2017年02月28日

更新履歴(平成二十九年度)

第一回更新 更新日:平成29131日(火)

 早いもので、このブログも七年目に入りました。今年はちょっとゆっくりさせてもらって、月末に一度の更新とさせていただきます。

 今月は以下の二つを追加しました。

①明治十九年・八頁 大判錦絵三枚続・梅堂国政画「鳴響茶利音曲馬」(出版人福田熊二郎)。

②「資料集成:明治の千日前」(3334頁)に「千日前の草分婆さん」(大阪朝日新聞・大正7610日~616日・6回)。

①は今年になって山田書店から購入したものです。国政が同じ表題で描いた三枚続(出版人林吉蔵)は多くのところで所蔵されていますが、別のバージョンがあるのを今まで知りませんでした。目録を見てびっくりして直ちに注文しました。刷も綺麗で、自分へのいいお年玉になりました。

②は千日前の開拓者初代奥田辨次郎の妻フミさんの談話です。このとき八十一歳。欲をいえば見世物のことをもう少し詳しく書いて置いて欲しかったのですが、それでも婆さんの写真もあり、奥田席があった場所もはっきりわかり、千日前の地価の変遷も具体的で、千日前資料としては一級品に属するでしょう。

第二回更新 更新日:平成29228日(火)

今月は資料紹介:「青木一座・欧州巡業の顛末」を追加しました。

かつて浅草で全盛をきわめた青木娘玉乗り一座も活動写真などにおされ明治四十年代は解散します。その内の何人かが活動の場を海外に求めて渡航します。その顛末が以下の二つの連載記事で報じられました。

①『報知新聞』・「戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話」(大正7321日~329日・8回連載)

②『大阪朝日新聞』・「恋に死んだ『日本娘』 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話」(大正7717日~722日・6回連載)

かつて阿久根巌氏は『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)でこの記事を紹介し、「青木一座・欧州巡業の顛末」(第11章)としてまとめられました。物語的な要素が強く、資料価値という点ではやや希薄ですが、海外渡航した芸人たちの実情を知るひとつの手がかりにはなると思います。なお資料紹介の表題は敬意を表し、阿久根氏のものをお借りしました。

閑話休題。今年はゆっくりさせてもらうつもりでしたが、丸屋竹山人のブログ「上方落語史料集成」のお手伝いをしているうち、焼けぼっくいに何とやらで、すっかりのめり込んでしまいました。すこし黄ばんだノートなどを取り出してきて、まるで昔の恋人に逢ったような懐かしさにホッと吐息をついている始末です。宿題のまま残してあった上方落語の歴史を今度こそきちんと勉強し直そうかと、生駒山に向い、老眼鏡片手にちょっぴり意気込んでいます。




misemono at 11:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)更新履歴(平成29年度) 

資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末(一)

  
    はじめに

青木一座は明治三十年代、江川一座とともに浅草で絶大な人気を誇った娘玉乗り一座であったが、四十年代にはいると活動写真などに押され、地方巡業を続けたあと、明治四十二年ごろに解散した。一座を失った芸人たちはそれぞれに活躍の場を求めて散っていったが、その中に海外に渡った連中もいた。

日露戦争のあと、産業の近代化を欧米諸国に誇示すべく、1910年(43年)514日から1029までロンドンで日英博覧会が開催された。この時会場の余興として芸人が送られたが、その中に青木の芸人たち(十四名)もいた。

博覧会のあと欧州各都市を巡業したが、第一次世界大戦に遭遇し、座員の死亡、離別などでたった四名になり、1917年(大正6年)にようやく帰国した。

翌年『報知新聞』に「戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話」という連載記事(大正7321日~329日・8回)が出た。また少し遅れて『大阪朝日新聞』に「恋に死んだ『日本娘』 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話」という連載記事(大正7717日~722日・6回)が出た。

 この記事を見付け、最初に紹介されたのは阿久根巌氏で、『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)の第11章「青木一座・欧州巡業の顛末」(152161頁)にまとめられた。とても興味を魅かれ、ぜひ全文を読みたくて図書館で両紙ともコピーしてもらったが、今回改めてこれを紹介することにした。表題は阿久根氏に敬意をこめて「青木一座・欧州巡業の顛末」を使わせていただいた。同章では『大阪時事新報』も引用されていたが、これも全文掲げておいた。あわせて参照いただきたい。

大正7321日 報知新聞

戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(一)

独帝の前に立つた日本の玉乗り娘

昨紙夕刊に掲載した欧州戦乱の巷を前後四箇年遍歴して来た青木一座の苦心談は、迚も内地人の想像し得る様な生優しいものではなかつた。

抑々同一座十四人が欧州に渡航したのは今より十一年前、日英博物会の折である。其時一行中の最年少なる青木とめ女と云ふ当年七歳の少女は、今度十一年振り芳紀十八の娘盛りで帰国したが、日本語は誠にお粗末なたど〳〵しい言葉遣ひで、人様の前では口も利かれぬ始末だが、其代り仏蘭西語と伊太利語は一通り用が弁ずる様になり、ダンスも舞台に立てる丈けの修業を積んで来たと云ふ事である。

偖も日英博覧会閉会の後、欧州大陸に足を向けた一座は、巴里、伯林を始めとし、重なる大都市で興行を続け、欧州大戦開始に至る迄伯林に滞在して居たが、此前半期たる五箇年間を通じ、一座の最も光栄を博したのはミユンヘン市に於ける独逸皇帝と同皇后の御前演芸であつた。

時は一九一四年の春、欧州大陸の雲行稍や怪しくなり懸けた折である。凡百の芸能に趣味を有するカイゼルは、例により各国芸人の競技会をミユンヘン市の宮廷劇場に催させたが、其夜日本の演芸として選ばれたのが青木一座の玉乗曲芸であつた。当夜カイゼルは鳥打に背広と云ふ軽装で、皇后同伴、二三の式部官を従へて臨場あり。定刻オーケストラの音楽始まりて開場となり、露西亜のバレット踊、伊太利音楽家のバイオリン、希臘劇団の一幕物、黒人声楽家の独唱等、各国各種の演芸十数番相続いて行はれたが、初めて目にした日本の玉乗が余程深くカイゼルの興味を動かしたと見え、其夜行はれた十数番の演芸中、最優等の特技としてフオフキンストラの栄称を与へられたのが青木一座であつた。フオフキンストラは即ち皇帝鑑賞の意味であつて、此称号を与へられたものは翌日から早速劇場の前面に広告の金看板を貼り出す事が出来るので、青木一座は其後独逸内地の興行に少からざる利益を得たとの事である。

とめ女は其際十四歳の少女であつたが、当夜の光景を無雑作な口調にて語る。「カイゼルは絶えずニコ〳〵して見物して居たが、芸が終つてから私達はカイゼルの前に呼び出され、おかみさん(皇后)は私に手を出して握手をして呉れました」と。

尚カイゼルが口髯を宙に向つて捻り上げてるのは、只軍服を着て威容を正した際丈けで、背広服鳥打帽の場合には決して写真で見る様な髯振りではないと云ふ。一座は一通り伯林、巴里やハムブルグ等の大都市を興行して後、独仏両国の田舎廻り興行を始めたが、旅役者御難の災厄は内地に於て並大抵の辛労でない。「況して世界を股に懸けた興行先きの苦心談に至りては、迚も一通りのお話しでは尽せません」と言ふ。

大正7322日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(二)

  姉は謎の短銃(ピストル)自殺 窓外に動揺(どよ)めく参戦示威運動

欧州大戦は颱風の如くに捲き起り、青木一座九名と横田一座の十二名は命辛々(からがら)独逸国境を逃げ出した。中(うち)数名のものは伯林にて俘虜として抑留されたが、数日後無事釈放されて仏国々境で待合す事が出来た。

青木 001青木一座は此際既に墺伊両国及巴爾幹(バルカン)諸国で向ふ三箇年興行の契約があつたので、一行九名は横田一座と別れ、瑞西を経由して伊太利に向ふ事に決心した。大戦開始の当時、人心恟々動乱を極めた際とて、汽車旅行の混雑と困難は尋常でなかつたが、車窓四昼夜を明かして汽車は漸く伊国ゼノア港に着いた。ゼノアでは或る劇場と契約が出来て居たので、到着二日後から興行を始める事となつたが、茲に測らずも一座に取りての一大災難が湧き起つた。

ホテルに着いた翌朝、オーケストラの調子合せの為め、一座の男女芸人一同、劇場の楽屋に来て下調べをしたが、座中随一の働き役者たるかめ女(とめの姉分)の姿が見えない。「又ふて臭つているのだらう」と頭分が言ふたが、皆もさう思つて左程気にも止めないで居た。ホテルに帰つて見ると、かめ女は白いシユーチを冠つてスヤ〳〵と眠つて居る。妹のとめが「最(も)う起きなさいな」と言ひながら蒲団を刎ね外(の)けると、雪白の上敷が血汐に浸り、見事一発、咽喉元を貫いて短銃(ピストル)自殺を遂げて居たのだ。かめ女は初代青木の貰(もらい)娘で、浅草の一名物青木家を復興すべき責任の地位に在り、一座の人々も「是非さうしたいものだ」との希望を繋いで来た中心人物である。夫れが此旅先きで不慮の変死である。馴れぬ異国の旅も最早恐れを懐かぬ程の度胸は鍛へて来たが、偖此の花形に死なれては差し当り明日からの興行に困る。残された八名が茫然自失して顔を見合せたも無理はない。

窓外では参戦行列の示威運動が行はれて、物凄い程動揺(どよ)めいて居た。「姉さんは生来内気で優しい人だつたが、舞台に立つと何時も電気でも通じて来る様に、活き〳〵した芸をする人でした」ととめ女は語る。更に自殺前後の模様を聞くと「ゼノアに着いた晩、『白人は命を惜がるから碌な戦争は出来まい。日本人は面倒臭くなると何時でも命を投げ出すわネ』と変な事を言つて居ましたが、遂(つい)アンナ惨めな事をしたのです。今思ひ出してもゾッとします」とて、とめ女は身を慄(ふる)はしながら遠い彼方を見る様な目付で四年前のゼノアのホテルを回想する。

かめ女の自殺には聞くも哀れなローマンスがある。(写真は青木とめ女)

大正7323日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(三)

  銃を捲く最後の手紙 異境に果てたかめ女の恋物語

ゼノアのホテルで短銃自殺を遂げた青木一座の花形かめ女は当時十九歳の恋盛り、伯林興行の際から横田一座の渡辺と云ふ男と割ない仲になつて居た。渡辺は此仲間で珍らしい程立派な性質なので、青木一座の久保支配人も何うかして此二人を一緒にしてやりたいと苦心して居た。

戦雲勃発、在独邦人が皆散々に国境指して逃げ落ちる際、横田一座の渡辺はライプチヒに避難して居たが、かめ女は青木一座の一部の人々と共に瑞西行きの列車に乗り込んで居た。久保支配人は一目なりとも此の二人を逢はしてやりたいと、ドツセルドーフの停車場で待ち合せる様、ライプチヒの渡辺宛で電報を出した。併し全国動員の際とて、電報の発着も列車の時刻も当にはならなかつた。かめ女と久保支配人はドツセルドーフの停車場で渡辺を待ち合せる為め、態々一列車を延ばして首を長くして待つて居たが、遂に渡辺の姿は見えなかつた。「おかめ、是れ程しても駄目なのだから諦めて呉れ。日本に帰れば直ぐ逢へる。今暫らくの辛抱だ」と久保支配人はかめ女を慰撫しながら次の列車で南に向つた。

然るに青木一座の頭分に瀧太郎と云ふ仇役があつて、予々(かねがね)かめ女に懸想し、絶えず渡辺を色敵として暗闘を続け、かめ女に対しては頭分の威光を笠に着て、兎角無理難題の邪慳な振舞を見せた。此種旅芸人は英語でトループと称さるゝ如く、内部は全く階級制度の圧迫主義で、下の者は頭分から如何(どん)な無理を言はれても服従せねばならぬ。かめ女は之が為め幾夜旅の枕を濡らしたか知れない。

戦塵怱忙、避難列車の旅の間にも絶えず此恋の葛藤が続けられた。思ひ余つたかめ女は遂にゼノアのホテルに着いた翌朝、思ひ切つて短銃自殺を遂げたのであつた。短銃の筒先は渡辺から来た最後の手紙でグル〳〵巻きとなし、其手紙には「当分何も言ふまい。手紙を出してもいけないから、是を最後の手紙と思ふて呉れ」と書いてあつた。其日午後、検死は型の如く行はれ、淋しい葬儀は旅の宿の一室で営まれた。

折柄英国贔屓と独逸贔屓のゼノア市民は参戦派と平和派の二派に分れ、道路の左右を両派同時の示威行列が行はれている。窓外雲霞の如き群衆は無論此旅役者の群の悲嘆を知らなかつた。一行は是から先歩一歩、困難の底に陥つて行く。

大正7324日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(四)

  四名は海底の藻屑 帰路を絶たれた一座の困惑

欧州大戦は益々局面を拡げて行く。人心は大地震に襲はれた如く動揺する。此戦塵に捲き込まれた旅芸人の群が、思ひ儲けぬ憂目に出逢ふたも無理もない。

ゼノアを手始めとした青木一座は首都羅馬を始めゼネヴア、フローレンス、スペシヤー、ネーブルス、カタニヤの各都市を経廻(へめぐ)つて、二週間乃至三週間の興行を続け、長靴形の半島帝国に約八箇月を費したが、伊国政府は何時迄も地中海の一角に筒井順慶を極め込んで居る。国論は参戦平和の両派に分れて、全国各都の示威運動は益々激烈となる。遊芸好きの伊国人は斯(か)かる国論沸騰の際でも決して劇場通ひを欠かさず、殊に物珍らしい日本の曲芸は到る處で評判を博し、各地各座は興行の度毎(たびごと)何時も大入大人気であつたが、劇場経営者は大戦の影響を口実として一座の給料を踏倒さうとする。裁判を起すとしても半年以上待たねば落着が付かぬ。茲を付け込みとして益々踏んだり蹴つたりの目に逢はされる。結局五百リラの契約は二百リラか三百リラに打ち切られる。

一行十二名(久保支配人の妻子を含む)は帰心愈々矢の如く、宿は木賃宿同様の三等ホテルに泊り込み、食事は毎日粥の様な穀類の煮汁を啜り、一日も早く旅費を調へて帰国の途に就かうと焦つた。苦心空しからず、翌年早々ゼネヴア出帆、埃及アレキサンドリヤ港に向ふ事が出来た。不安な地中海を無事横断して目的の埃及港湾に到着したが、此時遅し、スエズ航路は既に航海杜絶となり、日本に帰るべき一本路はバタリと塞がれて居た。一行は止むなく露国経由の西伯利(シベリア)線を取る事に決心し、再び行李を整へて希臘アテネに向ひ、サロニカ方面迄足を進めたが、此時既に独軍巴爾幹(バルカン)に殺到し、塞国(セルビア)通路の露国進出は絶対不可能となつて居た。

八方塞がりの窮境に陥つた一行は、止むなく埃及逆戻りに決し、英国郵船バルボス号に乗船して再びアテナ港出帆、アレキサンドリヤに向ふたが、途中測らずも独逸潜航艇の襲ふ處となり、一座の中捨吉、辰五郎の両名と、久保支配人の妻女ヘレン(独逸人)長男保(二さい)の四名を浪黒き半夜の海上に海底の藻屑となつたのである。「今思ひ出してもゾッとします」ととめ女は遭難当時の実況を物語る。

大正7325日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(五)

  地中海の活地獄 荒波に隔てらて行く親子三人

英国郵船バルボス号は十月一日埃及アレキサンドリヤに向け希臘アテナ港を出帆した。地中海の小春日和、空は一碧イタリアンブルーの色濃く、海は鏡の如く静かだが、独墺潜航艇は絶間なく辺海に出没し、欧亜両州連絡の一等道路たる地中海は今や全く死の海と化して居た。

当日午後二時頃、二三の端艇(ボート)に分乗した数十名の遭難者が頻りにバルボス号の救ひを呼んでるので、引き揚げて見ると果して前日独潜艇の為め撃沈された仏国汽船の乗客船員であつた。昨日の遭難談、今日は我が身の上、バルボス号の乗客船員は安き心もなくて航海を続けたが、同夕刻六時頃に至り、果して舷側間近く現れたる鱶の如き化物、云ふ迄もなく地中海荒しの独潜艇である。

船内は見る〳〵阿鼻叫喚の活地獄。第一第二の救命艇は順序よく海面に引き下されたが、青木一座多数の者の乗り込んだ第三救命艇は途中迄は降りたが吊縄の故障の為め宙ブラリンになつて水面に届かない。気の焦せつてる水夫は片側の吊縄を切り放つたから艇体は片曲りした儘三四十名の男女を乗せてザブンと許り水中に沈み込んだ。再び浮き上る端艇(ボート)には多数の者が必死となりて縋り付くので、艇体は再び沈没し掛ける。無惨な荒くれ水夫共は鉈の様な櫂の刃を揮つて縋り付くものゝ手首を切り放つた。

暮景よりの強風で浪は漸く荒くなる。とめ女と久保支配人は端艇(ボート)の縁に向ひ合せになつて囓り付いて居る。「とめ、手を放しては駄目だゾ」と云ふ久保支配人の一言が必死となつてるとめ女の耳に徹する。とめ女は渾身の力で端艇(ボート)の縁に喰ひ付いて居る。久保の左の手には妻女ヘレンが抱き込まれ、ヘレン夫人は更に当時二歳の一子保を諸手で抱き込んで居たが、小山の様な浪がザブン〳〵と捲き返す中、力の尽きた久保の右手は自然緩みが出来たと見え、妻女ヘレンは水面に顔を漬けた儘五六尺の距離に放れて行き、人形の様な保は仰向けになつて母体の傍(かたわら)に付き添ふて居る。久保は手を延べて再び抱へ込まうとしたが、最早力が尽きて手が届かなかつた。日独結婚の親子三人は斯くて波のまに〳〵永久の別れとなつたのである。

久保支配人の妻女ヘレンは独逸人であつた。独逸各地での興行は何時もヘレン夫人がとめ女を同伴して興行契約を取り極めて来た。開戦後無事瑞西を通過し得たのも独逸人たる彼女のお蔭であつた。とめ女曰く「ヘレン小母さんは全く日本人の様な人で、随分勝気で辛抱強い人だが、他人には何處迄も親切で、母親のない私などは思ひ懸けないお母さんに出逢ふた積りで居たのでした」と。

大正7327日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(六)

  悲運のドン底 独艇に救ひ上げられた一行九名

大波が頭上から一カブリした折、久保支配人は端艇(ボート)の縁で胸を打つて気が遠くなつてると、二三間先きにヌッと艇身を現はした鯨の様な独潜艇が夜目にも瞭(あきら)かに目に映じた。「非戦闘員だ、助けて呉れ」と我れ知らず独逸語で叫んだ處、艇上の黒い人影が頻りに縄を投げ出してる様に見える。「有り難い、助けて呉れるのだな」と思ふて一生懸命其縄に取り付いた迄は知つて居るが、後は全く人事不省に陥つて居た。暫らくの後蘇生して気が付て見ると、自分は何時か以前のバルボス号の船室に横(よこた)はり、身には独逸の水兵服が纏はれて居た。傍に居る一行中の若い者権次郎に聞いて見ると「捨吉、辰五郎両名とヘレンさんと坊ちやんは遂に行方不明になつたが、残り九名は無事本船に収容され、とめ女も其處に寝てる」と云ふ。

独潜艇は其際如何な意向であつたかは判らぬが、一応バルボス号の船内を捜索し、戦闘員を捕虜とし、貴重品や武器弾薬のみを鹵獲して後、本船の撃沈を見合せとした許りでなく、再び非戦闘員を収容乗船せしめて、アレキサンドリヤ行の航海継続を許す事となつたのである。海上遭難当時、気の確(たしか)だつた者の目撃談に據ると、独潜艇は海上から半ば溺死の遭難者を拾ひ上げて後、人工呼吸や種々の応急手当を加へ、濡れた衣類は悉く脱がせて乗組水兵等の乾いた衣類を与へて呉れ、其手当の親切で且行届いてる事は一言の申分なかつたが、但し潜航艇上に救ひ上げられて後も、人工呼吸で蘇生の見込みなかつたものは其儘再び海中に投じて水葬に付せられたと云ふ。

とめ女は其折端艇(ボート)の縁に縋り付いて、二三十分程藻掻(もが)いてる中、何時の間に息が絶えて居たが、一行中の若い者に拾ひ上げられ、久保支配人と前後して独潜艇に収容されて後、再び本船バルボス号に移されたのであつた。「ヘレン伯母さん」に親しみを持つてるとめ女は曰く「独逸の潜航艇は乱暴な様にのみ言はれてるけれど、さうとばかりは限りません。あんな波の荒かつた時、私共を助けて呉れるにだつて容易な事ではなかつたでせう」と。

救はれた一行九名は斯くて無事アレキサンドリヤに向け航海を続けたが、久保支配人は大浪の中に藻掻(もが)き廻つて[る]中(うち)、上着もズボンも脱ぎ捨てた為、三四千円余りの現金や銀行手形は悉く海中に紛失したので、着のみ着の儘の一行は是から先き一層と困難と闘はねばならなくなつた。

大正7328日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(七)

  埃及を襲ふ空中の怪 潜航艇より恐ろしかつた飛行機

アレキサンドリヤに帰着した一行は郵船八阪丸に乗船の予定だつたが、其八阪丸は独潜艇の為め真ッ逆立となつて海底に沈められた。尤も八阪丸に此遭難がなかつたとしても、着のみ着の儘の一行は船賃の補助か立替へをして貰はぬ限り乗船帰国の見込はなかつたのである。

「どうせ斯(こ)う云ふ破目になつた以上、他の厄介にならうと思ふな、一同で生命のあらん限り働け」と云ふので、一行九名は思ひも懸けぬ埃及内地の旅興行を始める事に決心した。アレキサンドリヤを振り出しとして、カイロー、ポートサイドからサワラ沙漠迄深入りして興行を続けたが、今となつては衣裳も道具も皆無な為め、已むなく「活惚」や「日本柔道」の型を見せて其場々々を胡麻化したが、幸ひ当時の埃及各都市には英仏軍隊出動の折とて、芸は不揃ひだが収入は意外に多く、殊にとめ女が旅興行中に覚えたトーダンスは何時の間にか立派な修業を積んで居たので、到る處で大喝采を博した。

只此興行中独逸飛行機の襲撃頻々たるには一行の連中も少(すくな)からず弱らされた。中にもカイロー興行中の如き、連日絶え間なく独機の襲撃あり、ポートサイドの方から羽を拡げて来た怪鳥は一旦カイローの町を東の方に飛び越し、頓(やが)て市外の辺から楫を曲げて逆行して来たかと思ふと、先づ第一には英軍司令部、次ぎに埃及政庁、第三に聯合軍火薬庫と、判で捺した様な順序で爆弾を投下して行く。プロペラーの音がすると、在留英仏人は蒼白(まっさお)になつて慄(ふる)へ上がり、気の弱い婦人共は少しの物音にも飛び上がる程神経過敏になり、遂には犬猫迄が悲鳴を発して怯え上がると云ふ始末であつた。然るに同じカイロー市内でも土耳古種族に属する埃及土民等は独飛行機の襲来と聞くや、老幼悉く戸外に走り出て、歓呼喝采して之を歓迎すると云ふ有様。とめ女曰く「潜航艇の折は左程でもなかつたが、ソラ飛行機と聞くと生きた心地がしませんでした」と。

大正7329日 報知新聞

 戦乱の巷を逃れて四年の旅 青木とめ女の実話(八)

  奇怪なる独探の魔手

カイローは独探の巣窟だ。久保支配人ととめ女は日常の会話に独逸語を使つて居たゝめ此一行のカイロー滞在は少からず独探連の注意を惹いたものと見える。一日迂散臭い独逸人が久保を訪問して来て紙幣束で頬ベタを叩く様な談話(はなし)をし懸け、「実は英仏両国人の間には漏れなく手が行き渡つてるが、日本人のみは誰一人連絡を取つて呉るものがない」と、そろ〳〵地色を顕しての相談となる。「其處で君が若し日本汽船の発着を正確に知らして呉れるなら、手金として一万五千円程送呈し、後は成功謝金として相談を取り極めたい」と云ふ申込み。久保は皆迄言はせず椅子を蹴つて立上つて「他国人はいざ知らず、日本人には自国汽船を沈没させ様とするものが断じて一人もない、最(も)う一言云ふて見い、貴様の生命は危いぞ」と怒鳴り付けたので、件の独探も久保の権幕に恐れて悄々(しおしお)其處を引き取つた。

日本汽船は恁麼(こんな)始末で、ポートサイドやアレキサンドリヤには寄り付かない。

兎角する中、大正五年は空しく暮れて大正六年も最早半ば過ぎとなつた。長年月の困難に辛抱がし切れなくなつたと見え、一座中の貞雄、勇、権次郎三名は逃走する。かめ女が悲劇の仇敵だつた瀧太郎も続いて逃走する。後に残つたは久保ととめ女と三平(青木)、かよ(西村)の僅か四名と云ふ心細い一座になつた。人数は少くなつたが、其代りには協力一致の精神が強くなり、「一日も早く旅費を蓄(た)め日本に帰らう」と云ふので、四名のものは傍目(わきめ)も振らず辛抱した。

幸ひ十月初旬(大正六年)に至り御用船阿波丸のポートサイド寄港あり、同船に便乗してた一武官の厚意により一行四名は漸く阿波丸便乗を許された。久しい間辛抱して貯めた金と興行に使ふた猿二匹、犬六匹と玉乗り道具、水芸道具其他ダンスの衣裳等一切を売払つた處、四人分の船賃五百六十円を支払ふて尚幾分の余裕があつた。一行は十月五日阿波丸甲板上に立つて、一年余りの困難を重ねた埃及の空を見返つた。



misemono at 10:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末 

資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末(二)


大正
7717年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (一)十歳と八つで漂浪(さすらい)の旅へ

曲芸団青木一座 十六年振りの久保 十年目に帰国のとめ子

大正三年の春、失恋の悩みに堪へかね、伊太利ゼノアで蕾の花の十五を一期に拳銃(ピストル)自殺を遂げた「日本娘」がありました。この可憐の少女は日本娘曲芸団青木一座の花形で、名を青木かめ子と申しました。一座の太夫元であつた広島市中島新町の久保卯三郎(三十八年)、死んだかめ子の妹分であつた東京生れの青木とめ子(十七年)の二人は欧州各地の巡業中、戦乱の渦中に巻込まれて一座四散の其中に、僅かに無事なるを得て、久保は十六年振り、とめ子は十年振りで、本年の初夏、懐しい故国の土を踏んだのでした。

遺産の拳銃が緒(いとぐち) 実母から太夫元へ 遺産問題の訴へ

二人が日本に落付くと間もなく、自殺した少女かめ子の実母奥村いとから故かめ子の遺産問題で面倒な嫌疑をかけられ、先月の二十八日と本月の三日、二人は広島地方裁判所草光検事の取調べを受けました。久保の答弁は「憐れなかめ子に若し遺産とでも名付けるものがあるなら、それは少女が自分の胸を射抜いた拳銃一梃、只夫れだけでせう。委細は羅馬の日本総領事館へお問合せになれば判然しませう」と何等の蟠りを見出さなかつた。問題は恐らく一種の誤解として直ぐ解決されるでせう。裁判の是非、黒白は別問題とし、茲には此の最近の出来事を端緒(いとぐち)に、過去の記憶を手繰り寄せて、恋の日本娘かめ子の哀話を中心とした、久保並にとめ子の悲しい思ひ出を記して見ませう。

一座の花形少女 肉身も及ばぬ 仲好しお姉妹

東京浅草の青木曲芸団一座は欧州巡業を計画しました。一座は青木辰五郎、同瀧太郎、同次郎の青木三兄弟にかめ子、とめ子の少女二人其の他を加へて玉乗りと軽業を興行して廻るのでした。一座は櫛引氏支配の下に、今から九年前の千九百九年愈(いよいよ)出発の途に就きました。一座の花形かめ子ととめ子は義理の姉妹でした。姉のかめ子はその時分十歳、とめ子は八歳、二人共ふつくらとした双頬に笑陥(えくぼ)を見せた姿は「まあ何て可愛いお嬢さんでせう」と、事情(わけ)を知らぬ人目には見えたでせう。

小鳥のやうに楽(たのし)く 暗い過去から逃れて 外国へ旅立つ嬉しさ

が、二人の少女(おとめ)は物心を覚える時分から軽業や曲芸で小さい心を恟(び)く付かせたり、膏汗に背をビッシヨリにした経験しか持つていませんでした。薄命な世間に包まれていたのでした。けれど何といつても十歳と八歳の小娘のことです。叔父さん達に連れられて、これから物珍らしい外国へ旅立つといふ嬉しさの為、甲板の上を小鳥のやうに生き〳〵と跳ね廻つているのでした。美しい瞳を輝かして故国の山を眺めているのでした。

産みの母との離(わか)れ かあさま達者で帰つて一緒に暮しませう

出航に最(も)う間もないその時、姉娘のかめ子は突然、嬉しさうな叫び声を揚げて駆け出しました。甲板の端に窶(やつ)れた女が一人、青木一座の者に気を兼ねて慎ましやかに控へていました。夫れはかめ子の産みの母親奥村いとでした。腰に纏はられている実の娘にさへ何處(どこ)か遠慮するやうに母親は涙ぐんでいました。「かあさま、待つていて下さい、達者で帰つて来たら一緒に暮しませう、母(かあ)さまと一緒にね」。十歳にしてはませたかめ子の口の利き方が一座の人々をして顔を反向(そむ)けさせました。母親をホロリとさせました。そして終(しま)ひには理由(わけ)もなく小娘二人を泣かせました。斯(こ)うしてかめ子の小さい胸には実母との悲しい離(わか)れを強く〳〵刻み付けて船は欧州に向けて日本を出航したのでした。

印度洋の甲板で お月さまを眺めて抱き合つた二人

船は穏かな航海を続けました。可憐の少女青木かめ子は実の母親恋しさに、銀鏡のやうなお月さまが照る印度洋で、独りシク〳〵甲板の上で泣いていることもありました。何時の間にか義姉思ひのとめ子はソーツと其の後(うしろ)から近寄つて、「姉さま泣かないで頂戴、姉さまが泣くと私も泣きたくなるわ」。二人はひしと互に抱合つて、「最(も)う屹度泣かないこと」。斯(こ)んなに言ひながら舞台で踊るやうな足取りをして、船室の方へ駈け込んだ、といふやうなこともありました。一座は無事目的の英国に着いて、千九百十二年、日英博覧会の余興を了(お)へ仏蘭西に渡りました。そして丁度其の地へ或る事業計画の為、来合せて居た久保卯三郎氏の手へ、櫛引氏から一座の支配(マネージ)が移されまして、茲に日本娘曲芸団青木一座は太夫元久保氏の手で欧州各地の巡業に取掛りました。

大正7718年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (二)太夫元久保は如何(どん)な男

金牌付きの煎餅 一座の新太夫元 久保は如何な男

一座の新太夫元久保卯三郎といふのは如何な男でしたらうか。是れより先き北米ポートランド博覧会(編者註:明治38年開催)へ煎餅を出品して金牌を授賞された日本人があつて、世間の評判に上りました。此の男が誰れあらう久保でした。久保は先祖代々茶商を営み、故国の日本では可成りに手広く商売をしていましたが、当時二十二歳、溌溂たる青年の彼れは、海外飛躍の雄心勃々として押へ難く、今から十六年以前、錫蘭茶(セイロンティー)など研究の上、北米に渡航しました。そして少なかなぬ金を儲けたのでした。

青木 004

金髪碧眼の妻 巴里で計画の久保の事業 

千九百十年即ち明治四十四年(ママ)の夏、久保は仏蘭西へ渡りました。目的は例年の夏、巴里ヂヤルダン・ダアツクリマタシヨンで開かれる避暑地の催しに、日本風の瀟洒たる建物を拵へ、其處(そこ)で彫刻とか焼物とか、例の煎餅喫茶店などを設け、その上日本固有の踊り、曲芸などを興行しやうといふのでした。計画は着々と捗つて行きまして、態々日本内地から呼び寄せた大工の手で日本風の家屋も悉皆出来上つた時分、不運にも降り続く雨の為に洪水があり、家は流れる、設備万端滅茶々々に成つて、折角の苦心も水泡に帰しました。久保は失敗に屈せず、翌年規模は余程最初の計画より小さいものでしたが、兎も角目的通りのものを作り上げました。丁度その時仏蘭西へ渡つて来た青木曲芸団一座に出会つて櫛引氏から其の支配権を譲り受けたのでした。久保にはポーランド人アントソコロフスキーの愛嬢ヘレン(二十六年)といふ金髪碧眼の妻があつて、二人の仲には保(四年)といふ可愛い男の兒まで挙げていました。

三つの曲芸団 欧州の天地では巾を利かした

その当時欧州各地を跨(また)にかけて巡業していた日本曲芸団には三つの団体がありました。久保の青木一座(座員八名)、横田組(二十余名)、小天一奇術一座(六名)が夫れで、何れも花形として日本娘が愛嬌を振り蒔き、欧州大乱勃発前までは各国都市の劇場やルナパークで外人間に好評を以て迎へられていたものでした。ですから旅から旅へ漂泊(さすら)ふ彼等日本娘の一座は中々どうして物質的には豊富な、むしろ贅沢な位です。

大きく美しく 愉快に二人は生ひ育つた

異国の物珍らしさと変化の多い生活振りとが二人の姉妹を生き〳〵と小鳥のやうにさせました。そして二人とも段々と大きく、美しくなつて行きました。他の芸人と一緒に姉妹娘は毎日朝稽古を励みます。夜になつて舞台に登る前には念入りのお化粧に取りかゝります。頬紅を思ひ切つて沢山差して置くのです。是れは六ケ敷い軽業中、苦しさを堪へ忍ぶ時に、次第に紅潮して来る顔色を観客(けんぶつ)に隠さうといふ心尽(こころづか)ひからでした。姉のかめ子は梯子の先端(さき)で危い芸を打つのが十八番でした。妹のとめ子は玉乗りでお愛嬌を振蒔いていました。

大吹雪の中を 大晦日から元旦へ 劇場へ乗込んだ

巡業の折々、斯んな忙しさもありました。大正元年十二月三十一日、大晦日の晩など青木一座は独逸ヅツセルドルフの興行を打揚げるなりハンブルクへ向けて出発しました。元旦は列車の中でお祝ひして、元日の夕暮ハンブルクに着いた時には大雪でして、霏々たる大吹雪中自動車を駆つて劇場に乗り込み、その夜(元日)初日の蓋を開けました。又或る時は観覧の高貴の方から姉妹二人に握手を賜ふた光栄もありました。かめ子は毎月十円宛母の許へ送りました。そして旅から旅へ移り行く毎に実母へ宛てて綺麗な絵葉書に優しい思ひを述べた消息を怠りませんでした。

大正7719年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (三)独逸で思ひそめた初恋

女らしく大人びて かめ子は最(も)う十五歳であつた

一座は仏蘭西から白耳義を経て独逸に渡り、千九百十三年の夏には首都伯林で興行に取り掛りました。かめ子は最(も)う十五歳、十分に発育した身体は豊麗な肉付と共に年齢よりはずつと大人びて、一人前の女らしく見えました。丸ぽちやの西洋人的型の美人として一座の人気を一人で背負つて立つて、其の上にこの美しい日本娘が梯子の先端(てっぺん)で演ずる危(あぶな)かしい芸当が又ずば抜けたお手際だつたので、全く一座の花形として非常な好評を博したのでした。かめ子は飽くまで華やかにてきぱきと、時にはオキヤンな位に振舞つて、少女の生々しさが身体中に漲つているやうにみえました。

危く舞台で過ちを仕出かし兼ねぬ 少女が恋の悩み

ところが伯林の興行最中から、あれ程活発であつたかめ子の素振が段々と憂鬱に傾いて、何か物思ひに沈んでいるやうな、又時にはソワ〳〵と落付かぬやうな、変な様子に変つて行つて、果ては一座の人々にさへ怪しまれるほどでした。のみならず肝腎晴れの舞台に於いてさへ、これまで大胆と巧妙の喝采を博していたあの芸当が、まあ如何でせう、或る晩など危く梯子の上から滑り落ちんとして、一座の座員にハッと吐胸(とむね)を息(つ)かせ、観客(けんぶつ)を思はずハラ〳〵させた位でした。太夫元の久保はその夜かめ子を膝下に呼び寄せ、物柔かな調子で心に秘めた悩みを一切打ち明けるやう諭しました。「免(ゆる)して下さい……、御心配をかけて済みませぬ〳〵」とかめ子は涙ながらに其の場で胸に燃ゆる初恋の一切を打ち明けたのでした。

恋男の渡辺哲二 芸術家肌の放浪日本青年

かめ子の恋人、それは白耳義のアントワープから久保がわざ〳〵呼び寄せて舞台衣裳の刺繍(ぬいとり)を遣らせていた渡辺哲二といふ日本青年で、房々とした頭髪(かみ)を毎(いつ)も綺麗に手入れした色白の美男子でした。渡辺はずつと以前から故国の日本を飛出して欧州各国に放浪の旅を続けている芸術家肌の男でした。かめ子は渡辺が一座して以来、旅芸人のうら淋しい少女(おとめ)心に初心(うぶ)な初恋を胸中深く秘めて、異郷の旅から旅へ、嬉しいやうな悲しいやうな物案じに悩んでいるのでした。浮世の酸いも甘いも噛み分けた久保は哀れな少女の恋を成立たせてやらうと尽力しました。そして二人は許婚のやうな仲になりました。かめ子は再び生れ返つたやうな生々した娘に返つて楽しい巡業の旅を続けて行きました。

青木 006

舞台で結婚式 列席した二人は未来の幸福を夢みて

かめ子が渡辺と楽しい恋に酔うている其の頃でした。丁度伯林のハーレンヂルナパークで興行していた小天一日本奇術一座の松浦といふ座員が矢張り同じ一座の女奇術師月子といふ若い女と結婚するに就いて、ほんとうの三々九度の盃をご見物衆を前に控へた舞台の上で遣つて見せることになりました。「日本の結婚式」といふのが大層な評判になつて、当夜は宵の口からギッシリ満員の素晴らしい景気でした。花婿は紋付羽織袴、花嫁は高島田に結ひ上げ、裾模様、丸帯の盛装、島台に男蝶女蝶の銚子、式(かた)の如く「高砂や」の蔭謡曲にほんものゝ結婚式が舞台で見事遣つて除けられたのでした。見物の独逸人達は「幸福なれ、若き日本の芸術家よ」などゝ口々にお祝ひの辞を浴びせかけ、小屋中沸き立つやうな人気でした。かめ子も渡辺も此の結婚式中のあるお役目を承まはつて、舞台の人に立つていました。そして此の幸福らしい花嫁花婿の三々九度に列席しながら、かめ子は絶えず渡辺と顔見合せては隠し切れぬ微笑(ほほえみ)を口元に湛へているのでした。「最(も)う直(じ)きです、私達の斯(こ)うした幸福も……」。かめ子は華やかな未来を胸に描いて、両の眼はいやが上にも麗しく輝くのでした。

大正7720年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (四)相携へて古都羅馬を

伝説「羅馬の狼」 恋人同士二人で楽しい古都見物

青木 005一座は伊太利の羅馬へ乗込むことになりました。丁度その前日、座員某しの妻がお産の為に入院していた巴里の病院から無事出産の通知があつたので、その方へ人手を取られ、一座の出発を一日延期しました。かめ子渡辺の二人は久保の勧めに依つて羅馬へ向けて先発しました。是れは若い恋人同士二人切りで自由な楽しい一日を古都羅馬の見物に過させやうといふ久保の粋な図(はから)ひなのでした。羅馬へ先着したかめ子と渡辺は、街の市役所前に飼つてある狼を見ました。そして一頭の牝狼が人間の赤坊二人に乳を呑ませている石像……それは「羅馬の表徴(シンボル)」……の絵葉書などを買ひ取りました。「羅馬と狼」此の二つは羅馬市の名高い伝説でして、マーズ神と巫女リーとの間に出来た双子ロミユラス並にリーマスが国王の命に依つてタイバー河に投げ込まれました。ところが双子を入れた箱が河岸(かし)に流れ付いて、牝狼の乳房によつて育て上げられ、ロミユラスは後に羅馬市を創建した英傑になつたといふのです。

月光を浴びつゝ 二人はいろ〳〵と互に語り合つた

縁起を殊の外八釜しくいふ芸人仲間では狼のこの伝説が一種の信仰のやうに重きを為していて、羅馬に乗込む芸人は何はさて置いても先ぐ茲へ見に来る習慣だつたのです。その晩二人は羅馬の街をそゞろ歩きしながら、許婚の若い男と女が味ふやうな甘い歓楽に酔うていました。月が素的に好かつたので、二人は郊外に自動車を駆りました。遠い故国のこと、帰朝後の楽しい夢、未来の計画など話題は夫れから夫れへと尽くるを知らない有様でした。話しは何時しか「羅馬の狼」の上に移りました。

「かめ子さん、馬鹿々々しいですね、あんな狼が居たなんて、如何に紀元前だつて人間の双子を狼の乳で育て上げるなんて……」「あら渡辺さん、どうしてそんなこと仰(おっ)しやるの、さう云ふ狼も居たのですよ、私屹度居たと信じますわ」「あなたも中々空想家、……ぢやなかつた、詩的な方ですな、あれはほんの作り譚(ばなし)ですよ」「どうしても作り話でないと承知なさらないの、では作り事でも好いぢやありませんか、恐ろしいものと極(き)めてある狼が赤ん坊に乳を呑ませて、その赤ん坊が羅馬の王さまに成るなんて、実際好い話だわ、ほんとうに好きな話だわ」「左様、偶(たま)には天女のやうな狼があつても悪くは無いでせう、世間の狼といへば赤ん坊どころか美しい女まで喰ッちまひますからな」「あら、そんな厭なことは言ひつこなしにしませう、私達が斯(こ)んな幸福な時に……」「如何にも、だが大分遅くなつたやうです、ぼつ〳〵帰りませう」

月に照された男の顔には冷酷な影が現れていたのをかめ子は気付かなかつた。今しがた会話の、最後の一句が何だか心の奥底に引かかつているやうに感じながらも。

巴里病院の赤坊 かめ子の胸中には心配の種が潜んで

ホテルに帰ると一座の者は既に到着していました。そして茲で赤ん坊(巴里の病院で生れたばかり)の話しで持ち切つていました。「確かに男の兒だと、巴里の病院から通知があつたので、駆け付けて見ると女の兒なんです。いや其女の兒は元より日本人ですとも、夫れに母親にそつくりなんですから……、大丈夫本物でせうよ、だが全く油断はなりませんよ、巴里の赤坊摺替へは最(も)う小説の題材にまでなつているのですからな」

その晩一座の者は皆愉快に語り合ひました。かめ子は「羅馬の狼と赤坊」の伝説と巴里の赤坊摺替への実話とを考へて、夜遅くまで寝付かれませんでした。かめ子は情人の胤を宿しているのでは有るまいかと不安と恐怖に胸を痛めていたのでした。

大正7721年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (五)ライプチヒ停車場(ステーション)の悲劇

古都羅馬の楽しかつた一日に、一点の汚点の如く、かめ子の心を曇らせた情人のあの厭な言葉が其の儘悲しい結果をかめ子の上に持ち来しました。渡辺は心強くもかめ子を後に伯林からライプチヒへ去つたのでした。そして再び帰つて来る様子は更に見えませんでした。かめ子は物足らぬ淋しさに其の日其の日を送りましたが、決して失望はしませんでした。渡辺を堅く々々信じていたのですもの。一座はやがて伯林の次ぎ興行地ブロンサイを打ち揚げて墺多利のリンツへ乗込むことになりました。途中列車がライプチヒを通過するので、久保は渡辺とライプチヒ停車場で会つて正式にかめ子との縁を取極めて終ひたい、「彼の女に対する愛情が今も尚ほ変らぬものなら同停車場まで御足労を願ふ」といつた意味の手紙を渡辺に宛てゝ投函して、一座は出発したのであつた。列車は轟然たる響きと共に刻々恋の少女の運命を決すべく進行した。そして華やかな内にも一種不安の気を交へた雑々(そうぞう)しさの間に列車はライプチヒに着いたのでした。

離(わか)れの手紙 二人は縁なきものと諦めて

けれど其處(そこ)には渡辺らしい影は見当りませんでした。かめ子の顔色……次第に青褪めて行く其の顔色を見て、一座のものは居堪まらぬやうな哀れさに、血眼になつて渡辺を捜しました。「時間を間違へたのであらう、屹度さうだ」。久保は保証するやうに言つて待合室に腰を卸しました。一座のものは終日無情な男を待つたのでした。が渡辺は遂に姿を見せませんでした。そして其の代理といふ男が一通の手紙を持つて来ました。久保は取る手遅しと開いて見ました。皆は息詰まるやうな緊張を以て耳を傾けました。取り分けかめ子には生命までと思ひ込んだ情人からの最後の通知、諾か否か、彼の女は耳の端で警鐘を乱打されるやうな響きを感じました。

過日来度々のお手紙に依りまして御心尽しの程は有難く了解いたして居ります。かめ子と私、二人は永久に縁(えにし)なきものと諦めるやうお伝への程お願ひいたします。嘗て月の夜、私は羅馬の狼に就いてかめ子と語り合つたことを覚えています。かめ子は実際「伝説の羅馬の狼」のやうに慈愛に充ちた純なる少女です。私は「只の狼」です。残忍な野獣です。かめ子と結婚することは私の身に取つて望外の幸福かも知れません。けれども私は力強い何者かゞ私を命ずるまゝに彼の女と永久離別の辞を茲に申し上げます。私は貴殿に会ふべく……幸福の方へ進むとは全然反対の方角へ……不幸と放浪の旅路へ既に出発しました。運命は残酷な野獣です。おさらば。最後に一座の幸福を祈ります。渡辺生/久保様。

停車場の悲劇 人目も恥ぢずワッと泣き崩れた

「あゝ私はあの人に捨てられた」。かめ子は胸も張り裂けさうな悲しみに、人目も憚らず雑沓の停車場待合室でワッとばかりに泣き崩れました。雲山万里の異郷に無情の恋人を慕うて泣く。旅芸人の懊悩(なやみ)、見るも可憐(いじら)しいかめ子はまだ十五である。泣き伏した姉を慰め励(いたわ)つていた妹のとめ子も果ては姉に負ひかぶさつて泣いた。ヘレンも泣いた。一座の者も瞼を濕(ぬ)らした。久保も思はず眼鏡を曇らせたのでした。千九百十四年(大正三年)の春とは言へどまだ薄ら寒い時候であつた。途中思はぬことで時間を潰した一座は愚図愚図していては次興行の間に合はぬので、一場の悲劇を跡にライプチヒを出発しました。

味気ない生命 かめ子は寧ろ冷然として見えた

憐れや初恋に破れ、生命と頼む情人に捨てられたかめ子は如何(どん)なにか浮世を味気なく暮したでせう。華やかなるべき少女の生活も、彼の女に取つては遠い〳〵沙漠を旅行く絶望的なものに相違なかつたでせう。けれど久保を始め一座の人々が心配していたとは予想外にかめ子は悲しみませんでした。何處(どこ)かに決(きっ)と覚悟した、あきらめとでもいつたやうな淋しい微笑さへ湛へて、二度と無情な男に就いては話しませんでした。折に触れとめ子が慰めやうものと、若しか渡辺のことでも言ひ出さうものなら、「最(も)うあの人に就いては言ひつこなし、いつか汽船の上でお母さんのことでお約束したやうに、二度と言ひつこなし」。かめ子は斯(こ)う言ひ切つて寧ろ冷かな態度を示すのでした。

魂の抜け殻を 恩愛の枷に縛られて

久保も一座の者もやつと安心したやうに胸撫で卸すのでした。かめ子は懸命に舞台の上で勢を出しました。あの初恋の当時、見物をハラ〳〵させたやうな危気(あぶなげ)は微塵も見出されないのみならず、時には捨鉢かと思はれるほど、大胆に而も手際よく遣つて除けて、見物は元より一座の者さへ舌を巻かせた位でした。かめ子は果してサラリと諦めたのであらうか。舞台に依つて苦悩を忘れやうとしたのであらうか。否や否や決して然(そ)うではなかつた。かめ子の初恋はそんな浅いものではなかつた。かめ子には恩を受けた一座といふ枷があつた。故国には指折り数へて待つ実母が居た。彼の女は魂の抜け殻のやうな身体を本意なくも永らへているのでした。

大正7722年 大阪朝日新聞

 恋に死んだ「日本娘」 伊太利で拳銃自殺を遂げた女曲芸師青木かめ子の哀話

 (六)彼の女は遂に逝いた

お月見に附合つて ゼノア市中の春の夜の賑ひ

千九百十四年(大正三年)の春、故国の日本では桜が真盛りと思はれる頃、青木一座は四月十九日ゼノアへ乗込みました。翌日初日を出さうといふのでホテルに落付いた一座は旅の疲れにその夜は早く伏床へ就いたのでした。

「とめちゃん〳〵」と夢幻(ゆめうつつ)の裡に誰れか我名を呼ぶ声に、とめ子は偶(ふ)と目覚めたのでした。見れば其處(そこ)には真白な服を肌に纏うて麗しく化粧した義姉のかめ子が立つていました。

「どうしたの、姉さま……」まるで女神のやうな美しき其の姿に目を見張りながら、とめ子は跳ね起きたのでした。

「お月見をしているの、私一人では物足りないので誘ひに来たのよ、付き合つて頂戴……」

かめ子の様子は其の夜の月のやうに穏かに落付いていた。姉妹はホテルの露台に出ました。まあ何といふ美しさでしたらう。ゼノアの街は春の歓楽に酔ふ市人の賑ひで、お祭のやうに一杯の燈火でした。そして月の光が夢のやうに街を包んでいるのでした。

あゝ羅馬の月は 永久に忘れぬかめ子の涙

「好い晩ですことね、ほんとうに好い晩だわ、姉さま御覧、あの街の燈を、そして又お月さまの好いこと」

かめ子は黙つて遠く空を眺めていました。その大理石のやうな冷たい頬には涙が一筋流れていました。

「とめちやん……日本の東京はあの辺でせうか……」

「嬉しいですわね、私達も此の秋(十一月)には日本へ帰るのですから、姉さまの母さまはさぞ待つていらつしやることでせう」

「羅馬は、羅馬はあの辺だつてことね、あゝ羅馬の月は好かつたわ、忘れられない、私には忘れられない……」

かめ子は涙の面を妹の胸に押し当てゝ、今まで耐へに耐へていた悲(かなし)みを思ふさま泣いて〳〵泣いたのであつた。かめ子は其の晩真夜中に自殺したのでした。

白百合が暴風雨に倒れたやうな彼の女の最期

四月二十日の午前四時頃、轟然一発、拳銃の響きに一座の者が駆け付けた時には、あな無惨! かめ子は見事心臓を射貫いて寝台の上に横(よこた)はつていました。身には純白の衣装を付けて流石に少女心の死出の旅路へと、念入りのお化粧を施していました。彼の女の最期は微笑さへ口元に湛へて、何等苦悶の影を見出しませんでした。丁度夫れは野の白百合が暴風に倒れたやうな、悩ましい内にも又艷なものがありました。真実、恋に破れた憐れな少女は天国の愛に抱かれたやうに見えました。彼の女は左の手に堅く〳〵一通の手紙を握つていました。夫れは故国の実母から最近かめ子に送つた手紙でした。

一筆申しあげ候。日本では最(も)う桜の花がほころび初むる好時節と相成候。御地にても国こそ変れ定めて春めきしことゝ存じ候。私ことも無事息災に暮し居候。これもそなたが孝行のお蔭と嬉(よろこ)び居り候。十年振りにてそなたの達者な顔を見るのも此の十一月と承はり、今から指折り数へて相待ち居り候。この間お送り下され候写真を近所の人達に見せ候ところ、皆大層美しく成人なされたと褒められ、お世辞とは存じながらも心嬉しく存じ候。呉れ呉れもおん身大切に。尚ほ久保さま始め皆々様によろしくお伝へ願ひ上げ候。母より/かめ子どの

独艇に襲はれて 久保の愛妻ヘレン等の死亡

かめ子の死骸はゼノア郊外カンポ・サントーの墓地を選み、小高い丘の中腹に手厚く葬りました。茲は世界第一との評判ある有名な墓地でして、昔から偉人傑士の霊が眠つていることころなのです。「恋に死んだ日本娘」の霊に対して久保始め一座の者は神の御手の触れんことを祈つて又旅興行に出かけたのでした。一座は其の後地中海で独艇に襲はれて、久保の妻ヘレン、愛兒保、其の他一座の者は溺死して了ひ、久保はとめ子と二人漸くにして故国日本に帰つたのでした。(をはり)


【参考資料】

大正396日 大阪時事新報

独逸の拘禁せる軽業師=興行師奥田辨次郎の話

暴戻な独逸官憲の手に拘禁せられた在独邦人五十余名の中には興行師、芸人が其の多数を占めて居るとの事だが、彼等の多くは露西亜人、独逸人等の興行主の手に買はれて旅から旅へと萍(うきくさ)の如(よう)な生活を続けて行く者であるから、其姓名を調べる事さへ中々困難だが、大阪の興行主奥田辨治郎について欧州に於ける日本芸人の現状を聞くと、東京では江川や青木一座の者が捕へられて居るらしいとの事であるが、何しろ欧米へ行つて居る芸人は大一座のものは一つもない。唯玉乗、軽業といふやうな一座に日本人が交つていると云ふ事は其座を大きく見せる為めの云はゞ装飾で、多くは外人の一座に三々伍々離散しているので、殆んど内地とも交通をしないと云ふ有様だから、斯(こ)んな場合に何者が居るか判らないが、要するに外国人のマネジヤーに買はれている身分だから、約束の日限を勤めねば金を返せと云ふし、又外人の一座と離れては独立の興行は覚束ないから、愚図々々して居るうちに捕へられたものと思はれる。

大阪から彼地へ行つて居る芸人は欧州へは四五百人、米国へは三四百人も居るだらうが、居先の不明な者を除き、秩序立つた者は自分の手では亜米利加へ行つて居るのみだが、彼国で婦人として有名な吉村すての手では岡部座といふのが行つて居るが、之は吉村の甥に当る天下茶屋の田中藤太郎の手で渡欧したもので、それから難波遊連橋の難波福松の手で渡つたのは確か独逸に居た筈で、また独逸連は山本と其妻の小芳の一座も居る筈だから、是等は拘禁せられているかも知れぬが、更に消息がないから不明である。

此間成功して帰朝した上福島の北村福松の手で行つて居る一座もあるが、之は独逸に居なかつたらしい。目下楽天地の余興に出演しているルボーフといふ塞爾維(セルビア)の女は浪花廉之助といふ大阪の曲芸師の女房となつて夫婦共稼ぎで出ているのだが、浪花は久(ひさし)く独逸に居たけれど甘く開戦以前に帰国したのだ。

大正3913日 大阪時事新報

疑問の日本軽業師一行 欧州に在留せるもの十八組

開戦前まで確実に独逸にいた邦人にして開戦後行方不明となつた者のうち其後所在の判明した者もあるが、尚ほ数十名の行方不明者の中には独逸官憲の手に拘禁せられている者が多数あるだらうとの事。而(そ)して拘禁中の大部分を占めていると噂されている日本芸人の一行は未だ今日に至るも独逸に居た者は誰々であつたかと云ふ事さへ不明であるが、今大阪及東京から欧州方面に渡航して現在判明せる芸人は左の十八組である。

▲横田組十二名▲濵村組七名▲山形組五名▲二見組七名▲光田組二名▲山本(鞠使ひ)一名▲荒山一名▲天花組四名▲安藤組六名▲岡部組七名▲両国組七名▲青木組七名▲日の出組三名▲山本小芳組女二名▲花子組(女優)三名▲曾我組二名▲小天二組七名▲福島組四名

合計八十七名であつて、其他監督、舞台係、衣裳方などを加へると百余名に上るのであるが、此等は花子一座の日本演劇を除くの外は音曲、曲芸、手品、曲乗、曲馬など悉く軽業団であつて、此中確かに独逸に居た者は小よし一座位なものだが、同組及び他も悉く開戦以前早くも独逸を逃げ出したらしく、大阪の興行師奥田辨治郎及び難波福松等の許へ一、二消息のあつた所に依ると、拘禁されている者は全く無いらしいとの事で、若し拘禁された者があるとすれば例の浮浪組と称して学生、労働者等の堕落して芸人と為り果てた一派で、所在は勿論姓名さへ判らぬ連中だらうとの事だ。

 


 





misemono at 10:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料紹介:青木一座・欧州巡業の顛末 

2016年12月31日

更新履歴(平成二十八年度)一

第一回更新 更新日:平成2811日(金)

あけましておめでとうございます。

 今年も第一、第三金曜日に更新履歴を掲載していきます。

 Philaselphia Museumに仮名垣魯文筆、芳春画で、明治5年に浅草奥山で興行したスリエの曲馬の錦絵(三枚続)があることをyajifun氏よりご教示がありました。それをきっかけに「スリエの曲馬」の絵画資料を見直し、全面的にリニューアルしました。スリエに関する文献資料もずつと心掛けていますが、去年一年、残念ながら新たな発見はありませんでした。よってまだ「草稿」のままにしておきます。

 ついでながら同美術館で、万延元年の豹の新たな錦絵も見つかったので、当「年表」(万延元年・八頁)に入れました。まだまだあるのです。本当に油断は禁物です。

 なお、平成25年度の更新履歴はその役目を終えましたので、一月一日付をもって当「年表」から削除しました。

 今年でブログ人生六年目に入ります。孔子『大学』の「苟日新 日日新 又日新」(苟〈まこと〉に日に新たなり、日日新たなり、又た日に新たなり)を座右の銘に、日々精進し、よりよいブログをめざしてゆくつもりです。本年もよろしくお願い致します。

第二回更新 更新日:平成28 115日(金)

 カテゴリに「八人芸」を追加しました。

 十年ほど前、朝倉無声の『見世物研究』に載る「八人芸」をふくらませて小さな雑誌に発表したことがあります。だからこれは、いわば二番煎じなのですが、それでも発表しておこうと思ったきっかけは、雑誌『趣味』創刊号(水谷弓彦編集・東京神田彩雲閣・明治三十九年六月)に「八人芸 幸堂得知氏談」の記事があるのを見つけたことです。

 幸堂得知といっても、今ではほとんどは知る人もまれですが、天保十四年1843)に江戸に生れ、明治時代を生粋の江戸っ子として生きた人で、文壇の重鎮でした。また歌舞伎その他の演劇に通じ、明治の新聞を調査していた時、あちこちで彼の劇評を見かけ、知らず知らずの内に名前を覚えました。粋と通が着物を着て歩いているような彼が「八人芸」を語っていたのです。さすがにその見るところは的確で、語り口も滋味と富み、これはひとりで読んで終りにするにはあまりにもったいないと、ここ十年の間に見つかったものも盛り込んで、今回あえて投稿した次第です。

 ところで、「八人芸」って何? それは見てのお楽しみです。

第三回更新 更新日:平成2825日(金)

 カテゴリに「資料紹介:活人形の話」を追加しました。

 三世安本亀八の談話です。活人形の作り方の話で、興行年表にはそぐわないので、長く机の奥に仕舞ったままになっていたのですが、前回「八人芸」で雑誌『趣味』を調べていて、これのあるのを思い出しました。

掲載されていたのは雑誌『趣味』第一巻第五号(明治三十九年十月)です。下絵の書き方、材料の木の選び方、乾燥のさせ方、頭、手足、胴の作り方、肉付けの仕方、色付けの仕方、着物の着せ方、人形の取り扱い方等、最初から最後まで活人形の作り方の話で、これ以上はないというくらい詳しく語られています。改めて読んでみて、これもまた活人形の何たるかを知るうえで大切な資料ではないかと思い、今回紹介した次第です。

ついでながら、現在では一般に「生人形」と表記されます。私もそれに従っていますが、江戸、明治のころは、どちらかというと「活人形」の方を多く使っていました。個人的にも「活人形」の方が好きです。「生人形」はあまりにも生々しすぎて、いけません。

第四回更新 更新日:平成28219日(金)

カテゴリ「資料紹介:活人形の話」に、初世安本亀八の談話を追加しました。

雑誌『名家談叢』十二号(明治298月)、十三号(明治298月)、十七号(明治301月)、十八号(明治302月)に「活人形の話」として掲載されたものです。

順序からいうと、こちらが先になりますので、前回の分の上に持ってきました。これで二世亀八の談話があれば全部揃うのですが、明治三十二年七月、四十三歳という若さで亡くなっているので、かれに関する資料はひじょうに少なく、むろん談話も見つかっていません。

明治二十七年三月九日の明治天皇銀婚式に初世、二世、三世の亀八がそろって高砂人形を作り、天皇家に献上しましたが、今回幸いにも二世の高砂人形が口絵に出ており、これで初世と二世の二つが揃ったことになります。こうなれば三世の高砂人形も見つけなければなりませんが、それらしいものはあるものの、残念ながらまだ特定にはいたっていません。

第五回更新 更新日:平成2834日(金)

カテゴリに「資料紹介:パノラマの構造」を追加しました。

 雑誌『名家談叢』九号(明治295月)に掲載されたもので、明治二十九年四月一日より浅草日本パノラマ館で幕をあけた平壌総攻撃のパノラマ画を描いた小山正太郎の苦心談です。明治二十三年五月に開館した上野パノラマ館で、すでに矢田一嘯が戊辰戦争のパノラマ画を描いていますが、上野パノラマ館はその規模が小さく、世界的に通用する本格的なパノラマ画としてはこれが最初です。日本人として初めて手掛ける本格的なパノラマ画、小山がいかに苦心したかは、その談話の中で〝困難〟という言葉を十三回も使っていることからも察せられます。

なお参考として、昭和九年に小山の画塾「不同舎」の生徒たちが発行した『小山正太郎先生』より、パノラマ製作に協力した石川寅治と満谷国四郎の文章を抄録して載せました。この二人は、小山正太郎が手掛けたもう一つのパノラマ画、旅順激戦の製作も手伝っています。こちらは明治三十一年三月二十日より平壌の後をうけて同じ浅草日本パノラマ館で開館しました。

この二つのパノラマ画の報酬は巨額なもの(一説に平壌総攻撃の揮毫料だけで三千五百円)だったらしく、それが証拠に、このあと小山は貧乏生活から脱却し、妻をめとり、大きな邸宅を建てています。


第六回更新 更新日:平成
28318日(金)

カテゴリに「資料紹介:軽業師大浦組」を追加しました。

明治2618日から114日の大阪朝日新聞に五回にわけて連載されたものです。明治十八年から二十年にかけてアメリカへ渡り、軽業一座の興行をした男の失敗と成功の物語です。この手のものはホラが多く、また書き手の記者もそれに尾ヒレを付けておもしろおかしく書きなぐるので、どこまで信用していいかわからないのですが、それなりに得心できる部分もあるので、お話として楽しんでいただければいいかなと思い、アップしました。

第七回更新 更新日:平成2841日(金)

 カテゴリに「のぞきからくり」を追加しました。

 「のぞきからくり」は江戸時代のはじめ、飴売りがおまけとして担いだことにはじまります。やがてプロ集団が生まれ、屋台も大型になり、風景画や夜景を見せる工夫がなされます。それと同時に「八百屋お七」や「お染久松」のような外題物がうまれ、三味線や太鼓で節をつけて唄うようになります。幕末に確立したこの様式は、明治、大正を経て、昭和の五十年代まで命脈を保ちました。昭和二十四年生れの編者はぎりぎりこれを見た(聞いた)世代です。そして今、いったん滅びかけた「のぞきからくり」をなんとか残そうと尽力されている方たちが各地におられると聞きます。なんとも頼もしく、嬉しい限りです。

今回、この懐かしき「のぞきからくり」の変遷を、故山本慶一氏著『のぞきからくり』を中心に、江戸時代だけに限ってまとめてみました。といっても、堅苦しい論考は極力避け、できるだけ見て楽しめるようにしました。どうかお気軽に覗いてみてください。「じょなめけ、〳〵」です。

第八回更新 更新日:平成28415日(金)

 カテゴリに「松旭斎天一談話集」を追加しました。

 明治奇術界の覇者松旭斎天一はたくさんの談話を雑誌や新聞に残しています。天一の話は事実誤認やホラも多く、どこまで信用していいか分らないので困るのですが、それだけにできるだけ沢山の談話を集め、当ブログの「松旭斎天一興行年表」と対照しつつ、虚実を見極め、彼の実像に迫っていきたいと思っています。しかし、翻って考えれば、大ボラを吹き、客を圧倒し、手品をより魅力的に見せるというのも芸人としての真実なのですから、そこはなかなかむずかしいところです。

 今回はその第一回として、大阪毎日新聞の「天一の奇術談」(明治三十三年・全六回)を掲載しました。まだ最初なので、話の内容についてのコメントは控えます。ただ福井県での生立ちに関しては長野栄俊氏の「松旭斎天一と福井藩陪臣牧野家」(「若越郷土研究」562号・平成24年)を推奨しておきます。

第九回更新 更新日:平成2856日(金)

 カテゴリに「資料紹介:猿芝居」を追加しました。

明治4112日から17日の大阪毎日新聞に五回にわけて連載されたものです。

筆者の「雨之助」は本名を山下胤次郎といい、兵庫県武庫郡住吉村の生れ。早稲田専門学校を卒業後、二十二歳のとき雑誌『新著月刊』に「無底沼」を発表、小説家としてデビューしました。しかしその後は目立った作品もなく、明治三十四年十一月、大阪毎日新聞に入社しています。入社後は「雨之助」の署名で「千日前の表面裏面」「楽屋の内外」等、大阪の風俗、芸能に取材した連載記事を多数掲載しました。その内容はいずれもおもしろく、編者も愛読者のひとりでした。しかし残念なことに、明治四十二年十一月十五日、三十四歳の若さで亡くなりました。

第十回更新 更新日:平成28520日(金)

 カテゴリに「資料紹介:猿廻し」を追加しました。

「猿廻し」は明治391016日、19日に大阪朝日新聞に連載されたもの、「猿廻しの生活」は明治4119日から116日の大阪毎日新聞に五回にわけて連載されたものです。

今日では人権的に問題のある記述も多いですが、大阪を中心とした関西周辺の猿廻しの実態が実に具体的に描かれていて興味が尽きません。

文中にもありましたが、猿は「去る」に通じるため忌み言葉とされ、その反対の「得る」より「得手」、さらに親しみをこめて「エテ公」「エテ坊」(単に「ボー」とも)とよぶようになったそうです。また「ヒコ」は猿田彦に由来するとあります。

今の子どもたちはエテ公といっても何のことかわからないけれども、わたしたち世代は漫才の秋田Aスケ・Bスケさんのお蔭で、それが猿のことだとみんな知っていました。「エテ公の子」(いい所の子どもとをかけた)のギャグは大流行し、学校でもよく使ったものです。

猿廻しの中で特に資質のある猿を仕込んで猿芝居に送り込んでいます。前回の猿芝居に登場した猿は、芸名までもつ、いわば猿仲間のスター的存在だったのです。 

第十一回更新 更新日:平成2863日(金)

 カテゴリに「資料紹介:犬の芸」を追加しました。

明治291220日付「時事新報」に「犬の芸」として掲載されたものです。太夫元田嶋寅吉を取材しての記事です。

この記事は阿久根巌氏の『元祖・玉乗曲藝大一座』(ありな書房・平成六年)の第九章「犬の玉乗り」(122131頁)にすでに紹介されており、二番煎じなのですが、猿の次に犬を出さないのは不公平なので、省略されている部分及び挿絵も追加して再録しました。

現在も「わんわん大サーカス(内田芸能社)」というワンちゃんだけのサーカスがあり、ブランコ、綱渡り、球乗り、縄跳び等の芸をするワンちゃんをテレビ等で時々見かけますが、かれらの身体能力の高さには本当に驚かされます。上述の記事や掲載した絵ビラの内容は決して誇張ではないことはこれを見ても充分に納得できます。

田嶋寅吉は長楽一座を旗揚げし、犬の曲芸で成功したあと、欧米式大曲馬を組織し、日本各地を巡業しました。しかし彼の名もその一座の名もいまやほとんど忘れ去られ、日本のサーカス史にその名が刻まれていないのは残念なことです。

第十二回更新 更新日:平成28617日(金)
  カテゴリ「松旭斎天一談話集」に、雑誌「新古文林」第一巻第五号(近事画報社・明治三十八年年八月一日発行)より、「松旭斎天一の話」(わかば)を追加しました。

これは青園謙三郎著『松旭斎天一の生涯』(品川書店・昭和五十一年)に再録されており、これまた二番煎じなのですが、天一の談話の古典的な位置を占めてきたもので、口絵の写真を追加して掲載しました。前回の大阪毎日新聞の「天一の奇術談」(明治三十三年)より五年後に語られたもので、これも内容的に問題が多々あることはすでに青園氏が指摘されているとおりです。この二つの記録の統合性を探るのが義務なのでしょうが、まだ考証は置いておきます。ただ一カ所、とても感興をそそられた箇所があったのでそれだけ書いておきます。

それは「竹の子の岩吉」のことです。浪花節の起源は伝説の中にあり、実証的な研究をするにも確かな資料がまったくありません。関西の浪花節の祖は浪花伊助で、その弟子に浪花秀吉と吉田岩吉がいたとされています。いや、岩吉は秀吉の弟子だという説もあります。当時は浪花節専用の寄席などなく、殆んどが旅稼ぎです。芸名も高足駄の秀(足なえの秀トモ)とか竹の子の岩吉と綽名で呼ばれ、向う鉢巻片肌脱ぎで、尻を捲くって語っていたといいます。この岩吉が奈良丸に繋がる吉田派の祖とされていますが、阿波か淡路の出身という以外具体的なことは何もわからず、その実在すら疑わしいほどでした。

それだけに天一の談話の中に「竹の子の岩吉」が出てきたのには驚きました。明治維新前後に淡路島の片田村で浮れ節の岩吉の前座を勤めたというのです。綽名で呼んでいることなど、これは嘘(ホラ)ではなさそうです。まったく思いがけないところで貴重な証言を得、浪花節の歴史に一閃の光明を見た思いで、なんとも嬉しいことでした。



misemono at 11:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)更新履歴(明治28年度) 

更新履歴(平成二十八年度)二

第十三回更新 更新日:平成2871日(金)

カテゴリに「資料紹介:千日怪談」を追加しました。

明治二十九年三月八日、大阪千日前に横井座が開業。その翌九日、座主横井勘市が斬られ、十九日に死亡します(「見世物興行年表」明治二十九年[二頁]参照)。この事件はよほど浪花っ子の印象に残ったのか、それから十四年たった明治四十三年の八月二十七日から九月九日まで、大阪朝日新聞に十回にわたって「千日怪談」の表題で勘市刺殺事件及び後日談が連載されました。当時の記者の取材は、特に三面記事では今日ほど厳密ではなく、夏場の怪談仕立の読物と言えなくもありませんが、ともかくも勘市の履歴を伝えており、また歌舞伎興行(中芝居)の裏面がリアルに描かれていたりして、いくらかは参考になります。

第十四回更新 更新日:平成28715日(金)

その一、明治42113日の大阪朝日新聞に「寄席十種」という連載記事の(八)に「猿芝居」が取り上げられていたので、カテゴリ「資料紹介:猿芝居」に追加しました。

 その二、明治40414日、17日の新愛知に「天一の奇術談」が連載されていたので、カテゴリ「松旭斎天一談話集」に追加しました。また、カテゴリ「松旭斎天一興行年表」(二十二)に掲載していた明治3892426日の大阪毎日新聞に三回にわたって連載された「松旭斎天一の談話」をカテゴリ「松旭斎天一談話集」に移しました。
                                                                           ※

 てじな 005今年三月、公益社団法人日本奇術協会より『日本奇術文化史』が発刊されました。著者は奇術史研究の第一人者河合勝氏と福井県立図書館司書の長野栄俊氏です。第一部「日本奇術の歴史」(長野)、第二部「日本奇術演目図説」(河合)、第三部「資料編」(河合・長野)の構成で、A4414頁の大作です。資料編の一つに「日本奇術人名事典」(長野)があります。昭和六十四年迄に没した奇術師(奇術史家を含む)約五〇〇人が立項されています。奇術師の来歴はほとんど明らかにされていません。事実この中で生没年共にわかる奇術師は三十余名にすぎません。事典をつくる上でこれが如何に歯がゆいことか、昔少しく経験した者としてその苦労(ストレス)が手に取るように想像できます。心からご苦労様と言いたい。

ついでながら、この難事業に挑まれた長野氏はわがブログのカテゴリ「松旭斎天一興行年表」の共同編集者です。昭和四十六年生れの四十五歳、まだまだ若い。これからの奇術史研究を荷っていく気鋭の研究者です。増々の活躍を期待しています。


第十五回更新 更新日:平成2885日(金)

カテゴリに「資料集成:明治の千日前」を追加しました。

「見世物興行年表」を作る過程で、千日前に関する資料がいくつか集まりました。見世物に関するものは「年表」にも入れましたが、これらの資料を年代順に並べて、明治の千日前を再現してみようと思い立ちました。もし編者が東京なら浅草を、名古屋なら大須を、京都なら新京極をやったでしょうが、大阪で生まれ育ち、ミナミで遊んできた者としてはやはり千日前を選ばざるをえません。

第一回目に紹介するのは雨之助の「大阪の千日前」(『新小説』第五年第十一巻・明治33825日発行)と「春の千日前」(「大阪経済雑誌」(第九年第十一、十二、十四号・明治34120日、25日、320日発行)です。資料的にあやふやな記述も多いですが、当時の記者たちの認識を再現するという意味も含め、あえてそのままで再録しました(はっきりと誤りと分るところは註釈で示しました)。明治の千日前の猥雑なまでの喧噪を少しでも感じていただければ幸甚です。 

なお、今後の理解の一助にもならんかと思い、「見世物興行年表」より千日前で興行された見世物を抜き出し一覧にしたものを最初に付けました。よろしくご参照ください。

第十六回更新 更新日:平成28819日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に「千日前通信」(大阪毎日新聞・明治33114日)、「千日前総まくり」(大阪朝日新聞・明治3479日~729日・13回)、「千日前の今昔」(大阪朝日新聞・明治391022日~115日・9回)、「呼込の練習」(大阪朝日新聞・明治4262122日)を追加しました。

 「千日前総まくり」は雑誌『上方』十号(南木芳太郎編・上方郷土研究会・昭和6101日発行)に「三十年前の千日前」の表題で再録されています。しかし大幅に文章が省略され、図版も全部カットされています。それから半世紀以上たって雑誌『上方芸能』九十二、九十三号(昭和618月・11月)に、図版も入れ、より完全な形で紹介されました。ですので、いまさらに再録する意味があるのか自問するところですが、すでに三十年がたち、かつ千日前にとって欠かせぬ好資料なので、仮名遣いも含めより原文に忠実に、図版もすべて挿入して決定版とすべく作成しました。

「千日前の今昔」も雑誌『上方』十号に「五十年前の千日前」の表題で再録されています。こちらは記事そのままに紹介され、千日前の地図も掲載されています。よって今回はまったくの二番煎じですが、これまた貴重な記録なのであえて再録しました。

桂米朝師匠の「一文笛」の主人公秀は掏摸の名人ですが、これらの資料を読んでいますと、明治の千日前は実に多くの掏摸が暗躍していたことがわかります。これらを明治の都市現象の一断面として考察してみるのも意義深いかもしれません。

第十七回更新 更新日:平成2892日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に川柳雑誌『番傘』(通巻8号・関西川柳社・大正4825日発行)より八公「千日前より」を、雑誌『上方』(九十九号・上方郷土研究会・昭和1431日発行)より田中三寶「搖籃時代の大阪美術と見世物」を追加しました。

『番傘』は大正二年に大阪で創刊され、現在も続いている老舗の川柳雑誌です。今回取り上げた八公の「千日前より」は『番傘』初期より久しく連載された「八公随筆」の一編です。筆名の八公は同人浅井五葉(明治十五年生)の別号です。短いものですが、川柳家らしい一味違った文章で、明治の千日前が活写されています。

田中三寶の「搖籃時代の大阪美術と見世物」は、明治八年正月、千日前の本格的見世物第一号の名誉を荷った中谷豊吉について調べていた時に出合ったものです。中谷豊吉は広島出身で、省古と号し、山口県の大賀可楽に人形制作を習っていたことを、これにより初めて知りました。生没年は不詳ですが、子息の中谷翫古(彫刻家・本名房吉)は明治元年生れで、また平櫛田中(明治五年生)も若き日に豊吉に弟子入りし、木彫の手ほどきを受けています。

第十八回更新 更新日:平成28916日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に木村半文銭「千日前今昔史」(『川柳雑誌』第9巻第7号~第103号・川柳雑誌社・昭和771日~昭和831日発行)と平井正一郎「千日前の芝居と見世物」(『大阪辨』第六号・みなみ特集・大阪ことばの会・昭和2681日発行)を追加しました。

 木村半文銭は川柳家。明治二十二年生まれ。これは雑誌『川柳雑誌』に七回にわたって連載されたもので、少年から青年期を迎えたころの千日前の思い出が縷々綴られています。

平井正一郎は劇作家・演出家。生没年は不詳ですが、冒頭に「私の物ごころついた時分(明治四十年頃)の千日前は、現在のそれよりもつと賑やかな印象が残つている」とあり、こちらも大火前の千日前の思い出を綴っています。

横井勘市が射殺されたとあるなど記憶違いのところも少なからずありますが、そんな細部よりも、ふたりが少年期、青年期を過ごした明治末期の千日前が、時に懐かしく、時に猥雑に、交差し、重なりあい、より鮮明に、具体的に、立体的に再現、構築されています。

第十九回更新 更新日:平成28107日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に雨之助の「千日前の表面裏面」を追加しました。大阪毎日新聞に明治35628日から821日まで40回連載されたものです。詳細は本文をご覧ください。記者の雨之助については第九回更新に紹介しています。明治3411月に入社。これを書いた時はまだ27歳の若さでした。

 明治35年夏の千日前の詳細な現地ルポです。余りにも細部にわたり、しかも表面より裏面に力点が置かれていて、芸能(見世物)の資料としてはどうかと思うところが多々あります。よって今回はすべての紹介ではなく、編者の独断で取捨選択しました。但し切り捨てた条には概要を付し、おおよその内容だけはわかるようにしました。量が多いので二回に分けて掲載します。何もかも放り込んだごった煮のようなものですので、好きなものだけ取り出してご賞味ください。


第二十回更新 更新日:平成281021日(金)

カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に雨之助の「千日前の表面裏面」の後半を追加しました。

最後の「売春婦」は全部省くつもりでしたが、それでは点睛を欠くので概要だけ入れました。

文中に「盆屋」が出て来ますが、こういうものがあったのを初めて知ったのは米朝師匠の「二階借り」という落語を聴いたときで、なかなか粋なものだなと感心したのを覚えています。雨之助はその店の具体的な名前を列挙しています。これまた実に貴重(?)なものです。

これを入力している時、ふと誰かが盆屋の思い出を書いており、その部分だけコピーしたのを思い出しました。ずいぶん前のことです。本棚をひっくりかえしてやっと挿んだファイルを見付けました。『夜の京阪』(大正九年)という随筆集に宇野浩二が「大阪の花街」を載せ、その中に盆屋の思い出を書いていたのです。改めて読んでみると中々おもしろいので、余計なことながら、参考資料として最後に入れました。

さらに余計なことながら、千日前の金澤座についてこれほど詳細に書かれたものは外に見ません。歌舞伎の研究対象のほとんどは大芝居中心ですが、その底辺を支えていた小芝居にもいま少し光が当ってもいいのではと門外漢ながら思ったりしています。

第二十一回更新 更新日:平成28114日(金

 カテゴリ「資料集成:明治の千日前」に鵜野漆碩「千日前と奥田辨次郎」(『上方』十号・昭和6年)、三代目奥田辨次郎「明治初年の興行物」(昭141の講演筆記録)、上田長太郎「千日前の開発者奥田辨次郎の傳」(『上方』九十八号・昭和14年)の三篇を追加しました。いずれも千日前の開発者奥田辨次郎に関するものです。明治十年代初期の新聞にも辨次郎の記事が散見されます。今回それらを三代目辨次郎さんの「明治初年の興行物」の後に補注として追加しておきました。さらに今まで何度も語られてきた「千日前移転問題」についても出来るだけ正確にまとめて、その後へ追加しておきました。

「資料紹介:千日怪談(横井勘市物語)」ですが、辨次郎に引きたてられ、千日前の名物男になった横井勘市はやはりこちらの方が相応しいので移転しました。

 平成281024日(月曜日)に阿倍野墓地(大阪市営南霊園)へ行き、横井座慰霊碑と奥田辨次郎の記念碑と墓の写真を撮ってきました。31頁及び43に掲げておきました。併せてご覧ください。

以上、これで明治の千日前についてどうしても掲載しておきたいと思った資料は尽きました。「資料集成:明治の千日前」はひとまず終了とします。もちろん今後好ましい資料が見つかれば、随時追加するつもりです。

第二十二回更新 更新日:平成281118日(金

2011年(平成23年)正月から始めた「見世物興行年表」も、前回「資料集成:明治の千日前」が出来上がったことで、自分なりにはほぼ完結した思いがあります。この六年間、ひたすら走り続けてきましたが、この辺で暫し立ち止まり、これより来年一年をかけてじっくりと、今までの頁ひとつひとつを再確認してみるつもりです。つまりブログのメンテナンスです。

どこをどうメンテナンスしたかは必ず報告していきます。ただ今までのように月二回(第一、第三金曜日)ではなく、月一回(毎月末)とさせていただきます。第一回目の報告は十二月三十一日です。

本や論文はいったん発表したことを訂正、追加することはなかなか困難です。極端な話、間違ってもそのまま存続し、それが孫引きされたりもしています。その点ブログは直ちに対応できます。しかし翻って考えれば、ブログに携わるものはそのことを常に自覚し、責任を持ってそれを行う義務があるといえましょう。毎回いうようですが、ブログの信用性をより高めるためにさらに努力するつもりです。今後ともよろしくお願い致します。

<追伸>

丸屋竹山人さんが今年から開設されたブログ「上方落語史料集成」のお手伝いをしています。新聞調べのもともとのきっかけは上方落語の歴史を調べることでしたので、それなりの蓄積もあり、お誘いをいただいた時はすぐに了承しました。目下楽しく共同作業に勤しんでいます。来年はこちらにより多く精力を傾けたいと考えています。まだ途に就いたばかりですが、初めて紹介される史料も多く、これが完成すれば上方落語史にとって貴重な財産になることは間違いありません。まだ未完成ですが是非一度ご覧ください。

二十三回更新 更新日平成281231日(土)

 98日から1129日まで、大阪の国立民族学博物館で「見世物大博覧会」が開催されました。開催の前日(97日)に式典が行われ、実行委員会のお一人川添裕氏のご厚意で、編者も参列してきました。早竹虎吉等、久々に川添コレクションの数々を拝見し、改めてその素晴らしさに感嘆しました。お土産に図録を頂戴しましたが、オールカラー二百頁を超える立派なものでした。

博覧会

 こういう図録を見るのが大好きでして、一頁、一頁、楽しく拝見しました。ブログに白黒で掲載している報條(絵ビラ)や錦絵がカラーで出ていたものが数点あり、さっそく差し替えました。また、未知の史料も十数点あり、手許の史料と対照したうえで以下のとおり訂正、追加をしました(図録頁順)。

①安政34  九頁 図版「早竹虎吉 筑紫の飛梅④」大判錦絵二枚を、大判錦絵二枚続に訂正。(図録17頁)

②安政34  九頁 図版「早竹虎吉 富士の旗竿④」大判錦絵二枚続を中判錦絵二枚続に訂正。(図録17頁)

③天保13  七頁 図版「曲力持 浪花馬吉」を追加。(図録23頁)

④明治21年 二頁 図版「西洋大曲業 アグステン一座」二枚を追加。(図録35頁)

⑤明治31年 四頁 図版「青木瀧次郎 娘玉乗一座」二枚を追加。(図録36頁)

⑥明治23年 八頁 図版「女相撲番付」を追加。(図録41頁)

⑦明治35年 六頁 図版「馬芝居 太夫元二代目片山竹五郎」を追加。(図録81頁)

⑧明治27年 四頁 図版「馬尽しの錦絵」を追加。(図録81頁)

⑨万延元年 五頁 図版「紙細工 太夫元山桐其鳳」を追加。(図録114頁)

⑩明治20年 九頁 図版「呉服針留細工」を追加。(図録116頁)

⑪安政34  二頁 図版「生人形近江のお兼 三枚続」を追加。(図録129頁)

⑫慶応13   五頁 図版「駱駝 太夫元酒楽亭月亭」を追加。(図録139頁)

⑬明治3年  一頁 図版「象 太夫元鳥屋熊吉」を追加。(図録140頁)

⑭明治9年  三頁 図版「絵ビラ 大象 豊重画」を追加。(図録141頁)

⑮慶応13  二頁 図版「白澤」を象の報條の下に追加。(図録145頁)

⑯天保67  七頁 図版「阿蘭陀遊参船」の報條を追加。(図録155頁)

以下の五点も古書目録、ホームページなどにより追加しました。併せてご覧ください。

①安政56  六頁 宝船七福神の報條に口上文を追加。

②万延元年 七頁 豹の報條③に演義告條(口上文)を追加。
③万延元年 八頁 二代広重の豹の錦絵を追加。

④明治7年  四頁 図版「昔ハ祖師方今為観物」の説明文を追加。
⑤明治
10年 四頁 図版・中判錦絵「今昔相撲鏡」を追加。
 
余談ながら、図録を拝見していて、所蔵者が「民博」となっている報條(絵ビラ)や錦絵の数多くが阿久根巌氏の『サーカスの歴史』の口絵等に掲載されていたものと重なっていることに気付きました。もし阿久根氏の史料を民博が引き受け、こうして展観して下ったのなら、それはそれで嬉しいことです。

 それでは来年もよろしくお願いいたします。どなた様もよいお年をお迎えください。




misemono at 11:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)更新履歴(明治28年度) 

2016年11月04日

資料集成:明治の千日前(1)  目次


            資料集成:明治の千日前 


奥田 002


目次

①千日前見世物興行一覧    (「見世物興行年表」より作成)……23

②大阪の千日前(雨之助)   『新小説』第五年第十一巻(明治33825日発行)……45

③千日前通信         「大阪毎日新聞」(明治33114日)……6

④春の千日前         「大阪経済雑誌」第九年第十一、十二、十四号(明治34120日、25日、320日発行)

                ……713

⑤千日前総まくり       「大阪朝日新聞」(明治3479日~729日・13回)……1416頁  

⑥千日前の表面裏面(雨之助) 「大阪毎日新聞」(明治35628日~821日・40回)……1725

⑦千日前の今昔        「大阪朝日新聞」(明治391022日~115日・9回)……2628

⑧呼込の練習         「大阪朝日新聞」(明治4262122日)……29頁  

⑨千日怪談(横井勘市物語)  「大阪朝日新聞」(明治43827日~99日・10回)……30頁~31

⑩千日前より(八公)     『番傘』通巻八号(関西川柳社・大正4825日発行)……32

⑪千日前の草分婆さん     「大阪朝日新聞」(大正7610日~616日・6回)……3334

⑫千日前と奥田辨次郎(鵜野漆碩)

              『上方』十号(上方郷土研究会・昭和6101日発行)……35

⑬千日前今昔史(木村半文銭) 『川柳雑誌』(川柳雑誌社・第9巻第7号~第103号・昭和771日~昭和831日発行)

                ……3642

明治初年の興行物(三代目奥田辨次郎) ─付・黎明期の千日前と奥田辨次郎/千日前移転問題

              (昭和14125日、大阪明治文化研究会にての講演筆記録)……4344

⑮千日前の開発者 奥田辨次郎の傳(上田長太郎)

              『上方』九十八号(上方郷土研究会・昭和1421日発行)……45

⑯搖籃時代の大阪美術と見世物(田中三寶) 

              『上方』九十九号(上方郷土研究会・昭和1431日発行)……46

⑰千日前の芝居と見世物(平井正一郎)

              『大阪辨』第六号・みなみ特集(大阪ことばの会・昭和2681日発行)……4748

………………………………………………………………………………………………………………………………

凡例

一、各資料の転載にあたり、一部当用漢字に改め、新たに段落を設け、句読点を追加し、明らかな誤字・脱字は訂正した。

一、仮名遣いは現代と異なる部分が多く、読みづらいところもあるがそのままとし、ルビを付して理解しやすくした。

一、文中の事柄についてはっきりと間違いと判断できるところやそのままでは理解しにくいところは註解を施し、読解の手助けとした。

一、新聞や雑誌に挿絵があった場合はすべて掲載した。

一、本文中には今日の人権意識、人権擁護の立場に照らして差別的とされる語句が含まれるが、時代背景や文化状況を知るための資料であることを考慮し、原文のままで掲載した。

なお上掲の写真は藤田実「絵葉書でみる明治末~大正初年の千日前─「映画街」の黎明期─」(『大阪の歴史』74号・大阪市史料調査会・平成22122日所収)に掲載されたものを拝借した。明治四十年代の千日前風景で、現在の千日前通りから道頓堀方面を向いて撮ったもの。右手前(千日前東側)に見えるのが奥田席である。

 




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2016年09月16日

資料集成:明治の千日前(2)  千日前見世物興行一覧(一)


            千日前見世物興行一覧

【明治6年】

☆七月十八日、火葬が禁止される。(太政官布告)

【明治7年】

☆東成郡天王寺村、西成郡長柄村、(明治8年)西成郡岩崎新田の三箇所に埋葬場ができる。千日前の墓地は天王寺村(阿倍野墓地)へ移転する。

【明治8年】

○一月一日より、千日三昧跡にて、中谷豊吉のからくり細工生人形。口上あまからや。

○四月二十四日より、千日焼場跡にて、猛獣、奇獣の見世物。

☆五月二十三日、火葬禁止が解禁となる。(太政官布告)

☆七月、天王寺村、長柄村、岩崎新田の埋葬場の払下げをうけ、葬儀会社八弘社が設立される。

【明治9年】

○一月一日より、朝川亭雪鵞の新聞百事生人形、小寺金蔵の貝細工、大江定橘郎のからくりキカイ人形、犬芝居などの見世物が出る。

○七月下旬、坂町東入小家にて、塚本直七の水からくり。

○十二月二十五日より、早竹藤五郎・江川半治の軽業。

【明治10年】

○一月一日より、大江定橘郎の器械細工人形の見世物。

○一月一日より、中谷豊吉の生人形。

○一月一日より、牛角力の見世物。

○一月七日より、若柳小蝶の剣渡り。

○一月、柳川蝶玉斎の西洋手品。

○二月、迷路「八幡の藪知らず」の見世物。

○八月十七日より、オーストリアのグチエの曲馬。

【明治11年】

○一月一日より、三都名所、機械細工、狼の芸、熊の芸、天井渡り、汽車の雛形、大人形の迷路、チウ〳〵太夫等の見世物が
 出る。

○一月二十八日夜、千日前で火災が起る。(第一回目の大火)

○二月、西南戦争抜刀隊戦死者の追善撃剣会。

○五月二日より、北栄座座主が女撃剣会を興行。

○七月二十日より、瓢箪の見世物。

○八月、オーストリアのグチエの曲馬。興行人奥田弁次郎。

【明治12年】

○一月一日より、チュウ〳〵太夫が一世一代の芸尽しを興行。

○二月三日、中西萬吉の小屋にて、西洋手品。興行人大沢長兵衛。

○二月七日より六月三十日まで、松本喜三郎の生人形「西国順礼三十三所霊験記」。

○八月、大阪市中にコレラが蔓延し、千日前の見世物興行の多くが停止される。

○十月、海坊主の見世物。

【明治13年】

○一月一日より、中谷豊吉の生人形「里見八犬伝」。

○一月一日より、蜘蛛男・養老勇翁の見世物。

○一月、骸骨の見世物。

○三月上旬より、柳川夢丸の西洋手品。

○三月、珍獣の見世物。興行人野口忠兵衛。

○五月、カシレイ魚の見世物。興行人曽根崎村長尾芳三郎。

○七月一日より、竹林寺にて、赤穂四十七士木像の見世物。

○七月一日より九月三十日まで、高小屋にて、水機関の見世物。

○七月十三日より、アメリカ産の猩々(オランウータン)の見世物。

○八月、女手踊(実は相撲)の見世物。

○九月上旬より、新金比羅神社前の小屋にて、水花火の手品。

○九月二十日頃より、力持の見世物。

○九月三十日、若林健三郎の火渡りの術。

○九月、長崎の若松小しげ、しげぢの女曲馬。

【明治14年】

○一月一日より、麦わら細工、日蓮記、大姉人の手踊り、松本喜三郎の息子の生人形、大象、虎、海士の鯉つかみ、撃剣、首切、足芸、カッポレ、二〇カ、落語、新内、さへもん、猿芝居等の見世物が出る。

○一月一日より、正面の小屋にて、大女大渕丸子の見世物。

○一月一日より、松本吉三郎の生人形「活人形能番組」。

○一月一日より、金比羅前にて、海女の見世物。

○一月、大鼠の見世物。

○五月、剣渡り、火渡り、水渡りの合併興行。

○七月十日より、阿波の先山慶造の仕掛花火と柳川小熊の綱渡り。

○七月、突当りの小屋にて、大瀧の見世物。興行人竹市。

○八月、行き突当りの小屋にて、猩々の夫婦の見世物。興行人竹市。

【明治15年】

○一月一日より、安本亀八の生人形「三府高名真似顔合鑑」。

○二月、猿芝居。

○六月、動物や獣の骨等の見世物。

○七月頃、蟹のようなる赤ん坊の見世物。

○十月一日より、熊と虎の見世物。太夫元奥田弁次郎。

○十月、大鯰の見世物。

【明治16年】

○一月一日より、東海道五十三駅の生人形瀬戸物細工、貝細工の生人形、羽二重細工の生人形、鉄割の足芸、朝鮮事変の大目鏡、根室県根室タコロ島の海馬(トド)・海虎(トツカリ)等の見世物が出る。

○一月一日より、正面小家にて、清水楽焼生人形「東海道五十三次」。細工人井上辰次郎。

○一月一日より、貝細工の生人形。細工人小寺良久・高橋幸助。

○三月、溝の側東へ行当りの日蓮大士真実伝遊覧所にて、おそめ久松の生人形。

○四月、陶器の早焼きの見世物。

○五月、雷獣の見世物。

○七月一日より、正面小家にて、生人形「金毘羅霊験記」。太夫本桂和正斎

【明治17年】

○一月一日より、行当り東側小家にて、象の見世物。太夫元吉田卯之助。

○一月一日より、溝の側東へ行当り小家にて、正田敬輔の生人形「俳優似顔生人形」。

○一月一日より、定席にて、桂和正斎の生人形「准歌開化世盛」。

○一月一日より、突当りにて、迷路の見世物。

○一月より、奥田弁次郎の小家にて、海漫龍の見世物。太夫元備前富士雪之進。

○二月十四日より、早竹(早綱)鯉之助・安五郎の軽業。

○六月中ごろより、行当り東側小家にて、花龍・大蛇・麝香鼠の見世物。太夫元奥田弁次郎。

○八月、坪井金光の撃剣会。

○九月中旬、睾丸(アルコール漬)の見世物。口上大和三四郎。

【明治18年】

○一月一日より、正面小家にて、菅原錦翁斎の縄細工。

○六月、オランダ産の蛇の見世物。

○八月、中村光徳の手品。 

【明治19年】

○一月一日より、四十八癖の生人形、生駒幸蝶一座の足芸、鉄割福松の足芸、西洋手品、猿芝居、女角力、山男、獣物尽しの人形等の見世物が出る。

○一月一日より、生駒幸蝶一座の足芸軽業。

○一月一日より、中村善平戯作・朝田吉光細工の生人形「新聞穴探四十八癖百妖笑々寄如件」。

○一月一日より、山男の見世物。

○二月二十日より、ジョントロー(本名藤川広太郎)の軽業。

○三月、ヘラ〳〵踊りの見世物。

○この夏、コレラが大流行し、千日前の興行物が全面的に禁止される。

○八月十三日より、犀、豹、大蛇、猿の見世物が許可される。太夫元河井貞次郎。

○八月二十日より、ヘラ〳〵踊りの見世物が許可される。

○八月二十一日より、洋犬の芝居が許可される。

○九月一日より、手品・手踊りの見世物が許可される。興行人奥田弁次郎。

○十月七日夜、大阪千日前で大火災が発生する。(第二回目の大火)

【明治20年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

両国お花の絹糸渡り、常磐津繁尾一座のヘラ〳〵踊、小澤秀寿の鞠乗、中村盆智等の一座の身振狂言、諸流合併の撃剣、ジヤグラン一座の玉乗、松本喜三郎の生人形、堀井仙助一座の照葉狂言、象の欄杭渡り、宝川伝吉一座の軽業、吉井重五郎一座の照葉狂言等。

○一月一日より、大象の見世物。太夫本吉田卯之助。

○六月一日より、西側の大小屋にて、松旭斎天一の手品。

○六月一日より、東側の大小屋にて、三代目早竹虎吉の軽業。 

○六月十六日より、女の柔術家と力士の腕くらべ。

☆七月二十三日、千日前興行場禁止令が出る。(明治二十一年十二月限り興行禁止)

○九月一日より、西側大小家にて、万国鳥獣の見世物。太夫元成瀬松五郎。

○十二月一日より十日間、新金刀比羅社前相撲場にて、ウエブスター・九紋龍の内外合併相撲。

○十二月一日より、西側大小家にて、万国鳥獣の見世物。太夫元成瀬松五郎。

○十二月二十八日より、木村席にて、大女伊勢川せんの見世物。

○この年、ヘラ〳〵踊りが大流行する。

【明治21年】

☆四月十八日、千日前興行場禁止令の二年間延期が承認される。(明治二十三年十二月まで延期)

○夏頃、外国力士ウエブスター一行の合併相撲。 

○十二月十五日より、溝の側角定小家にて、古今無双の手芸。太夫元金川藤兵衛。

【明治22年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

  細工人大江定橘の機械運動生人形(木村席)/清国張世存一座の曲芸(木村席)/田中政道(ママ)の大象の芸と小人の手踊り(木村席)/中山団平の足芸(金沢席)/篠塚一座のヘラ〳〵踊り(吉田席)/磐梯山破裂の大眼鏡(野口席)/達磨の大人形(姉子席)。

○一月一日より、木村席にて、象と小人の見世物。太夫元田中政直。

○一月一日より、木村席にて、大江定橘の機械運動生人形。

○四月十五日より、木村席にて、樋口歌治の女曲馬。

○四月よりの見世物一覧。

一二三四小僧の不具の見世物・太夫元山本秀生堂/両国光琴一座の西洋手品/大江の生人形/樋口歌次一座の女曲馬/原田譲一座の撃剣試合/五島米太夫一座の猿芝居。

○十一月三日、常の家重尾一座のヘラ〳〵踊りを興行中の吉田席が倒壊し、死傷者多数出る。

【明治23年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

動物の大集合(唐竹席)/山がらの芸尽し(榧木席)/難波福松一座の西洋軽業(奥田席)/浅田の生人形(第一木村席)/松本喜三郎の生人形(第二木村席)/大女の見世物(第三木村席)/猿芝居(第三横井席)/しっくい細工(眺望閣内)/東海道鉄道の眼鏡(鶴席)。

○一月一日より、木村席にて、大女伊勢川扇女の見世物。

○一月一日より、木村席にて、朝田丈之助の生人形「皇国名勇伝」。

○一月、熊本の宮本治平の生人形。

☆七月十五日、千日前興行場禁止令の十年間延期が承認される。(明治三十三年十二月まで延期)

【明治24年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

電気仕掛の人形(奥田席)/器械人形(吉田席)/油絵(木村席)/大象、虎、駱駝(石田席)/重尾一座のヘラ〳〵踊り(石田席)/常盤作の万国名所(眺望閣)。

○三月、山嵐・駱駝・鸚鵡・鸚鴎・大豹・大虎の見世物。太夫元吉田卯之助。(絵ビラより)

○五月一日より、木村席にて、常の家重尾一座のへら〳〵踊。

○五月九日、パノラマ館が開館。

○六月十日より、奥田席にて、シルバーマン一座の手品。興行人奥田弁次郎。

○九月十六日より、奥田席にて、玉屋小市と吉田虎造の博打(骨牌四十八手)の見世物。

○九月、奥田席にて、アイヌの物産展。余興にアイヌ人の手踊りを見せる。

○十月二十一日より、木村席にて、油絵の見世物。興行人奥田弁次郎。

○十一月、千日前の各席にて濃尾地震(1028日)関連の見世物が多く出る。

【明治25年】

○一月一日より、横井席にて、江島栄次郎の生人形「幼学忠孝鑑」。

○十月、篠塚一座の常磐津女手踊の見世物。

○十一月三十日より、千代の席にて、袋鼠(カンガルー)の見世物。

○十二月一日より、石田席にて、ラツクワルデイ夫妻の奇術。

○十二月十四日、東側北の端に、三階建ての奥田席が新築落成する。

【明治26年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

石田席・生駒胡蝶の軽業と足芸、八千代席・袋鼠人との相撲、井筒席・電機の機械人形、奥田席・洋行戻りの軽業。

○一月一日より、奥田席にて、奥田弁次郎の西洋軽業。

○五月、石田席にて、アチョン一座の曲芸。

☆七月、千日前興行場禁止令が取り消しとなる。

○十一月、石田席にて、女の力持ち。

○十二月十五日より、奥田席にて、西洋軽業。

【明治27年】

○九月一日より、神谷席にて、日清戦争の油絵の見世物。

○十月、奥田席にて、猩々(オランウータン)の見世物。

○十月、五島重太夫一座の猿芝居「平壌大勝の場」。

【明治28年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋軽業(奥田席)/大象と大虎の曲芸(井筒席)/別嬪婦人の力持(井筒席)/生人形(吉田席)/男女の撃剣会(柴田席)/猿男の曲芸(石田席)/虎遣いと三丈余りの大蛇二匹(千代野席)

○六月一日より、空中運動活石像の見世物。

○九月二十五日より、井筒席にて、チロー館(ミラーハウス)の見世物。

○十一月、奥田席の軽業師荒山鹿之助が、アボット嬢に対抗して怪力の技芸をやる。

【明治29年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

荒山鹿三郎・生駒房吉の西洋運動(奥田席)/小松家幸次郎の子供玉乗り(井筒席)/海女の鯉とり(吉田席)/福嶋亀吉の子供軽業(西井筒席)/山猩々の芸づくし(千代の席)

○三月八日、横井座が開業。その翌九日、座主横井勘市が斬られ、十九日に死亡する。

○四月、千代の席にて、虎と蛇の見世物。

○七月八日より、井筒席にて、台湾人の曲芸。

【明治30年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋大運動(奥田席)/伊勢海女の鯉つかみ(吉田席)/地獄極楽の生人形(第一井筒席)/大名行列の生人形(第二井筒席)/空中運動(石田席)/インド人の手品(千代席)/異形の牛の見世物(梅山席)/美術人形(花遊園)

○一月一日より、奥田席西の空地にて、英国戻り大曲馬・曲芸。

○八月十三日より、第一観物場にて、世界無比美術怪談。

○十二月三十一日より、珍品館にて、エル・ベランメー作のフランス活動人形の見世物。



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2016年09月02日

資料集成:明治の千日前(3)  千日前見世物興行一覧(二)


≪千日前見世物興行一覧・続≫

【明治31年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋運動大曲芸身体自由の縄抜け(奥田席)/忠臣四十八義士吉良邸討入の活人形(第二改良席)/海女水中の技術(第三改良席)/人間穴探り四十八癖の活人形(第一井筒席)/犬芝居(第二井筒席)/西洋活動人形(吉田席)/動物園(千代の席)/野猿娘(福亭)/鵜飼と模造水雷火(今宮眺望閣)

○二月、竹岡五兵衛の生人形「生蕃探検」。

三月日、千日前の興行師奥田弁次郎死亡。

○九月一日より、奥田席にて、東京弘武会の撃剣会。

○十月、小宝席にて、猿の見世物。興行人浜崎庄太郎。

【明治32年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋大運動(奥田席)/猿男の手踊り(東井筒席)/虎の見世物(西井筒席)/生人形(第一改良座)/智恵童児(山本席)/鯉つかみ(第二改良座)/犬芸(千代の席)/曾我物語俳優似顔の生人形(横井遊覧所)/横田の軽業(横井南席)/東京娘の軽業(吉田席)/智恵鐘の運動(小宝席)

○三月六日より、西側井筒席にて、猩々(オラウータン)の見世物。

○八月十日より、井筒席にて、馬と人間の相撲。

【明治33年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

奥田社中の西洋運動大曲芸(奥田席)/洋犬まり乗り(井筒東席)/動物見世物(井筒西席)/チーロー百鬼夜行(第一観物場)/膝栗毛活人形(第二観物場)/都一座の娘軽業(吉田席)/竹皮細工(渡辺席)/山田一座の改良剣舞(柴田席)/機械短銃強盗の活人形(山本席)/日本チャリネの大曲馬(百花園)/大猩々(伊藤席)/大江山活人形(小宝席)/海女の鯉つかみ・南瓜おどり(横井座北席)

○一月一日より、百花園にて、日本チャリネの大曲馬。太夫元山本政七。

○五月二十二日より、大阪千日前吉田席にて、張世存らの曲芸。

○六月十五日より、横井座の北側にて、水族館が開園。

○八月十五日より、奥田席にて、義和団事変のパノラマ。

○十二月十五日より、アナトミ館にて、中谷省古作の人体解剖の蝋細工。太夫元二代目奥田弁次郎。

○十二月二十日より、六八会にて、木彫美術角力人形の見世物。

【明治34年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

[東側・北より南へ]女義太夫(播重席)/女義太夫(末広館)/奥田社中の西洋運動(奥田席)/ 女相撲高玉大力一座(第二井筒席)/赤穂四十七義士生人形(第一山田席)/鶴屋団十郎の二輪加(改良座)/怪談鏡抜け(第三井筒席)/松本海士水芸社中の海女の水芸(第三山田席)/歌舞伎市川福円一座(金沢席)/五嶋太夫の猿芝居(柴田席)/滑稽怪談迷いの道穴さがし(第二山田席)/新演劇村田正雄一座(南劇場・元横井座)/女手踊り(小宝席)

[西側・北より南へ]東京娘玉乗小松屋一座(吉田席)/太功記生人形(松永席)/難波戦記美術人形・ろくろ首(萬歳席)/江川海士太夫一座の海女の水芸(第一井筒席)/中谷省古作の人体解剖蠟細工(アナトミ館)/神仏美術機械生人形(山本席)/理学芸大釜抜け・太夫元天楽斎(千代の席)/新演劇高橋秀郎一座(逢坂席)

〇三月一日より、第三井筒席にて、旧千日前の実況の見世物。

○三月十六日より、横井座北手にて、渡辺牧治一座の娘曲馬(馬芝居)。

○四月十四日より、千代野席にて、インド人の奇術。

○九月、第一井筒席にて、中谷省吾・翫古・球二郎作の海陸産物等の蠟細工。

○九月、第二小宝席にて、天楽斎の奇術。

○十月十八日より十日間、奥田席にて、土佐犬の相撲の見世物。

○十月、井筒席にて、虎の見世物。太夫元美濃源。

○十一月二十一日より、吉田席にて、竹田貞一事柳水亭金枝の西洋奇術。

【明治35年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

東家力太郎の曲芸(一銭屋席)/天楽斎の軽業(小宝席)/怪談蠟細工(松井席)/土佐の犬角力(第三井筒席)/海底旅行(山田席)/英国ダーク一座の操り人形(第二井筒席)/西洋運動(奥田席)/大蛇その他(千代席)/猿芝居(石田席)/こより細工(萬歳席)/江川一座(第一井筒席)/動物蠟細工(長谷川席)/西洋手品(吉田席)

○一月四日、南大劇場(旧横井座)が焼失する。

○三月十八日より、南大劇場(旧横井座)焼跡にて、日本チャリネの曲馬。

○八月一日より、帝国パノラマ館が開館。

○九月一日より、山田観物場にて、朝鮮海大椿事日本漁夫之誉海賊退治の見世物。

【明治36年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

娘義太夫(播重席)/土佐犬角力(第二井筒席)/娘義太夫(春木席)/西洋運動(奥田席)/鏡抜け(山田席)/犬の芸(第三井筒席)/団十郎一座の俄(改良座)/市川福円一座の照葉狂言(金沢席)/女水芸(小宝席)/故松本喜三郎作の三十三所霊験記生人形(横井座跡)/難波戦記パノラマ(横井座跡)/日本チャリネ大曲馬(横井座跡)/嵐寛十郎一座の照葉狂言(南座)/成綾団の新演劇(弥生座)/朝鮮支那両国人手品(龍の席)/貝祭文(喜代丸席)/新内源氏節(八百駒席)/浮れ節(愛進亭)/娘大蛇使い(千代の席)/娘手踊(山本席)/宝楽一座の俄(柴田席)/改良剣舞(第一井筒席)/五天竺生人形(高木席)/女剣舞(吉田席)/万国名所巡り(南地五階眺望閣南手・交進会)

○一月一日より、横井座跡にて、日本チャリネの大曲馬。

○三月一日より六月三十日まで、横井座跡にて、松本喜三郎の西国三十三所生人形。

○三月、第二井筒席にて、北海道アイヌ人の演芸・歌舞。

【明治37年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

娘義太夫(播重席)/娘義太夫(春木席)/壮士劇(吉田席)/西洋運動(奥田席)/剣舞(第一井筒席)/英国ダーク一座の操り人形(第二井筒席)/活動写真(第三井筒席)/宝楽一座の俄(柴田席)/人形刑法早分り(山田席)/団十郎一座の俄(改良座)/猿芝居(山本席)/鼠の芸(千代の席)/市川福円一座の旧劇(金沢席)/西洋手品(小宝席)/支那人手品(龍の席)/西尾魯山講談(集寄亭)/新内源氏節(八百駒席)/浮れ節(愛進亭)/旧劇(南座)/壮士劇(弥生座)/軽口手踊(栄座)

○四月三日、南大劇場(旧横井座)焼跡に春日座が開館する。

○十一月二十三日より、山田席にて、日露戦役写真画の見世物。

【明治38年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

西洋運動(奥田席)/西洋手品(千代の席)/日露戦争油絵(高木席)/蝋細工(山田席)/英国ダーク一座(第一井筒席)/日露戦争活動写真(第二井筒席)/日露戦争写真(第三井筒席)/眼玉一座気晴し狂言(栄座)/壮士芝居(弥生座)/壮士芝居(南座)/団十郎の俄(改良座)/新内身振り(山本席)/浮れ節(龍の席)/夢楽一座軽口(小宝席)/壮士剣舞(柴田席)/常盤一座演劇(吉田席)/落語(春木亭)/女義太夫(播重席)/山田九州男一座(春日座)/福円一座旧劇(金沢座)

○三月二十一日より、大矢席にて、鯨の見世物。

○五月八日より、春日座にて、吉田菊五郎の水芸。

【明治39年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

大谷友吉一座演劇(春日座)/秋野憲臣一座新演劇(弥生座)/市川福円一座演劇(金沢座)/八重八・辰丸一座の浮れ節(三木亭)/女義太夫(播重席)/女義太夫(春木亭)/新演劇(吉田座)/鶴屋団十郎俄(改良座)/西洋軽業(奥田席)/壮士俄(栄亭)/軽口俄(小宝座)/西国三十三所生人形(山田席)/剣舞(柴田席)/剣舞(千代席)/竹屋一座の猿犬芝居(江川席)/俄芝居(琴平座)/浮れ節(吉川席)/京山小円の浮れ節(愛進亭)/浮れ節(第二愛進館)/怪談人形(三木席)/浮れ節(吉川館)/剣舞(第一井筒席)/活動写真(第二井筒席)/俳優似顔生人形(第三井筒席)

○三月、春日座にて、吉田菊五郎の水芸。

○八月六日より、第二井筒席にて、インド人の演芸、蛇使い。

【明治40年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

女義太夫(播重席)/女義太夫(春日亭)/奥田社中の軽業(奥田席)/剣舞芝居(柴田座)/真正剣舞(第一井筒席)/活動写真(第二井筒席)/演説(第三井筒席)/石山一座の女大力相撲(元柴田座焼跡)/五島一座の猿芝居(千代席)/改良剣舞(栄席)/軽口(栄座)/軽口俄(琴平席)/源氏節(松月亭)/藤川友春一座の浮れ節(愛進館)/浮れ節(龍の席)/浮れ節(吉川席)/友吉一座の芝居(春日座)/団九郎の俄(改良座)/市川福円一座の芝居(金沢座)/新演劇(弥生座)/新演劇(南座)

○五月三十日より、当栄座にて、ゴリラと大蛇の見世物。

【明治41年】

○一月一日より、山田席にて、蛇、虎、猿、鰐等の動物見世物。

○四月三日より、金沢座の焼跡にて、津嶋、福嶋合同の自転車曲乗。

○五月十五日より、金沢座の焼跡にて、矢野巡回動物園。

○八月、第三井筒席にて、大蛇の見世物。

○九月、千代の席にて、大狼の見世物。

【明治42年】

○四月二十六日より、改良座の焼跡にて、柿岡一座の東洋曲馬大会。座主柿岡秀長。

○五月三十一日より、大矢席にて、縞馬の見世物。

○九月二十五日より、改良座の焼跡にて、大曲馬。

○十二月二十八日より、改良座の焼跡にて、日本チャリネの曲馬。

【明治43年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

新派河野一座(柴田座)/女義太夫(播重席)/活動写真(三友倶楽部)/西洋運動(奥田席)/女義太夫(品川席)/東家一座道化狂言(大矢席)/貝細工人形(仮設勧商場)/活動写真(第一世界館)/犬芸(千代の席)/日本チャリネ曲馬(改良座跡)/活動写真(第一東洋館)/女義太夫(第二東洋館)/新内・落語(花月亭)/浪花節(愛進館)/活動写真(第二世界館)/東家一座(栄座)/活動写真(大阪館)/浪花節(集寄亭)/秋野一座新派(弥生座)/旧劇(南座)/浪花節(琴平席)

○二月十七日より、奥田席にて、蛇、ワニ、狼、ゴリラ等の見世物。

○四月三十日より、千代の席にて、大蛇の見世物。

○六月十四日より、大矢席にて、大蛇の見世物。

○七月、大阪千日前の夏の情景。

○八月一日より、栄座にて、大蛇の見世物。

○十二月十七日より、春日座にて、清国人蓮玉山一座の奇術曲芸。

【明治44年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

キネオラマ活動写真(蘆辺倶楽部)/鈴木一座軽業(改良座跡空地)/活動写真(日の出館)/活動写真(第一電気館)/女改良剣舞(千代の席)/藤川友春一座の浮連節(第一愛進館)/長広一座の女浄瑠璃(播重座)/落語新内(花月亭)/中村友蔵一座の旧劇(常磐座)/活動写真(日本館)/活動写真(栄館)/此助、春之助一座の女浄瑠璃(第五愛進館)/活動写真(三友倶楽部)/京阪合同一座の喜劇(奥田座)/蛟龍団一座の新派劇(柴田座)/電気応用世界一周会(大矢席跡空地)/活動写真(第一世界館)/滑稽俄(栄座)/藤原一馬一座の新派劇(春日座)/活動写真(大阪館)/秋野一座の新派劇(弥生座)/嵐冠女十郎一座の喜劇(南座)/京山恭助一座の浮連節(琴平席)/京山当昇一座の浮連節(集寄席)/竹本久国一座の女浄瑠璃(品川亭)

○二月より、春日座にて、二代目吉田菊五郎の水芸。

○二月十三日より、千代の席にて、珍物会。

【明治45年】

○一月一日よりの見世物興行一覧。

活動写真─三友倶楽部、敷島倶楽部、蘆辺倶楽部(一号館、二号館、三号館)、第六愛進館(元春日座)、帝国館、第一電気館、日の出座、記念館、真栄座/浪花節─第一愛進館、琴平座、聞楽亭/女浄瑠璃─第五愛進館、播重席/新派劇─柴田座、弥生座/旧派劇─常磐座、南座/奇術西洋運動曲芸─奥田座/猿芝居─千代の席/新内落語─花月亭/落語軽口俄─子宝席/剣舞手踊─栄亭/美術生人形(地獄極楽)─龍の席/世界館跡空地─益井一座の軽業/今宮の菊花園跡─大獅子其の他数十頭の珍獣

☆一月十六日、南の大火。(第三回目の大火)

   ………………………………………………………………………………………………………………………………

〈編者註〉当ブログ「見世物興行年表」より千日前の見世物興行に関する項目だけを抜き出し年代順に列挙した(詳細は「年表」参照)。☆印は千日前参考事項である。



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2016年08月19日

資料集成:明治の千日前(4)  大阪の千日前(一)


『新小説』第五年第十一巻 明治
33825日発行

            大阪の千日前  在兵庫 雨之助

其の起原

東京の浅草奥山、京都の新京極と並べて、大阪の千日前と言(いっ)たら、諸君先刻存知の三都の遊戯場である。遊戯場といふのは些(ち)と適当を欠く言辞(ことば)であるかも知れないが、兎も角種々(いろいろ)の興行物と、種々の飲食店と、種々の香具師とが、混然雑然と相集まり相群がつて、満都の士女あらず、碌でなしの財布を絞り奪(とろ)ふとして居るところが宛ら相似て居るので、浅草を説き、新京極を説たものは必ず口続きにこの千日前をも説かねばならない。本誌既に浅草回覧記と新京極の観察とを記載した以上は、勢(いきおい)、千日前の一覧記をも続載せねばなるまいと、茲に遙々筆を擔いで一見に出掛た次第である。

偖この千日前の起原(おこり)は奈何(どう)かと尋ぬると、原所(ここ)は素(も)と罪人の首を切て梟(さ)らした處だ。重罪犯は市中引廻し、その他は上本町のお牢屋から非人が付添つて此處(ここ)まで遣て来て打首にする。その死骸の埋めどころ兼て又獄門處で、目下(いま)鐘や太皷で騒がしく囃し立て居る種々(いろいろ)の興行や飲食店のある下の地は、嘗て殺人犯やら強盗の骨が埋られたところだと聞(きく)と、まア誰でも余り宜(よ)い心持は仕なかろう。

夫を明治何年だつたか、今鳥渡忘却(わすれ)たが、何でも五六年頃でもあつたらう、打首の法律がなくなつた為に、自然此土地も不用になつた。それを付込(つけこん)で奥田辨次郎といふのが捫(つま)み銭で払下(はらいさげ)を願つたのだ。その理由書の趣意とでもいふのが面白い。市中の然(しか)も最も繁栄なる道頓堀に近く罪人の墓原があるのは妙でないではないか、殊に今では既に不用に属して居る土地を何時までこの儘に打捨ておく事もあるまい。それよりは此處(ここ)を開墾して一事(ひとつ)は土地の繁昌を益(ま)す為め、亦一事(ひとつ)は地下に埋られて居る種々(いろいろ)の犯罪人の罪障消滅の為、一種の公園地とでもいふやうなものにして見世物小屋を立(たて)ては奈何(どう)かといふのであつた。土地の繁昌を益(ま)すのも結構だが、第一罪人の罪障消滅菩提の為とは面白い、可(い)い考察(かんがえ)だ、宜(よか)らうとか云ふやうな評定で、一も二もなく許可するといふので、広漠たる此墓原は願出人奥田辨次郎、表面(おもてむき)は払下(はらいさげ)、其実は無料貸与といふやうになつた。

今こそ一坪が百円以上百四五十円ちふ漠大もない地価を有する場所だけれど、その頃は貧乏寺が三箇(みっつ)あるばかりの荒果た三昧だ。然(しか)も罪人の首切場だもの、無料貸与といふ方法は道理至極の事で、誰が亦這麼(こんな)場所を高い銭を出して買ふ奴があるものか。だから目今(いま)からその時の知事様の方法を難ずるのは無理であるが、世間といふものは可笑しなもので、頻りに此事を先見の明がないとか何とか、十四五年も経(たっ)て、千日前が徐々(そろそろ)繁昌するやうになつてから論じた奴があつたさうだが、何れ羨やましいが高じた逆上だらうよ。

否(いや)話が思はず横道へ這入た。其處(そこ)で願書も滞りなく許可になつたので、奥田は人夫を入て開墾を始めたが、掘出す白骨には懇(ねんごろ)に回向を呉て、一纏(ひとまとめ)に今も残つてある竹林寺とか、自安寺とか、その他の寺々へも部別をして葬むり返した。所謂(つまり)罪人の罪障消滅といふ願書の理由を実現したので、凡そ三月あまり経(たっ)て略々(ほぼ)その工(こう)を終つたさうな。

 それからが興行小家の設立だが、是は二三日も有たら充分。何しろ竹を埋て蓆で囲ふだけの事で、青天井の晴天興行、雨天は休業(おやすみ)、凡(すべ)て要意(ようい)整つて、矢張奥田が仕打元となつて諸国の香具師連を買集めて花々しく興行をはじめた。

その頃で評判のあつたものは早竹虎吉、猿猴お新などの軽業、是等は凡そ物の十年あまりも打続けて居たさうだ。勿論その外には徳利子とか海坊主とか影絵とか、時々の際物の興行がある事は云はでもの事で。その間(うち)に追々小屋の改築がある。蓆葺が芝葺になり、芝葺が瓦葺になり、小屋と小屋との間へは矢場、煮込の田楽屋、鳥渡一杯のかん酒など遊楽に伴つて来る必要品は誰が始めるとなく如才なく開業して、何時とはなしに大阪第一等の繁劇な場所となつて了(しま)つたのである。

すると茲に一つの邪魔物が出て来た。といふ訳は前にも鳥渡書かけた所謂彼(か)の他人が繁昌になると羨ましがつて妨害を為(す)る焼餅の連中が、徐々(そろそろ)彼方此方(あっちこっち)に首を擡げ出して来た事で、何しろ奥田辨次郎が千日前の繁成に連て、捫(つま)み銭で買受た土地を高値で売付て非常な暴利を締た、それが羨ましいあまりに何か口実(いいぐさ)を拵らへて一番奴を困らして遣う、それには大阪市の膨脹といふ事を楯にして、今の形勢では人家の建築(たてまし)は次第に南方へ南方へと寄て来る。もし四五十年後の大阪市街といふものを予想して見ると、今迄は南の極端(はじ)であつた道頓堀乃至千日前は恰度(ちょうど)市の中央にもなる割合とならう。日本第二の大都会たる大阪の中心点に粗雑なる見世物小屋が建並んで居るといふのは随分奇妙なものではないか。他国人に対して設備の不充分な事を見透されて、一つは我大阪市の恥辱(はじ)だ。今の間(うち)に適当の地へ移転させねばならぬといふ論法。

勿論是は表面(おもてむき)の口実(いいぐさ)に過ないので、その裏の楽屋を覗つて見ると、俄分限になり済した奥田の鼻柱を摧(くじ)くと同時に、自分等が持て居る辺鄙な土地を売付て己れ等も又俄分限になり済したい、言はゞ欲と嫉妬(やきもち)の二筋道で、矢張欲には抜目がなささうな府会議員を説付て唐突(だしぬけ)に此議案を呈出する事となつた。

奥田をはじめ千日前の地主、小家主連はかくと聞て、吃驚したのせないの處でない。俄に大変だと騒ぎだして、急に額を集めて相談して、兎も角それを妨害しやうと運動委員を八方に走らして種々(いろいろ)な手段を用いたが、対手(あいて)の説は案外の勢力がある。千日前連の手段は悉く水の泡となつて了(しま)つて、いよ〳〵移転と極つた。土地は名護町の南極(みなみはずれ)、今宮の田圃中で、今の千日前からは凡そ半里程南方だ。

名古町は一名長町と称へて貧民集合の饑寒窟(きかんくつ)、破落戸(ならずもの)と乞食と無宿者(やどなし)と売淫女(ばいいんおんな)とが寄り集まつて造られた別世界で、大概なものは足踏する事を躊躇(ためら)ふ場所である。那麼(そんな)土地へ移転を命ぜられたのだから、千日前連が騒ぐのも道理至極で、第一移転をしたからと言て誰も遊びに来るものはあるまい。茲で十年延期といふ哀訴になつたのだ。元来利に依て何方(どっち)へも動く議員達の事だから此間にも曰く言ひ難し的事情があつて意外にも此哀訴は聞届けられた。けれども十年の後には兎も角移転といふ頭痛代呂物が控へて居るのだから中々安堵は出来ない。其處(そこ)で再度の哀訴となつて、今十年の延期を願ふと、是こそ真に意外とも何とも言ふ言葉が出ない位の福音、それは無期限現在のまゝ興行差許すとの許可指令が下つた。詳しいところは忘れたが何でも四五年以前の晩春であつた。時の府知事は山田信道君であつたらうと思ふ。是で一先づ千日前の基礎が定まつたのである。この他猶岡焼の妨害とも言ふべき事は沢山あるが識(しる)す程の事でもないから書くまい。

京 與

千日前の沿革とでもいふのは前件のやうな次第である。是から一つ目今(いま)の有様を一見して見やうか。

道頓堀川の戎橋を南へ渡て東すると櫓町、所謂河竹で、五座の劇場が櫓を並べて居るから是を櫓町といふのだ。其處(そこ)を行く事凡そ一町あまりにして南へ折ると即ち千日前である。その南へ折る西北の角に巍然たる三階造の大建物がある。是が京與といふ敷焼(すきやき)の料理店である。千日前へ這入る第一番の関門は即ち此家であるから先づ茲らから観察に取かゝらう。

牛肉鶏肉その他の獣肉を鍋で煮ながら喰ふのは殆ど全国に古くから行渡つてある方法であるが、海魚、仮令(たとえ)ば鯛とか鱧とか鰆とか、それ〴〵時候に適したものを牛肉やら鶏肉同様に鍋で煮ながら喰ふのは関東地方では余り多く見受ぬ事で、独り関東地方のみでない、関西と言ても京都、大阪、神戸の外は余り遣るやうにも思はれぬ。その中でも最も多く此方法を行ふのは大阪である。大阪市中百幾十軒のすき焼料理店中、その風味の甘くしてその価格(あたい)の比較的に安い所から、昼夜の別なく繁昌するのは恐らく此京與であらう。此家の外に今一軒丸萬といふのがあるが、兎も角此京與は第一好場所を占て居る。大阪市中で又此處(ここ)程賑かな場所はない。その四辻の角にあるのだから是は繁昌するのが道理(もっとも)である。

重なる此家の食品は今言(いっ)た海魚のすき焼きである。客が二階か三階の大広間(凡そ二百畳ほど)へ通ると、一面に樫やら檜やらで拵らへた四角な食卓の数限りもなく並べてあるのが眼に這入だらう。で、自分の嗜好(このみ)の場所へ尻を落着ると、蒲団を持て来た仲居がその日料理場にある魚の品目を申立る。

「鯛か鰆か鶏肉(かしわ)」

前に言ひ残したが、此處(このうち)には鶏肉(とり)もあるのである。然し此處(ここ)の鶏(とり)と言(いっ)たらまあ固いを以て有名な位だから、初めて御出府の田舎人か何ぞの外には余り注文を為(す)るものはない様子。そんなら別段鶏肉(とり)を置ておく必要もないようなものだが、海魚の不漁(しけ)で品払底の時に間に合せる手段ださうな。

茲で初めての客が鳥渡不思議がるのは、仲居が不愛相に「鯛か鰆か鶏肉?」とぶつきらばうにポンと言ふ事である。是は奈何(どう)せ此家等(ここら)へ来る客には祝儀を呉さうな人物はあるまいと見下(みくだし)ての事か、それとも這麼(こんな)習慣であるのか、その辺は知らないが、何しろまあ鳥渡不思議には思はれるので、客が、「鯛にしてお呉れ」と命ずると、それに返辞はせずに、直に又例の調子で、「御酒?」とやる。元来如何なる場合にも此家(ここ)の女が客に物を尋ぬる時に、「ですか」と言ふ言葉は遣はない。唯「御酒?」とか、又は「御飯」とか言て、それで客より命ずるまゝ無言に彼方(あっち)へ行て了(しま)ふ。お饒舌(しゃべり)を以て得意がるかゝる家の女にしては不似合のやうにも思はれるが、実際は忙(せ)はしいからべら〳〵饒舌(しゃべ)くつて居る暇がないのかも判(わか)らぬ。

但し勘定をして帰る時は今迄の無愛相に引変て頗る丁寧に、「毎度難有(ありがとう)、ようお越(いで)やす」と遣る。是も以前と比べて不思議な感がせない事もない。けれど何方(どっち)かと言(いえ)ば、此家の客種は寧ろ宜(よ)い方で、中には筒袖の働き人や草鞋連中がないでもないが、大概(おおかた)は羽織を着て居る方で、随て所謂千日前的料理店といふよりも寧ろ道頓堀的料理店といふのが適当であるかと思ふ。この相違は後に詳しく述る事としやう。

女義太夫

千日前で最も大なる建物の興行席は横井座といふ安劇場(しばい)であるが、最も美しい建築物(たてもの)は播重といふ女義太夫席と呂昇定席と称ふる同じく女義太夫の席との二所(ふたつ)である。何れも構造の美しいのを以て田舎漢(いなかもの)を驚かす傍(かたわら)、別に一種の美しいものを蓄へて市内の若年輩(わかものばら)の胸を波立せて居る。

播重席の表看板には大日本女義太夫修業所と大業に書立(かきたて)てあるが、此席にズラリ名前を並べて居る連中は凡そ十四五名もあらう。最も何れも十八九から二十四五歳までの所謂妙齢な婦人で、その技芸も満更でないさうだ。興行は昼と夜で、昼は正午過からはじめて午後五時頃に終る。夜は点燈すると同時にはじめて十一時半頃に終るのだ。

昼席の重なる客は軍人である。三々五々寄り集まつて来てこの両席へ這入る数は凡そ一席六七十人もあらう。彼の鎮台靴なる一種の扁平(ひらたい)靴が五足六足宛(ずつ)繋がれてズット並べてあるところは鳥渡可笑しな感じがする。で、茲で京與の條で言たやうに其趣味はまだ道頓堀的であつて千日前的の趣は少い。是から次第に奥の方(南方)へ進むに従つて変じて行(ゆく)ので。



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資料集成:明治の千日前(5)  大阪の千日前(二)


(大阪の千日前・続)

 ▲アイスクリーム店

女義太夫席があつてから暫らくの間は興行ものがない。諸種の小店と露店とが連なつて居るのだが、その最も多数なるものをアイスクリーム店とする。是は恰度(ちょうど)時節がらであるからで、冬向になるとそれ〴〵商売変更をするのだが、其夥しい事不思議な位。

先づその店頭には十五六の小僧が、何れも水浅黄の尻切の筒袖に前面鉢巻で、片手には竹で拵へた箆のやうなものを持て、片手には極々小さな洋盃(コップ)を持ち、通行人が立止らうが止るまいが、那麼(そんな)事には一切無頓着で、尻を振て拍子を取て、何故だか余り大きからぬ声で、「エヽ、アイスクリン、上製別製玉子製。舶来上等アイスクリン!」と何處(どこ)の店でも言合(いいあわ)したやうに言て居る。それが皆小僧で、大人は一人も居ない。店の構造は勿論鼻を衝きさうな、迚ても腰を下して徐々(ゆるゆる)と遣ることは出来ない。即ち千日前的である。是が千日前で合計三百軒もある。

茲に一軒の不思議な店がある。それは是等の多くのアイスクリーム屋の中に交つて居る

庖刃屋

であるのだ。元来僕が言ふまでもなく千日前は大阪の遊戯場である以上、その売るところの品は種類の何たるを問(とわ)ず、余り実用向な品のないのは当然の道理で、又実際那麼(そんな)物品を売て居る家は一軒もない。麻裏の草履を売る家が一軒あるが、是とて唯持て帰るに至極お手軽といふところを覗(ねら)つての開店だのに、台所品の中でも事に庖刃(ほうちょう)を売るとは、一体奈何(どう)いふ精神(つもり)であるかと去る人に聞て見て驚いた。最もその売る所の品は独り庖刃のみに限らない。短刀もあれば仕込杖もある。お嗜好(このみ)とあれば随分切味の可(よ)い日本刀もないではないので。その顧客、実に此家が目的とするところの顧客の大半は破落戸(ならずもの)か情死を企てる奴であるといふ事である。何しろ此地は破落戸の巣窟ともいふべき今宮乃至名古町に接近して、加ふるに南地五華街中の最下等遊廓たる難波新地とは目と鼻の地続きである。従て遊び人と掏摸(ちぼ)とが唯一の働き場である。彼等が最も好き働きをした時には短刀か出刃庖刀が付て廻らない時はない。その供給をするのであるさうな。情死に用ゆる兇器と来ては殆ど一手専売だとは唯々驚くより外はない。

奥田社中の西洋運動

この辺から徐々(そろそろ)千日前の千日前たる特質を現はして来る。第一は蕪雑極まる鐘太皷の囃が、左右軒を並べた席亭から烈(はげ)しく耳に響く事で、何となく盛り場へでも出て来たやうな感覚がする。その中でも最も喧ましく、最も繁昌らしいのは奥田社中、米国戻りとかの西洋運動席である。この席は彼の千日前創造の元勲者である奥田辨次郎の所有で、外観も鳥渡立派だ。年中この西洋運動を演じて居るのだが、それで尠(すこ)しも観客が減らないのは不思議である。演劇(しばい)とか俄だとかは面触(かおぶれ)は同様(おなじ)でも一興行毎に芸題を取換るから、同一顧客が日を改めて再三見物するのも不思議はないが、年中同じ技芸を演じて六年も七年も打続けて居るのは恐らく千日前中此席一軒であらう。それで景気付(づい)たといふのでもあるまいが、此席に限つて何日も入口に音楽隊めいた服装をして居る四五人の洋服先生が大太皷やら喇叭やらで、一種の曲譜をドンヂヤン〳〵言はして居る。

この奥田席の西洋運動を東側のはじまりとして、興行物の種類を席順に列記して見ると左の通り。

東側─西洋運動(はじまり、南へ)、田川一座犬演劇、硝子抜チーロー館、宇治の蛍狩、団十郎一座の俄、照葉狂言(二軒つゞき)、ヒヨットコ踊り、大阪水族館、女身振狂言

西側─照葉狂言(南端より北へ)、講釈席、動物園、河内音頭女手踊り、怪談百物語活人形、支那人奇術(六月十五日調査)

雑と這麼(こんな)ものである。この興行席が延町凡そ三町余りの間に散在して居るので。この他は一軒の脱歯屋(はぬきや)と二軒の散髪床と一軒の写真師と交番所を除いて後は皆飲食店である。

一盛一衰

とは可笑しな表題(みだし)だが、是等の興行物には勿論流行る處と流行らぬ處のあるのは言ふまでもなくない事として、大抵永くも三ケ月、短かいのは十五日か一月位で交換する中に、僕が最も気の毒であつたのは改良座に於る鶴家団十郎一座の俄と、及びその向ひ合せの柴田席の宝楽、たにし一座の俄との盛衰である。

是は御存知の通り双方(どっち)も一度は東京へ出かけた連中だからお馴染の諸君も多からう。是が妙にその一方が流行(はやっ)て一方が流行(はや)らぬ。奈何(どう)いふ仔細があるからか知らないが、改良座の団十郎一座は何日でも大入客止の勢(いきおい)とは打て変つて、柴田席の宝楽、たにし一座は孤城落月の姿だ。それが対合(むかいあわ)せと言ふのだから随分気の毒である。凡そ六七年来此有様で遣て居たが、到頭辛抱が仕切なくなつたものと見えて、柴田席は敢なく打死を仕て了(しま)つた。今、河内音頭を興行(やっ)て居るのがそれだが、思つて見ると今昔の感に堪へない。

序に各興行物の評判をして見ると、奥田の西洋運動は座員凡そ十名程で、先づ可成(かなり)の技芸を演ずる。然し西洋運動とは大業(おおげさ)だ。日本古来からある軽業と別に相違はない。客は前にも言た通り相当にある。田川一座の犬芝居、是は中々感心なもので、十四五疋の犬が三人の男女の指揮者の命令に随つて種々の技を遣るのだが、就中忠臣蔵九段目などは甘いものだ。その外に犬の玉乗、輪抜などもある。景気は至極宜(い)い方で、何日でも客止の勢(いきおい)である。硝子抜けチーロー館といふのは在来の藪抜の藪を硝子と姿見鏡とに変更したので、客が東西にうろ〳〵して抜道を需(もと)むるところに可笑味があるのだが、大分以前から遣て居るだけに今では余り這入る客を見受ぬ。早晩又何かと取改るであらう。宇治の蛍狩は言ふ迄もあるまい。槇の植込の間へ蛍を飛ばし、お土産に取てお帰りなさいといふのだ。

次に現はれるのが団十郎の俄である。是は春と秋と冬期間(ふゆのあいだ)は昼夜二回の興行だが、夏は夜だけである。それで毎日毎晩客止だ。木戸銭は最初(はじめ)僅に一銭で、それに下足預り賃が五厘と座蒲団と敷物代が合して一銭、即ち二銭五厘で見物さしたのだが、次第に價を上て来て、今では木戸だけでも五銭から取る。場内も桟敷、割なども区分して、鳥渡普通の演劇同様(しばいなみ)だ。桟敷客の大概は娼婦同伴の若輩(わかもの)で、その他も婦人連が多数を締る。 

照葉狂言は東京の緞帳芝居だ。小屋は何れも新築で中々立派だが、その客種は燐寸場(マチば)の工女を第一とするだけ、何處(どこ)も彼處(かしこ)も不潔で、始めて這入たものは吃驚する。技芸(げい)の善悪(よしあし)などは言ふだけ野暮であるが、然し此俳優が此付近の婦人連に勢力がある事驚くばかりで、それ俳優が通るなどゝ言ふと、細帯がけの山の神から子守兒までが山のやうに群がつて来てワヤ〳〵騒ぐ。千日前の人気は過半是等の俳優が背負て立と言て宜(よろ)しい。

怪談の活人形は百物語とか称へて機械人形である。這麼(こんな)物の客は大概子供だ。支那人奇術は火を喰ふとか言ふのと出刃庖刀投だが、生憎見る暇がなかつたから詳しい事が言へない。

牛肉屋

千日前に牛肉店の多いのは不思議な程である。多いといふよりも寧ろ牛肉店の外には鳥渡上り込で一盃やるやうな家はないと言ても可(よ)い程で、それこそ鼻を衝く程行当り衝突(ばったり)にあるのだ。是は安価といふのが先づ一番の目着所らしい。代価表といふのが何處(どこ)の店にも出してあるが、頗る安価だ。牛肉すき・一人前三銭、同なべ・同五銭、おん酒・一本七銭、めし・一人前四銭、玉葱・同二銭、三つ葉麩・同一銭といふ具合だ。此奴(こいつ)は安い。奇妙に安い。

奈何(どう)だ登楼(あがっ)てはなどと、事情御存知なしの連中等が無闇に飛込とサー大変、看板には別に偽りなしだが、通ひの女が出て来て曰く、「肉は上等の方に致しませうか」。此奴(こいつ)が怖ろしいのだ。浮(うっ)かり「諾(うん)」とでも言た日には手塩皿の姉様程の皿に三切程引張て並べた奴が一人前で実に八銭だ。酒を注文すると言はなくとも夏蜜柑が剥れて、白粉(おしろい)コテ〳〵の姉さんがお酌する。はじめは三十銭ほどの胸算用が何程(いくら)になるが知れたもんぢやない。だから再度(にど)と同じ客は行(いか)ない。何れも通り一度(いっぺん)だ。勿論酌婦張込連は別であるが。

中には表に大きな庵看板を出し、今日より割込とか御飯お添物とか書てある家もあるが、事実は奈何(どう)あらうか。それで此辺第一の観客(おとくい)は遊び人か掏摸(ちぼ)だ。その次が軍人と田舎漢(いなかもの)で、市中で真面目な事をして居る人は決して行ない。先づ浅草に於る銘酒屋と言ふところだ。

矢 場

かゝる土地には不似合な、必ず有るべき筈であつて然もないのは矢場である。千日前に不思議な事があるなら、それこそ矢場のないのが最大不思議であらう。大弓場は僅かに一軒あるが、余り流行(はやっ)ては居らぬ。

横 町

千日前の通りには空地がないといふところから、近来その横町を応用して席を建築(たて)る事が年一年と増て来た。けれど横町だけに席へかゝるものは必ず講釈と新内と貝祭文との三種に限つて居る。

横町で有名なものは榎小路、是は榎神社といふ神祠(おやしろ)が祀つてあるから付た名で、それに溝の側、是は中央に溝があるから恁(こう)呼れる。この以外は名称(なまえ)を知らない。

法善寺

千日前には自安寺、竹林寺、法善寺と三個(みっつ)お寺があるが、一番賑はふのは法善寺である。この寺の北方の裏手に細い抜露路がある。二箇の落語席と小料理屋とが並列して一種の別天地を構成(つくっ)て居る。即ち千日前に於る横町中第一に賑やかに、且比較的に第一に清潔(きれい)な横町としてある。

落語席は東にあるのを金沢、西にあるのを単に西の席と言て居る。是が又妙に一盛一衰を表現(しめ)して居るので、金沢席は大概毎晩客が一杯あるのに、西の席は頗る寥々で、他目(よそめ)にも気の毒な位だ。金沢席の方は桂文枝一座に東京下りとして三遊亭円馬、同遊輔、橘家円三郎の三名が面(かお)を揃へて居る。西の席は是と反対の浪花三友派の一連で、笑福亭福松、曽呂利新左衛門、桂文団治三名の統率の下にあるのだ。是に加味する東京下り連は今昔亭今松、三遊亭三子、ヤッツケ楼双枝、立花家小円喬などである。近来此派の勉強は稍ともすると金沢席の方を圧倒し兼まじき勢(いきおい)を示し出したから、敵も油断ならずと近来新たに英国人何某とか言ふ快楽亭ブラツクめきたる男を引張出して来て、盛に対抗して居るが、果して何方(どちら)に采配が上るだらうか、今暫時(しばらく)は睨み合の姿らしい。

金沢席の西隣に鳥渡有名な汁粉屋がある。南地の夫婦(めおと)善哉といふのが此家(ここ)だ。西と南の二方に入口があつて、這入と床机が三脚ばかり置てある石土間で、畳ならば十畳位敷(しけ)やうかといふ台所、是が客を待つお座敷だから驚くぢやないか。だから五六人も一時に重なり合て這入と直(すぐ)に客止だ。品目(しなもの)は第一夫婦善哉、是は普通の汁粉を一人前に一時に二杯宛(ずつ)持て来るから然(し)か命名(なづけ)たので、それから小倉ぜんざい、是は東京の田舎だ、と金時の三種である。評判も高く風味(あじ)も悪くはないけれど、何分お座敷も何もないものだから、自然客種が落て来て、些(ちっ)と気取た素蕩夫(すどうり)連は足踏もしないで近所の湖月といふ東京風の汁粉屋へ行て了(しま)ふ。為に余り多くの客もない様子だ。一時は別嬪娘が此家(ここ)にあると言て若い衆がワア〳〵言て騒いだが、今は最(も)う何處(どこ)かのお嫁様になつて居るのだらう。

夜と朝

長くなるから此項を以て終結(おわり)とする。

夜は千日前の命である。けれど十二時を過ると了得(さすが)に今迄は頻繁であつた人通行も漸々(ようよう)途絶て来て、各興行席は悉く看板に幕を敷き、露店は店を了(しま)つて帰るから、忽ち闇黒の世界と変る。午前一時二時となると、全く寂寞の死地となつて、火の廻りの撃柝(げきたく)の響のみが幽かに何處(どこ)からとなく聞えるのみである。この闇の中に蠢動(うごめ)く数十の化物は悉皆薄命な醜業婦であつた。朝、八九時頃まではそれこそ無人の境だ。此間に處々に集合して、何かひそ〳〵声で遣て居る無数の少年、是は悉く無宿と乞食坊主で、所謂にぎりとか称へる賭博をして居るのである。

 




misemono at 11:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)資料集成:明治の千日前