チャリネの曲馬
2015年01月09日
チャリネの曲馬 一
チャリネの曲馬

はじめに
一、「見世物興行年表」よりチャリネの曲馬に関する記事を抜き出し、来日以前から東京日本橋中洲の興行までを十五項目に分けて集成した(下表参照)。なお、項目は「年表」にそのまま残した。
◆来日以前
◆横浜居留地① 明治19年(1886年)7月17日(18日)~8月25日頃
◆東京築地秋葉原 明治19年(1886年)9月1日~明治19年10月30日
◆吹上御苑の天覧 明治19年(1886年)11月1日
◆東京築地海軍原 明治19年(1886年)11月3日~12月13日
◆東京浅草公園 明治19年(1886年)12月15日~明治20年1月13日
◆東京靖国神社 明治20年(1887年)1月15日~明治20年2月8日
◆横浜吉濱町製鉄所跡 明治20年(1887年)2月11日~明治20年2月21日
◆神戸鉄道局空地 明治20年(1887年)2月27日~明治20年3月10日
◆大阪梅田停車場 明治20年(1887年)3月11日~明治20年4月6日
◆京都御苑 明治20年(1887年)4月8日~明治20年4月19日
◆長崎大浦居留地 明治20年(1887年)4月24日~明治20年4月28日
◆中国からの電信
◆横浜居留地② 明治22年7月22日~明治22年8月21(22)日
◆東京日本橋中洲 明治22年8月25日~明治22年9月25日
一、新聞記事の再録にあたっては、仮名遣いは旧のままとしたが、漢字は一部常用漢字に改め、句読点は本文・広告とも適
宜施した。
一、掲載新聞一覧及び参考文献は巻末に示した。
一、上掲の写真はホームページ“CIRCOPEDIA”より拝借した。
◆来日以前◆
ジョゼッペ・チャリネ(Giuseppe Chiarine)は1823年(文政6年)、ローマに生れた。代々サーカスの家柄で、ジョゼッペも幼くして馬を巧みに乗りこなすなど、多芸、多才の少年であった。十六歳の時、サーカス団に加わって東欧からロシアへ巡業に出たのを皮切りに、ロンドン、パリなどを廻り、1853年(嘉永6年)アメリカへ渡った。1856年(安政3年)自身のサーカス団を組織し、キューバ、ドミニカ共和国、メキシコ、ブラジルなど西インド諸島から南アメリカ諸国を巡業し、成功を収めた。その後、アメリカのサンフランシスコに拠点を置き、アメリカ諸都市、西欧諸国を廻り、1873年(明治6年)からオーストラリア、東南アジア、インドへ足を延ばした。この頃の正式な名前は“Chiarine's Royle Itarian Circus”で、そのテントには3,000人の観客を収容できたという。1880年(明治13年)、メルボルンを振り出しに二度目のオーストラリア巡業に出、東南アジア、インド、中国を廻り、1886年(明治19年)のはじめホンコン、フィリピン、マカオで興行したあと、7月に横浜に到着したのである。(以上、ホームページ“CIRCOPEDIA”の‘Giuseppe Chiarine’の項による)。
初来日の四年も前に、チャリネ一座の評判を聞き及び、日本公演を実現せんと接触を試みていた人物がいる。大阪千日前の奥田弁次郎である。海外の情報などほとんど入ってこない時代に、どうしてそのことを知り得たのか。彼の興行師としてのネットワークの広さ、先見性の鋭さには驚かされる。以下はそれを伝える記事である。
明治15年9月3日 京都滋賀新報(『明治の演芸』)
○世界大興行 当時、清国上海にて興行中なる万国に其名を轟かせし伊太利国芸人社会の巨珠なるチャァリーネー(芸名)が興行元にて、来る十月より我邦東京、大阪、筑前博多の三ヶ所にて興行する万国一大興行会は、乗馬五十頭、猿猴十疋、狒々一疋、唐獅々二頭、大象二頭、猛虎九頭、黒虎二疋、猩々一頭にて、技芸者一百人。右は来月上旬大坂に来る都合にて、同地有名なる興行家奥田弁次郎方へ、去る二十五日、「地所千六百坪を悉皆テント張にする用意ありたし」との照会ありたりと。
明治15年9月5日 郵便報知新聞
○先月中の紙上に記載せし当時清国上海にて興行中なる伊太利国芸人社会の巨擘チヤアリーネーが獣演劇は、いよ〳〵来る十月に日本に渡り、東京、大坂、博多の三ヶ所に於て興行するよしにて、去る廿五日、大坂の興行元奥田弁次郎方へ照会したるが、右に付き率来る猛獣は虎九頭、大象二頭、獅子二頭、獼猴十疋、黒虎二頭、猩々一頭、乗馬五十頭、伎芸者百人なれば、地所千六百坪残らずテント張を要す云々と申越せしといふ。
明治16年2月21日 朝日新聞
○南地千日前観せもゝの頭取たる南区高津三番丁奥田弁次郎は、何がな珍らしきものを興行して非常の利を網せんと、種々思慮を運(めぐ)らせしをりから、伊太利国人チヤリーネー氏の大曲馬は万国無類といふことを聞き、之を我国へ雇来て一番世人の目を驚かさんとの考へより、自分の常抱への足芸軽業の名人両国松之助に大金を持たせ、芸道研究の為西洋諸国を廻り、處々興行してのち帰国のをり、彼のチヤリーネー氏を雇ひ同道して帰れと言付け、洋行せしめたれば、頓(やが)て松之助は上海へ渡り、夫より香港、寧波等を経、諸国で興行せしうち、我国にて外国人の興行はならぬといふ達(たっし)の出でしゆえ、弁次郎も大ひに失望して、早速其由を松之助の興行先へ通知し、代りに其金を以て何なりと珍しきものを買ふて来いと申遣はしけるに、松之助も弥々(いよ〳〵)近日帰国するに付、其節はエリファント(英語にて象)、タイガル(虎)、ライオン、マンキー(白猿)の類を買ふて帰るよしの電報が着せしといふから、定めし開場の上は一当あたるであらうと今から南地で頻りに評判して居るよし。
チャリネの曲馬 二
◆横浜居留地・第一回◆(7月17日[18日]~8月25日ごろ)
明治19年7月16日 時事新報
○動物の観世物 伊太利人フランケジーウエルソンなる人は先般横浜へ渡来せしが、我国に於て動物の見世物を興行して大利を博せんとて、象虎馬等の珍獣奇畜等を、上海より汽船横浜丸にて齎し来り、一昨日午後横浜に安着したれば、追て相当の地を撰んで諸人に縦覧せしむるとのことなるが、其前に横浜在留の有志者の求めに応じ、本日頃より山手共同公園に於て右動物を陳列し、象虎等の手品を興行すると云ふ。
明治19年7月17日 毎日新聞
○曲馬及び動物の見世物 有名なるシヤリニーは其一行の芸人と共に我国にて一興行せんと、先きに其事務掛り某を派出して興行の準備を為さしめ、近日汽船にて上海より横浜に到着せしが、此一行中には猛獣を自由に使ひて種々の芸を為す人も組合ひ居り、或は獅子の檻内に入りて其口中に頭を差入るゝもあり、虎の背に跨りて走るもありて観る者をして絶叫せしむる奇術を為す由。曲馬の方は馬能く人語を解して人と共に種々の芸を為す等、何れも懸け離れたる芸なりと。此一行の携へ来れる動物は馬四十頭、獅子二頭、象二頭、虎一頭、大蛇二頭にて、上海より横浜までの運賃のみ千八百円を費せし由。此連中は横浜山手共同公園に於て動物手品を興行し、続て東京にても興行せんものと適当の地所を尋ね居る由に聞けり。
明治19年7月18日 改進新聞(『明治の演芸』)
○曲馬と動物の見世物 有名なる曲馬師シカリニーは、其の一行の芸人と共に上海より此程横浜に着したる由なるが、此の一行中には猛獣を自由自在に使ひて種々の芸をなす人も組合居りて、又は獅子の檻内に入りて其口中に頭を差入るもあり。又は虎の背に跨りて走るもありて、見物人をして胆を潰さする奇術をなす由。又曲馬は、馬能く人語を解して人間と共にいろ〳〵の芸をなす等、何れも懸け離れたる芸なりと。此の一行の携へ来れる動物は、馬四十頭、獅子二頭、象二頭、虎一頭、大蛇二頭にて、上海から横浜までの運賃のみが千八百円を費せし由。此連中は横浜山手共同公園に就て動物手品を興行し、続て東京にても興行せんとて、昨今其の地所を尋ね居る由なり。
明治19年7月18日 毎日新聞[広告]
チャリネ氏大曲馬及び獣苑大展覧
右大曲馬及び獣苑大展覧の儀は、来る七月十七日より二百六十八番乃至二百七十二番地即元仏製鉄所の向ひなる空地に於て興業致候。其場所には広大なる天幕を張り、衆覧に供するものは、従来日本に渡来せる諸興業中最大最壮の盛観にして、之が為め六万平方尺の土地を要す、且其展覧場は美麗なる飾燈を以て其偉観を助く、且此一行及器物動物等を上海より横浜まで運送するのみにて三千弗を費せしを見ても其規模の壮大なるを知るに足るべし。
獣苑には動物界中左の猛獣を容る。
一、セイロンより来れる馴錬せる象。
一、アフリカ洲の獅子の一欄、是は始めて日本幷に東方諸国に渡来せるものにて、則獅子王の称号あるゼーン、アバシー氏の出品にて、同氏自ら其欄中に入る。
一、印度ベンゴールの虎の一欄、是は印度にて有名なる虎遣者なるゼームス、フレーム氏の出品にて、同氏又其欄中に入
る。
一、セバス則印度にて神聖視せらるゝ家畜及び芸犬の一群。
一、マダガスカルよりの奇体なるサイノセブラブ、是は人間の如く乗馬に巧みなり、又巨蛇の生物及び乗馬に巧みなる猿あ
り。
一、エマスと称するヲーストラリヤの巨鳥等。
シグノル、チャリニは始めて日本に猛獣展覧を興業するの栄誉あり、実に此猛獣のみにても見料に直(あたひ)するものな
り。
王号伊太利曲馬は、旅興業者中最善の名誉を得たり、且其演ずる所新規且巧妙にして観客を悦ばしめ、或は感ぜしむ。其馬は皆有名のものにて、能馴れたる事比類なし。
幕明きの前一時間、戸外にて音楽を奏し、無代を以て自由に衆人に聞かしむ。興業は毎夜八時に開場にて九時より始まる。土曜日は午後三時に開場四時より始む
特別上等席椅子六脚付キ十三弗五十銭、上等椅子付キ二弗、中等椅子付キ後部一弗、下等五十銭 十年以下ノ小供は半料ノ
事
千八百八十六年七月十五日 フランク、ジー、ウイルソン
明治19年7月20日 毎日新聞
○横浜の大曲馬 近頃評判高き同曲馬は一昨日午後八時より居留地吉濱橋際二百七十二番地の原にて興行す。景況の一斑を記すれば、其場所は一町四方の広さにて、大幕を張り、場の側(からは)らに奏楽あり、無料にて衆人の聴くを許す。本場に入れば、獣類の並列あり。此所を過ぎて曲馬場に至れば、一大天幕を張り、瓦斯燈を点じ、客の席は上等中等は椅子を備へて、下等は階段を置き、頗る整頓せる有様は我見世物小屋の比にあらず。九時に至れば、鳴鈴一声音楽を奏す。楽罷(や)むや否や、曲馬に掛れり。其中道化も交りて面白く、又二頭の象が鼻にて喇叭を吹き、オルゴンを奏し、直立の人を鼻頭に掛け、人の頭を口に入るゝなど、又猿が馬上の芸などは実に獣類とは思はれざる程能く馴れたり。終りに一人の男が虎三頭の鉄柵中に飛入、猛虎をして種々の芸を演ぜしめ、火を点ぜし輪を抜けさする如きは頗る喝采を博し、十二時に至り全く閉場す。此日の見物は外国人多く、支那人[破損]日本人僅かに十名程なりしと。
明治19年7月21日 毎日新聞[広告]
チャリニ氏ノ曲馬及び獣苑大展覧
此奇異偉壮ノ興業ハ旧仏蘭西製鉄所ノ向ヒノ空地ニ於テ毎夜(日曜日共)八時ヨリ開場、九時ヨリ技ヲ始ム。但毎土曜日ニハ遠隔ノ地ニ住シ夜中来観ニ便ナラザル子女家族ノ為ニ、特ニ午後三時ヨリ開場四時ヨリ技ヲ始ム。此曲馬連中ハ其技手ノ熟練ト、所有者ナル「シグノル、シヤリニ」指揮其宜ヲ得エルトニ因リ、世界中有名ナリ。殊ニ「シヤリニ」ハ世界各所ニ於テ興業スルコト既ニ三十有余年ナリ、而テ日本ニ来ルモ今回ヲ以テ二回トス。又今回ハ日本政府ノ許可ヲ得テ日本各都会ノ地ニ於テ興業セントス、実ニ此展覧場ノ如キハ観客ヲシテ愉快ヲ感ゼシメ、大ニ志気ヲ鼓舞セシム
特別上等席椅子四脚付キ九円、上等二円、中等一円、下等五十銭 十年以下ノ子女ハ半價ノ事
場内ハ専ラ衛生上ニ注意ヲ加ヘ、空気流通宜キハ亦他ニ比類ナシ
明治19年7月21日 毎日新聞
○横浜大曲馬 前号にも記せし同興行場にては、悪疫流行の折柄、会主の注意にて場内に医師を詰めさせ、予防に注意する
とのこと。
明治19年8月2日 時事新報
○曲馬興行 伊太利国より先頃渡来して目下横浜港に興行中なる曲馬師は、近々府下京橋区木挽町十丁目の明地に於て興行
すべき筈のよし。
明治19年8月25日 毎日新聞
○外国人の曲馬 予て横浜にて興行中なりし伊太利人の曲馬は、尋常の興行物とは異り、技師二十一人、音楽師十五人、馬三十五頭、獅子三頭、虎三頭、象一頭、大蛇三疋、猿十三疋其他種々の獣類ありて、中々面白く、大に内外人の喝采を得たるものなるが、近々東京へも来り、采女ケ原にて一興行するとのことなり。
チャリネの曲馬 三
◆東京外神田秋葉原◆(9月1日~10月30日)
明治19年8月31日 読売新聞
○外人の曲馬 今度伊太里より渡航したる曲馬師数名を、伊国公使館に雇るゝ何某が雇ひ入れ、外神田秋葉の原にて曲馬を催す由にて、昨日既に小屋掛に取掛りしといふ。
明治19年9月1日 時事新報[広告]
世界第一チャリネ大獣苑興行曲馬興行広告
❍来る九月一日より東京外神田秋葉原に於て毎日曲馬及び其他種々の技術を興行仕候間賑々敷御遊覧之程奉願上候
一、男女人の曲馬 一、滑稽踊 一、男女人の体操及軽業 一、茶番狂言 一、玉擲 一、棒の諸芸 一、獅子の狂言 一、印度虎の狂言 一、猿犬の狂言 一、象の狂言 一、米国人フレマール氏と獅子及虎の角闘
❍右は未だ曾て日本国に渡来したる事なき新曲馬及び獣苑に御座候。尤場所の儀はテントを張り、空気最も清涼の仕掛なれば、御見物の御人には流行病等の御心配もなく、殊に場内には横浜ホテルより出張し清涼の飲料を供すべき店も有之候間、御懸念なく御見物可被下候
❍場内の燈光は米国新発明の者にて場内宛も白昼の如く御座候
興行動物の名称
アフリカ獅子、印度国パナレスの虎、象、野猿、印度の神牛、南米国ブラジル産の大蛇、オースダリの大鳥、其他印度北方小島の猿類
遊覧券代價
❍最上等四人桝金八円❍上等一人椅子金一円❍中等椅子金五十銭❍下等金二十銭
❍十歳以下及兵卒は半代價。但し最上等を除く
❍下等一人の婦人客は婦人席にて御覧に入候
動物縦覧の儀は毎日午前九時より四時迄の事、但し土曜日曜を除く
❍動物遊覧の代價は、大人十銭・小兒五銭
特別注意の事
諸芸毎日の興行は毎夕正七時より相始候、但入場券は六時より売出申候
❍土曜日日曜日の興行は三時より一切、七時より一切り。但興行一時間前より入場券売出申候
❍土曜日日曜日動物縦覧の儀は、興行一時間前に無料にて奉御覧入候
八月三十一日 書記マアヤー

明治19年9月1日 朝野新聞
○未曾有の大曲馬 今夕より一週間内、毎夜正七時より、外神田秋葉神社の空地にて興行する伊太利人チャリネ氏の大曲馬は、未曾有の大仕掛にて、何れも奇妙の芸なるは、曩に横浜にて興行の節西字新聞にも見えたるが、就中一婦人が馬上に於て種々の挙動を演ずるの後、馬背より倒(さかさま)に落ち来り、僅に足の五本の指にて馬首に吊り下り、馬と共に縦横場内を廻るの一技は、実に危険の離れ業にて、是にても二十銭や三十銭の価ありと云ふ。其他猛獣との格闘及滑稽所作事、軽業等種々の奇芸あれば、一覧の上其虚ならざるを知るべし。
明治19年9月1日 時事新報
○獣苑、曲馬興行 本日より外神田秋葉原に於て興行する伊国渡来の獣苑幷に曲馬は、余程趣向の変りたる者にて、獅子、象、虎の狂言、米国人フレマール氏と獅子及び虎との角闘、大蛇、大鳥の見せもの等にて、右は横浜にて興行し、頗る内外人の喝采を博したるものなれば、府下にても当りを取ることならん。尚詳細は本日の広告を見るべし。
明治19年9月3日 時事新報
○チャリネ大獣苑曲馬 は外神田秋葉原にて一昨日より興行せしが、獣苑及び曲馬場は総て天幕を以て蔽ひ、獣苑には象、虎、獅子、大蛇、大鳥、野猿類あり。曲馬場には中央に円形馬場あり。入口に対して音楽場あり。馬場を廻つて椅子を列ね、後面下等席は段階子様の腰掛にて場内凡そ三、四千人を容る可しと見受けたり。興行は毎夕正七時より始め、一昨日の興行は第一音楽。第二チャリネ氏金ピカに装飾したる乗馬八人の男女を指揮し、或は二匹づつ駈け、或は三匹づつ駈け、行止自在の妙を顕はせり。第三はヘスリー、ワルトル両小童の体操及び軽業にて、両竿を立て之れに一竿を架し置き、其竿上にて交る〴〵諸芸を演じ、或は足一本を竿に掛けて全身を廻転し、或は竿上よりモンドリ切って数歩の外に飛び下る等、最も喝采を博したり。第四チャリネ氏ビルマ国の馬を遣ひ、第五シルベタル氏乗馬猿を指揮し、猿が乗馬して駈け行く其中間に布匹を平面に張り置けば、猿は其布匹を飛び越えて、其下を潜ぐる馬の背に飛び付くなど面白く可笑し。第六フランス女、一本足の顔を異様に塗りたる二人の男を指揮して滑稽踊を為し、第七男女二人の乗馬狂言にて、男子両馬に跨りて立ち、女子を其上に直立せしめて駈けたるなどは中々軽き手際なりし。是より十五分間の中入ありて、第八音楽。第九仏人アバデ氏象を指揮す。第十オラン女の乗馬踊。第十一英人ゴットレフ氏の滑稽茶番。第十二チャリネ氏の指揮にてデユク馬の踊。第十三英人三名にて滑稽を演ず。第十四セテネー氏の一家族男女四人の軽業。第十五米国人フレム氏鉄牢中にて虎を使ふ。是れにて当夜の興行を了りたるが、其興行時間は七時より九時半頃迄にて、場中には米国新発明と称する一種の瓦斯を点ぜり。当夜は初日ゆゑか観客場の四分通りを埋むるに過ぎざりしが、近頃類なき大仕掛の興行されば、随分一覧の価あるやう見受けられたり。
明治19年9月3日 朝野新聞
○チャリネ大獣苑并曲馬 過日横浜にて興行し、非常の喝采を博したる世界第一チャリネ大獣苑并に曲馬は、一昨日より外神田秋葉原にて興行せり。場は大なる天幕を張り、中に数百の椅子と腰掛とを並べ、瓦斯の光は爛々として場内に輝き、楽隊楽を奏し、演技者は七時の時計を合図に□□なく演芸を始めたり。其技芸の巧妙なるは看客の絶えず喝采をなすにても知られたり。殊に第六番目に演ぜし盛飾せし男女二人の曲馬并に第八番に演ぜし少女の曲馬は、看客をして尤も其技芸の巧妙なるを驚かしめたるものゝ如くなりしが、只遺憾なりしは、日本人の癖として七時に始ると聞き八時比より出掛け来りし者多かりしにて、存外看客の少かりし事なり。精しくは猶ほ記する所あるべし。
明治19年9月4日 郵便報知新聞
○獣苑大曲馬 前号に記せし如く、世界第一チャリネの獣苑大曲馬を去る一日より外神田秋葉原に開場せり。頗る大仕掛にて、天幕四個を張て其場とす。広さ大凡二千坪程なるべし。木戸を入て次を獣苑とす。種々猛悪珍奇の獣畜を飼養す。次は曲馬場にて、中央に丸形の演技場を設け、周囲を観場とす。上等の場所は椅子を列し、下等の場所は階段を五段に架せり。外に楽屋あり。米国新発明の瓦斯燈を点ずる為め、場中白昼の如し。毎日午後七時に開場し九時に終る。其演技の目録は左の如くにて、其奇其妙、実に筆紙に尽し難し。
第一 音楽
第二 男女九人にて乗馬狂言但チャリネ氏之を指揮す
第三 小児の体操及軽業ヘスリー、ワルトル両人
第四 ビルマ国の馬踊但チャリネ氏の指揮
第五 猿の乗馬狂言シルベタル氏の指揮
第六 一本足人の滑稽踊りミスフランス女の指揮
第七 男女二人乗馬の狂言
十五分間中入
第八 音楽
第九 象の狂言但仏人アバデ氏の指揮
第十 ロラン女の乗馬踊
第十一 英人ゴツトフレ氏の滑稽茶番狂言
第十二 デユク馬の踊但チャリネ氏の指揮
第十三 英人三人にて滑稽を演ず
第十四 セテネー氏の一家族(男女四人)の狂言
第十五 印度バナレス産大虎と米国人虎遣ひフレム氏の格闘
チャリネの曲馬 四
【東京外神田秋葉原・続】
明治19年9月4日 時事新報
○チャリネ曲馬を東京にて興行する事に就ては、目下悪疫流行の際、警視庁にても一時之を許可せざりし由なるが、チャリネ氏は伊藤大臣へ宛て一通の願書を差出し、其中仏国などにては曲馬其他の興行を保護し、興行税も取らず、公園の地所も無代にて貸し渡す等の特許を与るは、閣下がが欧陸遊覧の際目撃実験せし所ならん云々の文意もありしかば、時節柄にも拘はらず右興行を二週間許可することになりし由。チャリネ氏は右曲馬興行の勧進元にして、最も動物を慣らすの妙を得、諸動物は興行場にて氏の命を聴くのみならず、平常氏の其前を出入する折には諸動物は皆な敬礼の意を表するを例とす。又此興行連中に一本足の米国人二名あり。此者は米国の兵卒にて、南北戦争の役に両人とも弾丸の為めに片足を傷けられ、遂に之を切断したる由にて、胸に其折の勲章を帯び、米国政府より養老金として一日一弗ヅヽを受け居れりと云。又此連中の音楽師はボルネヲ、スマトラ辺の馬来(マレイ)人種なるが、其容貌骨格、日本人に酷肖にして、少しく色の黒きを覚ゆるのみ。一昨日の某新聞が、此音楽師を日本の海軍の非免職者なりと誤認したるも無理ならぬことなり。又此興行に就き、其向きの日本人は、木戸の処に来りて、例の流義にて、無用なる草履を売り、下駄を穿きたる者は是非之を買はねばならぬ訳にて、徒に出入の混雑を来すを見て、チャリネ氏は下駄にて苦しからぬを何故斯く邪魔をするにやとて、日本にて斯かる興行に付属する弊害の多きに困却し居る由なり。
明治19年9月5日 朝野新聞
○世界一の曲馬 雲水漁史
世界第一の評を博したるチャリネの曲馬が、曩(さ)きに清国上海にありて興行せる、日支那新聞にて其状景を記せるを見て、我に縮地の術あらば一飛して上海に至り、其盛景を見んものをと思ひしに、今は既に我が東京に来り、去る一日より外神田なる秋葉原に興行する事とは為りぬ。漁史が行きて見しは第二日目にて、即ち一昨々日なり。場は三個の天幕を張り、前なるは獣苑にして、茲に獅・虎各三、象二、蛇二、及び猿猴、大鳥を養ふたり。中央なるは技場にて、中に円形の埓を設け、之を環(めぐり)て客坐を作りたるは、稍(やや)角力の場に似たり。後なる天幕内は楽屋に供し、紅帷を垂れて技場と隔て、技場の後辺には壇を架して楽師鼓笛を奏するの場となせり。技は午後七時を以て初めたり。
初めは亮々として笛起り、鼕々として鼓和し、音漸く高くして、節亦た漸く繁なり。其の音愈よ高くして、其の節愈よ繁なる處、只だ看る後面の紅帷高く揚げ、四双の騎者得々として場に臨み、右なるは男、左なるは女、各一様の粧をなす。天鵞絨(ビロード)の衣裳は黒くして光り、繍綃の胸飾りは青紅交も映じ、燦然眼を奮はんとす。既にして並で羅馬数字の「11」字を為し、開く漢字の「八」となり、環て和字の「の」を為し、輪転縦横、圜(めぐ)り数丈の間、千里飛騰の観を為し、僅に八疋の数、万馬突出の勢あり。忽にして鼓笛急なり。八馬分れて左右に立ち、路開く処、一騎跑して中央に臨む。衣粧一層美はしく、馬亦健なり。是れ即ち技師長チャリネなり。鞭を挙げて一呼すれば、八馬再び遷転し、合して一列となり、離れて双々となり、九馬部伍を分てば三三「巴」字を為し、其環る風車より疾し。人汗を握り、興正に闌なる時、九馬一跑して去る。風の俄に已むが如く、唯喝采の声と鼓笛の裊々(じょうじょう)として余音を残すを聞くのみ、於是第一技了れり。第二技は二小児の滑稽軽業にして、第三は双馬の舞踏なり。小児の滑稽は洋語なれば、人により隔靴の憾あるべく、双馬の舞踏、総て人意の儘なるは、麻姑(まこ)の爪を假る如し。第四猿猴の女粧して花帽を頂き、馬背に在て狂言を為すは、能く衆人の頤を解く。第五片足者二人の滑稽狂言は、両足具全者と雖も及ぶべからざるの妙あり。之が合方たる某女が仰臥して手足を伸べ、大男の片足者をして掌上に舞はしめたるは、古への趙飛燕をして跣足で走らしむべしと雖も、其卑猥なる様を彼の人々の同国人にて東京に在留する者に一見せしめば、嗚呼と嘆ずること、猶ほ日本村落の日本人に於ける如きあらんか。第六に双馬が男女を乗せて並走するに当り、馬上の人は殆ど平地を行く如く、飛跑しながらにして、或は立ち、或は坐し、忽ちにして左右地を換へ、俄にして片手を男の頸に掛くれば、女身斜めに空中を架して、燕の茲に飛ぶが如し。喝采の声地に湧て起る。第七に二象の狂言あり。能く馴れ、能く働けり。第八に少女の曲馬あり。其出るや、面薔薇の如く、腰楊柳に似て、粧飾燦然、未だ技を演ずるに及ばずして喝采先づ四方に起る。其技は第六に似て、更に軽妙なり。第九滑稽茶番了って、第十の曲馬初(はじま)る。是れ此日の一奇観なり。技飾は男子にて、馬上ながら衣を改め、三度早や替りを為し、末に至り、銀甲粲然として、左に鉄楯を翳(かざ)し、右に「サアベル」を掲げ、前敵を衝き、飛丸を避け、憤闘突出の状を為し、風起り、蹄鳴り、満場どよめき渡りて、姑(しば)しは鳴もやまざりし。最後に鉄檻を押し来りしは、即ち三虎を入れたるなり。看客スハとて堅唾を呑みて、汗を握り、目睫(またたき)もせず控たり。身に紅白だんだらの衣裳に銀線を入れたるを着て、手に細鞭を提げ、徐々として場に臨み、看客に向て一礼を為したるは、即ち虎つかひなる英人某なり。某が自ら檻戸を開き、ヒラリと其中に飛入りし時は、人々あはやと膽を冷やしたり。某は悠然として三虎の間に立ち、鞭を挙て一喝すれば、三虎躍て風を起し、且つ右し、且つ左し、縦横自在、唯某の意に従ふ。古人が虎穴に入るを以て英雄豪傑と誇りしも、是に至りて未だ多しとなすに足らざるを覚えたり。場散じて戸を出づれば、星斗闌干、夜風颯として来り、猶ほ於菟(おと)の耳辺に嘯くを聞く心地し、覚えず毛骨悚然たり。
明治19年9月5日 朝野新聞
○曲馬師の歎 目下外神田秋葉原にて興行中なる伊太利人チャリネ氏の大曲馬は、一昨日(三日目)より大入となり、千余人の観客を招くに至れり。此が日本の興行ものなれば大当とも云ふべきなれど、名にし負ふ欧米諸国の大都会にて興行する節は、何時も六、七千人の見物人あり。且政府の貴顕も縦覧し、又其筋にても興行税及地代等を取立ず、公園等を無代にて貸与し、其他種々(さまざま)と保護を与ふるの習慣なれば、今日本にて興行するに当り、地代を取られ、興行税を課せらるゝを何か不親切の如く思ひ、千人位の見物にては役者が多人数なれば、百余円宛の損毛なりとて、痛く歎息し居れりとの事なるが、此興行は公告の出し方も遅く、又芸道の巧拙、興行場の衛生法如何等に付、まだ世間の評判も立たざれば、悪疫の盛なるに恐れ、群集の場へ近寄るを忌み、躊躇する者の多きより、実入も少かりし次第ならん。去れど昨今に至りては、頗る世上の評判を得たれば、追々観客を増加し、勧進元の愁眉を開くは請合なり。
明治19年9月5日 郵便報知新聞
○獣苑大曲馬 外神田秋葉原に於て興行の世界第一チャリネ獣苑大曲馬興行は、前号に掲げし如く、去る一日より開場す。其の場の概況等は前号に掲げしが、一昨夜(三日目)一見せしを以て其大略を再記す。乃ち午後七時開場を報ずる鳴鐘と共に、第一音楽。第二男女乗馬の馳駆を演ず。技者何れも金銀装飾の衣裳を着け、右往左往に乗り廻はす。動止自在にて、馬と騎者と一体の如し。チャリネ氏、之を指揮す。第三はスリー、ワルトル両童の体操にて、股木を設け、之に拠りて全身を廻転し、種々の軽業を演ず。軽捷驚くに堪へたり。第四はチャリネ氏ビルマ国の馬を遣ふ。其馬能く人語を解し、指揮に従ふて動く。最も妙なり。第五はシルベタル氏、女装せる小猿を馬に乗せて馳駆せしめ、三ヶ所に白布を平面に張りて、逸走の途を遮ぎる。馬は此下を過ぎ、猿は躍て其布を飛越へて再び馬上に立つ。幾回も之を誤らず。第六は一本足の男二人をフランス女指揮して滑稽を演ず。一本足にて鯱立ち又はトンボ返りなどするの妙、二本の足を有する者に優りたるを覚ふ。第七は小男女二人の曲馬にて、二頭の馬相並んで円形の技場を馳駆する間に、女子躍て男子の頭上に直立し、又は互に飛んで馬を乗り替るなどの早業、熟練とは云へ至つて無雑作にて、更に危険を感ぜす。右にて十五分時間休息。再び第八の音楽を以て場を開く。第九は仏人アバデ氏が大象を遣ふ。大象鼻を弄して踊り、或は樽の上に四脚を据へ、未に逆立ちなどなし、指揮に従て斯く大なる身体を自在に働かすは愛らしくありし。第十ロラン女の曲馬は最も巧妙にして、馬上に在る猶ほ地上に在るが如し、と云はんより寧ろ空中を飛走するの術ありといふべし。喝采〳〵。第十一英人ゴツトフレ氏の滑稽茶番狂言。第十二デヨク馬の踊りは別に奇と称する程の事なし。第十三英人三名の滑稽は、一人馬上に立て疾駆中三度衣装を更め、二人地に在て種々の諧謔を演ず。第十四はセテネー氏の一家族男女四人の曲馬にて、一人の小児父の肩より飛んで二間余を隔つ母の肩に移り、又セテネーの頭上に其妻を立たしめ、妻の頭上に小児を立たしめ、忽ち人間の塔を形くる等は実に世界第一の名を博せる技にて、悚然人をして寒からしむる程危険を覚へたり。第十五は米人ラレム氏、鉄柵中にて三疋の虎と格闘し、狗児を弄する如く猛虎を取扱ふものにて、凄まじくも亦恐ろしくありし。是にて閉場す。此夜は開場に際し驟雨を来たせしが、看客場に充ち喝采の声暫しも已まざりし。
チャリネの曲馬 五
【東京外神田秋葉原・続】
明治19年9月7日 朝野新聞
○チャリネ氏の曲馬 予て大評判を博したる秋葉原にてチャリネ氏興行の世界第一といふ大曲馬は、一昨々日及び一昨日の土曜日曜の両日は、一日に昼夜二回宛の興行あり。未だ切符を売出さゞる前より詰掛け、場外の雑踏は大かたならず。扨見物人は毎回凡そ四千余人の大入り(下等のみ)にて、為めに場所も崩るゝ計りなりし。場外にはゆで小豆、一杯五厘の氷水を始め飲食店軒を連ね、丸で縁日の如き有様なりし。
明治19年9月7日 読売新聞
○外国人の曲馬 神田秋葉の原にて去る一日より興行を始めたる外国人の曲馬は、曲馬の外に象、獅子等を使ひ、中々面白きより、おひ〳〵見物人が増すにつき、此機を外さず、明晩頃より曲を差替へ、是までよりは一層面白き技芸を演ずる由。
明治19年9月7日 時事新報
○チャリネ曲馬 去る四日は高崎知事を始め二三の顕官も同興行の見物に出掛け、殊に土曜日なりしを以て、観衆は随分沢山の様に見受しが、其の筋へ届け出の税金高(此税金は上り高の百分の五を収むるものなり)は僅に二十八円なりしと。
明治19年9月8 日 時事新報[広告]
大喝采〳〵〳〵諸君ヘ傳報ス
世界第一チャリネ大獣苑曲馬広告 一昨夕より新狂言興業
今般当地に於て右興業相開候処、諸君の大喝采を受け候に付、尚一昨夕より獅子と人の踊等、色々なる新狂言に差替御覧に奉入候間、賑々敷御来駕の程奉待候也
注意
毎夕午後六時より切符売出、正七時より興業相初候間、時刻を違へず御来車被下度候
❍遊覧券代價最上等四人桝金八円、上等一人椅子金一円、中等椅子金五十銭、下等金二十銭。十歳以下は半代價、但し最上等を除く
❍動物縦覧の儀は毎日午前九時より四時迄の事
❍土曜日日曜日の興行は三時より一切、七時より一切
九月六日 外神田秋葉原に於て 書記マァヤー白
明治19年9月11日 朝日新聞
[東京通信 九月八日発] 清国公使徐承祖氏は一昨夜秋葉の原にて興行のチャリネ大曲馬を遊覧せられたり。又此大曲馬は秋葉の原の興行を終はれば浅草公園地第六区にて興行するといふ。
明治19年9月15日 読売新聞
○寄書 曲馬を見るの記 礫川対岳翁
本月一日より神田秋葉の原にてチャリネ氏興行の曲馬は、其業いと珍らかなりと遠近に噂も高き故、己れも一両度見物に赴きぬ。先第一感服せしは興行の時間を違へざるの一時にて、従来我国の興行物は兼て披露せる時刻より後るゝは通例の如くなれば、看る人さへも怪しまず。流石に洋人はかゝる所に注意深く、夕の正七時より一分も後れず技芸を演じ初めたり。而して十数番の技芸を演ずるに当り、十五分の中入時間を除くの外、入替り立替り、聊かの隙間も無く引続き興行せしは、看る者をして少しも倦ましめず、之を在来日本人の興行物の優柔緩慢、長々しく口上を述べ立て、幕合を長くし、看客をして欠伸を堪へ、小言を言はしむるに比す可きに非ず。扨数番の曲馬の中にても、二匹の馬を並べ馳せて、男女之に跨り、馬上に於て互に技を演じて馬場を走る様は、尤も優れたるものにして、筆紙の尽すべきにあらず。其他の諸芸もすでに各社新聞の評言に詳かなれば今更蝶々せず。只感ずべきは、馬のよく馴れたるのみならず、虎及び獅子が興行者の指揮に随ひて豪も抵抗するの気色もなく、心の儘に立働くの有様なり。夫れ獅子は獣中の王なり。虎は他に比類なき猛獣なり。然るを夫れさへ斯くまでによく馴るゝは、全く興行者が之を幼きより畜馴らし、能く教へ仕込し故にこそあれ。(編者註:以下は教訓談となり、省略)
明治19年9月15日 時事新報
○チャリネ曲馬 秋葉原にて興行の同曲馬は昨日が日限なれば一時は同所を打上げ京橋区采女町に於て再び開場するとの噂もありしが、秋葉原は昨今頗る客足の付き来る處なれば、他方へ転ずるよりは寧ろ同所に於て引続き興行せんとて、尚向ふ十五日間日延することになりたりと云ふ。
明治19年9月15日 朝野新聞
○曲馬観覧 魯国公使并夫人は一昨夜、神田秋葉原のチャリネー大曲馬を観覧せられたり。
明治19年9月16日 読売新聞
○出板物 去る十一日出板の団々珍聞はチャリネ氏の大曲馬の図を着色石版摺として付録にしたり。
明治19年9月17日 毎日新聞
○秋葉原チャリネ大曲馬 は去十四日迄が日限(ぎ)りなれど、非常の大入に付、更に二週間の延期を願い出で、許可なりしと。此興行はなか〳〵の大掛りにて、道具其外の所用品は悉く興行先きの地へ持ち運ぶことなれば、曩(さ)きに横浜より東京へ来りし折りにも、五大力船六艘にて其道具を運び、凡そ千二百円余の費用掛りしといふ。又、座元のチャリネ氏は日々午前九時より十二時迄、馬の馴らしをなす由にて、昨朝は府下にて名ある馬技師一同を招きて我馬術を観せたるに、孰れも感じ入りて見えたりとぞ。又た此興行の非常の入りなるを見て、或る日本人は一日五百円の約束にて此興行を買はんと言込みたるよし。此相談は未だ極らざれど、兎に角、日本を打ち仕舞へば、一同清国天津に渡り、同所に一と興行なす積りにて、其節同地に於て売捌かん為の、此頃府下の絵草紙屋に出でし同曲馬の絵草紙凡そ四万枚を買ひ入れたりといふ。
明治19年9月17日 毎日新聞
○曲馬縦覧 東京第一調馬隊にては、来る十九日秋葉原の大曲馬を同隊調馬手卒に縦覧せしむるより。
明治19年9月17日 読売新聞
○曲馬日延 秋葉の原の外国人曲馬は、最初の内は広告の不充分なりし為め甚だ不入なりしが、昨今は非常の大入につき、十四日が日限の處、更に二週間日延をしたき旨出願、聞済になりし由。
明治19年9月18日 時事新報[広告]
大評判〳〵大喝采〳〵世界第一チヤリネ大曲馬
大獣苑新狂言第三回目広告
❍従前の狂言を相改め全く新興業に致し候❍男女曲馬の新狂言❍新滑稽狂言❍新茶番狂言❍其の他種々面白き新狂言を差替、或は未だ当地に於て御覧に入れざる新乗馬狂言を興業致候間、賑々敷御来車の程奉待候也
毎夜六時に入場券を売出、正七時より興行相始候に付、時刻を違へず御来場被下度候 土曜日曜の両日は午後三時より
遊覧券代價 最上等四人桝金八円、上等一人椅子金一円、中等椅子金五十銭、下等金二十銭
東京神田秋葉原に於て興行
九月十二日 書記 マァーヤ
明治19年9月18日 燈新聞(『明治の演芸』)
○チャリネ大曲馬 秋葉の原にて興行中なる大獣苑大曲馬は、既に去る十五日にて日限なれ共、中々盛んなる大入に付、更に同所に於て来る三十日迄興行したしと其すじへ願ひ出しに、直ちに許可を受しとのこと。
チャリネの曲馬 六
明治19年9月21日 時事新報[広告]
世界第一チヤリネ大曲馬大獣苑新狂言第四回目大変更広告
❍弊社の曲馬興行は再び御覧になる事は十年間も出来不申候間、今度を幸ひに御覧置被下度、為念申添候也
❍昨二十日(月曜日)より更に従前の狂言目録を相改め全く新狂言に致し候
❍男女曲馬の新狂言❍新滑稽踊狂言❍新茶番狂言❍其の他未だ曾て当地に於て御覧に入れざる種々面白き新狂言を毎夜差替御覧に入れ候間、賑々敷御来車の程奉待候也
❍毎夜六時に入場券を売出し正七時より興行相始候に付、時刻を違へず御来場被下度候 土曜日曜の両日は午後二時より切符売出し三時より一ト切興行相初め、夜は七時より相初め可申候
動物遊覧の儀は毎日午前九時より午後四時迄の事
遊覧券代價 最上等四人桝金八円、上等一人椅子金一円、中等椅子金五十銭、下等金二十銭 十歳以下は半代價、但し最上等を除く
東京神田秋葉原に於て興行
九月廿一日 書記 マァーヤ
明治19年9月21日 東京日日新聞
○チャリネの曲馬 秋葉の原に於て興行中なるチャリネの曲馬は、目下大入にて、去る十八日は日曜日の前日なるに付き観客も殊に多きが中に、西洋人七分にして、米国及び独逸の公使にも午後七時より観覧せられたり。
明治19年9月22日 朝野新聞
○曲馬新狂言 秋葉の原にて興行中なる大評判の大曲馬は、引続ての大入なれば、益す人気に投ぜんとの勧進元の心配にて、又々一昨夜より新狂言を取仕組たる由。顔見せ一番目の狂言は、女四人の騎手が先づ場中を乗り廻りて掛屋に還(かへ)り、夫より一人宛長鎗を携へ出で来り、予てマドロス等が長竿の尖(さき)に突挿し置く所の張子の人首を、駿足に乗馬を駆けしめつゝ美事に差し貫き、或は金環を高き處に掲げ置きて、之を鎗尖に突き貫く技と為す。次は例の一本足先生の奇々怪々なる体操。次は一少婦人の音楽に和して曲乗を為し、或は輪脱(わぬけ)を為すなり。次はチャリネ氏の指揮に従ひて二馬の種々なる技芸を為すは前回同様にて、此技の終るや、馬一頭は後に残り、一頭は掛屋へ引戻ると同時に、例の道化先生異様の扮装(いでたち)にて出で来り、紅白二筋の手拭を小箱の中に蔵(かく)し、或は土を掘りて之を埋むるに、馬は速かに此所彼所を嗅ぎ歩行(ある)き、小箱の蓋を開き、或は土を掘り返して手拭を見出し来りて、之を口に噛(くは)へてチン〳〵躍(おどり)を為す。是に於て又小児三人の軽業あり。十五分時間の休息あり。夫れより象の芸道は大概前回に同じけれど、只象が大樽の上にて四足を音楽に和して運転すると、鼻にて大鈴を鳴らし時を報ずるとは、今回初めての新芸なるべし。次に一少女の六馬を御して種々新奇なる曲乗りを為すなり。又一男子の面白き曲馬あり。最後には獅子遣ひが之をして種々の挙動を為さしむるの後、数万の癇癪玉を発し、パチ〳〵音のする中にて、一頭の獅子に一枚の仕切板を前後左右に飛び越えしむるなり。斯く是れ迄興行したる所より大に換りたる新狂言を差替へ、又騎馬の婦人が張り子の首級を突差し終るに当りて、四人各一発の短銃を首に目掛けて放射する等、頗る勇ましき技をも演ずる趣なれば、又一層(ひとしほ)の大入を取るべし。記者も猶実見の上詳細を記載すべけれども、興行の日数も早や終に近づきたれば、未だ一見せざる人は此際速に一覧あるべし。
明治19年9月23日 時事新報
○チャリネ曲馬 は一両日より目先き変りし新狂言を入れ替え、一層の評判なれば、本社社員も一昨夜往て一見したるに、最初は四人の少婦、何れも乗馬にて、手頃の槍を小腋(わき)に掻込み、羅馬の古戦況を演じたりしが、衣裳の粧飾、馬具の模様、綺麗を飾りて、叱咜奔馳の中に、或は架上の截首(張貫)を貫き、或は短銃を放て之を射落すなど、其手際なること衆目を驚かしたり。次でハーバー氏の躰操より引続き軽業狂言等あり。次はローランス少女の乗馬狂言にて、白馬の背に突立ながら、音楽に合せて踏舞しつゝ、裳(もすそ)に風を含ませ、泰然として馳する様は、画に画ける天女と見紛ふ程にて、悠に優しく見受けたり。偖て其次は、チャリネ氏の指揮にて二小馬の手踊を演ぜしが、氏は流石に此曲馬の老手と聞へし程ありて、其馬を馴らすの妙、手の指を使ふが如く、曲馬場の中央に起ちて、一令すれば両馬駢馳し、二令すれば両馬却歩し、三令すれば一馬左し一馬右し、左右相遭ふて互に前脚を屈し拝礼する者の如く、又接吻する者の如く、時としては両馬八脚を揃へて木柵を飛越るなど、何れも大喝采を博したり。次はミスストドリの駿馬曲乗にて、次は老蘭女子が四頭の馬に跨り、天国に通信するの有様、是にて十五分間の休憩あり。中入後は、一番に仏人アバデ氏、両象の指揮にて、一象オールゴールを弾じ、一象台に登て踏舞するなど、武骨殺風景の中に一種の可笑みを添へ、二番にストドリー氏の乗馬、三番にセラネー氏の一族男女の体操狂言、四番に黒馬の物探しは、例のチャリネ氏の指揮にて、ゴツトフレーが茶番狂言を交へ、紅白の手巾を筐中に蔵し、或は土に埋むるに、氏一令して白と云へば馬は直ちに馳せて白巾を噛へ来り、前脚を挙げて直立し、其主に渡すなど、斯くも仕込れたるものにやと場内動揺めく程なりし。次はミスストドリー氏兄妹の乗馬狂言、次は阿非利加産大獅子三頭と米人フレーム氏との格闘にて、此夜の演戯を終れり。同夜の観客は凡そ三千人内外なりしならん。或人之を評して、躰操軽業は本邦別に軽妙の者あり。鉄割駒吉の足芸の如きに至ては迚も秋葉原連中の及ばざる所ならん。又彼の馬上曲乗は、梯子乗、碁盤乗など是又本邦特有の芸ありて、ミスストドリー兄妹に優るもヨモ劣るとは思われず、唯々チャリネ氏が、障らず寄らず、舌頭を以て駿馬を左右せしむるに至りては、暫らく世界第一の称を与へて可ならん歟といへり。
明治19年9月29日 時事新報[広告]
世界第一チヤリネ大曲馬大獣苑新狂言第五回目大変更広告
従前の狂言目録を指替、又々面白き新狂言に致し、毎夜六時に入場券を売出し正七時より興行相始候に付、時刻を違へず御来場被下度候 土曜
日曜の両日は午後二時より切符売出し三時より一ト切興行相初め、夜は七時より相初め可申候
追告 土曜日曜両日午後御遊覧の小兒方には象に乗せ御遊せ申候
東京神田秋葉原に於て興行
九月廿九日 書記 マァーヤ
チャリネの曲馬 七
【東京外神田秋葉原・続】
明治19年10月2日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国世界第一チヤリネ大曲馬獣苑特別広告
先般暴風ノ為メ弊社大テント破損シ、已ニ新調ノモノ張替致候等、三千弗程ノ損毛ヲ蒙リシニ、付テハ従前ノ代價ニテハ御覧ニ入レ兼候故、明二日土曜日午後ヨリ更ニ左ノ代價ニ相改メ御覧ニ入レ候、尤モ是迄ハ動物遊覧料ノ儀ハ金十銭宛申受候得共、以後ハ無代價ニテ御覧ニ入レ可申候
入券一枚ニテ動物場及曲馬狂言自由ニ御覧被下度候
最上等四人升金八円、上等金一円、中等金五十銭、下等金三十銭、但シ八歳以下ノ小兒ハ半代價申受候
外神田秋葉原ニ於テ
十月一日 書記 マァヤー
明治19年10月2日 読売新聞
○曲馬延期 神田秋葉の原のチャリネの曲馬は殊の外大入につき、昨日より更に十五日間の日延。
明治19年10月2日 時事新報
○チャリネ曲馬 久しく神田秋葉ノ原にて興行中なるチャリネ曲馬は、相変らずの大入にて、猶本日より向ふ二週間新狂言と差替、興行するよし。尤も下等は是迄二十銭なりしを今度三十銭に引上たり。委細は本日の広告を見るべし。
明治19年10月3日 燈新聞(『明治の演芸』)
○チャリネの曲馬 秋葉の原にて久しい間興行するチャリネの曲馬は、去る三十日限りに打止め、再たび他所に於て興行するとの噂なりしが、尚同処にて二週間、新狂言を差替て興行するよし。二、三日前、俳優尾上菊五郎其外三、四名見物に出かけ、菊五郎は今度千歳座の新狂言へでも此曲馬を仕組つもりか、頻りに気を入て見物し、殊に一本足の人の撞木など詳しく聞合せて立戻りしより。
明治19年10月3日 読売新聞
○スリの取締 神田秋葉の原の曲馬場にては兼て場中取締の為め巡査五名を拝借してあるにも拘らず、懐中物や時計等をスリ取られる者が往々(まま)あるにつき、開業後二週間目より更に刑事巡査が三四名づゝ和泉橋警察署より出張して一層取締を厳重にせられしに付、其後は絶てスリ沙汰が無いとの事。
明治19年10月3日 朝野新聞
○チャリネの直(ね)上げ 興行以来評判の嘖々たりし秋葉原の曲馬は日々の大入りなれば、勧進元もこれではチャリネーことも有るまじと思ひ居たるに、月に雲、花に嵐と計り行かず、先日の嵐にチャリネはテントを吹き倒され、今度新調のものと張り換へたる入費は凡そ三千円計りなれば、此損毛を取り返す為めか何だか知らざれど、従前下等の二十銭を三十銭と改めたり。近来直下流行の折りからに独り直上げとは殊に御盛なことなり。イヨ「イタリアとでも誉めませうか。
明治19年10月4日 時事新報
○チャリネ曲馬 各演劇場の悪疫流行を恐れて何れも閉場中なるを機として巨利を博せんと、先月来秋葉原に興行中なるチャリネ曲馬は、前号にも記せし如く猶二週間の追願を為して、下等の通券料は一人に付十銭宛引上たるが、一昨二日の土曜、昨三日の日曜抔は大入にて、価(ね)上の影響を被りし風情もなかりし。尤も一昨日より狂言も差替、演技時間も二十分間程を増せしよし。
明治19年10月5日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬 大獣苑幷動物狂言広告
❍昨月曜日(四日)より狂言を大変更し、全く新狂言に取替候間、賑々敷御遊覧奉願上候
❍チヤリネ氏は英国産駿馬に跨り大将の扮粧にて数頭の名馬を指揮するの狂言❍ストドリー氏黒き駿馬に跨り狐狩の有様❍滑稽踊❍倫敦府市民一家生活の為め労働するの有様
右毎夜六時より入場券売出し正七時より狂言相初可申候、但し土曜日曜の両日は是迄の通り興業可致候
東京神田秋葉原に於て興業
十月五日 書記 マアヤー
明治19年10月5日 朝野新聞
○チャリネの曲馬 秋葉原にて興業中なる大曲馬は昨夜より又新狂言に差換たり。其重なるものはチャリネが大将の扮装にて駿馬に跨がり、数頭の名馬を指揮する狂言、ストドリーが駿馬に跨りて狐狩の有様、美服を飾りし男女の乗馬狂言、倫敦市民の一家族が生計の為め労働を為すの有様其他滑稽踊等にて、直(ね)上げをした丈充分狂言で差会せをすると云ふ。又同興業を他へ移す抔噂ありしが、左ることは無く矢張秋葉原にて暫らく興業の筈なりと。
明治19年10月7日 朝日新聞
[東京通信 十月四日発] 神田区秋葉原にて興行中なる伊太利のチャリネ大曲馬は内外人の喝采を博し、本月一日より下等の分二十銭を三十銭に引上げたれども、来観人には一向直上(ねあ)げの影響もなきものと見え、一昨日の土曜昨日の日曜などは大入なり。此景気にては浅草公園第六区にて興行し、それより深川公園地并に芝愛宕下にて興行し、大坂より京都に赴き、それより豪洲に渡るとの事なり。但興行の場所は二千坪もある空地は得がたかるべしと思はる。
明治19年10月9日 時事新報
○チャリネ曲馬 北白川宮殿下には一昨二(ママ)日の夜、御息所御同伴にて、神田秋葉原に興行中なるチャリネ曲馬を一覧せられし由。又或る貴顕紳士の催ふしにて近々吹上禁苑にチャリネを招き、同曲馬を天覧に供し奉らんとの計画あるよし。
明治19年10月12日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ曲馬大変更新狂言広告
❍昨月曜日(十一日)より是迄の狂言を更に改め候間、御来見被下度候
❍ミスブランチ氏曲乗り新狂言❍トルコ国騎兵ト戦争の有様❍パリス府理髪店の有様茶番狂言❍笑ふて身体の膨張する新狂言❍アフリカ産小猿の競馬狂言❍役者の競走狂言❍チャリネ氏新馬術狂言❍男女滑稽踊茶番狂言
❍毎夜六時より入券を売出して正七時に興行
東京神田秋葉原に於て
十月十二日 書記 マァヤー
明治19年10月12日 読売新聞
○曲馬転地 チャリネの曲馬は日延々々でとう〳〵一月半興行せしが、尚今月一杯は今の秋葉の原にて興行し、来月一日より浅草公園地六区にて興行する由に昨日書記マーヤーより其筋へ出願したと云。
明治19年10月12日 朝日新聞
[東京通信 十月九日発] 伊太利のチャリネ大曲馬を 天覧に供せんと或方々の御話しもあるよしなれば、近日のうち濱の離宮か吹上禁苑の円馬場辺にて 御覧あらせらるやも知れず。
明治19年10月13日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ曲馬大変更新狂言広告
(編者註:10月12日の広告と同文。以下の分だけ追加)
来ル十四十五両日ハ神田明神ノ陰祭ニ付、土曜日曜日ノ如ク午後二時ヨリ一切リ興業仕候間御遊覧奉願上候
明治19年10月16日 時事新報
○チャリネ曲馬 は神田区秋葉原の興行を畢り次第、浅草公園内に於て更に一興行を試み、夫より尾州名古屋に赴き、爰にても一興行の上、大坂にて来る二十年の春を迎へ、更に清国天津へ渡航すべき見込なりと。
チャリネの曲馬 八
【東京外神田秋葉原・続】
明治19年10月19日 時事新報[広告]
世界第一伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬大獣苑新狂言広告
❍今十八日(月曜日)より従前の狂言を相替更に新狂言致候間、一層御愛顧を垂れ賑々敷御遊覧奉願上候
❍男女四人馬上曲乗❍ピーテドローチンド子の細き張金渡り軽業❍美麗なる小馬の踏舞手踊狂言❍一本足三人の軽業❍二人馬上曲乗り❍セテネ一家族応接場の新狂言❍ロヲン子の四頭小馬の曲乗り❍茶番新狂言
❍毎夜六時より入場券売出して正七時に興業相始候、時刻に違はず御遊覧奉願上候
❍土曜日曜両日は午後二時より入場券売出し三時より一切、七時より一切相勤め可申候
東京神田秋葉原に於て
十月十七日 書記 マァヤー
世界第一伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬大獣苑新狂言広告
昨十八日(月曜日)より従前の狂言を相替更に新狂言致候間、一層御愛顧を垂れ賑々敷御遊覧奉願上候
猛獣分娩特別広告
去る十九日の夜、神田秋葉原当興行場柵内に於て、印度国バアナル府産の牝虎、美麗なる子を分娩し、親子とも恙なく、実に珍らしき事に付、奉入御遊覧候、其子虎の名をローヤル神田タイガルと唱へ申候。尚当所興行の儀は来る廿四日(日曜日)限りとし、直に築地に移り興行仕候也
❍毎夜六時より入場券売出し正七時に興業相初め候間、時刻に違はず御遊覧奉願上候
❍土曜日曜両日は午後二時より入場券売出し三時より一ト切リ、七時より一ト切リ相勤め可申候
東京神田秋葉原に於て
十月十九日 書記 マァヤー
明治19年10月23日 東京日日新聞
○チャリネの曲馬 益田孝氏は来る廿五日、品川八ツ山の自邸へチャリネ氏の一行の内男女五、六名を招き、庭前に於て曲馬を催し、貴顕の方々及び馬好の紳士達を招待するよし。またチャリネ氏が連れ来れる例の鉄欄中の三頭の虎の内にて、一頭の牝が去る十九日午前二時頃俄かに産気つきて三疋の児を産みしが、母子何れも健なりと。虎は孕めること六ケ月にして分娩し、産後一週間を経れば目を開くゆゑ、母子ともに衆人の観覧に供するよしにて、子虎の名をば取敢(とりあへ)ず興行場所に縁(ちな)みてローヤル・神田・タイガーと名附たるよし。また秋葉の原をばこの廿四日限りに切り上げ、再び築地に於て興行をなすと云へり。
明治19年10月23日 郵便報知新聞
○曲馬興行 伊国公使は曲場師チャリネが秋葉原の興行を了るを待て同公使館に聘して其技芸を演せしめ内外の貴紳を招待して遊覧饗応する筈なりと。
明治19年10月24日 朝野新聞
○チャリネの曲馬 秋葉原にて興行するチャリネの曲馬は、来る二十六日にて一ト先づ同處を引払ひ、二十八日よりは改めて新狂言を築地なる元海軍原にて興行さるゝとの事なり。
明治19年10月24日 読売新聞
○チャリネの曲馬 麹町区平河町六丁目の堀通名が今度願人となり、築地三丁目の海軍省の御用地の原を二百八十坪余拝借して、来る十一月一日より十二月二十日まで曲馬師チャリネ氏を雇ひ興行いたし度旨、此ほど其筋へ出願のところ、昨日許可になッたといふ。
明治19年10月25日 時事新報
○チャリネ曲馬 同曲馬は明後二十六日限り秋葉の原を打上げ、一日間を置て、廿八日より築地海軍省兵学校向の逓信省商船学校用地に於て興行すべき筈なり。尤も同所へ移転の上は多少入場券の価を改正するといふ。
明治19年10月26日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬大獣苑移転広告
❍大幕殿内の馬上曲乗体操、軽業、チャリネ氏訓獣の狂言、今回築地三丁目に移転し、来廿八日より従前の通、毎夜六時より入券売出し正七時興業相始候、土曜日曜は午後二時より入券売出し三時より一と興業相始め、夜は正七時より相始め候 動物縦覧の義は毎日午前九時より四時までの事、但し日曜土曜を除く
❍初狂言には男女曲乗の段相勤可申候
❍右移転に付築地近傍数万の人民大評判にて、人力車夫等は曲馬場と獣園に乗客賑ふとて大喜に御座候、又見物諸君の便利の為め諸商売人群集して大賑なり
❍午後興業の時は御遊覧の小兒には象に乗せ御遊せ可申候、故又子供方には象に乗らんとて大喜なり。諸君必らず此大曲馬
を見るに後れ玉ふ勿れ
❍二三日前に分娩したる印度の虎の子三頭、一柵内に有之、日本開闢以来の珍物に御座候、母虎は乳を呑ませ深切に保育致し居候間、従前の通一層御愛顧御来観奉希上候
❍入場代價 最上等箱四人入金八円、同一人前金二円、上等同金一円、中等敷物付同金五十銭、下等同金三十銭 小兒及兵卒は半價、但し最上
等を除く 入場券一枚にて動物獣苑及び曲馬御覧に入候
築地三丁目旧海軍操練場に於て
十月二十四日 書記マアヤー
明治19年10月26日 読売新聞
○…目下日本に於て興業中のチャリネ氏が虎は此程三疋の児を分娩したり。
明治19年10月27日 時事新報[広告]
チャリネ大曲馬臨時広告
来ル廿八日ヨリ築地三丁目ニ於テ興業相始メ可申ノ處、弊社移転ノ都合ニ依リ今日ヨリ両三日間相延シ、従前ノ通リ神田秋葉原ニ於テ興業仕候、就テハ十一月一日頃ヨリ築地ニ開場ノ積ニ有之、一寸此段御披露申上候也
十月廿七日 書記マアヤー
明治19年10月27日 読売新聞
○曲馬移転 神田秋葉の原のチャリネの曲馬はいよいよ明廿八日より築地三丁目の旧海軍操練場にて興行致します。
明治19年10月27日 郵便報知新聞
○曲馬興行 三井物産会社の頭取益田孝氏は、前号に記せし如く、一昨廿五日午後三時より、芝高輪の邸に於てチャリネの大曲馬を催ふし、山縣、松方の両大臣卿、大蔵次官を始め内外の貴顕紳士数十名を招待して遊覧に供し、了て同所の観桜館に於て饗応せり。
明治19年10月27日 時事新報
○益田孝氏の宴会 前号に記せし如く益田孝氏は一昨二十五日貴顕紳士数十名を品川の観桜館へ招待して、余興にチャリネ
氏を招き曲馬の技を演せしめ伊藤、松方の両大臣も臨席したるよし。
明治19年10月27日 時事新報
○チャリネ曲馬 は明日より築地三丁目旧海軍操練場にて興行する筈なりしが、同地は訓盲唖院に接近し、生徒の授業其他に妨害あるを以て同院より故障を申出でたる由にて、目下掛合中なれば、明日よりの興行は一先づ見合する由。
明治19年10月29日 時事新報
○曲馬 各華族諸氏の催しにて近々濱延遼館を拝借し、同所へチャリネの一座を招き曲馬の技を演ぜしむる由。
明治19年10月29日 朝日新聞
[東京通信 十月二十六日発] チャリネの大曲馬は神田秋葉の原を去廿四日限りに引払、今度は京橋区築地三丁目に移りて来る廿八日より興行す。
チャリネの曲馬 九
【東京外神田秋葉原・続】
【絵画資料】
①≪大判錦絵三枚続・梅堂政信画・出版人福田熊次郎≫(「観物画譜」210/国立国会図書館蔵:「サーカスがやって来た」49頁/日本芸術文化振興会蔵/マスプロ電工美術館蔵)
(表題)一枚目右上「伊太利亜国チヤリ子世界第一大曲馬遊覧之図」。
二枚目上「今般伊太利亜国より我日本エ渡来せしチャリネ大曲馬並ニ獣苑を東京ニテ興行なせしに初日より大評判大喝采縦覧人ハ開場より木戸外ニ充満し近代目新しき景況なり」。
明治十九年九月六日御届。
〈編者註〉三枚の場面中に「男女曲馬」「婦人曲馬」「馬躰操」「猿の曲馬」「三人かるはざ」の文字がある。この錦絵は二枚目中央が子持ち絵となっており、以下の五つに変化する。
一、印度産虎の芸・米人フレーム。二、一本足芸・ウエルハーバウ・ミスフラン女・チヤリネ氏・トムハーパー・コツトフレー・道化茶番。三、印度国象の芸。四、米国人・英国婦人・英国婦人・米国婦人・男女四人花取の曲。五、馬おどり・テユクノ馬・チヤリネ氏・男女かるわざ。
なお、上掲の錦絵はホームページ「AK-Antiek」(ニュージーランド)より拝借した。
②≪大判錦絵三枚続・橋本周延画・出版人横山良八≫(国立国会図書館蔵:「サーカスがやって来た」51頁)
(表題)一枚目右上「世界第一チヤリ子大曲馬之図」。
三枚目左上「九月一日ヨリ外神田秋葉原ニ於テ毎日曲馬及ビ其他種々ノ技術興行」。
明治十九年九月六日御届。
〈編者註〉上掲の錦絵は「サーカスがやって来た」(51頁)より拝借した。
③≪大判錦絵三枚続・橋本周延画・出版人大倉四郎兵衛≫(「見世物関係資料コレクション目録」216頁・3-15)
(表題)二枚目上「世界第一チヤリ子大曲馬ノ図」。
三枚目上に「伊太利亜の大曲馬明治十九年九月一日ヨリ外神田秋葉原に於て興行ス」。
画面は三枚続のうち右より一枚目に「英人の乗馬早かわり、一本足の人二個、佛国婦人、亜布利加獅子、六歳の象狂言、濠州大鳥」、二枚目に「印度産虎、男女二人乗馬狂言」、三枚目に「猿の曲馬、ビルマ国馬踊、小兒二人体操、男女四人軽業」の絵が描かれている。
明治十九年九月三日御届。
〈編者註〉上掲の錦絵はホームページ「山田書店」より拝借した。
④≪大判錦絵三枚続・梅堂政信画≫(『サーカスの歴史』3頁/国立民族学博物館蔵:「見世物大博覧会」34頁)
(表題)「世界第壹チヤリ子大曲馬」。
明治十九年九月四日御届。
〈編者註〉上掲の錦絵は「見世物大博覧会」より拝借した。
⑤≪大判錦絵二枚続・出板人大倉四郎兵衛≫(国立国会図書館蔵:「サーカスがやって来た」52頁/日本芸術文化振興会蔵)
(表題)「世界一チヤリ子大曲馬並ニ大獣苑」。
明治十九年九月二十五日御届。
〈編者註〉上掲の錦絵は「サーカスがやって来た」(51頁)より拝借した。
※ ※ ※
⑥≪大判錦絵・三錦堂板・出板人坂井金三郎≫(「馬のサーカス・大曲馬」51頁/日本芸術文化振興会館/仙台市博物館蔵:『日本の浮世絵美術館』巻一)
(天に表題)「しんぱんチヤリネ大曲馬」。
画面に「ムマノタイソウ/ナ(サヵ)ケヲノム曲馬ワキモノヲイクマイモヌグ/ワヌケ/一人ニテ二疋ノ馬ノリ/ヌケトビ/印土国ナバレスノ虎・英国人ノ使/アフリカノ獅子/一本足ノ人・一本足ノカルワザ/天竺ノ産六歳ノ象/伊太利人ノ曲持/ロフマ国ノ馬ヲトリ」の文字。明治十九年九月十日御届。
〈編者註〉下掲の錦絵は「馬のサーカス・大曲馬」(51頁)より拝借した。
⑦≪大判錦絵・国利画・馬喰三木宗板・出板人小森宗次郎≫(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵:「馬のサーカス・大曲馬」51頁)
(天に表題)「新板いたりやチヤリネ座曲馬一」。
画面は三段に分れ、上段に「だいいちばん男女八人のじやめ(乗馬)けうげんらんのりハ見事なりきれいなり」、中段に虎三匹とライオンと動物使いの人物の絵の上に「異国人フレム氏のつこふとら三疋也/とらのすもうハじつにみのけもよだつばかりのげいにてけんぶつのめをおどろかせり/異国人フレツ氏のわざ也/からじゝのおどり大切にてこれハじつにはなれわざなり」、下段に「英人の馬のり/これハごくはやくむまをはしらせそのうへにたちてきものをぬぎ〳〵〳〵およそ十枚もぬぎてほうるなり/ロラン女壱人にて二疋の馬にのり凡四尺斗りのたていたをとびこす事けんぶつのめをおどろかせり」の文字。明治十九年九月 日御届。

⑧≪大判錦絵・国利画・馬喰三木宗板・出板人小森宗次郎≫(蹉跎庵主人蔵)
(天に表題)「新板いたりやチヤリネ座曲馬二」。
画面は三段に分れ、上段に「チャリネ氏馬乗のおどりハ絵にかいたうし若のよふで(不明)/このむまのかける事はやくしてしつにめをおどろかせり/チャリネ氏曲とひ はゞ九尺ばかりの紅白のぬのをとひこす(不明)」、中段に「ぞうのおどり しやちほこだちハかくべいじゝのよふにて妙なり/ヒルマコクノむまおどり むまの立てあるくわふしきなり」、下段に「一本足の人二人と佛国のふじんの(不明)」の文字。明治十九年九月八日御届。
⑨≪大判錦絵・近園版・画工兼出板人長谷川園吉≫(蹉跎庵主人蔵)
(天に表題)「東京秋葉ノ原ニ於テ興行イタリヤチャリネ座曲馬小屋動物」。
画面は三段に分れ、上段に「廣告 一、八円 最上等四人枡 一、壱円 壱人上等椅子 一、五十銭 壱人中等イス 一、弐十銭 々下等
一、小供半値段 但シ十才以下 但シ動物遊覧之儀ハ午前九時ヨリ午後四時迄 壱人前拾銭小供五銭 但シ入場券六時ヨリ売出シ イタリアチヤリネ座元」の文字。中段、下段に大獣苑の動物たちが描かれている。明治十九年九月六日御届。
⑩≪大判錦絵・梅堂政信画・出版人山村鉱次郎≫(川添裕蔵:「大見世物」89頁)
(天に表題)「西洋チヤリ子大曲馬図」。
画面に「曲馬/道化/大鳥/抜曲馬/象狂言/虎の芸/一本足芸/馬体操/二人乗曲/小児かるわざ/アフリカ獅子/ミスフエント婦人/ウルハーパー・トムハーパー/チャリネ」の文字。明治十九年九月 日御届

⑪≪大判錦絵・梅堂政信画・出板人日本橋区本町井上□次郎≫(くろねこ堂ホームページ)
(天に表題)「世界一チャリネ大曲馬」。
画面に「大虎の芸/シルベタル/チヤリネの□□に場中□□の乗り廻り/毎夕七時より始め十時ニ終り/猿の曲馬 □□ものを飛こへ色々芸あり/「馬の芸/小兒のかるわざ 木の上にておほくのわざをなす/象の芸 いやちほこだち、たるころかし其外はないきにて笛をふく/ビルマの馬(不明)/エグゼチア三人体操 かるわざ中かへり等さま〳〵のはやわざ」の文字。明治十九年九月 日御届。

⑫≪大判錦絵・馬喰三木宗板・画工兼出板人小森宗次郎≫(蹉跎庵主人蔵)
(天に表題)「新版伊太利亞チヤリネ座曲馬」。
画面に上段に「広告ノ写 一、八円 最上等四人枡 一、壱円 一人上等イス 一、五十銭 同中等 一、貮拾銭 下等壱人分 小供ワ半直段 但十才以下ノ事 但動物御覧の儀は午前九時より午後四時まで 壱人前金拾銭小供五銭 曲馬入場券は午後六時より売出し、午後七時より相始メ申候/これはまへきやうげんにえ花をとりツこする也」。中段に「わをとびぬけはやわざ/是は弐疋のむまに一人のりそのうへえまた一人のりていろ〳〵曲をするなり」。下段に「いたのうへにて上り下りする/ロフマ国むまのたいそう むまおどりよりきれいなり」。明治十九年九月十六日御届。
⑬≪大判錦絵・梅堂政信画・出板人日本橋区本町井上□次郎≫(くろねこ堂ホームページ)
(天に表題)「世界一チャリネ大曲馬」。
画面に「伊太利大曲馬/道化かるわざ/ダリヤネ/(不明)/曲馬 馬上にて引ぬき早がわり/場中米国発明のかゝりの者/英人コツトフリー/大鳥/一本足の芸 婦人と三人の狂言/ミスフラント女・トムハーバー・ウイルハーバー/チヤネ氏・□□の馬おどり □□したがひ色々芸なす/男女二人馬上芸/アフリカ産大獅子の芸 大切」の文字。明治十九年九月 日御届。

⑭≪大判錦絵・画工兼出板人菱本順三郎≫(蹉跎庵主人蔵)
(天に表題)「新板チヤリネ大曲馬の図」。
画面に「チヤリネ大曲馬/象のチン〳〵/英人の曲馬/インドサン大虎/一本あし/佛国婦人曲馬/婦人の軽業/一本足逆立/馬の御禮/半道異人/四ツ馬壱人ニテ乗/アフリカサンしゝ/男女四人の軽業/婦人のたがぬけ/鎮火神社/神田神社/あなたさかさまほら〳〵あぶない/なか〳〵あぶないことあります/大ひやうばんじや〳〵/わたくしみな〳〵上ずにやりません/あなたがたみるよろしい。明治十九年九月十三日御届。

⑮≪大判錦絵・幾飛亭画・出板人奥井忠兵衛≫(古書目録)
(天に表題)「イタリア国の大曲馬の図」。
画面に「チヤリネ氏/婦人の曲馬/一本足の芸/印度産象/一本足逆立/佛国の婦人/馬のちん〳〵/馬乗の所作/四人の軽業/猿の曲芸/虎の相撲/象の□□」その他(不鮮明で見えず)の文字。明治十九年九月御届。

チャリネの曲馬 十
◆吹上御苑の天覧◆(11月1日)
明治19年10月30日 読売新聞
○曲馬天覧 聖上には来月一日吹上の御苑に於て伊国の曲馬師チャリネの技術を天覧在らせらるゝに付、皇族及び大臣各国公使其他文武官有爵者の内を召させらるゝ由。
明治19年10月31日 郵便報知新聞
○曲馬天覧 聖上は明一日午後四時御出門 皇后宮御同列にて吹上御苑へ 行幸ありて、伊国曲馬師チャリニの技術を天覧あらせらるゝに付、皇族、大臣、各国公使、其他文武官、有爵者の内を召され、御陪覧を仰付けらるゝ趣。
明治19年11月1日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国世界第一チヤリネ大曲馬大獣苑広告
当所ノ興業ハ今土曜日二回ノ興業ヲ以テ千秋楽仕候
重大特殊之広告
今般畏クモ大日本 天皇陛下ノ叡慮ヲ蒙リ、追々準備相調ヒ候ニ付、来ル十一月一日ヲ以テ吹上禁苑馬場内宮中歴々ノ御前ニ於テ、非常絶妙ノ巧芸ヲ 天覧ニ奉供候
就テハ築地興業ノ義ハ来ル十一月三日天長節ヲ卜シ東京公衆諸君ノ御覧ニ入レ候間、一層賑々
敷御遊覧伏テ奉希候
十月三十日 神田秋葉原 書記マアヤー謹白
明治19年11月1日 時事新報
○チャリネ新衣を作る 本日はいよ〳〵吹上禁苑に於てチャリネ曲馬の天覧に付ては、過日来芸人等は其準備に忙はしく、所持の衣裳もふるびたるにや、新に之を製するとて尾張町一丁目四番地の洋服店高橋忠太郎方へ注文、大急ぎにて出来上りたりとの事なれば、本日は定めて一層の美観を添ることならん。
明治19年11月3日 東京日日新聞
○曲馬天覧の詳況 昨一日午後六時過より、予て仰せ出されし如く、伊太利曲馬の名人チャリネの一連を、辱くも吹上禁苑内に召させられ 聖上 皇后両陛下の 天覧を賜はりたり。当日宮内大臣よりは諸大臣、各国公使、元老院議官、海陸軍将校、在京地方官、華族有爵者、諸省勅任官及び新聞記者等へも特に拝観を許さるる旨を御通知ありて、入場の儀を案内せられたり。此の栄に与りたる方々は、午後四時頃より陸続参着ありて 臨御を待ち奉る。 聖上 皇后両陛下には午後四時の御出門にて、四時三十分過着御あらせられ、暫時紅葉の御茶屋にて御休憩あり。頓て用意も整備仕りぬとの合図に、御苑内に仕つらひたる天幕の中なる演技場に入御あらせ 玉座に就かせ給ふ。外国公使并に諸臣一同敬礼し奉り、楽隊楽を奏す。夫れより左の技芸を順々に演じて、天覧に供へ奉れり。
第一 奏楽。
第二 (男四人女四人)馬上曲乗狂言(但ミスヽ・フランチ女之れを指揮す)。
第三 セテネー兄弟の体操狂言。
第四 チャリネの訓授したる(フーガル、ポーミト)馬二頭の踏舞狂言(但チャリネ氏の指揮)。
第五 ミスヽ・イタ・ストドリ女の馬上曲乗狂言(但ゴットフレ氏の手合茶番狂言)。
第六 米国に於て高名なる役者ミスヽ・マルベル・フランス女及びトウム・ウイルハーバル、一本足の兄弟体操狂言。
第七 美麗なる豪洲産の黒王と称する黒馬の狂言(但チャリネ氏の指揮幷ゴットフレー氏の合手にて滑稽の茶番狂言)。
第八 ミスヽ・フランチ女が米国ケンタッキー州の戦場に出でしモントクリストと称する駿馬に跨り、場内を奔馳し、飛鳥の如く馬上横柵を飛越す技。
第九 チャーレス・ストドリ及びウイレール・ローラン両氏馬上ジョンブールの狂言(但ゴットフレー氏の合手にて面白き茶番狂言を演技す)。
十五分間休憩
第一 奏楽。
第二 印度国セーロン島に産出せる馴象(但仏国人アバーデ氏自由に之れを指揮し、予て訓授せる事柄を演ぜしむ)。
第三 ウイレール・ローラン氏の駿馬曲乗狂言並にゴットフレー氏の茶番狂言。
第四 英国に於て名高き逸物なる駿馬カブテンの狂言(但チャリネ氏之れに跨る)。
第五 (ミスヽ・イタ・ストドリ女、チャーレス・ストドリ氏)兄弟裸体の駿馬に跨り曲乗狂言。
第六 セテネー一家族四人にて体操軽業の狂言を演ず。
第七 美麗なる黒馬三頭の狂言(但チャリネ氏の指揮)。
第八 チャーレス・ストドリ氏裸体の駿馬に跨り、馬上曲乗の狂言。
第九 ウイレール・ローラン童子小馬四頭を併列し、之れに跨り、馬上自由に曲乗の戯芸。
第十 米国人獅子使なるフレム氏一人鉄柵内に入り、亜非利加産三頭の獅子と格闘の技。
何れも妙技なりし中にも、最も目を驚かせしは、第八番目のミスヽ・フランチと云へる、歳は二八計りの婦人が、米国にて戦場を踏みたりと云へる駿馬モントクリストに乗りて、或は一本足にて駈け、或は輪の中を飛び抜けては馬背に立ち、又たは横柵を飛び越す杯、種々の技を疾走せる馬上に演ぜし様は、恰も汽車の疾走せる屋上に燕子の止りては又た飛び、飛びては又た止ると同様の早術なりしに、一同は拍手喝采せり。ウイレルローラン童子が小馬四頭を併列し、之れに乗りて馳駈せしは、見る人々も手に汗を握りたるが、騎り手は左まで汗せし様子に見ざりしは、是れ亦た妙技とや云はん。又たチャリネ氏が高帽燕尾服にて英国産の駿馬に跨り、音楽に連れて場内を縦横自在に騎り廻はし、踏舞の足取りを馬足に見せたるは、実に熟練にして、馬に老練の陸軍武官達も大に感嘆せられたり。其の技の終りしは夜の九時頃なりし。両陛下は再び紅葉の御茶屋にて御休憩あらせられ、竜顔麗しく還御あらせられたり。そも宮廷の御催しに、新聞記者にも拝観を許されたるは特殊の 御思召しを推し量り奉らるゝに、皇宮警察官を初め宮内官員が、拝観の人々を丁寧に待遇せられたるは其の注意至れりと申すべし。
チャリネの曲馬 十一
【吹上御苑の天覧・続】
明治19年11月3日 時事新報
○宮廷録事 曲馬天覧 一昨日は曩に仰出されし如く、午後四時御出門、皇后宮御同列にて吹上御苑へ行幸在らせられ、御陪乗は徳大寺侍従長、皇后宮御陪乗は室町典侍、供奉は伊藤宮内大臣、吉井宮内次官、香川皇后宮大夫、田邊宮内書記官、竹内侍医、高倉典侍、小倉権典侍、唐橋掌侍、萬里小路権掌侍、園権掌侍、藤島命婦、西命婦、生源寺権命婦、平田権命婦、羽倉権命婦、御用掛山川操子、同北島イト子及一條公爵夫人等にて、
紅葉御茶屋へ着御、御小憩、廣芝内へ出御、動物御覧、夫より聖上は紅葉御茶屋へ復御 皇后宮は瀧見御茶屋へ渡らせられ、御夕食の後、皇后宮紅葉御茶屋へ入らせられ、午後六時半両陛下曲馬場へ臨御、曲馬御覧、済午後九時頃還幸あらせられたり。尚精しくは別項を参看すべし。
明治19年11月3日 時事新報
○曲馬天覧 一昨一日は兼て仰出されし通り、吹上げの御苑に於て伊太利人チャリニ氏の曲馬天覧の御催しあり。両陛下とも午後四時、仮皇居御出門、同所へ臨御あらせられたり。さて参観の方々は、皇族、諸大臣、外国公使、勅任官、華族、武官、宮内省官吏及び其家族等にて、総員七、八百人もありたらんかと思はる。尋常参観の人々は半蔵門内御苑の門前にて下乗し、内に入れば道の左右に臨時に建て列ねたる街燈ありて、木下闇みを照らし、進んで円馬場に来れば、埒の広場に天幕を張りて、内に曲馬万端の用意調ひ居るを見る。天幕の内外には石油の燈火を高く掲げて、よひ月の光を奪へり。第一の天幕の内を獣園と為して、獅子、虎、猿の類を檻に入れて陳列し、第二の広き天幕の内に曲馬場を設けて、四面に椅子、観棚を連らぬ。正面に一段高く、金屏風、紅白の幔幕を引廻はしたる桟敷は、これぞ両陛下の御坐所と知られたり。午後六時半頃ろ、両陛下臨御。直ちに諸芸を始め、先づ伶人の奏楽あり。夫れより第一に四女四男馬上の曲、第二に滑稽体操、第三にチャリニ氏指揮二馬の芸、第四にスツードレー嬢の曲馬、第五に二人二脚の芸、第六にチャリニ氏指揮黒馬の芸、第七にブランチユ嬢の曲馬、第八に英国人と題する滑稽曲馬、これにて十五分時間小憩の後、再び第一に二頭印度象の芸、第二にロウランド嬢の曲馬、第三にチャリニ氏の馬術、第四にスツードレー兄弟の二頭裸馬の曲、第五に四人体操、第六にチャリニ氏指揮三馬の芸、第七にスツードレー氏の裸馬の曲、第八にロウランド嬢の四馬の馭術、第九にフレーム氏が三頭の獅子と同檻する事にて打止めとなり、両陛下には直ちに還御。参観人一同御苑を退出したるは九時半に近き頃なりし。此日、皇后陛下には洋服を召させられ、御近待の婦人一同も皆洋服なりし。又た参観の婦人令嬢にも十中の八、九は洋服を着し、場内の空気何となく西洋めきし心地したり。又此日、曲馬の時間の短かゝりしゆゑにや、場内に酒菓の設などはなかりしと云ふ。
明治19年11月3日 読売新聞
○宮廷録事 行幸 一昨日は曩に仰せ出されし如く、午後四時の御出門 皇后宮御同列にて吹上御苑へ行幸在らせられ、御陪乗は徳大寺侍従長、皇后宮の御陪乗は室町典侍、供奉は伊藤宮内大臣以下数名にて、紅葉御茶屋へ着、御暫時御休憩の後、廣芝内へ出御あり。此處にて諸動物を御覧あり。夫れより聖上は紅葉御茶屋へ復御 皇后宮は瀧見御茶屋へ渡らせられ、御夕食の後、皇后宮は紅葉御茶屋へ入せられ、午後六時両陛下にはチャリネの曲馬場へ臨御ありて曲馬を御覧になり、右畢ッて午後九時ごろ還幸あらせられたり。当日曲馬参観の為め皇族、大臣、各国交際官、各省院庁の勅任官のうち若干名、陸海軍佐官以上、近衛尉官以上、在京の地方官及び有爵者の内若干名、宮内省勅奏官等を召させられし由なるが、当日御覧に供へたる曲馬の順序は左の如くなりとぞ。
第一 奏楽
第二 ヴイクトリヤ、ブランシ女の指揮に依て四男四女の騎芸
第三 ゼチク兄弟コミック、ホリゾンタール、バールと称する滑稽戯
第四 調馬師シグノア、チャリネの教導によりフイガロー、ホニトーと呼ぶ二名馬の運動
第五 アイダー、スツードレー女の熟練なる冒険騎芸及びニーチゴッドフレーの滑稽戯
第六 米人トムハーパー、ウィルハーパー兄弟及びマーヘル、フランシスコ女三人の奇異有名なる軽業
第七 チャリネの指揮に依り豪州産黒王と称する黒駒の芸及びゴツトフレーの滑稽戯
第八 ヴイクトリヤ、ブランシー女が米国ケンタッキー州戦場に出でしモント、クリストーと称する馬に跨り疾駆して諸障害物飛越の芸
第九 チャールス、スノードレー、ヴィリー、ローランド、ゴツトフレー三人の指揮に依りてジョンブールと称する馬及び数馬と其乗手馬丁等の戯劇
此間十五分休憩
第一 奏楽
第二 ジアン、アバデーの指揮に依てシーロン島に産出せし象の芸
第三 ラー、ペチット、ローランドの曲馬及びゴッドフレーの滑稽戯
第四 チャリネがカプテーンと称する英国産の駿馬に跨り曲馬の芸
第五 アイダー、スツードレー女及び其弟裸馬に跨り二重歩(ルパストヂユー・曲名)の芸
第六 ゼツナの一族(四人)の演ずる戯劇
第七 普国産駿悍なる放馬三頭をチャリネの指揮する技
第八 チャールス、スツードレー裸馬を御するの技
第九 ラー、ペチット、ローランド一人にてタイモル産の馬四頭を御するの技
第十 米人ジェームス、フレーム阿非利加産の獅子と格闘の技
【絵画資料】
≪大判錦絵三枚続・揚州周延筆・出版人小宮昇平≫(神奈川県立歴史博物館蔵:「サーカスがやって来た」50頁/東京都立中央図書館蔵:『明治の演芸』三/「馬のサーカス・大曲馬」50頁/「見世物関係資料コレクション目録」74頁1-154/マスプロ電工美術館蔵/国立国会図書館蔵/日本芸術文化振興会蔵)
(表題)「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」。明治十九年十一月 日御届。
〈編者註〉上掲の錦絵は「サーカスがやって来た」(50頁)より拝借した。
チャリネの曲馬 十二
◆東京築地海軍原◆(11月3日~12月13日)
明治19年11月3日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国世界第一チヤリネ大曲馬大獣苑広告
一昨日ハ晴天ニテ無恙 天覧ニ奉供候、就テハ築地興行ノ義ハ今三日天長節ヲ卜シ、東京公衆諸君ノ御覧ニ入レ候間、一層賑々敷御遊覧之程伏テ奉希候
築地三丁目ニ於テ
十一月三日 書記マアヤー謹白
明治19年11月7日 東京日日新聞
○チャリネ曲馬の出方 去る二日の午後五時頃、采女町二十九番地にある六軒の明長屋へ、外国人十七人、チャリネの曲馬の出方なりとて入り来り、此家私し拝借とて押込みたり。同長屋の差配人は、言語も分らず勝手も知らぬ外国人に貸渡すも、夫れ〳〵の手数を経ねばならず、殊に一時の興行なり、後日面倒でも有りてはとの考へより、平断りに断りたれども、中々聞入れず、六軒の長屋へ皆入り込んで、出て往くべき景色もなきに、差配人は困り入て、右の始末を木挽町四丁目の派出所へ届け出でたれば、巡査が出張して説諭したるも、是又た同じく承知せず、依て同興行願人麹町区平河町六丁目十二番地士族堀通名へも説諭方を申送られ、同人は出張して、貸さぬものは詮方なし、又外を尋ねよと云ひたれども、彼の出方共は何と云っても動かぬにぞ、差配人は弥々持余し、去る四日京橋警察署へ出訴及び、一昨日同署長永谷氏が参られて、懇々との説諭ありしかば、是にて漸く一同が立退きたりと云ふ。世の人の心配する内地雑居の暁には此な面倒は毎日の事なるべし。
明治19年11月9日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬大獣苑広告
❍今日より狂言仕組を更に改め御覧に入候間、一層賑々敷御愛顧被下度候
❍男女馬上にて絶妙なる曲乗技芸
❍チャリネ氏教訓したる駿馬の馬術
❍楽屋一同にて身体軽業狂言
❍猛獣と獅子使と鉄柵内に於て蹈舞及格闘
❍滑稽茶番新狂言
❍此頃中分娩シタル虎ノ子ヲ鉄柵内ニ取リ出シ場内ニテ御覧ニ入候
❍毎夜六時に開場致、入券売出し、正七時に興業相始め候、土曜日曜の両日は午後二時に開場致し三時より一切、又七時よ
り一切相始め可申候
❍入券代價 最上等箱四人入金八円、最上等一人金二円、上等椅子一人金一円、中等一人金五十銭、下等一人金二十銭 十歳以下の小兒及び兵卒は半價、但し最上等を除く
築地三丁目旧海軍原にて
十一月八日 書記マアヤー謹白
明治19年11月9日 朝野新聞
○曲馬の直下げ 目下築地海軍原にて興行中なるチャリネの曲馬は、先比秋葉原に於て演ぜし節、下等二十銭なりしを三十銭と為せしより、見物殆んど三分の二を減じ、大損を来したれば、本日より又之を改め、元の如く下等を二十銭に引下げたりといふ。
明治19年11月10日 朝野新聞
○一曲五千円 過日、吹上の禁苑に於て伊太利の曲馬師チャリネの曲戯を天覧遊ばされたることは、読者の善く知る所なるが、一昨日のジャパン・ガゼットに據れば、宮内省にては去る六日、其報酬として金五千円を同人に下賜せられたる由。真偽は知らざれども、若し果して然らんには、已に天覧の栄を得たるさへあるに、斯かる法外なる下賜金を得て、同人は非常に喜び居るなるべし。
明治19年11月10日 朝野新聞
○虎遣ひ虎に噛る (前略)一昨日の事なるが、築地海軍原の曲馬場にて、諸芸も略(ほぼ)終り、最後の打止めに虎遣ひが例の華美(はで)なる服装(いでたち)にて三頭の小虎の入り居る檻中に這入りて之を遣ふ際、如何なしけん、一疋の虎が俄に猛り立ち、虎遣を目掛けて飛懸るよと見えしが、忽ち其頭部にワングリと噛付きたれば、何かは以て堪るべき、虎遣ひはアット云ふ間もなく気絶して其場へ倒れしかば、檻の周囲に在りし助手(てつだい)等は大に驚き、夫れと云ひつゝ引出し、厚く介抱を加へしかば、多分命は別条無かるべしと雖も、頭部に二本の歯跡が付き、所謂獣毒の為め大に苦痛を感じ居るといふ。虎も生物の事ゆゑ何か不平のことありて□を漏せしものにてもあるか。何にしろ危険の事にてありし。
明治19年11月10日 読売新聞
○虎に噬る 一昨日築地海軍原のチャリネの曲馬で、虎使が鉄柵の中へ二頭の虎を使ふ折、如何せしや、一頭の虎が虎使の頭へガブリと噬(かみ)付きたれば、同人は其場に倒れて気絶したる騒ぎに、曲馬師が数人駈寄り、漸く引出して介抱した甲斐あッて、一命に別条はなき由なるが、頭へ歯の跡が二本深く着たと云ふ。
明治19年11月10日 朝日新聞
[東京通信 十一月七日発] 伊太利曲馬師チャリネの大曲馬は目下築地海軍の原にて興行中なるが、曩に神田秋葉の原にての興行には諸入費引去り五千六百八十円余の利益あり、その収入総額は一万円以上なりと聞く。
明治19年11月13日 朝日新聞
[東京通信 十一月十日発] 去一日吹上禁苑に於て曲馬を 天覧に供し奉りしチャリネ及び書記マーヤーは去る六日宮内省へ召出され、慰労として金五千円を下賜せられたり。
明治19年11月16日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬大獣苑広告
従前ノ狂言目録差替、更ニ新狂言ヲ御覧ニ入レ候
❍男女馬上ニテ武器ヲ携帯シ「ローマ」国戦況曲乗技芸
❍楽屋総出ニテ茶番狂言
❍猛獣ト鉄柵内ニ於テ格闘
❍入券代價 最上等箱四人入金八円、最上等一人金二円、上等椅子一人金一円、中等一人金五十銭、下等一人金二十銭 十歳以下ノ小兒及ビ兵卒ハ半價、但最上等ヲ除ク
❍特別広告 今度忝クモ皇族諸殿下ノ御眷顧ヲ蒙リ、来ル十八日当場ヘ御来臨相成候ニ付テハ当日ニ限リ切符売出シ不申候、但シ翌十九日ヨリハ是迄ノ通リ御覧ニ入レ候間、何卒不相替賑々敷御来遊ノ程願上候也
築地三丁目海軍原ニテ
書記マーヤー謹白
明治19年11月16日 朝日新聞
○チャリネの曲馬 先号の紙上に掲げたる彼(かの)伊太利の曲馬師チャリネを傭入れ、来春当地にて一興行せんとするの約束は、給金の出合はざるより、歩を以てする事に粗(ほぼ)示談の整ひし由なるが、如何にせん、興行の都度其出願の手数に余程の日数を費すを以て、今度該一座の中より内務省へ、日数一年間何れの府県にても自由に興行の出来るやう特許ありたしとの事を出願に及びたりと。若此特許を得ば、其興行するの地に於て、只興行の日数と場所さへ届置ば、容易く開場の出来る手筈なりと。又、不日当地にて喝采を得んとする曲馬は、実に稀代の早業にて、甲乙二頭の馬を互に距(さ)る事、凡八間許りの處に在て併べ走らせ、而して甲の馬に乗りたる者(男子)、馬上に携し一人の小兒の足を一振り振り、彼方を眼掛て投与るに、乙の馬に乗し者(女子)、摑むが如く之を取り、馬上に立せて場内を一廻し、再び甲の方へ右の小兒を以前の如くして投返すに、甲是を取りて馬上に立せ、場内を廻る事数回、是にて一幕となす者なるが、此曲馬は未だ東京にても為さざるもののよしにて、其早業の絶妙なる、人をして思はず感賞せしむるとの事。
明治19年11月17日 時事新報
○宮廷録事 曲馬御覧 皇太后宮には明十八日午後五時青山御所御出門にて築地海軍練兵場に於て興行中なるチャリネの曲馬を御覧在らせ給ふ旨仰出されたるよし。
明治19年11月17日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬大獣苑特別広告
今度忝クモ皇族諸殿下ノ御眷顧ヲ蒙リ、来ル十八日当場ヘ御来臨相成候ニ付テハ当日ニ限リ切符売出シ不申候
臨時特告
シグナル、チャリネ氏ハ翌十九日(金曜)ニ限リ楽屋一同総出一層ノ勉強ヲ以テ新狂言相勤メ御覧ニ入レ、当夜ノ総収入金額ノ半額ヲ今回沈没シタル英国船のるまんとん号ヘ乗組タル遭難ノ日本人遺族ヘ義捐金トシテ恵与致シ候ニ付、同感ノ人々仰合サレ賑々敷御来遊ヲ乞フ
築地三丁目海軍原ニテ
書記マーヤー謹白
チャリネの曲馬 十三
【東京築地海軍原・続】
明治19年11月19日 時事新報[広告]
チャリネ曲馬延期広告
皇族殿下昨日御来臨可被為在之處、雨天ニ付今(十九日)ニ相延ビ候、就テハ「ノルマントン」号乗組人沈没遺族者へ義捐金之義ハ、明廿日夜ノ開場ニ相延候ニ付、此段広告仕候也
築地三丁目海軍原ニテ
十一月十九日 書記マーヤー謹白
明治19年11月19日 郵便報知新聞
○チャリネ曲馬 築地にて興行中の曲馬師チャリネは、向一年間本邦何れの府県にても自由に興行し得るの特許を内務省に出願したり。是れは其都度願出ては出願と許可との間に多くの日を空費することあるを憂え、此損害を避けんが為めなりと。
明治19年11月19日 読売新聞
○宮廷録事 御延引 皇太后宮は昨十八日築地へ行啓在せらるべきの處、雨天に付今十九日へ御延引仰せ出されし由。
明治19年11月19日 時事新報
○行啓御延引 皇太后宮には昨十八日チャリネ曲馬御覧の為め築地へ行啓在らせ給ふ筈なりしが、雨天に付本日へ御延引仰
出されたるよし。
明治19年11月19日 時事新報
○チャリネ曲馬 別項に見ゆる如く、皇太后宮には本日同曲馬御遊覧の筈に付、チャリネ氏がノルマントン号溺死人へ義捐する曲馬の開場は明二十日に改めたるよしなり。
明治19年11月20日 時事新報
○宮廷録事 行啓 前号に記し参らせたる如く、皇太后宮には昨十九日午後五時、青山御所御出門にて築地へ行啓在らせ給ひ、チャリネ曲馬を御覧ぜられたり。右に付各皇族の御息所其他夫人方にも陪覧ありたるよし。
明治19年11月21日 読売新聞
○宮廷録事 行啓 一昨日は兼て仰せ出されたる如く、皇太后宮には午後五時青山御所御出門にて、築地のチャリネ曲馬へ行啓、曲馬数番を御覧にて、八時過ぎ還幸あらせられしが、同日学習院生徒、華族女学校生徒、宮内省高等官同妻子等は特に陪覧を差許されたりし由。
明治19年11月23日 時事新報[広告]
忝モ天覧及ビ東京華族方ノ御愛顧ヲ蒙リタル 伊タリヤ王国チヤリネ大曲馬大獣苑広告
今廿三日新嘗祭日ニ付午後二時ヨリ一回六時ヨリ一回相勤メ申候
毎夜六時ニ興行相始メ、土曜日曜ハ二時ヨリ一回六時ヨリ一回
築地海軍原ニ於テ
十一月廿三日 書記マアヤー謹白
明治19年11月25日 東京日日新聞
○チャリネ氏の慈善興業 同氏は前にも記せし如く、我が日本人二十五名が紀州の海にて溺死したるを最も気の毒に思ひ、責めて一日興行の上り高を半額なりとも遺族に恵まんとて、去る二十日の夜の上り高半額の金円を毎日新聞社へ払込むに付き、社員一名に立会ありたしと書記マアヤー氏より請求ありしに依り、社員作本棟造立会ひ、切符の売高を一々点検したるに、其代価総額五百円二十銭ありければ、之れを折半し、即ち二百五十円十銭を義捐金として払ひ込みたり。我国などにても折々斯る企を為すものあれど、兎角に其上り高を明にせざるなどの弊あるに、流石は文明国の人々、立会を乞ふて切符の売高を点検し、明白に計算せしは、如何にも感服の次第なりと、毎日新聞に見えたるが、如何にも感ずべき事共なり。
明治19年11月25日 時事新報
○チャリネ曲馬 目下築地海軍省の用地に於て興行中なる同曲馬は、大に世人の高評を博せしに付、来る廿年の二月迄は府下にて興行すべき見込の由なるが、築地を打上次第再び神田秋葉原に於て興行せんと、已に地所借受の相談も調ひ居れりと。
明治19年11月25日 時事新報
○井上外務大臣 は一昨日夫人及外務官吏等を伴なひ、築地のチャリネ曲馬を一覧したるよし。
明治19年11月29日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ曲馬興行時間変更広告
来ル(廿九日)月曜日ヨリ毎夜五時ニ入券売出シ正六時ニ相始メ候、尚土曜日曜ハ午後一時及ビ五時ニ入券売リ出シ二時及ビ六時ト二回興業相始申候間、不相変賑々敷御来遊奉願候
築地三丁目旧海軍操練場ニ於テ
書記マアヤー
明治19年12月3日 朝日新聞
[東京通信 十一月三十日発] 曲馬師チャリネの獣苑に飼養する駝鳥が此ほど二ツの卵を産みたるを、井上外務大臣が聞及ばれ強て懇望せられしにより、チャリネより一個を進呈したるよしなるが、其卵は直径六寸余あり。瑠璃色のものならば、之を盃に造るには極妙なりといへり。
明治19年12月4日 時事新報
○チャリネ曲馬 目下築地海軍原に於て興行中なる同曲馬は、浅草公園地写真師江崎氏の周旋にて地所も定まりたるに付き、来る十五日頃より浅草に於て興行致し度旨其筋へ出願したるよしなるが、今度は時間を改正して午後一時より一回、同五時より一回、都合毎日二回づゝ興行する見込なりと云ふ。
明治19年12月5日 読売新聞
○チャリネ曲馬 築地にて興行中なるチャリネの曲馬は、近日同所を打上げ、浅草公園内へ引移り、同所にて来年五月まで興行し、今度は入場料も余ほど引下げるとの事。
明治19年12月7日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ曲馬興行及時間広告
毎夜六時ニ入券売出シ正七時ニ相始メ候、尚土曜日曜ハ午後一時及ビ五時ニ入券売リ出シ二時及ビ七時ト二回興業相始申候間、不相変賑々敷御遊覧奉願候、動物縦覧ノ義ハ毎日午前九時ヨリ午後四時迄之事
築地三丁目旧海軍操練場ニ於テ
十二月六日 書記マアヤー
明治19年12月9日 朝日新聞
○府下(京都府)紀伊郡福稲村の農湯川清吉(廿八年)と云ふは曲馬に熟練せし者にて、目下東京海軍が原にて興行するチャリネの曲馬を見んものと此程故々同地に赴き、彼曲馬を一見し、我の及ばざる事遠きを知り、感賞止ざるの余り、チャリネの門人にならん事を人を以て掛合に及び、漸々其承諾を得たるを以て入門の験(しるし)に金百円を贈り今より三ケ年間同人に付随ひ曲馬を修行する事になりしと云ふが、随分物数奇なる男にこそ。
明治19年12月10日 時事新報[広告]
當所興行之儀ハ来ル十三日ニテ打揚仕候
伊タリヤ王国チヤリネ曲馬興行及時間広告
毎夜六時ニ入券売出シ正七時ニ相始メ候、尚土曜日曜ハ午後一時及ビ五時ニ入券売リ出シ、二時及ビ七時ト二回興業相始申候間、不相替賑々敷御遊覧奉願候、動物縦覧ノ義ハ毎日午前九時ヨリ午後四時迄之事
築地三丁目旧海軍操練場ニ於テ
十二月六日 書記マアヤー
〈編者註〉チャリネの人気を当込みに、十一月十六日より尾上菊五郎が東京千歳座で大切に「鳴響茶利音曲馬」を上演した(「見世物興行年表」参照)。
チャリネの曲馬 十四
◆東京浅草公園◆(12月15日~1月13日)
明治19年12月14日 郵便報知新聞
○チャリニ曲馬 浅草馬道町の江崎礼二外一名は、来る十五日より来年一月十三日まで、浅草公園内に於て、伊国曲馬師チャリニの連中五十六名を雇ひ、曲馬を興行致し度旨、昨十三日其筋へ出願せり。右の興行に用る借地は千八百五十九坪余にして、此地代四十六円四十八銭なりと。
明治19年12月14日 読売新聞
○チャリネの曲馬 浅草馬道町二丁目の江崎礼二外一名より伊国曲馬師チャリネ外五十六名を雇ひ、来る十五日より二十年一月十三日まで浅草公園にて曲馬を興行致し度旨其筋へ出願せり。
明治19年12月15日 時事新報[広告]
伊太利亜帝国チャリネ氏大曲馬並に大動物園移転及興行時間改正広告
当社中儀至尊貴族及び東京一般の厚き御愛顧を蒙り、開場初日より日々大入にて社中
の栄誉此上なく、難有奉感謝候
今般御愛顧諸君の御勧告に随ひ、来る十二月十五日より浅草公園内に於て興業相始め候。右は当所御参詣又は御遊歩旁々大曲馬及動物園御縦覧の御便利を計り移転仕候、尚御礼の為め絶妙なる技術を貴覧に備へ申候間、不相替賑々敷御来車の程奉願上候
但昼間午後二時夜分午後七時に相始め一日二回興行仕候、切符の儀は一時間前に売出
し申候
横浜より御来臨の諸君の為め汽車発着時間を相計り候間、即日御帰港の御便利に御座
候
十二月十二日 書記マアヤー謹白
明治19年12月15日 時事新報
○駝鳥の卵 曩に伊国曲馬師チャリネの飼置ける駝鳥が三個の卵を産み、畏くも一対を皇后宮の御許に献じ、他の一個を井上外務大臣に贈呈したるよしは前号の紙上に記したるが、猶四五日前二個の卵を産みしを以て、今度は伊藤総理大臣の許へ贈呈すべき心組の由なり。
明治19年12月23日 時事新報[広告]
伊タリヤ王国チヤリネ興業時間改正
当社中儀至尊貴顕及び東京一般の厚き御愛顧を蒙り、開場初日より日々大入にて社
中の栄誉此上なく、難有奉感謝候
当大曲馬の儀は是迄世界各国五大都府に於て毎年執行せし吉例に倣ひ、本月廿四日(クリストマス)より来一月の御国祝日に掛け、公私立に関せず渾ての小学生徒へ特別切符を差出し、金五銭を以て動物及び曲馬の入場を免じ、生徒をして幾分の開智を補、且つ随意に大象に乗らしめ、又各教員諸君へは上等切符を無代價にて進呈す。希くば該教員方には当興行場書記局宛にて生徒の員数を御報知あらぬ事を
但し昼間午後二時夜分午後七時に相始め一日に二回興行仕候、切符の儀は一時間前
に売出し申候
浅草公園地内にて
十二月 書記マアヤー敬白
明治19年12月23日 読売新聞
○曲馬勉強 浅草公園地にて興行中なるチャリネの曲馬は、明廿四日より各小学校の休業中は小学生徒に限り、公立私立に拘らず金五銭にて入場せしめ、望みの者には象に乗する由、且右に関する各教員は無代価にて入場せしむる由。
明治19年12月25日 読売新聞
○チャリネ曲馬 浅草公園にて興行中なる伊太里曲馬の興行人チャリネと興行名前人江崎礼二氏との間に何か苦情のある様に或る新聞に見えたれど、其実苦情と云ふ程では無く、同地にての興行の願書面は興行名前人にてチャリネの一行を一日五百弗にて雇ふと云ふ書上なれば、万一後日に至り収入金をチャリネの方へ取た上、約束の日給を払へなどと掛合れては成ぬから、返り証を出せと云ど、チャリネは其様(そん)な心配には及ばぬとて出さぬより、異論を生じ、終に伊太里公使が証人になりて、決して不都合は云ぬと云ふ事にて済しと云。
明治20年1月3日 読売新聞
貴社の読売新聞は世界第一と称すこと、彼の伊太利亜王国のチャリネ氏の大曲馬動物園に異ならず。如何んとなれば、上は畏き御あたりより下は我々社会に至るまで今日之を看ざる者は恥の如くに思ふも理りなるかな。回顧すれば十一年前、虎の門より千里一飛び、石橋の京橋際へ移られし以来、獅子奮迅の勢ひを得、年毎に隆盛を極められしも、単に記者先生方の丹精によるゆゑなるべし。然れば鞭に代たる筆先の指揮には猛獣に等しき野蛮人も自然と開化に矯正され、性質愚鈍の大象の如きも種々の芸を習はしむるに至れば、犬と猿の間も睦ましくさするの妙所あり。馬の耳に念仏は聞ずとも、早耳の探訪には走りの種を取らせて之を登録し、又或時は米人の脚にはあらで一本の筆に滑稽洒落を尽し、軽き口調に一笑を催ほさする等、奇々妙々の技芸は拍手喝采の絶る間なく、小学生徒には特別の見物をさせて愈よ其の深切なるを世に知らしむるは、小生も深く賛成するところなりと、相も替らず初摺りに春駒ならねど心も勇み、又本年も大当りと走り亥年の年頭の祝詞に換て鳥渡口上申し上ます。
明治20年1月4日 時事新報[広告]
伊太利亜王国チャリネ大曲馬興業時間改正及び特別切符売出し
当大曲馬の儀は是迄世界各国五大都府に於て毎年執行せし先例に倣ひ去月廿四日(クリストマス)より来一月の御国祝日に掛け、公私立に関せず渾ての小学生徒へ特別切符を差出し、金五銭を以て動物及び曲馬の入場を免じ、昼間に限り生徒をして幾分の開智を補ひ、且つ随意に大象に乗らしめ、又各教員諸君へは上等切符を無代價にて進呈す。希くば該教員方には当興行場書記局宛にて生徒の員数を御報知あらぬ事を
但昼間午後二時夜分午後七時に相始め一日に二回興行仕候、切符の儀は一時間前
に売出し申候
浅草公園地内にて
一月 書記マアヤー敬白
明治20年1月5日 朝日新聞
○チャリネ氏の大曲馬 昨年東京に於て天覧に供するの栄を辱(かたじけの)うしたる彼有名なるチャリネ氏の大曲馬は、当時東京浅草公園内にて興行中なるが、本月中には同地を引払ひて神戸に来り、同地停車場の傍にて興行し、終りて来月中には当地に来り、堂島なる建野府知事が官宅の傍にある明地にて一興行なさんと、目下府庁に出願中なれど、許否は未だ分らざる由。猶当地を打揚げ次第京都に於ても興行をなすといふ。因みに記す、同氏が養ふ處の虎は、昨年東京にて二頭の兒を産みたるを以て、其兒を宮内省に献ぜしに、過日同省より熊を賜はりたるよしなり。
明治20年1月11日 読売新聞
○巴峡三声 浅草公園地第六区に猿を多く出して居る店へチャリネの連中の者が来て、来国への土産に猿を一疋買ひたしと、直段(ねだん)をきめて一疋の猿を撰み出し、用意の箱の中へ入れて蓋をすると、其猿はいと憐れなる声を出し友猿に別れを告げしに、残りの猿一同もさも悲しげに叫びしは、傍らに見て居たるものゝ腸(はらわた)に染みて憐れなりしと。
明治20年1月11日 毎日新聞
○チャリネ氏 伊国曲馬師同氏は曾て浅草公園にて興行せし力使(編者註:十三日付で「太刀使ひ」と訂正)岡山県士族萩原某を一ケ月金五十円にて雇入れ、他国打ち廻りの節曲馬中に加へて其技を行はしむるといふ。又同氏は此他にも絶妙不可思議の芸人あらば幾人にても雇ひ入るゝよし。
明治20年1月12日 燈新聞(『明治の演芸』)
○当時浅草公園第六区に興行中のチャリネの曲馬は、此五月までの許可を受しも、想ひの外に不入りなれば、同所は明十三日で千秋楽とし、直に九段なる靖国神社境内を拝借し、来る十六日より興行を始むるよし。就て右テントを囲ひ籠む為め、同境内の石燈籠二十四本を取り退度(しりぞけたき)旨を願ひ出たる処、閉業の上従前の如く据置べしとの事にて許可になりしが、此入費は余程のことなりと。
明治20年1月12日 読売新聞
○チャリネの曲馬 同曲馬は明十三日限り浅草公園地を引払ひ、来る十六日より靖国神社境内に於て興行する由。
明治20年1月12日 時事新報
○チャリネ曲馬 目下浅草公園地内に於て興行中なるチャリネの曲馬は一月といふ殊に場所柄なれば昼間は随分の大入なるが、同所は最早両三日にして打留、来る二月十日頃より麹町九段坂なる靖国神社境内の競馬場を借受け、一興行なす筈なりといふ。
チャリネの曲馬 十五
◆東京靖国神社境内◆(1月15日~2月8日)
明治20年1月14日 読売新聞[広告]
今般特別を以て靖国神社境内を拝借致し、来十五日より同所に於て是迄通日々二回づゝ興行仕候間、
不相替賑々敷御来観の
程偏奉願候
但興行時間は是迄通り
靖国神社に於て
書記マーヤー
明治20年1月25日 読売新聞
○象の上乗 岡山県士族萩原何某は今度チャリネに月給五十円にて雇はれ、象の上乗りにて諸技芸をする
といふ。
明治20年1月29日 郵便報知新聞
○クローリ氏 チャリネ曲馬の頭取クローリ氏は来る四月頃京都府下に於て曲馬を興行する見込にて其の拝借地所の地割等を見分し且つ出願かた〴〵去る廿四日伊藤総理大臣より北垣京都府知事に宛てたる添書を携へて着京し同地丸山世阿弥楼に投宿し居る由なり。
明治20年2月4日 読売新聞[広告]
伊太利亜王国チャリネ大曲馬及び大獣苑九段打上広告
当曲馬の義、永々当府に於て興行罷在候處、諸君の御愛顧を蒙り、日夜賑々敷御来車被下候段、チャリネは申すに不及、社中一同深く奉謝候、就ては今般弥々向五日間にて当大都府を打上げ仕候、猶又再び東京へ参候節は、此迄東洋に於て決て御覧無之技芸及び動物等御覧に供候間、其節は不相変御仰かわされ御来看の程奉希候
書記マヤア敬白
但し向五日間にて当府を打揚げの時日を御違ひ御遺憾無之様願上候
明治20年2月6日 読売新聞
○熊と虎の交換 上野の動物園の熊はよく人に馴れたるものなるが、彼の曲馬師チャリネ氏が先ごろより屡々来り観て、芸を仕込みしに、二三の芸を覚えたるにぞ、同氏は博物局へ自分所有の虎の子と交換の事を願ひ出しと云ふ。
明治20年2月8日 時事新報
○チャリネ曲馬 靖国神社境内に於て興行中なりし同曲馬は、昨日限り打揚げ、本日横浜に赴き、来る十一日より向ふ十五日同港の製鉄所跡に於て興行し、夫より神戸港に渡り同所にて凡そ十四日間、大坂にて凡そ二箇月余興行し、更に京都へ赴き同所にて二週間興行し、猶夫より四国、九州へ渡るの都合に至らば、日本を去るは来る明治二十一年六月頃なれども、京都限りにて全く打仕舞とならんには、来る八月上旬に日本を出発すべき予定なりと聞く。
明治20年2月9日 読売新聞
○チャリネのお名残 九段の靖国神社境内にて興行のチャリネの曲馬は、昨日千秋楽につき、いよ〳〵近日横浜を出帆し大
坂へ赴く由。
◆横浜吉濱町元製鉄所跡◆(2月11日~2月21日)
明治20年2月8日 毎日新聞
○チャリネ大曲馬は来る十一日より横浜石川口造船所明地にて興行するよし。
明治20年2月10日 読売新聞
○チャリネ 昨日の紙上にチャリネは大坂へ赴く由に記載せしが、右は誤聞にて、明十一日より横浜吉濱町の旧製鉄所跡にて暫らく興行し、其上にて大坂へ赴くとの事。
明治20年2月10日 大阪日報
○チャリネ氏の曲馬 昨今横浜に於て興行なし居る彼の有名なる伊国の曲場師チャリネ氏の一行は、来る十八九日頃来坂、暫時当地に於て興行し、夫れより京都に赴き又神戸に至て夫々興行する筈なりと。
明治20年2月13日 東京日日新聞
○チャリネの曲馬は、一昨十一日より当分の間、横浜吉浜町・元製鉄所の跡にて興行する由なるが、頗る大入なりと云ふ。
明治20年2月13日 毎日新聞
○横浜のチャリネ大曲馬 一昨日より石川口明地に興行中のチャリネ大曲馬にては、此ほど宮内省より賜りし熊に美麗なる飾を付けて出し、又た過ぐる頃、神田の原にて娩(う)みたる子虎をも出して見せるといふ。
明治20年2月16日 時事新報
○チャリネ曲馬 去る十一日より横浜石川口旧製鉄所跡にて興行中なるチャリネ曲馬は、日々可なりの大入なるよし。
明治20年2月22日 時事新報
○チャリネ曲馬 同曲馬の一連は先頃より横浜にて興行中なりしが、昨夜限り同港を打上げ、明二十三日山城丸にて神戸へ
赴く筈なるよし。
明治20年2月23日 東京日日新聞
○先頃より横浜吉浜町・元製鉄所の跡にて興行中なりし伊太利国チャリネの曲馬は、愈一昨二十一日を以て横浜を千秋楽と為し、近日、神戸へ向け出帆すると云ふ。
明治20年2月23日 読売新聞
○チャリネの曲馬 過日来横浜吉濱町にて興行中なるチャリネの曲馬は、一昨日打揚げとなりたれば、近日神戸、大坂へ向
け出発する由。
明治20年2月24日 郵便報知新聞
○チャリネ曲馬出発 先般来横浜に興行せし彼のチャリネの曲馬は去廿一日千秋楽となり、右の一連は昨朝出帆の山城丸にて大坂に赴きたり。尤も横浜の興行は不人気にて、千四百余円の損失なりしと。
チャリネの曲馬 十六
明治20年1月14日 大阪日報
○チャリネ曲馬 北区消防頭取小林佐兵衛は、昨年来京浜間にて興行中なる伊太利国の曲馬師チャリネ氏を呼寄せ、来二月上旬より神戸鉄道局構内の空地に於て、三月は京都御所の北手なる空地に於て、四月は当地堂島の本府営繕所に於て順次興行する筈にて、昨今鉄道局及び当府庁へ地所借受の儀を申出でたりと。
明治20年1月21日 朝日新聞
○チャリネ氏の曲馬 過日の紙上に記したる伊太利国人チャリネ氏の大曲馬並に獣園は、東京を打揚げ次第神戸大坂京都と道順に興行する筈なりしが、昨日同氏の支配人クロフェロー氏が弊社に来りての話に、右は都合に依り直ちに大阪に来り、堂島なる建野府知事が官邸の東手にある空地にて催す事と決し、遅くも来月上旬には開場する由に語りき。
明治20年1月23日 大阪日報
○チャリネ氏曲馬 伊国の曲馬師チャリネ氏は愈よ来る廿八九日頃来阪し、来る二月上旬より三十日間当地に於て興行し、興行中は中の島自由亭に滞在する都合なりと。
明治20年2月1日 大阪日報
○チャリネ曲馬 屡々記載せし伊国の曲馬師チャリネ氏は来十日頃来阪する由なり。
明治20年2月21日 大阪日報
[神戸通信 二月十日発] チャリネ氏の曲馬 目下横浜にて興行中なる伊国曲馬師チャリネ氏の一座は、来二十日頃該地を打揚げ、廿五日より当地居留地にて四五日間興行する筈なりと。
明治20年2月22日 朝日新聞
○チャリネの曲馬 當地の小林佐兵衛が興行人となりて堂島浜通三丁目の空地に於て催すといふ伊太利国の曲馬師チャリネの一行四十六名は、来る廿四日横浜発の汽船にて来阪する筈に付き、一昨日より同所の外かこいひ及び桟敷、厩等の建築に着手したれば、整頓次第多分来る廿七日の日曜日より開場するならんと聞けり。
明治20年2月23日 神戸又新日報[広告]
曲馬広告
本月廿五日東京ヨリ下港致候イタリヤ国曲馬チャリネ、当地ニ於テ近日ノ内興行仕候間、賑々敷御
来車被下度、此段広告仕候也
但興行期日ハ追テ広告可仕候
チャリネ曲馬頭取 タルフエロー
明治20年2月23日 神戸又新日報
○チャリネの来神 久しく京浜間に好評判を博したる伊国大曲馬師チャリネの一行は、兼て噂のありし如く、愈当地方へ来ることゝなり、来廿五六日比に着神の筈にて、先づ当地にて一興行を為すの目論見なりと云ふ。尚ほ本日の広告欄を見るべし。
明治20年2月24日 神戸又新日報[広告]
曲馬広告
本月廿六日午後三時ヨリ鉄道局空地ニ於テ興行仕候間、此段広告仕候也
チャリネ曲馬頭取 ダルフエロー
明治20年2月24日 神戸又新日報
○チャリネの大獣苑 伊国曲場師チャリネが来神のことは既に前号の紙上に記し、欄内にもある通りなるが、愈よ本日来神のよしにて、当鉄道局構内の空地を借り受け、来る廿六日より三月十一日まで十四日間興行する由。其木戸賃一人前三十銭、一割上等一円、下等五十銭、一桟敷一間八円。
明治20年2月24日 大阪日報
○チャリネ曲馬の興行場所 今度北区消防頭取小林佐兵衛の興行する伊国チャリネ氏の曲馬は、最初堂島なる大阪府営繕所を借受けて興行する筈なりし處、去廿一日右チャリネ氏が神戸より来坂の上同所を検分したる處、六尺計りも土砂を敷きあるに付、馬を馳駆するに不都合なりとの事にて、更に梅田停車場構内の日本郵船会社支店前なる空地を借入れ、愈よ来月十五日より十五日間興行する筈なり。
明治20年2月25日 大阪日報
[神戸通信 二月廿四日発] チャリネの一行 チャリネ曲馬頭取タルフエローは芸人三十六人、象、虎、獅子各二頭、猴、洋犬各数十疋、奇鳥数十羽を携へ、予定の如く本日午後横浜より入港の山城丸にて着神せり。右に付明後二十六日より日数三日間(都合に依り延期するも図られず)、当港鉄道局構内の空地に於て芸道興行に取掛る都合にて、木戸賃は一人前三十銭、割上等一人前一円、下等同五十銭、桟敷八円なりと云ふ。
明治20年2月26日 神戸又新日報
○チャリネの一行は一昨日午後入港の山城丸にて来着。昨朝、獣類を鉄道桟橋より陸上げせしが、其種類は獅(しし)、象、虎、水牛、馬、猿、蛇等数十頭。又、右一行は洋人四十三人、日本人十人なる由。又、同興行は愈本日午後より相始むると云ふ。
明治20年2月27日 大阪日報
[神戸通信 二月廿六日発]チャリネ一行の紛擾 予報の如く昨日午後二時横浜より入港の山城丸にて来着せるチャリネの一行が携へ来りし獅子、虎、猿、象、水牛、蛇、奇鳥の類を一文入らずに一見せんと今回同一行が興行の場所と定めたる鉄道局空地の柵外へ群集せし人々は実に幾百人なるを知らざりしが、件(か)の参観人中神戸区東川崎町神田徳太郎、同所田中元吉の両人は何心なく柵内に飛入りて見物なし居たるに、同一行中の洋人一名が之を見付け、有無の問答にも及ばず裡不尽にも煉瓦の破片(かけ)を以て徳太郎、元吉の両人を打擲(ちょうちゃく)するにぞ、両人も堪へず立向ひ忽ち一條の争闘を惹起せしが、当時一行が東京より雇来りし日本人埼玉県下熊谷宿鎌倉町三丁目田村助次郎、羽田慎三、瀬戸栄太郎、若山外松、松岡萬外二名が彼の洋人に助力せしにぞ、衆寡適せず、両人は数ヶ所の傷を負ひながら辛くして同所を遁れ出で、神戸警察署へ告訴せしより、警官は現場に出張して右の七名を拘引なし、原告者両人と共に目下同署に於て取調中なり。尤もチャリネ一行の中なる洋人は伊国領事へ掛合中の由。右に付き本日より興行の筈なりし曲馬も更に明日まで延期したり。
明治20年2月27日 神戸又新日報〔広告〕
曲馬広告
今般当地ニ於テ興行中、鉄道局空地ヲ拝借シタルニ依リ、其日数ノ長短ニ従ヒ金百円或ハ百五十円或ハ其以上ノ金額ヲ差出スベキ筈ノ処、此金額ハ当時計画中ノ由ナル神戸幼稚園ニ寄付相成ルベキ筈ナレバ、此旨予メ広告ス
上等桟敷一間ニ付金八円 同一人割金二円 中等桟敷椅子一個ニ付金一円 上等土間一人ニ付金五十銭 中等土間同金三十銭 但、十歳以下の小兒は上等桟敷買切の外半價
チャリネの曲馬 十七
【神戸鉄道局空地・続】
明治20年3月1日 神戸又新日報[広告]
伊太利亜王国曲馬廣告
本日より番組取替へ可入御覧候
今般当地ニ於テ興行中、鉄道局空地ヲ拝借シタルニ依リ、其日数ノ長短ニ従ヒ金百円或ハ百五十円或ハ其以上ノ金額ヲ差出スベキ筈ノ処、此金額ハ当時計画中ノ由ナル神戸幼稚園エ寄付相成ルベキ筈ナレバ、此旨予メ広告ス
毎日午後二時より夜八時三十分より開門仕候間、賑々敷御入来可被成下候
上等桟敷一間ニ付金八円 同一人割金二円 中等桟敷椅子一個ニ付金一円 上等土間一人ニ付金五十銭 中等土間同金三十銭 但、十歳以下の小兒は上等桟敷買切の外半價
書記 マヤー
明治20年3月1日 神戸又新日報
○兼て評判のチャリネ曲馬は、いよ〳〵去る二十七日夜より興行を始めたるが、当夜は初日なれども相応の人にて、上等の部には外国人を多く見掛けたり。翌日よりは広告の如く、昼夜両度に別(わか)ちて興行し、見物は随分出掛ぬにあらざれども、三十銭口の下等のみ多く、最上等は無論、上等は最も少なく、中等も先づ少数の方なり。日曜日には諸官衙の吏員等多く、内海知事夫婦をお見かけたり。
扨、技芸に至りては、固より申迄もなく感心の事のみにて、中にも最初の男女各四人が早足曲馬をチャリネの指揮して場内縦横馳駆(ちく)せしめたるは、最も花やかにて人目を驚かし、第六号の十四、五歳の女児が奔馬の上にありて障碍を飛越え、輪を抜けたるは見る者をして覚えず妙と叫ばしめ、中入後、同第六号の以前の女児及び男子両人にて馬首を並べ、暫時馳走の後、男子が両足を両馬に跨らせ、彼の女児を片手に抱き、肩に乗せ、遂に頭上へ直立せしめて、両人共にいささか騒げる体なく両馬を駈けさせたるには、其技いよ〳〵妙所に達して、一同の視線その女児の顔辺に集まり、吾知ず拍手するの音、場内に響き渡れるが如し。尚ほ本日よりは更に番組を取換え、新芸を演ずるよし。
明治20年3月1日 朝日新聞
[神戸通信] チャリネの曲馬は一昨々日午後七時三十分より愈当地鉄道局構内の空地に於て興行したるが、此興行は昼は午後二時三十分より四時三十分まで、夜は八時三十分より十時三十分までに終るものにて、一昨々夜の見物人は千二百六十三人なりしといへり。
明治20年3月2日 神戸又新日報[広告]
伊太利亜王国曲馬廣告
本日より番組取替へ可入御覧候
世界無類ノ曲馬、今般日本国ニ渡来シテヨリ大ニ衆人ノ目ヲ驚カシテ大喝采ヲ得、尚先般東京ニ於テ天皇陛下ヨリ熊一頭ヲ贈与セラレタルモノナリ
毎日午後二時より夜八時三十分より開門仕候間、賑々敷御入来可被成下候
上等桟敷一間ニ付金八円 同一人割金二円 中等桟敷椅子一個ニ付金一円 上等土間一人ニ付金五十銭 中等土間同金三十銭 但、十歳以下の小兒は上等桟敷買切の外半價
書記 マヤー
明治20年3月2日 神戸又新日報
○チャリネの曲馬 同曲馬は昨日より番組を取替しが、其新番組は左の如し。
(第一号)音楽
(第二号)女子三人男子一人馬上にて目カクシノ技芸
(第三号)電信線上に於て男女の技芸
(第四号)ジヤマ小馬扱 ミージツトチャリネ氏
(第五号)馬上にて「ミース」「アイガスト」「スーツクリス」の技 グランドコード氏
(第六号)女子一名世界無双曲馬
(第七号)馬上にて「サーグル」の技 チカレー氏、ストツク氏
十五分間休憩
(第一号)音楽
(第二号)象芸種々
(第三号)小馬四頭女子一人、早足馬曲馬技
(第四号)ゴーツフレー氏(木製脚)種々の技芸
(第五号)極めて妍麗なる馬 チャリネ氏
(第六号)馬上にて男一人外に馬丁一人の技芸
(第七号)アフリカ産虎 フレム氏の技芸
明治20年3月3日 神戸又新日報[広告]
ジ。チャリニ伊太利王国曲馬及偉大ナル動物ノ猛獣会
但シ技芸ハ屡変更ス
毎日昼夜午後一時三十分及同七時三十分ニ場ヲ開キ、午後二時三十分及仝八時三十分ニ技芸ヲ始ム。
一個ノ通券ヲ以テ曲馬及猛獣会ニ入ルヲ得
入場代價
特別上等桟敷一間・椅子四個備付金八円、特別上等桟敷・椅子一個ニ付金二円、上等椅子一人前金壹円、中等絨毯敷席一人前金五十銭、下等席一人前金三十銭。但シ特別上等桟敷ノ分ヲ除キ小兒十歳以下ハ総テ半價トス
追告 猛獣ノ観覧ハ午前九時ヨリ正午十二時迄、大人一人ニ付金十銭、小兒一人ニ付金五銭トス
書記マヤー
明治20年3月3日 神戸又新日報[広告]
人獅々ト共にニ鉄檻ノ中ニ懼ルベク驚クベキ技芸ヲ演ズ
書記マヤー
明治20年3月3日 神戸又新日報
○チャリネ曲馬 は広告のごとく一昨日より更に番組を取換え種々の新芸を出せる中にも、最初いづれも騎馬なる女子三名を目隠したる男子が同じく馬上にて捕えんと追掛け廻りたる、中入後一人の女子が小馬二頭に跨がり別に二頭を前に控え、都合四頭の馬を御して自由に奔走し且つ四頭均しく足を揃えて障碍物を飛越しめたるなどは殊に見物の目を驚かし、余り巧妙に過て却て興味薄きを覚ふとも評ある程なれば、以てその非凡なるを察すべし。チャリネ氏の馬の扱に至りては最も労せずして能く妙を顕はし、唯々感服の外なしと云んのみ。
明治20年3月3日 大阪日報
[神戸通信 三月二日発] チャリネ曲馬 過日来当港鉄道空地にて興行中なるチャリネ曲馬は非常の繁昌なるが、昨日よりは芸題を替へ参観人は一層増加したり。
明治20年3月6日 神戸又新日報[広告]
ジ。チャリニ伊太利王国曲馬及偉大ナル動物ノ猛獣会
但シ技芸ハ屡変更ス
毎日昼夜午後一時三十分及同七時三十分ニ場ヲ開キ、午後二時三十分及仝八時三十分ニ技芸ヲ始ム。
一個ノ通券ヲ以テ曲馬及猛獣会ニ入ルヲ得
入場代價
特別上等桟敷一間・椅子四個備付金八円、特別上等桟敷・椅子一個ニ付金二円、上等椅子一人前金壹円、中等絨毯敷席一人前金五十銭、下等席一人前金三十銭。但シ特別上等桟敷ノ分ヲ除キ小兒十歳以下ハ総テ半價トス
追告 猛獣ノ観覧ハ午前九時ヨリ正午十二時迄、大人一人ニ付金十銭、小兒一人ニ付金五銭トス
特告
本日(日曜日)芸題ノ大変更
❍神戸ニ於テ始メテ開演ノ新芸 馴到者シグノーチャリニ氏、三頭ノ美麗ナル普蘭西、ツランキー黒馬同時指揮及緬甸小馬
ボニト同断。
❍新芸 婦人及男子演技、羅馬人凱旋。
❍ボニオ・スマタラ産ノ猿、セットランド小馬上ニ数個ノ柵ヲ越ヘ、鋭意其輸贏ヲ争フ。実ニ笑フベキ柵越競馬。
❍新芸 有名ナル片足ノ米国人軽業師ノ二重歌舞。
❍新芸 傷害ヲ受クルノ恐レナクシテ馬背上直立ヲ学ビ得ル新器械サイドス・ブリツナング・イクエスツリヤンバレトツク
ス。
此器械ヲ用ヒ、馬ヲ充分ニ疾馳シ、手綱ノ助ヲ仮ラズシテ、馬上ニ其平均ヲ失セズシテ直立、馬場ヲ三周セシ人ニハ金十円ヲ呈上スベシ。尤モ負傷等ハ少シモ無之、世上此乗馬器械ヲ試用スルヲ好ミシ人夥多有之申候。
當曲馬ハ神戸ニ於テハ今日ヨリ向フ四五日間ノ外興行不致候ニ付、来観ヲ忘却シ給ハザランコトヲ冀望ス
書記 マヤー
明治20年3月6日 朝日新聞
[神戸通信] チャリネの曲馬は来る十一日を以て当地の興行を打揚げ、大阪に赴くとの事。
明治20年3月8日 大阪日報
○チャリネの曲馬 目下神戸にて興行中なる伊国曲場師チャリネ氏は愈よ来十一日より当地に於て興行する由。
明治20年3月9日 神戸又新日報
○チャリネ曲馬 は愈々本日限り打上げ、明後十一日より大坂に於て興行するよし。
明治20年3月12日 神戸又新日報
○先日来、当鉄道局構内に興行のチャリネ曲馬は、去る九日の夜限り打揚ぐべき筈なりしが、都合により一日間日延をなし、いよ〳〵一昨夜にてその興行を終りたり。同夜は見物人格別に多く、上等席も多分に売れたる様子なりし。右芸人の一行は、同夜閉場後、直ちに小家掛等を取片付け、諸動物を率ひて即夜、兼て鉄道局へ願ひ置たる臨時汽車に乗じ、一同大坂へ赴きたるが、同地にてはいよ〳〵昨日より興行を始めたるよし。
チャリネの曲馬 十八
明治20年3月9日 朝日新聞[広告]
伊太利チャリネ曲馬
本月十一日ヨリ梅田ステーションニ於テ興行致候也
書記 マヤー
明治20年3月9日 大阪毎日新聞[広告]
伊太利国チヤリネ曲馬
本月十一日ヨリ府下梅田ステーシヨン構内ニ於テ興行
連日日曜日共午後一時三十分及七時ニ場ヲ開キ、演技ハ午後二時三十分及八時ニ相始可申候
入場代價
一、特別上等桟敷(椅子四脚備付)一個 金八円
一、特別上等桟敷中椅子 一脚 金二円
一、上等椅子 一脚 金一円
一、中等席一人金五十銭
一、下等席一人金三十銭
但小兒十歳以下ハ総テ半價ニ有之、特別上等席ハ之ヲ要セズ
○虎の子 上野公園内の動物園へチャリネ氏が納めし虎の子は、昨今大きに人に馴れ、餌を与ふる者を慕ふやうになりしゆゑ、看護人は種々芸を教へ居るが、此の虎の子が愛敬になつてか、近ごろ縦覧人が余ほど増したといふ。
明治20年3月12日 朝日新聞
○チャリニの曲馬 は愈々昨日午後より興行する趣を、曽根崎警察署へ興行元なる小林佐兵衛より届出たり。又、午前十一時に獅子、虎、象、馬等を貨物列車に積乗せ、神戸より梅田停車場へ着したれば、之を見んとて多くの人の群集したれば、警官等出張して保護をなしたる由。又チャリネの一行は、中の島自由亭と梅田停車場前の清華楼の両所に宿泊するといふ。
明治20年3月12日 朝日新聞
[神戸通信] チャリニ曲馬の一行は已に昨日午前八時の汽車にて上阪せり。又聞く所に拠れば此一行が当地にて興行せし日数二週間に之を観たる者九千余人、揚金は三千百余円(場内飲食物代金を算入す)にて、之を東京の秋葉原に於て興行せし時のものに比すれば、僅に其大入なりし日一日の揚金の額と同じきものなりとぞ。
明治20年3月15日 内外新報(『明治の演芸』)
○去る十一日より梅田停車場構内に於て興行を始めたるチャリニの曲馬は、十一、十二の両日は客足も左まで充分ならざりしが、一昨日は日曜日の事なれば、平日は公用業務等にて余暇なき紳士達の続々見物に出掛けたれば、昼夜とも観客場内に充満し、特別席、上等席の如きは、開場一時間前に悉く売切れたる程なりしと云ふが、同日の来館人は昼が二千二、三百人、夜が千二百人余ありて、揚り高は千円以上に及びたりとぞ。因に記す。当砲兵工廠御雇教師グリロ氏は、チャリニと同国人の縁故に依り、昨日、同人の一行を北浜の天娯楼に招き、午餐を饗応せられたりと云ふ。
明治20年3月15日 大阪日報
○チャリニを饗す 大坂砲兵工廠雇伊国人グリロ氏は目下当地に於て興行中の同国曲馬師チャリニの一行十余名を自邸に招
き酒肴を饗応したり。
明治20年3月15日 大阪日報
○チャリニ曲馬 去十一日より開場せしチャリニの曲馬は通券料の高価なるを以て大坂の人心には不向ならんと思ひ居たるに、一昨日の如きは昼夜両度とも当客千人以上に達したり。
明治20年3月15日 朝日新聞[広告]
伊太利チャーリニ
梅田ステーションに於て曲馬二度宛午後二時半と八時又日々午前九時ヨリ十二時迄動物は見せ申し候。壹人前拾銭、子供五
銭。
書記 マヤー
明治20年3月15日 朝日新聞
○チャリニの獣園及び曲馬 予て東京に演じて大に喝采を博し、且去冬吹上の禁苑に於て 天覧の光栄を得たる彼伊太利国人チャリニの一行は、去十一日神戸より当地に着せしが、有繫(さすが)は各国の都府を巡り興行するだけありて、僅々数時間に忽ち一大観場を構造し、同日の午後八時過ぎより看客を入場せしめたる敏捷の挙動は、是も亦一の軽業ならんかと思はれたり。偖此の興行場を一見するに、木戸口の傍(かたへ)に桟敷を構へ、西洋楽を奏して客を招けり。此楽師等は我国人の如くに見えたれど、孰も葡萄牙(ポルトガル)、西班(スペイン)辺の者なるべし。又同所に見慣ざる燈火を竿頭に掲げたり。這(こ)は細少なる穴を穿ちたる金属の鑵中に石脳油を入れて、之を燃したるものなるが、其光力は瓦斯燈の如くにして、場内にも此点燈を用ひたれば、宛も白昼に異ならず。又獣園にある獅子に虎各三頭、外に巨大なる熊二頭(此熊は宮内省より賜はりたる者)は車上に装置せる鉄柵の圏中にあり、其猛り吠るの様は見るも恐ろしき者なり。此他に象二頭と駱駝の如く背の隆起したる小さき水牛一頭、虎兒一頭、種々の猿十二頭、狸三頭、豪州産エミユーと称する駝鳥に似たるもの二頭、馬十一頭を豢養せり。猶此他に曲馬に用ふる馬匹十四頭を養ふ由なり。夫より曲馬軽業等の技術を見るに、最初の曲馬は男女各四人の騎者、羅馬古代の風俗に擬したるものとかにて華麗なる服装をなし、円形なる演場に乗出し、種々の形状に配伍して疾駆せしが、集散転変少しも列を乱さず、看客をして調馬の熟練に感歎せしめたり。次は二人の少年が七八尺許りも高く横に架渡したる棒の上に乗りて種々軽業をなしたり。次はチャリニ氏が緬甸(バーマ)産の小馬を指揮して踏舞、坐礼、前足を車上に置きて歩行せしむる等の芸を演ぜり。次は水夫の服装にて疾駆する馬上に直立して船を行(や)る状(さま)をなしつゝ、其服を引抜ば平常の服装となり、又変りて古代の軍人に擬したる姿となり、楯と剣を持ち戦闘の状をなせり。終りて十四五歳許の少女が同じく疾駆する馬上に立ながら、四方に間を隔てゝ人の捧げ持ちたる輪の中を潜り、又は巾の広き絹を躍超(とびこへ)る等の芸をなせり。此騎者は前段に早替りの芸を演じたるものゝ妹なる由。孰れも善く騎(の)りたり。次は鼻の欠けたる人が鼻の長き象二頭を指揮して種々の芸をなさしむ。中に就て面白きは鯱鉾立、踏舞、桶の上に前足をかけて転がしながら歩行し、或は喇叭を吹き、又径(わたし)一尺五六寸許の桶の上に四足とも乗せ、前足をあげて彼の洋犬がなせるチン〳〵の状をなすなど、是まで我国にて見せ物となしたる象の比(たぐひ)にあらず。次は一本の脚を切断したる男二人と一人の婦人が種々の体操をなしたるが、其婦人の優美にして力量あるには驚きたり。次はチャリニ氏が美麗なる黒馬を指揮して砂中に埋め隠したるハンカチーフを嗅出さしめ、又は其紅白孰れか命令に随ひ箱の中にあるを開き咬みて取出し来り、又は前足を屈して坐礼をなし、又は佇立せしむる等自由に働かしめたり。次には前段に曲馬を演じたる兄と妹が二頭の馬上に並び立ち、馳駆せしめつゝ種々の軽業を演じて眼を驚かしたり。以上演芸の間には一個の滑稽軽業師あり、是も中々の手練にて、目覚しき働きをなして、少しの間断なく看客に厭(あき)を来さゞるやうになしたり。又大切には米国人フレーム氏が虎の圏中に入るや、看客をして肌に粟を生ぜしめたり。然るに氏はさしも猛獰なる三頭の大虎を、恩威を以て圧伏するに、起坐進退、指揮に随はざるはなく、酒精を注ぎて燃したる火炎の輪を潜らしむるなど、寔に能く馴致して、宛ら猫を取扱ふ如くになしたり。斯く種々の技芸孰れとして至妙ならざるはなく、実に感賞するに堪へたり。殊に我国人の眼には新らしき技術のみなれば、拍手喝采の声は場中に満ちて暫しも止まざる程なりし。且又一昨日は日曜日なれば看客も多く集ひ、昼夜にて二千余の入場券を売りたりといふ。
明治20年3月18日 朝日新聞
○チャリニの曲馬 は本日より又其中へ新なる技芸を加へて見物に供するよしなり。
明治20年3月19日 朝日新聞
○チャリニの曲馬 は昨日より芸題を変更する旨を前号に記したるが、弥々本日より変更を加へ新たに演ずるものは左の技
芸なりと。
婦人各自に古代羅馬人の打扮(ふんそう)にて、甲冑を着け、刀鎗短銃及び投箭を使用し、馬上にて勇敢なる鍛錬の技を演ず。米国人猛獣の馴致者フレームが鉄柵の園中に入り、猛烈百獣の王と称する阿弗利加産の獅子を駆使す。又チャリニが同時に三頭の普漏西(フロシャ)驊騮(かりゅう)を指揮す。ローランドが天女の姿態に打扮し、駟馬(しば)を馭(ぎょ)す。猶此外に種々新奇なる軽業滑稽の演劇をなす由なり。
明治20年3月26日 朝日新聞[広告]
伊太利王国チャリニ曲馬及獣園連日日曜日共両度興行、昼ハ午后一時半開門、夜ハ七時半開門、後一時間ヲ経テ開演ス。又今日ヨリノ新芸題ハ豪州婦人乗馬達者ビクトリヤブランチ嬢、有名ノ軍馬モンテクリストニ跨リ、次第ニ速度ヲ増シテ数多ノ高柵ヲ飛越ス。抱腹絶倒阿非利加群猿乗馬競争。新規乗馬器械、但し落馬負傷ノ恐レナシ。此器械ヲ用ヒ馬ヲ疾駆シ手綱ノ援ヲ假ラズ馬背ニ直立シテ馬場ヲ三周セシ人ニハ誰彼ヲ問ハズ金五円ヲ呈スベシ
三月廿六日 書記 マヤー
(編者註:3月30日付広告に「下等一人金貮拾銭ニ直下ゲ」が追加される)
チャリネの曲馬 十九
【大阪梅田停車場・続】
明治20年3月27日 大阪日報
○チャリネ曲馬 目下興行中なるチャリネ曲馬場にては、今度新発明の稽古器械を備付けて、観客の望みに応じ奔馬に飛乗らしむることにせし由なるが、右の器械は手綱の援(たす)けを借ることなく奔馬の背上に直立し得られ、且つ誤て落馬することあるも負傷するの恐れなき様構造したる者なりと。
明治20年3月29日 朝日新聞
○チャリニの曲馬 去廿六日より是迄の演技中へ挿加へたる新技芸を一覧せしに、其内尤も著しきは二人の滑稽者(内一人一本足)が鋤の棟に乗り、奏楽に合して踏舞を為すもの」北亜米利加の土蕃に擬したる乗馬者と滑稽者の演技」四頭の猿に競馬の服装を着けて各小馬に乗せ競争せしむるもの」一種新規の乗馬器械を以て何人にても飛入りに乗馬せしめ、手綱の援(たすけ)を假らず馬背に直立して馬場を三周したる人には金五円を呈すといへるもの等なり。又同曲馬は昨日より下等見料を廿銭に引下げたり。
明治20年3月29日 大阪日報
○チャリニ曲馬 梅田停車場にて興行中なる同曲馬は、南地千日前近傍にて一興行なさんと目下地所撰定中なりと。又同曲馬は昨日より下等廿銭に引下げたり。又猛獣を入れある鉄柵は何れも大破に及び、脱逃の恐あるを以て、砲兵工廠に依頼し修覆に着したり。
明治20年3月30日 大阪日報
○チャリネ曲馬 目下興行中のチャリネ曲馬は、予ても記載せし如く当地の興行を打上げ次第、愈よ京都及び長崎にて興行し、夫より清国香港へ向け渡航し、同地及び上海等に於て興行し、同国にて凡そ一ケ年間在留の見込なりと。
明治20年4月1日 朝日新聞
○チャリニの曲馬 は広告欄内にもある如く、本日より更に芸題を改め、又各花街の芸妓に通券を贈りて之を招き、縦覧せしむる由なるが、新町の芸妓は返礼のため其帰りに清華楼にて手踊りをなし、チャリニ一行に見せる由なり。
明治20年4月1日 朝日新聞[広告]
梅田停車場前
伊太利王国チャリニ曲馬及獣園連日日曜日共両度興行、昼ハ午后一時半開門、夜ハ七時半開門、後一時間ヲ経テ開演ス。今般芸題ヲ一新シ、馬上ノ曲技ハ勿論、新作一見抱腹絶倒スベキ道化茶番狂言及新趣ノ軽業曲取弄球等ヲ加ヘ候。付テハシグノーチャリニ氏ヨリ大坂府下諸花街ノ芸妓五百名ヲ招待シ内二百五十名ハ来ル四月一日ニ残リ二百五十名ハ同二日ニ何レモ昼ノ演芸ヲ来観スルノ承諾ヲ得タリ
下等一人金貮拾銭ニ直下ゲ
三月三十一日 書記マヤー
明治20年4月5日 朝日新聞[広告]
梅田停車場前
伊太利王国チャリニ曲馬及獣園連日日曜日共両度興行、昼ハ午后一時半開門、夜ハ七時半開門、後一時間ヲ経テ開演ス
下等一人金貮拾銭 いよ〳〵本月六日にて(千秋楽)
四月一日 書記 マヤー
明治20年4月5日 朝日新聞
○チャリニの曲馬 は明六日限り當地を打揚げ西京にて興行するよしなり。
明治20年4月5日 大阪日報
○チャリニ曲馬 去月十一日より梅田停車場構内に於て興行中なるチャリニの曲馬は、明六日の夜にて当地を打上げ、翌七日午前十時梅田発の汽車にて西京へ乗込み、翌八日の夜より凡二週間同地にて興行する筈にて、八日の夜はチャリニが自ら曲馬の技芸を演ずるよし。
【絵画資料】
≪チラシ・活版印刷≫(馬の博物館蔵:「馬のサーカス・大曲馬」52頁)
緊要廣告
府下未曾有ノ大観伊太利王国チヤリニ曲馬獣会及珍奇蒐集会ノ来着
右ハ本月十一日ヨリ梅田鉄道局構内日本郵船会社前過般 天皇陛下行幸ノ際聖駕
奉迎ノ地ニ於テ興行可仕候
広濶ナル観場ハ米国新発明ノ燈火ヲ用ヒ、燦爛タル火光昼ヲ欺クノ不夜城裏ニ、シグノーチャリニ氏二回ヅヽ技ヲ演ジ可申候
連日日曜日共午後一時三十分及七時ニ場ヲ開キ、演技ハ午後二時三十分及八時ニ相始メ可申候
古来如斯驚クベキ大観ハ曾テ日本ニ到来セシコト無之、所謂空前絶後ノ大観ニシテ、恐クハ幾十年ヲ経ルニ非ザレバ同様ノモノ再ビ日本ニ到来致間敷候
當曲馬ハ忝クモ 天皇陛下 皇后陛下ノ御覧ヲ賜フヲ辱シ、且東京貴顕紳士及観
客数十万ノ愛観喝采ヲ博シ申候
當曲馬ハ其業ニ於テハ至極ノ声誉アル各国婦人及男子ノ演ズル各種ノ遊慰ヲ含有シ、馬上ノ曲技ハ人ヲシテ案ヲ拍チ奇ト呼ビ妙ト叫バシメ可申候
片足軽業師体操者滑稽者及傀儡師ハ各其特技ニ於テ無双ノモノニ有之申候
此驚クベキ熟練ナル技芸中ノ至妙ナルハ教師シグノーチャリニ氏ノ指揮ニ依リ、之ヲ実際ニ徴スルニ非ザレバ殆ンド信ヲ措カザラシムル如キ種々ノ技芸ヲ演ズル曲馬ニ有之申候
阿弗利加産ノ大象ハ実ニ能ク教育ニ随ヒ、其従順ナルハ殆ンド人性ヲ有スルモ
ノヽ如クニ候
世ニ有名ナル米国人獅子馴致者ゼームスフレーム氏ノ勇威ハ、能ク獣会中強暴ナル獅子、猛虎ヲ圧倒シテ、大胆ニ其技ヲ演ズルノ間観衆ヲシテ戦慄驚怖セシメ候
獣会ニハ古来生捕タルモノヽ中最大ノモノト称セラレ候蝦夷産ノ大熊有之。此熊ハ東京宮内ニ於テ忝クモ特ニ 天覧ヲ賜ヒシ後 天皇陛下ヨリシグノーチャリニ氏へ下賜相成候ノモノニ有之候
又此獣会ニハ種々ノ技ヲ演ズル猿、犬、大洋洲産ノエミユ鳥、印度産ノ聖牛、ボニオ、スマタラ及マタカ国産ノ数種ノ猴、各種ノ小馬、セレビス島所産ノ黒毛奇猿、其他夥多ノ奇異且価直アル動物ヲ所有致候
荘麗無比ノ大観中ニ妙技ヲ演ズルニ用フル馬モ有之候
東京興行中本会広濶ナル観場ハ昼夜観客ヲ以テ充満致候
前陳ノ如ク実ニ古来未曾有ノ大観ニ有之候得バ、冀クハ諸君子来場ノ機会ヲ惰リ他日ノ悔ナカランコトヲ。入場代価ハ左
ノ通ニ有之申候
一特別上等桟敷(椅子四脚備付)一個金八円
一特別上等桟敷中椅子 一脚金貮円
一上等椅子 一脚金壹円
一中等席 一人金五拾銭
一下等席 一人金三拾銭
但小兒十歳以下ハ総テ半価ニ有之、特別上等席ハ之ヲ要セズ
本興行ハ備ニ観客ノ遊慰ニ供スルノ目的ニ候得バ、開演前一時ノ間門外ニ於テ曲馬楽隊ヲ無料ニテ高聴ニ達シ可申候
明治二十年三月 書記マヤー謹告
≪大判錦絵・二代貞信画・出版人玉置清七≫(「見世物関係資料コレクション目録」224頁3-27)
(表題)「CHIARINI’S CIRCUS AND MENAGERIE Complete Congress of Wonders and Marvels」
(日本語表題)「世界第一チヤリ子 大曲馬并大獣苑 興行人小林佐兵衛」
(袖)「明治廿年第三月吉日より梅田ステンショー前ニおいて」
〈編者註〉上掲の錦絵は「古書目録」(平成十九年)より拝借した。
チャリネの曲馬 二十
◆京都御苑◆(4月8日~4月19日)
明治20年3月29日 大阪日報
○チャリネ曲馬 四月十五日より京都御苑内博物会社の近辺に於て仝曲馬を演ぜんとて、其地所拝借の儀を上京区第廿一組勘解由小路町田中有信外一人より主殿寮京都出張所へ願出たり。
明治20年3月30日 朝日新聞
[京都通信] チャリニの曲馬は四月上旬より六十日間御苑内の地にて興行する由にて興行人山田寅之助より右地所拝借の儀を主殿寮出張所へ願出しに、右貸渡べきの指令を与られたりと。
明治20年3 月31日 日出新聞[広告](二種類)
近日到着
京都未曾有荘観伊太利王国チャリニ曲馬及獣園、西洋婦人男子ノ曲馬師、体操師、軽業師、弄球師、其他各種ノ技芸ヲ演ズル亜非利加産ノ獅子、ペンゴール産ノ猛虎、錫蘭産ノ大象、世界各国産ノ猿、犬幷ニ不思議ニ教育サレタル馬及小馬等
右ハ不日京都ニ到着可仕候ニ付テハ冀クバ諸賢来着開場ノ期日ニ注意シ、追テ詳細広告スル處ヲ覧給ハンコトヲ
明治二十年三月 書記マヤー
明治20年3 月31日 日出新聞
○チャリニの曲馬 目下大坂にて興行中なる伊国の曲馬師チャリニの一行は来る十日比より愈よ京都に来り京都御苑内堺町御門内東手測候所の芝生一千八百坪を日数六十日間借用し曲馬を興行致したき旨主殿寮京都出張所へ願出たるに去廿八日許可せられたり其木戸銭の如き土地の情況に依り極て廉価にし先下等十五銭上等廿銭位の割にて観せるといふ。
明治20年4月1日 日出新聞
○チャリニの曲馬 前号に報ぜし如く、今度伊太利の曲馬師チャリニが京都に来り曲馬を興行するに就ては、此程同監事ウヰルソンが先づ御苑内拝借地に臨み、場所の地割をなし、昨日より工事に着手(とりかか)りたるを以て、愈よ来る十日比には興行の運びに至るべしと。
明治20年4月5日 大阪日報
[京都通信 四月四日発] チャリニ氏曲馬 来十日より御内苑に於て興行する同曲馬の周旋人なる仏人エーヴヲアール氏は目下円山也阿弥楼に投宿し、日々御苑内の現場に出発して工夫を指揮し居る由なり。
明治20年4月5日 日出新聞
○大曲馬 近頃我国にて有名なる彼の伊太利の大曲馬チャリニの一行は目下尚大阪にて興行中なるが、我京都に於ても数週間興行せんとて其頭取エジモトスウヰルソン通弁大和晴の両氏は過日より上京し、御苑内拝借の事に斡旋せるが、略其計画も調のひ、来る十日比より興行に取かゝるよし。其装置及び伎芸の概略(あらまし)を聞くに、先づ興行場には三張のテントを以て蔽ひ、入口を獣園とし、此處には大象二頭、印度産の聖牛一頭、小馬十数頭、驢馬一頭、ペシロル産の虎三頭、亜非利加産の獅子三頭、各種の猿十二頭、狸三頭(此狸は日本産なり)、日本東京秋葉ケ原にて生落せし虎兒一匹、豪洲産エミユーと称する鳥一番ひ(其大きさは鶴より大にして丈高し)及び東京にて宮内省より賜はりたる北海道産の羆二頭等を養なひ置き、次のテントは演伎場にて、其次なるを楽屋とす。其番組は一週間毎に差換る趣きなるが、今開業第一週日内に演ずる伎芸の予定は第一次楽隊の奏楽あり。第二次にペシコル産の猛虎三頭を鉄檻の儘引き来り、米人フレーム氏檻中に入り、之を使ふに恰も猫の如くになり、其指揮に従がふ。又アルコールを注ぎて燃したる火焔の輪を幾度となく潜らしむる等、一見慄然たらしむ。第三次に婦人四名男子四名八馬に駕して乗出し来るは、羅馬古代の風俗を移せる由にて、何れも華麗なる服装を着け、馬にも燦爛たる騎粧(よそほひ)をなさしめ、婦人の内豪州産のミッスヴィクトリアフランチといふ有名なる曲馬師が先導となりて八馬を馳駆せしめ、種々の形状に配伍し、集散離合、円く列なり、方に并び、其転変の速(すみやか)なる事、人の目をして覚らしめざる程なるも、決して其列を乱す事なく、疾駆するの最も甚太(はなはだ)しき時は、騎者は其体を内部に傾むけ、殆んど地に堕んとするの形状を呈(あら)はす。第四次に英人トム及ウィルハーバー英人兄弟の二少年が、八尺許り高き横棒の上にて種々の軽業をなし、中に二人相抱きて風車の如くに廻転し、其廻転運動の最も甚はだしき時は獨楽より速なり。第五次には緬甸(ビルマ)産の小馬を牽出し、馴致者シグノーチャリニ氏二本の鞭にて指揮するに坐禮チン〳〵或ひは舞踏をなすなど、自在の運動は人をして舌を捲しむ。第六次に米人ラーベチトロウラント氏が水夫の服装にて疾駆の馬上に直立し、又は船を行(や)るの形をなし、上衣を脱げば平常の服となり、更に服を変へて欧州中古軍人の風に擬し、剣と楯を以て戦争の状をなし、之を輔くるに滑稽者ゴドフレー氏が種々の滑稽を演じ、人の笑ひを取る。第七次に亜弗利加猿の競馬あり。畢て中入となし、十五分間休憩の後、第一次に楽隊奏楽。第二次には大象二匹を牽出し、アバデー氏之を指揮して、或ひは座禮せしめ、又は小樽の上に四足を乗しめ、又は鼻にて喇叭を吹き、又は人を鼻に捲きて背中へ上(のぼ)す等種々の芸をなす。第三次にアイズスチウドリー嬢及チャールス兄妹の無鞍馬上の演伎あり、是等は見るにも危ふき様あり。第四次にフランセスメーベル嬢并びにトム及ウヰルハーバーの三人連合にて軽業あり。第五次にスツウドリー氏及コドフレー氏が滑稽の茶番狂言あり。第六次にズエチナー兄弟が電信線の綱渡りあり。第七次にチャリニ氏は美麗なる黒馬三頭を牽来りて、之を同時に先の如く指揮する等、何れとして目新らしからぬはなく、以上十四次を以て一場の演芸となす。其順次は時によりてさし替ることあれども番数を減ずる事なしと。近きに興行となれば、初日より之を見物し、実際に就て又々詳しく報道すべし。
明治20年4月6日 日出新聞
○チャリニの一行 前号に委しく報道せし伊太利国曲馬師の一行は、本日を以て大阪を打揚げとし、明日は正午迄に動物諸器械とも七条停車場へ着の筈にて、同所よりは獅子・熊・虎の猛獣は檻内にて送り、象・馬・牛・猿・狸など都て三十八頭は歩行せしめ、停車場より東洞院を北へ、五条を東へ、寺町を北へ、丸太町より西へ御苑内へ歩行せしめて興行場へ移し、八日の午後一時半より興行を初むるといふ。
明治20年4月7日 日出新聞
○チャリニの曲馬興行 前号にも記せし如く愈よ明八日より京都御苑にて興行する伊太利国曲馬師チャリニの一行は同日より来る廿日まで興行する旨一昨五日興行人上京区第四組東西町平民山田寅之助代理上京廿一組勘解由小路町田中有信より上京警察署及上京区役所へ届出しが、木戸銭は矢張り十銭にて場代は上等九十銭、中等四十銭、下等十銭とし別に観客の求めに応じ敷物代二銭づゝを申受くるよし。
同一行の人名を聞くに伊太利国人ジー・チャリニ、同ジョセフ・チャリニ、北米合衆国人エル・マヤー、伊太利国人ヱ・ボンリー、北米合衆国人フランク・ウヰルソン、伊太利国人ビグナ・ダルフェロ、英国人シー・ボンド、北米合衆国人ハーパー兄弟二人、同メーベル・フランシス、英国人ズエチナー家族四人、北米合衆国人ローランド父子二人、同ゼー・フレーム、仏国人ゼー・アバデー、ブラジル人ピー・サントス、豪州人ビクトリア・ブランナ、英国人スッドリー兄妹二人、同ヘンリー・ゴッドフレー、露国人ハーリー・ダウセン、マニラ人十人、爪哇人九人なりと。
チャリネの曲馬 二十一
【京都御苑・続】
明治20年4月7日 日出新聞[広告]
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府下未曾有ノ大観 伊太利王国チャリニ曲馬獣会及珍奇蒐集会
右ハ本月八日ヨリ、京都御苑内丸太町通北側、富小路堺町ノ間、測候所前ノ地ニ於テ興行仕候。広濶ナル観場ハ米国新発明ノ燈火ヲ用ヒ、
燦爛タル火光昼ヲ欺ク不夜城裏ニ、シグノー・チャリニ氏二回ヅヽ技ヲ演ジ可申候。連日日曜日共午前九時ヨリ正午十二時迄獣園縦覧、午後一時三十分及七時三十分ニ場ヲ開キ、技演ハ午後二時三十分又八時三十分相始メ可申候。
古来如斯驚クベキ大観は曽テ日本ニ到来セシコト無之、所謂空前絶後ノ大観ニシテ、恐クハ幾十年ヲ経ルニ非ザレバ同様ノモノ再ビ日本ニ到来致間敷候
▲当曲馬ハ忝クモ 天皇陛下 皇后陛下ノ御覧ヲ賜フヲ辱シ、且東京貴顕紳士及観客数十万人ノ愛観喝采ヲ博シ申候
▲当曲馬ハ其業ニ於テハ至極ノ声誉アル各国婦人及男子ノ演スル各種ノ遊慰ヲ含有シ、馬上ノ曲技ハ人ヲシテ案ヲ拍チ奇ト叫バシメ可申候
▲片足軽業師、体操者、滑稽者及傀儡師ハ各其特技ニ無双ノモノニ有之申候
▲此驚クヘキ熟練ナル技芸中ノ至妙ナルハ、教師シグノーチャリニ氏ノ指揮ニ依リ、之ヲ実際ニ徴スルニ非ザレバ殆ント信ヲ措カザラシムル如キ種々ノ技芸ヲ演ズル曲馬ニ有之申候
▲亜弗利加産ノ大象ハ実ニ能ク教育ニ随ヒ、其順従ナルハ殆ント人性ヲ有スルモノヽ如クニ候。世ニ有名ナル米国人獅子馴致者ゼームスフレーム氏ノ勇威ハ能ク獣会中強暴ナル獅子猛虎ヲ圧倒シテ大胆ニ其技ヲ演スルノ間観衆ヲシテ戦慄恐怖セシメ候
▲獣会ニハ古来生捕タルモノヽ中最大ナルモノト称セラレ候蝦夷産ノ大熊有候。此熊ハ東京宮内ニテ忝クモ特ニ 天覧ヲ賜ヒシ後 天皇陛下ヨリシグノーチャリニ氏ヘ下賜相成候モノニ有之候
▲又此獣会ニハ種々ノ技ヲ演ズル猿、犬、太洋洲産ノヱミユ鳥、印度産ノ聖牛ボニオ、スマタラ及マラカ国産ノ数種ノ猴、各種ノ小馬其他夥多ノ奇異且価値アル動物ヲ所有致候
▲荘麗無比ノ大観中ニ、妙技ヲ演スルニ用フル馬モ有之候
▲東京興行中、本会広潤ナル観場ハ昼夜観客ヲ以テ充満致候、前陳ノ如ク実ニ古来未曾有ノ大観ニ有之候得ハ、冀クハ諸君子来観ノ機会ヲ惰リ他日ノ悔ナカランコトヲ
入場代価ハ左ノ通リニ有之申候
上等一人(木戸銭十銭、席料九十銭)金壹円
中等一人(同、席料四十銭)金五拾銭
下等一人(同、席料十銭)金貮拾銭
但、上等、中等ニ限リ小供十際以下ハ半價
本興行ハ偏ニ観客ノ遊慰ニ供スルノ目的ニ候得バ、開演前一時ノ間、門外ニ於テ曲馬楽隊ノ奏楽ハ無料ニテ高聴ニ達シ可
申候
明治二十年四月 書記マヤー謹告
明治20年4月8日 日出新聞[広告]
新製戯曲 茶利菓
チャリニ氏ノ大獣苑ヲ模シタル日々新製屋ノ珍菓ナンバ続々御用奉冀候
京都蛸薬師通堺町角 亀良則

明治20年4月10日 日出新聞
○チャリニの曲馬 予て記せし如く一昨日より京都御苑内に於て催ふしたるチャリニの曲馬は、既に去る五日の紙上に委しく掲載したれど、尚その実際を目撃したればその体裁を記さんに、同場は御苑内測候所の南、数千坪の地を拝借してこれに充たり。入口は富小路通りの突当にて、堺町の方を楽家に充たり。その入口には四個の瓦斯燈を点じ、左の方に下足預り所あり(靴は其儘)、次に通券売場あり、また改め所あり、其傍に絵看板を掲げたり。夫より幕を入(いれ)ば、茲に獣園あり(その獣類は前号の通り)。偖演芸場へいれば、周囲(ぐるり)は天幕(テント)を以て蔽ひたる円形の場所なり。上等席は北の方に、中等席は南の方にて、その周囲に下等の席を設けたり。初日の夜は看客凡そ千五百余名にして、上中等は僅々十余名に過ざりし。その演芸は向(さき)に記せし如くにて、いづれも奇代の妙芸なれば、見る者をして或は膽を冷し、或ひは愉快と叫ばしむ。就中チャリニが小馬を使役の自在なること、恰かも丁稚を使ふが如し。又京都の興行日数は十日間にて本月廿日には支那天津へ赴むき、同所に於て興行し、夫より直ちに本国へ帰る筈なりといへり。
明治20年4月10日 日出新聞
○チャリ菓 近頃頻りに新工夫を為す蛸薬師堺町角の亀良則には今度御苑内にて興行するチャリニ大曲馬を固(もと)として製したるチャリ菓は丸き曲物(わげもの)を馬場に見たて中より小さき棒を立て、之に黒き裂(きれ)を蔽ひてテントに擬し、中には有平製の象や馬又は曲馬師の潜る輪及(と)獅子に虎を打出したる煎餅種の口軽きものを入れたり。
明治20年4月12日 日出新聞[広告]
緊要広告
府下未曾有ノ大観 伊太利王国チャリニ曲馬獣会及珍奇蒐集会
右ハ御苑内丸太町堺町ノ東ニ於テ連日日曜日共興行午前九時ヨリ正午十二時
迄動物縦覧、午後一時半及七時半開門、其後一時間ヲ経テ開演
本月十一日ヨリ芸題変更
初芸 馴到者亜非利加獅子遣ヒ分ケ
初芸 婦人乗馬古代羅馬人ノ遊慰ヲ擬シ甲冑ヲ着ケ刀鎗短銃ヲ以テ首級ヲ截
射ス
初芸 抱腹絶倒群猿競馬
初芸 道化茶番狂言ジョンブール
當曲馬本芸ハ五日間ニ有之候間諸賢請フ之ヲ記セラレンコトヲ
明治二十年四月 書記マヤー謹告
明治20年4月13日 日出新聞
○チャリニ曲馬 過日来、御苑内に興行し居るチャリニ曲馬は一昨日より芸題を取換へ新芸を加へたるが、其中猿を馬に騎せて馳駆せしむるは尤も棒腹するに堪へず又猛獣遣ひは先に虎を用ひしを同日より獅子に換へたり、其他少女の古代羅馬人の風にて首級を切る様なども奇なり。但し此芸は五日間にて止め、更に十六日より新芸と取換へ十八日にて全く閉場するよし。因みに云ふ、獣園中にある豪州産の「エミユ」と云へる一双の鳥は東京にて 天覧の節、忝なくも 叡慮に叶ひ其産地飼養方等を御下問になりて他日軍艦の豪州へ回航せし際、此鳥を獲(とらへ)帰るべしとの仰せありしとかや承はり伝へたるが、今度其鳥の卵二個をチャリニ氏より北垣京都府知事へ贈呈せしよし。
明治20年4月16日 日出新聞
○チャリニ氏賊に遭ふ 万里の波濤を越えて生馬の目ではない生馬を自由に遣ふチャリニ氏其人でも、泥棒の目には遁されぬものと見え、当地に来りし当座は円山の也阿弥楼に投宿せしが、御苑内の興行にては往復の道順あしゝとて、去る七日より興行場に近き上京廿五組堺町夷川下る巡査合宿所の前堀川久蔵方へ移転して、日々場内へ通ひ居たるに、興行の上り高は毎夜総勘定して箱へ納め置が例にて、去る十三日、十四日の両日の勘定は繁忙なる為め、一ツに纏めて箱に納め、透(すき)を得て勘定せんとなしたるを、如何にして窺がひ知りけん、一昨夜の夜更に紛れて忍び入たる賊が有りて、夜明けて見れば其箱見えず、チャリニ氏は驚愕一方ならず、早速其筋へ届け出るが、其金高は未だ勘定前ゆゑ確乎(しか)とは知りがたけれども、二千円以上は確かに入置たりと申し立るに依り、上京警察署よりは直ちに警吏が入来りて取調べたれど、別段手がゝりもなければ、雇人の内二、三名を呼出して前夜の模様を聞糺し百方尽力中なりとぞ。
チャリネの曲馬 二十二
【京都御苑・続】
明治20年4月16日 日出新聞[広告]
緊要広告
府下未曾有ノ大観 伊太利王国チャリニ曲馬獣会及珍奇蒐集会
右ハ御苑内丸太町堺町ノ東ニ於テ連日日曜日共興行午前九時ヨリ正午十二時迄動物縦
覧、午後一時半及七時半開門、其後一時間ヲ経テ開演
右ハ弥ヨ本月十六十七十八ノ三日間千秋楽本日ヨリ芸題更新各種ノ新景曲馬及動物ノ
演芸ヲ高覧ニ供シ可申候
明治二十年四月 書記マヤー謹告
明治20年4月17日 日出新聞
○チャリニ方の賊捕へらる 目下曲馬を興行する伊国のチャリニが止宿所上京廿五組堺町通夷川下る堀野久蔵方へ賊の忍び入、二千余円の金を奪ひしに付、上下京警察署の警官は厳重にその賊を探偵せしに、同夜かの旅宿に麻布の風呂敷一個を残しおきしが、その風呂敷に「永楽屋」と記しあるにより、段々と調ると、この品は同区廿八番組両替町三条上る永楽屋こと上羽理兵衛といふ質屋の風呂敷と分り、同家に就て取糺すと、客年六月同家の雇人安次郎(十九年)に不都合ありて暇を出したりといふにより、その親許上京廿四組竹屋町室町東入高木仙助方へ出張すると、折ふし安次郎が他出せんとなすときゆゑ、当時は何所にをるぞと問ば、曲馬師チャリニの書記米国人エルマーヤ方に雇れをる旨を答へしゆゑ、いよ〳〵恠(あや)しと、チャリニの金を奪ひしは其方ならんと尋ねられ、忽地(たちまち)面色を変じたるより、偖こそとて尚も共犯人を調ると、安次郎方の止宿人上京三十一組木屋町二条下る十四番順次(ろじ)の高歩貸市原宇吉(十九年)と安次郎の父仙助も不審なりと夫々にその居所を探偵せしに、宇吉は下京六組河原町三条下る大黒町中村房太郎方にて捕へられ、仙助は自宅へ帰る處を押へられしが、安次郎は厳しき吟味に隠しがたく、父の指図によりて宇吉と申し合せ、書記マーヤ方にて右金を窃盗せし旨を白状したるが、右三人は同夜途中に於て一人前金五十円づゝを分配し、宇吉は翌日嵐山へ遊びにゆき、安次郎は膳所裏の席貸龍田おきぬ方へ登楼したるが、その金の内六百円だけは仙助の実母なる下京廿組建仁寺町団栗下る東側の路次高木きぬ方の留守中に仙助が同家へ入り、神棚の中へ隠しおきたりと申し立しにより、直ちに該金を取寄チャリニへ仮下げをせられしに、チャリニは日本警察官の探偵の厳密なるに驚き、拍手して欣舞したりといふ。又金員の在所(ありか)は目下取調中なりと聞く。
(編者註:4月19日付で「上京廿五組堺町夷川上る堀野久蔵方をチャリニの止宿所とせしは書記マヤーの止宿所なり」と訂
正されている)
明治20年4月17日 毎日新聞
○チャリネ氏奇聞 是れは今頃嵐山の花盛り、都ぞ春の錦なると大宮人の賞(ほ)め称(たゝふ)る京都にての話しとかや、此程大阪より移り来し伊太利王国曲馬師チャリネ氏の一行が同地御苑内を借受けて例の絶技を演じ、なか〳〵の評判なるに、一日興行場の未だ開かざる前、或る人が御苑内を通行する折しも、遙か向ふの林叢(はやし)の下にて発砲せし洋人あり。音と共に小鳥の落ちしを見て、或る人は実(げ)に見事なりと思はず手を拍(うっ)て感嘆せしが、又た考へ見れば、此處(ここ)は畏くも御苑内殺生禁断の場所なり、アノ西洋人も此等のことは心得居るべきにと不審の念を起し、先づ其向きに到りて斯々と有の儘を知らせたり。同所にても既に其音を聞き咎め、取調べんとする處にして、間もなくチャリネ氏曲馬興行名代人山田某を呼び寄せ、洋人のことなれば若しやその一行中にあらずやと先づ同氏に聞き合はさしめたるに、チャリネ氏は之に答へて、其発砲は自分の所為なり、左れど実弾にあらず、且人寄の為めに発砲するは当曲馬の恒例なりと云ひしが、結句実弾と思ひしとの非なりけん、其の儘何の沙汰もなく事済み、又た曲馬場には是迄興行前に人寄せの発砲などのことは一辺もあらざりしに、其翌日よりは場内にてポン〳〵と空砲を放つよし。若しチャリネ氏返答の如くなれば、彼の或る人が見たる小鳥と云は中(あた)りしにはあらで鉄砲の音にでも肝を潰して落ちしなるべしと同地よりの通信に見へたり。
明治20年4月19日 日出新聞
○チャリニの曲馬日延 京都にては予想(おもひ)の外の大入となりて尚見物したきもの多くあるよしを聞き、今日一日だけ日延興行をなす事になりたり。尚広告欄を一覧あるべし。
明治20年4月19日 日出新聞[広告]
御苑内丸太町堺町東伊太利王国チャリニ曲馬及獣園特別広告
明十九日両回優芸ヲ演ス
明治二十年四月十八日 書記エルマーヤ
明治20年4月20日 日出新聞
○チャリニの金を窃し賊の公判 去る十四日の夜、上京廿五組亀屋町なるチャリニ氏書記マーヤの止宿所堀野久蔵方へ忍入り、金六百余円を窃取し上京廿四組竹屋町室町東入る高木仙助二男安太郎と同三十一組木屋町二条下る市原卯吉の両人は、昨日京都軽罪裁判所にて審理の末、何れも重禁錮二ケ月十五日、監視六ケ月に處し、又之れを教唆したる仙助は重禁錮五ケ月、罰金十円、監視七ケ月に處せられたり。
(編者註:4月21日付で「木屋町二条下る市原卯吉」は「愛宕郡今熊野村河原房太郎方付籍河原卯吉」と訂正されている)
明治20年4月20日 日出新聞
○象の復讐 此程京都御苑内に興行するチャリニ曲馬の獣園に居るかの二頭の大象は、人を見ても懼るゝ体なく悠然となしをるを見て、一昨日のこととか、或一人の美服を着たる若き男がこの象を見てありしが、側にをる掛りの者が餌物を遣(やれ)と侑(すすむ)るを空耳に聞流し、手に携へし蝙蝠傘の柄の先の尖りある處にてかの象の鼻の先をしたゝかに突たるに、象も急所なれば余程痛みし容子なれども、然る顔付もせずに傍の土中へ鼻の先を突込、土砂と木の粉を充分(したたか)吸込み、かの前に悪戯をせし者に鼻をさし向け、プーッと一呼吸吹かけしは恰かも喞筒(ポンプ)より水を吹ごとく、鼻洟(はな)と土砂と木の粉の混合物が一時に衣服へかゝりしかば、ワッと云て逃退きしも、既に衣服は泥まみれにて、今更先に悪戯せしを悔めど象も仕方なく、口の内にてヱヽ忌々しい畜生奴だ。
明治20年4月21日 日出新聞
○チャリニ曲馬の玩弄者(おもちや) 先年来、山城淀新町にて旧藩士の婦女子を集め外国向の綿細工玩弄品を盛大に製造し目下追々事業の繁忙を来し雇人も百五十余名ありけるが此ほど京都御苑内にて興行するチャリニ曲馬の形、或ひはその動物類を模造し神戸商館へ引合を付たる處非常の好評を博し後、注文続々申来る由。
明治20年4月21日 日出新聞
○清国旅行 上京区三組西蘆山寺町川村駒二郎同為吉、下京区第廿六組都市町木村長次郎の三人は、自今二ケ年を期し清国へ旅行し、先づ曲馬師チャリニ氏に雇はるゝ約を為し、其旅行券下附のことを昨日京都府へ願出たり。
チャリネの曲馬 二十三
◆長崎大浦居留地◆(4月24日~4月28日)
明治20年4月19日 鎮西日報[広告]
長崎未曾有の大観伊太利王国チャリニ曲馬獣会及珍奇蒐集会の来着
右は今回尾張丸を借切り、支那地方へ渡航の途次、本月廿三日頃より四日間、長崎居留地大浦廿九番三十番三十一番屋敷に於て興行可仕候。依て四日の外は見ることを得ず。広濶なる観場は米国新発明の燈火を用ひ、燦爛たる光火昼を欺くの不夜城に、シグノーチャリニ氏二回づゝ技を演じ可申候。連日日曜日共午後一時三十分及七時三十分に場を開き、演技は午後二時三十分及八時三十分に相始可申候。
古来如斯驚くべき大観は、曾て日本に到来せしこと無之、所謂空前絶後の大観にして、恐くは幾十年を経るに非ざれば同様のもの再び日本に到来致間敷候●●当曲馬は忝くも 天皇陛下 皇后陛下の御覧を賜ふを辱し、且東京貴顕紳士及観客十万の愛観喝采を博し申候●●当曲馬は其業に於ては至極の声誉ある各婦人及男子の演ずる各種の遊慰を含有し、馬上の曲技は人をして案を拍ち奇と呼び妙と叫ばしめ可申候●●片足軽業師、体操者、滑稽者及傀儡師は、各其特技に於て無双のものに有之申候●●此驚くべき熟練なる技芸中の至妙なるは教師シグノーチャリニ氏の指揮に依り、之を実際に徴するに非ざれば、殆んど信を惜かざらしむる如き種々の技芸を演ずる曲馬に有之申候●●阿弗利加産の大象は実に能く教育に随ひ、其従順なるは殆んど人性を有するものゝ如くに候●●世に有名なる米国人獅子馴到者ゼームスフレーム氏の勇威は、能く獣会中強暴なる獅子、猛虎を圧倒して大胆に其技を演ずるの間、観衆をして戦慄驚怖せしめ候●●獣会には、古来生捕たるものゝ中最大のものと称せられ候蝦夷産の大熊有之、此熊は東京宮内に於て忝くも特に 天覧を賜ひし後 天皇陛下よりシグノーチャリニ氏へ下賜相成候ものに有之候●●又此獣会には種々の技を演ずる猿、犬、大洋産のエミユ鳥、印度産の聖牛ボニオ、スマダラ及マラカ国産の数種の猴、各種の小馬其他夥多の奇異且價直なる動物を所有致候●●壮麗無比の大観中に妙技を演ずるに用ふる馬も有之候●●東京興行中、本会広濶なる観場は昼夜観客を以て充満致候。前陳の如く実に古来未曾有の大観に有之候得ば、冀くは諸君子来観の機会を惰り、他日の悔なからんことを。入場代價は左記の通に有之候●●本興行は偏に観客の遊慰に供するの目的に候得ば、開演前一時の間、門外に於て曲馬楽隊の奏楽を無料にて高聴に達し可申候
明治二十年四月 書記マーヤ謹告
上等四人椅子四脚付金八円 同一人椅子一脚付金二円 中等一人金五十銭 下等一人金三十銭 但小供九才以下は一人前金
廿銭
(編者註:4月19日以降4月27日まで毎日この広告が掲載されるが、4月24日付からは「本月廿三日頃より四日間」が「今廿四日より廿七日迄四日間」と変更されている)
明治20年4月19日 鎮西日報
○世界第一チャリニ曲馬 先に東京西京神戸等の各地において興行し、一時世人の耳目を愕かし、畏くも聖上皇后両陛下の御覧在らせられたる世界第一とも呼ばるゝ伊太利国チャリニ氏の曲馬及び軽業その他珍禽奇獣の見せ物は、今度郵船会社の尾張丸を借り切り、天津へ渡航の途次、当港大浦居留地境内の明地において来る廿三日頃より四日間興行するよし。木戸賃坐料その他詳細のことは本日の広告欄に在り。
明治20年4月22日 鎮西日報
○チャリニ獣苑 この程大坂より当港に先発して興行上に付諸般の計画を為し居りしチャリニ曲馬獣会役員ジヲークダルサーロ氏は、当港の事務を了り、天津にて同興行の準備をなす為め、再昨日の敦賀丸にて天津へ先発せし由なり。又チャリニ氏の一行は去る十八日に京都の興行を了り、神戸に出る予定なりし由。
明治20年4月22日 大阪日報
[神戸通信 四月廿一日発] チャリニの一行 同行は一昨日午後出帆の尾張丸に塔し長崎へ赴く筈なりし處、京都にて窃盗に罹りたるを以て延滞なし、昨日午後一時三十分の汽車にて象二頭及び馬数頭其他猛獣類を廻着し、本日午後出帆の薩摩丸にて長崎へ赴きたり。
明治20年4月22日 東京日日新聞
○チャリネ氏 同氏の曲馬は京都にて大入を取りしが、同地を打上げ、廿日に神戸へ着、直ちに尾張丸に乗込み、廿一日出帆し、長崎に行き、同港にて四、五日興行し、夫より天津へ赴くといふ。
明治20年4月23日 鎮西日報
○チャリニ一行(昨廿四[ママ]日神戸発) 尾張丸は本日午前四時長崎へ向け当港を発せり。
明治20年4月23日 鎮西日報
○チャリニ氏の獣苑 の一行は今晩九時ごろ尾張丸にて当港に着する筈なり。開演は本日(即廿三)との予ての触出しなりしがど、右の都合なれば、明日よりと決定したり。扨てその模様は着船後、直に準備に取掛り、明日午前には開場の整頓を了はり、午後一時三十分より音楽隊の奏楽喨々と聞え始むべし。二時三十分に木戸を開いて観客を容るれば、遊覧の第一先登を試みん人々、夢此時刻に後くれ玉ふな、長崎時間流儀を適用しては失敗の基なるべし。天気如何と案ずるもあらんが、其は帳幕(まく)その他一切準備(ようゐ)あることなれば、晴雨に関係なく開演すること勿論なり。斯くて昼間に一回は終はり、夜に入りて六時三十分より奏楽、七時三十分より演伎を始る筈なり。興行は四日間限りにて、尾張丸より芝罘に渡航の予定なり。実に長崎無比の大観、我や先きと行て見る人、山を築くならん、近郡村よりこの見物に出づるも必ず多からん。
明治20年4月24日 鎮西日報
○チャリニ曲馬獣会 の一行は昨夜尾張丸にて搭載し来り、今朝早々劇場を構造するを以て、多分本日午後八時に開演の積
なり。
チャリネの曲馬 二十四
【長崎大浦居留地・続】
明治20年4月26日 鎮西日報
○チャリニ氏の獣苑 は一昨日荷揚げを為し、午後観場の組立に取懸りしかば、日本人の目にはこの様子なれば明日よりの開演ならんと見て、その夜の出浮を見合せたるもありしかど、観客は大凡千人と見受けたり。流石は世界にその名を轟せるチャリニ氏の興行とて、午後七時前には整然と広豁の観場を現出し、米国新発明の灯火は燦爛たる光りを放ちて、白昼を欺くばかりなりし。午後七時三十分より場を開き、象、獅子、猿、大鳥等の在る處を巡覧して順次に劇場に入る。その間奏楽の声喨朗として人耳を快くし、愉快の地境に入る思ひを為しぬ。
演技は七時三十分に始まり、秘を尽くし妙を極めたる曲馬あり。シグノーチャリニ氏が演場に出て騎馬を指揮するは実に妙を得たるものにして、拍手喝采鳴りもやまざりしが、氏が一号令を発する毎に、数多の騎手が手綱なしに騎りたる馬は忽(たちまち)一斉に疾走するかと思(おもへ)ば忽ち止まり、臂の指を使よりも自在なり。中にもゼームスフレーム氏が猛虎の函中に入りて、自由に巨眼瞠々たる猛虎を頤使し、或は虎の上に臥し、或はこれを怒叫(ほへ)さする杯、見るも震恐する計りなりし。凡ての演技は看客の倦まざる様、幕の間至て短く、実に未曾有の快観とは覚えたり。看客の席は広告の通りにて、別に一円もあり。併し三十銭の下等にても能く見ゆることは二円の上等に異ならず。上中下の差は只椅子や敷物に在るのみなれば、三十銭にては行て見るも更に見えねば行かぬが勝れり杯云へるは、全く想像違ひなり。
又昨日昼間演技の詳細を記さんに、数多の観客は木戸口に押掛け、まだ開かんかと頻りに促し、其内或支那人は最早時刻は過ぎ去りたる杯唱へ、一秒時も早く見んと躍起(おどりた)つ在様なれど、時間を守る欧州人のことなれば猥りに木戸口を開かず、正午后一時三十分に到て始めて木戸口を開き、奏楽を始めければ、肩摩轂撃、我先と押合ひ、鳥獣の在る處を巡覧し、前夜に比すれば観客一層多く、さしもに広き観場も立錐の余地なき程なりし。夫より追々に劇場に這入り、上等中等の口には又木戸番ありて札を改め、各その席に就かしめたり。軈て観客の坐に就き整頓するを待ち、始め観場にての奏楽者、劇場の一方に坐を占め、鼓奏を始め、楽息(や)むと同時に、(第一番)四人の男子は栗毛の馬、四人の婦女(男子にて女装せしもあらん)は白毛の馬に乗り、場内に馳せ出で、男女各四人宛双方に分かれて馬を列(なら)べ、時に一人の婦人が奇麗の服を着け場内に乗り出で、他の八頭の騎馬を指揮して左旋(めぐり)右旋(めぐり)、自由自在に乗り廻はし、又八頭馬を二列にすると思へば四列となし、その運動の活発なる、実に観客の心膽を奪ふ程なりし。暫くにして指揮者楽屋に這ると、後より八頭の騎馬これに続けり。先づこれにて一段を了(お)はれり。(第二番)音楽に連れて赤衣の男児二人躍り出で、予て設けある高さ一丈余の鳥居形のわくに乗り、或は足にて下り、或は足のみを掛けて水車の如く廻はり、その間にはチャリを交へ、故意に倒れて観客を笑はしめ、其運動の自由にし妙を得たること驚くに堪へたり。其運動中二人の男児が横木を間にして逆さに抱き合ひ、クリ〳〵と羽車の如く廻りたるは大に観客の喝采を得たり。(第三番)は顔には紅粉を塗り、白地に紋模様の異様の服を着けたる一人の男顕はれ出て、高さ一尺五六寸許の假足(つくりあし)を自分の足に結び付け、他に通常の服を着けたる一人の男出でゝこれと戯れ、假足先生は種々に滑稽戯(おどけ)又種々の曲伎を演ぜり。(第四番)には裸馬に駄覆を着けたるミストルアイダ(此の組合の坐頭とも云ふべきチャレストヲドリ男の妹)が打乗り出て、又チャリ(前の假足者にし〈て〉假足なし)其他の人三名出て、場の三方に立ち、直径三尺余の輪を持てり。ミストルアイダは馬上に立ち、鞭で馬を馳(はし)らせ廻り、其輪に行当れば立ながら輪を抜て馬背に跪き、数回旋転して輪を抜け、或時は輪の距離を近くし、輪と輪の間凡一間半許に持ち、これも全く一々に抜け、馬を駛(は)しらする央(なかば)なれば、初の輪を抜くるや跡の輪に接し、又た其の跡の輪に接し、瞬間(またたくま)に三個の輪を抜け、或は馬上に片足にて立ち、或は後向に跨ぎ、或は飛揚り、其妙伎は何とも評し難し。満場の観客拍手喝采の音を絶(たやさ)ず。チャリも種々の伎を演じて退けり。(第五番)音楽に連れて上下着たる日本人が出で来り、台の上にて足芸を始め、襖を両足にて自在に廻はし、或は蹴上げて又これを受け、頗る熟伎なるよふなれど、日本人は常に観るを得ることなれば余り感情をも起さゞる模様なりし。(第六番)二頭の馬に赤衣の男児と白衣の女児と乗り出し、女児は男子の肩に登り、或は股を潜り、片手は男の襟を攫み、片足は男の腰を蹈へ、他の片手片足は空に上げ、其他種々の妙技を演じ、大に観客の喝采を博せり。
この時十五分休憩する旨を報じ、奏楽を始めり。観客は便所に行き、或は鳥獣を縦覧せり。(第七番)上下着けたる日本人出来り、例の台の上にて足芸を始め、此度は日本小児を足の先にて自在に弄び、恰も鞠を弄ぶが如し。日本人には左まで珍しからざるも外国人には稍喝采を得たるが如し。(第八番)白毛馬に少女乗り出し、前のチャリも今度は黒地に白紋模様の服に扮装(いでたち)、他の五人と巾二尺余の旗を持ち、少女は馬を駈けしめ、駈けなりにその旗を飛び踰へ、或は旗の距離を近め、初(はじめ)の旗を飛び踰へたるや跡の旗に接し、頗ぶる剣呑と思ふ程なるに難なく飛び踰へたり。チャリは綱踰の技を演ぜり。(第九番)象使は赤衣を着、二頭の象を連れ出し、桶の上に乗らせ、逆立せしめ、或は音楽に連れ歩く儘に前足を振り躍り、或は小足に躍り、或は前後に桶二ツを据へ其上に一頭の象を乗らせ、四足に鈴を結ひ付け、鼻頭にはチャメラを嵌め、象の気息(いき)するに随ひチャメラはブー〳〵と鳴り、四足を互に振り鈴を鳴らし、又日本小児が象の鼻より首に乗り、象使は象の口中に頭を入るゝ等種々の技を演じたり。(第十番)座頭チャレストヲドリがマダルス体に扮装、白馬に乗り出でしが、中程にして帽子を換へ、衣を着換へ、尋常人の扮装と為り、又た抜換へて今度は婦人の扮装と為り、剣を持ち、笠を携へ種々の曲を演ぜり。同人は座頭と云ふ丈ありて曲馬の熟達せること驚く計なり。観客は内外を論ぜず常に拍手喝采せり。(第十一番)上下の日本人が黒犬に猿を乗せ連れ出し、綱渡り或は躍り等の技を演ぜり。(第十二番)男一人と男女三人が出て、互に運動の技を演じ、所々に張出したる絵図面にある如く三人肩に接(つ)き登り、其他前にかやり後にかやり、自在の運動を為せり。(第十三番)二頭の馬に少女ウィルトソン(男)乗り出し、巾五六寸の板を踰へ、或は右の板四枚を並べて之を飛踰へ、又外に二頭を添へ四足立の馬に乗(のり)駈廻れり。時に日本人出て口上を述て曰く、此次に虎を出し衆覧に供し、夫にて此場を終へ、後席は八時三十分より始むと。(第十四番)虎を籠ながら引出し、一人の男が籠の中に這入り、虎を立せ、或は吼させ、或は輪を抜けしめ、虎を抱て自分の顔に接し、恰も小供が猫児を愛するに似たり。
右の十四番にて軈て四時頃に終りたり。前夜は一足人の演技ありしも、昨日は痛所ありとて演ぜざりし。又前夜にはチャリニ氏が馬を使ふて馬に独(ひとり)芸せしめたれど、昨日は夫もなかりしなり。右各種の妙技は言語に尽し難く、実際は所々に張出せし絵図面より一層優る程の感覚あり。斯く危険の技を演ずるに、技術の妙に達したるため、観客に毫も剣呑の感情を惹き起さしめず。而して、観客は二円一円の席に着きたるもの西洋支那日本人を合せて三十余名なり。五十銭三十銭の下等席は大概充満の模様にて凡そ二千人位ならんと思はれたり。
明治20年4月27日 鎮西日報
○チャリニ氏の獣苑 一昨夜は何れの芸も該昼(そのひる)と同趣工なりしかど、ゼームスフレーム氏が函中に入りて猛虎を叱咤揮使して種々の技芸を演ずる中に、直径(さしわたし)二尺の輪にアルコール火を点じ、焔々たるを持ちて、猛虎を鞭(むちうち)て十数回其輪の中を飛びクヾラせたるは、昼に無くて夜に目覚しき技なりき。また前号昼の記事中にチャーレス氏が婦人の扮装(いでたち)と為り剣を持ち笠を携へと記せしは、楯を携へたるものにて、ナイト(古の武人)を擬したるものなりし。観客(けんぶつ)の数は夜に入りて非常に増加し、下等桟敷は寸地を余さず、大凡三千人もあらん歟、東京に於ての開演にも髣髴たりと評せり。
昨日午後は芸変はりと予て披露しければ、観客は前夜よりも増加し、中等桟敷迄寸地を余さず入込みたり。演技は何れも巧妙なる中に、前日に無きはミストルフランセス、トムハアハア両氏とウイルハアハ女の技芸にて、此の両氏は米人にて各一足を切断し、全く一本足の人物なり。自ら南北戦争の際に不具となりしなりと称せり。この三人の巧技は尤も喝采を博したり。又た極矮小の馬に無類の大男が騎りて現はれ出たるは人をして失笑せしめ、亜米利加印度人(インデヤン)の狩に擬したるは活油絵を見る如くなり。此日は虎に換へて三頭の獅子を引出しゼームスフレーム氏は、自在に之を揮使し、剰さへ己が頭部を獅子の口中に挿入したるときは、今にも頭は噛碎かるならん乎と覚えたり。
明治20年4月28日 鎮西日報
○今日にて終り チャリニ氏の獣会興行は去る廿四日夜より開演せし以来観客は常に山を為すばかりの大当にてありしが、予期の如く本夜限り(満四日)にて仕舞ひ、即日より器械、動物等を尾張丸に積乗せ、明日天津へ向け出帆するよしなり。
○チャリニ氏の獣苑 同興行は一昨夜、昨日の昼とも同趣工にして、最初三少女駿馬に策(むちう)ち苑内を馳駆すること頻回なる最中に、一騎の赤鬼両角を欹て、花枝を持して墓地に駈け入りしに、三騎の少女はこれを遂(お)ひ掛け、その花を奪ひ、それより赤鬼の面を布にて纏ひ、迷蔵(おにごと)を為しつゝありしが、遂に一少女を捕へたり。それよりハリーゴードフリイが滑稽、ロザートーナ兄弟が体操、トームハーバ、ミストルフランゼス両名が一足体操、チヤススツルレーが肥大なる婦人の扮装(いでたち)にて小馬より頓(ころ)び落ちしときは、大に観者を絶倒せしめたり。その他例の少女が追風上にて自在に起坐し、或は布の輪を超へたるには殊更喝采を博したり。又た大象が桶の上に登り種々芸を為し、その鼻にて喇叭を吹き、或は音楽に依りて跳(おど)り歩く杯(など)し、而して大切はゼームスフレーム氏が獅子室に入りて三頭の獅子を策し、電眼を閃(ひらめか)し、雷音を振ひ、掴みかゝる勢を、他の犬猫を使ふが如き術には大に内外人の肝膽をして寒からしめたり。
○曲馬に関する二話 目下大浦にて開演中なる曲馬の技芸者は伊太利、北米合衆国、呂宋人等数多の国々の人を集めたるものにて、これをチャリニ馬戯と称するは伊太人Signior Chiarini氏が管理する故なるが、これをシグノルチャリニ氏と読むは英語の読方にて、シグノルは正しく伊太利音に読めばシーンニア即ち英語Sir(男子に対する尊称)なり。又たチャリニは伊太利語シヤリニなるに、英語は世界の普通語とも云ふべき勢力あるより、誰も正当の伊太利風に呼倣(よびな)さずして、書記マーヤーの広告までがシグノルチャリニ氏と書けるも可笑し。此は同人が東京にて広告文の認方(したためかた)を他人に依頼せしとき、依頼を受けたる人が英語流に訳せしものならんが、上海にて開演の時の広告文を申報滬報杯に載せたるは車利尼馬戯と訳せり。然れば支那人は正しくシャリニと称へしならん歟。
前号に英人ギヨージボジヤー氏が技芸者の或一人に打たれて警察署に口訴に出たる由を記せしが、此は二三言の諍ひより曩に拳を以て両部を打たれ、その上に乱打されたる次第の由なるが、日本の警察官にては現場の乱暴を静止するは職権内なるも、斯る訴へを受理して処分すべき権限なければ、ボジヤー氏は伊太利領事に訴出でんには当港に同国の領事館なきより、止(やむ)を得ず電報を以て東京なる伊太利公館に訴へたりといふ。此訴へに就ては加害者を東京に召喚することも、一行の出発今明日に迫りたる際困難なるべく、左りとて一人当地に出張して裁判を開くも面倒なるべし。如何に処理するにや、治外法権の混雑不便なる一例現はれ出でたりと謂ふべし。
明治20年4月29日 鎮西日報
○チャリニ曲馬 昨日は芸変はりにて種々巧妙(たくみ)の技芸を演じたるチャリニ氏は、初めの夜に一度馬を使ひたるのみ、その後病気なりとて出場せざりしが、昨日は出でゝ馬を使ひ、看客の喝采場内に動(どよ)めきたり。いよ〳〵昨夜が打止めにて、今日尾張丸にて出港の筈なるが、四昼五夜の開演中に、初度の看客は千人計、次ぎの昼は二千人余、夜に入ては三千人余、その後は常に二千に余り、昼夜五千有余の群衆を為せり。斯る演芸も本港未曾有にて、斯る大入も本港未曾有なりと人々評合へりしが、昨日に至ては稍や減少したり。蓋(けだし)大抵一度見ぬ者とてはなく、一順(ひちまはり)見終はりたる故にやありけん。
また興行中に熊本より招聘に来りて、チャリニ氏は開演と休演に関せず旅行日数一日三百弗の受負ならば招きに応ずべしと答へしといへど、確かならず。兎も角いよ〳〵天津に直航する筈にて、天津に於ての開演を終はれば北京に乗込む筈なりと聞けり。或説に二年の後には再び日本に来る予定なりと云へど如何にや。
○広告の利用 日本の商人は未だに広告の利用を知ること薄く、金銭を出して広告を為すは何か時の流行に伴(つ)るゝ役目の課出の如く思ふ有様なるが、外国人の広告に勉強する例は今更言迄もなけれど、手近に目撃したるは即ち今度チャリニ曲馬の広告にて、初めこの一行が長崎に於ての開演を目論見たる時は、先づ十中の六七は損耗ならん、併し天津に赴く途中なれば格別の寄りにも非ざれば、僅か四日間丈開演すべしと決したるものゝ由なるが、書記マーヤーが着崎するや、何は扨て広告の一事に勉強し、ライジングサン新聞と我社に依頼して新聞に、チラシに頻りに吹聴の手段を廻らし、美麗なる摺物のチラシの代價共には損と懸念する興行の広告に百幾十円を消費せしならんが、果してその効用顕はれて、一昼夜五六千人の入りを得たれば、四日間の収入は五千円以上に及び、初め広告に費せし金員は物の数にも当らぬ割となりしものゝ如し。
○佐世保だより (前略)チャリニ曲馬見物のため当地人の重立たる社会は続々と出崎せり。
明治20年4月30日 鎮西日報
○尾張丸 郵船会社汽船尾張丸が今度神戸より長崎を経て天津に至るチャリニ獣会一行の搭載賃及び停船料とも都合四千五百円余にして、昨日午前十時までチャリニ諸動物並に器械等を積み了り、即日午后五時天津へ向け直航せり。
明治20年5月4日 朝日新聞
[長崎通信 四月二十八日発] 有名なるチャリニの曲馬興行は、去る二十四日着崎早々、午後七時三十分より大浦の劇場に於て開演せしに、平素待ち詫びたる港民は我先に参観し、殊に目下軍艦の繋泊多ければ非常の大入にて、毎演満場立錐の地なく、尤も紳士席の観客は四拾余名位なれば、中下等席は大凡(おおよそ)二千五六百人もありし。然るに其演技も本夜を限り千秋楽にて、明日は兼て借切りし尾張丸にて天津へ渡航する筈なるが、茲に大困難こそ出来したり。這(こ)は去る二十五日の夜、看物人の中なる大浦居留地南山手町に居住する英人ヂョージ・ボヂャーは、通券の間違よりチャリニ一行中の一人より殴打乱撃、面部に負傷を受けしゆゑ、該夜直に梅香崎警署へ口訴して、其處分方を請求せしも、我警署に於て該訴を受理し處分すべき権限あらざれば、同署にては懇々説諭して同人を帰宅せしめたるに、ボヂャー氏は、伊太利国領事庁の当港にあらざるより、直に電報を以て東京の同国公使館へ乱殴負傷の始末を出訴したりと云ふが、果して然らばチャリニの一行は当港を仕舞ひて天津へ渡航せんとする期に際し、斯かる難事の出来せしは実に大困難なるべしと思はる。尚詳細は探聞の上報ずべし。
チャリネの曲馬 二十五
◆中国からの来信◆
明治20年5月28日 大阪日報
○チャリネの興行場吹倒さる 過日当地にも来りて大に世人の喝采を博したる彼のチャリネの曲馬は、其後長崎を打揚げて天津に赴き、同地にて興行し居りし中、去十日の事なりとか、同日は昼間の見物人殊に多かりし由にて、其夜も引続きて興行し、此期を外さず益々世人の喝采を博し呉れん者と待ち受け居りたる所、不幸にして同夜は甚しき暴風雨にて、其れが為め興行小屋を吹倒されたれば、越へて十三日に至る迄興行を中止したりと。今当夜の景況を聞くに、午後八時頃、予て其前より今にも降り出さんづる気色なりし雷雨盆を覆すが如く降りしきり、加ふるに暴風の吹き来りしかば、凡そ一時間程は凄まじきと言はん方なく、其興行小屋なる彼の大テントは一杯に風力を受け、且つテントの粗布は一体に雨を含みて甚しく重みを加へたれば、遂に之を支へ得ずして、忽ち一時に倒れ来りしが、幸にして未だ興行を始めざる前なりしかば、見物人は尚一人も居らざりし由。又小屋の下に埋められたる動物杯を其れ〳〵救ひ出だし、婦人等は折柄化粧室にありしが、漸くテントに小き孔を穿ちて之れを救ひ出し、膝まで脛を埋むる許りの泥濘(どろ)の中を折々の電光を頼みて一同難を遁れたりと云ふ。而して馬は悉くグローブホテルの周囲なる空地に牽き行きたるを以て幸に無難なることを得たり。又右の小屋の中央なる大柱は真二つに折れ、之れに纏ひたる粗布は寸断(ずたずた)に切れたれば、最早何の用にも立たざる事になりたり。然れども一座の者が着する衣裳は、まだ衣裳函より取出さずしてありしかば、全く無難なることを得たりと云ふ。又楽隊の内数名が軽傷を負ひ、楽器にも些少の破損ありたる由なれども、差したる事にはあらざりしと云ふ。又象は其側に居りたる聖中を腹下に蔽ふて、雨に濕(ぬ)れざる様之れを保護し、大熊は檻中にて相換らず鼻を格子に触れて歩行し廻りてありしが、獅子及び虎は泥中に足を埋めて終夜立ち居りしかば、遂に其兇猛を逞ふするの機会(をり)を得ざりしと云ふ。又彼駝鳥に似たるエミニーと称する鳥は終夜眠り居りたる由なり。右は総て翌朝に至り漸く之を救ひ出したりと云ふ。
明治20年6月24日 日出新聞
○軽業師 兼て本邦へも渡来して喝采を博せしチャリニ氏は流石に元伊国陸軍騎兵少佐を勤めし程ありて馬術の手練は得意なれども、未だ手足の芸に満足せざる所あるにつき目下上海にて興行中の日本人増田磯次郎、同伊三郎の父子を雇入れて軽業を習はんとの協議中なるが、此父子は前に新嘉坡にて軽業をなし非常に喝采を博せしものなりと。
明治20年7月3日 毎日新聞
○天津に於ける日本の軽業師 前に我邦に来りて曲馬其他の諸芸を演じ、毎日毎夜非常の大入を取たる夫の曲馬師チャリネ氏の一行は、長崎より清国上海に渡り、其れより天津に行て近日まで同所に興行したりしが、支那人等はチャリネ氏が馬を使ふ手練、其他の諸芸を見て、孰れも感心する所ある中にも、予て同氏が東京に在る時に雇ひ入れたる軽業師の危険を犯して綱渡り、梯子乗りの芸を巧みに演ずるには、衆人皆一驚を喫せし由にて、毎日非常の大入を取り、此頃同所を打ち上げて再び上海まで帰り来りたりと云ふ。
明治20年7月5日 大阪日報
○チャリニの曲馬 夫(か)の伊国のチャリニの一行は天津にての興行を打揚げ、目下上海にて興行なし居るよしなるが、同人が東京より連れ行きし軽業師は評判甚だ高しと云ふ。
明治20年8月9日 日出新聞
○正誤かたがた 在清国上海チャリニ曲馬掛の日本人中川米吉、同じく芸人河村駒次郎両人よりの書面に據れば、去る六月廿四日日出新聞上海通信中軽業師の項、チャリニ氏は在上海なる日本人増田磯次郎、伜伊三郎の父子を雇入れ軽業を習はんとの協議中なる由を記したるは全く無根にて右増田父子は先年上海へ渡航し、處々にて小興行を為したるも其後追々困難打続き目下にては我領事館の救助を請け父は給仕、子は小使に雇れ漸く糊口を凌ぎ居る程なれば決て左様の事なしと云へり、果て然るにや。
明治20年8月20日 大阪日報
○チャリネ氏の一行 昨年来我国に渡来して非常の好評を得たる伊国曲場師チャリネ氏の一行は、其後清国に渡り各地にて興行せしが、本月上旬上海を打揚厦門へ往く途中、炎熱烈しかりしが為め、携行の獣類中猿六疋、駱駝の子一疋、狐一疋は遂に死したりとぞ。又同一行は本月八日厦門に着し、其日よりテントを張りて興行の用意をなせしに、夜に入りて暴風雨俄かに起り、テントを吹き飛ばさるゝなど、容易ならざる損害を蒙ふりしが、兎角して十二日より興行を始めたりと。
明治20年11月12日 毎日新聞
○久しく音沙汰を得ざりしチャリネの一行は、昨今新嘉坡(シンガポール)にて興行中のよしなるが、毎夜大入りにて、彼の精術妙技に土人の喝采を占め居るといふ。
明治20年11月15日 大阪日報
○伊国曲馬師の一行 久しく音沙汰を得ざりし彼の伊太利国曲馬チャリネの一行は、此頃新嘉坡に於て興行中のよしなるが、毎夜大入りにて頗ぶる土人の喝采を博し居るとのこと。
明治21年1月11日 郵便報知新聞
○チャリネの獅子 一昨年中本邦に渡来して大評判を得たる曲馬師チャリネの一行は、頃日印度コロンボー港に渡りて、相替らず興行し居れるが、其の興行中、一夜彼の獅子遣ひゼームス・フレームが、圏(おり)の中に入らんとせる前、一頭の獅子は少しく怒を発せる如き気色を示し居れり。左れど同人は之に頓着せず圏の中に入りたるに、右の獅子は忽ち爪を挙げて其の腿(もも)をヒキ抓(か)きたり。依てフレームは其の携ふる所の鞭を以て之を撃てるに、獅子は益々怒て更に其の腕(かいな)を抓き壊(やぶ)りしかども、少しも驚ける気色を示さずして、静かに圏を脱れ出たるに、見物人一同唯だ驚嘆の外なかりしと錫蘭(セーロン)新聞に記るせり。
明治21年6月26日 毎日新聞
○チャリネの一行 嘗て記せし如く、曲馬師チャリネ氏の一行は目下新嘉坡に興行中なるが、同一行に加はり居る日本軽業は相変らず大喝采を博し、又我が皇帝陛下よりチャリネ氏に下賜せられたる熊は目下尚ほ健康にて、大評判なる由。氏は同地の興行を終はり次第、更に北方に赴くとのことなり。
明治21年10月27日 読売新聞
○チャリニの曲馬 チャリニの曲馬及び野獣苑の一行は去る九日より新嘉坡に於て興行せし由。
チャリネの曲馬 二十六
◆横浜居留地・二回目◆(7月22日~8月21[22]日)
明治21年7月13日 東京日日新聞
○チャリネ氏 昨年、東京及び京都、大坂、其他の各地に於て興行なし、大に高評を得たる伊太利国の曲馬師チャリネには、本年十月再び日本へ来り、当地に於て目新らしき新案の技術を演ぜんとて、同人の許より昨年当地に於て興行せしとき関係せし人々の所へ、此程其旨を申来りたる趣なり。
明治22年6月19日 郵便報知新聞
○チャリネ曲馬の再渡来 過般我国にて頗ぶる好評を博したるチャリネ曲馬は、此程より上海に於て興行中なるが、本月中には同所を打ち仕舞ひ、再び我国へ渡来するよし。此の曲馬の一行は前回より動物も種々増加し、巧みなる技術師も亦た多く加へたるよしなれば、一際の見ばへあらんと云ふ。
明治22年6月19日 毎日新聞
○チャリネ氏の再渡来 チャリネ氏の大曲馬は目下清国上海に於て興行中なるが、本月下旬再び我邦に渡来する由にて、已に横浜新聞に其旨広告したり。今回は前回に出でざりし芸人を雇ひたるよしにて、新奇の芸を演ずると。又た大陸南部各地方に興行中買ひ入れたる奇獣数頭を衆覧に供すると云へば、前回に劣らぬ評判を博することなるべし。
明治22年7月2日 東京朝日新聞
○チャリネの連中 前年来朝して大評判を博(とり)し伊国の曲馬師チャリネの連中は、再び我国へ来る由にて、既に昨一日上海より乗船せし由其の向へ電報が届きしとのこと。尤も来着の上は回向院なるウヲジヤーの後にて興行する筈なりと。
明治22年7月4日 時事新報
○チャリネ曲馬 先年渡来して本邦人の目を驚かしたるチャリネ曲馬は、今度更らに数多の動物を加へ、又技芸をも充分新規にして再び渡来するよしなるが、既に其周旋人は横浜へ到着したるよし。
明治22年7月18日 郵便報知新聞
○神戸電報 先年来航して大評判なりし墺国の曲場師チャリネの一行は、昨日上海より入港の西京丸にて着船し、本日同船にて横浜へ向け出発せり。此一行は総員六十名なり。
明治22年7月19日 郵便報知新聞
○チャリネの一行 墺国の曲馬師チャリネの一行は昨日神戸を出発したる由は本日朝版の電報に掲げしが、本日西京丸にて横浜へ着せり。此一行は今ま一回京浜間に於て興行の上帰国の途に就く由にて、横浜は来る廿一日より同港居留地百廿二番館の空地に於て興行する筈なりと。
明治22年7月20日 東京日日新聞
○チャリネの一行 伊国の曲馬師チャリネの一行は、再び渡来する由は前号の紙上に記せしことありしが、愈々昨日、上海より西京丸にて横浜へ着港し、明廿日より同港居留地百二十二番館の空地に於て興行する由。
明治22年7月20日 時事新報
○チャリネ曲馬師又来る 先年渡来して世の好評を得たる伊太利の曲馬師チャリネの一行は昨十九日午後五時上海より神戸を経横浜に入港したる西京丸にて横浜に着し、明廿一日頃より同港居留地百二十二番館の空地に於て興行するよし。
明治22年7月23日 時事新報
○チャリネ曲馬の興行 同曲馬師は昨廿二日の夜より横浜居留地百二十二番の空地に於て興行を始めたりと。
明治22年7月24日 東京朝日新聞
○チャリネの曲馬 同曲馬は快晴次第横浜居留地百二十二番館空地に於て興行を始める由。尚ほまた東京に来りては坂本町の遊園地にて興行する由に聞り。
明治22年7月24日 大阪朝日新聞
○チャリネの曲馬 一昨年当地に来りて非常の喝采を博したる彼の曲馬師チャリネの一行は、去る十九日又も横浜に来着せしに付き、当地の興行人奥田弁次郎は再び当地に迎へて五周間の興行をなす予考にて、一両日以前横浜へ赴きしよし。
明治22年7月25日 郵便報知新聞
○チャリネの開場 予て噂の如く、先年渡来して大に本邦人の喝采を博したるチャリネ曲馬の社中は、去る二十二日夜より横浜前田橋通りの空地にて興業し始めたり。先年始めて見し時程には目新しさを感ぜざる如き心地するも、此度は前回にはあらざりし技芸師、動物も加はりたれば、見ばへのすることもあり、音楽は日本の楽隊にありし人々の手にてなせり。入場料は下等二十銭、中等五十銭、上等一円にて、毎夜午後八時より開場し、又た水曜日、土曜日には午後四時よりと夜と両度に興業する由。
明治22年7月30日 郵便報知新聞
○チャリネの曲馬 先年渡来して頗る好評を博し、辱くも天覧の栄を賜はりたる伊太利チャリネ氏の曲馬は、目下横浜に於て興行中なるが、今回は彼の獅子、虎などは上海にて売払ひし由にて携へず、又た先年お馴染の妙齢の美人も加はり居らざれども、其代りに新顔の技士も加はりたり。技事も種々目新らしきものを差加へたるが、取別け目に付て面白く覚へしは、少女少年相ひ携へて駢□[ヘンチュウ:馬偏に由]する二頭の馬上に立ち、自由自在に様々の所作事を演ずるは、恰も双蝶の花に戯るが如くにて、演場の喝采を博せり。又たチャリネ氏が駿馬を使ふの妙は、二度見る眼にも猶ほ面白く覚へたり。
明治22年8月12日 時事新報
○横浜チャリネ大曲馬の景況 曾て我国に渡来して技芸巧妙の誉れを得たる伊国曲馬師チャリネ氏の一行は、先頃又々香港より横浜に来り、目下同港居留地に於て興行中なるが、今その景況の一斑を記さんに、興行は毎夜九時より始まり十一時に終り、金曜と土曜とは昼間に一度の興行あり。一昨夜の芸順は、先づ第一は中年の婦人綱渡にて、綱上に於て傘、ハンカチーフ、輪等を以て種々の技芸を演ずること、日本軽技師の所為と異ならず。第二は一少年の馬上に於ける演芸にて、或は張りたる布を越え、或は紙もて張りたる直径(さしわたし)二尺計りの輪を馬上より飛抜けて、復た馬上に乗り移るなどあり。第三は異様の扮装を為したる軽口男が種々の馬鹿真似を為し、第四も右の男が他人の頭を打ちたる為め、警官が之を捕へんとするを巧に身を左右に転(ころが)して逃げ廻る一種の滑稽なり。第五はチャリネが例の馬使ひにて、前回の男が或はハンカチーフを土中に埋め、或は赤白の布を左右の箱中に匿(かく)したるを、馬は之を探し出す抔前年と異なる所なし。第六は男女二人にて、二頭の馬背に立ち種々の演芸あり。是にて十五分間の中入ありて後、第一に出で来りたるは二頭の象(此象は前年渡来せしものなり)にして、或は音楽の調子に各々大趾を挙げて舞踏を為し、或は鼻にて使象者を巻き上げ、使象者はその頭上にて芸を演じ、第二も同じく象の芸にて、象は鼻を地上につけて逆立し、又鼻にて喇叭を吹き、趾にて樽を転ばすなどの事あり。第三は一婦人馬上に立ち、数羽の鳩を以て自由に前後左右を飛び廻らしめ、中には銃の上に鳩を止まらしめ、而して発砲するも鳩は之が為めに驚き騒がざるあり、能く畜(か)ひ馴したるものと云ふべし。第四は二人の軽業なり。第五は又曲馬にて、演技者は馬上より身を廻転しながら輪の中を飛び越えて再び馬背に乗る抔熟練と云ふべく、第六は即ち最後の演芸にて一夜の観物と云ふべく、先づ大なる網を地上より一間計りも高く張り広げ、夫より一美女と二人の男子出で来りて、凡そ十間余も高き宿木に何れも登り、機を察(み)て網上に飛降り、又宿木に飛帰る抔、総て空中の軽業にて、観者をして冷汗を催させめたり。是にて全く演芸を了りたるは十一時頃なりしが、要するに最後の一演を除くの外は総て前年のものと異なるなく、又動物中獅子、虎、蛇の如きものは見当らず、馬なども余程尠なくして、一体に前年よりは劣りたるが如き観あれども、流石は有名なる曲馬だけありて他の曲馬とは大に其趣を異にしたる所あれば、一覧の價は充分あるべし。同夜は見物人は満座の十分の三にも充たず、甚だ景気なく見えたりしが、其の場料は上等一桝(六人詰)九円、同じく一人二円、並上等一円、中等五十銭、下等二十銭なりと。
明治22年8月21日 郵便報知新聞
○チャリネの曲馬 横浜に興行中なる同曲馬の一連は、今明日の内に横浜を打上げ、上京の上、来る廿五日より中洲に於て
昼夜興行を為す由。
チャリネの曲馬 二十七
◆東京日本橋中洲◆(8月25日~9月25日)
明治22年8月21日 時事新報
○チャリネの曲馬 去る十九年、悪疫流行の真最中、他の興行物は一切差止められし折柄、神田の秋葉、築地の海軍原等に於て長らく興行し、大喝采を博したる伊国曲馬師チャリネの一行は、先頃清国地方より再び渡来し、横浜に於て興行中なりしが、来る二十五日より大川端の中洲町に於て花々しく興行するといふ。
明治22年8月25日 郵便報知新聞[広告]
ジイ・チャリネ謹テ東京府民諸君ニ謝シ併セテ広告ス
前渡興行ノ節ハ非常ノ御愛顧ヲ辱シ、感謝ノ至リニ御座候。陳ハ今般再渡、本日夕景ヨリ日本橋区中洲ニ於テ興行相始メ、爾後ハ日々昼夜(午後三時開場同四時開演、午後七時開場同八時開演)興行可仕、尤モ馬匹ハ前渡ノモノヽ上ニ幾多ノ驊騮(カリュウ)ヲ加へ、芸人ノ義ハ総テ相変リ、欧米最上等ノ馬戯観会ヨリ選択、極メテ其技芸ニ精熟シタル男女一団体ニ候得者、前渡ノモノニ優ルコト数等ニ有之、各国到ル處、高貴紳士淑女ノ観覧ヲ得テ、毎ニ大喝采ヲ博スル所、実ニ万国無比ノ壮観ニ有之候。又今回ハ当中洲ノミニテ、他ノ場所ニテハ興行不仕候間、其思召ニテ偏ニ倍旧ノ愛顧ヲ賜ヒ、賑々敷永当々々御来観アランコトヲ伏テ冀望ス。
入場代價
最上等桟敷一間(椅子六人詰)金九円 同上椅子一脚金貮円 上等一人金壹円 中等一人
金五拾銭 下等一人金二拾銭
最上等及下等ノ外九才以下ハ半價
明治廿二年八月廿五日 書記エル・マヤ
明治22年8月25日 読売新聞
○大象橋を落さんとす 前号に記載の如く、今日より浜町河岸の中洲にてチャリネの曲馬を興行の為め、一昨日其披露として曲馬に使用する馬及び二頭の象を引き廻り、夕方に中洲へ引入に掛ると、象の重みにて橋が中央より挫け、危ふく落んとしたを、ソレ大変と出方一同総掛りにてヤツと象は中洲へ引入たるが、橋は大方損じたるにつき一時往来を止め、夜中掛つて修繕を加へたり。
明治22年8月25日 東京朝日新聞
○チャリネの曲馬 同曲馬はいよ〳〵今廿五日より中洲町にて興行を始むるに付、昨日例の大象二頭を興行場へ引入れんと同所の女橋を渡せし時、橋の中心ごろに至り大象の重みの為め横桁が折れしゆゑ、一頭丈は其處より渡し、一頭は男橋の方より渡したるが、是れまた橋桁を折りし為め、男女の両橋は其後車止め。
明治22年8月28日 読売新聞
○外国人の迷子 一昨夜の一時ごろ、銀座通りに一人の外国人が途(みち)に迷ひ、マゴ〳〵して居たを巡査が認め、警察署へ連行きて調べられると、此男は中洲にて興行中なるチャリネの囃子方にて、懐中に一銭の貯へも無ければ、空腹及びたれど食事も出来ず、中洲へ帰りたくも方角さへ分らぬとの事に、警察署にては気の毒に思ひ、洋食を与へたる上、昨朝交番所送りにて中洲へ送り届けられしといふ。
明治22年9月1日 朝野新聞
○チャリネの曲馬 中洲町に興行中なるチャリネの曲馬は、日本名残興行にて、同所を打上次第帰国する由なるが、チャリネが馬を使役するの技は今更目新らしくはあらざれども、馬は宛然(さながら)人語を解するかと思はれて、巧妙と賞するの外無く、二大象が一日本人の指揮に随ひ、音楽の調子に連れて種々の芸を為すは能くも馴したるものなり。二頭の馬背に跨りて男女相戯れ、或は婦人を背にし、或は片手に支へて場中を疾駆し、又は一人の力士、頭上に大の男を乗せ、左右に男女一人宛を宙に提(ひつさげ)しむる等、力量と熟練には感服すべし。最後に親子三人の技術師が、三箇の留り木を建て、飛移ること恰も猿(ましら)の木伝ふ如く、手足の働きの自在なる、人間業とは思はれぬ程の離業にて、熟練なること我軽業師も遠く及ぶまじ。其他の技芸は前年の興行に演じたるものと大同小異なるが、中に大小の男女各二人出て、女子も男子と同じく場中に数回反転逆倒(とんぼがへり)の技を演ずるが、優なる女子の芸としては荒々しく、賞(ほ)むべき技とは見難し。今回は動物中に獅子、虎の立者無く、且つ有名の美人を欠き、都ての技芸も前回に比しては別段優(まさ)る所無きやうなれど、ウオジヤの社中と較べては婦人も多く、衣裳も花やかに見えたり。
明治22年9月1日 郵便報知新聞
○チャリネ氏の曲馬 前年我国に渡来して大に喝采を博せし伊太利国チャリネ氏は、既に広告欄内にて読者の知る如く、去る廿五日より中洲にて曲馬興行中なり。今其概況(一昨夜の)を記さんに、大体の仕組は略ぼ前年通りなれども、其芸人は殆んど皆新しき顔のみにて、彼一本脚の滑稽者などは今度の一行には加はらず、又前年は大象の外小蝮蛇、斑馬、虎、獅子等をも連れたりしが、今度は夫れ等の添ゑ物はなく、唯二頭の大象、三匹の猿、二三の山羊を携ゑたるに過ぎず。去れば氏の動物園(少し大層なれども)は至て淋しき方なり。
瀏亮(リュウリョウ)たる音楽の響、其声を蔵(おさ)むると共に、鈴声一点、忽にして八頭の駿馬来りて場内に列なる。四頭は栗毛、四頭は月毛或は鼠毛。栗毛の方は窈窕(ヨウチョウ)たる妙齢の美人、白地の服に燃ゑ立つ許りなる赤の襷を背にて長く結び垂れたるが、之れに乗り、月毛或は鼠毛の方には古代の欧州洋服に扮装(いでたち)たる壮年の男子、之に跨り、轡を駢(なら)べて、三々五々、卍の如く、巴の如く、暫く場内を乗り廻はりつゝある所へ、此隊の司令官と覚しく、浅黄絹の上衣を裳(すそ)長く着なし、金銀を以て飾り立てたる白馬に舞踏の調子を踏ませ、左も愉快らしき顔色にて、紅顔芙蓉をも欺く如き一人の佳人出で来り(此時満場大喝采)。鞭を揮ふて全隊を指揮し、是れより九頭の駿馬に男女九人の騎手は、或は列なりて雁の行くが如く、或は別れて星の散ずるが如く、忽ちにして三列、忽ちにして二列、其規律の厳整なる、命令の能く行はるゝ、恰(さ)ながら五指を使ふが如く、人をして感歎止まざらしめたり。既にして聯騎皆去り、司令官唯だ一人、又もや調子おもしろく場内を一巡して、拍手の声中に帰り去る、是第一場なり。
唯見る一個の鉄櫓(高さ凡一丈)、場の中央に立ち、四脚の椅子其側に列び、黒に赤筋を飾り近衛兵然としたる人夫、其間に周旋するを、間もなく一人の壮年、肉襦袢に腰のあたりに金線の飾を装ふて出で来り、一躍架上に上り、夫れより其上に椅子を一脚又一脚と積み重ね、或は其上に跨り、或は其斜面になりたる角上に直立し、遂に四脚の椅子を尽く積み上げたるときは、地上を去ること二丈四五尺もありぬべし。壮年は先屹然と体を伸ばして立ち上がりたるさゑ人の膽を冷かならしめたりしに、尚ほ之にて止まらず、更に又た二個の添木を其椅子の間に挟み、一足にて直立したるは、実に百尺竿頭に一歩を進めたるものにして、満場の喝采暫しは鳴りも止まざりし。是れ第二場なり。
其毛白くして、其丈高からざる良駒二頭、馴れたる犬の如く欣々として走り出で、場内を回(め)ぐる。老伯楽、燕尾服厳然と、手には二本の鞭を携え来りて之を使ふ。馬、人と毫も相乖(そむ)かず、或は跪(つまづ)きて禮するの体をなし、或は両馬相対し前足を挙げて人立す。既にして二個の木柵を連ねて之を飛び越ゑしむるに、甲は左より走りて右の柵を越ゑ、乙は右より左の柵を越ゑ、越ゆること数番、敢て其己れの柵を誤ることなく、或は音楽に連れて踏舞の様を為す。是れ第三場なり。
大白馬一頭、背上には布団を載せ、十二三の男児其上にて戯る。軽きこと花を遂ふ蝶の如く、柳を穿つ燕に似たり。中空にて布を飛越ゑ、或は順に、或は逆に、奔馬の上に顚倒す。唯之を評して奇観といふの外なし。赤被白面の滑稽者一人出で来り、騎手の息(やすろ)ふ間に種々の滑稽を演じて興を添ゆ。是れ第四場なり。
壮年の男子二人、女子一人、十一二の女児一人、場に出るもの都合四人、何れも肉襦袢に腰飾りの儘なり。戯るゝ所は体操の一手にて、我国の柔術の如く、一人又一人、或は逆立し、或は輾轉(テンテン)し、其身体の自由なること、殆んど骨なきが如く、其速かなるに至つては、一転一転人をして之を見るに暇あらざらしむ。殊に其小女に至つては最も快捷(カイショウ)といふべし。是れ第五場なり。
馬二頭、一は栗毛、一は月毛、鞍なく唯だ手綱あるのみ。壮年之れに跨り、一人にして両馬を御す。忽ちにして妙齢の女子、白の「レース」の裳は短くして膝を過ぎず、飄然来りて一馬に飛び乗り、是れより壮年は馬上にて此女子を、或は抱き、或は捧げ、両々相戯る、恰も痴蝶の花に戯るに異ならず。是れ第六場なり。(未完)
チャリネの曲馬 二十八
【東京日本橋中洲・続】
明治22年9月2日 郵便報知新聞
○チャリネ氏の曲馬(昨朝板の続) 二頭の大象、金皷の声と共に悠々然として場に上る。一は他に比すれば稍大、然れども其運動却て不活発なるが如し。御者盛服して之れに従ふ。其面色より見れば蓋し日本人ならん。喃語(ナンゴ)象に令すれば、象は、或は備へ置きたる桶の底上に登り、両足を上げて跳(おど)る状をなし、逆立の状をなし、或は一疋の象の腹下を他の象来り匍匐して抜け出るなど、其肥満したる大身を以て場内を跳りまはる様は、寧ろ動物といはんより却て之を機関装置といふ方適当なるが如し。既にして御者を其鼻にて巻き上げ、頭上に載せ、又鼻にて喇叭を吹き、楽器を弄し、畢て両頭相携て去る。是れ第七場なり。
紺天鵞絨(ビロード)の服に金飾の帽を戴たる佳人、白馬に騎して出で来り、縦横に場内に備へ置たる花卓の間を乗り廻はりし、後ち馬の前足を中央なる小桶の底上に上げしめ、己れは馬の尾頭に直立し、終りて馬を叱し、平首打て場内に臥せしむ。此時忽ち看る、家鳩(はと)六七、簇々(むらむら)と楽屋より飛び来りて佳人の帽又は腕に集る。佳人、此に於て又馬を叱して起(た)ち去らしめ、尋て己も去る。幾ならず復た徒歩、小銃を荷ふて出で来れば、家鳩前の如く又来り集り、其三四は銃に留る。佳人乃ち銃を装ふて、轟然一発、其声場に響く。鳩知らざるものゝ如く、猶ほ其銃身に在り。佳人、之を荷ふて去る。其状翩々(ヘンペン)たり、其顔欣々たり。是れ第八場なり。
二人の痴漢来りて一池に釣りす。又一人の燕尾服を着たるもの、餌箱を携ゑ、椅子の上より釣る。魚を得る三四、前の両人其好地位たるを見て、行て此に集る。黒衣漢忽ち怒りて二人を擠(さい)して水に投ず。二人溺れんとす。黒衣漢驚き慌てゝ衣を脱す。其の胴衣の数殆んど黒白十六七、始めて下着に至り、水に入りて両人を救ひ帰るの狂言、人をして抱腹絶倒に禁(た)へざらしむ。是れ第九場なり。
布団置たる一大白馬、之れに乗るは軽装の佳人、騎り廻り、騎り回る。布飛びは甘く終り、輪ぬけとなりて、二三輪は首尾よく抜けて、満場の喝采将さに起らんとする時、忽ち一輪、其衣裳に触れて、憐む可し、騎手は地上に落ち絶息す。此を以て第十場は其全きを見るを得ず。惜むべきなり。
其丈左迄(さまで)高からざるも、其色黒栗毛にして、一見駻馬たるを過たざる逸物、騰然飛龍の勢にて場内に奔(はし)り出づ。老伯楽(チャリネ)之を指揮し、滑稽漢一人其技を助け、其所持する所の紅白手巾を、或は函内に入れ、或は地中に埋め、馬をして紅白命に従ふて之を探さしむるに、馬命に応じて毫も誤ることなく、恰も彼山がらの数字を選み探すが如く、鼻を以て函の蓋を開き、其欲する所の手巾なければ去りて之を他に求むる様、誠に人語を解するに似て、最も妙を覚えたり。是れ第十場なり。
栗毛の大馬に壮年一人、肉襦袢の儘にて之れに騎し、板の乗り抜け、輪ぬけ等の戯を演ず。快妙殆んど其比を見ず。是れ第
十二場なり。
架を設くる三、其高各々丈余、相距ること又之れに若(し)けり。綱を以て之を場の周囲に結び、以て倒るゝの憂なからしむ。日本人先礼服にて出で来り、口上を演べ終りて、四十余の男子一人、十八九及び十四五の壮漢二人(共に前者の子なりといふ)、滑稽漢一人、場内にて体操の技を演ず。其活発迅速なること、猿猴も三舎を避くる程にて、或は上履の儘にて架上に直立し、或は一架より一架へ体を振りて渡る様、体は地平線となり、唯架に着くは両足の□(あしのうら)のみなり。熟練の致す所とはいへ、我国にてはいまだ曾て見ざるの技にして、満場大喝采、其中にも最年少の技に至つては殊に其軽妙を覚ゆ。是れ第十三場にて大終なり。
以上の演技を見終れば、時将さに午後十時を過ること数分、乃ち演技の間は凡そ二時間なれども、初めより終り迄の間、僅に十分許りの外休みなしのことなれば、随分見飽きる程なり。開場は日々昼夜(午後三時開場同四時開演。午後七時開場同八時開演)二度なり。
明治22年9月3日 郵便報知新聞[広告]
チャリネ大曲馬
日本橋中洲ニ於テ連日昼夜両度興行
右は欧米男女第一等ノ芸人ノミニテ組成シ、至奇至妙ノ諸技芸ヲ頻々取変へ、高覧ニ供シ
可申候
昼午後二時開場 同三時開演 夜午後七時開場 同八時開演
入場代價従前之通リニ候間、大方ノ諸君陸続御来観アランコトヲ希望ス
明治廿二年九月 エル、マヤ
興行願人 田中傳蔵
明治22年9月3日 東京朝日新聞
○チャリネの番組 先月下旬より、中洲町に於て興行するチャリネ氏の曲馬は、男女数十名一団体の組織にて、先年渡来の折よりは、芸人の数は頗ぶる多きを加へたるが、其代り今度は獅子、虎、蛇などの動物を引つれず、演ずる処は重に曲馬と軽業となり。昨今の演芸は、最初九頭の馬揃へ。第二は椅子の曲乗り、是れは場の中央に八、九尺の台を据ゑ、其上に五脚の椅子を一脚づゝ積み重ね、或ひは斜めになし、或ひは逆にして、一々鯱魚立(しゃちほこだち)をせしは、慄(ぞっ)とする程の離技(はなれわざ)なり。第三はチャリネ氏二頭の馬を使ふ。第四、第五、第六は曲乗り、第七は象の芸、第八は美人白馬に跨り数十羽の鳩を使ふ。第九は三笑人ともいふべき道化の狂言、抱腹に堪へず。第十はチャリネ氏一頭の裸馬を使ひ、紅と白とのハンカチーフを探り出す。第十一は曲乗り、第十二は父子三人の曲芸なるが、身の軽きこと驚くばかり、最とも大喝采を博したりと社員が見物しての話し。
明治22年9月3日 読売新聞
○チャリネ大曲馬 目下日本橋区中洲に於て昼夜二回毎日興行する伊太利の曲馬師チャリネ一行の技芸は、先年行なひたるものと大同小異にて、馬上の技芸は差して変りたる事なきも、地上の放れ業には目覚しきもの多し。当時演ぜる技芸中、第一は高さ二間程の四本足の台上に椅子四脚を立て、其上にての軽業は最初より見物の膽を冷せり。第二はチャリネ氏の小馬使分。第三は少年馬上の軽業。第四は大小男女四人地上の角兵衛。第五は二頭の馬を一人にて取遣ひ、次で美しき少女を抱へての放業、目覚しゝ。第六は象二頭の芸等愛敬あり。第七少女白馬に乗り五羽の鳩を遣ふ様、能く馴れたり。第八道化三人釣の体、互に争ふて両人水中に陥り、一人救はんとして兼て着込みし十数枚のチョッキを脱ぐ様馬鹿らしゝ。第九少女白馬の飛乗り輪脱け。第十チャリニ氏馬遣ひ分け、楽に合して舞踏せしむ。第十一馬上三尺余の板飛越え、前後三四回廻りの飛乗り、怪(あぶ)なし。第十二大切、親子三人腕競べと唱へ、機械体操の巧なるものを演ず。斯(こ)は場中第一の見物(みもの)なりと。
明治22年9月3日 毎日新聞
○チャリネ氏の大曲馬 は一昨日の日曜に上等席は十四五名の客なりしも、中等、下等は充満し、なか〳〵の景気なりし。兼て記せし如く、今回は先年の興行と異なり虎、獅子、蛇等はなけれど、馬匹は其の数を増せり。開演より休みなく都合十二番の技を演ぜり。
第一は椅子四脚を取り出し、積上げつゝ逆立の芸、第二はチャリネ氏小馬を使ひ、第三は馬上の芸、第四は婦人二人男子二人の体操、第五は男女合乗の芸、第六大象の芸、第七チャリネ氏夫人の馬の使ひ分け、第八滑稽狂言魚釣り、第九馬上の芸、第十チャリネ氏の馬使ひ、第十一馬上の芸、第十二飛付き軽技なりしが、チャリネ氏の馬を使ふは不相替(あいかわらず)絶技といふの外なし。大象の演芸は前回よりも多く、最後の飛付は眼先変りて面白かりし。他の諸芸は先づ前回と大同小異とも云ふべき歟。
明治22年9月4日 読売新聞
○橋梁修繕の弁償 目下中洲に於て興行中のチャリネ氏所有の大象が去る十四日到着の節、同所の仮橋を破損せしめたる事は前号に記載したるが、府庁は直に之れを修繕せられ、同地借地人池田栄亮氏外一名より昨日右橋梁修繕費金三十九円余を府庁へ弁償したりといひ。
明治22年9月7日 東京朝日新聞
○売つたか売らぬか チャリネの曲馬連中は、馬や象ばかりではなく、白首の姉的(ねへてき)をも自由にすると見えて、中洲の楊弓場に居る八人の新姐(しんぞ)は一円ヅヽで売たとやらの疑ひを蒙り、昨六日の午前八時ごろ首を揃へて久松町警察署へ呼出しになり、いよ〳〵売たか売らぬかと取調を受しといふがハテ。
明治22年9月8日 郵便報知新聞(左)・読売新聞(右)[広告]
チャリネ大曲馬
[本文9月3日に同じ]
明治廿二年九月 エル、マヤ
興行願人 田中傳蔵
追テ大象ノ為メニ破損セシ中洲ノ橋梁ハ、大造作ヲ経テ修繕、漸ク完成候ニ付、右大象ノ背ニ数十ノ人ヲ乗セ、再三耐重力試験致候處、大丈夫ニ候間、大方ノ諸君子、幸ニ意ヲ安ンジ、頻々車馬ヲ抂ケラレンコトヲ希望ス
明治22年9月8日 東京朝日新聞
○いよ〳〵売た 売たか売らぬかと久松町警察署に於て取調べ中なりし中洲の楊弓店の別嬪どもは、いよ〳〵売たと白状におよんで萩野仙之助方の雇人麦島おつね(十六)藤田おやす(十六)同じく西宮おみち方の雇人高橋およね(十五)並びに媒介者(ひきて)前田おさだ(五十七)は七日より十日の拘留とは飛んだチャリネ連の内狂言。
明治22年9月10日 毎日新聞
○チャリネ大曲馬 中洲の同曲馬は其後も大入りにて一昨日の日曜などは最上等を除き上中下等とも一杯の入りなりし。曩きにも記せし如く、動物の種類少なき上、鉄柵の中、獅子と闘ふの技もなきより、壮観の点に於ては前回の興行に譲る所あれど、芸人の中、其巧妙、思はずブラボオーの賞声を続発せしむるもの多く、演芸の点に於ては前回に比して優れるの感あり。
チャリネの曲馬 二十九
【東京日本橋中洲・続】
明治22年9月11日 郵便報知新聞[広告]
伊太利王国チャリネ大曲馬謹テ在京府下諸君子ニ広告ス
当曲馬儀目下大橋中洲ニ於テ昼夜両度(昼午後二時開場同三時ヨリ、夜午後七時開場同八時ヨリ)興行中ニ御座候處、今回ハ最前広告ノ通リ中洲ノ他ニハ移転不仕、又正シク本月廿五日ニテ興行千秋楽ト為シ、本月廿八日ヲ以テホノルヽ府ヘ向ケ発航可仕候ニ付キ、観覧ヲ欲セラルヽ方々ハ速カニ御来観アランコトヲ希望ス
技芸ハ日本ニ於テ未ダ嘗テ目撃セラレザル種々ノ奇芸妙技ヲ取揃へ高覧ニ供シ可申候、中ニ就テ、デビヤ家族空中ノ飛行及ミニー嬢屋梁上頭ヲ地ニ向ケテ行歩シ、終ニ水禽ノ水ニ沈入スルノ状ヲ以テ局ヲ結ブモノヽ如キハ、最モ人ヲシテ寒心賞揚セシムル所ニ御座候
諸君請フ来観ヲ忘却スルコト勿レ
来レ一孤人、来レ衆団体、宜シク場所ト時日ヲ記セラルベシ
明治廿二年九月
書記エル、マヤ 興行願人田中傳蔵
明治22年9月12日 郵便報知新聞
○昨日の暴風雨 ……日本橋区中洲埋立地のチャリネ曲馬の天幕吹き倒されしを以て、象、馬其他の動物は、一時近傍の家屋を借受けて之れに移し……。
明治22年9月13日 東京日日新聞
○チャリネの慈善興行 目下、日本橋区中洲埋立地に於て興行中なる伊国曲馬師チャリネ氏は、先年渡来せし時も、夫の紀州沖に於て沈没せしノルマトン号の遺族を救恤する為め慈善興行を行ひ、其の収入金数百金を義捐せしが、今回も亦、関西地方水害罹災者の不幸を憐れみ、慈善興行を行ひ、其の収入金の半額を義捐し、救急の資に充んとの慈善心にて、書記マヤ氏より義捐金募集同盟の新聞社へ其旨を申込み、其興行日時を定められんことを請へり。依て、同盟各社よりは其の厚意を謝し、且つ興行の日時は明十四日土曜日の夜(午後七時開場、但、当日大雨なれば十八日の夜)と定め、之を氏に通ぜしに、氏は其旨を諒し、当夜、慈善興行を催ほすよし。殊勝の事と云ふべし。
明治22年9月13日 東京朝日新聞
○チャリネ氏の慈善興行 此ごろ日本橋中洲にて興行中なるチャリネ氏は、先年渡来せし折もノルマントン罹災者の遺族へ救恤の為め慈善興行を催したるが、今度もまた関西地方水害罹災者の不幸を聞き、救恤の為め前年の如く慈善興行を催し、其の収入金半額を義捐せんとて、其の日時は明十四日の夜興行(午後七時開場の分なり、但し大雨なれば来る十八日の夜に延すよし)に定めしといふ。当日来観の人々は同連中の妙技奇術を一覧し、啻(ただ)に其の心目を娯(たの)しましむるのみならず、間接には幾千百人の罹災者に対し陰徳を施こし善根を植るものなれば、心ある者は朋友知己親戚相さそふて入場することならん。
明治22年9月13日 郵便報知新聞
○チャリネの曲馬 チャリネ氏興行場の天套(テント)が風雨の為めに吹潰されし由は昨夕板に記せしが、同氏は昨朝より人夫数百名を雇ひ、直ちに之を修復し、僅か昨日の昼興行のみ休業して、昨夜より常の如く興行せり。尤も右転倒に付ての損害金は凡四千円なりといふ。
明治22年9月13日 時事新報
○チャリネの興行場 目下中洲に興行中のチャリネの曲馬場所は、風当り最も強き大川中の一孤島(はなれち)なれば、一昨十一日夜、暴風の為め同所の破損はまた格別にして、松葉楼も三階を吹き飛され、チャリネ曲馬場のテントは吹きちぎれて木の葉の如く飛び、機械諸道具の損害も非常にて、動物は取敢(あえ)ず近傍の家に難を避けさせる抔中々の騒ぎにて、此損害は凡そ四千円なるにも拘はらず、忽ちに修覆を加へ、昨夜より従前の通り開場したりとぞ。
明治22年9月14日 時事新報[広告]
伊太利王国チャリネ大曲馬謹テ在京府下諸君子ニ広告ス
[本文9月11日に同じ、以下追加]
本夕関西地方水害者救恤慈善興行 入覧料ハ平常之通
明治廿二年九月十四日
書記エル、マヤ 興行願人田中傳蔵
明治22年9月14日 郵便報知新聞
○チャリネ慈善興行 中洲に於て興行中のチャリネの曲馬は、前号の紙上に掲げし通り、今夕は関西地方水害救恤義捐金の為め慈善興行を為すに、付ては更に芸題を変更し、種々新奇の技芸を演ずる由なり。
明治22年9月14日 読売新聞
「戯歌桃のひと葉」より「題 伊国チャリネ氏曲馬」六首
書く文字の横に乗けり乙女子が 配る眼(まなこ)の色の青馬 華の屋望成
馬に乗るわざは奥儀に伊太利や ちやり場も交て見(みせ)るチャリネ氏 国の屋長丸
集ひ来る人の中洲も賑ひて 面白く見る異人(ことひと)の芸 物の屋横好
軽業の象に鼻をば高くして 客をまき込むチャリネ氏の小屋 稲の屋立道
能く馴てつかふチャリネの馬踊 はねてこみ合ふ見物の人 文の屋秀茂
桟敷(さんじき)も瓦斯も囲ひも手軽にて てんとたまらぬ面白味あり 莵道山人
明治22年9月17日 時事新報
○チャリネの曲馬 去る二十五日より中洲町に於て興行を始めたる伊国人チャリネ一行の曲馬は、大概一週間位に二三の目先き変りたる技芸を差替へる由にて、両三日前一見したる時は椅子乗り、鳩使ひ等は既に止して、鞠芸、体操等を始めたりしが、是日は降雨に風さへ強かりしかば、見物人は下等桟敷に僅々七八十名居並びたるに過ぎざれば、広き場内も寥々として、演芸者に対し気の毒なる有様なりしが、此不入りは畢竟天気の為めなるべく思はるれど、去る十九年に興行せし時は、初めての乗込みといひ、殊に当時悪疫の猖獗を逞うして、芝居、寄席都(すべ)ての興行ものは更なり、神社の祭典に至る迄差止められたる折柄の独り占めといひ、日本人の目には最(い)と珍らしき(中には曾て見しことなきものもあり)巨象、大蛇、獰獅、猛虎を始め駝鳥、猿猴、驢馬、牛羊等を携へ来り、演場外に一個の小動物園を設けて観客の見聞を裨益せしのみならず、右の猛虎、獰獅を鉄欄の中にて自由に使ひ廻す抔、見物人の毛髪を堅立せしめたる怖ろしき業を為せし等にて、畏くも吹上御苑に召され、両陛下の天覧を辱うせし位なれば、凡そ東京市街に住みてこの興行を一見せざりし者は恐らく無かるべしと思はれたりしも、今度は馬と象を除きて僅かに四五の猿と羊、鹿一頭宛を牽き来りたるに過ぎず、殊に技芸はこの一行に劣るにもせよ、昨年中墺国人ウオジアの曲馬を興行して未だ余り間の無き折柄なれば、目下の好時候にして、例へ天気は好からんも、先年の如き大入りを来すことは難かるべし。偖(さて)同日第一回は男女大小十三人(内道化二人)が種々入り雑(まじ)りての宙返りは水車の舞ふが如く、獅子の狂ふが如く、尺蝮の縮みて復伸ぶが如く、花やかに綺麗なりし。第二回は日本人の大象使ひにて、二個の巨象が太皷様の台に上り、或は人立し、或は逆立して、数多の鈴を足に結へ奏楽の囃しに伴(つ)れての躍りは前年と大同小異なれど、年度の重なりし丈けに余程技芸を進めたるものゝ如し。第三回は一個の男子月毛の馬に跨りての曲乗り、輪抜け、障碍越し、張紙破り等を演じ、此の間一人の道化出でゝ間狂言といふ可笑みあり。第四回はチャリネが小さき二頭の栗毛馬を指揮して、自由自在に廻旋せしめたるは、恰も臂の指を使ふが如く、巧妙極れり。同氏は本年六十二歳と聞しが、面貌些しも先年に異なることなく、最(い)と逞ましきは、矍鑠哉の三字を以て其壮健を評すべし。第五回は是亦一個の壮漢(わかもの)栗毛の裸馬を踊らしめて背上に直立し、後ろ向き及び宙返りをしつゝ二個の輪を抜けて馬背に直立の芸は最も喝采を博したり。第六回は二頭の月毛馬に二人の男子が白装束にて直立し、一人を脇に抱ひ込み、或は両肩の上に立しめ、或は鯱魚立ちを為さしめ、最後に二人斉しく馬上よりトンボ返して地上に突立つと同時に、二頭の馬は蹄を揃へて楽屋へ駈け入りたるは、馬耳東風の名を負ひ乍ら、斯くも二頭の馬が意気相投じて乗人(のりて)の呼吸を覚えたること、感ずるより外なかりき。第七回は一頭の裸馬に一人の曲乗り、第五回と略(ほぼ)相似たり。第八回は二八の少女が一個の大なる鞠を履(ふ)みて、旨く其中心を取り、巧みに之を旋転せしめつゝ、十二本の壜子(ふらすこ)を三尺位の距離と為し、四角に排列したる中を、筋違ひて通り抜け、最後に高さ一尺位の台を中心と為し、之に幅一尺長さ一丈八尺位もあらんかと思はるゝ板を渡して、始めは鞠を踏つゝ次第に上り、中心の所に到りしときは板の両端共に地を離れて頗る奇観なりしが、夫より次第に向ひへ下り、次は後向きに復た元の如く乗り帰りたる手際否足際は、熟練の程に驚きたり。第九回は十三四歳の少年が二頭の月毛馬に跨り、馬背に結へたる数多の鈴の音が蹄の音に伴れて清らかに鳴響きしも愛らしかりし。第十回は一個の少婦月毛馬の曲乗りは優美なる中にも、最後に地上より駈け行く馬背に飛び上りて、見事直立したる働きは女業とは思はれざりし。第十一回は六柱三個の鞦韆様のものを立て、三人の男子が之に上りて種々の体操術も面白く、これにて同日は打出したり。今度の興行はチャリネを除くの外、芸人は都て前年と変り居りて見覚えなき顔のみなるが、技芸は大同小異乍らも前年に比べて熟練したり、然るに例の一本足も見えず、又婦人の数を減じたるは一体の愛敬を欠きたるものゝ如しと。
チャリネの曲馬 三十
【東京日本橋中洲・続】
明治22年9月17日 朝野新聞
○チャリネ氏義捐興行 此の一行の曲馬も愈々来る廿五日中洲を打上げ、廿八日豪州ホノルヽへ向ひ発航するに付き、新聞紙の広告にも有る如く、新奇の技芸を演じたるが、一昨々夜は収入の半額を水害罹災者へ義捐の為め演芸も差替へたるが、就中観客を驚かせしはデビヤ家族が空中の飛行にして、甲は鞦韆より逆に下りて手を伸べ、乙は同じく鞦韆の横木へ手にて吊下り、横木を離れて甲の手に飛移り、更に一躍して元の横木に復ること両三回、恰も猿猴の林中に飛躍するが如く、実に看者の大喝采を博したり。又ミニー嬢の最高の鞦韆に上り、足を其梁に付け、全身を倒にして五六歩程往復歩行し、最後に三人順次に高サ四五間の所より、或は前に俯し、或は後に仆れ、一躍して飛び落つる様は只矯捷快活と云ふより外なく、覚えず看客をして手に汗握りて喝采せしめたり。次に一騎士の駿馬を疾駆して幾度か埒内に飛乗りし、或は障碍物を飛越ながらの飛乗りは最も軽快活発の騎技なりき。当日の入場は上中下合計六百余名にして収入総額百五十四円三十五銭なりしと。右の半額即ち七十七円十七銭五厘を水害地罹災者救恤として義捐募集同盟の新聞社へ寄贈せしは奇特の事と申すべし。
明治22年9月18日 郵便報知新聞
○チャリネ氏の義捐金 前号に記せし如く、去十四日の土曜日夜はチャリネ氏の慈善興行当日なりしが、夕景より空合悪く、折々小雨さへ降り出しかば、如何あらんと案じ煩ひたるが、開場の時刻には可なりの来客ありて、切符の売高は上等二十六枚(此金二十六円)中等三十九枚二分の一(此金十九円七十五銭)下等五百四十三枚(此金百八円四十銭)合計六百余名にして、此上り高百五十四円三十五銭となれり。依て此半額即ち七十七円十七銭五厘を各地水害罹災者救恤のため義捐募集同盟新聞社へ送付したり。最初チャリネ氏は此慈善興行を為すに付ては、成るべく金額の多からんことを望み、殊に新奇の技芸を差替へ、社中一同非常の勉強にて興行せしが、唯天気模様の悪かりしため、予定の入場に至らざりしは呉々も遺憾なりしと言へり。
明治22年9月21日 時事新報[広告]
チャリネ大曲馬
日本橋区中洲ニ於テ連日昼夜二回(午後二時開場同三時ヨリ、夜午後七時開場同八時ヨリ)興行ノ處、弥ヨ本月廿五日千秋楽、夫ヨリ直ニ海外ニ向ヒ候ニ付テハ、同日ハ御名残ノ為メ新奇稀有ノ絶技妙芸ヲ精選行演可致、チャリネ氏ハ特ニ陸軍ノ諸将校ヲ招請シ、初メテ御当地ニ於テ乗馬、氏ノ独得術ヲ高覧ニ供シ可申候間、幸ニ大方ノ諸君陸続来観ノ栄ヲ賜ハンコトヲ伏テ希望ス
明治廿二年九月
書記エル、マヤ 興行願人田中傳蔵
明治22年9月21日 郵便報知新聞
○チャリネ氏の曲馬 中洲に於て興行中なる同曲馬は、愈よ本月廿五日興行を終へ、直に布哇へ向け渡航するに付、仝日は名残興行として新奇の技術のみを演じ、殊に老伯楽は曾て天覧に供し奉りて叡感浅からざりし乗馬術をば陸軍々人の一覧に供すとのことなり。
明治22年9月22日 時事新報
○巡査に曲馬の観覧を乞ふ 大川中洲に於て興行中なるチャリネの曲馬は、来る二十五日を以て千秋楽となし帰国するに、付ては是迄久松町警察署詰の巡査は毎日開場時限の三十分前より出張して観客の取締を懇篤に為したれば、右慰労旁々、社中の技術を去る十九日より二十五日迄、同署詰巡査へ順次に一覧せしめたしとの事を同署長迄申入れしといふ。
明治22年9月25日 毎日新聞
○チャリネ大曲馬 日本橋区中洲に於て興行中のチャリネの曲馬は、広告にもありし通り弥よ今二十五日に興行を終へ、其後直にホノルヽ府へ向け発航するに付ては本日は名残狂言として是迄の芸題を一新し、更に稀有絶妙の技芸のみを撰んで演じ、中に就てチャリネ老伯楽は特に乗馬術を陸軍将校の覧に供すと云へば、一段の見物なるべし。
明治22年9月27日 朝野新聞
○日本橋区中洲町にて興行せしチャリネ氏の一行は、昨日午前七時に同所を引払ひ、動物六十余頭、其他の器具とともに蛎殻町三丁目・槌田伊右衛門が請負ひ、横浜迄運送せしが、費用は百四十余円にて、明日同所よりペキン号に積み載せ、ホノルルへ向け出発するよし。
明治22年9月27日 郵便報知新聞
○チャリネの動物 日本橋区中洲町に興行中なりしチャリネ氏の曲馬は、予期の如く一昨廿五日にて閉場し、昨廿六日午前七時に動物六十余頭并諸器械等は悉皆横浜へ向け、同所より五大力船にて送りたり。運送百余円なりしと。又た此の一行は、明廿八日桑港へ向け横浜解纜の米国郵船シチオフペキン号に乗込み出発する由なり。
明治22年9月27日 読売新聞
○チャリネ氏の一行 予て日本橋区中洲にて興行し、都人士をして其妙技に驚かしめしチャリネ氏の曲馬は、愈よ一昨廿五日の夜にて打止め、昨廿六日の朝同所を引払ひ、明廿八日横浜出帆の米国船ペキン号に塔じて布哇国へ赴くよし。
明治22年9月27日 東京朝日新聞
○チャリネの一行 過般来中洲にて興行したる伊太利曲馬チャリネの一行は来る廿八日桑港へ向け横浜解纜の米国郵船シチーオフペキン号に乗込み出発の筈にて、持帰るべき馬匹諸道具は府下より直ちに船積みの特許を得たるに付、昨日横浜税関の監吏補二名検査の為め特に上京せりといふ。
明治22年9月28日 東京日日新聞
○チャリネの一行は、本日、桑港へ向け出発する由。
〈編者註〉帰国したチャリネはしばらく休養後、1890年(明治23年)の初めから最後の巡業に出、メキシコ、アルゼンチン、ブラジル、ペルーなどで七年間にわたって公演を続けたあと、1897(明治30年)にパナマのホテルで死亡した。七十三歳だった。
[参考文献]
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『郵便報知新聞』(復刻版/明治5年6月~明治27年12月)・柏書房・平成1年~。
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「読売新聞」(読ダス/明治7年11月2日~)。
「朝日新聞」(聞蔵Ⅱ/明治12年1月25日~/明治22年1月3日より「大阪朝日新聞」と改題)
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「大阪日報」(毎索/明治18年9月1日~明治21年6月30日)
「神戸又新日報」(マイクロフィルム/明治19年1月6日~)。
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『毎日新聞』(復刻版/明治19年5月1日~明治39年6月30日)・不二出版・平成5年~。
『東京朝日新聞』(復刻版/明治21年7月10日~)・日本図書センター・平成4年~。
『都新聞』(復刻版/明治21年11月16日~)・柏書房・平成6年~
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〈編者註〉同書より孫引した記事は新聞名の後に(『明治の演芸』)と注記した。
『見世物関係資料コレクション目録』国立歴史民俗博物館・平成22年。
『サーカスの歴史』阿久根巌・西田書店・昭和52年。
『日本の浮世絵美術館』巻一・角川書店・平成8年。
「観物画譜」(『日本庶民文化史料集成・第八巻寄席・見世物』三一書房・昭和51年所収)。
「サーカスがやって来た」(図録)神奈川県立近代美術館・兵庫県立近代美術館・平成8年。
「馬のサーカス・大曲馬」(図録)馬の博物館・平成21年。
「大見世物」(図録)たばこと塩の博物館・平成15年。
「見世物大博覧会」(図録)国立民族学博物館・平成28年。
ホームページ:“CIRCOPEDIA”の‘Giuseppe Chiarine’の項。