資料紹介:猿芝居

2016年05月06日

猿芝居 一

明治4112日 大阪毎日新聞

猿芝居(一) 雨之助

▲先づ明まして猿の御目見得

申歳に因んだ猿芝居のお話、人真似上手のお猿さんを太夫にして、大芝居の真似事に人気沢山、見物を手長猿の手に掻き込む話は、春なれやこれも芽出たし。

サル程に、鎮守の宮には神楽太皷の音と共に鈴振る音のさら〳〵と響く辺り、小屋掛の蓆屋根、何某太夫にのし進上の幟ひらめく下には、木戸番の男声を嗄らして「サア〳〵入(いら)つしやい〳〵、今が恰度(ちょうど)可(い)いところだ、太夫は一粒選りの腕達者、衣裳も道具も新調だから美くしい、中銭なしの木戸は二銭、二銭や三銭の端た銭は下らぬ事にもお使ひになる、見ないでは話にならぬが此猿芝居だ、コレ〳〵其處(そこ)な小僧さん、お前は銭が無(なさ)さうだ、一銭に負けてあげるから這入んなさい、ソーレ今が稲川千両幟土俵の場だ、ハツケヨーイ、残つた〳〵、おつと残らず這入て見て下さい、今が性根場だヨ」と口から出任せに饒舌(しゃべり)立る。

小屋の中では此機を外さず、トテトテトツカラコ、トテトテトツカラコと櫓太皷を打ち出すと、呼出し奴が中のお客よりか小屋の外に立て、見やうか見ぬまいか、這入らうか這入るまいかと考へて居る客の方に聞えるやうに、「東アーーシ稲アーー川ア、いなアヽがアわア」と呼び上げる。

看板下の板敷の上に休憩中の猿どの迄がこれに浮れキツ〳〵と牙をむきながら相撲の真似事のやうな身振をして見せる。中でも悪戯ものゝ小猿は自分の直ぐ隣りに長くなつて寝そべつて居る熊谷、敦盛組打の段に馬の代用を仰せつかる犬の尻尾をキユツと一つ摑んで引張て置て、素知らぬ顔して済し込む。犬は吃驚して目を覚して、己れ小冠者、唯一咬(かぶ)りと立上りかけたが、えーい許してやれと言たやうに又長々と寝そべり返る。犬猿も啻(ただ)ならぬ此世智辛い世の中に、偖も呑気なる商売かな。表の見物これを見て思はず頤の掛金を外し、あツはツヽヽヽヽ、イヤ罪のないもんで御座る。何なら鳥渡見物して行きませうと序に財布の紐を解て、ソレ二人で四銭受取つしやい、えーイ通り二枚、続いて一枚又一枚。

中に這入ると三間四方位の急造りの舞台の三方を取撒て、種々雑多の見物、就中(とりわけ)この小屋には子供衆が七分を占て、お猿どのゝ一挙一動に笑ひ倒るゝ有様は、なにがし医学士が疳には大の薬と言はれたも道理と肯(うなづ)かるゝばかり。偖も舞台は表看板口上の通り、稲川と鉄ケ嶽、千番に一番の勝負かと思ひの外、千両幟には相違ないが、土俵場でなくて首途(かどで)の場、女房おとわの鬘が今様大ハイカラの廂髪に、赤のリボンをさへ着けて居たのには二度吃驚の黒毛猿、これなら何故に木戸番が「サア〳〵改良の猿芝居」と言はないのか。夫(かの)稲川は紋切型の服装に嗜みの一刀をさへ打込で、「さらば女房、行て来るぞよ」と傍へ寄ると、女房猿奴は牙をむいて逃げかける。人間だと当然離縁問題の持上る處を、其處は畜生の難有(ありがた)さ、一向平気に出かけて行く。

凡そ田舎の興行物、掘立小屋の村の祭礼の人呼びには好評第一の猿芝居。唯見れば何の苦もない道化業にも、調べて見るとさま〴〵の苦心は存ぜり。いで其概略を筆の命毛、三本迄脱(ぬ)ける位は書立やうかな。オツトお猿どの一式の記事に三本足らぬなどは禁句々々。

明治4114日 大阪毎日新聞

猿芝居(二) 雨之助

▲日本で唯の三つ

人間よりは三本毛の足らぬお猿さん、その芝居の太夫元は、日本全国広しと雖も唯の三つより御座らぬ。成(なろ)う事なら此三つを猿に足して人間の仲間入りは出来ぬものかとは三座の中でも上座に坐る五嶋米太夫の話である。所謂三座とは、此五嶋一座の外に神戸の竹屋座、紀州の紀の国座、一座高うは御座りまするが、五嶋は中での大一座、先(まず)は残る二つを右大臣、左大臣の株と致して某こそはその総大将、近う寄て名乗を聞けやと扇子を拡げて見すると、括り猿の定紋を打て名は米次郎、当年取て六十歳、南区下寺町に瓢箪屋を営業とする老爺(おやじ)だ。毎日ブラ〳〵と暮して居るやうでも胸の只中は締め括りのある男、兎角もの事何でも聞て了(しま)つてから成程と感服する。ある男(雨之助ではないぞ)偖も風流な、お前さん何(ど)うして瓢箪屋をなさると聞たら答弁が面白い。豊太閤はその顔猿に似たといへり、拙者は三代猿芝居の胴締を致す、故に太閤殿御紋を無断拝借を致してかくは瓢箪を商ひますると芝居口調で答へたり。或は此爺さん普通の人間より頓智も三匁ばかり多いのかも知れない。

▲綱なし使ひの名人

此米太夫だ、若い時に綱なしで猿を使たのは。御承知の通り猿芝居には綱が生命(いのち)、太夫の首を繋いだ綱の捌きやう一つで立たすとも坐らすとも自由自在、ハツト引くソレ坐る、モ一つ引くとソレ突立つ、泣かすにも怒らすにも綱なくてはならぬところを、若年の米太夫、一流綱なしで使つて見せた。勿論その代り最初は太夫の猿奴(め)が見物の婦人に飛び着て頬を嘗めた罰とあつて、太夫大童の体に大地へ飛降てお詫をするやうな騒ぎもあつたが、後には両眼の睨み一つで使分けた。處が年齢は取たくないもの、近年那麼(そんな)事でも演(やろ)うものならソレこそ大変、老眼の涙脆い眼で睨んだ位では猿どの一向恐れ入らいで直に逃げ出す。ある時など綱を解てソレと一つ睨んで見せたが、野郎赤い尻をペタ〳〵〳〵と三つ叩いて逃げ出した。見物の頭の上を飛び越して囃子場の隅へ行たのだから騒動が烈(はげ)しい。それ捕まへよと西に東に追廻す。猿は面白がつて逃げ廻る。ものゝ半日一匹の猿の為に七八人の男が奔命これ労(つか)れて遂に当日興行中止の半札で追出した。これ以来綱なしはお止(や)め。

▲大阪付近の興行場

閑話休題(あだしことはさておき)、お正月だけに話が横道ばかりへ外(そ)れて困るぢやないか。当地付近の猿芝居の興行定席と言たら先づ次の如し。千日前では千代の席、京都新京極では田村席、天満天神裏ではいろは席、堺宿院では鰻定席、神戸楠公西門では藤田席。以上は猿芝居の定席で、他は臨時の小屋掛と極つて居る。小屋掛の興行はホンの三日か、長くても五日以上には出ぬけれども、定小屋となると半年位は平気で打続けても客足がトント落ないのは不思議だ。そも〳〵此猿芝居が瓦屋根の下で興行をした最初といふのは今を去る事、実に三十六年、明治五年の春に京都新京極、今の明治座の向ひの竹亭(牛肉屋)で打たのが始めだ。それ迄は野天興行と極つたもの。狇猴にして冠りを着ける事は舞台の上で数百年前から実行して居ても、人間並に瓦葺の家で芸を演じたはそも〳〵これを以て嚆矢とする。明治昭代の御世なるかな。

明治4115日 大阪毎日新聞

猿芝居(三) 雨之助

▲胴と腰の善悪

力士ではあるまいし、腰の善悪(よしあし)を問ふ勿れ、猿の腰が良くつても大八車は挽けまいと、そんぢよ其處な口悪男が半畳を打込みさうだが、コヤ、もの知らぬ男の子よ、何を申すぞ、綱を引くとヒヨイと立つ、もと〳〵四つ足の獣だ、それを立(たた)すのは芝居の初歩ぢやないか、此立つには腰の善い猿でなくてはならぬ、腰が悪いと何うしても足が立ぬ、足が立ぬと身も立ぬ、猿も又辛い哉。最も天性腰の善い奴だと、生れて十四五日もしたところで半月の余り猿使ひが手を持て歩かし馴すと直に立つやうになる。腰の次に善悪の関係が深いのは胴骨だ。猿によつて胴折、丸骨、板骨の三種がある。この中胴折と板骨とはものになる。丸骨と来るとカタお話にならない。此辺中々黒いもの。

▲雌の大受け

ところが何程腰が善くつても雄猿は長持がせぬ。何う念を入れたところで十年が関の山。雌となると三十四五年も持つ奴が適(たま)だけれどもある。四十嶋田の厚化粧、冬の月といふ怖ろしいところを畜生の癖に覗(ねら)つて八百屋お半の憎い婆さん役を得意とするのは雌に限る。但し年齢(とし)を取ると人間並に根性が悪くなつて、横着心と一緒に両の牙迄が延びて来る。さうなると中々危険、鳥渡油断をすれば演技中に見物へ飛び着て、嬢様奥様の晴着などをメチヤ〳〵に引裂て了ふ。猿の嫉妬心ぢや。然しながら何處も同じ春の暮かな、男よりも女の方が持る事は猿の世界も人間の世界も些(ちっ)とも変りはない。

▲交尾は厳禁

発情盛んな七八歳、役者としては若手の売出し、一枚看板名題下の人気猿には交尾が大の禁物だ。猫に小判か猿に雌、だけそれだけ害が深く、芝居開演中一度でも交尾をさすと爾来舞台も何もあつたものでなく、人が見やうが誰が見やうが、雌雄相合へば直にしなだれかゝつて見るに忍びぬ醜態を演ずる。太夫元は直に臨検の巡査に捕まつて科料一円に處せらる大痛手。昔は此交尾の現場を濡れ場と称へ、猿芝居書入れの呼物、ソラ舞台で始めたぞとなると、急に木戸銭を倍にして二枚札に入(いら)つしやい〳〵、今が性根場ぢやと木戸男が勇み立る。スルと今も昔も変らぬのはわい〳〵連、その母蛤を呑むと夢みて孕んだ奴が押すな〳〵で雪崩込む。忽ち満場客止の大入大人気、今でも這麼(こんな)場を見せれば太夫元の懐中、吹飴の狸よりも早く膨んで、四一銀行などといふ銀行が直ぐに立つのは受合の西瓜だ。四一ツテ何だい、ハテ明治四十一年は申の歳ぢやないか、貴公も随分野暮なもんサネ。

▲お猿の価格

かくて(猿の記事に掻くては振つたね)此腰悪からず、胴骨丸からず、加ふるに雌であつて、舞台で雄を慕はざる猿の価格は、充分芸を仕込だのが先づ一匹二十五円から四十円位、飛切りとなると三百円位のもある。大概の太夫元は此仕込猿を買て来る。始めから自分で仕込で行くのは先づ尠い。

明治4116日 大阪毎日新聞

猿芝居(四) 雨之助

▲太夫のお客さん

お猿の太夫殿でも雌には月に五日のお客さん(月経)がある。此お客さん御入来中の太夫殿は、時として舞台で尾籠な粗麁をして彼の湯具に日の丸、飛だ芽出度い事を観客(けんぶつ)一同の観覧に供するやうな事にもなるが、其處は畜生だけに別に顔を赧(あから)めるやうな事もなく、ヨシ些しは顔を赧(あか)くしたところで、生得の赤面の上を行くほどには決して恥しがらぬから、その辺一向無頓着に、矢張飛だり跳ねたり。但し此際雌殿が女形に扮して居ると余り目障りにもならぬが、誤まつて立役にでもなつて居ると滑稽至極、中でも無縁法界坊主の幽霊などがヒウドロドロの太皷に連て「恨めしやア」と宙吊に吊り上つた時に、ソノ幽霊の鼠法衣(ころも)に日本国々旗があり〳〵と現はれたりなどしては、イヤハヤ、見物一同の鯨波(とき)の声、うわア〳〵の騒ぎとなる。但し此騒ぎも決して冷笑の意味ではなく、矢張それを嬉しがつての歓迎だから堪らない。

▲迷惑なお客様

太夫舞台の上で演芸の真最中、猿使ひも一生懸命の際に、見物の中から此わアい〳〵の総囃子をされると、猿は忽ち驚き騒ぎ、年寄連中は太い牙をむき出して見物に噛み着うとするし、若年の花方連は面白がつて芝居も何も其方(そっち)退けに鬘は脱で放り出す、衣裳は噛み断(ちぎ)つて投げ出す、瞽女の朝顔が急に尻を捲つて跳ね廻る大乱痴気。就中猿芝居に取て迷惑至極な見物は酔(よい)たんぼで、此奴にかゝつちやア如何ともする事が出来ない。止(やむ)なく、東西々々、一座高くは御座りまするが太夫身仕度な致す間、今一囃子は別(わけ)て御容赦の幕とせねばならぬ、朝顔の事が出たから筆の序に書て置く。猿芝居に限つて朝顔も眼が開て居る。猿に五分間も眼を瞑らして置く事は百年教へ込でも迚ても駄目だから。

▲犬と猿

世に仲の悪いものを俗に犬と猿とのやうだといふけれども、猿芝居の犬と猿との仲の好い事は生中な人間の兄弟などは到底及ばないほど、ソレは〳〵親しいもの。不器用な犬は自分の背中の蚤などをお猿さんに取て貰つて昼寝の夢を貪るのが常である。その代り犬君その役目は常に猿殿の下廻りで、馬の代用以上には出世が出来ない。ある時此犬と同じく猿芝居に猫を使用した事があるが、猫は犬に比べると根性が曲つて居ると見えて、何(ど)うしても太夫殿と親しくならずに、剰へ猿の油断を見済してはその食物を喰て了ふから、愛想を尽して使用を中止した。蓋し猫猿遂に相親しまずとも言つべきか。

▲好(すき)と嫌(きらい)

猿芝居の太夫元が一番に閉口するは太夫に衣裳を着けさする事で、生れて既に毛衣を着用して居る猿は猶その上へ不自由な人間界の衣物(きもの)を着せられる事を大変に嫌ふ。冬はまだしも、夏などは尋常な手段では着ない。止なく一策を案じて、手に一枚の反故紙を与へる。猿殿肝癪紛れにソレを寸々(ずたずた)に引裂き、引断(ちぎ)る隙を見て手早く着せて了ふ。鬘を被るのも同様、中々一応や二応で着けぬ。仕方なく一つグツと睨む。太夫恐れて首を窘(ちぢ)むる。其處を付け込んで咄嗟に被せる。かくて狇猴容易に冠す。ツマリ弱点を知ての業だ。人間界に處するにも又此呼吸が必用。

▲太夫の名乗

猿も役者になると名乗が出来て、悉く人間並の芸名を貰ふ。当時日本で売出しの老猿優は中村福松、若手とあつて同じく小松、小三、駒吉などが売出しで五猿といふ。

さる 2001さる1 001




















明治
4117日 大阪毎日新聞

猿芝居(五) 雨之助

▲三の字尽し

見ざる、言ざる、聞ざるの三匹猿が縁となつて、兎角猿殿には三の字の縁が深い。猿芝居の舞台も亦三間四方といふのが規定で、猿を使ふ男が手にする綱の長さも亦三間、左手(ゆんで)に持たる鞭の長さも亦三尺と極つて居る。君聞ずや、古人の狂歌「山王の桜に申の三下り其合の手はテテトテトテト」。昔から三でなくては夜が明けぬ。

▲二人で五人

通常の猿芝居では一時に太夫殿が二匹以上舞台に立現はれる事はないから、猿使も一座に二人以上居る事は滅多にない。けれども所謂大一座となると五人の猿使が必要で、一時に五匹までの太夫を舞台へ並べる事がある。白浪五人男の勢揃へなどが即ちソレだ。但しかくの如く大業に仕かけたところで、当今では余り見物もこれを買て呉ぬから、今ぢや三人と居る一座はない。今を去る四十七八年前、天王寺の庚申さんが六十一年目の開帳をした時、その境内で五人の猿廻しを使つて大一座の猿芝居を興行した。それが先づ最終で、その後はトント這麼(こんな)目覚しいのはないさうだ。

▲一座の仕込

猿芝居と言ても中々馬鹿にはならない。今新らしく一座を組織して道具、衣裳から太夫にも若手の四五枚買込ふとすると其費用、雑と五百円。これで以て興行を開始したところで、木戸銭は二銭以上取れぬ。紋日、もの日は別として平日は平均三百人の客は来ぬから、中々昼夜に十円の金子を上る事は六ケしい。その癖太夫以外に三度々々米の飯を喰ふ人間がチヨボ語り一人、囃子方二人、入ツしやい〳〵の木戸が二人、追廻しから肝腎の猿使ひ合せて六七名、雑と十二三人は必ず要る。支出多くして収入ソレに伴はぬ難義な興行物。追々猿芝居が減て行くのも道理至極と思はれる。と言て、分持興行をする訳には行ずサ、遂には此古雅な見世物も追々世に忘れられて亡びて行く事であらう。

▲太夫の病気

これは滅多にない。大抵は無病息災、天寿を全うして眠るが如くに相果てるのが多いけれど、中には時として疳を起し、手足が釣り上つて口からは涎を流し、何の事はない人間のヨイ〳〵同様となる奴がある。人間でも此病気にかゝると医薬の療養相叶はないのが多い、況んや畜生に於てをや。恁(こ)うなると如何な上手でも舞台へ出る事が出来ないから、是非なく廃物として唯看板に坐らして置くより外はない。勿論此看板猿に洋服を着せてシルクハツトを被らして置くと、通行人の七分迄は立止つて、珍らしさうに菓子や煎餅を呉れる。猿に取ては舞台に出るよりも余程結構だが、太夫元は一向結構でなく、邪魔物扱ひ、厄介物視して、食物も碌には与へぬから、貰ひものばかりでは生命が続かず、二月か三月で舞台をさる。イヤ、太夫が去つては猿芝居も之でおしまひ。(完)



明治42113日 大阪朝日新聞

寄席十種(八) 猿芝居

▲舞台の役者芋を頬張る▲清姫の河渡りぢやない綱渡り▲船頭船を冠(かぶ)る

舞台と云つたところで二坪程の板土間、役者に役モメもなければ道具の小言もあるまい。楽屋と云つたところで表の木戸口へ繋がれて歯を剥いてゐるだけのことで、一座の総員五匹の中、どれが座頭か女形か、人間の眼力では到底(とて)も分らぬ。観覧席は四民平等の大主義に則り、桟敷、追込みの差別なく、又ハイカラ主義にも則り、靴ばきのまゝ起(た)つて見られるといふ設備。

チヨン〳〵と芝居始まつて幕閉まる。閉まると申したところで心配には及ばぬ。表口の楽屋と舞台との間に閉まるので、見物と舞台とは初めから幕なしだ。

「安珍清姫河渡りの場」となり、頭上に囃子を浴せかけられ、隅の花道からチヨコ〳〵走りに出て来た船頭一匹、毛むくぢやの顔から手足、如何にも適(はま)り役と見た。楽屋から投げ出した一隻の渡し船は長さ二尺、猿引きが竹竿叩いたり、首に付けた紐をグイと引ぱるたんびに、持つたる櫂を上段下段と振り廻し、果は船に腰かけて眼を白く剥いて了(しま)つた、丁度腰一ぱいの船だ。
                              

さる 001


「坐ッたらドンならんがな太夫さん、あンばい出来たら褒美上げる、ソレ立つた」と猿引きが紐を引ぱると、心得たと立つて刎ね廻る。ところへ赤々の衣裳着けた清姫一匹、芋のヘタかなんかを頬張りながら、後(うしろ)の猿引きに宜(よろ)しく台詞を云はして置いて、捨石に腰かけたまでは無難の出来だが、清姫動(やや)もすると踞坐(あぐら)をかきたるが、船頭見るなり走り寄り、清姫の袖をキユッ〳〵と引ぱる。「それ中腰になりんか」と云はれて、櫂を突いて身構へると、渡してくれ、イヽや渡さぬの台詞よろしくある訳だが、役者は後(うしろ)を向き合つてポカンとしてゐる。

無念夢想の船頭は何時か櫂の先を清姫の顔に押し付けてゐた。清姫驚いたの何のッて、オイ戯談(じょうだん)ぢやないぜ、と道頓堀なら云ふとこだが、此處(ここ)の役者は温和(おとな)しい。スッとも云はず眼を光らして当惑顔、それに船頭は知らアん顔して外目の体に、遉(さす)がの清姫癪に障(さ)へ、顔に似ぬ黒い手をヌッと出すなり、櫂を掴んで突き飛ばす。船頭喫驚(びっくり)、シヤ物々しやと櫂をかなぐり捨て、狼狽(あわて)て船を頭にスッポリ冠(かぶ)り込み、眼が見えないので大騒ぎ。茲(ここ)を先途と走り廻ると、今度は清姫の方が知らアん顔して眼をパチクリ、天晴れ沈勇の振舞とある。

やがて清姫が這入り、役者変つて蛇体となり、鬼の面を額に載せた下からは正真の猿の面が見えるといふ妖怪変化の姿をもつて清姫の河渡りでお慰みならず、此處(ここ)は綱渡り、舞台の隅なる綱を伝うてツル〳〵上り、斎入其處(そこ)のけ宙返り廻転乃至ブラ下りと秘術を尽して御機嫌を取結ぶ。中にモウ厭ぢやと瞼を白くして歯を剥き出す。「モット遣りンか」と叱られて可哀想に又始める。其處(そこ)いらの親や師匠共にも之だけの躾は出来まいがナ。見習ひたくば千日前へ行け。(鯛屋)

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〈編者註〉「猿芝居」(雨之助)は「大阪毎日新聞」より、「寄席十種 猿芝居」は「大阪朝日新聞」より転載した。転載にあたり新たに段落を設け、句読点を追加し、明らかな誤字・脱字は訂正した。仮名遣いは現代と異なる部分が多く、読みづらいところもあるが、その当時のままにした。なお、本文中には今日の人権意識、人権擁護の立場に照らして差別的とされる語句が含まれるが、時代背景や文化状況を知るための資料であることを考慮し、原文のままで掲載した。




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猿芝居 二

  
  猿芝居の絵画資料


 猿芝居の絵画資料(報條・錦絵)として十二点確かめているが、その内で年代が確定できたのは以下の六点で、これらは「見世物興行年表」に掲げた。年代の確定できない分は「未確定」のファイルに挟んだままだったが、この機会に参考までに掲げておきたい。

<年代確定分>(画像省略)

①②③嘉永元年秋、江戸浅草奥山にて、猿と犬の曲芸。

≪大判錦絵二枚続・国芳画・西村屋与八板≫(『見世物関係資料コレクション目録』242379・左図/『見世物研究』
   210頁・右図)

「自嘉永元年春於浅草奥山興行」。「戌太夫新川白助・猿太夫早川徳松」。

≪報條・木版墨摺・叶豊年画≫(図録「大坂のキタとミナミ」22頁)

(表題)「犬猿曲渡」。「座本 太夫柳谷白助・早川徳松・柳谷玉吉」

≪報條・木版墨摺≫(『見世物関係資料コレクション目録』243383

「座本 太夫早川徳松・太夫柳谷白助、太夫早川福松、一流太夫柳谷玉吉」

「太夫本柳谷錦太郎・頭取柳谷橘蔵・セハ人麻野屋忠助」

④嘉永六年六月、安芸国(広島県)宮島にて綱なし猿芝居。

≪報條・木版墨摺≫(『宮島歌舞伎年代記』126頁)

(表題)「日本一流 太夫綱なし猿」。(袖)「嘉永六丑年六月市宮島芝居にて」(手書き)。太夫名なし。

⑤万延元年三月より、四国讃岐金毘羅にて猿と犬の芝居。

≪報條・木版墨摺≫(「讃岐見世物の広告刷に就て」)

(表題)なし。「座本玉本卯三郎、猿太夫玉本小靏、同玉本梅吉。犬太夫玉本長助、同玉本市助」。

⑥万延元年三月、江戸浅草奥山辰五郎諸色置場南にて、猿芝居。

 ≪報條・木版墨摺・芳艶画・海老屋林之助板≫(ボストン美術館蔵)

(表題)なし。(袖)「当ル三月中旬より浅草御境内奥山ニおいて興行仕候」。改印「申三月(万延元年三月)」。
  「勝見鶴之助・勝見花之助・勝見小吉」。

<年代未確定分>

①≪報條・木版墨摺≫(『見世物関係資料コレクション目録』243381
     

さる 008


(表題)なし。「座本 太夫 早川鶴之助・早川早之助・早川亀吉」。

画面に記された演目名は「つなわたり、道成寺、三番叟、きつねつり、日高川、獅子舞、鳴門」

②≪報條・木版墨摺≫(古書目録)
               

さる 011


(表題)「當季詠此所寄来」。「勝見梅の助・勝見市の助・勝見□の助・勝見若の助・勝見花の助」。「(不明)回向院ニ
  テ興行仕候」

③≪報條・木版墨摺≫(『見世物関係資料コレクション目録』3044136
            

さる 010


(表題)「犬猿芸」。「備中 太夫元 井上庄治郎」その他判読不可。

④≪報條・木版墨摺≫(『見世物関係資料コレクション目録』243382
                 

さる 006


(表題)「日本一流綱なし猿」。

画面に記された演目名は「勘平はら切、かねば、五右衛門かま入、日高川清姫道行、だん七九郎兵衛、かるかや同心、阿
  波鳴門、曲じゝ」

⑤⑥≪報條・木版墨摺≫(『大道芸と見世物』200頁・平凡社・1991年・上図/古書目録・下図)

(表題)「大坂下り 一流綱なしはなしづかい」。「太夫 山崎鶴之助・同こま吉・同つる吉、山さき桐之助」

〈編者註〉古書目録には右枠外に「二月廿五日より」、左枠外に「ふきや町川岸小芝居」とある。
         

さる 003

さる 005




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