小学生も高学年になると、世の中の仕組みの一端が見えてくるので、その裏を嗅ぎ付ける現実主義的な発言で大人を困らせることがある。
「先生がオレらに教えているのは、おカネをもらっているからだろ。」
などと言うと、大人はyes、noでの返答に詰まるので、ますます調子に乗る。
無論、先生はおカネをもらっているという動機だけで、教えているわけではない。
因果律はそう単純に一対一で対応するものではない。
おもしろいのは、このような小学生と同じような「因果律の単純化」は大人の世界でも多用されている(というか、支配的である)点で、
単純化が極端であればあるほど鋭さ(インパクト)は大きくなるので、大衆に対するウケはいい。
この手のやり口は方法論としても割合単純で、
受け手にyes、noを迫り、答えられないと「ごまかしている。」と机をたたいておけばよい。
この単純化手法の名手である田原総一郎氏のやり方を、ベトナム戦争帰還兵へのインタビュー記事という古い例で観察する。
田原氏「何人くらい殺しましたか?」
兵士「わからない。」
田原氏「あなたの役割は?」
兵士「機銃をうっていた。」
田原氏「何人殺しましたか?」
兵士「答えたくない。」
彼ら兵士は自分のやった行為から逃げている、ごまかしている。まるでパターンだ。もっともらしい言い逃れのパターンだ。
(エコノミスト誌1974年12月号より)
このくだりを引用した山本七平氏は「彼は質問する前にすでに「予定稿」(シナリオ)を持っている。」と洞察する。
前出の小学生と田原氏に共通するのがシナリオを成立させる正義を当初から仮定している、という点で、
小学生の「先生は職業として生活の糧を得る手段にすぎないのに、教育者面をしている。」という正義は、田原氏の「戦場での殺人に向き合って贖罪しない兵士を糾弾する。」という正義と機能的に同じ働きを担っている。
今、ホットな話題を例にとると、反原発連合の平野氏が民主党議員に浴びせた質問も同様のシナリオに沿って成果を挙げている。
平野氏が「原子力規制委員会の人事に賛同するかどうか、一人一人答えてください。」と民主党議員に迫ったとき、既にその時点で「言い逃れのパターン」というシナリオは成立している。
おそらく、議員は兵士と同様、「答えたくない。」とシナリオに描く正義による分類を拒否し、彼にとって正しい答えで対応するだろう。
ちなみに田原氏や平野氏、またその正義を共有する人たちが質問を浴びせた結果を味わうときに快楽を感じるのは、そこでは正義が(「ごまかし」という悪によって)間接的に承認されるからである。
(もっと言えば、再稼働した大飯原発が事故れば、反原発の正義はより強く承認されるので、彼らの欲望は潜在的に事故を期待する。)
「yes、noを迫る胸をすくような質問」はウケがよい。
それは人間の記憶システムが世界を単純な因果律で縛り、答え(決定)を下すように設計されているからである。
「決定」が不可避な政治・経済の世界では、ほとんどの言説は「単数の因果律による世界の単純化」という限界を超えることができない。
一方、仏教や哲学の世界では、「できるだけ決定しない」ことにより、世界の真実を嗅ぎ取ろうとする。
(フッサールの判断停止では、すべての現象をカッコつきで保留する。「これはAである。」は必ず間違いで、「これはAのように見える。」と言い直さなければならない。)
政治・経済の住人が決定できない哲学を無用の長物とみなし、哲学の住人が政治・経済を表面的な現象と片付けるのは以上のような構造による。
個人的には、(属人的正義ではなく)「真実への奉仕」という哲学的態度は「ビジネス」でも大いに役立つと思うが・・
「先生がオレらに教えているのは、おカネをもらっているからだろ。」
などと言うと、大人はyes、noでの返答に詰まるので、ますます調子に乗る。
無論、先生はおカネをもらっているという動機だけで、教えているわけではない。
因果律はそう単純に一対一で対応するものではない。
おもしろいのは、このような小学生と同じような「因果律の単純化」は大人の世界でも多用されている(というか、支配的である)点で、
単純化が極端であればあるほど鋭さ(インパクト)は大きくなるので、大衆に対するウケはいい。
この手のやり口は方法論としても割合単純で、
受け手にyes、noを迫り、答えられないと「ごまかしている。」と机をたたいておけばよい。
この単純化手法の名手である田原総一郎氏のやり方を、ベトナム戦争帰還兵へのインタビュー記事という古い例で観察する。
田原氏「何人くらい殺しましたか?」
兵士「わからない。」
田原氏「あなたの役割は?」
兵士「機銃をうっていた。」
田原氏「何人殺しましたか?」
兵士「答えたくない。」
彼ら兵士は自分のやった行為から逃げている、ごまかしている。まるでパターンだ。もっともらしい言い逃れのパターンだ。
(エコノミスト誌1974年12月号より)
このくだりを引用した山本七平氏は「彼は質問する前にすでに「予定稿」(シナリオ)を持っている。」と洞察する。
前出の小学生と田原氏に共通するのがシナリオを成立させる正義を当初から仮定している、という点で、
小学生の「先生は職業として生活の糧を得る手段にすぎないのに、教育者面をしている。」という正義は、田原氏の「戦場での殺人に向き合って贖罪しない兵士を糾弾する。」という正義と機能的に同じ働きを担っている。
今、ホットな話題を例にとると、反原発連合の平野氏が民主党議員に浴びせた質問も同様のシナリオに沿って成果を挙げている。
平野氏が「原子力規制委員会の人事に賛同するかどうか、一人一人答えてください。」と民主党議員に迫ったとき、既にその時点で「言い逃れのパターン」というシナリオは成立している。
おそらく、議員は兵士と同様、「答えたくない。」とシナリオに描く正義による分類を拒否し、彼にとって正しい答えで対応するだろう。
ちなみに田原氏や平野氏、またその正義を共有する人たちが質問を浴びせた結果を味わうときに快楽を感じるのは、そこでは正義が(「ごまかし」という悪によって)間接的に承認されるからである。
(もっと言えば、再稼働した大飯原発が事故れば、反原発の正義はより強く承認されるので、彼らの欲望は潜在的に事故を期待する。)
「yes、noを迫る胸をすくような質問」はウケがよい。
それは人間の記憶システムが世界を単純な因果律で縛り、答え(決定)を下すように設計されているからである。
「決定」が不可避な政治・経済の世界では、ほとんどの言説は「単数の因果律による世界の単純化」という限界を超えることができない。
一方、仏教や哲学の世界では、「できるだけ決定しない」ことにより、世界の真実を嗅ぎ取ろうとする。
(フッサールの判断停止では、すべての現象をカッコつきで保留する。「これはAである。」は必ず間違いで、「これはAのように見える。」と言い直さなければならない。)
政治・経済の住人が決定できない哲学を無用の長物とみなし、哲学の住人が政治・経済を表面的な現象と片付けるのは以上のような構造による。
個人的には、(属人的正義ではなく)「真実への奉仕」という哲学的態度は「ビジネス」でも大いに役立つと思うが・・

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