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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー

教養を深めたい、仕事に生かしたい――。
人として成長するために本を読みたいと思っても、何から読めばいいかわからないビギナーのためのブログ。
服役中の無期懲役囚・美達大和から届く書評を随時公開。
週2回をめどに更新していきます。


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『習近平の反日作戦』 相馬勝

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『習近平の反日作戦』
相馬勝
小学館
1500円+税
*昨秋に書かれたレビューです


著者は現在ジャーナリストです。
元・産経新聞の香港支局長も務めていました。

その著者が、習近平の若い頃からの歩みを、
周辺の人々のプロフィールやインタビューで
描き出すと共に、共産党の機密文書に託された野望、
日本への対応を綴っています。

習の若い頃の「下放」生活は、多くの書で
知っている人も多いでしょう。
権力や政治の怖さを家族ともども味わった人で、
その点、しぶとさを備えている人でもあります。

冒頭から、日中間の尖閣問題のこじれた原因を
説いていました。
この件が、中国での胡錦濤(こきんとう)国家主席(当時)と
江沢民(こう・たくみん)前・国家主席との対立を
一層激しいものとしています。

胡は、中国共産主義青年団(共青団)
江は、上海閥・太子党(高級幹部の子弟)のボスで
絶えず権力闘争をしている状態でした。

習は太子党の一人ですが、
この対立の時に、党の長老や党中央委員会に
対日問題では一切妥協すべきではないと
書簡を送っています。

「現在の天下の変の最大の要因は
日本の策動だ。(中略)
私は次のように我々の方針と策略を建議する。
第1に、国内の民衆の反日デモを抑制しない」

に続き、アメリカとの良好な関係を維持し、
日本の軍国主義の復活と拡張を強く警告する、
台湾と密接に接触し、
中国が釣魚島(尖閣のこと)の主権を
維持していることを共同で宣言し……と
なっていました。

そして、民間の自発的な行動という形で
数千・数万の漁船を釣魚島や
その周辺の海域に派遣し、
必要とあらば、
日本の艦船を包囲してしまうと
しています。

背景には、「2022年問題」があるのですが、
これは、実効支配が50年続くと
国際法の判例で尖閣が日本領として
定着しかねないことでした。

1972年の沖縄復帰から起算しています。
その時、習は
まだ主席の地位にいるので非難されかねず、
尖閣は制海権以外でも
何とかしなければならないのです。

習は、「大中華帝国」の野望を持っていますが、
国内の情勢の不安定さを抑えるために、
「七不講(チーブジャン)」という
通達を出しました。

これは以下のことを論じるなということです。

①人権侵害

②言論統制

③政治活動の制限

④国政選挙権の不在

⑤党の歴史の過ち

⑥特権層の権益独占と腐敗問題

⑦党権力による司法の支配

まさに言論の自由がありません。
習の親世代は中国共産党員として、
日本軍と戦った経験からも
反日でした。

しかし、それを大衆の
政治への不満を解消する手段として
利用しています。

本書はスクープとか目新しいことは
いくつもありませんが、
具体的な文書や党の人間関係をもとに、
初学者にもわかりやすく
綴られていました。

防空識別圏設定の舞台裏

李克強首相の健康不安

江沢民や胡錦濤との暗闘

軍を巡る権力争い

など、いまだに習の戦いは続いています。
このままできたら政治生命どころか、
命がかかっているのです。
主席でありながら、暗殺を用心しているというのは、
中国政治の不安定を示しています。

また、食品についての安全性が
全く保たれていないこともあり、
共産党幹部のみが口にできる、
農場牧場・加工場の存在も出ていました。
中国人自身が、
「現代の中国人の道徳や倫理観は
最低だ(中国の歴史の中で)」
と言っています。

本書では、今後の日中間での戦争は、
中国自身が望んでいないとしていましたが、
国民の不満や権力闘争の
結果いかんではわかりません。

他の情報では、
真剣に日本への侵攻・戦争を企図する指示も
出されています。

現在(今日は2015年10月10日)の本音は
経済のために日本と
仲良く(実際は頼りたい)したい
ところでしょう。

共産党や経済界の重鎮が
日本の財界人に友好を求める報道が
増えています。

8月からの経済の先行き不安定、
中国株安の流れでは、
経済はかなり悪化している状況です。

統計があてにならない中国では、
俗に電力消費・鉄道貨物輸送量・銀行融資残高の
3つ(別名、李克強指数)が信頼できるといいますが、
総合すると、経済成長率の真の数字は
3%~4%となるようです。

2014年の日本からの対中国投資は、
前年比39%減の43億ドル(5160億円)で
2年連続減っています。

習は、経済は悪化してるのではなく、
新常能(ニューノーマル)に移行したと
語っていましたが、
実際は元の切り下げなどで
なりふり構わず
成長神話を続けようとしているのです。

ただ、そんな中でも中国の若者は、
2万元(約38万円)の資金で起業しています。
統計では1日に1万社!の起業があり
日本の法人600万社が2年で越えられる
勢いだそうです。

それだけつぶれるのも多いのでしょうが
エネルギーは凄いと言えます。
E・トッドによれば、中国の経済発展の構造は
西洋のグローバリズムに利用されているだけの
都合の良い構造とか。

GDP全体の約半分が
公的機関や民間のインフラ整備などの
設備投資で占めていますが、
これを個人消費など国内需要を中心にしていくのが
課題とされています。

所得の格差も異常で、
国民の不満も燃えあがりやすい中国ゆえに、
習と共産党の前途は楽観できず、
併行して日本との関係も安定しません。

9月のアメリカ訪問では、
オバマ大統領と習の主張のすれ違いが目立ったり、
次期大統領選(アメリカの)の候補の大半が
中国への厳しい対応を表明しています。

と言っても、アメリカという国を
牛耳(ぎゅうじ)っているウォール街のマネーが、
まだ中国に注ぎ込まれているので
(それでも相当な額が引き上げられました)、
大事に至る確率は高くないでしょう。

あっ、中には
「中国はアメリカ国債を最も保有している国だから」と
考えている人もいるでしょうね。
これアメリカには、いざという時、
「チャラ!」にするにできる法律が
あるんです。

しかも、発動者は自国だから、
強盗みたいなものかもしれません。
なんだかんだ言ってもアメリカは、
やっぱり、お山の大将ですから、
「俺がルールだ!」
というところでしょうか。

本書は、習個人に興味のある人、
党の基本を知りたい人にオススメです。

類書は次の通りです。

『習近平の権力闘争』(日本経済新聞社)
『習近平の闘い』(角川新書)
前者は党の公文書や公人中心、
後者は周辺の人中心。

『中南海知られざる中国の中枢』(岩波新書)
幹部たちのいる中南海についての解説。

『中国経済の正体』(講談社)
『中国バブル山明壊』(日経プレミア文庫)
両書とも経済を知りたい人へがあります。

竜が天に昇るのか、はたまた地底に沈んでしまうのか、
先は未知数に厄介な隣人です。
欧米が最も恐れるのは日中同盟なのに。

『決して太陽を失ったことで
泣いてはいけない。
星を見ようとするのを
涙が邪魔してしまうから』
(タゴール)

このレビューで美達が紹介した本

 
(美) 

「日本史の教養」第28回

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条約の勅許を朝廷に求めに
堀田正睦(ほったまさよし)が京都に行っていますが、
それより先に斉昭の方が条約を認めるな、
勅許を出すなと働きかけていました。

堀田と斉昭には、因縁があります。
ペリー来航時に、老中首座の阿部は、
うるさ型の斉昭を幕府の中に取り込んでおくことで、
激しい斉昭の反対論を封じ込める
という計算がありました。

現代なら、反対派や反主流派を閣僚にして、
動きを封じることになるのでしょう。
近年では、大統領候補者の座を争って
熾烈な戦いをしたオバマと
ヒラリー・クリントンの例があります。

当選したオバマは、ヒラリーを国務長官に指名し、
受諾したヒラリーは、
期待に答えた働きをしました。
今の日本ならば安倍首相と
石破(いしば)さんの関係ですね。

ところが堀田が阿部の指名によって
老中首座となってからは、
斉昭と意見の対立が目立ってきました。
堀田という人は、蘭癖家(らんぺきか)と
言われてオランダ語もできた、
西洋かぶれでしたし、
斉昭は『大日本史』を編纂(へんさん)中の
水戸藩主らしく国粋主義者です。

時代は、攘夷だ開国だ、ですから
両者の相違は大きくなるばかりで、
とうとう斉昭は海防掛参与を
クビにされました。
斉昭にすれば、
「この恨み晴ら差でおくべきか」の
敵となったのです。

このような事情もあり、斉昭の動きは
止まるところを知りません。
働きかけをした相手は
京都の朝廷のトップでもある
前関白(さきのかんぱく)
鷹司政通(たかつかさまさみち)
でした。

この人の妻が、斉昭の姉という関係です。
鷹司が開国反対を唱えると、
京都では反対運動が起こり、全国から
攘夷論者が集まってきたのです。

このころ開国論者は、わずかしかいませんでした。
京都での動きを見て、「これはいかん」と
朝廷を説得しに自ら乗り込んだのが
堀田というわけです。

堀田には説得するにあたって、強力な武器が
ありました。それはキャッシュでした。
約6万両を持っていたのです。
1両を現在の10万円とすれば、約60億円となります。
ただ、江戸末期の貨幣の現在価値は
書籍によって、1両が6万円から20万円まで、
幅広く書かれているので、
大体、このくらいの単位かと、
しておいてください。

時代を超えた貨幣価値というのは、
何を基準にするか(主食か賃金かなど)で
大きく違ってきます。
マックのハンバーガーもない時代だと
不便ですね。
日本だと米価となるのでしょうが、
幕末の米価は貿易の影響もあって暴騰しています。
それも、後でじっくりと説明する予定です。

堀田の上洛(じょうらく・京都へ行くこと)に喜んだのは、
日頃から貧乏暮らしに甘んじていた
公卿(くぎょう・公家)たちでした。
約80名前後いたのですが、
幕府が朝廷に出すのは10万石程度でしたので
(毎年ではなく、それまでのトータルで)、
これで宮家・堂上諸卿(どうじょうしょきょう)
諸大夫(しょだいぶ)から、
下まで生計を立てていました
(堂上とは「とうしょう」と読むのが正式で、
御所=天皇のいる所 に、
昇殿を許された人のことです)

そのような状態なので公卿らは、
和歌・書道・茶道・などを教えて
生活費の足しにするような
暮らしでした。

朝廷にしても大名に官位を売るなど
(順位としては寄付をもらったという名目で、
官位を与えます)して、
やりくりしていたのです。

そこに6万両もの大金がばら撒かれたわけで、
「盆と正月が、いっぺんに来た状態」
となりました。

ここで話を面倒にしているのが対立点は
開国か攘夷かだけではなく、
将軍(13代家定)の後継者問題も
あったのです。

このような時、たとえば
開国論者は慶喜(よしのぶ)を
攘夷論者は慶福(よしとみ)を
などと、すっきりしていればまだしも、
これもバラバラでした。
賄賂(わいろ)が飛び交い
公卿の意見もくるくる変わります。

一橋派は公卿を引き入れるため、
開国反対と将軍継嗣(けいし)問題を絡めて、
開明派のはずの鷹司の他に公
卿を引き入れるため、
右大臣(うだいじん)の
近藤忠煕(こんどうただひろ)、
内大臣(ないだいじん)の
三条実万(さんじょうさねつむ)を味方にして、
慶喜を将軍と決める、天皇の内勅を出すように
工作していたのです。

これはまずいと感じた南紀派は
勅許を拒否された堀田では乗り切れないとして、
突如として井伊直弼(いいなおすけ)を
大老に就任させました。

これを画策したのは、
前述の水野忠央と親戚になる
薬師寺元真(やくしじもとさね)との
合作と言われています。

厳密に言えば、このような錯綜した時勢ゆえに、
京都から戻ってきた堀田が、
将軍の家定に大老を置くこと、
その大老は松平慶永(まつだいらよしなが)ではと
上申したのです。

家定は脳と体に障害を持っていた将軍で、
常々その思考や言動は
正常ではありませんでした。
しかし、この時は即座に
井伊を大老にせよと命じたのです。

時系列でいけば、堀田が京都へ行ったのが
1858(安政5)年の1月、
江戸に戻ったのが同年4月20日、
井伊の大老就任が4月23日という
はやさでした。

前にも述べたように、大老は非常時の特別職で
266年間の江戸幕府の歴史の中で
10人しかいません。
権限も老中とは大きく違います。
老中であれば筆頭であっても
己一人で決めることはできないのですが、
大老は将軍に代わって政務を執るのが
職務でした。

そこで4月27日に井伊は
徳川幕府が続いているのは徳川家の血筋への、
諸侯の敬意であり、名君でなくても良い、
血脈の近い方を選ぶべき、と
一気に慶福を将軍に決めました。

そして、5月6日には
江戸城中の一橋派の幕閣を全員左遷したのです。
その後、家定に報告して許可をもらい、
6月1日に御三家(紀伊・尾張水戸の徳川家)と
諸大名を招集して、
台命(たいめい・将軍の命令)であると
告げました。

この後、松平慶永、斉昭らが、
井伊に直接、猛抗議しますが、井伊はひたすら、
「ごもっとも」を繰り返すばかりで、
立ち去ろうとした時に
袴(はかま)をつかまれ破られるほどでした。

そうしながら、他方では条約締結を
決行したのです。井伊の強引な進め方には、
幕府と朝廷の間での取り決めに忠実であれ、
という思惑があったと
推測されています。

この取り決めは1615年頃に朝廷と結んだ
『公武法政応勅十八箇条
(こうぶほうせいおうちょく18かじょう)』
の第2条になる
「政道奏聞(せいどうそうもん)に及ばす候」に
該当していました。

「親王摂家(しんのうせっけ)」を始め、
公家ならびに諸侯といえどもことごとく支配いたし、
「政道奏聞に及ばず候(そうろう)」
この条文によって、
天皇・公家・大名を幕府が支配して、
政治についてはお伺い(うかが)いの
必要はないとなるのです。

井伊にしてみれば、騒いでいる諸大名や、
公卿(特に彼らは金を取るだけ取った
単なる烏合=うごう の衆でしかなく)に対して
腹立たしい面もあったのでしょう。

バック・トゥ・ザ・ベーシック、
基本に返れ、幕府こそ
世の(この国の)最高権威なるぞ、という
気概だったはずです。

条約調印を示すため、井伊は6月22日に
総登城(大名らを集める)を命じ、
翌日23日に一橋派の堀田正睦、
松平忠固(ただかた)の両老中をクビにして、
南紀派の老中にしました。

さらに、6月25日に総登城を命じて、
将軍の後継は慶福に決定したと、
ダメ押ししたのです。
この瞬間から、一橋派の井伊への怒りは
際限なく膨らんでいきました。
ところが、井伊大老、これでは
終わらせませんでした。

『自由とは生命の根源に
かかわるものです。
それを得るには
戦いを辞さない覚悟が
必要なのです。』
(執行草舟『根源へ』より
必読の書!)

「日本の教養」第27回

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自由にはなったものの、
生計を立てる術(すべ)がないため、
結局は奴隷と同じような
貧しいシェア・クロッパー(分益小作人)と
なるしかありませんでした。

収穫の2分の1から3分の2も
小作料を納めるのです。
また、南部では、
新たに黒人を取り締まる法律ができて、
選挙権は与えられず、白人との結婚も
土地所有も厳しく制限されました。

ここで簡単に奴隷の歴史を振り返ってみると、
その起源は新大陸発見に次いで、
それらの地での大農園(プランテーション)での
労働力の必要性からだったのです。

西インド諸島
(キューバ・ジャマイカ・ハイチなどある島々)では
砂糖きびのプランテーションが、
黒人奴隷の需要を高めていました。

17世紀半ばから末にかけてハイチは
フランスの、ジャマイカは
イギリスの植民地でした。
そのような事情で盛んになったのが、
奴隷を含む三角貿易です。

これはイギリス商人
(中にはアメリカ商人もいますが)によるもので。
イギリスからアフリカに木綿や銃火器を輸出、
アフリカから西インド諸島やアメリカ大陸に
奴隷を輸出、西インド諸島やアメリカ大陸から
砂糖やタバコをイギリスに輸出する
というものでした。

この奴隷貿易での商品
(黒人が最も重労働に耐えるので)としての
黒人奴隷は、奴隷商人が軍人力によって
強制的にアフリカから拉致してくる方法の他に、
現地の黒人有力者が、
金銭や商人の持ち込む商品と引き換えに
黒人を引き渡す方法で集められました。

輸送は船ですが、
ぎっしりと船倉に詰め込まれて、
身動きも取れない状態で、
食事も人数分には足りない量のパンなど、
動物に与えるように
頭上からばら撒くだけでした。

そのため、力のない者は食べられないことも普通で、
輸送中の死亡率は平均して
15から20パーセント、多い時では
半分近くが死んだようです。

イギリスでは、1807年に
奴隷貿易が禁止されましたが、
儲かるというので密輸が横行しています。
密輸船の取り締まりでは、
遠くに官憲の船を発見した途端、
船倉にいる奴隷を海中に
「投棄」したそうです。

人を人とは思わず、ものとしか思っていない
所業に驚きます。当時のヨーロッパ人は、
黒人を同じ人間とは認めていませんでした。
このことは、キリスト教の聖職者も
変わりません。

歴史上、名のある知識人とされている
モンテスキューを始め、ヴォルテールなども
白人の優位と黒人の劣位を
はっきりと書物に著わしています。

時代を下れば意外にも
あのシュヴァイツァー博士までが、
白人の優秀さは必然であり、
黒人は劣っているのだからということを
語っていました。

そのような背景が影響していたので、
憲法修正第13条によって、
奴隷制度は廃止されましたが、
黒人問題は、そのあとも残っています。

後には白人と黒人の席や馬を分ける
ジム・クロウ法(公共施設や交通機関などで)
も制定されました。
公民権法により、それが撤廃されるのは
1964年のことです。

しかし、現在でもアメリカでは、
黒人への差別は解消されていません。
あれだけの移民を受け入れているというのに、
まるで遺伝子に刻み込まれているかのようです。
南北戦争後は、黒人迫害で悪名の高い
クー・クラックス・クラン(KKK)
という秘密結社も南軍の将軍だった男が
組織しています。

KKKは白い装束で頭から全身を覆い、
黒人を襲って殺したりするのです。
一時、下火となりましたが、
現在も存在しています。

アメリカは自由の国と言われながらも、
黒人とインディアン(ネイティブ・アメリカン)に
対しては違うことをしてきたようです。

南北戦争を扱ってきましたが、ここでの狙いは、
歴史に残る出来事の真の目的と、
列強国の国益(その理由を含めて)と、
各国の外交と関係について
知ってもらうことでした。

少し前までは、イギリスとフランスは敵同士、
アメリカとフランスは仲良し
(独立戦争で支援してくれたり)、
ルイジアナを売ってくれたりしました、
そして、この時点では
アメリカとロシアも友好国です。

少し時代を遡ってみると、
アメリカ独立戦争の頃(1775年〜1783年)は、
イギリス以外のヨーロッパ列強は、
アメリカの独立を支持しています。

フランス・スペイン・オランダに至っては、
イギリスに宣戦布告までしたのです
(当時の強引なイギリスは、
世界の嫌われ者でした)。

ロシアもエカチェリーナ2世が
プロイセンなどと武装中立同盟を結んで
イギリスを牽制(けんせい)しました。

このようにヨーロッパ諸国は、
その時々の国益や利害によって
立場を異(こと)にするのが
常でした。

このような点を、
戦争や国際外交を考慮する際の
前提として欲しいのです。

それでは、同時代の日本国内の様子を
見てみましょう。
オールコックが利用しようとした
「攘夷」の風は激しさを
増しています。

テロの矛先(ほこさき)は
外国人だけではありませんでした。
1860(万延元)年3月3日には、
大老の井伊直弼が江戸城に向かうところ、
桜田門外(さくらだもんがい)で襲われて、
脱藩した水戸藩士ら18名に
惨殺されています。

これは、1858(安政5)年から翌年にかけて断行された
安政の大獄(たいごく)への報復でした。
井伊は朝廷の勅許を得ずに
独断で外国と修好通商条約を結び、
朝廷や攘夷論者から非難されていました。

それだけではなく、
13代将軍家定(いえさだ)の後継者問題も
絡んでいたのです。
井伊が大老に就任(1858年4月)する前から幕府では
一橋(ひとつばし)派と
南紀(なんき)派に分かれて対立していました。

一橋派とは、御三卿
(=ごさんきょう、徳川分家の清水・田安・一橋家で
将軍家を補佐し、後継者になる資格を持っている)
の一つで、一橋慶喜(よしのぶ)を
将軍にしようという一派でした。

他方、南紀派は、御三家
(=ごさんけ、紀伊・尾張・水戸の将軍家)の中から、
紀伊藩主の慶福(よしとみ)を
後継者に推す一派です。

慶福は、この時、また少年でした。
井伊は南紀派の中心人物ということもあって、
今回も強引に慶福を将軍としました。
これに怒った一橋派が猛抗議すると、
井伊は徹底して弾圧したのです。

この時の一橋派には
条約を独断で結んだと猛抗議した
水戸藩の徳川斉昭(なりあき)、
同じく越前(えちぜん・福井県北部)の
松平慶永(まつだいらよしなが)、
薩摩(さつま・鹿児島県)の
島津斉彬(しまづなりあきら)らがいます。

彼らは江戸城登城の際には、
大廊下詰めの家門大名と
大広場詰めの外様(とざま)大名たちでした。
他方、南紀派は、溜間(たまりのま)詰めの
譜代(ふだい)大名たちで、
ボスは井伊です。

中学校の歴史で習ったとは思いますが、
念のため補足すると、
外様大名とは関ヶ原の戦いの時に、
家康の敵、あるいは関ヶ原以後に
臣従した大名を指します。

比較的、大きな藩が多く、
幕府の安全保障上、江戸から遠い所に配置され、
有事の際にはその近辺に配された
譜代大名が対応できるように
されていました。

譜代大名というのは、関ヶ原以前から
家康と友好的、あるいは
臣従してきた大名のことです。
この他に親藩(しんぱん)と言って、
紀伊・尾張・水戸・松平などの
親戚関係にある大名もいます。

江戸城では、将軍が公式な場面で
利用する場所(部屋)から近い順に
親藩、譜代、外様の大名たちが
詰める部屋が決められていて、
外様大名は幕府の政治への発言権も
参与権もありませんでした。

それがペリー来航時の老中首座の阿部正弘の
「この度の儀は、国家の御一大事にこれ有り、
実に容易ならざる筋に候間、(略)
銘々存知よりの品もこれ有り候わば、
たとえ忌諱(きい)にふれ候とも苦しからず候間、
いささかも心底を残さず
十分に申し聞かせらるべく候」

という命令で変わったのでした。

「忌諱に触れ候(そうろう)とも」
とは、法に触れるのでも構わない、
という意味です。
これが、後の諸士横議(しょしおうぎ)へと
なりました。

一橋派は慶喜の英明(えいめい)さと
年長(22歳)であることが、
危機の幕府、ひいては日本を救うのだと
主張していたのです。

これに対して南紀派は、慶福の血統こそが
何よりも大事であると、
その年齢(13歳)は度外視します。
紀州藩の家老、
水野忠央(みずのただなか・新宮藩主)など、
将軍側近や大奥にも
慶福後継を説いて回りました。

慶喜の方は、何につけ過激な
父親の斉昭の個性もあり、
なかなか支持されない面もあったのです。
大奥では水戸の気風を嫌って
慶福を推していました。
それとこの将軍継嗣問題の他にも
大きな問題があったのです。

『やる気がなくなった
のではない、
やる気をなくそうと
自分で決断を
下したにすぎない』
(A・アドラー)

(美)

みたつ・やまと●1959年生まれ。2件の殺人を犯し、長期刑務所に服役中。現在でも月100冊以上を読む本の虫で、これまでに8万冊以上を読破。初めて衝撃を受けたのは10代のときに出合ったロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』。塀の中にいながら、郵送によるやりとりで『人を殺すとはどういうことか』(新潮社)、『夢の国』(朝日新聞出版)などを著す。
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