明治14年(1881年)五明治14年(1881年)三

2014年04月11日

明治14年(1881年)四

○四月、東京浅草公園地にて、浪華小鶴の足芸。(「郵便報知新聞」54/『東京新誌』明治十四年四月発行)

 「浅草公園内の見世物の中でも、珊瑚珠細工に山雀と共に評判の高き女の足芸浪花小鶴は、本名入江しうとて、大坂府下の生れなるが、幼なき折り両親を亡ひ、兄弟もなき上に、類ゐ少なき不具の身なれば、何がな一芸を覚へねば生涯を送り難からんと、千々に心を砕くうち、不図足芸を思ひ付き、昼夜心を籠めし甲斐ありて、終に妙奥を窮め、都会の地に見世物小屋を張りしに、年増しに評判高く持て囃され、衣食に差支へなき身となりたれど、尚ほ老後を気遣ひ、食を減じて倹約をなしゐたるが、去る三十日の午後十時頃、小屋場に置付けの葛籠の中へ衣装其他を残らず入れて錠を卸し、雇人の林丈助(岐阜県下美濃国の出生)に預けおき、同人の妻某と共に入湯なして帰り見れば、丈助が居らぬのみか、葛籠の蓋の外してあるを訝り、一々検むるに、紙幣二百九十円、金銀貨三円と、見欲(めぼし)き衣類の見へざるは、全く丈助の仕業に相違なければ、直ぐ其由を届け出たるが、素より非道の働く者に情けを知る筈なけれど、斯る便りなき不具の者に難儀を掛けるは人外の鬼畜なり」(「郵便報知」)

 「浪華小鶴なる者有り。婦人にして脚伎を善くす。初め浪華に在て之を鬻ぎ、大に声価を得、因て浪華と称し、後我が東京に来って又場を此に開く。其伎頗る妙、招牌に題して万国無類と曰ふ者真に誣ひざる也。若し夫れ柝木響き、大幕開くや、一個の説白者(コウジョウイヒ)例に因て演ずる所の芸名を題起(イヒタテ)し、畢て側房裡三絃鳴り、鼓角響く、盞茶時、第一伎を演ず。太夫小鶴、艶粧袴を穿ち、徐々として出で来り、客に向って拝一拝し、直に設くる所の高壇に上り、両脚扒開して跌坐る。先づ足を以て褥を脱し、臂を要せずして火盆を搬び、手を仮らずして煙管をとる。既にして傍人揚弓を与ふれば、則ち足を以て之を彎き、数弓を距て垂下する所の数個の橙子を狙着し、弦に応じ個々之を貫く。其術の精しき、中らずと雖も亦遠からざる君子の射法の如き馬鹿々々しき者の比に非る也。次に石碾(ウス)をひき、次に陀螺(コマ)を廻し、或は燧(ヒウチ)を鑚(キッ)て火を改め、或は針を穿って衣を縫ひ、又花を挿み、書画を写し、又琴を鼓し、三絃を弾し、綿を繰るあり、糸を紬ぐあり、且つ櫛を執て髪を梳り、銭を栓児(ゼニサシ)に、串を糸苧環に巻く等、仮令千手観音の手を倩ひ倩来ると雖も、豈に其れ及ばんや。然りと雖、世間事を好む者の多き、未だ其の妙芸を賞せずして、眼一に其の股間に注ぎ、袴有て以て緋帳の開く支ふにも関せず、彼一たび脚を挙ぐれば、則ち那の東西は正に挨開(ヲツピラク)して蚌珠殻を出るの状を做すかと疑ひ、或は花蕊香を吐くの態を為すかと訝り、垂涎顋に滴り、徒に気を揉むのみ、焉ぞ能く其の芸の巧拙を知らんや」(『東京新誌』)

〈註記〉『図説庶民芸能―江戸の見世物』(295頁)より孫引。

〈編者註〉浪華小鶴といえばすぐ思い出すのは、慶応四年(明治元年)に興行した「花川子鶴」である。芸内容はほとんど同じである。当時二十歳位だったから、もし同人なら三十五、六というところか。「老後を気遣ひ」というのにも呼応する。ただあまりにも年数があいており、その間の情報が皆無なので、いささかの疑念も残るが、これだけの技能を持った者がそうそういるとは考えられず、同一人物だと判断してよいだろう。

【絵画資料】

 ≪絵ビラ・木版墨摺≫(「見世物関係資料コレクション目録」35136

めいじ 001


  (表題)「女足藝太夫 浪花小鶴」。表題右に「萬国外にるいなし」。

弓の芸を中心に二十六種の芸内容(印刷が不鮮明で文字が読めず)が描かれている。

〈編者註〉年代・興行場所記載なし。『東京新誌』文中に「招牌に題して万国無類と曰ふ」とあり、この時使用されたものと推定できる。

○四月、奈良県高市郡今井町にて、江川半次の軽業。(大阪日報429

 「此頃の事とかや、軽業師の江川半次が其の一座を連れて大和国高市郡今井町に赴き、同所に於て例の扨又(さてまた)の興行中、(編者註:見物人の婦人が十二三の上乗太夫に一円のポチをやり、ややこしくなった話)」

○四月、岡山県東中山下心明座にて、生人形。(細工人等不詳)。(「山陽新報」41

 〈編者註〉記事は、大雲寺町戸長が一眼の生人形が眼のない方で望遠鏡を見ていたのを咎めただけの話。

○五月十五日、埼玉県北葛城郡藤塚村にて、逸見孝亡父七回忌の撃剣会。(『撃剣会始末』)

○五月より、東京浅草奥山にて、熊と女の相撲の見世物。願人田中紋次郎。(読売新聞628

 「去る五月中より、田中紋次郎といふ者が願人にて、浅草観音の奥山にて興行して居る熊の芸は、曲持の跡で、若い女が褌(ゆもぢ)を取ッて素裸になり、熊と角力を取るは余り猥褻極るゆゑ、去る二十五日、其筋より差止めに成ッたといふが、二銭や三銭の木戸銭なら、熊の角力より見物人の顔が見たかッた」

○五月、大阪千日前にて、剣渡り、火渡り、水渡りの合併興行。(読売新聞531

 〈編者註〉色恋沙汰の三面記事だが、ことが千日前の見世物小屋なので、大意のみ記しておく。

明治十三年五月に京都新京極で興行した剣渡りの野口お浪(二十八歳)は、千日前でも不入り続きなのに引き換え、隣の火渡りの川村種三(二十三歳)は木戸が開くのを待ちかねるほどの大入りで、お浪は羨ましく、合併興行を申し込むと、種三は了解し、春ごろに小屋の仕切りを取り払い、火渡り、剣渡りで興行して大当たり。これを見た同所の水渡り馬杉竹次郎(二十八歳)も合併を申し込み、火渡り、剣渡り、水渡りで興行を始めたが、お浪をめぐってお定まりの色恋の悶着がおこり、ついには警察のお世話になったというお話。簡単に小屋の仕切りを取り払えるくらいだから、当時の千日前の見世物小屋はおよそどのようなものであったか想像がつく。

○五月、三重県鈴鹿郡雞足山野登寺の開帳にて、足白の狼の見世物。(「伊勢新聞」518

 「鈴鹿郡雞足山野登寺の開帳に付、同郡阿野田村の某は、旧臘以来諸方へ見世物に出せし白足の狼にて一儲せんと、右開帳中、彼の狼を該持主なる沓掛村九兵衛より借り出せしに、随分縦覧人も多くして喜び居たりしに、最早明日は閉扉となる前夜に当りて、狼は繋ぎし鎖を喰ひ切り、深山をさして逃げたれば、借主は狼狽して夫々手を配りて谷々を狩りたて共、中々近辺に居なければ、結局(つまり)沓掛村の持主よりは右謝金として百円を差出せと云ふ物から大に困り居る由なるが、誠に早お気の毒千万な話」 

○五月、群馬県上州高崎にて、帰天斎正一の西洋手品。(郵便報知新聞513

 「西洋手品師帰天斎正一が、此頃上州高崎にて興行中、殊に得手なる縄脱けの技は、衆人の喝采を得るゆゑ、ます〳〵其奇を見せんとて、去る八日は背(うしろ)手に西洋錠を掛け、其上を長さ八尋もある太き縄にて厳重に縛らせ、イデ脱けてお目に掛んと云ふ處へ、警察署の吏員が立向ひしかば、帰天斎は驚いて、得手の縄脱けも急には施しかね、マゴ〳〵するゆゑ、吏員は打笑ひ、技芸とはいひながら手錠や縄脱けを見物させるは不都合なればそれだけ止めにすべし、と云渡されるにて、まづ安心したりと」

○六月一日より、宮城県仙台にて、高橋金治郎の生人形。(「陸羽日日」63

 「去る一日より、当区桜ケ岡公園地内へ興行になりし高橋金治郎の活人形は、中々の上出来。去年、国分町の小間物商渡善一件で当りを取ったが、夫よりも尚ほ面白みがあるとて、見にゆく人も山々なりとの評判」



misemono at 10:24│Comments(0)TrackBack(0) 明治14年 

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