素晴らしい日々〜Splendid days

感動したこと…疑問に思うこと… 何気ない日常を過ごすのも、感謝に満ちた日々を過ごすのも自分次第…

子供の頃の不思議な経験

ふと思って、遠い昔、子供の頃に経験した不思議な話を書いてみたいと思う。
40年近くも前の出来事だ。

あれは本当に不思議な経験で今でも鮮明に記憶に残っている。

たしか小学5年の頃だった。
その頃、仲の良かった友達と度々釣りに出かけていた。
その日は4〜5人の友達ととっておきの釣り場に行くことになっていて、そのグループのリーダー格のS君はその場所のことをゴールデンポイントと呼んでいた。
「今日行くゴールデンポイントはホントは誰にも教えたくないんだけど特別に教えてあげるよ。今日の場所は全員秘密だからな!」と言うようなことを言ってもったいつけていたのを今でも覚えている。

釣竿に釣道具それにえさを持ってみんなで自転車を漕いで向かった。

よく行く釣り場までは見慣れた風景だったが、目指すゴールデンポイント周辺はいつもの場所とは全く雰囲気の異なる風景だった。
「あれ?確かここら辺だと思ったんだけどなぁ…」S君は首をかしげながら周囲を見渡している。
その頃僕はなんとなく不思議な雰囲気を感じていた。異様に静かだったのと、遠くを見るとなんとなくかすみがかってるように見えた。
いつもは馬鹿なことばっかし言っているみんながなぜか黙っていた。

僕はなんとなく不安な気持ちになりつつも、辺りが気になって、狭い範囲を散策していた。
蝶々がいたるところに飛んでいたのを覚えている。
それに、なんとなく時間の流れ方が変だなと言うような感覚もあった。

「ジョボッ」という水音がして、音のする水面を見るとナマズなのか雷魚なのか、そんな感じの魚が体をくねらせて泳いでいた。
「スゲえ!ここにナマズがいるよ!」と僕はみんなに向かって言った。
が…
しかしみんなは数十メーター先にいて、僕の声が聞こえないようだった。

あわてて皆のあとを追う僕。
すると踏み出した足元にショッキングな光景があった!
なんとそこには犬の死体があった。小型犬なのだが、普通の死に方ではなかった。
胸を裂かれて真っ赤な臓器があらわになっていた。
普段はけして見ることのないリアルで猟奇的な恐怖の光景。
いい知れぬ恐怖を感じ、駆け足で皆のもとに追いつこうと懸命になった。

そしてやっと皆と合流でき、少し安堵した。
犬の死体があったことを話そうと思っていたが…
合流して間もなくの事だった。

今までは気配もなかったのに、僕らのすぐ側に、麦わら帽子をかぶったおじさんがいて、皆びっくりしただけじゃなく、けっこうな大声で
「お前たちここに何しに来た!」
とすごまれたのだ。

するといつもは頼りになるリーダー的存在のS君が「ワーーー!」と言いながら、なんとも情け無い感じで、もと来た方向に一目散に走りだした。
そんな、いつにない彼の姿を見て、怖くなってみんなで彼の後を追った。

全速力で走った。
しばらく走って立ち止まると「はぁ、はぁ〜」息を切らしながら、腰をかがめ膝に両手を置いて呼吸を整えていた。

「びっくりしたよね〜、いきなり大声出すんだもん、あの、おじさん!」
僕がそういうと、みんな「だよな〜」「マジでビビったよ!」とか言いながらうなずいた。

そして、ふと今走ってきた方向を見ると、普段見る光景が広がっていて、軽く頭が「???」になって、しばらくみんなでうろちょろしていたが、さっきまでいた場所はどこにもなかった。
おじさんも見当たらなかった。

みんな腑に落ちない感じだったが、早く釣りをしたいのもあって、すぐにゴールデンポイントに向けて動き出した。
結局ゴールデンポイントはいつも釣りをしている辺りからちょっと離れた場所にあるだけで、釣果も大してなく、S君がもったいつけて言うほどの大した所じゃなかった。

日が暮れてきて、みんながそれぞれ家路へとついた。
家に帰ったが、その日の話を親にも兄弟にもしなかった。
うちの母親はいつも僕がチャリンコで遠っ走りして釣りに出かけたりするのを心配していて、S君が学区外に僕らを連れて出かけることを快く思っていなかったからだ。
また僕が怒られたり、めんどくさいことになるのが嫌だったので、黙っておいたのだった。

その日の夜は布団に入ってもなかなか寝付けなかったことを覚えている。

この話を他人にしたのは数年たって中学生になってからで…続きを読む

生まれてきた意味

この世に生まれてきた意味について考える。
それは確固とした答えがあるわけでもなく、ある意味人智を超えたところにあるのだろう。

もしも、その意味が魂の成長ということであって、魂を成長させるためには苦しみが必要であるとするならば、苦しむことには意味があり、むしろ積極的に苦しみの経験をしたほうが良いということになる。

そうなると、あれこれと理由なり法則を考えて、楽に人生を過ごすとか、幸せになるためには…なんてことをすると、この世に生を受けた意味を台無しにしてしまうことになる。

あくまで僕の頭の中の妄想なわけだけど、こう考えてみると、苦しむことは悪くない。
苦しみの経験をする度に「おぅ、よしよし!魂を成長させてるぞー」とほくそ笑んだり。完全なドMの世界…(^-^!)

現世での幸福をもとめる現有の様々な宗教は、全くの的はずれということになる。

さて、話を元に戻して。
この世で苦しむことが魂の成長のために欠かせないものだとしても、1つの苦しみの経験を一生の間ずっとしたのでは、これもまたこれなので、発生と完結が必要だろう。誰かからの差し伸べられた手は完結のための救いにもなるだろう。

自分の勝手な思い込みで苦悩するよりは、どうせだったら、手を差し伸べ、他人のためになることで、苦しむ方がいいかもしれない。

妄想が広がる広がる。(・_・;

まあ、この世界をどのように経験するかは、各々の思い方次第なので、この人生の意味が苦しむことにあると考えるならば、それはそれで意味のある生き方ができるのだと思う。
苦しみWELLCOME! ってね。
側から観たら、そういう人はほんとに強い人としてすごいなーって思えるだろうね。

私の世界

「私以外、私じゃないの」♪
ってあったよね。ちょっと前に流行ったけど。

私以外は私ではない。
本当にそうなんだよね。

主観的に観る世界では、自分以外はみな他人。この世界に存在する私は何十億人といる人々の中でたった一人の自分。

自分の思った通りの世界を経験するのだ。

あいつは悪いやつだ!と、そう決めるならば、自分の世界ではそいつは悪いやつとして存在する。
でも、その悪いやつだと決められたその人は、他人の基準では善い人だったりする。
だから、絶対的な存在なんてないということになる。

主観的自分の世界では、自分の経験することを自由に決められる。

いや、そんなことはない!
だって自分の望まない経験を日々しているのに!となるかもしれない。

だけど、決めたこと=望んだこと、とは限らない。
いわば決めたことというのは自分が心底信じているというもののことになる。

信じるに至った過程は様々。
誰かの教化を長きにわたって受けていて、信じ込んだ例もあるだろうし、普通に自分の自然な考えで受け入れたこともあるだろう。
いずれにせよ自分が受け入れたことにより信じるに至るのだ。

「金は汚いもの」という信念。これを信じている人は意外に多かったりする。

汚いものは身につけたくはない。
これも信念。

この両方の信念を持ってる人は、結果としてお金が身に付かなくなる。と言う経験をすることが少なからずあるだろう。

汚いものは受け入れたくはないのが普通の考えだと思う。
潜在的に、知らず知らずのうちに、お金を遠ざけているのかもしれないよね。

自分の思い方(信じていること=信念)を変えることで体験の仕方が変わってくる。と考えると、自分の人生は自分で変えられると言うことになる。
しかし、最終的に、信念を変えるのは自分にしかできないのだ。
他人がいくら説得しようとも、自分が納得できなければ信じることはできない。

私の体験する世界は私自身が決めている。

過去このブログでは何度も使ってきた言葉なのだが、ふと日常でこの言葉の意味を考えることが度々ある。

あなたの信じている事はなんですか?

それはあなたが日々経験する世界を見ればわかることなのかもしれない。




自信について

自信を持っている人の特徴はなんだろう?と考えてみる。
僕が第一に思い浮かぶのは「姿勢の良さ」だ。

なんでこんなことを思うのかというと。

世の中には「私、自分に自信を持てないんです。」とか「自信を持つためにはどうしたらいい?」という悩みを持つ人は多いのだが…
ちなみに催眠療法(私の知るメソッドではの話ですが)でも自信をつけるようなものは適さないとされる。

少しでも解決につながるなにか良い方法はないものかと。
ここのところふと考えを巡らせることがある。

自信を持てない人々。
実のところ、私自身もそのうちの一人だったりする。それに人見知り。これは自信の無さからきている。困ったもんだ。
私の長年のテーマでもある。

「おかしいから笑うのではない」
笑顔になるからおかしくなるのだ。とか聞いたことがあるだろう。
実際、面白くもないのに、無理やり笑顔を作ってみると意外に楽しい気分になってくる。

そんなことを頭におきながら、僕が勝手に思う、自信のある人の特徴を真似てみることにした。
姿勢を、意識して正す。背筋を伸ばして颯爽と歩いてみる。
どうだろうか、なんとなくだけど、そんな気になってくる。という経験をした。

大げさなもの言いになるけれど、ちょっと姿勢を正すだけで、世界の見え方が普段とは変わってくる。

小さな一歩かも知れないけれど、その一歩が己を変えていくはずみになるだろうと実感している。

億劫なこと

心の中では実行したいと思いつつも、ついつい億劫になって、やらないままでいることが多い。

そうこうしているうちにそのやらないことが日常になってしまう。
そうして、やらないということが習慣化される。

僕にとっては、なにか感じるものがあって記事にしたいなーと思いつつも、億劫になってやらないことが習慣化されてこのブログを更新することも大分長きにわたり放置したままになってしまった経緯がある。

思いを行動に結びつけるために…
いかに奮起するか?
そう大げさなものでもないけれど、どうにかして行動に結びつけることが大事だと思う。
それには、行動するための手段の工夫が必要だと思う。

最近は毎日ではないけれどもブログを更新することが多くなった。
ふと思ったことを、スマホの音声変換でメモしておくことにしている。
それを後々使って記事にしている。

せっかくの文明の利器を活用しないとね。

また、最近続けられるようになったことの一つが読書だ。
近年老眼が進んで活字を見るのが辛くなってきた。またその億劫さがいっそう読書離れを引き起こしていた。
が…
これまた文明の利器活用。
アマゾンのKindle端末を買ってみた。
電子書籍には抵抗があったが、文字を自由に拡大できたりして読めるので、老眼でも読書オッケー。
もっと早くに手を出しとけばよかったと今は思っている。

今更なんだけどね…
目的を実現するためにはどのようにすれば良いのか?
手段をいろいろ検討すれば容器に目的を達成できる事はきっと多々あるのだ。

何かを辞めることについて

実はいま、数年来関わってきている組織の仕事を辞めたいと思っている。
ボランティアのようなものだ。

ある程度その組織の中では中堅どころとなり、それなりに歯車の一役を担っている存在になっている。

そんな中、前触れもなく去るのは心苦しい気もするが、僕の中では、ただもう惰性でしかない。

きっと慰留されたり、そんなこと急に言われても困るとか…言われるんだろうけど、気持ちがなくなったんだ。
これが引き時。そう思った時がお役目御免。

やりたくない事は、もうやりたくないと言おうかと思っている。
やめたらだいぶ気も楽になるし、その時間は他の事に使いたい。
そのことの方が楽しみだったりする。

自分の身の置き所は自分で決める。
その点について、元から僕らは自由なのだ。

今まで理屈をこねては自分に言い聞かせてきたんだ。
こうすればできるのだぞ。ってね。

しかし、やらなかった。

理屈ではわかっているが実行できていないこと、実践する機会を増やしていこう。

自由奔放に生きているような人を見ると、腹が立っていた。
しかしながら心の奥底では、自分にはやりたくてもできない。
そういう生き方をうらやましいと思っていたんだろうなぁ。

自分の心の奥底に押し殺していた影なる自分。
その影なる自分が、目を向けよと他人に投影して自分自身に見せていたことに今更あらためて気づいた。

また、理性の自分を必死に制止する。
なんだかんだ言ってメリットだってあったじゃないか?それを捨ててもいいのかい?
なんてね…

今までとちょっと違うのは、客観的視点で自分を見ているということなのだ。

自分のことながらこの先の展開に、自分がどう対処するのか、興味があったりする。(^_^;)




落胆しないためには

いろいろなことで落胆することってあるよね。
もちろん落胆するのは嫌な気分だ。

どうして落胆するのだろうか?

それはどんな形であれ期待をかけるからなのだけど、その期待が裏切られたとき、落胆するのだ。

実のところ、自分で勝手に期待をかけているだけなのに。

いろんなことに期待なんかしなければ、ずいぶん楽に生きられるだろうに。

ある種、期待は執着に他ならない。
執着を手放して、あきらめの境地になれることが日々を平穏に生きることなのかもしれない。

またこれは同時に、物事を受け容れる事と同じことで、さらに抵抗しないこと。ともいえる。

執着せず、抵抗せず。

± 0の中立の注意。

これはあるがままをただ眺める意識だ。

イマココ

過去に起きたことをくよくよと悩んだり、先々のことを心配したり。

そんな時は、今、ここ、に生きていない。

言い換えて、上の空とでも言おうか。

私たちの意識の力は、今、ここ、でだけ現実を創造するための力として発揮できるのだ。

be here now.(今、ここ、にいよう)

我に帰ろう。

感じよう。
自分の体温を。大地を踏みしめている足の裏を。風の匂いを。

感じることとは経験すること。

かつては普段からこんなことを考えていたのを思い出した。


立ち位置

物事の良し悪しは表裏一体。

自らの立ち位置がその出来事の意味付けに大きく関わる。

熱狂的に応援しているチームが優勝をかけた、あるサッカーの試合。
競合いが続き終盤まで同点。
しかし最後のアディショナルタイムで相手チームのゴールが決まり自分の応援していたチームは負けてしまう。

なんていう悲劇だ!絶望し頭を抱え悲嘆のうなり声を上げる。

それとは対照的に相手チームのサポーターたちは歓喜に湧いている。

これだけ見ても、物事は表裏一体なのだ。
どちらかのサイドに寄れば寄るほど、自分の思う結果になった時、そうではなかった時の衝撃波は大きい。

コップにジュースが満たされている。
そして3割飲んだ。残りは7割。

ある人は、3割も飲んでしまった!と。
ある人は、まだ7割も残っている!と。

コップのジュースが3割なくなって、7割分残っている。事実はこれだけなのだが。
両者の心境は、あきらかに同じではない。
目減りしたことを心配し。かたや残りがまだ十分にあることに安心する。

立ち位置の問題だけだ。
自らの立ち位置をどのようにするかって…
自分で決められるんだよね。

だけど、なかなか自分がどんな立ち位置に立っているかということは、自分自身でもわからないことがある。

3割なくなって嘆いている人に、「まだ7割もあるじゃん!」と言ってあげたりすると、確かにそういう見方もあるのかぁと我に返ってみたりもする。
んでもって、ちょっと安心したり。

物事は表裏一体。
こんな観点で考えたとき、自分の立ち位置をあらためて発見するヒントになるかもしれない。

強要

子供たちは冬休みも終わり、間もなく3学期が始まる。
なんとなく自分が小学生時代のことを思い出していた。
当時小学校5、6年の頃の担任は50代の男性教師で、とにかく嫌いだった。規律を重んじていたと言えば聞こえはいいが、今思えばあれは強要というレベルのものだった。中でも僕は学級会が大嫌いだった。まぁいわゆるクラス会議みたいなものなんだけれども。そこで担任の教師は議題に対して自分独自の考えがなければおかしいから必ず発言しないければならないというルールを作った。誰々と同意見ですとか、同じだからそれでいいですとかって言う答えは許されなかった。
僕にとってはこれが今でもトラウマになっている。何らかの会議となれば、あの頃感じていた脅迫される心情が思い起こされるのだ。あの教師は自分のことを「私はいい先生だ。」としきりに言っていたが、未だにあの先生が良かったとは思えないでいる。あの先生にとっては強要しているだなんて微塵も思っていなかっただろう。
彼にとっても教師としての正義だったのであろうが、あれは間違っていただろう。
と私は思っている。

と、恥ずかしながら、未だに引きずっている私なのだが、かつての教師のせいにして、自分を変えようとしていないのかもしれないなぁ…
今そんな自分が心地良いのか?と自分に問えば答えはノーだ。
結局は他人への責任転嫁はやめて、自分が自分を変えるしかないのだ。

セラピストの“ひでぴん”です。

過去世療法や退行催眠、行動習性など、催眠と潜在意識の世界を歩いています。

ほか、ヒーラだったり氣功師だったり…
いろいろやってます。

臼井レイキマスター

カルナレイキマスター

セイキムレイキマスター

全米催眠療法協会認定ヒプノセラピスト

パストライフセラピスト



★☆ご訪問者にひとこと☆★

このブログに訪問していただきありがとうございます。

「袖ふり合うも他生の縁」

この出会いも何かのご縁あってのことでしょう。

初めての方もそうでない方も、今後ともよろしくお願いします。

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