明治19年(1886年)参考文献明治19年(1886年)4月~6月

2014年05月16日

明治19年(1886年)7月~12月

7月

○七月十三、十五、二十日、横浜パブリックホールにて、アンダーソンの手品。(『実証・日本手品史』135頁)

○七月十四日、チャリネ一行が横浜に入港する。(「チャリネの曲馬」の項参照)

○七月十七日より、横浜居留地吉濱橋際二百七十番地旧フランス製鉄所の向いの空地にて、チャリネの曲馬
 (「チャリネの曲馬」の項参照)

 〈編者註〉広告では十七日だが、新聞では十八日となっている。またいつまで興行したのは不明。

○七月下旬、名古屋橋又座にて、撃剣会。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』) 

○七月二十八日、大阪府下の寄席、見世物等の諸興行物の再開が条件付きで許可が出るも、再び停止される

(朝日新聞7・287308185

「大阪府録事 ❍甲第百拾七号

  本年甲第八拾七号を以諸興行停止の處、寄席及観物場に限り相当官吏に於て衛生上無害と認むるものは特許することある
  可し。

  右布達候事

  明治十九年七月二十八日  大阪府知事建野郷三」(728

「興行物解停に関する事 今度寄席観物を特許せられしに付きては、其興行者をして一々之を守らしむべき一定の標準ともいふべきもの十個条を定めて、出願者には之を受書に認め差出さしむることゝなりし。概略は巳に前号の欄外に出しおきしが(印刷中にて漏れたるもあり)、其十個条といふは即(すなわち)左の如し。

(一)興行時間は午後六時より同十二時までを限る事。

(二)看客坐席は一畳敷に大人二人、小兒三人の割合を超えさすまじき事。

(三)場内にて茶菓氷の外は決して飲食さすまじき事。

(四)興行中大小便とも幕明毎に防臭薬を撒布し精々清潔に掃除すべき事。

(五)場内に於て吐(はき)或は瀉(くだし)ある患者ありたる時は直ちに所轄検疫支部へ届出で、掛官吏の出張を待ち、総て其指揮に遵(したが)ふべく、尤も其間看客は散乱せざる様取締るべき事。

(六)場内に於て虎列拉病患者ありたる時は解停の達あるまで興行せざる事。

(七)場内には患者隔離室及び消毒室并に浴湯を設置くべき事。

(八)場内には兼て結晶石炭酸及び粗製石炭酸各三磅(ポンド)并に硫黄花五斤以上を備置くべき事。

(九)前項の外総て掛官吏の指揮を受くべき事。

(十)場内は常に清潔に掃除すべき事。

猶右の外に便所の如きは小家と其棟を別々にして臭気の達せざるやうになし、又見物人に出す蒲団は古きものを用ひず、而して日々其蒲団を能く掃ひ、三時間ほど日光に暴(さら)し、又茶は試験済の良水を十分沸騰して用ふる等の事もあり。

又千日前にて差詰め此標準を守り開場せんと其支度を為せるものは、西京下りのヘラ〳〵女。東京下りの洋犬芝居。犀。運動眼鏡。猿芝居。撃剣の仕合等なりと。

又昨日人寄席願人の箇所へ検疫本部と所轄警察署立会にて検査せられしは、北区中にて三ケ所、曽根崎署にて六箇所なりしが、定期の外にも官吏の見込に依り許可せらるゝものと、せらざらるものとあるゆゑ、いづれも如何なるべきやは未だ分らず。

又興行人の中にも縦(よし)や許可せらるゝとも席の構造を変換するに多くの費用を要し、其上に此大暑中来客のあるや無しやも知れざれば、先づ初日を出せる席の景況を見合はせて、夫から出願の事にせんと姑(しばら)く外の振合を見て居るもの多しといへり」(730

「興行物と西瓜の曲切り 千日前観物の犀は警察検分の上開場の許可を得たるを以て、今一日より初日を出し、又当春以来京都新京極の寄席にて大に人気を得たる彼ヘラ〳〵女及び東京下り洋犬の芝居、女身振狂言の三小家は構造向の不完全なる處なるを以て改良を加へ、此外二三ケ所の興行小家も一昨日警官の再検分を得たれば、許可あり次第蓋を開くべしとの事。又彼犀の観物は真の観物にて、他の興行物と性質を異にする處あるに依り、興行の時間は午前六時より午後六時迄と其筋に於て定められたるが、犀のみに限らず、真の観物の時間は皆此例に依ると聞(きけ)り。(後略)」(81

「興行物は許されず 曩に興行物を特許せらるゝ達しの出たるに依り、開場出願の向き甚だ多かることは度々記載を経し所なるが、其後虎列拉病は毫も減縮せざるのみならず、炎暑強き今日に於て多人数集合するは衛生上多少害あるに付き、興行物は小家の完全不完全に拘はらず当分の間一般に許可せざるやうと大浦警部長より四区二郡の各警署へ内達ありしといふ。是に依て見る時は、全く先の達しは取消されしものゝ如し。併しながら我々は追々悪疫の蔓延する今日、斯あらん事を切望する者なり」(85

8月
○八月十三日より、大阪千日前にて、犀、豹、大蛇、猿の見世物が許可される。太夫元河井貞次郎

(「日本絵入新聞」65/朝日新聞71071583814

「獣類の見世物 過日、外国より神戸港へ輸入し来りたる犀(目方六百三十貫目)、豹(目方十五貫目)、猿(目方八貫目)の三獣を、一昨日午後五時、神戸より和船にて当地へ運送し来り、戎橋南詰西へ入ル河岸より陸揚したるが、西区新町南通り二丁目四十九番地河井貞次郎と云へるが興行元にて、興行物解停次第、千日前の小屋に於て諸人に観せる筈なりと」(日本絵入)

 「諸興行物を停止せられたるより、遊芸稼人は元より、之に由て糊口する者の孰れも困難を極むる中にも、過日外国人が齎し来り、観物にせんと当時千日前に養ひ置く犀と豹と大蛇は、飼料に夥しき費用のかゝり、他に持行かんにも大荘なる者なれば、運搬も容易ならず、殊更迷惑なし居るといふ」(朝日710

 「ボーネオ産の犀 今回我邦に舶齎したる大洋洲の群島ボーネオ産の犀及豹、蠎、狒々は当時千日前の観せ物小家に飼養して興行物解停の日を待つ事なるが、此中に就きて殊に珍らしく覚ゆるは犀なり。其角は一切の諸毒を解すに効ありと称して、従来漢方医の尤も貴重せし所の者にして、生ながら舶来したるは実に我国開闢以来初めての事なれば、茲に其形状を写生して婦女子の覧に供す。
                 

明治19年 001

       

  偖(さて)此犀は年齢二歳にして背の高さ六尺五寸余り、長さ九尺余もありて、其鼻の上に少しく凸起(なかたか)くなりたるは、年経るに従ひ角を生ずるの所なり。上唇は細く長くして、下唇を蔽ひて下に垂れ、飲食をなすには恰も象の鼻に等しき活用をなし、眼の視力は甚だ弱く、性質極めて魯鈍なる如しと雖も、其物を嗅ぎ、音を聞くの知覚力に至りて頗る鋭敏なるものなり。皮膚は首筋の辺より段々に垂畳みて、宛も襞の如くなり。色は灰色にして、上に粗き毛を少しく生じ、其膚肌(きめ)区々に割けて、自ら五角の形をなし、厚くして堅硬なる事は銃丸と雖も恐らくは打貫く能はざるならんかと思ふばかりなり。且此獣は常に河川に接近する森林又は沢沼中に棲息し、地上に転臥して泥土を皮膚に塗抹するを以て快楽とするものゝ如く、又能く水を泳ぎ、力は極めて強く、然れども之に抵抗せざれば柔順にして人を害する事なし。食する所の物は草木の葉及び其根等なりといふ」(朝日715

「犀の観物は一日より開場の支度整ひ居りし処、前号の欄外に出せし通り(中には洩たるもあり)其前夜俄に所轄天王寺警察署より追てさたする迄見合すべき旨達せられ、其指令書を一先返上せしめられたり」(83

 「日外の紙上に写生したる我国へ始めて渡来せし千日前の犀の見世物は、昨日より興行を許可せられたり」(朝日814

○八月二十日より、大阪千日前のヘラ〳〵踊りの見世物が許可される。(朝日新聞822

 「…又女のヘラ〳〵踊は一昨日より開場せしが興行の時間は何れも午後五時より十一時迄なり(後略)」 

○八月二十一日より、大阪千日前にて、洋犬の芝居が許可される。(朝日新聞822

 「南区千日前観物の中、東京及び名古屋地方にて大に見物人の喝采を博したる洋犬の芝居は、昨二十一日より漸々開場する事となりしが、種々洋犬の芸をなす中に鞠乗の芸は最も奇にして目新しく、舞台より桟敷に掛たる一条の桟(かけはし)を前足にて轉(ころが)し乍昇降するは、彼鞠乗の元祖秀寿にも勝りし程にて妙と叫の外なしと云ふ(後略)」 

○八月二十九日、東京芝白金のオーストリー公使館内にて、榊原一門三十名が撃剣会を演じる。(『撃剣会始末』)

○八月、東京吉原にて、安本亀八の細工人形「日本名所」の燈籠が飾られる。(「安本亀八の生人形」の項参照)

9

○九月一日より、大阪千日前にて、手品・手踊りの見世物が許可される。興行人奥田弁次郎。(大阪日報82593

 「興行人の再願 大坂南地千日前の観物の内東側にては犀の観物、西側にてはヘラ〳〵踊り及び犬芝居は既に此程より興行を差許され、東側の手品及び手踊りも予て開場出願中の處、昨日其筋より右興行人へ成規の通り午前六時より午後六時まで興行するは苦しからざる旨達せられたり。然るに右手品手踊りの如きは昼間は看客多からずとて是まで夜間に興行し来りしを以て、午前六時より午後六時迄にては折角開場するもその甲斐なければ毎日午後六時より同十時まで興行差許され度旨、昨日右興行人奥田辨二郎外二名より検疫本部へ再願したりと」(825

 「手品手踊 此程大阪府検疫本部へ興行の儀を出願したる南地千日前東側の手品、手踊は一昨日許可されたり」(93
○九月一日より十月二十九日まで、東京秋葉原にて、チャリネの曲馬。(「チャリネの曲馬」の項参照) 

○九月十六日、兵庫県二方郡浜坂駅にて、象の見世物。(「神戸又新日報」923

「象の観世物 但馬二方郡浜坂駅へ、去る十六日、鳥取地方より身の丈け一丈四尺、重量二千五百貫目あるといふ幼象を引連れ来りて観せ物をなせしに、僻境(いなか)には絶て珍らしき観世物なれば、毎日看物(けんぶつ)人がドヤ〳〵、勧進元はニコ〳〵」

○九月十七日より、愛知県平田町大松座にて、養老滝翁斎の手品水芸。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○九月末日、竹沢万治、若浜市松らがオーストラリアへ出発する。(朝日新聞919928

「当地にて軽業曲独楽を業とする渡辺末吉は当年十歳になる亀井種吉と共に一ケ年五百円の給料にて雇はれ、近日豪州メル
 ボルン府に赴く由」(
919

「過日の紙上に軽業師渡辺末吉(芸名竹澤萬治)と外一人が或外国人に雇はれ近日豪州メルボーンに赴く由を記したが、足芸師松井市松(芸名若濱市松)も亦一ケ年四百円にて雇はれ、此一行に加はり、弥々一昨日神戸より汽船に塔じて同地に航する由」(928

〈編者註〉『実証・日本手品史』(400頁)に、メルボルンの日本村博覧会で水芸を演じる万治(Manjee)の広告(明治
19121日付のArgus紙)が紹介されている。

10
○十月七日夜、大阪千日前で大火災が発生する
。(朝日新聞
109

 「千日前の火事 一昨七日夜十一時、難波村字千日前にて目下鞠乗の興行をせし奥田伊兵衛所有小家より出火し、直に其裏手の自安寺妙見宮の絵馬堂をかすりて南へ延焼し、猶西側に移り、東は自安寺の境内、南は溝の側迄、北は竹林寺墓所の高塀迄、西は西側人家及観物小家残らず焼失し、同夜一時四十分鎮火せり。

抑も此の辺は観物小屋のみの駢列(へいれつ)せし繁華の場所にして、目下興行中焼失せしは名古屋下りのヘラ〳〵、男女小供合併の手踊、洋犬芝居、女身振狂言(是は目下中止)、竹澤万治の曲独楽、鳥羽下(くだり)の海士、手品身振り狂言、鞠乗等なるが、此内大小家二ケ所、中小家六ケ所、都合八ケ所、其他に楊弓、大弓、吹屋、餅店、煮売店、黒住派教会所、妙見堂内の末社二ケ所、鐘突堂(但し半焼)等も焼失せり。

此處の西側は南区にて即ち難波新地二番町三番町となり、東側は難波村となり、両側其管轄区域を異にせり。而して南区の分は焼失の建坪数二百五十九坪九合一夕、難波村の分同百三十六坪なり。

初め火の起りし時は近傍の人家未だ寝に就かず、勿論各小家の興行は已に終りしのみにて、ヘラ〳〵、洋犬芝居などは上り銭の銭割勘定を為しをりしをりから、此出火を聞き、上り銭を寄集めるに暇あらず、其まゝに捨て、命から〴〵漸く迯出せしぐらゐなりしと。此うち尤も倉皇狼狽を極めしは犀、豹、大蛇などの観物小家にて、いづれも容易(たやす)く人手に合ひかぬる畜類のみなれば、スワ火事といふより急に引出さんとするも意の如くならず、犀と大蛇は僅に引出したるも、豹の如きは竟に引出しかねて小家の内に打遣りおきしが、幸ひにして此小家は南の焼止まり近傍に在りて焼残り、豹も危き間に一命を拾ひ得たる姿にて、豹自身の僥倖(しあわせ)は固より小家主に於ても定めし満悦を表せしならん。(中略)

又此火の原因は鞠乗り小家の東下桟敷より発(おこ)りしといひ、又同小家舞台下手の奈落よりなりともいひ、未だ判然せざれど、此小家は同日午前八時より興行し、同午後五時限にて打出し、跡には番人の小家を守りしのみなれば、全く番人の粗相に出でしか、将(は)た浅宵(よい)の内に火の気の残りしものより発せしか、両様の内に相違なしといへり。

又警察本部に備付の蒸気喞筒(ポンプ)は出火最中現場に引出し、太左衛門橋北詰に据付、二本の水管にて注射したるを以て頗る其功を奏し、猶此外水の手は海士の小家に掘溜たる水と同村千四百七十三番地(焼止り)津和某の嬉湯に汲ためたる湯水とを用しゆゑ、消防上大に便利を得、又消防夫中には負傷したるもの多けれど、皆さしたる重傷なく、難波村戸長役場の出張所(千日前通の東裏手)には警官、医師の出張して夫々負傷者を治療せられぬ。

此千日前の出火は同所開闢以来、明治十年の冬一度焼失し、今度が第二回目にて、此前の時にも丁度夜の十一時より焼出し、鎮火の時刻も大抵同様なりといふは亦奇なり。前夜の火事は幸にして風あらざりしかど、火の手太(はなは)だ熾(さかん)にして、殊に近傍の小家は皆筵簾又は板などを以て構造せしものなれば、転瞬間(またたくま)に近傍へ延焼して忽ち一面の火となりしより、余程大火の如くに見え、且其月夜なりし故にや、船場以北より望めば尤も近く見え、大川町辺にては船場の中央即ち本町近傍ならんとの想像殊に多く、又戎橋の鷄(かしわ)店京與(三階楼)なりといふものも多かりしが、是は中(あた)らずと雖も遠からずといふべし。猶此他にも記すべき事あれど余白に乏しければ次号に付すべし」(109

○十月七日、神戸居留地劇場にて、エジプト人パシア・ノスタウの手品。
 (「神戸又新日報」
106/朝日新聞109

「〔広告〕世界高名パシア・ノスタウ手芸興行広告

  ❍明七日木曜日夕刻より居留地劇場に於て手芸を興行仕候間、賑々敷御遊覧の程、奉願上候。

  ❍パシヤ・ノスタウは種々様々、珍奇無類の手業を看客の劉覧に供す。

  ❍手芸中、最も看客の注意を喚起する者は、高さ僅に一尺三寸五分の小人形骨稽踊にて、奇々妙々、看客をして抱腹絶倒、六十分間に六十回の笑を催さしむる者なり。

  ❍パシヤ・ノスタウの手芸は仏英魯独其他の諸国、至る処大喝采を得たり。

  ❍遊覧券代価は、上等金一円、下等金五十銭。

  ❍遊覧券は居留地十八番館薬舗に於て売出申候。

  ❍午後八時三十分開場、同九時興行相始申候。

  ❍当地に於てパシヤ・ノスタウの手芸興行は明一夜限りなれば、諸君、此機を外し給ふな。

  十月六日」(神戸又新)

「手芸興行 一昨七日午后九時、神戸居留地演芸場に於て手芸師埃及人パシヤ・ノスタウの催しにて西洋流の手芸を興行したるが、同人は此度始て我国へ渡来し、神戸港にて一夜興行するに付一覧ありたくとの旨を以て通券を弊社へ差越れたるに由り、之を一見せしに、同人は埃及人なれども能く英語に通じ、凡て英語を以て口上其他万端を話せり。因て当日の見物人は重に欧米人にて、中にも英米人多かりしと見受られたり。

扨第一幕の手芸は是迄我国に於て興行せる西洋手芸と大同小異にて格別変はりしことあらざりしが、第二幕に至ては例の得意の手芸なりと云ふ。一尺三寸の厚紙の狂画(ポンチ)人形を取出し、之を先ず見物人に改めさせて卓上(テーブル)の上に置き、之を自由自在に指揮して踊躍(ようやく)し始め、遂に卓上を離るゝこと一尺許の處に跳上り、此處にて踊躍するに至りたる際、此技は通常なせる如く糸様のものを据付け其手術(てだて)を以て演ずるものにあらずと口上に伴れて、短棒にて踊りをれる人形の上下をクル〳〵と廻し試みて、夫等の手術(てだて)のあらざるを示して証明したるに、是時満場大喝采の声を放てり。同人は是迄仏、西、魯、墺、土、独等の各国に周遊して興行したる節にも、到る處大喝采を博したりとのこと。同人は是より横浜に到りて一興行する由に聞り」(朝日)

○十月十六日、横浜パブリック・ホールにて、エジプト人パシア・ノスタウの手品。(毎日新聞1015

 「西洋人の手妻 明十六夕刻より横浜居留地のパブリック・ホールに於て、今度渡来のパシヤ・ノスタウが西洋手妻を興行
  するとのこと」

○十月十八日より、宮城県仙台区東一番町東座にて、桜永政一の手品・縄抜け。(「奥羽日日新聞」1020

 「東座の手品 一昨夜顔見世を出せし東一番丁東座の手品は、新潟県士族・桜永政一の一流にて、都て上手なるが、中にも本芸とする縄抜の如きは実に奇々妙々、誰にても目を驚かさぬ者なしと云ふ」

○十月二十二日より、京都新京極にて、犀・豹、大蛇、猿の見世物。太夫元河井貞次郎

(日出新聞1022/朝日新聞1017

 「去七日夜の出火に辛じて祝融の厄を免れたる千日前の豹、犀、大蛇等の観物は、今度西京の新京極にて一興行を試んため、太夫元河井貞次郎は昨十六日多数の人夫を以て右の獣類を在檻のまゝ引出し、道頓堀太左衛門橋南詰より船に搭載して川路該地に向ひ出発せり」(朝日)

 「観物 今度新京極で見せものにする犀、豹、巨蛇(うわばみ)、大猿は、昨日伏見船場より京極の小屋へ着し、愈よ本日より始めるよし。右の犀は未(まだ)二歳の幼犀なれば、角の處は僅に凸(たか)みたるばかりなれど、丈六尺五寸余、長さ九尺ありて、其目方七百貫に余り、日々の食量は馬鈴薯十五貫目、青草十貫目なりと。又豹は牛肉六斤、鶏の頭二十個、巨蛇は長さ三間二尺にて、鶏卵二十個に鶏肉を少し摺混ぜて食せ、大猿は目方八貫にて爪なく牙のある珍しきものにて、肉類、果物を併せ食するよし」(日出) 

11
○十一月一日、東京の皇居吹上御苑にて、天皇・皇后がチャリネの曲馬を御覧になる

(「チャリネの曲馬」の項参照)

○十一月三日より十二月十三日まで、東京築地三丁目旧海軍操練場にて、チャリネの曲馬

(「チャリネの曲馬」の項参照)

 〈編者註〉十一月十九日、皇太后が築地でチャリネの曲馬をご覧になる。

○十一月十日、明治天皇が伏見宮に行幸。榊原鍵吉らの兜斬り等を御覧になる(読売新聞1110

 「今日伏見宮へ行幸あらせらるゝに付き、同日同宮には榊原鍵吉氏を召し御秘蔵の名剣(包永、兼元ほか二口)を以て冑切の業を天覧に供し奉るよし。御前に於て此の晴業は榊原氏の名誉といふべし」

 〈編者註〉『直心影流極意』によると、その日「鉢試し」に出たのは逸見宗助、上田馬之助、榊原鍵吉の三人で、前者二人(共に警視庁師範)が兜にはね返されてしまったのに対し、鍵吉のみは切口三寸五分、深さ五分の腕前を披露したという。因みに当日用いたのは胴田貫正国の剛刀である。

○十一月十一日より、福島県福島区色観音の境内にて、東京下り岸長之助の足芸軽業。(「福島新聞」1111

 「足芸 本日より当町十一丁目色観音の境内にて、東京下りの岸長之助が足芸をやらかすとナ」

○十一月十六日より、東京千歳座にて、尾上菊五郎が大切に「鳴響茶利音曲馬」を上演する

『五代目菊五郎自伝』/『明治座物語』

「同十九年には伊太利のチヤリネの曲馬団が渡来して神田の秋葉原と築地の海軍原(今の香雪軒付近)で興行して非常な人気であつたのを見て直ぐそれを浄瑠璃に仕組ませ、優はチヤリネ一座を築地精養軒に招待して象の遣ひ方、又道化師の顔の塗り方等を真似るなど非常な凝り方であつた。此狂言が大成功であつたのをチヤリネ氏が祝して、各国の徽章を縮緬に染めた大旗五旒を贈つて来た事がある。是れが芝居へ旗を贈つた始めである。(後略)」(『五代目菊五郎自伝』) 

「大切は伊太利の大曲馬一行が、其の頃秋葉ケ原へ来て興行して居たのを、菊五郎が見物して、それを浄瑠璃に仕組ましたもので、菊五郎はチャリネに扮し、変つて一本足、象遣ひ、虎遣などを勤めました。小道具の藤波は、象や馬を実物(ほんもの)のやうに念入に作り、馬は前に竹次郎、後に扇蔵が入つて居ましたが、前足を上げてチン〳〵をする處で、扇蔵が竹次郎を持上げやうとして、腕を折つたといふ騒ぎが有りました。一方の、チャリネの方でも喜んで、各国の徽章を染めた縮緬の大旗五旒を菊五郎へ贈つて、惣見物を致しました。芝居へ贈られた旗を掲げたのは是が始まりです」(『明治座物語』)

 【絵画資料】

  ①≪芝居番付・木版墨摺≫(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵:「馬のサーカス・大曲馬」54頁)

チャリネ 001



  ②≪大判錦絵三枚続・梅堂国政画・出版人林吉蔵≫((早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵:「馬のサーカス・大曲馬」53頁/国立国会図書館蔵/日本芸術文化振興会蔵)

チャリネ 一チャリネ 二チャリネ 三















 

   画面にチャリネ・象つかひアバデー・一本足トムハーパー(尾上菊五郎)、道化師ゴットフレー(中村伝五郎)、沓屋の色男(板東家橘)、ミスフランス女(岩井松之助)が描かれている。

  〈編者註〉上掲の錦絵は早稲田大学演劇博物館デジタル・アーカイブスより拝借した。

  ③大判錦絵三枚続・梅堂国政画・出版人福田熊二郎≫(蹉跎庵主人蔵

812 3812 2812 1
















  (表題)鳴響茶利音曲馬(なりひびくちゃりねのきょくば)。

画面にチャリネ・壱本足(尾上菊五郎)、道化師(中村伝五郎)、後見(尾上栄次郎)、口上言(尾上松助)が描かれている。囃子連中は「清元延寿太夫、同鳴海太夫、同千代太夫、同梅吉、同菊三」。

○十一月、静岡県浜松区呉服町六丁目ふきよせ亭にて、高橋幸助の貝細工。(「静岡大務新聞」117

 「貝細工 サー入らっしゃい〳〵。是は丹後国峰山高橋幸助発明の貝細工で御座い。花鳥獣類五十余品。代は見てのお戻りじゃ。細工が悪るけりゃ代は取らぬ。と当地呉服町六丁目ふきよせ亭に目下興行中の貝細工は、何れも精巧を究めたる上出来なるが、今一々之れが評を下さんは煩はしければ、其内の二、三に就て評すべし。

  雪中の鷹、隼鷹、梟、九尾狐、鳩及び妙香山大蟇、大蛇の睨合などは最も目覚しきものにて、就中、鷹の下に飛びおりんとする容子と鳩の飛び上らんとする胸工合より両足の踏張る所などの面白きこと、作人が精神を込めたる所にして真の活物と思はしむ。去る三日の如きは非常の大入にて、二千五百余の見物ありしと云ふ。尤も当地打上次第、東京表へ乗込むと云へば、みなさん、大人は一銭五厘、小児は一銭五持参のうへ、東京へ乗込まない内に早く行て五覧なさるとも五覧なされないとも、ソコハ五自由の権」

〈編者註〉明治十六年一月、大阪千日前で小寺金造(良久)と連名で興行したのが最初。この年二月新京極で興行したあと、東京へ乗り込む途中、静岡でひと興行目論んだようだ。今回は高橋幸助単独の興行であるらしい。なお、東京での興行記録は未発見。

○十一月、滋賀県大津遊楽園の定席にて、ヘラ〳〵踊りの見世物。(日出新聞1126124

 「猫のヘラ〳〵 一時京都にて遊冶郎仲間に持囃されしヘラ〳〵踊りも、此節は少し下火となりて、目下は大坂、滋賀抔へ其余勢が走りし模様にて、殊に大津の如きは、ヘラ〳〵と云へば非常の大当りを占めるより、昨今、柴屋町のお茶挽芸妓が続々ヘラ〳〵踊りと化け、芸妓半分、席上ヘラ〳〵踊りをなすは、如何にも不体裁千万の義なりと一遊客の話なり」(1126

「ヘラ〳〵困却 上京区第二十七組日吉町平民・遊芸稼人白木竹二郎(二十二年)外九名が、過日来大津へ来りて、上京町の旅舎川村ふじ方へ止宿し、大津遊楽園の定席にてヘラ〳〵踊を興行せしも、見物客のなきと此程来の霖雨にて雨天順延としたものゝ、止宿料の不払ひなるより旅舎は之を責め、食事も差出さゞるより、お腹がヘラ〳〵ヘッたで大困り。遂に交番所へ其取扱ひの不信節(ふしんせつ)を訴へ出たとか、近所での大評判」124

12
○十二月十五日より翌年一月十三日まで、東京浅草公園内にて、チャリネの曲馬
。(「チャリネの曲馬」の項参照)

○十二月二十五日より、京都新京極錦小路下ル元義太夫小屋の松の家にて、蟹男の見世物。(日出新聞1224

 「蟹男 新京極通り錦小路下る元義太夫小家の松の家にて、明二十五日より興行する蟹男といふは、鳥取県下因幡国岩波村近藤善次郎(二十二年)といふものにて、芸名を坂東京一と呼び、身丈一尺八寸ありて左の足が後ろ向(むき)、如何にも不思議の生れなるゆゑ、之れを蟹男と呼び、手品、杉丸太乗り、手踊り等を催すよしなるが、なかなか手際よく立廻るといふ」


○この年、蜘蛛男・養老勇扇死亡(?)
。(
「蜘蛛男(養老勇扇)」の項参照



misemono at 14:32│Comments(0) 明治19年 

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明治19年(1886年)参考文献明治19年(1886年)4月~6月