仏教的世界観で諸相を観察する

政治経済・教育文化・医療のテーマに分けて観察します。

2017年9月に精神科の外来診療で患者の自殺に対する開業医の責任をみとめ、損害賠償1250万円の支払いを命じた判決が高裁で下された。(日経メディカル

過去の判決では、入院患者の自殺で病院の管理体制の不備を問われるケースはあったが、外来患者が自殺した事例で医療側の責任が認められた例は(特殊な例を除き)ない。

本件は上告中なので、最終的な判決はわからないが、外来患者の自殺に対して医師が責任を負うべきだ、という今回の高裁判断は画期的だといえる。

判決内容をみると、投与薬物の増量及び入院措置を講じるタイミングが不適切であったことが、医師側の責任根拠として挙げられている。医師側は入院の選択肢は患者(家族)に提示しているし、薬物量の調整も適切であった、と反論しているが、注意義務違反は逃れられなかった。

同記事で紹介されたベテラン精神科医(匿名)のコメントを借りるなら、「今回のケースは入院の選択肢を患者家族に提示しているし、投薬内容も問題ないように見える。」

精神科領域で治療効果の範囲を明確にするのは難しい。
例えば、片足がもげた状態で放っておけば失血死するのは明白だが、「死にたい」ともらす患者が本当に死ぬのかどうかを(あるいは、治療でどの程度死にたい度を下げられるのか、どの程度死にたい度を下げれば実際に死なないのかを)薬物の依存・副作用と天秤にかけて判断するのは、相当に困難だと思われる。

よって、この高裁判断は少し無理筋だと考えられる、というのが一つの結論ではあるが、本エントリの提起する問題はこの点ではない。

実はこの日経メディカルの記事は9月18日に発信されているが、28日に修正がかかり、「患者のプライバシーに配慮して」一部記事が削除されている。

削除されていた点はこの患者が中国籍であり、自殺の前のやりとりも中国(家族)と日本(医師)でのメールで行われていた、というところである。

精神科領域の案件は(患者が被る可能性のある不利益を考慮すると)プライバシーに特段に配慮する必要があるし、患者の例えば出身県は普通は書かないのに国籍は書く必要があるのか、という意見は一方にはあるだろうし、また、外国籍の患者が帰国後に起きたイベントで日本の医療水準のサービスと補償を全面的に適応されるうるのかどうか、それが妥当なのか、という問題提起もあるだろう。

医は仁術という医療の理想はあるものの、医療制度が複雑化し、逆に情報がフラット化した現代ではサービス水準と補償の程度がどの患者にとって選択可能なのか、というあまり見たくない線引きの問題にも目を向けなければならないのではないか、と思う。



「まさにフェアプレー(ポイント)が突破を決めたことで、フェアプレーに欠けたこの試合は記憶に残されるだろう。」
(ガゼッタ・デロ・スポルト/イタリア)
「フェアプレー制度は日本に対して優位に働いた。しかし、日本はフェアプレーを尊重しなかった。日本はこれまで最もファウルの少ない(クリーンな)国だが、(この試合で)全ての証明書を失った。」(マルカ/スペイン)
「日本はワールドカップ史上初めて、フェアプレー基準によって決勝トーナメントに勝ち進み、目標は達成された。しかし、皮肉なことに日本は反フェアプレーで勝ち上がった。」(グローボ/ブラジル)
「日本はポーランドに敗れたにもかかわらず、ベスト16にこっそり忍び込んだ。」(ガーディアン/イギリス)

ワールドカップでグループリーグ勝ち抜けを決めた日本に対する批判はおおむね、ポーランド戦の残り10分をゲームに勝つ意欲を持たないまま進めたことが「フェアプレーに反する行為」に相当する、という考えに基づいている。

国際サッカー連盟(FIFA)のフットボール行動規範には
「勝つためにプレーする。勝利はあらゆる試合のプレーする目的です。負けを目指してはいけません。もしも勝つためにプレーしないのならば、あなたは相手をだまし、見ている観客を欺き、そして自分自身に嘘をついています。」
という文言があるようだが、日本の最後10分のゲームプランは確かにこの行動規範に反しているように見える。

従って、海外の報道機関が日本のゲームプランに対して、フェアプレーにもとると批判するのは理解できる。

一方で、日本の側から見れば、「(局地戦ではなく)勝ち残りのために勝利を目指した最善手を打った。」と反論することは可能だし、これがフェアプレーに反することか問いかけることもまた可能だし、そうすべきなのではないか、と思う。

あの時点で、日本に効果的な攻め手がなく、ポーランドのカウンターに日本の守備網が後手を踏んでいたのは明らかであり、また、別会場でのセネガル攻撃陣の空回り具合を鑑みると、純粋にGL勝ち抜けの可能性としてあのようなプランを選択したのは、非合理的ではない。

従って、日本側から見れば、局地戦をしっかり負けることで生き残り(真の勝利)を目指す、というプランは「勝利を目指さない」わけでもなく、「自分自身に嘘をついている」わけでもない。
生き残り(真の勝利)の可能性を低くしても、局地戦で(いわゆる)フェアプレーを目指すという選択もありだが、この問いに答えるのはどこの国の監督でも難しいだろう。

西野監督はフェアプレーを目指さなかったわけではなく、状況によって勝利の目的地を変更したことで手段も変えざるを得なかった。
まさに苦渋の選択ではあるが、これは目的を設定し、手段をルールに従って実行した、なおかつ相手(ポーランド)にも選択権のあるオペレーションであり、イエローカードの対象となるレイトタックルや試合中の暴言と同じ次元に位置づけることはできない。

例えば故意に脚を削りに行くようなプレーと今回の日本のプランが同じようにフェアーではない、というのはさすがに無理がある。

今回の日本のプランをフェアプレーポイントにカウントされる警告と同列にしてアンフェア―だとする海外紙の意見も見られるが、内実は違う。

西野監督は批判に対しては、変に謝罪するのではなく、GL勝ち抜けを目指して打った最善手がフェアプレーではないのか、引き分け狙いを含めてどこまでがフェアプレーなのか、キッチリ問題提起してもらいたい。










財務省の福田元事務次官によるテレ朝女性記者に対するセクハラ疑惑が話題になっている。

アダム・スミス以来、社会の成り立ちは一般的諸法則が正義に適応された法を土台とし、善行/慈善(beneficence)が「飾り」として組み入れられる形態をとる、とされる。(「道徳感情論」より)

殺人や窃盗など単純な結果によって罪が判定できる法による秩序が社会の基盤であることは確かではあるが、かといって(スミスの時代はともかく)現代は善行がただの「飾り」として打ち捨てられるような時代ではない。

善行(受け手の快くないことの消極的な禁止or受け手の感謝の促進)もまた秩序の一翼を担わなければならない。

一般にハラスメントという行動型が法で縛られるようなものではなく、善行の領域に属す理由は、その行為の是非が単純な結果ではなく、人間の気持ちという不定形の心理的事情に左右されるからだが(例:相思相愛の不倫は是とされる)、もう一歩メタレベルでみると、秩序を損なう行為と判定できる場合がある。

今回のケースでいうと、この判定の被告に当たるのがテレビ朝日である。

セクハラのやっかいな行動型を類型化してみる。

主体側が同じ行為(①)をしたとしても、受け手側の心理(②)とその後引き起こされた行為(③)の結果によって、ハラスメントの是非は変わってくる。

①→②への連絡は、当事者間の関係性によって変わる。(相思相愛の不倫は大抵この②で止まる。)
②→③への連絡は、受け手側の主体性によって結果が変わる。(泣き寝入りのケースは③にいかない。)

例えば、美人局などハニートラップの手法が使われるケースでは、①→②は②→③のためにあらかじめ準備された装置であって、①はシナリオの一部でしかない。

①(誘惑/性行為)→②(想定内)→③(準備された不義の告発/予想された情報の入手)

本当のセクハラと認定されるには、①→②→③が(相思相愛でも準備されたシナリオでもないと)説得力のある形をとる必要があるが、これはなかなか難しい。

まず①を証明するために音や映像の証拠がいる。
次に①→②を明らかにするために、本来は私的行為(感情)であるべきものを白日の下にさらさなければならない。
最後に②→③の手段は、マスコミネタとなるような場合、何らかの功利的側面を不可避的に伴ってしまうため、ハニートラップとの分別が困難になってしまう。

2015年に起きた伊藤詩織さんのケースは、山口氏が相思相愛(というか同意)説を主張し、一部ネット上ではハニートラップ説がまことしやかにささやかれるなど、セクハラを証拠立てることの困難さを物語っている。
(この事案に関しては山口氏がコンドームをつけていなかった、という一点においても同意はなかったと断定できる。また、この頃からすでに官僚(警察庁の中村氏)の現政権への忖度があったことは記憶されてしかるべきだ。)

さて、今回のケースでは、女性記者が事務次官から情報を引き出すためにあらかじめ(所属先のテレビ局が本人の同意を得ずに)用意したシナリオに沿ったというハニートラップ説が言われているが、マスコミ業界の慣例としてそういうやり口が横行しているという側面と考え合わせると、説得力はある。

この場合、①→②→③という流れの問題ではなく、このサイクルを効率よく回すための仕組みが業界に出来上がっているということになるので、これはもはや「飾り」の領域を超えて社会の「土台」に侵食している事案だと判断できる。

政府の公表前の情報が色仕掛けによって無理やり特定のマスコミに漏らされる、というスキームが定型化している有様は、善行(=国民の利益の増進)の領分ではなく、正義(=国民/記者を傷つける行為を行わない)を犯す事態に至っているといってよいだろう。

このハニートラップ・サイクルを社の利益のためにあらかじめ準備し、機能させていることを明らかにするためには、マスコミ自身が自らやり口をさらさねばならない。

しかしこういった取材手法の公表は、皮肉なことに現状では善行(=受け手に感謝を促す行為)の領分であって、法的拘束力のある正義を犯す(=受け手を憤慨させる行為を禁止する)領分ではない。

なので、あまり期待はできないが、社会の公器たる報道機関には自らの在り方を検証する良識を発揮してもらいたいものである。

なお、①→②→③の流れの中の問題は、事務次官の首が飛んで一旦終わりということになりそうだが、セクハラの可否は後日裁判で争われるようだ。










2015年、16年に財務省近畿財務局が作成した決裁文書と17年2月の土地払い下げ問題発覚後に財務省が国会議員らに提出した決裁文書に齟齬があったにもかかわらず、この書き換えられた文書をもとに国会審議が行われてきたのは、議院内閣制の根幹を揺るがす大事件だ!、という展開で、大騒ぎな昨今ではありますが。

これって、単に財務職員の心理学上の問題じゃないの?

まずもって、これは現状の法制上、刑罰の対象の類になるような案件ではない。朝日が認めるように、現行の公文書管理法では「意思決定の過程・事務を合理的に跡づけ、検証することができるよう公文書の作成を行政機関に義務付ける」という規定はあるものの、これはいわば努力義務であって、罰則規定はない。

また、「特例的な内容」や「本件の特殊性」などの文言の削除や複数の政治家の行動についての記述がなくなっていたりするが、こういった変更が本件の払い下げに関して重大な影響を及ぼしたという証明はできない。

最後に、政権側からの(明示的ではない)圧力が官僚の行動を捻じ曲げた、けしからん、という論点で、現状、これが最も広く取り上げられているように見える。

しかし、この論点には終わりはない。心理学が証明も反証もできないように。
書き換えた官僚(あるいはそれを命じた官僚)が、政権側から圧力を受けましたと証言した場合、その圧力の中身を明示する必要があるうえに、その明示された証拠が圧力として十分機能したと納得させられるものでなければならない。

通常のパワーハラスメントの場合、まず上長や同僚に対してパワハラの中止を求める交渉をする必要がある。(なぜなら彼らには自覚がない場合があるから)
それでもやめない場合は、音声録音や書き取りの記録を作って証拠を積み上げる。パワハラを受けていることを証言できる第三者に陳述書を書いてもらう。
等の手続きを経て(あるいは手続きの最中に)、弁護士に相談するのが筋ではある。

本件の官僚がこういった手続きをできるとは思われない以上、通常のパワハラとして圧力を証明できる可能性は低い。

なので、結局、残るのは暴走するまで官僚を心理的に追い詰めた政権、という筋書きだが、これはいかにも無理筋だ。
例えば、政治主導による人事の掌握が官僚を心理的に追い詰めた、などともっともらしいストーリーをこしらえたとしても、じゃあ、人事の主導権をどの程度どちらかに差配すればどの程度官僚の心理は追い詰められないのか、といった、なんとも得体のしれない泥沼にはまってしまう。

今、攻勢側にたっている野党やマスコミはどういう出口戦略をもっているのかわからないが、簡単にはいかないだろう。大騒ぎした以上、その成果も見合うのもでなければ、結局から騒ぎだったという落胆・失望・虚脱をまき散らすことになり、微妙に敵意の充満した無関心は自分のところに跳ね返ってくることになる。

議院内閣制の根幹を揺るがす大事件の始末が結局のところ、官僚の心理学だったとすれば、これほどむなしいものはない。こんなことのために国会を空転させたのは何だったのか、ということになる。

官僚の心理学以上のものに結果を結ぶためには、この問題が(一時的、突発的ではなく)構造的で、なおかつ改善可能な糸口の見える状態である必要があるが、今のところそういう風には見えない。

筆者は安倍政権の「存在の耐えられない軽さ」に批判的な立場であるが、今回の件は野党やマスコミが軽すぎるように感じる。

とはいえ、安倍総理の軽さも相変わらずで、即座に「行政全体の信頼を揺るがせかねない事態であり、行政の長として責任を痛感している。国民の皆様に深くお詫びしたい」などと反応してしまっては、ABCに「This is a situation in which the whole Government could lose trust. Mr.Abe said.」などと書かれてしまうわけで。

今回の問題が構造的なもの、組織ぐるみであることが証明できない限りは、安易に政府全体あるいは日本の議院内閣制をdisるのは控えたほうが良い、というか妥当、というか、正しいと思う。

いろいろと政治家のコメントが出ているが、最も適切なのが意外に小沢一郎のそれ(の一部)で、最後に引用しとく。
「政界だけでなく、官界も劣化している。こんなことを言われて従うような官僚では困る。」(愛知県連のパーティで。)

「こんなこと」を言われたかどうかわからないが、筋を曲げてつじつまを合わせようとするような官僚はいらない。






仮想通貨取引をめぐる混乱の中、テレビでの芸能人の発言が報道されていたが、これはアリなのか?

たむけん、仮想通貨で「もうかったら引退」目安は「2年後に100億」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180210-00000075-spnannex-ent

吉本系の芸能人を中心に仮想通貨のもうけ話(or世間話)をメディアを通じて、「なにげなく」発信している事例が相次いでいるようだが、こういった投資(投機)関連のお勧め的な話を垂れ流すのは問題があるのではないか。

自分が持っている投機運用をネタに「2年後に100億」などというのは、資産運用の営業トーク(かなり単純な)と選ぶところがないのではないか。

テレビでの発言はニュースとなって、さらにSNSで増幅分散される世の中なので、その影響力は予測不能だ。

投資関連の話は本来プロが責任をもってリスクとの兼ね合いに配慮しながら文書に沿って説明するのが筋であって、素人が儲かるからとか俺が持ってるからとか簡単に電波に乗せて発信してよい種類のものではない。

これが許されるのなら、テレビの人気者が自分が持っている資産に関して、それがお勧めである由を「なにげなく」宣伝することが可能になってしまう。

人気投信のポートフォリオを真似して運用するような手法は昔からあるが、誰か人気者(成功者)がやってることを真似したい、あやかりたい、という心理は人間一般に深く刻み込まれている。

この心理を利用した儲け話や便乗話は世の中にはあふれている。
「まだ間に合う」系の話に関しては、本来おおっぴろげになされるものではなく(でないと、「まだ間に合う」ではなくなる)、メンバーズオンリーな場でこっそりされるものだと考える方が妥当だろう。

テレビの芸能人の芸(なのか?)として、親しみやすく友達のように話す、というスキルがある。
投機関連の話をふと口にする芸人には、底意はなく、親しみやすさをアピールするために自分のやっていることを赤裸々に語る、という芸の一端を見せただけかもしれない。

そうだとしても、不特定多数の素人に十分な説明のないまま、投機関連の運用に誘導している、という事実は消せない。

雑誌や本でも儲け話や投機関連のものは多いが、これらのメディアは基本的にそういったものに興味がある人が手にするものであるのに対し、テレビでは不特定多数が受け手にまわる(しかも実数が桁違い)ので、影響力と危険度の次元が違う。

こういったトークを野放しにしてよいのか、議論があってしかるべきだと思う。


蛇足
基本的に、客観的ではない(学術的ではない)おカネの話はテレビではしてはいかんと思う。
自分の資産や他人の資産に関しては、家庭の事(オイコノミア=オイコス+ノミア=家庭+法則)であって、公(ポリス)の範疇には当たらない。
公然と語るべき様なものではない。



評論家の西部邁が亡くなって、メディア上に弔辞がいくつか掲載された。

亡くなった人に弔辞が届くはずもないので、失礼だのなんだのというのは全くのお門違いというのはわかるが、それでもやはりこれはいかんのではないか、と思わざるを得ない例がある。

週刊SPAに掲載された精神科医の香山リカ氏の弔辞がそれである。

「妻を失った高齢男性のサポートを真剣に考えるべき」というタイトルで、西部氏が自死を決意したのは「脳の少なくとも半分を陥没させる出来事」(西部氏自身の言による)たる妻の喪失がきっかけであった→高齢男性には妻を失ってダメになるケースが多い→だから周りでサポートをしてあげましょう、という展開だが、こういった故人の心理を推測するやり方は(故人に弁明のしようがない以上)、控えるべきではなかったかと思う。

確かに妻を失った高齢男性の衰弱はよく言われており、問題ではあるが、それはあくまで個人的な問題であり、社会問題として取り上げられるべきではないし、まして亡くなった評論家をこの種の問題の象徴として取り上げるのは、侮辱とまではいわないものの、気持ちのいいものではない。
(一体、自立への矜持を終生堅持した西部氏が妻の喪失を「社会的なサポート」によって代替することを諒とするだろうか。)

蛇足ながら、男性は何か(自分以外のもの)に奉仕することを存在理由にする傾向が強いので、その対象が神や国家や民族やイデオロギーでなければ妻に依拠してしまうことがままある。

なので、神や国家や民族やイデオロギーの代替に「社会的サポート」が当てはまらないのと同様、妻の代替にも当てはまらない。

江藤淳が自死の際「自ら処決して形骸を断ずる」と宣言したように、対象の喪失と病は生きる気力を失わしむに足るが、これは全くもって私的な領域に属する最後の事柄であり、社会が関与すべき領域ではない。

では、この絶対的私的領域の死に費やされるべき言葉はどのようなものになるのか。
それは他者の死と自分の死を同心円状に配置し、「俺もそうかもしれない」という視座から投げかけるようなものとなる。

2月2日に朝日新聞に掲載された佐伯啓思氏の投稿「いかに最期を迎えるか。自分なりの死の哲学は」がその好例で、ここでは佐伯氏は西部氏の死に触発されて自分はどうか、と問い詰める。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13341576.html

ここで、佐伯氏は香山氏とは全く逆の方向で死に対峙する。

つまり、絶対的に私的領域である「私の死」を「社会のサポート」からいかに救い出すか、という論点を提示し、放っておくと役所や医療福祉関係者、家族・親族等の意向によって囲い込まれ密閉される現代的な「私の死」の在り方に対して、ギリギリのところ(自死は言わない)をなぞるようにして、異議申し立てを行っている。

「私の死」にどう処するかには正解はないが、誰もが突き付けられる究極の問いであり、誰もが答えなければならない。
(「社会のサポート」を最大限利用して、どのような形でも生を永らえるのも一つの答えである。)

あるアンケートによると医師が一番望む死に方は「ガン」だそうだが、これは死期が分かりやすい=「社会的サポート」をコントロールしやすい、からだそうで、それはそういうものだとは思う。
(最も現場に詳しい医療者の多数意見だというところが興味深い。)

ある意味、「社会的サポート」からいかに逃れるかが問われているが、これは逆説的に現代社会の制御しきれない権力の姿を映し出している。








WHO(世界保健機関)がゲームのやりすぎ(による依存)を疾病指定した、というニュースが年明けにリリースされ、一時期話題になった。

すぐに飽きられたのか、あっという間表に出てこなくなったが、これはもう少し深堀すべき問題なのではないか。

問題の論点は一つに集約できる。

「やりすぎは病気か」という論点である。

WHOの定義によれば、ゲームにかける時間をコントロールできずに日常生活に支障をきたす事態が12ヵ月以上続いた場合、疾病に指定される。(https://icd.who.int/dev11/l-m/en#/http%3a%2f%2fid.who.int%2ficd%2fentity%2f1448597234

さて、このモデルが疾病の定義に導入できるとすれば、読書や山登りやキャバクラ通いは同じように疾病の指定対象となるのか、という論点が提起されうる。

四六時中、山のことばかり考えている人はいるし、私自身、若いころはハヤカワのSFやミステリを中心に本を手放せずに睡眠時間を削っていた時期があったし、キャバクラ通いはまあ、どうかな、前の会社の社長はそんな感じだったなあ。

寝食を忘れて没頭する、という状態は全てやりすぎ(→依存)である、という考えが肯定されるのなら、WHOは今後様々なバリエーションを導入しなければいけませんね、で一件落着、終了と相成る。

一方、依存かどうかは行動の在り方によって変わる(ゲームは依存であり、読書は依存ではない)、とした場合、依存か依存でないか、と区別する基準は何なのか、という新たな問題が生じる。

実際、一般的にはゲームは依存といえても、読書は依存とはいわない、とする風潮がかなり強いと思われる。
私が学校薬剤師をやっている中学校でも学校保健アンケートで、一日のゲーム時間の制限を促す項目はあるが、読書時間の制限を促す項目はない。

ゲームと読書では一体何がどう違うのか。

読書は教育的だが、ゲームは教育的ではない、という指摘には、ただの時間つぶしにしかならない小説は山とあるし、クリエイティブなゲーム体験は珍しいものではない、という反論が可能だ。

また、課金制のゲームは際限なく金銭を消耗するのに対して、書籍代はそこまで金がかからない、という指摘もあるだろう。しかし、この問題点は政治的に解決可能な単なる制度上の課題なので、行動の本質に関連する疾病指定のカテゴリーには該当しない。

両者の違いを分別する基準を見出すのは、意外に難しい。

それでもやや強引にその基準をつくるとすれば、受け取る情報量の多寡及び刺激の強化といえるだろうか。

読書(文字)で得られる情報量はゲーム(動画)で得られる情報量よりも少ない。文字で得た情報がいったん脳内で再構成されて意味を見出していく読書に比べ、ゲーム画面において光、音、形状認識が次から次へと提示される情報の波は、脳内でその意味をまとめる作業を必要としない。
(行間を読む、という作業はゲームにおいてはあまり必要としない。)

言い換えれば、脳が刺激される強さ(情報量)が違う。

刺激の強いゲームは、脳内作業を自律的というより他律的に促進するので、依存になりやすい。or行動がループしやすい。orやめる、という自律的な規制がかかりにくい。

と、いちおうは説明ができるが、これも一面的な解釈に過ぎない。

ゲームでも脳内作業を自律的に促進する(創造力が刺激される)ものもあるし、本でもただ単にもともと身体的にビルトインされたありがちなストーリーを自動的に消化するだけのものもある。

ゲーム的なものが依存しやすく、読書的なものは依存しにくい、という程度が妥当なのではないかと思う。

山登りやキャバクラは依存的か否か、はそれぞれ自然との関係性、人間(表情)との関係性から読み解くことが可能だが、ここでは割愛する。(キャバクラの案件の方が面白そうだ。)


蛇足1

仏教の修行項目である戒、定、慧、いわゆる三学は、刺激の極小な状態で心の平安を得る方法論だが、依存症の対策には良いのではないか、と思う。

蛇足2

ゲーム的なものだとか読書的なもの、あるいは日常生活の破たんとかいった概念は量的に測定するのは難しい。WHOのいう12ヵ月以上なる数字には根拠がないし、例えば20%以上の日常生活の破たんを疾病とする、といった定義は不可能だ。

こういった精神的・環境的な状況に左右される質的な問題(依存的な事態とそうではない事態は、自然物に対した時、紺色と群青色をどこで見分けるかという問題と似ている)は、モデル化・計量化が当てはまらない種類のテーマである。
それにもかかわらず、強引に科学的方法論を当てはめようとする状況は非常に現代的であり、このようなあり様は他にも様々な分野(医療・経済学・公共事業等)で見られる。

大変興味深い問題だが、他に客観的に評価する手段を人間は持たないので、仕方がないともいえる。









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