2005年08月
2005年08月08日
トニー・ベネット
Tony Bennett・トニー・ベネット
1926年8月3日米国ニューヨーク州クイーンズ生まれ。
父親はイタリアからの移民。
ボブ・ホープに認められ、50年からコロンビアに録音。「ビコーズ・オブ・ユー」「コールド・コールド・ハート」などヒット曲を連発、一躍人気スターに。1950年代中期にはカウント・ベイシー、デューク・エリントン、ウディ・ハーマンなど、著名なジャズのビッグバンドと共演。特に62年にヒットした「思い出のサンフランシスコ」は彼の存在を世界的なものにした。ジャズ歌手とポピュラー歌手の境界線をなくした人で、ビル・エヴァンスとデュオ・アルバムを録音など、本格的なジャズ作品も多い。現在も尚、精力的に音楽活動を続けている 。
2005年08月03日
ベティ・カーター
Betty Carter ベティ・カーター
1930年ミシガン州に生まれ。46年にデトロイトのクラブで歌手としてプロデビュー。ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーと共演した。48年から51年はライオネルハンプトン楽団に在籍。N.Y.ではレイ・チャールズ、ジョー・ヘンダーソンと共演したが、60年代には結婚や育児のため楽界を離れていた。70年ノーマン・シモンズ・トリオを伴奏にしたヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ録音が絶賛を浴びた。63年にはソニー・ロリンズと75年には、ニューヨーク・ジャズ・カルテットと共に来日。
「モダン・サウンド・オブ・ベティ・カーター」「ラウンド・ミッドナイト」等の代表作を持つ。
ヘレン・メリル
Helen Merrill・ヘレン・メリル
・1929年6月21日ニューヨーク生まれ。若きの日マイルス・デイビス、バド・パウエル、J.J.ジョンソン等と共演しながら成長し、1954年にエマーシー・レコードと契約。クリフォード・ブラウンと共演した『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』(マーキュリー)などがヒットし、アニタ・オデイ等に続く白人女性ジャズ・シンガーとしての評価を確立する。このアルバム中の〈帰ってくれれば嬉しいわ〉が日本では爆発的にヒット、息の長い人気を誇っている。
←2004年12月4日TokyoTUC
待望のヘレン・メリル ジャズクラブ特別出演!
(東京公演は1日のみ)
ヘレン・メリル (vo)
ブライアン・リンチ (trp)、 テッド・ローゼンタール (pf)
ジョージ・ムラーツ (b)、 テリー・クラーク (ds)
ブロッサム・ディアリー
Blossom Dearie・ブロッサム・ディアリー
1926年4月28日ニューヨーク州イースト・ダーハム生まれ。40年代中期はウディ・ハーマン楽団やアルヴィノ・レイ楽団のコーラス・グループで歌った。52年にはフランスに渡り、アニー・ロスと“ザ・ブルー・スターズ”というコーラスを結成し、「バードランドの子守歌」をヒットさせた。56年にノーマン・グランツの誘いで一時帰米、ヴァーヴに6枚のアルバムを録音した。活動は米国とヨーロッパで行なっており、N.Y.で自らダフォディル・レーベルを設立するなどの意欲的な活動をした。
ダイナ・ワシントン
Dinah Washington・ダイナ・ワシントン
1933年2月21日ノース・カロライナ州タイロン生まれ。
幼い頃に教会で歌い始め、クラシックのレッスンを受け始る。ジュリアード音楽院でピアノと作曲を学び4年間歌手の伴奏をした後、独立して弾き語りを始めた。59年に録音した「アイ・ラヴ・ユー・ポーギー」がヒットしてスターとなる。クラシックの素養をジャズに生かしたピアノ演奏も評価が高い。1960年代には "I Put a Spell on You" や "Don't Let Me Be Misunderstood" によってイギリスでかなりの人気を呼び、さらに「ヘアー」の挿入歌 "Ain't Got No - I Got Life" やビージーズの "Love Somebody" をヒットさせる。60年代後期は社会派的な傾向を示し、ラジカルな歌詞とステージで黒人から圧倒的な支持を受けた。68年、70年とニューポート・ジャズ祭に出演。1974年に音楽業界から去る。1987年に香水「シャネルの5番」のテレビCMに初期の曲 "My Baby Just Cares for Me" が使用され、1989年にピート・タウンゼンドの Iron Man に参加し、1991年に赤裸々な自伝 "I Put a Spell on You"を出版し、1993年に彼女の音楽を使用した映画 "Point of No Return" が公開され、新たなリスナーを獲得につながる。2003年4月21日、長い闘病生活の後、フランスにある自宅で亡くなった。
カーメン・マクレエ
Carmen Mcrae・カーメン・マクレエ
1920年4月米国ニューヨーク生まれ。テディ・ウィルソンの前妻アイリーン・キッチングスに認められ、40年代にベニー・カーター、カウント・ベイシーのバンドで歌う。54年にベツレヘムに初リーダー作を録音。多くのレーベルから作品を発表。主としてビリー・ホリデイから大きな影響を受けながらも、歌詞の世界を深く理解した独自の語り口を確立した。エラ、サラと並ぶ三大ジャズ歌手の一人。94年11月10日カリフォルニア州ビバリーヒルズで死去。
エラ・フィッツジェラルド
Ella Fitzgerald ・エラ・フィッツジェラルド
1917年4月米国ヴァージニア州ニューポートニューズ生まれ。34年ハーレムのアポロ劇場で開催されたアマチュア・コンテストで歌ったところをベニー・カーターに見出され、チック・ウェッブ(ChickWebb)楽団の専属歌手となる。38年に「ア・ティスケット・ア・タスケット」のヒットを放つ。48年から4年間、バップ期の重要なベーシストの一人レイ・ブラウンと結婚し、レイ・ブラウンはエラ・フィッツジェラルドの音楽監督に携わった。その後85年まで華やかさと明るさに満ちた歌唱、独特のスキャット・ボーカルで活躍した。93年に糖尿病の合併症で両足を切断し、療養していた。96年6月にビバリーヒルズの自宅で死去。
2005年08月01日
スコット・ハミルトン
Scott Hamilton ・スコット・ハミルトン
・1945年9月12日、ロードアイランド州、プロビデンスの生まれ。50年代のジャズの愛好家だった父の影響で、幼時からジャズに親しみ、ピアノからドラムまで学ぶ。14歳の時にはスクール・コンボで演奏しており、ハイスクールでは、一時クラリネットを学ぶが、すぐにテナー・サックスに転向している。
・フュージョン全盛の70年代後期、極めてオールド・ファッションなスタイルで登場したテナー・サックス奏者、スコット・ハミルトン。ワン・ホーンで朗々と吹く彼の真骨頂はバラードだ。ベン・ウェブスターばりの深い響きをたたえたトーンと歌心あふれるフレーズで、聴き手を一気に30年代へとタイム・スリップさせてしまう。またアップ・テンポの曲では、ズート・シムズのように余裕綽々とした軽快な演奏を披露し、ご機嫌なスウィンガーぶりを発揮する。
エレクトリックな響き/難解なコード進行/幾何学的フレーズが横行する昨今のシーンにおいて、彼のようにメロディと音色に重きをおいたプレイヤーは希少だ。
REVIEW 鵜木孝行さん