仏教的世界観で諸相を観察する

政治経済・教育文化・医療のテーマに分けて観察します。

森友学園問題が世間を騒がしているが、一般の冴えないオジサンから見れば、何を今さら的な冷めた感慨を抱かざるを得ない。

お客さんともこの件に関する話をすることもあるが、大方はまあこんなものだろうよ的な白眼視が関の山で、特に大騒ぎするようなもんでもあるまい、という雰囲気。

安倍総理や稲田大臣が設立に絡んでいるとか献金があっただとかは、(政治資金規正法に違反していない限り)全く無問題であるし、いくら奇妙奇天烈な教育方針であろうと、私学は個性的な教育を許されているから全体的な教育の多様性が担保されていることを考慮すると、森友学園の教育内容を云々するのは筋違いだろう。

冴えないオジサンから見た問題点は、そういうハッキリ・クッキリした個別の論点ではなくて、権力に近い(あるいは一生懸命近づこうとする)人たちが、税金の分配に関して有利な立場に立てるという一般論であり、一般論であるがゆえに、こんなんどこでもあるだろーが、という白眼視・諦念がやはりぬぐえないところである。

政治家の後援会関係者が高速道路や空港の建設用地・土砂採掘地を裏から買収して利益を得たり(この手の事案は以前このブログで書いたことがあるhttp://blog.livedoor.jp/mita_26/search?q=%E4%BA%8C%E9%9A%8E)、農政局の分配する補助金事業を受注するために局OBの天下りを受け入れたり(これは本日より朝日が特集で報道している)、逆バージョンでは共産党系の議員に頼めば生保が受けやすくなったり(人権ビジネス)、と似たような事例はそこら中に転がってるもので。

まあ、なんですな、政治的権力のサークルに絡んでおけば、何かとお得ですぜゲヘヘといった下種な打算と、とはいえ、俺らにはカンケーないもんな、という白けた軽い絶望感がないまぜになって、森友?、いつものやつ、権力者メンバーシップサークルの話でしょ、で一丁終わりで良しとするしかないのではないか、などと思う。

結局、芸能人のゴシップや天下国家の防衛論を論じて喜んでいる純な庶民は、こういったサークルの外側で微妙に搾取され続ける運命にあるが、かといって面倒くさいのでそういった権力に近づく油っぽい人間関係に絡んでいきたくもないなあ、今さら、というのが本音に近いのではないか。(ワタクシがそうです。)

こういった軽い、無気力な絶望感は庶民感情として昔あらあるもので、今に始まったものでもない、と思われるが、実はこういった「トホホな感じ」は近年割合高まってきているらしい。

統計数理研究所が実施した「日本人の国民性 第13次全国調査」を見ると、「まじめに努力していれば報われるか、報われないか」という質問に対して、「報われない」と思う人の割合が1988年の17%から2013年の26%まで増加している。http://www.ism.ac.jp/editsec/kenripo/pdf/kenripo116.pdf

具体的な性格特性では「礼儀正しさ」が38%(1993年)から57%(2013年)に増加しているのに対し、「公共心」が62%(1993年)から57%(2013年)に減少している。

この調査だけで性格判断をするのは無理があるが(割合キッチリした統計ではある)、一般化していうと、みんな礼儀正しくあろうとしているが、公共の利益に対する感受性は低下し、まじめに努力してもうまくやるヤツには到底かないませんわ、というやや諦めの境地が見て取れる。

庶民に浸透する諦めの気分を加速させるという意味で、今回の森友学園の事案は問題だったといえるかもしれないが、逆に「政官業の癒着を正す」というおそらくは常軌を逸したドン・キホーテ的な理想を召喚できるかもしれないという観点から、公共的には有意義な事案とすることもできなくはないのかもしれない。

(いや、無理ですけどね。)






2/22のNHK「ためしてガッテン」において、熟睡を促す新しい睡眠薬が血糖値を下げる効果がある、との内容の放送があり、医療業界者たちの間で非難の的になっている。


一体、この放送の何がマズかったのか。


①新しい睡眠薬(商品名ベルソムラ)の適応症は不眠症であり。糖尿病は適応外。なので、適応外処方を推奨する番組は問題。

国によって認められている症状以外への適用の推奨はアウトでは。

②睡眠と血糖値について検討した研究はあるにはあるが、糖尿病治療効果を検討したエビデンス・レベルの高い研究はない。

だから、適応外になってんだよね。

③医師が公共放送で薬剤の適応外処方を煽るのは利益相反にあたるのではないか。

製薬メーカーの営業手段は近年様々な規制(内部規制も含む)を受けているのに、こんなところで抜け穴ができれば、営業がバンバンテレビ局に行くんじゃね?

※利益相反=外部との経済的な利益関係等によって、公的研究で必要とされる公正かつ適正な判断が損なわれる、または損なわれるのではないかと第三者から懸念が表明されかねない事態を言う。(厚労省の定義)

④本来睡眠に問題のない患者が血糖値を下げるために、ベルソムラの処方を求めるケースが出る懸念。

いや、だから、血糖コントロールの基本は運動と食事療法、できなければ糖尿病薬でしょ。
睡眠医学に詳しくない内科医が患者の歓心を得るために、安易に処方して逆に(夢遊病などの)NREMパラソムニア等が発生する事態になったら、どうすんの?

④放送中で吹聴された(熟睡時に発生する脳波)デルタパワーの「パワー」が本来の意味とは違った意味で、(ウケ狙いで)つかわれた。

デルタパワーのパワーはハンドパワー(by Mr.マリック)のパワーではない。あえて言えば、脳波の周波数帯域を示すものに過ぎない。

⑤放送中、新しい薬だから副作用が少ないという営業発言があったが、そんなことはない。

市販後の使用数が少ないし、臨床試験の被験者数も少ない(254例)うえ、報告されている副作用の発生率(20%程度)も低くはない。(ちなみにマイスリーは17%、デパスは7%。まあ習慣性は・・・だけど)

以上参考。https://togetter.com/li/1084095

とまあ、問題山積ですが、当の「ためしてガッテン」の関係者もこれはマズいと思ったのか、番組紹介のホームぺージには睡眠薬の件には触れていない。

http://www9.nhk.or.jp/gatten/articles/20170222/index.html

医療業界もこの頃は、患者の要望をできるだけ聞く立場をとるので、場合によっては客観的な費用対効果より患者の要求を優先させることもままある。(営業の意味もないことはない。)

患者の生活・身体環境や服薬状況を勘案しながら、客観的なスタンダードよりも患者の好みをある程度優先するのは、情報と行動パターンが多様化した現代では、妥当なケースもありうるが、ウケ狙いのテレビで仕入れた情報をそのまま持ち込まれては、スタンダード医療と患者個人にあった医療の分別を超えて、治療の質を毀損してしまう恐れがある。

今後、この種の「あまり知られていないが、実はこういった効果があるんです、はーっ!これが隠されていたギャラクシーパワーです」的な番組が増えないことを祈るばかりであります。

蛇足
先週はうちの薬局にも4名ほどデルタパワーの睡眠薬出してもらってきた、という患者が来ていた。
そのうち一人はシータパワーと言っていたが、明らかにハンドパワーのパワーと同じ意味で解釈している。
(しかし、間違えるにしてもなんでαでもβでもなくてシータなんだ。ラピュタかよ。)









文部科学省が14日公表した学習指導要綱の改定案には、小中学校の社会科に竹島、尖閣諸島が「わが国固有の領土」として初めて明記された。・・・中学の地理的分野では既に記載がある北方領土に加え、竹島と尖閣諸島も領土であるとし、尖閣諸島については「領土問題は存在しない」と記した。
(2/14毎日新聞電子版)

言うまでもなく、尖閣諸島をめぐる領土問題は(少なくとも客観的には)存在する。存在しなければ、尖閣諸島問題というキーワードで検索をかけて50万件以上もの記事がヒットするはずがない。

なぜ教科書が嘘を記載するようになってしまったのか、については技術的には政治的駆け引き(官邸ー官僚)の結果だということもできるが、本質的には党派的な利益に資するという側面を指摘せねばならない。
(これは中国共産党、自民党どちらにも言えることである。)

ジョージ・オーウェルの「1984年」の中で出てくる「二重思考」という概念が最も的確に説明している。

二重思考はイングソック(イデオロギーの一種)の核心である。何故なら、党(中国共産党/自民党)の本質的な行動は意識的な欺瞞(領土問題は存在すると自覚しておきながら、しないと強弁する。)手段を用いながら、完全に誠実さ(いわゆる愛国心)に裏打ちされた堅固な目的を保持することだからである。一方で心から(領土問題を)信じていながら、意識的な嘘をつくこと、不都合になった事実はなんでも忘れ去ること、次いで再びそれ(領土問題)が必要となれば、必要な間だけ忘却の彼方から呼び戻すこと、客観的事実の存在を否定すること(教科書への記述)、それでいながら自分の否定した事実を考慮に入れることー以上は全て不可欠な必須事項なのだ。
(「1984年」ジョージ・オーウェル、カッコ内は筆者による)

教科書を読んで、現状で「尖閣諸島をめぐる領土問題は存在しない」という認識を固定させる生徒はほとんどいないと思われるが、この問題は解決してしまっていると結論付ける生徒は少しづつ増えていくかもしれない。
現実は必ずしも客観的で外在的なものだとは限らないからだ。

同じく「1984年」から、主人公(ウィンストン)が洗脳される過程で、

「ウィンストン、訓練された精神の持ち主だけが現実を認識することができるのだよ。君は現実とは客観的なもの、外在的なもの、自律的に存在するものだと信じている。・・・しかしはっきり言っておくが、ウィンストン、現実というものは外在的なものではないのだよ。現実は人間の、頭の中にだけ存在するものであって、それ以外のところでは見つからないのだ。」

ナチスのユダヤ人収容所で辛酸をなめたV.E.フランクルは、人間に残された最後の自由は頭の中であると言ったが、高度管理社会ではそういうわけでもないのかもしれない。
頭の中の自由(記憶)は常に管理されているからだ。
フーコーが面白いことを言っている。

「新たな統治理性は、だから自由を必要としているのであり、新たな統治の技法は自由を消費するのです。自由を消費すること、それはつまり、それを生産しなくてはならないということです。それを生産しなければならないということは、それを組織しなくてはならないということです。だから、新しい統治の技法は、自由の管理経営者として現れるのです。」
(ミシェル・フーコー「生政治の誕生」より)

フーコーはこの自由を効率よく生産するシステムを「セキュリティ・システム」と呼ぶ。セキュリティ、それは「自由の製造費用の計算原理」(フーコーによる)であり、またそのセキュリティは「個人的な利益に対して集団的な利益を保護すること」を目標とする。

統治性のなかに「自由とセキュリティ」をセットにして組み込むことで、統治者は利益を得る。

つまり、問題を外在的・客観的には見えない形に設定する(=個人の頭の中に単なる情報として設定する=真の問題からの自由を生産する)ことで、問題にかかるコストをセキュリティという名のもとに(司法権、立法権を超越し)行政がフリーハンドで決定する権利を得る。

こういった仕組みは日本よりも現今のアメリカで力強く機能する様子を見せている。

中国共産党やロシアプーチン政権やアメリカ共和党が同じような支配形態をとりつつある現状では、自民党が客観的な問題をすり合わせるという調整的機能よりも単純な政治的パワーを示し続けていかなければ伍していけない、と考えるのもわからないではないが。

ともあれ、図書検定を通った教科書が嘘を教えるのはいかんだろう、とは思う。
(検定は客観的事実に沿うべきであって、政権の意向によるべきではない。)

トランプ大統領の登場は、いくつかの点で衝撃的だったが、今後の展開を考えるうえで、その分析は欠かせないだろう。

そういう意味で、識者の見解をまとめた「現代思想1月号」はなかなか読みごたえがあった。

大方の内容をまとめ、今後の展開を占ってみたい。

ほぼすべての論者がトランプをポピュリズムの担い手として前提している。
そのうえで、アメリカに限らず全世界で同種の(左右両方で)ポピュリズムが浸透していると診断する論者が多い。
もっとも、もはやポピュリズムはインフレ状態であり、共通の意味を失っているので語るに値しない、とする論者もいるが。

さて、ではポピュリズムとは何か?という問いに対しては、いくつか焦点の異なる見解が見られる。

1.経済的・社会的不安や沈滞に対する現代的な回答。
2.問題の構造を問う代わりに、目の前に敵を作り、「われわれ」を立ち上げる技法。
3.単なるリビドー(欲動)であって、制度・組織への調整機能をもたないため、その政策は継続的にはできない。

1.はポピュリズムの総論であり、2.は技法、3.はその機能(不全)と分類できる。

差異(男/女、自国民/移民、ヘテロ/ホモセクシュアル、白人/カラード等)を理念(ポリティカル・コレクトネス)で無効化することに対する脅威、恐怖感が「われわれ/彼ら」の分別への欲動を駆り立てた、との分析は、いくつか見られる。

差異を無効化し、二つの対立項は等価である(orあらねばならない)ことを前提に社会制度を再調整することに対する反発は、まああるかなと思う。

これは大げさに言えば、17世紀以降のヨーロッパ的啓蒙主義の限界といえるかもしれない。

妥当かどうかはともかく、ポピュリズムの分析をそれぞれ列挙する。

・サッチャーは労組という「敵」=「かれら」をつくることで、新自由主義的政策を正当化した。(森 政稔)

・空虚な記号(敵)を媒介に不満を持つものを巧みに「等価性の連鎖」によって接合し、「われわれ善良な市民」を構成しながら、多数派を形成した。(土佐 弘之)

・ポピュリズムの核となる主張は、一部の人民でもって全体に代えること、すなわちポピュリストが認めた人民のみが真の人民であるとするレトリックにある。(山本 圭)

・トランプは犯罪の恐怖に対処するための「safety」、安全な空間に囲い込むための「border」といったキーワードを駆使し、手で触れる範囲での応答を受け取れる空間=極小のメンタル・マップを国民に提示した。(下河辺 美知子)

下河辺のいうメンタル・マップとは大きすぎて自らの感覚で把握できない世界をヴァーチャルな「私と世界」の位置関係に書き換えることで、世界への特定の認知枠の組み込み、興味のない社会問題を消去したセカイ系、と言い換えることができる。


②ポピュリズムが導く世界とはどのようなものになるのか?

「確信をもって言えることは、予測不可能だということだ。」(チョムスキー)との見解の通り、ほとんどの論者は基本的には予測不可能だと前置きする。

欲動及び記号(敵)の創出によって当選した大統領に体系的な政策があるわけはないので、既存の構造に飲み込まれると示唆する人もいれば、行政/国会/司法のすべてを共和党が握っているので、場当たり的で前例のない政策が連鎖的に実現するとみる向きもある。

方向性が変わるとみられるのが、ロシア関係、イスラエル政策、地球環境政策などで、それぞれ親ロシア、親イスラエル、温暖化対策の後退、といった方向に向かうとみられる。

面白いのはトランプの親ロシア主義は彼の女性の好みがアーリア人種だから、という指摘で、一見こうしたばかげた理由が案外頑強なイデオロギーになることもありえる。

フランス革命の指導者バルナーブ、ロラン婦人、ロベスピエールらは些細なきっかけ(芝居小屋での座席の間違い、食事の予約違い、担当したクライアントの話)が感情をフックして革命に身を投じ、当代のイデオローグに成り上がった、という話をひくまでもなく・・・

具体的な政策では、副大統領のペンスが筋金入りのシオニストなので、イスラエル寄り(反パレスチナ)に行くことは確実視されている。
逆にイスラム圏との敵対度は高くなる見込みで、イランへの強硬策との絡みもあり、中東問題の不安程度は拡大すると予測される。
(イスラエルの極右を形成している主力がロシア移民である点も見逃せない。)

イスラエルのアメリカ大使館が現状のテル・アビブからエルサレムに移転するかどうかが当面の試金石になるとみられている。(これをやればパレスチナの猛反発を食らうのは必定。)

短期的な政策はともかく、体系的な政策を欠くポピュリスト政権の最大の弱点は、長期的な破たんに対するリスク管理が難しい点だろう。

現状、バブル経済対策、環境問題対策といった長期的課題を無視することが当面の株価上昇を後押ししているが、リスクコントロールをどうするのか、全く無視するのか、それがどのような結末を導くのか、についてアメリカ以外の国が継続的に分析する必要があると考えられる。

核管理問題を含め、国の枠を超えて長期的リスクを評価する機関が最も必要とされている時代だが、COPや国際司法裁判所など国連各機関、国際刑事警察機構など国際機関はどれも力を失い、各国でポピュリスト政治家が躍動する有様は、(少なくとも長期的問題に関しては)お手上げといわざるを得ないのではないか。

経済紙「フォーブス」に「この男がトランプを当選させた」と名指しされた娘婿のジャレド・クシュナーを長時間インタビューしたニューヨーク・マガジンの記者は、クシュナーの印象について「自分が何を知らないのかを、知らないタイプの人間。」と評した(1/8朝日新聞)が、このような性向はポピュリストの強みであると同時に弱みでもある。

暴言であるにせよ断言ができる問題にしかコミットしないという態度は、有権者へのメンタル・マップの提示には有効だが、その外側(長期的問題、国際的構造的問題)への想像力→対応力を著しく損なう。

トランプが失業・低所得問題を単純な輸出入の問題として提示し、構造的な問題としての側面を切り捨ててしまえたのは、このような確信的態度があったからだと推測できるが、だからといってこの問題が彼の提示する枠内で解決できるとは考えられない。

例えば、トランプはメキシコに新工場を建てるトヨタ自動車を批判して「米国に工場を建てるか、国境で高い関税を払え。」と攻撃したが、メキシコでの新工場の稼働が長期的な米国の失業・低所得問題に寄与する可能性を最初から除外し、自分が認識可能な枠組みに問題を押し込む彼のやり口からクシュナー風の「知らないことを知らない。」性向を想像するのはたやすい。

ともあれ、この大統領が今後世界の動向に大きな影響を与えるのは確実であり、既存の国際機関が無能力であることもほぼ確実な今となっては、長期的・構造的問題に対する対応は各種職業団体やNPO活動など会社や個人のつながりに期待するしかないのかもしれない。


福島原発避難民の子供に対するいじめは横浜の事件で明るみに出たが、氷山の一角と思われる。

首都圏の避難者でつくる「避難生活を守る会」に寄せられた「いじめ」の件数は6件だが、ほかの地域の「つなぐ会」や「あゆむ会」にもいじめに関する同様の意見が複数寄せられていること、水面下に埋没している件数を考え合わせれば、相当数あるのではないか。

この事案が通常のいじめと異なるのは、正しい知識が共有されずに、ゆがんだ偏見に満ちた知識が恣意的に(いじめる側の都合の良いように)運用されている点で、こういった問題点は学校側の対応によって対処可能なのではないか、と思われるところである。

例えば、「菌がうつる」「触ると汚くなる」などといった放射能に関する悪口は、今回の原発事故で放射能による避難民への重大な健康被害は報告されていない、放射能による健康被害は感染しない、といった事実と異なる。

例えば、「ただでいいところに住んでいる」「福島のくせに貧乏だな」などといった悪口は、賠償の範囲と額が限定されている、子供が使えるお金とおうちの賠償金は無関係である、といった常識に反する。

こういった「正しい知識」をあえて主張するのは、問題点をあらわにし、調子に乗った=ゆがんだ知識をふりかざす子供たちを増長(逆上)させ、逆に問題を大きくすると考える向きもあるかと思うが、黙ってみているよりは断然いい。

大抵クラスには真面目な子供が何人かはいるはずだから、もしゆがんだ知識を振りかざす子供がいたら、彼らにストッパーの役割を期待することができる。

避難民の子供が担当クラスに入ってきたら、教師としては「問題が起こったら面倒だな」と思うかもしれないが、逆に俺が担任でよかったな、絶対に問題は起こさせないから、と気合を入れて対応してほしい。
また、教師は職員会議で発言し、学校全体で情報と責任を共有することも求められる。

職業プロなら、トラブルが自分の糧(資産)になることは知っているはずだ。
怖気づいてはいけない。

通常のいじめでは原因と線引きがあいまいで対応は困難だが、この事案は原因がはっきりしているので、それに乗っかる(調子に乗る)側の特定は難しくない。
対応は可能だ。

放射能はともかく、賠償金云々の与太話は子供が無意識的に情報を摂取した種類のものではないと思える。
どこかで大人が吹き込んだ、大人の話を聞いたことが情報源になっていると考えられる。

こういった弱者が逆に不当な利得を得ている的な弱者バッシングは、リベラルの退潮とともに世間に流通するようになってきているが、注意が必要だろう。

一般に賠償金や生活保護により不当な利得を得ている人間は何%かはいるだろうが、大多数は目的にかなった恩恵にあずかっている。

それを一緒くたにして非難する大人は、「調子に乗っている」前出の子供と変わらない。

非難するのなら、不当な利得がどのような経路で得られているのか、それを阻止するためにはどうすべきか、といったところまで踏み込まなければならない。

それが面倒なら表面上の余計なことは言わないことだ。


「動き出す絵画」マネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち、と銘打った美術展に行った。

大正初期に美術雑誌「現代の洋画」や「現代の美術」等を出版し西洋の美術を紹介するとともに、展覧会の開催やカタログ出版などを通し、岸田劉生や木村荘八ら若い西洋画家をプロデュースしていた北山清太郎に焦点を当てた展覧会でなかなか見ごたえがあった。

彼(北山清太郎)はわれわれ仲間ではペエル・タンギイ(パリの有名な画商)で通っていた。あらゆる意味から、この人ぐらい熱心に当時の美術界に尽力した人はないであろう。(高村光太郎)

北山が中心になって活動していた時期は1912年から1917年のわずか5年間にすぎない。

この短い期間が例えば、1255年から1260年だとか、1514年から1519年までであったならば、今日見たような展覧会は成立しなかったに違いない。

西洋絵画史における19世紀末から20世紀初頭は進化の歴史におけるカンブリア爆発期のように、一気に表現方法が多様化した時期であり、多くの才能が同時期に出現した「熱い」時代であった。

従って、この時期の美術プロデューサーを中心に据えることで、(全部乗せのように)多様な画家の表現を展示することができるのは、展覧会の組み立てとして優れている思う。

最初の展示室で北山が紹介した西洋画家、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ミレー、ピサロ、シスレー、モネ、ドガ、ルノワール、ドーミエ、ボナール、ムンク、ピカソ、ヴラマンク、らの絵画が(かなりの点数)展示されていた。

そのあとの部屋では、これらの西洋画家の画法を勉強し自分流に解釈した当時の日本人画家の絵画が続々と展示されているのだが、オリジナルを見た直後に見るものだから、「うわ、もろゴッホやん」とか「ルノワールの下絵?」とか「シャ、シャガールがこんなところに」とか「ムンクね。わかります。」とか「セザンヌ、好きなのね。」とかいちいちウザイくらいに突っ込みたくなるのを止められないのには困った。

その中でも、光って見えたは岸田劉生。

有名な「麗子肖像」とその隣に配された「村娘之図」の存在感、眼差しは独特でそこの周りだけ異空間になってしまうようなヘンな迫力がある。

まあ、それもそのはず、岸田自身、麗子像を描くころには絢爛豪華たる当時の近代絵画とは決別している。
「古人がどれくらい深い神秘を見たか全くわからないほど、その深さは深い気がする。」
(「美の本体」より)

岸田は同書で「深い神秘」を「真如」だの「如実の美」、「内なる美」だのといいかえ、自分の画は近代的ではなく、真実の要求を満たすものだ、と見えを切っている。

その「深さ」は何だかわからないが、軽薄な21世紀に生きる軽薄なワタクシのようなものにもその「重量」はなんとなく感じ取れた。

岸田以外では、全然知らなかったけど、山脇信徳という人の画がなんとなく独特なような感じがした。基本モネなんだけど、モネにはない不穏、不吉な感じが迫力を生んでる。なかなか面白かった。

山脇信徳「雨の夕」
山脇















この時代の芸術家のはがきでのやり取りも展示されていたが、やはりアツいです。

明日の朝偉くなっていたらどんなにいいだろう、と書いたかと思えば、やっぱりもっともっと勉強しなきゃ、と書いたり。もう寂しくて死にそうだ、とか甘えてみたり、唐突に(共通の友人の)誰彼が死んだ、とか。
人と人が認め合い、反目し、団体を作って壊して、しているうちに新しい表現が芽生えてくるようなダイナミズムは少なくとも今の画壇にはないだろう。

というか、19世紀末から20世紀初頭には信じられた革新性そのものが摩耗してその鋭敏さを失しているといえる。
芸術界に限らず、科学技術や社会制度面においても。






NHK100分で名著、今月は道元「正法眼蔵」の第2回目。

今回は、「悟りと迷い」の解釈についての議論が俎上に載せられている。

「悟り」と「迷い」は別の状態であり、「迷い」が修行を通じて「悟り」に至ると考えるのが一般的だと思われるが、道元の解釈は違うらしい。

我々は「迷い」の世界の中にいるのだから、「迷い」の外に立つことはできない。

魚みずをゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
(現成公案の巻より)

従って、「迷い」の外に立ってあれこれと考えをめぐらし、「悟り」や「迷い」を取り扱うのはそもそも間違いである。

このあたりは西洋近代哲学の父、デカルトの疑問と軌を一にするようなところがある。

「我々は真理を認識することができるのか」という問いを突き詰めた結果、デカルトは(そういうふうに)考えている自分だけが確かなものだ、という結論に至る。
考えている自分=迷っている自分と解釈すれば、デカルトは道元と同じことを言っているように見える。

道元は僧なので、ここからさらに先に「真理」=「悟り」に至る理路を探し出そうとする。

ここから先に行こうとすれば、必然的に「迷い」の中に「悟り」があるという構造になるわけだが、「迷い」と「悟り」は異なった状態(どちらかを打ち消しあう状態)である以上、この構造は成立しない。

そこで道元が考え出したのがドッペルゲンガー(自分自身の像の幻覚)のような、落語の「粗忽長屋」の熊五郎(抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?)のような、「自分の二重化」を呼び込むという方法である。

「自分の二重化」によって「迷い」の世界にいながら「悟り」を得ることができるし、逆に「悟り」から「迷い」に戻ることもできる。

この「二重化」のやり方を解説のひろさんは、「仏になりきる」という言葉で説明しようとしていた。
この場合、仏になりきっているときは「迷い」の世界の自分は幻覚であり、「迷い」の世界にいるときは(道元の場合は言葉を使って説法しているときは)「悟り」は幻覚である。

蛇足ながら、「なりきる」は少し言いすぎなのではないかと思う。
なりきってしまえば、その外側を認識できないので、「悟り」から「迷い」に帰って来れないのではないか。

ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたちよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。
(生死の巻より)

「悟り」の世界にいるときは(彼は)生死をはなれているが、(彼の肉体・物質としての脳は)生死をはなれていない=「迷い」の世界の幻。

道元は宗教者なので、「迷いの世界」も「悟りの世界」もともに仏の世界=相の内側にあり=「唯仏与仏」、それは人間には認識できない、と言い切る。(哲学者はそんなことは絶対言わない。)

さて、哲学者ならこういった状態、迷いの中に悟りがある状態、をどう表現するか。

「自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるものである。」
(西田幾多郎「善の研究」より)

西田の「純粋経験」という概念がこれに近い。

例えば熟練のピアニストが何千回と演奏したソナタを演奏するとき、その指は脳の動きよりも早く鍵盤の上を走り、脳は自分自身の考えはおろか動きでさえ認識しない。

ここでは主と客が未分化であり、「反省」=「迷い」以前の直接的なむき出しの経験が実在しているだけである。

西田が言う通り、「個人があって経験があるのではなく、経験があって個人がある」。

ただ、「純粋経験をつかむ」のと「悟りを得る」のは、どこか根本的に違うところがあるように思える。

いずれにしても「そういった方面」への経験は人生において大変重要なものである、とはいえるだろう。




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