慶応四年/明治元年(1868年・戊辰)二明治2年(1869年・己巳)二

2014年01月03日

慶応四年/明治元年(1868年・戊辰)一

○正月七日夜八ツ時、大阪難波新地溝の側より出火、料亭登加久(とかく)が焼ける(『近来年代記』)

 「○難波新地出火之事 七日夜八ツ時、なんば新地みそのかハよりとかく、戎橋通両かハ南のはし迄焼、西も土はしきハ迄、八日四ツ時迄焼たりけり。此火、付火と云。此をり々ゆへ南辺大あわてなり」

〈編者註〉平野屋武兵衛の手記「慶応四辰年日記」一月七日の条に「…難波より出火、今日出ろうの附火のよし、土ばし邊より出火にて、難波新地ミな〳〵焼る、風も西にてつよく、千日墓一丁斗り西まて、北ハミぞの川切、ひゐどろ細工小家のこり候へとも潰れ候、とかく料理屋、其外茶屋やける、…」(『幕末維新大阪町人記録』161)とある。なお「登加久(とかく)」は有名な料理屋で、幕末にこの近辺でよく見世物が行われた。

○一月十五日(西暦186828日)、早竹虎吉がアメリカニューヨークで死亡

(「内外新聞」/『日本人登場』)

 「慶応四年戊辰五月八日 内外新聞・第四(七日毎に出版)

❍洋行(ようこう・外国ヘワタルコト)せし軽業師寅吉の風聞 

早竹寅吉事ハ昨丁卯年外国人に雇れ、家族大勢を連て横濱を出帆し、追々各国を廻り、同年の暮頃は亜国(アメリカ)サンフランスコ[地名]へ着し、夫レより他の国へ渡らんとする時、元方[初メ寅吉を雇ひし人ニて銀主の事也]の外国人の日く、家族大勢なる故雑費(ざつぴ・イリヨウ)少ならず、只両三人を連れて余(よ)ハ日本へ送り返さんと。寅吉答へけるハ、元来本国に於て家族尽く引連度(ひきつれたく)と約を定たるに、今更約を変ずる事甚(はなはだ)當惑する所なり。此返答に依て外国人も黙し居たりけるが、重ねて出帆の時、いかゞ仕たりしや、寅吉及び要用(よう〳〵・ヤクニタツ)の人而已(のみ)を船に乗せ、余ハ其侭に残し置たり。洋中(ようちう・オキナカ)へ出てより寅吉この事を知り、大に憤り、刀を抜き彼の偽りし外国人を切害(せつがい・キリコロス)せんと働きしかバ、是が為に船中騒動し、他の乗組恐怖する故、船主も迷惑の余りに寅吉及び元方の外国人もろともニ或ル島へ上陸せしめ、船は遥に過行たりとぞ。其後寅吉の生死等を不知(しらず)、他日其実証(じつせう・タシカナルコト)を得バ布告すべし。」
     

めいじ 003


「慶応四年戊辰五月 内外新聞・第七(七日毎に出版)

❍第四編に記せし軽業師寅吉が始末、其慥(たしか)なる書面を抜粋して左に挙ぐ。

昨卯八月十八日、アメリカ国の領分サンフラシスコへ着し興行せしニ、日々故障有て、初日より金主の外国人種々(いろ〳〵)難題を云掛たり[事は第四ニ云がごとし]。家族八人ハ得心の上サンフラシスコに待せ置、サノゼ[地名]よりシユトクトン渡り、夫よりサクラメント渡りけるに、尚又人数減し呉候由を金主より云かけしかバ、寅吉大ニ立腹し、厳敷(きびしく)返答ニ及ビけれバ、金主もサンフラシスコに残し置し家族を山林へ匿すべし、或は鉄砲にて打べき抔と争論になり、神風楼の[横濱の遊女屋]挨拶にて、同人及び以上四人ハ日本へ帰り、其余ハニウヨルクへ渡るべきに示談(じだん・ハナシヲツケル)し、十月六日乗船せしに、船中ニて又騒動に及ぶ[第四ニ記]。依て元の旅宿へ戻り、横濱住人八百庄[唐物商人]等の扱ひにて侘證文を取て漸(やう〳〵)和談(わだん・ナカナホリ)し、同十六日、次の船に乗、十二月三日、子方とミ[女子の名]船中ニ死す。同七日、ニウヨルクへ着し、正月元日より興行せしに、二日、三日頃より寅吉発病して、同十六日終ニ病死す。是より金主の外国人等、損金の質として子役の者を彼方(かれがた)に預るべき由を云掛、或ハ荷物を取るべしと種々(いろ〳〵)の事起りて、家族の男女難儀ニ及べる由也。

或人第四編を見て難じて曰(いわく)、寅吉ハ元京都二条新地芥(ごもく)稲荷といへる傍(かたわら)ニ小家有[乞食の住居也]、是に住居(すまゐ)して、親を大吉と云、共に寺町誓願寺の境内ニて手妻軽業をなし、見物の人に一銭二銭を乞たる至(いたつ)て下賎の者なり。天保の末、軽業師山本小嶋が乱杭渡り、竹沢藤次の博多獨楽等を真似て太夫早竹寅吉と号し、所々ニ於て軽業を興行す。然れ共、其已前を知りたる人ハ、寅吉が太夫と称し、哥舞伎役者の如く自ら尊大なるを悪(にく)むものも多かりし。斯る下郎の事跡迄記載する事、新聞紙の名を下さん事を憂ふと。

編者答曰、然り、我輩の思ふ所ハ又違へり。彼が洋行の始終を記して外国人の情態(ぜうたい・ココロネ)をも察知すべく、已来三思を加へずして漫(ミだ)りに外国へ渡り、過て患難(くわんなん・ナンギナコト)を醸成(じやうせい・シイダス)し、甚敷(はなはだしき)に至テハ内外国事ニも関係するに及ぶまじきに非(あらず)と注意するに有。寅吉元下賎の者といへども、藝を以て数人の棟梁と成たるも又其道ニ於てハ一己(いつこ・ヒトリ)の豪傑なり。功名ハ君子の欲せざる所、盈呉(えいしよく・ミチカケ)ハ天地の定理、寅吉名利の二ツを欲して外国の鬼(き・シセル人)となる事、是又一ツの教戒なるべし。」

〈註記〉大阪府立中之島図書館蔵本により転記。( )内はルビ。ひらがなは文字の右側に、カタカナは左側に付けられている。[ ]内は小文字・二行書。句読点・濁音編者。なお同記事は『日本初期新聞全集』15巻・97頁・377378頁にも転載されている。

〈編者註〉虎吉の死亡年月日は三原文さんの『日本人登場』による。また虎吉の死亡状況については同書(第六章「早竹虎吉の最期─描かれた野辺送りと虎吉の肖像写真について─」)に詳しく述べられている。ぜひ参照されたい。なお、上掲の虎吉の写真は同書より拝謝させて頂いた。



misemono at 11:36│Comments(0)TrackBack(0) 明治1年 

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