プロフィール
2005年10月08日
チェット・ベイカーとブルース・ウェバー
Chet Baker チェット・ベイカー
My Funny Valentine
ジャズを聞き始めの頃、
かなりの時間 チェット・ベイカーを聞き続けた。
甘く 切ない ささやくようなチェットの声
マイルスとは好対照の
弱々しいく途切れそうで
しかし途切れることの無い
トランペットの音色
さらに ジャケットに映っている
チェットの顔写真の美しいこと・・・。
それからずいぶん経ったある日
晩年・・・といってもまだ50代半ばだったろうに
老いたチェットの写真を目にして驚いた・・・
"Let's Get Lost -
A Film Journal by Bruce Weber"
その写真を撮った写真家がブルース・ウェバーだった。
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Chet Baker チェット・ベイカー (1929-1988)
1929年12月23日オクラホマ州エール生まれ。
高校時代からトランペットを始め46年から48年軍楽隊に所属。除隊後はロサンゼルスのカレッジで楽理と和声を学ぶ。52年ジュエリー・マリガン・カルテットのメンバーとなり大きな名声と評価を得る。50年代の前半、ウエスト・コースト・ジャズの全盛期に米西海岸でスターとなる。
64年イタリアから帰国しハードバップ風のコンボを結成して活動を続けたが、60年代後期から70年代初頭まで一事的に引退していた。73年夏に復帰しボーカルでも高い人気と評価を獲得した。しかし精神的に不安定な部分があり、彼のドキュメンタリー映画「レッツ・ゲット・ロスト」をみても分かる通り、絶えず自分から不幸に向かってしまう複雑な性格のアーティストでもあった。88年5月13日オランダアムステルダムで宿泊中のホテルの2階の窓から謎の転落のため死去。

ジャズを聞き始めの頃、
かなりの時間 チェット・ベイカーを聞き続けた。
甘く 切ない ささやくようなチェットの声
マイルスとは好対照の
弱々しいく途切れそうで
しかし途切れることの無い
トランペットの音色
さらに ジャケットに映っている
チェットの顔写真の美しいこと・・・。
それからずいぶん経ったある日
晩年・・・といってもまだ50代半ばだったろうに
老いたチェットの写真を目にして驚いた・・・
"Let's Get Lost -
A Film Journal by Bruce Weber"
その写真を撮った写真家がブルース・ウェバーだった。
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miruko1 at 15:27|Permalink│Comments(13)
2005年10月02日
ジミー・スコット
Jimmy Scott・ジミー・スコット
1925年7月17日生まれ。
アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド出身。
1925年7月17日米国オハイオ州クリーヴランド生まれ。遺伝子の病気のために声変わりのしない声、小さな身体のジミー・スコットは、50年代にカルト的人気とバラード・シンガーとして高い評価を得ている。ナンシー・ウイルソン、フランキー・バリ、レイ・チャールズなど様々なスタイルのシンガーに影響を与える。 魂を揺さぶる天性のヴォイスの持ち主。悲しみにあふれるバラードは心を捉えて離さない。48年にライオネル・ハンプトン楽団で活躍していた頃は、リトル・ジミー・スコットと呼ばれた。50〜60年代に録音を残したが、不運が重なり正当な評価を得られなかった。90年代に再評価の機運が高まり、充実した内容の新作を次々に発表。日本でもTV番組がきっかけで人気を博した。
miruko1 at 10:58|Permalink│Comments(0)
2005年10月01日
ジョージ・ムラツ
George Mraz・ジョージ・ムラツ
My Foolish Heart
久々に ジョージ・ムラーツを聴いた。
なんかぁ・・沁みるなぁ・・・
この CDタイトルにもなっている
9曲めの
「マイ・フーリッシュ・ハート」のせいかなぁ・・・
などとしんみりしながら
ライナーノーツを開いて
おもわず笑ってしまった。
なんと
ロン・カーターの手書き文字で
見開き いっぱを使って
あとは まっ白の余白・・・。
でも このCDはとても好きです!
akemin
George Mraz
「mirukoの時間」本館記事へ
1944年9月9日チェコスロヴァキア生まれ。ベーシスト。66年にミュンヘンへ渡り、米国から渡欧してきたミュージシャンと共演。後に渡米し、オスカー・ピーターソンとの共演でその存在が知られた。ローランド・ハナ、トミー・フラナガンらと共演。彼のバッキングはふくよかかつ重厚でウッド・ベースらしさを感じる。また、ソロにおいては繊細で歌心のあふれるプレイが絶品。

久々に ジョージ・ムラーツを聴いた。
なんかぁ・・沁みるなぁ・・・
この CDタイトルにもなっている
9曲めの
「マイ・フーリッシュ・ハート」のせいかなぁ・・・
などとしんみりしながら
ライナーノーツを開いて
おもわず笑ってしまった。
なんと
ロン・カーターの手書き文字で
見開き いっぱを使って
WONDAERFULLY CHOSEN NOTES +
GREAT INTONATION +=GEORGE MRAZ
BEAUTIFUL SOUND +
A NICE GUY +
RON CARTER
あとは まっ白の余白・・・。
でも このCDはとても好きです!
akemin

「mirukoの時間」本館記事へ
miruko1 at 17:29|Permalink│Comments(2)
2005年08月08日
トニー・ベネット
Tony Bennett・トニー・ベネット
1926年8月3日米国ニューヨーク州クイーンズ生まれ。
父親はイタリアからの移民。
ボブ・ホープに認められ、50年からコロンビアに録音。「ビコーズ・オブ・ユー」「コールド・コールド・ハート」などヒット曲を連発、一躍人気スターに。1950年代中期にはカウント・ベイシー、デューク・エリントン、ウディ・ハーマンなど、著名なジャズのビッグバンドと共演。特に62年にヒットした「思い出のサンフランシスコ」は彼の存在を世界的なものにした。ジャズ歌手とポピュラー歌手の境界線をなくした人で、ビル・エヴァンスとデュオ・アルバムを録音など、本格的なジャズ作品も多い。現在も尚、精力的に音楽活動を続けている 。
miruko1 at 16:09|Permalink│Comments(0)
2005年08月03日
ベティ・カーター
Betty Carter ベティ・カーター
1930年ミシガン州に生まれ。46年にデトロイトのクラブで歌手としてプロデビュー。ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーと共演した。48年から51年はライオネルハンプトン楽団に在籍。N.Y.ではレイ・チャールズ、ジョー・ヘンダーソンと共演したが、60年代には結婚や育児のため楽界を離れていた。70年ノーマン・シモンズ・トリオを伴奏にしたヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ録音が絶賛を浴びた。63年にはソニー・ロリンズと75年には、ニューヨーク・ジャズ・カルテットと共に来日。
「モダン・サウンド・オブ・ベティ・カーター」「ラウンド・ミッドナイト」等の代表作を持つ。
miruko1 at 16:51|Permalink│Comments(0)
ヘレン・メリル
Helen Merrill・ヘレン・メリル
・1929年6月21日ニューヨーク生まれ。若きの日マイルス・デイビス、バド・パウエル、J.J.ジョンソン等と共演しながら成長し、1954年にエマーシー・レコードと契約。クリフォード・ブラウンと共演した『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』(マーキュリー)などがヒットし、アニタ・オデイ等に続く白人女性ジャズ・シンガーとしての評価を確立する。このアルバム中の〈帰ってくれれば嬉しいわ〉が日本では爆発的にヒット、息の長い人気を誇っている。

←2004年12月4日TokyoTUC
待望のヘレン・メリル ジャズクラブ特別出演!
(東京公演は1日のみ)
ヘレン・メリル (vo)
ブライアン・リンチ (trp)、 テッド・ローゼンタール (pf)
ジョージ・ムラーツ (b)、 テリー・クラーク (ds)
miruko1 at 16:47|Permalink│Comments(0)
ブロッサム・ディアリー
Blossom Dearie・ブロッサム・ディアリー
1926年4月28日ニューヨーク州イースト・ダーハム生まれ。40年代中期はウディ・ハーマン楽団やアルヴィノ・レイ楽団のコーラス・グループで歌った。52年にはフランスに渡り、アニー・ロスと“ザ・ブルー・スターズ”というコーラスを結成し、「バードランドの子守歌」をヒットさせた。56年にノーマン・グランツの誘いで一時帰米、ヴァーヴに6枚のアルバムを録音した。活動は米国とヨーロッパで行なっており、N.Y.で自らダフォディル・レーベルを設立するなどの意欲的な活動をした。
miruko1 at 15:58|Permalink│Comments(0)
ダイナ・ワシントン
Dinah Washington・ダイナ・ワシントン
1933年2月21日ノース・カロライナ州タイロン生まれ。
幼い頃に教会で歌い始め、クラシックのレッスンを受け始る。ジュリアード音楽院でピアノと作曲を学び4年間歌手の伴奏をした後、独立して弾き語りを始めた。59年に録音した「アイ・ラヴ・ユー・ポーギー」がヒットしてスターとなる。クラシックの素養をジャズに生かしたピアノ演奏も評価が高い。1960年代には "I Put a Spell on You" や "Don't Let Me Be Misunderstood" によってイギリスでかなりの人気を呼び、さらに「ヘアー」の挿入歌 "Ain't Got No - I Got Life" やビージーズの "Love Somebody" をヒットさせる。60年代後期は社会派的な傾向を示し、ラジカルな歌詞とステージで黒人から圧倒的な支持を受けた。68年、70年とニューポート・ジャズ祭に出演。1974年に音楽業界から去る。1987年に香水「シャネルの5番」のテレビCMに初期の曲 "My Baby Just Cares for Me" が使用され、1989年にピート・タウンゼンドの Iron Man に参加し、1991年に赤裸々な自伝 "I Put a Spell on You"を出版し、1993年に彼女の音楽を使用した映画 "Point of No Return" が公開され、新たなリスナーを獲得につながる。2003年4月21日、長い闘病生活の後、フランスにある自宅で亡くなった。
miruko1 at 15:47|Permalink│Comments(0)
カーメン・マクレエ
Carmen Mcrae・カーメン・マクレエ
1920年4月米国ニューヨーク生まれ。テディ・ウィルソンの前妻アイリーン・キッチングスに認められ、40年代にベニー・カーター、カウント・ベイシーのバンドで歌う。54年にベツレヘムに初リーダー作を録音。多くのレーベルから作品を発表。主としてビリー・ホリデイから大きな影響を受けながらも、歌詞の世界を深く理解した独自の語り口を確立した。エラ、サラと並ぶ三大ジャズ歌手の一人。94年11月10日カリフォルニア州ビバリーヒルズで死去。
miruko1 at 15:41|Permalink│Comments(0)
エラ・フィッツジェラルド
Ella Fitzgerald ・エラ・フィッツジェラルド
1917年4月米国ヴァージニア州ニューポートニューズ生まれ。34年ハーレムのアポロ劇場で開催されたアマチュア・コンテストで歌ったところをベニー・カーターに見出され、チック・ウェッブ(ChickWebb)楽団の専属歌手となる。38年に「ア・ティスケット・ア・タスケット」のヒットを放つ。48年から4年間、バップ期の重要なベーシストの一人レイ・ブラウンと結婚し、レイ・ブラウンはエラ・フィッツジェラルドの音楽監督に携わった。その後85年まで華やかさと明るさに満ちた歌唱、独特のスキャット・ボーカルで活躍した。93年に糖尿病の合併症で両足を切断し、療養していた。96年6月にビバリーヒルズの自宅で死去。
miruko1 at 15:37|Permalink│Comments(0)