2022年10月09日
更新履歴(令和4年)
令和4年1月2日(日曜日)
三十年以上も前にある方から一枚のコピーを頂きました。「大船四季の順風」と題した倉田久五郎作のからくりぜんまい細工です。調べたところ、『武江年表』によりこれが天保7年であることが分かり、その項へ図版を入れました。その時「長崎ぜんまい人形大切ニ奉御覧入候」という小さいビラのコピーも頂いていたのですが、関連があるのかどうか分からないまま年代不明のファイルに閉じておきました。
昨年の暮も押し詰まった頃、幸運にも「大船四季の順風」のビラを手に入れました。これだけでも喜びでしたが、なんとこのビラに「長崎ぜんまい人形大切ニ奉御覧入候」という小さいビラが貼りつけてあったのです。これには吃驚でした。これによってこの小さいビラが同興行のものであり、かつこの興行の表看板が長崎の雪遊びで、大切が長崎ぜんまい人形であることがはっきりしました。早速ブログに上げましたのでご覧ください。長年何んだが分からなくて不明のままだったものに突然光が差し込んだ瞬間でした。
このブログも十一年目に入ります。お陰様でPVが300,000を突破しました。ご覧いただいた方々にこの場をかりて心からお礼申し上げます。今年も「上方落語史料集成」の方の作業(上方落語家事典)に時間を取られそうで「見世物」の方がお留守になりそうです。でも時々は更新するつもりなので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
令和4年2月4日(金曜日)
新聞で編集のボランティア募集の記事を読み、木津川計氏が刊行されていた雑誌『上方芸能』の編集部を京町堀に訪ねたのは昭和48年(1973)の春でした。スタッフの一員に加えてもらってすぐの7月16日、三代目帰天斎正一師が亡くなられました。マスコミにはほとんど報道されませんでした。そこで編集長よりお悔やみ兼取材に行くように言われました。その頃の私は正一師が手品師であることすら知りませんでした。正一師のお住まいが旧猪飼野で、私の帰り道だったからとしか考えられません。ともかく近鉄奈良線の鶴橋で下りて、お供えを持ってご自宅をお訪ねしました。正一師の息子さんで後見をしておられた正楽さん、お弟子さんの正若さんが迎えてくださいました。その時伺ったいろいろのお話を短くまとめて『上方芸能』31号(1973年9月)の「白牡丹図」に写真を添えて載せてもらいました。
それから七年たった昭和55年(1980)に白水社が刊行していた『芸双書』の第四巻「めくらます 手品の世界」に「上方の和妻」と題して何か書けるかという打診が木津川氏よりありました。あれ以来少し勉強もしたので、正一師のことなら何とか書けますとお答えし、有難くお受けしました。執筆に取りかかるにあたり、あの時名刺を頂いていた帰天斎正若(本名須原勝利)さんにお電話し、羽曳野のご自宅まで押しかけてさらに詳しくお話を伺い、女夫引出しや比翼の竹の実演まで見せて頂きました。帰り際、お茶を頂いていたときだったと思いますが、山本慶一さんの話になり、これはうる覚えで間違っているかもしれませんが、正若さんが「山本さんは中学の時の先生で、私が手品に興味をもったのも先生の影響です」と言われたように思います。そして「もしよかったら一度お会いになりませんか、紹介しますよ」とおっしゃってくださいましたので、あつかましくも紹介状を頂いて帰りました。そして昭和55年7月7日の七夕の日に倉敷市下津井吹上のご自宅をお訪ねしました。今回「上方の和妻」で帰天斎正一師のことを書かせていただくことになったことをお伝えし、手品の内容を紹介する時の心得などを教えていただきました。そのあと、怪談噺に使う龕燈の実物やのぞきからくりの資料などを拝見しました。のぞきからくりは子供の時から夏祭りの縁日などでよく見て、「三府の一の東京で…」のホトトギスは今も覚えていますとお話ししたところ、「よかったらお土産にどうぞ」と昭和48年にお作りになった『のぞきからくり』(私刊300部)の小冊子を下さいました。いまも大切に書架にしまっています。
昭和56年(1981)6月に本(『芸双書』第四巻)が発行されました。その最後に山本さんの「手品からくり年表」が掲載されています。この原型は昭和29年8月8日に刊行された『てづまからくり年表』です。謄写版(ガリ版)摺り、40頁、100
部限定のものです。図版も手書きで忠実に再現されており、なんとも滋味に富んだものです。最近古書店よりこれを入手し、資料というより記念品として懐かく繰り返し眺めています。
令和4年10月9日(日曜日)
川添裕氏が『江戸にラクダがやって来た 日本人と異国・自国の形象』(岩波書店)を刊行されました。
文政4年(1821)7月、オランダ船に乗って雌雄二頭のラクダが長崎にやって来ました。それから天保4年(1833)に行方不明になるまでの13年間の軌跡をたどり、異国の珍獣ラクダが日本中にいかなる文化現象をひきおこしたかが興味深く描かれていきます。
もともと江戸幕府への献上品としてもたらされたのですが、幕府は吉宗の享保の象で懲りていたのか「無用」と返答をしました。ただ幕府の返答が遅く、二年も長崎に留め置かれました。本書もなかなか前へ進めず、27頁~42頁まで長崎に留まったままでした。結局二頭のラクダは香具師に買われ、見世物として全国を廻ることになります。
最初に向ったのは大阪です。初めて見る異国の珍獣に「えらいこっちゃ」と貴賤ともに詰めかけ、たいへんな騒ぎでした。それは次に行った京都でも同様で、いわゆる文人たちはラクダサロンのようなものをひらき、絵を描き、詩歌を詠んで楽しみました。本書もそのサロンに参加し、楽しみすぎたのか、42頁~76頁までそこにいました。
名古屋に行くと見せかけて中山道を通り、一路江戸へ向いました。江戸に着き、西両国広小路で見世物となったのは文政7年閏8月です。当時文化の中心であった江戸でのラクダブームは京、大阪をはるかに凌ぐもので、文政8年春まで約六か月間続き、見世物史上空前のロングランを記録しました。浮世絵が出る、本が出版されるのえらい騒ぎで、それらはもちろん本書でも「ラクダ現象」として65頁(76頁~140頁)にわたって詳細に描かれています。あまりに熱心なため、ときにラクダの姿が消えてなくなるほどです。
ようやく江戸を離れた二頭のラクダは地方巡業に出かけます。現在の栃木県大田原、茨城県水街道、東京都八王子で興行したのち、石川県金沢、福井県鯖江を廻り、尾張一宮より名古屋大須に入りました。ときに文政9年11月10日のことです(146頁)。
名古屋では『見世物雑志』の小寺玉晁と『猿猴庵日記』の高力猿猴庵の二人が首を長くして待ち構えていました。本書でも詳述されていますが、この二人は私たちに素晴らしい記録を残してくれました。特に猿猴庵の『絵本駱駝具誌』は数あるラクダの本の中でも傑作中の傑作です。近年名古屋市博物館から「猿猴庵の本」の一冊として原本どおりに翻刻され、簡単に見る事ができるようになり、当ブログでも大いに活用させてもらいました。
名古屋を出て岡崎、挙母と廻り、年があけた文政10年1月に津島で興行したあと、1月9日から再び名古屋大須で興行しましたが、さすがにこれは不入りだったようです。それは5月に大阪で興行したときも同様で、二度目は駄目だと思い知りました。そこでまだ足を踏み入れていない地を目指すことになります。
ではどこへいったのか。実はここからが本書の本領発揮で、コロナ禍をものともせず現地に足を運び、いままでほとんど知られていなかった徳島県慈仙寺、広島県本覚寺、山口県岩国白山神社、鳥取県天神渡、岡山県津山徳守神社等で興行した事実が次々と明かになっていきます(155頁~167頁)。これは実にうれしい発見で、さすが見世物探偵を自称されるだけのことはあります。
このあと一頭が斃れ、その五年後に残りの一頭も行方不明になり、江戸の人びとに深い感銘を残したラクダ見世物も終焉を迎えます。そして本書もまた読者に深い感銘を残して175頁にわたるラクダの「日本人と異国・自国の形象」の旅は終わりを告げます。とてもすばらしい内容で、感服のほかはありません。ただ著者がいまだにラクダに憑りつかれたままなのではないかとちょっと心配しています。