明治12年(1879年)八明治12年(1879年)六

2014年03月28日

明治12年(1879年)七

【天覧馬術・続】

 次に伊集院兼常、竹部兵次、草刈庄五郎、福島勝蔵等幌絹引の馬術を演ず。

母衣引馬場本より四騎、轡をならべ、馬形うつくしく、地道にて馬場の右の方に沿ひて乗り出せしは、左へ廻すの故実に據りしものか。御桟敷の前を過ぐるときは何れも鞍の上に平伏して敬礼し奉つり、足並を替へで乗り廻すこと、凡そ三たびがほど。漸く乗りと成りしころ、負ひたる紅白の幌絹を放つ。馬は駿足を選みたり。四ツ拍子よく踏みて、踈足(おろあし)なく、乗手は稀有の達者なり。踏んづけたる鐙は承鐙の肉を動かず、頓て足並を替へて走りを乗(のる)に、三丈も有んと覚しき幌絹は翩々として地を離れ、うつくしき事云はん方なく、十分に乗りすまし、順を追ひて馬場本に退きたり。

 終りて犬追物の式を行はる。

先づ幣振一人、執筆両人、日記所へ上り、飾り付けたる文台の前に着座す。

御桟敷より奉行の指図に依りて上の手の十二騎、南西の竹垣の外よりしづ〳〵と進み出で、物蔭の方なる竹垣を後ろにあて、御桟敷に向ひて馬を立て、介副(かいぞえ)口附は馬の口に立つ。射手の装束は烏帽子を冠(かぶ)り、色々の水干着て、左りを袒(かた)ぬぎ、弓籠手(いごて)をつけ、両の股に行騰(むかばき)し、弓を持ち、腰に蟇目(ひきめ)二づゝ差し、竹根の鞭の緒つきたるを右の腕にかけ、其事がら由(ゆ)ゝしくぞ見えける。

此とき検見、射手一同に馬上礼をなし、検見は縄際に馬を立て、射手は六騎づゝ縄際の左右に進みて馬を立つ。

検見は射手の揃ひたるを見て、縄の内に馬を立て、喚次は其傍らに斜めに馬を立つ。

検見、鞭をねき持ちて、御犬やあると云ふ。犬放しの者、候ふと答へて犬を縄の内に引き入る。検見、御犬放てと云ふ。犬放し、御犬が逃げ候と三度叫ぶ。射手、蟇目をつがふ。此とき検見また、御犬早く放てと云ふ。犬放、腰になしたる鎌をもて索(なわ)を切り、犬を放つ。此犬は射るに及ばずして縄の外に遁れ出づ。是れ犬追物の例なりとかや(此御犬は昔より将軍家にて行はるゝ時は、将軍の御犬として射ず。この犬は則ち 聖上の御犬に比するなり)。

検見、かさねて御犬やあると呼ぶ。犬放しのもの、候ふと答ふ。

射手、みな矢をつがふ。検見、はやく放てと云ふとき、前の如く縄を切て放つに、この犬は恐ぢたりけん、縄の内に伏して動かず。

検見、第二の犬を引入れさせ、前の如く切り放つに、此度は勢ひよく駈け出でたり。

十二騎の射手は驀地(まっし)ぐらに追ひせまり、矢ごろを謀りて射るに、検見も続いて乗り出し、射あてたるものあるを見て、扣へよと声かけたり。

射手、馬を止め、弓を伏せて、矢所を答ふるを聞き、検見、馬を進め、喚次の馳せ来るに行合ひ、射中てたる者の姓名、矢所を告ぐ。

喚次、馳せ帰り、日記所の前に馬を立てゝ、姓名、矢所を告ぐれば、執筆これを記す(射あてたる者あるも検見の心に、法にはづれたりと見る時は、射て置ふと呼はりて其射あてたる者を始め、再び追ふて射るを常とす)。

右の如く上下の手次第に射終て式はてぬ。

犬2犬












犬は常に仕付けたるものならねば、意のまゝに走らず。恐ぢ怖れて、或は埒の際に平(ひ)れ臥し、追へども動かぬゆゑ、多くは牛引かせて射たるが、中に下の手に及びて只一人り、一丈余の綱つきたる牛を引くもの有り。

縄際より諸角入れて馳せ出でたる勢ひ、疾風の如く、馬場を狭しと乗り廻らすに、御桟敷の左りの隅は地質軽鬆(やわらか)にて、馬の蹄ふかく入り、足取くるはんとせしを、声かけて諸角入れ、乗り出でし勢ひ、始に弥増して疾く、駿足達者の一致しけるよと見物の諸人、目を驚(おどろか)せしが、是ぞ乗手は伊集院兼常、馬は警視庁の料にて葛岡と云る名高き良馬にてぞありける。

この射手役々は上の手一番神谷銀一郎(木賊色)、二番高林換幽(鬱金色)、三番神谷教廣(藤色)、高井房明(薄紅色)、五番石谷公清(藤色)、六番榊原弘(勝色)、七番山川前耀(鬱金色)、八番小笠原湖山(木賊色)、九番本多重教(薄紅色)、十番吉田簡斎(鬱金色)、十一番大村剱七郎(藤色)、十二番川窪鍬太郎(勝色)〔喚次・粕野揚亭(萌黄色)。牛引・廣戸正国、草刈庄五郎。犬放・伏見猪之助、平塚忠七〕、下の手一番小出静五郎(木賊色)、二番須藤宗左衛門(鬱金色)、三番久津見頼功(藤色)、四番松平昌信(木賊色)、五番久松祐之(薄紅色)、六番岡野正道(勝色)、七番赤井為徳(鬱金色)、八番小笠原長功(勝色)、九番加藤貞明(藤色)、十番薬師寺元寛(薄紅色)、十一番谷衛久(木賊色)、十二番松浦信寔(藤色)〔喚次・一色貫(萌黄色)。牛引・伊集院兼常、田中四郎次郎、三浦露月。犬放・小栗忠直、建部亀五郎その他。執筆・阿部挑云、田村恒道、赤井真直。幣振・松浦金三郎。場所取締・榊原政陳、建部不顕、竹本要斎、竹内帯陵。世話役・大草高重、玉井祐長、岩間信正、松平鶴棲、小笠原持正、村上正民、島田邦之助、奥野政徳、下濃義別、高橋時雄。犬勢子・岩間正真、布施銀蔵、田村恒壽、神吉勝五郎。扣射手・織田正服、梶金八。師範・小笠原清務、小笠原持倫。奉行・池田章政、松浦詮、伊集院兼常、中山譲治〕の人々なり。

抑々流鏑馬、犬追物は騎射の三つ物の二つなり。始めを尋ぬる説の種々(くさぐさ)ありて同(おなじ)からねど、其は何ともあれ、我国武門の旧典にして、徳川家の末まではをり〳〵に行はれて人々も其式を見知たるが、世の様の移れるに随ひて久しく廃れにしを、今度の盛典に逢ひ奉りて府民がこの古礼を興し、畏くも 天覧に備へ奉りしこそ、誠に真弓つき弓つきぬ御代の末長きためしに引んとの深き心なるべけれと、夏草の花なき筆もて僅に見しまゝを記し畢んぬ」(東京日日82728

 〈編者註〉上掲の絵及び写真は参考として掲げたまでで、文章とは無関係です。流鏑馬は台東区ホームページより、母衣引は宮内庁ホームページより、犬追物(土佐光茂原画・本間百里模写・文化十年)は早稲田大学図書館古典籍総合データベースより拝借しました。謝してお断りしておきます。

○八月中旬より、名古屋宝生座にて、鉄割一座の曲持。(「愛知新聞」813

「一昨十一日大須宝生座にて鉄割上乗の太夫鶴治(十五歳)が虎列刺(コレラ)病に感染したので、直く避病院へ送られし故(後略)」

〈註記〉『近代歌舞伎年表・名古屋篇(一)』より孫引。

○八月、大阪市中にコレラが蔓延し、千日前の見世物興行の多くが停止される

〈編者註〉これに関連し、八月三十日付「郵便報知新聞」に以下のような記事が出ている。

 「南地千日前の諸観物は奥田弁次郎と云ふ者が親分とか頭分とか称(たた)へられ、何興行にても必ず弁次郎の手を経て相応の手数料を出す事の仕来りなるが、虎列刺病の流行に付、観物場は皆な閉業して茫然と坐食(ゐくい)するゆゑ、活計に困る者多く、外に泣付く手寄りもなければ、弁次郎に合力を頼みしに、同人も平生親方と呼ばるるを無気にも断り兼ねて、何程かの金を用立てしが、斯くと伝へ聞きたる同業の者共は入替り立代り無心に来るため、左まで蓄へもなき弁次郎ゆゑ種々の遣り繰りして恵みしかど、終には衣服も質に置尽し、家財も残り少なに売り払ひ、只管頸を延して興行場の許可を待ち居るは気の毒なる事なりと」

○八月、愛知県岡崎・豊橋にて、養老瀧三郎の手品。(「愛知新聞」810

 「兼て手品にて有名なる養老滝三郎は、近々に新工風の手品を拵て、三州豊橋、岡崎へ興行に行く由にて、其内には当所も追々寒冷になると流行病も撲滅するゆへ、興行も許可に成から、其時には一花咲かせるといふ」

○八月、山梨県甲府春日町にて、曲馬。(「峡中新報」821

 「春日町にて曲馬を興行するとて、先頃東京より曲馬師の来りし途中、甲州街道鶴川にて十日間の興行を仕舞ひしに、又もや栗原にて興行したるに、之も既に打切りたるに付き、近日いよ〳〵春日町にて始めるよし。久しぶりの曲馬とは馬い目論見。定めて喝采(やんや)と受けませう」

○九月十日、東京牛込神楽坂町出雲神社境内にて、榊原鍵吉主催の撃剣会。(『撃剣会始末』)

○九月十五日頃より、山梨県甲府桜町四丁目にて、生人形。(「峡中新報」920)

 「桜町四丁目へ四、五日跡より生人形の観物場が出来ました。此の人形は東京浅草の奥山にて頗る評判高かりし人形だと云
    ふ」

 〈編者註〉東京浅草奥山で評判だったものとあるが、詳細は不詳。

○九月十九日より、福岡県福岡区中洲新地にて、二代目早竹虎吉の軽業。(「筑紫新聞」915

 「先年アメリカにて興行中、遂に無常の嵐に誘われて死亡せし軽業師の巨臂と称へられし早竹虎吉の第二代目早竹虎吉が、中洲新地にて明日辺りより興行するよしなれば、老若男女もお出掛奈妻(なさい)。一際よい観物であるから。〔編者注=二二日の同紙には、十九日の初日評が記され、『第一番ハ三番叟ノ注連渡リ、第二番ハ行燈渡リ、第三番近江八景独楽ノ術、第四番竹登リ竿頭小児ノ高趺(あぐら)或ハ大ノ字手毬ノ曲ヅキ、大切リニ至リテハ大日本民権家ノ大統領(かしら)ナル佐倉宗五郎蝋燭渡リ怪談ノ秘術ヲナシ、五覧ニ入マス』とある。〕」

〈編者註〉これらの演目を見ていると、初代虎吉のそれとほとんど変化なく、演技の仕方、背景、衣装、伴奏等も初代の舞台そのままに演じられていたのではないかと思われる。

○九月、大阪平野町御霊社内の浄瑠璃小屋にて、若浜与三郎の曲持。(朝日新聞97

 「府下平野町御霊社内の浄瑠璃小家にて近々の内、足芸の隊長若濱与三郎が新工夫の足芸を興行すると云ふ」



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