」と緊張していました。体調が不調だと「肩が凝らないから」と和服を着ていることが多かったのです。
大阪で住んでいた頃、母に連れられて、心斎橋のユリヤや百貨店などで生地を見たり、和服を見たり、宝石を見たりすることが多かったのです。お金がなかったので「見てるだけ~」でしたが…。
母の妹や従姉妹がユリヤの縫い子さんをしていた時期もありました。
当時は既製服は「釣るしんぼ」と言われていて、普通に洋服も和服も仕立ててもらっていました。
岸和田に住んでいたので、洋服はあの「カーネーション」のコシノ三姉妹のかーちゃんのところでした。私の高校の制服もそうだったな~。
母の実家は、父親(私の祖父ですね~)が大工の棟梁で裕福だったそうで、当時、真っ赤なサイドカーを乗り回していたとか、釣り船を持っていたとか、聞いたことがあります。
出入りの呉服屋がいて、母は四姉妹の三女だったのですが、すぐ上の姉が「こんなのいらん」というのをまだ幼いのに「私が仕立ててほしい」と言って笑われていたそうです。
ただ、母の女学校(今の高校ですね~)の入学式の日に、脳軟化症だった祖父が倒れたはずみにクジラのひげのペーパーナイフが刺さって亡くなり、その後、ばーちゃんは戦中、戦後を苦労して生き抜いたそうです。
私の知る祖母は下駄屋さんで、家の物置のあちこちにまだ仕上げていない下駄と鼻緒があり、古びた工作台で下駄を仕上げる祖母の姿を覚えています。
その後、生活に余裕が出てきて、いろいろ着物を作っていたようで、たまに帰省すると「いつかはお前のものになるのだ」と色々、見せてくれましたが、私が懐かしいのは、あまりお金がないときに買って母が大事にしていた洋服や着物やアクセサリなのでした。
母が亡くなり、母が大事にしていた桑の箪笥ごと着物を引き継ぎましたが…。
最大の問題点は、身長差ですな~。
私は158センチ。母は168センチ…。
父175センチ、兄貴180センチ(多分もっとある)というジャイアント家族の中で「この時代だから170超えてもいいぞ」と言われつつ、止まっちゃった私は、中学も高校も「この子は大きくなるから」と仕立てられたぶかぶかの制服でした;;
自分に合わせて仕立てていたからな~。
長襦袢は…。無理かな;;
まあ、お腹に貫禄が出てきたので、なんとか胴回りは間に合いそうなのが唯一の救い、なんていいたくないぞ~!!
引き取ったまま、見ることもなかった和服の畳紙を端から開けていくと…。
母が好きだった大島が2着かびてるし;;
多分、母の和服じゃ着れないから(ここまで太るとは予想していなかった…Orz)リフォームしようかとリフォーム本ばかりコレクションが溜まった割には、和服に鋏を入れる決断がつかなかったのですが…。
この子たち、リフォームしてみるかな~。
娘から送られてきた結婚式の親族マニュアル見ていると、留め袖は小物も着付けも大変そうで;;
Naverでまとめ作りつつ、お勉強です…。
自分の結婚式はちょうど昭和天皇ご不例Xの最中で、二人だけの結婚式+親兄弟との会食という、双方の職場に感謝された地味婚だったしな~。
本格的な結婚式って大変なのね~
もう結婚していて形だけの結婚式だから、会食形式みたいにあっさりするのかな、と思っていたら…。
なんだか本格的…。
おまけに新郎のかーちゃんとばーちゃんが留め袖を着るそうで…。
わしも留め袖着らんとあかんやんOrz…。
盆踊り好きで、中学生の頃から一人で浴衣着付けて盆踊りに行ってたし、ウールの着物くらいまでは来ていたのですが…。
社会人になって、家を出てからはそういう余裕もなくて…。
その後、30歳のときに作ってもらった(ちぃとばかり、というかものすごく遅い気がする…)振り袖を美容院で着付けて写真を撮った…。
結婚式のときに白無垢を着た…。
旦那の妹の結婚式でレンタルで黒留め袖を着た…。
おおお、なんと貧しい私の和服生活!
今回もレンタル、という手はあったのですが、母の形見の黒留袖、こういう時ででもないと着ることがない、と挑戦してみることにしました。
母の留め袖は、魚の意匠です。
父が釣り好きだったので、魚の意匠のものであれば父の財布が緩み…。
やたら魚の意匠が多いのです。
母はおしゃれで、和服も好きでした。
私が小さい子供の頃は、まだ帰宅した父が和服に着替えてくつろいだり、母が和服を着たりすることが普通でした。
中学・高校の頃は、帰宅して母が和服姿だと「やばい!」と緊張していました。体調が不調だと「肩が凝らないから」と和服を着ていることが多かったのです。
大阪で住んでいた頃、母に連れられて、心斎橋のユリヤや百貨店などで生地を見たり、和服を見たり、宝石を見たりすることが多かったのです。お金がなかったので「見てるだけ~」でしたが…。
母の妹や従姉妹がユリヤの縫い子さんをしていた時期もありました。
当時は既製服は「釣るしんぼ」と言われていて、普通に洋服も和服も仕立ててもらっていました。
岸和田に住んでいたので、洋服はあの「カーネーション」のコシノ三姉妹のかーちゃんのところでした。私の高校の制服もそうだったな~。
母の実家は、父親(私の祖父ですね~)が大工の棟梁で裕福だったそうで、当時、真っ赤なサイドカーを乗り回していたとか、釣り船を持っていたとか、聞いたことがあります。
出入りの呉服屋がいて、母は四姉妹の三女だったのですが、すぐ上の姉が「こんなのいらん」というのをまだ幼いのに「私が仕立ててほしい」と言って笑われていたそうです。
ただ、母の女学校(今の高校ですね~)の入学式の日に、脳軟化症だった祖父が倒れたはずみにクジラのひげのペーパーナイフが刺さって亡くなり、その後、ばーちゃんは戦中、戦後を苦労して生き抜いたそうです。
私の知る祖母は下駄屋さんで、家の物置のあちこちにまだ仕上げていない下駄と鼻緒があり、古びた工作台で下駄を仕上げる祖母の姿を覚えています。
その後、生活に余裕が出てきて、いろいろ着物を作っていたようで、たまに帰省すると「いつかはお前のものになるのだ」と色々、見せてくれましたが、私が懐かしいのは、あまりお金がないときに買って母が大事にしていた洋服や着物やアクセサリなのでした。
母が亡くなり、母が大事にしていた桑の箪笥ごと着物を引き継ぎましたが…。
最大の問題点は、身長差ですな~。
私は158センチ。母は168センチ…。
父175センチ、兄貴180センチ(多分もっとある)というジャイアント家族の中で「この時代だから170超えてもいいぞ」と言われつつ、止まっちゃった私は、中学も高校も「この子は大きくなるから」と仕立てられたぶかぶかの制服でした;;
自分に合わせて仕立てていたからな~。
長襦袢は…。無理かな;;
まあ、お腹に貫禄が出てきたので、なんとか胴回りは間に合いそうなのが唯一の救い、なんていいたくないぞ~!!
引き取ったまま、見ることもなかった和服の畳紙を端から開けていくと…。
母が好きだった大島が2着かびてるし;;
多分、母の和服じゃ着れないから(ここまで太るとは予想していなかった…Orz)リフォームしようかとリフォーム本ばかりコレクションが溜まった割には、和服に鋏を入れる決断がつかなかったのですが…。
この子たち、リフォームしてみるかな~。
娘から送られてきた結婚式の親族マニュアル見ていると、留め袖は小物も着付けも大変そうで;;
Naverでまとめ作りつつ、お勉強です…。
若い頃に浴衣を着たことがあるくらいなのに、娘の結婚式で留め袖をきることになってしまった…。母の形見の黒留袖や帯を引っ張り出し、何がいるやら奮闘中。
自分の結婚式はちょうど昭和天皇ご不例Xの最中で、二人だけの結婚式+親兄弟との会食という、双方の職場に感謝された地味婚だったしな~。
本格的な結婚式って大変なのね~
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