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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー

教養を深めたい、仕事に生かしたい――。
人として成長するために本を読みたいと思っても、何から読めばいいかわからないビギナーのためのブログ。
服役中の無期懲役囚・美達大和から届く書評を随時公開。
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『だからこそ、自分にフェアでなければならない』 小林紀晴

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『だからこそ、自分にフェアでなければならない』
小林紀晴
幻冬舎文庫
2016年刊

 本書の主人公は、地球上の標高8000m以上の14峰を全て登破(とうは)した14(フォーティーン)サミッターの竹内洋岳(ひろたか)です。
2006年(それまでに8座(8つの8000m級)を登っていた)にプロ宣言して14座を制覇しています。

 私、登山家に対して、生命がけの修行者というイメージを持っているので、その書からは基本中の基本とその人独自の訓練と哲学を期待して読むのです。

 その道を究(きわ)めようとする人(完了形ではなく、頂点にいたとしても、尚、その上、自分だけの境地を求めていること)には、それを支える哲学や、思考の「癖」があるはずで、私の向上や生活に何らかの参考になるだろうという思いがあります。

 8000m級の山となれば、わずかな油断や傲(おご)りが死を招くので、あらゆる準備と己を律する心が必要です。また、なぜ、生命をかけて登るのか、という点でも参考になることがあります。

 著者は自身も登山を愛する写真家で、竹内という男に惹(ひ)かれて、共に山を登りながら語ったり、撮影したりしたのです。2人で登山という時、著者は竹内の軽装備に驚ろきます。

 食糧も水筒も持たず、自動販売機でペットボトルの水を買っただけでした。食べる(登山中)のは疲れるだけ、水筒は重く、ペットボトルは飲み終えると丸めて小さくなるからいい、ので選んだのです。

 竹内はどういう登山を何回してきたかが大切と語ります。1年の経験をただ10年繰り返しただけでは意味がない(全く同感!)という言葉もありました。8000m以上の山は死の領域で、常に次に何が起きるかを想像しながら登っているそうです。

 感情的に走る傾向のある人は登山が続けられない、できる人は登山についての話をしている際の目で伝わる、死はちゃんと避けていて、その領域に入るというのが面白い、など、地味でも含蓄(がんちく)のある語りが見られました。

 登山を共にする著者は、途中で自分の靴だけが泥だらけだと気が付きます。それだけ、竹内の足の運びが的確に地を捕(とら)えている証拠でした。また、竹内は登山中に足音が大きい人は、すぐに疲れる(それだけ、余分なエネルギーを使うので)こと、足跡を見ただけで力量がわかるということも語っています。

 山にゴミを捨てるというのは、「もう、そこには来ないからだ」という発言は貴重なものでした。登山家しての細かな注意や技術も私には興味深かったです。山(8000m級以外でも)ではオニギリは禁物(凍るので)と言い、代わりのスグレモノを紹介しています。これ、何か考えてみてください(答えは終わりの方で!)。

 少なくとも登山をやっている人は、運という言葉を安易に使ってはいけないという言葉も脳に響きました。凍傷では、人間が己の生命を守るために末端(手・足の指から)から切り離すというのも頷(うなず)けます。

 竹内の野望は登山を続けていきたいこと、その過程で常々、美しい山登りを考えていることだそうです。これも一つの道を究(きわ)めていく思想でした。山登りはルールのないスポーツ。だからこそ、私たちは自分にフェアでなければならない、という言葉を脳裏に刻んでおきたいです。フェア、特に己にというのが、私の琴線(きんせん)をかき鳴らしました。

 さて、先ほどの問いですが、答えはあんパン(袋に入ったのを潰してぺったんこにするといい)でした。凍らず、場所もとらず、カロリーも摂れるとか。次はバームクーヘン、カステラがいい、とのこと。そんなわけで本書、読む側の心の開放度により良書になります!

『生きることは呼吸することではない。活動することだ』
(ジャン・ジャック・ルソー)


このレビューで美達が紹介した本


「日本史の教養」第94回

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 伊藤は、貨幣と財政制度の調査のために、1870(明治3)年にアメリカに渡っていたのです。そうして国際情勢を知るに伴(ともな)い、日本にとって条約がいかに不利かと理解し、1871(明治4)年2月に「条約改正の時期は明年に迫っており、明治4年はきわめて重大な年にあたり」「俊秀(しゅんしゅう)の人物にて外国語に通じ、またわが国の事務を実地に経験し熟知している者を選び、これを西洋諸国および米国に派遣し、交際の情実、条約の取り決めより関税制度にいたるまで調査をさせることが肝要である」と政府に提言しました。 
 
 廃藩置県後の8月末に、大隈が正式に使節派遣を発議し、大久保も同意しています。当初は三条を全権とした使節団が計画されたのですが、最高の地位にある太政大臣を派遣することはできず、となり、岩倉が全権となりました。

  岩倉は、1858(安政5)年、孝明(こうめい)天皇の近侍(今の侍従(じじゅう))だった時に『神州万歳策(しんしゅうばんざいさく)』という建言書を天皇に出していますが、その中で欧米諸国に調査団を派遣すべきとしたのです。 

 岩倉の最も信頼できるパートナーの大久保も9月16日に岩倉邸に行き、洋行について述べ、翌日に「このまま過ぎていれば災(わざわ)いを招き、救う可(べ)からずの形勢になる。洋行はこの禍を防ぐ策」とした書翰を出しています。

  ところで、みなさんは、政府の高官らが、頻繁(ひんぱん)に書物のやりとりをしてることに疑問を持ちませんか? 離れた地域同士ならまだしも、同じ東京(または同じ地域)にいて、なんでわざわざ手紙なのか? と十代の頃の私は感じていました。調べてわかったのは、郵便制度はまだなく、飛脚があるのみ(明治初めは)、電話もないということで、同じ東京での手紙は使いの者が持っていくということでした(この飛脚で手紙を出すと、とんでもなく高くつきます。今の相場ならば、遠方に一通出すと5千円~1万円程になるのです)。相手は急ぎの返事であれば、使いの者を待たせて書くこともあったのです。明治にもメッセンジャーボーイがいたのかと、納得しました。

  派遣が始まってから、なにかともめたのが人選でした。薩長の勢力のバランスを取るためと長州に主導権を渡さない目的で、大久保が行くなら木戸も引っ張り出さねばなりません。

  伊藤・大隈らの内心では、行きたいのと、残って大久保・木戸という重鎮がいない間に急進的大改革がしたいという希望もありました。一方で、若手のエースの他には、ドンが西郷で、以下、板垣・大隈・井上・寺島・黒田・大木・西郷従道(つぐみち)・山県・後藤・江藤(えとう)らでした。そこで、渡航組と留守組の間に12箇条からなる約定が交わされたのです。これも学説は分かれていますが、近年の研究では留守組の方から提案されたと落ち着きました。 

 大隈が、不測の事態があり、自分たちの手に余ることがあれば、多少の時間がかかっても派遣中の使節と討議(手紙で。往復2カ月はかかりますが)した上で裁断すべく、条件を約束しておかねば、と主張して提案したのです。 

 そこで11月9日に大臣・参議以下18人が「約定書」に署名しています。重要な点は、第六款(かん)の「内地の事務は大使帰国の上、大(おおい)に改定するの目的なれば、其(そ)の間なるべきだけ新規の改正を要すべからず。万已(や)むをえずして改正する事あらば、派出の大使の照会すべし」及び第8・9款の諸官省長官の欠員の補充、官員の増加はすべきでないの点にありました。 

 新しいことは勝手にやるな、人事も変えるな、というわけです。ただし、廃藩置県にかかわることは、順次やってくれという第7款もありました。留守組のドンの西郷は、年下の友人である同郷の桂四郎(かつらしろう)あての手紙によれば、約定書の意味を正しく把握していたようです。板垣は、この内容に不満を示しましたが、変更はありませんでした。 

 こうして、1871(明治4)年11月12日(太陽暦1871年12月23日、以下カッコ内は太陽暦)に、一行はアメリカの太平洋郵船会社(パシフィックメール・スチールシップカンパニー)外輪(がいりん)蒸気船『アメリカ号』(4500トン)で横浜港から出航したのです。 

 この日、横浜港では一行を見送る各国大使たちや、西郷・板垣・大隈・井上らの高官や官僚など、人の波が見られました。5人の少女たちの面倒をみるのは、アメリカの駐日公使デロングと夫人が中心です。大久保らはフロックコートという洋装、一人岩倉のみが烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)姿の正装で、左右に長身の大久保と木戸を従えていました。 

 横浜の港は開港してまだ10年たらず、大きな船は着岸(ちゃくがん)できず、アメリカ号は沖合に停泊(ていはく)しています。岩倉・大久保・木戸の3人が、迎えにきたランチ(小舟)に乗船した際、礼砲19発が晴天の美しい空に響き渡りました。さすがにこの時代なので、色とりどりの紙テープ(古い!?)はないでしょうが、その情景は華やかだったと歴史書には書かれています。一色鮮やかな錦絵にしてみたいですね。 

 出航前の11月8日、三条は(太政大臣)は渡航組・留守組の主な人員を自邸に招いて送別の宴をヒラキ、送別の辞を送っています。

「外国の交際は国の安危(あんき)に関し、氏名の能否(のうひ)は国の栄辱(えいじょく)に係(かかわ)る。今や大政維新、海外各国と並立をはかるにあたり、氏名を絶域万里(ぜついきばんり)(世界中に)に奉ず、外交内治前途の大業(だいぎょう)その成否(せいひ)、実(じつ)にこの挙にあり、あに大任にあらずや」

「大使天然の英資(えいし)を抱き中興の元勲(げんくん)たり、所属所卿皆国家の柱石(ちゅうせき)、しかして所率の官員またこれ一時の俊秀、各欽旨(おのおのきんじ)を奉じ、同心協力以(もっ)てその職を尽(つ)くす、われその必ず奏効(成功成就すること)の遠からざるを知る」 
 新生日本の船出にあたり、一同はどんな思いで聞いていたのでしょうか。そうして三条は、次の勇壮な言葉で送別の辞を締めくくったのでした。 

「行けや、海に火輪(かりん)を転(てん)じ、陸に汽車を輾(めぐ)らせ、万里馳駆(ばんりちく)、英名(えいめい)を四方に宣揚し、恙(つつが)なき帰朝を祈る」
(おおっ、文字を読んでるだけで、「よーし!」とアドレナリンが湧き上がってくるスピーチです。こうして、一行は数日後に横浜から出航したのでした)。 
 
『人間の存在意義は、その利用や価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ無償に存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない』
(神谷美恵子)

「日本史の教養」第93回

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 それは、政府高官を含めた、大規模な欧米への使節団の派遣でした。歴史上、これを『岩倉使節団』と称しています。学生時代の歴史教科書など、数多(あまた)の書で特命全権大使の岩倉を中心とした5人の男たちの写真を見たことがあるのではないでしょうか。

 和服姿の岩倉を真ん中に、向かって右に副使の大久保、左に副使の木戸、後列には向かって右に工部省大輔(たいふ)の伊藤博文、左に外務省少輔(しょうゆう)の山口尚芳(ますか)(なおよしとも言われます)が映っています。

 大久保らは洋装でシルクハット(やけに大きい)を手にした写真です。廃藩置県が終わって間もないというのに、岩倉・大久保・木戸の3人が出かけていくというのは驚ろきませんか。

 使節団の目的は、
①新生『日本』の挨拶まわり、生まれ変わった日本を認知してもらうデモンストレーション

②1872(明治5)年7月に迫った条約改正のための調査と予備交渉。現在は対等な改正交渉ができる状態ではなく、改正の時期を3年ほど延期してもらう

③欧米列強の国家と肩を並べるために、文明・政体などの視察
でした。

 メンバーは各省からの使節46人(現地参加の1人を別に)、大使・副使の随従者18人、留学43人の総勢107人という規模になりました(中には、岩倉の息子の具綱=ともつな、大久保の息子、利和=としなか=彦之進=ひこのしん)・伸熊(のぶくま。のちの牧野伸顕=まきののぶあき)もいたのです。

宮内(くない)省・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)
司法省・佐々木高行(たかゆき)
兵部(ひょうぶ)省・山口顕義(あきよし)
文部省・田中不二麿(ふじまろ)
大蔵省・田中光顕(みつあき)
工部省・肥田為良(ひだためよし)

 などの他に、
福地源一郎(ふくちげんいちろう)
何礼之(がのりゆき)
田辺太一(たなべやすかず)
中江兆民(なかえちょうみん)
平田東助(ひらたとうすけ)
金子堅太郎(かねこけんたろう)
団琢磨(だんたくま)
林董(はやしただす)
野村靖(やすし)
安場保和(やすばやすかず)
村田新八(しんぱち)

 がいました。

 後年、東洋のルソーと呼ばれる中江は、超がつく多忙の大久保の家に7回も押しかけて採用されていますし、国権主義者であり、大臣にもなる平田も、外務少輔の山口のもとに7回も通って、いかに自分が国家のためになるかを力説して認められたのでした。

 平田は大正時代に内務大臣も務めて伯爵になっています。息子の昇(のぼる)は帝国海軍の中将となった後、昭和天皇の侍従を務めました。

 使節の中で話題となったのは、5人の少女たちでした。これは、薩摩の黒田清隆が、アメリカに行っていた後輩の森有礼(もりありのり。切腹禁止や帯刀禁止を提案して、猛烈な非難を受けて辞職した人。この人は、人として軽薄というか、知識偏重だけの薄っぺらい面がこの後にも多々、見られます)が、

「国家百年の計は女子の教育に待たねばならない。なんとか手だてを考えていただきたい」

 と、これはまともな提案をしたのがきっかけです。

 そこで黒田(この人は良くも悪くも直情径行の薩摩の猛者でした)が、政府に女子教育の必要性を建言しました。これからの日本の発展に女子の学校を設け、人材教育の基(もとい。基礎・土台)を立てるしかなく、そのために今、幼少の女子を選んで欧米に留学させよ、という内容でした。

 と言っても当時は、恐ろしい海(外洋への航海は安全とは思われてなく)を越えて、「夷狄(いてき)」の国へ娘を送ろうなどと考える親はなく、仕方なく黒田は「開明派」の官僚に呼び掛けたのです。

 そうして選ばれたのが、
吉益亮子(よしますりょうこ)・16歳
上田悌(うえだてい)・16歳
山川捨松(すてまつ)・12歳
永井繁(しげ)・9歳
津田梅・8歳

 の5人でした。

 吉益と上田の父は、元・幕臣で外務省の官員、山川の父は元・会津藩士で兄の健次郎は物理学者であり、のちの東京帝国大学総長、永井の父も幕閣で、兄は三井物産総帥の益田孝(ますだたかし)、津田の父も幕閣という構成です。
薩長土肥をはじめ、諸藩から男子の留学生は、急増していましたが、わが娘となると、さすがに薩長土肥からはいません。

 彼女たちの中で、山川は後年、陸軍元帥となる大山巌(いわお)夫人となり、鹿鳴館(ろくめいかん。後でしっかり説明します)でも名を残していますし、永井も海軍大将の瓜生外吉(うりゅうそときち)の妻となりました。

 最年少の津田は、ワシントン郊外のチャールズ・ランメン宅に預けられ、18歳になるまで10年間もアメリカで暮らしたのです。1882(明治15)年に帰国後、一度は華族女学校の教師になった後に再び渡米しました。その後、日本女性の高等教育こそ我が仕事と思い立って、1900(明治33)年に「女子英学塾(今の津田塾大学)を創立したのです。校長の梅子が36歳の時でした。

 政府が目的とする条約改正の焦点は、貿易における関税自主権と治外(ちがい)法権の二点に尽きます。自国で関税率を決められず、低い税率のままでは、イギリスを筆頭として産業革命を次々と経ていた欧米列強の製品に国内産業が圧倒されてましたし、第一、国家の貴重な歳入も少ないままです。

 また、治外法権によって、日本の法律で国内での外国人犯罪を裁くことができないのは、社会不安・不満の原因であり、劣等国と欧米から烙印(らくいん)を押されたようなものでした。現実として、開港地で無法を働く外国人に対して、その国の裁判官による処置は、ほとんどが無罪に近いものだったのです。

 また、1863(文久3)年の生麦(なまむぎ)事件以降、横浜には自国民保護という名目で、イギリス軍2000人、フランス軍300人など、外国の軍隊が駐留していました(他に長崎・函館にも駐留していたのです)。

 自国領内に平常時に軍隊がいるというのは、同盟でもない限り、異常なことです(結局、1875=明治8 年まで駐留していました)。こういった不平等条約改正には、まだ国として整っていないという判断(この客観性は適確で潔いものです)から、その時期を3年延長したいというのが、政府の方針でした。

 改正を認めさせるには、日本が欧米に対して、未開の後進国、非文明国ではありませんよ、と判断されるように、欧米の文明を取り入れようとしたのです(清沢洌=きよさわきよし)の『日本外交史』では、「日本がこの時期にこのことに気付いて条約改正のための建言をしていることは驚くべき事」だと述べています。隣の清(しん)が治外法権の非に気付いたのは、この時から50年を経たあとでした)。

 使節団派遣の提案者は大隈でした。古い研究例では、大隈を団長とした使節団が行く予定だったとされていましたが、近年、それは事実ではなく、三条を団長として、大隈が随従する計画だったことが判明しています。

 大隈は長崎にいた時に、オランダ系アメリカ人のフルベッキ(1830~1898年)の影響を受けていました。この人は、1859(安政=あんせい 6)年に宣教師として来日したのですが、禁教の時代だったので、英語などの教師をしていたのでした。

 工業学校出身のフルベッキは、工学系の知識も豊富だったので、佐賀藩の助力で『致遠館(ちえんかん)』という学校が作られ、そこで教えていました。その教え子の中に大隈や副島種臣(そえじまたねおみ)がいたのです。

 明治の世になり、フルベッキは東大の全身にあたる『開成(かいせい)学校』の教頭になっています。その間に、大隈に請(こ)われて1869(明治2)年に使節団派遣の企画書を作っていたのです。

 もとは、向上心旺盛な(日本人は本当に旺盛だと、歴史を学ぶ度に痛感します)教え子たちが、外国のことについて無数の問いを発するので、百聞(ひゃくぶん)は一見(いっけん)に如(し)かず、直接、見たらいい」と語ったのが契機となりました。

 フルベッキの企画書には、「天皇および国民が、その知性、活動力、高い人格に十分の信頼がおける人物」を使節代表として送る重要性が述べられていたのです。他にも元気いっぱいのアラビア馬と称されていた伊藤博文の、次のような意見書が、企画書の後押(あとお)しをすることになりました。

『世の中で一番醜(みにく)いことは他人の生活を羨(うらや)むことです。世の中で一番尊(とおと)いことは、人のために奉仕して、決して恩に着せないことです』
(福澤諭吉)

みたつ・やまと●1959年生まれ。2件の殺人を犯し、長期刑務所に服役中。現在でも月100冊以上を読む本の虫で、これまでに8万冊以上を読破。初めて衝撃を受けたのは10代のときに出合ったロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』。塀の中にいながら、郵送によるやりとりで『人を殺すとはどういうことか』(新潮社)、『夢の国』(朝日新聞出版)などを著す。
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『人生を変える読書 無期懲役囚の心を揺さぶった42冊』
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『女子高生サヤカが学んだ「1万人に1人」の勉強法』
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『牢獄の超人』
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『私はなぜ刑務所を出ないのか』
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『塀の中の運動会』
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『刑務所で死ぬということ』
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『人を殺すとはどういうことか(文庫)』
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『死刑絶対肯定論』
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『ドキュメント長期刑務所』
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『人を殺すとはどういうことか(単行本)』
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『夢の国』
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