明治24年

2014年06月27日

明治24年(1891年)一

○一月一日より三日間、東京浅草凌雲閣にて、景物に数百の軽気球を揚げる。(読売新聞15

 「凌雲閣にては一日より三日間、十一階に於て登閣者の余興として数百の軽気球に電話券、登閣券等を付けて揚げしかば、孰れも風のまに〳〵遠く飛行き、実に奇観と愉快を極めし由なるが、昨日迄に其券札を拾ひ得て、同閣事務所に申出し者は僅に本所区請地村より持来りし登閣券一枚のみにて、其他は大概拾ひ取る時奪ひ合て引裂きしものならんといふ」

○一月一日より、東京日本橋の友楽館にて新年演芸。円朝ら出席。夜、松旭斎天一も出席。

(時事新報・明治231231/読売新聞・明治231231

 「明一月一日午後六時より毎夜日本橋区蠣殻町二丁目有楽館に於て松旭斎天一が得意の新奇術を興行するよし」(時事)

 「天一の手品 同丈は来る一月一日の夜より、しんばの小安の周旋に依り、日本橋区蠣売町三丁目友楽館に於て毎日午后六時より古今未曾有の新奇術を興行する由にて、上等は三十銭、中等は廿銭、下等は十銭の安直なりと云ふ」(読売)

〈編者註〉道楽道人なる人が、昨日四日の昼に入り、桃林、円遊、播磨太夫、円朝を聞き、帰天斎正一の手品は見ずに帰ったとある。「夜に入れば松旭斎天一得意の奇術を行ふよし」とあって、天一は夜のみに出ていたようだ。因みに円朝の噺を聞いた道楽道人なる人は、他の多くの証言者と同じく、「円朝の情話、佳境に入るに及で眼前に円朝あるを怠れたり、友楽館あるを怠れたり。眸底に在るは情話中の人、耳底に在るは情話中の声、是れも青年が二三十年を費て練磨せずは容易に到り難き妙境なるべし」と絶賛している(「郵便報知新聞15)。

○一月一日より、大阪千日前の見世物。(大阪毎日新聞・大阪朝日新聞より)

電気仕掛の人形(奥田席)/器械人形(吉田席)/油絵(木村席)/大象、虎、駱駝(石田席)/重尾一座のヘラ〳〵踊り(石田席)/常盤作の万国名所(眺望閣)。

〈編者註〉一月十九日付「大阪毎日新聞」が千日前の近況を伝えている。

「昨今の千日前 此両三日前よりは就中て厳しき寒気に、千日前を彷徨と遊歩する人もなく、寂々として砂埃りのみ立騒ぎ、両側の各席では客を呼込む木戸番の男の声は枯野のきりぎりす、米搗虫(ばった)の様になつて勉強しても、無い客には詮方なく、十二軒の観物小屋も七、八軒は閉場する程の不景気にて、近年に珍らしき一月の景況なり。併し其中でも、去る十五日までに大入を占めたる寄席は、奥田席のマサツ伝機、吉田席の機械(からくり)人形、木村席の油画等にて、何れも三万前後の客数なりしと云ふ」

○一月一日より、京都新京極阪井座にて、五大洲演芸会。興行人奥田徳次郎。

(日出新聞 23121611/大阪毎日新聞 231224/)

「西洋人の落語手品 京都寺町三条下る奥田徳二郎と云へるが興行人となり、来る二十日頃より洛東祇園館に於て英国人ハーケツト、米国人ピヤース、ジヨージ、シーバン、印度人マーブルの五人を雇入れ、落語手品足踊りの興行をなすよしにて、芸人一同の雇入免状は孰れも去る十二日より来る二十四年三月三十一日までの期限にて、已に昨日外務省より下付されたるよし」(日出)

「外国人の落語家 交り合まして御機嫌を伺ひます。エー近来は力士でも俳優でも手品師でも追々外国から舶来してまゐりました。何でも赤髯でないと夜が明ない事になりました。是までの落語の様に喜六や鎌田屋の御隠居を使つて計りも居られなくなりましたので、千日前の奥田徳次郎が明年一月一日から京都の新京極阪井座で興行を企てまする外国人の落語家の通名は、亜米利加合衆国人シーバン、同国人ピーヤス、同ジヨージ、印度人マリブルの四名で御座いまして、日本語を研究して手品の傍ら落し噺しを演じるさうでございます」(毎日)

五大洲 001

「【広告】五大洲演芸会 五大洲演芸会ハ世界各国ノ人種集合シテ本国ノ長所ヲ挙ゲテ誇リ其技即チ芝居手踊リ落語等紅粉ヲ塗リ仮髪ヲ着ケ日本語ヲ以テ演ジ各自腕クラベヲスル者ナレバ実ニ古来未曾有進化的今日ニ大稗益ヲ与ヘ其妙味アル事ハ今云ハズ早ク来レ〳〵(後略)

〈編者註〉このあと英国人ハーケツトが笑福亭で落語を演じたらしい。「新京極通り六角下る笑福亭に於て昨夜より英国人ハーケツトなる者が英語にて自国の落語を興行し、雇主奥田弁次郎氏(編者註:徳次郎の誤記)が通弁をなし居る由」(京都日報120)。奥田徳次郎(二代目弁次郎)は千日前の興行師奥田弁次郎の実子。父弁次郎は幼少から徳次郎に英語を習わせている。

○一月一日より、名古屋五明座にて、山本小長一座の玉乗軽業。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○一月二日、松島卯之助の象(芸名キー・十六歳)が死亡。

(大阪毎日新聞・明治23122418/大阪朝日新聞118/東京朝日新聞114

「象のお目見得 一月早々千日前石田席で観物にする大象は来る廿八日お目見得のため市中の繁花の町を連れ歩くよしなるが、其日は象どのも背には楼閣を負ひ其上で唐子姿で囃子をして練歩くといへば、其道筋は大象(たいそう)な賑はひならん」(大阪毎日・明治231224

「代はりの象 南地千日前の石田席へ乗り込む筈の大象は去冬出稼ぎ中、江州横田川の橋上より墜落して死亡せしも、石田席では其象の看板を上げ、虎と駱駝を観せ物にし、象は痛所ありて未だ着仕(つきつかまつ)らずと度々其申訳けすれど、見物人は承知せず、遂には看板と観せ物とが違ふと云ふ評判が立ち、入りも少くなるに付き、之ではならぬと席主も狼狽し、先年同所の木村席へ小人島と共に来りし象の、当時広島にて興行中なるを幸ひ、コレ屈竟の代はりの象と、直に電報を掛けて来阪の約束をなしたる由なれば、多分初天神迄には来阪するなるべし」(大阪毎日18

「死象の見世物 千日前の興行人吉田卯之助、先年一頭の象を買求めしより、此処彼処(ここかしこ)に興行して莫大の利益を得、さきに立派な小屋を新築して、居宅をも普請せしは皆象のお蔭ゆえ、今度東京より象が戻つたら、最早他国出稼をさせず、生涯飼殺にして恩を報ぜんと、象小家の計画までして待居たるに、象は東京より戻道、江州地方まで来て突然彳みて動かず、例の如く足に鳶口を打込みて歩行させんとすれども動かばこそ、又も鳶口を打込みしに、象は憤然として路傍なる搗米屋の軒柱を鼻にぐる〳〵と巻きて引抜きしに、恐れて近寄るものなし。其暇に店の白米を食ひしに、扨は空腹に堪へざりしが故なるべしと察せられしかば、其損害を弁償して、同国甲賀郡三雲駅の横田川まで戻りしが、大象の目方は二千五百貫もあれば、船や橋では渡されずと川中に引込みしに、鳶口の傷痛みてや、渡り兼ねて流れんとするを、又も面や背中に鳶口を打込みて引摺りしに、遂に絶命したれば、詮方なく解剖して、皮と骨とを携へ帰りしを見て、卯之助の嘆一方ならず、其が紀念のために骨を組立て、皮を張りて元の姿となし、縦覧せしむると云ふ」(大阪朝日)

「太夫キーの死去 大阪の興行師吉田卯之助が一昨年浅草公園の弁天山へ連れて来た大象キーは、先月の末神奈川県下八王子町に於て興行し、夫より一月は大阪へ行く筈にて既に千日前へ六千円もかけた小家掛けをなし、待設けし甲斐もなく、太夫のキーは旧臘二十七日、東海道溝の口の大川横田川の假橋を渡る際、中央から橋を踏折つて大川へ落ち、橋杭で足を挫き、大層な怪我をした為め、三十一日まで川住居(ずまい)、漸(やつ)と大阪から人足が百名も出張し、巻上げる事は巻上げたが、疵所の痛劇(はげ)しくてとう〳〵太夫は去る二日、十六歳を一期とし、哀はれ果敢なく死去したるを、大阪のある者が聞き、キーの死骸を千円で買受けんと申込みしを、太夫元は承知せず、多年我々の為めに幾万の金を儲け呉れし大事の太夫、死後に至る迄金にするは忍難しとて断り、同地にて假埋葬を行ひ置き、帰阪の上、花々しく本葬をする由なるが、キーの死去は太夫元に取り七千円程の損失なりと」(東京朝日)

 〈編者註〉同じ朝日新聞ながら、東京と大阪ではかなり違った報道になっている。どちらが正しいかは確かめるすべなく、二つを並べておくことにする。卯之助がこの象で莫大な利益を得たことは確かで、大阪朝日の記事中にある「立派な小屋を新築」とは、明治二十二年十二月に新築した松島八千代座をいう。



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明治24年(1891年)二

○一月八日より二月十日まで、東京木挽町歌舞伎座にて、大切浄瑠璃「風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)」を上演。

(時事新報・明治231223113130/読売新聞22/東京朝日新聞227/『五代目菊五郎自伝』) 

「…大切を風船乗に凌雲閣の浄瑠璃と定めたるよしなるが、菊五郎は兼て此風船乗を演じて喝采を博せんと思立つや、例の凝り性の事とて、スペンサー、ボールドウヰン前後両度の興行とも府下の時は云ふ迄も無く、横浜までも態々見物に出掛け、其打扮(いでたち)より飛揚せしむる振合などを委しく書き取来りたる後は、朝から晩まで唯夢中の様になりて、風船の事にのみ心を凝らし、間がな隙がな小気球を飛ばせて、頻りに工合を研究し居るとの事なれば、開場の上は定めて喝采を博する事なるべし(後略)」(時事・明治231223

「歌舞伎座 (前略)大切上ノ巻即ち風船乗にて、菊五郎のスペンサーは昨年来熱心に心を凝したる事とて、其打扮(いでたち)は申迄なく、斬髪(ざんぱつ)の塩梅、鬚髯(ひげ)の模様、ドウ見てもスペンサー其儘なり。風船の周囲(まわり)を彼方此方(かなたこなた)と見廻りて人足を指図する處より、後向ふより人力車にて帰り来り、桶に登りて英語で演説する矩合(ぐあい)、一としてスペンサーの風を写さゞる無く、善くも斯くまでに扮しも扮したりとて、スペンサーの風船を実見したる人は殊に其苦心の程を思ひ遣りたるならん。又紙人形に扮して奏楽に連れての滑稽踊りも最(い)と面白く、同優は態々築地居留の外国人某に就て習ひたりとの事にて、和洋を折衷したる工風は亦一の見物なりき。幸三の遠見のスペンサーも善く、幸蔵の通弁横垣栄二も中々の骨折り。松助の百姓畑右衛門は師匠が用意する繋ぎに出づるものなるが、一寸ヲカシミありて善し。慾には今少しく他にヲカシミの工風はなき者か。其他世話人と為り、警部巡査と為り、見物人と為りて諸俳優一同顔を出したれば、舞台一層賑かにして、見物人大喜びの模様なりしが、兎に角今度は此一幕が呼物と為りて、軈て大入の札を掛くるに至るならんと云へり」(時事113

「新形風船手拭 日本橋区堀江町二丁目嶋田善兵衛方にては、今度歌舞伎座の狂言を当込みに音羽屋好みの新形風船手拭を同座の運動場にて観客へ販売するよし」(時事130

「尾上菊五郎、歌舞伎座に於て軽気球より落る 尾上菊五郎が歌舞伎座に於風船乗りの演技は近頃稀なる評判にて、内外の看客皆其の真に迫れるを賞賛するよしなるが、数日前、仝優が此の技を演じ、今や節落傘(パラシウト)にすがりて飛び下りんとする時、釣りたる綱のフッツと切れ、三間余なる奈落の底へ落ち入りしかど、幸ひにして些少の怪我さへなければ、何も大に喜び居りたる折(後略)」(読売)

 「福沢先生と相談 同廿三年の冬、風船乗スペンサー氏が来朝して上野博物館の構内で風船に乗つて飛行し途中で飛び居りて其処から上野へ二人挽きの腕車で戻つて演説をした事がある。其処で優は初春興行にそれを真似て見物を驚かせやうと云ふので、福沢先生を訪問して西洋の風船に就いての話を聞き、それから仏蘭西人を招いて仏西の舞台を見せて貰ひ、花柳寿輔又はお囃子の者とも相談して洋楽に三味線の合奏で振りを付けさせ、風船は其道の専門家に製作して貰ひ、優が扮するスペンサーの演説も慶応義塾に関係の深かつた今泉氏が日々新富町の宅へ通つて英語のアクセントを一々教えたので、兎に角初日迄にはスペンサーとしての一場の英語演説をやるだけになつたのも優が熱心の到す處だと今泉氏は賞賛して居られた。六代目菊五郎は此時六歳で丑之助と名乗つて遠見のスペンサーを初舞台で勤めたことがあつた。筆者は此時時事新報社の一小僧で今泉氏のお伴をして新富町の菊五郎宅へも行けば、上野公園博物館構内の広場で風船飛行の場も行つたことがある。」(『五代目菊五郎自伝』)

 「スペンサー氏、服を菊五郎に贈る 一たびスペンサー氏の日本に渡来し、横浜に東京に空中飛行軽気球乗のはなれ技を興行してより、昨今小兒の手遊にまで風船の流行を見るに至り、既に歌舞伎座の一月芝居には菊五郎スペンサーに扮し、軽気球乗の浄瑠璃には大入大当りを占めしが、此の本元正真のスペンサー氏、長崎にありて興行中、東京の俳優尾上菊五郎が自分に扮して軽気球乗の演芸を興行するよしを聞伝へ、此程同地より遙々府下日比谷内東京ホテルの某方へ一書を贈り、自分も斯くまで御地の称賛を辱うし、演劇にまでいたさるゝは此上もなき名誉、欣喜斜ならず、就て失敬ながら自分紀念として、御地上野公園地に於て興行の折着したる粗服一組差出し候間、謝礼の印まで俳優尾上菊五郎丈へ御贈り被下度云々とあり、某より直ちに其の趣きを伝へ、スペンサー氏より贈り来りし服を菊五郎の許へ届けたるに、菊五郎の悦喜(よろこび)一方ならず、早々スペンサー氏へ向けて謝礼の書を出し、幸はひ来月早々横浜にて軽気球乗の芝居をするに付き、ス氏の厚意に対し、右の服を着用せんとて早速試みに着ならし見るに、ゆきもたけも恰好(ちょうど)誂へ向(むき)、こいつは素敵だと同人は反身に成り、コウ見てくんねへと悦んで居るよし」(東京朝日) 

 【絵画資料】

①≪大判錦絵二枚続・国周画・佐々木豊吉板≫(日本芸術文化振興会蔵)

菊五郎②

  (表題)「風船乗評判高閣/風船乗スペンサー・尾上菊五郎」。明治二十四年一月出版。

②≪大判錦絵二枚続・三代国貞画・松井栄吉板≫(日本芸術文化振興会蔵)

菊五郎

  (表題)「歌舞伎座浄瑠璃風船のりスペンサー・尾上菊五郎」。明治二十四年一月出版。

  〈編者註〉上記の日本芸術文化振興会蔵の錦絵(二枚続)はともに「文化デジタルライブラリー」より拝借した。

 
 ③≪大判錦絵三枚続・豊斎画≫(早稲田大学演劇博物館蔵)  
                      

 菊五郎 風船1菊五郎 風船2菊五郎 風船3 
















 一枚目:「風船乗評判高閣」「三遊亭円朝・尾上菊五郎/福富の娘お玉・中村福助」

   二枚目:「清水屋娘おむら・沢村曙山/福富万右衛門・中村芝翫」

   三枚目:「三遊亭梅朝・尾上菊之助/風船乗スペンサー・尾上菊五郎」

   明治二十四年一月出版。

④≪大判錦絵四枚続・周延画・福田熊次郎板≫(早稲田大学演劇博物館蔵)

菊五郎 風船4
菊五郎 風船5
菊五郎 風船6
菊五郎 風船7

      一枚目:「風船宮中登り遠見之処/尾上孝三・五才二ケ月ニ而相勤候」

  二枚目:「歌舞伎座浄瑠璃狂言/上野博物館の場」

 三枚目:「風船乗スペンサー・尾上菊五郎」

 四枚目:文字記載なし。

 明治二十四年一月出版。

  〈編者註〉上掲の錦絵③④は演劇博物館浮世絵閲覧システムより拝借した。



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明治24年(1891年)三

○一月九日、大阪難波の阪堺鉄道停留所前にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○一月十日より、東京四谷荒木町元桐座跡荒木小屋にて、女相撲の見世物。(東京朝日新聞113120

 「旧臘まで本郷真砂町に於て興行した女力士連は、去る十日より四谷荒木町元桐座跡荒木小屋を借受けて興行、其芸等と名前を記せば、目方八十五貫目の釣鐘又は三十二貫目の大臼を頭に受け、舞台を縦横に歩む者は(鈴川浮世)、腹の上に廿三貫目の土俵二つを積み、其の上に大臼を載せ、更に二間の木船を置き、船中にて上乗の力士一人に土俵の曲ざしを遣らせる、此惣目方百八十貫目(鈴木かね)、力士五人をかき抱いて舞台を飛廻る、惣目方九十貫目(奥山事本名橋本よし)、廿八貫の土俵六ツを腹の上に積み、三十二貫目の大臼を載せ、其上にて二人の力士に餅搗をさせるは(妹背山事桜井りん)、廿八貫目の土俵を咬(くは)へて胸まで引上げ、舞台を左右に廻はる、此芸最も喝采多し(遠江灘事神保たけ)、両手両足をついて仰向けになり、其の上に力士三人を載せ、腹櫓大井川々越の曲は(八丈島事梅ケ谷よしゑ)、其外北海道事石山きわ、東海道事手塚くの、日光山事佐藤なゑ、入舟事遠藤みつ、金龍山事須藤のん、皆錦のまわしを飾り、同音に角力甚句を歌ひつゝ踊るさまの可笑しとて、初日より頗る大入」

 〈編者註〉昨年十一月二十七日に警察から相撲興行の中止を命じられ、女力士の力持として興行した。「時事新報」(明治23121)に遠江灘事神保たけの歯力を疑って、土俵を持ち上げようとして恥をかいた外国人のことが載っていたが、同じことを今度は日本の若い衆がやってこれまた恥をかいた記事が「東京朝日新聞」(120)に出ている。

○一月十日より二月八日まで、東京四谷荒木町にて、女子撃剣会。(「東京中新聞」110

「四ツ谷荒木町二十七番地に於て、今十日より二月八日迄三十日間、女子撃剣および女子力量歯試等を興行する旨、其筋へ願出たるに、昨日、許可に相成りし由」

○一月十一日より二十日まで、東京猿若町文楽座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○一月二十四日、福島県新開座にて、大阪の手品師中村吉次郎の手品。(「福嶋新聞」123

「当町新開座にては山形県山形市大字大日町に寄留せる大阪府の手術師中村吉次郎を雇ひ、明二十四日午後三時より同十二時迄、木戸、大人二銭、小人一銭五厘、下足一銭、土間一銭、桟敷一銭四厘の手品を興行する由」

○一月二十五日より一週間、福島県新開座にて、シャックの西洋手品。(「福嶋新聞」122

今度新開座に雇ひ来る手品師はシャックと云ふ者にて、今明日頃来福し、種々準備を整へたる上、向ふ一週間内に興行を始むる由。而して其演題は「各国の七ツ箱」と云ふて箱を中天に釣し、其中へ子供を入れ、見物人をして何番目の箱にあるやと問ふなり。此答の間違はざる者には十円の景物を差出す仕組みなりと云ふ」

○一月三十日より二月二十一日まで、東京四谷荒木町元桐座にて、松旭斎天一の手品
 (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○一月、東京日本橋区浜町久浜亭にて、松井源遊斎・勢舞歌の曲独楽。(東京朝日新聞123

○一月、横浜山手の公会堂(パブリック・ホール)にて、諸芸人博覧会。興行人田村豊。(時事新報129

 「諸芸人博覧会 横浜梅ケ枝町の田村豊といふは、屡々外国え渡り、種々の興行ものに従事し、英語にも通じ居るよしにて、此度同港山手の公会堂に於て種々の芸人を聘し、題号の如き妙なる名義を以て開会したるに、殊の外の大入を来し、又此頃中迄府下に於て一時評判の大女の一行を雇ひ入れ、丸一の太神楽、猫八の物真似抔の一座と混じて興行せしに、一層の客足を引きたりといふ」

○一月、福岡県福岡市博多教楽社にて、ジャグラー操一の手品。(「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○二月十日より十五日間、香川県片原町延寿閣にて、帰天斎正玉一座の西洋手品。(「香川新報」210

「本日より片原町延寿閣にて、帰天斎正玉の西洋手品、竹川寿鶴、寿恵子、小字の、駒治、八重鶴、小ふさ等の踊を興行する由。日限は来る二十三日迄十五日間なりと」

○二月十五日より、大阪南地金比羅神社相撲場跡にて、オールマンの曲馬。(大阪朝日新聞215

「予て風評(うはさ)のありし英国の曲馬師オールマンの一座は、此程当地に着せしが、今十五日より南地金比羅神社相撲場跡にて昼夜二回興行の筈。尤も今度は小馬、犬、猿等の曲使ひの外に、我国の足芸軽業師を雇入れ、目新しき技芸を演ぜしむるよし」

○二月中頃より三月十一日まで、熊本県熊本市内川端町末広座にて、ジャグラー操一の手品
 (「ジャグラー操一の手品」の項参照)

○二月、東京麻布区芝森元町盛元座にて、市川団三郎が大切浄瑠璃にスペンサーを出す。(都新聞210

 「盛元座の上るり 同座の大切五変化の上るりは市川団三郎自作の由にて、同丈の骨折一方ならず。最初仲の町の場にて傾城を勤め、直様福助に変じて充分に振あり。夫より人形遣ひ西川伊三郎に扮して羽の禿を踊らせ、道具替ると一本足河童の所作は目を驚かすほど甘く、引抜いて西洋の道化形となり、トヾ日覆へ釣上る時、蝙蝠傘を持てスペンサー風船乗の趣向は非常に面白し。夫より繋ぎの為め駒雀の所作事ありて、正面の道具を引て取ると岩石峨々たる深山となり、爰へ団三郎の獅子の狂ひあり。終に此獅子が割て女異人と変じ、相手の女形と踊り狂ふこと、眼も廻るかと疑はれ、最後に舞踏の模様にて目出度く打出すといふ筋なるが、今度の興行は此上るりが呼物となり、意外の好景気になつたと云ふ」

○二月、東京浅草公園三社裏のエ・ナフタリーの人体解剖蠟細工に、マーモント獣の奥歯を追加展示する

(東京朝日新聞214                  

明治24年

 「[広告]めづらしい広告

  マーモント獣 奥歯二個、重量各二千六十目、右は三千九百九十五年を経たる物にて、先に〔インド〕にて一万円の価値あるの評を得たり〔但売品〕

  是は浅草公園人体解剖蠟細工展覧品付属として御覧に入舛。此の有益なる展覧会は三月十五日迄開会、直に横濱へ出発す。未だ御遊覧無き御方様は出立前早々御出あれ。且つ〔パノラマ〕は優美なる新景と取替へ御覧に入れ舛」

○二月、長崎にて、スペンサーの軽気球。(「スペンサーの軽気球」の項参照)

〈編者註〉このあとインドへ赴き、マドラスで露国皇太子の前で風船乗りを演じる(読売新聞325)。



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明治24年(1891年)四

○三月一日より十五日まで、東京四谷荒木町元桐座にて、松井源遊斎の曲独楽。(東京朝日新聞34

 「荒木小家の興行 四谷桐座跡の小家は去る一日より十五代松井源遊斎(十六代源水の父)が曲独楽、ジャグラー憲一等の連中にて、来る十五日まで興行」

○三月二十七日より、東京神田錦町にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○三月二十九日、東京中洲にて軽気球乗り。興行人伊藤辰蔵。(浮揚せず)(時事新報330/都新聞414

「昨廿九日は日本橋区中洲に気球乗をなすとの触込ありしかば、近傍の者は日曜を幸ひに婦女子を携へ同所に歩を移せしも尠からざりしが、成程二三十軒四面を幕若くは杉板にて囲ひ、入口には気球乗の画幟(ゑのぼり)を押建(おしたて)、入場口には切符売場の設あり。上等五十銭、中等三十銭、下等廿銭の観覧券を売出し、場内の中央には瓦斯を起す仕組あり。市中音楽隊の奏楽等に景気を粧(よそほ)ひたれば、チラホラ入場者もありしかど、午後一時の開場にて三時を過るも一向に始むる景色はあらざりしが、其後は如何なしたりけん。

因に記す、此興行人は浅草芝崎町辺の伊藤辰蔵とて、技師と願人を兼居るといへど、猶聞く處に依れば、単に願人にて、技師は多分不参すべければ、先づ人形にて技師の代用をなさしむるなりとのことに、其高價なるを呟く者ありたりと。又真の気球乗鈴木孫十郎氏も観客の中にあり、名刺を出し、頻りに技師の姓名を聞居たれど、同所にてはソコ〳〵に咄しを左右に托し、後は挨拶もなさゞりしが、又気球の製作模様を尋ねられて願人は声を低め、ツイ糊を引きたる迄なりと答へ去りしと」(時事)

 「去る廿九日、日本橋区中洲に於て興行せんとして大紛議を生じたる風船乗の一件は、発起人根本又右衛門が謝罪の為め、一昨日見物無料にて榊原健吉氏の門弟四十余名の撃剣会を催ほして落着したりと」(都)

 〈編者註〉何があったのか、具体的な内容は不明。いずれにしろ軽気球は揚らなかったようである。

○三月、東京浅草公園にて、満三歳の稚児の運筆の見世物。(時事新報330

 「…殊に満三年の子坊主が大字の運筆は、能くも仕込みたり、又能くも習ひ込みたり。尤も字数は限りありて、日月、文明、南山□、無心抔の八九い過ぎざれども、分けて日月の二字、其筆力の達者なること、書き終ると直ぐに種々の玩具を弄びて余念なき稚児とは思はれず。この家の前は常に人山を築き居れり(後略)」

○三月、大阪千日前にて、山嵐・駱駝・鸚鵡・鸚鴎・大豹・大虎の見世物。太夫元吉田卯之助。(絵ビラより)

 【絵画資料】

 ≪絵ビラ・木版墨摺(手彩色)・出版人玉置清七≫(川添裕蔵:別冊太陽123『見世物はおもしろい』29頁)

明治24年 006

 (表題)記載なし。口演の最後に「大阪松島太夫元 吉田卯之助」。

 (袖)「當ル明治二十四年三月 日より」。

画面に山嵐・駱駝・鸚鵡・鸚鴎・大豹・大虎が描かれている。

口演(口上文)は以下の通り(書き下し・編者)。

 「今般持渡り候大虎の儀は、獣類の内主なる事、諸君御承知なれども、この虎常に食するに禽類を以てす。又有事は人間の肉を喰ふ事度々なり。この度御覧に入れ候大虎は、左右なく人間の言語を聞分け、種々芸等致し、図面に記載ある通り人間と力競べ、その外駱駝、数多の銘鳥御覧に入れ奉り候間、その実物成る事御覧の上、四方に高評あらんことを乞ふ」

 〈編者註〉興行場所記載なし。出版人が玉置清七(大阪市南区笠屋町)であることから大阪で行われたものと推定される。正月に千日前石田席で卯之助の象の興行をする予定であったのが死亡し、看板に偽りありと見物人の不評をかい、急遽別の象を手配したが間に合わず、新たに動物見世物を整え開業した時の絵ビラではないかと思われる(一月二日の項参照)。 

○四月一日より、名古屋五明座にて、蛇小僧と長崎一流籠抜けの見世物。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○四月五日より、東京浅草凌雲閣本門右手角に、美術覗き眼鏡が開場。(時事新報413

 「美術覗き眼鏡 浅草公園凌雲閣本門の右手角に設けたる美術覗き眼鏡は、去る五日より開場し、楼上を以て縦覧の場所に充て、一箇毎に台上に安排せり。図画は日光の華表、亀井戸の藤、堀切の菖蒲、金沢八景の能見堂、神戸の布引瀑布、マヰタ駅望岳、富岡の海岸、岩地湖畔の望岳、根岸より本牧の岬、鎌倉の大仏、日光日暮御門、七里ケ濱より江ノ島、鎌倉八幡社、日光の神橋、階楽園内、日光御成道杉の並木、金閣寺、甲州猿橋等にて、猶漸次増加する筈の由。此諸勝中、曾て一覧せし所は光景歴々眼に残り居りて、再び身を社頭霊地に置くの心地され、甞(うま)く画き出だせり。追々藤や菖蒲も開くべし。亀戸の天神と堀切の武蔵屋に遊べる人は、今年の花見を此所にて弁ずるに足らんといふ」

○四月九日より、東京浅草花屋敷隣に美術パノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○四月十日より十九日まで、東京向島にて、三度の軽気球乗り。(三度とも浮揚せず)。

(東京朝日新聞417421

「(前略)一昨日向島にて興行の風船乗りも花見客を呼込んで二十銭の木戸銭をせしめ、凡そ百名余も見物を入れた處、俄かに機械が損じたとか、球に穴が明いたとかで入掛けとなり、延期したから、見物人は苦情たら〳〵、何にも見ずに帰つたとのこと」(417

「風船乗おじヤン 精神一致何事か成ざらん、出来るまで行(や)るべし〳〵、二度ほど失敗した向島の風船乗は一昨十九日の日曜日が三度目、今日こそはと支度をしたが、又候器械に損所が出来ておじやん、此の日見物人は無慮十五人」(421

 〈編者註〉残念ながら、興行人の名前が不明である。

○四月初旬、大阪生国魂神社の南手の浪花模造富士山の登山を禁止する。(大阪毎日新聞48

 「富士山に登る事無用 生国魂神社の南手に建設せし模造富士山は、山主安田友吉といふ人から此の山の金主某氏へ負債の義務を尽さゞる處から、某氏は自分の家屋にも影響を及ぼし、最早当地にも居難き程の場合となり、近日に東京へ身を潜めると云ふ程の始末にて、既に綱張して登山は禁止せしも、目下の好季候に此辺を遊歩(あそぶ)人は適々(たまたま)山へ登らんとするも、綱張してある故抜登りするにぞ、今度其登口へ更に貼札をして『登る事堅く無用』」

 〈編者註〉この富士山が開業したのは明治23919日で、まだ一年もたっていない。この後どうなったかは不明だが、おそらくこのまま閉鎖されたと思われる。



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明治24年(1891年)五

○四月十五日、東京久松町旧千歳座跡にて、日本人の軽気球乗り。乗り手川久保仙太郎。(浮揚せず)。

(時事新報410415416/郵便報知新聞416/『明治座物語』)

明治24年 003「[広告]日本の軽気球乗川久保仙太郎 風船地ヲ距ルコト一萬余尺、人体ハ恰モ星ノ如クナリテ、傘ニ依リ翩々トシテ下降ス 曩ニ外人スペンサー来テ風船乗ヲ演ゼシ、爾来吾々ハ憤然自ラ起チ、幾多ノ苦心ヲ経テ、終ニスペンサーニ勝ル幾倍ノ効ヲ奏シタリ。依テ今般日本橋区久松町旧千歳座跡ニ於テ、公衆ノ観覧ニ供ス。且風船昇騰前、百尺竿頭飛付ノ奇芸及奏楽ヲ為ス。乞フ満天下ノ士女、遊覧ヲ賜へ 附言吾々ハ夥多ノ資財ト幾多ノ苦心ヲ経、理化学士ノ助ニ依テ其功ヲ奏シタルモニニシテ、只其皮想ヲ傚ヒ、詐術ヲ以テ衆庶ヲ騙ラント同業ヲ企ル山師輩ト同一ノ者ニ非ラズ

四月十二日興行(雨天順延)午前十時開場、午後三時昇騰 
  入場券上等金一円、中等金五十銭、下等金廿銭 

明治廿四年四月 発起人伊藤赤太郎 福原義三太」(時事410

 〈編者註〉すごくものものしい広告文を出したものの、十二日は強風のため中止。十三日は降雨のため中止。十四日も日延べして、いよいよ十五日に昇騰することになった。

「風船乗り又延ぶ 日本人(川久保仙太郎)風船乗りの広告、新聞紙に顕はれてより、其技倆の熟否は知らざるも、嘗(うま)く遣り果せてスペンサーの鼻柱を凹(くぼ)めさせたしとは、同胞の感情にて、去る十二日は早くも久松町千歳座跡の前に多勢詰め掛け、河岸端に夥多の露店を擔ぎ出す程なりしも、正午前より南風吹きしきりて見合せ、一昨日も朝の降雨にて延引し、昨日は夜明け頃一しきり雨降りたれど、十一時頃より晴天となりしかば、今日こそ興行するに相違なかるべしと又も出掛けし人もありしが、風雨順延との広告を為せしに付、昨日も亦延引し、愈々本日と取極め、紅白の幟を押立て、鐘太鼓を鳴らして市中を触れ廻らしめたり。弥生の時節、風船乗りの技も雨風を憚る花と同様の感にこそ」(時事415

「乗人は那落の底に在り 久松町千歳座の建築構内に於て昇天するといふ日本人(川久保仙太郎)の風船乗りは、風雨等の為め延び〳〵となり、昨日は曇天乍ら風は静なり、入場者は三四百名に過ぎざりしも、ロハ見の男女は両傍なる芝居茶屋の楼上前面の河岸端左右、瓦屋の上に至るまで、夥しき群衆なりし。偖乗昇の刻限までは未だ手間取ればとて、三名の軽業師が綱渡り抔の技を演じて、観衆の退屈を慰めたるが、何ぞ図らん、当日の観ものは二十銭以上一円までの入場料を投じて、常なれば橋袂の広場等に於て一銭立見の軽業のみに止まらんとは。同日使用の球は金巾製のものにて、昨年スペンサーが用ひたる円形とも違ひ、先づ鶏子形(たまごな)りに近き方なり。瓦斯は千歳座に導(ひ)き在りし瓦斯局の鉄管より引用して、三時過る頃は八分通りも膨らみ、この曇天にて二千尺も上昇したらば、雲を突き抜け、乗手はおろか球までも見えずならん抔と見物人の批評取り〳〵なりし内、頓て一人現はれ出で、最早時刻にもなりぬれば上昇すべし、併し生憎の曇天といひ、且つ瓦斯に不充分なる点もあれば、思ふ様に行き兼ねる場合もあらんか、二回目の興行には必ず好結果を一覧に供すべしとの口上は、幾らかの遁辞ならんかと、見物人に失望の感覚を与へたり。斯くて乗人は赤の洋服にて場内に顕はれ、帽を脱して一禮し、球の重錘(おもり)を徐々に弛めて横木に腰掛けたるは午後四時なりし。乗昇の場所は千歳座舞台下なる地を凹めたる處、即ち那落の底より昇天するときは、一段面白き思ひ付なりと観客は息を詰め、肩を聳だて、結果如何にと見る内、雨は降り出し、球の昇るに随ひ、開きたる傘(ス氏の時は空中にて球と別れたる後に傘の開きたるに、今度は始めより開き居るも一趣向、異なもの)の周囲に堵を築ける人頭の上に出で、続て乗人の浮び上るかと待てども、之を引上げるの力なく、球は早や横に傾き、乗人は依然那落の底に在りて、手持無沙汰、緋の服の映ろひてか、顔を赤らめ居りし折柄、雨は降りしきりて、帽子より雫は垂る、椅子や敷物を片付ける騒ぎに、今は上等客も下等客もゴッタ交ぜ、一円の金力も二十銭より光らず、五六人の人夫が雑作もなく綱を手繰て球を引卸すを見れば、瓦斯の力なきを證すべく、今一度遣り直すべけれとて、又も瓦斯を充たす支度に掛りしかば、観客渋々ながら雨を避けて待つ内、今度は初手より球の充分脹れ、再び前の手続きを為したれど、球は南に傾きて、乗人は相も変らず那落の上に浮び揚ることならず。其内球の網が丸太の高竿に搦みて竿を倒す抔の混雑、瓦斯は口より漏る、観客は鼻を撮(つま)む、漸くにして球と傘との間を外して球を放てば、球は人魂の如くフワリ〳〵と十間余りも登りて、直径一丁半に過ぎざる川向ふに落ち、人夫が駈着けて拾ひ取る騒ぎに、道も塞がれ、往来人、同士に喧嘩を始め、見物の彌次馬は彌が上に立塞り、両傍より来掛りし人力車は取つて返す抔、飛んだ不結果を生じたりと」(時事416

「去る十二日昇騰する筈なりし川久保仙太郎なる人の軽気球飛下りの技術は、天気都合のため延引せしが、昨日に至り千歳座跡にて興行せり。気球は直径二十八尺、一万二千立方尺の瓦斯を入るべし。瓦斯は東京瓦斯会社、之を請負ひかねて、千歳座に引きたる瓦斯管より之を注入せり。気球膨脹前に絙渡り等の軽業を演じて見物人の退屈を防ぎたり。午後五時頃に至り、全く膨脹したるを以て、乗手川久保は赤色の服装にて出で来り、気球下端の絙に身を約したり。さて愈よ昇騰せんとせしに、気球の力微弱にして、高く人を吊り上ぐる能はず。因て尚ほ更に瓦斯を詰め込み、再び昇騰せんとせしに、又瓦斯の微弱なるため騰らず、因て軽気球のみを放ちて飛ばしめたり。瓦斯会社技師の話に拠れば、一万二千立方尺の気球なれば、充分四十八貫の重量を上げ得るの力あり。今気球、落傘及び網、乗手等の重量を併せて四十八貫に過ぎざれば、必ず昇騰すべき筈なるにも、雨の降出したるため空気の圧力を減じ、為に充分昇らざりしなりと」(郵便報知416

「千歳座焼け跡(明治二十三年五月六日焼失)にて、元巡査某の日本人風船乗 スペンサーが上野で風船乗をやつた後の事で、以前巡査を勤めたといふ某が『日本人の風船乗』と自称して、此の焼跡で風船乗の興行をやりました。是を聞くと、何れも好奇心にかられたので、風船に人が乗つて飛ぶ處を見やうといふ看客(けんぶつ)が、初日早くから詰めかけ、非常な好景気でした。然し其の日は風が強いといつて中止(やめ)に成り、次の日は曇天で、雨が降りさうだと言つて休み、その次の日には、機械に故障があるからと言ふので中止に成り、四五日目に漸つと風船が上つたかと思ふと、地上を離れる事十間ばかりで、風船乗の先生が宙ぶらりんに成り、上る事も下りる事も出来ないやうな喜劇を実地に演じた事も有りました」(『明治座物語』123頁)

 〈編者註〉『明治座物語』が「元巡査某の日本人風船乗」としたのは、鈴木孫十郎と勘違いしたものであろう。

なお、「読売新聞」(810)に「[八月九日中洲に於て]演ずる軽気球乗旧下谷警察署巡査たりし鈴木孫十郎氏にして、此道には頗る経験もあるよしにて、凡そ五千尺の高さに騰り、忽ち傘に移り更(かへ)て、徐(おもむ)ろに看客の前に降る筈にして、先頃同所並に千歳座跡にて演じたる伊藤辰蔵等の比にあらざるとの事なれば、其の結果は次号に記すべし」とあり、伊藤赤太郎と伊藤辰蔵が同一人物であることがわかる。



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明治24年(1891年)六

○四月十七日より、名古屋福寿亭にて、養老瀧三郎・登龍・当治らの日本手品水芸。
 (『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○四月十九日、東京上野公園にて、鈴木孫十郎の軽気球乗り。(浮揚したか不明)。(時事新報41416

「下谷坂町六番地和歌山県人鈴木孫十郎氏は、彼のスペンサー渡来後、種々研究する所あり、警官を辞して軽気球を製し、屡々乗試(のりた)めしの上、去月十一日、北豊嶋郡王子中里村に於て空中に登り、種々の技芸を演ずる事を得、其の後尚ほ技芸を極めん為め、群馬県下に赴き、人里遠き場所に於て数度試験の上、弥々好結果を得て、両三日前帰京し、粗ぼ興行許可を得る手順も着きしに付き、近々上野公園内に於て催し、其節空中より自分の像を散布する筈にて、下谷広小路の写真師吉川方へ一千三百枚を注文せしよし」(時事41

「気球乗鈴木孫十郎氏は来る十七日上野公園に於て気球乗をなすよし曾て本紙に記したるが、都合ありて十九日に延たるよし」(時事416

 〈編者註〉「読売新聞」(41)、「東京朝日新聞」(41)にも同様の記事が出ているが、実際にやったかどうかは不明。実行した記事が全くないことを思えば、おそらく何らかの理由で興行許可がおりなかった可能性が強い。なお、鈴木孫十郎本人に関しては「都新聞」(228)に以下の記事がある。

「下谷警察署詰巡査鈴木孫十郎(二十二)と云ふ人は、柔術に掛ては天晴(あつぱれ)の達人ゆゑ、予て同署の巡査へ柔術指南をして居た處、何と思つかた、突然辞表を差出したので、署長警部及び同僚も大きに驚き、其仔細を尋ねても、唯思ふ旨があると許りで何事をも云ざりしが、一昨々日弥々辞職聞届けとなつたので、此上は所以をお話し申すべし、先頃上野公園地に於て両度まで洋人が軽気球に乗り、衆庶の眼を驚かしたれど、未だ日本人には宮中に飛揚する程の膽力ある者を聞ず、甚だ心外の至りゆゑ、自分に試みんと思立ち、種々工夫を凝した處、先づ大概は出来得べき見込み付き、或人を金主に頼み、最早軽気球(代価六百円)と緋羅紗の洋服等をも調製したれば、近日の中に其筋へ出願し、風船乗を催すべき計画なりと、始めて様子を明したので、聞く人孰れも其の着眼の奇異なるを賞嘆したりと云ふ」。

○四月十九日まで、大阪道頓堀角座にて、スタンレイ氏の教育幻燈会。(大阪朝日新聞418

 「[広告]角劇場に開会したるスタンレイ氏大幻燈会は非常の好評を博し、尚ほ有志諸君の希望により十八十九日の両日延
  期す 教育幻燈会」

○四月二十五日より二十七日まで、京都祗園座にて、スタンレイの大幻燈会。(『近代歌舞伎年表・京都篇』)

○四月中旬より、長野県小諸町博愛館にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月二十六日より、長野県長野市三幸座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○四月下旬、名古屋福来亭にて、エジソン氏の撮音機実験会。(『近代歌舞伎年表・名古屋篇』)

○四月三十日、生人形師松本喜三郎死亡。享年六十七。(『松本喜三郎』)

○四月、東京浅草公園第六区三号地にて、娘連力持の見世物。(東京朝日新聞423

「見せ物の火事騒ぎ 一昨日の午後一時ごろ、浅草公園第六区第三号地にて興行中の娘連力持が、丁度座頭が舞台に出て仰向になり、腹の上へ桶の俵のと積載せ、其の頂上へ小舟を置き、此の内へ三人の小娘を乗せ、今しも腹の上の芸当を始めんとする時、小舟の中の小娘が、アレ〳〵、裏の物置から火が燃出したよと云より、見物はソレ火事だと騒ぎたて、楽屋も桟敷も上を下への混雑なりしが、人々非常の尽力にて漸々物置の火を消止め、一同大安心にて再び力持の興行を始めたれど、一時は近傍の小劇場常盤座、其の他の見せ物まで此の苫尻(とばしり)を受けて騒動を起し、中々に賑やかなりしと」

○四月末日、東京浅草公園三社裏のエ・ナフタリーの人体解剖蠟細工が閉会する。

(東京朝日新聞319/「国会新聞」49/国民新聞413/読売新聞416
                  

明治24年 001


「[広告]浅草公園エ・ナフタリー氏人体解剖蠟細工展覧会

 本会は本月十五日を以て閉会致す積の處、日々来客諸君相増候に付、御名残の為め来四月中迄日延致候

 〇前世紀無双の古物マーモント獣の奥歯は実に驚くべき者也

 〇パノラマは本邦上野戦争、憲法発布式等の新画と取換、且つ本月中には故三條公葬儀の画を縦覧に供する積なれば、諸君機会を失する勿れ」(東京朝日)

「浅草公園三社の後にあるナフタリー氏の人体解剖蠟細工は、活人形なんどの如く、唯だ女子供の目を歓ばすのみの観物(みせもの)にはあらずして、大に医術、衛生上に利益を与ふることがあるが故にや、昨年四月の開場以来、縦覧人も頗る多かりしとの事なるが、昨今は殊に桜花の時候とて、日々見物人山を作(な)すばかりなれば、本月十五日限り閉場すべき筈なりしものを、更に本月三十日迄延期し、彼のパノラマをも憲法発布式、三条公葬儀、上野戦争、露国皇帝践祚式等の新画と掛換へたり。

昨日、記者一名、同氏を展覧会場に訪ひしに、氏は親しく場内を導き、彼此と出品を指示して説明せし中に、前世界の動物マンモッスの歯二個は殊に珍しく思はれぬ。氏は四方八方の物語の末、『余は日本に来らざる前、清国上海にて此展覧会を開場せし時、支那人の来観する者は頗る稀なりしに、日本に来りてよりは然(さ)のみ紳士とも思はれざる人にして六、七回も縦覧に来る者あるを見受ぬ。余は此一事を以て貴国人が大に生理学に心を傾くる事を推知せり』と。此言、或は氏が一時のお世辞なるやも知る可らずと雖も、其の開期の長きを以て見れば、或は然(さ)る事実もあるべき乎。又、氏は来月早々、此の品々を携へて横浜に移り、茲にて一ケ月間開場し、夫より名古屋に赴き、後ち日本を去って米国シカゴ府に旅行する由を物語りぬ。去れば、此開場も最早僅かの日数なれば、此蠟細工を見ざる人は今の内に一覧し置くに如かず」(国会)

「浅草公園蠟細工パノラマは従前のものより悉皆取替、殊に魯国皇帝皇后綬冠式九対及大将カルセルスクの葬式、本邦上野彰義隊の戦、憲法発布式、故三条公葬式等の新画、マーモツト獣奥歯は実に奇品にして無双のものなりと。同品の有益見るべきものたるを認定せしは池田謙斎、高木兼寛、井上達也、佐々木政吉、小金井良精諸氏にして、且つ同興行は本月中との事」(国民)

 「蠟細工展覧会 先月中より浅草公園三社裏に開設したる同展覧会は従来の人体機関構造の蠟細工に加ふるに新たにヂヲラマの趣向を以て吾邦上野の戦争、憲法発布、露国王宮の諸儀式、清仏戦争、土耳其セヴィヤ戦争等の油絵を観せ、次に回転機にて欧亜各国の名勝を覗かせ、夫より案内者ありて委しく人体構造等を説明するは医事に心掛ある者には最も緊要なるべく、其の他婦人、小兒は断わり、篤志の人に限り館主が秘蔵品なりとて男女の陰部に梅毒の付きたる形ち十種余を縦覧せしむるは殊に奇なり。右は本月限り閉会の由にて今回が名残なりといふ」(読売)

○四月、東京大久保川村園にて、つつじ園に生人形が飾られる。(毎日新聞425

 「大久保川村園の生人形 同所のつゝじは徐々(そろそろ)咲き初めたるよしにて、同所仲百人町つゝじ園傍川村園にては忠臣蔵七段目、朝顔日記、宮本武三四、佐々木巖龍の仕合、つゝじ見物人茶店の場等の生人形を見せるといふ」

○四月、宮城県仙台市東一番丁元山家の空地にて、動物の見世物。(「奥羽日日新聞」41

 「今度、東一番丁元山家氏の空地に於て興行すると云ふ動物の見世物は、過般浅草にて興行せし物にて、種類二百余なりと云へば、是こそ一段の見物なるべし。〔編者注=八日付で虎好評の報〕」



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明治24年(1891年)七

○五月一日より、東京浅草公園六区にて、風船応用軽業の見世物。(東京朝日新聞53

「…一昨一日より開場せし浅草公園第六区の高小屋風船の見世物といふは…地上より一丈余も釣上げし風船の下に撞木が釣下げてあり、夫れへ一人の太夫が逆さに足ばかり引かけて釣下り、別に風船を距(さ)る四五間の處にもぶらん子様の物をぶら下げてあり、夫れへ一人の太夫が釣下つて、二三度はづみを打て身を煽りながら、風船の太夫の手に飛付のが芸等なるが(後略)」

○五月一日より、大阪千日前木村席にて、常の家重尾一座のへら〳〵踊。(大阪毎日新429

 「へら〳〵 一時評判の高かりし常の家重尾の一座は久々にて千日前の木村席へ乗込み、来月一日より開場すると」

○五月九日、大阪千日前にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○五月九日より、宮城県仙台市東座にて、アジャペイル、フローン一座の手品。(「奥羽日日新聞」59

 「今度、肴町の斎長を便り来たりし幻妙奇術者座長アジヤペイル、英国戻り太夫フローン一座は、愈々今日より東座に興行の筈なるが、太夫は婦人と云ひ、殊に是迄の手品と違ひ随分不思議の技術もありしと云へば、大入は請合。而して木戸札は大四銭、小二銭五厘なりと云ふ」

○五月十一日、ロシア皇太子、大津で巡査津田三蔵に襲われる。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○五月二十八日、曲馬師渡辺捨次郎死亡。(「奥羽日日新聞」5306146.16

 「松島座太夫元・渡辺捨治郎は久々病気の処、去る二十八日死去せしに付き、暫時休場」(530

「松島座太夫元にて去月二十八日病没せし渡辺捨次郎が来歴(こしかた)を聞くに、同人は京都建仁寺町・増田豊介と云ふ者の三男にて、天保元年生れ出るや、オギャアと云ふ産声たった一声にして十二人馬丁(べっとう)頭・前田勝次郎の養子となりし故、捨児も同様との所謂(ゆえ)を以て捨次郎とは名づけしとぞ。然(さ)れば六、七歳の頃より曲乗を仕込しに、素より怜悧の生まれなる上、天性にやありけん、勿地(たちまち)にして曲馬師とぞなりぬ。

二十五歳にして養父勝次郎に随がひ江戸へ下り、実弟何某と共に弟子を募り、初めて曲馬を興行せしに頗る好評を博し、終に十三代将軍家の上聞にまで達し、御好みありしを以て、いと面目のことに思ひ、早速準備に及び、嘉永二年五月五日、端午の祝日を卜し、捨次郎新発明の「狂獅子」等の曲乗を演じて御遊覧に供へし処、至極御意に入らせられたる旨の御沙汰あり。

又、上野宮様よりも御望みに付き一通り御覧に入れ奉りし処、宮様には御乗馬を好ませ玉ふより、更に御愛馬にて乗試みよとの御仰せあり。実に冥加の儀に付き、謹んで御承申し御愛馬を見奉つるに、召さるることの稀なる故、馬は中々に張切て居たるにぞ、容易のことにては自由になるべしとも思はれず。要こそあれと飛び乗るや、先づ上野の御坂を上下する二、三度、馬の悄(やや)馴れたるを計り、種々の技術を演ぜしに、寄り居し人々手を拍(うつ)て、「したりや、したり」と賞(ほ)むる声、暫しは鳴(なり)も止ざりけり。然れば宮様にも御感賞在らせられ、品々かつけ物ありしが、此時より何方(いずかた)に於て公然興行するも差支之れなしとの御許しをこそ得たりけれ。(つづく)」(614

「(つづき)偖も、捨次郎の曲馬興行は天下晴れての許可になりしのみならず、江戸興行中は紀州、尾張の両家より隔日に役人出張、興行場は取締らるるにぞ、他の興行師と違ひ肩身を広くしつつありしが、一先(ひとまず)京都へ帰りし処、上方筋より興行の望み頻りなれば、然(さ)はとて一座申し合せの上、安政元年三月を以て京都を発し、諸国興行の末、同二年四月江州彦根に於て興行せしが、彦根侯のお好みに任せ種々の技術を御覧に入れし処、御賞讃在らせられ御召馬を賜はるの栄を得たり。其後北国筋を廻り、当仙台に来たり榴ケ岡にて興行せしに、頗る好評を博し日々大入を取りしが、更に江戸に於て再び興行に及びし処、相変らずの人気にて愈々高評高かりけり。

斯りける程に維新の御代となり、世の有様もまた一変せしより、従来の儘にては人気を得ること覚束なしとて、終に芝居を重(おも)とするに至り、俳優長と称せらるる団十郎等と共に、神道教導職に補せられたり。去る程に漸々老年に及びしを以て、菊治郎、万治郎、小万等の子供を仕立(したて)、且つ芝居風を重に稽古させ、年々諸国を興行の末、終に又々仙台に来り久々にて興行せしに、非常の人気を得しより、松島座を一手にて借切り、自分太夫元となり、一座曲馬を廃して芝居専業に帰し、只管興行中の処、本年二月中より病魔の冒す処となり、病養等閑(なおざり)ならざりしも、行年六十余歳にして終に去五月二十八日を以て冥目せしと云ふ。同優の来歴あら〳〵斯くの如しと、去る贔負客よりの報知(しらせ)」(616

○五月、東京浅草公園にて、安達が原の見世物。人形細工安本亀八。(「改進新聞」55

「今度浅草公園に於て興行する安達が原の見世物は、人形師安本亀八を岩代安達郡大平村の観世寺へ派遣し、彼の鬼婆が居住したる岩窟等を精査せしめ、猶同寺に存する鬼婆の遺物等をも模写せしめ、以て悉く之を模造せしめたる物なりといふ」

○六月十日より、大阪千日前奥田席にて、シルバーマン一座の手品。興行人奥田弁次郎

(大阪毎日新聞62/大阪朝日新聞610620

「外国人の手品 千日前の奥田席に来る七日より開場する西洋手品の太夫は、伊太利人のピエス・シルハーマン(三七)、同国人アナン・シルハーマン(三五)、英国人ジョーシクリン(五二)の三名にて、一種不可思議の技術を見せる由」(大阪毎日)

「伊太利奇術の興行 欧州にて好評を博したりといふ伊太利の奇術師シルバーマン社中の一行は今回初めて我邦へ渡来したるを以て、奥田弁次郎興行人となりて今日より千日前北の端の小家にて種々の奇術をなして観覧に供するといふ」(大阪朝日610

「千日前奥田弁次郎の小家にて伊太利人シルバーマンの奇術を興行することは日外の紙上に載せしが、今此奇術を一覧するに、観場の前面には帳(とばり)を垂れて、高さ六尺余、横四尺許りを明け放ち、此帳内(とばりうち)を暗黒になし、七尺許り隔たりし奥に、高さ三尺に横二尺許りの窓を穿ち、ここを奇術を演ずるの場所とし、先づ最初に出せしは木偶(にんぎょ)の首なるが、此首の眼口漸次に動き、全く正真なる西洋婦人の顔となりて、口上を演(の)べ、又此(この)薔薇の如き顔は次第に衰へて終に髑髏と変じ、髑髏一変して緑葉を生けたる花籠と化(け)し、其梢に花を咲出させたり。再変して花籠は鳥籠となり、正真のカナリヤ二羽を現はし、更に元の西洋婦人の顔に還りて演芸の終るを告ぐる挨拶をなせり。右変転の形状を見るに、いつ変ずるともなく自然に其形を現出せしめて旧物と交代せり。是れ幻燈(マジックランプ)を巧みに使用したるものにて、甚だ眼新しきものなり」(大阪朝日620

○六月十日より二十一日まで、新潟県新潟市島永楽座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月二十五日より、新潟県新発田町にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○六月、東京上野公園の自動鉄道(ジェットコースター)の契約を更新する。(郵便報知新聞626

「昨年五月十三日を以て小野古治氏が上野公園内に於て一坪五銭の地代を払ひ、百五十坪を東照宮の鳥井内に借受け、理学研究のためと申立て、其営業の期限は満一年間の目的を以て無税にて開業したる自動鉄道は、予想外の収入を得たることなるが、今度営業満期となりしにより、尚ほ向ふ一ケ年間の延期願をなしたるに、爾来は収入金百分の五の営業税を賦課せらるゝこととなりて、其継続営業を許可せらるゝ由。因に記す、該鉄道は一時花の季節には毎日平均四千五六百の乗客在りて、中々の盛況なりしも、昨今は梅雨中にて、一日平均八九十人に止り、其収入金は二円五六十銭位なりと云へり」

○六月、東京下谷佐竹が原にて、江川亀吉の玉乗り。(東京朝日新聞624

「玉乗の競争 浅草公園第六区の見世物・娘の玉乗は、十二、三の娘が玉の上に乗り種々の所作事をするので、一時は非常の人気を取り、日々大入を占めたるが、先頃其筋にて衣裳、鬘、其他とも一切演劇類似の事柄を禁止されしにぞ、其の後は據ろなく娘どもを唐子風に粧(つく)り、例の通りいろ〳〵の所作を勤むれど、何分以前の見る目と変り、自然面白味の薄らぎし處ろより、追々と客足減じ、昨今にては頗ぶる不景気の有様となりしに、今度、同公園の顔役はし仙といふが、別に下谷佐竹ケ原へ江川亀吉といふ玉乗の見世物を開場し、同所では衣裳、かつら、鳴物とも十分の仕度にて興行する故、開場早々上景気なりと聞き、浅草公園の方にても敗(まけ)ぬ気になり、再び元の衣裳、かつらを用ひ、大奮発に競争を試みんと、昨今、専ら仕度最中」

〈編者註〉詳しくは阿久根巌『元祖玉乗曲芸大一座』(46頁)を参照されたい。

○六月、千葉県千葉町にて、浅沼倉吉の軽気球乗り。(落下)。(読売新聞69

 「先頃千葉県千葉町不動堂の境内にて風船乗興行の際、二丈余の所より落たる浅沼倉吉は殆ど死に至んとせしが、千葉病院へ入院して治療せし効験著るしく、本復したるを以て、謝礼のため、去る五日の夜より五日間、正面横町の金二亭にて興行する茶番連中の列に加り、得意の芸を演じ居るといふ」

○六月、群馬県高崎にて、軽気球乗り。(詐欺で逮捕)。(東京朝日新聞626

「風船乗の処刑 此程上州高崎にて興行せし風船乗は先に日本橋区中洲町にて不体裁の興行をせし浅草区馬道八丁目橋本金次郎の連中なるが、例の通り颺(あが)らぬ風船を看板に遣ひ、数多の見物を欺きて木戸銭を取たるより、興行人橋本金次郎を始め関係人一同、同所警察署へ拘引され、終に検事局へ送られ、取調の末、重禁錮二ケ月に処せられし由」



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明治24年(1891年)八

○七月一日より、東京浅草六区一号地にて、安本亀八の生人形「桜田門外の変」。(東京朝日新聞71

 「浅草公園の活人形 浅草公園第六区一号地女足芸興行の跡へ、七月一日より開場する活人形は安本亀八の作にて、水戸の浪士十七名が井伊掃部頭を桜田門外に要撃するの図にて、マヅ入口の招看牌には愛宕山上の掛茶屋に六名の浪士密談する處ろ、中に入れば浪士青物売になり往来を窺ふ図、同町飛脚となりて往来を窺ふ図、浪士十七名、侍・中間等と雪中入乱れて闘争するの図等なり」

○七月五日、京都新京極三条下るにパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○七月八日より、富山県富山市清水座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○七月十四日より、東京回向院境内にて、大江定橘の機械大人形「大燈籠」。太夫元宮永幸太郎

(読売新聞711/「やまと新聞」716/時事新報819

「回向院に於ける開帳に就ての概況 …本堂南手広場には機械大人形、其他大女、玉乗り、女子力持等の諸興行もの新設準備最中なるが、独り機械大人形の小屋は稍や落成し、来る十四日より開場なすとの事にて、該大人形の細工人は大坂心斎橋大江定橘翁の丹誠を凝らしたる奇観巧妙の機械にして、最初七福神、高砂、道成寺、常盤御前、一つ家の老婆、土蜘蛛の変化其他種々の人形は、歩むに従ひ、機械の運転によつて自由の働きをなすを通覧し、其の大切りに至りては凡(およそ)方(ほう)六間余の切り子燈籠より人物と狂ひ獅子現はれ出で、獅子の一曲を舞ひ、夫れより数多の唐兒出て、桜の枝乗りをなす等、最も高尚美麗なる人形なりとぞ」(読売)

〈編者註〉明治二十二年一月、大阪千日前が初興行(「見世物興行年表」同条参照)。七月十日より八月二十八日(さらに十日間延長)まで回向院で京都嵯峨釈尊の出開帳があり、その人出を見込んで大阪からやって来た。七月二十七日、芝翫・福助父子も参詣ののち、大江の大人形を見物している(東京朝日新聞729)。

「今度嵯峨の釈尊開扉につき、大坂の人形師大江定橘が作になれる機械大人形を太夫元宮永幸太郎が携へ来り、回向院境内にて一昨十四日より右興行を初めたるが、人形は二十余ケ所に飾り付ありて何れも美事なるが、なかに高さ十二間、幅十六間の大燈籠は中々の大仕掛にて、一度之を転ずれば、中より一人の童子顕はれ、獅子を冠りて所作を演じ、再度転じて一面の滝となるなど、実に人形とは思はれずとの評判にて、開場早々より大入を極め居るといふ」(やまと)。

「観世物小屋の休業 目下、回向院に於て執行中なる京都嵯峨釈尊の出開帳を当て込みに、境内所狭きまで観世物小屋を掛け列ねたる中にて、最も評判好きは小娘達の球乗り・力持ちと、大坂登り大燈籠の仕掛人形活人形にて、この二小屋は建物の高く聳えたる為め、一昨日の風当(あたり)強く、太(いた)く屋根を吹き捲くられて太夫元の大騒ぎ。何所(どこ)から手を着けん様なく、夕刻風の鎮まるを待ちて修繕に取掛りたる位なれば、無論同日は休業し、昨日も開場は平日より余程時間の後れたるならんといふ」(時事)

○七月十六日、東京新吉原遊園地検査場の横手にて、鈴木孫十郎の軽気球。(詳細不明)。(東京朝日新聞79

 「来る十六日、藪入を当込に新よし原遊園地検査場の横手にて、午後一時より六時までの間に風船乗の興行ある筈。乗手は日本のスペンサーと云るゝ元下谷警察署巡査鈴木孫十郎氏にて、余興には市中音楽隊の奏楽あるよし」

 〈編者註〉これは実際に行われたどうかは不明。

○七月二十七日、横浜市雲井町にて、鈴木孫十郎の軽気球乗り。(低空昇騰)。

(東京朝日新聞725/時事新報729731

明治24年 005「[広告]技芸師鈴木孫十郎 来る廿六日午後三時より六時迄横浜市雲井町に於て軽気球乗離の技芸を演ず、四方の紳士淑女来観あらんことを希望す、但雨天順延す 上等五十銭 中等三十銭 下等十銭 但軍人学校生徒の証ある御方は半額之事」(東京朝日725

「風船乗鈴木孫十郎氏は、去る二十六日午後三時より、横浜市雲井町の空地に於て其技を演ずる筈なりしも、同日は生憎午後五時頃より降雨の為め、一昨二十七日に延期し、同日午後六時より上騰せんとせし折柄、気球損所を生じ、瓦斯の漏泄甚しく、僅かに二三十間位上騰せしのみなりしかば、不日再演の筈にて、入場者には夫々半札を渡し閉場せしと云ふ」(時事729

「前号の紙上に去る二十七日、鈴木孫十郎氏が横浜に於て気球に昇りたる事を記せし中に、球に損所を生じたる為め瓦斯の漏泄甚しく、僅かに三十間の高さに昇りたるに過ぎざりしかば、日を改めて更に昇天の技を試ろむるよし記せしが、当日同氏は六千尺の所まで昇騰すべき予定なりしも、刻限の後れたりしと、且つ空際風強く、地を離れること二千二三尺の所まで達したるも、猶此の上昇れば、球は元より海上に飛び去るべく、己れも亦海水の中に墜落するの必定なるより、遂に意を決して球を放ち、下り来りて簡単の演説を為したるものにて、上昇中も種々離れたる技芸を為し、観る者をして其大膽なるを感賞せしめたりと。因みに記す、氏は来月早々東京に於て興行を為すといふ」(時事731

○七月二十八日より、富山県魚津町にて、松旭斎天一の手品
  (「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○八月九日、東京日本橋区中洲にて、鈴木孫十郎の軽気球乗り。(軽気球破裂)。(読売新聞811

 「中洲の軽気球破裂して騰らず 一昨九日、日本橋区中洲に於ける気球上騰は、乗手は予て好評ありし鈴木孫十郎氏の事にしあれば、美事にヤツテ退けん事必定ならんと、同日は午後三時過ぐる頃より中洲一円非常に雑沓を極め、場内の観客無慮千五六百余の多に達し、桟敷土間とも寸地を余さず充満し、中には朝鮮人及菊五郎、栄之助、菊之助其他二三の俳優も見受けぬ。何(いづれ)も熱心に上騰を待ち居る中、漸く六時に至り、技芸師鈴木孫十郎氏は最(い)と身軽の服装にて出で来りしも、当日は中々風も強かりしゆゑ、一体中止すべき筈なりしが、曩に同所に於て或風船乗が乗損ねて、遂に逐電したる例もあり、間もなく今度の興行なれば、万一仕損ずる様の事ありては、益々中洲興行物の信用を失ふの恐れあれば、仮令無理ながらも演じ終らんとの決心にて、瓦斯を焚き始めたりしに、さなきだに河風烈しくして、軽気球は前後左右へ吹き煽り、為めに幾分の瓦斯は外部に漏出せしかば、凡十五分間にて充満する筈なりしも、一時間余も費していまだ充分ならざれば、猶ほ薪木を増し、石油を多量に注掛(そそぎかけ)て火力を強め、一同奮て力を用ひしかば、漸く八九分に満るを得たり。是に於て技芸師鈴木氏は気球に駕する用意をなす折しも、風いよ〳〵烈しくて、気球を煽り動かすことます〳〵強く、遂に鉄の如き釣紐と摩擦して気球の上部、俄然破裂し、洩れ出づる黒煙は沸濛天を掩うて立ち上れば、観客の半ばは又しても風船乗の失敗、敢て珍らしもあらねど、万一詐欺ならば其罪憎むべしなど言ひ捨てゝ場内を退くものもありしが、後に残りたる一群の人々、大に不服を唱へて、場代金取戻し方を掛合ふものありて、中には暴行も為し兼まじき族(やから)もある様子なれば、詰合の警官はそれ〳〵注意を加へ、その入場券を證として木戸場代金を返付せしめたり。又当日の諸雑費及び気球修繕費を合算する時は、凡そ三百五六十円余の損耗なれど、発起者は毫も之に屈せず、来る十五日頃を期し、再び興行して今回の失敗を雪ぐべしと憤慨し居る由」

 〈編者註〉「時事新報」(812)が「風船から烟」、「郵便報知新聞」(811)が「中洲の風船乗り」の見出しで失敗談を伝えている。この後、鈴木孫十郎はどうなったのか。「東京朝日新聞」(1126)に次のような記事が出ている。「日本風船乗り鈴木孫一(ママ)は興行の都度失敗を取りしにもめげず、尚練習の功を積みて好結果を表はさんと先日来引続き一週日の間、白金三光町に於て風船乗りの試験を行ひしが、何時も瓦斯の膨脹力弱くして上騰せず。同人も頗ぶる感憤し、更に千葉県下習志野に赴むき、好良の成績を見るまでは幾日にても試験を為す覚悟にて一昨廿四日同地に向ひ出発したり。」そしてこれが彼の最後の記録である。



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明治24年(1891年)九

○八月九日より、東京日本橋区中洲にて、フルストン(マルストン)氏の西洋奇術七変化。興行人宮永幸太郎。

(読売新聞810827/時事新報815

「昨九日より日本橋区中洲に於て宮永幸太郎が興行する伊国人コルスト氏の発明に係る西洋奇術七変芸は、最初観客の眼前にて張子の首を検査(あらた)め、やがて之を卓上に据へ置けば、忽ち美人となり、忽ち骸骨となり、花籠となり、鳥籠と変じ、終に幻となつて全く影を絶つ等の奇芸なる由」(読売810

「日本橋区中洲町に興行中なる変形術師フルストンは非常の大入なりしが、都合により一時休業せしも、それ〴〵支度整ひしを以て昨廿六日より更に硝子壜中へ数多の錦魚を遊泳せしめ、瞬時に錦魚を氷に変ぜしめて来観人に与へ、或は目前にて白紙へ自身の姿を撮影せしむる等、種々嶄新(めあたら)しき芸を演ずる由にて、毎日午後三時より同十一時まで興行すると云ふ」(読売827

「マルトンの奇術 明治四年より墺国に渡航して、今度帰朝せしといふ奇術師マルトンは、去る八日より昼夜二回宛中洲町に於て手品を興行し居れり。今其七変化といふを聞くに、最初張抜の首を台に載せて据置き、咄嗟の間に肉色を顕はして活けるが如く、忽ち髪を戴きて一個の美人と為り、目元涼しく、愛敬満面に溢れ、観る者をして坐(そぞ)ろ愛恋の情を生ぜしめるや否、一喝すれば見るも嫌らしき骸骨と化けて、一呼吸の間に無常を感ぜしめ、其変幻不可思議に驚く内、又も美麗なる花籠と為り、再び張抜きの首となり、茲にて観客新陳の交代を為す由。夜間は納涼がてらに入場する者多しと云ふ」(時事)

○八月九日より、京都南演劇場にて、シユルバーマンの妖魔術。興行人奥田弁次郎。(日出新聞88

 「[広告]元祖伊太利亜魔法つかい いよ〳〵八月九日より毎日午后一時開場 四条南演劇場に於て 技術士伊太利亜人シユルバーマン 興行人奥田弁次郎」

○八月、宮城県仙台市東一番丁にて、親鸞上人一代記の生人形。(「奥羽日日新聞」815

「東一番丁に興行中なる活人形の大入なることは已に前号に掲載せしが、尚ほ其客高を聞くに、去る十一日は千三百人、翌十二日は千四百八十人なりしと云ふ。〔編者注=演目は「親鸞上人一代記」〕」

○八月某日より十一日まで、富山県高岡市○三座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○八月十五日より、石川県金沢市馬場戎座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○八月二十四日より、香川県高松市東座にて、三代目早竹虎吉の軽業。(「香川新報」821

 「延寿閣にては、昨夜より西洋手品が始まりたり。是れは新規なる技術にて、余程目先の変ったものなりと口上看板に見へたり。又「…三代目の早竹虎吉と名乗る軽業師は、明後二十三日入込み、翌四日より東座に於て例の固有早業の外に、風船乗等の技をも演ずると」

○八月、富山県富山市総曲輪にて、桜綱常吉の綱渡り。(「北陸政論」830

此程より富山市総曲輪にて興行中なる桜綱常吉一座の綱渡りは余程危険なる妙芸を演ずるより、観客は覚はず汗を握るよしにて、毎晩一千五百人もありとか」

○九月一日より、東京浅草六区にて、大蛇の見世物。興行元渡辺佐七。(東京朝日新聞830

「大蛇の見せもの 渡辺差七といふ人興行元となり、来る九月一日より浅草公園地第六区にて興行する印度産の大蛇は、長さ一丈三尺余、檻の中に投与ふれば豚でも犬でも一口に喰ふといふが、まさか灰吹の蛇でもあるまい」

○九月十六日より、大阪千日前奥田席にて、博打の見世物。(大阪毎日新聞916/大阪朝日新聞918920

 「骨牌使用の興行 南地千日前の奥田席にて、来る十七日より玉屋小市と吉田虎造の両人が骨牌四十八手の使用(つかいわけ)を興行して、骨牌を弄する事の不可なるを示すとの事」(大阪毎日)

「八々、トランプ等の見世物 一昨十六日より千日前奥田席にて開場せる見せ物は、トランプ、カブ、花合せ、一銭銅貨抔を自由自在に使ひ分け、自分なり人なり自由に勝つ事の出来る工合を示すものにて、実に怖しきまでに巧みなる由なるが、其内にも札の吹取り三枚札を手の甲に付る事、二枚の札を一枚他人の懐中に投込む手際などは、実に魔法でも使ふかと思はれる程なるが、種仕掛などは少しもなく、全く熟練の業なるよし。右は世間の心得違が例のインチキ抔に掛りて酷い目に合は、皆斯様ないかさまに掛(かかる)のだぞと云事を示すものにて、太夫は多く手クラの手練者が改心して堅気になりしものなりとぞ」(大阪朝日918

「見せ物差止 八々、トランプ等の見せ物と題して一昨日の紙上に載せた千日前奥田席の見せ物は、風俗を紊すの虞あるにや、一昨々夜、其筋より差止られたり」(大阪朝日920

○九月中旬、福井県照手座にて、松旭斎天一の西洋手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)

○九月二十日より、東京浅草文楽座にて、橘小民部の幻妙術。(読売新聞918

 「文楽座の幻妙術 来る二十日の夜より浅草猿若町の文楽座に於て橘小民部が幻妙術(手品の類ひ)を興行する筈なり」

○九月二十日より、名古屋市浪越公園内にパノラマ館が開館。(「パノラマ」の項参照)

○九月二十五日より三十日まで、名古屋八百屋町久松座にて、エ・ナフタリーの人体解剖蠟細工

(金城新報919262729104

 「蠟細工の人形 本日午前九時より向ふ一ケ月間当市八百屋町久松座に於て澳(ママ)国人ナフタリー氏の発明に係る蠟細工の人形を見せる由にて、木戸は一人五銭なりと」(919

「人体解剖の蠟細工 当市八百屋町久松座に於ては昨日より人体解剖の蠟細工及び米国製のテレスコツプ(世界有名の故跡等を仕組みたるもの)を一見せしむる由にて、尋常の見せ物と違ひ、東京などに於ては殊の外博士仲間の賞賛を得たるものなりと云ふが、這(こ)は学問上の裨益となるべきものなれば、就て一見すること利益あらん」(926
            

明治24年 007

     

「[広告]当市八百屋町久松座に於て僅か日数間開設する人体解剖蠟細工及び世界有名の大古跡大部の景を仕組たる亜米利加製テレスコツプは、今般東京より到着候ものにして、本会は独乙国製造悉く蠟を以て模造し、人体諸機関の構造衛生生理を示せば、老若男女の別なく一見して其の他の見せ物と異り利益的の者たる事を知るべし

通券料大人小人金五銭 廿五日より 午前九時初午后十二時迄 会主 柴田忠五郎」(927

「美術的人体解剖蠟細工 過般来当市八百屋町久松座に於て開会せる美術的人体解剖蠟細工は墺国エナソタリー(ママ)氏の開く所にして、其の表看板には魯国陸軍中将チヤラカイフイシ及び美人ペルユアの肖像、仏普ストラスグルグ接戦、英京龍動の市況等の図を掲げ、内には蠟細工に係はる西班牙希代の美人アルガリート女の肖像、瑞典国一妊婦の生産を大医ヤコブ、スフマイエル氏が其腹壁を切開して胎児を挽き出す有様は真に迫り、其他希臘有名の強力者ヘルヨリース氏の筋肉発育の模造其他、女体三十八部を解剖したる者を縦覧せしめ、又た特別室には男女梅毒症の現象を模造したるものを示す等、尋常一様の見物と異なり、随分参考ともなるべきものなり」(929

「(前略)八百屋町久松座の蠟細工の観覧物(みせもの)は去る三十日から停止になり、昨日ついに養生相叶はずして、コタコタ荷造りをなし、凡(およそ)二三十輌ほどの車に積んでヤンヤ〳〵と何處かへ去り(後略)」(104

〈編者註〉理由ははっきりわからないが、三十日にその筋(警察)より興行停止を命じられた。これにより久松座座主柴田忠五郎と興行借受人脇田鼎の間に契約上のことで一悶着があったが、どうにか解決し、十月三日、ナフタリー一行は荷造りをして名古屋を後にした。



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明治24年(1891年)十

○九月三十日、横浜山手の公会堂(パブリック・ホール)にて、米人FA・ワイマンのローラー・スケートの曲
 芸。
(時事新報927/東京朝日新聞927

「輪上奇芸 米国人ワイマン氏は、来る三十日午後九時より横浜山ノ手会館に於て、輪上奇芸を興行する由なり」(時事)

「米国人の輪上奇芸 来る三十日の午後九時より横浜山手会館に於て米国人ワンマンといふが世界独歩輪上奇芸を興行する
  よし」(東京朝日)

○九月、大阪千日前奥田席にて、アイヌの物産展。余興にアイヌ人の手踊りを見せる。(大阪毎日新聞922

 「北海道土人踊り 今回北海道の吉田立平氏が発起にて同地の海陸物産の展覧会を千日前奥田席にて催ふす由にて、同氏が持来りし物品には頗ぶる目新しきもの多く、余興として土人が手踊りを見せんと、膽振国山城郡長萬部村メイスケ事反目音吉(六十三)、同忰シユリカ事鹿吉(二十六)、同村富子虎蔵の長女ハルカ事はる(二十五)の三人を伴ひ来たり、北海道名物熊祭りの例式の姿にて異様の冠を頂き、陣羽織の扮装(いでたち)も実地を見せ、且つ踊りは数種ある中に鶴舞の如きは尤も面白し。尚又ハル女が追分ぶしは其音声美妙にして、三味に合すは今回が初めなるよし。因に曰、此メイスケ等は熊猟師にて一見山男の如く、総身に長毛を生じ、酒は五升、鮭は二尾、日本の薩摩芋などは十七八個は一時に食すると云ふ」

○九月、東京回向院にて、秋田県の獅子踊の見世物。(「秋田魁新報」91

「昔し奥州の安倍貞任を征伐したる前九年の役に、八幡太郎義家がなが〳〵の戦役に軍気の沮喪するを憂ひて、軍人を励ます為め陣中に於て獅子舞を催したる事あり。此遺風の今に伝りて、奥州志田郡松山といふ処にては年々此の踊りあり。殊に豊年の際には其の祝ひとして踊るものとなし来れるを、今度、同地の本宮庄平と東京蛎殻町一丁目高橋某が発起にて、本所回向院に興行するとのよし。其踊の数は大略七通りにて、即ちハチヒテ踊・案山子踊・笹踊・綱踊・牝獅子掛合・三人狂・墓踊也。一踊り毎に唱ふる所の歌あり(歌は略す)。本県北秋田郡及び山本郡、由利郡などにも此の踊り伝りて、豊年には村毎に踊り出し、大太皷に笛の調子にて、頗る勇しきものなり」

○九月より、名古屋大須真福座にて、鏝細工。(金城新報929

 「大須真福座で此頃より開場した鏝細工は(略)綿に土もて掛物を拵らへ、客の眼前で種々の細工をして見せるなど実に驚く名人がついて来ての手際だから、正(しょう)の物、正で見せるとは此観せもの。殊に一昨日から新地芸妓一色のきんと玉田屋の長吉の似顔を出したが、丸で其当人を見る如く、人か土か是れが細工かと思はれ見とるゝにつこり笑ひさうで気味が悪い位ゐですが…」

 〈註記〉『近代歌舞伎年表・名古屋篇』より孫引。

○十月二十一日より、大阪千日前木村席にて、油絵の見世物。興行人奥田弁次郎。(大阪毎日新聞1022

 「油画の観せもの 南地千日前木村席にて奥田弁次郎が昨日より興行せる油画の見せ物は、真田の投槍、業平の東下り、桜田雪の曙等総て二十余種ありとの事」

○十一月二日、大阪難波に百花園が開業する。(大阪毎日新聞113

 「百花園 今度堂島米商仲買人西山萬助氏等謀りて、南地元萬国名所の後へ百花園なるものを設けて昨日より開業せり。園内に多くの菊花を植ゑ、處々に茶店を設け、いと盛大に其式を挙げたり。今後同園内には海外の珍しき花、池には種々の魚を集め、望みのものには植木も販売し、又席貸等もする由」

○十一月二日より、山梨県甲府競花亭にて、森島駒吉の魔法奇術。(「峡中日報」111

「競花亭にては、明晩より森島駒吉の一連を招き、魔術奇法を演じて一番観客の荒胆を打挫がん覚悟なりとは、左ても凄し
  き意気込と云ふべし」

○十一月三日より、京都南座にて、力持ちの大寄せ。(『近代歌舞伎年表・京都篇』)

○十一月二十日、侯爵池田章政が東京芝区白金猿若の邸新築祝いに皇太后、皇后両陛下を招待し、浅草の娘玉乗り等
 を余興に供す。
(読売新聞1120

 「娘玉乗の名誉 今廿日午前九時三十分御出門にて両皇后陛下には白金なる池田章政氏の新邸へ行啓あらせらるゝに付、同家にては種々お慰みを天覧に供せらるゝ中、浅草公園内の娘玉のりも召されし由」
〈編者註〉この娘玉乗は青木(瀧次郎)一座である。明治31年四頁参照。

○十一月、大阪千日前の各席にて濃尾地震(1028日)関連の見世物が多く出る。(大阪毎日新聞1123

 「千日前の地震 (前略)同所の奥田席で今日より愛岐両県震災の幻燈を昼夜興行なし、此の上り金の内幾分か遭難地へ義捐するよし。又た木村席は地震の小生人形、その隣が地震の眼鏡、少し離れて石田席は同幻燈と夫々興行なしゐるゆゑ、千日前は宛然(まるで)地震だらけ。お客は彼方(あっち)を見たり此方(こっち)を観たり、身体がユサ〳〵する計りならむ」

○十二月、兵庫県姫路市の養気座にて、松旭斎天一の手品。(「松旭斎天一興行年表」の項参照)


 [参考文献]

『郵便報知新聞』(復刻版/明治56月~明治2712月)・柏書房・平成元年~。

「読売新聞」(読ダス/明治7112日~)

「大阪毎日新聞」(毎索/明治211120日~)

「大阪朝日新聞」(聞蔵Ⅱ/明治12125日~・

『時事新報』(復刻版/明治1531日~明治407月・刊行中)・竜渓書舎・昭和61年~。

「日出新聞」(マイクロフィルム/明治184月~)

『毎日新聞』(復刻版/明治1951日~明治39630日)・不二出版・平成5年~。

『東京朝日新聞』(復刻版/明治21710日~)・日本図書センター・平成4年より。

『都新聞』(復刻版/明治211116日~)・柏書房・平成6年~

『国民新聞』(復刻版/明治2321日~明治281229日)

『明治の演芸』(全八巻)・倉田喜弘編・国立劇場芸能調査室・昭和五十五年~。

〈編者註〉同書より孫引きした記事は、新聞名を「 」で括って区別した。

『近代歌舞伎年表・名古屋篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成二十年。

『近代歌舞伎年表・京都篇』第二巻・国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編・八木書店・平成八年。

『五代目菊五郎自伝』尾上菊五郎述、伊坂梅雪編・先進社・昭和四年。

『明治座物語』木村錦花・歌舞伎出版部・昭和三年。

『松本喜三郎』大木透・昭文堂書店・昭和三十六年。

『見世物はおもしろい』(別冊太陽123)平凡社・平成十五年六月。


 [蹉跎庵だより]その二十四

 スペンサーとボールドウィンの軽気球の熱気は年を越えても冷めず、一月には歌舞伎座で尾上菊五郎がスペンサーを演じ、我こそは日本のスペンサーなりと自称する連中が、次々と軽気球の昇騰を試みた。しかし、菊五郎が大入り、大当りを取ったのと対照的に、鈴木孫十郎をはじめとする和製スペンサーたちはことごとく失敗し、あげくに詐欺行為として逮捕される者まで出た。日本の軽気球の歴史に語られることのない一頁である。

さて、「時事新報」(812)にこんな記事が出ている。ここはやはり菊五郎に締めてもらうに如くはないだろう。

「菊五郎のスペンサー 本年一月菊五郎が歌舞伎座に於てスペンサーの風船乗りを勤め、大造(たいそう)に評判好く、大入りを掲げたる程なりしが、一日舞台を空際と見做して那落に落ちし時、踏み辷りて足を傷めし事ありしに、其後伊藤辰蔵とかいへる男が大触れ込みに広告して、千歳座の焼跡なる那落の中より気球を満たし、横木に腰掛けたるも、球の力軽かりし為め二度まで遣り替て、那落の底を一寸だに離れざりしを、菊五郎が聞て、我は風船に乗りて那落の下に落ち、彼は気球に乗らんとて那落の底を離れず、好一対の茶話なりといひし事のありしに、去る九日、日本のスペンサーを以て自任せし鈴木氏が昇天の技を試みるに至らざる内、気球の破裂して失望したる現場を見ての事か、但しは人伝てに聞きてか、技術上の評は見ざることゝて下し難けれども、この梅幸が扮せしスペンサーの風船は瓦斯を満たすの面倒もなければ破裂の気遣ひもなく、三十日余りノベツに宙乗りして客足を繋ぎ、我ながら年の今十歳も若くば実地宙乗りの稽古をして、外国の役者に日本の菊五郎といふ名前で風船乗りの演劇(しばゐ)を為さしめんとまで意気込みたれど、年老ひては妻子が許さず、されど今日までは日本のスペンサーはこの梅幸のみと戯れたるよし」。

(平成23715日記)



misemono at 14:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)