2014年06月

2014年06月27日

明治24年(1891年)一

○一月一日より三日間、東京浅草凌雲閣にて、景物に数百の軽気球を揚げる。(読売新聞15

 「凌雲閣にては一日より三日間、十一階に於て登閣者の余興として数百の軽気球に電話券、登閣券等を付けて揚げしかば、孰れも風のまに〳〵遠く飛行き、実に奇観と愉快を極めし由なるが、昨日迄に其券札を拾ひ得て、同閣事務所に申出し者は僅に本所区請地村より持来りし登閣券一枚のみにて、其他は大概拾ひ取る時奪ひ合て引裂きしものならんといふ」

○一月一日より、東京日本橋の友楽館にて新年演芸。円朝ら出席。夜、松旭斎天一も出席。

(時事新報・明治231231/読売新聞・明治231231

 「明一月一日午後六時より毎夜日本橋区蠣殻町二丁目有楽館に於て松旭斎天一が得意の新奇術を興行するよし」(時事)

 「天一の手品 同丈は来る一月一日の夜より、しんばの小安の周旋に依り、日本橋区蠣売町三丁目友楽館に於て毎日午后六時より古今未曾有の新奇術を興行する由にて、上等は三十銭、中等は廿銭、下等は十銭の安直なりと云ふ」(読売)

〈編者註〉道楽道人なる人が、昨日四日の昼に入り、桃林、円遊、播磨太夫、円朝を聞き、帰天斎正一の手品は見ずに帰ったとある。「夜に入れば松旭斎天一得意の奇術を行ふよし」とあって、天一は夜のみに出ていたようだ。因みに円朝の噺を聞いた道楽道人なる人は、他の多くの証言者と同じく、「円朝の情話、佳境に入るに及で眼前に円朝あるを怠れたり、友楽館あるを怠れたり。眸底に在るは情話中の人、耳底に在るは情話中の声、是れも青年が二三十年を費て練磨せずは容易に到り難き妙境なるべし」と絶賛している(「郵便報知新聞15)。

○一月一日より、大阪千日前の見世物。(大阪毎日新聞・大阪朝日新聞より)

電気仕掛の人形(奥田席)/器械人形(吉田席)/油絵(木村席)/大象、虎、駱駝(石田席)/重尾一座のヘラ〳〵踊り(石田席)/常盤作の万国名所(眺望閣)。

〈編者註〉一月十九日付「大阪毎日新聞」が千日前の近況を伝えている。

「昨今の千日前 此両三日前よりは就中て厳しき寒気に、千日前を彷徨と遊歩する人もなく、寂々として砂埃りのみ立騒ぎ、両側の各席では客を呼込む木戸番の男の声は枯野のきりぎりす、米搗虫(ばった)の様になつて勉強しても、無い客には詮方なく、十二軒の観物小屋も七、八軒は閉場する程の不景気にて、近年に珍らしき一月の景況なり。併し其中でも、去る十五日までに大入を占めたる寄席は、奥田席のマサツ伝機、吉田席の機械(からくり)人形、木村席の油画等にて、何れも三万前後の客数なりしと云ふ」

○一月一日より、京都新京極阪井座にて、五大洲演芸会。興行人奥田徳次郎。

(日出新聞 23121611/大阪毎日新聞 231224/)

「西洋人の落語手品 京都寺町三条下る奥田徳二郎と云へるが興行人となり、来る二十日頃より洛東祇園館に於て英国人ハーケツト、米国人ピヤース、ジヨージ、シーバン、印度人マーブルの五人を雇入れ、落語手品足踊りの興行をなすよしにて、芸人一同の雇入免状は孰れも去る十二日より来る二十四年三月三十一日までの期限にて、已に昨日外務省より下付されたるよし」(日出)

「外国人の落語家 交り合まして御機嫌を伺ひます。エー近来は力士でも俳優でも手品師でも追々外国から舶来してまゐりました。何でも赤髯でないと夜が明ない事になりました。是までの落語の様に喜六や鎌田屋の御隠居を使つて計りも居られなくなりましたので、千日前の奥田徳次郎が明年一月一日から京都の新京極阪井座で興行を企てまする外国人の落語家の通名は、亜米利加合衆国人シーバン、同国人ピーヤス、同ジヨージ、印度人マリブルの四名で御座いまして、日本語を研究して手品の傍ら落し噺しを演じるさうでございます」(毎日)

五大洲 001

「【広告】五大洲演芸会 五大洲演芸会ハ世界各国ノ人種集合シテ本国ノ長所ヲ挙ゲテ誇リ其技即チ芝居手踊リ落語等紅粉ヲ塗リ仮髪ヲ着ケ日本語ヲ以テ演ジ各自腕クラベヲスル者ナレバ実ニ古来未曾有進化的今日ニ大稗益ヲ与ヘ其妙味アル事ハ今云ハズ早ク来レ〳〵(後略)

〈編者註〉このあと英国人ハーケツトが笑福亭で落語を演じたらしい。「新京極通り六角下る笑福亭に於て昨夜より英国人ハーケツトなる者が英語にて自国の落語を興行し、雇主奥田弁次郎氏(編者註:徳次郎の誤記)が通弁をなし居る由」(京都日報120)。奥田徳次郎(二代目弁次郎)は千日前の興行師奥田弁次郎の実子。父弁次郎は幼少から徳次郎に英語を習わせている。

○一月一日より、名古屋五明座にて、山本小長一座の玉乗軽業。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○一月二日、松島卯之助の象(芸名キー・十六歳)が死亡。

(大阪毎日新聞・明治23122418/大阪朝日新聞118/東京朝日新聞114

「象のお目見得 一月早々千日前石田席で観物にする大象は来る廿八日お目見得のため市中の繁花の町を連れ歩くよしなるが、其日は象どのも背には楼閣を負ひ其上で唐子姿で囃子をして練歩くといへば、其道筋は大象(たいそう)な賑はひならん」(大阪毎日・明治231224

「代はりの象 南地千日前の石田席へ乗り込む筈の大象は去冬出稼ぎ中、江州横田川の橋上より墜落して死亡せしも、石田席では其象の看板を上げ、虎と駱駝を観せ物にし、象は痛所ありて未だ着仕(つきつかまつ)らずと度々其申訳けすれど、見物人は承知せず、遂には看板と観せ物とが違ふと云ふ評判が立ち、入りも少くなるに付き、之ではならぬと席主も狼狽し、先年同所の木村席へ小人島と共に来りし象の、当時広島にて興行中なるを幸ひ、コレ屈竟の代はりの象と、直に電報を掛けて来阪の約束をなしたる由なれば、多分初天神迄には来阪するなるべし」(大阪毎日18

「死象の見世物 千日前の興行人吉田卯之助、先年一頭の象を買求めしより、此処彼処(ここかしこ)に興行して莫大の利益を得、さきに立派な小屋を新築して、居宅をも普請せしは皆象のお蔭ゆえ、今度東京より象が戻つたら、最早他国出稼をさせず、生涯飼殺にして恩を報ぜんと、象小家の計画までして待居たるに、象は東京より戻道、江州地方まで来て突然彳みて動かず、例の如く足に鳶口を打込みて歩行させんとすれども動かばこそ、又も鳶口を打込みしに、象は憤然として路傍なる搗米屋の軒柱を鼻にぐる〳〵と巻きて引抜きしに、恐れて近寄るものなし。其暇に店の白米を食ひしに、扨は空腹に堪へざりしが故なるべしと察せられしかば、其損害を弁償して、同国甲賀郡三雲駅の横田川まで戻りしが、大象の目方は二千五百貫もあれば、船や橋では渡されずと川中に引込みしに、鳶口の傷痛みてや、渡り兼ねて流れんとするを、又も面や背中に鳶口を打込みて引摺りしに、遂に絶命したれば、詮方なく解剖して、皮と骨とを携へ帰りしを見て、卯之助の嘆一方ならず、其が紀念のために骨を組立て、皮を張りて元の姿となし、縦覧せしむると云ふ」(大阪朝日)

「太夫キーの死去 大阪の興行師吉田卯之助が一昨年浅草公園の弁天山へ連れて来た大象キーは、先月の末神奈川県下八王子町に於て興行し、夫より一月は大阪へ行く筈にて既に千日前へ六千円もかけた小家掛けをなし、待設けし甲斐もなく、太夫のキーは旧臘二十七日、東海道溝の口の大川横田川の假橋を渡る際、中央から橋を踏折つて大川へ落ち、橋杭で足を挫き、大層な怪我をした為め、三十一日まで川住居(ずまい)、漸(やつ)と大阪から人足が百名も出張し、巻上げる事は巻上げたが、疵所の痛劇(はげ)しくてとう〳〵太夫は去る二日、十六歳を一期とし、哀はれ果敢なく死去したるを、大阪のある者が聞き、キーの死骸を千円で買受けんと申込みしを、太夫元は承知せず、多年我々の為めに幾万の金を儲け呉れし大事の太夫、死後に至る迄金にするは忍難しとて断り、同地にて假埋葬を行ひ置き、帰阪の上、花々しく本葬をする由なるが、キーの死去は太夫元に取り七千円程の損失なりと」(東京朝日)

 〈編者註〉同じ朝日新聞ながら、東京と大阪ではかなり違った報道になっている。どちらが正しいかは確かめるすべなく、二つを並べておくことにする。卯之助がこの象で莫大な利益を得たことは確かで、大阪朝日の記事中にある「立派な小屋を新築」とは、明治二十二年十二月に新築した松島八千代座をいう。



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明治24年(1891年)二

○一月八日より二月十日まで、東京木挽町歌舞伎座にて、大切浄瑠璃「風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)」を上演。

(時事新報・明治231223113130/読売新聞22/東京朝日新聞227/『五代目菊五郎自伝』) 

「…大切を風船乗に凌雲閣の浄瑠璃と定めたるよしなるが、菊五郎は兼て此風船乗を演じて喝采を博せんと思立つや、例の凝り性の事とて、スペンサー、ボールドウヰン前後両度の興行とも府下の時は云ふ迄も無く、横浜までも態々見物に出掛け、其打扮(いでたち)より飛揚せしむる振合などを委しく書き取来りたる後は、朝から晩まで唯夢中の様になりて、風船の事にのみ心を凝らし、間がな隙がな小気球を飛ばせて、頻りに工合を研究し居るとの事なれば、開場の上は定めて喝采を博する事なるべし(後略)」(時事・明治231223

「歌舞伎座 (前略)大切上ノ巻即ち風船乗にて、菊五郎のスペンサーは昨年来熱心に心を凝したる事とて、其打扮(いでたち)は申迄なく、斬髪(ざんぱつ)の塩梅、鬚髯(ひげ)の模様、ドウ見てもスペンサー其儘なり。風船の周囲(まわり)を彼方此方(かなたこなた)と見廻りて人足を指図する處より、後向ふより人力車にて帰り来り、桶に登りて英語で演説する矩合(ぐあい)、一としてスペンサーの風を写さゞる無く、善くも斯くまでに扮しも扮したりとて、スペンサーの風船を実見したる人は殊に其苦心の程を思ひ遣りたるならん。又紙人形に扮して奏楽に連れての滑稽踊りも最(い)と面白く、同優は態々築地居留の外国人某に就て習ひたりとの事にて、和洋を折衷したる工風は亦一の見物なりき。幸三の遠見のスペンサーも善く、幸蔵の通弁横垣栄二も中々の骨折り。松助の百姓畑右衛門は師匠が用意する繋ぎに出づるものなるが、一寸ヲカシミありて善し。慾には今少しく他にヲカシミの工風はなき者か。其他世話人と為り、警部巡査と為り、見物人と為りて諸俳優一同顔を出したれば、舞台一層賑かにして、見物人大喜びの模様なりしが、兎に角今度は此一幕が呼物と為りて、軈て大入の札を掛くるに至るならんと云へり」(時事113

「新形風船手拭 日本橋区堀江町二丁目嶋田善兵衛方にては、今度歌舞伎座の狂言を当込みに音羽屋好みの新形風船手拭を同座の運動場にて観客へ販売するよし」(時事130

「尾上菊五郎、歌舞伎座に於て軽気球より落る 尾上菊五郎が歌舞伎座に於風船乗りの演技は近頃稀なる評判にて、内外の看客皆其の真に迫れるを賞賛するよしなるが、数日前、仝優が此の技を演じ、今や節落傘(パラシウト)にすがりて飛び下りんとする時、釣りたる綱のフッツと切れ、三間余なる奈落の底へ落ち入りしかど、幸ひにして些少の怪我さへなければ、何も大に喜び居りたる折(後略)」(読売)

 「福沢先生と相談 同廿三年の冬、風船乗スペンサー氏が来朝して上野博物館の構内で風船に乗つて飛行し途中で飛び居りて其処から上野へ二人挽きの腕車で戻つて演説をした事がある。其処で優は初春興行にそれを真似て見物を驚かせやうと云ふので、福沢先生を訪問して西洋の風船に就いての話を聞き、それから仏蘭西人を招いて仏西の舞台を見せて貰ひ、花柳寿輔又はお囃子の者とも相談して洋楽に三味線の合奏で振りを付けさせ、風船は其道の専門家に製作して貰ひ、優が扮するスペンサーの演説も慶応義塾に関係の深かつた今泉氏が日々新富町の宅へ通つて英語のアクセントを一々教えたので、兎に角初日迄にはスペンサーとしての一場の英語演説をやるだけになつたのも優が熱心の到す處だと今泉氏は賞賛して居られた。六代目菊五郎は此時六歳で丑之助と名乗つて遠見のスペンサーを初舞台で勤めたことがあつた。筆者は此時時事新報社の一小僧で今泉氏のお伴をして新富町の菊五郎宅へも行けば、上野公園博物館構内の広場で風船飛行の場も行つたことがある。」(『五代目菊五郎自伝』)

 「スペンサー氏、服を菊五郎に贈る 一たびスペンサー氏の日本に渡来し、横浜に東京に空中飛行軽気球乗のはなれ技を興行してより、昨今小兒の手遊にまで風船の流行を見るに至り、既に歌舞伎座の一月芝居には菊五郎スペンサーに扮し、軽気球乗の浄瑠璃には大入大当りを占めしが、此の本元正真のスペンサー氏、長崎にありて興行中、東京の俳優尾上菊五郎が自分に扮して軽気球乗の演芸を興行するよしを聞伝へ、此程同地より遙々府下日比谷内東京ホテルの某方へ一書を贈り、自分も斯くまで御地の称賛を辱うし、演劇にまでいたさるゝは此上もなき名誉、欣喜斜ならず、就て失敬ながら自分紀念として、御地上野公園地に於て興行の折着したる粗服一組差出し候間、謝礼の印まで俳優尾上菊五郎丈へ御贈り被下度云々とあり、某より直ちに其の趣きを伝へ、スペンサー氏より贈り来りし服を菊五郎の許へ届けたるに、菊五郎の悦喜(よろこび)一方ならず、早々スペンサー氏へ向けて謝礼の書を出し、幸はひ来月早々横浜にて軽気球乗の芝居をするに付き、ス氏の厚意に対し、右の服を着用せんとて早速試みに着ならし見るに、ゆきもたけも恰好(ちょうど)誂へ向(むき)、こいつは素敵だと同人は反身に成り、コウ見てくんねへと悦んで居るよし」(東京朝日) 

 【絵画資料】

①≪大判錦絵二枚続・国周画・佐々木豊吉板≫(日本芸術文化振興会蔵)

菊五郎②

  (表題)「風船乗評判高閣/風船乗スペンサー・尾上菊五郎」。明治二十四年一月出版。

②≪大判錦絵二枚続・三代国貞画・松井栄吉板≫(日本芸術文化振興会蔵)

菊五郎

  (表題)「歌舞伎座浄瑠璃風船のりスペンサー・尾上菊五郎」。明治二十四年一月出版。

  〈編者註〉上記の日本芸術文化振興会蔵の錦絵(二枚続)はともに「文化デジタルライブラリー」より拝借した。

 
 ③≪大判錦絵三枚続・豊斎画≫(早稲田大学演劇博物館蔵)  
                      

 菊五郎 風船1菊五郎 風船2菊五郎 風船3 
















 一枚目:「風船乗評判高閣」「三遊亭円朝・尾上菊五郎/福富の娘お玉・中村福助」

   二枚目:「清水屋娘おむら・沢村曙山/福富万右衛門・中村芝翫」

   三枚目:「三遊亭梅朝・尾上菊之助/風船乗スペンサー・尾上菊五郎」

   明治二十四年一月出版。

④≪大判錦絵四枚続・周延画・福田熊次郎板≫(早稲田大学演劇博物館蔵)

菊五郎 風船4
菊五郎 風船5
菊五郎 風船6
菊五郎 風船7

      一枚目:「風船宮中登り遠見之処/尾上孝三・五才二ケ月ニ而相勤候」

  二枚目:「歌舞伎座浄瑠璃狂言/上野博物館の場」

 三枚目:「風船乗スペンサー・尾上菊五郎」

 四枚目:文字記載なし。

 明治二十四年一月出版。

  〈編者註〉上掲の錦絵③④は演劇博物館浮世絵閲覧システムより拝借した。



misemono at 14:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治24年 

明治24年(1891年)三

○一月九日、大阪難波の阪堺鉄道停留所前にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○一月十日より、東京四谷荒木町元桐座跡荒木小屋にて、女相撲の見世物。(東京朝日新聞113120

 「旧臘まで本郷真砂町に於て興行した女力士連は、去る十日より四谷荒木町元桐座跡荒木小屋を借受けて興行、其芸等と名前を記せば、目方八十五貫目の釣鐘又は三十二貫目の大臼を頭に受け、舞台を縦横に歩む者は(鈴川浮世)、腹の上に廿三貫目の土俵二つを積み、其の上に大臼を載せ、更に二間の木船を置き、船中にて上乗の力士一人に土俵の曲ざしを遣らせる、此惣目方百八十貫目(鈴木かね)、力士五人をかき抱いて舞台を飛廻る、惣目方九十貫目(奥山事本名橋本よし)、廿八貫の土俵六ツを腹の上に積み、三十二貫目の大臼を載せ、其上にて二人の力士に餅搗をさせるは(妹背山事桜井りん)、廿八貫目の土俵を咬(くは)へて胸まで引上げ、舞台を左右に廻はる、此芸最も喝采多し(遠江灘事神保たけ)、両手両足をついて仰向けになり、其の上に力士三人を載せ、腹櫓大井川々越の曲は(八丈島事梅ケ谷よしゑ)、其外北海道事石山きわ、東海道事手塚くの、日光山事佐藤なゑ、入舟事遠藤みつ、金龍山事須藤のん、皆錦のまわしを飾り、同音に角力甚句を歌ひつゝ踊るさまの可笑しとて、初日より頗る大入」

 〈編者註〉昨年十一月二十七日に警察から相撲興行の中止を命じられ、女力士の力持として興行した。「時事新報」(明治23121)に遠江灘事神保たけの歯力を疑って、土俵を持ち上げようとして恥をかいた外国人のことが載っていたが、同じことを今度は日本の若い衆がやってこれまた恥をかいた記事が「東京朝日新聞」(120)に出ている。

○一月十日より二月八日まで、東京四谷荒木町にて、女子撃剣会。(「東京中新聞」110

「四ツ谷荒木町二十七番地に於て、今十日より二月八日迄三十日間、女子撃剣および女子力量歯試等を興行する旨、其筋へ願出たるに、昨日、許可に相成りし由」

○一月十一日より二十日まで、東京猿若町文楽座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○一月二十四日、福島県新開座にて、大阪の手品師中村吉次郎の手品。(「福嶋新聞」123

「当町新開座にては山形県山形市大字大日町に寄留せる大阪府の手術師中村吉次郎を雇ひ、明二十四日午後三時より同十二時迄、木戸、大人二銭、小人一銭五厘、下足一銭、土間一銭、桟敷一銭四厘の手品を興行する由」

○一月二十五日より一週間、福島県新開座にて、シャックの西洋手品。(「福嶋新聞」122

今度新開座に雇ひ来る手品師はシャックと云ふ者にて、今明日頃来福し、種々準備を整へたる上、向ふ一週間内に興行を始むる由。而して其演題は「各国の七ツ箱」と云ふて箱を中天に釣し、其中へ子供を入れ、見物人をして何番目の箱にあるやと問ふなり。此答の間違はざる者には十円の景物を差出す仕組みなりと云ふ」

○一月三十日より二月二十一日まで、東京四谷荒木町元桐座にて、松旭斎天一の手品
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○一月、東京日本橋区浜町久浜亭にて、松井源遊斎・勢舞歌の曲独楽。(東京朝日新聞123

○一月、横浜山手の公会堂(パブリック・ホール)にて、諸芸人博覧会。興行人田村豊。(時事新報129

 「諸芸人博覧会 横浜梅ケ枝町の田村豊といふは、屡々外国え渡り、種々の興行ものに従事し、英語にも通じ居るよしにて、此度同港山手の公会堂に於て種々の芸人を聘し、題号の如き妙なる名義を以て開会したるに、殊の外の大入を来し、又此頃中迄府下に於て一時評判の大女の一行を雇ひ入れ、丸一の太神楽、猫八の物真似抔の一座と混じて興行せしに、一層の客足を引きたりといふ」

○一月、福岡県福岡市博多教楽社にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○二月十日より十五日間、香川県片原町延寿閣にて、帰天斎正玉一座の西洋手品。(「香川新報」210

「本日より片原町延寿閣にて、帰天斎正玉の西洋手品、竹川寿鶴、寿恵子、小字の、駒治、八重鶴、小ふさ等の踊を興行する由。日限は来る二十三日迄十五日間なりと」

○二月十五日より、大阪南地金比羅神社相撲場跡にて、オールマンの曲馬。(大阪朝日新聞215

「予て風評(うはさ)のありし英国の曲馬師オールマンの一座は、此程当地に着せしが、今十五日より南地金比羅神社相撲場跡にて昼夜二回興行の筈。尤も今度は小馬、犬、猿等の曲使ひの外に、我国の足芸軽業師を雇入れ、目新しき技芸を演ぜしむるよし」

○二月中頃より三月十一日まで、熊本県熊本市内川端町末広座にて、ジャグラー操一の手品
 (「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○二月、東京麻布区芝森元町盛元座にて、市川団三郎が大切浄瑠璃にスペンサーを出す。(都新聞210

 「盛元座の上るり 同座の大切五変化の上るりは市川団三郎自作の由にて、同丈の骨折一方ならず。最初仲の町の場にて傾城を勤め、直様福助に変じて充分に振あり。夫より人形遣ひ西川伊三郎に扮して羽の禿を踊らせ、道具替ると一本足河童の所作は目を驚かすほど甘く、引抜いて西洋の道化形となり、トヾ日覆へ釣上る時、蝙蝠傘を持てスペンサー風船乗の趣向は非常に面白し。夫より繋ぎの為め駒雀の所作事ありて、正面の道具を引て取ると岩石峨々たる深山となり、爰へ団三郎の獅子の狂ひあり。終に此獅子が割て女異人と変じ、相手の女形と踊り狂ふこと、眼も廻るかと疑はれ、最後に舞踏の模様にて目出度く打出すといふ筋なるが、今度の興行は此上るりが呼物となり、意外の好景気になつたと云ふ」

○二月、東京浅草公園三社裏のエ・ナフタリーの人体解剖蠟細工に、マーモント獣の奥歯を追加展示する

(東京朝日新聞214                  

明治24年

 「[広告]めづらしい広告

  マーモント獣 奥歯二個、重量各二千六十目、右は三千九百九十五年を経たる物にて、先に〔インド〕にて一万円の価値あるの評を得たり〔但売品〕

  是は浅草公園人体解剖蠟細工展覧品付属として御覧に入舛。此の有益なる展覧会は三月十五日迄開会、直に横濱へ出発す。未だ御遊覧無き御方様は出立前早々御出あれ。且つ〔パノラマ〕は優美なる新景と取替へ御覧に入れ舛」

○二月、長崎にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)

〈編者註〉このあとインドへ赴き、マドラスで露国皇太子の前で風船乗りを演じる(読売新聞325)。



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明治24年(1891年)四

○三月一日より十五日まで、東京四谷荒木町元桐座にて、松井源遊斎の曲独楽。(東京朝日新聞34

 「荒木小家の興行 四谷桐座跡の小家は去る一日より十五代松井源遊斎(十六代源水の父)が曲独楽、ジャグラー憲一等の連中にて、来る十五日まで興行」

○三月二十七日より、東京神田錦町にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○三月二十九日、東京中洲にて軽気球乗り。興行人伊藤辰蔵。(浮揚せず)(時事新報330/都新聞414

「昨廿九日は日本橋区中洲に気球乗をなすとの触込ありしかば、近傍の者は日曜を幸ひに婦女子を携へ同所に歩を移せしも尠からざりしが、成程二三十軒四面を幕若くは杉板にて囲ひ、入口には気球乗の画幟(ゑのぼり)を押建(おしたて)、入場口には切符売場の設あり。上等五十銭、中等三十銭、下等廿銭の観覧券を売出し、場内の中央には瓦斯を起す仕組あり。市中音楽隊の奏楽等に景気を粧(よそほ)ひたれば、チラホラ入場者もありしかど、午後一時の開場にて三時を過るも一向に始むる景色はあらざりしが、其後は如何なしたりけん。

因に記す、此興行人は浅草芝崎町辺の伊藤辰蔵とて、技師と願人を兼居るといへど、猶聞く處に依れば、単に願人にて、技師は多分不参すべければ、先づ人形にて技師の代用をなさしむるなりとのことに、其高價なるを呟く者ありたりと。又真の気球乗鈴木孫十郎氏も観客の中にあり、名刺を出し、頻りに技師の姓名を聞居たれど、同所にてはソコ〳〵に咄しを左右に托し、後は挨拶もなさゞりしが、又気球の製作模様を尋ねられて願人は声を低め、ツイ糊を引きたる迄なりと答へ去りしと」(時事)

 「去る廿九日、日本橋区中洲に於て興行せんとして大紛議を生じたる風船乗の一件は、発起人根本又右衛門が謝罪の為め、一昨日見物無料にて榊原健吉氏の門弟四十余名の撃剣会を催ほして落着したりと」(都)

 〈編者註〉何があったのか、具体的な内容は不明。いずれにしろ軽気球は揚らなかったようである。

○三月、東京浅草公園にて、満三歳の稚児の運筆の見世物。(時事新報330

 「…殊に満三年の子坊主が大字の運筆は、能くも仕込みたり、又能くも習ひ込みたり。尤も字数は限りありて、日月、文明、南山□、無心抔の八九い過ぎざれども、分けて日月の二字、其筆力の達者なること、書き終ると直ぐに種々の玩具を弄びて余念なき稚児とは思はれず。この家の前は常に人山を築き居れり(後略)」

○三月、大阪千日前にて、山嵐・駱駝・鸚鵡・鸚鴎・大豹・大虎の見世物。太夫元吉田卯之助。(絵ビラより)

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・木版墨摺(手彩色)・出版人玉置清七≫(川添裕蔵:別冊太陽123『見世物はおもしろい』29頁)

明治24年 006

 (表題)記載なし。口演の最後に「大阪松島太夫元 吉田卯之助」。

 (袖)「當ル明治二十四年三月 日より」。

画面に山嵐・駱駝・鸚鵡・鸚鴎・大豹・大虎が描かれている。

口演(口上文)は以下の通り(書き下し・編者)。

 「今般持渡り候大虎の儀は、獣類の内主なる事、諸君御承知なれども、この虎常に食するに禽類を以てす。又有事は人間の肉を喰ふ事度々なり。この度御覧に入れ候大虎は、左右なく人間の言語を聞分け、種々芸等致し、図面に記載ある通り人間と力競べ、その外駱駝、数多の銘鳥御覧に入れ奉り候間、その実物成る事御覧の上、四方に高評あらんことを乞ふ」

 〈編者註〉興行場所記載なし。出版人が玉置清七(大阪市南区笠屋町)であることから大阪で行われたものと推定される。正月に千日前石田席で卯之助の象の興行をする予定であったのが死亡し、看板に偽りありと見物人の不評をかい、急遽別の象を手配したが間に合わず、新たに動物見世物を整え開業した時の絵ビラではないかと思われる(一月二日の項参照)。 

○四月一日より、名古屋五明座にて、蛇小僧と長崎一流籠抜けの見世物。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○四月五日より、東京浅草凌雲閣本門右手角に、美術覗き眼鏡が開場。(時事新報413

 「美術覗き眼鏡 浅草公園凌雲閣本門の右手角に設けたる美術覗き眼鏡は、去る五日より開場し、楼上を以て縦覧の場所に充て、一箇毎に台上に安排せり。図画は日光の華表、亀井戸の藤、堀切の菖蒲、金沢八景の能見堂、神戸の布引瀑布、マヰタ駅望岳、富岡の海岸、岩地湖畔の望岳、根岸より本牧の岬、鎌倉の大仏、日光日暮御門、七里ケ濱より江ノ島、鎌倉八幡社、日光の神橋、階楽園内、日光御成道杉の並木、金閣寺、甲州猿橋等にて、猶漸次増加する筈の由。此諸勝中、曾て一覧せし所は光景歴々眼に残り居りて、再び身を社頭霊地に置くの心地され、甞(うま)く画き出だせり。追々藤や菖蒲も開くべし。亀戸の天神と堀切の武蔵屋に遊べる人は、今年の花見を此所にて弁ずるに足らんといふ」

○四月九日より、東京浅草花屋敷隣に美術パノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○四月十日より十九日まで、東京向島にて、三度の軽気球乗り。(三度とも浮揚せず)。

(東京朝日新聞417421

「(前略)一昨日向島にて興行の風船乗りも花見客を呼込んで二十銭の木戸銭をせしめ、凡そ百名余も見物を入れた處、俄かに機械が損じたとか、球に穴が明いたとかで入掛けとなり、延期したから、見物人は苦情たら〳〵、何にも見ずに帰つたとのこと」(417

「風船乗おじヤン 精神一致何事か成ざらん、出来るまで行(や)るべし〳〵、二度ほど失敗した向島の風船乗は一昨十九日の日曜日が三度目、今日こそはと支度をしたが、又候器械に損所が出来ておじやん、此の日見物人は無慮十五人」(421

 〈編者註〉残念ながら、興行人の名前が不明である。

○四月初旬、大阪生国魂神社の南手の浪花模造富士山の登山を禁止する。(大阪毎日新聞48

 「富士山に登る事無用 生国魂神社の南手に建設せし模造富士山は、山主安田友吉といふ人から此の山の金主某氏へ負債の義務を尽さゞる處から、某氏は自分の家屋にも影響を及ぼし、最早当地にも居難き程の場合となり、近日に東京へ身を潜めると云ふ程の始末にて、既に綱張して登山は禁止せしも、目下の好季候に此辺を遊歩(あそぶ)人は適々(たまたま)山へ登らんとするも、綱張してある故抜登りするにぞ、今度其登口へ更に貼札をして『登る事堅く無用』」

 〈編者註〉この富士山が開業したのは明治23919日で、まだ一年もたっていない。この後どうなったかは不明だが、おそらくこのまま閉鎖されたと思われる。



misemono at 14:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治24年 

明治24年(1891年)五

○四月十五日、東京久松町旧千歳座跡にて、日本人の軽気球乗り。乗り手川久保仙太郎。(浮揚せず)。

(時事新報410415416/郵便報知新聞416/『明治座物語』)

明治24年 003「[広告]日本の軽気球乗川久保仙太郎 風船地ヲ距ルコト一萬余尺、人体ハ恰モ星ノ如クナリテ、傘ニ依リ翩々トシテ下降ス 曩ニ外人スペンサー来テ風船乗ヲ演ゼシ、爾来吾々ハ憤然自ラ起チ、幾多ノ苦心ヲ経テ、終ニスペンサーニ勝ル幾倍ノ効ヲ奏シタリ。依テ今般日本橋区久松町旧千歳座跡ニ於テ、公衆ノ観覧ニ供ス。且風船昇騰前、百尺竿頭飛付ノ奇芸及奏楽ヲ為ス。乞フ満天下ノ士女、遊覧ヲ賜へ 附言吾々ハ夥多ノ資財ト幾多ノ苦心ヲ経、理化学士ノ助ニ依テ其功ヲ奏シタルモニニシテ、只其皮想ヲ傚ヒ、詐術ヲ以テ衆庶ヲ騙ラント同業ヲ企ル山師輩ト同一ノ者ニ非ラズ

四月十二日興行(雨天順延)午前十時開場、午後三時昇騰 
  入場券上等金一円、中等金五十銭、下等金廿銭 

明治廿四年四月 発起人伊藤赤太郎 福原義三太」(時事410

 〈編者註〉すごくものものしい広告文を出したものの、十二日は強風のため中止。十三日は降雨のため中止。十四日も日延べして、いよいよ十五日に昇騰することになった。

「風船乗り又延ぶ 日本人(川久保仙太郎)風船乗りの広告、新聞紙に顕はれてより、其技倆の熟否は知らざるも、嘗(うま)く遣り果せてスペンサーの鼻柱を凹(くぼ)めさせたしとは、同胞の感情にて、去る十二日は早くも久松町千歳座跡の前に多勢詰め掛け、河岸端に夥多の露店を擔ぎ出す程なりしも、正午前より南風吹きしきりて見合せ、一昨日も朝の降雨にて延引し、昨日は夜明け頃一しきり雨降りたれど、十一時頃より晴天となりしかば、今日こそ興行するに相違なかるべしと又も出掛けし人もありしが、風雨順延との広告を為せしに付、昨日も亦延引し、愈々本日と取極め、紅白の幟を押立て、鐘太鼓を鳴らして市中を触れ廻らしめたり。弥生の時節、風船乗りの技も雨風を憚る花と同様の感にこそ」(時事415

「乗人は那落の底に在り 久松町千歳座の建築構内に於て昇天するといふ日本人(川久保仙太郎)の風船乗りは、風雨等の為め延び〳〵となり、昨日は曇天乍ら風は静なり、入場者は三四百名に過ぎざりしも、ロハ見の男女は両傍なる芝居茶屋の楼上前面の河岸端左右、瓦屋の上に至るまで、夥しき群衆なりし。偖乗昇の刻限までは未だ手間取ればとて、三名の軽業師が綱渡り抔の技を演じて、観衆の退屈を慰めたるが、何ぞ図らん、当日の観ものは二十銭以上一円までの入場料を投じて、常なれば橋袂の広場等に於て一銭立見の軽業のみに止まらんとは。同日使用の球は金巾製のものにて、昨年スペンサーが用ひたる円形とも違ひ、先づ鶏子形(たまごな)りに近き方なり。瓦斯は千歳座に導(ひ)き在りし瓦斯局の鉄管より引用して、三時過る頃は八分通りも膨らみ、この曇天にて二千尺も上昇したらば、雲を突き抜け、乗手はおろか球までも見えずならん抔と見物人の批評取り〳〵なりし内、頓て一人現はれ出で、最早時刻にもなりぬれば上昇すべし、併し生憎の曇天といひ、且つ瓦斯に不充分なる点もあれば、思ふ様に行き兼ねる場合もあらんか、二回目の興行には必ず好結果を一覧に供すべしとの口上は、幾らかの遁辞ならんかと、見物人に失望の感覚を与へたり。斯くて乗人は赤の洋服にて場内に顕はれ、帽を脱して一禮し、球の重錘(おもり)を徐々に弛めて横木に腰掛けたるは午後四時なりし。乗昇の場所は千歳座舞台下なる地を凹めたる處、即ち那落の底より昇天するときは、一段面白き思ひ付なりと観客は息を詰め、肩を聳だて、結果如何にと見る内、雨は降り出し、球の昇るに随ひ、開きたる傘(ス氏の時は空中にて球と別れたる後に傘の開きたるに、今度は始めより開き居るも一趣向、異なもの)の周囲に堵を築ける人頭の上に出で、続て乗人の浮び上るかと待てども、之を引上げるの力なく、球は早や横に傾き、乗人は依然那落の底に在りて、手持無沙汰、緋の服の映ろひてか、顔を赤らめ居りし折柄、雨は降りしきりて、帽子より雫は垂る、椅子や敷物を片付ける騒ぎに、今は上等客も下等客もゴッタ交ぜ、一円の金力も二十銭より光らず、五六人の人夫が雑作もなく綱を手繰て球を引卸すを見れば、瓦斯の力なきを證すべく、今一度遣り直すべけれとて、又も瓦斯を充たす支度に掛りしかば、観客渋々ながら雨を避けて待つ内、今度は初手より球の充分脹れ、再び前の手続きを為したれど、球は南に傾きて、乗人は相も変らず那落の上に浮び揚ることならず。其内球の網が丸太の高竿に搦みて竿を倒す抔の混雑、瓦斯は口より漏る、観客は鼻を撮(つま)む、漸くにして球と傘との間を外して球を放てば、球は人魂の如くフワリ〳〵と十間余りも登りて、直径一丁半に過ぎざる川向ふに落ち、人夫が駈着けて拾ひ取る騒ぎに、道も塞がれ、往来人、同士に喧嘩を始め、見物の彌次馬は彌が上に立塞り、両傍より来掛りし人力車は取つて返す抔、飛んだ不結果を生じたりと」(時事416

「去る十二日昇騰する筈なりし川久保仙太郎なる人の軽気球飛下りの技術は、天気都合のため延引せしが、昨日に至り千歳座跡にて興行せり。気球は直径二十八尺、一万二千立方尺の瓦斯を入るべし。瓦斯は東京瓦斯会社、之を請負ひかねて、千歳座に引きたる瓦斯管より之を注入せり。気球膨脹前に絙渡り等の軽業を演じて見物人の退屈を防ぎたり。午後五時頃に至り、全く膨脹したるを以て、乗手川久保は赤色の服装にて出で来り、気球下端の絙に身を約したり。さて愈よ昇騰せんとせしに、気球の力微弱にして、高く人を吊り上ぐる能はず。因て尚ほ更に瓦斯を詰め込み、再び昇騰せんとせしに、又瓦斯の微弱なるため騰らず、因て軽気球のみを放ちて飛ばしめたり。瓦斯会社技師の話に拠れば、一万二千立方尺の気球なれば、充分四十八貫の重量を上げ得るの力あり。今気球、落傘及び網、乗手等の重量を併せて四十八貫に過ぎざれば、必ず昇騰すべき筈なるにも、雨の降出したるため空気の圧力を減じ、為に充分昇らざりしなりと」(郵便報知416

「千歳座焼け跡(明治二十三年五月六日焼失)にて、元巡査某の日本人風船乗 スペンサーが上野で風船乗をやつた後の事で、以前巡査を勤めたといふ某が『日本人の風船乗』と自称して、此の焼跡で風船乗の興行をやりました。是を聞くと、何れも好奇心にかられたので、風船に人が乗つて飛ぶ處を見やうといふ看客(けんぶつ)が、初日早くから詰めかけ、非常な好景気でした。然し其の日は風が強いといつて中止(やめ)に成り、次の日は曇天で、雨が降りさうだと言つて休み、その次の日には、機械に故障があるからと言ふので中止に成り、四五日目に漸つと風船が上つたかと思ふと、地上を離れる事十間ばかりで、風船乗の先生が宙ぶらりんに成り、上る事も下りる事も出来ないやうな喜劇を実地に演じた事も有りました」(『明治座物語』123頁)

 〈編者註〉『明治座物語』が「元巡査某の日本人風船乗」としたのは、鈴木孫十郎と勘違いしたものであろう。

なお、「読売新聞」(810)に「[八月九日中洲に於て]演ずる軽気球乗旧下谷警察署巡査たりし鈴木孫十郎氏にして、此道には頗る経験もあるよしにて、凡そ五千尺の高さに騰り、忽ち傘に移り更(かへ)て、徐(おもむ)ろに看客の前に降る筈にして、先頃同所並に千歳座跡にて演じたる伊藤辰蔵等の比にあらざるとの事なれば、其の結果は次号に記すべし」とあり、伊藤赤太郎と伊藤辰蔵が同一人物であることがわかる。



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明治24年(1891年)六

○四月十七日より、名古屋福寿亭にて、養老瀧三郎・登龍・当治らの日本手品水芸。
 (『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○四月十九日、東京上野公園にて、鈴木孫十郎の軽気球乗り。(浮揚したか不明)。(時事新報41416

「下谷坂町六番地和歌山県人鈴木孫十郎氏は、彼のスペンサー渡来後、種々研究する所あり、警官を辞して軽気球を製し、屡々乗試(のりた)めしの上、去月十一日、北豊嶋郡王子中里村に於て空中に登り、種々の技芸を演ずる事を得、其の後尚ほ技芸を極めん為め、群馬県下に赴き、人里遠き場所に於て数度試験の上、弥々好結果を得て、両三日前帰京し、粗ぼ興行許可を得る手順も着きしに付き、近々上野公園内に於て催し、其節空中より自分の像を散布する筈にて、下谷広小路の写真師吉川方へ一千三百枚を注文せしよし」(時事41

「気球乗鈴木孫十郎氏は来る十七日上野公園に於て気球乗をなすよし曾て本紙に記したるが、都合ありて十九日に延たるよし」(時事416

 〈編者註〉「読売新聞」(41)、「東京朝日新聞」(41)にも同様の記事が出ているが、実際にやったかどうかは不明。実行した記事が全くないことを思えば、おそらく何らかの理由で興行許可がおりなかった可能性が強い。なお、鈴木孫十郎本人に関しては「都新聞」(228)に以下の記事がある。

「下谷警察署詰巡査鈴木孫十郎(二十二)と云ふ人は、柔術に掛ては天晴(あつぱれ)の達人ゆゑ、予て同署の巡査へ柔術指南をして居た處、何と思つかた、突然辞表を差出したので、署長警部及び同僚も大きに驚き、其仔細を尋ねても、唯思ふ旨があると許りで何事をも云ざりしが、一昨々日弥々辞職聞届けとなつたので、此上は所以をお話し申すべし、先頃上野公園地に於て両度まで洋人が軽気球に乗り、衆庶の眼を驚かしたれど、未だ日本人には宮中に飛揚する程の膽力ある者を聞ず、甚だ心外の至りゆゑ、自分に試みんと思立ち、種々工夫を凝した處、先づ大概は出来得べき見込み付き、或人を金主に頼み、最早軽気球(代価六百円)と緋羅紗の洋服等をも調製したれば、近日の中に其筋へ出願し、風船乗を催すべき計画なりと、始めて様子を明したので、聞く人孰れも其の着眼の奇異なるを賞嘆したりと云ふ」。

○四月十九日まで、大阪道頓堀角座にて、スタンレイ氏の教育幻燈会。(大阪朝日新聞418

 「[広告]角劇場に開会したるスタンレイ氏大幻燈会は非常の好評を博し、尚ほ有志諸君の希望により十八十九日の両日延
  期す 教育幻燈会」

○四月二十五日より二十七日まで、京都祗園座にて、スタンレイの大幻燈会。(『近代歌舞伎年表・京都篇』)

○四月中旬より、長野県小諸町博愛館にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月二十六日より、長野県長野市三幸座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月下旬、名古屋福来亭にて、エジソン氏の撮音機実験会。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○四月三十日、生人形師松本喜三郎死亡。享年六十七。(『松本喜三郎』)

○四月、東京浅草公園第六区三号地にて、娘連力持の見世物。(東京朝日新聞423

「見せ物の火事騒ぎ 一昨日の午後一時ごろ、浅草公園第六区第三号地にて興行中の娘連力持が、丁度座頭が舞台に出て仰向になり、腹の上へ桶の俵のと積載せ、其の頂上へ小舟を置き、此の内へ三人の小娘を乗せ、今しも腹の上の芸当を始めんとする時、小舟の中の小娘が、アレ〳〵、裏の物置から火が燃出したよと云より、見物はソレ火事だと騒ぎたて、楽屋も桟敷も上を下への混雑なりしが、人々非常の尽力にて漸々物置の火を消止め、一同大安心にて再び力持の興行を始めたれど、一時は近傍の小劇場常盤座、其の他の見せ物まで此の苫尻(とばしり)を受けて騒動を起し、中々に賑やかなりしと」

○四月末日、東京浅草公園三社裏のエ・ナフタリーの人体解剖蠟細工が閉会する。

(東京朝日新聞319/「国会新聞」49/国民新聞413/読売新聞416
                  

明治24年 001


「[広告]浅草公園エ・ナフタリー氏人体解剖蠟細工展覧会

 本会は本月十五日を以て閉会致す積の處、日々来客諸君相増候に付、御名残の為め来四月中迄日延致候

 〇前世紀無双の古物マーモント獣の奥歯は実に驚くべき者也

 〇パノラマは本邦上野戦争、憲法発布式等の新画と取換、且つ本月中には故三條公葬儀の画を縦覧に供する積なれば、諸君機会を失する勿れ」(東京朝日)

「浅草公園三社の後にあるナフタリー氏の人体解剖蠟細工は、活人形なんどの如く、唯だ女子供の目を歓ばすのみの観物(みせもの)にはあらずして、大に医術、衛生上に利益を与ふることがあるが故にや、昨年四月の開場以来、縦覧人も頗る多かりしとの事なるが、昨今は殊に桜花の時候とて、日々見物人山を作(な)すばかりなれば、本月十五日限り閉場すべき筈なりしものを、更に本月三十日迄延期し、彼のパノラマをも憲法発布式、三条公葬儀、上野戦争、露国皇帝践祚式等の新画と掛換へたり。

昨日、記者一名、同氏を展覧会場に訪ひしに、氏は親しく場内を導き、彼此と出品を指示して説明せし中に、前世界の動物マンモッスの歯二個は殊に珍しく思はれぬ。氏は四方八方の物語の末、『余は日本に来らざる前、清国上海にて此展覧会を開場せし時、支那人の来観する者は頗る稀なりしに、日本に来りてよりは然(さ)のみ紳士とも思はれざる人にして六、七回も縦覧に来る者あるを見受ぬ。余は此一事を以て貴国人が大に生理学に心を傾くる事を推知せり』と。此言、或は氏が一時のお世辞なるやも知る可らずと雖も、其の開期の長きを以て見れば、或は然(さ)る事実もあるべき乎。又、氏は来月早々、此の品々を携へて横浜に移り、茲にて一ケ月間開場し、夫より名古屋に赴き、後ち日本を去って米国シカゴ府に旅行する由を物語りぬ。去れば、此開場も最早僅かの日数なれば、此蠟細工を見ざる人は今の内に一覧し置くに如かず」(国会)

「浅草公園蠟細工パノラマは従前のものより悉皆取替、殊に魯国皇帝皇后綬冠式九対及大将カルセルスクの葬式、本邦上野彰義隊の戦、憲法発布式、故三条公葬式等の新画、マーモツト獣奥歯は実に奇品にして無双のものなりと。同品の有益見るべきものたるを認定せしは池田謙斎、高木兼寛、井上達也、佐々木政吉、小金井良精諸氏にして、且つ同興行は本月中との事」(国民)

 「蠟細工展覧会 先月中より浅草公園三社裏に開設したる同展覧会は従来の人体機関構造の蠟細工に加ふるに新たにヂヲラマの趣向を以て吾邦上野の戦争、憲法発布、露国王宮の諸儀式、清仏戦争、土耳其セヴィヤ戦争等の油絵を観せ、次に回転機にて欧亜各国の名勝を覗かせ、夫より案内者ありて委しく人体構造等を説明するは医事に心掛ある者には最も緊要なるべく、其の他婦人、小兒は断わり、篤志の人に限り館主が秘蔵品なりとて男女の陰部に梅毒の付きたる形ち十種余を縦覧せしむるは殊に奇なり。右は本月限り閉会の由にて今回が名残なりといふ」(読売)

○四月、東京大久保川村園にて、つつじ園に生人形が飾られる。(毎日新聞425

 「大久保川村園の生人形 同所のつゝじは徐々(そろそろ)咲き初めたるよしにて、同所仲百人町つゝじ園傍川村園にては忠臣蔵七段目、朝顔日記、宮本武三四、佐々木巖龍の仕合、つゝじ見物人茶店の場等の生人形を見せるといふ」

○四月、宮城県仙台市東一番丁元山家の空地にて、動物の見世物。(「奥羽日日新聞」41

 「今度、東一番丁元山家氏の空地に於て興行すると云ふ動物の見世物は、過般浅草にて興行せし物にて、種類二百余なりと云へば、是こそ一段の見物なるべし。〔編者注=八日付で虎好評の報〕」



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明治24年(1891年)七

○五月一日より、東京浅草公園六区にて、風船応用軽業の見世物。(東京朝日新聞53

「…一昨一日より開場せし浅草公園第六区の高小屋風船の見世物といふは…地上より一丈余も釣上げし風船の下に撞木が釣下げてあり、夫れへ一人の太夫が逆さに足ばかり引かけて釣下り、別に風船を距(さ)る四五間の處にもぶらん子様の物をぶら下げてあり、夫れへ一人の太夫が釣下つて、二三度はづみを打て身を煽りながら、風船の太夫の手に飛付のが芸等なるが(後略)」

○五月一日より、大阪千日前木村席にて、常の家重尾一座のへら〳〵踊。(大阪毎日新429

 「へら〳〵 一時評判の高かりし常の家重尾の一座は久々にて千日前の木村席へ乗込み、来月一日より開場すると」

○五月九日、大阪千日前にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○五月九日より、宮城県仙台市東座にて、アジャペイル、フローン一座の手品。(「奥羽日日新聞」59

 「今度、肴町の斎長を便り来たりし幻妙奇術者座長アジヤペイル、英国戻り太夫フローン一座は、愈々今日より東座に興行の筈なるが、太夫は婦人と云ひ、殊に是迄の手品と違ひ随分不思議の技術もありしと云へば、大入は請合。而して木戸札は大四銭、小二銭五厘なりと云ふ」

○五月十一日、ロシア皇太子、大津で巡査津田三蔵に襲われる。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○五月二十八日、曲馬師渡辺捨次郎死亡。(「奥羽日日新聞」5306146.16

 「松島座太夫元・渡辺捨治郎は久々病気の処、去る二十八日死去せしに付き、暫時休場」(530

「松島座太夫元にて去月二十八日病没せし渡辺捨次郎が来歴(こしかた)を聞くに、同人は京都建仁寺町・増田豊介と云ふ者の三男にて、天保元年生れ出るや、オギャアと云ふ産声たった一声にして十二人馬丁(べっとう)頭・前田勝次郎の養子となりし故、捨児も同様との所謂(ゆえ)を以て捨次郎とは名づけしとぞ。然(さ)れば六、七歳の頃より曲乗を仕込しに、素より怜悧の生まれなる上、天性にやありけん、勿地(たちまち)にして曲馬師とぞなりぬ。

二十五歳にして養父勝次郎に随がひ江戸へ下り、実弟何某と共に弟子を募り、初めて曲馬を興行せしに頗る好評を博し、終に十三代将軍家の上聞にまで達し、御好みありしを以て、いと面目のことに思ひ、早速準備に及び、嘉永二年五月五日、端午の祝日を卜し、捨次郎新発明の「狂獅子」等の曲乗を演じて御遊覧に供へし処、至極御意に入らせられたる旨の御沙汰あり。

又、上野宮様よりも御望みに付き一通り御覧に入れ奉りし処、宮様には御乗馬を好ませ玉ふより、更に御愛馬にて乗試みよとの御仰せあり。実に冥加の儀に付き、謹んで御承申し御愛馬を見奉つるに、召さるることの稀なる故、馬は中々に張切て居たるにぞ、容易のことにては自由になるべしとも思はれず。要こそあれと飛び乗るや、先づ上野の御坂を上下する二、三度、馬の悄(やや)馴れたるを計り、種々の技術を演ぜしに、寄り居し人々手を拍(うつ)て、「したりや、したり」と賞(ほ)むる声、暫しは鳴(なり)も止ざりけり。然れば宮様にも御感賞在らせられ、品々かつけ物ありしが、此時より何方(いずかた)に於て公然興行するも差支之れなしとの御許しをこそ得たりけれ。(つづく)」(614

「(つづき)偖も、捨次郎の曲馬興行は天下晴れての許可になりしのみならず、江戸興行中は紀州、尾張の両家より隔日に役人出張、興行場は取締らるるにぞ、他の興行師と違ひ肩身を広くしつつありしが、一先(ひとまず)京都へ帰りし処、上方筋より興行の望み頻りなれば、然(さ)はとて一座申し合せの上、安政元年三月を以て京都を発し、諸国興行の末、同二年四月江州彦根に於て興行せしが、彦根侯のお好みに任せ種々の技術を御覧に入れし処、御賞讃在らせられ御召馬を賜はるの栄を得たり。其後北国筋を廻り、当仙台に来たり榴ケ岡にて興行せしに、頗る好評を博し日々大入を取りしが、更に江戸に於て再び興行に及びし処、相変らずの人気にて愈々高評高かりけり。

斯りける程に維新の御代となり、世の有様もまた一変せしより、従来の儘にては人気を得ること覚束なしとて、終に芝居を重(おも)とするに至り、俳優長と称せらるる団十郎等と共に、神道教導職に補せられたり。去る程に漸々老年に及びしを以て、菊治郎、万治郎、小万等の子供を仕立(したて)、且つ芝居風を重に稽古させ、年々諸国を興行の末、終に又々仙台に来り久々にて興行せしに、非常の人気を得しより、松島座を一手にて借切り、自分太夫元となり、一座曲馬を廃して芝居専業に帰し、只管興行中の処、本年二月中より病魔の冒す処となり、病養等閑(なおざり)ならざりしも、行年六十余歳にして終に去五月二十八日を以て冥目せしと云ふ。同優の来歴あら〳〵斯くの如しと、去る贔負客よりの報知(しらせ)」(616

○五月、東京浅草公園にて、安達が原の見世物。人形細工安本亀八。(「改進新聞」55

「今度浅草公園に於て興行する安達が原の見世物は、人形師安本亀八を岩代安達郡大平村の観世寺へ派遣し、彼の鬼婆が居住したる岩窟等を精査せしめ、猶同寺に存する鬼婆の遺物等をも模写せしめ、以て悉く之を模造せしめたる物なりといふ」

○六月十日より、大阪千日前奥田席にて、シルバーマン一座の手品。興行人奥田弁次郎

(大阪毎日新聞62/大阪朝日新聞610620

「外国人の手品 千日前の奥田席に来る七日より開場する西洋手品の太夫は、伊太利人のピエス・シルハーマン(三七)、同国人アナン・シルハーマン(三五)、英国人ジョーシクリン(五二)の三名にて、一種不可思議の技術を見せる由」(大阪毎日)

「伊太利奇術の興行 欧州にて好評を博したりといふ伊太利の奇術師シルバーマン社中の一行は今回初めて我邦へ渡来したるを以て、奥田弁次郎興行人となりて今日より千日前北の端の小家にて種々の奇術をなして観覧に供するといふ」(大阪朝日610

「千日前奥田弁次郎の小家にて伊太利人シルバーマンの奇術を興行することは日外の紙上に載せしが、今此奇術を一覧するに、観場の前面には帳(とばり)を垂れて、高さ六尺余、横四尺許りを明け放ち、此帳内(とばりうち)を暗黒になし、七尺許り隔たりし奥に、高さ三尺に横二尺許りの窓を穿ち、ここを奇術を演ずるの場所とし、先づ最初に出せしは木偶(にんぎょ)の首なるが、此首の眼口漸次に動き、全く正真なる西洋婦人の顔となりて、口上を演(の)べ、又此(この)薔薇の如き顔は次第に衰へて終に髑髏と変じ、髑髏一変して緑葉を生けたる花籠と化(け)し、其梢に花を咲出させたり。再変して花籠は鳥籠となり、正真のカナリヤ二羽を現はし、更に元の西洋婦人の顔に還りて演芸の終るを告ぐる挨拶をなせり。右変転の形状を見るに、いつ変ずるともなく自然に其形を現出せしめて旧物と交代せり。是れ幻燈(マジックランプ)を巧みに使用したるものにて、甚だ眼新しきものなり」(大阪朝日620

○六月十日より二十一日まで、新潟県新潟市島永楽座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月二十五日より、新潟県新発田町にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月、東京上野公園の自動鉄道(ジェットコースター)の契約を更新する。(郵便報知新聞626

「昨年五月十三日を以て小野古治氏が上野公園内に於て一坪五銭の地代を払ひ、百五十坪を東照宮の鳥井内に借受け、理学研究のためと申立て、其営業の期限は満一年間の目的を以て無税にて開業したる自動鉄道は、予想外の収入を得たることなるが、今度営業満期となりしにより、尚ほ向ふ一ケ年間の延期願をなしたるに、爾来は収入金百分の五の営業税を賦課せらるゝこととなりて、其継続営業を許可せらるゝ由。因に記す、該鉄道は一時花の季節には毎日平均四千五六百の乗客在りて、中々の盛況なりしも、昨今は梅雨中にて、一日平均八九十人に止り、其収入金は二円五六十銭位なりと云へり」

○六月、東京下谷佐竹が原にて、江川亀吉の玉乗り。(東京朝日新聞624

「玉乗の競争 浅草公園第六区の見世物・娘の玉乗は、十二、三の娘が玉の上に乗り種々の所作事をするので、一時は非常の人気を取り、日々大入を占めたるが、先頃其筋にて衣裳、鬘、其他とも一切演劇類似の事柄を禁止されしにぞ、其の後は據ろなく娘どもを唐子風に粧(つく)り、例の通りいろ〳〵の所作を勤むれど、何分以前の見る目と変り、自然面白味の薄らぎし處ろより、追々と客足減じ、昨今にては頗ぶる不景気の有様となりしに、今度、同公園の顔役はし仙といふが、別に下谷佐竹ケ原へ江川亀吉といふ玉乗の見世物を開場し、同所では衣裳、かつら、鳴物とも十分の仕度にて興行する故、開場早々上景気なりと聞き、浅草公園の方にても敗(まけ)ぬ気になり、再び元の衣裳、かつらを用ひ、大奮発に競争を試みんと、昨今、専ら仕度最中」

〈編者註〉詳しくは阿久根巌『元祖玉乗曲芸大一座』(46頁)を参照されたい。

○六月、千葉県千葉町にて、浅沼倉吉の軽気球乗り。(落下)。(読売新聞69

 「先頃千葉県千葉町不動堂の境内にて風船乗興行の際、二丈余の所より落たる浅沼倉吉は殆ど死に至んとせしが、千葉病院へ入院して治療せし効験著るしく、本復したるを以て、謝礼のため、去る五日の夜より五日間、正面横町の金二亭にて興行する茶番連中の列に加り、得意の芸を演じ居るといふ」

○六月、群馬県高崎にて、軽気球乗り。(詐欺で逮捕)。(東京朝日新聞626

「風船乗の処刑 此程上州高崎にて興行せし風船乗は先に日本橋区中洲町にて不体裁の興行をせし浅草区馬道八丁目橋本金次郎の連中なるが、例の通り颺(あが)らぬ風船を看板に遣ひ、数多の見物を欺きて木戸銭を取たるより、興行人橋本金次郎を始め関係人一同、同所警察署へ拘引され、終に検事局へ送られ、取調の末、重禁錮二ケ月に処せられし由」



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明治24年(1891年)八

○七月一日より、東京浅草六区一号地にて、安本亀八の生人形「桜田門外の変」。(東京朝日新聞71

 「浅草公園の活人形 浅草公園第六区一号地女足芸興行の跡へ、七月一日より開場する活人形は安本亀八の作にて、水戸の浪士十七名が井伊掃部頭を桜田門外に要撃するの図にて、マヅ入口の招看牌には愛宕山上の掛茶屋に六名の浪士密談する處ろ、中に入れば浪士青物売になり往来を窺ふ図、同町飛脚となりて往来を窺ふ図、浪士十七名、侍・中間等と雪中入乱れて闘争するの図等なり」

○七月五日、京都新京極三条下るにパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○七月八日より、富山県富山市清水座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○七月十四日より、東京回向院境内にて、大江定橘の機械大人形「大燈籠」。太夫元宮永幸太郎

(読売新聞711/「やまと新聞」716/時事新報819

「回向院に於ける開帳に就ての概況 …本堂南手広場には機械大人形、其他大女、玉乗り、女子力持等の諸興行もの新設準備最中なるが、独り機械大人形の小屋は稍や落成し、来る十四日より開場なすとの事にて、該大人形の細工人は大坂心斎橋大江定橘翁の丹誠を凝らしたる奇観巧妙の機械にして、最初七福神、高砂、道成寺、常盤御前、一つ家の老婆、土蜘蛛の変化其他種々の人形は、歩むに従ひ、機械の運転によつて自由の働きをなすを通覧し、其の大切りに至りては凡(およそ)方(ほう)六間余の切り子燈籠より人物と狂ひ獅子現はれ出で、獅子の一曲を舞ひ、夫れより数多の唐兒出て、桜の枝乗りをなす等、最も高尚美麗なる人形なりとぞ」(読売)

〈編者註〉明治二十二年一月、大阪千日前が初興行(「見世物興行年表」同条参照)。七月十日より八月二十八日(さらに十日間延長)まで回向院で京都嵯峨釈尊の出開帳があり、その人出を見込んで大阪からやって来た。七月二十七日、芝翫・福助父子も参詣ののち、大江の大人形を見物している(東京朝日新聞729)。

「今度嵯峨の釈尊開扉につき、大坂の人形師大江定橘が作になれる機械大人形を太夫元宮永幸太郎が携へ来り、回向院境内にて一昨十四日より右興行を初めたるが、人形は二十余ケ所に飾り付ありて何れも美事なるが、なかに高さ十二間、幅十六間の大燈籠は中々の大仕掛にて、一度之を転ずれば、中より一人の童子顕はれ、獅子を冠りて所作を演じ、再度転じて一面の滝となるなど、実に人形とは思はれずとの評判にて、開場早々より大入を極め居るといふ」(やまと)。

「観世物小屋の休業 目下、回向院に於て執行中なる京都嵯峨釈尊の出開帳を当て込みに、境内所狭きまで観世物小屋を掛け列ねたる中にて、最も評判好きは小娘達の球乗り・力持ちと、大坂登り大燈籠の仕掛人形活人形にて、この二小屋は建物の高く聳えたる為め、一昨日の風当(あたり)強く、太(いた)く屋根を吹き捲くられて太夫元の大騒ぎ。何所(どこ)から手を着けん様なく、夕刻風の鎮まるを待ちて修繕に取掛りたる位なれば、無論同日は休業し、昨日も開場は平日より余程時間の後れたるならんといふ」(時事)

○七月十六日、東京新吉原遊園地検査場の横手にて、鈴木孫十郎の軽気球。(詳細不明)。(東京朝日新聞79

 「来る十六日、藪入を当込に新よし原遊園地検査場の横手にて、午後一時より六時までの間に風船乗の興行ある筈。乗手は日本のスペンサーと云るゝ元下谷警察署巡査鈴木孫十郎氏にて、余興には市中音楽隊の奏楽あるよし」

 〈編者註〉これは実際に行われたどうかは不明。

○七月二十七日、横浜市雲井町にて、鈴木孫十郎の軽気球乗り。(低空昇騰)。

(東京朝日新聞725/時事新報729731

明治24年 005「[広告]技芸師鈴木孫十郎 来る廿六日午後三時より六時迄横浜市雲井町に於て軽気球乗離の技芸を演ず、四方の紳士淑女来観あらんことを希望す、但雨天順延す 上等五十銭 中等三十銭 下等十銭 但軍人学校生徒の証ある御方は半額之事」(東京朝日725

「風船乗鈴木孫十郎氏は、去る二十六日午後三時より、横浜市雲井町の空地に於て其技を演ずる筈なりしも、同日は生憎午後五時頃より降雨の為め、一昨二十七日に延期し、同日午後六時より上騰せんとせし折柄、気球損所を生じ、瓦斯の漏泄甚しく、僅かに二三十間位上騰せしのみなりしかば、不日再演の筈にて、入場者には夫々半札を渡し閉場せしと云ふ」(時事729

「前号の紙上に去る二十七日、鈴木孫十郎氏が横浜に於て気球に昇りたる事を記せし中に、球に損所を生じたる為め瓦斯の漏泄甚しく、僅かに三十間の高さに昇りたるに過ぎざりしかば、日を改めて更に昇天の技を試ろむるよし記せしが、当日同氏は六千尺の所まで昇騰すべき予定なりしも、刻限の後れたりしと、且つ空際風強く、地を離れること二千二三尺の所まで達したるも、猶此の上昇れば、球は元より海上に飛び去るべく、己れも亦海水の中に墜落するの必定なるより、遂に意を決して球を放ち、下り来りて簡単の演説を為したるものにて、上昇中も種々離れたる技芸を為し、観る者をして其大膽なるを感賞せしめたりと。因みに記す、氏は来月早々東京に於て興行を為すといふ」(時事731

○七月二十八日より、富山県魚津町にて、松旭斎天一の手品
  (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○八月九日、東京日本橋区中洲にて、鈴木孫十郎の軽気球乗り。(軽気球破裂)。(読売新聞811

 「中洲の軽気球破裂して騰らず 一昨九日、日本橋区中洲に於ける気球上騰は、乗手は予て好評ありし鈴木孫十郎氏の事にしあれば、美事にヤツテ退けん事必定ならんと、同日は午後三時過ぐる頃より中洲一円非常に雑沓を極め、場内の観客無慮千五六百余の多に達し、桟敷土間とも寸地を余さず充満し、中には朝鮮人及菊五郎、栄之助、菊之助其他二三の俳優も見受けぬ。何(いづれ)も熱心に上騰を待ち居る中、漸く六時に至り、技芸師鈴木孫十郎氏は最(い)と身軽の服装にて出で来りしも、当日は中々風も強かりしゆゑ、一体中止すべき筈なりしが、曩に同所に於て或風船乗が乗損ねて、遂に逐電したる例もあり、間もなく今度の興行なれば、万一仕損ずる様の事ありては、益々中洲興行物の信用を失ふの恐れあれば、仮令無理ながらも演じ終らんとの決心にて、瓦斯を焚き始めたりしに、さなきだに河風烈しくして、軽気球は前後左右へ吹き煽り、為めに幾分の瓦斯は外部に漏出せしかば、凡十五分間にて充満する筈なりしも、一時間余も費していまだ充分ならざれば、猶ほ薪木を増し、石油を多量に注掛(そそぎかけ)て火力を強め、一同奮て力を用ひしかば、漸く八九分に満るを得たり。是に於て技芸師鈴木氏は気球に駕する用意をなす折しも、風いよ〳〵烈しくて、気球を煽り動かすことます〳〵強く、遂に鉄の如き釣紐と摩擦して気球の上部、俄然破裂し、洩れ出づる黒煙は沸濛天を掩うて立ち上れば、観客の半ばは又しても風船乗の失敗、敢て珍らしもあらねど、万一詐欺ならば其罪憎むべしなど言ひ捨てゝ場内を退くものもありしが、後に残りたる一群の人々、大に不服を唱へて、場代金取戻し方を掛合ふものありて、中には暴行も為し兼まじき族(やから)もある様子なれば、詰合の警官はそれ〳〵注意を加へ、その入場券を證として木戸場代金を返付せしめたり。又当日の諸雑費及び気球修繕費を合算する時は、凡そ三百五六十円余の損耗なれど、発起者は毫も之に屈せず、来る十五日頃を期し、再び興行して今回の失敗を雪ぐべしと憤慨し居る由」

 〈編者註〉「時事新報」(812)が「風船から烟」、「郵便報知新聞」(811)が「中洲の風船乗り」の見出しで失敗談を伝えている。この後、鈴木孫十郎はどうなったのか。「東京朝日新聞」(1126)に次のような記事が出ている。「日本風船乗り鈴木孫一(ママ)は興行の都度失敗を取りしにもめげず、尚練習の功を積みて好結果を表はさんと先日来引続き一週日の間、白金三光町に於て風船乗りの試験を行ひしが、何時も瓦斯の膨脹力弱くして上騰せず。同人も頗ぶる感憤し、更に千葉県下習志野に赴むき、好良の成績を見るまでは幾日にても試験を為す覚悟にて一昨廿四日同地に向ひ出発したり。」そしてこれが彼の最後の記録である。



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明治24年(1891年)九

○八月九日より、東京日本橋区中洲にて、フルストン(マルストン)氏の西洋奇術七変化。興行人宮永幸太郎。

(読売新聞810827/時事新報815

「昨九日より日本橋区中洲に於て宮永幸太郎が興行する伊国人コルスト氏の発明に係る西洋奇術七変芸は、最初観客の眼前にて張子の首を検査(あらた)め、やがて之を卓上に据へ置けば、忽ち美人となり、忽ち骸骨となり、花籠となり、鳥籠と変じ、終に幻となつて全く影を絶つ等の奇芸なる由」(読売810

「日本橋区中洲町に興行中なる変形術師フルストンは非常の大入なりしが、都合により一時休業せしも、それ〴〵支度整ひしを以て昨廿六日より更に硝子壜中へ数多の錦魚を遊泳せしめ、瞬時に錦魚を氷に変ぜしめて来観人に与へ、或は目前にて白紙へ自身の姿を撮影せしむる等、種々嶄新(めあたら)しき芸を演ずる由にて、毎日午後三時より同十一時まで興行すると云ふ」(読売827

「マルトンの奇術 明治四年より墺国に渡航して、今度帰朝せしといふ奇術師マルトンは、去る八日より昼夜二回宛中洲町に於て手品を興行し居れり。今其七変化といふを聞くに、最初張抜の首を台に載せて据置き、咄嗟の間に肉色を顕はして活けるが如く、忽ち髪を戴きて一個の美人と為り、目元涼しく、愛敬満面に溢れ、観る者をして坐(そぞ)ろ愛恋の情を生ぜしめるや否、一喝すれば見るも嫌らしき骸骨と化けて、一呼吸の間に無常を感ぜしめ、其変幻不可思議に驚く内、又も美麗なる花籠と為り、再び張抜きの首となり、茲にて観客新陳の交代を為す由。夜間は納涼がてらに入場する者多しと云ふ」(時事)

○八月九日より、京都南演劇場にて、シユルバーマンの妖魔術。興行人奥田弁次郎。(日出新聞88

 「[広告]元祖伊太利亜魔法つかい いよ〳〵八月九日より毎日午后一時開場 四条南演劇場に於て 技術士伊太利亜人シユルバーマン 興行人奥田弁次郎」

○八月、宮城県仙台市東一番丁にて、親鸞上人一代記の生人形。(「奥羽日日新聞」815

「東一番丁に興行中なる活人形の大入なることは已に前号に掲載せしが、尚ほ其客高を聞くに、去る十一日は千三百人、翌十二日は千四百八十人なりしと云ふ。〔編者注=演目は「親鸞上人一代記」〕」

○八月某日より十一日まで、富山県高岡市○三座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○八月十五日より、石川県金沢市馬場戎座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○八月二十四日より、香川県高松市東座にて、三代目早竹虎吉の軽業。(「香川新報」821

 「延寿閣にては、昨夜より西洋手品が始まりたり。是れは新規なる技術にて、余程目先の変ったものなりと口上看板に見へたり。又「…三代目の早竹虎吉と名乗る軽業師は、明後二十三日入込み、翌四日より東座に於て例の固有早業の外に、風船乗等の技をも演ずると」

○八月、富山県富山市総曲輪にて、桜綱常吉の綱渡り。(「北陸政論」830

此程より富山市総曲輪にて興行中なる桜綱常吉一座の綱渡りは余程危険なる妙芸を演ずるより、観客は覚はず汗を握るよしにて、毎晩一千五百人もありとか」

○九月一日より、東京浅草六区にて、大蛇の見世物。興行元渡辺佐七。(東京朝日新聞830

「大蛇の見せもの 渡辺差七といふ人興行元となり、来る九月一日より浅草公園地第六区にて興行する印度産の大蛇は、長さ一丈三尺余、檻の中に投与ふれば豚でも犬でも一口に喰ふといふが、まさか灰吹の蛇でもあるまい」

○九月十六日より、大阪千日前奥田席にて、博打の見世物。(大阪毎日新聞916/大阪朝日新聞918920

 「骨牌使用の興行 南地千日前の奥田席にて、来る十七日より玉屋小市と吉田虎造の両人が骨牌四十八手の使用(つかいわけ)を興行して、骨牌を弄する事の不可なるを示すとの事」(大阪毎日)

「八々、トランプ等の見世物 一昨十六日より千日前奥田席にて開場せる見せ物は、トランプ、カブ、花合せ、一銭銅貨抔を自由自在に使ひ分け、自分なり人なり自由に勝つ事の出来る工合を示すものにて、実に怖しきまでに巧みなる由なるが、其内にも札の吹取り三枚札を手の甲に付る事、二枚の札を一枚他人の懐中に投込む手際などは、実に魔法でも使ふかと思はれる程なるが、種仕掛などは少しもなく、全く熟練の業なるよし。右は世間の心得違が例のインチキ抔に掛りて酷い目に合は、皆斯様ないかさまに掛(かかる)のだぞと云事を示すものにて、太夫は多く手クラの手練者が改心して堅気になりしものなりとぞ」(大阪朝日918

「見せ物差止 八々、トランプ等の見せ物と題して一昨日の紙上に載せた千日前奥田席の見せ物は、風俗を紊すの虞あるにや、一昨々夜、其筋より差止られたり」(大阪朝日920

○九月中旬、福井県照手座にて、松旭斎天一の西洋手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○九月二十日より、東京浅草文楽座にて、橘小民部の幻妙術。(読売新聞918

 「文楽座の幻妙術 来る二十日の夜より浅草猿若町の文楽座に於て橘小民部が幻妙術(手品の類ひ)を興行する筈なり」

○九月二十日より、名古屋市浪越公園内にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○九月二十五日より三十日まで、名古屋八百屋町久松座にて、エ・ナフタリーの人体解剖蠟細工

(金城新報919262729104

 「蠟細工の人形 本日午前九時より向ふ一ケ月間当市八百屋町久松座に於て澳(ママ)国人ナフタリー氏の発明に係る蠟細工の人形を見せる由にて、木戸は一人五銭なりと」(919

「人体解剖の蠟細工 当市八百屋町久松座に於ては昨日より人体解剖の蠟細工及び米国製のテレスコツプ(世界有名の故跡等を仕組みたるもの)を一見せしむる由にて、尋常の見せ物と違ひ、東京などに於ては殊の外博士仲間の賞賛を得たるものなりと云ふが、這(こ)は学問上の裨益となるべきものなれば、就て一見すること利益あらん」(926
            

明治24年 007

     

「[広告]当市八百屋町久松座に於て僅か日数間開設する人体解剖蠟細工及び世界有名の大古跡大部の景を仕組たる亜米利加製テレスコツプは、今般東京より到着候ものにして、本会は独乙国製造悉く蠟を以て模造し、人体諸機関の構造衛生生理を示せば、老若男女の別なく一見して其の他の見せ物と異り利益的の者たる事を知るべし

通券料大人小人金五銭 廿五日より 午前九時初午后十二時迄 会主 柴田忠五郎」(927

「美術的人体解剖蠟細工 過般来当市八百屋町久松座に於て開会せる美術的人体解剖蠟細工は墺国エナソタリー(ママ)氏の開く所にして、其の表看板には魯国陸軍中将チヤラカイフイシ及び美人ペルユアの肖像、仏普ストラスグルグ接戦、英京龍動の市況等の図を掲げ、内には蠟細工に係はる西班牙希代の美人アルガリート女の肖像、瑞典国一妊婦の生産を大医ヤコブ、スフマイエル氏が其腹壁を切開して胎児を挽き出す有様は真に迫り、其他希臘有名の強力者ヘルヨリース氏の筋肉発育の模造其他、女体三十八部を解剖したる者を縦覧せしめ、又た特別室には男女梅毒症の現象を模造したるものを示す等、尋常一様の見物と異なり、随分参考ともなるべきものなり」(929

「(前略)八百屋町久松座の蠟細工の観覧物(みせもの)は去る三十日から停止になり、昨日ついに養生相叶はずして、コタコタ荷造りをなし、凡(およそ)二三十輌ほどの車に積んでヤンヤ〳〵と何處かへ去り(後略)」(104

〈編者註〉理由ははっきりわからないが、三十日にその筋(警察)より興行停止を命じられた。これにより久松座座主柴田忠五郎と興行借受人脇田鼎の間に契約上のことで一悶着があったが、どうにか解決し、十月三日、ナフタリー一行は荷造りをして名古屋を後にした。



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明治24年(1891年)十

○九月三十日、横浜山手の公会堂(パブリック・ホール)にて、米人FA・ワイマンのローラー・スケートの曲
 芸。
(時事新報927/東京朝日新聞927

「輪上奇芸 米国人ワイマン氏は、来る三十日午後九時より横浜山ノ手会館に於て、輪上奇芸を興行する由なり」(時事)

「米国人の輪上奇芸 来る三十日の午後九時より横浜山手会館に於て米国人ワンマンといふが世界独歩輪上奇芸を興行する
  よし」(東京朝日)

○九月、大阪千日前奥田席にて、アイヌの物産展。余興にアイヌ人の手踊りを見せる。(大阪毎日新聞922

 「北海道土人踊り 今回北海道の吉田立平氏が発起にて同地の海陸物産の展覧会を千日前奥田席にて催ふす由にて、同氏が持来りし物品には頗ぶる目新しきもの多く、余興として土人が手踊りを見せんと、膽振国山城郡長萬部村メイスケ事反目音吉(六十三)、同忰シユリカ事鹿吉(二十六)、同村富子虎蔵の長女ハルカ事はる(二十五)の三人を伴ひ来たり、北海道名物熊祭りの例式の姿にて異様の冠を頂き、陣羽織の扮装(いでたち)も実地を見せ、且つ踊りは数種ある中に鶴舞の如きは尤も面白し。尚又ハル女が追分ぶしは其音声美妙にして、三味に合すは今回が初めなるよし。因に曰、此メイスケ等は熊猟師にて一見山男の如く、総身に長毛を生じ、酒は五升、鮭は二尾、日本の薩摩芋などは十七八個は一時に食すると云ふ」

○九月、東京回向院にて、秋田県の獅子踊の見世物。(「秋田魁新報」91

「昔し奥州の安倍貞任を征伐したる前九年の役に、八幡太郎義家がなが〳〵の戦役に軍気の沮喪するを憂ひて、軍人を励ます為め陣中に於て獅子舞を催したる事あり。此遺風の今に伝りて、奥州志田郡松山といふ処にては年々此の踊りあり。殊に豊年の際には其の祝ひとして踊るものとなし来れるを、今度、同地の本宮庄平と東京蛎殻町一丁目高橋某が発起にて、本所回向院に興行するとのよし。其踊の数は大略七通りにて、即ちハチヒテ踊・案山子踊・笹踊・綱踊・牝獅子掛合・三人狂・墓踊也。一踊り毎に唱ふる所の歌あり(歌は略す)。本県北秋田郡及び山本郡、由利郡などにも此の踊り伝りて、豊年には村毎に踊り出し、大太皷に笛の調子にて、頗る勇しきものなり」

○九月より、名古屋大須真福座にて、鏝細工。(金城新報929

 「大須真福座で此頃より開場した鏝細工は(略)綿に土もて掛物を拵らへ、客の眼前で種々の細工をして見せるなど実に驚く名人がついて来ての手際だから、正(しょう)の物、正で見せるとは此観せもの。殊に一昨日から新地芸妓一色のきんと玉田屋の長吉の似顔を出したが、丸で其当人を見る如く、人か土か是れが細工かと思はれ見とるゝにつこり笑ひさうで気味が悪い位ゐですが…」

 〈註記〉『近代歌舞伎年表・名古屋篇』より孫引。

○十月二十一日より、大阪千日前木村席にて、油絵の見世物。興行人奥田弁次郎。(大阪毎日新聞1022

 「油画の観せもの 南地千日前木村席にて奥田弁次郎が昨日より興行せる油画の見せ物は、真田の投槍、業平の東下り、桜田雪の曙等総て二十余種ありとの事」

○十一月二日、大阪難波に百花園が開業する。(大阪毎日新聞113

 「百花園 今度堂島米商仲買人西山萬助氏等謀りて、南地元萬国名所の後へ百花園なるものを設けて昨日より開業せり。園内に多くの菊花を植ゑ、處々に茶店を設け、いと盛大に其式を挙げたり。今後同園内には海外の珍しき花、池には種々の魚を集め、望みのものには植木も販売し、又席貸等もする由」

○十一月二日より、山梨県甲府競花亭にて、森島駒吉の魔法奇術。(「峡中日報」111

「競花亭にては、明晩より森島駒吉の一連を招き、魔術奇法を演じて一番観客の荒胆を打挫がん覚悟なりとは、左ても凄し
  き意気込と云ふべし」

○十一月三日より、京都南座にて、力持ちの大寄せ。(『近代歌舞伎年表・京都篇』)

○十一月二十日、侯爵池田章政が東京芝区白金猿若の邸新築祝いに皇太后、皇后両陛下を招待し、浅草の娘玉乗り等
 を余興に供す。
(読売新聞1120

 「娘玉乗の名誉 今廿日午前九時三十分御出門にて両皇后陛下には白金なる池田章政氏の新邸へ行啓あらせらるゝに付、同家にては種々お慰みを天覧に供せらるゝ中、浅草公園内の娘玉のりも召されし由」
〈編者註〉この娘玉乗は青木(瀧次郎)一座である。明治31年四頁参照。

○十一月、大阪千日前の各席にて濃尾地震(1028日)関連の見世物が多く出る。(大阪毎日新聞1123

 「千日前の地震 (前略)同所の奥田席で今日より愛岐両県震災の幻燈を昼夜興行なし、此の上り金の内幾分か遭難地へ義捐するよし。又た木村席は地震の小生人形、その隣が地震の眼鏡、少し離れて石田席は同幻燈と夫々興行なしゐるゆゑ、千日前は宛然(まるで)地震だらけ。お客は彼方(あっち)を見たり此方(こっち)を観たり、身体がユサ〳〵する計りならむ」

○十二月、兵庫県姫路市の養気座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)


 [参考文献]

『郵便報知新聞』(復刻版/明治56月~明治2712月)・柏書房・平成元年~。

「読売新聞」(読ダス/明治7112日~)

「大阪毎日新聞」(毎索/明治211120日~)

「大阪朝日新聞」(聞蔵Ⅱ/明治12125日~・

『時事新報』(復刻版/明治1531日~明治407月・刊行中)・竜渓書舎・昭和61年~。

「日出新聞」(マイクロフィルム/明治184月~)

『毎日新聞』(復刻版/明治1951日~明治39630日)・不二出版・平成5年~。

『東京朝日新聞』(復刻版/明治21710日~)・日本図書センター・平成4年より。

『都新聞』(復刻版/明治211116日~)・柏書房・平成6年~

『国民新聞』(復刻版/明治2321日~明治281229日)

『明治の演芸』(全八巻)・倉田喜弘編・国立劇場芸能調査室・昭和五十五年~。

〈編者註〉同書より孫引きした記事は、新聞名を「 」で括って区別した。

『近代歌舞伎年表・名古屋篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成二十年。

『近代歌舞伎年表・京都篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成八年。

『五代目菊五郎自伝』尾上菊五郎述、伊坂梅雪編・先進社・昭和四年。

『明治座物語』木村錦花・歌舞伎出版部・昭和三年。

『松本喜三郎』大木透・昭文堂書店・昭和三十六年。

『見世物はおもしろい』(別冊太陽123)平凡社・平成十五年六月。


 [蹉跎庵だより]その二十四

 スペンサーとボールドウィンの軽気球の熱気は年を越えても冷めず、一月には歌舞伎座で尾上菊五郎がスペンサーを演じ、我こそは日本のスペンサーなりと自称する連中が、次々と軽気球の昇騰を試みた。しかし、菊五郎が大入り、大当りを取ったのと対照的に、鈴木孫十郎をはじめとする和製スペンサーたちはことごとく失敗し、あげくに詐欺行為として逮捕される者まで出た。日本の軽気球の歴史に語られることのない一頁である。

さて、「時事新報」(812)にこんな記事が出ている。ここはやはり菊五郎に締めてもらうに如くはないだろう。

「菊五郎のスペンサー 本年一月菊五郎が歌舞伎座に於てスペンサーの風船乗りを勤め、大造(たいそう)に評判好く、大入りを掲げたる程なりしが、一日舞台を空際と見做して那落に落ちし時、踏み辷りて足を傷めし事ありしに、其後伊藤辰蔵とかいへる男が大触れ込みに広告して、千歳座の焼跡なる那落の中より気球を満たし、横木に腰掛けたるも、球の力軽かりし為め二度まで遣り替て、那落の底を一寸だに離れざりしを、菊五郎が聞て、我は風船に乗りて那落の下に落ち、彼は気球に乗らんとて那落の底を離れず、好一対の茶話なりといひし事のありしに、去る九日、日本のスペンサーを以て自任せし鈴木氏が昇天の技を試みるに至らざる内、気球の破裂して失望したる現場を見ての事か、但しは人伝てに聞きてか、技術上の評は見ざることゝて下し難けれども、この梅幸が扮せしスペンサーの風船は瓦斯を満たすの面倒もなければ破裂の気遣ひもなく、三十日余りノベツに宙乗りして客足を繋ぎ、我ながら年の今十歳も若くば実地宙乗りの稽古をして、外国の役者に日本の菊五郎といふ名前で風船乗りの演劇(しばゐ)を為さしめんとまで意気込みたれど、年老ひては妻子が許さず、されど今日までは日本のスペンサーはこの梅幸のみと戯れたるよし」。

(平成23715日記)



misemono at 14:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治24年 

2014年06月20日

明治23年(1890年)一

○一月一日より、横浜賑町二丁目にて、女軽業(座名不詳)。(時事新報・明治221231

 「横浜賑町二丁目に於て女軽業を催ほすよしにて昨三十日、同勢三十人許(ばかり)人力車に乗り、音楽合奏にて大旗二流を翻がへし、異様扮 装(いでたち)にて横浜市中を乗廻りしは随分奇観なりしと」

○一月一日より、大阪千日前の景況。(大阪毎日新聞11

動物の大集合(唐竹席)/山がらの芸尽し(榧木席)/難波福松一座の西洋軽業(奥田席)/浅田の生人形(第一木村席)/松本喜三郎の生人形(第二木村席)/大女の見世物(第三木村席)/猿芝居(第三横井席)/しっくい細工(眺望閣内)/東海道鉄道の眼鏡(鶴席)。

「サア入らはい〳〵〳〵〳〵出物が変って今日が初日ぢゃ、木戸が一銭〳〵中が五厘だ〳〵、サア入らはいと平日(いつ
 も)賑ぎ合ふ千日前…(後略)」

○一月一日より、大阪千日前木村席にて、大女伊勢川扇女の見世物。(「東雲新聞」18

「今月一日より千日前にて興行なる彼の大女は、其実、男なりとの評判高きを以て、南警察署にては其の実否を糺させんとて、此程、巡査両名を差遣はし、身体を取調べさせたるに、全く女子に相違なく、且つ原籍は三重県下伊勢国鈴鹿郡大岐須村六十一番地・水谷常造氏の二女にして、名はうた(十六年二ケ月)女といふ事まで判然せしといふ」

〈編者註〉三重県伊勢国鈴鹿郡大岐村水谷常造の二女うた。十六年二カ月。明治二十一年正月、同じ木村席で興行してお
  り、今回が二度目。

○一月一日より、千日前木村席にて、朝田丈之助の生人形「皇国名勇伝」。(絵ビラより)

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・木版墨摺・出版人玉置清七≫(「見世物関係資料コレクション目録」1612147/大阪城天守閣蔵)
       

めいじ 005

   

  (表題)「皇国名勇伝大人形」。表題下に「細工人朝田丈之助・太夫元荒川金之助」。

(袖)明治廿三年一月一日より千日前木村席において」。

 〈編者註〉上掲の絵ビラは「見世物関係資料コレクション目録」(1612147)より拝借した。

○一月一日より、大阪南地眺望閣楼上にて、村越滄州の鏝細工。
 (大阪毎日新聞・明治
22122913128
    

明治23年 023


 「[広告]南地眺望閣ニ於テ 鏝細工肖像備附 一月一日ヨリ開場

  右者東京浅草公園地に於て好評を得たる村越滄洲が五年間精神を凝せし鏝細工にして、各新聞にも記載せられし如く、来一月一日より開場仕候に付、賑々敷御観覧相成度、此段廣告仕候

  但御肖像御写取望の各位は、滄洲の精巧手見せの為、一月より六月迄定価の半額にて写取申候に付、御望の諸彦は御申出相成度候」(明治221229

 「鏝細工 一昨日より南地眺望閣楼上にて縦覧の鏝細工(村越滄州翁作)は、久保田彦作、柳屋小さん、岩崎弥太郎、福地源一郎、伯円、魯文、円朝、大文字屋静江、円遊、守田宝丹、新場小安、菊五郎、団十郎、五明楼玉輔、榊原健吉、清元お葉、華柳寿輔、文京、広岡柳香、芝翫、飯島光城、其角、堂永機、花井梅、ヘラ〳〵万橘、燕林、河竹其水、梅素薫、大島屋善兵衛、清元延寿太夫、市川荒次郎、巌谷一六、岡田龍吟、夜雪庵全羅、橘屋橘之助、伊藤専三、後藤伯、高崎男、高島嘉右衛門、東本願寺、伊達宗城、芳川内務次官、黒田伯、木戸公、岩倉公、井上伯、北畠道龍師、山岡鉄舟、榎本子、谷子、伊藤伯、菊地容斎、北畠治房等諸氏の肖像にして、形容髣髴真に迫るものあり。又額面一人の肖像金二十五円にして普く諸人の依頼に応じて製作するとの事」(13

 「鏝細工 本月上旬より南地眺望閣楼上に陳列したる東京名家鏝細工の肖像は顔に馴染の薄き故にや、追々客足を減じたるに付き、予て東京へ誂へ置きたる当地御馴染の肖像を陳列する由にて、近々到着する筈なり。其面々は官吏にて西村知事、高島中将、紳士にて藤田伝三郎、松本重太郎、土居通天、新聞記者にて栗原亮一、加藤瓢乎、末廣重恭、渡辺治の諸氏、また俳優にて故人中村宗十郎、同実川延若、市川右団治、中村鴈次郎、片岡我當、芸妓にて南地平辰席の小六、同伊丹幸席の奴等なり」(128

○一月一日より、京都新京極の景況(日出新聞11

 「親玉の席は野坂はつ、同たけ、坂東さと、西川小金等にして大力女の曲持ち、手踊り。玉兎、石橋等を演ずるなり」

 「桑の家席にては女足芸あり」

 「菊の家席にてはジャグラー操一の手術あり」

 「四階楼にては大江勘助の作にかゝる国事犯兵衛夢物語りと題する生人形にて、彼の大井憲太郎氏等が朝鮮事件に関して大坂堀江の場より伊勢太廟の太々神楽まで見せるあり」

 〈編者註〉「一月遊興場の案内」より抜粋。

○一月一日より、京都南側の芝居にて、江川一座の足芸・球乗り。(日出新聞11

「四条南側の芝居は江川千吉、同万平、同市松、同亀女、同玉女、同政女の男女混交の足芸、手術、鞠乗なり」

○一月初旬より、京都新京極三条下るにて、エ・ナフタリーの人体解剖蠟細工と覗眼鏡の見世物。
 (日出新聞
1719

 「蠟細工 此程より新京極三条下る新席にて墺国人エ、ナフタリー氏の興行中なる蠟細工は解剖、生理、病理の三科学に則りたるものにして、中にも婦人生殖器に関る解剖五ツ、小兒胎内の景況七ツ、臓腑其他種々の病症に於る解剖十二、施術の景況二個あり。又特別室には男女梅毒に罹りをる模型二十一個ありて、日本の大医と称せらるゝ佐藤、松本、緒方、高橋等の賞状を添へ、又一室には米国より齎せし透明眼鏡八個を添へ、一個に十二様の油絵を挿み、其外にも覗眼鏡ありて種々の図画を見せをる由」(17

 「新京極通三条下る所に於て興行せる澳国人エ・ナフタリー氏の解剖、生理、病理等に係る蠟細工は、何れも妙技を極めあるが、場内別室にある男女梅毒に感染せる様を模型せしものなどは、父母より遺伝したるものと自から発生したるものとを類別し、一見、人をして其精巧に驚かしむるのみならず、『モウ安妓(やすもの)は買ふまい』と云ふの観念を起さしむるが如し。生殖器の構造、又胎児発育の模様、及び種々の病体、大手術の模様などを写し、並に全身を解剖して見せるは、何(いずれ)も感服と云ふの外なく、医学士をして中には是迄曾(かつ)て書籍上にさへ見せざる處を知得せしむるの便益(たより)あり、大いに参考となれりと或医学士は評せり。又蠟細工の外に覗眼鏡ありて、各国の港湾市街繁昌の模様より歴史上の戦争其他の事跡等を写したる画を見せ、恰も其実境を見るが如き想ひあらしむるは、通常観客の評宜し」(19

〈編者註〉昨年(明治二十二年)八月、大阪今宮眺望閣で見せたのが最初。

○一月二十五日より、神戸三宮の空地にて、オールマンの一座の曲馬。(大阪朝日新聞126

 「英国の曲馬師オールマンの一座は、馬十五頭、大猿八頭、犬三十頭と共に此程横浜より神戸に来り、三の宮町の空地に於て二週間興行をなす筈にて、昨日より開場せり。但し此興行を終り次第、当地に来り、奥田弁次郎が興行元となり、南地新金比羅前の相撲場にて一興行なすよしなり」

○一月二十九日より、名古屋大同座にて、養老瀧三郎の水芸。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○一月、大阪千日前にて、熊本の宮本治平の生人形。(大阪毎日新聞112

 「千日前の生人形 当時千日前にて興行中の生人形は熊本の人形師宮本治平の作にて、何れも真に迫り、其の中にも菅原の天拝山、楠公父子の訣別、大塔宮殺し、義経の吉野落、備後三郎の桜の木、盛遠の袈裟殺し等は、最も上出来との評判じや〳〵

○一月、栃木県宇都宮にて、河村清郎の化学的の手品。(「下野新聞」117

 「本地公園内に於て二、三日前より興行し居る化学的の手品師は、種々様々なる奇芸を演じて観客のヤンヤを博したるが、一昨夜の春渡祭に、近在より赤ケット連続々出掛けしを見て、此処を最度と化学的の作用をもて水雷火の模擬をなす際、過ちて硅酸に硫酸の注入せしかば、何かは以てたまるべき、蓋を蔽ふ暇もなく、見る間に轟然響を発して破裂せしかば、無惨にも手品師河村清郎(四十五年)の左腕を粉砕せられ、左肋より両眼に掛けての大怪我をなし、直ちに同所なる順天堂に担ぎ込み、医師阿部文安氏の施術にて左腕をば臂の上より切断したりとの事なるが、聞処に依ば、今の処、生命には別条なかるべしと云へ非常の大患なれば、受合ふことは出来難しといへり。無学のものに化学的の手品などを演ぜしめては、時に斯る遣り違へも間々あるべければ、其筋にては何かと取締法を設けられたきものにこそ」

○一月、熊本県熊本市内川端町末広座にて、帰天斎正玉一座の西洋手品。(「九州日日新聞」124

「目下、市内川端町末広座に於て興行中なる帰天斎正玉一座の西洋手品は、開場以来人気つき、嬋妍たる少女を寝台に載せ、白刃を以て胸元を貫く手品の如きは頗る喝采を博し、其他、婦人焼殺、ヘラ〳〵の箱抜け等、種々目先の新らしき演技多きよしにて、昨日よりは昼夜興行する旨、其筋へ届出でたりと云ふ」



misemono at 11:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治23年 

明治23年(1890年)二

○二月十一日より、東京両国回向院境内にて、早竹虎吉の軽業時事新報219
   

明治23年 020


 「[広告]早竹虎吉大軽業廣告

謹而奉申上候。私儀、昨年十一月以来、両国回向院境内において数日間興行仕り候處、殊の外おひいきを蒙り、就ては此度、御高貴様方の御勧めに預り、両度回向院地内に技場を新築し、當る二月十一日(ママ)午前十一時より四時迄、午後五時より十時迄、昼夜二回興行仕候。然るに今回御覧に入候技芸の儀は、すべて御目新しきものを取仕組、旧年致し候芸等一切致間敷、新芸計り御覧に入候間、何卒仰合され陸続御来観の程、伏て奉希上候也 

両国回向院地内 早竹虎吉社中拝」

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・木版墨摺・春陽堂画・出版人関口濱吉≫(『サーカスの歴史』23頁)
             

明治23年 001


(表題)「大坂登り 早竹虎吉一座」。

(袖)「両国回向院地内ニ於て 當る二月九日より開場/(昼夜二回興行 午前十一時ヨリ午後四時迄、午後五時ヨリ仝十時マデ)/一最上等御一名金三十銭、一上等仝金二十銭、一中等御一名金十銭、一下等仝金五銭、十才以下ハ半額」。

〈編者註〉年代記載なし。同書キャプションに「明治23年」とある。口上文中に昨年十一月に回向院境内に於て興行し大入りをとった旨が記されており、この時のものと推定する。 

○二月十五日より、大阪南地新金比羅前の相撲場にて、オールマン一座の曲馬。興行人奥田弁次郎

(大阪毎日新聞12622215/大阪朝日新聞215

「ヲールマン一座の曲馬 奥田弁次郎が興行人となり、来二月五日より南地新金刀比羅前の角力定小屋に於て、英国人ヲールマン一座の曲馬を興行する由。但し其一座の芸人は、同国の婦人一名、男八人、黒奴(くろんぼ)八人。又之に付属の動物は小馬、犬、猿の類にして、右の婦人は最も踊りを得意とする由」(大阪毎日126

「曲馬 難波新地新金比羅神社社内相撲場に於て、来る五日より三月三十日まで英国人チー・ヲールマン外九名(内英人三名、墺国人二名、マニラ人四名)の曲馬を興行するよし」(大阪毎日22

「ヲールマンの曲馬 南区千日前なる金比羅前の相撲定席に於て興行するヲールマンの曲馬は本日より開場するよし」(大阪毎日215

「予て風評(うわさ)のありし英国の曲馬師オールマンの一座は、此程当地に着せしが、今十五日より南地新金比羅前相撲場跡にて昼夜二回興行の筈。尤も今度は小馬、犬、猿等の曲使ひの外に、我国の足芸軽業師を雇入れ、目新し技芸を演ぜしむるよし」(大阪朝日)

○二月、東京浅草公園木造富士の取壊し。(「東京公論」26/読売新聞219/時事新報319

「浅草公園の富士は、此度神田区福田町・明林権兵衛氏が金五千円にて買受けたるが、不日取崩しの上、跡地へ大倉喜八郎外二氏が金主となりて、見世物を建築すると云ふ。(東京公論)

「富士山の取崩し 今度、浅草公園の木造富士山を取崩し、其跡へ英国風の油絵館を建築する由にて、目下取崩しに着手中なるが、公園六区の人民は之れを聞いて大いに喜び、取払ひの后は縦前通り往還となして通行したき旨を一昨日連署して区役所へ出願せりと」(読売)

「富士跡の大足場 嘗て本紙上に掲げし如く浅草公園内木造富士は此程取毀(とりこぼ)ちたるが、同所の跡には煉瓦造り三重の大廈屋(かおく)を建築して油絵の展覧場にあてんと、昨今、螺旋形の大足場を組み立て中なるが、実に目を驚かす大形のものにて、今度は一層大山を打ち当てんと、ヒマラヤ山を築(つ)き立てるものならん抔噂する者さへあり。夜を日に継で工事を急ぎ、博覧会の出京人を一網に籠める工風なりと」(時事)

○二月、名古屋にて、象と小人の見世物。太夫元山本政七。(絵ビラより)

 【絵画資料】

 ①≪絵ビラ・木版墨摺・暁春画≫(『サーカスの歴史』24頁)
   

めいじ 002

 

(表題)記載なし。「[小人名]剣山由栄・一ノ矢鈴栄・黒雲龍蔵 太夫元山本政七」。

年代・興行場所記載なし。明治二十三年二月一日印刷。愛知県名古屋市・竹中群竜堂章道。

〈編者註〉口上文中に「…今般小人嶋夫婦外三人ニ皇国はうたておどり引抜相撲土俵入、尚大象芸是迄事替かず〳〵奉御覧
  入候間…」とある。

 ②≪絵ビラ・木版墨摺≫(「見世物関係資料コレクション目録」235356
                     

めいじ 003


(表題)記載なし。「[小人名] 梅ケ谷當吉・剣山八太郎・黒雲龍蔵」。

(袖)「頭取松野屋常吉」。

年代・興行場所記載なし。明治二十三年二月一日印刷。愛知県名古屋市・竹中群竜堂章道。

〈編者註〉昨年十一月、三重県で興行し、その後名古屋に来た。上の二枚は同じ日の同じ出版人から出されているが、後者は太夫元と絵師の名が削り取られており、出演の小人の名も違っている。また絵ビラの象の絵も若干相違がみられる。興行場所及び太夫元が途中で変ったのかも知れない。

○三月二日より、京都伏見平野町演劇場にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○三月十一日より、京都新京極三条下る東側にて、オールマン一座の曲馬。太夫元奥田弁次郎
 (日出新聞
312315
                    

明治23年 010

 

 「[広告]外国大曲馬興行広告

今は何かにさかしき世の中で万事世に連る物と見えまして、今迄は諺にも馬の耳に風とか申て、馬と云ふ者は何を云ても訳らん者としてありましたが、今度英国人ヲールマン一座の小馬は、其遣人の云事を能聞分まして、種々の芸等をします。又、洋犬モンキーの芸等は人間も及ばざる程の奇々妙々の芸術を演じますので、大坂興行中、各新聞紙上に御好評を得たる位で、外国人十二人交〳〵(かわるがわる)出まして、今迄チャリネ、ウヲージーヤの一座で御覧なさいました事のない、変りました芸術を御覧に入升。併し今は何かに諸君方の御目がこへまして、極く安くて面白い者でないと御越しくださらぬゆゑ、木戸銭は半額として御一人 下等 五銭  十歳未満 同 三銭

新京極三条下る東側で、三月十一日より晴天十日間興行します。皆さん、一度は御覧ください。時間は正午十二時より。

太夫元 大坂千日前 奥田辨次郎」(312

「曲馬の興行 一昨日より新京極三条下る空地にて興行中なる外国曲馬は中々の好景気にて、初日の通りは昼夜を合せ二千四、五百名に及びたる由。扨て曲馬といへば、是より先、チャリニ及びウオージャの両人が既に京都に来り演ぜし事ありて、今度また興行するオールマンの曲馬も彼此大同小異なれども、曲馬の外に外国人の軽業、和犬の能く人語を解して馬と同様の技芸を演ずる事、其他一頭の犬が馬車の挽馬に擬し、猿が馭者となり、其馬車の中にも亦美婦人に擬(まが)へたる猿が乗りをりて土間を挽き廻る中、計らず馬車が顚覆し、美婦人が怪我する態(さま)などは其趣向目新しく、而も是等の動物に能く其芸を仕込みたる手際は中々に興味ありて、見る人称賛して措かざる有様なりといふ」315)。

○三月二十一日、東京上野精養軒新築落成祝に、帰天斎正一が出る。(国民新聞323

 「上野精養軒新築落成祝は去廿一日午後六時より各新聞社員を招て開きたり。こは日本土木会社の引受て建築せし者の由にて、忍が岡を背(うしろ)にし、不忍の池を臨み、極めて眺望に富む。当日来会者は五十余名ありて、社員の至りし時は已に喫烟室にて碁盤に対する者、骨牌を弄する者等もありし。座席の装飾(かざり)には大瓶に松竹梅を挿(はさ)み、羽二重細工の丹頂鶴二羽を添へ、壁上には重價なる油絵を掲げ、食卓の一隅には遠州流のなげ入の花卉種々を置き、仏蘭西風の割烹を用ゐたる美味を饗せり。食し畢て別室に珈琲を出し、余興には帰天斎正一の手品数番ありたり。帰途に就きたるは殆ど十時頃にてありし。因に云ふ、昨日は同所に宮内省官吏の園遊会ありしと。
   

明治23年 013

            

  此に描けるは即ち精養軒入口の図(省略)及び帰天斎正一手品を演ずるの図なり。」

○三月二十二日、野見鍉次郎が東京浅草六区三号十四番地に撃剣会場を新築する。(『撃剣会始末』)

〈編者註〉明治二十二年九月十五日、二号地の小屋類焼。




misemono at 11:06|PermalinkComments(0) 明治23年 

明治23年(1890年)三

○三月二十七日より四月二十日まで、東京浅草文楽座にて、関井斎湖一の手品「文明奇観東洋手術種明し」。

(毎日新聞329/郵便報知新聞329
           

めいじ 006


「[広告]文明奇観東洋手術種明し

四方の諸君子、益々御多祥奉敬賀候。元来、予輩は大坂に生立致たるものに有之候處、兼て手術たるものに志しの有り、欧米地方より各国を徘徊し該奇術も勉励し、我国へ帰り諸地方を興行致候に、就ては当地御贔屓の御方より御招きに預り上京仕候處、数多手術師徘徊し、精妙奇妙奇天烈なる神変不測の奇芸であると偽り、看客諸君子をタバカリシが、決して手術には奇妙奇天烈の不可思議あるものには無之、余輩も是迄諸君子の眼をくらまし偽りを主として業を起したるが、実に今予輩が顧りみて、嗚呼野蛮なる業なるかなと感じ候得共、数多手術師の行ふ奇芸一点を諸君子へ明し、彼(か)の業を振捨て品行方正を専らとして商業に従事致度精神なれば、行ふ手術を悉く明(あきらか)にして御覧に入候間、初日より永当々々御来観御高評を賜らんことを、偏に奉願候也。

初日に御出の方には、御土産として半切符を一人に二枚づゝ差上候。

二日目より午後二時迄に御出の方へは、半切符を一人に二枚づゝ差上候。

連日二回、正午十二時より開場、午後五時閉場。午後六時より開場、午後十一時閉場。

大人 並等六銭・中等拾二銭・上等貮拾銭 子供 並等四銭・中等八銭・上等拾二銭

二十七日より開場せり  東洋奇術師関井斎湖一敬白  浅草猿若町 文楽座」(毎日

「和洋手品を以て支那欧羅巴等を歴遊し、昨年帰国したる大坂の手品師関井斎湖一の一座は、今度他に業務を転ずるとかのため、是迄多くの手品師が世間に演じ居たる諸手品の種を打明けんとて、一昨廿七日より浅草猿若町文楽座に於て興行を始めたり。昨日は雨天、殊に開場当初のことなれば、観客も余り多くはあらざりし。其中入前に於て座長其他三四の若太夫の演じたる諸芸は、是迄松旭斎等の手品が世間に演ぜし者とは過半大同小異なれば、一々手品の筋形は記する程にもなし。唯大体に付て云はゞ、同じく箱の中より種々の物品を取出す技にても、其数の多きと、又物品の大なると、又稍其腕の枯れ居たるを覚ふるのみ。元来、同座今度の興行は、一種特異の芸術を示すよりは寧ろ、是迄諸手品師の世間に演じ居たる和洋手品の種を打明すの趣意に在り、一芸を演じ終る毎に大抵之を再演し、其有無、出没変化の種を示して之を解説せるに、其度毎に観客は何れも失笑し、拍手喝采せざるはなし。昨年来清国各地にて松旭斎天一が同国人のために演芸中止の請求を受けたりとて評判高き彼の耶蘇磔刑の一技の如きも、之を演じて後ち其仕掛けの種子一部を示したるに、心弱き婦人は溜息をなして恐怖の眉を開くもあり、又大笑して、是では松旭斎も洗足で逃げんと語るもあり。此他、昨日は人体解剖の技を演じ、一人の腹部を切裂き、五臓六腑を取り出し、之を分類して一々観客に贈呈する筈なりとか云へり。遠洋航海の船中、若くは婦女子供の席上茶番のため種子取り旁々出掛くるも一興なるべし」(郵便報知)

○三月、大阪博物場内工芸参考室に、中谷省吾が生人形を出品する。(「東雲新聞」38

 「有名の人形師なる府下東区安堂寺町二丁目の中谷省吾氏は、来る三十日より大阪博物場内に於ける工芸参考室に、曾我兄弟復讐の生人形と大磯の虎の生人形とを陳列する筈の由なるが、其生人形は時代の風俗を古書に考徹して、衣服服装等を調整したるのみならず、容姿、態度等は氏が最も丹精を擬したる者なれば、殆ど真に迫り、所謂る人巧を以て天致を奪ふ可き美術の好趣、一見の下、人をして喫驚せしむるばかりなりと云へり」

○三月、長崎県長崎市八幡町にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月一日より、京都大西座にて、親雲上一座の琉球踊り。(『近代歌舞伎年表・京都篇』)

○四月三日から五日まで、長崎県長崎市大浦公会所にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月十日より十八日まで、長崎県長崎市八幡町劇場にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月十五日より、東京芝増上寺にて、大象の見世物。(読売新聞42/時事新報47

「浅草公園地に久敷観世物と為り居りし大象は、来る十五日より黒本尊の開帳を的(あて)込み、芝公園の松原に這出す
  由」(読売)

「客年二月十一日、憲法発布の翌日、畏くも天皇陛下が人民の請願を聞召届けられ、上野公園へ鳳輦を枉げさせ給ひたる節、同園入り口の左手に於て、象奴(つかひ)が一号令の下に跪き、拝し奉りたる大象は、久しく浅草公園に於て種々の芸を演じ、武骨の体に似気なく愛嬌を売り居りしが、来る十五日より芝増上寺に於て黒本尊の開帳を執行するに付、普賢菩薩に限らず諸仏陀に結縁深き印度産れのことなれば、同園へ出稼ぎを為すといふ」(時事)

〈編者註〉四月十五日より六月三日まで芝増上寺にて黒本尊の開帳が執行される。

○四月十八日、鳥屋熊吉(本名三田村熊吉)死亡。(読売新聞52

「東京府下へ鳥熊芝居の名を残せし同人(三田村熊吉)は、帰坂以来同地にての興行に数回失敗を取りしため病気となり、遂に去る十八日死去したりといふ」

 〈編者註〉幕末から明治初期にかけて、象や虎の見世物で財をなし、のち歌舞伎興行に乗り出した人物。鳥熊に関しては、川添裕「勢州松坂 鳥屋熊吉(上)」(『歌舞伎 二七』歌舞伎学会・平成十三年六月所収)が一番詳しく、かつ正確な論考である。参考にされたい。

○四月二十六日より五月四日まで、福岡県福岡市中洲永楽社にて、松旭斎天一の手品
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○五月初旬より、東京神田旭館にて、エ・ナフタリーの人体解剖蠟細工と覗眼鏡

(東京日日新聞513/郵便報知新聞57/東京朝日新聞511/時事新報618

「人体解剖蠟細工 此程より神田旭館にて開会中なる人体解剖の蠟細工は、澳人エ・ナフタリー氏の催にて、胎児発育の経過、難症の切断術を施す所抔、数十種あり。別室には梅毒、淋病等より起る身体の毀損部を示し、一見竦然たるの思ひあり。又、精巧なる眼鏡あり。各国の実景を油絵にせる物なり。医家の参考となるべき者、素人の目を慰むる者、多数(かずおお)し」(東京日日)

「此程より神田新石町角旭館に開設中なる墺国人エ・ナフタリー氏人体解剖蠟細工標本及び実景色展覧会は、階下より入口には窺(のぞ)き眼鏡数個あり、泰西諸国の名都府或は戦争の図等を示めし、幕の内に入れば蠟細工の医学上に関する手術式、緊縛により来る胎児の位置変動、健康体の背面、仏国美人の像等数種の模形を陳列し、楼上には人体解剖模形一体あり、壁には京坂諸名医の賞状を掲ぐ。特別室には梅毒によりて生じ来る諸病状の模形と、小さき窺き眼鏡に嵌めたる米国の九十六景あり、案内者一々之を説明す。其作敢て之を巧妙と称す可きにあらざるも、尋常玩具の類と異なり、多く解剖上のことに関するを以て、一見頗る衛生上に益する所あるべし。唯其模形に概ね妊娠或は子宮、梅毒等にかゝるもののみを選んだるは如何にやと思はるゝなり。見料は大人十銭、小児五銭」(郵便報知)

「澳国エ・ナフター氏の人体解剖蠟細工は、此程より神田新石町旭館に於て展覧開会中なるが、凡そ胎児発育の経過より女体三十八種の解剖等に至る迄、蠟細工の種類は総て数十種あるべし。殊に其間種々難病の切断術を施したる處の模様はなどは、肉裂け、骨露はるゝの状、一見慄然たらしむる者ありと雖も、亦実に人をして人間衛生の決して忽せにすべからざるの念を惹起(ひきおこ)さしむ。此外、或は断頭台にて切断されたる首級あり、或はナポレヲンパートの脳髄あり、西班牙(スペイン)の美人マルガリー女、仏国美人ペルユア女の肖像などは色澤(つや)の配合と云ひ、筋肉の工合と云ひ、如何にも真に迫り、彼の眼中の容体能くお目留められて五(ご)ろうじろなどゝ口上を述立つる日本の生人形とは殆んど月鼈(げっぺい)の相違あり。又蝋細工の外には、余興お負けとして、普仏戦争の写真眼鏡を始め、各国の実景数十種ありて、何れも一覧の価値あらざるはなし。要するに同会は慰み的の展覧会と云はんより寧ろ学術的の展覧会と云ふべく、快楽的の見物と云はんより寧ろ利益的の見物と称して可なるべし」(東京朝日) 

 「先頃より神田通新石町旭館に於て墺国人ナフタリー氏が興行し居る蠟細工は、左まで評判もなき様なるが、戦争景色等の覗き目鏡は当節柄パノラマ見た慾目に移り悪るけれども、其蠟細工は面白みと共に随分利益を与ふるものゝ如し。身体解剖の有様をあり〳〵と写し出したるは気味悪き程にて、説明者さへ最少(もすこ)し上手ならば一ト学問になるべし。中にも身体各部取外しの細工は頗る完備したるものにて、美人の紅顔皮を剥ぎて忽ち鬼となり、筋肉を去りて忽ち髑髏となるを見ては、豁然大悟する若者もあらんか。黴毒(ばいどく)、猖獗(しょうけつ)の惨状より腰部生殖器等の細工に至りては、血気壮の少年男子など見て置くも好けれど、人前にて年若き女子(産婆学校の生徒は此限に非ず)の見らる可きものに非ず。但し入口にて十銭の外、二階に上りて又五銭の見料あり」(時事)



misemono at 11:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治23年 

明治23年(1890年)四

○五月七日、東京上野公園にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○五月十日より二十六日まで、岡山県天瀬巴玉座にて、ジャグラー操一の東洋奇術
 (「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○五月十九日より、東京芝区田町にて、模造霧島山の山開き。興行人石井新吉。

(読売新聞517/時事新報・明治24622

 「[広告]霧島登山広告 東京市芝区田町一丁目十二番地内建設 模造霧島山 来る五月十九日山開き

  登山券料 大人金五銭 十二年以下六年迄金三銭 六年未満無料

  夫霧島山は日向大隅の二州に跨り、周囲凡廿余里、関西第一の高山、我日本開闢の霊地也。頂上に天の逆鉾の立たる事は古書にも詳かなり。実に希世の神宝なれども、辟遠の地、雲霧の中に有りて、数千年の星霜を経るも世に知る人希ならん。人々生れて父母の国たる国の産土を知り、神宝たるを一度拝観せぬも遺憾に堪ず。爰に於て該山の実形を模造して、広く世の人の観覧に供へんと、既に官許を得、此度竣工せり。此時に逢て国土を思の人々と共に御代万代を祝ふの時来れり。幸にして来る十九日、山登りを開く。四方の人々、陸続御登山あれ。老幼登山を厭ふあらば、麓にも天の逆鉾安置あり。手を携て賑々敷御来観あらん事を偏に希望すと謹言。

興行人 石井新吉」(読売)

 「…彼の小一年の歳月を費し、浅草公園に設けたる木造富士は、開山満二箇年にして取毀し、今はパノラマ館と変じ、其面影を止めたるは江崎の写真店にあるのみ。この取毀しに際し、正反対の地たる府下の南端、芝田町の喜嶋氏邸内に設けし霧島山は、昨年の夏季開山して衆人の登躋(せい)を許したり。浅草の富士に比すれば其規模固より小なれども、彼は竹を編みて骨と為し、之に土を塗りたる為め、屡々風雨に襲はれて不体裁を来せしも、此は総板構ひにて、斯る憂(うれひ)なきのみならず、海岸のことゝて眺望の富は遥か浅草の上にありしに、場末の事なれば兎角登覧人少なかりし。夫等の為めにや、両三日前より取毀しに着手せりといふ」(時事)

○五月二十二日、東京浅草公園に日本パノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○五月二十三日より、名古屋笑福座にて、中谷豊吉の大井憲太郎他朝鮮事件顛末の生人形
 (『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○五月二十四日より六月六日まで、香川県高松市片原町延寿閣にて、象と小人の見世物。(「香川新報」524

「徳島県にて過日来頗る喝采を博したる大象は、今二十四日より当市片原町延寿閣に於て興行を始めたるが、却々(なかなか)見事なものなりと云ふ。〔編者注=二十七日付に、「小人の舞踏がお添へにて種々の芸事を演ずる由なるが、チト木戸銭が高過るとの評判」とあり。六月六日閉場、丸亀へ行く〕」

〈編者註〉二月、名古屋で興行した一座。その後徳島県で興行し、同地に来る。この後丸亀へ向っている。

○五月末日より、香川県高松市片原町東座にて、キリウサンの東洋奇術。(「香川新報」525

 「東洋奇術一大改良との触込にて、近々当地に入込と云ふ手品師キリフサン一座は、片原町東座に於て興行の筈にて、其触込に違わず、出色奇抜なる奇手妙術を以て見物人をして啞然たらしむとか云へり」

○五月、東京四ツ谷荒木町にて、早竹虎吉の軽業。(東京朝日新聞514

 「軽業師の盗難 犬殺しも時には犬に噛るゝ事あり、軽業師早竹虎吉は此ごろより四ツ谷荒木町にて興行中、一昨十二日、同所の洗湯蔭山政吉方へ入浴中、金時計から財嚢(かみいれ・金十六円余入り)までちよッくらちよッと」

○六月一日より、浅草公園第六区四号地にて、安本亀八の生人形「滑稽笑覧会」。(国民新聞61
       

明治23年 011


 「[広告]六月一日ヨリ開会 本会は名高き人形師安本亀八氏の魂膽を懲せし滑稽人形を新工夫に飾り付け、皆様の御笑覧に供へます。其趣向の奇々妙々なる、あり触れたる活人形の如きにあらず、何卒御高覧の上御評判願上候  浅草公園第六区四号地パノラマの横門通り 滑稽笑覧会」

○六月上旬より、神田通新石町旭館にて、エ・ナフタリーの人体解剖蠟細工と覗眼鏡の見世物。(時事新報68
         

明治23年 019

          

「[広告]妙絶人体解剖蠟細工

鮮麗実景画大展覧会 医師及教育家必要展覧品

神田通新石町旭館ニ於テ昼夜開設

本会ハ人体諸機関構造并各国有名ナル海陸戦争及都会ノ景、縦覧ニ供ス。

本会ハ澳国人エ・ナフタリー氏、欧州各国及印度、支那等ヲ経テ米国ヘ廻航ノ途、客年来、京都、大坂ニ於テ開設、到ル所大喝采ヲ博シタル学術兼遊歴的ノ一大奇観ニ候得バ、大方ノ諸君、陸続御来観ヲ仰グ」

 〈編者註〉手狭だったので、七月十四日より浅草公園三社裏へ移転した。

○六月五日より、南地御蔵東○十有宝地にて、「真景写像萬国名所大観物」。細工人登喜和富三郎・興行元山内徳治
 郎。

(大阪朝日新聞611/大阪毎日新聞619

 「去る五日より始めし眺望閣南の萬国名所の観物は一寸目先きの変りし趣向にて、先(まづ)表に現はれし半身の汽船に上り、描ける煤烟を天井高く残して場内に進み入り、先(まづ)長崎の丸山、夫(それ)より朝鮮、支那、安南と進み、印度に至り、籠地油灰塗のヒマラヤ山を辿り、又其裾の隊道(トンネル)を穿ち、欧羅巴に歩を運らし、英仏渡航の橋を往還の上にて一跨ぎに渡り、東側の場内に入り、東京上野の公園地に至りて追出しとなる趣向にて、各国の人物を模せる大人形には申分あれど、木彫りの小人形の中には好き出来のものもあり、縮甸(ビルマ)王宮の模型の奇麗なる、阿非利加の蛇堂の物凄き抔、子供等の半時間程の世界一周として出掛るには適すべし」(大阪朝日)

〈編者註〉「○十」は本当は○の中に十の字が入っている。

「大観物 南地眺望閣の南手にて目下開場中の真景写像萬国名所の観物は、表看板は御熟知(ごあんない)通り神戸港海岸の風景にて一大汽船を見せ、看客は此船に乗じて着港の上、各国を遊歴する趣向なり。場中の真景は未だ悉皆(のこらず)落成はせざれど、出来あがりたる数個の中、最も美麗且つ其細工の巧みなる分も多く、人物も小形の分は皆木彫にて、殊に場中には好き運動場もあり、ヒマラヤ山中の通路、エリサレム市街のトンネル等、小兒には至極興味を添へ、また口上言ひも半途(なかば)より束髪洋装の婦人にて、鶯の囀る如き口調で長口上は実に感心であります。依つて悉皆落成、電気燈が点きましたら更に略評をする事もありませうが、小人物の据方に今少し注意しては如何(どう)ですか……」(大阪毎日)

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・銅版・福井栄之助模写≫(大阪城天守閣蔵)

めいじ 001


(表題)「真景写像萬国名所大観物」。

 (袖)「大日本大阪南地御蔵東○十有宝地ニ於テ 興行元山内徳治郎」。

 (裏)「明治弐拾参年五月吉日開場 細工人登喜和富三郎」。

明治二十三年五月十七日発行。出版人(判読不可)。画面は六段四十七マスに萬国名所を描いている。

木版墨摺の絵ビラは通常二銭だが、銅版のゆえか、定価金十銭となっており、かなり高価である。

 〈編者註〉上掲の絵ビラは大阪城天守閣蔵(南木コレクション)を拝借した。



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明治23年(1890年)五

○六月十五日より、東京上野公園東照宮大鳥居内左側にて、自動鉄道(ジェットコースター)が開設される。

(郵便報知新聞614/国民新聞617/『明治事物起原』)

 「[広告]自動鉄道 原名スウイツチバツク、レールウエー 

上野公園東照宮大鳥居左側ニ於テ六月十四日午前九時ヨリ午後七時マデ毎日運転仕候 

此鉄道は今より五年以前、米国にて多年の工夫を凝し、最近理学の発明に因り惰力の効用を実地に表はしたるものにして、最も心身の運動に適するのみならず、併せて学術研究の資となすに足る前代未曾有の一大発明なり。男女を論ぜず来つて乗試せられよ」(郵便報知)

明治23年 016

 「小野古治氏の計画に係る上野公園東照宮内の自動鉄道は、一昨日開業、午後より内外紳士及び新聞社員を招待して試乗せしめたり。平地より高所五間、低所三間許りの起伏せる架橋二重あり。其一幅一間余にして、其長直径四五十間なるが、その橋上は即ち自動鉄道の線道なりとは、一方の階段を昇り客車の頻りに運転しつゝあるにて知られたり。発車場即ち東端の客車に乗(のる)に、車台、横は三尺、縦一間位とも見へて、日蔽(おほひ)も囲ひもなく、唯だ二人列の腰掛五行あり、その両わきに輪形の堅固なる握り處あるのみ、簡単なる乗車なり。乗客一同整へ、一寸したる調子にて車止めを取り、三人位ひの車夫にて車台を少しく押せば、車は非常の速力を以て高低を嫌はず線路の長径百丈余の處を瞬間にして達す。此間の乗客の心事は面白しくもあり、又た怖わくもあり、今にも転倒せんとするが如く思はる。併し両三回乗りて乗りならひなば、甚だ愉快なるものに相違なし。試乗了(おはつ)て四五十名の来賓一同、博覧会境内なる風月堂に於て立食の饗応ありき」(国民)

明治23年 012

「自動鉄道は明治二十三年六月十五日より、東京上野公園内東照宮境内に開業したることあり。同車は英国技術家アーサー・ホーア氏工事を担当し、米国のトムプソン氏、多年の工夫をこらし、理学上および機械上より、惰力の効用を実地に適用せしものにて、延長六十間、往復百二十間余あり。双方に高さ二十二尺の高停車場をおき、その間に凹凸ある波形の線路を敷きたり。その客車は自身の惰力によるものにて、一たび線路に放つときは、蜒蜿迤邐(えんえんいり)たるところを上下して、つひに先方の高停車場に達す。開業当日は内外紳士、新聞記者等を招きて試乗をなせしが、すこぶる好結果を得たり。この往復は十四、五秒なれども、一時間に百哩を駛行(しこう)すといふ。ちなみに記す、この客車は長手にして、二人並列する六台の腰掛あり、かつ両脇に手の握りありて、馴るるに従ひ、手放しにても乗車し得たりし」
(ちくま学芸文庫版『明治事物起原』
5136頁)

〈編者註〉下図の挿絵は明治二十三年六月二十五日付「大阪毎日新聞」に掲載されたもの。

明治23年 026

○六月十八、十九の両日、東京上野公園のパノラマ館にて、奥州白川戦二十三年回忌に付き、義捐興行を行う。

(「パノラマの項参照」)

○六月二十二日、東京蠣殻町の友楽館に松旭斎天一が出演する。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月二十七日より二十九日まで、東京蠣殻町の友楽館にて、松旭斎天一が慈善興行を行う

(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月二十八日より、東京中洲にて、大女(伊勢川扇女)と小男四人の見世物

(郵便報知新聞629/読売新聞629/東京朝日新聞719

「八尺の大女 今度、伊勢国鈴鹿郡萩須村より連れ来りて観世物に出す水谷ウタ事芸名伊勢川と云ふ女は、身の丈八尺もある大女の由なるが、昨日より中洲に於て、秋田より連れ来りたる数人の小男と共に手品を興行する由。此の女は明治八年八月生にて十五年数ケ月なるが、東京力士中の最大男は小車部屋の大筒にて、丈六尺二寸、目方三十七貫目なるに、此女は丈が八尺、目方が三十八貫目ありと云へば、稀有の観世物なり」(郵便報知)

「今度三重県伊勢国鈴鹿郡荻須村産の大女出京したり。同人は水谷うた(明治八年八月生)とて未だ十五歳数ヶ月の少女なれども、丈八尺、目方三十六貫あり、芸名を伊勢川扇女と云へり。又秋田県由利郡岩立目村より菊池利七(芸名梅が谷)小野寺玉菊(芸名大達)小野寺忠松(芸名日の出松)上野政吉(芸名政玉)と云ふ四人の小男上京し、何れも去る廿六日手品の鑑札を受け、昨廿八日より日本橋区中洲町に於て興行すると云ふ」(読売)

 「女義太夫の仲間にて最ともひんなりとした痩ぎすの別品は当時誰であるか知らぬが、右の反対に立つぽッとりとした肥大(ふとつ)ちやうは竹本越吉(二十貫目)、鶴沢大吉(十八貫目)、竹本音女(十七貫目)の三人にて、是等は和田の岬の石臼台場と材競べの出来る豪傑なるが、此の程件んの三人申し合せ、聞けば中洲に大女の見世物があつて其の丈八尺五寸ほどあるといふが、夫れも世間の噂、真誠(ほんとう)やら嘘やらしれず、兎も角其の正体を見届に往(ゆこ)うと、二人乗の車へ一人づゝ乗て押出し、先頃チャリネの象が踏毀して漸やく此ほど修繕した菖蒲橋は前轍が恐ろしいからと車より下り、卒(いざ)大女を見物せんと木戸を払つて其の中へ入ると、桟敷からも土間からもイヨー大女の妹、小錦、大鳴門などゝ騒ぎ立られたので、遉(さすが)の三人も閉口し、肝心の大女を見ずに早々小屋を揺り出て帰つて着たといふこと。シテ見れば、此の方も中々小さくないと見える」(東京朝日)

○七月八日より、香川県高松市片原町延寿閣にて、帰天斎一学、一翁一座の西洋手品。(「香川新報」78

「延寿閣にては本日より帰天斎一学、帰天斎一翁の一座にて、様々なる西洋奇術と化学応用の大煙火を見せるといふ。〔編者注=このあと一座は琴平へ行き、八月四日から再び延寿閣へ出演〕」

○七月十四日より、東京浅草公園三社裏にて、エ・ナフタリーの人体解剖蠟細工と覗眼鏡の見世物

(東京朝日新聞712/時事新報1061027/東京日日新聞1111
       

明治23年 018


 「[広告] エ・ナフタリー氏人体解剖蠟細工幷絵画展覧会 

来る十四日より浅草公園第五区三社裏漆喰細工跡・但し江崎写真師通に於て、午前八時より午後四時まで晴雨不論開会
 す。

本会は今般伊太利より有名の画工に画かしめたる数多の絵画到着致し、是迄の場所手狭に付、右の處え移転仕候、該館は広大且つ庭園多分暑気向、至極納涼には適当の場處にして、第六区と異なり閑にして陽なり、大方諸君の尤も満足せらるゝ處なれば、何卒陸続御来車あらんことを

通券料金十銭其他一切不申受、会主敬白 

御余興には夜間、月世界及び数星の実景を判然熟知し得る一大望遠鏡無料にて御覧に供す」(東京朝日)

 「久しく浅草公園山社裏なる元漆喰細工場に於て開場なし居れるナフタリー氏の製造に係る人体解剖(蠟細工)展覧会は、多分本月限り切り上げ夫より横浜に於て開場する予定のよしなるが、他の見世物と違ひ、婦人子供が余り歩を運ばざる上に、館内風入り悪しき為め、暑中より引続き残暑の薄らぐ迄は不入りの方なりしが、彼岸頃より来観者俄に増加し、為めに解剖室の説明者は声を枯す程の好況なり。百般の患部幷に治療を施せし規合(ぐあ)ひ、観者(みるもの)をして呼吸(いき)を逼(つ)めしめる迄、真に写し、偶に入場したる婦人の如きは正視すること能はざる者さへあり。左れど隣館の覗き目鏡に至りては戦争、地震等の大惨状を写し出せるものあれど、大概は宮殿、楼閣、港湾、埠頭、舟車、橋梁等、人をして驚かしめ、喜ばしめる美景を循環展覧に供するを以て、前館と目先きを殊にし、初め心胸(むね)を悪るくせし婦人も地獄を通り抜けて極楽に出でたる心地するよしなるが、夜間火光に映りての景色は一層美し。開場は午前八時にして、閉場は午後九時なりと云ふ」(時事106

 「…近来各国の名勝古跡幷に有名なる大戦争等の絵画の新らしきものを差加へて縦覧に供し、且又大なる望遠鏡二筒を備へ置きて、夕刻に至れば月星を望見せしむる由」(時事1027

「蠟細工 澳国人エ・ナフタリー氏が浅草公園三社の裏に於て開ける人体解剖蠟細工展覧会は、蠟を以て人体各部の構造を示したるものにして、巧妙精徴殆ど真仮(しんか)を誤らしむ。又身体の解剖生理並に胎児の成育等、一々叮嚀にこれを説明して、婦女子と雖も容易に其理を解するを得るなり。右は京坂到る所ろ非常の喝采を博したる由にて、諸病院、諸大医の賞状、十を以て数ぶべし。又童幼をして倦ざらしむるが為め、最も鮮麗なる実景画数十を備へ、英国首府を初めとして西洋諸国の戦争風俗等、一たび眼鏡を窺へば歴々見るべく、且つ二個の大なる望遠鏡を据つけ、夜間は月世間の実景を望ましむ。但し、同氏は遅くも今年中には帰国するよしなれば、それ迄に通券料十銭を投じて一覧するも、娯楽上、教育上、随分利益尠なからざるべし」(東京日日)

 〈編者註〉明治二十四年四月末日まで興行する。この間、各紙に広告が継続してひじょうに多く出される。





misemono at 11:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治23年 

明治23年(1890年)六

○七月十五日より、東京両国回向院境内にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○七月、京都新京極三条下るにて、東京の村越滄州の漆喰鏝細工。(日出新聞725

 「新京極三条下る處に興行し居る漆喰鏝細工は、東京なる村越滄州氏が多年の辛苦を嘗め漸く成功したるものゝ由なるが、貴顕大臣方が洋服を着され居る様は今少し感心せぬ處あれど、髯の一本宛別れ居る處などは、中々鏝もて為したるものとは思はれぬ程の妙工なり。其他市川團洲、松林伯圓、或は東京にて有名なる箱丁(はこや)殺し花井お梅の肖像などは中々の上出来にて、一寸(ちょっ)と見れば遠近の模様など真の油画かと見疑ふ程の細工なりといふ」

〈編者註〉村越滄州の漆喰鏝細工については、「明治二十年五月二十六日・東京浅草公園」の項を参照されたい。

○七月、愛媛県松山市小唐人町の新栄座にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照

○七月、東京浅草公園花屋敷の奥山閣(五階楼)にて、蓄音器の見世物。(読売新聞630716722

 「[広告]奥山閣縦覧の余興として御聞せ申ます フオノグラフ 蓄音器(ひとりでものをいふきかい)一名假色器械 浅草公園花屋敷」(630

 「浅草花屋敷にては米人エヂソン氏の発明したる蓄音器を取寄せ、同所の五階楼奥山閣を縦覧する人々に限り無料にて聞かしむる由。尤も追々は貴顕方の談話、俳優の声色等を吹込む趣なりとの事にて、昨今続々来客あるよしなり」(716

 「浅草の奥山閣は五階の下座敷に蓄音器を据付け、技術者一人付添ひて、来閣者へ聴取しむる由なるが、一昨廿日の日曜日には可なりの入場員ありて、同日は暹羅皇族も随行員と共に都踊の見物を兼て同所へ来遊されたり。此の蓄音器には西洋音楽を吹き込みあるが、頗る爽かに聞き取るを得るといひ、其他団十郎、菊五郎等の名優は此の頃同所へ行きて何か芝居の物語りを吹込む由」(722

○八月六日より、東京日本橋中洲町にて、十六代目松井源水と中村福寿の合併興行。(読売新聞87

 「十六代目松井源水の曲独楽、和洋大手品中村福寿と合併にて毎日午後二時より夜は六時より日本橋区中洲町に於て昨六日より興行せりといふ」

 〈編者註〉「読売新聞」(914)に「中村一登久事福寿」とある。

○八月、横浜伊勢崎町にて、大女(伊勢川扇女)の見世物。(読売新聞83/「京朝日新聞814

 「日本橋中洲町に於て評判されし大女伊勢川扇女の連中は、今度横浜に於て興行する由にて、昨二日、午前八時の汽車にて
 該地へ向け出発せり」(読売)

 「大女洋行せんとす 先頃中洲にて興行し大評判を取りたる大女は、昨今横浜伊勢佐木町にて興行中なるが、外国人の見物日夜盛んにして、相変らずの繁昌なりといふ。此の大女を見物して、大いに仰天したる英国人ザアマアといふ人は、此の大女を高金にて雇ひ入れ、本国へ連れ行きて一儲けせんと目下太夫元へ相談中のよし」(東京朝日)

○八月、名古屋大須五明座にて、安本亀八の生人形。(「金城新報」829

細工人は肥後国の住人安本亀八が精神籠めし生人形、日本一の生人形、サア入らっしゃい〳〵といふ法螺よりも、一層妙なる大須五明座の生人形は非常の大当りにて、毎日昼夜のひっきり無き大繁昌を極めしに付、尚評判に愛敬を添へんとて、新地廓の芸娼妓及び盛栄連の芸妓中、名代の処の生写しを彫りて、いよ〳〵今晩から見せるとの事。是りゃ、又見ずんば有べからず。併し真人間と見違へて腰やうつつをおぬかしないやうに……」

○八月、秋田県秋田市馬喰町神田亭にて、大泉亀松の足芸軽業。(「秋田魁新報」822

「当市馬喰町神田亭に於て興行の大泉亀松の足芸は、二十日迄の処、大入の為め、昨日より三日間興行すると云ふ」

○八月、栃木県宇都宮市にて、大阪下りの生人形。(「下野新聞」831

  「本地公園広馬場に大小屋を設け、大坂下り生人形六通りを飾り、毎夜、大入りを取れり。是は久しく東京浅草奥山に興
  行せしものなりと」

○八月、高知県高知市鏡川原にて、象と小人の見世物。(「土陽新聞」823

 「[広告]大象の曲芸、並に小人嶋の諸芸は、本夜限りにていよ〳〵打上げ仕候間、御誘ひ合されを以て、何卒賑々敷御入
  来の程、奉希上候。

鏡川原興行元」

 〈編者註〉五月、香川県で興行し、高知へ来たようである。

○九月十三日より、東京日本橋の久浜亭にて、松井源遊斎(十五代松井源水)の曲独楽。補助として中村一登久も出演。

(読売新聞914

 「新帰朝者松井源遊斎 技芸修業の為め、明治十六年中、支那及び欧米各国へ渡航し、本年六月帰京せし松井源水十五代目松井源遊斎は、昨十三日より日本橋区浜町一丁目旧人形座の久浜亭に於て昼夜一回づゝ一世一代の同家秘法の曲独楽を興行なし、補助として手品師中村一登久事福寿も出勤するよしなるが、抑も松井源遊[]の祖は、去る寛永年間、浅草観音奥山に歯磨を商ひ、歯の療治を業となし、余興に独楽を衆人の観に供し居たるを、三代将軍大献公のお目に止り、其後御鷹野の度毎に御出先に於て独楽を上覧に供したる以来、源遊斎まで十五代相続し、文久年間一度洋行し、明治六年帰朝し、歯磨商を廃止して芸人の部類に加はりしものにて、目下は同業者の頭取となり居れりとのことなり」

 〈編者註〉十五代目松井源水は「文久年間一度洋行し、明治六年帰朝し」たとあるが、実際は慶応二年十月に渡欧し、明治三年二月に帰朝している。明治二十一年七月二十二日付「東京絵入新聞」には明治十九年に死亡したように書かれていたが、この記事ではまだ現存している。かつ、松井源遊斎と名乗っている。また後の記事には源遊斎の子十六代源水と出てくる。誰だかわからないが、実子の国太郎ではないだろう。江戸時代より浅草を根城として長く続く松井源水のことは、その代々も含めてまだ解明されていないことが多い。まさに「事典」泣かせの人物なのである。

○九月十七日、東京両国旧元町警察署跡にて、榊原鍵吉社中の撃剣会。願人上ケ汐永吉。(読売新聞91911

 「力士中にて好評判の上ケ汐永吉は、本年五月より年寄専務となり、若藤と改名なせしが、今度同人が願人となり、本所区両国橋旧元町警察署焼跡にて、榊原健吉氏社中の大撃剣試合を興行するよしにて、昨三十一日より小屋建築に着手せしといふ」(91

「両国旧元町警察署跡地に於て、榊原健吉氏の社中が、来る十三日より撃剣大試合を興行するよし。右は是迄の普通撃剣と違ひ、土器及び甲鎧調練、剣の舞、素面小手等を行ひ、飛入勝手を許す筈にて、もし敵手が女子にて、長刀で之れに応じ、若し勝を得ば賞を差出す抔、其他種々の目新らしき仕組なりといふ」(911

○九月十九日、富山県富山市総曲輪初音座にて、亜細亜マージンの手品。(「北陸政論」923

去る十九日の夜より富山市総曲輪の初音座にて幕を明けたる亜細亜マンジーの西洋幻妙術は観客の注文品を間違ひなく一々箱の中より取り出す手際、中々不思議にて、思はず快哉(かいさい)を叫ばしむるに付、人気も一層引立ち、毎夜大入を占め居るといふ」

○九月二十一日より、東京両国回向院境内にて、西川伊三郎の大人形と富永幸太郎の面半身早替り

(東京朝日新聞923

 「回向院の大人形 一昨二十一日より両国回向院境内に於て興行する西川伊三郎の大人形は大阪新登り富永幸太郎の面半身
  早替あり。(後略)」

○九月二十二日より十月十二日まで、東京牛込赤城下都座にて、松旭斎天一の手品
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)



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明治23年(1890年)七

○九月二十九日より十月十五日まで、名古屋にて、高間某の奇術伝授。(「金城新報」929

 「[広告]

○食塩五合ヲ以テ石油一升八合ヲ製スル術

○男女肉体白色白髪ヲ黒クスル奇術謝金□銭

○一週間腹ノ減ラヌ術、謝金十銭、其外種々奇術

○何法タリトモ保険ヲ付ス。本日ヨリ十月十五日迄伝授ス。出来ザルトキハ謝金返却ス。通信自由。

当市入江町六十九番戸東洋奇術社長 奇術博生欧米帰朝 高間」

 〈編者註〉興行ではなく単なる商用広告かも知れない。

○九月、天井渡りの奇術の記事が掲載される。(時事新報99/国民新聞915

  「学術上新発明の軽業 茲に示すは近頃の発明にして倒(さか)さまに歩行する女軽業師の画なり。大凡二十四五尺の板を極めて滑かに削り、尚ほ充分滑かならしめんが為め塗りて、其の塗たる面を下向にし天井より釣り下げ、以て歩行の足場とす。軽業師の靴の裏には直径四インチ半(一インチは八分余)の円き吸気器を履(つ)け、其吸気器と履の間に弾機(はじき)ありて、板に吸付かしむると其吸付きたるを取るを自由にせしまでの仕掛なり。
       

明治23年 022


偖(さて)軽業師は一方の泊り木より体を上下に転じて徐々に歩行を始め、一歩の間八インチに越えざる短距離を以て、成るべく速かに歩を移し、一端に進み、方向を転じて再び旧の所へ帰るなり。吸気器の直径四インチ半にして面積十六平方インチなるが故に其表面に向つての大気の圧力は二百四十封度なり。而して通常の婦人の重量を百二十五封度とすれば差引尚ほ百十五封度の余裕あるが故に自在に倒歩し得ると云ふ」(時事)

 「奇体の軽業 天井より釣り下げたる板は平滑に塗り磨きたるものにて、長二十四呎(フィート)半、芸人は初め板の右端なる横木にとまり居て、次第に足を板につけ、果て真逆さまとなり、手は宙放し、八吋(インチ)ぐらいづゝの歩(あゆみ)にて、一は足代りに後ろざまに歩み、板尽く所に至りて極めて徐々に身を転じ、また後ろに歩み行く。
                  

明治23年 021


見れば冷汗の流るゝ業なれど、全く学術上の理屈より来るものなり。則(すなわち)其靴の裏には直径四吋半、厚(あつさ)一吋の八分の五程なる護謨(ゴム)の吸収器(サッカー)あり。其の平滑なる板に点するときは其器と板の間真空と也(なり)、下より押し上ぐる空気の圧力二百四十封度(ポンド)に当る。而して芸人の重量は百二十五封度程なれば、猶百十五封度の余裕あり、十分に之を空中に支へ得るなり。然らば如何にして之を板より離すかと云ふに、吸収器の一面には弾機(スプリング)仕掛あり、其一端を押せば護謨の一部板より引張られて空気竄入し、容易に離すを得るなり。如斯(かくのごとく)一足を板に貼付する時は一足を抜き、片足代りに歩み行けば、見掛ほど危からず。図にある頭下の張綱は万一の変に備ふ」(国民)

 〈編者註〉『実証・日本の手品史』(79頁)によると、これはサイエンティフィック・アメリカンという雑誌(18907月号)に、Walking on the Ceilingとして紹介されたものだという。何らかのルートでこの雑誌を手に入れた日本人の記者が、この部分に興味を持ち、邦訳して載せたのであろう。興行とは直接関係ないが、当時の情報伝達事情を知る上でいささか興趣をそそられるので掲げておく。

○十月一日、福岡県福岡市博多中洲永楽座にて、玉川花遊一座の西洋大写影の見世物。(「福陵新報」101

 「中洲永楽社に於て本日より興業の筈なる西洋大写影(影人形)玉川花遊一座は、此節英国より帰朝して東京へ向ふ途次なりとの触込の通りなるや否やは一見の上ならでは評し得ざれども、何にしろ西洋幻燈の業物(わざもの)にて、「万国名所新旧図」「万国の大臣」「世界の動物」を始め、日本にては諸大臣を始め有名なる人物、並に三府の名優及び上等の芸妓等なりと云ふ。〔編者注=四日付に批評あり〕」

○十月六日より、大阪御霊社内の寄席にて、帰天斎正一の手品。(大阪毎日新聞103

 「演劇交りの手品 御霊の社内の寄席で、来る六日より興行する帰天斎正一の手品は、俳優を数名雇ひて、手品てにはといふ一風変つた名で演劇か手品か、手品か演劇か、何でも珍らしい狂言をする由にて、大切には正一が鉄輪(かなわ)を演じて正真の火焔を吹出すと云ふ」

○十月十二日、横浜公園にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)

○十月十九日、横浜公園(二度目)にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)

○十月十九日より十一月十六日まで、東京麻布区森元町の盛元座にて、松旭斎天一の手品
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○十月二十六日より十二月五日まで、熊本県熊本市内明十橋河岸にて、江島栄次郎の生人形「幼学忠孝鑑」。

(「九州日日新聞」10281029

「一昨日より市内明十橋河岸に開場せし活人形「幼学忠孝鑑」は、流石松本の特別門人の称号を得し江島永次郎氏の作丈けありて頗る上出来にて、松本喜三郎の「肥後孝子伝」以来の見物(みもの)なり〔編者注=場割略〕。見物人は初日より押かけ来り、頗る好景気なり」1028

「去る二十六日より開場せし市内の明十橋河岸の活人形は、初日以来非常の人気なるが、今入場人員を聞くに、初日千九百余人、二日二千二百人、三日目即ち昨日は正午まで千余人ありしと云ふ。〔編者注=十二月六日付同紙に、「昨日までに千秋楽なりしが、其の跡は長崎県人某氏が買取り、長崎に於て一興行をなす筈なり」とある〕」1029

〈編者註〉松本喜三郎は肥後の碩学元田東野の幼学綱要に取材して二十四場面を立案、晩年の弟子である江島栄次郎を指揮して製作させた。これは喜三郎の「肥後孝子伝」以来の見ものと好評で、入場者は連日二千人を数え、栄次郎の出世作となった(『松本喜三郎』)。

○十月、東京浅草公園パノラマの隣にて、外国風景のジオラマ。(「ジオラマ」の項参照)

○十月、東京四谷元桐座跡にて、十六代松井源水の曲独楽。(東京朝日新聞1031

 〈編者註〉十月二十九日が千秋楽で、十一月一日横浜から渡米するという。

○十月、岡山県津山市北新地小屋にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○十一月一日、神戸居留地にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)

○十一月一日より、東京芝三田四国町栄昇亭にて、松井源遊斎(十五代目松井源水)の曲独楽。(東京朝日新聞1031

 「曲独楽の洋行 日本一流曲独楽の名人十六代目松井源水は、去る二十九日まで四谷元桐座跡にて興行し、日々大入を取りしが、同日限り千秋楽となし、源水は明一日、横浜出帆の飛脚船に乗りて米国へ渡航し、二ヶ年間海外に於て興行する筈なりと。尤も其の跡は十五代目、即ち源水の父源遊斎が日本に踏みとゞまり、連中を率ゐて明一日より芝三田四国町栄昇亭にて興行するとのこと」

○十一月一日より、東京四谷桐座にて、西川伊三郎の大人形と富永幸太郎の面半身早替り。(東京朝日新聞1031

 「面半身早替りと大人形 大阪登り面半身早替り富永幸太郎と大人形西川伊三郎とが合併し、明一日より四谷桐座跡に於て
  興行するよし」

○十一月四、五日、東京東両国井生村楼の慈善演芸会に、松旭斎天一が出る。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○十一月十一日、東京浅草公園に凌雲閣が出来る

 〈編者註〉凌雲閣の内部では様々な展示、催しがなされるが、凌雲閣については研究書も多く、当年表では原則として扱わ
  ないこととする。

○十一月十二日、天皇皇后両陛下が二重橋外にて、スペンサーの軽気球をご覧になる。 
 (「スペンサーの軽気球」の項参照)

○十一月二十四日、東京上野公園にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)



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明治23年(1890年)八

○十一月十三日より、東京両国回向院にて、女相撲の見世物。

(読売新聞1181110111211181122/時事新報1115121/郵便報知新聞1128/東京朝日新
  聞
1128

 「今度羽前国山形より現出せし女力士二十余名は、単に角力のみにあらず、其他に撃剣、柔術、力持等をも兼業する由なるが、特に大関遠江灘たけ女の如きは頗る歯力ありて、廿七貫目余の土俵を前歯に加へ、左右の手に四斗俵を引提て土俵の上を徐々往来する程の大力にて、明九日より両国回向院に於て興行すると云ふ。其番付は左の如し。

大関(東)富士山よし(西)遠江灘たけ、関脇(東)北海道きわ(西)東海道もと、小結(東)妹背山りん(西)日高川くの、前頭(東)唐獅子きん、金龍山かん、淡路島なみ、蒸気船はや、電燈あか、大鳥山しめ、金剛石きく(西)鯱鉾なゑ、日光山やすき、珊瑚珠さき、八丈島ゑん、千石舟つむ、電信いま、入舟とり」(読売118

「回向院境内の女角力は昨日が初日の予定なりし處、右力士等の乗込み都合あり、昨朝直江津より汽車に乗じ同夜着京する旨電報あり。之が為め、初日は来る十三日に延引せし趣なり。また前号に記載せし力士遠江灘竹女といふは、福島県下信夫郡飯坂の産にして、体量廿貮貫目あり。年漸く拾八年八ケ月なりと聞き、或人は目下浅草公園六区に興行中の彼の大女伊勢川をして此一行に加へたらんには一層面白からんと、双方の中に入り、合併を試みんと計画し居るといふ」(読売1110

「花櫓娘角力 明十三日より回向院境内において興行する女角力は、一昨日着京する筈なりし處、荷物運搬の都合に依り一日延引し、昨十一日の午後零時三十分の上野着の汽車にて一同乗り込みたり。其際右関係の者五十余名は赤馬車四台を率ゐて同停車場まで出迎ひたりと」(読売1112

「窮すれば身を川竹に沈める者さへあり。如何に世渡りなればとて、柔[]なる性質の婦女にて、男子の前をも憚らず、裸体と為りて腕力を闘はしめ、恬(てん)して恥る色なしとは、世人の歎ずるも無理ならず。前には伊勢より大女の顕はれたるが、今度秋田地方より隊を組みて上京したる女力士の一行は、一昨十三日より向両国の本場回向院に於て興行を初めたり。珍らしきもの見んと出掛けるは人情なれど、中々の好景気にて、力士は何れも半股引を穿き、肉襦袢にて半身を包み居るも、雙の乳は垂れ、割合ひに足の短かく、臼大の尻は実に無格[]極まれど、余程稽古の積たるものと見え、手繰り、撲(はた)き、肩すかせ、一本背負、櫓等の妙手を顕はして、中々取口巧者なり。中にも妹背山と名乗る女力士は、雛鳥ならぬ大兵にて、飛付三人勝を取り、夫より二十貫目以上二十五貫目迄の土俵三個を腹に受け、其上に金剛石と名乗る一個の女力士を乗らしめたる腹力には、見物一同舌を捲きたりとなん」(時事1115) 

「女相撲は果報者 前に記せる力士等は今迄田舎に生育(おいた)ちしものゆゑ、切り立の衣類羽織を着し、表付きの駒下駄を履き、顔に紅粉を粧ひ、髷に結ぶ事等は臍の緒切ッて今回が始めてなるよしにて、一昨日は回向院門前の坊主鶏肉屋丸屋の主人が、右の女力士を招き、売物品の大判振舞を為したる為、一同大満足なりしと」(読売1118

「女力士の酒量 両国回向院前の坊主鶏肉(しゃも)屋にて、一昨日女相撲一同へ鶏肉の大判振舞をなせし事は前号に記載せしが、其際主人は女相撲の事なればとて、飲食物に注意を加へ、一通りの出しものゝ外に小判形半台に堆(うづたか)く盛り上げたる鶏肉七枚を出し、充分に勧めしも、彼等は出京初めての饗応なれば、多少遠慮なせる様子なりしに、其中両三名は可成り達者に見認れければ、或る人富士山よし子に向ひ、随分飲るやうだが幾等位飲めるか問ひしに、富士山は莞爾として、妾(せふ)は下戸故やう〳〵一升位なるが、八丈さんは上戸ですから一升五合位にては稽古の邪魔にもなりますまいと語りたりしと」(読売1119

「女相撲の行司 目下両国回向院境内にて興行中の女相撲は、総て本相撲に擬せしものなるに、尚ほ両三日来は中入後に翌日の顔触れを出し、之を櫓下に張り出す事に成りたるが、茲にをかしきは、行司が毎日顔触れを読み上ぐるに際し、鯱鉾とか妹背山とか小六か敷(こむつかしき)名は読上げ得ず、片名乗りにて、一方は看客の耳朶には少しも入らざる事毎度是ある事にて、観客中よりは種々の悪る口を吐くも、一向感ずる様子も無く、無頓着が却て其日の場興となり、抱腹に耐へざる事屡々ありと」(読売1119

「技倆と自力は同じからず 両国回向院境内に興行の女相撲は、腹櫓に百六十余貫目の物品を受け耐へ、或は前歯に廿五貫の土俵を啣へり等、凡人の力量に非ざるべければ、田舎に在りたる頃は定し四斗俵位手玉に取るは無造作なりしならんと同力士に尋ねたるに、全く技芸は力量と異なるものにして、外観の割合に自力は弱きものなりと答へしといふ」(読売1120

番付 002

「女相撲の思ひ立ち 昨今大評判を博せし彼の女相撲は、元長野県士族斎藤祐義氏の数年計画に係る結果にして、同人は旧来興行師にて、明治十六年山形に滞在中、女相撲に稍や類似の興行を目撃し、大に感ずる所あり、妻おきん(日光山)をして之に加入せしめ、粗(ほぼ)其の形を伝習し、また妹おきわ(北海道)及びおもと(東海道)に技術を教授し、尚ほ近県より強力の女子七十余人を招集して、試験の上合格なる者を抜選し、土地相撲勇駒に就て四十八手秘術の皆伝を受けしめ、同十九年初めて女相撲なるものを組織し、先づ最初秋田県より青森を経て函館、小樽まで進行し、翌廿年再び函館に戻り、岩手県に渉り、一時山形に帰県し、斯くてまた越後、新潟に出稼ぎ中、本年十一月、当興行の勧進元野呂藤助、関口某の聘に応じ上京の途に就き、同月十三日より回向院境内に興行せしものにて、意外の好景気に一同満足し居れりといふ」(読売1121

「女力士の本籍体量年齢 本所相生町警察署よりの尋問に対し、届出し所に依れば、女相撲中日光山事斎藤きん(二十七年十一ケ月)は山形県東村山郡高擶村大字高擶南百六十二番地平民石山勘五郎の三女にして、丈五尺一寸、体量十四貫三百目あり。今を距(さ)る十一ケ年前、同頭取長野県松本旧藩士斎藤祐義に嫁し、此女相撲の隊長にして、技倆早業に妙を得、一本背負を以て得意の手とす。一昨年中重病に罹りて一時業務を中止なせしも、漸次快方し、且つ東京は始めての興行なるを以て、今回特に随従したるものなりと。北海道事石山きわ(二十四年七ケ月)は日光山の実妹にして、立会活発なるを以て毎度初切(しょっきり)の役を勤む。丈四尺八寸二分、体量十六貫五百目。遠江灘こと神保たけ(二十一年六ケ月)は福島県信夫郡飯坂八番地平民神保角二の長女にして、歯力に其の名、著し。丈五尺二寸五分、体量二十一貫三百目なり。金剛石事石山きく(十五年四ケ月)は日光山の養女にして即ち北海道の妹なり。技術はいまだ初心なるも、腹櫓の上乗りを勤め、且同行中の美女なり。丈四尺九寸五分、体量十二貫五百目ありと。(未完)」(読売1121

「女力士の本籍体量年齢(昨日の続き) 富士山事高橋よし(二十六年八ケ月)は、山形県東村山郡大高根村大字横山廿番地平民高橋佐吉の長女にして、体格最も能く、技倆、力量とも凡ならず。流石大関をとるほどあり。丈五尺二寸五分、体量十六貫二百目。東海道事飯野もと(二十年一ケ月)は、仝県東田川郡横山村大字横山八番地平民飯野元吉の三女にして、技倆に巧みなる事他に双ぶもの尠く、北海道と交る〳〵初切(しょっきり)を勤む。丈四尺九寸、体量十五貫二百目。妹背山事桜井りん(二十年九ケ月)は、宮城県遠田郡大字涌谷六十番地平民桜井重松の二女にして、大力、腹櫓に評判好く、平素田舎に在りし節は四斗俵四俵を背負ひ往来するに容易なりしと。尤も同人は本年より此の相撲道に入りしゆゑ、技術は左までならざるも、腕力強大なり。丈五尺四寸三分、体量十九貫目。鯱鉾事佐藤なへ(二十一年一ケ月)は、山形県東村山郡高擶村五十一番地佐藤紋四郎の長女にして、丈四尺七寸、体量十五貫目。入舟事遠藤みつ(二十四年四ケ月)は、山形県山形市大字小性町六十四番地平民遠藤末吉の三女にして、丈四尺九寸五分、体量十六貫五百目。金龍山事須藤のん(二十一年五ケ月)は、同県東村上郡手布村大字奈良澤十六番地平民須藤浅吉の二女にして、丈四尺九寸五分、体量十五貫五百目。日高川事手塚くの(二十四年九ケ月)は、仝県東置賜郡漆山村大字漆山三百六十三番地平民手塚春吉の長女にして、力量衆に勝れ、目下歯力の稽古中なるが、十五六貫目位は容易に啣へ得ると。丈五尺一寸、体量十七貫目。八丈島事梅谷よしえ(二十二年九ケ月)は、仝県飽海郡酒田大字下荒町八番地平民梅谷善蔵の四女にして、丈四尺九寸三分、体量十六貫五百目にして、同相撲中の好酒家なり」(読売1122

「女力士の連中 は目下在京者の外七八名あれど、曩に出京の際病気のため新潟より帰県したるものありて、其中名取川に親不知といふ両人は近日着京する筈なりといふ」(読売1122

「女相撲を停止す(大快) 聞くさへ不快不美千万にして、人をして嘔吐せしめんとせし回向院に興行せる女相撲は、昨夜、俄に警視庁より興行を見合すべし、且つ櫓太皷と其下へ掛置きし女の顔触れ看板を除くべし、但た力持ちの芸などは差支へなしと達したり」(郵便報知)

「回向院に於て興行中の女相撲は一昨夜警視庁より俄に差止めとなり、櫓太鼓と其下へ掛置きし女力士の顔触れを取除かしめたり。尤も力持其他手踊等は差支へなき由」(東京朝日)

「勧進元の大失望 過般来東両国の回向院に於て興行せし女相撲は珍らしきものとて見物人非常に多く、通常の花相撲なれば七日目位にて打上げの例なれど、中々客足の減ぜざるのみならず、一日或る外国人が入場して妹背山が二十二貫目以上の土俵を三俵まで腹に載せ、最後に一個の力女が其上に登るを見て、土俵の真(ほん)ものにあらざるべしと疑ひてや、其技の畢るを待ち花道より来りて片手に土俵を提げんとせしも、容易に動かざるに辟易して、大に感じ、日本婦女(おんな)強うありますと、隠袋(かくし)の中より若干(そこばく)の紙幣を纒頭に与へたりとの噂を聞伝へてか、其後外国人の見物日に増して、勧進元は大喜び。又後れ馳せに出京したる力女もありしに、四五日前其筋より角力の技を停止され、番付取組の張紙をも取払ひたるより、斯くと聞たる見物は角力こそ見ものなれ、腹芸が見たくば浅草に出掛けるこそ優(ま)しなれと、客足忽ち減じたるのみならず、この腹芸と外に歯の力を顕はす力女は僅に二人にて、其他二十名内外の力女は何れも相撲専門の外に芸なく、是等の居喰には勧進元もほと〳〵閉口して塞ぎ居るよし」(時事121

〈編者註〉「見世物大博覧会」(図録)の41頁にこの時の相撲番付が出ている(上掲参照)。「明治廿三年十一月十三日両国回向院境内ニ於テ女力士興行仕候」とあって、間違いないのだが、どうしたことか、大関・関脇からして書かれている四股名が新聞記事とまったく違っている。これを掲げるのは煩雑さを増すばかりでいささか躊躇われるが、資料の扱い方のむずかしさの実例としてあえて提示しておく。




misemono at 10:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治23年 

明治23年(1890年)九

○十一月二十一日より、富山県射水郡伏木町にて、亜細亜マージン一座の西洋手品。(「北陸政論」1125) 

「西洋手品なるマージンの一座は、去る二十一日より射水郡伏木町に於て興行せしに、初日の夜より大人気を受け、少しは後れて見物に行くものは迚も入場は出来ず、空しく立戻るもの多しとかや」

○十一月二十二日より、早竹虎吉の軽業が東京浅草公園旧富士山前に移転。両国はな女が前芸を勤める
(読売新聞
1122

 「軽業を以て其の名著しき早竹虎吉は、過日来浅草公園地に於て興行せるが、去る三日の天長節に学習院へ召されて皇太子殿下の上覧を辱うせし以来、益々好評を博したるを機会とし、今回同所旧富士前の大女興行場跡に移転し、新芸を加へ、且つ若太夫春吉の発明に係る四ツ綱乗りをも今廿二日より衆客の観覧に供し、特に両国はな女(二十四年)が前芸を勤むる由なるが、右両国はな女といふは去る明治十八年頃、同公園内にて軽業興行中大評判を博せし折柄、同人は容貌頗る優美なるにより、某紳士の厚き贔屓を受け、遂に廃業の上、一時権の字付となりしも、近来何か折合ざる所ありて永の暇を賜りしより、予て熟練の軽業を以て早竹の前芸を勤むる事となりし趣なれば、之を当て込み連中の観物(けんぶつ)多からんといふ」

○十一月二十三日より、大阪今宮眺望閣南手に、自動鉄道(ジェットコースター)が開設される。

(大阪毎日新聞10131122

 「自動鉄道 今宮眺望閣の南手に自動鉄道(延長六十間)を敷設せんとする者あり。
  発起人は北区旅籠町の池田四郎兵衛。目的は運動用」(1013
                 

明治23年 027


 「[広告]自動鉄道開業廣告(書下し・編者)

  今般工事落成に付、いよ〳〵来廿三日より開業仕るべく候間、四方の諸君、賑々敷御来遊成し下されたく、最も曩に御通知に及び候御方は予て進呈仕り置き候切符御携帯にて御来遊成し下されたく、此段御案内旁広告仕り候、頓首

  十一月廿二日 今宮臥龍館」(1122

○十一月二十三日より、岡山県津山の妙願寺にて、ヘラヘラ踊り。
 (「山陽新報」
129

「東洋技芸と看板を掲げたるヘラヘラ踊りの一種は、去る二十三日より津山・妙願寺において興行せるが、初日よりなか〳〵の繁昌にて、元請の仕合せ」

○十一月二十五日より三日間、十五代目松井源水、関井斎湖一らが国会開設祝いの演芸

(東京朝日新聞1119

 「国会開設祝ひ 来る廿五日より二十七日に至る三日間、芸人総代豊田某が発起にて、ジャグラー憲一、十五代目源水、関井斎湖一、ジャグラー国一、ジャグラー憲、関井斎湖遊、松井小源女、同柳若、同春水等申合はせ、思ひ〳〵に綺羅を飾り、勅任馬車二輛に乗りて朝野の貴顕紳士を訪ひ、国会の賑ひ、国会未来の曲独楽、滑稽手踊りとか云へる芸事を御覧に入れ、議会開設の祝意を表せんと、昨今その用意最中」

○十一月二十六日より、横浜賑町の蔦座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○十一月三十日、大阪今宮眺望閣東にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)

○十一月、富山県富山市総曲輪旧大手埋立地仮小屋にて、珍奇獣の見世物。(「北陸政論」115/読売新聞118

「目下、富山市総曲輪旧大手埋立地に仮小屋を設け、八足猫、双頭蛇、双頭亀、二頭猫、六足西洋犬等の見世物興行をなし居るが、一両日は快晴につき可なりに賑ひなりとぞ」(北陸)

「動物観世物 目下富山市総曲輪旧大手埋立地に仮小屋を設け変動物共進博覧会の表招牌をかゝげて八足の猫、双頭の蛇、双頭の亀、双頭の猫、六足の西洋犬(かめ)等の見世物興行をなし居るが、当時は非常の大入なりと」

○十一月、福岡県福岡市博多櫛田神社にて、虎(朝鮮産・十一ケ月)の見世物。(「福陵新報」1119

「虎の見世物は博多櫛田神社に於て興行を始めたるが、右の乳児の時、朝鮮にて捕へたる由にて、出生後漸やく十一ケ月になる趣きなり。大きさは中犬位ゐなれども、小豚を生た侭与ふれば直ちに引裂きて喰ふ模様、恰も猫に鼠を与へたると同様にて、見ても恐しき程の勢ほひありと云ふ」

○十二月五日より、東京両国回向院にて、女相撲連中の力持。(都新聞125

 「両国回向院の女相撲は中止を命ぜられたるに付き、今度は撃剣、柔術、力持、歯力の技芸と差替へ、今日より同所にて興行する由。其連中に鈴川浮世(二十三)と云ふ女があるが、量目(めかた)八十貫目の釣鐘を頭に載せ、神色自若と云ふ御大層な触れ出し」

○十二月十日頃より、東京牛込神楽坂獅子寺にて、大女(伊勢川扇女)と小男の見世物。(都新聞1214

 「大女伊勢川扇女、小人島大達連は両三日以前より牛込神楽坂獅子寺で興行中の所、一昨日の六時頃、大女の島田髷が釣洋燈に障り、瓦乱(ぐわら)〳〵ストンと落る機会(はづみ)に石油へ火が移り、既に大事にならうとしたので、見物人はソラ火事だと大騒ぎになつたのを、出方が非常の骨折で直に消留たゆゑ、再び興行して目出度く打出したが、此大騒ぎの時、大女も傍観しては居られぬと見え、楷子でも届かぬ所を背の高い一徳で片端から揉消すと、小男の太夫もチヨコ〳〵としながら水を運び、大女に手渡しする容子は、朝比奈が小人島に命じて酒を手桶で運ばせるが如く、是が却て観物なれば、イヨ蚤の御夫婦、御苦労で御座いますと呑気に声を掛た者があつたと云ふが、これは記者も見たかつた。」

 〈編者註〉十一月は浅草公園内にて興行している。

○十二月十四日、京都御所博覧会前館にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)

○十二月十五日、横浜居留地にて、ボールドウィン兄弟の軽気球。(「ボールドウィンの軽気球」の項参照)

○十二月十六日より、東京本郷真砂町元梅毒病院跡にて、女相撲連中の力持。

(都新聞1216/東京朝日新聞1218

 「両国回向院の女力士等は、今十六日より本郷真砂町の原に於て力持等の技を興行す」(都)

「先頃まで両国回向院境内で興行した女角力の連中は、此程より本郷真砂町元楳毒病院跡を借受け、力持其外替つた芸を演ずるので、例の通りドン〳〵大入」(東京朝日)

○十二月十七日、東京上野公園(二度目)にて、ボールドウィン兄弟の軽気球

(「ボールドウィンの軽気球」の項参照)

十二月十八日、大阪の帰天斎正一の広告が出る(大阪朝日新聞1218

[広告]毎度御座敷之御招ニ預リ奉厚謝候、尚手品芸ニ不限何芸ニテモ御招ニ応ジ御周旋仕候間、不相変御引立之程奉希上
    候

   西成郡北野村千百八十八番屋敷、但シ寺町木幡町北ヘ入  帰天斎正一

○十二月二十日より、宮城県仙台市にて、東京初下りの女の力持ちと海女の水芸。(「奥羽日日新聞」1231

「歳の市場内の興行物は昨年よりも一層多き方なれど、是又見物人至て不足なるが、其中の大入は東京初下り女の力持〔編者注=十二月二十日初日〕、又、海女の水芸等なりと」

○十二月、宮城県仙台市仙台座にて鏡仙太郎一座の大神楽。(「奥羽日日新聞」1227

 「今回仙台座に於て興行する仙太郎連中の大々神楽は、御祝儀ししの曲、ばちの曲、水雲井の曲、傘しな〳〵の曲、うすめのまひ、数手まりの曲、一つまるの曲、かしま踊り、花かごの曲、西洋ナイフの曲、相生ししの曲、末広一まん度、仁和賀茶番等にて、毎日正午より相始め、大札七銭、小札三銭なりといふ。〔編者注=三十一日付に「日中は可なりの入なるも、夜は蠟燭代にもならぬ程」とある〕」



misemono at 10:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治23年 

明治23年(1890年)十

○この年、東京浅草の見世物が大きく変化する。(読売新聞1030

「浅草公園の見世物一変せんとす 浅草公園は従来より興業物と唱へ、生人形、水器械、目鏡等種々の見世物が軒を並ぶるも、何れを見ても実に下等なるものにして、大人の看るべきもの稀なり。今、該興業物の資金を聞くに、何れも金五十円より一千円以内のもの多ければ、随て観覧料も一人前に付金一銭より三銭位に止(とどま)り、観覧者の種類も亦中等以下のもの多し。茲に於て大に之を改良せんと企つる人あり。已に福地氏の水族館、寺田氏の木造富士(孰れも今はなし)、植六の奥山閣等を始め羅漢堂に至る迄、続々巨大なる改良の見世物起り、随ッて本年は既にパノラマ館、凌雲閣等の建築有しに、引続き今度米国チカゴ府より帰朝せし某紳士には、空中に人を運送する器械を仕掛けんとの計画をなし、此器械の見世物は現時チカゴ府に流行し居れるものを用ひんとのことなり。尤も此興業場は地所一千坪を要し、資金一万五六千円の予算成りと。斯く結構なる高尚の見世物、漸次園内に充満するに至りては、従来の下等見世物は追々園外へ自然に退去を為すの外なしとて、一同呟き居る由」

 〈編者註〉シカゴで万国博覧会が開かれ、直径75.5m2,160人乗りの大観覧車が作られたのは1893年(明治26)だから、「米国チカゴ府より帰朝せし某紳士」はそれより三年も前に浅草に観覧車を作る計画をもったのであるが、残念ながら実現しなかったようである。

○この年、軽気球にちなむ商品がいろいろ発売される

 「風船のオモチヤ スペンサー、ボールドウインの両氏が先頃より府下に於て両三回風船乗の妙技を演ぜしより以来、俄に風船の玩弄品(おもちや)を売出したるに、新奇を賞(めづ)るは人情にて、購求者殊の外多く、製造人は忙しき景況なるが、大概一箇五厘より二三銭迄なりと」(時事新報1222

 「風船あられ 風船の評判高きに連れ、風船のやうに誠に軽き風船あられと云ふ菓子を新製し、今度上野黒門町の東英堂より売出したり。小児などには淡白にして病人の見舞品等にも適すと云へり」(時事新報1214

「風船あられ 上戸、下戸にも適ふち云ふが自慢の風船あられの本舗下谷御成道の東英堂にては、今度麹町平川町一丁目へ栄月堂と云ふ分店を設け、来る廿五日開業、本舗同様勉強する由」(都新聞・明治261111

「風船球 昨今小学校生徒の手遊び物に風船玉を飛ばし或は之を鳴らし近頃ろ大に流行し一日に一個五六厘より二三銭迄のもの五六ダース或は□ダースを売るものあり。問屋にては横浜に電□を掛けて取寄する程なりと」

(郵便報知新聞1118) 

「近来流行の玩具(紙の軽気球) スペンサー及びボールソウヰンの興行以来、市中の子供は頻りに風船玉を翫ぶことを喜び、此節は雁皮紙の大袋に種々の絵模様を描き、袋の口は鉄線(はりがね)を引廻はし、其處にアルコールに浸したる綿を付け、之に火を点じて高く空中に放つもの流行し、学校生徒の文房具店抔にては一個五六銭乃至三四銭に売りをれり」(郵便報知新聞1220

 「○新形のパチン数種 (前略)スペンサー氏の風船一度日本に現れたるより、風船も亦粧飾意匠の一となりたり。婦人諸君は既に知玉ふならん、風船擬して作りたる簪類已に小間物屋の店に有るを。今即ち風船をパチンに応用する人もあり。即ち第四第五の如し。           

明治23年 015


何(いづれ)も台金に彫たるにて、第四の糸の如き何れも彫上なり。其台は銀を可とす、上の傘も糸もそれ故銀にてあらはれ、糸と糸との間の凹處は燻蒸して黒くする時は、糸ます〳〵引立つべし。釣船は鍍金するもよし、紫銅などに交ふるも可なり。第五図は地球図を応用せるものなり。下の釣船を月形にせしは、稍意匠あれど、概して上出来の態にあらず。台金は人の好みに従つて可なり。然れども此風船の如きキハモノは一瞬時を競ふ流行なり、永く続くものにあらず」(国民新聞123


  [参考資料]

「東京日日新聞」(毎索/明治5221日~)

『郵便報知新聞』(復刻版/明治56月~明治2712月)・柏書房・平成元年~。

「読売新聞」(読ダス/明治7112日~)

「大阪毎日新聞」(毎索/明治211120日~)

「大阪朝日新聞」(聞蔵Ⅱ/明治12125日~・

『時事新報』(復刻版/明治1531日~明治407月・刊行中)・竜渓書舎・昭和61年~。

「日出新聞」(マイクロフィルム/明治184月~)

『東京朝日新聞』(復刻版/明治21710日~)・日本図書センター・平成4年より。

『都新聞』(復刻版/明治211116日~)・柏書房・平成6年~

『国民新聞』(復刻版/明治2321日~明治281229日)日本図書センター・昭和61年~。

『明治の演芸』(全八巻)・倉田喜弘編・国立劇場芸能調査室・昭和五十五年~。

〈編者註〉同書より孫引きした記事は、新聞名を「 」で括って区別した。

『近代歌舞伎年表・名古屋篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成二十年。

『近代歌舞伎年表・京都篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成八年。

『撃剣会始末』石垣安造・島津書房・平成十二年。

『松本喜三郎』大木透・昭文堂書店・昭和三十六年。

『サーカスの歴史』阿久根巌・西田書店・昭和五十二年。

『明治事物起原』第五巻・石井研堂・ちくま学芸文庫・平成九年。
「見世物大博覧会」(図録)・国立民族学博物館・平成二十八年。

『見世物関係資料コレクション目録』国立歴史民俗博物館・平成二十二年。


 [蹉跎庵だより]その二十三

 チャリネが去ったあと、今度はスペンサーとボールドウィンがやって来た。軽気球そのものがまだ珍しい時代、中天高く飛翔するや、パラシュートで降下してくるという破天荒な興行で、全くのところ、日本人の度肝を抜いた。記者諸君はこぞって見物し、得意の筆を揮って連日雑報欄を賑わした。ボールドウィンのも相俟って、その量尋常ならず、今回もまた別項扱いにした。なお東京朝日は、凡庸な記者だったのか、冴えた記事がなく、すべて割愛した。

ボールドウィン兄弟の記事が少ないのは、やはり来た時期が悪かった。各新聞社(「郵便報知」1129ほか)へ宣伝文を送り、スペンサーとの違いをやたらに吹聴したが、観客にとっては同じ見世物であり、二番煎じが否めない。結局天覧も叶わず、関西での興行もなく、離日したようである。但し二十余年後の明治四十四年、兄のトーマスは日本で初めて飛行機を飛ばし、またまた度肝を抜くことになる。

余談だが、大阪でのスペンサーの興行に関して大阪朝日も大阪毎日も何一つ伝えていない。大阪毎日に至っては、十一月三十日にスペンサーの興行があり、十二月二日(十二月一日は月曜休刊)はそれを報ずべき日なのに、例のボールドウィンの吹聴記事をわざわざ一段も使って掲載している。何を考えているのかと腹立たしい気分にさえなった。また国立国会図書館蔵の「鎮西日報」がこの時期が欠号のようで、調べられなかったのが何とも心残りである。(平成2378日記)


 

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2014年06月13日

更新履歴(平成二十六年度)三

第十六回更新 明治16年(1883年)の部                                更新日:平成26425日(金)

七頁が一頁増えて八頁になりました。

明治十四年の「観山雀演技記」に続き、再び濹上漁史事成島柳北の登場です。今回は浅草で手品師中村一徳の七不思議の舞台を見た「観幻戯記」です。この文章は柳北死後に出版された『柳北遺稿』(博文館・明治二十五年刊)に収録され、かつ『柳北全集』(博文館・明治三十年刊)にも収められています。ただ執筆の年度が書かれておらず、明治十五年前後だろうと推測されてきました。しかし、「年表」に引用した「絵入朝野新聞」(526)の記事を見て、朝野新聞の「雑録」欄に書かれたものであることを知り、その周辺を捜してみると、五月二十三日から二十五日まで三日間にわたって掲載されていました。しかもよく読むと、文章が少し違っています。せっかくですので、「年表」には朝野新聞に載ったほうを再録しました。これまた一徳の舞台を、柳北一流の雅趣に富む文体で見事に再現してくれています。


第十七回更新 明治17年(1884年)の部                    更新日:平成2652日(金)

六頁が一頁増えて七頁になりました。

作業に疲れた時、最近よく民謡を聞いています。聞きつつ、日本の音楽は「はじめに節(ふし)ありき」なのだとつくづく感じます。私の大好きな浪花節も、雲右衛門節、奈良丸節、小円節、若丸節、友春節、幸枝節、虎丸節、虎造節等、その独自の節を楽しむことにほかなりません。古いレコードを聞いていると、実にうまい節を使っています。そして、サビのきいた魅力ある声。いい節といい声が達意の三味線と三位一体になったとき、得も言われぬ名調子が生まれ、陶酔の世界に誘ってくれます。名人の名人たる所以はこの酔わせる力にこそあるのでしょう。

残念なことに、近年浪花節から新しい節が生まれていません。はかない夢かもしれませんが、現代に合ったいい節をマイクも吹き飛ぶような力強い声で聴かせてもらいたいものです。


第十八回更新 明治
18年(1885年)の部                                      更新日:平成2659日(金)

五頁が一頁増えて六頁になりました。

明治十八年の更新を終えた後、「ジャグラー操一の手品」のカテゴリを新設しました。といっても、「見世物興行年表」よりジャグラー操一関連の記事を抜き出して、年代順に並べただけで、目次の作成、本文の校訂、追加及び図版の挿入等の作業はまだこれからです。いっぺんにはとても出来ないので、週一回の更新の年度に合わせて随時やっていくつもりです。ですから、その年度が来るまで、記事が「年表」にも「ジャグラー操一の手品」にも載っているという不細工な状態が続きますが、どうかご了承ください。
 追伸:「奥羽日日新聞」の記事(主に石川清馬の記事)を追加し、一頁増えて七頁になりました。(26518日)


第十九回更新 明治
19年(1886年)の部                                        更新日:平成26516日(金)

七頁が二頁増えて九頁になりました。

両国花女の興行記録は、明治十七年五月の名古屋大須、十八年三月の東京浅草、二十年八月の京都新京極の三つだけでした。ところがたまたま「両国花女」で検索したところ、ブログ「仙台 明治の断片」がヒットし、明治十九年六月に宮城県仙台区立町通で興行していることがわかりました。出典は「奥羽日日新聞」で、六月十日と十一日付に書かれています。使用される場合は宮城県図書館または国立国会図書館蔵の原本で確認してほしいということでしたので、さっそく国会図書館(関西館)へ出掛け、マイクロフィルムを頼みました。リールは明治十九年二月から七月までが一巻になっていて、さっそく該当月日のところを開くと、なんと六月九日から十四日まで欠号になっていました。がっくりという感じで、仕方なく、今回は「仙台 明治の断片」に掲載された記事をそのままお借りした次第です。

せっかく行って一巻だけ見て帰るのはもったいないので、ついでに明治十八年の「奥羽日日新聞」のマイクロ(二巻・1月~10月)も取り寄せてもらい、同ブログにあった記事と『明治の演芸』に載っている記事の確認作業をしました。またどちらにもない記事も見つかりました。こちらはまだ追加、訂正はしていませんが、近日中に更新する予定です。

思いがけないところで、思いがけない情報に出会えるのがパソコンの醍醐味ですが、今度もまたその享楽を満喫しました。いい情報を提供してくださった「仙台 明治の断片」氏に感謝します。


第二十回更新 明治
20年(1887年)の部                                      更新日:平成26523日(金)

十三頁が一頁減って十二頁になりました。

しかし「スパーラ・ラスラ」(六頁)を別カテゴリにして「年表」から独立させましたので、最終的には五頁増えて十八頁になった勘定です。

「スパーラ・ラスラ」とは聞き馴れない言葉ですが、ボクシングとレスリングのことです。

これに関する資料はとても少なく、石井研堂『明治事物起原』にも採り上げられてはいますが、後の内外合併相撲と混同されていて、著しく正確性を欠いています。

この興行は必ずしも成功したとはいえず、内容もたいしたことはなかったようですが、なにしろ両方とも日本で初めての興行で、新聞記者たちもこぞって見物し、たくさんの記事を残してくれました。せっかくですので、いったいどんなことが行われたのか、できる限り多くの記事を採りあげて再現してみました。今後の格闘技の研究の一助にでもなってくれれば幸甚です。


第二十一回更新 カテゴリ「松旭斎天一興行年表」を新設                       更新日:平成
26530日(金)

ジャグラー操一に続いて、カテゴリ「松旭斎天一興行年表」(三十四頁)をアップしました。

和妻の藤山新太郎師『天一一代』(NTT出版・2012年)の巻末に長野栄俊氏編集「松旭斎天一興行年表」が掲載されており、それを使わせていただきたいと長野氏にお願いしたところ、快諾をいただきました。ややあって、あれ以後もだいぶわかったこともあるので最新版をお送りしますとの報を得、まもなく改訂版の「興行年表」が届きました。一見して、天一の調査研究を継続してしっかりとやっておられることが手に取るようにわかり、その真摯さに今更ながら感服しました。

長野氏の年表に下に、「見世物興行年表」所載の松旭斎天一関連の新聞記事を移しました。長野氏も国内はもちろん、アメリカ議会図書館、アメリカの芸能新聞ニューヨーク・ドラマテイック・ミラー等をお調べで、厖大な記事を採訪されておられますが、その掲載をお願いするのはあまりにも無遠慮にすぎるので見送らせていただきました。近年のうちにまとめて上梓される計画もおありとのことで、そのときにご覧いただけるかと思います。

なお、「見世物興行年表」より移した新聞記事ですが、これまたジャグラー操一と同じく、本文の校訂、追加及び図版の挿入等の作業は、週一回の更新の年度に合わせて随時やっていくことになります。ですから、その年度が来るまで、記事が「見世物興行年表」にも「松旭斎天一興行年表」にも載っているという不細工な状態が続きますが、とてもいっぺんには出来ない状況ですので、どうかご了承ください。

 最後になりましたが、今回貴重な「興行年表」をご提供くださった長野栄俊氏に改めて感謝申し上げます。どんな「年表」でも完璧というものはありませんが、松旭斎天一に関し、現時点において、これ以上詳細で、これ以上正確な「興行年表」はないと確信します。その価値ある「興行年表」を掲載できたことを望外の喜びとするものです。


第二十二回更新 明治
21年(1888年)の部                   更新日:平成2666日(金)

十二頁が四頁減って八頁になりました。

ジャグラー操一と松旭斎天一を別カテゴリに移したのが原因です。特に松旭斎天一は「年表」への負担が大きく、先週すべて移転できたので本当に肩の荷がおりた気分です。「年表」がスリムになったぶん、図版を多い目に入れました。動物見世物の両横綱である駱駝と象もまだ現役でがんばっています。動物園が現在のように充実し、庶民の楽しみの場となるのはまだまだ先のようです。


第二十三回更新 明治
22年(1889
年)の部                   更新日:平成26613日(金)

十三頁が四頁減って九頁になりました。

明治二十二年二月十一日に明治憲法が発布されました。その日、帰天斎正一が宮中で手品を演じています。また祝賀祭で上野へ行幸された時、その沿道に吉田卯之助の象もいました。そして五月、この象は目黒の西郷従道邸に引いていかれ、天皇の間近で芸を御覧に入れました。また数日後、今度は松旭斎天一が召され、両陛下が手品を楽しまれました。

この日から、卯之助の象はもうただの象ではなく、「天覧の象」となり、地方廻りでも引く手あまたでした。帰天斎正一や松旭斎天一もこれ以降何度か上覧の栄によくしますが、生涯それらを広告文の中に入れています。

このように「天覧」は、明治の芸人たちにとって大きな名誉であっただけでなく、絶大なる経済効果をもたらしてくれるものとして、何より渇望されたのです。



misemono at 20:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 更新履歴(平成26年度) 

明治22年(1889年)一

○一月一日より、東京浅草猿若町文楽亭にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○一月一日より、東京四谷荒木町旧桐座跡の新築小屋にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○一月一日より三十日間、東京本所津軽の原にて、乙吉の日本曲馬。(読売新聞・明治211227

 「来月一日より三十日間本所の津軽の原に於て浅草奥山なる乙吉連中の日本曲馬を興行する趣きにて、乙吉の旧師草刈庄五郎氏も大に尽力するよし」

○一月一日より引続き、東京浅草弁天山にて、象の曲芸。太夫元吉田卯之助。(東京朝日新聞112

 「大象の寄付金 浅草公園弁天山の脇にて昨年中より興行する大象の太夫元吉田卯之助より本所なる養育院へ金百円を寄付
  したり」

 【絵画資料】

 ≪大判錦絵三枚続・小国政画・出版人福田熊次郎≫(「見世物関係資料コレクション目録」230344

明治22年 006

 (表題)「曲大象」。以下は明治二十一年八月二十六日より東京日本橋区中洲での興行に出された錦絵とすべて同じ。但し、生育の個所だけ「十六歳」とひとつ増やされている。

  三枚目左上に「明治廿二年一月一日より浅草弁天山におゐて興行」。明治二十一年十二月廿八日出版。

〈編者註〉興行は昨年の十一月一日より行っているが、新年になり改めて錦絵が彫られ、売り出されたのであろう。  

○一月一日より、大阪千日前の見世物。(大阪朝日新聞・明治211230

  細工人大江定橘の機械運動生人形(木村席)/清国張世存一座の曲芸(木村席)/田中政道(ママ)の大象の芸と小人の手踊り(木村席)/中山団平の足芸(金沢席)/篠塚一座のヘラ〳〵踊り(吉田席)/磐梯山破裂の大眼鏡(野口席)/達磨の大人形(姉子席)。

○一月一日より、大阪千日前木村席にて、象と小人の見世物。太夫元田中政直。
 (大阪朝日新聞・明治
211230

○一月一日より、大阪千日前木村席にて、大江定橘の機械運動生人形。(大阪朝日新聞・明治211230

 【絵画資料】

 ①≪よしこの入都々逸・木版色摺≫(古書目録)
                

めいじ 001


 「よし此入都々一 

 千日前からうハさした今度大江の大燈籠、ひらけバ龍宮の七々ふしぎ、蝶とおかほにねざめして、はなれとむない音姫のそバ

 大燈籠廻リ十二間右手長左足長高サ八間五尺 口上鎌家正楽」。

〈編者註〉年代・興行場所記載なし。下記の絵ビラにも大燈籠・手長足長の人物が描かれており、作詞者の口上鎌屋正楽も同じで、この時の興行のものと思われる。口上云はただ案内するだけでなく、こうした作詞もやり、その販売も手がけたのである。

②≪絵ビラ・木版墨摺・芳国画門人芳春≫(大阪府立中之島図書館蔵)

明治22年 004

 (表題)記載なし。右下枠内に「機関人形細工司大江定橘翁・同忰良橘・太夫元山中良蔵・口上鎌屋正楽」。

年代・興行場所記載なし。明治廿一年十二月廿九日発行。 

○一月一日より、大阪道頓堀角劇場にて、小沢梅松・秀寿の西洋鞠乗軽業。(大阪朝日新聞15

 「一昨三日の景況…又花街並に諸興行物の景況は昨年に比ぶれば先づ不印の方にて、只角の芝居の鞠乗りと御蔵前の曲馬のみ非常の人気を得たる由なり」

〈編者註〉四月二十七日付「大阪朝日新聞」に、秀寿が中村宗十郎の門人となり、中村銀蔵と改名し、敏馬座の舞台開きに出るそうだという記事がある。

「…又かねて風説(うわさ)のありし軽業師小川(ママ)秀寿は今度愈々宗十郎の門人となり中村銀蔵と改名し、敏馬(みぬめ)座の舞台開きに乗込みをする筈なり」

○一月一日より二十三日まで、大阪難波新地御蔵前の空地(眺望閣の南)にて、ウヲージーアの曲馬

(「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○一月一日より、名古屋一徳座にて、碇綱一座の軽業。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○一月一日より、名古屋開遊亭にて、三人片輪の見世物。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○一月一日より、名古屋五明座にて、鈴木小柳の軽業。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○一月二十七日、二十八日の両日、東京木挽町厚生館にて、ジャグラー操一が奇術慈善会を開催。

(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○一月、東京浅草公園に、近江八景遊覧所が出来る。(みやこ新聞116
                      

明治22年 008


 「[広告]近江八景遊覧広告 名にし近江の八景を、こゝに模造(うつせ)し風色は、石山の秋の月影冴わたり、誓ひ堅田に落る雁、つばさ並べて三井寺の、晩鐘ひゞく公園地、誰からさきの夜の雨、晴れて粟津の晴嵐に、瀬田の夕照うらゝかに、心矢走の帰帆より、比良の暮雪を一眺め、三河に架し長橋の、矢矧の橋まで出来たれば、浅草寺への御参詣、金龍山麓御遊歩がてら御遊覧の程願ひまする

  廿二年一月 浅草公園第六区 近江八景縦覧所」

○一月、東京浅草木造富士山の景況。(みやこ新聞13

 「皆さん御存じの浅草公園の木造富士山は、山と共に評判高く、日本全国は申すに及ばず、外国にまで其名聞え、近頃は数多の登山者中四分は外国の紳士なる由なれば、以て其有名なることの一斑を知るに足るべし。昨年一月より十二月までの計算に拠れば、七割余の利益ありしと云ふ。以て其盛況の一斑を知るに足るべし。其処で同会社にては此の機を外さず、一層園内を改良して、種々の設けをなす由なれば、此上の盛大思ふべし。また一昨日の元日には団十、権十、成福(なりこま)などが一番乗りをなし、柳橋、芳町、芳原、浅草などの芸者が道伴(みちづれ)と云ふ景況ゆゑ、之を見物に出かける娘、書生も多くありて、元日、二日は一日に千五六百人と云ふ登山者なりしと。何にしろ盛大なこと」

 〈編者註〉浅草公園第六区の木造富士山の開業は明治二十年十一月六日からで、一時景況を呈したが、二十二年九月十一日の暴風雨で破損し、再建されぬまま、翌二十三年二月に取り壊された。

○一月、宮城県仙台市東一番町横尾氏の宅にて、竹沢藤治の曲独楽。(「奥羽日日新聞」115

 「是まで北目町宮城座で興行し居りし竹沢藤治の曲独楽は、今度、東一番町横尾氏の宅地内に於て興行する由にて、小屋掛に着手中。〔編者注=十八日付に「小屋掛が雪の為め出来上らず」、当分宿住居に苦しみ居れり〕とある〕」



misemono at 10:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治22年 

明治22年(1889年)二

○二月一日より、東京新吉原仲の町にて、梅開き。安本亀八親子が人形を作る。(東京朝日新聞22

 「吉原の梅開き 鶯の主達が待ちに待ちたる北廊(なか)の梅は、愈々昨日花開きとて、仲の町両側の引手茶屋は梅の花を染抜きたる揃ひの暖簾を掛列ね、電気燈に軒堤燈、鳥渡(ちょっと)景気付て見えしが、肝心な解語花(ものいふはな)花魁の道中は衣装其外の都合に因て三日から始める事に極り、夫が為めお客の足は余り向かず、芸妓の仕舞も大方は空でありしと。又例の安本が人形細工は梅に因み、梅川忠兵衛、鶯宿梅、梶原源太、高砂、野崎村久作、阿部宗任、少女の若菜摘み、孔雀の見立細工等都合八通りにて、明日中には据付の筈なるが、今度の細工は亀八と忰亀次郎、和一の三人丹精を込めしものと云ふ」

○二月一日、大分県速見郡にて、見世物の猪が逃げ出す。(豊州新報26

「見世物の猪逃ぐ 見世物興行人愛媛県温泉郡南江戸村西田七五郎(三十五年)なる者が、先頃より本県速見郡□川村宿屋業手島鹿蔵方へ滞在中、去一日の事とか、見世物にすべき猪が金の鎖を喰ひ切りて厩を飛び出し、無我無当に村内を駆け廻りたる末、何処へか影を隠しけるゆゑ、飼主の七五郎は周章狼狽し、ソレ逃がしては一大事、ソレ失ふては吾々興行連の糊口の道も失ふべければ、假令へ深山の奥へ隱るゝとも、草を踏み分け詮議せんと、予て多くもあらぬ金員を費して、村内の若者七八人を傭ひ入れ、其処此処の心当りを捜索しけるに、仝村宇寺山と称する山林に件の猪が馳せ入らんとするを見付けしかば、『イヨー彼処に居る』と異口同音に叫びつゝ一目散に飛びつけしに、猪も胴縄が木の枝に掛りて進退不自由なりし為め容易(たやす)く捕へ帰りしとは猪の不幸、飼主の幸ひ」

○二月九日より、東京神田神保園にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○二月十一日、宮中御学問所にて、天皇皇后両陛下が帰天斎正一の手品を御覧になる。

(毎日新聞212/東京朝日新聞213/郵便報知新聞227

「宮中の手品 昨日宮中にて憲法発布式の終りたる後、帰天斎正一を召させられ、手品を御天覧遊ばされたる由。其手品は最初陛下の御前三間を離れて真鍮の植木鉢を据へ、花の実を播くや否や忽然(たちまち)にして葉を生じたる二尺斗りの作り菊に化す。次は一尺斗りある真鍮の筒を出し、紅白の細かなる切地を筒の内に入れ、之を一間四方の国旗に化せしめ、又之を掲(かかぐ)るや、足毎に小国旗を付けたる五十羽の鳩現はれて空中に飛舞ひたり。次は硝子の小箱に綿にて作りたる鼠を入れ、一分時間にて真の白鼠となり、夫より御好(このみ)ありて金輪の遣ひ方、時計を鏡より出す術、皿の遣ひ方等を演じたり」(毎日)

 「一昨日の盛式後、御余興として手品師帰天斎正一外一名を宮中に召され、御学問所に於て其技を演ぜしめられ、聖上、皇后両陛下にも叡覧あらせられたるが、その技芸の中、長(たけ)二尺許りなる真鍮の筒へ小裂(こぎれ)を入れ、瞬間にして国旗と変じ、此の国旗を一揮(ふ)り揮れば忽ち五十羽の鳩、空中に飛舞し、各々国旗を足に纏ひて飛去る技、及び一個の植木鉢へ洋菓の種物を蒔き、即座に生立ち、花を咲かせ実を持たせる技などは至極の妙曲にして、両陛下にも殊の外叡感あらせられたるやに承はる。帰天斎が光栄思ふべし」(東京朝日213

「憲法発布の日、宮中に正一を召して其の手品を御覧になりしよしなるが、常時種々の術を演ぜるうち、正一が一個の壜をとり、之に紅色の水を注ぎ置き、喝一声、之を打砕すれば忽ち旭章の大旗となり、其の大旗を一飜すれば、大旗は消えうせて、颯然(さつぜん)忽ち五十個の鳩の各々其の足に旭章の小旗を結べるが飛び出だして、文色離披(りひ)としつゝ翺翔(こうしょう)したるときは、聖上にも御顔(おんかんばせ)を開かせられし由。又た金輪を使へるとき、最初あらためたるときは切目なしと見えたる環(たまき)の、自由に入違ひ繋がり聨(つら)なる不思議に御心動きけむ、御意ありて繋がりたる儘の金輪を召させたまひ、御手に取りて其の切目を御覧ぜられ、莞然(かんぜん)と笑を含ませたまひ、金輪は其の儘御留置きになりしよし。去る廿四日、正一が其の陛下に咫尺(しせき)し奉りし身の喜びを表するため、愛顧を蒙れる人々を請ふて宴会を催せるとき、其の席上にての物語なりき」(郵便報知)

○二月十二日、天皇が憲法発布祝賀祭として上野へ行幸。吉田卯之助の象も参観の列に加わる。

(都新聞28210/読売新聞213/『明治世相百話』)

 「浅草公園の見世物であつた大象を、同馬道八ケ町にて一日五百円で借請け、来る十一日に和田倉門内まで引込むことに決定し、目下仕度で大騒動」(都28

「象を揉だ としても座頭の坊ではない、前号へ記した浅草の大象が当日人間並に皇居前まで出かける一件にて、是は最初本所中の郷の豪商中川某が一手に引請けやうとて、府下で有名なる侠客(おとこだて)二人へ依頼せしところ、一切承知と請込んで、彼の象の持主吉田卯之助へ言込みしに、最早馬道と約定が整ひしゆゑ他区へお貸申す訳には参りませんと断つたので、二人は大きに失望し、種々示談をしたが届かぬゆゑ、侠客二人は切腹でもしなければならぬと云ふ場合になつたを、早くも中川が聞込み、然(そ)う云ふ訳なら此方は宜しいと温順(おとなし)く出られたので、何事も穏やかに済んだと。偖大象は背中へ八人乗つて囃立て、種々の芸を演ると云ふ。」(都210

「…浅草馬道町の大象は背中へ朱塗りの舞台を造り、其上に唐人に扮したる八名が朝鮮の奏楽をなして聖駕の摺鉢山下を御通行の際、右の象は正面に向ひ鼻を動しヴーン〳〵と大音に唸りしは萬歳祝するが如し」(読売)

 「全市沸き返つたやうな憲法発布祝賀祭(明治二十二年二月)の当日、歓呼に賑はる町々を、泰然と練りまはつた小山のやうな巨象一頭、華やかな掛衣に飾られ、背には印度式の輿に唐人服の男が三人、警護の一隊も更紗の唐人服で三四人、チヤルメラを吹き立てて浅草から上野公園へのそりのそり。この大象は当時浅草仁王門前、弁天山の空地で興行中の呼物、太夫元は大阪の吉田卯之助氏、それを馬道七ヶ町で借り受けて華々しく押出し、東京つ子をアッといはせた珍趣向、全く当日の圧巻であつた。殊に七八年も飼ひ馴らした太夫さん、群衆を見ると大きな声で御挨拶、心得たものだ(後略)」(『明治世相百話』)

○二月二十四日、東京日本橋万町の柏木楼にて、帰天斎正一が天覧記念の祝宴を開く

(東京朝日新聞226/読売新聞226/毎日新聞226/「東京絵入新聞」227

 「去る十一日の紀元節即ち憲法発布式の当日、宮中に於て帰天斎正一の手品を天覧あらせられたる由は其の頃の新聞に記したるが、正一は自分の技芸の天覧を蒙りたるは願てもなき一世の名誉なりとて、右の身祝ひの為め、一昨廿四日午後、日本橋萬町の柏木楼上に祝宴を開き、予てより贔屓を蒙りたる紳士、通客等を招待し、席上しんばの小安、家根屋弥吉の両侠客が周旋し、酒間、太神楽の曲数番、日本橋おんど(芸妓の)などの興を添て、頗ぶる盛宴なりし。尤も午前には府下各席亭主人および重立たる落語家等を招待したりと」(東京朝日)

「…席上の余興として太神楽、日本橋芸妓の音頭踊を奏したるのみにて、正一自らの演芸なきは興薄しと呟きたるもありしが、同人は元来謙遜家にして自ら主人となりて賓客を招じながら其技芸を演ずるは自負に似たりとて態と遠慮し(中略)…同人は此前にも或るやごとなき邸に召され演芸を為したるとき、其筋より徽章を拝受したる趣きにて胸部に佩用せり。世間に遊芸を以て衣食する者多しと雖も、宮中に召されて其技芸を叡覧に供へし者は正一を除きてある事なし。同人の欣喜雀躍するも道理なるべし」(読売)

「手品師の祝宴 …門には国旗を掲げ、楼上楼下に毬燈を点じ、知己朋友八十余名を招待し、余興には丸一の太神楽あり、中に炬火三本の手玉取りは最も喝采を得、一同退散したるは午後八時頃なりき」(毎日)

「去る十一日の紀元節、即ち憲法発布式の当日、宮中に於て帰天斎正一の手品を天覧あらせられたる由は其の頃の新聞にも記したるが、正一は自分の技術の天覧を蒙りたるは願ふてもなき名誉なりとて、右の身祝ひの為め去二十四日午後、日本橋万町の柏木楼上に祝宴を開き、予てより贔屓を蒙りたる紳士、通客等を招待し、席上しんばの小安、家根屋弥吉の両侠客が周施(ママ)し、酒間太神楽の曲数番、日本橋芸妓の踊り等あり、頗ぶる盛宴なりし。但し午前には府下各席亭主人および重立たる落語家等を招待したりと」(東京絵入)

○三月三日より五日間、東京木挽町厚生館にて、松旭斎天一が慈善手品会を開催
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○三月二十四日より、東京両国回向院境内にて、松旭斎天一の西洋手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○三月二十七日、大阪梅田に「凌雲閣」(キタの九階)が出来る。(大阪朝日新聞326

凌雲閣

○三月三十日より、横浜港座にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○三月、東京浅草にて鹿児島撃剣曲仕合並に太皷舞の興行。(時事新報323

 「予て弥生社其他に招かれ又は新富座にて団十郎、菊五郎等へ技芸を伝習したりと云ふ鹿児島撃剣師は、此度浅草公園地に於て撃剣仕合及び大皷舞を興行するよし」

 「[広告] 鹿児島撃剣曲仕合並ニ太皷舞 芝公園弥生舎ニ御招キニ預リ、其後貴顕ノ方々御邸ヘモ度々罷出、曲仕合奉入御覧、且ツ此ノ程新富座ニ於テ団十郎菊五郎其外ヘモ曲仕合伝習致シ候段ハ各新聞紙上ニテ御承知有ラセラルベク、扨本日ヨリ浅草公園地ニ於テ興行仕候間、何卒御愛顧ノ程奉希上候也」  

○三月、宮城県仙台松島座にて、渡辺捨治郎の曲馬(馬芝居)。(「奥羽日日新聞」330

 「目下、松島座に興行中なる渡辺一座は曲馬が本当なれど、座元たる捨治郎は老年なるを以て寒気に恐れ、只座中をして芝居をのみ演ぜしめたるも、稍春暖の好季に接せしを以て、一世一代の名残興行として、本芸の妙術を顕はし好評を得んとの目的にて、それ〴〵準備中なりと云ふ」




misemono at 10:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治22年 

明治22年(1889年)三

○四月三日より、東京浅草公園にて、鹿児島撃剣曲試合と太皷舞を興行。(絵ビラより)

 【絵画資料】

≪絵ビラ≫(早稲田大学演劇博物館蔵)
             

早稲田 撃剣会


(表題)「鹿児島撃剣曲試合幷ニ太皷舞」。

表題下に「躍人員 小山清蔵・中野国吉・有村藤兵衛・松元斎之助・松元傳助・松元武助・西源八郎・平山市助/歌唱 西源兵衛・西元権四郎/明治廿二年四月三日より浅草公園にて興行仕候 大入叶」

画面上の文字は「鎌長刀曲試合・木剣鎌曲試合・棒と木太刀の曲試合・太皷舞」。

「乍憚口上」は以下の通り(読み下し・編者)。

「先ず以て御区中(まちじゅう)様益々御機嫌克く御座遊ばされ恐悦至極に存じ奉り候。随て此度御覧に入れ奉る手踊りの義は鹿児島県下各郡にて三百余年をつたへ来り、壮年の男女はかならず此群れに入り市中を散歩し、宴席等へも相招かれ、専ら流行には候えども、元来(もとより)古風の手振り、服装等も至つて古雅を存するまでに候へば、大都会の東京にては所詮御見物はいかゞやと、数年以来御誘引(すすめ)ありしを達て辞退の折柄、或る貴顕の御邸へ召され久々にてふつゝかの手ぶり、しかるに御陪席の御縉紳方、ヒヤ〳〵と御拍手、就中新富劇場にて浄るり所作事の内へ取り仕組み御観覧に供しられ候故、出京間もなく連中の者、日々御宴席へ御招待に預り、珍らしき技芸と御高評(ほめ)を蒙り、いつとなく一名鹿児しま踊りと御称し下され候に就いては、当園内にて興行せよとお進めに随ひ、たゞ活発なる剣道の手練、若者等の運動古風を捨てずと御高評下しおかれ、開場の初日より永当栄当御見物下され御愛顧御引き立ての程、偏に希い上げ奉り候、以上。 浅草公園第六区四号七番地 太夫元敬白」

 〈編者註〉早稲田大学演劇博物館デジタルアーカイブコレクションの「近世芝居番付データベース」より拝借した。

○四月三、四の両日、東京伝馬町牢屋跡にて、トドの見世物。(都新聞33043

 「昨日南鍋町の海産会社より未聞の海獣を捕獲したるから見に来てくれとの使が参つたゆゑ、珍し物好きの記者は取物も取敢ず、早速出向て見るに、其丈一丈六尺、胴の廻り一丈、鰭の如きものゝ長サ四尺、量目(めかた)百五十貫目とまでは極つたが、其形は膃肭臍(オットセイ)の如くなれど、夫にしても大きな物なり。是は去二十四日、上総の国九十九里の沖にて地曳網へ罹りしものなりとぞ」(都330

「上総の九十九里にて獲たるトヾは、今度香具師広田某が金三十円にて海産会社より買取、今明両日は伝馬町牢屋跡にて見世物に出し、明後五日には水天宮の縁日に持出すと」(都43

○四月三日より、横浜居留地二百二十五番舘にて、米国のエベルロー一座の曲馬。(東京日日新聞43

「米国の曲馬師エス・オー・エーベル氏の一座は、去二十九日、香港より横浜へ着港せり。此の一座は同港居留地二百二十五番館の空地に於て、本日夕景より興行する由。入場料は上等桟敷一仕切椅子六脚詰十二円、上等椅子一脚二円、並上等一円、中等五十銭、下等土間三十銭なりと云ふ」

○四月三日より、大阪難波新地御蔵前の空地(眺望閣の南)にて、ウヲージーアの曲馬

(「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○四月十三日より、東京上野華族会館にて養育院慈善会を開催。余興に中村一登久、帰天斎正一らが出る。

(読売新聞41314

 〈編者註〉中村一登久は曲独楽、鞠手術、大独楽、火入水中燈籠、水中曲独楽等を演じた。帰天斎の演目は不明。太神楽の丸一仙之助も出演している。 

○四月十四日、東京上野池之端の競馬場にて招魂記念会を催す。草刈庄五郎の曲馬あり。(読売新聞416

 「一昨日池の端の競馬会社に於て太田本所区長其他の有志者にて戊辰の際戦死せし者等の為め招魂紀念会の催し有りて、榎本逓信大臣にも臨場せられしが、先づ初発、小学校生徒の兵式運動有りて、次に榊原健吉氏の門弟其他の撃剣試合及び日本古代鎧武者の競馬あり。終りに草刈庄五郎氏の母衣引にて紅白十間程の母衣を馬上に引いて乗廻せしは、頗る見事なりしとぞ」

○四月十五日より、大阪千日前木村席にて、樋口歌治の女曲馬。(大阪毎日新聞414

 「千日前の木村席にては明日より樋口影治(ママ)の女曲馬を興行するよし」

○四月十九日より五月十五日まで、京都花見小路祗園座にて、ウヲージーアの曲馬。

(「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○四月二十日より、東京浅草猿若町文楽亭にて、ミサオー、クレニン、キンドル等の矯風国会技術の手品。

(郵便報知新聞410/時事新報420

 「矯風国会技術 明十一日より浅草猿若町文楽亭に於て、ミサオー、クレニン、キンドル等技術士が、一大矯風国会技術と称し、二十三年未来のことを技術に仕立て、各地方の代議士となる可き人を品物にて現し、滑稽を以て議員投票を為す等の手品を為す由。時刻は昼十一時より五時まで、夜六時より十一時までなり」(郵便報知)
         

明治22年 027


「[広告] 一驚一嘆 一大矯風国会技術 技術士ミサオー、クレエン、キンドル

 諸君ヨ諸君、我々ハ久シク泰西各国ヲ巡芸ナスコト八箇年、今回當地ニ帰朝セリ。然ルニ本邦モ我々渡航ノ頃トハ大ニ手品師ノ一雨一雨ニ殖ルコト、カヘルノ兒ヲ産ムト同ジク、其手術ヲ見ルニ、一トシテ変リシコトナク、改良ハ名義ノミ、実ニ海外ノ笑ニ留ルノミ。我々ハ今回三名連合一致シ、我帝国ノ手術者ハ誰レガ一等ノ地位ニ有ルカヲ諸君ニ投票願ハントス。且我々ハ発明致シタル国会手術ナルコトヲ演ジ、今ヨリ廿三年未来ノコトヲ技術ニ仕立、各地方ノ代議士トナル可キ人ヲ品物ニテ著シ、滑稽ヲ加ヘ、議員ヲ投票ナス。此外不思議ノ手術ハ数へキレヌ程アリ。何卒開場當日ヨリ永當〳〵御来観アランコトヲ乞。

上等二十銭 中等十銭 下等六銭 四月廿日ヨリ昼午前十一時ヨリ午後五時マデ 夜午後六時ヨリ午後十一時マデ  浅草猿若町文楽座」(時事)

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・木版墨摺・常盛画≫(日本芸術文化振興会蔵)

明治22年 003

 (表題)「一驚一嘆 一大矯風技術」。表題下に「演芸士ミサヲ、クレーン、キンドル」。

 (袖)「當ル四月 日より浅草区猿若町文楽座ニおいて興行仕奉御覧ニ入候」。

 (天)に英語表題「The Grandist Magic in greetct the World」(正しくは「The Grandest Magic in greeted the World」カ)。

年代記載なし。人間が二つに割れたり、飛んでいる人がいたりと画面からはかなり過激な奇術を演じたことが想像できる。

 〈編者註〉上掲の絵ビラは日本芸術文化振興会蔵のものを拝借した。

○四月二十七日、東京上野博物館での日本赤十字社総会にて、皇后陛下が松旭斎天一の手品を御覧になる。

(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月、大阪千日前の見世物。(大阪毎日新聞428

一二三四小僧の不具の見世物・太夫元山本秀生堂/両国光琴一座の西洋手品/大江の生人形/樋口歌次一座の女曲馬/原田譲一座の撃剣試合/五島米太夫一座の猿芝居。

〈編者註〉「遊山場の案内」より。以降しばらくの間、一週間に一度ずつ出る。

○五月二日より、東京吾妻橋向う旧佐竹邸内にて、米国のエベルロー一座の曲馬。(都新聞55/「江戸新聞」59
                   

明治22年 010


「[広告]世界無類 大技芸興行広告 

当社中各国漫遊中、今回遙々御当地ヘ渡航致候處、或貴顕ノ御勧メニ従ヒ、当五月二日ヨリ吾妻橋向旧佐竹邸内ニ於テ興行仕候。技芸ハ欧米各国ニ在来ノ芸トハ事替リ、諸芸中優技術ナルヲ褒賞セラレ、至ル處普ク喝采ヲ得タルハ社中ノ名誉是ニ過ギズ。其技芸ノ一二ヲ挙グレバ、鳥獣ニシテ人ノ言語ヲワキマヘ、其他実ニ人目ヲ驚カス妙芸等多シ。希クハ大方ノ諸君、陸続御来観アランコト。書記ヲールマン謹述。

開場時間昼午後一時ヨリ夜午後七時ヨリ。入場切符上等金五拾銭、中等金二拾銭、下等金拾銭」(都)

 「吾妻橋向ふの旧佐竹邸内にて、去二日より興行する米人エブロ一座の曲芸は、是迄になき目新らしき事をするとの評判ゆゑ、一昨夜、一覧に行きたり。小屋は例のテント張にて、チャリネの曲馬より少し狭けれど、位置、体裁は大抵相似たり。初めには外国人と我国の人との体操あり。中返り、トンボなど皆身軽にて、外国人殊に優れたり。次は外国人一人馬をつかふに、或は走り、或は廻り、或は逡巡(あとじさり)し、又は脚をうち違へにし、又は前脚を折り、首(かしら)を地につけて看客を拝する体(さま)をさするなど、能(よく)馴らしたるには感心せり。次は猿の曲馬にて旗飛びあり。又、ウヲジアの時演ぜし撞木のうへの芸あり。また曲独楽、軽業、綱渡りもあり。以上三芸は皆日本人にて、さして珍らしと思ふ事も無りしが、ひとつ感服せしは洋犬(かめ)をつかふ一時なり。二頭を排列(ならべ)て小さき馬車をひかせ、車上には三頭の猿を乗客とし、馭者、馬丁も猿にて都(すべ)て其指揮に従はすると、六頭の洋犬を自在につかひて階子乗をさせ、チン〳〵をしながら柵を飛越させ、又は樽を廻させ、或は四足の台の上に跨らせて他の犬に飛越えさするなどは、我国に従来ある洋犬芝居などの比にあらず、実に感服の外なし。同夜は空合(そらあい)もわるく風も冷かなれば、看客も少なからんと思ひしが、存外の入にて場の三分の二以上は上中等ともに塞り居れば、程なく大入をするなるべし」(江戸)

〈編者註〉「江戸新聞」は五月五日に「絵入朝野新聞」より改題したものである。



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明治22年(1889年)四

○五月二日より、岩手県遠野早瀬川にて、石川(清馬)の曲馬。(「巌手日日新聞」58

 「当地字早瀬川に於て、一昨日より石川某の曲馬興行中なるが、何分寒気の為め観客甚だ少く、往々付札なりと云ふ。(遠
  野通信、五月三日発)」

 〈編者註〉石川某とは東北地方を中心に興行している石川清馬と思われる。

○五月三日より三十一日まで、東京神田区神保町神保園にて、松旭斎天一の手品
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○五月五日より、東京浅草公園にて、猿男の見世物。金主谷精爽。(毎日新聞54

 「猿男 谷精爽といへる人が金主にて、明日より浅草公園に猿男の見世物を開くよし。此猿男といふは、身の丈二尺、頭、手、足、動作に至るまで猿の如くにして、之れに手踊、手品、其他の遊芸を為せるなりと」

○五月二十二日より六月九日まで、名古屋南桑名町天道裏にて、ウヲージーアの曲馬

(「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○五月二十四日、天皇が西郷従道邸にて、相撲と吉田卯之助の象をご覧になる。

(読売新聞524/東京朝日新聞・大正元年818日)

 「浅草公園地の弁天山にて見世物にして居る彼の大象は、去る二月十一日憲法発布の祝祭なる翌十二日、聖駕上野公園地へ行幸になりたるとき、浅草区民の思ひ付にて彼の象に囃子を添へ、精養軒の前に押出したる事は当時の紙上に記せしが、本日目黒の西郷大臣の別荘へ行幸在せられるにつき、お慰みのため、かの象を呼びよせ、天覧に供せらるゝ由にて、同日午前五時、往還の通行群集せざる内、公園地を引出し、太夫元なる吉田卯之助が付添ひ、目黒へ引き行く筈なりといふ」(読売)

「●天覧の象の曲芸/▽先帝陛下西郷邸の象の芸に興じ給ふ

  其昔『斬られの卯之助』とて大阪にて羽振を利かしたる吉田卯之助と云へる博徒、改心して興行師となり、畏れ多くも東京上目黒の西郷邸に於て大象の曲芸を天覧に供したりといふ話あり。

  時は明治二十二年二月十一日憲法発布の当日、東京市中は宛がら湧くが如き大賑ひ、魚河岸からは花車が出る、麹町からは神楽が出ると云ふ風に、町々は我劣らじと皆其華奢を競うて居る時に、今は堅気の卯之助は丁度東京に乗込で浅草馬道に住つて居た時なので、馬道を代表してお手前ものゝ大象に錦の衣を飾つて美々しく御成門道を繰出した。当時上野の動物園にはやつと一頭の小さな象が着いた許りなので、非常に物珍らしく、見物の人々はヤンヤ〳〵の大喝采、恰も午前十時頃、先帝陛下には皇后陛下と御同列で上野行幸の途上、不図可笑しな態をした大象が道端に立ちはだかつて居るのに御眼を止めさせられたと申す。

是が抑(そもそ)もの発端で、越えて同年五月二十四日、時の海軍大臣西郷従道侯の別荘が荏原郡上目黒に出来上つたに就き、聖上御臨幸の御沙汰になつた。何がな御眼を慰め奉るべき余興はないかと思案の末、憲法発布の当日、聖上には道端の象に痛く御興を催させられたと聞いて、早速卯之助の許に命を伝へた。卯之助の喜び、譬ふるに物がない。二十四日午前二時、馬道の小屋を出で、七時頃目黒の別荘に着く。聖上陛下には午前八時、宮城御出門、皇族、大臣を随へさせられ、同九時西郷邸御着、直に御座所に入御遊ばされたが、軈て午前十一時頃から庭園泉水の前なる芝生に催されたる余興を御覧になつた。

当日の陪観者は多くは薩摩出なので、最初薩摩踊が演ぜられ、次いで愈(いよ〳〵)象の曲芸が初(はじ)まつた。最初は五音の聴別けから、寝起自由の業、招き象など順次滑稽な姿を御覧に入れると、陛下には殊の外に興じさせられ、丁度御昼餐にて洋食のホークを御手にせられた儘、御椅子より起たせ給ひ、御注目遊ばされたと申すことである。其時、象使ひの加藤定五郎といふものが、公衆の前で象に命令する時、御客様御客様と云ひ馴て居たので、聖上の御前で何と申上げて宜(よろ)しいか解らず、『お上』と言はうとして思はず『御客様』と言ひ損じて玉の汗を流したさうである。聖上には龍顔麗はしく、午後二時還幸相成つたが、此日三条公を通じて種々御下賜品の御沙汰さへあつた。天覧の象は翌二十三年、東京より帰阪の途、滋賀県横川辺で病気が起つて死んだ。九条の竹林寺には此象の碑が建つて居る(京都電話)」(東京朝日)

 〈編者註〉この象は明治231227日、滋賀県甲賀郡三雲村(現湖南市三雲)の横田川(現野洲川)で難に遭い、翌明治2412日に同地で死亡した。なお、象の死亡については明治二十四年の「一月二日、松島卯之助の象(芸名キー・十六歳)が死亡」の項を、象の碑については明治三十三年の「四月、大阪の興行師吉田卯之助が、西区竹林寺に象の碑を建てる」の項を参照されたい。

○五月二十七日、皇太后、皇后両陛下が西郷従道邸にて、松旭斎天一の西洋手品をご覧になる

(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○五月、名古屋末広座にて、獣類博覧会。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

〈編者註〉木戸銭二銭。呼び物の鶴(六十円)が死亡し、勧進元が大よわり。

○五月、岐阜県伊奈波国豊座にて、常の家重尾のヘラ〳〵踊り。(「岐阜日日新聞」57

 「当地伊奈波・国豊座にて興行中なる常廼家重尾一座、別嬪揃ひのヘラ〳〵踊は非常の大当にて毎夜の大入なれば、定めてヘラがヘラ〳〵と舞ひ込むならんとはハラ〳〵ハ」

○六月三日(四日)より、東京麹町区平川町天神社内にて、象の見世物。太夫元吉田卯之助。(東京朝日新聞65

 「大象の見世物 浅草弁天山の下に久しく出て居つた大象の見世物は昨日から麹町平川町天神の境内に引移つて興行する
  由」

 〈編者註〉七月十七日付「東京朝日新聞」に「…回向院のウヲジヤーの曲馬、弁天山の大象、浅草花屋敷のヂヲラマ等最も大入を占め…」とあり、七月には浅草弁天山に戻っていることが知られる。

○六月上旬より、島根県松江市にて、帰天斎正学・養老滝三郎一座の手品。(「山陰新聞」524

 「今度此度、東京新下り欧州奇術の太夫帰天斎正学、養老滝三郎外十一名一座は、去二十四日、出雲大社の祭典を当込み杵築に至り、目下引続き興行中の処ろ、本月下旬当市に入込み、来月上旬より興行相始むとの前触。帰天斎正学など其名を聞けば正一の門弟子にもやと思はれ、手練の程こそ天晴ならんと臆測するものもあれど、見ぬものは未だ評判にならずサ」

○六月五、六日の両日、東京芝公園弥生社の祭典にて、松旭斎天一が余興に手品を演じる

(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月七日より、東京日本橋区中洲町第一号地にて、米国のエベルロー一座の曲馬。興行人西井庄吉

(郵便報知新聞66/東京朝日新聞66612

 「曲馬興行 本所区中ノ郷瓦町壹番地・西井庄吉は、本月より向ふ六ケ月間、北米合衆国曲馬師エベルロー(五十年)外十名を雇入れ、曲馬を興行する目論見にて外務省の認可を得、瓦町の自宅(居留地外)へ居住せしめ置きしが、近日より日本橋区中洲町第一号地に於て曲馬興行を為すに付、同所に居住せしめ度旨、昨五日、更に外務省へ出願したり」(郵便報知)

 「西洋曲馬 日本橋区中洲町一番地西井庄吉は今度米国の曲馬師エヘルロー(五十)外十名を日給七円五十銭宛にて雇入たるに付き、中洲に於て興行の義を一昨日其筋へ出願したる由」(東京朝日66

「[広告]世界無類 米国大曲馬興行広告

  当社中各国漫遊中、今回遙々御当地へ渡航致候處、或貴顕の御勧めに従ひ、当六月七日より大橋中洲に於て興行仕候。技芸は欧米各国に在来の芸とは事替り、諸芸中優技術なるを褒賞せられ、到る處普く喝采を得たるは社中の名誉是に過ぎず。其技芸の一二を挙ぶれば、鳥獣にして人の言語をわきまへ、其他実に人目を驚かす妙芸等多し。希くは大方の諸君、陸続御来観あらんことを乞ふ。

開場時間昼午後一時より夜午後七時より。入場切符上等金五十銭、中等金廿銭、下等十銭」(東京朝日)

 〈編者註〉広告文及び意匠は、日付と興行場所が変わっただけで、五月五日付「都新聞」のものと同じ。

○六月十二日より、東京日本橋区中洲にて、早房定吉の軽業。(時事新報612

 「中洲町の賑合 日本橋区の大川中洲町は日々暑気に向ひたるより、納涼客を迎へんとて掛茶屋の準備に忙はしく、米国曲馬師社中の興行も開場し、共進会社中早房定吉外数名の軽業手品も今十二日より始むる抔、中々の賑合にて、何れも白のテントを島の中央に設け、夕陽よりの景況は昨年に勝りし風情なりと云ふ」

 〈編者註〉十一月一日よりの大阪南地相撲興行跡にてのウヲジヤーの曲馬に、早房定吉が出演している。

○六月十二日、東京日本橋区小伝馬町の旧牢屋敷跡にての見世物が禁止される。(東京朝日新聞614

 「日本橋区小伝馬上町なる旧牢屋敷跡は近来軽業、撃剣観世物等種々の興行ありて、昼の内は毎日盛んに賑ひしが、一昨日其筋より突然興行差留の儀を一同に申渡されたので、興行人は驚く事大方ならず、皆々打揃つて嘆願に出掛んなど、頻りに騒立て居るよし」

〈編者註〉小伝馬町の牢屋敷跡の見世物記録は新聞でも見た事がなく、まったく不明のままである。そんな中にあって中勘助が『銀の匙』(第六回)に、駝鳥と人間の相撲等ここで見た見世物の思い出を書き残してくれているのは実に有難い限りである。




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明治22年(1889年)五

○六月十四日より七月二十一日まで、東京両国回向院境内にて、ウヲージーアの曲馬

(「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○六月十六日、東京有楽町中山邸にて、明宮(皇太子)が松旭斎天一の手品を御覧になる

(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月十八日より三十日まで、京都岩神演劇場にて、樋口歌次一座の女曲馬と手踊り。(日出新聞618

 「女曲馬と手踊り 上京区下立売浄福寺東へ入る岩神演劇場(しばい)に於て、樋口歌次、おの一座が今十八日より十三日間、曲馬及び手踊りを興行するとのこと」

○六月二十八日、東京芝紅葉館のハインリヒ親王の宴にて、松旭斎天一が余興に手品を演じる

(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月二十九日より、東京浅草公園六区にて、水車仕掛大器械・人形役者の似顔の見世物。

(東京朝日新聞629

「[広告]水車仕懸大器械/人形役者の似顔興行

 右は本日より興行。古今未曾有の奇妙奇体の芸術、當日より御覧に入れ候間、賑々敷御遊覧奉願候也

 浅草公園六区一号 池の前 五十嵐」

○六月三十日より、横浜久方町一丁目大角力小屋にて、松旭斎天一の西洋手品。
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月、神戸北長狭通の播半座にて、常の家重尾のヘラ〳〵踊り。(「神戸又新日報」615

 「楠社西門筋橘亭のヘラ〳〵は、一昨年来ブッ続けの興行にて、毎日(いつも)々々大入を占め、殊に先般座中に改良を行なひ、元の小友、小三、小松、小房、小君の上へ更に民治、小虎等の別嬪を加えてより一入(ひとしお)繁昌を添え、表手(おもて)勧進元は申すに及ばず、楽屋の面々イツモ寝ころんでコロこんで喜こんで居り升と、同座のハゲ坊主が力みかへっての口上。その喋舌(しゃべり)に疑ひあらば、サッサと出掛けて実験し給へ。

トコロで今度又、北長狭通の播半座へ乗込んだ一連は、梅の浪華は千日前にて大評判の別嬪ぞろひ。女ヘラ〳〵の元祖とて皆さん先刻御承知の重尾の一座、与キ次、房吉、相吉、小栄なんど一粒選の娘連が各々得意の手踊に、少年も爺さんも丁稚も番頭も涎だら〳〵、詰掛け押掛けの大人気。八時過ぎには毎夜札留の勢なるが、大阪ではその重尾姐はんの赤襦袢姿にカンじて、大枚三千円を投出した紳士もあるとやら。当地の鼻下長先生達も、せめて千円位気張らないでは……と、去るヘラ〳〵通より赤い手拭イナ赤い手紙で態々の通知(しらせ)」

○六月、北海道札幌・小樽にて、山男の見世物。(「北海道毎日新聞」627

 「過日当地に祭礼ありし節、評判のありし見世物は其後小樽に赴むきたるに、中々の見物ありし由。中にも十七ケ年間深山にありて、草根木皮と虫類などを食し居たりと云ふ山男は、見物人の前にて瀬戸欠(かけ)や硝子を食せるには大に評判高く、木戸も大混雑にて、二日間の人出は千人余りもありたるならんと云ふ」

○七月一日より八月三十日まで、京都新京極坂井座にて、橋めぐりの迷路の見世物。(日出新聞621

 「橋めぐりと木馬乗り 目下新京極の流行ものは籠ぬけと金閣寺抜けの迷図(メーヅ)にて、雨天を除く外は大入なるが、此顰に倣ひしものにや、坂井座にては暑気中演劇の休みを幸はひ、座中へ縦横に小橋数十を架し、橋巡りと称して迷図に擬し、又広場には木馬を拵らへ、之を乗(のら)しめて運動場の用に供し、七月一日より八月三十日迄興行なすといふ」

○七月四日より、東京浅草猿若町文楽座にて、英国魔術師エーチ・ノアの手品。

(毎日新聞7379/郵便報知新聞75

 「文楽座の手品 明四日午後六時より浅草猿若町文楽座にて興行する英国魔術師エーチ・ノア氏の手品は、八日間昼夜二回づゝの興行にて、数個の電燈を引設して明瞭に西洋奇術を演ずるといふ」(毎日73

 「文楽座の改良手品 予ねて報ぜし如く、昨夜より文楽座に於て英国の魔術博士エーチノア連中の改良手品を興行せり。其の触込みは改良といへど唯だ是れ普通の手品のみ、別に目新らしと評すべき程のものもあらず、殊に昨夜は初日なるを以ての故か、諸事行届かざるやうに見えたり。幕を開けば、先づ上下を着したる技人一名出て、長々しき口上を演(の)ぶ。此の技人は自ら称して英国魔術師某といひ、其の容貌態度は純然たる英人なれど、其の日本語に妙なること実に外人とは思はれぬ程なり。口上を演べ了れば、衣服を洋服に着換へ、再び出で来りて技術に取りかゝる。数番の技術の中に就て稍や面白きものを挙ぐれば、右の技人は最初更らに他の一人を連れ来りて舞台の中央なる椅子に凭らしめ、汝は口の中に必らず多くの鶏卵を隠くし呑み居るならんと詰りしに、彼は頭を掉りて否なと答ふ。技人ナカ〳〵肯んぜず、左らば其の証拠を現はし呉れんとて、ヤッと掛声して其人の肩を打てば、忽ち一箇の鶏卵、彼の口より転び出づ、技人更に肩を打てば鶏卵亦た出づ。斯くして遂に五箇の卵を得、サテ此卵を傍なる卓上に置き、技人は更に見物人に向つて一箇の帽子と一筋の手拭とを借り、此の手拭を其の帽子の中に投じ、之を前の鶏卵を吐き出したる人に高く捧げ持たしめ、更に一箇の薬鑵の如きものを持来りて帽子の上に安置し、恰かも七輪に鉄瓶を掛けたるが如くになし、今度は前の鶏卵を一々割りて薬鑵の中に投じ、是より卵焼をなすべしとて帽子の中の手拭に火を付け、暫時燃ゆるに任せ置き、遂に其の薬鑵を取りおろして其中をノゾき込み、上等の卵焼が出来たりとて、之を取り出して見物人に分与せり。此時までも帽子は火の燃ゆるがまゝ前の一人が捧げ居たるが、技人来りて其火を打消すと同時に、帽子中より一羽の白鳩飛び出で、帽子は原形のまゝにて所持人に返し、又た其中にて焼けたりと見へし手拭は、技人が衣服のカクシより取出して同じく所持人に返し、是にて一芸了れり。

次は例の催眠術(メスメリズム)にて、前の技人再び出で来り、長々と催眠術の事を演説し、了りて又た他の一人を引来りて舞台の中央に直立せしめ、技人は手を以て其の面部を摩するが如き手振りをなせば、其人自然に眼を閉じて眠に入る。是時技人は白き一枚の紙と鈴筆とを執り来りて、見物人に向ひ、誰人にても此紙に数箇の片仮名文字を記されよ、此の魔睡者をして其の文字をアテしむべしと。是に於て見物人の一人、其紙を受取りて之に文字を記し、更に他の数人相伝へて各々之に記るし、而して紙は最後の人之を預かり居る。是時技人は一枚の唐紙様のものを持ち来りて、舞台の正面に樹て置き、魔睡者の手を引きて之に向はしめ、又た傍なる卓上には硯箱等を安排し、己れは前の文字を書したる紙を見物人より受取りて、遠く花道の中程に立ち、其紙を見ながら舞台に向ひ「書け」と叫べば、魔睡者は徐に筆を執りて、初め見物人等が紙に記したる所の文字をば太く唐紙に写し、ウマく符合せしむるなり。此事終れば、技人は舞台へ来り、魔睡者を元の如く中央に直立せしめ、一枚の風呂敷の如きものを持ち来り、之を四重五重にタヽみて魔睡者に目カクシをなし、己れは土間花道等へ来り、何品にても指ざし、舞台に向て「是は」と高く呼べば、魔睡者は声に応じて直ちに其品の名を答ふ。其の色合などを問ふも亦た直ちに之を答ふ。此事終れば、技人は舞台へ来りて魔睡者の目カクシをホドき、更に又た以前の手振をなして其の魔睡を解く。是にて一芸了る。右の外縄抜け、火を食ふ事及び右の技人の談話等ありたれども、何れも有りフれたる事なれば、記すべき程のものにあらず。尚ほ本日よりは諸事の用意も整ひ、技術の数も増すべければ、一層見栄あるべし」(郵便報知)

「改良技術 浅草区猿若町文楽座にて興行の外国魔術師ノアの一行は、一昨日の日曜には可なりの入ありしも、ノア病気のよしにて出席なく、僅かに女手品師、若太夫が出て有触れたる一、二の手品を演じて打出したれば、衆客大に失望せしが、此興行は事故ありて同日限り閉場したりと」(毎日79

〈編者註〉この手品は評判悪く、七月七日の日曜日はかなりの入りがあったが、ノアが病気で出演せず、市村座で興行中の女手品師を借りてきて間に合わせたが、結局この日限りで閉場となった。なお「時事新報」(77)にこんな広告が出ている。

「改良手品演芸広告 諸新聞に外国人の興行名義を以て掲げしは不都合に付取消、明七日の夜は休業の趣広告仕候へ共、夜分も不相変例刻より相開候間、前夜の如く御来観を乞ふ 浅草猿若町文楽座に於て 興行人竹内広業」。

詳細はわからないが、興行上のかなり複雑な問題がからんでいたようで、単なる病気だけではなさそうである。とにかくこの興行は失敗で、興行人の竹内は大損をした。




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明治22年(1889年)六

○七月五日より、東京人形町水天宮前にて、万国之電気諸機械運転の興行。(東京朝日新聞74

 「[広告]萬国之電気諸機械運転の興行 縦覧は毎日午前八時より午後十一時迄開館 大人は二銭・小人は一銭五厘 電気学会通常員広瀬自愨先生毎日出張 但人形町水天宮前今清並び 七月五日より興行仕候 興行場 細木松太郎・木村国太郎」

○七月八日より、名古屋千歳座にて、アリキハアニス・チヨタイキウーン・シヨンマルコームらの西洋手品。

(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

 〈編者註〉太夫は純然たる西洋手術師なりとあるが、まさか明治九年に来日したジョン・マルコムではあるまい。

○七月十二日より、東京浅草公園木造富士山前にて、地震観測機械の見世物。(東京朝日新聞713

 「[広告]地震観測機械並に物理学器械各種縦覧廣告 抑も地震観測機械は地震の時横動の方向及び大小上げ下の動き方絶ず変更する有様を実際明瞭に示し、又電気の作用を以て時計の面に何時何分何秒と点を付し、鈴を鳴らして発震を報ずる等、其構造は内務省地理局及び帝国大学理科大学にて地震観測に用ゆる器械と同様にして、これ迄世上にありふれたる見世物器械の類にあらず。我日本の如き地震多き国にては尤も必要の機械にして、物理研究学芸進歩の時に当り、実に有益欠く可からざるものなるを以て、今般其筋の許可を得、浅草公園内に於て縦覧場を開き、来る十二日より諸君の高覧に備ふ。諸君来りて其構造の巧みにして、其作用の微妙なるを観て拍手喝采あらんことを望む

  人造富士前にて興行 一進舎中」

○七月十五日より十九日まで、東京木挽町厚生館にて、英国魔術師エーチ・ノアの手品。(時事新報716

 〈編者註〉この予告で各紙に広告を出したが、以下の記事にあるように、中止命令がきた。浅草文楽座と同じ理由であろうが、新聞記者にも分らないようである。とりあえず項目は立てたが、このあと実際に興行したかどうかも不明。

 「理化学奇術の停止 昨十五日より十九日迄京橋区木挽町厚生館を借受け、英国魔術博士エーチノア氏が催しに係る理化学奇術は午後一時より開会せんと朝来準備に取掛り、午前十一時三十分頃粗(ほぼ)仕度も終りし頃、警視庁より所轄京橋警察署の手を経て奇術執行の儀を差止めたり。然るに午後一時の開場時刻を図り追々出懸けし観覧人は為めに空しく帰るも多かりしと。因に記す、右の魔術は去る頃浅草文楽座に於て興行なしたるが、如何なる訳けにや、二日目に停止せられし事ありしといふ」

○七月十六日より八月一日まで、大阪道頓堀浪花座にて、ジャグラー操一の手品

(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○七月二十二日夜より八月二十一(二十二)日まで、横浜居留地百廿一番(前田橋通りの空地)にて、チャリネの曲馬。(「チャリネの曲馬」の項参照)

○七月二十五日より三十日間、東京日本橋区中洲町にて、二代目早竹虎吉の軽業

(郵便報知新聞724/東京朝日新聞814

「先代の虎吉は、先年外国へまで渡航して軽業を興行し大に喝采を博したるが、今度二代目の早竹虎吉久々にて上京し、明二十五日より向ふ三十日間、中洲町に於て興行する筈なり。同人は初代の形を其の儘大道具大仕掛けにて技倆を奮ひ、此の興行を終りし上は直に外国に渡航して、外人の耳目を驚かさんとの決心なりと」(郵便報知)

「昨今中洲にて興行中の早竹虎吉が軽業は自転車の針かね渡り、鍋島猫騒動、猫の宙乗り其他佐倉惣吾等の曲芸を大道具大仕懸にて見するよし」(東京朝日)

〇七月二十五日より三日間、高知県本町堀詰座にて、木遣興行。(「土陽新聞」721

 「来る二十五日午後六時より三日間(雨天なれば日送り)、本町堀詰座に於て木遣興行と云ふを演ずる由。其の外題は、第一『祭文くづし』、第二『真棒木遣り』七通り、第三『松竹節』、第四『伊勢音頭』、第五早口種々、第六頓作落語、外に『烏帽子折』七切、『八嶋軍記』五切、『俊徳丸』五切、『阿塩亀松』七切、八人芸等なりと。随分珍らしい興行もあるものです」

○七月、東京浅草公園花屋敷脇にて、日本で最初のジオラマの見世物。画家山本芳翠。(「ジオラマ」の項参照)

○七月、東京浅草猿若町文楽座にて、吉田菊五郎の水芸・軽業。(東京朝日新聞719

 「天竺徳兵衛の妖術を差止む 此程より、猿若町の文楽座にて興行中なる和洋大手術、吉田菊五郎一座の芸は、天竺徳兵衛水火の使ひ分け等あり、又、宙乗の所作などもありて、大いに歌舞伎に類する處ありとて、一昨十七日、其筋より右手術の中、歌舞伎に類する宙乗及び道具立等を差留られし由」

○七月、京都新京極の興行もの。(日出新聞714

 「新京極興行遊び 此節新京極の興行物を並(ならび)立てんに、先坂井座には評判の宮島七浦廻り、是は中々景気よく、見晴しも随分よし。次は例の三条下る女太夫の席、是亦相替らず相応の入あり。又金閣寺庭巡(めぐり)も可なりの入あり。殊に昨今大瀧を仕掛けんとて普請中なれば、出来の上は定めし涼しからん。又夷谷座も随分人気よく、昨今松原河原を興行せり。笑福亭は昼は休みて午後四時より始むる事となす由なれば、夜分は一時に大入を占むるなるべく、其東向は女の手踊にて、其南隣は東玉の一座、又其西向は鬼婆の見世物、是等はいづれも人気よし。通称東向大黒座は七分通りの入にて、相応に賑(にぎわ)へり。其東向は山崎琴昇、田村琴蘭の講談、次は福井座の象の見世物、幾世席の文三一座及び例のヘラ〳〵踊り、是亦相応の入あり。又錦天神社の南なる大虎座のニ○か席は夕方より毎夜可なりの客あり。道場の演劇は目下休中にて、其外京極通りに於ける氷店は十八軒余、中にも日出饅頭屋の『アイスクリーム』は中々の好評なりと云ふ」

○七月、京都新京極福井座にて、象と小人の見世物。太夫元田中政直。(日出新聞714

【絵画資料】

≪絵ビラ・木版色摺・野村芳国画≫(「見世物関係資料コレクション目録」233352

明治22年 002


 (表題)「大象」(天竺南印度セイロン島産)。口上文下に「太夫元田中政直」。年代・興行場所記載なし。板元名は判読不能ながら、住所は「京寺町通蛸薬師前」、絵師野村芳国の前に「京寺町錦上ル」とあり、京都で製作されたものと分る。象に乗る小人の絵も描かれており、太夫元の田中政直(今年正月より大阪千日前で興行)からこの時のものと推定する。

〈編者註〉上掲の絵ビラは「見世物関係資料コレクション目録」233352)より拝借した。

○八月一日より十六日まで、宮城県仙台市にて、米国のエベルロー一座の曲馬。

(「奥羽日日新聞」71473182

 「西洋曲馬 当市に於て一興行し度しとの申し入れもあるより、興行師は大喜び、立町・三浦弥治兵衛の抱地(定禅寺櫓丁)を借り受け興行地と定めしも、人家稠密の場所にては許可になるまじとの事より見合せとなりしが、該興行地は二十五間に十五間より狭くては興行なり難しとの事に、殆ど困却し居るといふ」(714) 

 「兼て記載せし西洋曲馬は、昨日を以て許可されしが、興行日数は七日間にして、場所は裏五番丁四番地大塚米吉氏抱地、通券は上等十七銭、下等十銭、下足銭一銭。又、曲馬技術者はエベルロー、クレヤセーム、キストレール、ヲルメゼバー、バーロウイー、レゼルフイルト、ダウリーエー、クレヤミルス、ウイルアムサイマシ、シヨマーフレツツ、ナハツトピー、マテロウエルフ、アムホロシヨパーレー、レンテコメツト、ニマメテスケン、コラセパストの十七(ママ)名なりと」(731

 「米国人の曲馬は昨日を以て初日を出せしが、午後二時三十分頃より同三時頃までに三、四百程の入りなりし。扨、前芸は日本人の針金及二輪車渡りにて、次に演ぜしは米国技芸しにてパア(日本の飛付)、技芸者はキストレール、ダウリーエーの二人と日本子供三人の飛付、次はクレヤミスル女の玉乗り、次は日本人清水安太郎(福助)の諸芸、次はダウリエーの皿廻し、次にエベルローの馬をして諸芸をなさしめ等、其他種々の芸を演じて午後五時過昼の部を終へ、午後七時より夜の興行に取掛りしが、本日よりは昼は午後二時より初め午後五時まで、夜は午後七時より同十一時まで演ずる筈なり。(編者注=十六日に打上げ山形へ行く)」(82



misemono at 10:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治22年 

明治22年(1889年)七

○八月一日より、栃木県宇都宮市明神前にて、大象の曲芸。(「下野新聞」87

 「前号に一寸記載したる、過般西郷海軍大臣の邸へ行幸の際天覧に入れ、又た憲法発布式の折には東京市中を率き回わして諸人の縦覧に供せしと云ふ大象は、愈々去る一日より明神前にて興行を初めしが、身の丈けは一丈六尺五寸、総身の量目は二千五百貫目にして、鼻の長さ八尺五寸、当年十五歳の大象なるが、能く人語を聞分けて、坐せと云へば坐し、起(た)てと云へば起ち、或は牧師の問へに応じて夫れ相当の答をなすなどは、余り奇とする程にもあらねども、彼の無骨なる大の体をして乱杭の上を歩行するなどは一入の見ものなりとて、昼夜とも可なりの看客ありて、象も一層鼻を高くして居る由なり」

 〈編者註〉太夫元名はないが、吉田卯之助の象であることは間違いない。

○八月二日より、長野県長野市東町東亭にて、帰天斎正一の手品。(「信濃毎日新聞」81

 「彼の東京に在つて有名なる帰天斎正一は、今度、正丸・小松・千朝・小市・柳之輔等を伴ひ来長し、明二日の夜より当地東町東亭に於て興行する由なるが、同人の手品に長じたることは今更ら云ふまでもなく、曩に憲法発布の節、宮中御学問所に於て畏くも 天覧の幸栄を辱ふせし抔、普く人の知る処なれば、定めて賑はしきことならん。〔編者注=大入り、十八日の揚り高を養育院へ寄付〕」

○八月十日より、岐阜県岐阜市伊奈波国豊座にて、竹沢藤十郎、同万吉の曲独楽・軽業
 (「岐阜日日新聞」
88

 「来る十日より当市伊奈波国豊座に於て、竹沢藤十郎、同万吉一座の軽業、足芸、独楽の興行あり。又、同日より同所広小路に於て、竹田細工の生人形を興行するよし。〔編者注=十五日付に「万吉の足芸軽業は非常の人気にて毎夜大入との由なるが、之れは万吉の当年漸く十三歳の幼年者に似合はず、熟練の技芸を為すに由る」となる。〕」(88

○八月十一日頃より、秋田県秋田市亀の丁万来亭にて、皇国舎マーンジ(中村万治)の曲独楽。
 (「秋田魁新報」
810

 「過般当地へ来り、懸賞手品抔を興行せし皇国舎マーンジ〔編者注=中村万治のこと〕は、又候当市亀の丁万来亭にて曲独楽を本月十一日頃より興行する趣」

○八月十六日より、富山県富山市山王町日枝神社境内にて、渡辺巻治一座の婦人大曲馬。(「北陸公論」816

 「東京下り渡辺巻治一座の婦人大曲馬は、本日より富山市山王町日枝神社境内に於て興行するよし」

○八月二十五日より九月二十五日まで、東京日本橋区中洲にて、チャリネの曲馬。
 (「チャリネの曲馬」の項参照)

〈編者註〉日本での最後の興行。終了後、九月二十八日、横浜より米国郵船シティ・オブ・ペキン号にてアメリカへ向かった。

○八月二十五日より九月九日まで、京都四条南座にて、ジャグラー操一の手品
 (「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○八月二十六日、東京上野東照宮の東京開府三百年祭にて、榊原一門が奉納撃剣会を催す。(読売新聞827

 「奉納の撃剣会 上野東照宮五重塔前には榊原健吉氏の講武連奉納撃剣菜並に本町東助の力持あり」

 〈編者註〉四月二十九日付「読売新聞」には、憲法発布の祝祭に鳳輦を迎えた時の服装を下谷西町の写真師長島に撮らせ、記念に諸人に配ったという記事が出ている。

○八月、大阪今宮眺望閣にて、エ・ナフタリーの蠟細工の見世物。
 (大阪毎日新聞
728825/大阪朝日新聞921

 「人体展覧会 前日の紙上に記せし墺国エス、ナフタリの蠟石細工人体はいよ〳〵一昨日神戸に到着せしに付、両三日中より当地にて展覧興行を為す筈にて、目下場所の取調中なるが、多分南地の演舞場か眺望閣の中に取極むるならんといへり」(大阪毎日728

 「人体展覧会 南地眺望閣に興行中なる蠟石細工の人体展覧会は最初の程は左迄見物人も多からざりしが、追々客足も多くなりしに付き、今三十日間は当地に於て興行し、夫れより西京へ赴く都合なりと云ふ」(大阪毎日825

「過日来南地の眺望閣に於て美術天覧会と称し、諸人の縦覧に供せし蝋細工即ち蝋を以て人体の機関構造を写出せるものは、魯国医学者リタブスキー氏の発明製作に係り、其後濠国人エ、ナフタリーといふ人、之を譲受け、我国に携へ来りしものゝよしなるが、近頃当地評判の観物となりし所より、一日吾社員が試に一見を遂げしに、如何にも其製作の精密真に迫り、決して玩具視すべきものにあらず。其中重なるは精蟲及卵巣の一昼夜の経過より一週間又は二週間、遂に分娩に至るまで胎児の形状区別、男女生殖器の区別、子宮外懐胎の形状、人体諸筋及神経の形状、人体縦断面及横断面、脳及顳顬(こめかみ)の形状、背面より体内諸構造を現はせるもの、肺及心臓の形状、肺病及胃癌の解剖形状、難産手術上の形状、恥骨小にして出産し難きもの腹部を開きて胎児を取出す形状、男女陰部の形状等にて、別に特別室と称し梅毒性に係る男女陰部各種の形状を示せるものあり。以上総て其説明者ありて蝶々説明の労を取れども、衆観客に対するに僅か一名の説明者を以てするに依り、到底行届くべきにあらず。故に医者若しくは稍(やや)生理上の事を知れる者の外は、一見只其奇に驚くのみにして、人体中機関の作用、構造の微妙なる所を詳(つまびらか)にするに由なし。若し其側に一々傍訓を施したる平易の説明書を付しおけば、何人も輙(たやす)く了解し得て、利益を与ふる所一層多からん」(大阪朝日)

○八月、岩手県盛岡市にて、竹沢藤治の曲独楽。(「巌手日日新聞」816

 「兼て評判の高かりし竹沢藤治の興行は、愈々本日限りにて切揚げ、北海道に向け出発する由なり。〔編者注=二十四日に
  八戸へ向かう〕」 

○九月一日より十月二十日まで、東京両国回向院境内にて、松旭斎天一の西洋手品

(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○九月二日より十日まで、新潟県新潟市湊座にて、帰天斎正一の手品。(「新潟新聞」94

 「奇妙々不可思議なる手術を以て有名なる帰天斎正一の一行は、一昨夜より当市湊座に於て興行せしが、同夜は非常の大入りにて殆んど木戸を〆切るばかりの繁昌なりしと。〔編者注=十日まで。十三日から新発田で、二十日から三条でそれぞれ興行〕」

○九月七日より十九日まで、新潟家新潟市漣町通り三の丁にて、大曲馬(馬芝居)。(「新潟新聞」910

 「去る七日夜より打初めたる漣町通り三の丁大曲馬芝居の興行は、初日より評判たかく毎夜大入りにて、一昨晩の如きは八時頃に至り木戸〆切の札をかかげたり。〔編者注=十九日打上げ〕」

○九月十一日、暴風雨のため、東京浅草の木造富士が破損する。(時事新報918

 「木造富士の立往生 (前略)一時磁石力を有して府下の士女を北方へ吸ひ寄せたる浅草公園の富士は、去る十一日の暴風雨に頂上の飾り物は何所(いづく)に吹飛ばされしや影だに止めず、外面の土壁は剥げ落ちて所々に大なる穴を開け、五臓六腑も外面より見透く有様と為りて、如何にも哀はれなり。東坡が之を見たらんには、丈高く胴小にして、肉落ち骨出づるとやいはんか。此の損害は莫大にして中々修繕の届く所にあらざるべし。されど発起人も高さ十八間といふ構造なれば、先づ満二箇年位の見込みを着け居りしといへば、此の災難に逢ひしも蓋し覚悟の上にやあらんか」

〈編者註〉木造富士は翌年二月から取り壊しが始まり、跡地には日本パノラマ館が作られた。




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明治22年(1889年)八

○九月十七日より、岐阜県岐阜市伊奈波国豊座にて、両国光琴女の西洋魔術。(「岐阜日日新聞」919

 「当市伊奈波国富座にて一昨夜より興行の西洋魔術工・両国光琴女の手際は、実に魔術の名に背かず、何れも人間業とは見へざりしが、中にも見物人を驚かしたるは、耶蘇基督十字架に釘殺されて魂魄上天することと、箱抜けの技の二つなり。箱抜けと云ふは、縦三尺、横二尺位の堅牢なる箱にして、光琴女両手を後ろへ廻し、鉄錠を箝(は)めたる儘、此の中に入り、見物を呼び出し、細縄を以て思ふが儘に右の箱を縛さしめ、封印を付け置くに、転瞬間にして彼の箝置きし鉄錠を外し、以前着し居れる洋服は他の服と換り、何時の間にか箱外に現れ出るは不可思議千万にして、唯だ奇絶妙絶と評するの外なし。殊に一昨夜は大入の当夜にして見物人は続々と出掛、さしもに広き国豊座も満場立錐の余地なく、一技一芸毎に拍手喝采の声は場外に溢れ、評判甚だ熾(さかん)なり」

 〈編者註〉五月、大阪千日前で興行している。

○九月十八日より、東京三田四国町(旧育種場跡)にて、ウヲージーアの曲馬。(「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○九月十九日、大阪生国魂神社南手に、浪花富士山が開場する

(大阪朝日新聞917/大阪毎日新聞9211012

 「[広告]浪花富士望遠台工事中ノ處、今十九日より開場ス 諸君御遊覧ヲ乞 生玉南手ニ於テ 発起人安田友吉」
  (大阪朝日)

 「浪華冨士 生国魂の富士は略(ほ)ぼ落成せしを以て、一昨日より開業せしが、同日は余程の賑ひにて参看人は無慮二万余人ありしと。尚同處の地内へ取設くる東海道五十三駅の人形も不日据付くる筈にて、目下小家掛中なり」(大阪毎日921

 「浪華富士 生国魂浪華富士の西手なる谷合へ過日来道路を開き居りし處、来る十五日に全く落成する趣きなるが、之と同時に兼て小家掛中の東海道五十三次に係る人形も同日迄に据付け畢るべき筈なりとぞ」(大阪毎日1012

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・印刷≫(大阪城天守閣蔵:『大阪の引札・絵びら』32頁)

めいじ 002

 (表題)「浪花富士山」。表題上に「生国魂神社南手ニ於テ」。

 (袖)「明治廿二年四月上旬ヨリ生国魂神社南手ニ於テ開場」。

 (裏)「発起人安田友吉」。

 〈編者註〉当初四月開場の予定であったが、九月までずれ込んだことが分る。東京浅草の木造富士を模したものだが、本家同様これも長続きしなかった。

○九月二十七日より、名古屋末広座にて、亜細亜マーンジの西洋幻妙術。(金城新報926

 「明二十七日夜より開場する西洋幻妙術の座長亜細舎(ママ)マーンジ氏は、久しく欧米の地に同妙術を練磨し、帰朝の上、東京にて内外人の喝采を博せしを、今度同座へ招聘し開場する事なれば、同氏も一層勉強し、尚初日は当地初御見得に付、同夜丈け木戸、場とも無料にて早い者勝に見せるとは…」(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』より孫引)

○九月、山形県山形市小姓町丸万座にて、無二斎マスターの奇術と南京人アヂョンの曲芸
 (「山形新聞」
98915

 「目下米沢市置賜座に於て興行中なる東京改良奇術師・無二斎マスターの連中は、来る十日頃より当地へ乗込み、小姓町丸万座に於て興行する由。尤も木戸は大札三銭五厘、小児二銭なりと云ふ。技芸の巧拙は一覧の上、評するところあるべし」(98

 「丸万座の改良手品を一昨日鳥渡(ちょっと)立見せし儘を評せんに、南京人アヂョンの積み丼、其他の技芸は、先年ペレンテン、地球太夫等の興行にて一覧したれば別段奇と称するに足らねど、大切前に演じたる一条の綱の両端に輪を作りて両個(ふたつ)の茶碗を箝め、是れに水を一杯に堪(ママ・たた)え、其上に雑器を浮べ、又その上に空鶏卵(たまご)を載せて、一滴の水も飜(こぼ)さず、棒の如く槍の如く、両手或は頭にて使へ分るは、何時見ても手際物。拍手喝采に満場暫しは鳴りも已(やま)ざりし。座長無二斎マスタ(日本人)の技芸は、千人徳利、十字架蘇生、其他の諸芸とも是れぞと云ふ珍奇の事は無けれど、流石は老練、手に入ったものと感服の外無かりき。此の手際なればこそ、旭座の政一が手品と頡抗(きっこう)するに足りぬべし〔編者注=旭座の桜永政一の手品は二十一日千秋楽。二十七日より五日間は勧工場定席へ〕」(915

○九月、鳥取県鳥取市新地大小屋にて、西洋手品(演者不詳)。(「鳥取新聞」926

 「過日より新地大小屋にて興行中なる西洋手品は非常の大入にて、毎夜平均千四、五百人の入りなる由。兎に角手品流行の
  世と云ふべし」

○十月二日より、横浜居留地前田橋通り百十一番空地にて、ウヲージーアの曲馬
 (「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○十月初旬、宮城県仙台市立町通りにて、早竹虎吉の軽業。(「奥羽日日新聞」928

 「立町通へ興行になりし早竹虎吉の軽技は、随分手の放れた芸道もありて、中々面白しと」

○十月十五日より二十七日まで、神戸三宮町製紙場前にて、ウヲージーアの曲馬
 (「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○十月十六日より、大阪梅田凌雲閣にて、蝋細工の見世物。(大阪朝日新聞1016

 「[広告]凌雲閣美術蝋細工展覧会 本日ヨリ 見料大人五銭、小供半額」

 〈編者註〉大阪今宮眺望閣で見せていたもの。

○十月二十五日より三十日間、東京両国回向院にて、早竹虎吉の軽業・曲独楽。

(読売新聞1022/東京朝日新聞11141271219

  「回向院境内に於て一昨日まで興行せし大手品松旭斎天一の興行跡にて、来る二十五日より日数三十日間、早竹虎吉が軽業曲独楽を興行するといふ」(読売)
         

明治22年 007


  「[広告]西洋大軽業興行 今回両国回向院境内に於て 早竹虎吉三十三回に付 正午十二時開場同五時迄、同六時開場同十一時限、晴雨共昼夜二回興行仕候 最上等椅子付御一人前金三拾銭、上等同貮拾銭、中等同拾銭、下等同五銭。 早竹一座」(東京朝日1114

  「両国回向院にて興行中なる早竹虎吉の連中は、本日と明日に掛け数万枚の切符を 諸人に与へ、新発明の芸十八番を残
  ず演(し)て見せると」(東京朝日
127

 「ことぶき座へ軽業師の早竹虎吉が俳優に成て出勤し、葛の葉を一幕お目見え狂言に出すといふことは前号に記載(かきのこせ)しが、俳優連に於て早竹の出勤に苦情があり、終に早竹は出勤せぬことになり、夫ゆゑ葛の葉はおヂヤン」(東京朝日1219
〈編者註〉初代早竹虎吉が死亡したのは慶応四年(明治元年)だから三十三回忌はおかしい。また初代の法要をしようとした虎吉と初代の関係が、兄弟なのか弟子なのか、いまだにはっきりしない。さらには虎吉を名乗る人物が複数いた気配もある。それはともかく、「二代目早竹虎吉」はこの年表にも多く登場し、初代同様の大掛りな軽業を演じて、日本各地で活躍し、好評を得ていることは事実である。ところで、初代は国姓爺の虎の役で尾上多見蔵と歌舞伎の舞台に上ったことは有名な話だが、この虎吉にも葛の葉の話がきた。しかし残念ながら昔気質な役者連中の横槍が入り、オジャンになってしまった。「文明開化」のかけ声はここまでは届かなかったようだ。

○十月二十九日、松旭斎天一一行が横浜を出航し、上海へ向う。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○十月、宮城県仙台市東一番丁にて、青根温泉山崩れの図画の見世物。(「奥羽日日新聞」927

 「当市北目町に住む香具師与太郎と云ふは、昨年磐梯山破裂の際、逸早く同地の惨況を模写(うつ)して見せ物となし、大当を取りしことなるが、今度又、青根温泉山崩〔編者注=十一日の災害、死傷者多数〕の惨状を出して一儲けせんと、態々同地へ出向き、其景況を実視し来り、東四番丁の笠原景観に図画を托したるが、不日、東一番丁に於て一興行するとのことなり」

○十一月一日より十日まで、大阪南地相撲興行跡にて、ウヲージーアの曲馬。(「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○十一月三日、常の家重尾一座のヘラ〳〵踊りを興行中の大阪千日前の吉田席が倒壊し、死傷者多数出る
(大阪朝日新聞)

〈編者註〉この事故に関しては「大阪朝日新聞」だけでも厖大な記事が出る。要約するに、十一月三日午後三時ごろ、ヘラ〳〵踊りを興行中の吉田席の二階桟敷が崩れ、見物人のうち松本重太郎(十歳)外七名が桟敷の下敷きになって死亡し、五名が重傷、七十余名が軽い傷を負った。同小屋の所有者は金沢利助であるが、吉田多吉が借り受け、いま人気絶頂の常の家重尾一座のヘラ〳〵踊りを興行し、天長節での人出をあてこんで定員二百五十名のところへ四百人も詰め込んだのが原因である。負傷者は難波新地の明治病院と千年町の長春病院へ次々と搬送され、狭い千日前通りは大混雑となった。常の家重尾はこの惨事をいたく悲しみ、十一月十五日、竹林寺で大施餓鬼を営んでいる。

 「[広告]千日前竹林寺 去三日不慮圧死者追吊之為、下寺町専信教会各僧ヲ聘シ、来ル十五日午後一時、大施餓鬼会執行候条縁者ノ各位御参詣アランコトヲ希望ス 但雨天順延 千日前鶴ノ席ニテ 会主常の家重尾一座」(1113

○十一月二十一日より七日間、東京浅草公園木造富士三周年記念大祭を催す。(毎日新聞1122

 「木造不二山大祭 浅草公園の人造不二山にては昨二十一日より開業三周年の大祭を七日間執行する由にて、太神楽、諸芸人の茶番等を催し、其他境内には頼朝公富士の牧狩の楯を粧ひ、又は紅燈を掲げ、毎日午前十時迄の来客には景物を呈すと云ふ」




misemono at 10:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治22年 

明治22年(1889年)九

○十一月、大阪府堺市卯の日座にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○十一月三十日、大阪松島八千代座が開業する。(大阪毎日新聞122

 「八千代座 松島なる元文楽座の跡を吉田卯之助等の諸氏が買受け、八千代座と名を改め芝居座となし、去三十日同座関係の人々其他各新聞記者等を招きて開場式を行ひ、引続き興行を始めたるが、同座は年中休なしとの事にて、初興行は前が傾城石川染、切が色情梅開暦なり」

 〈編者註〉吉田卯之助が象の見世物で儲けた金で松島文楽座を買い取り、八千代座と改名して開業した。

○十一月、三重県津市にて、象と小人の見世物。太夫元田中政直。(絵ビラより)

 【絵画資料】

≪絵ビラ・木版墨摺・出版人永田義雄≫(「見世物関係資料コレクション目録」235357

めいじ 004


 (表題)「小人嶋夫婦黒人小人嶋并ニ大象」。

年代・興行場所記載なし。「明治廿二年十一月一日御届同月十二日出版」。出版人の永田義雄の住所が「三重県津市大字新東町廿二番地」とあり、それにより三重県津市で興行されたと推定した。口上文は以下の通り。

 「御区中□□□□御機嫌能被遊御座大悦至極ニ奉存候。随而此度御区より御招待ヲ預り御目づらしき小人嶋夫婦幷ニ黒人小人共我が国はうた手踊り引抜相撲土俵入より取組曲わざ迄御らんに入候間、尚又御土産として大象の芸等是迄事替り一覧仕候間、当日より賑々敷御光来の程奉希上候以上/梅ケ谷當吉・一尺三寸・三十七才 大達於福・一尺八寸・二十七才 黒雲龍蔵・一尺九寸・二十三才/東京太夫元 田中政直」

 〈編者註〉正月に大阪千日前、七月に京都新京極で興行したあと、三重県にやって来たのであろう。

  なお、上掲の絵ビラは「見世物関係資料コレクション目録」(235357)より拝借した。  

○この年、蜘蛛男・養老勇扇の見世物(場所不明)。(絵ビラより)

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・木版墨摺≫(千葉大学付属図書館蔵)

蜘蛛男 二十二年


右側下に勇扇の絵(明治十四年・十七年の絵ビラと同じ絵)があり、その上に「山形県下羽前国南置賜郡玉庭村大字上奥田 佐藤勇吉・当年六十三年/芸名養老勇扇/頭七寸五分・身ノ丈七寸」。ビラの残り三分の二に口上文が書かれている。口上文は以下の通り。

 「抑此太夫ハ文政十年亥八月二日夜丑ノ刻に産れ、うぶ湯をつかふ折しも、近所の女中方御悦ニ参られ、さて〳〵御舎弟さんハ器量もよく、玉に目鼻とほめられて、家内中大イニ悦び、蝶よ花よと育(そだて)ける。光陰ハ矢の如し、はや盛長(せいちょう)ニ及べども、身の惣丈ハ僅ニ壱尺四寸五分、家内ハ勿論親類や近所縁者の方々まで深ク歎キて居たりしが、次第〳〵に勇吉ハ蜘蛛ニ似たると世の人にたとへられ、朝夕歎キ居たりしも、文明開化の御代に当り、其年つもりて五十壱才、一ツの芸を学ばんと志を立て、東京へ登り、手品ノ社長養老滝五郎の門人トなり、諸国興行営ミけるが、静岡ニ於テ、徳川様の御前迄御目通りの上おほめに預り、本年六十三才ニ相成候へども、身の健(まめや)かなるを祝ひ、四方の御方様、御ひゐきの程、伏て奉希上候  明治廿二年改版」

〈編者註〉明治十九年十一月三日付「絵入朝野新聞」で死亡を伝えられた蜘蛛男・養老勇扇の興行ビラである。東京へと志して国を出たのは明治十年五十一才のときであるから、この年(明治二十二年)はまさに六十三才である。死亡しているどころか、「身の健(まめや)かなるを祝ひ」て興行していたのである。

なお、上掲の絵ビラは「千葉大学付属図書館亥鼻分館古医書コレクション画像データベース」より拝借した。 
  


 [参考文献]

「東京日日新聞」(毎索/明治5221日~)

『郵便報知新聞』(復刻版/明治56月~明治2712月)・柏書房・平成元年~。

『朝野新聞』(縮刷版/明治7924日~明治261119日)・ぺりかん社・昭和56年~

「読売新聞」(読ダス/明治7112日~)

「大阪毎日新聞」(毎索/明治211120日~)

「朝日新聞」(聞蔵Ⅱ/明治12125日~・

〈編者註〉明治2213日より「大阪朝日新聞」と改題。

『時事新報』(復刻版/明治1531日~明治407月・刊行中)・竜渓書舎・昭和61年~。

『毎日新聞』(復刻版/明治1951日~明治39630日)・不二出版・平成5年~。

『東京朝日新聞』(復刻版/明治21710日~)・日本図書センター・平成4年より。

『みやこ新聞』(復刻版/明治211116日~)・柏書房・平成6年~

〈編者註〉明治2221日より『都新聞』と改題。

「豊洲新報」(マイクロフィルム)国立国会図書館関西館。

『明治の演芸』(全八巻)・倉田喜弘編・国立劇場芸能調査室・昭和五十五年~。

〈編者註〉同書より孫引きした記事は、新聞名を「 」で括って区別した。

『近代歌舞伎年表・名古屋篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成二十年。

『近代歌舞伎年表・京都篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成八年。

『松旭斎天一の生涯』青園謙三郎・品川書店・昭和五十一年。

『明治世相百話』山本笑月・有峰書店・昭和四十六年/初版は昭和十一年に第一書房から出た。

『大阪の引札・絵びら』大阪引札研究会編・東方出版・平成四年。

『見世物関係資料コレクション目録』国立歴史民俗博物館・平成二十二年。


 [蹉跎庵だより]その二十二

 今回から出典のところに、主に東京に関する項目で「新聞各紙より」という表現を多く用いた。「東京朝日新聞」が創刊され、「時事新報」「読売新聞」「郵便報知新聞」の四紙及び『明治の演芸』の記事の一々を示していると、出典の羅列になってしまい、かえって見にくく、纏めるに如くはないと、かくの如き処置となった。また記事の分量の増加に伴い、出来るだけ未見の記事を紹介したく、『明治の演芸』からの引用を極力減らした。これは今後ともかわらぬ方針として堅持していくつもりである。それと明治二十年代から三十年代にかけて、浅草、団子坂の菊人形(菊細工)の記事がたいへん多くなる。安本亀八や山本福松が人形製作に携わっており、この扱いをどうするかで迷ったが、毎年同じ時期に同じような記事が並ぶのもどうかと思い、今回からすべて年表から省くことにした。現在菊人形は独自に研究されていることも省略の理由のひとつである。わたしも時間があれば、団子坂菊人形一覧表のようなものを作ってみたい気持ちはある。

 さて、今年(明治二十二年)は松旭斎天一の活躍が目覚ましい。帰天斎正一と吉田卯之助の象のごとく、天皇にこそ拝謁出来なかったが、皇太后、皇后、皇太子はじめ多くの皇族貴顕紳士の前で手品を披露し、ひじょうな好評を得た。また興行面でも昨年の文楽座につづき、回向院で二回のロングランを成功させ、大邸宅を建て、慈善も施した。そして上海へ…。『松旭斎天一の生涯』(105頁)に、御前公演のために特別注文した軍服のような奇術服を着た天一の記念写真が掲載されている。そこには「明治廿二年両度天覧演芸之服装・古今無比世界唯一・日本西洋奇術大博士松旭斎天一実名服部松旭・宿所大日本帝国東京日本橋区薬研堀町廿番地」と記されている。数えて三十七。天一の得意や思いやるべし。(平成23617日記)



misemono at 10:18|PermalinkComments(0) 明治22年 

2014年06月06日

明治21年(1888年)一

○一月一日より、名古屋千歳座にて、松旭斎天一の西洋手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○一月十二日より、宮城県仙台東一番町本願寺別院北隣にて、渡辺捨次郎の曲馬(馬芝居)。

(「奥羽日日新聞」11012141

「東京初下りの曲馬師高橋捨次郎の一座は、来る十二日より東一番丁・本願寺別院北隣に於て興行の筈なり」(110

「渡辺捨次郎一座の曲馬は、芝居が七分なので却て気受けよく、中々の大入」(121

「東一番丁の曲馬は伊達実録の狂言にて日々の大入なるが、当時関係人の実名を称す故、或る旧藩士両三名が此程太夫元に面会し、『実名を称する抔とは旧藩の名誉上にも関する事故、従来の演戯通り改めよ』と肩臂張ての談判に、太夫元は『素より実録と看板を出した以上は、実名を称するは当然。且つ其筋へお届済の上演ずるなれば、各々方の御相談には応じ難し』と答へしより、事六かしくならんとせしが、其中仲裁が這入、難なく幕を開しと云ふ」(41

〈編者註〉いわゆる馬芝居。なかなかの大入りで、四月まで興行し、下旬に石巻へ十日間巡業に行き、御難にあう。それより涌谷を経て古川で興行(大入)、のち若柳まで足を延ばし、六月二十三日に仙台へ戻り、立町通りにて興行した。

○一月十六日、東京芝公園弥生社にて、皇后がジャグラー操一の手品をご覧になる

(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○一月二十六日より、横浜山手公会堂(パブリックホール)にて、ノアトンの手品。(「ノアトンの手品」の項参照)

○二月十四日より、岩手県盛岡肴町にて、沖縄産の鬼の見世物。(「巌手日日新聞」214

 「曾て記載したる去る明治十九年沖縄県にて生捕りたるとかいふ鬼の観世物は、本日より府下肴町に於て興行」

○二月二十一日より三月二十五日まで、京都新京極福井座にて、大女津久田たかの見世物。(日出新聞222

 「大女の見世物 昨日より新京極の福井座に出た大女は、河内国若江郡中大坂村津久田某の娘たかといふものにて、本年十七年と三ケ月なる由。身の長六尺四寸、足裏(あしのうら)一尺五分、掌の長さ八寸、乳は垂れて九寸に及び、身量(おもさ)二十八貫五百目ありと。幼少にして両親に分れ、大坂堂島に養なはれたる者にて、着物は四丈でなければ間に合ず、性質は酒を好みて三升位も呑む時あり。牛肉も好みて、一度に四百目位は何でもなしに食ふよし。一日の飯米凡そ九合にて、此程京都へ来るには汽車の上り下りに大困却をなしたるは、彼出入口の狭きが故なりと。来月二十五日頃まで見世物とし、夫より東京へ赴むくそふです。何方(どなた)もお早くいらっしゃいとは余計な吹聴」

○二月、京都新京極玉の井席にて、三光舎の鳥獣博覧会。(「東雲新聞」225/「中外電報」323

 「目下、新京極にて興行せる三光舎の鳥獣博覧会は評判特に高く、日々の大入にて、平均四、五千人もあるよし」(東雲)

 「目下鳥獣大会といふを開き居る新京極玉の家席にては、其興行を終り次第、ヘラヘラの元祖と称して一時新京極に大入を占めし常の家繁尾の一座が二度のお目見え、ヘラヘラヘッタラと出勤する由」(中外)

○二月、三重県桑名劇場にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○二月、岐阜県大垣高砂座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○三月一日より十二日まで、岐阜県伊奈波国豊座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○三月十一日より、東京浅草公園第五区に塑生館が開館し、村越滄洲の漆喰細工が陳列される。(毎日新聞118

 「漆喰細工陳列所 浅草公園第五区なる塑生館は村越滄洲氏作の人物、花鳥獣、草木の漆喰細工を陳列し、来る三月十一日より開場する趣にて、昨今工事最中なり」

 〈編者註〉実際に開館したかどうか、確定する記事を見ない。

○三月十三日より二十六日まで、東京久松町千歳座にて、ノアトンの手品。(「ノアトンの手品」の項参照)

○三月十四日より、名古屋宝生座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○三月十七日より、岐阜県岐阜市西野町西別院境内にて、鉄割福松の西洋玉乗り外の見世物
 (「岐阜日日新聞」
317

 「今十七日より彼岸に入ればとて、当地西野町西別院境内に於て諸興行をなす。其中にて重なるものを聞くに、鉄割福松の西洋玉乗の曲芸、両国えつの軽業、鶏の角力、大鷲の見世物は、曾て本紙にも掲げし可児郡にて捕獲せしものなりと」

○三月(二十六日迄)、東京神田区秋葉原の空地にて、日清合併大テント通天曲社一座の手品・軽業

(郵便報知新聞324/時事新報324/毎日新聞324

「[広告]当興行初日以来非常の大入、難有存候。然る處いよ〳〵廿六日打上げと仕、御礼の為め半額の通券料にて御覧に入ますれば、賑々敷御来観を乞。尚当る四月一日より木挽町采女ケ原に於て再度の御目見へ仕候間、不相替御ひいきの程今より奉願上候

秋葉原に於て 大テント通天曲中」(郵便報知)

「通天曲社の興行 此程より神田秋葉の原に於て興行中なる勝代、小万其他一、二の支那芸人が打交りたる通天曲社一座の興行は中々の大入にて、明後二十六日迄日延興行をなし、二十七日よりは京橋区木挽町三丁目の空地へ引移り興行するといふ」(時事)

「軽業興行 目下神田秋葉原にて興行中なる支那軽業通天社々中は、来月一日より向ふ三十日間、木挽町三丁目なる明地に於て興行する由」(毎日)

○三月、京都新京極六角下角の家にて、関井斎湖一の手品。(日出新聞324

 「手品に驚て気絶 新京極六角下る興行角の家にては、此頃、関井斎湖一といふが剣を振て人を殺すの手品をなしをるが、二、三日前の夜、上京八組今出川大宮東へ入る今村某の長女まさ(二十二年)が見物に来ると、折しも太夫の一人なる女関井斎辰治が、洋服を着して正面に控ゆると、傍に座したる口上方が、太夫お目通り迄控へますれば、愈よ剣通しより取(とり)たァて御覧に入れまァすと口上終るや、其處に飾りある竪二尺、巾一尺八寸程の箱を取出し、内と外を能く改めたる上、元の所へ置き、辰治は上衣を脱ぎ、白の下着となりて身体を改め、其箱の内へ入ると、湖一は蓋を確(しか)と為し、帯たる洋刀(サーベル)と外に二本の刀を引抜き、一本毎に箱の真中へ突込むと、箱中なる太夫は最とも苦痛の声を挙げ、箱の下よりは鮮血淋漓として流れ出で、如何にも惨酷極まる有様を演じたるに、おまさは大に驚き、キャッと一声叫びしまゝ気絶せしかば、席中の大騒ぎとなり、種々介抱せし甲斐ありて漸々正気に立戻り、早々帰宅なしたりといふ」

○三月、栃木県宇都宮にて、早桜安太郎の軽業、大象、小人国の夫婦の見世物。(「下野新聞」318

 「先達て頃まで寿座にて開演の早桜安太郎の軽業は、此度広馬場の仮小屋にて、不相変(相変わらず)宙乗り。又、同所に大象の見世物に小人国の別品と野郎(夫婦か)、両人とも壱尺五寸あるかなし。サア〳〵鈍(ど)ン〳〵痴(ち)ン〳〵勝手に御覧よ」




misemono at 10:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治21年 

明治21年(1888年)二

○四月一日より、東京京橋区木挽町三丁目の空地(采女ケ原)にて、日清合併大テント通天曲社一座の手品・軽業。

(東京日日新聞323

「軽業の興行 来る四月一日より三十日間、木挽町三丁目の明地にて、清国人天津府の張世存、鶴光与、日本人鯉力勝代、同小萬等にて、合併の手品軽業を興行致し度旨を、八官町二十二番地清水藤作より昨日其筋に願出たるよし」

○四月四日より、宮城県仙台区東一番町松嶋座にて、亜細亜マージンの西洋手品。(「奥羽日日新聞」45

 「愈々昨日より東一番町松嶋座に興行せし亜細亜舎マージンの西洋手品は、同人が北米及英国に於て数十年間修業せし者にて、実に奇妙不思議の技術なる由。且つ賓客の便宜を計り、時間中は休みなしに演ずる筈にて、木戸銭は五銭なれど、茶とマッチを各々へ配るとの事なり」

○四月五日より、福島県福島尾上座にて、自転車のはりがね渡りの軽業。(「福島新聞」46

 「昨五日夜より当町通十五丁目尾上座に於て、はりがね渡りの興行あり。其技術は二輪車が張金を渡り、或は玉の上にて相撲を取り、此他諸種の芸を演ずるなりと。(編者注=七日付で、初日は三百人の入り、大人五銭、中銭なし)」 

○四月七日より、大阪府堺宿院にて、大女伊勢川せんの見世物。(「東雲新聞」46

 「昨年十二月二十八日より南地千日前の木村席に於て興行中なりし夫(か)の大女は、昨日限り当地を打ち揚げ、明日より堺宿院町の某席に乗り込むよし。右興行は都合九十九日間なりしが、其の間の見物人は十四万八千五百余名なりしとのこと」

○四月八日より、岡山県岡山区下の町焼跡地にて、駱駝(二頭)の見世物。(「山陽新報」411

 「此程より岡山区下の町焼跡に於て大駱駝の見世物を始めたるが、最初アヤツリ人形の芸を演じ、次に一間余の高台にて足芸を為し、最後に駱駝二頭を引出して之れが特性奇質を弁じ、其の背中にて足芸を演ずる等の諸技にて、先客はお替りなり。右諸芸中にて最も見るべきは、アヤツリ人形の巧なるにありと、一昨夜、木戸銭一銭五厘を投じて見て来る人の話なり。〔編者注=七日付にて八日より開くと報ずる〕」

 【絵画資料】(参考)

 ≪絵ビラ・木版墨摺≫(「日本見世物史」214頁/古書目録)

明治21年 013


 (表題)「印度舶来駱駝広告」

 (裏)「太夫元清田啓輔」(古書目録)。

〈編者註〉年代・興行場所記載なし。画面には駱駝二頭が描かれ、一頭の背で足芸(曲持)をしている所から、この興行にも使用されたと推測し、参考としてここに掲げた。

口上文は以下の通り(句読点・編者)

 「当今開化の御代に臨で、四海兄弟に呼なし、万里の波涛も汽船の器械に陸地を行がごとし。都而(すべて)他邦の山海、珍物、奇品、鳥獣も更に人力に及び難きもの。勉強にいたりては持渡らざる物なく、先に大象、猛虎をも舶来なせしが、又々此度世に珍敷(めずらしき)駱駝といふ獣物を印度ヘルシヤ国より持渡り、諸君の賢覧に備ふ。当歳三才にして、背高さ壱丈八寸、首の長さ六尺五寸、せなには万斤の目方せをい(背負い)、道行(みちゆく)こと一日に五十里、そのはたらきもつといへども、常に穏順にして、農業の人力を助るものとあれば、大象にもひとしき毛物、依而(よって)四方の諸君にも御一覧の程、偏に希(こいねがう)もの也」

  なお、上掲の絵ビラは「日本見世物史」(214頁)より拝借した。

○四月十二日より、東京浅草公園富士山隣にて、ヤツギン事竹内弥吉の軽業

(東京日日新聞47/郵便報知新聞48/毎日新聞46415

 「[広告]世界無類の軽業師ヤツギン事竹内弥吉は、世界を漫遊する事二十余年。漫遊中に四女を設け、各国の奇術を習熟せしむ。或年、魯西亜に遊び、皇帝陛下の叡覧を経、忝も技術抜群の賞状を賜たり。頃者(ママ・頃日ヵ)帰朝して、浅草公園に観場を設け、当四月十日を以、開業の初日定候間、四方之諸君、初日より永当〳〵御来観の程、伏奉冀上候。/浅草公園地 富士山隣 太夫元」(東京日日)

「鉄割の軽業 久しく海外諸国を漫遊したる鉄割弥吉は先頃ろ帰朝せり。就ては来る十日より浅草公園に於て軽業を興行する由なり。同人は芸名をヤツギンと称し、海外に在ること二十八年、其間に女子四人を挙げたり。又た或る年露西亜皇帝陛下より賞状を賜はり、到る處に喝采を博せりと」(郵便報知)

「鉄割軽業師 芸名ヤツギン事竹内弥吉は二十八年間外国を廻りて先頃帰朝したるが、浅草公園地に於て来る十日より軽業を興行する由。同人は魯西亜に到りて興行せし時、同国皇帝より賞状を賜りたりといふ」(毎日46

 「西洋軽業 浅草公園地第六区の西洋軽業竹内弥吉の一行は、前号に開業の日限判然とせずと記せしが、諸事整ふて去る十二日より開業せり。其術を実見せしに、最初に各国斎ジヨンが手術を為し、夫れより弥吉の子(孰れも女子)チヤレ(十五年)ハレ(十二年)ジウライ(八年)がブランコの綱に乗りて随分放れたる軽業を為せり。次に弥吉は寝台に仰向に寝て襖并に桶を足もて自由に取扱ひ、次にチヤレ女舞台に取設けある高台に乗りて逆立を為し、又他の所に来りて欄干の上を逆立に降るなど巧のことなりき。同場は毎日午後一時(雨天は休み)より開場し、五時に畢る定めにて、上桟敷一人に付五銭、下桟敷同三銭なり」(毎日415

○四月十五日より、栃木県宇都宮招魂社にて、大渕丸子と鶴ノ家亀女の見世物。(「下野新聞」417

 「此頃、黒塗奏任馬車に打乗りて、人力車数輪に末者同類の変手姑連を引連れて市街を乗廻し、興行のお弘めをなしたる大力女は、成程四十貫目もあらんかと思はれて肥大なり。其れと対局の矮小女(こおんな)は二尺ばかりの大年増。年頃十二、三歳の白人と云へば欧州種の様なるが、左に非らず。毛髪、全身挙て一白。一昨日、招魂祭などに持込み、景気好かりし」

 〈編者註〉記事には名前が書かれていないが、大渕丸子と鶴ノ家亀女の一座である。この両者が初めて記録に現れたのは明治十三年五月の岐阜での興行。まだ巡業に歩いているのである。この後、宮城県仙台、岩手県一関、盛岡へ行く。

○四月十七日より、東京新富町新富座にて、ノアトンの手品。(「ノアトンの手品」の項参照)

○四月十八日より二週間、東京浅草猿若町文楽座にて、ジャグラー操一の手品
 (「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○四月十八日より、京都新京極錦小路下る勧商場裏手の空地にて、西洋めぐり(迷路)の見世物

(日出新聞417420

 「智恵くらべ西洋目鏡 明十八日より新京極通り錦小路下る勧商場裏手の空地に於て、新工風智恵くらべ西洋眼鏡といふを興行し、八幡の藪しらずを作り、幻燈器を用ひて世界万国の名所を写し見するより」(417

 「智恵くらべの景物 新京極通り錦小路下る勧商場裏手の空地にて一昨十八日より興行を初めたる新工夫西洋めぐり(嚮に目鏡とせしは誤)の見物人中、八幡の藪知らずを跡戻りせず通りぬけたるものへは絹ハンカチーフ、双子縞、紅木綿、金巾裏地、手拭等を景物に出し、又帰りには笹竹の先に錦絵の紙旗を付けたるものを土産物に出すとの事にて、初日には七百三十余人の入を占たりといふ」(420

○四月二十八日、横浜山手公会堂(パブリックホール)にて、ノアトンの手品。(「ノアトンの手品」の項参照)

○四月、岩手県盛岡真黒沢尻にて、ワニの見世物。(「巌手日日新聞」414

 「雲蒸竜変と名にし負ふ鱗族の大親分、シカモ生きた竜どのの見世物が、雨雲の真黒沢尻に於て先頃より『入っしゃい〳〵』をきめて居るが、長さは大凡五尺許りで、多分竜盤子(いもり)か鰐魚(わに)だんべいと、見て来た人の話しなり」

○四月、宮城県石巻にて、渡辺捨次郎の曲馬(馬芝居)。(「奥羽日日新聞」429

 「当区(編者註:仙台市)にて八十余日間の大当りを取りたる渡辺捨次郎の曲馬は、(編者註:石巻の)水産共進会を当込み、十日間三百円に買はれしが、初日から二、三日間は可なりの入なりしも、五日目よりは皆無の有様にて、興行人は勿論、役者連中まで大弱りの姿となり、当区にて儲けし金は悉皆使ひ尽せしのみか、中には商売道具の衣装まで曲げたるもありとか云へり」

○四月、岩手県盛岡内丸にて、アグステンの西洋軽業。(「巌手日日新聞」52

 「兼て内丸にて興行し来りしアグスデンの西洋軽業は、昨日より本日にかけ招魂社祭典に付き、右両日間、放楽にて見物せしむるとのことなれば、此機を外さず(トハ吝な)ドン〳〵行て御覧あられませう。[編者注=一行が秋田県鹿鹿角へ向かうのは二日のち]」

 【絵画資料】(参考)

 ≪絵ビラ・木版彩色・井上探景画≫(国立民族学博物館蔵:「見世物大博覧会」35頁)
    

アグステン 001

 (表題)「西洋大曲業」。表題下に「シヨリイス・ヒイーレン・フランキン・アグステン・シヨネハフ・クウルクラケ・太夫元鳥定/内務省御届出版」。

 〈編者註〉左端が切れていて読めないが、「明治十 年十月御届」「両国吉川町」の文字が見える。「見世物大博覧会」のキャプションは「明治十年」としているが、絵師の井上探景の画業は十三歳に始まり、明治十七年に探景と号す。明治二十二年に二十六歳で夭折していることを考えても、明治十年にこれを画いたとは思えない。アグステン一座が明治十七年から十九年の間に東京で興行した時に製作されたものと考えられるが、残念ながら興行記録が見つからない。よって唯一の記録であるここに掲げておく。

なお『観物画譜』(228)にも彼等の木版墨摺の絵ビラ(西洋大曲業(おおきょくわざ) 太夫アグステン・ビイーレン・ジヨリーヨス・エドアルド)があるので、併せて掲げておく(下図)。

アグステン 002




misemono at 10:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治21年 

明治21年(1888年)三

○五月四日より九日まで、神戸居留地東遊園地演劇場にて、ノアトンの手品。(「ノアトンの手品」の項参照)

○五月上旬より、岩手県北岩手郡沼宮内駅にて、福助とお多福の手踊り。(「巌手日日新聞」515

 「(前略)当時、北岩手郡沼宮内駅にて興行中なる福助と阿多福(何れも身丈一尺八寸)の手踊は、来十七日より府下に乗り込み、生姜町四十九番地に於て興行。木戸銭は大人二銭、小児一銭五厘なりとのこと。〔編者注=福助らの興行は大入り。二十四日までのところ、三十日まで日延べ〕」

○五月十二日より、横浜伊勢崎町にて、世界の模型の見世物。(毎日新聞59512527

 「世界を造らんとするの新企図 先きに東京には富士を造りしものありしが、今横浜に世界を造らんとする新企画を為せしものあり。同地伊勢崎町の或る見世物小屋の中に、世界の形を造りて自由に廻転する様になし、各国の位置は勿論、都府、高山、大川、鉄道線路、電信線路等をも現はし、且つ世界の珍獣、異鳥等を画図にして見物人に慰みかたがた、地理上の智識を与ふることとし、近日の中に開場する筈なりと」(59

 「全世界の見世物 両三日前の紙上に記るせし横浜伊勢崎町見世物小屋に製造中なる全世界の見世物は、いよ〳〵今十二日より開場するといふ」512

「運動将棋 此程横浜伊勢崎町に催ふせし全世界見世物の中へ運動将棋とて二間四方の将棋盤を据付け、望みの者へ手合を
  許すよし」(
527

○五月十六日より、宮城県仙台東一番丁にて、大女大渕丸子の見世物。(「奥羽日日新聞」518

 「一昨日より東一番丁に興行せし軽業及び女大力の連中は、陽気に乗込みし為か、初日より中々の上景気なり。女大力の座元大渕丸子は登米郡登米村の産にて、先年上京の上、種々の芸道を稽古せし者なるが、目方三十六貫五百目ありと云ふ。〔編者注=二十三日付で「初日より二十日まで三日間、三百円の実入なり」と〕」

○五月二十七日より、静岡県静岡井桝座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○五月三十一日より三十日間、大阪南地法善寺にて、おどけ開帳。(大阪朝日新聞529

 「来る三十日より日数三十日間、南地法善寺の本堂を借受け、大道化開帳といふを催すよし。催主は浪花座の手代某にて、出品の宝物は悉く赤穂義士四十七人の所持品に擬(なぞら)へ、落語家曽呂利新左衛門の一座及び俄師歌蝶の一座が縁起を説て見物人の頤を解かんとの趣向なりと。又右に付き俳優並に五花街の芸娼妓等より種々の積物をして一層景気を添ゆる筈のよし」

○五月、東京芝区三田四国町にて、張世存ほか清国人の曲芸。(毎日新聞519

 「清国人の興行 清国人張世存外五名は目下芝区三田四国町にて曲芸興行中なるが、已に興行日限も迫りたれば、更に来る二十五迄日延したき旨、昨日府庁へ願出でたり」

 〈編者註〉三月秋葉原で、四月木挽町で興行した日清合併通天社中の中に張世存の名がある。このときは別々に興行したも
  のか。

○五月、東京深川公園にて、アイヌ人六名の手踊り。(郵便報知新聞526/時事新報526

 「土人の遊芸 北海道の土人(アイノ)山家利吉(ヤニキチヤラ)、同二女リセ(シネトク)、大山和太郎(ヲヤワツカ)、同妻トモエ(トモエテキ)、白間熊吉(シロカルク)、同二女サノ(サノフチ)の六名は今度出京し、深川公園に於て土人の風俗の儘にて手踊り、手品等の興行を為す由にて、其筋へ出願せり」(郵便報知)

「今度上京せし北海道膽振(るぶり)国の土人山家利吉、同人娘リヤ、白問熊吉、同人娘サノ、大山和太郎、同人妻トモヘの六名は昨二十五日午前十一時頃、警視庁へ蝦夷手品、手踊りを興行するに付、鑑札下付の義を出願の為め出頭せしに、同人等は何れも文政、天保年間の出生にして、男は蝦夷衣を着し、女は口の廻りに入墨を為し居りしが、不日深川公園に於て興行し、義経が蝦夷へ来着の節、土人等へ与へしといふ陣羽織其他武器類をも見物人に縦覧せしむるといふ」(時事)

○五月、宮城県古川にて、渡辺捨次郎の曲馬(馬芝居)。(「奥羽日日新聞」530

 「石巻より涌谷駅を経て目下古川に興行中の渡辺十次郎(ママ)の曲馬は非常の人気にて、毎日千人程の大入りなりと。又、古川打切次第、若柳駅へ乗込筈なりと云ふ」

○六月一日より、東京日本橋区小伝馬町にて、東海道五十三駅の見世物。(毎日新聞524

 「五十三駅の箱庭 日本橋区住吉町二十番地寄留大坂府平民花岡七右衛門は東海道五十三駅景色箱庭の造り物を来月一日より三十日間同区小伝馬町上町二十二番地に於て諸人に縦覧させ度旨一昨日其筋へ出願したり」

○六月一日より、滋賀県長浜市横町長栄座にて、ジヨントロ一座の玉乗。(日出新聞63

「近江長浜通信(一昨一日午后発) 興行物 今一日より横町長栄座にてジヨントロ一座の玉乗を興行」

○六月十三日より、高知県高知高知座にて、軽業芝居。(「土陽新聞」616

 「去る十三日より高知座にて興行し居る軽業芝居は、看板よりも美しいとか奇妙奇態の業をするとか随分評判の由なるが、一日鳥渡(ちょっと)例の編輯小僧が出掛けましたが、其時はかの小野道風の綱渡りから石橋の業までを覗きし処、舞台の掛りから衣装、台詞まで、成程軽業演劇(しばい)の名に反(そむ)かず、随分うつくしく見受け、種々の業を演ぜし中にも、道風が一本歯の木履で青竹渡り、及び石橋の越後獅子抔は満場の喝采を博し、中々手際に見られました。アノ働らきなら他の業前(わざまえ)も定めてヤンヤと言はしたるべし。去る故にや、初日より大人気にて、一昨日、昨日も木戸留なりしと。〔編者注=出演は山田亀太郎・同半次郎・同大三郎・同金治郎・同新治郎〕」

○六月二十四日より、宮城県仙台立町通りにて、渡辺捨次郎の曲馬(馬芝居)。(「奥羽日日新聞」623

 「兼て噂さありし渡辺捨治郎一座の曲馬も、愈明日より立町通りに於て興行の筈。右狂言は序幕『御祝義式三番叟』、引抜き第一番目は『音菊薊の立引』、第二番目は『金比羅霊現敵討順礼歌』。〔編者注=場割は省略〕」

○六月二十七日より、東京吾妻橋向旧佐竹邸にて、美津田福松の曲持。(読売新聞629/郵便報知新聞629

 「先年欧米諸国に渡り、種々の芸術を伝習し、昨年帰朝して横浜に興行し、喝采を得たる曲持美津田福松の連中は、今度吾妻橋際の弘法大師の開帳が日延になりしに付き、同所にて一両日前より興行したるよし」(読売)

「吾妻橋際の旧佐竹邸の高野山弘法大師の開帳に付、同所に於て一両日前より昨年欧米を巡廻して帰朝したる美津田福松の一連が西洋大曲持の技を演じ居れりと」(郵便報知)

〈編者註〉弘法大師の開帳は六月より始まり、一度七月三十一日までの日延べを願い出、さらに八月二十八日迄の日延べを出願している。

 【絵画資料】(参考)

 ≪絵ビラ・木版墨摺・芳春画≫(『サーカスの歴史』68頁)

明治21年 006

 (表題)「官許西洋 大曲持」。

口上文下に「太夫美津田斧三郎・若太夫美津田浅次郎・同美津田力太郎・太夫元美津田瀧治郎」。

〈編者註〉年代・興行場所記載なし。不鮮明で、しかも肝心の美津田福松の名前が入っていないが、美津田一座の絵ビラは外になく、参考として掲げておく。

ついでながら、美津田瀧治郎は数年後に洋行し、明治二十六年七月、ロンドンで南方熊楠の訪問を受けている。

○六月、横浜久方町にて、日清合併大テント通天曲社一座の手品・軽業。(時事新報613

 「通天曲 先般来府下木挽町に永らく興行したる彼の通天曲の連中は、昨今横浜久方町に於て興行中なりと」

○七月十二日より、横浜久方町の曲馬小屋にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○七月十四日、大阪浪速区日本橋三丁目に「眺望閣」(ミナミの五階)が出来る。(大阪朝日新聞710

明治21年 017

○七月十六日より、宮城県仙台市東座にて、帰天斎正一の手品及び教育幻燈会を催す。(「奥羽日日新聞」73718

 「今度、松島遊覧がてら来仙、東一番丁・高桑義守方に止宿中なる東京名題の手品師帰天斎正一は、元都川歌之助とは無二の中なりし故、来仙を幸ひ歌之助が催主となり、東座に於て愈よ本日より西洋手品及び教育幻燈会を催ほす筈なり。又、芸道に先立ち、松本順先生の衛生法並びに虎列剌予防の演説をもなすとの事なるが、一体、手品が本業なるより、惣体を文明奇観術と称する由なり」(73

「帰天斎正一一座は一昨日より昼夜二度の興行に改め、昼は午前十一時より午後六時まで、夜は午後七時より同十一時とし、一層奇妙の術を演ずるとの事なり」(718

   



misemono at 10:22|PermalinkComments(0) 明治21年 

明治21年(1888年)四

○七月二十七日より、東京浅草公園の木造富士に電気燈をつける。

(郵便報知新聞61/時事新報71972886

 「浅草造富士の電気燈 今度浅草の造富士にては其の山嶺へ電気燈据付の計画を起せり。此の電気燈は即ちアークライト二千燭光を四本四角に据へ付けて、其の山嶺山腹は勿論裾野に至るまで暗夜変じて白昼の如くならしむる仕掛けなり。既に電気燈会社より技手出張して夫々測量をも終り、費用の予算も立ち居れり。又た此の電気燈据付の儀は既に其筋へ出願せしに、一昨日此件に付き警視庁より関係人を呼び出せり。此節日々登山人は平均八九百人乃至千人内外にて、其の上り高は一割五分乃至二割位の配当に当る故、株主等は甚だ景気つき居れりと」(郵便報知)

 「木造富士の電気燈 浅草公園なる木造富士の絶頂に電気燈を点ずる由は曾て本紙にも記したるが、弥々認可を得たれば来る二十一日より酷暑中は夜に入りても登山を許し、電気は二十燭光のもの四個を点ずる筈にて、此程より仮りの機関室を同園内に据付たるよし。尤も吉原の電気機関室竣工の上は同所より引くの計画なりといふ。又此の程の賽日を当込て登山切符代を去る十五日より直下げし、大人二銭五厘、小兒一銭五厘となしたるに、十五日の来観者は平日に比ぶれば三四倍の増加にて、二千余人に及びしが、十六日は一層増進して午前五時より同十一時迄にて殆ど二千人に及ぶの盛況なりしといふ」(時事719

 「木造富士の電気燈は機械据付を畢り点火の試験を為せし處、好果を得たる由にて昨二十七日より常夜点燈するといふ」
  (時事
728

 「空中の燈光 直立十八間の上に光輝を放ち、両国橋上より之を望めば星斗の墜んとして落ず、半空に掛りたる如き奇観を呈するものは是なん浅草公園なる木造富士の絶頂に電気燈を点じたるものなり。右は去月二十七日より点火して夜間納涼客の足を繋んとの計画に出しものなるが、其当座は降雨暴風に妨げられ、登山者も無りしに、本月に入りてより天気も持直し、且つ毎日九十度内外の暑気に悩まされたる連中は、吉原の燈籠見物を兼ね昼間の熱を洗はんと、昨今夜中の賑ひは花時の休日にも劣らぬといふ有様にて、中には瓢(ふくべ)に折詰抔を携へ全都の夜景を目下に見下しつゝ一酌傾ける者もありて、殊に八九時迄が人出の盛りなりといふ」(時事86

○七月二十八日より、福岡県博多教楽舎にて、両国光琴、早龍斎光一の西洋手品。(「福陵新報」726

 「博多教楽舎にては来る八月一日より、西洋手品師両国光琴、早龍斎光一等の一坐を招き、昼は午前十時より午後五時迄、夜は薄暮六時より十一時迄興行する由なるが、札は大人弐銭にて、小人は壱銭なりといふ。〔編者注=七月二十八日初日〕」

○七月中旬より、名古屋五明座にて、玉川仙吉一座の玉乗り。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○七月、京都北野天神にて、竜体変生女の見世物。(「中外電報」728

 「上京六組馬喰町宮井松之助方寄留中村卯之助は、北野神社境内に於て西洋手品の看板を掲げ、実は十二、三の女の子を箱の中に入れ、首のみを出し、箱の周囲を杉の葉にて包み、白木綿にて竜の形を作り、人身竜体の変生女なりとて見物人を引き居りしが、巡査出張し、此の酷暑の中に身体を閉ぢ込むは第一衛生に害ありとて卯之助を拘引、目下取調中」

○七月、岩手県一関にて、大女大渕丸子の見世物。(「岩手日日新聞」711

 「当時一ノ関にて興行中なりし女の力持一座は女三名にて、中一人は丈六尺許りにて大兵肥満のものなるが、種々の力芸及び手踊、乗馬術等を演ずる由にて、不日当地(編者註:盛岡)に乗り込み、興行するとのこと」

○夏頃、大阪千日前にて、外国力士ウエブスター一行の見世物。(大阪日報223/時事新報926) 

〈編者註〉昨年十二月に徳島県の興行を終え、今年は岸和田、和歌山で興行すべくその筋に許可願いを出したところ、再申請を要求され、太夫元は興行をあきらめた。

「外国力士太夫本の困難 昨年来当地を始め其他各地に於て興行したる外国力士ウエブスター外七名は、其後和歌山、岸和田の両所より興行の云ひ込みありて、内国旅行稼ぎ免状の下付を出願したる處、是迄は其筋にて何の気も付かず興行を許可し来りしも、元来右力士八名が所持する免状は単に日本旅行の免状のみにて、力士稼ぎの免状なきより、始めて其興行の許可すべからざる事を知り、此度の興行は其稼免状を差出さざれば許可し難しとの事にて、其旨大阪府庁より説諭となり、太夫本は據(よんどこ)ろなく去十八日其願書を外務大臣へ差出したる由なるが、何分八名の力士は各其国所を異にするより英国、伊太利、独逸等の三領事へ相当の手数を尽したる上ならでは免状下付の場合に至らざるを以て、和歌山、岸和田等の興行主は其筋へ興行願の取消をなしたる由。又右力士等は、去月中阿波徳島の興行以来は当地に帰りて何事もなさず宿屋に滞留し、其内通弁人、付添人などもありて、都合二十名計りの者が毎日居食なし居り、日々の費用十円以上を要するには、太夫本も殆んど困難を極はめ居るとのこと」(大阪日報)

〈編者註〉夏頃、ようやく千日前で興行したものの、以前ほどの人気はなく、所持金も遣いはたしてしまった。ブームのはかなさは今も昔もかわらない。

「米国力士の困却 昨年米国より我国に渡来して相撲の興行をなし、東京、大坂等にて評判を得たる米国の力士ウエブスターは、本年夏の比、再び大坂に来り、南区千日前奥田弁次郎の興行小屋にて数日間の興行をなしたるに、前年程の評判もなかりしかば、興行後間もなく打止めて、随行の米国人、印度人等は神戸に出でゝ、本国へ帰るもあり、又未だ神戸に滞在し居る向もある由なるが、関取たるウエブスターは其後為すこともなく、碌々として大坂に止り居りしが、追々儲け得たる貯(たくわえ)の金も遣ひ潰し、今は一文なしの姿となりて、殆んど困却し居るにぞ、前の興行主奥田弁次郎方にても気の毒に思ひ、同家の食客とはなしたれども、既に食客の身となれば食事さへも意の儘にならざるを以て、彼の肥満の体重も此頃は五六貫目を減ずるに至りたれば、当人も今はホト〳〵大の身の振廻し方に困じ居るよし。大坂よりの報」(時事) 

○八月一日、東京江東区中村楼の改進新聞祝宴にて、新富座の若手がノアトンの真似をする
 (時事新報
83/毎日新聞88

 「二世ノルトンの不可思議奇術 一昨日改進新聞改称祝の席上、余興として新富座の俳優若手の相中両三名が、先頃千歳、新富の両座に於て世界不可思議奇術を演じたるノアトン一座の真似事を為したり。最初は滑稽茶番にして、両人が踊りながら相戯れ、入違ひ差違ふて絃器を弾く處、次に帽子の蹴返しは、一人が卓子の上に乗り、高く帽子を差翳したる處を、一人が足にて美事に蹴下すの技、次に五分間に富士山を逆さまに画く早業、夫れより不可思議の第一たる空中より壜(びん)或は大樽の類を取出し、又は来客の袖時計を借受け、自在に右より左に送るの術、又は空中より茶器を出し、茶を煎じて来客に振舞ひ、ハンケチの一隅を来客に絶ち切らしめ、火を焼き付けて再び素(もと)の切れ目なきハンケチに復する所など悉く演じ了り、最後には滑稽うつし絵まで一々真に迫り、特に一座の感服したるは其挙動風采のノルトン一行を写して毫も之に違はざるに在りたり。今やノルトンは日本にての演技を終り、他国に赴きたれども、右の相中が代つて之を演ずるからは、二世ノルトン日本に出でたりと称して可なり。唯遺憾なりしは日本にて斯くも巧にノルトンの技を真似て少しも違はざる者のあることを当時ノルトン其人に示さざりし一事なりと、来客一同称賛せざるはなかりしと」(時事)

 「第二世ノルトンの奇術 新富座の俳優若手相中の市川好太郎、同島三郎、中村芝丸などが過日改進新聞祝宴の折、世界不可思議奇術ノルトンの一座に擬し技芸を演ぜしが、其巧みなる忽地(たちまち)に評判となりて、誰彼れとなく見物したしと申込むものも多きより、近日久保田彦作氏が会主となり、芝居茶屋の二階を借受けて興行し、其揚高を一括して当節がら磐梯山罹災者の救恤金に充てんと夫々支度中なるよし」(毎日)

〈編者註〉『明治座物語』(94頁)にも同様のエピソードが載っている。

「『千歳座』は財政はいよ〳〵困難を極めて、年が改まつても一月興行は出来ず、二月も三月も四月も遊んでしまひました。然し三月には米国人ウオツシ、ノアトン社中の大奇術を興行致しましたが、現今(いま)、奇術界で行はれて居る『モルモツト』と称する魔術の是が元祖で、十三日の初日で、僅な日数を興行致しましたが、割合に盛況でした。(小屋貸だけで余分な利益なし)。然し外国人が劇場を借りて興行をしたといふ事は、日本に於けるこれが嚆矢で、後に左団治の門弟好太郎が、此の奇術を真似て(とても受け、流行った)。三升会の会合を築地の堀越家で催された時、その席上の余興に是を演じ、『好太郎は切支丹を使ふのではないか』といつて、団十郎が驚いたといふ逸話があります」

○八月上旬より、鳥取県鳥取新地元劇場にて、佐竹鑑柳斎の撃剣会。(「鳥取新報」84

 「新地元劇場に於て開く佐竹鑑柳斎一行の撃剣興行は、一昨日、昨日共大入りにて、看客凡そ七百名計にてありし。〔編者注=六日付では「見物人は千人以上」とあり〕」

○八月三日より、神戸楠社内戎座にて、大女伊勢川せんの見世物。(「神戸又新日報」83

 「今夜より楠社内の戎座にて見世物にする伊勢川せんといふ肥大な女は、其年齢十三年九ケ月にて、身長八尺余、ゆき二尺五寸、足のうら一尺三寸、身重三十五貫目あるといへり」

○八月四、五日、東京木挽町三丁目厚生館にて、ジャグラー操一の磐梯山罹災者寄付慈善興行

(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○八月七日より、山形県にて、帰天斎正一の手品及び磐梯山罹災の幻燈。(「奥羽日日新聞」88

 「帰天斎正一の山形乗込みの事は前号に記載せしが、今度は磐梯山破裂の実況を幻燈に写し、其惨状を世間に知らしむる目的にて、愈々昨日が初日の旨、当地の知己へ報じ越せしと」

○八月十日頃より、栃木県宇都宮明神広馬場にて、日本婦人の手品。(「下野新聞」815

 「当地明神広馬場に於て仮小屋をしつらへ…(中略)…同所に於て四、五日前より興行せる手品は、木戸口にて例の福助が、『南京人の西洋、日本、使分けの手品なり』とて怒鳴り居れども、其実、頗る付きの日本婦人が出鱈目手品の欠伸の材料(後略)」

○八月二十日より、宮城県仙台東一番丁松嶋座にて、キンドルの東洋手品。(「奥羽日日新聞」825

 「東一番丁松嶋座にて興行の東洋手品師キンドルの連中は、初日より好評判にて、二日目の如きは八百余人の入なりしと。〔編者注=二十日夜より興行、初日は一人前一銭五厘〕」




misemono at 10:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 明治21年 

明治21年(1888年)五

○八月二十六日より、東京日本橋区中洲にて、象の曲芸。太夫元吉田卯之助。(「絵入朝野新聞」825

「[広告]昨年チャリネ氏の曲馬興行中にも大象等は御覧に入れ候事にて、今更げう〳〵しく御吹聴申上るは未熟なる私共に於て恐れ入る次第には御坐候得共、今般日本橋区中洲において興行仕候「生大象」の義は、暹羅国より渡来致し候ものにて、身の丈け一丈六尺五寸、量目二千五百貫、目鼻長八尺五寸以上有之候。特に御慰みにも可相成は、此象が人間の言葉を聞分け種々の芸等仕候内にも、ラングイ渡り、或は横にしたる一本の木を渡るなどの功者ことはる(ママ)を軽業師にも出来兼候上手に御坐候。尚ほ実際御覧の上、御高評を蒙り度候以上。

日本橋区中洲に於て当る二十六日より興行 太夫元吉田卯之助」

 【絵画資料】

≪大判錦絵二枚続・小国政画・出版人福田熊次郎≫(「観物画譜」212

観物画譜 21


右上枠内に「大象/身の丈ケ一丈六尺五寸 総身量目二千五百貫目 鼻長サ八尺五寸/暹羅国より渡来の大象、生育十五歳にして、畜類と言ども能く人間の言葉を聞分、令に従て其曲をなすこと実に不思議也」。

  左上枠内に「明治廿一年八月廿七日より大橋中洲におゐて興行」。

  画面の象の芸の横に「らんぐいわたりの図/一本の角わたり/まねきぞう/わらくい・足でチョン〳〵する図/おじぎする事・実によくわかります・ぞうが大きなこいで礼を申升/鼻で人をあげる・まへ足をはしごにしておりる」の文字が添えられている。

 〈編者註〉上掲の錦絵は東洋文庫画像データべースより拝借した。

≪絵ビラ・木版墨摺≫(「見世物関係資料コレクション目録」233351

めいじ 001


(表題)「生大象」。下に口上文(五行)あり、「太夫本
大阪 吉田卯之助」。

象の芸として「ゑがひ・まねきぞ・おじき・ちどりあし・はなにて人をまきあげ」が描かれている。

 〈編者註〉年代・興行場所記載なし。表題下に記されている身の丈ケ(一丈六尺五寸)、惣身量目(二千五百貫目)、鼻長さ(八尺五寸)が上の錦絵の象の記載とすべて合致しており、また口上文中には「生育十五歳」と読め、曲芸内容の類似からもこの時のものと推定する。なお、明治二十年が「生育十二歳」であったから「十五歳」はおかしいけれど、明治二十二年の錦絵には「十六歳」となっていて矛盾しない。どちらが正しいのかよくわからないが、それほど厳格に計算して記載しているわけではないということか。口上文はいつもの「草木器械或ハ人工製造の珍奇多しといへども…」で始まるもので、省略する。

○九月三日より十九日まで、岩手県盛岡幡街にて、大女大渕丸子及び大虎、カンガルー、熊の子の見世物

(「巌手日日新聞」98

 「目下幡街に於て興行中なる女大力の観世物は、実に近来になき見物なり。前芸の手品を初めとし、真白な白子、二尺七八寸の侏儒(こびと)の『住吉踊』より、四拾余貫目の大女の手踊り、別品連の力業等、奇々妙々、不思議千万の晴れ芸なり。外に今武松が生捕た広東産の大虎、カンガルー、熊の子抔もあれば、中々の好景気にて、毎日六、七百の見物人あり。左れば場内の混雑いはん方なく、推し合ひへし合ふ有様(尤も三、四名の警官出張あれども)、実に形容すべき言葉もなし。分けて危険に思はるるは見物人の足踏場にしつらへたる桟敷様のものの、所々板割れて穴を明けしことなり。混雑の際に件(くだん)の明穴へ足でも踏み込(こも)ふもんなら、それこそ大変なり。是等は勧進元に於て速かに取り繕ふべきことなり。尚ほお小供衆や老人方、但し赤坊を背負ひたる婦人方は能々(よくよく)注意なくては、悪くするとお怪我をしますぞ。〔編者注=三日初日。大入りのところ、腸チブス発生のため十四日限り興行を中止し、八幡社内の馬場へ移り、十九日千秋楽。このあと黒沢尻へ行く〕」

○九月四日より九月九日まで、長崎県大浦外国人居留地にて、ウヲージーアの曲馬
 (「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

〇九月六日より、宮城県仙台東座にて、帰天斎正一の手品及び磐梯山罹災の幻燈。(「奥羽日日新聞」98

「去る五日の夜、東座に大喧嘩があったと聞き、其起りを探偵せしめたるに、帰天斎の連中が山形よりの帰途、当地に立寄りし処、松島座にキントルの連中が興行中と聞き一寸覗きしに、帰天斎正一の芸道に付き穏やかならぬ口上のありしより、帰天斎連の一学は忌々敷き事に思ひ、其翌晩より東座に於て興行せし処、非常の大入中にキントル連も見受しかば、昨夜の仕返しせんと口を極めて同連を罵詈せしに、見物人は賛成して大に喝采し、『キントル連の太神楽めきたる挙動とは雲泥の相違なり』と叫ぶもあれば、『彼の連が興行の初晩、焚火を誤て見物人の中に落し、迷惑を掛たる手際は何うだ』なぞと、口々に云ひ囃さるる処より、残念とや思ひけん、キントル連中十三名が見物人に紛れ込み、ハネルを待て突然楽屋に飛び込み、一学を手籠めにせんと暴れ廻るを、東座の若い者や座主高桑等も中に這入、取鎮んとする折柄、巡査も駈付し為め、別に怪我人もなく事済みしが、一時は中々の騒ぎなりしと。而して双方共、仙台警察署へ拘引取調中、示談の上、願ひ下げしより、別に興行に差支へず、益々帰天斎連の評判高く毎夜大入なる故、日延興行するよしなり」

○九月十一日より、山形県山形旅籠町横丁にて、洋犬と子供の乱杭渡り/山男の見世物。(「出羽新聞」912

 「徳島県阿波国名東郡徳島の王桜社長・広瀬源三郎が発明せし大仕懸自由花火を、明十三日夜より同十七日の夜まで五夜間、七日町旭座の北脇空地に於て打揚げ、又、旅籠町横丁にて昨日より昼夜興行の洋犬(かめ)と子供の乱杭渡り。偖々偖な山男と称するは、鍋の欠け陶器の類を噛み破るよし。生国(うまれ)は東京四谷区鮫ケ橋一丁目五番地大橋利八長男綱吉といふ者にて、身体一面に毛だらけなりといふ」

○九月十七日より十月一日まで、横浜居留地・二二九番地にて、ウヲージーアの曲馬
 (「ウヲージーアの曲馬」の項参照)

○九月、東京浅草公園六区にて、磐梯山噴火の生人形。細工人鈴木芳次郎。(時事新報929

 「浅草公園…同園五区内に設けし磐梯山破裂の見せものは其六百分の一に擬せしものにて、山麓十余箇の村落を実地に造り出し、人家の陥落、樹木の摧折より長瀬川の中央を灰石の埋没して二箇の湖沼を現出せし模様、罹災者の惨状を極めたる有様に至る迄、現場に出張せし人の実測に基けるものゝ由にて、頗る評判宜し」

○九月、東京浅草公園の木造富士が暴風雨で一部破損する。(時事新報929