2017年04月30日

更新履歴(平成二十九年度)

第一回更新 更新日:平成29131日(火)

 早いもので、このブログも七年目に入りました。今年はちょっとゆっくりさせてもらって、月末に一度の更新とさせていただきます。

 今月は以下の二つを追加しました。

①明治十九年・八頁 大判錦絵三枚続・梅堂国政画「鳴響茶利音曲馬」(出版人福田熊二郎)。

②「資料集成:明治の千日前」(3334頁)に「千日前の草分婆さん」(大阪朝日新聞・大正7610日~616日・6回)。

①は今年になって山田書店から購入したものです。国政が同じ表題で描いた三枚続(出版人林吉蔵)は多くのところで所蔵されていますが、別のバージョンがあるのを今まで知りませんでした。目録を見てびっくりして直ちに注文しました。刷も綺麗で、自分へのいいお年玉になりました。

②は千日前の開拓者初代奥田辨次郎の妻フミさんの談話です。このとき八十一歳。欲をいえば見世物のことをもう少し詳しく書いて置いて欲しかったのですが、それでも婆さんの写真もあり、奥田席があった場所もはっきりわかり、千日前の地価の変遷も具体的で、千日前資料としては一級品に属するでしょう。

第二回更新 更新日:平成29228日(火)

今月は資料紹介:「青木一座・欧州巡業の顛末」を追加しました。

かつて浅草で全盛をきわめた青木娘玉乗り一座も活動写真などにおされ明治四十年代は解散します。その内の何人かが活動の場を海外に求めて渡航します。その顛末が以下の二つの連載記事で報じられました。

①『報知新聞』・「戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話」(大正7321日~329日・8回連載)

②『大阪朝日新聞』・「恋に死んだ『日本娘』 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話」(大正7717日~722日・6回連載)

かつて阿久根巌氏は『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)でこの記事を紹介し、「青木一座・欧州巡業の顛末」(第11章)としてまとめられました。物語的な要素が強く、資料価値という点ではやや希薄ですが、海外渡航した芸人たちの実情を知るひとつの手がかりにはなると思います。なお資料紹介の表題は敬意を表し、阿久根氏のものをお借りしました。

閑話休題。今年はゆっくりさせてもらうつもりでしたが、丸屋竹山人のブログ「上方落語史料集成」のお手伝いをしているうち、焼けぼっくいに何とやらで、すっかりのめり込んでしまいました。すこし黄ばんだノートなどを取り出してきて、まるで昔の恋人に逢ったような懐かしさにホッと吐息をついている始末です。宿題のまま残してあった上方落語の歴史を今度こそきちんと勉強し直そうかと、生駒山に向い、老眼鏡片手にちょっぴり意気込んでいます。

第三回更新 更新日:平成29331日(金)

今月は資料紹介:「西国三十三所 生人形評判」を追加しました。

これは明治十二年二月七日より大阪千日前で始まった松本喜三郎の生人形「西国順礼三十三所霊験記」の興行の時に作られたものです。現在国立国会図書館デジタルコレクションに入っており、自宅で閲覧可能です。だから殊更に紹介するには及ばないのですが、この時小屋の中で売られた絵本番付(久保田桃水筆)を架蔵しており、それを使ってちょっと遊んでみました。

この絵本番付は袋付なのですが、ネットで検索していたら岐阜市歴史博物館に架蔵のものとは違う袋の図がありました。ひょっとして中身も違うのかと思い、問い合わせたところ、当館のは袋だけで中身はないというお答でした。これにはびっくりしました。よく袋だけ保存されたものです。すべてはこうありたいものです。

この絵本番付は国政筆のもの(未見)もあります。奥付はないそうですが、おそらく東京浅草で興行したときに作られたものでしょう。大阪歴史博物館が所有しており、同館作成の図録「生人形と松本喜三郎」(平成16年)に一部がでています。それを見ていて妙なことに気が付きました。委細は本編をご覧ください。

第四回更新 更新日:平成29430日(日)

 年齢的に今から大正時代はとても無理で、ある程度の蓄積がある「落語」以外は手を出さないと自分の中で決めているのですが、絶対にもう買わないと誓いつつ古書店の前でつい足をとめてしまうのと同様に、「上方落語史料集成」のために新聞記事の確認をしていると、あぁこんな人の記事がある、こんな人の記事も出ているなとついつい目をとめて、結局はコピーをして持ち帰るはめになっています。

 今月はその中から松旭斎天勝の記事を紹介します。「松旭斎天勝興行年表(大正時代)」などと偉そうなタイトルを付けましたが、今回は大阪での興行を並べただけです。いっぺんにはとても無理ですので、毎月少しずつ足していくことにします。歯がゆいことですが、どうかご寛容ください。

 天一亡き後、日本の奇術界を背負って立ったのは紛れもなく天勝です。天勝といえば水芸だ、やれサロメだと、画一的にしか喧伝されませんが、それらはほんの一芸であることをお伝えできればと思っています。

 話はかわりますが、先日「山田書店」の目録(117号)が届きました。そこに「周延 上野公園風船之図」(大判錦絵縦三枚続)がありました。

 明治二十三年十一月二十四日にスペンサーが、同年十二月八日にボールドウィン兄弟が上野公園で軽気球のりをしましたが、それを題材に、上にボールドウィン兄弟、下にスペンサーを描くという贅沢な錦絵です。こんなものがあったのかと、見てびっくりです。宣伝の意味もこめて当ブログ「ボールドウィンの軽気球」四頁に掲載させていただきました。また周延はこの構図をそのまま用いて翌年一月の五代目菊五郎が演じた大切浄瑠璃「風船乗評判高閣」の錦絵を描いたのだということもこれを見て初めて知りました。とにかくすごいものです。その分お値段もすごいですが……。




misemono at 11:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)更新履歴(平成29年度) 

             松旭斎天勝興行年表 (大正時代)

大正2年(1913年)

 

◇大阪道頓堀中座213日~219日)

大正2214日 大阪朝日新聞

❍中座は十三日開場。松旭斎天勝が一光、百合子外六名の女奇術一座としての興行。初日に限り二十五銭均一。演芸種目は左の如し。

不思議のトランク、自在の顔、美花の散乱、スペインの娘、卓上少女、日本手品夕涼、糸と水の変化、伏魔殿、卓上コップ、変転の指輪、魔法の樽

大正2214日 大阪朝日新聞

○足を出(だし)た天勝 見付けたら五百円の懸賞といふのを売物にして居た函抜けの天勝、浅草の興行で首尾よく見物に足を押へられ、結局出すの出さぬの訴訟沙汰になる程の御愛嬌やら味噌やらをつけたが、当分息抜きの為台湾落ちをする行きがけの駄賃とあつて、十三日から一週間中座で相変らず五百円の懸賞を振廻す。さあ欲の浅い連中はいつたり〳〵

 

◇大阪松島八千代座38日~318 日)

大正239日 大阪朝日新聞

❍天勝舞もどる 愈(いよいよ)渡台すると云つて大阪を去つた天勝、何所(どこ)をウロついて居たのか、例の樽を引擔いでまた舞戻り、八日から松島八千代座で相変らず「皆さんこの樽抜けの種を御発見のお方には……」

大正2311日 大阪朝日新聞

❍八千代座は松旭斎天勝一座が朝鮮巡業に当分の名残として八日より開場。演芸中の魔法の樽及びスペイン娘は懸賞を付したる特芸にて、初日より大入をあげたり。

大正2315日 大阪朝日新聞

❍八千代座開演中の松旭斎天勝一座は十八日迄日延し、大入祝ひとして特等五十銭より十銭下りに三等迄の切符を売出す。

 

大正3年(1914年)

 

◇大阪道頓堀弁天座1030日~1111日)

大正31029日 大阪朝日新聞

❍弁天座 松旭斎天勝一座の奇術は三十日より開場。

大正31030日 大阪毎日新聞

❍弁天座 奇術天勝一座の演芸種目の主なるは、酒呑の滑稽、曲芸、自転車曲技、トランク、魔法の樽、魔神の函、五大洲、宇宙の少女、不思議の扇、出没自在の室、美人閣、魔神ホーム其他。

大正3112日 大阪朝日新聞

○弁天座の天勝 舞台装置と使用器具が立派だから見た眼が美しくて宜い気持ちだ。奇術、曲芸、自転車曲乗、ダンス、音楽といろ〳〵取り混ぜて見物を倦(あ)かせ無いやうに仕組んだのは流石に天勝一座である。演芸中是と言つて飛び離れたものは無いが、相当に皆な面白い。併し箱や樽を応用しての奇術は昔からありふれたもの丈けに、手際が奇麗でも珍らしく無い。舞踏(ダンス)類は総て駄目、小奇術の中にちょい〳〵面白いものがあつた。天勝はいつも若く、いつも美しい。(史)

大正3114日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝一行の奇術は不思議の扉、自転車曲乗、少女ダンスが呼物となりて客を引き居れり。

大正3117日 大阪朝日新聞

❍弁天座の松旭斎天勝一座は八日限り閉場する筈なるが、従来の外に羽衣ダンス、雲の峰、ダブルボックス、スペイン娘ダンバリ等を差替へたり。

大正31110日 大阪毎日新聞

❍弁天座 青島陥落と初日以来の大入祝ひをかねて十一日まで日延べ。

 

大正4年(1915年)

 

◇大阪道頓堀浪花座918日~924日)

大正4916日 大阪朝日新聞

❍浪花座の天勝 松旭斎天勝一座は十六日来阪、十七日舞台調べ、十八日開演。

大正4918日 大阪朝日新聞

❍浪花座の番組 十八日開場の松旭斎天勝一座の重なる演芸は「筒中の美人」「鳩とキャラメル」「皇国の誉れ」「雲雀の表情」。尚余興には電気応用の「サロメ」がある。

大正4918日 大阪毎日新聞

○人を食つた天勝のサロメ 自分で「高等イカ物」と名乗る

❖「私のサロメを高等イカものだなんて随分ぢやありませんか」と天勝奇術女史は例の妖艶な眼に天一伝来の愛嬌を漲らせて、自称高等イカ物サロメ談なるものを捲し立てる。

❖「日本での元祖は須磨子さんで、それから下山京子さん、次が森律子さん、四度目が貞奴さん、続いて私なんですが、私も予て悲劇物を演つて見たいと思つて居りました。尤も私の畑の奇術入でございますよ。

❖と云つて瀧夜叉や女鳴神でもあるまいし、何かハイカラな物をと探している矢先へ須磨子さんのサロメを見たものですから、之ある哉といつた訳で、早速小山内さんにお頼みして天勝向きの所を御相談を願つたのです。

❖本当を白状しますと、表情だのコナシだのはそんなに至難(むずかし)いとは思ひません。眼で見物を殺して了ふのはお俳優(やくしゃ)よりも手品師の方が一枚上手ですもの。ソレに肉の曲線美──自分で美だなんて少々極りが悪いやうですけど──これでも外国の舞台で揉まれて来ていますから日本の先輩の女優さん方より巧いつもりですわ。

天勝 006

❖勿論胴が長くつて足の短い日本の女ですから、ドウ胡麻化したつてヂャッパン式ですけれど、お臀を斯う突出して足で一寸(ちょっと)曲をすると幾分舶来臭くなるのです。私の一番困つたのは台詞の抑揚で、何(ど)う工夫をしても手品師一流のアクセントが出ます。「首が所望でございます」といふのが「種仕掛はございません」と聞えるんださうで、本当に口惜(くや)しいつたらありません。

❖それに眼の使ひ所が、奇術の方ではコヽといふ肝腎の仕草をする場合は屹度見物の方へ眼を放して客の注意を逸(そ)らすのが極意でしやう。其癖が沁み入つていますから、サロメでも急所の台詞を渡す時になると相手の顔を見るのを忘れてツイ見物の方へ眼が行つて了ひます。

❖何しろ奇術入のサロメといふので大イカ物だなんて云はれていますけれで、然しあのサロメといふ劇が何となくマヂック的ぢやありませんか。私の一座には俳優は一人も居りません。サロメに出るにも足芸師、曲芸師、ヴァイオリン弾といつた連中、兵隊には弟子の女の子を使ひます。

❖成だけ曲線美を発揮するつもりで半裸体で現はれる準備をして居りましたが、其筋の注意で腰から下へ羅(うすもの)を纏ふ事になりました。残念乍ら幾分イカ物の特色に靄が掛つた気が致します」と何處迄も人を食つている。

大正4920日 大阪朝日新聞

■サロメ 天勝のサロメダンスで七色変化のベールを見た松井須磨子、踊るばかりがサロメぢやないわ、お芽出度いのねえと慨嘆する。側から抱月、無論々々も随分お芽出度い。

■ダース 浪花座のサロメに対抗して芦辺が三人サロメを出すと、神戸の新開地では五人サロメと上を行くと、東京の浅草では十二人でサロメダースはどんなもんだいとは洒落ぢやない。

大正4922日 大阪毎日新聞

○天勝の「サロメ」 浪花座の天勝奇術は初日以来大入を打ち居れるが、天花、百合子の小奇術「硝子トランク」、天勝の「大きくなる人形(グロイングドール)」、一光の傘曲芸など何れも鮮かに見られ、天右、一光の「雲雀の表情」、土井のヴァイオリン独奏は滑稽百出にて、観客(けんぶつ)何れも頤の紐を解(ほど)きて興じあへりき。呼び物の天勝の「サロメ」は万(よろず)芸術座擬(もど)きなるが、那(あれ)までに芝居化せずにもつと奇術としての方面を強く出したらば面白かりしなるべし。

大正4922日 大阪朝日新聞

○浪花座の天勝 大切り開幕前、態々の口上に「俳優ならぬ奇術師のサロメ劇、お目だるきは幾重にも、但し曲線美と奇術応用は天勝の独壇場」といつたやうな御挨拶のあつた天勝のサロメ振り、あの妖艶な姿でその曲線美とかをどれ程までに発揮するのだらうかと、先づ御見物好奇の眼を見張らさせて幕が開く。  

御吹聴の肉体美では天勝案外にも否肉感的で、大きくいへば芸術的だ。比較しては失敬だと故障が出るかも知れんが、この点で須磨子の方が余程其の筋の御心配ものであらう。どちらかといふと天勝のサロメは寧ろ古典的で、何處かに貞奴の夫れと似通つたところがある。が如何にも台詞に根強いところがないので物足らぬのは是非もないが、踊りは美しい。兎も角あれ丈けに遣つて除ける腕だけは見てやる必要があらう。

夫れから最一(もひと)つ、喜劇「鼠取り」の主人公に扮した天勝は可笑味を可成りに成功させていた。お手の物の奇術では特に目新しいものはないにしても、鮮(あざやか)なお手際は舞台一杯を女王のやうに振舞つている。あの浪花座を文字通り連日の満員で埋めているのも成る程と首背(うなず)かせる。

大正4924日 大阪朝日新聞

❍浪花座 松旭斎天勝は二十四日限り千秋楽。同一座は京都及び神戸の内一箇所にて興行し、直に朝鮮京城の共進会余興に乗り込む由。

 

大正6年(1917年)

 

◇大阪道頓堀弁天座317日~329日)

大正6311日 大阪毎日新聞

❍天勝来る 弁天座の当興行は十五日千秋楽となるべく、次興行は久々にて松旭斎天勝一行の奇術にて、十七日より昼夜二回開演すべし。

大正6315日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 005

大正6315日 大阪毎日新聞

❍天勝の奇術 弁天座の訥子一座は十五日限り打上げ、十七日よりは既報の如く松旭斎天勝一行にて開演すべく、今回の呼物は露国巡業の土産として連れ帰りたる同国女優数名ダンスと沙翁原作の「テムペスト」劇にして、天勝が妖麗なる舞台姿と魔術を応用せる中にミランダ姫と空気の精エリエル、海の女神ジエノーの神を早替りにて見すべし。

大正6317日 大阪毎日新聞

❍弁天座 十七日より開演の天勝一行の奇術番組は左の如くなるが、とりわけ外人ダンスは昼間は露国古代の服装にてコミックダンスを、夜間はお伽ダンスを見する由。

昼の部:(一)小奇術(二)トランクの奇術(三)梯子の曲技(四)喜劇チヤレーの伯母さん(五)音楽合奏(六)金線上の妙技(七)滑稽奇術(八)天勝の魔奇術(九)露国女優ダンス(十)曲芸(十一)テムペスト劇

夜の部:(一)音楽合奏(二)梯子の曲芸(三)小奇術(四)トランクの奇術(五)テムペスト劇(六)金線上の妙技(七)滑稽奇術(八)露国人のダンス(九)天勝の魔奇術(十)曲芸(十一)社会劇愛の力

大正6319日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 016

大正6323日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 017

大正6326日 大阪毎日新聞

❍弁天座 二十九日迄日延べ

大正6329日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝奇術は二十九日打上げ。

 

大正7年(1918年)

 

◇大阪道頓堀弁天座26日~217日)

大正725日 大阪朝日新聞

❍弁天座の天勝 既報の如く六日初日にて久々松旭斎天勝一座で開場。昼夜二回の興行として番組左の如し。

□之大曲技(天虎)、各国流行ダンス(文子・美代子・小天勝)、滑稽奇術種明し(天右)、大小奇術(天勝)、米国新帰朝トーダンス(今村静子)、印度古典サトラ(天勝一座)、奇術応用喜劇平和の女神(天勝一座)

大正7218日 大阪朝日新聞

❍弁天座次興行 天勝一座は十七日限り。

 

大正8年(1919年)

 

◇大阪道頓堀弁天座412日~426日)

大正8412日 大阪毎日新聞

❍天勝一行 弁天座は十二日より松旭斎天勝一行にて昼夜二回開演。重なる番組は歌劇「血の様な椿」、お伽歌劇「羊の天下」、古典悲劇「ロズムンダー」等。右の内「血の様な椿」は坪内博士の「霊験」をオペラに脚色せるものなりと。

大正8412日 大阪朝日新聞[広告]

天勝 011

大正8423日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝一座は二十六日迄日延。(二十七日より東家楽燕の浪花節)

 

大正9年(1920年)

 

◇大阪道頓堀弁天座46日~420日)

大正944日 大阪毎日新聞

❍弁天座 新声劇一派は四日限り打上げ。次は六日初日にて久々振の松旭斎天勝一行にて開演する筈。

大正945日 大阪朝日新聞[広告]


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大正
9414日 大阪毎日新聞

❍天勝の二の替り 弁天座の天勝一座は十四日芸題替を為し、バアネット夫人原作、巌谷小波氏脚色家庭劇「小公子」三場を出す。重なる役割はドリンコート侯(南部)、小公子(かめ子)、下女メリー(きぬ子)、家従(福島・鎌田)、小作人(大浜)、翁キップス(三好)、弁護士ハビシャム(山本)、エタル夫人(天勝)。

大正9419日 大阪朝日新聞

❍弁天座松旭斎天勝一行は二十日にて閉場。

 

◇大阪道頓堀弁天座1213日~1226日)

大正91212日 大阪朝日新聞[広告]

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大正
91222日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝一座は二十一日から「小公子」三幕を差加へる。

 

大正11年(1922年)

 

◇大阪道頓堀弁天座311日~321日)

大正1139日 大阪毎日新聞

[広告]松旭斎天勝嬢の一行が三年ぶりで来阪、十一日より開演致します。益々洗練された奇術や歌劇に興味を唆(そそ)られるのも春らしい気分です。昼夜二回 弁天座

大正11310日 大阪朝日新聞[広告]

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大正11311日 大阪朝日新聞[広告]


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大正
11318日 大阪毎日新聞

○弁天座の天勝 久々で松旭斎天勝一座が十一日から向ふ十一日間昼夜二回興行で弁天座にかゝつた。奇術一点張では興が薄い故か、天勝を中心に娘子連の歌劇中心の傾向が見えて来た。今度の出し物でも楽劇と銘打つた神話から取材の「鶏の妃」がある。天勝のエソンダ、黒木のラーベエンが中心であつて、□□王宮殿の場で、鶏が瞬時に天勝の鶏の女房に手際よく変るのは愛嬌で、此座独特である。其他和洋音楽合奏、石神の独唱、天勝、しげ子のダンスなどがあつたが、奇術では流石に天勝の魔術が手際好く綺麗で、奇術種明しは天海、天晴で滑稽百出、腹を撚り顎を脱さねばおかぬ。切は天勝の相生獅子で、賑はしく打出した。

 

大正12年(1923年)

 

◇大阪道頓堀弁天座31日~314日)

大正1232日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 001

〈編者註〉「弁天座 本日初日の松旭斎天勝一行 代魔奇術 久方振りの来阪にて鮮やかな技巧振りを御覧じませ 毎日昼夜二回 椅子席金六十銭」

 なお、このころ朝日、毎日ともに「松竹劇報」という松竹各座の興行案内の小さな広告が隔日ごとくらいに出ており、三月の案内の弁天座の欄を見ると、天勝公演の短い宣伝が文句をかえて添えられている。朝日と毎日でその文句が別々なのもおもしろい。

「美しいもの! それは天勝の指が綴る夢のやうな魔術で厶います。是非お早々と弁天座へ」(32日・毎日)

「夢と幻の交響楽! 一夕の歓を当座のパラダイスへ是非!」(33日・朝日)

「天勝が水芸のあざやかさ! 宛ら夢の世界を現出してゐます」(34日・毎日)

「夢の世界! 幻の世界! 見る目綾な天勝の魔術と奇術を!」(37日・毎日)

「さても巧緻を極めたる天勝の奇術へ!」(310日・朝日)

「天勝の鮮やかな水芸と魔術は連日湧きかへる人気を博申候」(311日・毎日)

「妖しくも美しき魔術の世界よ! ぜひ弁天座へお越し下さい」(313日・朝日)

「白熱的の喝采に終始した天勝一行は愈々今日限り打上」(314日・毎日)

大正1236日 大阪毎日新聞

○弁天座の天勝 道頓堀は久々で松旭斎天勝一座が一日から二回興行で弁天座へ乗込んだ。天勝娘子連の小奇術や天海の鮮やかな「ボール奇術」、天海、天清、三好の滑稽奇術があつたが、矢張人気は天勝が占めている。その天勝の初演奇術、文化奇術などいろ〳〵あるうちでは、廻り屏風のやうな組織の屏風の一間々々へ男を入れて廻はしてると女と変つているのと、時計の奇術などが面白かつた。その他お伽劇として小波氏の「日の出神楽」や歌劇「眠り草」などが無邪気に見物を喜ばせて、大切に日本固有の「水芸」の一曲がある。太刀の先から水を出したり扇や小娘の持つ花から水が出て、天勝以下紫の着付に派手な裃で古風な色取で打出した。

 

◇大阪九条八千代座88日~)

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天勝 020


◇大阪天満八千代座
815日~821日)

大正12817日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 002

 

大正15年(1926年)

 

◇大阪道頓堀弁天座930日~)

大正15929日 大阪朝日新聞[広告]

天勝 015

大正15930
日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 001



misemono at 11:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)松旭斎天勝興行年表(大正時代) 

2017年03月31日

資料紹介:西国三十三所 生人形評判

  はじめに

「西国三十三所 生人形評判」は明治十二年二月七日より大阪千日前で始まった松本喜三郎の生人形「西国順礼三十三所霊験記」の興行の時に作られた謄写版摺の小冊子(5丁)である。見世物興行では口上言いが場内で一枚摺りの絵ビラと絵本番付(ガイドブック)を売るのが通例であるが、この興行でも、飾られた三十三所すべての場面の人形を一枚にまとめた「西国順礼三十三所観音霊験記」(明治十一年十二月二十日御届・出版人田中文次郎)と題した絵ビラ(一銭五厘)と一場面一頁ずつに解説と絵を載せた「西国順禮霊験記」と題した絵本番付(18丁・三銭五厘)が販売された。この評判記は小屋内ではなく、芝居評判記と同じように絵草紙屋で売られたと思われる。値段は絵本番付と同じ三銭五厘。

 この評判記は現在国立国会図書館デジタルコレクションに入っており、ネットで閲覧可能である。だから殊更に紹介するには及ばないのだが、この文章が何ともわかりにくい。二人の男が見世物小屋にはいり、人形を見ながらしゃべり合ってその評判をするという形態をとっているので、実際にその人形を見ていないと何を言っているのかさっぱりわからないところがある。そこで少し工夫を凝らし、編者蔵の絵本番付(明治十二年四月十一日御届 同年仝月出版/編輯 東京府下浅草区浅草北東仲町第八番地 松本喜三郎/出版人 大阪府下西区新町通一丁目第十一番地 田中文治郎/記者 内田正鳳/画工 久保田桃水)の絵を該当する会話の上に置き、臨場感を生みだし、二人の会話が少しでも理解できるようにやってみた。
 なお読みやすさを最重点においたため、二人の会話を一人ずつ区切るなど、すこし原文をいじったことをお断りしておく。



  一世一代松本喜三郎 西国三十三所生人形評判

(表 紙・下図左)一世一代松本喜三郎 西国三十三所 生人形評判 万號社

(一丁表・下図中)目を驚かす松本の注意 あなを見だすけんぶつの勉強

(二丁表・下図右)一目づゝ見所増しぬ生人形 松人/見物やきのふに増してけふも又 元楽/作者槇人


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○嗚呼指屈れば九歳余り、吾妻の霊場浅草寺の奥山に三十三所の観世音菩薩霊験灼然(いやちこ)たる由来を纏輯(とりまと)め、百物天真創業工松本喜三郎大人が活木偶(いきにんぎょう)てふものを開場なし、看客(けんぶつ)の膽潰さし、舌を巻しめ、諸人の賞賛する事、閉場の跡猶三年余りも喋々(やかまし)かりしが、又もや明治十年初花の頃よりして、取も直さず同所にて再び該(これ)を興行ありしに、此度(こたび)は已前に弥(いや)増て三十余週間の開業に、挽(ひき)もきらざる大入に、誉(ほまれ)もよしや芦の里、浪花の浦の南部(なんち)とて、賑ふ人も千日の、正面の向(むきの)豪筵屋(おおごや)へ、此の二月(きさらぎ)の初旬(はじめ)より、氏(うじ)が一世一代とて、茲に移して観せける。歩行(あゆみ)を運ぶ看客(ひとびと)は、千手観音の掌(たなそこ)より多く、日鬻(ひびひさ)げる通券(きどふだ)は、三十三間堂の仏員(ほとけのかず)に異らずと、とどろく高評(うわさ)聞く僕(やつがれ)、コウト走り拝(おがま)して頂戴せんと、清水の舞台を飛(とう)だ心地にて、三銭円を奢(おごり)ツヽ、観(みれ)ば看(みる)程手際の精工、感に堪たる。

傍に二個(ふたり)の看客(けんぶつ)、木偶に指差(さし)、不解(くだらぬ)評をする人あり。「ても鉄面皮の先生かな、氏が手際の其の穴を、凡人の肉眼にて如何に捜索(みいだす)事こそ片腹痛たしにも」と呟ながら、衆人(もろびと)に揉れて遂に大詰迄、已前(いぜん)の二漢(ふたり)と前後になり、確説(わけ)も符合(わから)ぬ雑談を、今耳底に残りし儘、「活人形評判記」と題せる一小冊を、つゞり書て以(もつて)看客の参考(ひょうぎ)に供する迄にして、固(もと)より編者の舌説に係れるものにあらざれば、よむ者其心して御一覧を懇願(ねがふ)にこそと、偖文(ちょぶん)にあらぬ喋故罪(ちょこざい)な鄙筆(ふで)を振(ふる)ふて茲に記す事書(かく)の如し。

               
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                  表看板 第十七番 六波羅密寺 空也上人

「サア〳〵元(もと)や、早クキヤ、強勢に雑踏(こむ)ジヤネーカ、コラ〳〵、ソヲ駆テ行チヤ困ラア、表木偶が肝心ダ
 ゼ。

「篤(とく)と眼看留(おめとめら)れて下さり升ふ。

「無粋(きざ)な洒落ダゼ。

「時に舞妓や小原女の顔が汗を顕(かい)て居る所と老婆(ばあゝ)の丈長(たけなが)が油染みたのと丁稚に古小倉帯を用ひた所は中々奇妙ジヤナア。最(も)一ツ奇妙なのはあの八瀬の婦人(おなご)の脚伴は背後(うしろ)から前へ合わすが至等(あたりまえへ)じやと思ふがナー。

「ソンナ箆棒(べらぼう)な脚伴が有もの歟(か)。

「イヤそふは云(いえ)をまい、茲(こん)な事は東京や西国筋の人には判解(わから)ぬ事じやテ。

「ソリヤイヽガ、彼(あ)の包銭(おひねり)を盆に乗てコウ突出して居る幼年娘(むすめ)を看ヤ、発言(ものをい)ひ
 ソーダネ。

「あんな娘が希望(ほしい)ものじやナ。

「馬鹿云な、貴公(てめへ)の細君(かみさん)の御面相では百遍転んでも覚束ナイヤ。

「コレ〳〵茲で嫁(かゝ)の棚卸は御免じやがな。

「ホイソウダツテ、併し松さん、松本と云ふ人は如何云(どういふ)人か一遍顔が見たいな。

「サヨサ、恐しい高名な人よ。夫だから大阪新報や画入の朝日抔へ時々賞(ほめ)て出てラーサ。一体仏様の観世物(みせもの)は是迄から余り聞(きか)ないよふだネー。

「サヨ〳〵、トツト往昔(むかし)に天王寺の開帳があつた時ナア、石の華表(とりい)の在側(きわ)に籠細工の豪製(おおき)な大仏さんの観世物があつたそふで、其時は栄来(えらい)入でナー。其後午年の三月に大江伊兵衛が溝の側で是レモ大仏の興行をして、成田や上人が口上を云ふて大当りであつたが、其後頓と仏係(ほとけがゝつ)た事をせんが、マア木偶師の親玉は是の松本氏と安本亀八、夫から

「コラ〳〵、生人形の年代記は卒平(まつぴら)ダゼ。サア早ク往(いく)とシヨーヤ。

西国 001の1
第一番 那智山 和泉式部

「イヨー、第一番紀州那智山かな。和泉式部の袖口は東京婦人の帯ではないが、牝針(めんばり)牡針(おんばり)がして有るのと、朱塗の杖は合点云かぬナア。

「ソンナ故実が氷解(わかつ)てたまるものか。

西国 001
第二番 紀三井寺 威光上人

「次が紀三井寺じやナ。机にある筆は悉く製造(こしらへもの)にしてある所は味(うま)ひものじやナ。

「龍女の左の手はチト桜の枝に添(そわ)ないよふに思(おもう)が、貴公(てめえ)はドウダ。

「ホンニそふ云へば底(そこ)もあるが、上人の顔は格別善(よい)ではないか。

西国 024
第三番 粉河寺 渋川佐太夫

「ヲヽ粉川寺ダナ。親父の衣裳はチト美艶(きれい)過るよふだネー。

「其茲(そこ)は観世(みせ)もの故、態(わざ)と古ものを用(もちひ)ぬじやろふと思われる。親父の指の小皺の巨細(こま)かい細工は感心なものじや。

西国 025
第四番 槇尾寺 光明皇后

口上「是が第四番槇尾寺で御座り舛(ます)。

「云(いわ)なくても解(わかつ)てラーイ。ヨー、老婆(おばゝ)が仕(つい)てる左の手はドウモ云へぬ程善(よい)ワ
 イ。其娘の足の甲を見や、ムツタリ肉の肥(ふとつ)た所は失策(すんし)なしだ。

「イヤ寸志(すんし)のあるのは藤原公が沓じやて。あれは塗沓(ぬりぐつ)で洋靴(せいよう)の格好じやが、熊毛の沓で
 もあろまいし。

「何、公家様が装束を着(つけ)て毛沓抔を穿(はく)もの歟(か)。そんな判決(ひにく)は普通民(わしら)の知ぬ事
 ヨ。

西国 026
第五番 藤井寺 藤井安基

「ハヽー藤井寺で盗賊(どろぼう)が鹿肉を調理(りょうり)るナア、該(この)左の足は松本氏に似合ぬチト工合が

「ソリヤ三十三番もあるたくさんの内だから、貴公(てめえ)の様にしらみごろしに小言を云奴があるものか。アノしばられ
 て居る坊様の顔といひ、踏立て居る足の細工ハ活生(いき)てるヨーダゼ。

西国 021
第六番 壷阪寺 瞽者沢一

「是が評判の高い瞽坊(ざとう)か、足の歩行(はこび)といひ、松本兄(し)の製作(さいく)ハ足袋を穿ても指にコヲー
 力(りき)が入て居る故、染々(よく〳〵)見(みる)程猶善(よい)わい。官女は衣装も立派、全體(からだ)の位置(そなへ)が 

西国 020
第七番 岡寺 長門の少女(おとめ)

「コヲ〳〵何迄(いつまで)も感心して木擦(てすり)に噛着(かぶりつい)て居ては困るネー、次の順礼娘を見ヤ、太股の
 所が
多淫好(じんすき)だネー。

「ホンニ、太股と云へば尻が少し細製(ちいさい)ヨーダヨ。

「ソリヤ婦人(おんな)でも和殿(おまへ)、小方(こがた)もあれば頭無(ずなし)ものふてかいな。

西国 019
第八番 長谷寺 道徳上人

「跡は第八番の閻魔様か。

「八番の閻魔と云ふ事があるものか。

「ダテ、八番と額面(がく)に書てあるモノヲ。

「併し善製(ようでき)てあるナー。

「僕(わし)は未だ一遍も地獄へ趣かネーカラ善(より)か悪(わるい)か判然(わか)らナイヤ。

「サア其(それ)わからいでも正物(ほんまも)のを見たら該物(あんな)ものじやらふと思ふて居るのじや。道徳上人の顔
 は格別よろ
しいナ。

西国 018
第九番 南円堂 春日明神

口上「ヘイ是が南円堂、正面の翁は春日大明神。

「伊勢には天照皇太。

「コレ〳〵戯言(しやれ)を止(やめ)て木偶を見ナイか。

「イヤモー何とも申分なしじや、したが翁の足の下に敷てるのは、といしにしては長し。

「何を発論(いつ)てるんだ、あれハ飾付(かざりつけ)の時いしだんに足がたがナイカラ、其茲(そこ)で継足(つぎた)しをしたのだらうと思ふが、松本の人形に限り点を打(うつ)のは素人染ミテラ。

西国 017
第十番 三室戸寺 綺田村農女

「十番の三室戸カナ、普門品を読誦して居る娘は感心々々、蛇(おろち)の変化といふ顔付ハ是も感心。

「そうかんしんせずと十一番を見ナイカ

西国 015
第十二番 岩間寺 芭蕉翁

「よし〳〵、アヽ雑踏(えらい)人じや、アヽ痛い〳〵、岩間寺にはそまれたよふで、トウド十二番へ来てしもた。

「元ヤ、たばこいれが落たヨ。

「近江にお世話さん。

「揉(もま)れて地口も余り気楽だぜ。

「ハヽア芭蕉翁の着付といひ、何処(どこ)に一ツ抜目なしじやな。

「知れた事よ、此の小児(こども)が善イといふて大層な評判の高い場ダヨ。

西国 014
第十四番 三井寺 大津の町下女杉

「ホヽー次の石山寺が云分なしジヤ。
「十四番大津町のお杉さんは浮雲(あぶ)ない事をしたものな。

「何んだ、しんるいデモネークセに。

「併し楷子の折れたカケが見(みえ)ぬナー。

「ソンナ小細工な事を云ふ奴があるものカ。

西国 013
第十五番 今熊野 楠正成

「アヽ今熊野の楠か。

「ソンナ口の利(きゝ)よふがあるものカ、城の画面(かきわり)は奇めうダ〳〵、エイまた人が押サア、六角堂かネー。

西国 008
第十八番 六角堂 池之坊

「ソヲ手がるに言ずとアノかわいらしい稚児を見なされ、如何にも観世音の御化(おばけ)あそばしたといふ顔のよそをひは
 なか〳〵に気を付けられたものじや。

「マア賞めたのハ好イガ、御化あそばしたとは奇たいな賞め様をしたものダゼ、該(こ)の和尚の顔が最前見たのとは夫々変
 つて居るから味(うま)ひヤ。

西国 007
第十九番 革堂 東山大工某

「次が定九郎。

「何の定九郎ナ事があるものカ、剪徑(おきはぎ)とさへ云へバ定九郎に究込(きめこ)むから可笑シイヤ。所で該(こ)の毛の生へた肉太な足の工合は如何にも放蕩をして博奕(ばくち)に負けて嘆息(つまら)ぬ所カラ車でも挽(ひい)て見たが、面白ない所から夜盗(どろぼ)でもヲツ始メたと云(いう)足に製作(でき)てるのは真に妙ダ。

「ゑらい六ケ(むつか)しい足じやナー、其時代に車夫(くるまひき)が居るものか。

「ホンニ是れは大誤論(おおしくじり)だ。

西国 006
第二十番 善峰寺 開山源算上人

「二十番の善峯寺と此の杉の葉や始終松の葉抔が製造物(こしらえもの)で仕(し)てあるのが松本さんの御家の一流、茲等(これら)を気を着(つけ)て見なされ。

「気を着(つけ)ると云へば、あの猟師は真白の衣装ダガ、足下(てめへ)ハ如何(どう)おもふ。

「サア私(わし)もそふは思ふけれど、万一(もし)山神の変化とでも云ふ様な事カと思ふて。

「成程、コイツハ一本頂戴だ。

西国 005
第二十一番 穴穂寺 辰女

「是が二十一番の穴穂寺、相替らず観音の顔は別段好(よい)ではないか。

「婦人(おんな)が病着のうへ合掌してる工合と下浴衣は云分なしだ。

西国 029
第二十二番 總持寺 山蔭中納言

「此の船の所はきれいだ。
「木偶を親(したし)くとまた込ミ合ふぜ。

西国 028
第二十三番 勝尾寺 百済王后

「寧(まゝ)よ、勝尾寺を拝観セイ、噂よりも十倍増だ。

西国 004
第二十四番 中山寺 多田蔵人の室

「此度は眼目の紫雲山中山寺、アヽ善イ衣服じやナー。

「アノ髪の毛がコー釣揚たる工合と草履が緩(たるん)だ所は奇々妙々、ソシテ元さん、御堂の道具も大張込ダネー。

「アノお局(つぼね)の帯ハ例の三寸巾位な織物の帯といふ積りジアろふ。たしかあの帯ハ位(くら)イが上等程巾はせまいとカ聞て居るが、是れは丸絎(まるぐけ)のよふに見へるがハテナ。

「エヽそんなうへつかたの事が下賎(しもじも)の身で判者(ひはん)が出来るものカ。時に余りしやべりちらして咽喉がヒイ〳〵云ふ様な、此の茶肆(ちゃみせ)で一服と仕よふか。

「ソイツハ強気(ごうき)だ、一寸博物会の遊歩所といふ仕掛だネー、大層カステーラを取て来たネー。

「アンマリ下直(やす)かつた依(よつ)て、はこのまゝ持て来た、該品(こんだけ)で一銭じや。

「馬鹿な事をいふぜ、一ト切レの直段だ、是侭(このまま)購(か)ツタラ五拾銭余りも散賎(さんざい)ダゼ、返却(け
 い)シロ〳〵。

茶店女「ホヽヽヽー、大事ござりません、よろしい丈をあがりなされませ。

「極まりが悪るイや、早く往(ゆ)くとしよふ、もう繰揚(くりあ)ゲも一ト替りすんだヨダゼ、ヲイ婦人(ねえ)さん、三
 切レ食つたから茶のせんと一
緒で五せん置クヨ。

茶店女「ヘイ、ありがとう。

西国 027
第二十五番 新清水 陪夫太郎

「播州の新清水カナ、またどゑらへひと込ミじやナー。

西国 003
第二十六番 法華山 法道仙人

口上「ヘイ、此の法華山の人形ハ松本喜三郎別段こゝろを用ひて拵らへましたる法道上人、淋しい場所ではござりますれど篤
 とお目とめてごらんくださりませ。

「なるほどこの嵓石(いわま)の裡(うち)のにんぎよはホンニすごいほど好(よ)イワイ、じゆつ[術]をおこのふて、こめたわら[米俵]を取寄(とりよせ)る妙術が私(わ)しも教授(おしえてもらい)たいものじや。

「馬鹿ナ、時代めいた男だ。

「時に法道仙人とかけて何と氷解(とく)。

「エイナゾ掛カ、先ヅアゲ舛(ます)。

「是れを活木偶評判記の編輯と解(とく)、意(こころ)は俵(ひょう)を輯(あるめ)るであろふ。

「フン、つまらない。


西国 002
第十六番 清水寺 熊野御前

ドロン〳〵

「あともみたいが肝心の大詰が明くそうだから、跡は止て早く見よふ。

「ヲイ繰揚ゲ壱銭。

「ヲイサ茲に置よ。

口上「先(まず)は御見物、是より三十三所は第拾六番清水寺アー

「ホンニ、聞ば九ケ年前猿若丁で団十郎、菊五郎、左団治の一座で該(この)景事(けいごと)を観タツケー。

「口上云は浅草の荒子老翁(あらこおやじ)ダナ、道理で能(よく)行届ヨ。

「叩鐘と木魚の囃子(あいかた)で幕明とは好趣向ジヤテ。

口上「平宗盛卿、右側は美人の聞へある白拍子の湯谷(ゆや)御前。

「ホンニ該(この)顔は上品な、如何にも然(しか)るべき御方と見へるワイ。

口上「偖(さて)其時の御歌に『如何せん都の春もおしけれど馴し吾妻の花や散るらむ』

「味(う)まく朗読(よん)だネー。

西国 001
第三十三番 谷汲寺 大倉太郎信満

口上「舞台は後へ繰り込ミ舛(ます)ー

「ハヽコリヤ珍敷(めずらしい)道具の仕掛じや。

「イヨー観音サマの御姿はといひ、御顔抔は味(うま)ひぞ〳〵。

「ヨヲー味(うま)ひ〳〵と云人ジヤ。

「ダテ是レがほめずに居られるものか、雪中の道具ナンザアー美麗(きれい)だネー。

「あの金商人の顔は如何にも仏さんを信仰しそうな顔じや。

「サアソコが木偶師の腹ジヤ。

「腹ジヤナイ顔の噺じや。

「判然(わかつ)て居るヨー、ヲヽ夫りや善イガ饒舌(しやべる)うちに幕が閉つた、ケコー〳〵。

「最一ツ何歟(か)道具でも変化(かわ)らんと喰イ足んよふに思ふナー。

「ソリヤ劇場(しばい)の所作デモ観るよふな気持で居るから痴漢(どぢ)だと云ふのヨ。

口上「早よふ払口へ出て貰らわんと跡が雑踏(つかへ)舛(ます)ゼ。

「ホイ是はシタリ、イヤモー松の齢の色かへぬ喜三郎君(ぬし)の栄誉(ほまれ)じや。

と打興じツヽ帰へりけり。

明治十二年二月廿二日御届

同   年同月   出版                    (定價三銭五厘)

編輯人 大阪府平民 槙野儀三郎 西区阿波座下通り一丁目四十二番地

出版人 同     山上定之助 南区八幡町二十四番地

───────────────────────────────────────────────────────中の芝居評判記 一号(三銭五厘) 二号   売捌所 諸府県絵艸紙屋

 


 

おわりに

挿絵に使用した「西国順禮霊験記」だが、編者蔵のものは袋付(下図・左)で「明治十二年四月十一日御届 同年仝月出版/編輯 東京府下浅草区浅草北東仲町第八番地 松本喜三郎/出版人 大阪府下西区新町通一丁目第十一番地 田中文治郎/記者 内田正鳳/画工 久保田桃水」の奥付がある。

これとは別に国政筆のもの(奥付なし)があり、平成十六年に熊本市現代美術館と大阪歴史博物館で行われた「生人形と松本喜三郎」展の図録の作品リストにあり、第十八番六角堂と第三十三番谷汲寺の図版が載っている。

ネットで検索すると、国政筆のものが古書店フロイス堂の目録に出ており、「中本18丁・版本・奥付なし」とあり、表紙(下図・中)、表紙裏・一丁表、第十一番(醍醐寺)・第十二番(岩間寺)、第三十一番(長命寺)・第三十二番(観音寺)、第三十三番(谷汲寺)の五葉の写真が載っている。

西国順礼 3西国順礼松本 001







 またブログ「北さん堂雑記」にも国政筆のものが紹介され、表紙、あとがき(推定)、第三十三番(谷汲寺)の三葉の写真が載って居いる。同じく奥付はないが、あとがきに「生木偶細工人松本氏は肥後国熊本の産にて、先年本国に立越(たちこえ)帰府の路中に西国三十三所の観世音を巡拝し、往昔(むかし)より語り伝へし大悲の利益を尋ね聞たる其儘を、細工は一流無類の仕組、大坂千日前におゐて興行なし、児女童蒙の結縁にもとその霊験の省略(あらまし)を小冊に記す而已」とある。この文面から察するに大阪千日前の興行のときに売られたと思われる。但し、この興行は明治四年より東京浅草で始まっており、国政(四代・のち三代国貞と推定)は東京で活躍した絵師であることを勘案すると、これは東京興行のときにすでに作られ、このあとがきだけが追加(或は書き換え)された可能性が高い。

上述した数少ない国政筆の絵をみると、編者蔵の桃水筆のものとは微妙に違っている。なかでも興味深いのは第三十三番谷汲寺の場で、国政筆のものが雪景色であるのに対し、編者蔵のものは春景色である。上掲の「評判記」は雪中の道具を褒めており、このとき飾られていたのは雪景色の観音さまであることがわかる。そこでこの場面だけ国政筆のものを使用した(「生人形と松本喜三郎」図録より転載)。参考のため両者を並べておく(左が国政筆、右が桃水筆)のでご覧いただきたい。

西国 002西国 001





 








 それにしても桃水筆のものがなぜ春景色になっているのか。想像するに、これが出版されたのは四月で、喜三郎は季節に合わせてこの最後の場面を春景色に変えていたのではないか。彼の完璧主義を考慮すると充分にあり得ることのように思われるが、考え過ぎか。

このほかにも九番の南円堂、二十番の善峯寺も「評判記」のセリフと違っている。こちらは国政筆の絵がないのでやむを得ずそのままにしておいた。

また岐阜市歴史博物館の所蔵目録にも「西国順礼霊験記」があった。残念ながらこれは袋だけで中身はないとのことだった。その袋(上図・右)には「明治十二年一月二十七日御届/編輯人 東京府下浅草区浅草北東仲町第八番地 松本喜三郎/出版人 大阪府第三大区六小区新町通一丁目第十一番地 田中文次郎」と印刷されている。その月日からいうと、これが興行の最初に作られたものであることがわかる。編者蔵のものは全部売り切れたあと、新しく作られたものかも知れない。いずれにしろ、一つの興行でこれだけ多様な絵本番付が現存するのも珍しく、それだけでもこの興行が当時いかに人気抜群であったかが充分に想像される。

最後に大阪歴史博物館が所蔵する喜三郎作の第十八番六角堂の池之坊の生人形(頭部と手)の写真を「生人形と松本喜三郎」図録より掲げておこう。この時に作られたものと推定されている。いろんな展覧会に出品されているのでご覧になった方も多いと思うが、実によく出来ていて、見るたびに感心させられる。こんなのが三十三場面も並んでいたのかと思うと、想像するだけで身震いがする。松さんと元さん二人の評判も決して大げさではないだろう。

池の坊 001西国 008



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2017年02月28日

資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末(一)

  
    はじめに

青木一座は明治三十年代、江川一座とともに浅草で絶大な人気を誇った娘玉乗り一座であったが、四十年代にはいると活動写真などに押され、地方巡業を続けたあと、明治四十二年ごろに解散した。一座を失った芸人たちはそれぞれに活躍の場を求めて散っていったが、その中に海外に渡った連中もいた。

日露戦争のあと、産業の近代化を欧米諸国に誇示すべく、1910年(43年)514日から1029までロンドンで日英博覧会が開催された。この時会場の余興として芸人が送られたが、その中に青木の芸人たち(十四名)もいた。

博覧会のあと欧州各都市を巡業したが、第一次世界大戦に遭遇し、座員の死亡、離別などでたった四名になり、1917年(大正6年)にようやく帰国した。

翌年『報知新聞』に「戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話」という連載記事(大正7321日~329日・8回)が出た。また少し遅れて『大阪朝日新聞』に「恋に死んだ『日本娘』 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話」という連載記事(大正7717日~722日・6回)が出た。

 この記事を見付け、最初に紹介されたのは阿久根巌氏で、『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)の第11章「青木一座・欧州巡業の顛末」(152161頁)にまとめられた。とても興味を魅かれ、ぜひ全文を読みたくて図書館で両紙ともコピーしてもらったが、今回改めてこれを紹介することにした。表題は阿久根氏に敬意をこめて「青木一座・欧州巡業の顛末」を使わせていただいた。同章では『大阪時事新報』も引用されていたが、これも全文掲げておいた。あわせて参照いただきたい。

大正7321日 報知新聞

戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(一)

独帝の前に立つた日本の玉乗り娘

昨紙夕刊に掲載した欧州戦乱の巷を前後四箇年遍歴して来た青木一座の苦心談は、迚も内地人の想像し得る様な生優しいものではなかつた。

抑々同一座十四人が欧州に渡航したのは今より十一年前、日英博物会の折である。其時一行中の最年少なる青木とめ女と云ふ当年七歳の少女は、今度十一年振り芳紀十八の娘盛りで帰国したが、日本語は誠にお粗末なたど〳〵しい言葉遣ひで、人様の前では口も利かれぬ始末だが、其代り仏蘭西語と伊太利語は一通り用が弁ずる様になり、ダンスも舞台に立てる丈けの修業を積んで来たと云ふ事である。

偖も日英博覧会閉会の後、欧州大陸に足を向けた一座は、巴里、伯林を始めとし、重なる大都市で興行を続け、欧州大戦開始に至る迄伯林に滞在して居たが、此前半期たる五箇年間を通じ、一座の最も光栄を博したのはミユンヘン市に於ける独逸皇帝と同皇后の御前演芸であつた。

時は一九一四年の春、欧州大陸の雲行稍や怪しくなり懸けた折である。凡百の芸能に趣味を有するカイゼルは、例により各国芸人の競技会をミユンヘン市の宮廷劇場に催させたが、其夜日本の演芸として選ばれたのが青木一座の玉乗曲芸であつた。当夜カイゼルは鳥打に背広と云ふ軽装で、皇后同伴、二三の式部官を従へて臨場あり。定刻オーケストラの音楽始まりて開場となり、露西亜のバレット踊、伊太利音楽家のバイオリン、希臘劇団の一幕物、黒人声楽家の独唱等、各国各種の演芸十数番相続いて行はれたが、初めて目にした日本の玉乗が余程深くカイゼルの興味を動かしたと見え、其夜行はれた十数番の演芸中、最優等の特技としてフオフキンストラの栄称を与へられたのが青木一座であつた。フオフキンストラは即ち皇帝鑑賞の意味であつて、此称号を与へられたものは翌日から早速劇場の前面に広告の金看板を貼り出す事が出来るので、青木一座は其後独逸内地の興行に少からざる利益を得たとの事である。

とめ女は其際十四歳の少女であつたが、当夜の光景を無雑作な口調にて語る。「カイゼルは絶えずニコ〳〵して見物して居たが、芸が終つてから私達はカイゼルの前に呼び出され、おかみさん(皇后)は私に手を出して握手をして呉れました」と。

尚カイゼルが口髯を宙に向つて捻り上げてるのは、只軍服を着て威容を正した際丈けで、背広服鳥打帽の場合には決して写真で見る様な髯振りではないと云ふ。一座は一通り伯林、巴里やハムブルグ等の大都市を興行して後、独仏両国の田舎廻り興行を始めたが、旅役者御難の災厄は内地に於て並大抵の辛労でない。「況して世界を股に懸けた興行先きの苦心談に至りては、迚も一通りのお話しでは尽せません」と言ふ。

大正7322日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(二)

  姉は謎の短銃(ピストル)自殺 窓外に動揺(どよ)めく参戦示威運動

欧州大戦は颱風の如くに捲き起り、青木一座九名と横田一座の十二名は命辛々(からがら)独逸国境を逃げ出した。中(うち)数名のものは伯林にて俘虜として抑留されたが、数日後無事釈放されて仏国々境で待合す事が出来た。

青木 001青木一座は此際既に墺伊両国及巴爾幹(バルカン)諸国で向ふ三箇年興行の契約があつたので、一行九名は横田一座と別れ、瑞西を経由して伊太利に向ふ事に決心した。大戦開始の当時、人心恟々動乱を極めた際とて、汽車旅行の混雑と困難は尋常でなかつたが、車窓四昼夜を明かして汽車は漸く伊国ゼノア港に着いた。ゼノアでは或る劇場と契約が出来て居たので、到着二日後から興行を始める事となつたが、茲に測らずも一座に取りての一大災難が湧き起つた。

ホテルに着いた翌朝、オーケストラの調子合せの為め、一座の男女芸人一同、劇場の楽屋に来て下調べをしたが、座中随一の働き役者たるかめ女(とめの姉分)の姿が見えない。「又ふて臭つているのだらう」と頭分が言ふたが、皆もさう思つて左程気にも止めないで居た。ホテルに帰つて見ると、かめ女は白いシユーチを冠つてスヤ〳〵と眠つて居る。妹のとめが「最(も)う起きなさいな」と言ひながら蒲団を刎ね外(の)けると、雪白の上敷が血汐に浸り、見事一発、咽喉元を貫いて短銃(ピストル)自殺を遂げて居たのだ。かめ女は初代青木の貰(もらい)娘で、浅草の一名物青木家を復興すべき責任の地位に在り、一座の人々も「是非さうしたいものだ」との希望を繋いで来た中心人物である。夫れが此旅先きで不慮の変死である。馴れぬ異国の旅も最早恐れを懐かぬ程の度胸は鍛へて来たが、偖此の花形に死なれては差し当り明日からの興行に困る。残された八名が茫然自失して顔を見合せたも無理はない。

窓外では参戦行列の示威運動が行はれて、物凄い程動揺(どよ)めいて居た。「姉さんは生来内気で優しい人だつたが、舞台に立つと何時も電気でも通じて来る様に、活き〳〵した芸をする人でした」ととめ女は語る。更に自殺前後の模様を聞くと「ゼノアに着いた晩、『白人は命を惜がるから碌な戦争は出来まい。日本人は面倒臭くなると何時でも命を投げ出すわネ』と変な事を言つて居ましたが、遂(つい)アンナ惨めな事をしたのです。今思ひ出してもゾッとします」とて、とめ女は身を慄(ふる)はしながら遠い彼方を見る様な目付で四年前のゼノアのホテルを回想する。

かめ女の自殺には聞くも哀れなローマンスがある。(写真は青木とめ女)

大正7323日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(三)

  銃を捲く最後の手紙 異境に果てたかめ女の恋物語

ゼノアのホテルで短銃自殺を遂げた青木一座の花形かめ女は当時十九歳の恋盛り、伯林興行の際から横田一座の渡辺と云ふ男と割ない仲になつて居た。渡辺は此仲間で珍らしい程立派な性質なので、青木一座の久保支配人も何うかして此二人を一緒にしてやりたいと苦心して居た。

戦雲勃発、在独邦人が皆散々に国境指して逃げ落ちる際、横田一座の渡辺はライプチヒに避難して居たが、かめ女は青木一座の一部の人々と共に瑞西行きの列車に乗り込んで居た。久保支配人は一目なりとも此の二人を逢はしてやりたいと、ドツセルドーフの停車場で待ち合せる様、ライプチヒの渡辺宛で電報を出した。併し全国動員の際とて、電報の発着も列車の時刻も当にはならなかつた。かめ女と久保支配人はドツセルドーフの停車場で渡辺を待ち合せる為め、態々一列車を延ばして首を長くして待つて居たが、遂に渡辺の姿は見えなかつた。「おかめ、是れ程しても駄目なのだから諦めて呉れ。日本に帰れば直ぐ逢へる。今暫らくの辛抱だ」と久保支配人はかめ女を慰撫しながら次の列車で南に向つた。

然るに青木一座の頭分に瀧太郎と云ふ仇役があつて、予々(かねがね)かめ女に懸想し、絶えず渡辺を色敵として暗闘を続け、かめ女に対しては頭分の威光を笠に着て、兎角無理難題の邪慳な振舞を見せた。此種旅芸人は英語でトループと称さるゝ如く、内部は全く階級制度の圧迫主義で、下の者は頭分から如何(どん)な無理を言はれても服従せねばならぬ。かめ女は之が為め幾夜旅の枕を濡らしたか知れない。

戦塵怱忙、避難列車の旅の間にも絶えず此恋の葛藤が続けられた。思ひ余つたかめ女は遂にゼノアのホテルに着いた翌朝、思ひ切つて短銃自殺を遂げたのであつた。短銃の筒先は渡辺から来た最後の手紙でグル〳〵巻きとなし、其手紙には「当分何も言ふまい。手紙を出してもいけないから、是を最後の手紙と思ふて呉れ」と書いてあつた。其日午後、検死は型の如く行はれ、淋しい葬儀は旅の宿の一室で営まれた。

折柄英国贔屓と独逸贔屓のゼノア市民は参戦派と平和派の二派に分れ、道路の左右を両派同時の示威行列が行はれている。窓外雲霞の如き群衆は無論此旅役者の群の悲嘆を知らなかつた。一行は是から先歩一歩、困難の底に陥つて行く。

大正7324日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(四)

  四名は海底の藻屑 帰路を絶たれた一座の困惑

欧州大戦は益々局面を拡げて行く。人心は大地震に襲はれた如く動揺する。此戦塵に捲き込まれた旅芸人の群が、思ひ儲けぬ憂目に出逢ふたも無理もない。

ゼノアを手始めとした青木一座は首都羅馬を始めゼネヴア、フローレンス、スペシヤー、ネーブルス、カタニヤの各都市を経廻(へめぐ)つて、二週間乃至三週間の興行を続け、長靴形の半島帝国に約八箇月を費したが、伊国政府は何時迄も地中海の一角に筒井順慶を極め込んで居る。国論は参戦平和の両派に分れて、全国各都の示威運動は益々激烈となる。遊芸好きの伊国人は斯(か)かる国論沸騰の際でも決して劇場通ひを欠かさず、殊に物珍らしい日本の曲芸は到る處で評判を博し、各地各座は興行の度毎(たびごと)何時も大入大人気であつたが、劇場経営者は大戦の影響を口実として一座の給料を踏倒さうとする。裁判を起すとしても半年以上待たねば落着が付かぬ。茲を付け込みとして益々踏んだり蹴つたりの目に逢はされる。結局五百リラの契約は二百リラか三百リラに打ち切られる。

一行十二名(久保支配人の妻子を含む)は帰心愈々矢の如く、宿は木賃宿同様の三等ホテルに泊り込み、食事は毎日粥の様な穀類の煮汁を啜り、一日も早く旅費を調へて帰国の途に就かうと焦つた。苦心空しからず、翌年早々ゼネヴア出帆、埃及アレキサンドリヤ港に向ふ事が出来た。不安な地中海を無事横断して目的の埃及港湾に到着したが、此時遅し、スエズ航路は既に航海杜絶となり、日本に帰るべき一本路はバタリと塞がれて居た。一行は止むなく露国経由の西伯利(シベリア)線を取る事に決心し、再び行李を整へて希臘アテネに向ひ、サロニカ方面迄足を進めたが、此時既に独軍巴爾幹(バルカン)に殺到し、塞国(セルビア)通路の露国進出は絶対不可能となつて居た。

八方塞がりの窮境に陥つた一行は、止むなく埃及逆戻りに決し、英国郵船バルボス号に乗船して再びアテナ港出帆、アレキサンドリヤに向ふたが、途中測らずも独逸潜航艇の襲ふ處となり、一座の中捨吉、辰五郎の両名と、久保支配人の妻女ヘレン(独逸人)長男保(二さい)の四名を浪黒き半夜の海上に海底の藻屑となつたのである。「今思ひ出してもゾッとします」ととめ女は遭難当時の実況を物語る。

大正7325日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(五)

  地中海の活地獄 荒波に隔てらて行く親子三人

英国郵船バルボス号は十月一日埃及アレキサンドリヤに向け希臘アテナ港を出帆した。地中海の小春日和、空は一碧イタリアンブルーの色濃く、海は鏡の如く静かだが、独墺潜航艇は絶間なく辺海に出没し、欧亜両州連絡の一等道路たる地中海は今や全く死の海と化して居た。

当日午後二時頃、二三の端艇(ボート)に分乗した数十名の遭難者が頻りにバルボス号の救ひを呼んでるので、引き揚げて見ると果して前日独潜艇の為め撃沈された仏国汽船の乗客船員であつた。昨日の遭難談、今日は我が身の上、バルボス号の乗客船員は安き心もなくて航海を続けたが、同夕刻六時頃に至り、果して舷側間近く現れたる鱶の如き化物、云ふ迄もなく地中海荒しの独潜艇である。

船内は見る〳〵阿鼻叫喚の活地獄。第一第二の救命艇は順序よく海面に引き下されたが、青木一座多数の者の乗り込んだ第三救命艇は途中迄は降りたが吊縄の故障の為め宙ブラリンになつて水面に届かない。気の焦せつてる水夫は片側の吊縄を切り放つたから艇体は片曲りした儘三四十名の男女を乗せてザブンと許り水中に沈み込んだ。再び浮き上る端艇(ボート)には多数の者が必死となりて縋り付くので、艇体は再び沈没し掛ける。無惨な荒くれ水夫共は鉈の様な櫂の刃を揮つて縋り付くものゝ手首を切り放つた。

暮景よりの強風で浪は漸く荒くなる。とめ女と久保支配人は端艇(ボート)の縁に向ひ合せになつて囓り付いて居る。「とめ、手を放しては駄目だゾ」と云ふ久保支配人の一言が必死となつてるとめ女の耳に徹する。とめ女は渾身の力で端艇(ボート)の縁に喰ひ付いて居る。久保の左の手には妻女ヘレンが抱き込まれ、ヘレン夫人は更に当時二歳の一子保を諸手で抱き込んで居たが、小山の様な浪がザブン〳〵と捲き返す中、力の尽きた久保の右手は自然緩みが出来たと見え、妻女ヘレンは水面に顔を漬けた儘五六尺の距離に放れて行き、人形の様な保は仰向けになつて母体の傍(かたわら)に付き添ふて居る。久保は手を延べて再び抱へ込まうとしたが、最早力が尽きて手が届かなかつた。日独結婚の親子三人は斯くて波のまに〳〵永久の別れとなつたのである。

久保支配人の妻女ヘレンは独逸人であつた。独逸各地での興行は何時もヘレン夫人がとめ女を同伴して興行契約を取り極めて来た。開戦後無事瑞西を通過し得たのも独逸人たる彼女のお蔭であつた。とめ女曰く「ヘレン小母さんは全く日本人の様な人で、随分勝気で辛抱強い人だが、他人には何處迄も親切で、母親のない私などは思ひ懸けないお母さんに出逢ふた積りで居たのでした」と。

大正7327日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(六)

  悲運のドン底 独艇に救ひ上げられた一行九名

大波が頭上から一カブリした折、久保支配人は端艇(ボート)の縁で胸を打つて気が遠くなつてると、二三間先きにヌッと艇身を現はした鯨の様な独潜艇が夜目にも瞭(あきら)かに目に映じた。「非戦闘員だ、助けて呉れ」と我れ知らず独逸語で叫んだ處、艇上の黒い人影が頻りに縄を投げ出してる様に見える。「有り難い、助けて呉れるのだな」と思ふて一生懸命其縄に取り付いた迄は知つて居るが、後は全く人事不省に陥つて居た。暫らくの後蘇生して気が付て見ると、自分は何時か以前のバルボス号の船室に横(よこた)はり、身には独逸の水兵服が纏はれて居た。傍に居る一行中の若い者権次郎に聞いて見ると「捨吉、辰五郎両名とヘレンさんと坊ちやんは遂に行方不明になつたが、残り九名は無事本船に収容され、とめ女も其處に寝てる」と云ふ。

独潜艇は其際如何な意向であつたかは判らぬが、一応バルボス号の船内を捜索し、戦闘員を捕虜とし、貴重品や武器弾薬のみを鹵獲して後、本船の撃沈を見合せとした許りでなく、再び非戦闘員を収容乗船せしめて、アレキサンドリヤ行の航海継続を許す事となつたのである。海上遭難当時、気の確(たしか)だつた者の目撃談に據ると、独潜艇は海上から半ば溺死の遭難者を拾ひ上げて後、人工呼吸や種々の応急手当を加へ、濡れた衣類は悉く脱がせて乗組水兵等の乾いた衣類を与へて呉れ、其手当の親切で且行届いてる事は一言の申分なかつたが、但し潜航艇上に救ひ上げられて後も、人工呼吸で蘇生の見込みなかつたものは其儘再び海中に投じて水葬に付せられたと云ふ。

とめ女は其折端艇(ボート)の縁に縋り付いて、二三十分程藻掻(もが)いてる中、何時の間に息が絶えて居たが、一行中の若い者に拾ひ上げられ、久保支配人と前後して独潜艇に収容されて後、再び本船バルボス号に移されたのであつた。「ヘレン伯母さん」に親しみを持つてるとめ女は曰く「独逸の潜航艇は乱暴な様にのみ言はれてるけれど、さうとばかりは限りません。あんな波の荒かつた時、私共を助けて呉れるにだつて容易な事ではなかつたでせう」と。

救はれた一行九名は斯くて無事アレキサンドリヤに向け航海を続けたが、久保支配人は大浪の中に藻掻(もが)き廻つて[る]中(うち)、上着もズボンも脱ぎ捨てた為、三四千円余りの現金や銀行手形は悉く海中に紛失したので、着のみ着の儘の一行は是から先き一層と困難と闘はねばならなくなつた。

大正7328日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(七)

  埃及を襲ふ空中の怪 潜航艇より恐ろしかつた飛行機

アレキサンドリヤに帰着した一行は郵船八阪丸に乗船の予定だつたが、其八阪丸は独潜艇の為め真ッ逆立となつて海底に沈められた。尤も八阪丸に此遭難がなかつたとしても、着のみ着の儘の一行は船賃の補助か立替へをして貰はぬ限り乗船帰国の見込はなかつたのである。

「どうせ斯(こ)う云ふ破目になつた以上、他の厄介にならうと思ふな、一同で生命のあらん限り働け」と云ふので、一行九名は思ひも懸けぬ埃及内地の旅興行を始める事に決心した。アレキサンドリヤを振り出しとして、カイロー、ポートサイドからサワラ沙漠迄深入りして興行を続けたが、今となつては衣裳も道具も皆無な為め、已むなく「活惚」や「日本柔道」の型を見せて其場々々を胡麻化したが、幸ひ当時の埃及各都市には英仏軍隊出動の折とて、芸は不揃ひだが収入は意外に多く、殊にとめ女が旅興行中に覚えたトーダンスは何時の間にか立派な修業を積んで居たので、到る處で大喝采を博した。

只此興行中独逸飛行機の襲撃頻々たるには一行の連中も少(すくな)からず弱らされた。中にもカイロー興行中の如き、連日絶え間なく独機の襲撃あり、ポートサイドの方から羽を拡げて来た怪鳥は一旦カイローの町を東の方に飛び越し、頓(やが)て市外の辺から楫を曲げて逆行して来たかと思ふと、先づ第一には英軍司令部、次ぎに埃及政庁、第三に聯合軍火薬庫と、判で捺した様な順序で爆弾を投下して行く。プロペラーの音がすると、在留英仏人は蒼白(まっさお)になつて慄(ふる)へ上がり、気の弱い婦人共は少しの物音にも飛び上がる程神経過敏になり、遂には犬猫迄が悲鳴を発して怯え上がると云ふ始末であつた。然るに同じカイロー市内でも土耳古種族に属する埃及土民等は独飛行機の襲来と聞くや、老幼悉く戸外に走り出て、歓呼喝采して之を歓迎すると云ふ有様。とめ女曰く「潜航艇の折は左程でもなかつたが、ソラ飛行機と聞くと生きた心地がしませんでした」と。

大正7329日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(八)

  奇怪なる独探の魔手

カイローは独探の巣窟だ。久保支配人ととめ女は日常の会話に独逸語を使つて居たゝめ此一行のカイロー滞在は少からず独探連の注意を惹いたものと見える。一日迂散臭い独逸人が久保を訪問して来て紙幣束で頬ベタを叩く様な談話(はなし)をし懸け、「実は英仏両国人の間には漏れなく手が行き渡つてるが、日本人のみは誰一人連絡を取つて呉るものがない」と、そろ〳〵地色を顕しての相談となる。「其處で君が若し日本汽船の発着を正確に知らして呉れるなら、手金として一万五千円程送呈し、後は成功謝金として相談を取り極めたい」と云ふ申込み。久保は皆迄言はせず椅子を蹴つて立上つて「他国人はいざ知らず、日本人には自国汽船を沈没させ様とするものが断じて一人もない、最(も)う一言云ふて見い、貴様の生命は危いぞ」と怒鳴り付けたので、件の独探も久保の権幕に恐れて悄々(しおしお)其處を引き取つた。

日本汽船は恁麼(こんな)始末で、ポートサイドやアレキサンドリヤには寄り付かない。

兎角する中、大正五年は空しく暮れて大正六年も最早半ば過ぎとなつた。長年月の困難に辛抱がし切れなくなつたと見え、一座中の貞雄、勇、権次郎三名は逃走する。かめ女が悲劇の仇敵だつた瀧太郎も続いて逃走する。後に残つたは久保ととめ女と三平(青木)、かよ(西村)の僅か四名と云ふ心細い一座になつた。人数は少くなつたが、其代りには協力一致の精神が強くなり、「一日も早く旅費を蓄(た)め日本に帰らう」と云ふので、四名のものは傍目(わきめ)も振らず辛抱した。

幸ひ十月初旬(大正六年)に至り御用船阿波丸のポートサイド寄港あり、同船に便乗してた一武官の厚意により一行四名は漸く阿波丸便乗を許された。久しい間辛抱して貯めた金と興行に使ふた猿二匹、犬六匹と玉乗り道具、水芸道具其他ダンスの衣裳等一切を売払つた處、四人分の船賃五百六十円を支払ふて尚幾分の余裕があつた。一行は十月五日阿波丸甲板上に立つて、一年余りの困難を重ねた埃及の空を見返つた。



misemono at 10:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末 

資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末(二)


大正
7717年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (一)十歳と八つで漂浪(さすらい)の旅へ

曲芸団青木一座 十六年振りの久保 十年目に帰国のとめ子

大正三年の春、失恋の悩みに堪へかね、伊太利ゼノアで蕾の花の十五を一期に拳銃(ピストル)自殺を遂げた「日本娘」がありました。この可憐の少女は日本娘曲芸団青木一座の花形で、名を青木かめ子と申しました。一座の太夫元であつた広島市中島新町の久保卯三郎(三十八年)、死んだかめ子の妹分であつた東京生れの青木とめ子(十七年)の二人は欧州各地の巡業中、戦乱の渦中に巻込まれて一座四散の其中に、僅かに無事なるを得て、久保は十六年振り、とめ子は十年振りで、本年の初夏、懐しい故国の土を踏んだのでした。

遺産の拳銃が緒(いとぐち) 実母から太夫元へ 遺産問題の訴へ

二人が日本に落付くと間もなく、自殺した少女かめ子の実母奥村いとから故かめ子の遺産問題で面倒な嫌疑をかけられ、先月の二十八日と本月の三日、二人は広島地方裁判所草光検事の取調べを受けました。久保の答弁は「憐れなかめ子に若し遺産とでも名付けるものがあるなら、それは少女が自分の胸を射抜いた拳銃一梃、只夫れだけでせう。委細は羅馬の日本総領事館へお問合せになれば判然しませう」と何等の蟠りを見出さなかつた。問題は恐らく一種の誤解として直ぐ解決されるでせう。裁判の是非、黒白は別問題とし、茲には此の最近の出来事を端緒(いとぐち)に、過去の記憶を手繰り寄せて、恋の日本娘かめ子の哀話を中心とした、久保並にとめ子の悲しい思ひ出を記して見ませう。

一座の花形少女 肉身も及ばぬ 仲好しお姉妹

東京浅草の青木曲芸団一座は欧州巡業を計画しました。一座は青木辰五郎、同瀧太郎、同次郎の青木三兄弟にかめ子、とめ子の少女二人其の他を加へて玉乗りと軽業を興行して廻るのでした。一座は櫛引氏支配の下に、今から九年前の千九百九年愈(いよいよ)出発の途に就きました。一座の花形かめ子ととめ子は義理の姉妹でした。姉のかめ子はその時分十歳、とめ子は八歳、二人共ふつくらとした双頬に笑陥(えくぼ)を見せた姿は「まあ何て可愛いお嬢さんでせう」と、事情(わけ)を知らぬ人目には見えたでせう。

小鳥のやうに楽(たのし)く 暗い過去から逃れて 外国へ旅立つ嬉しさ

が、二人の少女(おとめ)は物心を覚える時分から軽業や曲芸で小さい心を恟(び)く付かせたり、膏汗に背をビッシヨリにした経験しか持つていませんでした。薄命な世間に包まれていたのでした。けれど何といつても十歳と八歳の小娘のことです。叔父さん達に連れられて、これから物珍らしい外国へ旅立つといふ嬉しさの為、甲板の上を小鳥のやうに生き〳〵と跳ね廻つているのでした。美しい瞳を輝かして故国の山を眺めているのでした。

産みの母との離(わか)れ かあさま達者で帰つて一緒に暮しませう

出航に最(も)う間もないその時、姉娘のかめ子は突然、嬉しさうな叫び声を揚げて駆け出しました。甲板の端に窶(やつ)れた女が一人、青木一座の者に気を兼ねて慎ましやかに控へていました。夫れはかめ子の産みの母親奥村いとでした。腰に纏はられている実の娘にさへ何處(どこ)か遠慮するやうに母親は涙ぐんでいました。「かあさま、待つていて下さい、達者で帰つて来たら一緒に暮しませう、母(かあ)さまと一緒にね」。十歳にしてはませたかめ子の口の利き方が一座の人々をして顔を反向(そむ)けさせました。母親をホロリとさせました。そして終(しま)ひには理由(わけ)もなく小娘二人を泣かせました。斯(こ)うしてかめ子の小さい胸には実母との悲しい離(わか)れを強く〳〵刻み付けて船は欧州に向けて日本を出航したのでした。

印度洋の甲板で お月さまを眺めて抱き合つた二人

船は穏かな航海を続けました。可憐の少女青木かめ子は実の母親恋しさに、銀鏡のやうなお月さまが照る印度洋で、独りシク〳〵甲板の上で泣いていることもありました。何時の間にか義姉思ひのとめ子はソーツと其の後(うしろ)から近寄つて、「姉さま泣かないで頂戴、姉さまが泣くと私も泣きたくなるわ」。二人はひしと互に抱合つて、「最(も)う屹度泣かないこと」。斯(こ)んなに言ひながら舞台で踊るやうな足取りをして、船室の方へ駈け込んだ、といふやうなこともありました。一座は無事目的の英国に着いて、千九百十二年、日英博覧会の余興を了(お)へ仏蘭西に渡りました。そして丁度其の地へ或る事業計画の為、来合せて居た久保卯三郎氏の手へ、櫛引氏から一座の支配(マネージ)が移されまして、茲に日本娘曲芸団青木一座は太夫元久保氏の手で欧州各地の巡業に取掛りました。

大正7718年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (二)太夫元久保は如何(どん)な男

金牌付きの煎餅 一座の新太夫元 久保は如何な男

一座の新太夫元久保卯三郎といふのは如何な男でしたらうか。是れより先き北米ポートランド博覧会(編者註:明治38年開催)へ煎餅を出品して金牌を授賞された日本人があつて、世間の評判に上りました。此の男が誰れあらう久保でした。久保は先祖代々茶商を営み、故国の日本では可成りに手広く商売をしていましたが、当時二十二歳、溌溂たる青年の彼れは、海外飛躍の雄心勃々として押へ難く、今から十六年以前、錫蘭茶(セイロンティー)など研究の上、北米に渡航しました。そして少なかなぬ金を儲けたのでした。

青木 004

金髪碧眼の妻 巴里で計画の久保の事業 

千九百十年即ち明治四十四年(ママ)の夏、久保は仏蘭西へ渡りました。目的は例年の夏、巴里ヂヤルダン・ダアツクリマタシヨンで開かれる避暑地の催しに、日本風の瀟洒たる建物を拵へ、其處(そこ)で彫刻とか焼物とか、例の煎餅喫茶店などを設け、その上日本固有の踊り、曲芸などを興行しやうといふのでした。計画は着々と捗つて行きまして、態々日本内地から呼び寄せた大工の手で日本風の家屋も悉皆出来上つた時分、不運にも降り続く雨の為に洪水があり、家は流れる、設備万端滅茶々々に成つて、折角の苦心も水泡に帰しました。久保は失敗に屈せず、翌年規模は余程最初の計画より小さいものでしたが、兎も角目的通りのものを作り上げました。丁度その時仏蘭西へ渡つて来た青木曲芸団一座に出会つて櫛引氏から其の支配権を譲り受けたのでした。久保にはポーランド人アントソコロフスキーの愛嬢ヘレン(二十六年)といふ金髪碧眼の妻があつて、二人の仲には保(四年)といふ可愛い男の兒まで挙げていました。

三つの曲芸団 欧州の天地では巾を利かした

その当時欧州各地を跨(また)にかけて巡業していた日本曲芸団には三つの団体がありました。久保の青木一座(座員八名)、横田組(二十余名)、小天一奇術一座(六名)が夫れで、何れも花形として日本娘が愛嬌を振り蒔き、欧州大乱勃発前までは各国都市の劇場やルナパークで外人間に好評を以て迎へられていたものでした。ですから旅から旅へ漂泊(さすら)ふ彼等日本娘の一座は中々どうして物質的には豊富な、むしろ贅沢な位です。

大きく美しく 愉快に二人は生ひ育つた

異国の物珍らしさと変化の多い生活振りとが二人の姉妹を生き〳〵と小鳥のやうにさせました。そして二人とも段々と大きく、美しくなつて行きました。他の芸人と一緒に姉妹娘は毎日朝稽古を励みます。夜になつて舞台に登る前には念入りのお化粧に取りかゝります。頬紅を思ひ切つて沢山差して置くのです。是れは六ケ敷い軽業中、苦しさを堪へ忍ぶ時に、次第に紅潮して来る顔色を観客(けんぶつ)に隠さうといふ心尽(こころづか)ひからでした。姉のかめ子は梯子の先端(さき)で危い芸を打つのが十八番でした。妹のとめ子は玉乗りでお愛嬌を振蒔いていました。

大吹雪の中を 大晦日から元旦へ 劇場へ乗込んだ

巡業の折々、斯んな忙しさもありました。大正元年十二月三十一日、大晦日の晩など青木一座は独逸ヅツセルドルフの興行を打揚げるなりハンブルクへ向けて出発しました。元旦は列車の中でお祝ひして、元日の夕暮ハンブルクに着いた時には大雪でして、霏々たる大吹雪中自動車を駆つて劇場に乗り込み、その夜(元日)初日の蓋を開けました。又或る時は観覧の高貴の方から姉妹二人に握手を賜ふた光栄もありました。かめ子は毎月十円宛母の許へ送りました。そして旅から旅へ移り行く毎に実母へ宛てて綺麗な絵葉書に優しい思ひを述べた消息を怠りませんでした。

大正7719年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (三)独逸で思ひそめた初恋

女らしく大人びて かめ子は最(も)う十五歳であつた

一座は仏蘭西から白耳義を経て独逸に渡り、千九百十三年の夏には首都伯林で興行に取り掛りました。かめ子は最(も)う十五歳、十分に発育した身体は豊麗な肉付と共に年齢よりはずつと大人びて、一人前の女らしく見えました。丸ぽちやの西洋人的型の美人として一座の人気を一人で背負つて立つて、其の上にこの美しい日本娘が梯子の先端(てっぺん)で演ずる危(あぶな)かしい芸当が又ずば抜けたお手際だつたので、全く一座の花形として非常な好評を博したのでした。かめ子は飽くまで華やかにてきぱきと、時にはオキヤンな位に振舞つて、少女の生々しさが身体中に漲つているやうにみえました。

危く舞台で過ちを仕出かし兼ねぬ 少女が恋の悩み

ところが伯林の興行最中から、あれ程活発であつたかめ子の素振が段々と憂鬱に傾いて、何か物思ひに沈んでいるやうな、又時にはソワ〳〵と落付かぬやうな、変な様子に変つて行つて、果ては一座の人々にさへ怪しまれるほどでした。のみならず肝腎晴れの舞台に於いてさへ、これまで大胆と巧妙の喝采を博していたあの芸当が、まあ如何でせう、或る晩など危く梯子の上から滑り落ちんとして、一座の座員にハッと吐胸(とむね)を息(つ)かせ、観客(けんぶつ)を思はずハラ〳〵させた位でした。太夫元の久保はその夜かめ子を膝下に呼び寄せ、物柔かな調子で心に秘めた悩みを一切打ち明けるやう諭しました。「免(ゆる)して下さい……、御心配をかけて済みませぬ〳〵」とかめ子は涙ながらに其の場で胸に燃ゆる初恋の一切を打ち明けたのでした。

恋男の渡辺哲二 芸術家肌の放浪日本青年

かめ子の恋人、それは白耳義のアントワープから久保がわざ〳〵呼び寄せて舞台衣裳の刺繍(ぬいとり)を遣らせていた渡辺哲二といふ日本青年で、房々とした頭髪(かみ)を毎(いつ)も綺麗に手入れした色白の美男子でした。渡辺はずつと以前から故国の日本を飛出して欧州各国に放浪の旅を続けている芸術家肌の男でした。かめ子は渡辺が一座して以来、旅芸人のうら淋しい少女(おとめ)心に初心(うぶ)な初恋を胸中深く秘めて、異郷の旅から旅へ、嬉しいやうな悲しいやうな物案じに悩んでいるのでした。浮世の酸いも甘いも噛み分けた久保は哀れな少女の恋を成立たせてやらうと尽力しました。そして二人は許婚のやうな仲になりました。かめ子は再び生れ返つたやうな生々した娘に返つて楽しい巡業の旅を続けて行きました。

青木 006

舞台で結婚式 列席した二人は未来の幸福を夢みて

かめ子が渡辺と楽しい恋に酔うている其の頃でした。丁度伯林のハーレンヂルナパークで興行していた小天一日本奇術一座の松浦といふ座員が矢張り同じ一座の女奇術師月子といふ若い女と結婚するに就いて、ほんとうの三々九度の盃をご見物衆を前に控へた舞台の上で遣つて見せることになりました。「日本の結婚式」といふのが大層な評判になつて、当夜は宵の口からギッシリ満員の素晴らしい景気でした。花婿は紋付羽織袴、花嫁は高島田に結ひ上げ、裾模様、丸帯の盛装、島台に男蝶女蝶の銚子、式(かた)の如く「高砂や」の蔭謡曲にほんものゝ結婚式が舞台で見事遣つて除けられたのでした。見物の独逸人達は「幸福なれ、若き日本の芸術家よ」などゝ口々にお祝ひの辞を浴びせかけ、小屋中沸き立つやうな人気でした。かめ子も渡辺も此の結婚式中のあるお役目を承まはつて、舞台の人に立つていました。そして此の幸福らしい花嫁花婿の三々九度に列席しながら、かめ子は絶えず渡辺と顔見合せては隠し切れぬ微笑(ほほえみ)を口元に湛へているのでした。「最(も)う直(じ)きです、私達の斯(こ)うした幸福も……」。かめ子は華やかな未来を胸に描いて、両の眼はいやが上にも麗しく輝くのでした。

大正7720年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (四)相携へて古都羅馬を

伝説「羅馬の狼」 恋人同士二人で楽しい古都見物

青木 005一座は伊太利の羅馬へ乗込むことになりました。丁度その前日、座員某しの妻がお産の為に入院していた巴里の病院から無事出産の通知があつたので、その方へ人手を取られ、一座の出発を一日延期しました。かめ子渡辺の二人は久保の勧めに依つて羅馬へ向けて先発しました。是れは若い恋人同士二人切りで自由な楽しい一日を古都羅馬の見物に過させやうといふ久保の粋な図(はから)ひなのでした。羅馬へ先着したかめ子と渡辺は、街の市役所前に飼つてある狼を見ました。そして一頭の牝狼が人間の赤坊二人に乳を呑ませている石像……それは「羅馬の表徴(シンボル)」……の絵葉書などを買ひ取りました。「羅馬と狼」此の二つは羅馬市の名高い伝説でして、マーズ神と巫女リーとの間に出来た双子ロミユラス並にリーマスが国王の命に依つてタイバー河に投げ込まれました。ところが双子を入れた箱が河岸(かし)に流れ付いて、牝狼の乳房によつて育て上げられ、ロミユラスは後に羅馬市を創建した英傑になつたといふのです。

月光を浴びつゝ 二人はいろ〳〵と互に語り合つた

縁起を殊の外八釜しくいふ芸人仲間では狼のこの伝説が一種の信仰のやうに重きを為していて、羅馬に乗込む芸人は何はさて置いても先ぐ茲へ見に来る習慣だつたのです。その晩二人は羅馬の街をそゞろ歩きしながら、許婚の若い男と女が味ふやうな甘い歓楽に酔うていました。月が素的に好かつたので、二人は郊外に自動車を駆りました。遠い故国のこと、帰朝後の楽しい夢、未来の計画など話題は夫れから夫れへと尽くるを知らない有様でした。話しは何時しか「羅馬の狼」の上に移りました。

「かめ子さん、馬鹿々々しいですね、あんな狼が居たなんて、如何に紀元前だつて人間の双子を狼の乳で育て上げるなんて……」「あら渡辺さん、どうしてそんなこと仰(おっ)しやるの、さう云ふ狼も居たのですよ、私屹度居たと信じますわ」「あなたも中々空想家、……ぢやなかつた、詩的な方ですな、あれはほんの作り譚(ばなし)ですよ」「どうしても作り話でないと承知なさらないの、では作り事でも好いぢやありませんか、恐ろしいものと極(き)めてある狼が赤ん坊に乳を呑ませて、その赤ん坊が羅馬の王さまに成るなんて、実際好い話だわ、ほんとうに好きな話だわ」「左様、偶(たま)には天女のやうな狼があつても悪くは無いでせう、世間の狼といへば赤ん坊どころか美しい女まで喰ッちまひますからな」「あら、そんな厭なことは言ひつこなしにしませう、私達が斯(こ)んな幸福な時に……」「如何にも、だが大分遅くなつたやうです、ぼつ〳〵帰りませう」

月に照された男の顔には冷酷な影が現れていたのをかめ子は気付かなかつた。今しがた会話の、最後の一句が何だか心の奥底に引かかつているやうに感じながらも。

巴里病院の赤坊 かめ子の胸中には心配の種が潜んで

ホテルに帰ると一座の者は既に到着していました。そして茲で赤ん坊(巴里の病院で生れたばかり)の話しで持ち切つていました。「確かに男の兒だと、巴里の病院から通知があつたので、駆け付けて見ると女の兒なんです。いや其女の兒は元より日本人ですとも、夫れに母親にそつくりなんですから……、大丈夫本物でせうよ、だが全く油断はなりませんよ、巴里の赤坊摺替へは最(も)う小説の題材にまでなつているのですからな」

その晩一座の者は皆愉快に語り合ひました。かめ子は「羅馬の狼と赤坊」の伝説と巴里の赤坊摺替への実話とを考へて、夜遅くまで寝付かれませんでした。かめ子は情人の胤を宿しているのでは有るまいかと不安と恐怖に胸を痛めていたのでした。

大正7721年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (五)ライプチヒ停車場(ステーション)の悲劇

古都羅馬の楽しかつた一日に、一点の汚点の如く、かめ子の心を曇らせた情人のあの厭な言葉が其の儘悲しい結果をかめ子の上に持ち来しました。渡辺は心強くもかめ子を後に伯林からライプチヒへ去つたのでした。そして再び帰つて来る様子は更に見えませんでした。かめ子は物足らぬ淋しさに其の日其の日を送りましたが、決して失望はしませんでした。渡辺を堅く々々信じていたのですもの。一座はやがて伯林の次ぎ興行地ブロンサイを打ち揚げて墺多利のリンツへ乗込むことになりました。途中列車がライプチヒを通過するので、久保は渡辺とライプチヒ停車場で会つて正式にかめ子との縁を取極めて終ひたい、「彼の女に対する愛情が今も尚ほ変らぬものなら同停車場まで御足労を願ふ」といつた意味の手紙を渡辺に宛てゝ投函して、一座は出発したのであつた。列車は轟然たる響きと共に刻々恋の少女の運命を決すべく進行した。そして華やかな内にも一種不安の気を交へた雑々(そうぞう)しさの間に列車はライプチヒに着いたのでした。

離(わか)れの手紙 二人は縁なきものと諦めて

けれど其處(そこ)には渡辺らしい影は見当りませんでした。かめ子の顔色……次第に青褪めて行く其の顔色を見て、一座のものは居堪まらぬやうな哀れさに、血眼になつて渡辺を捜しました。「時間を間違へたのであらう、屹度さうだ」。久保は保証するやうに言つて待合室に腰を卸しました。一座のものは終日無情な男を待つたのでした。が渡辺は遂に姿を見せませんでした。そして其の代理といふ男が一通の手紙を持つて来ました。久保は取る手遅しと開いて見ました。皆は息詰まるやうな緊張を以て耳を傾けました。取り分けかめ子には生命までと思ひ込んだ情人からの最後の通知、諾か否か、彼の女は耳の端で警鐘を乱打されるやうな響きを感じました。

過日来度々のお手紙に依りまして御心尽しの程は有難く了解いたして居ります。かめ子と私、二人は永久に縁(えにし)なきものと諦めるやうお伝への程お願ひいたします。嘗て月の夜、私は羅馬の狼に就いてかめ子と語り合つたことを覚えています。かめ子は実際「伝説の羅馬の狼」のやうに慈愛に充ちた純なる少女です。私は「只の狼」です。残忍な野獣です。かめ子と結婚することは私の身に取つて望外の幸福かも知れません。けれども私は力強い何者かゞ私を命ずるまゝに彼の女と永久離別の辞を茲に申し上げます。私は貴殿に会ふべく……幸福の方へ進むとは全然反対の方角へ……不幸と放浪の旅路へ既に出発しました。運命は残酷な野獣です。おさらば。最後に一座の幸福を祈ります。渡辺生/久保様。

停車場の悲劇 人目も恥ぢずワッと泣き崩れた

「あゝ私はあの人に捨てられた」。かめ子は胸も張り裂けさうな悲しみに、人目も憚らず雑沓の停車場待合室でワッとばかりに泣き崩れました。雲山万里の異郷に無情の恋人を慕うて泣く。旅芸人の懊悩(なやみ)、見るも可憐(いじら)しいかめ子はまだ十五である。泣き伏した姉を慰め励(いたわ)つていた妹のとめ子も果ては姉に負ひかぶさつて泣いた。ヘレンも泣いた。一座の者も瞼を濕(ぬ)らした。久保も思はず眼鏡を曇らせたのでした。千九百十四年(大正三年)の春とは言へどまだ薄ら寒い時候であつた。途中思はぬことで時間を潰した一座は愚図愚図していては次興行の間に合はぬので、一場の悲劇を跡にライプチヒを出発しました。

味気ない生命 かめ子は寧ろ冷然として見えた

憐れや初恋に破れ、生命と頼む情人に捨てられたかめ子は如何(どん)なにか浮世を味気なく暮したでせう。華やかなるべき少女の生活も、彼の女に取つては遠い〳〵沙漠を旅行く絶望的なものに相違なかつたでせう。けれど久保を始め一座の人々が心配していたとは予想外にかめ子は悲しみませんでした。何處(どこ)かに決(きっ)と覚悟した、あきらめとでもいつたやうな淋しい微笑さへ湛へて、二度と無情な男に就いては話しませんでした。折に触れとめ子が慰めやうものと、若しか渡辺のことでも言ひ出さうものなら、「最(も)うあの人に就いては言ひつこなし、いつか汽船の上でお母さんのことでお約束したやうに、二度と言ひつこなし」。かめ子は斯(こ)う言ひ切つて寧ろ冷かな態度を示すのでした。

魂の抜け殻を 恩愛の枷に縛られて

久保も一座の者もやつと安心したやうに胸撫で卸すのでした。かめ子は懸命に舞台の上で勢を出しました。あの初恋の当時、見物をハラ〳〵させたやうな危気(あぶなげ)は微塵も見出されないのみならず、時には捨鉢かと思はれるほど、大胆に而も手際よく遣つて除けて、見物は元より一座の者さへ舌を巻かせた位でした。かめ子は果してサラリと諦めたのであらうか。舞台に依つて苦悩を忘れやうとしたのであらうか。否や否や決して然(そ)うではなかつた。かめ子の初恋はそんな浅いものではなかつた。かめ子には恩を受けた一座といふ枷があつた。故国には指折り数へて待つ実母が居た。彼の女は魂の抜け殻のやうな身体を本意なくも永らへているのでした。

大正7722年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (六)彼の女は遂に逝いた

お月見に附合つて ゼノア市中の春の夜の賑ひ

千九百十四年(大正三年)の春、故国の日本では桜が真盛りと思はれる頃、青木一座は四月十九日ゼノアへ乗込みました。翌日初日を出さうといふのでホテルに落付いた一座は旅の疲れにその夜は早く伏床へ就いたのでした。

「とめちゃん〳〵」と夢幻(ゆめうつつ)の裡に誰れか我名を呼ぶ声に、とめ子は偶(ふ)と目覚めたのでした。見れば其處(そこ)には真白な服を肌に纏うて麗しく化粧した義姉のかめ子が立つていました。

「どうしたの、姉さま……」まるで女神のやうな美しき其の姿に目を見張りながら、とめ子は跳ね起きたのでした。

「お月見をしているの、私一人では物足りないので誘ひに来たのよ、付き合つて頂戴……」

かめ子の様子は其の夜の月のやうに穏かに落付いていた。姉妹はホテルの露台に出ました。まあ何といふ美しさでしたらう。ゼノアの街は春の歓楽に酔ふ市人の賑ひで、お祭のやうに一杯の燈火でした。そして月の光が夢のやうに街を包んでいるのでした。

あゝ羅馬の月は 永久に忘れぬかめ子の涙

「好い晩ですことね、ほんとうに好い晩だわ、姉さま御覧、あの街の燈を、そして又お月さまの好いこと」

かめ子は黙つて遠く空を眺めていました。その大理石のやうな冷たい頬には涙が一筋流れていました。

「とめちやん……日本の東京はあの辺でせうか……」

「嬉しいですわね、私達も此の秋(十一月)には日本へ帰るのですから、姉さまの母さまはさぞ待つていらつしやることでせう」

「羅馬は、羅馬はあの辺だつてことね、あゝ羅馬の月は好かつたわ、忘れられない、私には忘れられない……」

かめ子は涙の面を妹の胸に押し当てゝ、今まで耐へに耐へていた悲(かなし)みを思ふさま泣いて〳〵泣いたのであつた。かめ子は其の晩真夜中に自殺したのでした。

白百合が暴風雨に倒れたやうな彼の女の最期

四月二十日の午前四時頃、轟然一発、拳銃の響きに一座の者が駆け付けた時には、あな無惨! かめ子は見事心臓を射貫いて寝台の上に横(よこた)はつていました。身には純白の衣装を付けて流石に少女心の死出の旅路へと、念入りのお化粧を施していました。彼の女の最期は微笑さへ口元に湛へて、何等苦悶の影を見出しませんでした。丁度夫れは野の白百合が暴風に倒れたやうな、悩ましい内にも又艷なものがありました。真実、恋に破れた憐れな少女は天国の愛に抱かれたやうに見えました。彼の女は左の手に堅く〳〵一通の手紙を握つていました。夫れは故国の実母から最近かめ子に送つた手紙でした。

一筆申しあげ候。日本では最(も)う桜の花がほころび初むる好時節と相成候。御地にても国こそ変れ定めて春めきしことゝ存じ候。私ことも無事息災に暮し居候。これもそなたが孝行のお蔭と嬉(よろこ)び居り候。十年振りにてそなたの達者な顔を見るのも此の十一月と承はり、今から指折り数へて相待ち居り候。この間お送り下され候写真を近所の人達に見せ候ところ、皆大層美しく成人なされたと褒められ、お世辞とは存じながらも心嬉しく存じ候。呉れ呉れもおん身大切に。尚ほ久保さま始め皆々様によろしくお伝へ願ひ上げ候。母より/かめ子どの

独艇に襲はれて 久保の愛妻ヘレン等の死亡

かめ子の死骸はゼノア郊外カンポ・サントーの墓地を選み、小高い丘の中腹に手厚く葬りました。茲は世界第一との評判ある有名な墓地でして、昔から偉人傑士の霊が眠つていることころなのです。「恋に死んだ日本娘」の霊に対して久保始め一座の者は神の御手の触れんことを祈つて又旅興行に出かけたのでした。一座は其の後地中海で独艇に襲はれて、久保の妻ヘレン、愛兒保、其の他一座の者は溺死して了ひ、久保はとめ子と二人漸くにして故国日本に帰つたのでした。(をはり)


【参考資料】

大正396日 大阪時事新報

独逸の拘禁せる軽業師=興行師奥田辨次郎の話

暴戻な独逸官憲の手に拘禁せられた在独邦人五十余名の中には興行師、芸人が其の多数を占めて居るとの事だが、彼等の多くは露西亜人、独逸人等の興行主の手に買はれて旅から旅へと萍(うきくさ)の如(よう)な生活を続けて行く者であるから、其姓名を調べる事さへ中々困難だが、大阪の興行主奥田辨治郎について欧州に於ける日本芸人の現状を聞くと、東京では江川や青木一座の者が捕へられて居るらしいとの事であるが、何しろ欧米へ行つて居る芸人は大一座のものは一つもない。唯玉乗、軽業といふやうな一座に日本人が交つていると云ふ事は其座を大きく見せる為めの云はゞ装飾で、多くは外人の一座に三々伍々離散しているので、殆んど内地とも交通をしないと云ふ有様だから、斯(こ)んな場合に何者が居るか判らないが、要するに外国人のマネジヤーに買はれている身分だから、約束の日限を勤めねば金を返せと云ふし、又外人の一座と離れては独立の興行は覚束ないから、愚図々々して居るうちに捕へられたものと思はれる。

大阪から彼地へ行つて居る芸人は欧州へは四五百人、米国へは三四百人も居るだらうが、居先の不明な者を除き、秩序立つた者は自分の手では亜米利加へ行つて居るのみだが、彼国で婦人として有名な吉村すての手では岡部座といふのが行つて居るが、之は吉村の甥に当る天下茶屋の田中藤太郎の手で渡欧したもので、それから難波遊連橋の難波福松の手で渡つたのは確か独逸に居た筈で、また独逸連は山本と其妻の小芳の一座も居る筈だから、是等は拘禁せられているかも知れぬが、更に消息がないから不明である。

此間成功して帰朝した上福島の北村福松の手で行つて居る一座もあるが、之は独逸に居なかつたらしい。目下楽天地の余興に出演しているルボーフといふ塞爾維(セルビア)の女は浪花廉之助といふ大阪の曲芸師の女房となつて夫婦共稼ぎで出ているのだが、浪花は久(ひさし)く独逸に居たけれど甘く開戦以前に帰国したのだ。

大正3913日 大阪時事新報

疑問の日本軽業師一行 欧州に在留せるもの十八組

開戦前まで確実に独逸にいた邦人にして開戦後行方不明となつた者のうち其後所在の判明した者もあるが、尚ほ数十名の行方不明者の中には独逸官憲の手に拘禁せられている者が多数あるだらうとの事。而(そ)して拘禁中の大部分を占めていると噂されている日本芸人の一行は未だ今日に至るも独逸に居た者は誰々であつたかと云ふ事さへ不明であるが、今大阪及東京から欧州方面に渡航して現在判明せる芸人は左の十八組である。

▲横田組十二名▲濵村組七名▲山形組五名▲二見組七名▲光田組二名▲山本(鞠使ひ)一名▲荒山一名▲天花組四名▲安藤組六名▲岡部組七名▲両国組七名▲青木組七名▲日の出組三名▲山本小芳組女二名▲花子組(女優)三名▲曾我組二名▲小天二組七名▲福島組四名

合計八十七名であつて、其他監督、舞台係、衣裳方などを加へると百余名に上るのであるが、此等は花子一座の日本演劇を除くの外は音曲、曲芸、手品、曲乗、曲馬など悉く軽業団であつて、此中確かに独逸に居た者は小よし一座位なものだが、同組及び他も悉く開戦以前早くも独逸を逃げ出したらしく、大阪の興行師奥田辨治郎及び難波福松等の許へ一、二消息のあつた所に依ると、拘禁されている者は全く無いらしいとの事で、若し拘禁された者があるとすれば例の浮浪組と称して学生、労働者等の堕落して芸人と為り果てた一派で、所在は勿論姓名さへ判らぬ連中だらうとの事だ。

 


 





misemono at 10:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末 

2016年12月31日

更新履歴(平成二十八年度)一

第一回更新 更新日:平成2811日(金)

あけましておめでとうございます。

 今年も第一、第三金曜日に更新履歴を掲載していきます。

 Philaselphia Museumに仮名垣魯文筆、芳春画で、明治5年に浅草奥山で興行したスリエの曲馬の錦絵(三枚続)があることをyajifun氏よりご教示がありました。それをきっかけに「スリエの曲馬」の絵画資料を見直し、全面的にリニューアルしました。スリエに関する文献資料もずつと心掛けていますが、去年一年、残念ながら新たな発見はありませんでした。よってまだ「草稿」のままにしておきます。

 ついでながら同美術館で、万延元年の豹の新たな錦絵も見つかったので、当「年表」(万延元年・八頁)に入れました。まだまだあるのです。本当に油断は禁物です。

 なお、平成25年度の更新履歴はその役目を終えましたので、一月一日付をもって当「年表」から削除しました。

 今年でブログ人生六年目に入ります。孔子『大学』の「苟日新 日日新 又日新」(苟〈まこと〉に日に新たなり、日日新たなり、又た日に新たなり)を座右の銘に、日々精進し、よりよいブログをめざしてゆくつもりです。本年もよろしくお願い致します。

第二回更新 更新日:平成28 115日(金)

 カテゴリに「八人芸」を追加しました。

 十年ほど前、朝倉無声の『見世物研究』に載る「八人芸」をふくらませて小さな雑誌に発表したことがあります。だからこれは、いわば二番煎じなのですが、それでも発表しておこうと思ったきっかけは、雑誌『趣味』創刊号(水谷弓彦編集・東京神田彩雲閣・明治三十九年六月)に「八人芸 幸堂得知氏談」の記事があるのを見つけたことです。

 幸堂得知といっても、今ではほとんどは知る人もまれですが、天保十四年1843)に江戸に生れ、明治時代を生粋の江戸っ子として生きた人で、文壇の重鎮でした。また歌舞伎その他の演劇に通じ、明治の新聞を調査していた時、あちこちで彼の劇評を見かけ、知らず知らずの内に名前を覚えました。粋と通が着物を着て歩いているような彼が「八人芸」を語っていたのです。さすがにその見るところは的確で、語り口も滋味と富み、これはひとりで読んで終りにするにはあまりにもったいないと、ここ十年の間に見つかったものも盛り込んで、今回あえて投稿した次第です。

 ところで、「八人芸」って何? それは見てのお楽しみです。

第三回更新 更新日:平成2825日(金)

 カテゴリに「資料紹介:活人形の話」を追加しました。

 三世安本亀八の談話です。活人形の作り方の話で、興行年表にはそぐわないので、長く机の奥に仕舞ったままになっていたのですが、前回「八人芸」で雑誌『趣味』を調べていて、これのあるのを思い出しました。

掲載されていたのは雑誌『趣味』第一巻第五号(明治三十九年十月)です。下絵の書き方、材料の木の選び方、乾燥のさせ方、頭、手足、胴の作り方、肉付けの仕方、色付けの仕方、着物の着せ方、人形の取り扱い方等、最初から最後まで活人形の作り方の話で、これ以上はないというくらい詳しく語られています。改めて読んでみて、これもまた活人形の何たるかを知るうえで大切な資料ではないかと思い、今回紹介した次第です。

ついでながら、現在では一般に「生人形」と表記されます。私もそれに従っていますが、江戸、明治のころは、どちらかというと「活人形」の方を多く使っていました。個人的にも「活人形」の方が好きです。「生人形」はあまりにも生々しすぎて、いけません。

第四回更新 更新日:平成28219日(金)

カテゴリ「資料紹介:活人形の話」に、初世安本亀八の談話を追加しました。

雑誌『名家談叢』十二号(明治298月)、十三号(明治298月)、十七号(明治301月)、十八号(明治302月)に「活人形の話」として掲載されたものです。

順序からいうと、こちらが先になりますので、前回の分の上に持ってきました。これで二世亀八の談話があれば全部揃うのですが、明治三十二年七月、四十三歳という若さで亡くなっているので、かれに関する資料はひじょうに少なく、むろん談話も見つかっていません。

明治二十七年三月九日の明治天皇銀婚式に初世、二世、三世の亀八がそろって高砂人形を作り、天皇家に献上しましたが、今回幸いにも二世の高砂人形が口絵に出ており、これで初世と二世の二つが揃ったことになります。こうなれば三世の高砂人形も見つけなければなりませんが、それらしいものはあるものの、残念ながらまだ特定にはいたっていません。

第五回更新 更新日:平成2834日(金)

カテゴリに「資料紹介:パノラマの構造」を追加しました。

 雑誌『名家談叢』九号(明治295月)に掲載されたもので、明治二十九年四月一日より浅草日本パノラマ館で幕をあけた平壌総攻撃のパノラマ画を描いた小山正太郎の苦心談です。明治二十三年五月に開館した上野パノラマ館で、すでに矢田一嘯が戊辰戦争のパノラマ画を描いていますが、上野パノラマ館はその規模が小さく、世界的に通用する本格的なパノラマ画としてはこれが最初です。日本人として初めて手掛ける本格的なパノラマ画、小山がいかに苦心したかは、その談話の中で〝困難〟という言葉を十三回も使っていることからも察せられます。

なお参考として、昭和九年に小山の画塾「不同舎」の生徒たちが発行した『小山正太郎先生』より、パノラマ製作に協力した石川寅治と満谷国四郎の文章を抄録して載せました。この二人は、小山正太郎が手掛けたもう一つのパノラマ画、旅順激戦の製作も手伝っています。こちらは明治三十一年三月二十日より平壌の後をうけて同じ浅草日本パノラマ館で開館しました。

この二つのパノラマ画の報酬は巨額なもの(一説に平壌総攻撃の揮毫料だけで三千五百円)だったらしく、それが証拠に、このあと小山は貧乏生活から脱却し、妻をめとり、大きな邸宅を建てています。


第六回更新 更新日:平成
28318日(金)

カテゴリに「資料紹介:軽業師大浦組」を追加しました。

明治2618日から114日の大阪朝日新聞に五回にわけて連載されたものです。明治十八年から二十年にかけてアメリカへ渡り、軽業一座の興行をした男の失敗と成功の物語です。この手のものはホラが多く、また書き手の記者もそれに尾ヒレを付けておもしろおかしく書きなぐるので、どこまで信用していいかわからないのですが、それなりに得心できる部分もあるので、お話として楽しんでいただければいいかなと思い、アップしました。

第七回更新 更新日:平成2841日(金)

 カテゴリに「のぞきからくり」を追加しました。

 「のぞきからくり」は江戸時代のはじめ、飴売りがおまけとして担いだことにはじまります。やがてプロ集団が生まれ、屋台も大型になり、風景画や夜景を見せる工夫がなされます。それと同時に「八百屋お七」や「お染久松」のような外題物がうまれ、三味線や太鼓で節をつけて唄うようになります。幕末に確立したこの様式は、明治、大正を経て、昭和の五十年代まで命脈を保ちました。昭和二十四年生れの編者はぎりぎりこれを見た(聞いた)世代です。そして今、いったん滅びかけた「のぞきからくり」をなんとか残そうと尽力されている方たちが各地におられると聞きます。なんとも頼もしく、嬉しい限りです。

今回、この懐かしき「のぞきからくり」の変遷を、故山本慶一氏著『のぞきからくり』を中心に、江戸時代だけに限ってまとめてみました。といっても、堅苦しい論考は極力避け、できるだけ見て楽しめるようにしました。どうかお気軽に覗いてみてください。「じょなめけ、〳〵」です。

第八回更新 更新日:平成28415日(金)

 カテゴリに「松旭斎天一談話集」を追加しました。

 明治奇術界の覇者松旭斎天一はたくさんの談話を雑誌や新聞に残しています。天一の話は事実誤認やホラも多く、どこまで信用していいか分らないので困るのですが、それだけにできるだけ沢山の談話を集め、当ブログの「松旭斎天一興行年表」と対照しつつ、虚実を見極め、彼の実像に迫っていきたいと思っています。しかし、翻って考えれば、大ボラを吹き、客を圧倒し、手品をより魅力的に見せるというのも芸人としての真実なのですから、そこはなかなかむずかしいところです。

 今回はその第一回として、大阪毎日新聞の「天一の奇術談」(明治三十三年・全六回)を掲載しました。まだ最初なので、話の内容についてのコメントは控えます。ただ福井県での生立ちに関しては長野栄俊氏の「松旭斎天一と福井藩陪臣牧野家」(「若越郷土研究」562号・平成24年)を推奨しておきます。

第九回更新 更新日:平成2856日(金)

 カテゴリに「資料紹介:猿芝居」を追加しました。

明治4112日から17日の大阪毎日新聞に五回にわけて連載されたものです。

筆者の「雨之助」は本名を山下胤次郎といい、兵庫県武庫郡住吉村の生れ。早稲田専門学校を卒業後、二十二歳のとき雑誌『新著月刊』に「無底沼」を発表、小説家としてデビューしました。しかしその後は目立った作品もなく、明治三十四年十一月、大阪毎日新聞に入社しています。入社後は「雨之助」の署名で「千日前の表面裏面」「楽屋の内外」等、大阪の風俗、芸能に取材した連載記事を多数掲載しました。その内容はいずれもおもしろく、編者も愛読者のひとりでした。しかし残念なことに、明治四十二年十一月十五日、三十四歳の若さで亡くなりました。

第十回更新 更新日:平成28520日(金)

 カテゴリに「資料紹介:猿廻し」を追加しました。

「猿廻し」は明治391016日、19日に大阪朝日新聞に連載されたもの、「猿廻しの生活」は明治4119日から116日の大阪毎日新聞に五回にわけて連載されたものです。

今日では人権的に問題のある記述も多いですが、大阪を中心とした関西周辺の猿廻しの実態が実に具体的に描かれていて興味が尽きません。

文中にもありましたが、猿は「去る」に通じるため忌み言葉とされ、その反対の「得る」より「得手」、さらに親しみをこめて「エテ公」「エテ坊」(単に「ボー」とも)とよぶようになったそうです。また「ヒコ」は猿田彦に由来するとあります。

今の子どもたちはエテ公といっても何のことかわからないけれども、わたしたち世代は漫才の秋田Aスケ・Bスケさんのお蔭で、それが猿のことだとみんな知っていました。「エテ公の子」(いい所の子どもとをかけた)のギャグは大流行し、学校でもよく使ったものです。

猿廻しの中で特に資質のある猿を仕込んで猿芝居に送り込んでいます。前回の猿芝居に登場した猿は、芸名までもつ、いわば猿仲間のスター的存在だったのです。 

第十一回更新 更新日:平成2863日(金)

 カテゴリに「資料紹介:犬の芸」を追加しました。

明治291220日付「時事新報」に「犬の芸」として掲載されたものです。太夫元田嶋寅吉を取材しての記事です。

この記事は阿久根巌氏の『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)の第九章「犬の玉乗り」(122131頁)にすでに紹介されており、二番煎じなのですが、猿の次に犬を出さないのは不公平なので、省略されている部分及び挿絵も追加して再録しました。

現在も「わんわん大サーカス(内田芸能社)」というワンちゃんだけのサーカスがあり、ブランコ、綱渡り、球乗り、縄跳び等の芸をするワンちゃんをテレビ等で時々見かけますが、かれらの身体能力の高さには本当に驚かされます。上述の記事や掲載した絵ビラの内容は決して誇張ではないことはこれを見ても充分に納得できます。

田嶋寅吉は長楽一座を旗揚げし、犬の曲芸で成功したあと、欧米式大曲馬を組織し、日本各地を巡業しました。しかし彼の名もその一座の名もいまやほとんど忘れ去られ、日本のサーカス史にその名が刻まれていないのは残念なことです。

第十二回更新 更新日:平成28617日(金)
  カテゴリ「松旭斎天一談話集」に、雑誌「新古文林」第一巻第五号(近事画報社・明治三十八年年八月一日発行)より、「松旭斎天一の話」(わかば)を追加しました。

これは青園謙三郎著『松旭斎天一の生涯』(品川書店・昭和五十一年)に再録されており、これまた二番煎じなのですが、天一の談話の古典的な位置を占めてきたもので、口絵の写真を追加して掲載しました。前回の大阪毎日新聞の「天一の奇術談」(明治三十三年)より五年後に語られたもので、これも内容的に問題が多々あることはすでに青園氏が指摘されているとおりです。この二つの記録の統合性を探るのが義務なのでしょうが、まだ考証は置いておきます。ただ一カ所、とても感興をそそられた箇所があったのでそれだけ書いておきます。

それは「竹の子の岩吉」のことです。浪花節の起源は伝説の中にあり、実証的な研究をするにも確かな資料がまったくありません。関西の浪花節の祖は浪花伊助で、その弟子に浪花秀吉と吉田岩吉がいたとされています。いや、岩吉は秀吉の弟子だという説もあります。当時は浪花節専用の寄席などなく、殆んどが旅稼ぎです。芸名も高足駄の秀(足なえの秀トモ)とか竹の子の岩吉と綽名で呼ばれ、向う鉢巻片肌脱ぎで、尻を捲くって語っていたといいます。この岩吉が奈良丸に繋がる吉田派の祖とされていますが、阿波か淡路の出身という以外具体的なことは何もわからず、その実在すら疑わしいほどでした。

それだけに天一の談話の中に「竹の子の岩吉」が出てきたのには驚きました。明治維新前後に淡路島の片田村で浮れ節の岩吉の前座を勤めたというのです。綽名で呼んでいることなど、これは嘘(ホラ)ではなさそうです。まったく思いがけないところで貴重な証言を得、浪花節の歴史に一閃の光明を見た思いで、なんとも嬉しいことでした。



misemono at 11:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)更新履歴(明治28年度) 

更新履歴(平成二十八年度)二

第十三回更新 更新日:平成2871日(金)

カテゴリに「資料紹介:千日怪談」を追加しました。

明治二十九年三月八日、大阪千日前に横井座が開業。その翌九日、座主横井勘市が斬られ、十九日に死亡します(「見世物興行年表」明治二十九年[二頁]参照)。この事件はよほど浪花っ子の印象に残ったのか、それから十四年たった明治四十三年の八月二十七日から九月九日まで、大阪朝日新聞に十回にわたって「千日怪談」の表題で勘市刺殺事件及び後日談が連載されました。当時の記者の取材は、特に三面記事では今日ほど厳密ではなく、夏場の怪談仕立の読物と言えなくもありませんが、ともかくも勘市の履歴を伝えており、また歌舞伎興行(中芝居)の裏面がリアルに描かれていたりして、いくらかは参考になります。

第十四回更新 更新日:平成28715日(金)

その一、明治42113日の大阪朝日新聞に「寄席十種」という連載記事の(八)に「猿芝居」が取り上げられていたので、カテゴリ「資料紹介:猿芝居」に追加しました。

 その二、明治40414日、17日の新愛知に「天一の奇術談」が連載されていたので、カテゴリ「松旭斎天一談話集」に追加しました。また、カテゴリ「松旭斎天一興行年表」(二十二)に掲載していた明治3892426日の大阪毎日新聞に三回にわたって連載された「松旭斎天一の談話」をカテゴリ「松旭斎天一談話集」に移しました。
                                                                           ※

 てじな 005今年三月、公益社団法人日本奇術協会より『日本奇術文化史』が発刊されました。著者は奇術史研究の第一人者河合勝氏と福井県立図書館司書の長野栄俊氏です。第一部「日本奇術の歴史」(長野)、第二部「日本奇術演目図説」(河合)、第三部「資料編」(河合・長野)の構成で、A4414頁の大作です。資料編の一つに「日本奇術人名事典」(長野)があります。昭和六十四年迄に没した奇術師(奇術史家を含む)約五〇〇人が立項されています。奇術師の来歴はほとんど明らかにされていません。事実この中で生没年共にわかる奇術師は三十余名にすぎません。事典をつくる上でこれが如何に歯がゆいことか、昔少しく経験した者としてその苦労(ストレス)が手に取るように想像できます。心からご苦労様と言いたい。

ついでながら、この難事業に挑まれた長野氏はわがブログのカテゴリ「松旭斎天一興行年表」の共同編集者です。昭和四十六年生れの四十五歳、まだまだ若い。これからの奇術史研究を荷っていく気鋭の研究者です。増々の活躍を期待しています。


第十五回更新 更新日:平成2885日(金)

カテゴリに「資料集成:明治の千日前」を追加しました。

「見世物興行年表」を作る過程で、千日前に関する資料がいくつか集まりました。見世物に関するものは「年表」にも入れましたが、これらの資料を年代順に並べて、明治の千日前を再現してみようと思い立ちました。もし編者が東京なら浅草を、名古屋なら大須を、京都なら新京極をやったでしょうが、大阪で生まれ育ち、ミナミで遊んできた者としてはやはり千日前を選ばざるをえません。

第一回目に紹介するのは雨之助の「大阪の千日前」(『新小説』第五年第十一巻・明治33825日発行)と「春の千日前」(「大阪経済雑誌」(第九年第十一、十二、十四号・明治34120日、25日、320日発行)です。資料的にあやふやな記述も多いですが、当時の記者たちの認識を再現するという意味も含め、あえてそのままで再録しました(はっきりと誤りと分るところは註釈で示しました)。明治の千日前の猥雑なまでの喧噪を少しでも感じていただければ幸甚です。 

なお、今後の理解の一助にもならんかと思い、「見世物興行年表」より千日前で興行された見世物を抜き出し一覧にしたものを最初に付けました。よろしくご参照ください。

第十六回更新 更新日:平成28819日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に「千日前通信」(大阪毎日新聞・明治33114日)、「千日前総まくり」(大阪朝日新聞・明治3479日~729日・13回)、「千日前の今昔」(大阪朝日新聞・明治391022日~115日・9回)、「呼込の練習」(大阪朝日新聞・明治4262122日)を追加しました。

 「千日前総まくり」は雑誌『上方』十号(南木芳太郎編・上方郷土研究会・昭和6101日発行)に「三十年前の千日前」の表題で再録されています。しかし大幅に文章が省略され、図版も全部カットされています。それから半世紀以上たって雑誌『上方芸能』九十二、九十三号(昭和618月・11月)に、図版も入れ、より完全な形で紹介されました。ですので、いまさらに再録する意味があるのか自問するところですが、すでに三十年がたち、かつ千日前にとって欠かせぬ好資料なので、仮名遣いも含めより原文に忠実に、図版もすべて挿入して決定版とすべく作成しました。

「千日前の今昔」も雑誌『上方』十号に「五十年前の千日前」の表題で再録されています。こちらは記事そのままに紹介され、千日前の地図も掲載されています。よって今回はまったくの二番煎じですが、これまた貴重な記録なのであえて再録しました。

桂米朝師匠の「一文笛」の主人公秀は掏摸の名人ですが、これらの資料を読んでいますと、明治の千日前は実に多くの掏摸が暗躍していたことがわかります。これらを明治の都市現象の一断面として考察してみるのも意義深いかもしれません。

第十七回更新 更新日:平成2892日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に川柳雑誌『番傘』(通巻8号・関西川柳社・大正4825日発行)より八公「千日前より」を、雑誌『上方』(九十九号・上方郷土研究会・昭和1431日発行)より田中三寶「搖籃時代の大阪美術と見世物」を追加しました。

『番傘』は大正二年に大阪で創刊され、現在も続いている老舗の川柳雑誌です。今回取り上げた八公の「千日前より」は『番傘』初期より久しく連載された「八公随筆」の一編です。筆名の八公は同人浅井五葉(明治十五年生)の別号です。短いものですが、川柳家らしい一味違った文章で、明治の千日前が活写されています。

田中三寶の「搖籃時代の大阪美術と見世物」は、明治八年正月、千日前の本格的見世物第一号の名誉を荷った中谷豊吉について調べていた時に出合ったものです。中谷豊吉は広島出身で、省古と号し、山口県の大賀可楽に人形制作を習っていたことを、これにより初めて知りました。生没年は不詳ですが、子息の中谷翫古(彫刻家・本名房吉)は明治元年生れで、また平櫛田中(明治五年生)も若き日に豊吉に弟子入りし、木彫の手ほどきを受けています。

第十八回更新 更新日:平成28916日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に木村半文銭「千日前今昔史」(『川柳雑誌』第9巻第7号~第103号・川柳雑誌社・昭和771日~昭和831日発行)と平井正一郎「千日前の芝居と見世物」(『大阪辨』第六号・みなみ特集・大阪ことばの会・昭和2681日発行)を追加しました。

 木村半文銭は川柳家。明治二十二年生まれ。これは雑誌『川柳雑誌』に七回にわたって連載されたもので、少年から青年期を迎えたころの千日前の思い出が縷々綴られています。

平井正一郎は劇作家・演出家。生没年は不詳ですが、冒頭に「私の物ごころついた時分(明治四十年頃)の千日前は、現在のそれよりもつと賑やかな印象が残つている」とあり、こちらも大火前の千日前の思い出を綴っています。

横井勘市が射殺されたとあるなど記憶違いのところも少なからずありますが、そんな細部よりも、ふたりが少年期、青年期を過ごした明治末期の千日前が、時に懐かしく、時に猥雑に、交差し、重なりあい、より鮮明に、具体的に、立体的に再現、構築されています。

第十九回更新 更新日:平成28107日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に雨之助の「千日前の表面裏面」を追加しました。大阪毎日新聞に明治35628日から821日まで40回連載されたものです。詳細は本文をご覧ください。記者の雨之助については第九回更新に紹介しています。明治3411月に入社。これを書いた時はまだ27歳の若さでした。

 明治35年夏の千日前の詳細な現地ルポです。余りにも細部にわたり、しかも表面より裏面に力点が置かれていて、芸能(見世物)の資料としてはどうかと思うところが多々あります。よって今回はすべての紹介ではなく、編者の独断で取捨選択しました。但し切り捨てた条には概要を付し、おおよその内容だけはわかるようにしました。量が多いので二回に分けて掲載します。何もかも放り込んだごった煮のようなものですので、好きなものだけ取り出してご賞味ください。


第二十回更新 更新日:平成281021日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に雨之助の「千日前の表面裏面」の後半を追加しました。

最後の「売春婦」は全部省くつもりでしたが、それでは点睛を欠くので概要だけ入れました。

文中に「盆屋」が出て来ますが、こういうものがあったのを初めて知ったのは米朝師匠の「二階借り」という落語を聴いたときで、なかなか粋なものだなと感心したのを覚えています。雨之助はその店の具体的な名前を列挙しています。これまた実に貴重(?)なものです。

これを入力している時、ふと誰かが盆屋の思い出を書いており、その部分だけコピーしたのを思い出しました。ずいぶん前のことです。本棚をひっくりかえしてやっと挿んだファイルを見付けました。『夜の京阪』(大正九年)という随筆集に宇野浩二が「大阪の花街」を載せ、その中に盆屋の思い出を書いていたのです。改めて読んでみると中々おもしろいので、余計なことながら、参考資料として最後に入れました。

さらに余計なことながら、千日前の金澤座についてこれほど詳細に書かれたものは外に見ません。歌舞伎の研究対象のほとんどは大芝居中心ですが、その底辺を支えていた小芝居にもいま少し光が当ってもいいのではと門外漢ながら思ったりしています。

第二十一回更新 更新日:平成28114日(金

 カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に鵜野漆碩「千日前と奥田辨次郎」(『上方』十号・昭和6年)、三代目奥田辨次郎「明治初年の興行物」(昭141の講演筆記録)、上田長太郎「千日前の開発者奥田辨次郎の傳」(『上方』九十八号・昭和14年)の三篇を追加しました。いずれも千日前の開発者奥田辨次郎に関するものです。明治十年代初期の新聞にも辨次郎の記事が散見されます。今回それらを三代目辨次郎さんの「明治初年の興行物」の後に補注として追加しておきました。さらに今まで何度も語られてきた「千日前移転問題」についても出来るだけ正確にまとめて、その後へ追加しておきました。

「資料紹介:千日怪談(横井勘市物語)」ですが、辨次郎に引きたてられ、千日前の名物男になった横井勘市はやはりこちらの方が相応しいので移転しました。

 平成281024日(月曜日)に阿倍野墓地(大阪市営南霊園)へ行き、横井座慰霊碑と奥田辨次郎の記念碑と墓の写真を撮ってきました。31頁及び43に掲げておきました。併せてご覧ください。

以上、これで明治の千日前についてどうしても掲載しておきたいと思った資料は尽きました。「資料集成:明治の千日前」はひとまず終了とします。もちろん今後好ましい資料が見つかれば、随時追加するつもりです。

第二十二回更新 更新日:平成281118日(金

2011年(平成23年)正月から始めた「見世物興行年表」も、前回「資料集成:明治の千日前」が出来上がったことで、自分なりにはほぼ完結した思いがあります。この六年間、ひたすら走り続けてきましたが、この辺で暫し立ち止まり、これより来年一年をかけてじっくりと、今までの頁ひとつひとつを再確認してみるつもりです。つまりブログのメンテナンスです。

どこをどうメンテナンスしたかは必ず報告していきます。ただ今までのように月二回(第一、第三金曜日)ではなく、月一回(毎月末)とさせていただきます。第一回目の報告は十二月三十一日です。

本や論文はいったん発表したことを訂正、追加することはなかなか困難です。極端な話、間違ってもそのまま存続し、それが孫引きされたりもしています。その点ブログは直ちに対応できます。しかし翻って考えれば、ブログに携わるものはそのことを常に自覚し、責任を持ってそれを行う義務があるといえましょう。毎回いうようですが、ブログの信用性をより高めるためにさらに努力するつもりです。今後ともよろしくお願い致します。

<追伸>

丸屋竹山人さんが今年から開設されたブログ「上方落語史料集成」のお手伝いをしています。新聞調べのもともとのきっかけは上方落語の歴史を調べることでしたので、それなりの蓄積もあり、お誘いをいただいた時はすぐに了承しました。目下楽しく共同作業に勤しんでいます。来年はこちらにより多く精力を傾けたいと考えています。まだ途に就いたばかりですが、初めて紹介される史料も多く、これが完成すれば上方落語史にとって貴重な財産になることは間違いありません。まだ未完成ですが是非一度ご覧ください。

二十三回更新 更新日平成281231日(土)

 98日から1129日まで、大阪の国立民族学博物館で「見世物大博覧会」が開催されました。開催の前日(97日)に式典が行われ、実行委員会のお一人川添裕氏のご厚意で、編者も参列してきました。早竹虎吉等、久々に川添コレクションの数々を拝見し、改めてその素晴らしさに感嘆しました。お土産に図録を頂戴しましたが、オールカラー二百頁を超える立派なものでした。

博覧会

 こういう図録を見るのが大好きでして、一頁、一頁、楽しく拝見しました。ブログに白黒で掲載している報條(絵ビラ)や錦絵がカラーで出ていたものが数点あり、さっそく差し替えました。また、未知の史料も十数点あり、手許の史料と対照したうえで以下のとおり訂正、追加をしました(図録頁順)。

①安政34  九頁 図版「早竹虎吉 筑紫の飛梅④」大判錦絵二枚を、大判錦絵二枚続に訂正。(図録17頁)

②安政34  九頁 図版「早竹虎吉 富士の旗竿④」大判錦絵二枚続を中判錦絵二枚続に訂正。(図録17頁)

③天保13  七頁 図版「曲力持 浪花馬吉」を追加。(図録23頁)

④明治21年 二頁 図版「西洋大曲業 アグステン一座」二枚を追加。(図録35頁)

⑤明治31年 四頁 図版「青木瀧次郎 娘玉乗一座」二枚を追加。(図録36頁)

⑥明治23年 八頁 図版「女相撲番付」を追加。(図録41頁)

⑦明治35年 六頁 図版「馬芝居 太夫元二代目片山竹五郎」を追加。(図録81頁)

⑧明治27年 四頁 図版「馬尽しの錦絵」を追加。(図録81頁)

⑨万延元年 五頁 図版「紙細工 太夫元山桐其鳳」を追加。(図録114頁)

⑩明治20年 九頁 図版「呉服針留細工」を追加。(図録116頁)

⑪安政34  二頁 図版「生人形近江のお兼 三枚続」を追加。(図録129頁)

⑫慶応13   五頁 図版「駱駝 太夫元酒楽亭月亭」を追加。(図録139頁)

⑬明治3年  一頁 図版「象 太夫元鳥屋熊吉」を追加。(図録140頁)

⑭明治9年  三頁 図版「絵ビラ 大象 豊重画」を追加。(図録141頁)

⑮慶応13  二頁 図版「白澤」を象の報條の下に追加。(図録145頁)

⑯天保67  七頁 図版「阿蘭陀遊参船」の報條を追加。(図録155頁)

以下の五点も古書目録、ホームページなどにより追加しました。併せてご覧ください。

①安政56  六頁 宝船七福神の報條に口上文を追加。

②万延元年 七頁 豹の報條③に演義告條(口上文)を追加。
③万延元年 八頁 二代広重の豹の錦絵を追加。

④明治7年  四頁 図版「昔ハ祖師方今為観物」の説明文を追加。
⑤明治
10年 四頁 図版・中判錦絵「今昔相撲鏡」を追加。
 
余談ながら、図録を拝見していて、所蔵者が「民博」となっている報條(絵ビラ)や錦絵の数多くが阿久根巌氏の『サーカスの歴史』の口絵等に掲載されていたものと重なっていることに気付きました。もし阿久根氏の史料を民博が引き受け、こうして展観して下ったのなら、それはそれで嬉しいことです。

 それでは来年もよろしくお願いいたします。どなた様もよいお年をお迎えください。




misemono at 11:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)更新履歴(明治28年度) 

2016年11月04日

資料集成:明治の千日前(1)  目次


            資料集成:明治の千日前 


奥田 002


目次

①千日前見世物興行一覧    (「見世物興行年表」より作成)……23

②大阪の千日前(雨之助)   『新小説』第五年第十一巻(明治33825日発行)……45

③千日前通信         「大阪毎日新聞」(明治33114日)……6

④春の千日前         「大阪経済雑誌」第九年第十一、十二、十四号(明治34120日、25日、320日発行)

                ……713

⑤千日前総まくり       「大阪朝日新聞」(明治3479日~729日・13回)……1416頁  

⑥千日前の表面裏面(雨之助) 「大阪毎日新聞」(明治35628日~821日・40回)……1725

⑦千日前の今昔        「大阪朝日新聞」(明治391022日~115日・9回)……2628

⑧呼込の練習         「大阪朝日新聞」(明治4262122日)……29頁  

⑨千日怪談(横井勘市物語)  「大阪朝日新聞」(明治43827日~99日・10回)……30頁~31

⑩千日前より(八公)     『番傘』通巻八号(関西川柳社・大正4825日発行)……32

⑪千日前の草分婆さん     「大阪朝日新聞」(大正7610日~616日・6回)……3334

⑫千日前と奥田辨次郎(鵜野漆碩)

              『上方』十号(上方郷土研究会・昭和6101日発行)……35

⑬千日前今昔史(木村半文銭) 『川柳雑誌』(川柳雑誌社・第9巻第7号~第103号・昭和771日~昭和831日発行)

                ……3642

明治初年の興行物(三代目奥田辨次郎) ─付・黎明期の千日前と奥田辨次郎/千日前移転問題

              (昭和14125日、大阪明治文化研究会にての講演筆記録)……4344

⑮千日前の開発者 奥田辨次郎の傳(上田長太郎)

              『上方』九十八号(上方郷土研究会・昭和1421日発行)……45

⑯搖籃時代の大阪美術と見世物(田中三寶) 

              『上方』九十九号(上方郷土研究会・昭和1431日発行)……46

⑰千日前の芝居と見世物(平井正一郎)

              『大阪辨』第六号・みなみ特集(大阪ことばの会・昭和2681日発行)……4748

………………………………………………………………………………………………………………………………

凡例

一、各資料の転載にあたり、一部当用漢字に改め、新たに段落を設け、句読点を追加し、明らかな誤字・脱字は訂正した。

一、仮名遣いは現代と異なる部分が多く、読みづらいところもあるがそのままとし、ルビを付して理解しやすくした。

一、文中の事柄についてはっきりと間違いと判断できるところやそのままでは理解しにくいところは註解を施し、読解の手助けとした。

一、新聞や雑誌に挿絵があった場合はすべて掲載した。

一、本文中には今日の人権意識、人権擁護の立場に照らして差別的とされる語句が含まれるが、時代背景や文化状況を知るための資料であることを考慮し、原文のままで掲載した。

なお上掲の写真は藤田実「絵葉書でみる明治末~大正初年の千日前─「映画街」の黎明期─」(『大阪の歴史』74号・大阪市史料調査会・平成22122日所収)に掲載されたものを拝借した。明治四十年代の千日前風景で、現在の千日前通りから道頓堀方面を向いて撮ったもの。右手前(千日前東側)に見えるのが奥田席である。

 




misemono at 11:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料集成:明治の千日前 

2016年09月16日

資料集成:明治の千日前(2)  千日前見世物興行一覧(一)


            千日前見世物興行一覧

【明治6年】

☆七月十八日、火葬が禁止される。(太政官布告)

【明治7年】

☆東成郡天王寺村、西成郡長柄村、(明治8年)西成郡岩崎新田の三箇所に埋葬場ができる。千日前の墓地は天王寺村(阿倍野墓地)へ移転する。

【明治8年】

○一月一日より、千日三昧跡にて、中谷豊吉のからくり細工生人形。口上あまからや。

○四月二十四日より、千日焼場跡にて、猛獣、奇獣の見世物。

☆五月二十三日、火葬禁止が解禁となる。(太政官布告)

☆七月、天王寺村、長柄村、岩崎新田の埋葬場の払下げをうけ、葬儀会社八弘社が設立される。

【明治9年】

○一月一日より、朝川亭雪鵞の新聞百事生人形、小寺金蔵の貝細工、大江定橘郎のからくりキカイ人形、犬芝居などの見世物が出る。

○七月下旬、坂町東入小家にて、塚本直七の水からくり。

○十二月二十五日より、早竹藤五郎・江川半治の軽業。

【明治10年】

○一月一日より、大江定橘郎の器械細工人形の見世物。

○一月一日より、中谷豊吉の生人形。

○一月一日より、牛角力の見世物。

○一月七日より、若柳小蝶の剣渡り。

○一月、柳川蝶玉斎の西洋手品。

○二月、迷路「八幡の藪知らず」の見世物。

○八月十七日より、オーストリアのグチエの曲馬。

【明治11年】

○一月一日より、三都名所、機械細工、狼の芸、熊の芸、天井渡り、汽車の雛形、大人形の迷路、チウ〳〵太夫等の見世物が
 出る。

○一月二十八日夜、千日前で火災が起る。(第一回目の大火)

○二月、西南戦争抜刀隊戦死者の追善撃剣会。

○五月二日より、北栄座座主が女撃剣会を興行。

○七月二十日より、瓢箪の見世物。

○八月、オーストリアのグチエの曲馬。興行人奥田弁次郎。

【明治12年】

○一月一日より、チュウ〳〵太夫が一世一代の芸尽しを興行。

○二月三日、中西萬吉の小屋にて、西洋手品。興行人大沢長兵衛。

○二月七日より六月三十日まで、松本喜三郎の生人形「西国順礼三十三所霊験記」。

○八月、大阪市中にコレラが蔓延し、千日前の見世物興行の多くが停止される。

○十月、海坊主の見世物。

【明治13年】

○一月一日より、中谷豊吉の生人形「里見八犬伝」。

○一月一日より、蜘蛛男・養老勇翁の見世物。

○一月、骸骨の見世物。

○三月上旬より、柳川夢丸の西洋手品。

○三月、珍獣の見世物。興行人野口忠兵衛。

○五月、カシレイ魚の見世物。興行人曽根崎村長尾芳三郎。

○七月一日より、竹林寺にて、赤穂四十七士木像の見世物。

○七月一日より九月三十日まで、高小屋にて、水機関の見世物。

○七月十三日より、アメリカ産の猩々(オランウータン)の見世物。

○八月、女手踊(実は相撲)の見世物。

○九月上旬より、新金比羅神社前の小屋にて、水花火の手品。

○九月二十日頃より、力持の見世物。

○九月三十日、若林健三郎の火渡りの術。

○九月、長崎の若松小しげ、しげぢの女曲馬。

【明治14年】

○一月一日より、麦わら細工、日蓮記、大姉人の手踊り、松本喜三郎の息子の生人形、大象、虎、海士の鯉つかみ、撃剣、首切、足芸、カッポレ、二〇カ、落語、新内、さへもん、猿芝居等の見世物が出る。

○一月一日より、正面の小屋にて、大女大渕丸子の見世物。

○一月一日より、松本吉三郎の生人形「活人形能番組」。

○一月一日より、金比羅前にて、海女の見世物。

○一月、大鼠の見世物。

○五月、剣渡り、火渡り、水渡りの合併興行。

○七月十日より、阿波の先山慶造の仕掛花火と柳川小熊の綱渡り。

○七月、突当りの小屋にて、大瀧の見世物。興行人竹市。

○八月、行き突当りの小屋にて、猩々の夫婦の見世物。興行人竹市。

【明治15年】

○一月一日より、安本亀八の生人形「三府高名真似顔合鑑」。

○二月、猿芝居。

○六月、動物や獣の骨等の見世物。

○七月頃、蟹のようなる赤ん坊の見世物。

○十月一日より、熊と虎の見世物。太夫元奥田弁次郎。

○十月、大鯰の見世物。

【明治16年】

○一月一日より、東海道五十三駅の生人形瀬戸物細工、貝細工の生人形、羽二重細工の生人形、鉄割の足芸、朝鮮事変の大目鏡、根室県根室タコロ島の海馬(トド)・海虎(トツカリ)等の見世物が出る。

○一月一日より、正面小家にて、清水楽焼生人形「東海道五十三次」。細工人井上辰次郎。

○一月一日より、貝細工の生人形。細工人小寺良久・高橋幸助。

○三月、溝の側東へ行当りの日蓮大士真実伝遊覧所にて、おそめ久松の生人形。

○四月、陶器の早焼きの見世物。

○五月、雷獣の見世物。

○七月一日より、正面小家にて、生人形「金毘羅霊験記」。太夫本桂和正斎

【明治17年】

○一月一日より、行当り東側小家にて、象の見世物。太夫元吉田卯之助。

○一月一日より、溝の側東へ行当り小家にて、正田敬輔の生人形「俳優似顔生人形」。

○一月一日より、定席にて、桂和正斎の生人形「准歌開化世盛」。

○一月一日より、突当りにて、迷路の見世物。

○一月より、奥田弁次郎の小家にて、海漫龍の見世物。太夫元備前富士雪之進。

○二月十四日より、早竹(早綱)鯉之助・安五郎の軽業。

○六月中ごろより、行当り東側小家にて、花龍・大蛇・麝香鼠の見世物。太夫元奥田弁次郎。

○八月、坪井金光の撃剣会。

○九月中旬、睾丸(アルコール漬)の見世物。口上大和三四郎。

【明治18年】

○一月一日より、正面小家にて、菅原錦翁斎の縄細工。

○六月、オランダ産の蛇の見世物。

○八月、中村光徳の手品。 

【明治19年】

○一月一日より、四十八癖の生人形、生駒幸蝶一座の足芸、鉄割福松の足芸、西洋手品、猿芝居、女角力、山男、獣物尽しの人形等の見世物が出る。

○一月一日より、生駒幸蝶一座の足芸軽業。

○一月一日より、中村善平戯作・朝田吉光細工の生人形「新聞穴探四十八癖百妖笑々寄如件」。

○一月一日より、山男の見世物。

○二月二十日より、ジョントロー(本名藤川広太郎)の軽業。

○三月、ヘラ〳〵踊りの見世物。

○この夏、コレラが大流行し、千日前の興行物が全面的に禁止される。

○八月十三日より、犀、豹、大蛇、猿の見世物が許可される。太夫元河井貞次郎。

○八月二十日より、ヘラ〳〵踊りの見世物が許可される。

○八月二十一日より、洋犬の芝居が許可される。

○九月一日より、手品・手踊りの見世物が許可される。興行人奥田弁次郎。

○十月七日夜、大阪千日前で大火災が発生する。(第二回目の大火)

【明治20年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

両国お花の絹糸渡り、常磐津繁尾一座のヘラ〳〵踊、小澤秀寿の鞠乗、中村盆智等の一座の身振狂言、諸流合併の撃剣、ジヤグラン一座の玉乗、松本喜三郎の生人形、堀井仙助一座の照葉狂言、象の欄杭渡り、宝川伝吉一座の軽業、吉井重五郎一座の照葉狂言等。

○一月一日より、大象の見世物。太夫本吉田卯之助。

○六月一日より、西側の大小屋にて、松旭斎天一の手品。

○六月一日より、東側の大小屋にて、三代目早竹虎吉の軽業。 

○六月十六日より、女の柔術家と力士の腕くらべ。

☆七月二十三日、千日前興行場禁止令が出る。(明治二十一年十二月限り興行禁止)

○九月一日より、西側大小家にて、万国鳥獣の見世物。太夫元成瀬松五郎。

○十二月一日より十日間、新金刀比羅社前相撲場にて、ウエブスター・九紋龍の内外合併相撲。

○十二月一日より、西側大小家にて、万国鳥獣の見世物。太夫元成瀬松五郎。

○十二月二十八日より、木村席にて、大女伊勢川せんの見世物。

○この年、ヘラ〳〵踊りが大流行する。

【明治21年】

☆四月十八日、千日前興行場禁止令の二年間延期が承認される。(明治二十三年十二月まで延期)

○夏頃、外国力士ウエブスター一行の合併相撲。 

○十二月十五日より、溝の側角定小家にて、古今無双の手芸。太夫元金川藤兵衛。

【明治22年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

  細工人大江定橘の機械運動生人形(木村席)/清国張世存一座の曲芸(木村席)/田中政道(ママ)の大象の芸と小人の手踊り(木村席)/中山団平の足芸(金沢席)/篠塚一座のヘラ〳〵踊り(吉田席)/磐梯山破裂の大眼鏡(野口席)/達磨の大人形(姉子席)。

○一月一日より、木村席にて、象と小人の見世物。太夫元田中政直。

○一月一日より、木村席にて、大江定橘の機械運動生人形。

○四月十五日より、木村席にて、樋口歌治の女曲馬。

○四月よりの見世物一覧。

一二三四小僧の不具の見世物・太夫元山本秀生堂/両国光琴一座の西洋手品/大江の生人形/樋口歌次一座の女曲馬/原田譲一座の撃剣試合/五島米太夫一座の猿芝居。

○十一月三日、常の家重尾一座のヘラ〳〵踊りを興行中の吉田席が倒壊し、死傷者多数出る。

【明治23年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

動物の大集合(唐竹席)/山がらの芸尽し(榧木席)/難波福松一座の西洋軽業(奥田席)/浅田の生人形(第一木村席)/松本喜三郎の生人形(第二木村席)/大女の見世物(第三木村席)/猿芝居(第三横井席)/しっくい細工(眺望閣内)/東海道鉄道の眼鏡(鶴席)。

○一月一日より、木村席にて、大女伊勢川扇女の見世物。

○一月一日より、木村席にて、朝田丈之助の生人形「皇国名勇伝」。

○一月、熊本の宮本治平の生人形。

☆七月十五日、千日前興行場禁止令の十年間延期が承認される。(明治三十三年十二月まで延期)

【明治24年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

電気仕掛の人形(奥田席)/器械人形(吉田席)/油絵(木村席)/大象、虎、駱駝(石田席)/重尾一座のヘラ〳〵踊り(石田席)/常盤作の万国名所(眺望閣)。

○三月、山嵐・駱駝・鸚鵡・鸚鴎・大豹・大虎の見世物。太夫元吉田卯之助。(絵ビラより)

○五月一日より、木村席にて、常の家重尾一座のへら〳〵踊。

○五月九日、パノラマ館が開館。

○六月十日より、奥田席にて、シルバーマン一座の手品。興行人奥田弁次郎。

○九月十六日より、奥田席にて、玉屋小市と吉田虎造の博打(骨牌四十八手)の見世物。

○九月、奥田席にて、アイヌの物産展。余興にアイヌ人の手踊りを見せる。

○十月二十一日より、木村席にて、油絵の見世物。興行人奥田弁次郎。

○十一月、千日前の各席にて濃尾地震(1028日)関連の見世物が多く出る。

【明治25年】

○一月一日より、横井席にて、江島栄次郎の生人形「幼学忠孝鑑」。

○十月、篠塚一座の常磐津女手踊の見世物。

○十一月三十日より、千代の席にて、袋鼠(カンガルー)の見世物。

○十二月一日より、石田席にて、ラツクワルデイ夫妻の奇術。

○十二月十四日、東側北の端に、三階建ての奥田席が新築落成する。

【明治26年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

石田席・生駒胡蝶の軽業と足芸、八千代席・袋鼠人との相撲、井筒席・電機の機械人形、奥田席・洋行戻りの軽業。

○一月一日より、奥田席にて、奥田弁次郎の西洋軽業。

○五月、石田席にて、アチョン一座の曲芸。

☆七月、千日前興行場禁止令が取り消しとなる。

○十一月、石田席にて、女の力持ち。

○十二月十五日より、奥田席にて、西洋軽業。

【明治27年】

○九月一日より、神谷席にて、日清戦争の油絵の見世物。

○十月、奥田席にて、猩々(オランウータン)の見世物。

○十月、五島重太夫一座の猿芝居「平壌大勝の場」。

【明治28年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋軽業(奥田席)/大象と大虎の曲芸(井筒席)/別嬪婦人の力持(井筒席)/生人形(吉田席)/男女の撃剣会(柴田席)/猿男の曲芸(石田席)/虎遣いと三丈余りの大蛇二匹(千代野席)

○六月一日より、空中運動活石像の見世物。

○九月二十五日より、井筒席にて、チロー館(ミラーハウス)の見世物。

○十一月、奥田席の軽業師荒山鹿之助が、アボット嬢に対抗して怪力の技芸をやる。

【明治29年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

荒山鹿三郎・生駒房吉の西洋運動(奥田席)/小松家幸次郎の子供玉乗り(井筒席)/海女の鯉とり(吉田席)/福嶋亀吉の子供軽業(西井筒席)/山猩々の芸づくし(千代の席)

○三月八日、横井座が開業。その翌九日、座主横井勘市が斬られ、十九日に死亡する。

○四月、千代の席にて、虎と蛇の見世物。

○七月八日より、井筒席にて、台湾人の曲芸。

【明治30年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋大運動(奥田席)/伊勢海女の鯉つかみ(吉田席)/地獄極楽の生人形(第一井筒席)/大名行列の生人形(第二井筒席)/空中運動(石田席)/インド人の手品(千代席)/異形の牛の見世物(梅山席)/美術人形(花遊園)

○一月一日より、奥田席西の空地にて、英国戻り大曲馬・曲芸。

○八月十三日より、第一観物場にて、世界無比美術怪談。

○十二月三十一日より、珍品館にて、エル・ベランメー作のフランス活動人形の見世物。



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2016年09月02日

資料集成:明治の千日前(3)  千日前見世物興行一覧(二)


≪千日前見世物興行一覧・続≫

【明治31年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋運動大曲芸身体自由の縄抜け(奥田席)/忠臣四十八義士吉良邸討入の活人形(第二改良席)/海女水中の技術(第三改良席)/人間穴探り四十八癖の活人形(第一井筒席)/犬芝居(第二井筒席)/西洋活動人形(吉田席)/動物園(千代の席)/野猿娘(福亭)/鵜飼と模造水雷火(今宮眺望閣)

○二月、竹岡五兵衛の生人形「生蕃探検」。

三月日、千日前の興行師奥田弁次郎死亡。

○九月一日より、奥田席にて、東京弘武会の撃剣会。

○十月、小宝席にて、猿の見世物。興行人浜崎庄太郎。

【明治32年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋大運動(奥田席)/猿男の手踊り(東井筒席)/虎の見世物(西井筒席)/生人形(第一改良座)/智恵童児(山本席)/鯉つかみ(第二改良座)/犬芸(千代の席)/曾我物語俳優似顔の生人形(横井遊覧所)/横田の軽業(横井南席)/東京娘の軽業(吉田席)/智恵鐘の運動(小宝席)

○三月六日より、西側井筒席にて、猩々(オラウータン)の見世物。

○八月十日より、井筒席にて、馬と人間の相撲。

【明治33年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

奥田社中の西洋運動大曲芸(奥田席)/洋犬まり乗り(井筒東席)/動物見世物(井筒西席)/チーロー百鬼夜行(第一観物場)/膝栗毛活人形(第二観物場)/都一座の娘軽業(吉田席)/竹皮細工(渡辺席)/山田一座の改良剣舞(柴田席)/機械短銃強盗の活人形(山本席)/日本チャリネの大曲馬(百花園)/大猩々(伊藤席)/大江山活人形(小宝席)/海女の鯉つかみ・南瓜おどり(横井座北席)

○一月一日より、百花園にて、日本チャリネの大曲馬。太夫元山本政七。

○五月二十二日より、大阪千日前吉田席にて、張世存らの曲芸。

○六月十五日より、横井座の北側にて、水族館が開園。

○八月十五日より、奥田席にて、義和団事変のパノラマ。

○十二月十五日より、アナトミ館にて、中谷省古作の人体解剖の蝋細工。太夫元二代目奥田弁次郎。

○十二月二十日より、六八会にて、木彫美術角力人形の見世物。

【明治34年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

[東側・北より南へ]女義太夫(播重席)/女義太夫(末広館)/奥田社中の西洋運動(奥田席)/ 女相撲高玉大力一座(第二井筒席)/赤穂四十七義士生人形(第一山田席)/鶴屋団十郎の二輪加(改良座)/怪談鏡抜け(第三井筒席)/松本海士水芸社中の海女の水芸(第三山田席)/歌舞伎市川福円一座(金沢席)/五嶋太夫の猿芝居(柴田席)/滑稽怪談迷いの道穴さがし(第二山田席)/新演劇村田正雄一座(南劇場・元横井座)/女手踊り(小宝席)

[西側・北より南へ]東京娘玉乗小松屋一座(吉田席)/太功記生人形(松永席)/難波戦記美術人形・ろくろ首(萬歳席)/江川海士太夫一座の海女の水芸(第一井筒席)/中谷省古作の人体解剖蠟細工(アナトミ館)/神仏美術機械生人形(山本席)/理学芸大釜抜け・太夫元天楽斎(千代の席)/新演劇高橋秀郎一座(逢坂席)

〇三月一日より、第三井筒席にて、旧千日前の実況の見世物。

○三月十六日より、横井座北手にて、渡辺牧治一座の娘曲馬(馬芝居)。

○四月十四日より、千代野席にて、インド人の奇術。

○九月、第一井筒席にて、中谷省吾・翫古・球二郎作の海陸産物等の蠟細工。

○九月、第二小宝席にて、天楽斎の奇術。

○十月十八日より十日間、奥田席にて、土佐犬の相撲の見世物。

○十月、井筒席にて、虎の見世物。太夫元美濃源。

○十一月二十一日より、吉田席にて、竹田貞一事柳水亭金枝の西洋奇術。

【明治35年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

東家力太郎の曲芸(一銭屋席)/天楽斎の軽業(小宝席)/怪談蠟細工(松井席)/土佐の犬角力(第三井筒席)/海底旅行(山田席)/英国ダーク一座の操り人形(第二井筒席)/西洋運動(奥田席)/大蛇その他(千代席)/猿芝居(石田席)/こより細工(萬歳席)/江川一座(第一井筒席)/動物蠟細工(長谷川席)/西洋手品(吉田席)

○一月四日、南大劇場(旧横井座)が焼失する。

○三月十八日より、南大劇場(旧横井座)焼跡にて、日本チャリネの曲馬。

○八月一日より、帝国パノラマ館が開館。

○九月一日より、山田観物場にて、朝鮮海大椿事日本漁夫之誉海賊退治の見世物。

【明治36年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

娘義太夫(播重席)/土佐犬角力(第二井筒席)/娘義太夫(春木席)/西洋運動(奥田席)/鏡抜け(山田席)/犬の芸(第三井筒席)/団十郎一座の俄(改良座)/市川福円一座の照葉狂言(金沢席)/女水芸(小宝席)/故松本喜三郎作の三十三所霊験記生人形(横井座跡)/難波戦記パノラマ(横井座跡)/日本チャリネ大曲馬(横井座跡)/嵐寛十郎一座の照葉狂言(南座)/成綾団の新演劇(弥生座)/朝鮮支那両国人手品(龍の席)/貝祭文(喜代丸席)/新内源氏節(八百駒席)/浮れ節(愛進亭)/娘大蛇使い(千代の席)/娘手踊(山本席)/宝楽一座の俄(柴田席)/改良剣舞(第一井筒席)/五天竺生人形(高木席)/女剣舞(吉田席)/万国名所巡り(南地五階眺望閣南手・交進会)

○一月一日より、横井座跡にて、日本チャリネの大曲馬。

○三月一日より六月三十日まで、横井座跡にて、松本喜三郎の西国三十三所生人形。

○三月、第二井筒席にて、北海道アイヌ人の演芸・歌舞。

【明治37年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

娘義太夫(播重席)/娘義太夫(春木席)/壮士劇(吉田席)/西洋運動(奥田席)/剣舞(第一井筒席)/英国ダーク一座の操り人形(第二井筒席)/活動写真(第三井筒席)/宝楽一座の俄(柴田席)/人形刑法早分り(山田席)/団十郎一座の俄(改良座)/猿芝居(山本席)/鼠の芸(千代の席)/市川福円一座の旧劇(金沢席)/西洋手品(小宝席)/支那人手品(龍の席)/西尾魯山講談(集寄亭)/新内源氏節(八百駒席)/浮れ節(愛進亭)/旧劇(南座)/壮士劇(弥生座)/軽口手踊(栄座)

○四月三日、南大劇場(旧横井座)焼跡に春日座が開館する。

○十一月二十三日より、山田席にて、日露戦役写真画の見世物。

【明治38年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋運動(奥田席)/西洋手品(千代の席)/日露戦争油絵(高木席)/蝋細工(山田席)/英国ダーク一座(第一井筒席)/日露戦争活動写真(第二井筒席)/日露戦争写真(第三井筒席)/眼玉一座気晴し狂言(栄座)/壮士芝居(弥生座)/壮士芝居(南座)/団十郎の俄(改良座)/新内身振り(山本席)/浮れ節(龍の席)/夢楽一座軽口(小宝席)/壮士剣舞(柴田席)/常盤一座演劇(吉田席)/落語(春木亭)/女義太夫(播重席)/山田九州男一座(春日座)/福円一座旧劇(金沢座)

○三月二十一日より、大矢席にて、鯨の見世物。

○五月八日より、春日座にて、吉田菊五郎の水芸。

【明治39年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

大谷友吉一座演劇(春日座)/秋野憲臣一座新演劇(弥生座)/市川福円一座演劇(金沢座)/八重八・辰丸一座の浮れ節(三木亭)/女義太夫(播重席)/女義太夫(春木亭)/新演劇(吉田座)/鶴屋団十郎俄(改良座)/西洋軽業(奥田席)/壮士俄(栄亭)/軽口俄(小宝座)/西国三十三所生人形(山田席)/剣舞(柴田席)/剣舞(千代席)/竹屋一座の猿犬芝居(江川席)/俄芝居(琴平座)/浮れ節(吉川席)/京山小円の浮れ節(愛進亭)/浮れ節(第二愛進館)/怪談人形(三木席)/浮れ節(吉川館)/剣舞(第一井筒席)/活動写真(第二井筒席)/俳優似顔生人形(第三井筒席)

○三月、春日座にて、吉田菊五郎の水芸。

○八月六日より、第二井筒席にて、インド人の演芸、蛇使い。

【明治40年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

女義太夫(播重席)/女義太夫(春日亭)/奥田社中の軽業(奥田席)/剣舞芝居(柴田座)/真正剣舞(第一井筒席)/活動写真(第二井筒席)/演説(第三井筒席)/石山一座の女大力相撲(元柴田座焼跡)/五島一座の猿芝居(千代席)/改良剣舞(栄席)/軽口(栄座)/軽口俄(琴平席)/源氏節(松月亭)/藤川友春一座の浮れ節(愛進館)/浮れ節(龍の席)/浮れ節(吉川席)/友吉一座の芝居(春日座)/団九郎の俄(改良座)/市川福円一座の芝居(金沢座)/新演劇(弥生座)/新演劇(南座)

○五月三十日より、当栄座にて、ゴリラと大蛇の見世物。

【明治41年】

○一月一日より、山田席にて、蛇、虎、猿、鰐等の動物見世物。

○四月三日より、金沢座の焼跡にて、津嶋、福嶋合同の自転車曲乗。

○五月十五日より、金沢座の焼跡にて、矢野巡回動物園。

○八月、第三井筒席にて、大蛇の見世物。

○九月、千代の席にて、大狼の見世物。

【明治42年】

○四月二十六日より、改良座の焼跡にて、柿岡一座の東洋曲馬大会。座主柿岡秀長。

○五月三十一日より、大矢席にて、縞馬の見世物。

○九月二十五日より、改良座の焼跡にて、大曲馬。

○十二月二十八日より、改良座の焼跡にて、日本チャリネの曲馬。

【明治43年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

新派河野一座(柴田座)/女義太夫(播重席)/活動写真(三友倶楽部)/西洋運動(奥田席)/女義太夫(品川席)/東家一座道化狂言(大矢席)/貝細工人形(仮設勧商場)/活動写真(第一世界館)/犬芸(千代の席)/日本チャリネ曲馬(改良座跡)/活動写真(第一東洋館)/女義太夫(第二東洋館)/新内・落語(花月亭)/浪花節(愛進館)/活動写真(第二世界館)/東家一座(栄座)/活動写真(大阪館)/浪花節(集寄亭)/秋野一座新派(弥生座)/旧劇(南座)/浪花節(琴平席)

○二月十七日より、奥田席にて、蛇、ワニ、狼、ゴリラ等の見世物。

○四月三十日より、千代の席にて、大蛇の見世物。

○六月十四日より、大矢席にて、大蛇の見世物。

○七月、大阪千日前の夏の情景。

○八月一日より、栄座にて、大蛇の見世物。

○十二月十七日より、春日座にて、清国人蓮玉山一座の奇術曲芸。

【明治44年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

キネオラマ活動写真(蘆辺倶楽部)/鈴木一座軽業(改良座跡空地)/活動写真(日の出館)/活動写真(第一電気館)/女改良剣舞(千代の席)/藤川友春一座の浮連節(第一愛進館)/長広一座の女浄瑠璃(播重座)/落語新内(花月亭)/中村友蔵一座の旧劇(常磐座)/活動写真(日本館)/活動写真(栄館)/此助、春之助一座の女浄瑠璃(第五愛進館)/活動写真(三友倶楽部)/京阪合同一座の喜劇(奥田座)/蛟龍団一座の新派劇(柴田座)/電気応用世界一周会(大矢席跡空地)/活動写真(第一世界館)/滑稽俄(栄座)/藤原一馬一座の新派劇(春日座)/活動写真(大阪館)/秋野一座の新派劇(弥生座)/嵐冠女十郎一座の喜劇(南座)/京山恭助一座の浮連節(琴平席)/京山当昇一座の浮連節(集寄席)/竹本久国一座の女浄瑠璃(品川亭)

○二月より、春日座にて、二代目吉田菊五郎の水芸。

○二月十三日より、千代の席にて、珍物会。

【明治45年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

活動写真─三友倶楽部、敷島倶楽部、蘆辺倶楽部(一号館、二号館、三号館)、第六愛進館(元春日座)、帝国館、第一電気館、日の出座、記念館、真栄座/浪花節─第一愛進館、琴平座、聞楽亭/女浄瑠璃─第五愛進館、播重席/新派劇─柴田座、弥生座/旧派劇─常磐座、南座/奇術西洋運動曲芸─奥田座/猿芝居─千代の席/新内落語─花月亭/落語軽口俄─子宝席/剣舞手踊─栄亭/美術生人形(地獄極楽)─龍の席/世界館跡空地─益井一座の軽業/今宮の菊花園跡─大獅子其の他数十頭の珍獣

☆一月十六日、南の大火。(第三回目の大火)

   ………………………………………………………………………………………………………………………………

〈編者註〉当ブログ「見世物興行年表」より千日前の見世物興行に関する項目だけを抜き出し年代順に列挙した(詳細は「年表」参照)。☆印は千日前参考事項である。



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