仏教的世界観で諸相を観察する

政治経済・教育文化・医療のテーマに分けて観察します。

仮想通貨取引をめぐる混乱の中、テレビでの芸能人の発言が報道されていたが、これはアリなのか?

たむけん、仮想通貨で「もうかったら引退」目安は「2年後に100億」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180210-00000075-spnannex-ent

吉本系の芸能人を中心に仮想通貨のもうけ話(or世間話)をメディアを通じて、「なにげなく」発信している事例が相次いでいるようだが、こういった投資(投機)関連のお勧め的な話を垂れ流すのは問題があるのではないか。

自分が持っている投機運用をネタに「2年後に100億」などというのは、資産運用の営業トーク(かなり単純な)と選ぶところがないのではないか。

テレビでの発言はニュースとなって、さらにSNSで増幅分散される世の中なので、その影響力は予測不能だ。

投資関連の話は本来プロが責任をもってリスクとの兼ね合いに配慮しながら文書に沿って説明するのが筋であって、素人が儲かるからとか俺が持ってるからとか簡単に電波に乗せて発信してよい種類のものではない。

これが許されるのなら、テレビの人気者が自分が持っている資産に関して、それがお勧めである由を「なにげなく」宣伝することが可能になってしまう。

人気投信のポートフォリオを真似して運用するような手法は昔からあるが、誰か人気者(成功者)がやってることを真似したい、あやかりたい、という心理は人間一般に深く刻み込まれている。

この心理を利用した儲け話や便乗話は世の中にはあふれている。
「まだ間に合う」系の話に関しては、本来おおっぴろげになされるものではなく(でないと、「まだ間に合う」ではなくなる)、メンバーズオンリーな場でこっそりされるものだと考える方が妥当だろう。

テレビの芸能人の芸(なのか?)として、親しみやすく友達のように話す、というスキルがある。
投機関連の話をふと口にする芸人には、底意はなく、親しみやすさをアピールするために自分のやっていることを赤裸々に語る、という芸の一端を見せただけかもしれない。

そうだとしても、不特定多数の素人に十分な説明のないまま、投機関連の運用に誘導している、という事実は消せない。

雑誌や本でも儲け話や投機関連のものは多いが、これらのメディアは基本的にそういったものに興味がある人が手にするものであるのに対し、テレビでは不特定多数が受け手にまわる(しかも実数が桁違い)ので、影響力と危険度の次元が違う。

こういったトークを野放しにしてよいのか、議論があってしかるべきだと思う。


蛇足
基本的に、客観的ではない(学術的ではない)おカネの話はテレビではしてはいかんと思う。
自分の資産や他人の資産に関しては、家庭の事(オイコノミア=オイコス+ノミア=家庭+法則)であって、公(ポリス)の範疇には当たらない。
公然と語るべき様なものではない。



評論家の西部邁が亡くなって、メディア上に弔辞がいくつか掲載された。

亡くなった人に弔辞が届くはずもないので、失礼だのなんだのというのは全くのお門違いというのはわかるが、それでもやはりこれはいかんのではないか、と思わざるを得ない例がある。

週刊SPAに掲載された精神科医の香山リカ氏の弔辞がそれである。

「妻を失った高齢男性のサポートを真剣に考えるべき」というタイトルで、西部氏が自死を決意したのは「脳の少なくとも半分を陥没させる出来事」(西部氏自身の言による)たる妻の喪失がきっかけであった→高齢男性には妻を失ってダメになるケースが多い→だから周りでサポートをしてあげましょう、という展開だが、こういった故人の心理を推測するやり方は(故人に弁明のしようがない以上)、控えるべきではなかったかと思う。

確かに妻を失った高齢男性の衰弱はよく言われており、問題ではあるが、それはあくまで個人的な問題であり、社会問題として取り上げられるべきではないし、まして亡くなった評論家をこの種の問題の象徴として取り上げるのは、侮辱とまではいわないものの、気持ちのいいものではない。
(一体、自立への矜持を終生堅持した西部氏が妻の喪失を「社会的なサポート」によって代替することを諒とするだろうか。)

蛇足ながら、男性は何か(自分以外のもの)に奉仕することを存在理由にする傾向が強いので、その対象が神や国家や民族やイデオロギーでなければ妻に依拠してしまうことがままある。

なので、神や国家や民族やイデオロギーの代替に「社会的サポート」が当てはまらないのと同様、妻の代替にも当てはまらない。

江藤淳が自死の際「自ら処決して形骸を断ずる」と宣言したように、対象の喪失と病は生きる気力を失わしむに足るが、これは全くもって私的な領域に属する最後の事柄であり、社会が関与すべき領域ではない。

では、この絶対的私的領域の死に費やされるべき言葉はどのようなものになるのか。
それは他者の死と自分の死を同心円状に配置し、「俺もそうかもしれない」という視座から投げかけるようなものとなる。

2月2日に朝日新聞に掲載された佐伯啓思氏の投稿「いかに最期を迎えるか。自分なりの死の哲学は」がその好例で、ここでは佐伯氏は西部氏の死に触発されて自分はどうか、と問い詰める。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13341576.html

ここで、佐伯氏は香山氏とは全く逆の方向で死に対峙する。

つまり、絶対的に私的領域である「私の死」を「社会のサポート」からいかに救い出すか、という論点を提示し、放っておくと役所や医療福祉関係者、家族・親族等の意向によって囲い込まれ密閉される現代的な「私の死」の在り方に対して、ギリギリのところ(自死は言わない)をなぞるようにして、異議申し立てを行っている。

「私の死」にどう処するかには正解はないが、誰もが突き付けられる究極の問いであり、誰もが答えなければならない。
(「社会のサポート」を最大限利用して、どのような形でも生を永らえるのも一つの答えである。)

あるアンケートによると医師が一番望む死に方は「ガン」だそうだが、これは死期が分かりやすい=「社会的サポート」をコントロールしやすい、からだそうで、それはそういうものだとは思う。
(最も現場に詳しい医療者の多数意見だというところが興味深い。)

ある意味、「社会的サポート」からいかに逃れるかが問われているが、これは逆説的に現代社会の制御しきれない権力の姿を映し出している。








WHO(世界保健機関)がゲームのやりすぎ(による依存)を疾病指定した、というニュースが年明けにリリースされ、一時期話題になった。

すぐに飽きられたのか、あっという間表に出てこなくなったが、これはもう少し深堀すべき問題なのではないか。

問題の論点は一つに集約できる。

「やりすぎは病気か」という論点である。

WHOの定義によれば、ゲームにかける時間をコントロールできずに日常生活に支障をきたす事態が12ヵ月以上続いた場合、疾病に指定される。(https://icd.who.int/dev11/l-m/en#/http%3a%2f%2fid.who.int%2ficd%2fentity%2f1448597234

さて、このモデルが疾病の定義に導入できるとすれば、読書や山登りやキャバクラ通いは同じように疾病の指定対象となるのか、という論点が提起されうる。

四六時中、山のことばかり考えている人はいるし、私自身、若いころはハヤカワのSFやミステリを中心に本を手放せずに睡眠時間を削っていた時期があったし、キャバクラ通いはまあ、どうかな、前の会社の社長はそんな感じだったなあ。

寝食を忘れて没頭する、という状態は全てやりすぎ(→依存)である、という考えが肯定されるのなら、WHOは今後様々なバリエーションを導入しなければいけませんね、で一件落着、終了と相成る。

一方、依存かどうかは行動の在り方によって変わる(ゲームは依存であり、読書は依存ではない)、とした場合、依存か依存でないか、と区別する基準は何なのか、という新たな問題が生じる。

実際、一般的にはゲームは依存といえても、読書は依存とはいわない、とする風潮がかなり強いと思われる。
私が学校薬剤師をやっている中学校でも学校保健アンケートで、一日のゲーム時間の制限を促す項目はあるが、読書時間の制限を促す項目はない。

ゲームと読書では一体何がどう違うのか。

読書は教育的だが、ゲームは教育的ではない、という指摘には、ただの時間つぶしにしかならない小説は山とあるし、クリエイティブなゲーム体験は珍しいものではない、という反論が可能だ。

また、課金制のゲームは際限なく金銭を消耗するのに対して、書籍代はそこまで金がかからない、という指摘もあるだろう。しかし、この問題点は政治的に解決可能な単なる制度上の課題なので、行動の本質に関連する疾病指定のカテゴリーには該当しない。

両者の違いを分別する基準を見出すのは、意外に難しい。

それでもやや強引にその基準をつくるとすれば、受け取る情報量の多寡及び刺激の強化といえるだろうか。

読書(文字)で得られる情報量はゲーム(動画)で得られる情報量よりも少ない。文字で得た情報がいったん脳内で再構成されて意味を見出していく読書に比べ、ゲーム画面において光、音、形状認識が次から次へと提示される情報の波は、脳内でその意味をまとめる作業を必要としない。
(行間を読む、という作業はゲームにおいてはあまり必要としない。)

言い換えれば、脳が刺激される強さ(情報量)が違う。

刺激の強いゲームは、脳内作業を自律的というより他律的に促進するので、依存になりやすい。or行動がループしやすい。orやめる、という自律的な規制がかかりにくい。

と、いちおうは説明ができるが、これも一面的な解釈に過ぎない。

ゲームでも脳内作業を自律的に促進する(創造力が刺激される)ものもあるし、本でもただ単にもともと身体的にビルトインされたありがちなストーリーを自動的に消化するだけのものもある。

ゲーム的なものが依存しやすく、読書的なものは依存しにくい、という程度が妥当なのではないかと思う。

山登りやキャバクラは依存的か否か、はそれぞれ自然との関係性、人間(表情)との関係性から読み解くことが可能だが、ここでは割愛する。(キャバクラの案件の方が面白そうだ。)


蛇足1

仏教の修行項目である戒、定、慧、いわゆる三学は、刺激の極小な状態で心の平安を得る方法論だが、依存症の対策には良いのではないか、と思う。

蛇足2

ゲーム的なものだとか読書的なもの、あるいは日常生活の破たんとかいった概念は量的に測定するのは難しい。WHOのいう12ヵ月以上なる数字には根拠がないし、例えば20%以上の日常生活の破たんを疾病とする、といった定義は不可能だ。

こういった精神的・環境的な状況に左右される質的な問題(依存的な事態とそうではない事態は、自然物に対した時、紺色と群青色をどこで見分けるかという問題と似ている)は、モデル化・計量化が当てはまらない種類のテーマである。
それにもかかわらず、強引に科学的方法論を当てはめようとする状況は非常に現代的であり、このようなあり様は他にも様々な分野(医療・経済学・公共事業等)で見られる。

大変興味深い問題だが、他に客観的に評価する手段を人間は持たないので、仕方がないともいえる。









座間の連続殺人事件はその残虐性において日本の犯罪史上特異なケースであったが、使われた二つの手段は割合一般的なものだった。

一つはアクセスの手段としてのツイッター、もう一つは殺害の手段としての睡眠薬である。

ツイッターの悪用は、またぞろ「ネットの闇」といった根拠の薄い原因つぶしの一環として、政府が規制に入るという話もあるが、そもそもこれは双方向のコミュニケーション手段なので、一方向に原因(根拠)を求めるのは不適切だろう。出す方と受ける方両方がそろってコミュニケーションが発生する装置なので、原因は一方向にあるわけではない。

一方、睡眠薬は受ける方に知られずに一方向的に影響(意識の混濁)を受け手に与えることができる、という意味で犯罪の原因としては強い根拠をもつ。
 
実際、この手段は犯罪によく利用されている。

最近だけ見ても、10月に和歌山の新宮市で睡眠薬で意識の混濁した女性を殺害した事件、9月に埼玉で睡眠を使ったわいせつ事件、8月に大阪堺で睡眠薬を使った少年グループによる交通事故、7月に千葉で睡眠薬入りのお茶を飲ませた殺人未遂事件、とざっと見だけで、出るわ出るわ。

当然、これらの事件は氷山の一角で、睡眠薬を使った新聞沙汰にならない事件(トラブル)は山のようにあると考えられる。
(特に泣き寝入り確率の高い暴行・強姦事件に使われている可能性は高い。匿名掲示板でもそのような報告は多い。)

これ(睡眠薬の悪用)を規制することは可能だろうか。

睡眠薬はほとんどが医師の処方が必要な医療用医薬品だが、これが適切に使われずに、犯罪の補助に悪用されている。

睡眠薬の処方は客観的な検査値によらない操作的診断によってなされるので、患者の言いなりで出してしまう面はどうしても残ってしまう。
「どうしても眠れないです。」と言われれば、それをブラフかどうか見抜く客観的な手段はない。

従って、規制の方向は処方された後のフォローアップにならざるを得ない。

処方毎に睡眠の質は改善しているのか、改善するための手段はとっているのか、他に(泌尿器疾患などの)原因はないか、などとしつこく聞くことで、患者(あるいは偽装患者)の睡眠薬使用の適正化を促すことは、ある程度は可能だろう。

いったん処方されれば何の障壁もなく楽に手に入れられるという状況が乱用や悪用を生むのは、何も睡眠薬に限ったことではないが、こういった犯罪につながるような薬剤の場合は、一層慎重に扱う必要があると思われる。

実際、薬剤師としてカウンター越しにやり取りしていて、さすがに犯罪に使っているとは思えないが、依存に陥っているとみられるケースは珍しくない頻度で見られる。
(そのように感じる場合はできるだけインタビューを密にして、フォローアップに力を入れる。)

クリニックでスクリーニングできないなら(実際難しいと思う)、薬局がフォローして、適正使用を促進する方向で積極的に介入すべきだと思うが、いかがなものか。

そうした場合、問題(偽装)患者は「難しくない、簡単に出してくれる」薬局に集まることが考えられるが、そのような薬局は規制でひっかければよい。

この事件の教訓を生かすとすれば、ツイッターの規制は犯罪抑止として不合理、睡眠薬の規制は合理的だがフォロー面でしか不可能、という地点に落ち着くしかないと思う。

哲学の先生を呼んで、哲学書についてわかりやすく解説してもらい、その後議論する、という会に月に一回程度、ここ3年くらい参加している。

昨日は選挙前ということもあって、ハンナ・アーレントが専門の三浦隆弘氏を招き、「選ぶとは何か」というテーマで議論した。(京橋プラザ区民館 18時30分~)

色々と論点が出たが、多くはそもそも解決不可能ではないか、と思われる批判に堕してしまったように思える。
(まあ、別に解決する必要もないのですがね。)

まず、多くの人が思っているが、特に解決策もない問題、政治家の言葉が軽すぎる、という論点は、言葉の伝わりやすさと精度が両立しない、勢い人気商売の業界では前者が重視される、との説明が大勢だが、じゃあでも、精度の高い言葉を駆使すればより良い選択が可能なのか、という新たな問題にはニヒリズムをもって答えるしかない。

つまり、問題の奥行きを見定めることができない以上、正しい選択は幻想にすぎない。
いくら精度の高い言葉で問題を十全に理解したうえで投票したとしても、それが正解かどうかなんてわかりっこない。

専門家はその局面において正しい選択をすることは可能かもしれないが、これだけ社会が複雑化してしまうと、どの因子がどう結果に結びつくかを正確に把握することは多分誰にもできない。

例えば、未来予測は2年をスパンにとるか、10年をスパンにとるかで正解の選択が変わることがある。ましてその間に起こる不測の事態を考慮にいれることは、神でもない限り不可能だ。
(したがって、実績の評価も怪しい。たまたまその時の状況でそういう結果だったということができるからだ。)

じゃあ、人は何を基準に選択しているのか。
正しいから選択するのではなく、それ(人でも信念でもよい)に賭けることができると踏んで投票する。

自分にとってベットできる価値を見つけられると、喜んでそれに投票する。
(新しい価値が出現すると、その都度「風」が吹く。)

しかし、しばしばその価値は裏切られ、より深刻なニヒリズムが浸透する。

このサイクルから抜け出すためには、その価値が完全に裏切られる前にチェックできるシステムがなければならない、つまり、選挙が終わった後もなんらかの国民の意思を示す機会がなければならないのではないか、という主張に発展するのだが・・・。
(世論調査やデモといったツールがないわけではないが、個別の案件に関しては緻密な影響力に欠ける。)

これをきちんとやってるのが、業界団体(利益団体)で、団体の主張を政治に通すための回路として代議士を利用し(ちゃんと業界団体に定期報告する)、代議士はその見返りに票数を期待する、というwinwinの関係ができている。

翻って、利益がはっきりと(主に金銭面で)共有できないような問題(子育て、社会福祉、教育、移民、外交等)については、なかなか利益団体のような動きをとれる組織をつくることはできない。

従って、結局のところ、賭ける価値の見当たらない選挙では、団体組織票を固められる党が勝つのは当然の成り行きで、チェックできる組織がない問題については、選挙が終わった後はお任せするより仕方がない。

(今回の希望の党の価値は仕手株並みに激しく動いた。それでもまだ賭けてみたいと思う人は少しはいるだろうけど。)

本当はみんな賭けをしたいのだけど、賭けるに値する価値が見当たらない、というのが選挙に対するニヒリズムの正体ではないか。

蛇足
宗教票が強いのは賭ける価値が100%固定されているからだ。それはそれでまあ立派な投票だとは思う。

昭和44年生まれの筆者はむろん、戦争を知らない。

映画や本で知る戦争は大抵が20世紀の戦争で、そこでは前線と銃後が明確に分かたれている。
銃後が戦場になるのは前線が破られた後に限られ、そこには時間的なラグが必ずある。

ところが、21世紀の大規模戦争には前線も銃後もないようにみえる。大量殺害が可能なミサイルの射程距離は、特定の戦場のスケールをはるかに超える。破壊対象には民間人、軍人の別はないので、国防問題は国家の問題のみならず直接時間的に家庭の問題にもなる。

したがって、この問題の行先を考えておくことは、一般人にとっても必要なのではないかと思う。

家庭の防衛としては物理的には核シェルターが選択肢になるだろう。

スイスのように自宅への核シェルター設置を法的に義務付けている国は少ないものの、シェルターの普及率は北欧ほぼ100%、米露80%、イギリス70%とかなり普及している。(日本核シェルター協会HPより)
翻って、日本の普及率0.002%は極端に低いが、現下の北朝鮮情勢を踏まえると、何らかの対策が必要となる事態に至る確率は低くないように思える。
(まあ現状で、実際設置するのはお金もちだけでしょうけど。)

政治的な展開については先読みが難しいが、10日の小野寺防衛相の発言(以下)は一定の示唆を与えるものと考えられる。

「北朝鮮は脅威となる核兵器をもっていると考えざるを得ない。」
同じ記者会見で、
「北朝鮮を核保有国と認めるわけにはいかない。」

つまり、北朝鮮は核拡散防止条約には批准していないが、核保有国である、と認識している、というのが政府の正式見解であるらしい。

したがって、今後の外交の少なくとも片方の軸は、パキスタンのそれと同様に核兵器を拡散させない方向に向かうが、これは普通に考えて非常に難しい課題だと思う。

最も警戒されている北朝鮮とイランの核技術の提携に関しては度々噂にはなるが、確度の高い詳しいニュースはなかなか出てこない。
直近では、この8月に北朝鮮のナンバー2の金永南氏が多数の核技術者を引き連れて、テヘランを10日間訪問し、最高指導者のアリ・ハメネイ師らと会談をもった、との米NBCの報道があったが、詳しくはわかっていない。

民主党のシャーマン下院議員が昨年の公聴会で、「(北朝鮮の特別機が)領空を飛行している中国政府に、臨検を要請できないか」と国務省高官に問いただしているくらい、米政府も情報収集に苦労しているらしい。
(むしろイスラエルの情報機関のほうがそのあたりは詳しい。直近では主に核弾頭の小型化技術が北朝鮮からイランに、濃縮ウラン製造の遠心分離技術がイランから北朝鮮に提供されている、とのことだが。)

核兵器拡散のもう一つの懸念は韓国だが、ここは民生用の原子力技術を保有しているので、いざとなれば18カ月で核武装できるといわれている。(スウェーデン安全保障開発政策研究所 リーサンス 「選択」9月号)

韓国の核武装は国際関係上の難題を抱えることになるが、米国が追い詰められて米朝二国間協議(韓国はまあいっか的な)など始めようものなら、韓国はなりふり構っていられなくなるのが必定だとみられる。
(限られた時間内で単独で北に対応するためには、韓国に残っている選択肢は核武装しかない。)

米朝二国間協議→韓国核武装の懸念となると、日本の核武装論も現実味を帯びてくる。
(ここに至って、シェルターの需要はもう一段階上がる。)

これらのシナリオが進行する可能性の程度は予測不可能だが、政府には情報収集と対応策の複数プランくらいは想定しておいてほしいものだとは思う。

さて、今後の展開のもう片方の軸は、北朝鮮の核が米国を射程内に収めた時(or確度が高くなった時)の対応だが、これは時間の問題だとみられる。
米国はこのような事態に至らないように、あらゆる外交策を講じるだろうが、中ロイランなどの関係各国の動きを予測できる程度の情報収集すらうまくいっていない状態では、無理筋だと思われる。

あらゆる外交策が詰んでしまった場合、北朝鮮の核に首根っこをつかまれる事態はどうしても避けたいトランプ政権がどのような対応に出るのかは、誰もわからない。
極論は限定的な空爆か全面戦争かの選択肢になるが、結果的にはこの二つの選択肢に大した違いはない。

日本政府にはできれば、そこに至らないようにあらゆる事態を想定したプランを練っておいてほしいものだ。
(北朝鮮を核保有疑惑国としてうやむやに済ませられれば、上出来。)

まあ、事が至れば、北のミサイル、難民大量流入、工作員テロなど予測不可能な事態が頻発し、政府云々は関係なく自分と家族は自分で守ることになるんでしょうけど。








著名youtuberのヒカル氏らが個人の価値を株式に見立て売買する「VALU」で、高騰を煽って実は売り抜けていたことを受けて、ある種のインサイダー取引に当たるのではないかと批判されている。

事件の顛末や合法性については不明点が多く(そもそもビットコインを利用した価値の取引などといったものを法が想定していたとは思えない)、youtuber界隈の事情にもとんと不案内なので、この案件自体にコメントする立場ではないが、事件後のヒカル氏の謝罪?ツイートの志向性(=この人にとっては何が有意味なのか)に興味をひかれたので考察してみた。

事件後ツイートの抜粋は以下の通り。

もともと自分たちの価値を比べて、誰が一番価値のある人間かを競う。という動画の企画として考えていただけで、僕たちは一切VALUで利益を得るつもりはありません。
・・・(中略)
僕はわざわざ数千万(円)のために自分の信用を落とすような小銭稼ぎはしません。

価値を比べるには、指標が必要だが、この場合はどれくらいファンに買ってもらえたか、という金銭の量がそれにあたる。
AKBの選挙などもこの類型に当たるので、こういったやり方は現在、最も勢いのある評価手法なのかもしれない。

この件で問題にされているのは、煽ってファンに買わせ高騰させた価値を自分たちだけが売り抜けるというスキームが、(意図は別にして)計画可能なゆえに信用を落とすことになってしまった点である。
なので、数千万のために信用を落とすようなことをしない、というコメントは少なくとも予見可能な結果を見誤ったという意味を含意しており、信用を回復できるようなレベルのものではないといえる。
(ふつうに予見可能な結果を見誤る人を信用できるだろうか。)

それはそうと、金銭の量によって信用の価値が決まる、という考えは今や広く一般に受け入れられている感があるが、全てがそうではない、という点に留意しなければならないのではないかと思う。

ビートたけしがどこかのエッセイでこんなことを書いていた。
銀座の高級バーに行くと超金持ちたちがいるが、彼らには欲しいモノはもはやなにもない。しかし、喉から手が出るくらいほしいものが一つある。名声だ。たけしさんの名声を買えるなら何億でも出す、と言われたよ・・・云々。

名声の価値は金銭で必ずしも計測できるものではない。

ヒカル氏の価値はコンテンツを媒介としてyoutuber視聴者という枠内で流通している分には問題なかった。(そして名声もその枠内で収まる)
それが疑似株式の取引という錬金システムをコンテンツとして消費しようとした時点で、金銭を稼ぐ方法論が従来のファンの消費形態を超えてしまい、システムそのものの公平性という観点から批判の火を浴びることになった。

価値を高めて名声を得るのは能力の範囲内でやっていれば問題ないが、手に余る領域にまで進出するとしっぺ返しを食らう。
これは金銭だけの問題では片付かない。
(この点、自分のファンの範囲を限定しメルマガで稼ぐというやり方は、リスクの少ないうまい方法だ。)

極めて広範囲の名声、あるいは影響力の大きい名声を得るためには金銭はパワー不足だ。

いくら稼いでもパチンコチェーンのオーナーが本物の名声を得ることはないが、一介のサラリーマンでもノーベル賞をとれば死ぬまで名声は約束される。
相当年齢の2~3%しか大学に行けなかった明治時代には大学生(帝大生)は一般に敬意の対象だったが、カネをつめば誰でも入れる今の大学生に敬意を抱く人間はあまりいない。

あるいは名声には質がある、といってもいいだろう。

数万人に影響力があり年収億越えのyoutuberとカンヌやベネチアのカーペットの上で記念撮影するビートたけしと数十人しか知らないが永井荷風の研究については押しも押されもせぬ市井の大物好事家では、誰がどれだけ価値があるとは言えないと思う。

要は身の丈に合った価値に納得できていればよい。

youtuber氏もファンを相手にコツコツコンテンツをつくって喜ばれていれば、それが職業冥利につきるわけで、変にビジネスを拡大しようとか野心を持たない方がいいんじゃないかと思う。

それはそれでそういうのが得意な人がキッチリやればいいことで、その人が信用できるかできないかの判断は自己責任ですがね。







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