2017年06月30日

更新履歴(平成二十九年度)

第一回更新 更新日:平成29131日(火)

 早いもので、このブログも七年目に入りました。今年はちょっとゆっくりさせてもらって、月末に一度の更新とさせていただきます。

 今月は以下の二つを追加しました。

①明治十九年・八頁 大判錦絵三枚続・梅堂国政画「鳴響茶利音曲馬」(出版人福田熊二郎)。

②「資料集成:明治の千日前」(3334頁)に「千日前の草分婆さん」(大阪朝日新聞・大正7610日~616日・6回)。

①は今年になって山田書店から購入したものです。国政が同じ表題で描いた三枚続(出版人林吉蔵)は多くのところで所蔵されていますが、別のバージョンがあるのを今まで知りませんでした。目録を見てびっくりして直ちに注文しました。刷も綺麗で、自分へのいいお年玉になりました。

②は千日前の開拓者初代奥田辨次郎の妻フミさんの談話です。このとき八十一歳。欲をいえば見世物のことをもう少し詳しく書いて置いて欲しかったのですが、それでも婆さんの写真もあり、奥田席があった場所もはっきりわかり、千日前の地価の変遷も具体的で、千日前資料としては一級品に属するでしょう。

第二回更新 更新日:平成29228日(火)

今月は資料紹介:「青木一座・欧州巡業の顛末」を追加しました。

かつて浅草で全盛をきわめた青木娘玉乗り一座も活動写真などにおされ明治四十年代は解散します。その内の何人かが活動の場を海外に求めて渡航します。その顛末が以下の二つの連載記事で報じられました。

①『報知新聞』・「戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話」(大正7321日~329日・8回連載)

②『大阪朝日新聞』・「恋に死んだ『日本娘』 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話」(大正7717日~722日・6回連載)

かつて阿久根巌氏は『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)でこの記事を紹介し、「青木一座・欧州巡業の顛末」(第11章)としてまとめられました。物語的な要素が強く、資料価値という点ではやや希薄ですが、海外渡航した芸人たちの実情を知るひとつの手がかりにはなると思います。なお資料紹介の表題は敬意を表し、阿久根氏のものをお借りしました。

閑話休題。今年はゆっくりさせてもらうつもりでしたが、丸屋竹山人のブログ「上方落語史料集成」のお手伝いをしているうち、焼けぼっくいに何とやらで、すっかりのめり込んでしまいました。すこし黄ばんだノートなどを取り出してきて、まるで昔の恋人に逢ったような懐かしさにホッと吐息をついている始末です。宿題のまま残してあった上方落語の歴史を今度こそきちんと勉強し直そうかと、生駒山に向い、老眼鏡片手にちょっぴり意気込んでいます。

第三回更新 更新日:平成29331日(金)

今月は資料紹介:「西国三十三所 生人形評判」を追加しました。

これは明治十二年二月七日より大阪千日前で始まった松本喜三郎の生人形「西国順礼三十三所霊験記」の興行の時に作られたものです。現在国立国会図書館デジタルコレクションに入っており、自宅で閲覧可能です。だから殊更に紹介するには及ばないのですが、この時小屋の中で売られた絵本番付(久保田桃水筆)を架蔵しており、それを使ってちょっと遊んでみました。

この絵本番付は袋付なのですが、ネットで検索していたら岐阜市歴史博物館に架蔵のものとは違う袋の図がありました。ひょっとして中身も違うのかと思い、問い合わせたところ、当館のは袋だけで中身はないというお答でした。これにはびっくりしました。よく袋だけ保存されたものです。すべてはこうありたいものです。

この絵本番付は国政筆のもの(未見)もあります。奥付はないそうですが、おそらく東京浅草で興行したときに作られたものでしょう。大阪歴史博物館が所有しており、同館作成の図録「生人形と松本喜三郎」(平成16年)に一部がでています。それを見ていて妙なことに気が付きました。委細は本編をご覧ください。

第四回更新 更新日:平成29430日(日)

 年齢的に今から大正時代はとても無理で、ある程度の蓄積がある「落語」以外は手を出さないと自分の中で決めているのですが、絶対にもう買わないと誓いつつ古書店の前でつい足をとめてしまうのと同様に、「上方落語史料集成」のために新聞記事の確認をしていると、あぁこんな人の記事がある、こんな人の記事も出ているなとついつい目をとめて、結局はコピーをして持ち帰るはめになっています。

 今月はその中から松旭斎天勝の記事を紹介します。「松旭斎天勝興行年表(大正時代)」などと偉そうなタイトルを付けましたが、今回は大阪での興行を並べただけです。いっぺんにはとても無理ですので、毎月少しずつ足していくことにします。歯がゆいことですが、どうかご寛容ください。

 天一亡き後、日本の奇術界を背負って立ったのは紛れもなく天勝です。天勝といえば水芸だ、やれサロメだと、画一的にしか喧伝されませんが、それらはほんの一芸であることをお伝えできればと思っています。

 話はかわりますが、先日「山田書店」の目録(117号)が届きました。そこに「周延 上野公園風船之図」(大判錦絵縦三枚続)がありました。

 明治二十三年十一月二十四日にスペンサーが、同年十二月八日にボールドウィン兄弟が上野公園で軽気球のりをしましたが、それを題材に、上にボールドウィン兄弟、下にスペンサーを描くという贅沢な錦絵です。こんなものがあったのかと、見てびっくりです。宣伝の意味もこめて当ブログ「ボールドウィンの軽気球」四頁に掲載させていただきました。また周延はこの構図をそのまま用いて翌年一月の五代目菊五郎が演じた大切浄瑠璃「風船乗評判高閣」の錦絵を描いたのだということもこれを見て初めて知りました。とにかくすごいものです。その分お値段もすごいですが……。


第五回更新 更新日:平成
29531日(水)

 明治442月に天一が隠退したあと、天二と天勝はしばらく同座しましたが、両雄並び立たずで、天二は51

日より名古屋日出館にて、天勝は53日より浅草帝国館でそれぞれ自分の一座の旗上げ興行を行いました。天勝のその後(明治時代)の動向は「見世物興行年表」にある通りです。今回はそこで切らないで、彼女の大正時代の活躍を書き残そうという試みです。先月は大阪公演だけ「大阪朝日」と「大阪毎日」で作成しましたが、今月はそれに「大阪時事新報」を加えました。また「京都日出新聞」によって京都公演を作成、追加しました。遅々たる歩みですが、よろしくお付き合いください。


第六回更新 更新日:平成
29630日(金)

 「松旭斎天勝興行年表」に名古屋の興行を追加しました。といっても大正2年~5年だけです。

天右ではありませんが、ここで種明しをしますと、大阪も京都も名古屋も『近代歌舞伎年表』で天勝の公演年月を確かめたうえで、大阪は大阪毎日新聞と大阪朝日新聞と大阪時事新報を、京都は京都日出新聞を、名古屋は名古屋新聞を調査するという、かなり安直な方法でやっています。『近代歌舞伎年表』の名古屋篇はまだ大正5年までしか出ていないので、今回はこれだけというわけです。

 それでも大阪、京都、名古屋は年一回くらいしか来ないのでなんとか格好はつきますが、問題は東京です。公演回数が半端ではありません。『近代歌舞伎年表』もないし、どうしたものかと目下悪戦苦闘中です。さらに地方公演はいまのところほとんど絶望的です。アメリカ公演はもっと絶望的ですが。

 松旭斎天勝は単に奇術師というだけでなく、大正の大衆芸能界のシンボルともいうべき女性です。というか、そんな能書より、とにかく天勝は魅力的です。調べてみたいという誘惑にかられてやっているというのが本音です。




misemono at 17:23|PermalinkComments(0)更新履歴(平成29年度) 

松旭斎天勝興行年表 (大正元年~3年)

大正2年(1913年)


◇愛知県名古屋市本町通末広町末広座110日~16日)

大正219日 名古屋新聞

❍末広坐 明十日午後五時より奇術界の花と称せらるゝ松旭斎天勝一行の美人揃ひ大魔術にて開演。奇術種目は何れも斬新なる目新しきものゝみを撰み、殊に天勝の演ずる懸賞魔術の樽、鳳凰閣、スペインの娘、伏魔殿等は実に観客の目を驚かす大魔術にて、其他萩原の自転車曲乗、珍妙なる犬の曲芸、一光の絶妙なる曲芸、其他魔奇術共に東都各座に於て好評を博せしものなりと。因に明初日入場料は各等共に半額の一等二十五銭、二等二十銭、三等十五銭、四等十銭、五等五銭の大勉強なり。

大正2110日 名古屋新聞

❍末広座 愈よ本日午後五時より開場する女奇術師松旭斎天勝一行は、斬新奇抜なる魔奇術のみを撰み、舞台面も全部新調のものを用ひ、花々敷開場する由なれば、定めて好評を得る事なるべく、因に本日は座員華々敷く町廻りをなし、午後五時より開場する由。

大正2112日 名古屋新聞

❍末広座 松旭斎天勝一行の奇術は昨二日目も満場木戸締切の好人気にて、殊に「鳳凰閣」「スペインの娘」「不思議のトランク」「伏魔殿」「魔法の樽」等は演芸中の呼びものにて、其他犬の曲芸、絶妙なる曲芸、萩原の「自転車曲乗」等大喝采なり。因に開場は毎日午後五時なり。

大正2112日 名古屋新聞[広告]

名古屋 001

大正2113日 名古屋新聞

❍末広座 松旭斎天勝一行奇術は連日大入満員続きの大盛況にて、奇術種目は何れも斬新奇抜なるものゝみ撰み、殊に一行久々の御目見得の事とて頗る大喝采を博しつゝあり。因に開場は毎日午後五時。

大正2114日 名古屋新聞

❍末広座 開場以来連日大入大好評を博しつゝある女奇術師松旭斎天勝一行の美形揃ひ大魔術は、其目新しき不思議の妙技は観客をして驚嘆せしめ、萩原の自転車曲乗り、犬の曲芸等の絶妙、其他一光、秀長の滑稽等は呼ものにて大喝采を博しつゝあり。

大正2116日 名古屋新聞

❍末広座 連日大入満員続きの同座松旭斎天勝一行の奇術は、五百円懸賞「魔法の樽」が第一の呼びものにて、其他の奇術「犬の曲芸」「自転車の曲乗」「絶妙なる曲芸」等斬新なるには観客(けんぶつ)を驚嘆せしめつゝあるが、予定の如く本日限りの由。


◇京都新京極京都座25日~211日)

大正224日 京都日出新聞

[広告]当ル二月五日より毎日午後五時開場 世界的大魔術 松旭斎天勝一行

 △五百円懸賞の樽抜け△斬新奇抜なる奇術魔術  京都座 電中二一九一番

大正225日 京都日出新聞

❍京都座天勝の奇術は愈々本日初日を出すが、一等六十銭、二等四十銭、三等二十五銭、四等十銭。

大正226日 京都日出新聞

❍京都座の天勝一行の奇術は昨日初日を出したが、人気者のことゝて頗る上景気。

大正227日 京都日出新聞

○京都座の天勝一行

 松旭斎天勝一行が五日より京都座に懸つて得意の世界的大魔術で客を呼んで居る。今度の呼びものは昨年東京浅草帝国館其他で演じて抜けられる、抜けられぬで問題となつた「懸賞魔法の樽」である。見れば誰でも樽中に入つて五分間以内に外部に出たら即時金五百円を呈すと云ふ懸賞付きだ。初日の夜は最初一光が入つたが病気の故を以つて失敗に了り、次で秀長が入つたが是れは鮮巧なものであつた。モ一つ一百円懸賞の「スペインの娘」は英国奇術士ケラー氏より贈られたものとやらで、五百年前西班牙で用いた死刑箱を模造したもので、二つに割れる人造形の箱には見るも寒い無数の剣が突起してるので、其の中へ花の如き座長天勝が入つて是れもホンの一瞬間、呀(あっ)と云ふ間にモウ外面(そと)へ出てるのには観客一同全く息も吐げぬ早業に、最初はハラ〳〵し、次は旨く誤魔化され乍ら感嘆して居た。

其他天勝の「不思議のトランク」、日本固有の手品「夕涼」「伏魔殿」「米と水の変化」など何れも眼新しく、一光の「絶妙なる曲芸」中でも殊に傘と輪とが目を惹いた。「珍妙なる犬の曲」は三疋の犬が秀長の言葉を聞き分けて客の求めたカードの数を合すのだが、是れも能く教へたもので、尚ほ一光と秀長の鳥の鳴き声があつたが、是れ亦喝采を博した。(らの字)

大正229日 京都日出新聞

❍京都座は却々の好人気であるが、「不思議のトランク」は前回より格段の進歩をみせて、天勝と百合子と入代る間が真に電光石火、従来にない早さである。懸賞の樽抜けは案ずるに不思議のトランクと同型のネタらしく、物数寄の観客は五分間内に出てみやうと入つてはみるが、どうして〳〵迚もの事だが息が詰る方が早い。「羽衣ダンス」は前回には演らなかつたものだが、何時見ても心地のよいものである。欲には電気をも少し工風すれば確に天勝の専売物の値打はあらう。美しい子供が大勢になつている。六人の女の子のダンスも稍本筋のダンスで、遉に天勝の仕込みだけに表情術など従来の新種のものとは大分違つている。

大正2210日 京都日出新聞

❍京都座の天勝一行は美人連だけに人気よく、毎夜大入の好人気であるが、懸賞の魔法の樽では閉場後もネタを知らうと観客が残つて大騒ぎをしている。

大正2211日 京都日出新聞

❍京都座の天勝一行は好評にて日延べ説もあつたが、何分次興行が決定しているので遺憾ながら本日限り千秋楽となる。

 


◇大阪道頓堀中座
213日~219日)

大正2214日 大阪朝日新聞

❍中座は十三日開場。松旭斎天勝が一光、百合子外六名の女奇術一座としての興行。初日に限り二十五銭均一。演芸種目は左の如し。

不思議のトランク、自在の顔、美花の散乱、スペインの娘、卓上少女、日本手品夕涼、糸と水の変化、伏魔殿、卓上コップ、変転の指輪、魔法の樽

大正2214日 大阪朝日新聞

○足を出(だし)た天勝 見付けたら五百円の懸賞といふのを売物にして居た函抜けの天勝、浅草の興行で首尾よく見物に足を押へられ、結局出すの出さぬの訴訟沙汰になる程の御愛嬌やら味噌やらをつけたが、当分息抜きの為台湾落ちをする行きがけの駄賃とあつて、十三日から一週間中座で相変らず五百円の懸賞を振廻す。さあ欲の浅い連中はいつたり〳〵。

大正2215日 大阪時事新報

❍天勝一行 中座で十三日から開場した松旭斎天勝一行の奇術は、初日の均一が利いたか満員の好況であつた。斬新なものは五百円の懸賞とやらで呼声を高めた魔法の樽抜け位で、其他は不思議のトランクや或は色電気応用のダンスなどで、格別目先が異(かわ)らなかつた。萩原秀長の自転車の曲乗や滑稽振は臍の皮を撚せた。百合子以下の可憐の少女が幾度か出場して種々の奇術に興を添へているのは愛らしかつた。

大正2220日 大阪時事新報

❍中座は十九日にて天勝の奇術を閉場し……。

 


◇大阪松島八千代座
38日~318 日)

大正239日 大阪朝日新聞

❍天勝舞もどる 愈(いよいよ)渡台すると云つて大阪を去つた天勝、何所(どこ)をウロついて居たのか、例の樽を引擔いでまた舞戻り、八日から松島八千代座で相変らず「皆さんこの樽抜けの種を御発見のお方には……」

大正2311日 大阪朝日新聞

❍八千代座は松旭斎天勝一座が朝鮮巡業に当分の名残として八日より開場。演芸中の魔法の樽及びスペイン娘は懸賞を付したる特芸にて、初日より大入をあげたり。

大正2313日 大阪時事新報

❍松旭斎天勝の奇術にて開演中の八千代座は魔法の樽抜けの懸賞方法を替へ、看客にして樽の中に入り、五分間以内にして外部へ出でたる者に賞を与ふる事をしたり。有繋(さすが)に場所柄だけに人気を惹きて、毎夜多数の入場者ありと。

大正2315日 大阪朝日新聞

❍八千代座開演中の松旭斎天勝一座は十八日迄日延し、大入祝ひとして特等五十銭より十銭下りに三等迄の切符を売出す。

 

大正3年(1914年)

 

◇大阪道頓堀弁天座1030日~1111日)

大正31028日 大阪時事新報

❍弁天座は三十日初日、天勝の一行は二十八日梅田に着し、英米の外国人等と俱に異様の服装にて乗込む由。

大正31029日 大阪朝日新聞

❍弁天座 松旭斎天勝一座の奇術は三十日より開場。

大正31030日 大阪毎日新聞

❍弁天座 奇術天勝一座の演芸種目の主なるは、酒呑の滑稽、曲芸、自転車曲技、トランク、魔法の樽、魔神の函、五大洲、宇宙の少女、不思議の扇、出没自在の室、美人閣、魔神ホーム其他。

大正31031日 大阪時事新報

❍ダンスが呼物 松旭斎天勝の一行に加入して弁天座に出る露国人と印度の黒坊とは、欧州の全体を常に漫遊して居るので、今度の出演には各国のダンスの種類を毎日取替へて見せるといふ。目新しからう。

大正3111日 大阪時事新報

❍天勝等の特芸 弁天座に開演した松旭斎天勝は頗る好人気で、彼が特技とする魔神の函、出没自在の魔法等は入神の妙があると称する者さへあるほどの大喝采である。一行中の秀長以下の自転車曲乗も見物に違ひないが、露国と印度人のダンスは慥に目新しい。一光の曲芸は海老一其処退けの趣味がある。何しろ昨年三月以来海外の巡業に一層技芸を磨いた痕跡が窺はれて面白い。

大正3112日 大阪朝日新聞

○弁天座の天勝 
 舞台装置と使用器具が立派だから見た眼が美しくて宜い気持ちだ。奇術、曲芸、自転車曲乗、ダンス、音楽といろ
〳〵取り混ぜて見物を倦(あ)かせ無いやうに仕組んだのは流石に天勝一座である。演芸中是と言つて飛び離れたものは無いが、相当に皆な面白い。併し箱や樽を応用しての奇術は昔からありふれたもの丈けに、手際が奇麗でも珍らしく無い。舞踏(ダンス)類は総て駄目、小奇術の中にちょい〳〵面白いものがあつた。天勝はいつも若く、いつも美しい。(史)

大正3114日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝一行の奇術は不思議の扉、自転車曲乗、少女ダンスが呼物となりて客を引き居れり。

大正3116日 大阪時事新報

❍弁天座の松旭斎天勝は連日満員の好況にて、各番組共手際の鮮(あざやか)なるに大喝采を博し居れるが、同奇術も八日限りにて打揚の筈なれば、五日より天勝独特の羽衣ダンス、雲の峰、ダブルボックス、スペイン娘、タンバリン等目新しき技芸を加入すと。

大正3117日 大阪朝日新聞

❍弁天座の松旭斎天勝一座は八日限り閉場する筈なるが、従来の外に羽衣ダンス、雲の峰、ダブルボックス、スペイン娘ダンバリ等を差替へたり。

大正3119日 大阪時事新報

❍弁天座の天勝一座は、青島の陥落を祝するため、座員は勿論お茶子に至るまで旗行列を為し、尚初日以来連夜大入満員続きの盛況に酬いんとて、青島土産大魔術を仕組み、八日より更に三日間日延、来る十一日まで演ずる由。

大正31110日 大阪毎日新聞

❍弁天座 青島陥落と初日以来の大入祝ひをかねて十一日まで日延べ。


◇愛知県名古屋市南桑名町千歳座1211日~17日)         

大正3129日 名古屋新聞

❍千歳座 天勝一座乗込み 美人連の天勝一行は既報せし如く本日午後花々敷乗込、直ちに当地贔屓先を廻る筈にて、各方面より寄贈品多く前人気湧(わく)が如し。(写真は天勝一行の舞踏)

名古屋 002

大正31210日 名古屋新聞

❍千歳座 明十一日午後五時より開演する千歳座の天勝一行は、欧米漫遊中種々の奇術魔術等を研究し帰朝したる世界的大魔術師にして、曩に東京及び京阪地方に演じて変幻不可思議、未だ日本の舞台にて曾て演じたる事なしとの好評を博せしものなるが、当地にては尚其上に驚天動地の新技芸を見する由にて、定めし中京の人々を驚かす事なるべし。而して同一行は九日当地乗込みたるを以て十日は数十台の腕車を連ね花々しく町廻りを為すよし。因みに演芸種目は酒呑の滑稽、曲芸、上海土産魔神ホーム(一行総出)、小奇術、自転車曲技、天勝独特のトランク、魔神の函、五大州宇宙の少女、不思議の扉、出没自在の宝、美人閣、八面自在噴水、少女のダンス、羽衣ダンス、音楽合奏等なるが、初日は金二十五銭均一のお早い勝ち。

大正31212日 名古屋新聞

❍天勝割引券 千歳座に開演し其巧妙なる大魔術に満都の人気を吸収しつゝある天勝一行は、多年の贔屓に報ゆる為め特に本紙愛読者の為め入場料を大割引する事となり、其割引券は本日の本紙に添付したり。天勝の魔術が如何に斬新奇抜なるか此の割引券を利用して続々千歳座に出掛けらるべし。

大正31212日 名古屋新聞

❍千歳座 昨日開演せし大奇術覇王松旭斎天勝一行は非常なる大好評を博し、午後五時開場なるにも拘らず三時頃より観客犇々と押し掛け、正五時開演と共に忽ち満場木戸〆切の大盛況を呈せり。奇術は総て今日まで当地で演ぜしものと全然面目を更めし斬新奇抜なるもの計りにて、其の巧妙なるには場も破れんばかりの喝采なり。(写真は魔法箱)

名古屋 003

大正31213日 名古屋新聞

❍千歳座 東洋の奇術界に覇王として謳はるゝ天勝は、其の独特の妙技も天稟の愛嬌を提(ひっさ)げ、到る中(ところ)にて大喝采を博し来りたるが、十一日当地千歳座に於て初日を開演したり。何がさて来名前より待ち兼ね居たることゝて忽ち満員となり、定刻六時三十分にはハヤ〆切りの盛況なりし。舞台面の天勝は年こそ喰つたれ益々艷に、動作も頗る軽妙にて、流石に天下一品と感ぜしめたり。開演中は定めて連日の大盛況なるべし。

大正31214日 名古屋新聞

❍千歳座 世界的大魔術松旭斎天勝一行の奇術は素晴らしい人気が空前の大入を占め、開演前六時には入場者既に一千三百名以上にて、七時には木戸締切とは遉は天勝なり。ハイカラ滑稽、奥田と一光の異装せる滑稽の一幕には看客腹を抱いて笑□せり。少女の愛らしい小奇術、自転車の曲技、東洋一と称せらるゝ萩原の芸も一点避難する處なかりし。何れにしても連日大入は目出度し。

大正31217日 名古屋新聞

❍千歳座 開演以来非常なる大好評を博し連日満場木戸締切の大盛況を呈せる松旭斎天勝一行は本日千秋楽、日延なしにて、明十八日相州横須賀に乗込み、例の魔術にて凱旋の将卒を酔しむる由。

 



misemono at 16:21|PermalinkComments(0)松旭斎天勝興行年表(大正時代) 

松旭斎天勝興行年表 大正4年(1915年)

大正4114日~124日  京都南座

大正4822日~829日  名古屋御園座

大正4918日~924日  大阪浪花座

大正4926日~103日  京都南座


◇京都四条南座
114日~124日)

大正4113日 京都日出新聞

[広告]当一月十四日より(午後五時開演)新帰朝松旭斎天勝一行 

一光の曲芸、萩原、奥田の自転車曲乗、露国人印度人の演芸其他斬新なる世界的大魔術

四条南座 電中六二〇番・二四七四番  

大正4113日 京都日出新聞

❍天勝一行 先発員は既に来京してそれ〴〵準備中なるが、一行には園子、初子、鶴子、君子、百合子、静子等の美人連の外、お馴染の曲芸の一光、自転車では萩原秀長に奥田一夫の夫婦、印度人モルガン、露国人ジヨンの外にも新手がいるさうで、天勝今度のお土産は四大魔術の宇宙の少女、不思議の扉、出没自在、美人閣ださうだ。

大正4114日 京都日出新聞

[写真]天勝の美人団・天勝一座のダンス

天勝 021天勝 21











大正
4117日 京都日出新聞

○久方振の天勝

〼マジツク界の第一人者の称(となえ)ある松旭斎天勝が三年振りで南座に来た。待久(まちひさ)しがられた矢先とて、初日以来真に立錐の余地なき成功は、人気が致すところとはいへ、又以て其間に技術の進歩もあらねばならぬ。さらば技術はどう進歩したか、一般の舞台はどう変化したか!

〼技術より先きに目に入るのは舞台装飾の気の利いていることである。それに御大が美人であるだけに、之れに従ふ美人連も可愛(かわい)のが多く、百合子、静子、時子、花子、君子、園子など美しいのやら可愛いのやらで、この前来た時は六人であつたが今度は舞台の人が十人になつている。又以て一行の発展を示すものであらう。

〼時間の都合で謂ふ所の小ヅマは見落した。而し天勝の得意は小ヅマよりは大物にある。天勝の今日の名を成したのは其容貌風姿と大物の技術とそして一流の外交術に外ならぬ。大物として今度呼物とするのは宇宙の少女、不思議の扉、出没自在、美人閣の四つであるさうな。

〼宇宙の少女は今迄あつたやつだが、それを手際よく改めたものだが、その演技方法に一段の進歩を示している。進歩といへば二重のトランクが頗る進歩したものである。これは一ト頃懸賞で演つたもので、袋の中へ人を入れて、更にトランクへ入れて天勝と入替るのであつたが、今度はトランクが二重になり、その入替る速さは真に電光石火である。不思議[の扉]は西洋風のドアーを立掛て、それに窓掛のやうなものを掩ふて開けると宇宙で打消しになつた少女園子が出るといふ運びだ。

〼出没自在はコミック式で、之れも四五年前天勝の考案になつたものであつたが、其時代には箱の左右を明けなかつたが、今度はそれを明ける。そして以前あつたワンダーキャビネットと折衷して終つたが、出入りが面倒でなくて面白い。が而し之れはもつと運びが改ためられる余地があるやうだから、より以上に工風が欲しく思はれた。

〼美人閣はニッケルの格子の箱の中に更に四本の柱があつて、それに覆(おおい)が降りるやうになつていて、その覆が降りる、直ぐ上る、美人が出る、又降りたかと思ふと直ぐ上る、又一人美人が居るといつた風に君子、花子、時子、百合子、静子などが出るものである。其他お馴染みの一光の曲芸、萩原、奥田等の自転車、印度人、露人などのダンスなど、兎に角日本に在るこの種の一座では整つたものである。

〼三年間見ない内に著しく発達したといふことは総てが垢抜けがして気が利いた舞台の様子であることである。服装などにしても随分変つたもので、殊に美人閣の服装などは随分手際である。それに今度は天一時代に呼物であつた水芸を天勝がやるやうになつているが、之れなどは天一時代には呼物であつたらうが、時代の推移は既に之れを迎へなくなつていやう。苦心に比較してそれだけ舞台効果を齎らすや否やは疑問である。但し外国行きの予習とあらば止むを得なからう。

大正4118日 京都日出新聞

❍南座の天勝は只もうえらい人気で一昨夜も七時に満員の盛況だ。

大正4119日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行は引続き好人気、一昨夜の如き開演前既に満員なるが、中にも最終の美人閣が最も手際よく演ぜられる。

大正4120日 京都日出新聞

❍南座の天勝は連夜開場後間もなく満員といふ大成功に一行も景気づき、更に二三新芸を差加へるとやら。

大正4121日 京都日出新聞

❍南座の天勝は滅法な大入りにて昨年来の好景気だ。

大正4122日 京都日出新聞

❍南座の天勝は素晴しい人気なので目下日延べの相談中とやら。

大正4124日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行はいよ〳〵本日限り打揚げ。直ちに東京有楽座に乗込む筈。


◇愛知県名古屋市御園座822日~29日) 

大正4814日 名古屋新聞

○天勝とサロメ 
 名古屋 004
目下京浜各地に於て人気を沸騰せしめつゝある大魔術松旭斎天勝は、東京座打上げ不日当地に乗込み開演すべく夫々準備中なるが、同人のサロメは他の長所を採り、殊に七ツヴエールの踊などに至りては全く先輩を抜ける優美のものあり。且従来の奇魔術全部を取替、封切りの者のみにて、大魔術グローイングドール、筒中の美人、絹の中の美人などが呼物となつて、其他新しき奇術鳩とキャラメル、鍋中の花、皇国の誉など、人目を驚かすに足ると。
 

大正4818日 名古屋新聞

❍天勝は御園座 松旭斎天勝一行は御園座に於て近日より花々しく開演する事となりたり。久々の乗り込と言ひ今回は天勝が「サロメ」を上場し、魔術奇術応用にて貞奴、須磨子より以上の手腕を揮ふといふ。而してサロメに用ふる衣裳全部、小道具等に至るまで東京にて新調したるものを使用するよし。天勝のサロメは既に定評あれば第一の呼び物となる事勿論なるが、本芸の大魔術は何れも封切の斬新なるものを選択し、重なる種目は「筒中の美人」「グローイングドール」「絹の中の美人」「鳩とキャラメル」「鍋の中の花」「皇国の誉」其他封切小奇術及び滑稽物数種あるといへば定めし好評を博すなるべし。

大正4820日 名古屋新聞

❍御園座 既報の如く来る二十二日午後六時より松旭斎天勝一行の大魔術奇術にて花々しく開演。一行は本日乗込を為し、二十一日花やかなる町廻りを為す筈なるが、久々の乗込と言ひ、既に定評ある問題の「サロメ」一幕を魔術奇術応用にて演じ、又本芸なる大魔術は何れも斬新封切のもの斗りを選みて演ずる由なるが、今回の呼物としては筒中の美人、グローイングドール、絹の中の美人等何れも大仕掛の大魔術にして、其他封切斬新の小奇術としては鳩とキャラメル、鍋の中の花、皇国の誉及び滑稽物沢山ありといへば、前人気頗るよく、開演の上は大入を占むるなるべし。

大正4820日 名古屋新聞[広告]

名古屋 005


大正4821日 名古屋新聞

❍御園座 東都各劇場に於て好評を究めつゝありし大魔術は、十九日東京座打上げ、座員五十余名を引連れ、愈々二十一日当地に乗込み、二十二日より御園座に於て花々敷開演なす由にて、座員数名先着、日夜其準備を為し居れり。呼物のサロメに用ふる背景は、東都にて有名の小山内氏の考案に懸るもの。魔術応用ゆえ一段の見栄あり。天勝のサロメは近代の見物として一般の人気を沸かし居たるもの。因に初日限り二十五銭均一にして外に特別席の設けあり。(写真は天勝の奇術美人ボックス)

名古屋 006


大正4822日 名古屋新聞

❍御園座 大魔術松旭斎天勝一行は昨日乗り込を為し、数十台人力車を連ねて花やかなる町廻りを為したるが、既報の如く愈々本日午後六時より開演。今初日に限り二十五銭均一の早い勝にて、今回は演芸全部を取替へ、何れも封切斬新の大魔術と殊に呼物たる魔術応用の「サロメ」は東都に於て開演し、貞奴、須磨子より以上の定評あるものなれば一層好評を博すなるべく、別に特別席の設備もあり。

大正4823日 名古屋新聞

❍御園座 松旭斎天勝一座の大魔術応用「サロメ」、筒中の美人、絹の中の美人等何れも目新らしきものとて非常の喝采を博したり。今二日目及び三日目の両日はホーカーデーの催しあり。尚入場者へは洩なく天勝の扮装せるサロメの写真はがきを呈するといふ。

大正4824日 名古屋新聞

❍御園座 松旭斎天勝一行の封切斬新大魔術及び余興として上場する魔術応用「サロメ」は何れも好評を以て迎へられ、初日以来未曾有の大入を占め、昨二日目の如きもホーカーデーの為め大入を占めたる盛況なるが、何分久々の乗り込みとて非常の好人気なれば連日の大入を占むるなるべし。

大正4825日 名古屋新聞

○天勝のサロメ 
 御園座の天勝一座は封切り奇術と余興「サロメ」が呼物となり連日大入を続けて居る。天勝のサロメは野蛮な饗宴の席からのがれ出て、ほつと吐息をつきながら振り返る處などは、実に巧みであつた。美しい夜の空気を喜び月を讃美するあたりからそろ〳〵始まつて、曲線美の総てを発揮し天勝独得の魔体を遺憾なく見せた。魔術のグローイングドールや筒中の美人、絹の中の美人などが向ふ受けよく、座員総出の奇劇鼠取りは抱腹満客を笑はせた。

大正4825日 名古屋新聞

○サロメの天勝 
 黒い鳥の羽ばたきと恋に破れて自刃したシシリアの若人の唐紅な流血と、月色星光惨として異様に輝く所、ヘロデヤ王は恐しき暗示に魂を疲らし愛するサロメに舞へと迫る。転(うた)た華麗にして凄惨たる舞台の斯かる時、ヨカナンの恋に昂奮したサロメの豊艶な肉体に涼を送るつもりで、書き割の横の真暗がりから、裸体の男が渋団扇をシワリシワリ。

名古屋 007


大正4826日 名古屋新聞

○天勝のサロメ 
 須磨子、貞奴に依つて中京人士の頭脳(あたま)に刻み込れた「サロメ」を天勝が奇術応用で演ずるといふのが今度の呼び物となつている。舞台の装置は余り凝つてはないが、電光はお手のものとて却々(なかなか)巧みに使はれている。王と王妃が忽然と現はれ、洋杯(コップ)や果物が卓子(テーブル)の上へ飛び出す。偖は突然香炉に火を点ぜられ、ヨカナアンの首が言葉を発するなど上手に奇術を応用されている。天勝始め登場の人々は相応に演じてはいるが、聴衆の頭脳(あたま)には劇よりか奇術に重きを措ている為め、ダレさす嫌がある。今少し端折る方が得策であらうと思ふ。奇術は何時見ても鮮やかな罪がなく面白い。

大正4826日 名古屋新聞

❍御園座 松旭斎天勝一行は連夜大入満員続きの盛況を占め居れるが、余興の魔術応用「サロメ」は観客の好奇心より呼物として迎へられつゝあり。天勝が演ずる斬新の大魔術は勿論、一光の曲芸、ビリケンのピアノ独奏及び雲雀の表情等、何れも喝采を博し居れり。

大正4827日 名古屋新聞

❍御園座 連夜大入続きの大魔術松旭斎天勝一座は、愈々今明両日限りにて岐阜市美殿座へ乗り込む由なるが、本日よりは巌谷小波氏の考案になれるお伽ブラクワー及其他数種の斬新奇術を差加へたる上、猶特等・一等の入場者に対しクラブ化粧品を進呈する由なれば一層人気を加ふる事なるべし。

大正4827日 名古屋新聞

名古屋 008


大正4828日 名古屋新聞

❍御園座 松旭斎天勝一行の大魔術は連日盛況を以て迎へられつゝあるが、昨日よりは巌谷小波氏考案のお伽「新浮れ胡弓」を電気応用大道具大仕掛にて演じ、其他新奇術数番を差加へたれば、舞台面一際の異彩を放ち一層の好況なるが、特等一等の観客に限りクラブ化粧品を呈するといふ。

大正4829日 名古屋新聞

❍御園座 大魔術松旭斎天勝一座は初日開演以来大入の盛況を呈しつゝあり。当地打上げ順次朝鮮を経て支那・満州・露領に巡遊の筈にて、愈御名残り興行連日満員続きの御礼として、「クラブ」お土産付今一日特に日延を為し、一座独得の演芸を演ずと。

 


◇大阪道頓堀浪花座
918日~924日)

大正4916日 大阪朝日新聞

❍浪花座の天勝 松旭斎天勝一座は十六日来阪、十七日舞台調べ、十八日開演。

大正4917日 大阪時事新報[広告]

天勝 時事 001

大正4918日 大阪朝日新聞

❍浪花座の番組 十八日開場の松旭斎天勝一座の重なる演芸は「筒中の美人」「鳩とキャラメル」「皇国の誉れ」「雲雀の表情」。尚余興には電気応用の「サロメ」がある。

大正4918日 大阪毎日新聞

○人を食つた天勝のサロメ 自分で「高等イカ物」と名乗る

❖「私のサロメを高等イカものだなんて随分ぢやありませんか」と天勝奇術女史は例の妖艶な眼に天一伝来の愛嬌を漲らせて、自称高等イカ物サロメ談なるものを捲し立てる。

❖「日本での元祖は須磨子さんで、それから下山京子さん、次が森律子さん、四度目が貞奴さん、続いて私なんですが、私も予て悲劇物を演つて見たいと思つて居りました。尤も私の畑の奇術入でございますよ。

❖と云つて瀧夜叉や女鳴神でもあるまいし、何かハイカラな物をと探している矢先へ須磨子さんのサロメを見たものですから、之ある哉といつた訳で、早速小山内さんにお頼みして天勝向きの所を御相談を願つたのです。

❖本当を白状しますと、表情だのコナシだのはそんなに至難(むずかし)いとは思ひません。眼で見物を殺して了ふのはお俳優(やくしゃ)よりも手品師の方が一枚上手ですもの。ソレに肉の曲線美──自分で美だなんて少々極りが悪いやうですけど──これでも外国の舞台で揉まれて来ていますから日本の先輩の女優さん方より巧いつもりですわ。

天勝 006

❖勿論胴が長くつて足の短い日本の女ですから、ドウ胡麻化したつてヂャッパン式ですけれど、お臀を斯う突出して足で一寸(ちょっと)曲をすると幾分舶来臭くなるのです。私の一番困つたのは台詞の抑揚で、何(ど)う工夫をしても手品師一流のアクセントが出ます。「首が所望でございます」といふのが「種仕掛はございません」と聞えるんださうで、本当に口惜(くや)しいつたらありません。

❖それに眼の使ひ所が、奇術の方ではコヽといふ肝腎の仕草をする場合は屹度見物の方へ眼を放して客の注意を逸(そ)らすのが極意でしやう。其癖が沁み入つていますから、サロメでも急所の台詞を渡す時になると相手の顔を見るのを忘れてツイ見物の方へ眼が行つて了ひます。

❖何しろ奇術入のサロメといふので大イカ物だなんて云はれていますけれで、然しあのサロメといふ劇が何となくマヂック的ぢやありませんか。私の一座には俳優は一人も居りません。サロメに出るにも足芸師、曲芸師、ヴァイオリン弾といつた連中、兵隊には弟子の女の子を使ひます。

❖成だけ曲線美を発揮するつもりで半裸体で現はれる準備をして居りましたが、其筋の注意で腰から下へ羅(うすもの)を纏ふ事になりました。残念乍ら幾分イカ物の特色に靄が掛つた気が致します」と何處迄も人を食つている。

大正4920日 大阪朝日新聞

◇サロメ 天勝のサロメダンスで七色変化のベールを見た松井須磨子、踊るばかりがサロメぢやないわ、お芽出度いのねえと慨嘆する。側から抱月、無論々々も随分お芽出度い。

◇ダース 浪花座のサロメに対抗して芦辺が三人サロメを出すと、神戸の新開地では五人サロメと上を行くと、東京の浅草では十二人でサロメダースはどんなもんだいとは洒落ぢやない。

大正4921日 大阪時事新報

○奇術入のサロメ 

浪花座へ奇術師の天勝が来た。呼物は「サロメ」である。大小の奇術、喜劇、曲芸、ヴァイオリン演奏、雲雀の表情などはこれまで見たのと同じのやら、変つたと云つても大した違ひはない。要するに天勝の魔術応用サロメといふ凄い前触れに客を吸ひ寄せる。成程魔術応用とある丈けに、王が杯を呼び果物を命ずると待者が絹の切れを以て卓を覆へしてパッと取のけると忽然として酒杯や果物が現はれる。又預言者の切首が井戸から突出されるをサロメが取らんとすれば消えて、隔つた大香炉の火中からヌット首が現れて物をいつたりする。天勝のサロメは台詞がスッカリ新派式で、思ひ入れ沢山、七紗の舞の代りに、舞ひながら手を翻へせば□江、水色、萌黄の薄絹が空中から現れて来る處は正に三紗の舞、これでは七紗が三舎を避けるだらうなんて駄洒落をいふ奴は誰だ。土井のヘロド王は東儀張、静子の王妃は稍々月足らずの気味がないでもなく、佐藤のヨカアナンは灰汁が抜けぬが、何れも奇術師にしては器用なり、度胸なり、感心なり。

大正4922日 大阪毎日新聞

○天勝の「サロメ」 
 浪花座の天勝奇術は初日以来大入を打ち居れるが、天花、百合子の小奇術「硝子トランク」、天勝の「大きくなる人形(グロイングドール)」、一光の傘曲芸など何れも鮮かに見られ、天右、一光の「雲雀の表情」、土井のヴァイオリン独奏は滑稽百出にて、観客(けんぶつ)何れも頤の紐を解(ほど)きて興じあへりき。呼び物の天勝の「サロメ」は万(よろず)芸術座擬(もど)きなるが、那(あれ)までに芝居化せずにもつと奇術としての方面を強く出したらば面白かりしなるべし。

大正4922日 大阪朝日新聞

○浪花座の天勝
 大切り開幕前、態々の口上に「俳優ならぬ奇術師のサロメ劇、お目だるきは幾重にも、但し曲線美と奇術応用は天勝の独壇場」といつたやうな御挨拶のあつた天勝のサロメ振り、あの妖艶な姿でその曲線美とかをどれ程までに発揮するのだらうかと、先づ御見物好奇の眼を見張らさせて幕が開く。  

御吹聴の肉体美では天勝案外にも否肉感的で、大きくいへば芸術的だ。比較しては失敬だと故障が出るかも知れんが、この点で須磨子の方が余程其の筋の御心配ものであらう。どちらかといふと天勝のサロメは寧ろ古典的で、何處かに貞奴の夫れと似通つたところがある。が如何にも台詞に根強いところがないので物足らぬのは是非もないが、踊りは美しい。兎も角あれ丈けに遣つて除ける腕だけは見てやる必要があらう。

夫れから最一(もひと)つ、喜劇「鼠取り」の主人公に扮した天勝は可笑味を可成りに成功させていた。お手の物の奇術では特に目新しいものはないにしても、鮮(あざやか)なお手際は舞台一杯を女王のやうに振舞つている。あの浪花座を文字通り連日の満員で埋めているのも成る程と首背(うなず)かせる。

大正4924日 大阪朝日新聞

❍浪花座 松旭斎天勝は二十四日限り千秋楽。同一座は京都及び神戸の内一箇所にて興行し、直に朝鮮京城の共進会余興に乗り込む由。



◇京都四条南座
926日~103日)

大正4924日 京都日出新聞

❍南座 二十六日より松旭斎天勝一座の奇術及例のサロメ。顔触れは初子、絹子、百合子、天花、園子、文子、天右、一光、土井、天勝等。

大正4925日 京都日出新聞

[広告]松旭斎天勝一行 ◎世界的大魔術(封切数番) 余興─魔術応用 サロメ

当九月二十六日より十月三日迄毎日午後六時開場 四条南座 電中六二〇番・二四七四番

大正4925日 京都日出新聞[広告]

天勝 019

天勝 020

大正4926日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行は本日午前十一時半、一座四十余名、盛装の上人力車にて町廻をなし、午後六時より開場さる。番組は既報の如くであるが、分て此度の出物サロメは須磨子とは異つて魔術応用の上、天勝一流の美しい處を見せるので、又評判となるであらう。尚ほ特一等入場者に限つてクラブ三品付お土産を呈する筈である。当興業は十月三日までにて、夫からは朝鮮京城の共進会の余興に出演の為め渡鮮する。

サロメの主なる役々はサロメ(天勝)、ヘロド王(土井)、妃ヘロヂアス(静子)、ヨカナアン(佐藤)、ヘロヂアスの雇従(天花)、若きシリア人(田中)、猶太人(小山)、ナザレ人(龝見)、第一の兵卒(森)、第二の兵卒(中西)、カーパトンシャ人(松子)、ヌピア人(百合子)、兵卒(芳子・林)。

[写真]天勝のサロメ

大正4927日 京都日出新聞[広告]

天勝 022

大正4927日 京都日出新聞

❍南座 天勝のサロメは早くも評判の的となつたが、本業の魔術も従来とは目先を変へたもの多く、筒中の美人、絹の中の美人など受けている。

大正4928日 京都日出新聞

❍南座 天勝一座は一昨日より開演、非常の人気にて開幕前已に大入満員の大盛況。愛らしき少女の奇術も見事に、一光の曲芸、土井の音楽、天右の種明かしも夫々評判良く、特に天勝の魔術は今春とは芸風大に異(かわ)り、特に筒中の男女変化は手際よく大喝采。サロメも舞台装飾大道具が松井須磨子とは異(かわ)り、猶太(ユダヤ)王、王妃の出現、酒、果物等を出す奇術からヨカナンの首が火中に現はれるなど、魔術応用も新工夫のものである。

大正4928日 京都日出新聞

○天勝のサロメ

二十六日より四条南座にサロメを売物に開演している。何時までも若かるべき天勝嬢がサロメ、苦心談を聞かうと其旅宿問屋町五条下る晴鴨楼に訪問すると、嬢は只今お目醒めとあつて応接室にと招ぜられた。

室には既に先客があつて、年頃十八九の所謂新時代の印象を与へる女客であつたが、此女は遥々但馬城崎郡豊川より天勝嬢に師事すべく訪れ来れる岸岡弥生子とて、記者に向つて『私はたゞ天勝さんに弟子入したい計りに出て来ましたので、今更怎那(どんな)ことがあつても目的は変へられません』と堅き意思を細き唇に顫はしいたるがいじらしき計りであつた。旋(やが)てサラリと薄羽織を着流した天勝嬢は『どうも失礼しました』と笑(えみ)を湛へて現はれ、暗示的な眼をトランクの一つに注ぐがやう語る。

天勝 001サロメには随分苦心しましたよ。夫に近頃心臓が悪くつて、脚気まで起つてますので苦しくつて堪りません。昨夜なんかも例の踊をやつてるとペタンと坐つてしまうので困りました。どうせ一生人様を瞞(だま)して行く商売ですから碌な死に様はしますまい。

私は何か一幕物を奇術に差入れたいと兼て思つて居りましたが、須磨子さんのサロメを見ると、如何も魔術に仕組むに持つて来いのものなので、科白の六ケ敷しいことも何も知らずに俄にやることにしました。其始に女優になると方々へ通知を出しますと、皆様方から天勝も愈々喰はぐれて女優になつたと笑はれましたが、然し此度の成功も先づ私が女優になると云ふ所に人気が湧いた結果だと思ひます。夫で愈々やることにしますと、アクセントなぞは充分つけられても科白が六ケ敷くつて到底私達のすることぢやないとあきらめて止めやうとしたこともあります。脚本は小山内さんや東儀さんに依頼して、外国語では面白くつても日本語には解らないとこは全部喰つてしまひました。さて肝心の踊ですが、あれは大体タンゴ踊のやうなお腹をさする踊で、須磨子さんのは踊ではありませんでした。私も之には苦心しましたが、洋行帰りの高木徳子さんが夫は夫は甘いのでお願ひしたわけでした。

サロメは須磨子さんが始めで、夫から下山京子さん、次が貞奴さんがやりましたが、京子さんのは全然失敗し、貞奴さんのは日本舞の手が多くつて駄目でした。須磨子さんも裸体踊りでしたが、私も東京では裸体でやりました。大阪では其筋から留められましたが、何と云つても裸になるのが皆さんのお望みですわね。夫に大阪は現代的に甘くやらなければ観客(けんぶつ)が承知しません。

当地を打上後は朝鮮の共進会に行きます。夫にはサロメは出しません。此後は此種の一幕物を必ず出す積りで、東京でも須磨子さんとあゝなつてから坪内先生が非常に私に力を入れて下さつて、之からは一幕物を書卸して下さる筈になつて居ります。何分俳優でないものがやるのですから下手なところは大目に見て貰はねばなりませんと語る。

弥生子さんは伏目勝ちに此話を身にしみて聞ていたらしく沈黙していた。最後に天勝嬢は「私の脚気のことが新聞に出ると大阪西成郡から田螺を送つて呉れたお方がありました。之をつぶして糠と混ぜて足の裏につけると水気をとつて良う御座います。之は誰方(どなた)にもおすゝめします」と妙なことを聞かされた。

大正4929日 京都日出新聞

❍南座 天勝二日目は七時半大入札を掲げ、八時過には廊下まで詰め込んでスバラシイ人気、一時独立の旗を挙た天花も一行に加つて錦上花を添へて居る。

大正4929日 京都日出新聞

○南座のサロメ

 南座に於ける天勝のサロメ劇は、出演の意義が余興であり、魔術応用であつて、演ずべく演じたものでなく、筋の必然的又は効果的に魔術を応用したものでない。故に劇の本質の意味を欠いているから、真向から之を評すべき限りではないが、天勝が如何なる点まで器用にサロメを演じ、魔術の進境を切り開いたかと云ふ点に付て考へてみるならば、先づ充分の効果を挙げ得ないまでも、其苦心の跡をたどつて相当の閃(ひらめき)を表はし得たと云つてよからう。 

舞台装置は芸術座のとは異(かわ)つているが、此場合其の優劣を論ずる程観者のデリカシーに訴へてはならないからよいとして、さてサロメ女王は如何かと云ふに、松井須磨子の豊饒の肉体に対して天勝の夫は幾らか寂味(さびしみ)を加味し、須磨子が遊女的な挙仕(こなし)と彼の科白が割合にワイルドの耽美的傾向とサロメ劇の夢幻的な気分を現はし得たに対し、天勝はモット神秘的であり乍ら寂し味は却て現実的な箇所を現はしていた。然し天勝の須磨子よりはリフアインされて肉体の美と容姿と着付と動きの点に至つて、天勝は須磨子の上である。分て踊の点に至つては細い力が動いて全く自由である處がいゝ。内で預言者ヨカナンの首を得てからの表情に至つて初めて光が加はつた。八釜しい裸体踊も須磨子の時の如くストライキングではない。たゞモツト舞台全体の調子を夢幻的であらしめたい。

一座では土井のヘロド王が出色で、何處か東儀鉄笛の面影がある。静子の王妃もよく付合ひ、ヨカナンも確乎(しっかり)していたが、若きシリア人の田中は此那(こんな)劇にも一種の癖を出すので他と調和していない。大体から云つて舞台の気分が醗酵していないのは物足らぬ。魔術は単に王と妃の出現、果物の配列、ヨカナンの首が火炎中に現はれるに過(すぎ)ない。モ少し舞台を生す方面に応用する處がないものか知らんと思つた。(朱絃)

大正4930日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行は連日大入続きにて、サロメは土井の猶太王評判よく、天右のヨカナンも本家芸術座よりは巧いとの評、天勝のサロメも王が出てからがグット上出来だと。奇術は鳩とキャラメル、筒中の美人が手際よく、一光の曲芸は相変らず前受よし。

大正4103日 京都日出新聞

❍南座 初日以来大入続の天勝一行は予定の如く愈々本日限り打揚げ、明四日朝鮮京城へ向け出発する。




misemono at 16:19|PermalinkComments(0)松旭斎天勝興行年表(大正時代) 

松旭斎天勝興行年表 大正5年(1916年)

大正5


◇愛知県名古屋市御園座
412日~17日) 

大正547日 名古屋新聞

❍御園座の大演芸会 大演芸会は空前絶後の催しにて当市には最も肩入多く、且つ来名の都度全市の人気を沸騰せしむる者のみを選択し、来る十一、二日頃より開演の由。出演者は浪界の勇将と推さるゝ吉田奈良丸、天下無敵の称ある魔奇術の覇王松旭斎天勝嬢の一行を始め、当市各連妓腕達者芸妓の長唄等にて、其他余興数番を差加ふといへば、是迄に例を見ざる名人会とて定めし大入を占めるならん。

名古屋 009

大正548日 名古屋新聞

❍御園座 演芸大会は十二日より開催の筈にて、浪界の驍将吉田奈良丸、魔術界の女王松旭斎天勝一行と市内各連芸妓の長唄及び踊りを上場すといへば非常の人気なるべく、既に奈良丸、天勝へは贔屓先より夫れ夫れ寄贈品を送り来しと。

大正549日 名古屋新聞

❍御園座 既報の如く来る十二日頃より大演芸会にて開場。今回の催しは頗る目先き変りし顔合せ、即ち浪界の覇王吉田奈良丸の浪花節に奇術界の女王松旭斎天勝一行、名古屋芸妓の粋を集めたる長唄及び舞踊等なれば、前人気素晴らしく、開場の上は大入を占むるなるべし。

大正5410日 名古屋新聞

❍御園座 同座の大演芸会は愈々来る十二日午後四時より花々しく開演。浪界の覇王吉田奈良丸一座、奇術界の女王松旭斎天勝一行が各自独特の妙技を揮ひて観客を酔はしめたる後に、名古屋芸妓の長唄及び舞踊あり。出演者芸妓左の如し(省略)。

大正5411日 名古屋新聞

❍御園座 大演芸会は愈々十二日午後四時より開演。前人気非常によし。出演番組左の如し。

 義烈百傑得意の読物(奈良丸一行)、大奇術大魔術(天勝)、小奇術(天花・百合子)、ヴァイオリン独奏(ビリケン)、滑稽奇術(天右)、曲芸(一光・天龍)、娘子軍のダンス、(芸妓連省略)。

大正5412日 名古屋新聞

❍御園座 大演芸会は吉田奈良丸一行、松旭斎天勝一行に名古屋芸妓の粋を抜き、舞踊「小鍛冶」及び長唄「竹生島」「道成寺」を演ずる事既報の如くなるが、出演種目多数なるを以て、午後四時より開場し、奈良丸の浪花節、各連妓の長唄は六時より七時半まで。入場料は三等金十八銭、二等三十五銭、一等五十銭、特等七十銭にして、明十三日は中券番の総見あり。特に場内の装飾はカブトビール会社より寄贈して、花々しく飾り立て一層花やかになすといふ。

大正5414日 名古屋新聞

❍御園座 大演芸会は非常の好人気を以て迎へられつゝあり。開場は毎日午後五時、午後十時半頃に打出し。呼物なる吉田奈良丸一行の浪花節は、六時頃より七時半までの間にて、本日は「大高源吾笹売」又天勝一行の大奇術及び各連芸妓の長唄、舞踊等何れも花やかなるものにて大々喝采。

大正5415日 名古屋新聞

❍御園座の演芸会 浪花節の吉田奈良丸に奇術界の女王天勝に名古屋美人を配すといふ鳥度珍らしい顔合せ、上戸にも下戸にも子供連にも大歓迎される取合せゆえ、却々の好人気である。天勝一行の奇術・曲芸・喜劇は何時もながら鮮やかな上、天勝の美しいのが見物を魅して了ふ。奈良丸の円転自在の咽喉は浪界党に満足を与へ、中券美人の長唄、廓連美人の舞踊は誰彼の差別なく喝采する。兎も角クル〳〵目先が変りて興味深く、倦く事のないが見物に喜ばれている。春の夜を面白く過すには何よりのもの。(後略)

大正5416日 名古屋新聞

❍御園座 演芸大会は連日好評を博し居れるが、本日は天勝目新しきものを差加へる事となり、芸妓の義太夫等も呼物として迎へられ居りて、連日好人気の為め一日日延。金三十銭均一の早い勝となし、別に特等席の設けもありと。

大正5417日 名古屋新聞

❍御園座 開演以来盛況を呈したる吉田奈良丸、松旭斎天勝一行及び各連芸妓出演の合同興行、愈よ本日限り。金三十銭均一のお早いがち。



misemono at 16:18|PermalinkComments(0)松旭斎天勝興行年表(大正時代) 

松旭斎天勝興行年表(大正6年~10年)

大正6年(1917年)


◇京都四条南座11日~110日)

大正615日 京都日出新聞

[写真]天勝の素顔と舞台

天勝 017

大正617日 京都日出新聞

○初興行 南座の天勝

▼南座は人気者の天勝で開場している。近畿地方では京都、神戸は養由、為朝の弓勢のやうに射落しはない極め札がついた天勝の当り場、宜(むべ)なる哉、初日以来の大入りは蓋を開けて先づお目出度い次第である。打見たところ舞台装飾も道具も美々しい。魔術奇術も新らしいものが多い。天勝の奇術は相変らず舞台を派手に〳〵と、観客の眼を淋しがらぬやうにして行く彼の女の要意が窺はれる。そして何處迄も所謂小づまの人でなく大物の技術で当(あて)る人である。

▼お馴染の一光の曲芸、天虎の針金の上の足芸など水際立つたところを見せる。其他天花、初子、絹子、文子などの美しい連中を始め、露国女優のダンスといふ景物まで、常に舞台を淋しくせぬところに他に比して此一座の特色が見える。

▼曩に「サロメ」で味を占た天勝は、更に「テムペスト」だの「チャレーの伯母さん」だの「愛の力」だのと…尤もマヂカルではあるが、旺(さか)んに劇的に新径路を辿らうとしている。飽かれない方法として、又新しい試みとして固より悪からう筈はない。而し漫然と進むのは頗る危険なことである。

▼「サロメ」の好評を博したのはマヂカルとしてよりもドラマチカルに予想外の好評を得たのは事実であつた。当時ある東京の劇評家などは須磨子、貞奴以上だとまで書いたものであつた。真逆(まさか)油をかけた訳でもあるまいが、奇術の人たる彼女の「サロメ」を劇の人として取扱はしめたのは彼の女の強味である。而し俄に当時の賛辞を以て今後を定める訳にはゆかぬ。其處に研究の必要が伴ふ。

▼彼女はアクターとして可なりの天分を持つている。彼女の肉体、彼女の表情、それらは須磨子、貞奴に比して遜色はない筈である。劇的の才能、それは俄に断定は下せないが、貧弱であるべくも思はれぬ。只彼女一人でない、総合芸術としての劇である以上、登場する程の人は悉く劇的に活(いき)なければならぬ。大掴みにして言ふ舞台構造の研究が必要である。

▼「テムペスト」は見落したから、果してどれ程の程度であるかは判らないが、「愛の力」に依つて見ると、まだ〳〵研究すべき余地は大分ある。私は天勝が此新らしい途(みち)によつて進むで行くのを否まぬと共に、もつと研究し、且つ奇術応用をもつと分量に於てもより多く、そして適切に用ひてもらひたいと思ふ。

大正618日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行は初日以来殆ど満員続きで日延の話もあるが、惜いかな次興行の日取りが纏つているので十日限り神戸へ行くそうです。

大正6110日 京都日出新聞

❍南座 天勝はいよ〳〵十日限りで千秋楽となり、一行は打揚げ後奈良を二日間、それから神戸に行つて名古屋へ行く予定だそうです。

 


◇大阪道頓堀弁天座
317日~329日)

大正6311日 大阪毎日新聞

❍天勝来る 弁天座の当興行は十五日千秋楽となるべく、次興行は久々にて松旭斎天勝一行の奇術にて、十七日より昼夜二回開演すべし。

大正6315日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 005

大正6315日 大阪毎日新聞

❍天勝の奇術 弁天座の訥子一座は十五日限り打上げ、十七日よりは既報の如く松旭斎天勝一行にて開演すべく、今回の呼物は露国巡業の土産として連れ帰りたる同国女優数名ダンスと沙翁原作の「テムペスト」劇にして、天勝が妖麗なる舞台姿と魔術を応用せる中にミランダ姫と空気の精エリエル、海の女神ジエノーの神を早替りにて見すべし。

大正6317日 大阪毎日新聞

❍弁天座 十七日より開演の天勝一行の奇術番組は左の如くなるが、とりわけ外人ダンスは昼間は露国古代の服装にてコミックダンスを、夜間はお伽ダンスを見する由。

昼の部:(一)小奇術(二)トランクの奇術(三)梯子の曲技(四)喜劇チヤレーの伯母さん(五)音楽合奏(六)金線上の妙技(七)滑稽奇術(八)天勝の魔奇術(九)露国女優ダンス(十)曲芸(十一)テムペスト劇

夜の部:(一)音楽合奏(二)梯子の曲芸(三)小奇術(四)トランクの奇術(五)テムペスト劇(六)金線上の妙技(七)滑稽奇術(八)露国人のダンス(九)天勝の魔奇術(十)曲芸(十一)社会劇愛の力

大正6319日 大阪時事新報

❍露国ダンサー 天勝一座に加つて弁天座出演の露国舞踊家の母娘三人はワルソー出身の波蘭人で、独軍の為め家を失ひ、夫たり父たる人は予備大尉として従軍、負傷して入院中にて、此三人がそれを扶養して居れるなりと。

大正6319日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 016

大正6323日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 017

大正6326日 大阪時事新報

❍弁天座 二十九日まで日延。二十六日より「テムペスト」の代りに「サロメ」を昼夜上場す。

大正6329日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝奇術は二十九日打上げ。

 

大正7年(1918年)

 

◇大阪道頓堀弁天座26日~217日)

大正725日 大阪朝日新聞

❍弁天座の天勝 既報の如く六日初日にて久々松旭斎天勝一座で開場。昼夜二回の興行として番組左の如し。

□之大曲技(天虎)、各国流行ダンス(文子・美代子・小天勝)、滑稽奇術種明し(天右)、大小奇術(天勝)、米国新帰朝トーダンス(今村静子)、印度古典サトラ(天勝一座)、奇術応用喜劇平和の女神(天勝一座)

大正725日 大阪時事新報

❍弁天座 六日より昼夜二回、天勝一派の奇術の番組は大小奇術(天勝)、トーダンス(米国新帰朝今村静子)、印度古典悲劇サトラ、奇術応用喜歌劇平和の女神その他。

大正726日 大阪時事新報[広告]

天勝 002

大正729日 大阪時事新報

○弁天座の天勝

 弁天座は六日から十二日間、女奇術師天勝一行で昼夜興行をやつている。今度はかず〳〵の大小奇術もこれまでのより若干目新しいのが加はつている。平板に天勝の手足を金具で数箇所厳重にお客に頼んで押付けて、これを格子の箱へ入れ、上から切れをかけ、二人の覆面の人間がグル〳〵それを廻しているうちに何時か天勝が抜出て、その廻している人間の一人と早替りをしているなどは鮮かだつた。

 天勝 004又天虎といふ若い男、針金上の曲芸で傘を足で自由に行けるのはこれも水際立つた芸当の一つであつた。少女連のダンスもあつたが、これはさしていふべきほどのものとも覚えぬ。

奇術以外に印度悲劇とて「神燈守」といふのが一幕ある。印度王の姫が臣下の勇士と契りしに、波斯(ペルシャ)王から結婚を申込まれしため、姫は他国に逃げ、大神を祀る神燈守に身を窶す。そこへ目蓮尊者が来て、その国の王に姫の素性を語り、姫の父母国家は波斯王の為に危し、それを救ふ為め姫をして波斯王に従はすべく帰国せよと薦める。姫肯き、これも国を遁れ、尊者の侍僧となれる彼の姫の恋人の勇士が遂に一命をすてゝ姫を帰国せしむ。姫涙乍ら恋人の首を抱きつゝ蹌踉と退場すといふ筋。天勝の姫の可憐な姿が目に残るばかり。

もう一つ、大切りに奇術応用喜歌劇平和の女神といふのがあつた。これは子供の喜びさうなもの。各国の軍人に扮せる少女連のダンスは花やかだつた。(K)

(写真は25日付「大阪時事新報」に掲載された天勝の神燈守サトラ)

大正7218日 大阪朝日新聞

❍弁天座次興行 天勝一座は十七日限り。



◇京都四条南座
220日~26日)

大正7219日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一行五十余名は十九日大阪より京都に乗込み、二十日初日にて、正午より娘子軍を引率して花々しき町廻りをなしたる上、午後六時より開演。今回の奇術魔術は全部米国仕込みの斬新なるものゝみにて、呼物は印度古典悲劇「サトラ」並にコミクオペラ「平和の女神」なりと。入場料は九十銭、六十銭、三十五銭、十五銭。

大正7219日 京都日出新聞[広告]

天勝 015

大正7221日 京都日出新聞

❍南座 奇術天勝一行は二十日花々しき町廻りをなし初日を出したるが、前景気頗る良し。殊に一座の舞台装置は最も斬新なるものにて、トーダンス出演の今村静子嬢は東京音楽学校卒業の上、米国ミュージカル、コモンスクールの舞踊科を優等にて卒業したる人なりと。

大正7222日 京都日出新聞

○南座の天勝

南座は二十日より久方振に松旭斎天勝一行の奇術で開演。奇術と云つても今回は少女達舞踊や「サロメ」劇以来の古典劇が寧ろ主となつている。天勝は相変らず嬌艶な舞台振に見物は魅せられて、何時もながらの大入。

序曲は娘子軍の音楽合奏で頗る華やかに、天虎の梯子の曲芸は見物の膽魂を冷々(ひやひや)させ、少女達の小奇術数種は愛嬌で、新帰朝今村静子のトーダンスは高木徳子までの微妙さは無いにしても軽快な舞踏振にして、天虎の尚一つの曲芸金線上の大曲技は最も好評。其の他雲雀の表情や滑稽種明し等何れも面白く、天勝の大小魔奇術数種は米国最新式のものとあるが、全く在来の奇術とは目新しい種目ばかりで、其の小手先の演技は驚くべき計り敏捷且つ熟達したもので、殊に見物人を目の前に据えて小袋の中から鶏卵を出して見せる芸などは人を馬鹿にした程のものであつた。

呼物の印度古典劇舞踊悲劇「神燈守」は西本朝春氏の作で、材を印度古代史に探つた神秘悲劇である。筋は印度ルデヤナ国の王女サンヒータ姫は其の臣下の勇者カルダーサと恋に陥り、ペルシア帝国の太子ダリアスの恋を斥けたゝめ、王城を遁れネパール国王の元に走り、サトラと偽称して神燈守となり、其の神前にてルデヤナ国の危急の報を齎した恋人カルダーサに逢ひ、相抱擁するや霊火は忽ち消えしため、カルダーサは神の犠牲となり、サトラは其の首級を抱き悲嘆に沈むと云ふので、舞台装置も神秘的に、サトラに扮する天勝は何時までも若い命を添へて見せている。

奇術応用喜歌劇「平和の女神」は打出し物の華やかにして愉快な一幕、総じて面白い寄合せである。

大正7223日 京都日出新聞

○南座(花まつりの唄)

天勝一行の魔奇術は初日以来毎夜大入、中にも天虎の金線上の大曲技は大喝采にて、喜歌劇「平和の女神」は今度の世界戦乱を諷し、キネオラマ応用にて艶麗なる舞台を現出する。尚ほ二十四日は日曜日に付き昼夜二回開演、「平和の女神」にて序幕にトランベットの急奏にて村の乙女が唄ふ歌は左の如し。

花まつりの唄

独唱「今日はうれしい花まつり 村の乙女は可愛い 歩く姿もいそ〳〵と 手に手を取りて花摘みに」

合唱「花のいろ〳〵摘み寄せて 愉快に一日遊びませう 愉快に一日歌ひませう そうして愉快に踊りませう」

独唱「今日はうれしい花まつり 踊る乙女は可愛い 解けつ離れつ蝶の様に 組みつ別れつひら〳〵」

合唱「花のいろ〳〵摘み寄せて 愉快に一日遊びませう 愉快に一日歌ひませう そうして愉快に踊りませう」

大正7224日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行の魔奇術は毎夜開幕前満員の盛況にて、呼物の一たるコミックオペラ「平和の女神」は華やかにて、少年少女に大受け。又印度古典舞踊悲劇「神燈守」は西本朝春氏が苦心の作にて、サトラに扮する天勝嬢の艷なる姿と新しき舞台面とはよく調和され、学生連に大受けなり。

大正7226日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝嬢一行の魔奇術は愈々二十六日限りにて千秋楽となり……。

 

大正8年(1919年)

 

◇大阪道頓堀弁天座412日~426日)

大正8412日 大阪毎日新聞

❍天勝一行 弁天座は十二日より松旭斎天勝一行にて昼夜二回開演。重なる番組は歌劇「血の様な椿」、お伽歌劇「羊の天下」、古典悲劇「ロズムンダー」等。右の内「血の様な椿」は坪内博士の「霊験」をオペラに脚色せるものなりと。

大正8412日 大阪朝日新聞[広告]

天勝 011

大正8423日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝一座は二十六日迄日延。(二十七日より東家楽燕の浪花節)

 

大正9年(1920年)

 

◇京都四条南座325日~44日)

大正9323日 京都日出新聞

❍南座 二十五日より既報の如く愈松旭斎天勝一座にて開演と決定。日曜に限り昼夜二回開演する。

大正9324日 京都日出新聞[広告]

天勝 014

大正9325日 京都日出新聞[広告]

天勝 013

大正9325日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一行の魔奇術は二十五日初日午後五時開演。「小公子」及「まぼろし」の配役は、

「小公子」

ドリンコート公爵(南部邦彦)、小公子(かめ子)、弁護士ハビシャム(山本仙三郎)、万屋ホップス(三好今太郎)、小作人ヒッキングス(大浜格)、靴磨(島村清三郎)、ミンナ(石神タカ子)、下女メリー(きぬ子)、エロル夫人(天勝)

「まぼろし」

若き漂泊者(南部邦彦)、白鳥の精(石神タカ子)、花の精(絹子、小天勝、みよ子、しげ子、智恵子、かめ子、秀子、たま子、よし子、わか子)

大正9326日 京都日出新聞

❍南座 久し振の松旭斎天勝の魔奇術は二十五日初日を出した。同天勝の所謂大小魔奇術は英雄船アルゴウ、ムニフの旗、不思議の十字架で、総て当地では初演のものだと。

大正9329日 京都日出新聞

❍南座 天勝が当地で初演のムニフの旗で五大強国の娘子軍の出現、英雄船アルゴウから瞬時に三美人が現はれる處は喝采を博している。

大正9330日 京都日出新聞[広告]

天勝 012

大正9330日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一行は三十日より天勝の大小魔奇術、種明し、喜歌劇おてくさんの外総て芸題を替へる。又来る三日(祭日)、四日(日曜)は昼夜二回開演。因にプログラムは左の通り(省略)。

大正942日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行の魔奇術は引続き好評であるが、三四両日は予定の如く昼夜二回興行。

大正944日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行は予定の如く四日打揚げる(但し当日は二回興行)



◇大阪道頓堀弁天座
46日~420日)

大正944日 大阪毎日新聞

❍弁天座 新声劇一派は四日限り打上げ。次は六日初日にて久々振の松旭斎天勝一行にて開演する筈。

大正945日 大阪朝日新聞[広告]


天勝 009天勝 010


















大正
9414日 大阪毎日新聞

❍天勝の二の替り 弁天座の天勝一座は十四日芸題替を為し、バアネット夫人原作、巌谷小波氏脚色家庭劇「小公子」三場を出す。重なる役割はドリンコート侯(南部)、小公子(かめ子)、下女メリー(きぬ子)、家従(福島・鎌田)、小作人(大浜)、翁キップス(三好)、弁護士ハビシャム(山本)、エタル夫人(天勝)。

大正9419日 大阪朝日新聞

❍弁天座松旭斎天勝一行は二十日にて閉場。

 


◇大阪道頓堀弁天座
1213日~1226日)

大正91212日 大阪朝日新聞[広告]

天勝 008天勝 007


















大正
91222日 大阪毎日新聞

❍弁天座 天勝一座は二十一日から「小公子」三幕を差加へる。

大正10年(1921年)


◇京都四条南座
224日~32日)

大正10223日 京都日出新聞[広告]


天勝 008天勝 011





















大正
10224日 京都日出新聞[広告]


天勝 010天勝 009





















大正
10226日 京都日出新聞

○天勝と其芸

 女魔術師天勝が二十四日から南座へ懸かつた。天勝は古い女だ。然し日本の魔奇術界では男女を問はず天勝程のものが現はれて来ない点で常に新しい女だらう。嘗ては彼女の後継者であり、後には彼女の競争者であつた天華が夭折した今日、日本魔術界は依然天勝の独り天下を以て許さなければならぬ……と言つてもそれは彼女の魔奇術其物が格段進歩した意味では元よりない。魔奇術は寧ろ行詰つておる。是は今に初まつた事でなく、又天勝一人に限つた訳ではなく、本芸以外、歌劇もあれば舞踊もあり、否却て其方が主になりつゝあるのが此天勝一行なり。又斯界一般の傾向である。

 されば今度もお多分に洩れず賑やかな献立で御意を伺つておる。さて天勝の本芸は今更ならぬ鮮かなものである。ネタは従来と一律でも、トランクを使用した所を御所車や動物檻などを持出し、所謂様式を新しくして諸事華やかに演ずる点は流石だ。ナーンダと思ひながらも不思議は矢張り不思議なりだが、夫よりも何よりも天勝の老て益々旺(さかん)な事は奇術以上に驚く。ジョン博士と一座の節覚へ込んだものだらうが、今回は読心術の余興に新しい所を見せたり、又大に若返つて新京人形で日本舞踊にも素養のある器用な所を示すなど、観客(けんぶつ)を感心させたり恐縮させたり、天晴れなものなり。読心術は初日三回の実験を試みたが何れも当つた。新京人形は大分道楽気の交つた演物(だしもの)ながら、さしてエズクルシイ事もなく、引抜きでコサック人形ダンスに早替はる所が奇術応用ともいふ可く、一寸面白い。

 切のお伽歌劇「夢の胡蝶」にも出演し、蝶の女王で一座の少女達を取巻に和洋折衷の舞踊(最後の色電気応用の胡蝶の舞は往年洋行仕込とか触れ込んで得意に演じた洗張〈あらいはり〉物だつたが)で発展し、何處迄も若々しい意気を見せてる所は、アヽ古くて新しい女、汝の名は天勝なりと、とまれ讃へ申さんかな。天勝の外ではしげ子、菊子、千代子、信子等少女連のお師匠張の小奇術は愛嬌、男では天海の小手先の芸と久し振に復帰した天虎の金線渡りも手に入つてる。京人形で甚五郎を勤めた市川茂之助とやらも、役者は棒の字だが踊は案外軽妙だつた。それに波蘭人か和蘭人か忘れたが、パルヂザンなんとか物騒な綽號(ニックネーム)を持つた西洋人が提琴(バイオリン)で春雨やカチューシャを演(や)つたのはお景物としては推賞に價す。喜歌劇「日本主義」は見落したので南部夫婦の活躍は知らないが、総じて華やかな気分の充ちた所に此一座の価値ありと申そう。

大正1031日 京都日出新聞

❍南座 天勝一行の魔奇術の中で娘子連総出の和洋音楽合奏は長唄の囃子とオーケストラを折衷した賑かな所が大向に受けてをる。

大正1033日 京都日出新聞
❍南座 松旭斎天勝一行は予定の如く二日打上げ。




misemono at 16:17|PermalinkComments(0)松旭斎天勝興行年表(大正時代) 

松旭斎天勝興行年表(大正11年~15年)

大正11年(1922年)

 

◇大阪道頓堀弁天座311日~321日)

大正1139日 大阪毎日新聞

[広告]松旭斎天勝嬢の一行が三年ぶりで来阪、十一日より開演致します。益々洗練された奇術や歌劇に興味を唆(そそ)られるのも春らしい気分です。昼夜二回 弁天座

大正11310日 大阪朝日新聞[広告]

天勝 013

大正11311日 大阪朝日新聞[広告]


天勝 012天勝 014


















大正
11318日 大阪毎日新聞

○弁天座の天勝 久々で松旭斎天勝一座が十一日から向ふ十一日間昼夜二回興行で弁天座にかゝつた。奇術一点張では興が薄い故か、天勝を中心に娘子連の歌劇中心の傾向が見えて来た。今度の出し物でも楽劇と銘打つた神話から取材の「鶏の妃」がある。天勝のエソンダ、黒木のラーベエンが中心であつて、□□王宮殿の場で、鶏が瞬時に天勝の鶏の女房に手際よく変るのは愛嬌で、此座独特である。其他和洋音楽合奏、石神の独唱、天勝、しげ子のダンスなどがあつたが、奇術では流石に天勝の魔術が手際好く綺麗で、奇術種明しは天海、天晴で滑稽百出、腹を撚り顎を脱さねばおかぬ。切は天勝の相生獅子で、賑はしく打出した。


◇京都四条南座
323日~30日)

大正11320日 京都日出新聞

❍南座 次興行は一年振りで松旭斎天勝一座が乗込み、二十三日初日を出す。

大正11321日 京都日出新聞[広告]

天勝 007

大正11322日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の初日は二十三日午後五時開演であるが、楽劇神話「鶏の妃」の役割は、廷臣田春慶(稲見)、蕃丁ラペエン後に□□土(黒木)、蕃人娘タマイヤ(かめ子)、無頼漢(早川)、女神(石神)、鶏の女房エソンタ後に卑南王后(天勝)、老廷臣黄元朋(小林)、廷臣湖清蓮(早川)、卑南王鄭三昧(三好)、廷臣呉大凰(天宗)

大正11323日 京都日出新聞[広告]

天勝 006

大正11324日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝は二十三日初日を出した。二日目はホーカーデーの総見があると。楽劇「鶏の妃」は奇術応用が呼物。

大正11324日 京都日出新聞[広告]

天勝 005


大正11325日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝の初演大魔術は従来の行方と趣を変へた新工夫を凝して居る。尚一座の野球軍は連日各方面から試合の申込を受けて居ると。

大正11326日 京都日出新聞

○南座の天勝

松旭斎天勝一座が一年振で南座へ現はれました。魔奇術の女王を以て任ずる天勝も時世には勝てません。それだけでは興が薄いと感ずつたのは今更でもありませんが、愈々歌劇本位の色彩が濃厚になつてきました。今度の演物(だしもの)でも呼物は所謂大魔術よりも楽劇と銘打つた「鶏の妃」や大喜利の舞踊「相生獅子」にあるようです。然し楽劇であらうが舞踊であらうが天勝が中心です。ピカ一です。

「鶏の妃」は天勝が鶏の女房エソンダで活躍します。角書には神話なぞと精々脅かしてある代物ですが、天勝のお芝居はこなれたものです。黒木のリーベエン相手に新しい處を見せます。三好の卑南王の貧弱なのと旧劇調が少からず楽劇気分を裏切りましたが、侍女に扮する娘子連のオリエンタル振は可なり要領を得てます。宮殿の場で輿の中の本物の鶏が忽ち天勝の鶏の女房に変る手際は鮮かで、此一座独特の愛嬌でした。それよりもなによりも天勝が相変らず若い声と若い容姿の持主である事、それが既に大魔術かも知れません。

大正11327日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の大喜利の相生獅子では天勝が若々しい容姿で器用に踊るので大受である。尚同一座野球軍が二十五日午後、岡崎グラウンドでオリエント倶楽部と試合をした。結果は十二対六で天勝軍の勝利であつた。

大正11328日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の魔奇術はかめ子、小天勝等の可愛い所が人気を読んでいる。

大正11330日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の魔奇術は愈三十日で打揚げる。

 

大正12年(1923年)

 

◇大阪道頓堀弁天座31日~314日)

大正1232日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 001

〈編者註〉「弁天座 本日初日の松旭斎天勝一行 代魔奇術 久方振りの来阪にて鮮やかな技巧振りを御覧じませ 毎日昼夜二回 椅子席金六十銭」

 なお、このころ朝日、毎日ともに「松竹劇報」という松竹各座の興行案内の小さな広告が隔日ごとくらいに出ており、三月の案内の弁天座の欄を見ると、天勝公演の短い宣伝が文句をかえて添えられている。朝日と毎日でその文句が別々なのもおもしろい。

「美しいもの! それは天勝の指が綴る夢のやうな魔術で厶います。是非お早々と弁天座へ」(32日・毎日)

「夢と幻の交響楽! 一夕の歓を当座のパラダイスへ是非!」(33日・朝日)

「天勝が水芸のあざやかさ! 宛ら夢の世界を現出してゐます」(34日・毎日)

「夢の世界! 幻の世界! 見る目綾な天勝の魔術と奇術を!」(37日・毎日)

「さても巧緻を極めたる天勝の奇術へ!」(310日・朝日)

「天勝の鮮やかな水芸と魔術は連日湧きかへる人気を博申候」(311日・毎日)

「妖しくも美しき魔術の世界よ! ぜひ弁天座へお越し下さい」(313日・朝日)

「白熱的の喝采に終始した天勝一行は愈々今日限り打上」(314日・毎日)

大正1236日 大阪毎日新聞

○弁天座の天勝 道頓堀は久々で松旭斎天勝一座が一日から二回興行で弁天座へ乗込んだ。天勝娘子連の小奇術や天海の鮮やかな「ボール奇術」、天海、天清、三好の滑稽奇術があつたが、矢張人気は天勝が占めている。その天勝の初演奇術、文化奇術などいろ〳〵あるうちでは、廻り屏風のやうな組織の屏風の一間々々へ男を入れて廻はしてると女と変つているのと、時計の奇術などが面白かつた。その他お伽劇として小波氏の「日の出神楽」や歌劇「眠り草」などが無邪気に見物を喜ばせて、大切に日本固有の「水芸」の一曲がある。太刀の先から水を出したり扇や小娘の持つ花から水が出て、天勝以下紫の着付に派手な裃で古風な色取で打出した。

 


◇大阪九条八千代座
88日~)

大正1289日 大阪朝日新聞[広告]

天勝 020


◇大阪天満八千代座
815日~821日)

大正12817日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 002

 

◇京都四条南座320日~328日)

大正12319日 京都日出新聞

❍松旭斎天勝一座 二十日より二十六日迄七日間南座に於て開演と決定。毎日午後五時開場で、日曜大祭日に限り昼夜二回開演。

大正12319日 京都日出新聞

[写真]南座の天勝一座(水芸)

天勝 004

大正12319日 京都日出新聞[広告]

天勝 003

大正12320日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の文化的魔奇術及び歌劇の公演は既報の如く二十日から二十六日迄七日間限りと決定。天勝は当興行をお名残りに海外へ巡業し、親しく欧米諸邦の興行界を視察するから当分公演を見る事が出来ないと。因みに既報番組中歌劇出演の女優の配役は、「日の出神楽」─日の神(天勝)、風の神(天清)、鶏の雄(早川)、鶏の雌(タカネ)、子鶏の兄(繁子)、子鶏の弟(亀子)、暗の王(三好)、眷属(天清、天野、天竹、天海)、「眠り草」─眠り神(天清)、たんぽぽ(千代子)、テスの父ロバート(早川)、神の使(亀子)、イソベラ姫(美代子)、菫(小天勝)、従臣(天野)、桜草(繁子)、百姓娘テブ(タカネ)

大正12322日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の文化的魔奇術は久々の出演と海外巡業が喚物(よびもの)となつて素晴らしい人気である。番外として上演して居る「平和音頭」は円山の夜桜を背景とした西川流の舞踊で、娘子連の総出演である。地の長唄は管弦楽と三味線とを用ひた極めて新らしい試みであると。尚二十二日は昼夜二回開演。

大正12323日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の文化的魔奇術は連日好評であるが、お伽劇「日の出神楽」は巌谷小波氏の作で「岩戸神楽」にヒントを得て描いたもので、日の神と暗の神との争ひを主題としたものである。

大正12323日 京都日出新聞

○南座の天勝

◇入場(はい)つた時は一番目の小奇術の終りであつた。二番目は小波山人のお伽劇「日の出神楽」、可成りにやつては居たが、合唱其他の声がなつてないのは聞苦しい。終りの場面で鶏の雛に扮した二人の子役は当夜の圧巻で、可愛いダンスの足どり、無邪気な所作、満場の喝采を受けて居た。子供の為には好い演(だ)しものだ。

◇次の天海の球奇術は例により鮮かな手際を見せた。それから自分の手をハンケチで縛らせ、指先に銀貨を載せ、その載せた銀貨で客の掌に載せた銀貨を打つ「銀貨打ち」は素晴らしい早業で、客が天海の指先にある銀貨を握れば懸賞百円と云ふので、お客が懸命になるなぞ面白い余興であつた。

◇滑稽奇術の「ニハカセキゾウ」はつまらないもの。其後が天勝の文化奇術だ。流石は老巧にやるものゝ、随分古い。但し変つた新しいのもある。

◇メキシカンダンスは奇麗であるが、タンボリンの振り方が出来てない。練習を要する。天勝の「初演奇術」は格別の目新しいものも出して居ないが、其れでも矢つ張り小さな紙張り箱から目覚し時計を二十個以上も取出す手際なぞ御大はおん大だけある。引き続いての水芸は久し振りの事とて見事であつた。だが出来るなら裃で出た以上は頭の髪を何とかして欲しかつた。

◇最後の歌劇「眠草」、あれだけ出来れば十分であらう。全体に亘つて音楽があれだけ使ふに拘らず貧弱に過る。歌劇の時なぞは気の毒な位だ。音楽なぞは付けたりだと云へばそれまでだが──。

◇書き洩らしたが、番外の平和音頭は華やかな美しい所を見せ、幕間の天海のカード投げは上手いもの。一緒に出た子供の投げ損ねは反つて愛嬌。子供は徳なものだ。(ゆき)

大正12325日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の文化的魔奇術は番外の平和音頭や水芸が大受けであり、尚二十五日は日曜につき昼夜二回開演。

大正12326日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座の文化的魔奇術及び歌劇は好評につき二十八日迄日延べをする。

大正12328日 京都日出新聞

❍南座 松旭斎天勝一座は二十八日で終演。

大正14年(1925年)


◇大阪道頓堀弁天座
1031日~1115日)

大正141030日 大阪毎日新聞

○天勝来る 道頓堀の弁天座に

 二十年振りにアメリカの土を踏んでこのほど帰朝した奇術の天勝嬢はよい婆さんなんだが、額に小じはも寄せず、矢張りみづ〳〵しさを見せて、三十一日から道頓堀の弁天座に十九日間を打つ。

 二十年振りに行つて勝手の違つたのは、アメリカの人々の以前ほど親しめなかつたことです。見物席に見える日本人の方が黒人や支那人と共同の三階辺りにしか見えぬのも悲しいことでした。アメリカのは飽くまでアメリカ式で、日本ならば何にしても「裏も表も改めて御覧に入れまあアす」と見せなければならぬところを、キラ〳〵した目を驚かせるやうな道具を使へば種や仕掛は問題ではないのですもの。例の環さん(編者註:三浦環)が変な振袖をみせていられたので、妾共は一行中八名の娘達から妾自身も正真正銘の振袖でぶつ通して、街も鈴のついたこつぽりを穿いて練つて歩きました。そのかはりゲイシヤガールにされていまひましたわ。お土産に持つて参りましたのは彼地で流行の刹那的とでも申しますか十分短くて三分位の早幕のスケッチ風の舞踊です。

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天勝14年 002

大正141031日 大阪毎日新聞[広告]

天勝14年 001

大正14119日 大阪毎日新聞[広告]

天勝14年 003



◇京都四条南座1117日~1122日)

大正141116日 京都日出新聞[広告]

天勝 001

大正141122日 京都日出新聞[広告]

天勝 002


大正15年(1926年)

 

◇大阪道頓堀弁天座930日~)

大正15929日 大阪朝日新聞[広告]

天勝 015

大正15930日 大阪毎日新聞[広告]

天勝 001


大正
15101日 大阪時事新報
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天勝 時事 002








misemono at 16:16|PermalinkComments(0)松旭斎天勝興行年表(大正時代) 

2017年03月31日

資料紹介:西国三十三所 生人形評判

  はじめに

「西国三十三所 生人形評判」は明治十二年二月七日より大阪千日前で始まった松本喜三郎の生人形「西国順礼三十三所霊験記」の興行の時に作られた謄写版摺の小冊子(5丁)である。見世物興行では口上言いが場内で一枚摺りの絵ビラと絵本番付(ガイドブック)を売るのが通例であるが、この興行でも、飾られた三十三所すべての場面の人形を一枚にまとめた「西国順礼三十三所観音霊験記」(明治十一年十二月二十日御届・出版人田中文次郎)と題した絵ビラ(一銭五厘)と一場面一頁ずつに解説と絵を載せた「西国順禮霊験記」と題した絵本番付(18丁・三銭五厘)が販売された。この評判記は小屋内ではなく、芝居評判記と同じように絵草紙屋で売られたと思われる。値段は絵本番付と同じ三銭五厘。

 この評判記は現在国立国会図書館デジタルコレクションに入っており、ネットで閲覧可能である。だから殊更に紹介するには及ばないのだが、この文章が何ともわかりにくい。二人の男が見世物小屋にはいり、人形を見ながらしゃべり合ってその評判をするという形態をとっているので、実際にその人形を見ていないと何を言っているのかさっぱりわからないところがある。そこで少し工夫を凝らし、編者蔵の絵本番付(明治十二年四月十一日御届 同年仝月出版/編輯 東京府下浅草区浅草北東仲町第八番地 松本喜三郎/出版人 大阪府下西区新町通一丁目第十一番地 田中文治郎/記者 内田正鳳/画工 久保田桃水)の絵を該当する会話の上に置き、臨場感を生みだし、二人の会話が少しでも理解できるようにやってみた。
 なお読みやすさを最重点においたため、二人の会話を一人ずつ区切るなど、すこし原文をいじったことをお断りしておく。



  一世一代松本喜三郎 西国三十三所生人形評判

(表 紙・下図左)一世一代松本喜三郎 西国三十三所 生人形評判 万號社

(一丁表・下図中)目を驚かす松本の注意 あなを見だすけんぶつの勉強

(二丁表・下図右)一目づゝ見所増しぬ生人形 松人/見物やきのふに増してけふも又 元楽/作者槇人


西国 002西国 003西国 004












         



○嗚呼指屈れば九歳余り、吾妻の霊場浅草寺の奥山に三十三所の観世音菩薩霊験灼然(いやちこ)たる由来を纏輯(とりまと)め、百物天真創業工松本喜三郎大人が活木偶(いきにんぎょう)てふものを開場なし、看客(けんぶつ)の膽潰さし、舌を巻しめ、諸人の賞賛する事、閉場の跡猶三年余りも喋々(やかまし)かりしが、又もや明治十年初花の頃よりして、取も直さず同所にて再び該(これ)を興行ありしに、此度(こたび)は已前に弥(いや)増て三十余週間の開業に、挽(ひき)もきらざる大入に、誉(ほまれ)もよしや芦の里、浪花の浦の南部(なんち)とて、賑ふ人も千日の、正面の向(むきの)豪筵屋(おおごや)へ、此の二月(きさらぎ)の初旬(はじめ)より、氏(うじ)が一世一代とて、茲に移して観せける。歩行(あゆみ)を運ぶ看客(ひとびと)は、千手観音の掌(たなそこ)より多く、日鬻(ひびひさ)げる通券(きどふだ)は、三十三間堂の仏員(ほとけのかず)に異らずと、とどろく高評(うわさ)聞く僕(やつがれ)、コウト走り拝(おがま)して頂戴せんと、清水の舞台を飛(とう)だ心地にて、三銭円を奢(おごり)ツヽ、観(みれ)ば看(みる)程手際の精工、感に堪たる。

傍に二個(ふたり)の看客(けんぶつ)、木偶に指差(さし)、不解(くだらぬ)評をする人あり。「ても鉄面皮の先生かな、氏が手際の其の穴を、凡人の肉眼にて如何に捜索(みいだす)事こそ片腹痛たしにも」と呟ながら、衆人(もろびと)に揉れて遂に大詰迄、已前(いぜん)の二漢(ふたり)と前後になり、確説(わけ)も符合(わから)ぬ雑談を、今耳底に残りし儘、「活人形評判記」と題せる一小冊を、つゞり書て以(もつて)看客の参考(ひょうぎ)に供する迄にして、固(もと)より編者の舌説に係れるものにあらざれば、よむ者其心して御一覧を懇願(ねがふ)にこそと、偖文(ちょぶん)にあらぬ喋故罪(ちょこざい)な鄙筆(ふで)を振(ふる)ふて茲に記す事書(かく)の如し。

               
 西国 011西国 009              
 



             
                                









                  表看板 第十七番 六波羅密寺 空也上人

「サア〳〵元(もと)や、早クキヤ、強勢に雑踏(こむ)ジヤネーカ、コラ〳〵、ソヲ駆テ行チヤ困ラア、表木偶が肝心ダ
 ゼ。

「篤(とく)と眼看留(おめとめら)れて下さり升ふ。

「無粋(きざ)な洒落ダゼ。

「時に舞妓や小原女の顔が汗を顕(かい)て居る所と老婆(ばあゝ)の丈長(たけなが)が油染みたのと丁稚に古小倉帯を用ひた所は中々奇妙ジヤナア。最(も)一ツ奇妙なのはあの八瀬の婦人(おなご)の脚伴は背後(うしろ)から前へ合わすが至等(あたりまえへ)じやと思ふがナー。

「ソンナ箆棒(べらぼう)な脚伴が有もの歟(か)。

「イヤそふは云(いえ)をまい、茲(こん)な事は東京や西国筋の人には判解(わから)ぬ事じやテ。

「ソリヤイヽガ、彼(あ)の包銭(おひねり)を盆に乗てコウ突出して居る幼年娘(むすめ)を看ヤ、発言(ものをい)ひ
 ソーダネ。

「あんな娘が希望(ほしい)ものじやナ。

「馬鹿云な、貴公(てめへ)の細君(かみさん)の御面相では百遍転んでも覚束ナイヤ。

「コレ〳〵茲で嫁(かゝ)の棚卸は御免じやがな。

「ホイソウダツテ、併し松さん、松本と云ふ人は如何云(どういふ)人か一遍顔が見たいな。

「サヨサ、恐しい高名な人よ。夫だから大阪新報や画入の朝日抔へ時々賞(ほめ)て出てラーサ。一体仏様の観世物(みせもの)は是迄から余り聞(きか)ないよふだネー。

「サヨ〳〵、トツト往昔(むかし)に天王寺の開帳があつた時ナア、石の華表(とりい)の在側(きわ)に籠細工の豪製(おおき)な大仏さんの観世物があつたそふで、其時は栄来(えらい)入でナー。其後午年の三月に大江伊兵衛が溝の側で是レモ大仏の興行をして、成田や上人が口上を云ふて大当りであつたが、其後頓と仏係(ほとけがゝつ)た事をせんが、マア木偶師の親玉は是の松本氏と安本亀八、夫から

「コラ〳〵、生人形の年代記は卒平(まつぴら)ダゼ。サア早ク往(いく)とシヨーヤ。

西国 001の1
第一番 那智山 和泉式部

「イヨー、第一番紀州那智山かな。和泉式部の袖口は東京婦人の帯ではないが、牝針(めんばり)牡針(おんばり)がして有るのと、朱塗の杖は合点云かぬナア。

「ソンナ故実が氷解(わかつ)てたまるものか。

西国 001
第二番 紀三井寺 威光上人

「次が紀三井寺じやナ。机にある筆は悉く製造(こしらへもの)にしてある所は味(うま)ひものじやナ。

「龍女の左の手はチト桜の枝に添(そわ)ないよふに思(おもう)が、貴公(てめえ)はドウダ。

「ホンニそふ云へば底(そこ)もあるが、上人の顔は格別善(よい)ではないか。

西国 024
第三番 粉河寺 渋川佐太夫

「ヲヽ粉川寺ダナ。親父の衣裳はチト美艶(きれい)過るよふだネー。

「其茲(そこ)は観世(みせ)もの故、態(わざ)と古ものを用(もちひ)ぬじやろふと思われる。親父の指の小皺の巨細(こま)かい細工は感心なものじや。

西国 025
第四番 槇尾寺 光明皇后

口上「是が第四番槇尾寺で御座り舛(ます)。

「云(いわ)なくても解(わかつ)てラーイ。ヨー、老婆(おばゝ)が仕(つい)てる左の手はドウモ云へぬ程善(よい)ワ
 イ。其娘の足の甲を見や、ムツタリ肉の肥(ふとつ)た所は失策(すんし)なしだ。

「イヤ寸志(すんし)のあるのは藤原公が沓じやて。あれは塗沓(ぬりぐつ)で洋靴(せいよう)の格好じやが、熊毛の沓で
 もあろまいし。

「何、公家様が装束を着(つけ)て毛沓抔を穿(はく)もの歟(か)。そんな判決(ひにく)は普通民(わしら)の知ぬ事
 ヨ。

西国 026
第五番 藤井寺 藤井安基

「ハヽー藤井寺で盗賊(どろぼう)が鹿肉を調理(りょうり)るナア、該(この)左の足は松本氏に似合ぬチト工合が

「ソリヤ三十三番もあるたくさんの内だから、貴公(てめえ)の様にしらみごろしに小言を云奴があるものか。アノしばられ
 て居る坊様の顔といひ、踏立て居る足の細工ハ活生(いき)てるヨーダゼ。

西国 021
第六番 壷阪寺 瞽者沢一

「是が評判の高い瞽坊(ざとう)か、足の歩行(はこび)といひ、松本兄(し)の製作(さいく)ハ足袋を穿ても指にコヲー
 力(りき)が入て居る故、染々(よく〳〵)見(みる)程猶善(よい)わい。官女は衣装も立派、全體(からだ)の位置(そなへ)が 

西国 020
第七番 岡寺 長門の少女(おとめ)

「コヲ〳〵何迄(いつまで)も感心して木擦(てすり)に噛着(かぶりつい)て居ては困るネー、次の順礼娘を見ヤ、太股の
 所が
多淫好(じんすき)だネー。

「ホンニ、太股と云へば尻が少し細製(ちいさい)ヨーダヨ。

「ソリヤ婦人(おんな)でも和殿(おまへ)、小方(こがた)もあれば頭無(ずなし)ものふてかいな。

西国 019
第八番 長谷寺 道徳上人

「跡は第八番の閻魔様か。

「八番の閻魔と云ふ事があるものか。

「ダテ、八番と額面(がく)に書てあるモノヲ。

「併し善製(ようでき)てあるナー。

「僕(わし)は未だ一遍も地獄へ趣かネーカラ善(より)か悪(わるい)か判然(わか)らナイヤ。

「サア其(それ)わからいでも正物(ほんまも)のを見たら該物(あんな)ものじやらふと思ふて居るのじや。道徳上人の顔
 は格別よろ
しいナ。

西国 018
第九番 南円堂 春日明神

口上「ヘイ是が南円堂、正面の翁は春日大明神。

「伊勢には天照皇太。

「コレ〳〵戯言(しやれ)を止(やめ)て木偶を見ナイか。

「イヤモー何とも申分なしじや、したが翁の足の下に敷てるのは、といしにしては長し。

「何を発論(いつ)てるんだ、あれハ飾付(かざりつけ)の時いしだんに足がたがナイカラ、其茲(そこ)で継足(つぎた)しをしたのだらうと思ふが、松本の人形に限り点を打(うつ)のは素人染ミテラ。

西国 017
第十番 三室戸寺 綺田村農女

「十番の三室戸カナ、普門品を読誦して居る娘は感心々々、蛇(おろち)の変化といふ顔付ハ是も感心。

「そうかんしんせずと十一番を見ナイカ

西国 015
第十二番 岩間寺 芭蕉翁

「よし〳〵、アヽ雑踏(えらい)人じや、アヽ痛い〳〵、岩間寺にはそまれたよふで、トウド十二番へ来てしもた。

「元ヤ、たばこいれが落たヨ。

「近江にお世話さん。

「揉(もま)れて地口も余り気楽だぜ。

「ハヽア芭蕉翁の着付といひ、何処(どこ)に一ツ抜目なしじやな。

「知れた事よ、此の小児(こども)が善イといふて大層な評判の高い場ダヨ。

西国 014
第十四番 三井寺 大津の町下女杉

「ホヽー次の石山寺が云分なしジヤ。
「十四番大津町のお杉さんは浮雲(あぶ)ない事をしたものな。

「何んだ、しんるいデモネークセに。

「併し楷子の折れたカケが見(みえ)ぬナー。

「ソンナ小細工な事を云ふ奴があるものカ。

西国 013
第十五番 今熊野 楠正成

「アヽ今熊野の楠か。

「ソンナ口の利(きゝ)よふがあるものカ、城の画面(かきわり)は奇めうダ〳〵、エイまた人が押サア、六角堂かネー。

西国 008
第十八番 六角堂 池之坊

「ソヲ手がるに言ずとアノかわいらしい稚児を見なされ、如何にも観世音の御化(おばけ)あそばしたといふ顔のよそをひは
 なか〳〵に気を付けられたものじや。

「マア賞めたのハ好イガ、御化あそばしたとは奇たいな賞め様をしたものダゼ、該(こ)の和尚の顔が最前見たのとは夫々変
 つて居るから味(うま)ひヤ。

西国 007
第十九番 革堂 東山大工某

「次が定九郎。

「何の定九郎ナ事があるものカ、剪徑(おきはぎ)とさへ云へバ定九郎に究込(きめこ)むから可笑シイヤ。所で該(こ)の毛の生へた肉太な足の工合は如何にも放蕩をして博奕(ばくち)に負けて嘆息(つまら)ぬ所カラ車でも挽(ひい)て見たが、面白ない所から夜盗(どろぼ)でもヲツ始メたと云(いう)足に製作(でき)てるのは真に妙ダ。

「ゑらい六ケ(むつか)しい足じやナー、其時代に車夫(くるまひき)が居るものか。

「ホンニ是れは大誤論(おおしくじり)だ。

西国 006
第二十番 善峰寺 開山源算上人

「二十番の善峯寺と此の杉の葉や始終松の葉抔が製造物(こしらえもの)で仕(し)てあるのが松本さんの御家の一流、茲等(これら)を気を着(つけ)て見なされ。

「気を着(つけ)ると云へば、あの猟師は真白の衣装ダガ、足下(てめへ)ハ如何(どう)おもふ。

「サア私(わし)もそふは思ふけれど、万一(もし)山神の変化とでも云ふ様な事カと思ふて。

「成程、コイツハ一本頂戴だ。

西国 005
第二十一番 穴穂寺 辰女

「是が二十一番の穴穂寺、相替らず観音の顔は別段好(よい)ではないか。

「婦人(おんな)が病着のうへ合掌してる工合と下浴衣は云分なしだ。

西国 029
第二十二番 總持寺 山蔭中納言

「此の船の所はきれいだ。
「木偶を親(したし)くとまた込ミ合ふぜ。

西国 028
第二十三番 勝尾寺 百済王后

「寧(まゝ)よ、勝尾寺を拝観セイ、噂よりも十倍増だ。

西国 004
第二十四番 中山寺 多田蔵人の室

「此度は眼目の紫雲山中山寺、アヽ善イ衣服じやナー。

「アノ髪の毛がコー釣揚たる工合と草履が緩(たるん)だ所は奇々妙々、ソシテ元さん、御堂の道具も大張込ダネー。

「アノお局(つぼね)の帯ハ例の三寸巾位な織物の帯といふ積りジアろふ。たしかあの帯ハ位(くら)イが上等程巾はせまいとカ聞て居るが、是れは丸絎(まるぐけ)のよふに見へるがハテナ。

「エヽそんなうへつかたの事が下賎(しもじも)の身で判者(ひはん)が出来るものカ。時に余りしやべりちらして咽喉がヒイ〳〵云ふ様な、此の茶肆(ちゃみせ)で一服と仕よふか。

「ソイツハ強気(ごうき)だ、一寸博物会の遊歩所といふ仕掛だネー、大層カステーラを取て来たネー。

「アンマリ下直(やす)かつた依(よつ)て、はこのまゝ持て来た、該品(こんだけ)で一銭じや。

「馬鹿な事をいふぜ、一ト切レの直段だ、是侭(このまま)購(か)ツタラ五拾銭余りも散賎(さんざい)ダゼ、返却(け
 い)シロ〳〵。

茶店女「ホヽヽヽー、大事ござりません、よろしい丈をあがりなされませ。

「極まりが悪るイや、早く往(ゆ)くとしよふ、もう繰揚(くりあ)ゲも一ト替りすんだヨダゼ、ヲイ婦人(ねえ)さん、三
 切レ食つたから茶のせんと一
緒で五せん置クヨ。

茶店女「ヘイ、ありがとう。

西国 027
第二十五番 新清水 陪夫太郎

「播州の新清水カナ、またどゑらへひと込ミじやナー。

西国 003
第二十六番 法華山 法道仙人

口上「ヘイ、此の法華山の人形ハ松本喜三郎別段こゝろを用ひて拵らへましたる法道上人、淋しい場所ではござりますれど篤
 とお目とめてごらんくださりませ。

「なるほどこの嵓石(いわま)の裡(うち)のにんぎよはホンニすごいほど好(よ)イワイ、じゆつ[術]をおこのふて、こめたわら[米俵]を取寄(とりよせ)る妙術が私(わ)しも教授(おしえてもらい)たいものじや。

「馬鹿ナ、時代めいた男だ。

「時に法道仙人とかけて何と氷解(とく)。

「エイナゾ掛カ、先ヅアゲ舛(ます)。

「是れを活木偶評判記の編輯と解(とく)、意(こころ)は俵(ひょう)を輯(あるめ)るであろふ。

「フン、つまらない。


西国 002
第十六番 清水寺 熊野御前

ドロン〳〵

「あともみたいが肝心の大詰が明くそうだから、跡は止て早く見よふ。

「ヲイ繰揚ゲ壱銭。

「ヲイサ茲に置よ。

口上「先(まず)は御見物、是より三十三所は第拾六番清水寺アー

「ホンニ、聞ば九ケ年前猿若丁で団十郎、菊五郎、左団治の一座で該(この)景事(けいごと)を観タツケー。

「口上云は浅草の荒子老翁(あらこおやじ)ダナ、道理で能(よく)行届ヨ。

「叩鐘と木魚の囃子(あいかた)で幕明とは好趣向ジヤテ。

口上「平宗盛卿、右側は美人の聞へある白拍子の湯谷(ゆや)御前。

「ホンニ該(この)顔は上品な、如何にも然(しか)るべき御方と見へるワイ。

口上「偖(さて)其時の御歌に『如何せん都の春もおしけれど馴し吾妻の花や散るらむ』

「味(う)まく朗読(よん)だネー。

西国 001
第三十三番 谷汲寺 大倉太郎信満

口上「舞台は後へ繰り込ミ舛(ます)ー

「ハヽコリヤ珍敷(めずらしい)道具の仕掛じや。

「イヨー観音サマの御姿はといひ、御顔抔は味(うま)ひぞ〳〵。

「ヨヲー味(うま)ひ〳〵と云人ジヤ。

「ダテ是レがほめずに居られるものか、雪中の道具ナンザアー美麗(きれい)だネー。

「あの金商人の顔は如何にも仏さんを信仰しそうな顔じや。

「サアソコが木偶師の腹ジヤ。

「腹ジヤナイ顔の噺じや。

「判然(わかつ)て居るヨー、ヲヽ夫りや善イガ饒舌(しやべる)うちに幕が閉つた、ケコー〳〵。

「最一ツ何歟(か)道具でも変化(かわ)らんと喰イ足んよふに思ふナー。

「ソリヤ劇場(しばい)の所作デモ観るよふな気持で居るから痴漢(どぢ)だと云ふのヨ。

口上「早よふ払口へ出て貰らわんと跡が雑踏(つかへ)舛(ます)ゼ。

「ホイ是はシタリ、イヤモー松の齢の色かへぬ喜三郎君(ぬし)の栄誉(ほまれ)じや。

と打興じツヽ帰へりけり。

明治十二年二月廿二日御届

同   年同月   出版                    (定價三銭五厘)

編輯人 大阪府平民 槙野儀三郎 西区阿波座下通り一丁目四十二番地

出版人 同     山上定之助 南区八幡町二十四番地

───────────────────────────────────────────────────────中の芝居評判記 一号(三銭五厘) 二号   売捌所 諸府県絵艸紙屋

 


 

おわりに

挿絵に使用した「西国順禮霊験記」だが、編者蔵のものは袋付(下図・左)で「明治十二年四月十一日御届 同年仝月出版/編輯 東京府下浅草区浅草北東仲町第八番地 松本喜三郎/出版人 大阪府下西区新町通一丁目第十一番地 田中文治郎/記者 内田正鳳/画工 久保田桃水」の奥付がある。

これとは別に国政筆のもの(奥付なし)があり、平成十六年に熊本市現代美術館と大阪歴史博物館で行われた「生人形と松本喜三郎」展の図録の作品リストにあり、第十八番六角堂と第三十三番谷汲寺の図版が載っている。

ネットで検索すると、国政筆のものが古書店フロイス堂の目録に出ており、「中本18丁・版本・奥付なし」とあり、表紙(下図・中)、表紙裏・一丁表、第十一番(醍醐寺)・第十二番(岩間寺)、第三十一番(長命寺)・第三十二番(観音寺)、第三十三番(谷汲寺)の五葉の写真が載っている。

西国順礼 3西国順礼松本 001







 またブログ「北さん堂雑記」にも国政筆のものが紹介され、表紙、あとがき(推定)、第三十三番(谷汲寺)の三葉の写真が載って居いる。同じく奥付はないが、あとがきに「生木偶細工人松本氏は肥後国熊本の産にて、先年本国に立越(たちこえ)帰府の路中に西国三十三所の観世音を巡拝し、往昔(むかし)より語り伝へし大悲の利益を尋ね聞たる其儘を、細工は一流無類の仕組、大坂千日前におゐて興行なし、児女童蒙の結縁にもとその霊験の省略(あらまし)を小冊に記す而已」とある。この文面から察するに大阪千日前の興行のときに売られたと思われる。但し、この興行は明治四年より東京浅草で始まっており、国政(四代・のち三代国貞と推定)は東京で活躍した絵師であることを勘案すると、これは東京興行のときにすでに作られ、このあとがきだけが追加(或は書き換え)された可能性が高い。

上述した数少ない国政筆の絵をみると、編者蔵の桃水筆のものとは微妙に違っている。なかでも興味深いのは第三十三番谷汲寺の場で、国政筆のものが雪景色であるのに対し、編者蔵のものは春景色である。上掲の「評判記」は雪中の道具を褒めており、このとき飾られていたのは雪景色の観音さまであることがわかる。そこでこの場面だけ国政筆のものを使用した(「生人形と松本喜三郎」図録より転載)。参考のため両者を並べておく(左が国政筆、右が桃水筆)のでご覧いただきたい。

西国 002西国 001





 








 それにしても桃水筆のものがなぜ春景色になっているのか。想像するに、これが出版されたのは四月で、喜三郎は季節に合わせてこの最後の場面を春景色に変えていたのではないか。彼の完璧主義を考慮すると充分にあり得ることのように思われるが、考え過ぎか。

このほかにも九番の南円堂、二十番の善峯寺も「評判記」のセリフと違っている。こちらは国政筆の絵がないのでやむを得ずそのままにしておいた。

また岐阜市歴史博物館の所蔵目録にも「西国順礼霊験記」があった。残念ながらこれは袋だけで中身はないとのことだった。その袋(上図・右)には「明治十二年一月二十七日御届/編輯人 東京府下浅草区浅草北東仲町第八番地 松本喜三郎/出版人 大阪府第三大区六小区新町通一丁目第十一番地 田中文次郎」と印刷されている。その月日からいうと、これが興行の最初に作られたものであることがわかる。編者蔵のものは全部売り切れたあと、新しく作られたものかも知れない。いずれにしろ、一つの興行でこれだけ多様な絵本番付が現存するのも珍しく、それだけでもこの興行が当時いかに人気抜群であったかが充分に想像される。

最後に大阪歴史博物館が所蔵する喜三郎作の第十八番六角堂の池之坊の生人形(頭部と手)の写真を「生人形と松本喜三郎」図録より掲げておこう。この時に作られたものと推定されている。いろんな展覧会に出品されているのでご覧になった方も多いと思うが、実によく出来ていて、見るたびに感心させられる。こんなのが三十三場面も並んでいたのかと思うと、想像するだけで身震いがする。松さんと元さん二人の評判も決して大げさではないだろう。

池の坊 001西国 008



misemono at 14:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料紹介:西国三十三所生人形評判 

2017年02月28日

資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末(一)

  
    はじめに

青木一座は明治三十年代、江川一座とともに浅草で絶大な人気を誇った娘玉乗り一座であったが、四十年代にはいると活動写真などに押され、地方巡業を続けたあと、明治四十二年ごろに解散した。一座を失った芸人たちはそれぞれに活躍の場を求めて散っていったが、その中に海外に渡った連中もいた。

日露戦争のあと、産業の近代化を欧米諸国に誇示すべく、1910年(43年)514日から1029までロンドンで日英博覧会が開催された。この時会場の余興として芸人が送られたが、その中に青木の芸人たち(十四名)もいた。

博覧会のあと欧州各都市を巡業したが、第一次世界大戦に遭遇し、座員の死亡、離別などでたった四名になり、1917年(大正6年)にようやく帰国した。

翌年『報知新聞』に「戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話」という連載記事(大正7321日~329日・8回)が出た。また少し遅れて『大阪朝日新聞』に「恋に死んだ『日本娘』 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話」という連載記事(大正7717日~722日・6回)が出た。

 この記事を見付け、最初に紹介されたのは阿久根巌氏で、『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)の第11章「青木一座・欧州巡業の顛末」(152161頁)にまとめられた。とても興味を魅かれ、ぜひ全文を読みたくて図書館で両紙ともコピーしてもらったが、今回改めてこれを紹介することにした。表題は阿久根氏に敬意をこめて「青木一座・欧州巡業の顛末」を使わせていただいた。同章では『大阪時事新報』も引用されていたが、これも全文掲げておいた。あわせて参照いただきたい。

大正7321日 報知新聞

戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(一)

独帝の前に立つた日本の玉乗り娘

昨紙夕刊に掲載した欧州戦乱の巷を前後四箇年遍歴して来た青木一座の苦心談は、迚も内地人の想像し得る様な生優しいものではなかつた。

抑々同一座十四人が欧州に渡航したのは今より十一年前、日英博物会の折である。其時一行中の最年少なる青木とめ女と云ふ当年七歳の少女は、今度十一年振り芳紀十八の娘盛りで帰国したが、日本語は誠にお粗末なたど〳〵しい言葉遣ひで、人様の前では口も利かれぬ始末だが、其代り仏蘭西語と伊太利語は一通り用が弁ずる様になり、ダンスも舞台に立てる丈けの修業を積んで来たと云ふ事である。

偖も日英博覧会閉会の後、欧州大陸に足を向けた一座は、巴里、伯林を始めとし、重なる大都市で興行を続け、欧州大戦開始に至る迄伯林に滞在して居たが、此前半期たる五箇年間を通じ、一座の最も光栄を博したのはミユンヘン市に於ける独逸皇帝と同皇后の御前演芸であつた。

時は一九一四年の春、欧州大陸の雲行稍や怪しくなり懸けた折である。凡百の芸能に趣味を有するカイゼルは、例により各国芸人の競技会をミユンヘン市の宮廷劇場に催させたが、其夜日本の演芸として選ばれたのが青木一座の玉乗曲芸であつた。当夜カイゼルは鳥打に背広と云ふ軽装で、皇后同伴、二三の式部官を従へて臨場あり。定刻オーケストラの音楽始まりて開場となり、露西亜のバレット踊、伊太利音楽家のバイオリン、希臘劇団の一幕物、黒人声楽家の独唱等、各国各種の演芸十数番相続いて行はれたが、初めて目にした日本の玉乗が余程深くカイゼルの興味を動かしたと見え、其夜行はれた十数番の演芸中、最優等の特技としてフオフキンストラの栄称を与へられたのが青木一座であつた。フオフキンストラは即ち皇帝鑑賞の意味であつて、此称号を与へられたものは翌日から早速劇場の前面に広告の金看板を貼り出す事が出来るので、青木一座は其後独逸内地の興行に少からざる利益を得たとの事である。

とめ女は其際十四歳の少女であつたが、当夜の光景を無雑作な口調にて語る。「カイゼルは絶えずニコ〳〵して見物して居たが、芸が終つてから私達はカイゼルの前に呼び出され、おかみさん(皇后)は私に手を出して握手をして呉れました」と。

尚カイゼルが口髯を宙に向つて捻り上げてるのは、只軍服を着て威容を正した際丈けで、背広服鳥打帽の場合には決して写真で見る様な髯振りではないと云ふ。一座は一通り伯林、巴里やハムブルグ等の大都市を興行して後、独仏両国の田舎廻り興行を始めたが、旅役者御難の災厄は内地に於て並大抵の辛労でない。「況して世界を股に懸けた興行先きの苦心談に至りては、迚も一通りのお話しでは尽せません」と言ふ。

大正7322日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(二)

  姉は謎の短銃(ピストル)自殺 窓外に動揺(どよ)めく参戦示威運動

欧州大戦は颱風の如くに捲き起り、青木一座九名と横田一座の十二名は命辛々(からがら)独逸国境を逃げ出した。中(うち)数名のものは伯林にて俘虜として抑留されたが、数日後無事釈放されて仏国々境で待合す事が出来た。

青木 001青木一座は此際既に墺伊両国及巴爾幹(バルカン)諸国で向ふ三箇年興行の契約があつたので、一行九名は横田一座と別れ、瑞西を経由して伊太利に向ふ事に決心した。大戦開始の当時、人心恟々動乱を極めた際とて、汽車旅行の混雑と困難は尋常でなかつたが、車窓四昼夜を明かして汽車は漸く伊国ゼノア港に着いた。ゼノアでは或る劇場と契約が出来て居たので、到着二日後から興行を始める事となつたが、茲に測らずも一座に取りての一大災難が湧き起つた。

ホテルに着いた翌朝、オーケストラの調子合せの為め、一座の男女芸人一同、劇場の楽屋に来て下調べをしたが、座中随一の働き役者たるかめ女(とめの姉分)の姿が見えない。「又ふて臭つているのだらう」と頭分が言ふたが、皆もさう思つて左程気にも止めないで居た。ホテルに帰つて見ると、かめ女は白いシユーチを冠つてスヤ〳〵と眠つて居る。妹のとめが「最(も)う起きなさいな」と言ひながら蒲団を刎ね外(の)けると、雪白の上敷が血汐に浸り、見事一発、咽喉元を貫いて短銃(ピストル)自殺を遂げて居たのだ。かめ女は初代青木の貰(もらい)娘で、浅草の一名物青木家を復興すべき責任の地位に在り、一座の人々も「是非さうしたいものだ」との希望を繋いで来た中心人物である。夫れが此旅先きで不慮の変死である。馴れぬ異国の旅も最早恐れを懐かぬ程の度胸は鍛へて来たが、偖此の花形に死なれては差し当り明日からの興行に困る。残された八名が茫然自失して顔を見合せたも無理はない。

窓外では参戦行列の示威運動が行はれて、物凄い程動揺(どよ)めいて居た。「姉さんは生来内気で優しい人だつたが、舞台に立つと何時も電気でも通じて来る様に、活き〳〵した芸をする人でした」ととめ女は語る。更に自殺前後の模様を聞くと「ゼノアに着いた晩、『白人は命を惜がるから碌な戦争は出来まい。日本人は面倒臭くなると何時でも命を投げ出すわネ』と変な事を言つて居ましたが、遂(つい)アンナ惨めな事をしたのです。今思ひ出してもゾッとします」とて、とめ女は身を慄(ふる)はしながら遠い彼方を見る様な目付で四年前のゼノアのホテルを回想する。

かめ女の自殺には聞くも哀れなローマンスがある。(写真は青木とめ女)

大正7323日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(三)

  銃を捲く最後の手紙 異境に果てたかめ女の恋物語

ゼノアのホテルで短銃自殺を遂げた青木一座の花形かめ女は当時十九歳の恋盛り、伯林興行の際から横田一座の渡辺と云ふ男と割ない仲になつて居た。渡辺は此仲間で珍らしい程立派な性質なので、青木一座の久保支配人も何うかして此二人を一緒にしてやりたいと苦心して居た。

戦雲勃発、在独邦人が皆散々に国境指して逃げ落ちる際、横田一座の渡辺はライプチヒに避難して居たが、かめ女は青木一座の一部の人々と共に瑞西行きの列車に乗り込んで居た。久保支配人は一目なりとも此の二人を逢はしてやりたいと、ドツセルドーフの停車場で待ち合せる様、ライプチヒの渡辺宛で電報を出した。併し全国動員の際とて、電報の発着も列車の時刻も当にはならなかつた。かめ女と久保支配人はドツセルドーフの停車場で渡辺を待ち合せる為め、態々一列車を延ばして首を長くして待つて居たが、遂に渡辺の姿は見えなかつた。「おかめ、是れ程しても駄目なのだから諦めて呉れ。日本に帰れば直ぐ逢へる。今暫らくの辛抱だ」と久保支配人はかめ女を慰撫しながら次の列車で南に向つた。

然るに青木一座の頭分に瀧太郎と云ふ仇役があつて、予々(かねがね)かめ女に懸想し、絶えず渡辺を色敵として暗闘を続け、かめ女に対しては頭分の威光を笠に着て、兎角無理難題の邪慳な振舞を見せた。此種旅芸人は英語でトループと称さるゝ如く、内部は全く階級制度の圧迫主義で、下の者は頭分から如何(どん)な無理を言はれても服従せねばならぬ。かめ女は之が為め幾夜旅の枕を濡らしたか知れない。

戦塵怱忙、避難列車の旅の間にも絶えず此恋の葛藤が続けられた。思ひ余つたかめ女は遂にゼノアのホテルに着いた翌朝、思ひ切つて短銃自殺を遂げたのであつた。短銃の筒先は渡辺から来た最後の手紙でグル〳〵巻きとなし、其手紙には「当分何も言ふまい。手紙を出してもいけないから、是を最後の手紙と思ふて呉れ」と書いてあつた。其日午後、検死は型の如く行はれ、淋しい葬儀は旅の宿の一室で営まれた。

折柄英国贔屓と独逸贔屓のゼノア市民は参戦派と平和派の二派に分れ、道路の左右を両派同時の示威行列が行はれている。窓外雲霞の如き群衆は無論此旅役者の群の悲嘆を知らなかつた。一行は是から先歩一歩、困難の底に陥つて行く。

大正7324日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(四)

  四名は海底の藻屑 帰路を絶たれた一座の困惑

欧州大戦は益々局面を拡げて行く。人心は大地震に襲はれた如く動揺する。此戦塵に捲き込まれた旅芸人の群が、思ひ儲けぬ憂目に出逢ふたも無理もない。

ゼノアを手始めとした青木一座は首都羅馬を始めゼネヴア、フローレンス、スペシヤー、ネーブルス、カタニヤの各都市を経廻(へめぐ)つて、二週間乃至三週間の興行を続け、長靴形の半島帝国に約八箇月を費したが、伊国政府は何時迄も地中海の一角に筒井順慶を極め込んで居る。国論は参戦平和の両派に分れて、全国各都の示威運動は益々激烈となる。遊芸好きの伊国人は斯(か)かる国論沸騰の際でも決して劇場通ひを欠かさず、殊に物珍らしい日本の曲芸は到る處で評判を博し、各地各座は興行の度毎(たびごと)何時も大入大人気であつたが、劇場経営者は大戦の影響を口実として一座の給料を踏倒さうとする。裁判を起すとしても半年以上待たねば落着が付かぬ。茲を付け込みとして益々踏んだり蹴つたりの目に逢はされる。結局五百リラの契約は二百リラか三百リラに打ち切られる。

一行十二名(久保支配人の妻子を含む)は帰心愈々矢の如く、宿は木賃宿同様の三等ホテルに泊り込み、食事は毎日粥の様な穀類の煮汁を啜り、一日も早く旅費を調へて帰国の途に就かうと焦つた。苦心空しからず、翌年早々ゼネヴア出帆、埃及アレキサンドリヤ港に向ふ事が出来た。不安な地中海を無事横断して目的の埃及港湾に到着したが、此時遅し、スエズ航路は既に航海杜絶となり、日本に帰るべき一本路はバタリと塞がれて居た。一行は止むなく露国経由の西伯利(シベリア)線を取る事に決心し、再び行李を整へて希臘アテネに向ひ、サロニカ方面迄足を進めたが、此時既に独軍巴爾幹(バルカン)に殺到し、塞国(セルビア)通路の露国進出は絶対不可能となつて居た。

八方塞がりの窮境に陥つた一行は、止むなく埃及逆戻りに決し、英国郵船バルボス号に乗船して再びアテナ港出帆、アレキサンドリヤに向ふたが、途中測らずも独逸潜航艇の襲ふ處となり、一座の中捨吉、辰五郎の両名と、久保支配人の妻女ヘレン(独逸人)長男保(二さい)の四名を浪黒き半夜の海上に海底の藻屑となつたのである。「今思ひ出してもゾッとします」ととめ女は遭難当時の実況を物語る。

大正7325日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(五)

  地中海の活地獄 荒波に隔てらて行く親子三人

英国郵船バルボス号は十月一日埃及アレキサンドリヤに向け希臘アテナ港を出帆した。地中海の小春日和、空は一碧イタリアンブルーの色濃く、海は鏡の如く静かだが、独墺潜航艇は絶間なく辺海に出没し、欧亜両州連絡の一等道路たる地中海は今や全く死の海と化して居た。

当日午後二時頃、二三の端艇(ボート)に分乗した数十名の遭難者が頻りにバルボス号の救ひを呼んでるので、引き揚げて見ると果して前日独潜艇の為め撃沈された仏国汽船の乗客船員であつた。昨日の遭難談、今日は我が身の上、バルボス号の乗客船員は安き心もなくて航海を続けたが、同夕刻六時頃に至り、果して舷側間近く現れたる鱶の如き化物、云ふ迄もなく地中海荒しの独潜艇である。

船内は見る〳〵阿鼻叫喚の活地獄。第一第二の救命艇は順序よく海面に引き下されたが、青木一座多数の者の乗り込んだ第三救命艇は途中迄は降りたが吊縄の故障の為め宙ブラリンになつて水面に届かない。気の焦せつてる水夫は片側の吊縄を切り放つたから艇体は片曲りした儘三四十名の男女を乗せてザブンと許り水中に沈み込んだ。再び浮き上る端艇(ボート)には多数の者が必死となりて縋り付くので、艇体は再び沈没し掛ける。無惨な荒くれ水夫共は鉈の様な櫂の刃を揮つて縋り付くものゝ手首を切り放つた。

暮景よりの強風で浪は漸く荒くなる。とめ女と久保支配人は端艇(ボート)の縁に向ひ合せになつて囓り付いて居る。「とめ、手を放しては駄目だゾ」と云ふ久保支配人の一言が必死となつてるとめ女の耳に徹する。とめ女は渾身の力で端艇(ボート)の縁に喰ひ付いて居る。久保の左の手には妻女ヘレンが抱き込まれ、ヘレン夫人は更に当時二歳の一子保を諸手で抱き込んで居たが、小山の様な浪がザブン〳〵と捲き返す中、力の尽きた久保の右手は自然緩みが出来たと見え、妻女ヘレンは水面に顔を漬けた儘五六尺の距離に放れて行き、人形の様な保は仰向けになつて母体の傍(かたわら)に付き添ふて居る。久保は手を延べて再び抱へ込まうとしたが、最早力が尽きて手が届かなかつた。日独結婚の親子三人は斯くて波のまに〳〵永久の別れとなつたのである。

久保支配人の妻女ヘレンは独逸人であつた。独逸各地での興行は何時もヘレン夫人がとめ女を同伴して興行契約を取り極めて来た。開戦後無事瑞西を通過し得たのも独逸人たる彼女のお蔭であつた。とめ女曰く「ヘレン小母さんは全く日本人の様な人で、随分勝気で辛抱強い人だが、他人には何處迄も親切で、母親のない私などは思ひ懸けないお母さんに出逢ふた積りで居たのでした」と。

大正7327日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(六)

  悲運のドン底 独艇に救ひ上げられた一行九名

大波が頭上から一カブリした折、久保支配人は端艇(ボート)の縁で胸を打つて気が遠くなつてると、二三間先きにヌッと艇身を現はした鯨の様な独潜艇が夜目にも瞭(あきら)かに目に映じた。「非戦闘員だ、助けて呉れ」と我れ知らず独逸語で叫んだ處、艇上の黒い人影が頻りに縄を投げ出してる様に見える。「有り難い、助けて呉れるのだな」と思ふて一生懸命其縄に取り付いた迄は知つて居るが、後は全く人事不省に陥つて居た。暫らくの後蘇生して気が付て見ると、自分は何時か以前のバルボス号の船室に横(よこた)はり、身には独逸の水兵服が纏はれて居た。傍に居る一行中の若い者権次郎に聞いて見ると「捨吉、辰五郎両名とヘレンさんと坊ちやんは遂に行方不明になつたが、残り九名は無事本船に収容され、とめ女も其處に寝てる」と云ふ。

独潜艇は其際如何な意向であつたかは判らぬが、一応バルボス号の船内を捜索し、戦闘員を捕虜とし、貴重品や武器弾薬のみを鹵獲して後、本船の撃沈を見合せとした許りでなく、再び非戦闘員を収容乗船せしめて、アレキサンドリヤ行の航海継続を許す事となつたのである。海上遭難当時、気の確(たしか)だつた者の目撃談に據ると、独潜艇は海上から半ば溺死の遭難者を拾ひ上げて後、人工呼吸や種々の応急手当を加へ、濡れた衣類は悉く脱がせて乗組水兵等の乾いた衣類を与へて呉れ、其手当の親切で且行届いてる事は一言の申分なかつたが、但し潜航艇上に救ひ上げられて後も、人工呼吸で蘇生の見込みなかつたものは其儘再び海中に投じて水葬に付せられたと云ふ。

とめ女は其折端艇(ボート)の縁に縋り付いて、二三十分程藻掻(もが)いてる中、何時の間に息が絶えて居たが、一行中の若い者に拾ひ上げられ、久保支配人と前後して独潜艇に収容されて後、再び本船バルボス号に移されたのであつた。「ヘレン伯母さん」に親しみを持つてるとめ女は曰く「独逸の潜航艇は乱暴な様にのみ言はれてるけれど、さうとばかりは限りません。あんな波の荒かつた時、私共を助けて呉れるにだつて容易な事ではなかつたでせう」と。

救はれた一行九名は斯くて無事アレキサンドリヤに向け航海を続けたが、久保支配人は大浪の中に藻掻(もが)き廻つて[る]中(うち)、上着もズボンも脱ぎ捨てた為、三四千円余りの現金や銀行手形は悉く海中に紛失したので、着のみ着の儘の一行は是から先き一層と困難と闘はねばならなくなつた。

大正7328日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(七)

  埃及を襲ふ空中の怪 潜航艇より恐ろしかつた飛行機

アレキサンドリヤに帰着した一行は郵船八阪丸に乗船の予定だつたが、其八阪丸は独潜艇の為め真ッ逆立となつて海底に沈められた。尤も八阪丸に此遭難がなかつたとしても、着のみ着の儘の一行は船賃の補助か立替へをして貰はぬ限り乗船帰国の見込はなかつたのである。

「どうせ斯(こ)う云ふ破目になつた以上、他の厄介にならうと思ふな、一同で生命のあらん限り働け」と云ふので、一行九名は思ひも懸けぬ埃及内地の旅興行を始める事に決心した。アレキサンドリヤを振り出しとして、カイロー、ポートサイドからサワラ沙漠迄深入りして興行を続けたが、今となつては衣裳も道具も皆無な為め、已むなく「活惚」や「日本柔道」の型を見せて其場々々を胡麻化したが、幸ひ当時の埃及各都市には英仏軍隊出動の折とて、芸は不揃ひだが収入は意外に多く、殊にとめ女が旅興行中に覚えたトーダンスは何時の間にか立派な修業を積んで居たので、到る處で大喝采を博した。

只此興行中独逸飛行機の襲撃頻々たるには一行の連中も少(すくな)からず弱らされた。中にもカイロー興行中の如き、連日絶え間なく独機の襲撃あり、ポートサイドの方から羽を拡げて来た怪鳥は一旦カイローの町を東の方に飛び越し、頓(やが)て市外の辺から楫を曲げて逆行して来たかと思ふと、先づ第一には英軍司令部、次ぎに埃及政庁、第三に聯合軍火薬庫と、判で捺した様な順序で爆弾を投下して行く。プロペラーの音がすると、在留英仏人は蒼白(まっさお)になつて慄(ふる)へ上がり、気の弱い婦人共は少しの物音にも飛び上がる程神経過敏になり、遂には犬猫迄が悲鳴を発して怯え上がると云ふ始末であつた。然るに同じカイロー市内でも土耳古種族に属する埃及土民等は独飛行機の襲来と聞くや、老幼悉く戸外に走り出て、歓呼喝采して之を歓迎すると云ふ有様。とめ女曰く「潜航艇の折は左程でもなかつたが、ソラ飛行機と聞くと生きた心地がしませんでした」と。

大正7329日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(八)

  奇怪なる独探の魔手

カイローは独探の巣窟だ。久保支配人ととめ女は日常の会話に独逸語を使つて居たゝめ此一行のカイロー滞在は少からず独探連の注意を惹いたものと見える。一日迂散臭い独逸人が久保を訪問して来て紙幣束で頬ベタを叩く様な談話(はなし)をし懸け、「実は英仏両国人の間には漏れなく手が行き渡つてるが、日本人のみは誰一人連絡を取つて呉るものがない」と、そろ〳〵地色を顕しての相談となる。「其處で君が若し日本汽船の発着を正確に知らして呉れるなら、手金として一万五千円程送呈し、後は成功謝金として相談を取り極めたい」と云ふ申込み。久保は皆迄言はせず椅子を蹴つて立上つて「他国人はいざ知らず、日本人には自国汽船を沈没させ様とするものが断じて一人もない、最(も)う一言云ふて見い、貴様の生命は危いぞ」と怒鳴り付けたので、件の独探も久保の権幕に恐れて悄々(しおしお)其處を引き取つた。

日本汽船は恁麼(こんな)始末で、ポートサイドやアレキサンドリヤには寄り付かない。

兎角する中、大正五年は空しく暮れて大正六年も最早半ば過ぎとなつた。長年月の困難に辛抱がし切れなくなつたと見え、一座中の貞雄、勇、権次郎三名は逃走する。かめ女が悲劇の仇敵だつた瀧太郎も続いて逃走する。後に残つたは久保ととめ女と三平(青木)、かよ(西村)の僅か四名と云ふ心細い一座になつた。人数は少くなつたが、其代りには協力一致の精神が強くなり、「一日も早く旅費を蓄(た)め日本に帰らう」と云ふので、四名のものは傍目(わきめ)も振らず辛抱した。

幸ひ十月初旬(大正六年)に至り御用船阿波丸のポートサイド寄港あり、同船に便乗してた一武官の厚意により一行四名は漸く阿波丸便乗を許された。久しい間辛抱して貯めた金と興行に使ふた猿二匹、犬六匹と玉乗り道具、水芸道具其他ダンスの衣裳等一切を売払つた處、四人分の船賃五百六十円を支払ふて尚幾分の余裕があつた。一行は十月五日阿波丸甲板上に立つて、一年余りの困難を重ねた埃及の空を見返つた。



misemono at 10:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末 

資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末(二)


大正
7717年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (一)十歳と八つで漂浪(さすらい)の旅へ

曲芸団青木一座 十六年振りの久保 十年目に帰国のとめ子

大正三年の春、失恋の悩みに堪へかね、伊太利ゼノアで蕾の花の十五を一期に拳銃(ピストル)自殺を遂げた「日本娘」がありました。この可憐の少女は日本娘曲芸団青木一座の花形で、名を青木かめ子と申しました。一座の太夫元であつた広島市中島新町の久保卯三郎(三十八年)、死んだかめ子の妹分であつた東京生れの青木とめ子(十七年)の二人は欧州各地の巡業中、戦乱の渦中に巻込まれて一座四散の其中に、僅かに無事なるを得て、久保は十六年振り、とめ子は十年振りで、本年の初夏、懐しい故国の土を踏んだのでした。

遺産の拳銃が緒(いとぐち) 実母から太夫元へ 遺産問題の訴へ

二人が日本に落付くと間もなく、自殺した少女かめ子の実母奥村いとから故かめ子の遺産問題で面倒な嫌疑をかけられ、先月の二十八日と本月の三日、二人は広島地方裁判所草光検事の取調べを受けました。久保の答弁は「憐れなかめ子に若し遺産とでも名付けるものがあるなら、それは少女が自分の胸を射抜いた拳銃一梃、只夫れだけでせう。委細は羅馬の日本総領事館へお問合せになれば判然しませう」と何等の蟠りを見出さなかつた。問題は恐らく一種の誤解として直ぐ解決されるでせう。裁判の是非、黒白は別問題とし、茲には此の最近の出来事を端緒(いとぐち)に、過去の記憶を手繰り寄せて、恋の日本娘かめ子の哀話を中心とした、久保並にとめ子の悲しい思ひ出を記して見ませう。

一座の花形少女 肉身も及ばぬ 仲好しお姉妹

東京浅草の青木曲芸団一座は欧州巡業を計画しました。一座は青木辰五郎、同瀧太郎、同次郎の青木三兄弟にかめ子、とめ子の少女二人其の他を加へて玉乗りと軽業を興行して廻るのでした。一座は櫛引氏支配の下に、今から九年前の千九百九年愈(いよいよ)出発の途に就きました。一座の花形かめ子ととめ子は義理の姉妹でした。姉のかめ子はその時分十歳、とめ子は八歳、二人共ふつくらとした双頬に笑陥(えくぼ)を見せた姿は「まあ何て可愛いお嬢さんでせう」と、事情(わけ)を知らぬ人目には見えたでせう。

小鳥のやうに楽(たのし)く 暗い過去から逃れて 外国へ旅立つ嬉しさ

が、二人の少女(おとめ)は物心を覚える時分から軽業や曲芸で小さい心を恟(び)く付かせたり、膏汗に背をビッシヨリにした経験しか持つていませんでした。薄命な世間に包まれていたのでした。けれど何といつても十歳と八歳の小娘のことです。叔父さん達に連れられて、これから物珍らしい外国へ旅立つといふ嬉しさの為、甲板の上を小鳥のやうに生き〳〵と跳ね廻つているのでした。美しい瞳を輝かして故国の山を眺めているのでした。

産みの母との離(わか)れ かあさま達者で帰つて一緒に暮しませう

出航に最(も)う間もないその時、姉娘のかめ子は突然、嬉しさうな叫び声を揚げて駆け出しました。甲板の端に窶(やつ)れた女が一人、青木一座の者に気を兼ねて慎ましやかに控へていました。夫れはかめ子の産みの母親奥村いとでした。腰に纏はられている実の娘にさへ何處(どこ)か遠慮するやうに母親は涙ぐんでいました。「かあさま、待つていて下さい、達者で帰つて来たら一緒に暮しませう、母(かあ)さまと一緒にね」。十歳にしてはませたかめ子の口の利き方が一座の人々をして顔を反向(そむ)けさせました。母親をホロリとさせました。そして終(しま)ひには理由(わけ)もなく小娘二人を泣かせました。斯(こ)うしてかめ子の小さい胸には実母との悲しい離(わか)れを強く〳〵刻み付けて船は欧州に向けて日本を出航したのでした。

印度洋の甲板で お月さまを眺めて抱き合つた二人

船は穏かな航海を続けました。可憐の少女青木かめ子は実の母親恋しさに、銀鏡のやうなお月さまが照る印度洋で、独りシク〳〵甲板の上で泣いていることもありました。何時の間にか義姉思ひのとめ子はソーツと其の後(うしろ)から近寄つて、「姉さま泣かないで頂戴、姉さまが泣くと私も泣きたくなるわ」。二人はひしと互に抱合つて、「最(も)う屹度泣かないこと」。斯(こ)んなに言ひながら舞台で踊るやうな足取りをして、船室の方へ駈け込んだ、といふやうなこともありました。一座は無事目的の英国に着いて、千九百十二年、日英博覧会の余興を了(お)へ仏蘭西に渡りました。そして丁度其の地へ或る事業計画の為、来合せて居た久保卯三郎氏の手へ、櫛引氏から一座の支配(マネージ)が移されまして、茲に日本娘曲芸団青木一座は太夫元久保氏の手で欧州各地の巡業に取掛りました。

大正7718年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (二)太夫元久保は如何(どん)な男

金牌付きの煎餅 一座の新太夫元 久保は如何な男

一座の新太夫元久保卯三郎といふのは如何な男でしたらうか。是れより先き北米ポートランド博覧会(編者註:明治38年開催)へ煎餅を出品して金牌を授賞された日本人があつて、世間の評判に上りました。此の男が誰れあらう久保でした。久保は先祖代々茶商を営み、故国の日本では可成りに手広く商売をしていましたが、当時二十二歳、溌溂たる青年の彼れは、海外飛躍の雄心勃々として押へ難く、今から十六年以前、錫蘭茶(セイロンティー)など研究の上、北米に渡航しました。そして少なかなぬ金を儲けたのでした。

青木 004

金髪碧眼の妻 巴里で計画の久保の事業 

千九百十年即ち明治四十四年(ママ)の夏、久保は仏蘭西へ渡りました。目的は例年の夏、巴里ヂヤルダン・ダアツクリマタシヨンで開かれる避暑地の催しに、日本風の瀟洒たる建物を拵へ、其處(そこ)で彫刻とか焼物とか、例の煎餅喫茶店などを設け、その上日本固有の踊り、曲芸などを興行しやうといふのでした。計画は着々と捗つて行きまして、態々日本内地から呼び寄せた大工の手で日本風の家屋も悉皆出来上つた時分、不運にも降り続く雨の為に洪水があり、家は流れる、設備万端滅茶々々に成つて、折角の苦心も水泡に帰しました。久保は失敗に屈せず、翌年規模は余程最初の計画より小さいものでしたが、兎も角目的通りのものを作り上げました。丁度その時仏蘭西へ渡つて来た青木曲芸団一座に出会つて櫛引氏から其の支配権を譲り受けたのでした。久保にはポーランド人アントソコロフスキーの愛嬢ヘレン(二十六年)といふ金髪碧眼の妻があつて、二人の仲には保(四年)といふ可愛い男の兒まで挙げていました。

三つの曲芸団 欧州の天地では巾を利かした

その当時欧州各地を跨(また)にかけて巡業していた日本曲芸団には三つの団体がありました。久保の青木一座(座員八名)、横田組(二十余名)、小天一奇術一座(六名)が夫れで、何れも花形として日本娘が愛嬌を振り蒔き、欧州大乱勃発前までは各国都市の劇場やルナパークで外人間に好評を以て迎へられていたものでした。ですから旅から旅へ漂泊(さすら)ふ彼等日本娘の一座は中々どうして物質的には豊富な、むしろ贅沢な位です。

大きく美しく 愉快に二人は生ひ育つた

異国の物珍らしさと変化の多い生活振りとが二人の姉妹を生き〳〵と小鳥のやうにさせました。そして二人とも段々と大きく、美しくなつて行きました。他の芸人と一緒に姉妹娘は毎日朝稽古を励みます。夜になつて舞台に登る前には念入りのお化粧に取りかゝります。頬紅を思ひ切つて沢山差して置くのです。是れは六ケ敷い軽業中、苦しさを堪へ忍ぶ時に、次第に紅潮して来る顔色を観客(けんぶつ)に隠さうといふ心尽(こころづか)ひからでした。姉のかめ子は梯子の先端(さき)で危い芸を打つのが十八番でした。妹のとめ子は玉乗りでお愛嬌を振蒔いていました。

大吹雪の中を 大晦日から元旦へ 劇場へ乗込んだ

巡業の折々、斯んな忙しさもありました。大正元年十二月三十一日、大晦日の晩など青木一座は独逸ヅツセルドルフの興行を打揚げるなりハンブルクへ向けて出発しました。元旦は列車の中でお祝ひして、元日の夕暮ハンブルクに着いた時には大雪でして、霏々たる大吹雪中自動車を駆つて劇場に乗り込み、その夜(元日)初日の蓋を開けました。又或る時は観覧の高貴の方から姉妹二人に握手を賜ふた光栄もありました。かめ子は毎月十円宛母の許へ送りました。そして旅から旅へ移り行く毎に実母へ宛てて綺麗な絵葉書に優しい思ひを述べた消息を怠りませんでした。

大正7719年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (三)独逸で思ひそめた初恋

女らしく大人びて かめ子は最(も)う十五歳であつた

一座は仏蘭西から白耳義を経て独逸に渡り、千九百十三年の夏には首都伯林で興行に取り掛りました。かめ子は最(も)う十五歳、十分に発育した身体は豊麗な肉付と共に年齢よりはずつと大人びて、一人前の女らしく見えました。丸ぽちやの西洋人的型の美人として一座の人気を一人で背負つて立つて、其の上にこの美しい日本娘が梯子の先端(てっぺん)で演ずる危(あぶな)かしい芸当が又ずば抜けたお手際だつたので、全く一座の花形として非常な好評を博したのでした。かめ子は飽くまで華やかにてきぱきと、時にはオキヤンな位に振舞つて、少女の生々しさが身体中に漲つているやうにみえました。

危く舞台で過ちを仕出かし兼ねぬ 少女が恋の悩み

ところが伯林の興行最中から、あれ程活発であつたかめ子の素振が段々と憂鬱に傾いて、何か物思ひに沈んでいるやうな、又時にはソワ〳〵と落付かぬやうな、変な様子に変つて行つて、果ては一座の人々にさへ怪しまれるほどでした。のみならず肝腎晴れの舞台に於いてさへ、これまで大胆と巧妙の喝采を博していたあの芸当が、まあ如何でせう、或る晩など危く梯子の上から滑り落ちんとして、一座の座員にハッと吐胸(とむね)を息(つ)かせ、観客(けんぶつ)を思はずハラ〳〵させた位でした。太夫元の久保はその夜かめ子を膝下に呼び寄せ、物柔かな調子で心に秘めた悩みを一切打ち明けるやう諭しました。「免(ゆる)して下さい……、御心配をかけて済みませぬ〳〵」とかめ子は涙ながらに其の場で胸に燃ゆる初恋の一切を打ち明けたのでした。

恋男の渡辺哲二 芸術家肌の放浪日本青年

かめ子の恋人、それは白耳義のアントワープから久保がわざ〳〵呼び寄せて舞台衣裳の刺繍(ぬいとり)を遣らせていた渡辺哲二といふ日本青年で、房々とした頭髪(かみ)を毎(いつ)も綺麗に手入れした色白の美男子でした。渡辺はずつと以前から故国の日本を飛出して欧州各国に放浪の旅を続けている芸術家肌の男でした。かめ子は渡辺が一座して以来、旅芸人のうら淋しい少女(おとめ)心に初心(うぶ)な初恋を胸中深く秘めて、異郷の旅から旅へ、嬉しいやうな悲しいやうな物案じに悩んでいるのでした。浮世の酸いも甘いも噛み分けた久保は哀れな少女の恋を成立たせてやらうと尽力しました。そして二人は許婚のやうな仲になりました。かめ子は再び生れ返つたやうな生々した娘に返つて楽しい巡業の旅を続けて行きました。

青木 006

舞台で結婚式 列席した二人は未来の幸福を夢みて

かめ子が渡辺と楽しい恋に酔うている其の頃でした。丁度伯林のハーレンヂルナパークで興行していた小天一日本奇術一座の松浦といふ座員が矢張り同じ一座の女奇術師月子といふ若い女と結婚するに就いて、ほんとうの三々九度の盃をご見物衆を前に控へた舞台の上で遣つて見せることになりました。「日本の結婚式」といふのが大層な評判になつて、当夜は宵の口からギッシリ満員の素晴らしい景気でした。花婿は紋付羽織袴、花嫁は高島田に結ひ上げ、裾模様、丸帯の盛装、島台に男蝶女蝶の銚子、式(かた)の如く「高砂や」の蔭謡曲にほんものゝ結婚式が舞台で見事遣つて除けられたのでした。見物の独逸人達は「幸福なれ、若き日本の芸術家よ」などゝ口々にお祝ひの辞を浴びせかけ、小屋中沸き立つやうな人気でした。かめ子も渡辺も此の結婚式中のあるお役目を承まはつて、舞台の人に立つていました。そして此の幸福らしい花嫁花婿の三々九度に列席しながら、かめ子は絶えず渡辺と顔見合せては隠し切れぬ微笑(ほほえみ)を口元に湛へているのでした。「最(も)う直(じ)きです、私達の斯(こ)うした幸福も……」。かめ子は華やかな未来を胸に描いて、両の眼はいやが上にも麗しく輝くのでした。

大正7720年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (四)相携へて古都羅馬を

伝説「羅馬の狼」 恋人同士二人で楽しい古都見物

青木 005一座は伊太利の羅馬へ乗込むことになりました。丁度その前日、座員某しの妻がお産の為に入院していた巴里の病院から無事出産の通知があつたので、その方へ人手を取られ、一座の出発を一日延期しました。かめ子渡辺の二人は久保の勧めに依つて羅馬へ向けて先発しました。是れは若い恋人同士二人切りで自由な楽しい一日を古都羅馬の見物に過させやうといふ久保の粋な図(はから)ひなのでした。羅馬へ先着したかめ子と渡辺は、街の市役所前に飼つてある狼を見ました。そして一頭の牝狼が人間の赤坊二人に乳を呑ませている石像……それは「羅馬の表徴(シンボル)」……の絵葉書などを買ひ取りました。「羅馬と狼」此の二つは羅馬市の名高い伝説でして、マーズ神と巫女リーとの間に出来た双子ロミユラス並にリーマスが国王の命に依つてタイバー河に投げ込まれました。ところが双子を入れた箱が河岸(かし)に流れ付いて、牝狼の乳房によつて育て上げられ、ロミユラスは後に羅馬市を創建した英傑になつたといふのです。

月光を浴びつゝ 二人はいろ〳〵と互に語り合つた

縁起を殊の外八釜しくいふ芸人仲間では狼のこの伝説が一種の信仰のやうに重きを為していて、羅馬に乗込む芸人は何はさて置いても先ぐ茲へ見に来る習慣だつたのです。その晩二人は羅馬の街をそゞろ歩きしながら、許婚の若い男と女が味ふやうな甘い歓楽に酔うていました。月が素的に好かつたので、二人は郊外に自動車を駆りました。遠い故国のこと、帰朝後の楽しい夢、未来の計画など話題は夫れから夫れへと尽くるを知らない有様でした。話しは何時しか「羅馬の狼」の上に移りました。

「かめ子さん、馬鹿々々しいですね、あんな狼が居たなんて、如何に紀元前だつて人間の双子を狼の乳で育て上げるなんて……」「あら渡辺さん、どうしてそんなこと仰(おっ)しやるの、さう云ふ狼も居たのですよ、私屹度居たと信じますわ」「あなたも中々空想家、……ぢやなかつた、詩的な方ですな、あれはほんの作り譚(ばなし)ですよ」「どうしても作り話でないと承知なさらないの、では作り事でも好いぢやありませんか、恐ろしいものと極(き)めてある狼が赤ん坊に乳を呑ませて、その赤ん坊が羅馬の王さまに成るなんて、実際好い話だわ、ほんとうに好きな話だわ」「左様、偶(たま)には天女のやうな狼があつても悪くは無いでせう、世間の狼といへば赤ん坊どころか美しい女まで喰ッちまひますからな」「あら、そんな厭なことは言ひつこなしにしませう、私達が斯(こ)んな幸福な時に……」「如何にも、だが大分遅くなつたやうです、ぼつ〳〵帰りませう」

月に照された男の顔には冷酷な影が現れていたのをかめ子は気付かなかつた。今しがた会話の、最後の一句が何だか心の奥底に引かかつているやうに感じながらも。

巴里病院の赤坊 かめ子の胸中には心配の種が潜んで

ホテルに帰ると一座の者は既に到着していました。そして茲で赤ん坊(巴里の病院で生れたばかり)の話しで持ち切つていました。「確かに男の兒だと、巴里の病院から通知があつたので、駆け付けて見ると女の兒なんです。いや其女の兒は元より日本人ですとも、夫れに母親にそつくりなんですから……、大丈夫本物でせうよ、だが全く油断はなりませんよ、巴里の赤坊摺替へは最(も)う小説の題材にまでなつているのですからな」

その晩一座の者は皆愉快に語り合ひました。かめ子は「羅馬の狼と赤坊」の伝説と巴里の赤坊摺替への実話とを考へて、夜遅くまで寝付かれませんでした。かめ子は情人の胤を宿しているのでは有るまいかと不安と恐怖に胸を痛めていたのでした。

大正7721年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (五)ライプチヒ停車場(ステーション)の悲劇

古都羅馬の楽しかつた一日に、一点の汚点の如く、かめ子の心を曇らせた情人のあの厭な言葉が其の儘悲しい結果をかめ子の上に持ち来しました。渡辺は心強くもかめ子を後に伯林からライプチヒへ去つたのでした。そして再び帰つて来る様子は更に見えませんでした。かめ子は物足らぬ淋しさに其の日其の日を送りましたが、決して失望はしませんでした。渡辺を堅く々々信じていたのですもの。一座はやがて伯林の次ぎ興行地ブロンサイを打ち揚げて墺多利のリンツへ乗込むことになりました。途中列車がライプチヒを通過するので、久保は渡辺とライプチヒ停車場で会つて正式にかめ子との縁を取極めて終ひたい、「彼の女に対する愛情が今も尚ほ変らぬものなら同停車場まで御足労を願ふ」といつた意味の手紙を渡辺に宛てゝ投函して、一座は出発したのであつた。列車は轟然たる響きと共に刻々恋の少女の運命を決すべく進行した。そして華やかな内にも一種不安の気を交へた雑々(そうぞう)しさの間に列車はライプチヒに着いたのでした。

離(わか)れの手紙 二人は縁なきものと諦めて

けれど其處(そこ)には渡辺らしい影は見当りませんでした。かめ子の顔色……次第に青褪めて行く其の顔色を見て、一座のものは居堪まらぬやうな哀れさに、血眼になつて渡辺を捜しました。「時間を間違へたのであらう、屹度さうだ」。久保は保証するやうに言つて待合室に腰を卸しました。一座のものは終日無情な男を待つたのでした。が渡辺は遂に姿を見せませんでした。そして其の代理といふ男が一通の手紙を持つて来ました。久保は取る手遅しと開いて見ました。皆は息詰まるやうな緊張を以て耳を傾けました。取り分けかめ子には生命までと思ひ込んだ情人からの最後の通知、諾か否か、彼の女は耳の端で警鐘を乱打されるやうな響きを感じました。

過日来度々のお手紙に依りまして御心尽しの程は有難く了解いたして居ります。かめ子と私、二人は永久に縁(えにし)なきものと諦めるやうお伝への程お願ひいたします。嘗て月の夜、私は羅馬の狼に就いてかめ子と語り合つたことを覚えています。かめ子は実際「伝説の羅馬の狼」のやうに慈愛に充ちた純なる少女です。私は「只の狼」です。残忍な野獣です。かめ子と結婚することは私の身に取つて望外の幸福かも知れません。けれども私は力強い何者かゞ私を命ずるまゝに彼の女と永久離別の辞を茲に申し上げます。私は貴殿に会ふべく……幸福の方へ進むとは全然反対の方角へ……不幸と放浪の旅路へ既に出発しました。運命は残酷な野獣です。おさらば。最後に一座の幸福を祈ります。渡辺生/久保様。

停車場の悲劇 人目も恥ぢずワッと泣き崩れた

「あゝ私はあの人に捨てられた」。かめ子は胸も張り裂けさうな悲しみに、人目も憚らず雑沓の停車場待合室でワッとばかりに泣き崩れました。雲山万里の異郷に無情の恋人を慕うて泣く。旅芸人の懊悩(なやみ)、見るも可憐(いじら)しいかめ子はまだ十五である。泣き伏した姉を慰め励(いたわ)つていた妹のとめ子も果ては姉に負ひかぶさつて泣いた。ヘレンも泣いた。一座の者も瞼を濕(ぬ)らした。久保も思はず眼鏡を曇らせたのでした。千九百十四年(大正三年)の春とは言へどまだ薄ら寒い時候であつた。途中思はぬことで時間を潰した一座は愚図愚図していては次興行の間に合はぬので、一場の悲劇を跡にライプチヒを出発しました。

味気ない生命 かめ子は寧ろ冷然として見えた

憐れや初恋に破れ、生命と頼む情人に捨てられたかめ子は如何(どん)なにか浮世を味気なく暮したでせう。華やかなるべき少女の生活も、彼の女に取つては遠い〳〵沙漠を旅行く絶望的なものに相違なかつたでせう。けれど久保を始め一座の人々が心配していたとは予想外にかめ子は悲しみませんでした。何處(どこ)かに決(きっ)と覚悟した、あきらめとでもいつたやうな淋しい微笑さへ湛へて、二度と無情な男に就いては話しませんでした。折に触れとめ子が慰めやうものと、若しか渡辺のことでも言ひ出さうものなら、「最(も)うあの人に就いては言ひつこなし、いつか汽船の上でお母さんのことでお約束したやうに、二度と言ひつこなし」。かめ子は斯(こ)う言ひ切つて寧ろ冷かな態度を示すのでした。

魂の抜け殻を 恩愛の枷に縛られて

久保も一座の者もやつと安心したやうに胸撫で卸すのでした。かめ子は懸命に舞台の上で勢を出しました。あの初恋の当時、見物をハラ〳〵させたやうな危気(あぶなげ)は微塵も見出されないのみならず、時には捨鉢かと思はれるほど、大胆に而も手際よく遣つて除けて、見物は元より一座の者さへ舌を巻かせた位でした。かめ子は果してサラリと諦めたのであらうか。舞台に依つて苦悩を忘れやうとしたのであらうか。否や否や決して然(そ)うではなかつた。かめ子の初恋はそんな浅いものではなかつた。かめ子には恩を受けた一座といふ枷があつた。故国には指折り数へて待つ実母が居た。彼の女は魂の抜け殻のやうな身体を本意なくも永らへているのでした。

大正7722年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (六)彼の女は遂に逝いた

お月見に附合つて ゼノア市中の春の夜の賑ひ

千九百十四年(大正三年)の春、故国の日本では桜が真盛りと思はれる頃、青木一座は四月十九日ゼノアへ乗込みました。翌日初日を出さうといふのでホテルに落付いた一座は旅の疲れにその夜は早く伏床へ就いたのでした。

「とめちゃん〳〵」と夢幻(ゆめうつつ)の裡に誰れか我名を呼ぶ声に、とめ子は偶(ふ)と目覚めたのでした。見れば其處(そこ)には真白な服を肌に纏うて麗しく化粧した義姉のかめ子が立つていました。

「どうしたの、姉さま……」まるで女神のやうな美しき其の姿に目を見張りながら、とめ子は跳ね起きたのでした。

「お月見をしているの、私一人では物足りないので誘ひに来たのよ、付き合つて頂戴……」

かめ子の様子は其の夜の月のやうに穏かに落付いていた。姉妹はホテルの露台に出ました。まあ何といふ美しさでしたらう。ゼノアの街は春の歓楽に酔ふ市人の賑ひで、お祭のやうに一杯の燈火でした。そして月の光が夢のやうに街を包んでいるのでした。

あゝ羅馬の月は 永久に忘れぬかめ子の涙

「好い晩ですことね、ほんとうに好い晩だわ、姉さま御覧、あの街の燈を、そして又お月さまの好いこと」

かめ子は黙つて遠く空を眺めていました。その大理石のやうな冷たい頬には涙が一筋流れていました。

「とめちやん……日本の東京はあの辺でせうか……」

「嬉しいですわね、私達も此の秋(十一月)には日本へ帰るのですから、姉さまの母さまはさぞ待つていらつしやることでせう」

「羅馬は、羅馬はあの辺だつてことね、あゝ羅馬の月は好かつたわ、忘れられない、私には忘れられない……」

かめ子は涙の面を妹の胸に押し当てゝ、今まで耐へに耐へていた悲(かなし)みを思ふさま泣いて〳〵泣いたのであつた。かめ子は其の晩真夜中に自殺したのでした。

白百合が暴風雨に倒れたやうな彼の女の最期

四月二十日の午前四時頃、轟然一発、拳銃の響きに一座の者が駆け付けた時には、あな無惨! かめ子は見事心臓を射貫いて寝台の上に横(よこた)はつていました。身には純白の衣装を付けて流石に少女心の死出の旅路へと、念入りのお化粧を施していました。彼の女の最期は微笑さへ口元に湛へて、何等苦悶の影を見出しませんでした。丁度夫れは野の白百合が暴風に倒れたやうな、悩ましい内にも又艷なものがありました。真実、恋に破れた憐れな少女は天国の愛に抱かれたやうに見えました。彼の女は左の手に堅く〳〵一通の手紙を握つていました。夫れは故国の実母から最近かめ子に送つた手紙でした。

一筆申しあげ候。日本では最(も)う桜の花がほころび初むる好時節と相成候。御地にても国こそ変れ定めて春めきしことゝ存じ候。私ことも無事息災に暮し居候。これもそなたが孝行のお蔭と嬉(よろこ)び居り候。十年振りにてそなたの達者な顔を見るのも此の十一月と承はり、今から指折り数へて相待ち居り候。この間お送り下され候写真を近所の人達に見せ候ところ、皆大層美しく成人なされたと褒められ、お世辞とは存じながらも心嬉しく存じ候。呉れ呉れもおん身大切に。尚ほ久保さま始め皆々様によろしくお伝へ願ひ上げ候。母より/かめ子どの

独艇に襲はれて 久保の愛妻ヘレン等の死亡

かめ子の死骸はゼノア郊外カンポ・サントーの墓地を選み、小高い丘の中腹に手厚く葬りました。茲は世界第一との評判ある有名な墓地でして、昔から偉人傑士の霊が眠つていることころなのです。「恋に死んだ日本娘」の霊に対して久保始め一座の者は神の御手の触れんことを祈つて又旅興行に出かけたのでした。一座は其の後地中海で独艇に襲はれて、久保の妻ヘレン、愛兒保、其の他一座の者は溺死して了ひ、久保はとめ子と二人漸くにして故国日本に帰つたのでした。(をはり)


【参考資料】

大正396日 大阪時事新報

独逸の拘禁せる軽業師=興行師奥田辨次郎の話

暴戻な独逸官憲の手に拘禁せられた在独邦人五十余名の中には興行師、芸人が其の多数を占めて居るとの事だが、彼等の多くは露西亜人、独逸人等の興行主の手に買はれて旅から旅へと萍(うきくさ)の如(よう)な生活を続けて行く者であるから、其姓名を調べる事さへ中々困難だが、大阪の興行主奥田辨治郎について欧州に於ける日本芸人の現状を聞くと、東京では江川や青木一座の者が捕へられて居るらしいとの事であるが、何しろ欧米へ行つて居る芸人は大一座のものは一つもない。唯玉乗、軽業といふやうな一座に日本人が交つていると云ふ事は其座を大きく見せる為めの云はゞ装飾で、多くは外人の一座に三々伍々離散しているので、殆んど内地とも交通をしないと云ふ有様だから、斯(こ)んな場合に何者が居るか判らないが、要するに外国人のマネジヤーに買はれている身分だから、約束の日限を勤めねば金を返せと云ふし、又外人の一座と離れては独立の興行は覚束ないから、愚図々々して居るうちに捕へられたものと思はれる。

大阪から彼地へ行つて居る芸人は欧州へは四五百人、米国へは三四百人も居るだらうが、居先の不明な者を除き、秩序立つた者は自分の手では亜米利加へ行つて居るのみだが、彼国で婦人として有名な吉村すての手では岡部座といふのが行つて居るが、之は吉村の甥に当る天下茶屋の田中藤太郎の手で渡欧したもので、それから難波遊連橋の難波福松の手で渡つたのは確か独逸に居た筈で、また独逸連は山本と其妻の小芳の一座も居る筈だから、是等は拘禁せられているかも知れぬが、更に消息がないから不明である。

此間成功して帰朝した上福島の北村福松の手で行つて居る一座もあるが、之は独逸に居なかつたらしい。目下楽天地の余興に出演しているルボーフといふ塞爾維(セルビア)の女は浪花廉之助といふ大阪の曲芸師の女房となつて夫婦共稼ぎで出ているのだが、浪花は久(ひさし)く独逸に居たけれど甘く開戦以前に帰国したのだ。

大正3913日 大阪時事新報

疑問の日本軽業師一行 欧州に在留せるもの十八組

開戦前まで確実に独逸にいた邦人にして開戦後行方不明となつた者のうち其後所在の判明した者もあるが、尚ほ数十名の行方不明者の中には独逸官憲の手に拘禁せられている者が多数あるだらうとの事。而(そ)して拘禁中の大部分を占めていると噂されている日本芸人の一行は未だ今日に至るも独逸に居た者は誰々であつたかと云ふ事さへ不明であるが、今大阪及東京から欧州方面に渡航して現在判明せる芸人は左の十八組である。

▲横田組十二名▲濵村組七名▲山形組五名▲二見組七名▲光田組二名▲山本(鞠使ひ)一名▲荒山一名▲天花組四名▲安藤組六名▲岡部組七名▲両国組七名▲青木組七名▲日の出組三名▲山本小芳組女二名▲花子組(女優)三名▲曾我組二名▲小天二組七名▲福島組四名

合計八十七名であつて、其他監督、舞台係、衣裳方などを加へると百余名に上るのであるが、此等は花子一座の日本演劇を除くの外は音曲、曲芸、手品、曲乗、曲馬など悉く軽業団であつて、此中確かに独逸に居た者は小よし一座位なものだが、同組及び他も悉く開戦以前早くも独逸を逃げ出したらしく、大阪の興行師奥田辨治郎及び難波福松等の許へ一、二消息のあつた所に依ると、拘禁されている者は全く無いらしいとの事で、若し拘禁された者があるとすれば例の浮浪組と称して学生、労働者等の堕落して芸人と為り果てた一派で、所在は勿論姓名さへ判らぬ連中だらうとの事だ。

 


 





misemono at 10:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末 

2016年12月31日

更新履歴(平成二十八年度)一

第一回更新 更新日:平成2811日(金)

あけましておめでとうございます。

 今年も第一、第三金曜日に更新履歴を掲載していきます。

 Philaselphia Museumに仮名垣魯文筆、芳春画で、明治5年に浅草奥山で興行したスリエの曲馬の錦絵(三枚続)があることをyajifun氏よりご教示がありました。それをきっかけに「スリエの曲馬」の絵画資料を見直し、全面的にリニューアルしました。スリエに関する文献資料もずつと心掛けていますが、去年一年、残念ながら新たな発見はありませんでした。よってまだ「草稿」のままにしておきます。

 ついでながら同美術館で、万延元年の豹の新たな錦絵も見つかったので、当「年表」(万延元年・八頁)に入れました。まだまだあるのです。本当に油断は禁物です。

 なお、平成25年度の更新履歴はその役目を終えましたので、一月一日付をもって当「年表」から削除しました。

 今年でブログ人生六年目に入ります。孔子『大学』の「苟日新 日日新 又日新」(苟〈まこと〉に日に新たなり、日日新たなり、又た日に新たなり)を座右の銘に、日々精進し、よりよいブログをめざしてゆくつもりです。本年もよろしくお願い致します。

第二回更新 更新日:平成28 115日(金)

 カテゴリに「八人芸」を追加しました。

 十年ほど前、朝倉無声の『見世物研究』に載る「八人芸」をふくらませて小さな雑誌に発表したことがあります。だからこれは、いわば二番煎じなのですが、それでも発表しておこうと思ったきっかけは、雑誌『趣味』創刊号(水谷弓彦編集・東京神田彩雲閣・明治三十九年六月)に「八人芸 幸堂得知氏談」の記事があるのを見つけたことです。

 幸堂得知といっても、今ではほとんどは知る人もまれですが、天保十四年1843)に江戸に生れ、明治時代を生粋の江戸っ子として生きた人で、文壇の重鎮でした。また歌舞伎その他の演劇に通じ、明治の新聞を調査していた時、あちこちで彼の劇評を見かけ、知らず知らずの内に名前を覚えました。粋と通が着物を着て歩いているような彼が「八人芸」を語っていたのです。さすがにその見るところは的確で、語り口も滋味と富み、これはひとりで読んで終りにするにはあまりにもったいないと、ここ十年の間に見つかったものも盛り込んで、今回あえて投稿した次第です。

 ところで、「八人芸」って何? それは見てのお楽しみです。

第三回更新 更新日:平成2825日(金)

 カテゴリに「資料紹介:活人形の話」を追加しました。

 三世安本亀八の談話です。活人形の作り方の話で、興行年表にはそぐわないので、長く机の奥に仕舞ったままになっていたのですが、前回「八人芸」で雑誌『趣味』を調べていて、これのあるのを思い出しました。

掲載されていたのは雑誌『趣味』第一巻第五号(明治三十九年十月)です。下絵の書き方、材料の木の選び方、乾燥のさせ方、頭、手足、胴の作り方、肉付けの仕方、色付けの仕方、着物の着せ方、人形の取り扱い方等、最初から最後まで活人形の作り方の話で、これ以上はないというくらい詳しく語られています。改めて読んでみて、これもまた活人形の何たるかを知るうえで大切な資料ではないかと思い、今回紹介した次第です。

ついでながら、現在では一般に「生人形」と表記されます。私もそれに従っていますが、江戸、明治のころは、どちらかというと「活人形」の方を多く使っていました。個人的にも「活人形」の方が好きです。「生人形」はあまりにも生々しすぎて、いけません。

第四回更新 更新日:平成28219日(金)

カテゴリ「資料紹介:活人形の話」に、初世安本亀八の談話を追加しました。

雑誌『名家談叢』十二号(明治298月)、十三号(明治298月)、十七号(明治301月)、十八号(明治302月)に「活人形の話」として掲載されたものです。

順序からいうと、こちらが先になりますので、前回の分の上に持ってきました。これで二世亀八の談話があれば全部揃うのですが、明治三十二年七月、四十三歳という若さで亡くなっているので、かれに関する資料はひじょうに少なく、むろん談話も見つかっていません。

明治二十七年三月九日の明治天皇銀婚式に初世、二世、三世の亀八がそろって高砂人形を作り、天皇家に献上しましたが、今回幸いにも二世の高砂人形が口絵に出ており、これで初世と二世の二つが揃ったことになります。こうなれば三世の高砂人形も見つけなければなりませんが、それらしいものはあるものの、残念ながらまだ特定にはいたっていません。

第五回更新 更新日:平成2834日(金)

カテゴリに「資料紹介:パノラマの構造」を追加しました。

 雑誌『名家談叢』九号(明治295月)に掲載されたもので、明治二十九年四月一日より浅草日本パノラマ館で幕をあけた平壌総攻撃のパノラマ画を描いた小山正太郎の苦心談です。明治二十三年五月に開館した上野パノラマ館で、すでに矢田一嘯が戊辰戦争のパノラマ画を描いていますが、上野パノラマ館はその規模が小さく、世界的に通用する本格的なパノラマ画としてはこれが最初です。日本人として初めて手掛ける本格的なパノラマ画、小山がいかに苦心したかは、その談話の中で〝困難〟という言葉を十三回も使っていることからも察せられます。

なお参考として、昭和九年に小山の画塾「不同舎」の生徒たちが発行した『小山正太郎先生』より、パノラマ製作に協力した石川寅治と満谷国四郎の文章を抄録して載せました。この二人は、小山正太郎が手掛けたもう一つのパノラマ画、旅順激戦の製作も手伝っています。こちらは明治三十一年三月二十日より平壌の後をうけて同じ浅草日本パノラマ館で開館しました。

この二つのパノラマ画の報酬は巨額なもの(一説に平壌総攻撃の揮毫料だけで三千五百円)だったらしく、それが証拠に、このあと小山は貧乏生活から脱却し、妻をめとり、大きな邸宅を建てています。


第六回更新 更新日:平成
28318日(金)

カテゴリに「資料紹介:軽業師大浦組」を追加しました。

明治2618日から114日の大阪朝日新聞に五回にわけて連載されたものです。明治十八年から二十年にかけてアメリカへ渡り、軽業一座の興行をした男の失敗と成功の物語です。この手のものはホラが多く、また書き手の記者もそれに尾ヒレを付けておもしろおかしく書きなぐるので、どこまで信用していいかわからないのですが、それなりに得心できる部分もあるので、お話として楽しんでいただければいいかなと思い、アップしました。

第七回更新 更新日:平成2841日(金)

 カテゴリに「のぞきからくり」を追加しました。

 「のぞきからくり」は江戸時代のはじめ、飴売りがおまけとして担いだことにはじまります。やがてプロ集団が生まれ、屋台も大型になり、風景画や夜景を見せる工夫がなされます。それと同時に「八百屋お七」や「お染久松」のような外題物がうまれ、三味線や太鼓で節をつけて唄うようになります。幕末に確立したこの様式は、明治、大正を経て、昭和の五十年代まで命脈を保ちました。昭和二十四年生れの編者はぎりぎりこれを見た(聞いた)世代です。そして今、いったん滅びかけた「のぞきからくり」をなんとか残そうと尽力されている方たちが各地におられると聞きます。なんとも頼もしく、嬉しい限りです。

今回、この懐かしき「のぞきからくり」の変遷を、故山本慶一氏著『のぞきからくり』を中心に、江戸時代だけに限ってまとめてみました。といっても、堅苦しい論考は極力避け、できるだけ見て楽しめるようにしました。どうかお気軽に覗いてみてください。「じょなめけ、〳〵」です。

第八回更新 更新日:平成28415日(金)

 カテゴリに「松旭斎天一談話集」を追加しました。

 明治奇術界の覇者松旭斎天一はたくさんの談話を雑誌や新聞に残しています。天一の話は事実誤認やホラも多く、どこまで信用していいか分らないので困るのですが、それだけにできるだけ沢山の談話を集め、当ブログの「松旭斎天一興行年表」と対照しつつ、虚実を見極め、彼の実像に迫っていきたいと思っています。しかし、翻って考えれば、大ボラを吹き、客を圧倒し、手品をより魅力的に見せるというのも芸人としての真実なのですから、そこはなかなかむずかしいところです。

 今回はその第一回として、大阪毎日新聞の「天一の奇術談」(明治三十三年・全六回)を掲載しました。まだ最初なので、話の内容についてのコメントは控えます。ただ福井県での生立ちに関しては長野栄俊氏の「松旭斎天一と福井藩陪臣牧野家」(「若越郷土研究」562号・平成24年)を推奨しておきます。

第九回更新 更新日:平成2856日(金)

 カテゴリに「資料紹介:猿芝居」を追加しました。

明治4112日から17日の大阪毎日新聞に五回にわけて連載されたものです。

筆者の「雨之助」は本名を山下胤次郎といい、兵庫県武庫郡住吉村の生れ。早稲田専門学校を卒業後、二十二歳のとき雑誌『新著月刊』に「無底沼」を発表、小説家としてデビューしました。しかしその後は目立った作品もなく、明治三十四年十一月、大阪毎日新聞に入社しています。入社後は「雨之助」の署名で「千日前の表面裏面」「楽屋の内外」等、大阪の風俗、芸能に取材した連載記事を多数掲載しました。その内容はいずれもおもしろく、編者も愛読者のひとりでした。しかし残念なことに、明治四十二年十一月十五日、三十四歳の若さで亡くなりました。

第十回更新 更新日:平成28520日(金)

 カテゴリに「資料紹介:猿廻し」を追加しました。

「猿廻し」は明治391016日、19日に大阪朝日新聞に連載されたもの、「猿廻しの生活」は明治4119日から116日の大阪毎日新聞に五回にわけて連載されたものです。

今日では人権的に問題のある記述も多いですが、大阪を中心とした関西周辺の猿廻しの実態が実に具体的に描かれていて興味が尽きません。

文中にもありましたが、猿は「去る」に通じるため忌み言葉とされ、その反対の「得る」より「得手」、さらに親しみをこめて「エテ公」「エテ坊」(単に「ボー」とも)とよぶようになったそうです。また「ヒコ」は猿田彦に由来するとあります。

今の子どもたちはエテ公といっても何のことかわからないけれども、わたしたち世代は漫才の秋田Aスケ・Bスケさんのお蔭で、それが猿のことだとみんな知っていました。「エテ公の子」(いい所の子どもとをかけた)のギャグは大流行し、学校でもよく使ったものです。

猿廻しの中で特に資質のある猿を仕込んで猿芝居に送り込んでいます。前回の猿芝居に登場した猿は、芸名までもつ、いわば猿仲間のスター的存在だったのです。 

第十一回更新 更新日:平成2863日(金)

 カテゴリに「資料紹介:犬の芸」を追加しました。

明治291220日付「時事新報」に「犬の芸」として掲載されたものです。太夫元田嶋寅吉を取材しての記事です。

この記事は阿久根巌氏の『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)の第九章「犬の玉乗り」(122131頁)にすでに紹介されており、二番煎じなのですが、猿の次に犬を出さないのは不公平なので、省略されている部分及び挿絵も追加して再録しました。

現在も「わんわん大サーカス(内田芸能社)」というワンちゃんだけのサーカスがあり、ブランコ、綱渡り、球乗り、縄跳び等の芸をするワンちゃんをテレビ等で時々見かけますが、かれらの身体能力の高さには本当に驚かされます。上述の記事や掲載した絵ビラの内容は決して誇張ではないことはこれを見ても充分に納得できます。

田嶋寅吉は長楽一座を旗揚げし、犬の曲芸で成功したあと、欧米式大曲馬を組織し、日本各地を巡業しました。しかし彼の名もその一座の名もいまやほとんど忘れ去られ、日本のサーカス史にその名が刻まれていないのは残念なことです。

第十二回更新 更新日:平成28617日(金)
  カテゴリ「松旭斎天一談話集」に、雑誌「新古文林」第一巻第五号(近事画報社・明治三十八年年八月一日発行)より、「松旭斎天一の話」(わかば)を追加しました。

これは青園謙三郎著『松旭斎天一の生涯』(品川書店・昭和五十一年)に再録されており、これまた二番煎じなのですが、天一の談話の古典的な位置を占めてきたもので、口絵の写真を追加して掲載しました。前回の大阪毎日新聞の「天一の奇術談」(明治三十三年)より五年後に語られたもので、これも内容的に問題が多々あることはすでに青園氏が指摘されているとおりです。この二つの記録の統合性を探るのが義務なのでしょうが、まだ考証は置いておきます。ただ一カ所、とても感興をそそられた箇所があったのでそれだけ書いておきます。

それは「竹の子の岩吉」のことです。浪花節の起源は伝説の中にあり、実証的な研究をするにも確かな資料がまったくありません。関西の浪花節の祖は浪花伊助で、その弟子に浪花秀吉と吉田岩吉がいたとされています。いや、岩吉は秀吉の弟子だという説もあります。当時は浪花節専用の寄席などなく、殆んどが旅稼ぎです。芸名も高足駄の秀(足なえの秀トモ)とか竹の子の岩吉と綽名で呼ばれ、向う鉢巻片肌脱ぎで、尻を捲くって語っていたといいます。この岩吉が奈良丸に繋がる吉田派の祖とされていますが、阿波か淡路の出身という以外具体的なことは何もわからず、その実在すら疑わしいほどでした。

それだけに天一の談話の中に「竹の子の岩吉」が出てきたのには驚きました。明治維新前後に淡路島の片田村で浮れ節の岩吉の前座を勤めたというのです。綽名で呼んでいることなど、これは嘘(ホラ)ではなさそうです。まったく思いがけないところで貴重な証言を得、浪花節の歴史に一閃の光明を見た思いで、なんとも嬉しいことでした。



misemono at 11:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)更新履歴(明治28年度)