仏教的世界観で諸相を観察する

政治経済・教育文化・医療のテーマに分けて観察します。

世を挙げての鬼滅ブームのなか、いまさらながらの解説も気恥ずかしいが、あまり言及されていない側面について指摘しておきたい。

雑誌「ユリイカ」がこの漫画を特集するとしたら、章立てに使われそうなタイトルを考えてみた。

①多彩な物語のショーケース、物語のダイジェスト化の臨界点

『鬼滅の刃』には驚くほど多彩な物語類型が詰め込まれている。
例を挙げると。

・竈門炭治郎ケース
家族の破壊とその復讐の物語
マッドマックス、グラディエーターなどハリウッド映画のみならず、より複雑な破壊ー復讐の物語ではシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』は演劇や映画で歴史上多く取り上げられている。

・黒死牟と継国縁壱ケース
愚兄賢弟の物語
漫画では、『北斗の拳』のジャギの名セリフが印象的。

ジャギ










きわめて古い題材では、旧約聖書の「創世記」におけるエサウとヤコブの物語がそれに当たる。

・悲鳴嶼行冥ケース
裏切りによる悲劇的結末の物語
沙世が行冥を指し「化け物はあの人、みんなあの人が殺した」というシーンは、『曽根崎心中』で九平次が徳兵衛を面罵する場面をほうふつさせる。
また同じ物語で語られる、内通者が藤の花の香を消して、敵方を城内に侵入させ、内側から食い破る戦略はウェルギリウスの『アエネーイス』に描かれるトロイの木馬作戦を思い起こさせる。

・堕姫/妓夫太郎ケース
底辺貧困層の逆襲と挫折の物語
この種の物語を最も丁寧に描いたのが日本漫画史上有数の傑作『カムイ伝』。
古いフランス映画の『にんじん』やロシア映画の『動くな、死ね、甦れ』にも妓夫太郎のにおいがする。

他にも童磨と伊黒のケースは、殺人略奪に対する達成感と罪悪感の物語の対比になっており、例えば『奥州安達原』の安倍貞任と袖荻を先例として挙げることができるし、善逸やアカザのケースは香港カンフー映画の定番、師匠の敵討ちの物語類型と言える。

このように多種多様な物語が登場人物一人一人のエピソードとしてあっという間に語られる。
本来は長大な物語に発展させることのできるポテンシャルを秘めた物語を極端なまでに圧縮して、消費しつくしてしまう手法は、昨今政治・社会理論で取り上げられることの多い「加速主義」の一断面と理解することも可能だろう。

②敵方の物語の発見とスピンオフの新しい地平

多彩な物語は主人公とその仲間だけに与えられるわけではなく、敵方にも割り振られることで、キャラの多様な個性化に成功している。
また、このような多様なキャラの個性化は公式、非公式問わずスピンオフ(妄想の派生)を作りやすくする。
様々な派生作品がSNSやファンサイトを通じて拡散・再利用されることで、物語の賞味期限は延長され続ける。

スピンオフによる延命治療が施されているコンテンツで最も有名なのが、「スターウォーズシリーズ」だが、このシリーズでこの戦略が成功するかどうかは不透明だ。
(ボバ・フェットで公式にスピンオフを作るのは、珠世さんでスピンオフ作るよりもキツいのではないかと思う。)

③絵柄の独創性、江戸時代の残酷絵の伝統から

細く柔らかい線できれいに描かれた絵柄ながら、岩佐又兵衛風の残酷絵を連想させるショッキングな場面や構図が多くみられる。
映画「無限列車」の作画では「鳥羽伏見の闘い」の錦絵を参考にした、と監督の外崎春雄氏が言っているように、浮世絵(残酷絵)の伝統が引き継がれている。
(映画パンフレットより)

またこのような画の構成は、劇画調の絵が苦手な読み手(主に女性が多い)に対しても、物語の迫真性や悲劇性が効果的に伝わることを可能にしている。
(『進撃の巨人』や『JOJOシリーズ』はダメでも鬼滅は読める、という女子は多い。)

④ヒーローのニューエストモデル竈門炭治郎の新しさをヒーローの漫画史から読み解く

少年バトル漫画の主人公、例えばケンシロウ(北斗の拳)、孫悟空(ドラゴンボール)、ルフィ(ワンピース)らは、「娘の旦那にはしたくないタイプ」ではあるが、竈門炭治郎は違う。
炭治郎は男のロマンを追求したり、救世主への階段を駆け上がったりはしない。

遠い目で秘宝や永遠を眺めるのではなく、身の回りのことを一生懸命全力でこなし、自分の利害とはあまり関係のない周囲への気遣いも忘れない、いわば世話焼きお母さんタイプ、料理が上手そうなヒーローで、このようなキャラ造形は珍しい。

歴代漫画発行部数ランキングからバトル漫画ヒーローを見てみると、ルフィ(ワンピース)、デューク東郷(ゴルゴ13)、孫悟空(ドラゴンボール)、黒崎一護(ブリーチ)、JOJOシリーズ、ケンシロウ(北斗の拳)、エレン・イェーガー(進撃の巨人)という並びになる。
いずれも竈門炭治郎と比較すれば、圧倒的にお母さん成分は低い。

現在人気連載中のバトル漫画「僕のヒーローアカデミア」の主人公、緑谷出久が若干お母さん的であることを考えれば(おそらく80年代に連載されていれば、バディの爆豪勝己の方が主人公キャラだっただろう)、ヒーロー像の需要傾向に変化が出てきていると考えることができる。

⑤情念の表現、バトル描写の言語化は進化する

バトル漫画はJOJOが出てきた辺りから、能力の相性や戦略で勝利を手繰り寄せるカードゲーム的な要素を組み込む方法が主流化してきたが、『鬼滅の刃』はその流れにのらず、大ヒットをとばした。

バトル戦略の精緻を極めた人気漫画『ハンター・ハンター』が行き詰まりをみせたのと同じタイミングで、ほぼ必殺技だけで完結する単純なバトル漫画『鬼滅の刃』が大人気になったのは、バトル表現の需要の変化を反映しているかもしれない。

70年代の必殺技完結型漫画の傑作『リングにかけろ』は『鬼滅の刃』と同タイプだと思われるが、あの頃と違うのはバトル表現が重層的になり、より感情を表現しやすくなっている点だろう。
リンかけ












『リングにかけろ』では必殺技の威力だけで勝負は決するが、『鬼滅の刃』では必殺技の組み合わせや他者との協力で勝利を呼び込むという方法が採用される。
この方法では、単発の必殺技よりも感情表現をのせやすいという利点がある。

必殺技の組み合わせで感情をのせきる場面の白眉が、神回と呼ばれるアニメ19話「ヒノカミ」で見せた父に触発された炭治郎と母に触発された禰豆子の必殺技の組み合わせシーンで、私はこの回の放映が『鬼滅の刃』の人気を決定づけたと思う。
ヒノカミ










ハイブラウ成分の低い『鬼滅の刃』が「ユリイカ」の特集で採用されるかどうかわからないが、これだけ大ヒットをとばしたコンテンツを考察しないのはもったいないと思う。

吉村大阪府知事らが実施した「イソジンによるうがい」推奨会見は、医療関係者の皆様からさんざんに叩かれているが、「正しさの程度が低い」情報の垂れ流しを黙認しているという点では、専門家筋も大きな顔ができるのか、と突っ込んでおきたい。

まず、イソジン会見については科学的知見に政治家が首を突っ込む危うさを露呈させたという意味で、有意義であった面はある。

通常、医薬品の科学的妥当性は動物/臨床試験のプロトコールに従って発表された研究の数と質で決定、さらに上市後の調査によって副作用や相互作用の有無が確認されたうえで、学会でのリスク/ベネフィット評価を経て、ようやく治療のスタンダードになる。

このような面倒な手続きを踏むのはパンデミック下では妥当ではないので、緊急の会見はやむを得ない。

というのが知事側の主張でしょうけど、過去の研究でよりリスク/ベネフィットの成績が良いと結果が出ている水うがいを無視している時点で、少なくともわざわざ記者会見するようなレベルのものではないのは明らか。

ダメさが爆発しているのがノーカット会見動画で、吉村府知事も松井市長もふつうにうがいするよりもイソジンでうがいするほうが効果があったという発見だ、と発言している(吉村5:23付近、松井1:02:15付近)ところ。

府が公表した資料にはハッキリと「うがい群と非うがい群を毎日PCR検査した結果」と書かれているのだから、両氏の発言は自分たちの作った資料もちゃんと読んでいない証拠で弁明の余地もないが、もっと心底ダメなのは、会見に同席している専門家(松山医師)が誤解したまま会見を続ける政治家に対して「それは違う」と訂正を入れないところだ。

科学者は政治とは別で科学的知見の正当性について、毅然とした立場を維持しなければならない。
なぜならば、科学者の発言の背後に、視聴者は科学的な手続きに対する信頼性を暗黙のうちに了解しているからだ。
専門家の発言が素人の発言よりも信頼できるものとして世間に流通する理由は、自然科学の知見は政治に忖度されない、という素朴な倫理観(への信頼)に寄りかかっている。

松山医師はその後、水うがいのほうが予防効果はある、と発言しているみたいだが(参考)、会見の時点で(水うがいのほうが予防効果があるという京大の研究を)知らなかったはずがない。

本来なら政治家(府知事、市長)の不十分な科学的知見をなだめ、「誘惑」を排除する役割を担うはずの専門家が逆に政治家の点数獲得を煽ってしまうのは、積み上げられてきた科学的知見への背任行為ではないか。

イソジンは予防効果ではなく、重症化を防ぐために有効だから会見した、という言い訳も見かけ上、成立するが、これは誰が見ても茶番だ。

重症者数/陽性判明者数が0.3%(8/7現在)程度の状況で、重症化を防ぐ手段をテレビの会見で放映する妥当性は低い。

ふつうに、視聴者は予防手段として受け取るし(府知事、市長ですら自分で出した資料を誤解しているのだから)、その後パニックになって通常の流通が滞る副作用も容易に予見できたはずだ。
歯科医療機関のパニック=参考

重症化を防ぐ手段として広報したいのなら、関係医療機関への通達でいいではないか。
(まあ、医療機関ではそんなことは百も承知ではあるが。)

専門家が政治や世間に忖度する状況がこの一局面に限定される現象ならば、そう深刻な事態とは言えないが、どうもそうとはいえない。

毎日毎日、ニュースのトップレベルで公表される「感染者数」に対してそれが大きな意味のある数字なのか、疑問を呈する声が専門家から聞こえてこないのはどういうことか。

せめて、「陽性判明者数」と言い換えるように提言しないのはなぜなのか。

会見に臨んだ松山医師のように、わかっているが言えない雰囲気があるのか。

イソジンが予防効果に大成果と誤解させたように、「感染者数」がcovid19の(単なる感染力ではなく)威力の重要指標だ、と誤解させることに何らかのメリット(国民を怖がらせて予防効果を上げる効果)を感じているのか。

是非とも専門家諸氏にお伺いしたいところだ。


新型コロナの報道はここ数か月、増減はあるものの、ずっとニュース番組/サイトのメインコンテンツであり続けているが、その内容が報道の名に値するものなのかはすこぶる怪しい。

まず、連日、ほぼトップニュース扱いで報道される「感染者数」だが、これの意味するところがハッキリしない。
意味のハッキリしない数字を拡散させ、世論や政策決定の根拠に押し込んでいくメディアのやり方は、無自覚であっても許されることではない。

いや、ハッキリしている、「感染者数」は新型コロナに感染した人の数じゃないか、何を言っているのだ、という反論は可能だし、おそらく多くの視聴者がそう思っているだろう。

しかし、これ(感染者数という数字)は明らかにミスリードだ。

世間で流通する「感染者数」は「陽性判明者数」であって、「実態としての感染した人の数」ではない。(にもかかわらず、多くの視聴者は感染者数を「実態としての感染した人の数」と受け取る。)

今報道されている「感染者数」は感染の実態を表したものではない。

その理由を説明するために、その数字が構成された構造からみていく。

「数字」が構成される過程とその方法は「数字」の信頼性に大きく影響を与える。
「数字」は必ず、算出条件と方法論によって制約を受けるからだ。

「感染者数」はどういう条件で、どういう方法で決定された数字なのか?

①PCR検査の発動条件
・発熱、咳などの症状を有する患者がクリニックで診断を受け、医師の紹介でPCR検査を実施する。
・新型コロナ相談センターなどで、新型コロナの症状と判断された人がPCR検査にまわされる。
・陽性判明者の濃厚接触者。
・外国からの入国者。
・一斉立ち入り検査。(新宿歌舞伎町=実績)

②PCR検査の方法論
・感度(1-偽陰性割合)が不安定。
偽陰性=本来陽性だが、誤って陰性と判断されること

ジョンズ・ホプキンズ大学のKucirka氏らの数理モデルでは、感染8日目の偽陰性率が最も低く、20%程度。感染1日目が最も高く、100%。
検査を実施する日によって結果は大きく左右する。(参考

ちなみに感度が良好な採取場所は、唾液>鼻腔>咽頭らしい。

世間で絶大な影響力を誇る「感染者数」という数字は、上記①と②のフィルターを通して加工されたものであり、その有効性の射程は算出条件からの制約を受ける。

例えば、本来であればPCR検査の対象者が、①の発動条件を満たさずに潜伏しているケースは多くあるだろう。(この時点で、「実態としての感染者の数」に漏れが発生する。)

筆者の周り見ても、自覚症状があっても検査は絶対受けない、という人は何人もいる。万一陽性判明すれば、居場所を特定され社会的に殺されるからだ。
重症化率等を勘案し、功利的に考えれば、会社員や学生はまだしも、自営業者にとっては、検査を受けないことが正しい選択と言えなくもない。

また、無症状感染者は元々発動条件を満たさない。

クルーズ船の集団的な疫学調査(貴重な資料だ!)では、PCR検査陽性者で最後まで無症状だった人の割合は17.9%という数字が出ている。
クルーズ船の乗船者は比較的高齢者が多かったので、若年層ではどういう数字がでるのかはわからないが、感染してもずっと無症状の人が一定数いるのは間違いない。

一方、偽陰性の問題は、行政が感染症拡大の深刻化を助長している面がある。

例えば、地元の市立の基幹病院では、PCR検査陰性の結果(むろん、1回だけ)が出ると、陰性証明書なるものが発行される。
そこにはご丁寧にも、陰性なのでクリニック等にかかっても問題ない、という文言が記されており、事務方からは、ほかの病院に行くときはこの証明書を持っていくように、と言われる。

このような「陰性パスポート」は、「感染者数」信仰の最たるもので、「陰性」(あるいは偽陰性)の意味するところを十全に把握しないまま、covid19感染の可能性を一切除外した「結果」だけを提示する。

「結果」を提示された患者は大学に合格したかのように、キャンパス内(世間)を何の憂いもなく闊歩することになる。(偽陰性であった場合は、当然感染が拡大することになる。)

このように「感染者数」という数字は、実態がハッキリしないのに絶大な(心理的)効果を有しているマジックワードなので、マスコミには格好の餌食となる。

近頃は、「陽性率」や「重症化患者数」などのより実態に即した「数字」が挙げられることも多くなってきた。

「陽性率」の場合は、分母の問題(同一者複数検査をカウントするか、民間実施検査をカウントするか)や場所の問題(サンプルの採取地)はあるが、条件をそろえれば感染の広がりを見るには「感染者数」より信頼できる。

「重症化患者数」は、医療資源の余力を計測するためには感染者数よりも直接的な効果が期待できる。
ただ、これは遅行指標なので、「感染者数」や「陽性率」や「R値」といった数字が予測分析するためには役に立つ要素はある。
(「感染者数」についていえば、高齢者の感染者数は予測分析には役立つ可能性が高い。)

そもそも、このcovid19感染症という「ゲーム」の勝利条件は、重症化患者をケアできる環境が十分に整えられている状態の維持、なはずだ。

「感染者数」の低位維持でもなければ、感染による死亡者数ですらない。

患者が最新の設備で最善のケアを施されても死亡した場合は、社会にとって「敗北」を意味しない。
通常の条件では救うことのできた患者を死亡させた場合、これがcovid19の勝利ポイント(社会の失点)になる。

従って、勝利(敗北)条件から逆算した場合、重症化患者数を増やさないことが最も重要な指標となる。

見逃してはならないのが、covid19の勝利条件(社会の敗北条件)はウィルスとは直接関係のないところでも発生するという点である。

経済活動の停止による企業倒産、失業者の増大、国家財政の悪化、学校閉鎖による教育機会の制限、ステイ・ホーム運動による高齢者のフレイルの増悪、学童の心理教育面での悪影響、文化活動停止による「思い出」の機会喪失、コロナ鬱の浸透等々、枚挙にいとまがない。

「救える命を救う」という勝利条件を万全にするため、小さな敗北を繰り返している現状で、「感染者数」の果たしている役割は大きい。

大きすぎる、と言っても良い。

「感染者数」は「救える命を救う」ために、活動自粛を通じて貢献している面はあるが、それが適切なレベルかどうかは甚だ怪しい。
一方では、「感染者数」のマジックにとらえられた人々は「小さな敗北」を重ねながら、追い詰められていく。

新しい感染症の場合、データの収集・確証・対策が時間差を置かずに同時進行していく、せざるを得ないので、正しい対策の実施は難しい面はあるが、せめて何を目的に発表する数字なのか、対策なのかを明らかにしておいた方がよいのではないか。


蛇足
covid19に関する情報発信で積極的な忽那賢志医師の記事は、現場の状況や分析について常にアップトゥデートな内容で、頭が下がる思いだが、勝利(敗北)ポイントを医療側(救える命側)に100%偏らせている、という難点がある。

医療側の記事としては優良ではあるものの、最新の記事では、病院経営者やビジネス関係者が書くcovid19関連の記事を(モデルに沿っていないと)貶めるような文章を書いている。

あたかも、臨床医師がモデル分析する記事だけが公共の場に出されるべきだ、とでも言わんばかりだが、いかがなものか。

この感染症の問題に関しては勝利ポイントは医療施設側にだけにあるわけではない。
小さな敗北の集積をどう評価するのか。
彼の眼にこういった問題は一切映らない。

それに、時系列的な状況が似ているというだけでフロリダの例をモデルに出されているが、環境条件の違いはどう説明するのか。(そもそも東アジアと欧米では状況が違う)

専門家が危機感をやたら煽るという構図は、3~4月ころの在英の日本人医師がロックダウンしない限り感染爆発すると言い続けて「オオカミ少年化」した悪例があるが、あまり露出しすぎるとかえって信用されなくなるので、注意が必要だろう。

(この在英医師は日本が第1波を抑え込めたのは、ロックダウンと同程度の外出制限があったから、と事後的に説明したが、これはグーグルの外出制限分析によって否定されている。)

















山口良忠という人物がいる。

太平洋戦争終結後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して、食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した裁判官として知られる。

食管法自体、守ることが不可能な法律であったと非難されるのは後年になってからだが、当時は社会に混乱をきたしたものだろう。

混乱期において、現実に合わない理想論は悲劇を生む。

さて、現下の新型コロナ環境で厚労省が提唱している「新しい生活様式」だが、これが戦争直後の食管法に近い危険性を秘めている点を指摘しておきたい。

「新しい生活様式」のそれぞれの対策は、現実離れしたものが多いが、なかでも問題とみられるのが、「外出時、屋内にいるときや会話をするときは、症状がなくてもマスクを着用」という項目である。

マスクをしていると蒸れるし、熱がこもり、息苦しくなる。
夏場にマスクをしたまま活動することによって、健康被害が起きるのではいか、という不安は多くの人が感じていると思われるが、この疑問に対する回答は現在のところ、はなはだ心もとない。

いちおう、専門家の見解を紹介しておく。

例1.「このまま熱中症シーズンを迎えたら、医療現場は崩壊!、熱中症対策を全国民で」(かくれ脱水委員会 5/1リリース

要旨
・外出自粛で筋力が衰えている高齢者は例年より脱水症状になりやすい。
・マスクをつけて過ごしていると体内に熱がこもりやすく、口喝の鈍化をおこしやすい。
・熱中症にならなくても、脱水症はウィルス感染のリスクになる。
・熱中症の症状と新型コロナ感染の症状は似ていて、判別しにくい。

例2.「夏場のマスク、熱中症に注意、こまめに水分補給を」(日経新聞 5/13リリース

要旨
・新型コロナ対策としてマスクの着用は続けるべきだ。マスク着用で体感温度が上がる傾向があるが、心理的な側面が大きい。マスク着用自体が体温の上昇や熱中症を直接的に招くわけではない。(群馬大大学院 鯉渕典之教授)
・マスク着用の運動は、スポーツ選手があえて低酸素状態で負荷を高めるトレーニングに近い。夏場に自覚なく走るなどすれば、熱中症リスクを高めかねない。(筑波大 久野譜也教授)


例3.「新型コロナと熱中症対策」(日テレニュース24 5/12放送

要旨
・新型コロナの流行と熱中症の季節が同時に訪れる。これは世界で誰も経験のしたことがない事態。(マスクをしていると)吐く息の温度は36度に近く、湿度は100%と高い。マスクの狭い環境の中で、熱中症が起こりやすくなる。(日体大大学院 横田裕行教授) 

ほかにも各所でマスクと熱中症のリスクを論じた解説がみられるが、ほとんどメディアが信用できないのは、夏場のマスク着用とこまめな水分補給をセットで推奨している点である。

マスクの着用とこまめな水分補給は両立しない。

むしろ、マスクを頻繁に取り外しする行為は、マスクをしていないよりも感染リスクを高める。
いちおうの参考

マスクの表面には触らず、耳付近のゴムをつかんで外す。外したら、ただちにゴミ箱に捨てて、手を洗う。
マスクの着用は以上の標準的な取り扱いをしない限り、意味がないばかりか、害悪ですらある。

なぜ、こんな基本的な事すらわからないのか不思議だが、これもコロナ祭りで舞い上がって、普段の冷静な視点が失われている実例の一つなのだろう。

平成30年の6~9月の熱中症による死亡者数は1518人である。参考
今年も猛暑が予想されている。
新型コロナの死亡者数と比較することはあまり意味はないが、それでもマスクの着用によるベネフィットとリスク比の計算は最低、必要だ。

新型コロナのリスクにだけ注力するのが「専門家会議」の役割なら、ここには責任はない。
責任の所在は、それをとりまとめ、政策決定する厚労省だ。

厚労省の「新しい生活様式」を忠実に守った結果、山口良忠氏のような悲劇的な例が起きたとしても、誰も責任はとってくれない。

新型コロナ事案で、ひとつわかっているのは、誰も答えを知らない、という事である。

個々人が正しい(と思う)情報で判断し、正しい行動を選択する。
公式な情報は非公式な情報より確度は高いが、その情報の選択は正しいとは限らない。

厄介な時代だが、個々人の判断と行動が問われる、という意味では面白い時代なのかもしれない。


蛇足
1.新型コロナ案件で混乱に拍車をかけているのが、交絡因子が多すぎて因果関係と相関関係がごちゃ混ぜになって、原理的に正しい評価ができないにもかかわらず、「科学的に」解決しようとしている、せざるを得ない、その答えを国民が求める、という難点(限界点)である。
PCR検査、ロックダウン、マスク、すべてがそう。

2.マスクの着用推薦の前の段階では、公式には咳エチケットの推薦だったが、いつの間にかマスク常時着用推薦になってしまった。咳エチケット順守の方がマスク常時着用よりも熱中症リスクは低く、使い勝手は良い。
なぜ咳エチケットは「新しい生活様式」では後景におしやられ、マスク常時着用がアピールされるようになったのか、リスクの過剰評価が影響を及ぼしていると思わざるを得ない。










危機対応というと、脊髄反射的にスピード感をもって使えるものは全部使って、といった論調が支持され、強い口調で主張・批判する勢力がメディアをジャックする傾向が強くなるものだが、現実の対応はそんなに早くもできなければ、使えないものがすぐに使えるようになるものでもない。

こういった「早く早く」という世論に押されてか、安倍首相がトランプ大統領にかけあって無償提供にこぎつけた(らしい)レムデシビルだが、肝心の効果はハッキリしない。

5/7メディカル・トリビューン誌の記事では、「臨床的改善」「死亡率」「ウィルス量」ともにプラセボ群とremdesivir群で有意差がなかった、との(Lancet4/29初出ネタの)データが紹介されている。

記事の終わりごろに出ているエディンバラ大学のNorrie氏の付随論評が振るっている。

「観察研究で得られた有望な結果は、質の高いRCT(試験)で厳格に確認または否定されなければならない。それはパンデミック下ではいっそう困難になるが、エビデンスの判定基準を下げるという誘惑に負けてはならない。効果がなく安全でない介入法の採用は有害であり、真に有効かつ安全な介入法を見出す試験の実施がさらに困難になるからだ」

一方で、米国国立衛生研究所(NIH)が4/29に公表したremdesivirの臨床試験では、プラセボ群と比較して、死亡率に差はないが、患者の回復を4日間早める効果がある、との結果が出ている。

Lancetネタのデータ素材は中国で、NIHネタのデータ素材は米国や日本、ほぼ反対の結果を同日にリリースしているのは何か政治的な意図があるのか。
(背後にはポストコロナ時代を見据えた市場プレゼンスをめぐる争いはあるだろう。)

ともかく、両試験とも死亡率には影響を与えない、との結果が出ているので、これをもって夢の治療薬というのは少し無理がある。

強力な治療薬やワクチンはそう簡単にできそうにない、という見込みが浸透し始めると、じゃあ抗体陽性者を増やして集団免疫にしちゃえ、という方向に行きがちだが、これもそう簡単にいかない。

歌手のマドンナが新型コロナウィルスの抗体陽性が出たとのことで、早速「私には抗体があるから、明日ドライブに行ってコロナの空気を吸い込もう」と発言した(記事)らしい。
抗体陽性=免疫獲得という短絡は先述した脊髄反射の一断面で、日本でもそういう受け取り方があるように見える。

太融寺町谷口病院の谷口恭氏によると、抗体検査陽性の結果の解釈は3通りに分類される。(参考
1.現在感染している(抗体はウィルスが完全に消滅する前に出現する)
2.既感染で自然治癒した
3.未感染(主に検査精度の問題)

抗体検査の精度については、ロシュのCEOが欧米の現状を酷評したり、日本感染症学会が性能検査でダメ出ししたり、と何かと議論のあるところだが、技術的問題のハードルはそう高くはなさそうので、今後は改善していく可能性が高い。

抗体陽性が免疫パスポートの獲得といえない理由は精度の問題以外にもたくさんある。
そもそも今まで人間が経験したことのないウィルスなので、免疫のメカニズム、有効な期間、抗体量の推移などを手探りで解明していくしか手はない。(参考

さらに、ウィルスの変異についても徐々に解析が進んでいるが、ワクチンや免疫がどの程度変異に対応しうるのかは全く未知数というしかない。

残酷な結論としては、新型コロナウィルスに対して一発回答で満点の答え(対処法)は少なくとも今のところ見当たらない、ということだ。

現状、メディアで批判を繰り返す論者の多くは正解(例えば、PCR大量検査)があることを前提にしているが、正解は今のところわからない。
さらに言えば、結果のポイントをどの時点に合わせるかによって、正答と正しい解決方法は変わってくる。
そもそも技術的、政治的、自然的(ウィルスの浸透、変異、耐性化等)な状況は時間と共に変化していくので、有効な方法論も変わっていかざるを得ない。

秘密兵器のような解決方法はないので、「とりあえず抑えられている」という状態を長く続けられるような社会の仕組みにしていくしかない。

従って、つまらない答えにはなるが、社会の持続性と医療資源を両天秤にして、社会的距離の置き方を決定していこうとする日本のやり方は当座の対策として、理にかなっていると言える。

で、このやり方では、結局のところ、キモになってくるのは、技術でも法でもなくて、実際に生活を営む人間(その国の人々)の行動ということになる。

政治のリーダーシップは(人々の行動の)枠組み作りとして必要だが、決定的要因にはならない。

東日本震災のとき、災厄に対して効果的だったのは、防潮堤(技術)や逐次的な公共の情報よりも人の教育、こういうことが起こった場合、こういう風に行動するとわかっていて、実際に行動できたか、であったといわれる。

多くの人は「STAY HOME」でずっと持続的に生活できないし、また社会の活力のためにもそうあってはならない。

持続可能な生活パターンで、できるだけ感染しない/させないためにはどういう行動をすべきか。

今考えておくべきことは、PCRや抗体検査やワクチンのことではなく、生活の営みを新型コロナモードにどう変えていくか、であることは明白だ。

その点で専門家会議が提案した「新しい生活様式」は、意図が明瞭で、理解しやすい。
残念なのは、世の中の大勢では、あまりこの提案が顧みられることがない点だ。

「新しい生活様式」が緊急事態宣言解除後の新しい国民の生活様式とするのなら、これが本当に妥当かどうかをもっと議論しなければならない。

例えば
・会話をするときなるべく真正面を向かない
・屋内にいるとき会話をするときは、症状がなくてもマスクをつける
・屋内で遊ばない

といった「生活様式」が持続可能なのか、専門家会議は議論したのか。
(専門家会議のメンバーは自宅でずっとこれを続けられると思うのか。)

ちなみに言えば、人類の歴史上、ここまで国民の私権を侵犯するような要請を要求した政治権力はない。
文化大革命時の中国共産党やスターリン体制下のソ連でもない。

ソ連時代のジョークにこういうのがある。

夫婦が寝室で寝ていると、ドアを破って男たちが侵入してきた。
男たちは裸で抱き合う夫婦にナイフを突きつけ、叫んだ。「金を出せ」
夫婦はむせび泣いて、ささやいた。「助かった~」

共産党の秘密警察ですら、家庭内の家族の在り方に口をだすことはなかった。

この災厄は対応する技術や政治的差配の問題でもあるが、もっと大きく生活する人間の問題である。

なので、教授や元政治家の技術論的、政治論的な批判ばかりではなく、生活する人の不満と実際に感染症を制御している医療者の意見をすり合わせるような試みがもっとメディアにのっていかなければならない。(が、ほとんど、ない。)

生活環境の構造転換は、新型コロナ時代に必要だが、持続不可能な形では根付いていかない。
あまりに強力な私権制限には現実がついていかないので、時を置かず忘れられてしまうだろう。
(つまり、今般の専門家会議の提案は宣言解除後に忘れ去られる可能性が高い。)

感染制御側と生活者の現実的なすり合わせ作業は、生活圏から一般社会圏の構造に地続きで影響を及ぼしうるポテンシャルを秘めている。
今はびこっている単なる技術的・政治的批判よりも、ずっと生産的であることは間違いない。

医療人類学者の磯野真穂氏は「STAY HOME」よりも「STAY HUMAN」と主張している。
ヒューマンをないがしろにする生活は長く続けてはいけない。
しかし、一方では奔放な生活は感染症の拡大を招く。

感染症の抑制と人間的な生活の両立をどの規制レベルで成立させれば、持続可能で健全な社会を維持できるのか、今焦点を合わせるべき問題点はこのポイントである。

以下、参考のため。

世代的に区分して行動制限をかける方法を提案しているロンドン大学の論文(主な執筆者はMIT)が最近出てきたようだが、これは主に米国の状況に即して分析されている。

日本の状況はまた違うので、同様の結論(高齢者の活動を強く制限して、若年者の活動を緩く制限する方法が最も経済的損失と感染制御のバランスが良い)にはならない可能性はあるが、分析自体が有用であることは間違いない。

おそらく、専門家会議の「新しい生活様式」の根拠にはこのような分析結果はないだろう。
聞いてみたいところではあるが。





人々の活動を法律ではなく、自粛要請という形で縛る日本独自の方法が今後の長期戦でどこまで有効なのか、キチンと評価しなければならないのではないか。

新型コロナについてはいろいろと情報がとびかっているが、わかっている事はそれほど多くはない。

そのなかでもほぼ確実とみられるのが、この感染症は短期間では終息しない、1回収束して終了とはならない、という事である。
自然感染による集団免疫やワクチンの話などはいろいろと言われてはいるが、すべて憶測であり、今のところ確実な終点は見えていない。

抗体検査は新型キットの開発により、今後精度の向上が見込まれる(参考)が、PCR検査の精度に関しては、今のところ主に人材リソースの問題であり、早期での解決はなかなか難しい(参考)。

抗体陽性者数や感染者数といった数字を扱う場合、その前提となる検査の精度を考慮する必要がある。

結局のところ、この感染症への対応としては、飛沫・接触感染の機会を低減させる、という方法しかない。
都市封鎖、検査と隔離、活動自粛要請などの方法論のどれを選択するかは、状況や国の持つリソース、お国柄によって変わってくるが、日本は活動自粛要請というやり方を採用・維持している。

長期継続が不可避の状況で、この方法の継続は様々な問題を噴出させている。

問題の主たる症状は、経済環境の悪化だが、ここでは活動自粛要請という日本独自の方法に固有な問題に絞って考えてみる。

活動自粛要請が機能するためには、国民意識がある程度統一されていなければならない。
自粛の要請に応じない人が一定数以上いると、当初の目的は達成されない。
従って、自粛の要請は、自粛の均一な浸透でなければならないため、これを可能にするための方策が(意識的/無意識的に)多方面で施されることになる。

街頭アナウンス、CM、ポスター掲示など地方自治体単位のキャンペーンから「自粛警察」と呼ばれる民間人による自警団的活動まで、幅広い活動がみられるが、地方によっては「自粛密告」を推進するところも出てきており、一部で先鋭化の兆しがみられる。
(筆者の現在住んでいる和歌山県では、「休業要請等に関するお問い合わせ窓口について」と題する文書が県から配布されている。そのなかで、県外から来た人の近所に住む人は、登録を勧めたうえ、できない場合は直接県の連絡ダイアルに通知するように、との指示が出されてある。)

自粛要請期間が長くなればなるほど、人々の抑制されていた活動欲求が自粛意識を食い破っていく確率が高くなっていく。
そういった事態を回避するためにとれる対策は2種類しかない。
自粛要請の範囲を緩和するか、自粛意識浸透レベルを維持するためのキャンペーンをより先鋭化させるか、だ。

専門家会議が「感染状況の厳しい地域」と「新規感染者数が限定的になった地域」で分けて対策すべき、という答申を出している(参考)ことから、今後、日本国内ではこの2つのタイプ(自粛緩和と自粛維持)の対策が混在することになる。
そうなった場合、各地域で自粛緩和と自粛維持の綱引きが行われることになるが、客観的データに沿って自粛のレベルが適切に運用できるかどうか、という難題が出てくるだろう。

自粛は飽くまで要請なので、人々の心理面の動きやメディアのコミュニケーション戦略によって大きく影響される。

ニーチェが言うように、「民衆が喜ぶのは自分の姿を明るく照らしだす光ではなく、自分を幻惑し、熱狂させてくれる俳優なのである」(「ツァラトストラ」市場の蠅の章より)

メディアには教授、政治家、元政治家、タレント、コメンテーターなど多くの「俳優」が登場するが、一般論的には強い言葉で受け手を幻惑し、熱くさせてくれる発信者が影響力を大きくする。

自粛要請、という日本独自のシステムは心理戦の要素を色濃く残してしまうため、長期間続いた場合、発信者の影響により、締め付けと緩和どちらかのサイドに大きく振れやすくなる。

「みんなで頑張っていきましょう」という標語だけでは長期間はもたない。
無理やりもたせようとすれば、「自粛警察」や「自粛密告」などの装置が自然発生的に働き始める。
逆にもたない空気が濃厚になってくると、自粛緩和支持の情報発信者が増え、活動レベルが一気に跳ね上がりかねない。

これまでの経緯で、市中でクラスターの発生しやすい場所はある程度判明しているのだから、重点的に営業の休止を縛るゾーンとそうでないゾーンを区分けして、人々の心理面が影響する範囲を狭くしていく方法をとらないと、この感染症を長期にわたって安定的に制御することはできない。

日本の自粛要請政策は事実上、欧米のロックダウン政策と同程度の効果をみせていると考えられる(参考)が、「欲しがりません勝つまでは」的な精神運動をアテにした政策の効果は長続きしない。

むしろ、あいまいでメリハリのない自粛要請政策は、長期になればなるほど様々な問題を露呈していくだろう。

今こそ国や地方自治体の強い決断力が必要だと思う。

今後もうまく活動休止のレベルを調整できれば、日本のやり方は大成功だったという結果(=人口当たりの死亡者数)に終えることもまだ可能な段階にあるのだから。





現代人にとって情報は食物と同様に、身体(脳を含む)を構成する材料になる。

日々、我々は自分の興味(フレーム)に従って、様々な場所から情報を摂取し、思考や感情を構成、行動を調整する。

情報源が極端に限定される場では、思考や感情が集団的に構成され、しばしばそれは同じ方向に増幅される。結果、その集団は多様性を担保する社会と対立し、集団の活力や展開力は失われる。
(イスラム原理主義団体やオウム真理教、旧共産圏等の例がわかりやすい)

現代世界を覆っている新型コロナの恐怖は、あらゆるメディアを通じて流される同種の情報によって広く拡散し、情報摂取者の思考・感情・行動を同じ方向に収束させている。

この状態を新型コロナ恐怖症に感染していると定義した場合、この感染症にかかっている人はかなりの数に上るのではないか。

この感染症にかかることによる長所はある。

人間活動を抑制することで、人ー人間の飛沫・接触感染を防ぎ、新型コロナ患者の増大を減速化、その死亡者数を減らす、という効果だ。

現状、新型コロナ感染拡大を予防する措置として、この恐怖症に感染することは必要悪といって良いが、問題は知らない間に必要以上に恐怖症の症状が悪化してしまうことがある点で、これがかえって新型コロナ感染の状況を悪くしてしまっている面がある。

行き過ぎたコロナ恐怖症の効果(副作用)を挙げる。

A自覚的なもの
➀感染しているかもしれないと安易に発熱外来にかかり、検査を希望する。
②ちょっとしたことで調子が悪いと感じ、普段は行かない通常の外来にかかる。

B無自覚的なもの
➀より強い同じような情報を摂取する傾向が強くなる。
②多様性を敵とみなし、他者(及び違った意見)に対して不寛容になる。
③思考・行動様式が内向化し、心理的抑圧が強くなる。(コロナ鬱の傾向)

A①に関しては、3/2に医事新報で投稿された川口篤也氏(函館陵北病院総合診療科科長)の記事に詳しいので、これをダイジェストで紹介する。

・検査希望者が殺到すれば、発熱者外来受診者間で濃厚接触が起きる。
・検査をする人のマスクや防護服が不足する。
・検査をするごとに手技による感染リスクが高くなる。
・発熱外来を掲げる病院への過大な業務負荷がかかる。
・そもそもPCR検査の感度が高くないので、陰性と間違って判定されるケースがある。この場合、安心してしまって行動制限を不適切に緩め、かえって感染リスクを高める危険性がある。

これらの懸念事項に関しては一つ一つ問題をクリアにしていけば、副作用が主作用(効果)に転じる可能性はある(韓国が行った対策の初期→中期はこの経緯をたどった)が、現時点での日本の体制ではデメリットでしかない。

4/18に神奈川県医師会が「お願い」と題してJ-CASTニュースに掲載した記事には、このようなコロナ恐怖症の副作用について丁寧に書かれてある。

コロナ恐怖症感染の転帰としては、B①⇔B②がまず起こり、次にAやB③のフェーズに移行する。
B①とB②は増幅ループ(B①を摂取することでB②を引き起こし、B②がより強いB①を求める)を形成する。

B①は「もう日本は手遅れだ」とか「今すぐ●●をやらなければならない」(●●は政治的課題や技術的課題から今すぐは実行不可能なこと)「医療崩壊は起こっている」といった情報、あるいは重症化体験談などで、これらの情報は摂取しても正しい行動に反映されにくい。

(重症化体験談を知ったところで、重症化を防げるわけではない。がん体験談にはがんにかからない確率、重症化を防ぐ確率を上げる効果は多少あるかもしれないが、現状、対症療法しかない新型コロナ感染症に関しては、飛沫・接触感染の機会を減らすくらいしか選択できる手段はない。)

これらの情報は、いたずらに不安感をかきたてるだけで、むしろB①⇔B②の増幅ループを形成しやすい。(強迫障害における強迫観念の増強と相似形)

従って、この症状の進行を抑えるためには、B①のような情報との接触機会を減らし、情報摂取は公式にオーソライズされたものでとどめておく、という態度が必要となる。

医療に関しての良質な情報(正しい行動を促す情報)は、それほど矢継ぎ早に出てくるものではない。

次々新しく更新される利用可能な情報は、医療面よりも、経済的・法的関係のものが多い。
(なぜなら、自然の解明やそれへの対応は日々のペースでの更新は不可能だが、経済や法的規制など人のつくる環境は、日々のペースで変わることが可能だから。)

いろいろ言われてはいるが、日本の新型コロナによる死亡者数は(4/19現在)人口100万人当たり1.22人であり、この数字はG20ではベスト3位に入る。(参考

持続可能な社会と感染制御のバランスは、少なくとも日本では今のところはうまくいっている、と判定せざるを得ないのではないか。

新型コロナ対応は長期戦になるのが必至なので、持続可能な社会の中での感染制御を考えていかなければならないが、一部論者(欧米メディアや欧米在住識者に多い)は感染制御という箱にこもって議論している印象を受ける。

過度に楽観的になるのも危険だが、過度に悲観的になるのも危険な面がある。
このことに留意する必要があるだろう。

蛇足
経済学者(理論)や法律家(理論)ではなく医師(の見解)が政治・経済を大きく動かす時がくるとは、歴史上の政治思想家は誰も想像できなかっただろう。
口の悪い言い方をすれば、今回の件は医療版ショック・ドクトリンとでも言えそうだ。
トランプのコロナ中国陰謀論の跳ね上がり方を見ていれば、政治的危機が次元の違う段階に及ぶ可能性もあるのではいか、という危惧を抱いてしまう。





このページのトップヘ