2015年06月05日
天保十二年(1841)~天保十四年(1843)五
天保十三年(1842)壬寅
○三月、江戸深川八幡宮(六月、回向院)にて、浪花亀吉及び菊川伝吉の軽業・乱杭渡り。(『武江年表』)
「六月、回向院にて、南都法隆寺聖徳太子開帳(霊宝数多拝せしむ。何れも古物なり。当春深川の開帳よりして、乱杭渡りといふ見せ物行はれ、此の度も境内へ出る。難波亀吉、菊川伝吉などいふもの也)。」
〈註記〉東洋文庫『武江年表』2より転記。
〈編者註〉三月三日より六十日間、深川八幡宮にて、成田不動開帳。六月十一日より六十日間、回向院にて、法隆寺聖徳太子開帳。『武江年表』の記述が簡潔で、具体的なことが分らないが、下記の絵画資料を見ても、浪花亀吉と菊川伝吉の二人が合同で演じたのではなく、別々の一座として興行したようである。便宜上、ともにここに掲げておく。
【絵画資料】
①≪報條・木版墨摺・新甚板≫(情報学環・学際情報学府図書室蔵)
(表題)なし。
右枠内に「蘭杭足曲持大夫 浪花亀佶/蘭杭わたり・浪花卯之助、女(?)布さらし・浪花小つる」。
(天)「金毛九尾白面之狐」。
画面は乱杭渡り梯子の曲、乱杭渡り布さらし、衣冠姿の男の乱杭渡りなど。画面中央下に蝦蟇ガエルの絵、その上は不鮮明だがおそらく金毛九尾が描かれている。
〈編者註〉上掲の報條は、情報学環・学際情報学府図書室→小野秀雄コレクション→18.見世物→NO23「軽業興行の引札(仮)」より拝借した。
②≪大判錦絵・国芳画・上州屋重蔵板≫(ボストン美術館蔵)

(表題)なし。
左上に「太夫元 蘭杭わたり浪花亀佶 上のり卯之助」。
画面は衣冠を付け、左手に傘、右手に扇子をもって乱杭渡りをする亀吉が描かれ、それを下から蛙が眺めている図である。背景に社殿と鳥居が描かれ、鳥居の神額に「小」の字がかろうじて読み取れるところから類推すると、小野道風神社かと思われる。
〈編者註〉上掲の錦絵はボストン美術館のホームページより拝借した。
③≪大判錦絵・国芳画・上州屋重蔵板≫(ボストン美術館蔵)

(表題)なし。
左上に「蘭杭の上はしごの曲持/太夫元浪花亀吉 上のり卯之助」。右下に「ぬのさらしわけ 小女小つる」。
画面は乱杭渡りはしごの曲を演じる亀吉、布さらしを演じる小つる、乱杭を持って下で待機している卯之助の三人が描かれている。
〈編者註〉上掲の錦絵はボストン美術館のホームページより拝借した。
④≪大判錦絵・貞房画・山口屋藤兵衛板≫(東京都中央区立京橋図書館蔵)

(表題)「青竹切先并らん杭渡り 菊川伝吉」。
画面は青竹切っ先渡りをする男と川の中で乱杭渡りをする男(牛若丸風の出で立ち)が描かれており「菊川に浪打入の見物はゆき渡りよき竹の切先 亀笑」の狂歌が添えられている。
年代・興行場所記載なし。深川八幡宮か回向院かは不明だが、菊川伝吉の江戸興行の記録は他にないことから、この時のものと推測される。
〈編者註〉上掲の錦絵は東京都中央区立京橋図書館のホームページより拝借した。
⑤≪団扇錦絵・貞秀画・伊勢屋惣右衛門板≫(川添裕コレクション:「大見世物」51頁)
(表題)「蘭杭足曲持」。
小野道風とおぼしき男が蝦蟇にのって乱杭渡りをする姿と布さらしをする少女の姿が描かれている。
演者名記載なし。上記の絵画資料から「亀吉と小つる」と判断される。
以下はこの図に添えられた「大見世物」のキャプションである。
「浪花亀吉の乱杭渡り、足曲持 天保13年(1842)江戸 『蘭杭足曲持』 川添裕コレクション
図版122(編者註:天保はじめ両国で興行した浪花馬吉・松之助・亀吉の子供曲持)から10年ほどした浪花亀吉の演芸風景。天保13年の深川または両国での興行に取材したもので、表題の『蘭杭』は乱杭渡りのこと。趣向としては、後ろの水門と蝦蟇に注目すると天竺徳兵衛が想起され、傘をさした衣冠の人物に柳と蛙とくれば小野道風である。どうやら二つの物語を下敷きにして、亀吉は連続的に演じたようである。この錦絵は『団扇絵』という形式で、実際に切り抜いて団扇にするもの。庶民の誰もがふつうに楽しんだ、往時の見世物文化がそこに反映している。(川添)」
○春、大阪難波新地にて、元結渡りの見世物。(『近来年代記』)
「難波[新]地ニおいて、もつとひ渡り。
此芸ハ去年之つな渡りニひとしくして、太トき元結又ハこまへ〔木舞〕渡りなどいたし、大はやりなり。」
〈註記〉大阪市史編纂所『近来年代記』上・43頁より転記。
○春、大阪難波新地にて、梅吉父子の馬芝居。(『近来年代記』)
「馬芝居 梅吉父子なり。
馬上ニていろ〳〵の狂言をいたし、おもしろき事なり。」
〈註記〉大阪市史編纂所『近来年代記』上・43頁より転記。
○七月二十九日より、名古屋大須観音寺前にて、江戸(柳川)一蝶斎の手妻。(『見世物雑志』)
「同七月廿九日より大須観音寺前日小屋ニて、江戸一蝶斎手妻。」
〈註記〉三一書房『見世物雑志』222頁より転記。
○八月七日より、京都四条道場にて、早竹虎吉の軽業。(報條より)
【絵画資料】
①≪報條・木版墨摺≫(日本芸術文化振興会蔵)
(表題)なし。
(天)「天保十三寅のとし」。
右端下に「座本早竹兼松/太夫早竹虎吉・同早竹鶴吉・若太夫早竹福松」。
画面に「三人つぎ提竹・さか縄渡り・よし渡り・四ツ縄・ゆこう渡り・はやぶさ・はかた曲こま・元結わたり・曲まくら・たけはしご」の軽業芸が描かれている。興行場所記載なし。
〈編者註〉上掲の報條は日本芸術文化振興会蔵のものを拝借した。
②≪報條・木版墨摺≫(大阪城天守閣蔵:『大阪の引札・絵びら』31頁)
(表題)なし。
画面は上掲の報條と同じ。
〈編者註〉『大阪の引札・絵びら』所載の報條は、大阪城天守閣蔵南木コレクションを写したものだが、編者が大阪城天守閣で直接閲覧させていただいたものには袖に「「来ル八月七日より四条道場境内におゐて」とあり、下に別紙で「乍憚口上 早竹虎吉」が添付されていた(下図参照)。

これらを総合すると、これは「天保十三年八月七日より京都四条道場境内」で興行した時の報條ということになる。そしてこれが現在確かめられている早竹虎吉の最も古い絵画資料(報條)である。
なお、下記の口上文に、「當五月より勢州一身田(編者註:現三重県津市一身田)御開帳ニ付罷下り彼地ニおゐて興行仕」とあり、これが事実とすれば、早竹虎吉が興行したことをはっきりと示す最も古い文献資料である。
口上文は難読の個所が多く、解読できた部分だけ原文のままで書き出しておく。
「乍憚口上
一、秋冷之砌ニ御座候所御町中御旦那様方益/御機嫌能被遊御座恐悦至極ニ奉存候随而私義/當五月より勢州一身田御開帳ニ付罷下り彼地ニおゐて/興行仕此度罷帰り候處御當地御旦那様より御ヒイキに/御申□下候ニ者當所ニおゐて何□□□□相勤申候様/被遊仰候得共私義何れも様御存之通ながらく/誓願寺ニ而御ひいきニ相成中々小家がけ場所へ/罷出相勤候様成身分之者ニも無之殊に此度仕候藝/等之義ハ小家がけニ而無之候得ハ□はたらぎがたく故わたし/風情之者□□□□様之□奉恐入段々御断申上候得共/達而之御すゝめニより止事を得ず此度押而罷出相勤申候/乍併申迄も無之念の入シ不調法者□々是迄より御ヒイキ/暑ク御取立以て□小家ニ而取続キ興行仕候故御成被下/初日差出し候ハヽ御子達様ニも御なくさミニ且ハ御旦那/様方の御笑艸と賑々敷御来駕之程日當栄ニ/奉希上候以上 月日 早竹虎吉」