明治12年(1879年)七明治12年(1879年)五

2014年03月28日

明治12年(1879年)六

○八月二十五日、明治天皇上野行幸につき、榊原鍵吉らが武術を、草刈庄五郎らが馬術を天覧に供する

(かなよみ823827/郵便報知新聞827/東京日日新聞827828

「当日上野公園内に於て種々の趣向を 天覧に供する儀は御沙汰に及させられざりしが、委員よりの歎願頻りなるを以て、其儀御聞済相成し由なれば、其辺からの催ほしにや、同日の撃剣鎗術の人名を聞に、先(まづ)剣術幹長を榊原健吉氏とし、其他は櫻江宣民、、小笠原貞正、大友能養、、高山盛泰、山名義包、長谷川虎吉、、吉野鉄五朗、、、太田鉄之丞、、伊東邦寧、、同銀二朗、伊東祐、柴田直三郎、佐山吉蔵、、坂田亀三郎、新井圓三、中村国三郎、遠山政平、堀信義、町井金太郎、永島銀二郎、杉野甘吉、佐野万二郎、笹田友明、佐竹鑑柳斉、同茂雄女、同登美女、社長娘両人、(書記)本間勝三郎、松田正照、(取締世話役)町田平吉、加藤重政、高橋久三郎、(別席)佐藤松之助、田口道貞、永島信斎、トマスマツクラチ、(剣術御掛り)小室信夫、中山譲治」(かなよみ823

「聖上には午後二時御出門にて…午後三時三十分公園地へ 臨御。直ちに便殿に入らせたる時に楽隊奏楽す。(中略)先是(これよりさき)皇族方、大臣、参議、諸省長官、各国公使は陸続と参集して各々設けの桟敷に至り 御臨幸を待奉つる。米国前大統領グラント君も夫人とゝもに参られて暫時(しばし)休息所に憩はれ、午後四時 聖上に便殿にて拝謁せらる。夫より間もなく 聖上には設けの 玉座に着御あると均しく、槍剣術、流鏑馬、犬追物の技芸を天覧に備ふ。槍剣術は尋常の假面(めん)小手なりしが、流鏑馬、犬追物の射手は殊に見褒(みなれ)ぬ装束を、今日を晴と衣飾りて、各々敗じ劣らじと手練を尽したれば、昔時(むかし)の御式思ひ遣られ 聖上にも一しほ興に入せられ玉ひたる御気色にて、第五時頃御桟敷より直ちに御馬車に駕(め)して還幸あらせられ給ひぬ」(かなよみ827

「演技場は元の中堂跡に設けたるものにて、四方に埒を結ひ廻らし、西方の中央に少し高く玉座を設け、其左右を克蘭度氏及皇族大臣の席とし、其の左右より南北に桟敷を廻らして其他遠賓の見物所となせり。柱はいづれも紅白の帛にて巻き、腰掛を後あかりに六段しつらへたるは観覧に便なりしかど、天井は葭簀にて覆ひたれば、初のうちは折々日光を洩して随分堪へ難かりしが、演技の始りし頃は四時過なれば、稍々微冷を覚へたり。第一、剣術の技は左までの事にあらざれど、独り流鏑馬は射手の装束の花やかにて、術さへ頗る老練なれば、番毎に(六番のみ不出来)見る人拍手喝采せざるなし。犬追物も同じく晴やかなる打扮(いでたち)にて馳逐の秀でたる、一入興を添へ、妙と呼び奇と称して止まざりける。只可笑かりしは、肝腎の犬が犬勢子に引出され、首縄を切て放てども、多勢の射手に囲まれて臆じ怖れしか、横様にコロリと伏して動かざりしには、勢子も気の揉めし事なるべしと思はれ、又た技芸の真中に慈眼堂前にて打揚げし仕掛狼烟の大鯰がブラ〳〵と落ち来りしには、桟敷の人々も余程妙に覚へられしか、一同に髭を撫て只管に打笑(え)まれたり。尤も当日、園の内外に集り来る拝観人は凡そ幾万人とも算へ難かりし」(郵便報知)

「同日上野へ拝謁に罷出たる八十歳以上の老人へは金廿五銭ヅヽを賜はる趣にて、昨日宮内省より東京府へ下附せられ、又犬追物、騎射、剣鎗術等にて出場したる者へは金二百五十円を賜ひしと云」(郵便報知)

「今度の御臨幸に付き 聖上より東京府官員一同へも酒肴料を賜はりたり。また御臨幸のせつ御手当として賜はりし二百五十円は、委員にて夫々評議のうへ、騎射の者へ百円、剣槍、火技の者へ五十円づゝ下付せられしと」(東京日日828

「○上野公園槍剣術流鏑馬犬追物御覧記

 当日午後四時にも成りぬ。聖上には御便殿を立せ玉ひ、御桟敷に出御あり。

出御に先だつこと十五分ばかり、東の入口より槍剣仕合のもの併せて五十人、場に入りて御桟敷の正面に坐し、おの〳〵面小手をつけ、槍剣ともに組合の順に依り左右に分れて跪く。

其人は榊原鍵吉、大澤定友、松平康年、織田正暉、片野忠蔵、小泉則忠、加藤清之助、大久保一郎、名倉弥次兵衛、細川範輝、加藤重太郎、榊原友諒、原田之正、神崎正太郎、大河内三千太郎、八幡十郎、前田政敏、和田新五兵衛、木村敷秀、越山勇太郎、相原義雄、下妻久徹、市田濱三郎、笹田朝明、大給近必、牧田実之、高橋亀三郎、大久保忠徳、阿久津洋平、山田幸輔(以上剣術)、藤澤廣正、勝左馬次郎、山本敬策、山崎正雄、鈴木忠親、川上隼人、長濱祐吉、大島半司、河野通直、稲生利信、佐々木庫七、敷山陽一、桂山信与、松下琢綱、大木親誉、岡田元吉、深谷吉従、大堀真、大久保太郎松、長谷川正義、榊原久俊、大河内久美、大久保次郎吉、高橋道太郎、川上隼人、岡田元亭(以上槍術)なり。

頓て出御あり、御椅子に着せ玉ふと見て双方声かけて立合ふ。互に勝敗ありて、一同もとの所に坐し拝礼して桟敷の左右に退く。

 次に流鏑馬あり。

やぶさめ二執筆その他の役々は疾(とく)より持場に出座す(日記所は御桟敷の左にあり)。早や馳射を始むべきよし日記所より射手に申す。

射手十人、馬に打のり、䟽(さぐり)に乗り入れ、馬場本に至り、西東に向ひ轡をならべて馬を立(たて)ぬ。介副(かいぞえ)の人々も従ひて馬場本にいたる。射手の装束は何れも今日を晴れと打扮(いでた)ち、事好みたる色々の水干、弓籠手(いごて)の花やかなる綾藺笠(あやいがさ)を日にかゞやかせ、馬上に素引(すびき)などして試むるありさま、誠に勇ましく見ゆ。

一番の射手の的、三所とも次第に立てぬれば、一の射手神谷銀一郎、木賊色(とくさいろ)の水干を着て、馬を䟽の本に乗り鎮め、箙より矢ぬき出してつがひ、打扇を披きて笠の端三度つくろひ、後ろへ捨つると見ゑしが、驀地(まっし)ぐらに乗り出し、矢筥とり、声かけ、矢ごろに志して、一の的を射割り、鏑本に矢つがひ、二の的も鵠を違へず、三の的も全く射あてゝ䟽を乗り出し、舎の前に乗り立ぬ。桟敷の上より埒の四方に物見る諸人は思はず手を拍(たた)き声を揚げ、射りたり〳〵と、どよみあへり。

此とき三所の的、狭挟きの的串ぬき取りて次の的を立る。次第に番の順を追ひて十番の射手糟屋揚亭、萌黄色(もえぎいろ)の水干きて馬を乗りあぐる。其疾きこと風の如く、三所の的一つも余さず射あてたり。

馳射の儀全く終りぬれば、射手は舎に憩ひ、役々も各々退き入りぬ。

此日の射手は、一番神谷銀一郎(木賊色)、二番園田利平(鬱金色)、三番秋山龍橘(薄紅色)、四番松平錬五郎(勝色)、五番神保尹成(藤色)、六番岩間正貞(鬱金色)、七番布施銀蔵(薄紅色)、八番小林雅遊(勝色)、九番神谷教廣(藤色)、十番糟屋揚亭(萌黄色)〔執筆・金森誠作、福鎌葵流。馬場本世話役・榊原傳八郎、伏見猪之助。同末世話役・田村恒道、廣戸正国。的奉行・高林換幽、小笠原湖山、榊原弘。的挟役・吉川金次郎、林慎平、芝山錠三。采配役・大原廉次郎、内藤實、加藤喜兵衛。矢捨役・平塚忠七、田村恒壽、大橋万次郎。馬場末口放役・草刈庄五郎、福島勝蔵〕にて、何れも的をはづせるは少なく、就中神谷、糟屋の両人には一つの仇矢なく、古(いにしえ)の堪能の人にも劣らずと人々感じあへるも誠に理りなり。(以下次号)




misemono at 10:16│Comments(0)TrackBack(0) 明治12年 

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