松旭斎天勝興行年表 明治45年・大正元年(1912年)松旭斎天勝興行年表

2018年01月30日

松旭斎天勝興行年表 明治44年(1911年)

53日~6月末日   東京浅草公園帝国館(旗揚げ興行)

71日~10日     横浜賑町喜楽座

714日~23日    大阪道頓堀角座

725日~86日   京都歌舞伎座
820日~         朝鮮京城寿座
92日~          朝鮮仁川歌舞伎座
9月12日~922日   満州大連歌舞伎座


◇東京浅草公園帝国館53日~6月末日)

 

天勝

 



44 04544 02044 01844 023














明治44423日 二六新報

❍天勝の活躍 松旭斎天一と云へば奇術に於て東洋一と称され居りしが、今回病の為め引退する事となり、其の後をば天勝に一任し、此に花々しく旗上げをする由にて、来る二十五日、浅草公園帝国館の開館式に際し、艶麗なる天勝嬢一座が天一の跡を継ぎての第一回目を興行する由。

明治44423日 東京日日新聞

○天勝の一本立 天一病気で退隠の為め嬉しい〳〵情夫(まぶ)がある

 亜米利加三界を股に掛け、欧羅巴迄押し渡つて、一時は東洋の名花と唱(うた)はれた女奇術師松旭斎天勝は、来二十五日、浅草公園帝国館の開館式と共に、師なる天一と分離して同館で独立営業と極り、一本立ちになると云ふ事であるが、天勝が其の独立の希望は今始まつたのではなく、曾つて欧州から帰朝した時以来で、其の際天勝が漫遊談を聴くべく訪問した文士で、畔野太郎と云ふ者があつた。天勝の容色の美に接して、之れに憧れ、天勝も亦赤髭ばかり見て居た目とて畔野の優姿に思ひを懸けた。若い男女が屡々の会見とて、早くも両人の恋の遂げた事は今茲に説明する迄もない。

其後は師なり旦那なりの天一の目を忍んでは媾曳(あいびき)を楽(たのし)み、後々の結婚費を作るべく、男は盛んに筆を執り、女は地方を天一と共に巡業し、相当の富を得て、天勝は一昨年の暮に本郷区丸山新町四一に土蔵付の堂々たる邸宅を求めたが、夫れでも未だ天一ある以上は思ふ男と添ふ事が出来なかつたので、只管其の機会(おり)を待つた甲斐あり、天一は老病の為め舞台に堪へぬとあり、愈々退隠する事となつたので、此の時とばかり、天勝は独立すると同時に天一との閨縁を断て、近々思ふ男と一緒になり、自働車に合乗して楽屋入りをするを楽みにして居ると云ふ。

明治44424日 都新聞

❍松旭斎天勝女 師匠松旭斎天一が芸界を退隠せしにつき、其の後継者として自ら天勝一座を組織し、二十五日より浅草帝国館に出演すべし。

明治44424日 読売新聞

❍松旭斎天勝一座 奇術師松旭斎天一は老衰の為め今回鑑札を返納して芸界を退くに就き、欧米に渡航して以来二十年来興行を共にしたる松旭斎天勝嬢に

奇術の奥義を譲りたれば、嬢は独立して座長となり、愈々二十五日より浅草公園帝国館の舞台開きに花々しく天勝斎一座の初興行を開演する由。

明治44429日 読売新聞

❍帝国館の天勝 明三十日開場式を行ふ浅草公園の帝国館出演松旭斎天勝一座の番組は、示指のカード、ダイスの奇術(花子)、飛行のカード、掌中の玉、空中ステツキ、指中のカード、群鷺の現消(天洋)、絶衣の妙技(一光)、空中の花、紙中の花、ハンカチーフの変現、タンバリンの奇術、夢中の交換、懸賞魔術、不思議のトランク(天勝嬢)外夏子、園子、露子等総出。

明治4453日 都新聞

❍[広告]五月三日開館 浅草公園帝国館 電話下谷二〇二二/懸賞魔術 不思議のトランク数種 松旭斎天勝嬢、天洋、一光、百合子、花子、園子、露子。活動写真(演目省略)。

明治4456日 読売新聞

❍新設の帝国館 約七万円の費用を投じて浅草公園内に新設されたる帝国館は三日より開館せり。建築はルネサンス式にて有楽座よりも広く、且つ美しく、階上特等及び一等席には絨氈を敷詰めたるも、靴にはカバーシュースを掛け、下足に預るの手数を要せざる他の活動写真館に例なき便利なり。独立初舞台の天勝の手品を始め、活動写真何れも鮮明なり。

明治44514日 東京朝日新聞

❍天勝踏み付らる 浅草公園帝国館の天勝は、口上を言つて貰ふ活動の弁士にひどく舞台を暴(あ)らされて居るが、二三日前の晩も、不思議のトランクで見物席から飛上つた医者が、袋の口を外科用の針で縫初めたを鈍(のろ)臭いと胸をコヅいて吐鳴(どな)りつけてゐたとは随分キビ〳〵した失敬な奴もあつたもの。

明治44519日 都新聞

❍[広告]五月十八日より全部取替 浅草公園帝国館 電話下谷二〇二二/最近の大魔術 雲の峯外奇術魔術数種 天勝嬢、天洋、一光、百合子、花子、園子、露子。活動写真(演目省略)

明治44529日 北陸タイムス

○一週一芸/西洋奇術 松旭斎天勝 浅草公園帝国館

 嘗ては其の師なる松旭斎天一と俱に欧米各地を興行し、尚彼地に於て応用物理的魔術、奇術等を学び得て帰朝し、内地到る所に興行して尠からず好評を博しつつあつたが、去月浅草の帝国館の落成と共に自から一座を組織して、現に同館に於て奇術界の新レコードを演じて居る。

東西観客の嗜好 同じ興行中の奇術でも客受けの好いのと然(そう)でないのと有ります。又西洋と日本とでは大層お客の好き〳〵がありまして、其の嗜好が異つて居ります。日本のお客は概して機械物を好まれますが、西洋人は滑稽物を大層喜ぶので厶います。特(ひと)り奇術魔術に限らず、芝居に致しましても大抵は喜劇を喜んで観るのです。全体西洋の観客は全然無邪気な小兒の様ですから、兎角滑稽物を歓迎いたします。日本で『アンナ子供だましの様な事』など申します奇術が、却つて西洋では大層受けるので厶います。日本では奇術の興行場に構はず子供を入場(いれ)ますけれど、西洋では決して小兒の入場を許しませんのです。ですから日本の様に場内が噪(さわ)がしい事がなく実に規律正しく、チヤンと時間通りに開場いたしまして、総てが高尚で紳士的であります。而して演芸の時間も日本のやうに斯んなに酷く演ずることは厶いません。大抵は一日に二十分間ぐらいなものですが、日本ではなか〳〵然(そ)んな事では善(い)けないので、現に此の帝国館では一人が大抵一回四十分間位づつ演じて、其れを一日に(昼夜かけて)五回演ずるといふ大勉強なのです。現に演じて居ります奇術中には西洋で研究したものもありますが大抵は日本(こちら)で工夫し考案したものが多いのです。只今演じて居ります奇術中では「不思議のトランク」といふのが一番歓迎されて居ります。此のトランクの奇術は日本人ばかりでなく外国人なども大喝采でして、現に昨日なども外国人が観に来て大層不思議がり、自身に舞台へ来て、自らトランクを縛るといふ様な騒ぎなんです。私しも各地で興行いたしましたけれど、此の帝国館ほど長時間を演ずるやうな勉強した事は是れまで厶いません。尤も這度(こんど)は自分が師匠(天一)と分離して新たに一座を組織いたしましたのですから充分勉強いたすは最初よりの覚悟ですから何分とも此上御愛顧を願ひます。

明治4461日 都新聞

❍[広告]六月一日より全部取替 浅草公園帝国館 電話下谷二〇二二/奇術界のレコードを破りたる演芸ウオンダーフルキヤビネツト 大魔術はコミク式に演じ可申候/松旭斎天勝嬢、百合子、花子、露子、保一、楽天、天洋、一光、光勢、青松外一座。活動写真(演目省略)。

国立 天勝16
         チラシ 『見世物資料図録』100頁より

明治44615日 都新聞

❍[広告]六月十五日より全部取替 浅草公園帝国館 電話下谷二〇二二/演芸 コミツク式鏡隠れの大魔術 松旭斎天勝嬢、百合子、保一、楽天、天洋、一光、其他一座。活動写真(演目省略)

明治44622日 東京日日新聞

○天勝嬢の種切れ 帝国館の出場は今月限り

 天一と手を切つて浅草公園の帝国館へ立籠つた天勝は、思ひ切て若返つて、芝居めいた衣裳や道具に見物を嚇かして相当の入を占めてゐたが、今月一杯で同館の出演を謝絶することになつた。同館でも此の呼物に行かれては大変と非常な引留運動をして、給金の点なら出来得るだけハヅむとまで下手に出たが、天勝却々(なかなか)初一念を翻へさないので、是は益(ため)になる筋を拵らへて、最(も)う可(い)い加減に『こゝへ持出しましたは……』の足を洗ふのだらうとの噂であつたが、実際は然(さ)に非ず。

  一体、天一一座の西洋技術は養子の天二が握つてゐるので、洋行中苦心して奇術の楽屋へ化け込んで種を仕入れたのは天二だ。座頭の天一は水芸など演つてお茶を濁ごし、天勝は縹緻(きりょう)で売つてゐるまでの事で、西洋奇術は九種しか知らないのを、今まで帝国館で取ッ替へ引ッ替へ演じて見物を釣つてゐたが、然(そ)う〳〵は胡麻化しが利かず、今月は愈々種切れとなつたので、旗を捲いて引上るのだと。聞いて見ればまことに気の毒と同情してやらずはなるまいか。
               ※          ※          ※

〈編者註〉帝国館は活動写真館として四月三十日浅草に開館の予定であったが、四月二十九日午後四時五十分頃、浅草ルナパークにて火災が発生し、木馬館、台湾館及び新築した帝国館だけ残し、売店、屋上庭園、滑稽活動館、汽車活動館、演芸館等悉く焼失した。これによりこけら落しの予定を遅らせ、五月三日よりの開館となった。そして活動写真の幕間の余興として組まれたものだが天勝一座である。

帝国館との契約は出演料一か月三千円(一日百円)、活動写真の幕間に平日は三回、日曜祭日は四回出演し、演目は十五日間で変更するという契約であったという。旗揚げ興行としてはいささか不本意な幕間の余興、しかも浅草という当時としては二流の場所で始まったのだが、日を追うごとに好評を得、結局二か月近いロングランとなり、大成功を収めた。  

一座の写真が松旭斎天洋『奇術と私』(173頁)に出ている(上掲)。同書キャプションには向かって右より天洋、徳子、百合子、一光、天勝、西村楽天、天花、テレジャー宝一とある。テレジャー宝一は明治40年~41年にかけて活躍した奇術師である(「見世物興行年表」参照)。百合子は宝一の妻。この時には一座を解散していたが、経緯は不明ながら天勝一座旗揚げに参加した。新聞には「保一」と出ている。『奇術と私』によると宝一は入座と同時に本名の渡辺を名乗り、後見長として終わったとある。推測だが、宝一の本名が渡辺保一だったのかもしれない。

ついでながら、初日に木村荘八が帝国館へ行っている。近年刊行された『木村荘八日記』に「荘十三と帝国館へ行く、天勝は中々旨い物だ」(五月三日)とある。また「あとで帝国館へ行つて来る、魔術は面白い物だ」(五月二十八日)、「帰宅すると金君が居た、活動へ行かぬかと云ふ、少し製作慾があつたのだがまさかさう何度も断れず、夫に頭が休ならないから帝国館へ行く事にする、あの観客席の感じは好い、一つ描いて見やうと思ふ」(六月九日)とある。



◇横浜賑町喜楽座71日~710日)

明治44627日 東京日日新聞

❍天勝の横浜 七月一日初日十日間、毎夜六時より横浜の喜楽座にて、松旭斎天勝を始め一座の大奇術を開演す。

明治44711日 東京日日新聞

❍天勝一座 松旭斎天勝一座は十一日出発。大阪角座へ乗込む。



◇大阪道頓堀角座
714日~723日)

明治44716日 大阪朝日新聞

❍角座の松旭斎一座は花の様に美しい天勝が新に座長とあるので、暑いにも滅気(めげ)ず初日から相応に客足を引いた。奇術の数に変化の無いのは欠点だが、呼物は何といつても天勝の箱抜けで、殊に最後に遣つた一人の婦人を袋に入れ、更にトランクに押込んでカーテンを卸すと同時に嚢中の女は天勝と代つて居る術は中々鮮かであつた。その他百合子とか露子とか涼しさうな名前の女が立ち替り入れ替り、飛んだり跳ねたりするので大受けはよいが、余興にとて出した天勝のダンスは西洋の阿呆陀羅経宜しくで、聊かプンと来た。それから奇術ではないが一光の足芸の傘廻しは正真正銘の胡麻化し無しの放れ業であつた。



◇京都歌舞伎座
725日~86日)

明治44721日 大阪朝日新聞京都付録

❍二十五日から歌舞伎座に開演の天勝は天一が退隠したので天勝が率いる一団で、国子、露子、百合子、花子抔いふ美人と一光其他のお馴染が付き従ふ。

明治44724日 大阪朝日新聞京都付録

❍天勝の一行は二十四日夕大阪から乗込んで、二十五日からいよ〳〵歌舞伎座に出演するが、これが日本の暫しのお名残りで、十日間を打上げると直ぐ朝鮮から支那へ入り、上海、香港と廻つて欧米巡業に出る筈であるさうな。

明治44727日 大阪朝日新聞京都付録

❍歌舞伎座の天勝は二十五日から始めたが、天一を髣髴せしめる奇術の数々、美しい丈けに愛嬌もあつて、人気がよいとお手前の口上である。

明治44728日 大阪朝日新聞京都付録

○歌舞伎座の天勝 

▲歌舞伎座の天勝は二十五日から天一になり代つた座長様で不思議な所と美しい所をお眼にかけてゐる。暑中ながらも美人の力は恐ろしいもので、近来の劇場にない大景気とは、イヤ神代神楽の初めからあな恐ろしや〳〵。

▲第五の夢中の変幻とやらからそろ〳〵本芸になつて、この前の「ワンダーキャビネット」をコメデーで見せる鬼神の芸当、それにも越して驚かされるは、「雲の峰」の空中早抜けの後の懸賞もの「不思議のトランク」で、顔をカーテンから引いたと思ふと天勝はトランクの中の袋入となつた百合子と早変りの素早さ、一二三(ワンツースリー)の懸声で姿は消えて了ふから実に不思議である。

▲美しい人が早いことに看客を驚かして膽を寒からしめるのだから、暑さの砌にも客は来る。夏向長口上は省き、手をかへ品をかへ、手奇麗な所をサラ〳〵とやるだけやつて了ふのは気持がよい。道化に名人のないのがこの一座の物足らぬ所であるが、少女の可憐と一光の曲芸が眼新らしいので補うて行く。アッと驚かされるばかりで評は忘れて了うたが、兎も角、も一度繰返すが、美しい綺麗なことである。

明治4483日 大阪朝日新聞京都付録

❍歌舞伎座の天勝一座は非常の大入といふので六日まで日延べをする。



◇朝鮮京城寿座
820日~)

明治44815日 朝鮮新聞       

❍目下釜山興行中の松旭斎天勝は此の月末頃仁川に来る。

明治44818日 朝鮮新聞       

❍天勝一座 松旭斎天勝女一座は今十八日午後八時十分南大門着列車にて入京の筈なるが、興行主坂本方にては若い者座方一同を出迎ひに出し、一行数十台の腕車にて乗込む由なるが、寿座の初日は来る二十日なりと。

明治44820日 朝鮮新聞

❍寿座 松旭斎天一の娘天勝女一座三十二名の奇術一座は既報の如く愈々釜山を打ち上げ、一昨夜京城に乗り込みたるが、勧進元にては数十流の幟を押し立て、楽隊を先登に数十台の腕車を列ね、近来珍らしく賑々しき乗り込みをなし、今晩より寿座に於いて開演の筈なり。

明治44822日 朝鮮新聞

❍京城寿座 松旭斎天勝一座は一昨日花々敷く町廻りを行ひ、午後六時より三発の煙花を合図に初日を開演したるが、初渡鮮のことゝて非常の大入。尚ほ今晩も例の大奇術にて開演。

明治44822日 朝鮮新聞

○天勝の噂 目下京城の閑人間には一昨晩から寿座に現はれた松旭斎天勝の年齢が問題になつてる。老けてると云ふ者もあれば、否若いと云ふ者もある。开(そ)が中に天勝が天一々座の花形として嬌名を謳はれたのは実に十数年来のことである、彼れの奇術界に身を投じた最初が女盛りの二十歳前後とする(と)も早や三十七八歳であらうと云ふのが多数を制して居るやうだ。可哀層にマア、明治十九年生れの今年取てタツタ二十六歳ですのにとは天勝と東京以来の知合(しりあい)なる当地某妓が同情の声。何は兎もあれ、あの艶麗なる容色では花の色は移りにけりなの嘆を発する、尚ほ前途遼遠なりと云ふべしだ。

某妓又曰く、天勝さんのやうにお行儀の良い方は珍らしいことよ。妾(わたし)等にしろ、女芸人なんて云ふ者は出る所へ出たときと内に引込んでるときとは蜻蛉と螻ほど違ふものですが、あの方ばかりは裏表なしの両面で何時もキチンと身だしなみが良いことよ。マア女芸人の模範とでも云ふのでせうと、這般(しゃはん)の消息は知る人ぞ知るだが、其處が天勝嬢の今日まで人気を失墜せざる所以でがなあろう。

明治44823日 朝鮮新聞       

❍京城寿座 世界的大魔術松旭斎天勝一座は初日開演以来非常の好人気にて連夜大入と云ふ有様なるが、日毎に演技番組を換ふるを以て観客は大喜び。

明治44825日 朝鮮新聞       

❍寿座 松旭斎天勝一座の世界的大魔術は朝鮮人側にも評判好く、連夜一二等以下の入場券売切と云ふ有様なり。

明治44826日 朝鮮新聞       

❍寿座 松旭斎天勝一座の奇術は初日以来札止めの大好評を博し、今晩も賑々しく開演。



◇朝鮮仁川歌舞伎座
92日~)

明治4493日 朝鮮新聞

❍仁川歌舞伎座 京城にて好評を博したる松旭斎天勝一座は昨日花々しく市廻りをなし、同六時半より開場したるが、目先の変り居る事とて非常の大入なりしと。


◇李太王、天勝の奇術を御観覧
98日)

明治4497日 朝鮮新聞

○李太王と奇術 明八日天勝の奇術御観覧 李太王殿下には松旭斎天勝一座の奇術御観覧の旨御所望あり。仍つて同一行は大連行を一日繰延べ、八日徳寿宮にて殿下の御観覧に供し、九日仁川出帆の酒田丸にて大連へ乗込む筈なりといふ。

明治4498日 朝鮮新聞 

○徳寿宮賀宴

今八日は恰も徳寿宮李太王殿下の大旬(六十歳)の御誕辰日に相当するを以て徳寿宮に於て六旬の祝を挙行さるゝ事となり、一両日前夫れ〴〵招待状を発したるが、今本日の次第を聞くに、李王同妃両殿下には午前九時徳寿宮に御成り、李太王殿下御対顔の上祝詞を述べられ、同十一時李太王、李王の両殿下には石造殿に出でさせられ、朝鮮各貴族、前韓国大官及一般耆老者等を引見され、代表者の祝辞を受け、終りて三鞭の酒及茶菓の饗あり。更らに同十一時四十分□(じゅん)徳殿に於て両殿下御臨席、李喜、李岡の両殿下、各貴族、閔長官、小宮次官、前大官及李王職各高等官並に耆老者百三十名参列、午饗会を開き、右終つて同宮殿に於て李王妃殿下御臨席の上、李喜、李岡妃同殿下、李王職、各高等官夫人並に前大官夫人百十名に対し朝鮮料理の饗あり。一面外賓百三十名に対し銀製酒盃を、内賓百十名には緞子製の李花を、李王職判任官以下には酒餞料を賜ひ、同六時より中和殿に於て天勝奇術観覧会の御催しあり。終つて随意退散する筈なり。因に総督府よりは国分人事局長、府員を代表して徳寿宮に参賀す。



◇満州大連歌舞伎座
912日~922日)

明治44831日 満州日日新聞

❍世界的大魔術と銘を打つた松旭斎天勝一座はいよ〳〵当地に於て興行する事になりしが、最初恵比須座にて興行の筈なりしも、熱海一座が三日迄の期限なるに差し支へる為めか、歌舞伎座にも交渉中にて、未だ其何れとも決定せずとの事なるも、何れにせよ一日には初日を出すならんか。一行は花子、保一、天洋、百合子、楽天、園子等にして、印度土産変幻術、欧米式曲芸、驚異的大魔術等五十余種類にして、余興には天勝のスパニシダンスあるべしと云へば、近頃の見物(みもの)なるべし。

明治4491日 満州日日新聞

❍歌舞伎座は天勝 恵比寿座に於て興行すべかりし天勝一座は歌舞伎座に於て興行する事に決定したるやにて、其初日は六日か七日なるべく、天勝の乗り込みは三四日の内ならん。

明治4492 満州日日新聞

❍興行師の提携 睨み合つて損ばかりし、お客を馬鹿にするを本職と考え居たる大連の興行師も、お互ひの角突合ひはつまらないと眼が覚めたか、今度天勝一座の先乗坂本某及び熱海一行の太夫元山田重助等が尽力の結果、恵比須座の寺田が歌舞伎座の平川及び松公園の三浦、互ひに提携して競争を避け、見物の気に入るやうにする由。早晩さうなくては見物の方が迷惑、つまらない事に意地を持たぬやう旨いことやつて貰ひたし。

明治4497 満州日日新聞

天勝 009

❍天勝一座乗込 朝鮮に於て李王殿下御台覧の為め予定に後れたる同一座は、愈々六日午後二時仁川出帆の便船にて一行三十八名七日乗込みの予定なるが、乗込みと同時、歌舞伎座前にては三発の煙花を打ち上げて景気を添ふる由。而して八日は一日休養、九日初日を出すべく、開場時間は午後六時三十分にして、七日間興行の筈なるが、毎日開場時間には三発の煙花を打ち上げるといふ。(写真は七日乗込むべき松旭斎天勝一座)

明治4498日 満州日日新聞

❍天勝一座 七日京城より乗込の筈なりしも、八日李王殿下其他の御台覧ある為め出発延期となり、九日仁川発の酒田丸にて来連すべし。

明治44911日 満州日日新聞

❍天勝一座乗込み 天勝一座は十日午後七時頃仁川より入港の鷹取丸にて着連、歌舞伎座関係者其他の出迎を受け、花々敷く乗込を為し、遼東ホテルに宿泊したり。開場は未定なるも多分十二日頃なるべし。

明治44912日 満州日日新聞

○乗り込める天勝一座 九日乗り込む筈なりし天勝一座は、李王殿下の御台覧後、急に李太王殿下にも召されたる為め漸く十一日の乗り込みとなりしが、同一行は予ねて後藤男爵より満韓巡業を勧められ居りしも、都合上其機会に接せざりし處、本年京都に於て興業中、在北京岡田博士及び静岡県知事松井博士より荐(しきり)に満韓巡業を勧められ、しかも巡業中朝鮮人及び支那人等の眼に其奇術がいかに映ずるやを緻密に観察して報告せよとの注文をも受けたる為め、いよ〳〵巡業の意を決したる次第なれば、単に営利上の巡業とは趣を異にし居れりとの事にして、初日は十二日と決定、開場は六時三十分として七時三十分開演、一時間半幕無しにて演じ、五分の休憩後更らに一時間幕無しにて演じ、再び五分の休憩後四十分間演じて閉場する予定にて、奇術は四十六種づゝを演ずるべしと。

明治44913日 満州日日新聞

❍歌舞伎座 十二日初日を出したる天勝一座は八時と云ふに既に満員の盛況なりしが、二日目も午後六時三十分打ち上げる三発の煙花に依つて開演、大魔術大奇術取交ぜて、四十数種を演ずべく、斯界の花と謳はるゝ天勝嬢を始め花子、百合子等の花の如き艶麗と、一光、天洋等の軽妙なる奇術とは如何に満市の人気を吸収するならんか。殊に最終の懸賞附不思議のトランクは怪中の怪と云ふべきか。

明治44914日 満州日日新聞

○天勝一座の奇術 打ち上げる三発の煙花と共に木戸を開けば、待ち兼ねたる入場者潮の如く流れ込み、八時には既に九分通りの大入りなりしが、奇術は「不思議のトランク」最も鮮かにして、其名の割合に呆気なきは「驚神的大魔術」、能書き少なき割合に面白きは「魔神の函」なりしも、何れとして鮮かならざるはなかりし。一光の曲芸又頗る巧みにして、足にて傘の扱ひ尤もよく、ボールの扱ひ、輪の背進等何れも旧(ふる)からず。一光、保一の滑稽大に感心して笑はせたり。其他天洋の「変幻術」、天勝の「夢中変幻」「二重函」「少女の打消」等其開演時間の短き変りとして幕なしなれば、殆んど応接に遑もあらず、殊によくある奴の長口上や前置などの更になきは観客の気に入るべし。尚ほ其背景及び道具など申分なく金がかゝつて見ゆ。

明治44914日 満州日日新聞

❍天勝一座の日延 非常の好景気なる天勝一座は最初七日間の興行として更に日延べせざる筈なりしが、観客の希望に依り三日間の日延を為すことゝなりたり。

明治44920日 満州日日新聞

❍天勝又々日延 演芸の斬新奇抜なると舞台面の花やかなる為め満市の人気を集め開演以来日増し満員の盛況にして、殊に各方面の団体申込引も切らざるより改めて三日間日延べをなす事に決定したるが、雨天にても休場せず開演すべし。

明治44922日 満州日日新聞

❍天勝一座 三日間日延をなし、二十一日にて閉場の筈なりしも、観客の希望に副ふ為め尚一日日延べをなし、二十二日も例の通り晴雨に拘はらず開演し、同日限りにて愈々千秋楽を告る由。

明治44923日 満州日日新聞

❍天勝の打ち上げ 盛況の為め日延べを重ねたる天勝一座はいよ〳〵二十二日にて打ち上げたるが、旅順乗り込みは二十五日にして、其間大連に滞在中、電気遊園演芸場の為めに其奇術数番を活動写真に撮影せしむべしとか。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………

〈編者註〉以下は「満州日日新聞」913日~920日に掲載された天勝舞台写真である。上から順に松旭斎天勝の奇術(13日)、天勝の奇術『雲の峰』(14日)、帽子の曲芸・松旭斎一光(15日)、天勝一座天洋の印度土産『変幻術』(16日)、松旭斎天勝の『魔神の函』(17日)、男女変幻ダブルボックス・天勝の奇術(18日)、天勝の万国風俗ボックス(19日)、輪の背進・松旭斎一光演ず(20日)

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