仏教的世界観で諸相を観察する

政治経済・教育文化・医療のテーマに分けて観察します。

防衛政策や経済政策など大きな課題について議論するのは、政治活動の要ではあるが、庶民の生活に直結する小さな政治的課題についても、きちんと議論しておかなければならない。
こういう議論は、民主主義政治にとってとても重要なことだと思う。

で、今回唐突ともいえるタイミングで出てきた政治的課題がこれ。

抗がん剤など超高額薬が乱発される時代に、軽度の症状に使う薬(風邪薬、花粉症治療薬、漢方など)を保険収載にのせておく余裕はないので、患者は自費で払って購入するように、との政策。

参考:産経記事

今年の5月には1回の投薬で3349万円かかる白血病治療薬(薬品名キムリア)の保険収載が話題になった。

公的医療保険の窓口負担は現役世代で3割だが、1か月あたりの自己負担の上限を定めた高額療養費制度が適用されるため、例えば年収500万円の人がキムリアを使った場合、40万ほどの負担で済む。

自己負担外の大部分の費用は社会保険料と税金で賄う。

こういった超高額医薬品は近頃、続々と上市されてきており、その勢いはとどまるところを知らない。
今後もリンパ腫治療薬イエスカルタ(1回投与4000万円以上)、遺伝性網膜疾患治療薬ラクスターナ(両眼1回投与で1億円弱)といった超高額の医薬品が上市を控えている。

経時的にみてみると、2017年度に1か月の医療費が1000万円以上かかった件数は532件で、5年前に比べて2倍に増えており、高額療養費の支給総額は2016年度に2兆5579億円に達している。

参考:日経記事

今回俎上に上がった軽度治療薬を市販薬で代替したとしても、年2126億円にしかならない事を勘案すると、財政面における真の問題点は別のところにあると言わざるを得ない。

超高額薬の薬価については発売後に大幅に引き下げられるケースが多く、メーカーにとっても膨大な開発費を考慮すると、それほど余裕があるとは言えないだろう。

蛇足ながら、超高額薬への経営資源の集中により、軽度治療薬の製造については軽視する傾向を強めているメーカーが特に外資には多いように見受けられる。

さて、この問題の論点はどの切り口から見るか(保険負担者、軽度疾患治療者、メーカー、重度疾患治療者、医療提供者等)によって評価は変わってくるが、とりあえず国は「大きなリスクは共助、小さなリスクは自助」の理念のもと、軽度治療薬のカット、超高額薬(重度疾患薬)の認定の方に舵をきろうとしている。

これは妥当な判断なのか?

情報を整理しておく。

(保険負担者視点)
1.超高額薬の上市が医療費負担を圧迫しており、この傾向は今後も続いていく。
2.軽度治療薬を市販薬と代替することで医療費負担をある程度軽減できる。 

(軽度疾患治療者視点)
1.保険が利かなくなるので、負担額が上がる。自分の購買力でカバーできるか不安。
2.治療に関する診断と治療指針が聞けなくなる不安。

(メーカー視点)
1.経営資源を難治疾患に集中させる機会。
2.薬価のつかなさそうな(安い、ロット数が出ない)分野には投資しない方針。

(重度疾患治療者)
1.生きているうちに少しでも良い薬が上市されれば大歓迎。

(医療提供者)
1.今まで治療が難しかった疾患に明るい道筋をつける超高額薬は使ってみたい。
2.軽度疾患者といえども、診察・治療機会が失われると重症化のリスクが顕在化する可能性あり。

毎日、店頭で患者さんと話をする立場から見ると、軽度疾患の患者といえども、保険適応のおかげでどうにかやっていけてる人もいる。
この人たちに自費で購入しなさい、というのはかなり酷な話だなあ、という実感はある。

(例えば、湿布を毎日広範囲に貼っている人がいるが、本当に貼っていないと痛くて寝れないという。こんな人たちが大量の湿布薬を自費で賄えるとは思えない。漢方も毎日飲んでないとダメだという人がいるが、この手の人も自費購入は経済的に無理だ。)

「小さなリスクは自助」の難点は、治療者の経済的問題と小さなリスクの重症化の問題をはらむ。

「大きなリスクは共助」の難点は、年々高度化する費用と治療受益者の特権化(受益者と負担者のバランスが悪い)問題をはらむ。

国の方針はデルフォイの神託のように、すべての人々が納得しなければいけない正しさを保証するものではない。

議論によって変えていくことも民主主義政治では必要であろう。







ザンタック(成分名=ジェネリック医薬品名=ラニチジン)という胃薬がある。
1981年に上市されて以来、使われてきた薬だが、原料に発がん性物質であるNニトロソジメチルアミンが混入されているかもしれないということで、自主回収の運びとなり、にわかに脚光を浴びる事態となっている。

この地味な薬が注目を集めている真の理由は、しかし、発がん性物質の混入可能性ではなく、その自主回収のやり方による。

普通、医薬品が自主回収される場合、新規処方の停止、病院・薬局の既存在庫の回収で終了だが、今回は患者の手持ちの薬まで回収するという、従来とは次元の違う回収方法をグラクソ・スミス・クライン社(GSK社)は選択した。
これが、医療関係者には少なからぬ驚きをもって見られている。

上市後に何らかの理由、例えば原料の受入れ試験に不備があった(2019年10月)、原料の製造段階での異物の混入があった(2019年3月)、溶出率が基準に達していなかった(2019年1月)等により自主回収に至る例はさほど珍しくはないが、今回のような回収例は非常に珍しい。(PMDAサイト参照)

今年の2月と去年の7月に起きた同じNニトロソジメチルアミンの混入ケース(クラスⅠ)でも、あすか製薬ファイザー社は患者の手持ち分までの回収には手を入れなかったが、GSK社はなぜか強い積極的な回収をしかけてきた。
(あすか、ファイザーのケースはロット回収、GSKのケースは全ロット回収という違いはある)

で、患者へのお知らせとして、手持ちのザンタックをもって病院へ行って、代替品と変えてもらい、それを自費で払った後、GSK社に領収書でもって請求するように、という実にややこしいやり方をアナウンスしている。(以下の通り)

ザンタック_page-0001   
























 













これに困ったのがジェネリックメーカーと診療側で、GEメーカーは慌てて同様の対応を打ち出し、各々病院は「患者様へのお知らせ」としてインフォメーションを流している。(東大病院の

患者がザンタックを握って病院に来た場合、通常とは異なる支配方法で請求しなければならないなど事務方の混乱もあるが、最も懸念されるのが医療(機関)不信を助長しかねないという点で、例えばこういう対話になる可能性は十分ある。

患者:発がん性物質が混入されてるって本当ですか?
医師:いや、混入されている可能性があるだけで、今のところ健康被害は出ていないし、がんとの関連性も今のところでてきているわけではないから大丈夫ですよ。
患者:じゃあ、なんで今頃変えなきゃいけなくなったんですか?私、これずっと飲んでんですけど。
医師:外国のほうでそういうような話があったみたいなので、念のためってことです。
患者:ずっと前から発がん性物質が入ってるのに、わからなかったってことでしょ。そもそも、がんとの関連性がないなら、回収する必要ないじゃないですか。
医師:メーカーがそういう判断をしたのです・・・

患者:なんでこんなに高いの?
事務:自費ですから。
患者:そっちが悪いんでしょ。なんでこっちがこんなに払わなきゃいけないの?
事務:領収書出すので、メーカーに請求してもらえれば、返ってきます。
患者:面倒くさいわ。もういいわ。保険で通るやつで新しく出しといてよ。
事務:わかりました。先生に連絡します。

ちなみに、後者のようなやり取りは地元の病院で実際にあったというのを耳にした。

薬剤の場合、副作用や効能について予見できない部分は必ず残るので、そこをつつかれると診療側はなかなかに辛いところがある。

今回の発がん性物質混入可能性の件は、実質的な影響はまずないとみられるが、例えば血圧の薬で従来腎臓保護作用がある「身体にやさしいタイプ」とみられていたARBが2017年の論文で、実は動脈硬化をきたしている高齢者の死亡率を上げてしまうという事が判明した件など、特に生活習慣病の長期にわたる薬物治療では「よくわからない」部分が逆効果として表面化してしまう場合がある。

こういった「実は違っていた」ケースが頻発し、大きくアナウンスされるようになると、医療不信が雪だるま式に膨れ上がってしまう可能性はある。

現代医療に対する盲信にも(主に医療者側に)問題があるかもしれないが、受診者側が現代医療への不信から根拠のない服薬拒否や民間療法へのシフトに振れるようになると、それはそれで不幸な結果しか生まないと言わざるを得ない。

蛇足:
なぜGSKがこういうことをやり始めたのかは不明だが、「社会情勢を鑑みて」と言っていることから、後々いろいろと批判されたり、もしかして訴訟案件などになったら?等リスクを大きめに査定した結果、とりあえずアリバイ作りにやっとけ、ということで「医療機関に丸投げ」になったのではないかと勝手に思っている。

しょーもない事で大騒ぎするのを恐れて、その手前から大騒ぎするというバカバカしい事態は実に現代的な現象だなあという感想。












































ベルリン映画祭で金獅子賞(最高賞)、アカデミー賞有力候補作、ということで早くも傑作との評価も高い映画「ジョーカー」だが、評論家筋の評価にはどこか微妙な戸惑いが感じられる。

この悪魔(主人公)に同情することは、自警団を正当化することになるだろうか?それともフェニックス(主人公を演じる俳優)とフィリップス(監督)は、今日の社会に悲しく鳴り響く明白な事実、すなわち犠牲者が加害者へと変貌する経緯をさらに掘り下げようとしているのか?
(ローリングストーン誌 ピーター・トラヴァーズ リンク

アーサー(主人公)はカオスとアナーキーを巻き起こす。しかし、映像は彼をまるで革命を引き起こす革命家のようにとらえる。彼の革命は富裕層が打倒され、貧困層は自分たちが必要とするものを手に入れるのを可能にするように見える。日常生活では無力で悲しい男は殺人鬼のヒーローとなる。ここにはどこかゆがんだジョークが見え隠れする。不幸なことに、我々はそういった世界のただなかにいるのだ。
(タイム誌 ステファニー・ザカレック リンク

フィリップス(監督)は光と影をあわせ持ち、この気が狂った世界で唯一まとも(だと思っている)スーパーヒーローという設定を余儀なくされる。この映画は(見るものによって印象を変える)ロールシャッハテストというより、(生と死の間に突き落とされる)シュレディンガーの猫に近い。・・・ジョーカーは世界をひっくり返し、その過程で我々見るものをヒステリー状態にさせる。良いか悪いかはわからないが、それこそがジョーカーが望んだ世界そのものだ。
(インディワイアー誌 デビッド・アーリッチ リンク

ジョーカーこと主人公アーサーは、自ら道を選んで悪の轍を踏んだわけではない。そこにはダークヒーローなどといった気取ったワードとは無縁の、逃れられない運命の帰結として悪が存在する。人生に選択の余地を与えぬ、容赦ない哀しみの腐臭を放ちながら。・・・「狂っているのは僕か?それとも世間か?」ドーランを血に代えた、悲哀を極める悪の誕生を見た後では、ジョーカーへの同情が意識を遮断し、もはやバットマンに肩入れすることなどできない。なんと恐ろしい作品だろう。
(映画.com 尾崎一男 リンク

以上、引用。カッコ内は筆者による注釈。

不定期雇用の派遣労働者で母親と同居、友達も恋人もいない精神疾患を抱える中年男がひょんなことから武器を手に入れ、殺りくに走る。

彼のおかす殺りくはしかし、無差別ではない。
彼を馬鹿にするエリートサラリーマン、保身のためにうそをついてだます同僚・家族、富裕者層を相手に貧者をネタに笑いをとる大物司会者。
これらは殺害の対象だが、殺害現場に立ち会った小人症の道化は対象外。
彼には殺害現場を見られたから殺す、といった保身を動機とする暴力はない。

2013年に起きた「黒子のバスケ脅迫事件」で加害者が使ったフレーズ「無敵の人」は、もともと(国家から家族まで)あらゆる社会的信用から疎外されているので、失うものが何もない状態の人、と解釈され、その後のいくつかの事件でも加害者のプロファイルで取りざたされたが、「ジョーカー」は世界規模でこの「無敵の人」を浮上させた趣がある。

「ジョーカー」は日本で取りざたされた「無敵の人」とは違い、無差別で人々に害をなすことはしない。
彼は世間のルール(法)や価値観を笑い飛ばし、自分のルールで世界を裁く。
いわば、自分のアイデンティティをしっかり保持した「進化版無敵の人」とでも定義できようか。

クライマックスのテレビの生放送で、大物司会者を射殺するシーン。
「ジョーカー」は今までの殺人を告白し、大物司会者がそれを正論でもって非難する。
「不満があるからと言って殺してよいわけではないだろう」云々。
おそらく、司会者の言うことは大多数の常識人が思うことで、常識的には反論の余地はない。
しかし、「ジョーカー」は司会者を躊躇なく射殺する。
「ジョーカー」はこの世界のゲームそのものに対して拒絶しているので、そこで通用するルール(を支える常識)は何も響かない。
この会話からの(上流層的な常識人)の殺害により、「ジョーカー」はこの世界から零れ落ちてしまった人間、見捨てられ忘れ去られた人間のアイコンとなる。

「ジョーカー」が拒絶する世界は、テレビの司会者や大富豪が弱者をいたわるようなフリをしながら、事実上軽蔑し、隔離する世界であり(しかも、司会者や大富豪はその事実に気が付かない)、それはおそらくある程度現実とリンクしている。

年金制度のモデルケースや人事院勧告の民間給与実態調査の取り上げ方を見るまでもなく、「表の世界」から零れ落ちた人達は高度にシステム化された日本社会でも少なくない。

まして、政府の統治機能が日本より劣る(あるいはもっと厳格に制御された)国々では、「表の世界」の欺瞞とその常識が逆転する、逆転を欲する事態は差し迫った恐怖(あるいは解放)として、よりリアリティをもつのではないか。

「ジョーカー」をヒーローに祭り上げる人たちは何を求めるのだろうか。
彼らは「格差社会からの解放」といったようなイデオロギーを信じているわけではない。
彼らは社会への違和感とそこからの解放を実行しているだけだ。
そこには何の知性も思想も底意もない。
だからこそ、そこには酩酊するような不気味な魅惑が存在してしまうのだろう。

テレビの生放送前に舞台のそで裏で、「ジョーカー」がダンスをするように身体をゆっくり傾けていく。
少し離れた場所で二人のテレビクルーが背を向けて仕事をしている。
「ジョーカー」の狂気と喜びと解放、「表の世界」のシステマチックな冷たさと退屈が同じ画像に映り込む。
映画史上の名シーンといって良い。







インフルエンザウィルスが猛威を振るっている。
罹患者の急増とともに、報道の量も増えているが、安易な情報開示がかえって混乱を招くことにもなりかねないので、注意が必要だろう。

1/23放送のワールドビジネスサテライト(WBS)で取り上げられた新薬「ゾフルーザ」をめぐっては、「1回で効く」「今までとは異なるメカニズムで効く最新の薬」という触れ込みで報道されることが多く、患者の希望が殺到する事態になっている。

その結果、販売元の塩野義製薬が出荷調整に追い込まれるほどの供給ひっ迫をきたしている。
ニュースリンク

医療関係者の多くは、この現象を異常事態だと感じているのではないか。

「ゾフルーザ」を単純に最新=最高の薬とみなすには、保留を付けなければならない点が多い。
日本感染症学会でも日本小児科学会でも、それぞれ変異(耐性)ウィルスの産生、データ不十分(のため安全性が未確立)、との理由で「ゾフルーザ」投与を推奨していない。

科学的にみると、有症状期間の短縮ではオセルタミビル(商品名タミフル)と比較して同程度、ウィルスの減少スピードではバロキサビル(商品名ゾフルーザ)が速い、という結果がでている。
そしてどちらも、発症後48時間以内の患者でしか治療効果が認められていない。

一方、ゾフルーザは治験時に9.7%の薬剤耐性ウィルスが出現していることから、感染症の専門家からは将来高病原性の新型ウィルスが出現したときに、今の時点で一般的に広く使われる状況は好ましくない、との見解も出ている。(日経メディカル1/24配信 岡 秀昭氏)

タミフルの耐性株問題は一時期話題になっていたが、1/21にデータ更新された最新の抗インフルエンザ薬耐性株サーベイランスでは、2018/2019シーズンのタミフル耐性ウィルスの検出は確認できていない。

副作用のコントロールも1回服用のゾフルーザより、1日2回、5日間服用するタミフルのほうに分がある。
一治療あたりのコストもゾフルーザがタミフルより2,069円高い。タミフルのジェネリックと比べると3,429円高い。
(仮に1000万人にゾフルーザを投与した場合、タミフルのジェネリックを使った場合と比べ、計算上342億9000万円のコスト増となる。)

先述したWBSでは、高熱を発していた中学生がゾフルーザを投与された翌日、解熱した事例が放送された。
このように一事例を前景化することは、視聴者に「強い印象」を抱かせる効果があるが、客観的な評価を隠蔽するリスクもある。

雑誌やテレビなどで情報の一側面の「強い印象」が振りまかれることで、一般市民の間での一情報の支配力が高くなり、世間が一方向に振れる、という現象は、医療情報にあっては好まししいものではない。

ある食品を健康情報番組で取り上げると、翌日のスーパーでその食品の棚が空になる現象は典型例だが、情報の一側面がある程度の権威とセットになると、強力な影響力を発揮する。

マスメディアにはインパクトがないと視聴率が稼げないという面がある。
それはわかるが、可能な限り一側面ではなく、別角度からの情報を取り上げる工夫をこらす責務もあるだろう。

「別角度から」によって情報のメッセージ性が薄くなっても、客観的情報は添えるべきではないか。
昨今の医療情報番組(特に民放)を見ていると、一方的な内容のものも散見され、製作者側の安易な見通しが目立っているように感じる。


蛇足
個人的には抗インフルエンザ薬は健常者には必要ないのではないか、と思う。
アメリカ感染症学会での推奨レベルも低く、世界的には自宅療養が主流。
1回通院し、インフルエンザ判定がでず、また次の日通院する、といった事態も日本では珍しくないが、無駄な感染リスクを高めているとしか思えない。









職業柄、医療情報番組を暇に任せて見ることが多いが、25日の初耳学の内容は酷かった。
「風邪のひき初めに葛根湯を飲んでも、風邪は治らない」と題し、2014年の京都大学の論文を根拠に葛根湯、意味ないじゃ~ん、とゲスト芸能人に叫ばせる、という趣向だが、テレビの前でちょっと待て待て、と思った人も多いのではないか。

風邪のウィルス本体をやっつけるわけではないから、風邪は治らない、という論理だが、どう見てもおかしいでしょ。風邪の症状が抑えられれば、早く日常生活に復帰でき、免疫でそのあとはカバーできるのでOKでいいではないか。

それで、肝心の論文だが、風邪の症状を抑えなかった、と言っているわけではなくて、重症化抑制に効果を認めなかった、正確に言うと22.6%の被験者に重症化抑制効果がなかった、という結論なので、これをどうとるかは判断が難しい。

実際、論文の執筆者は結論で「両群の感冒症状が、それぞれの試験薬(葛根湯と総合感冒薬)により同等に抑制された可能性もある。」と言及している。

そもそもこの論文、穴だらけ。これ1本で葛根湯2000年以上の歴史が証明した効果を否定するには力不足も甚だしい。

穴1 プラセボと比較していない。(葛根湯と総合感冒薬の比較)
穴2 アウトプットが被験者の主観的な日記形式による。
穴3 被験者はポスターやウェブで集められており、漢方診断で必須の「証」が見られていない。
穴4 葛根湯の服薬量が標準より少ない。

穴1,3,4は論文の結論で執筆者が言及しているので、この論文執筆者もまさかテレビ番組でセンセーショナルなネタとして使われるとは思わなかっただろう。

ゲスト医師が風邪薬なんか飲まずに、家で水分、栄養とって身体あっためて安静にしておけばいいのよ、と答えていたが、葛根湯の主要な作用の一つが「身体をあっためること」なんですけどぉ、とテレビの前で突っ込んだ人は多いはず。

こうした番組を見るたびに、制作関係者は論文の概要も読まずに作ってるのだろうか、と疑ってしまう。(概要なら5分で読める)
医師にしても見方は様々なので、せめて違う立場のセカンドオピニオンくらいは聞いたほうが良いのではないか。

こういう吟味の足りない不十分な情報を電波で乗せられると、困るのは現場の医療関係者で、明日から「葛根湯、効かないのに、なんで出すんですか!」とか言われちゃうのですよ。
「テレビでやってた」というのは結構な権威なもので。
張りぼてですけど。

インパクト狙いもやりすぎると深手を負う、ってテレビ局はいつになったら学ぶのだろうか。

件の論文←ここからPDFが見れる。



一方で、2万人単位のリストラをしておきながら、50億にも及ぶ不正蓄財していた日産のゴーン氏はさながら「越後屋、お主も悪よのお」を地で行く悪役だな、暴れん坊将軍のお庭番にでも成敗してもらえばいいのに、などと思っていると、通称ホリエモンこと堀江氏が「しかし、特捜部はスタンドプレーが好きだよな。巨悪をプロデュースするためにセンセーショナルにやってくる。もっとマイルドにやれば市場や会社にダメージないのにね。」とのツイートを発したとのことで、これを聞いてハタと膝を打った。

そういう見方もあるのね。

これって、しかし、どこかで見た風景だぞ、と思い返してみれば、2007-8年の金融危機で盛んに言われた「大きすぎてつぶせない問題」。金融危機の元凶である大手金融機関が破たんしては世界経済に及ぼす影響が大きすぎるってことで、大量の公的資金を注入して救済した、というアレである。
悪いことをしても、影響力の大きい主体ならば罪科は軽減される、その方が全体の利益になるから、というフレームは色々とバージョンを変えてそこいらに正当性を証明しているように見える。

イラクのフセイン政権やエジプトのムバラク政権の転覆はその後の混乱をもたらしたし、現代韓国経済の低迷は現政権が独占的な巨大財閥を締め上げたからだといわれる。(だから罰しなければよかった。)
普通の会社でもこの人は素行に難があるが、いないと回らないので、いてもらわないと困る、というケースはそれほど珍しくないだろう。

全体の利益と順法性(あるいはギリギリグレーゾーン)が逆の方向を向いているケースでは、どちらに重きを置くかはなかなか微妙な問題で、場合によっては法を変える方向で調整することもある。
(金融危機の時はドッド・フランクル法をつくって対応しようとしたが、うまくいっていない。)

さて、本稿(というほど大層なものではないが)の問題提起は、こういった個別のケースについての検討ではない。
一体、「全体の利益」の「全体」とは何なのか、という点である。
前述の堀江氏の言でいえば「市場や会社」であり、「大きすぎてつぶせない問題」で言えば「世界経済」であり、フセイン政権転覆で言えば「イラクの国内統治」である。

個別の案件を検討するのではなく、一般論として検討するには「全体」の概念をその起源にまでさかのぼらねばならない。
その起源をホッブズの「リヴァイアサン」の概念に求めることには異論はないだろう。
その手前のアクィナスの自然法理解は現代では全く通用しないし。

以下引用
権力を理解する唯一の道は、すべての人の意見を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体に彼らの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。
これは同意もしくは和合以上のものであり、それぞれの人間が互いに契約を結ぶことによって、全ての人間が一個の同じ人格に結合されることである。
これが達成され、多数の人々が一個の人格に結合・統一されたとき、それはコモンウェルスと呼ばれる。
・・・このように、権利を国王または議会に譲渡することによって、コモンウェルスは成立する。言い換えると、コモンウェルスが成立するときはじめて、国王や議会に権利と権能が与えられる。
・・・彼ら(権力者)の権力は人々との相互契約と同意に基づくしかなく、さもなければ不当な権力である。
「リヴァイアサン」より

コモンウェルス(共通善ともいう)=リヴァイアサンが「全体」の定義だといえそうだが、ややこしいのはこれが実体的なものではなく、「人格」である以上、相互契約と同意の内容と限界線によっていかようにも変容していくと考えられるところである。

これを個別の案件に適用すると、「イラクの国内統治」は比較的輪郭(イラク国内外)がハッキリしている。
「市場と会社」となると少し輪郭が揺らいでくる。会社はともかく、市場はゴーンの退場(契約破棄)によってどの程度変容するのか予測は困難だ。
「世界経済」ともなると、これはもう「人格」が状況次第でころころ変わる多重人格になってしまう。

現代社会においては相互契約と同意の範囲が限定される反面、個々の権力(政策、対策、画策・・・)の影響力は測定不能なので、統一された「人格」は揺らぎっぱなしになり、一方では慈愛を見せるが、一方では酷薄な仕打ちにさらすといった矛盾した側面をあらわすことになる。
(森友問題などは好例。)

言い換えれば、複雑化した現代では相互契約と同意によって限定された「人格」は、個々の権力を消化しきれずに破壊され、その幻像だけが相互契約と同意の参加者に映し出されているともいえる。

ドッド・フランクル法の失敗は典型例で、かの法が設けた「秩序だった精算権限」(OLA)という破たん処理制度は結局、巨大金融機関のメンバーシップ=相互契約&同意者を集められずに頓挫してしまった。
相互契約と同意を前提としていた(幻像を前提としていた)計画が、それは幻像なんで・・・と吐き捨てられた良い例だろう。

日産ゴーン事件では統一的な「人格」が個の権力を飲み下したといえそうだが、これは例外的な案件ではないかと思われる。
なぜなら、この事件で明示された権力はゴーン周辺だけで限定されたものであったからで、この種の権力は通常(意識的、無意識的を問わず)組織化されており、そもそも明示されないからである。

例えばフセイン政権がブッシュ政権と組織化されていれば、権力は明示されなかっただろうし、官僚の天下りが横行するのは、組織化→権力の隠蔽と無関係ではないし、富者の組織化された税逃れは誰も捉えることはできない。

世の中には国籍はない、金持ちと貧乏人がいるだけだ、とは21世紀の現実をよく言い表していると思うが、さらに言えば、相互契約と同意を信じざるを得ない人と信じる必要がない人がいるだけだ、とも言い換えられる。

これまで、コジェーヴやフランシス・フクヤマがアメリカ型資本主義の行き詰まりや共産主義の限界を捉えて「歴史の終わり」と言ってきたが、ここに至ってある種の人々には本当に「政治の終わり」を告げる時代になったのだろうなと思われる。

蛇足だが、コジェーヴの人間は最終段階に至って動物化する、という考えは面白い。つまり、政治や経済問題から解放された人間個人は動物化せざるを得ない、というわけだが、確かにそうかもしれない。欲望が社会の要請から起動されなければ、身体的にも精神的にも欲望が限定される個人で主体的に起動せざるを得ないので、これはこれでかなり面倒なことになる。
富者に危険なスポーツで命を落とす人が多い、というのもこの面倒くささからの逃避=動物化の傾向を証明しているのではないか。












2017年9月に精神科の外来診療で患者の自殺に対する開業医の責任をみとめ、損害賠償1250万円の支払いを命じた判決が高裁で下された。(日経メディカル

過去の判決では、入院患者の自殺で病院の管理体制の不備を問われるケースはあったが、外来患者が自殺した事例で医療側の責任が認められた例は(特殊な例を除き)ない。

本件は上告中なので、最終的な判決はわからないが、外来患者の自殺に対して医師が責任を負うべきだ、という今回の高裁判断は画期的だといえる。

判決内容をみると、投与薬物の増量及び入院措置を講じるタイミングが不適切であったことが、医師側の責任根拠として挙げられている。医師側は入院の選択肢は患者(家族)に提示しているし、薬物量の調整も適切であった、と反論しているが、注意義務違反は逃れられなかった。

同記事で紹介されたベテラン精神科医(匿名)のコメントを借りるなら、「今回のケースは入院の選択肢を患者家族に提示しているし、投薬内容も問題ないように見える。」

精神科領域で治療効果の範囲を明確にするのは難しい。
例えば、片足がもげた状態で放っておけば失血死するのは明白だが、「死にたい」ともらす患者が本当に死ぬのかどうかを(あるいは、治療でどの程度死にたい度を下げられるのか、どの程度死にたい度を下げれば実際に死なないのかを)薬物の依存・副作用と天秤にかけて判断するのは、相当に困難だと思われる。

よって、この高裁判断は少し無理筋だと考えられる、というのが一つの結論ではあるが、本エントリの提起する問題はこの点ではない。

実はこの日経メディカルの記事は9月18日に発信されているが、28日に修正がかかり、「患者のプライバシーに配慮して」一部記事が削除されている。

削除されていた点はこの患者が中国籍であり、自殺の前のやりとりも中国(家族)と日本(医師)でのメールで行われていた、というところである。

精神科領域の案件は(患者が被る可能性のある不利益を考慮すると)プライバシーに特段に配慮する必要があるし、患者の例えば出身県は普通は書かないのに国籍は書く必要があるのか、という意見は一方にはあるだろうし、また、外国籍の患者が帰国後に起きたイベントで日本の医療水準のサービスと補償を全面的に適応されるうるのかどうか、それが妥当なのか、という問題提起もあるだろう。

医は仁術という医療の理想はあるものの、医療制度が複雑化し、逆に情報がフラット化した現代ではサービス水準と補償の程度がどの患者にとって選択可能なのか、というあまり見たくない線引きの問題にも目を向けなければならないのではないか、と思う。



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