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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー

教養を深めたい、仕事に生かしたい――。
人として成長するために本を読みたいと思っても、何から読めばいいかわからないビギナーのためのブログ。
服役中の無期懲役囚・美達大和から届く書評を随時公開。
週2回をめどに更新していきます。


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『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』 マイケル・ピュエット、クリスティーン・グロス=ロー

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『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』
マイケル・ピュエット、クリスティーン・グロス=ロー
早川書房
1600円+税

本書の内容はハーバード大学での、「中国哲学」の講義がベースです。
原題は、『Path(道)』となっています。

大きな意図は、

周りの世界とかかわり方とは、自分の感情との向き合い方次第で、
別の可能性があるのだ

ということです。

新しい思考・習慣を身につけ、
自分の在(あ)り方を変えることも可能
と述べていました。

登場するのは

孔子(こうし)

孟子(もうし)

老子(ろうし)

荘子(そうし)

荀子(じゅんし)

です。

孔子は、紀元前551年~前479年の人で、
周王朝の衰退期に活躍しました。
と紹介するまでもなく、
その名と、代表とも言える『論語』は
お馴染みでしょう。

孔子は、ひとのあらゆるできごとは
感情的経験の世界によって
方向づけられるとしています。

そして、もう一点、
「本当の自分」と思っていることの錯覚・自己の
行動パターンを知り、
積極的にその修正に取り組むことを
挙げていました。

ここで
心理学者ウィリアム・ジェームズ(1842~1910)の

「人は自分を知る人の数と同じだけの社会的自己をもつ」

という言葉を引用しています。
これ、まさにその通りではないでしょうか。

人間関係が化学反応(ケミストリー)とは
よく言ったもので、
相手との関係によって微妙に違う自己を
見ることってありませんか?

自分がそう思っている自己と、
他者が思っている自己の差が少ないことを
客観的に見る
とも称していますが、これは
自分を批判的に見ることもできなければ、
大きく異なってしまうのです。

獄にいると、そういう者が多く、
言ってることと行動の違いに気付こうとしないのを見て、
自分はそうならないようにと
戒めています。

孟子は、紀元前4世紀の春秋戦国時代の人で
「性善説」を唱えました。

人は生まれながらに善である、
善性を持って生まれてくる、
という思想です。

「人の性(せい)の善なるは、
なお水の下(ひく)きに就くがごとし。
人、善ならざることあるなく、
水、下(くだ)らざることあるなし」

(本性が善でない人はいない。
低い方へ流れない水がないのと同じ)

という言葉を残しています。

孟子のもう一つの特徴は
「世界が転変する」という観念を
貫(つらぬ)いたことです。

これはギリシア哲学で言えば
ヘラクレイトス(紀元前535~前475)の
「パンタ・レイ」と同じで、
万物(ばんぶつ)は流転(るてん)する、
となります。

この後、
老子、荘子、荀子(この人は「性悪説」を提唱)と
続きますが、中国哲学と西洋哲学の違い、
そして、西洋人(本書ではアメリカ人)が、
中国哲学を学び、理解する過程に、
私たち日本人との差異を感じました。

というのは、これは私個人の捉え方なのかと
懐疑的ですが、日本人は一つの「道(どう)」として捉え、
ガチガチの枠に落とし込んで定義するより、
全体を緩やかに包みつつ、
部分を確めていくのに対し、
彼らアメリカ人は、
一つ一つを「学問・教義」として分解して
定義づけしているように見えます。

西洋と東洋の思考で大きな差異を感じるのは
西洋というのは「ポジティブ」を合言葉として、
万事に能動的にあたれ、となるのですが、
東洋ではどこかに良い意味での
「諦観(ていかん)」
(諦めというより、なっちゃったら仕方ないよな)があり、
それに逆らう、強引に克服する思考は
ありません。

もちろん、西洋でも最後は
「神の思(おぼ)し召(め)し」となりますが、
そこまでに行く過程に、
何としてもやり遂げようという
人為(じんい)が強く作用する気がしました。

どっちが良い・悪いではなく、その状況と進行状態で、
それに見合った考え方・行動を
すればいいだけです。

困難や逆境を

「これも運命。受け入れよ、学べよ」

という老境の智恵が東洋なら、

「これを突破せよ、負けるな」

と鼓舞しつつ、ぶちあたっていく若者の営為が
西洋のようにも思えます。

どちらも最終的には
天命(てんめい)を待つ(神の定めを待つ)
なのですが、無為(むい)自然という点では
東洋の哲学なり、
教えが近いのではないでしょうか。

本書では、物事・出来事に対して、
見方・感じ方を変えることによって
対処することを唱えていますが、
私も下獄後にこの思考に気付き、
次は実践だと、自分の感じ方・態度の改善に
奮闘しているところです。

これは、パラドキシカル(逆説的)で、
理不尽とか、
心ない同囚の「他者の迷惑を顧(かえり)みない」言動によって
迷惑をこうむっている、
不快という状況が「訓練」となっています。

他者のことなど、毛ほども考えない
同囚の出す騒音(単独室は近くのそういう者の音が響くので)や、
言葉と行動が一致しない同囚との付き合いでの
「忍耐」と「観察」時の己の心構えなど、
訓練の機会は尽きません。

以前なら(ほんの3、4年前)、
それは違うだろと鋭く指摘したことでも、
今は「そう来たか、これも訓練だ」と
機会を利用しています。

ただ、何でもそのように「丸く」なることを、
いいこととは考えていません。
言うべきこと・時には言い、その機会を
極力少なくしていくこととしています。

その点で、塀の中は良い「訓練の場」です。
自分が不快な時、いやだなと感じる相手に対して
変われなければ、どんなに美しいことを口にしても、
ただの「口舌(こうぜつ)の徒(と)」でしか
ありません。

こんな人が多い現代だから、尚のこと自分は気を付けよう、
「自分との約束は死守しよう」と
決意を新たにしています。

今、不本意にも塀の中にいる人は、
この機会を十分に活かして人生を善きものに
変えてほしいです。

思えばできます!

さて、孟子は、善の種を蒔(ま)くのは、
初期の善の小さな芽を育てることと
語っていました。
些細(ささい)なことの積み重ねとも
言っています。

本書は、中国哲学よりも、
西洋人(アメリカ人)の捉え方・分析の仕方が、
私たち日本人からすればユニークだなと
感じられる一冊でした。

「善に生きる」どうか実践してみてください。
そして、自分の善が、誰かにとっても
善でありますことを願っています。

『命(めい)を知る者は
巌墻(がんしょう)の下(もと)に立たず。
その道を尽(つ)くして死するものは
正命(せいめい)なり』
(命の役割を知る者は崖の下には立たない。
すべきことに力を尽くして死んだ者は
天命をまっとうした者である。 孟子)

このレビューで美達が紹介した本


「日本史の教養」第52回

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勝は、イギリス公使のパークスに会いに行ったのでした。

イギリス、そして、パークスは前から

薩長に肩入れしていました。


外交上の敵ともいえるフランスは

幕府を支援していて、

見方によっては敵陣営とも言えます。


前もって通訳のアーネスト・サトウ(のちに公使)に

根回ししていたのですが、3月27日に横浜の

イギリス公使館に行きました。


ここで朝から夕方まで放ったらかしにされます。

パークスにすれば、

倒れかけた幕府の人間に利用されることを

警戒したのでしょう。

文句の一つ言わず、勝は夕方まで待ち続け、

やっと対面できました。


そこで勝は、今後の幕府の方針を

諄々(じゅんじゅん)と説いたのです。

慶喜の身の振り方、幕臣たちの生活をはじめ、

一般人を殺すことなく、

外国の手も借りずに、最もよいという道を貫きたいと、

丁寧に説明しました。


するとパークスは、それまでと打って変わって、

勝の話をじっくりと聞き、

夕食を共にしようとまで言います。

そして、夕食の席には、横浜港に停泊していた

イギリス軍艦『アイロンジック号』のキップル艦長を招き、

勝と引き合わせたのです。


そこで勝は、キップル艦長と、

ある約束をしています。その約束とは

「アイロンジック号が、1カ月間、停泊を伸ばす」

ということでした。


万が一の時のことを考え、

慶喜のロンドンへの亡命のためです。

これで、勝は一安心(ひとあんしん)の境地で

江戸へ帰りました。


ここで終わるはずでしたが、パークスはよほど

勝に惚(ほ)れたのでしょうか、

駿府(すんぷ)にいる西郷に書簡を送って

横浜に呼んでいます。


そこで、西郷に苛酷な処罰となれば、

欧州での世論が新政府への非を唱えるだろうと告げました。

驚いた西郷が寛大な処分になると伝えたところ、

パークスは満足そうにうなずいたと言います

(西郷は、鳥羽伏見の戦いの後での奇計=第51回参照

を逆にされたというわけです)。


このような裏事情も経て、慶喜と幕府に対する処分は、

次の通りになりました。


「第一条 慶喜去る一二月以来、

天朝を欺(あざむ)き奉(たてまつ)り、

剰(あまつさ)え兵力を以(もっ)て皇都を犯し、

連日錦旗(きんき)に発炮(はっぽう)し、

重罪たるに依(よ)り、

追討のため官軍差し向けられ候処(ところ)、

段々真実恭順謹慎の意を表し謝罪申し出候につきては、

祖宗以来二百余年、治国の功業少からず、

殊(こと)に水戸贈大納言(だいなごん、斉昭を指す)

積年勤王の志業浅からず、

旁(かたがた)以て格別深厚の

思召(おぼしめ)し在(あ)らせられ、

左の条件実行相立ち候上(そうろううえ)は、

寛典(かんてん)に処せられ、

徳川家名立て下され、

慶喜死罪一等宥(ゆる)さるの間、

水戸表(おもて)へ退き、

謹慎罷(まか)り在(あ)るべきの事」


「第二条 城明渡し、

尾張藩へ相渡すべきの事」


「第三条 軍艦・銃炮(じゅうほう)引渡し申すべく、

追(おっ)て相当差返さるべきの事」


「第四条 城内住居の家臣共、

城外へ引退き、謹慎罷り在るべきの事」


「第五条 慶喜叛謀相助け候者、

重罪たるに依り、厳科に処せらるべきの処(ところ)、

格別の寛典を以て、死一等宥さるべきの間、

相当の所置(処置のこと)いたし言上すべきの事。

但(ただし)、万石以上は、

朝裁を以て御所置在らせらるべきの事」


これで慶喜の首は、繋がったわけです。

そうして、4月11日に江戸城の引き渡しが行われました

(但し、西郷らの最も望んだ

完全な武装解除には至らず、

逆に榎本武揚や、歩兵奉行の大鳥圭介らが、

軍艦や兵を連れて脱走しています)。


また、慶喜と行動を共にし

京都で薩長の藩士や浪士を取り締まってきた

会津の松平容保(かたもり)も

家督を養子の喜徳(のぶのり)に譲って隠居し、

会津の別邸である御薬園(おやくえん)で

謹慎しています(これが、慶喜が恭順の意を示して

寛永寺に入った2月のことでした)。


同時に容保と家老らの嘆願書を22の藩に送り、

討幕派との仲裁を頼んだのです。

この中には土佐・紀州・尾張などの雄藩が入っていましたが、

動いたのは隣の米沢(山形県)藩主の

上杉斉憲(なりのり)だけでした。


上杉が動いたのは、西郷と勝が会談した3月のことです。

上杉斉憲は仙台藩に声を掛けて、

会津藩の赦免を朝廷や討幕派に働きかけます。

時を同じくして、仙台に

「奧羽鎮撫総督府(おうちんぶそうとくふ)」の一行が

到着しました。


これは、東北諸藩を鎮撫するために作れた

薩長の連合軍でした。

総督には「九条道孝(くじょうみちたか)」

副総督には「沢為量(さわためかず)」

上参謀(じょうさんぼう)には「醍醐忠敬(だいごただゆき)」の

3人の公卿が就いていますが、

戦のなんたるかも知らない彼らが、

単に名目上の地位にいるというだけです。


この軍の実権は下(しも)参謀の

大山格之助(明治期に綱良=つなよし と改名)

1811年の西南戦争時の鹿児島県の県令・薩摩藩と、

世良修蔵(せらしゅうぞう、長州の第二騎兵隊出身で、

もともと漁師)の2人が握っていました。


中でも世良の倫理観のなさ、礼儀も道理も弁(わきま)えていない

という愚劣さが、東北での無益な戦いを

しなくてはならなくなった一因となっています。


高杉晋作の騎兵隊は有名ですが、大きな特色は

「従来の身分制度を越えた志願兵による編成」でした。

世良のいた第二騎兵隊に至っては、

漁師・農民の他に土地の荒くれ者・前科者で

編成されていたのです。


その中で世良は、いくらか読み書きができた

というだけで幹部になれた男でした。

長州藩内では、第二騎兵隊を中等以下くらいの馬鹿者と

公言する家臣もいたほどです。


同じ長州の品川弥次郎(しながわやじろう)が

世良の下参謀就任について

「世良とはひどいのが行くな」と言った言葉が

有名になっています。


仙台に来た鎮撫軍に対して、

米沢藩は容保が恭順の意を示しているゆえ、

会津藩の降伏を認めてくれるように懇請しましたが、

世良は怒りと共に拒否し、

文句があるなら米沢藩も同罪と恫喝(どうかつ)したのです。


世良は仙台藩主の伊達慶邦(よしくに)が

挨拶に来た際も上座に座り、

答礼を返すことなく、

「仙台中将」と呼び捨て(これは武家の世では

考えられないくらいの非礼にあたります)にしています

(他にも仙台藩の家老らが差し出した書類を、

芸奴に膝枕をさせて、なんと足の指で受け取ったという、

とんでもない不敬を働いていたのです)。


この時点(3月中旬)では、討幕派、

つまり新政府の威光も権威もまだないということに、

世良は微塵(みじん)も気付いていません。


虎の威を借(か)る狐(きつね)とは、

このような卑小な男のことを言うのです。

世良の無礼な振る舞いに、仙台藩の家臣らが激怒して、

不穏な空気になりましたが、

なんとか抑えています。


総勢550人ほどの奥羽鎮撫軍は、

仙台に入って以来、連日のように

民家・商家への略奪や強姦を繰り返し、

世良も酒や女色に浸りきりになりました。


仙台藩の藩士たちは、

これが「官軍・朝廷軍か」と呆れ返ったそうです。

世良は「容保の斬首と世子の幽閉、

鶴ヶ城(つるがじょう)の明け渡し」を条件にし、

仙台藩にも会津攻めを強要しました。


仕方なく、仙台藩は出兵していますが、

互いに空砲を撃ち合うなど形ばかりの戦いをしたのです。

途中で世良の命令を受けた長州藩士の督戦が厳しくなり、

実弾に変わりましたが、

両藩は止戦策をまとめています。


「鶴ヶ城明け渡しと領地削減」

「3人の家老の切腹」「容保の助命と謹慎」という条件で、

会津藩は降伏を示す

「会津藩家老連盟嘆願書(たんがんしょ)」を作り、

停戦となりました。


そして、仙台・米沢両藩は奥羽諸藩の重臣らを

仙台藩本営のある白石城に集め

「奥羽各藩家老連盟歎願書」を作ったのです。

伊達慶邦と上杉斉憲は4月12日(江戸城開戦の翌日)、

総督の九条道孝を訪れ、これを提出し、

九条もこれを了承しようとしました。


本来であるならば、ここで討幕軍(多くの書では

「官軍」としてますが、それは薩長史観によるもので、

ここでは討幕派・討幕軍とします)と

奥州諸藩との戦争は終わるはずで、

多大な犠牲者は出ない道もあったのでした。


しかし、世良は検討の余地なく、

即刻却下しただけではなく

「会津は朝敵、天地に入るべからざる罪人」として

会津攻めを2人に指示したのです。


その後、世良が仙台・米沢の両藩を

愚弄(ぐろう)する密書を仙台藩が見つけ、

数々の醜行(しゅうぎょう)に

堪忍袋の緒(お)が切れ、

閏(うるう、この年は4月が2回あり、

後の4月をこう呼びます)

4月20日に仙台藩士の手で世良は斬首されました

(世良の首級を前に、仙台藩参謀の玉虫左太夫)は

「厠(かわや)に捨てよ」と吐き捨てたそうです

(厠とは便所を意味します)。


そして、これがきっかけとなり、

閏4月22日に「奥羽列藩同盟」が成立しています。

参加したのは、会津・庄内の当事者を除いた

25の藩(総石高143万石)でした。


列藩同盟は、軍備を共に朝廷に会津・庄内の両藩を

寛大な処分にしてくれるように建白書を出しました。

その中では鎮撫軍世良の暴虐の列挙と

「万民塗炭(とたん)の苦に陥りては

鎮撫の御三卿の御仁恤(ごじんじゅつ)御誠意も

貫徹出来候わず王政復古の大業の妨害となるべし」

という正論が述べられています。


このように、会津・庄内(他の藩でも)の両藩は

何度も朝廷や討幕派(新政府)に対して、

恭順を示し、無益な戦いを避けようとしたのです。


既に徳川幕府は実体をなくし、

一部に反抗を企画している者はいるものの、

会津・庄内両藩は、朝廷と新政府への服従を

はっきりと表明し、奥羽の諸藩もそれを

支持・支援しています。


みなさんの中には、そうは言っても

軍備増強(奥羽の列藩が)をしているのでは、と

怪訝(けげん)に思う人もいるでしょうが、

現代の平和幻想(平和ボケ)の感覚ではなく、

本来の軍備とは「戦うため」ではなく、

戦わないことを前提とし、

どうしても避けられねば

「勝敗を別にしても戦わねばならない」ものなのです。


奥羽列藩同盟の諸藩の中には、

このまま和平となり、戦わなくてもすむと

考えていた藩もありますし、

可能ならどの藩も戦いたくはなかったでしょう

(薩長の横暴に対する憤りがあったとしても)。


そうであっても、討幕派(新政府)が

あくまで武力によって旧幕府派を一掃しようとするなら、

武士道の価値観として戦わざるを得ないのです。


今と違って

「命よりもはるかに尊(とおと)いもの・価値観」が

公然と謳(うた)われ、

それを核として生きていた人々がいた時代でした。

その武士の一分(いちぶん)とは

「忠義」の心であり、これがために

主君を蔑(ないが)しろにすること・者に対して

敢然と命を捧げることが、

自らの務めだと生きていたのです。


戦後の「損か得か」という功利第一の思考と

行為の中で疑念もなく育ち、

生活してきた多くの現代人にとっては、

自らの命や人生が至上のものであり、

忠義というのは観念上でしかないでしょう。


しかし、自らに課した信条・信念・生き方が

何よりも尊いと疑いなく生きる人には、

自分の命や人生など、なにほどのものでもありません。


「奥羽列藩同盟」の同盟とは盟約、

すなわち約束です。約束した以上は、

それを守ることが至上の価値となります。

もし、討幕派(新政府)が、

会津藩や庄内藩の寛大な処分を拒否するのであれば、

止(や)むを得ず戦うことも辞さない、

というのが同盟のもう一つの意義でした。


他方、薩長にしてみれば、会津藩・庄内藩に対しては

私怨とも言える感情がありました。

京都での新選組を筆頭とした

長州の藩士・浪士の取り締まりの総元締は

会津藩主の松平容保です

(松平容保が、中川宮朝彦親王を動かして

孝明天皇に奏請したことで、「長州追討」となり、

『八月十八日の政変』になったことも大きな要因です。

但し、この時は薩摩藩も一緒に行動しています)。


薩摩にしても、自藩の人間が斬られていました。

これは、江戸市中取締を命じられた庄内藩に対しても

変わりません。


『社会全般の幸福に貢献しなかった人はどうなったか。

何も残すことなく消え去った。

身体も精神も何もかも』

(アルフレッド・アドラー)



『日本史の教養』第51回

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山岡の窮地を救ったのは
清水(しみず)を根城(ねじろ)とした、
街道一の大親分と異名(いみょう)を取る
清水の次郎長(じろちょう)こと
「山本長五郎(ちょうごろう)」でした。

次郎長は、大政(おおまさ)・小政(こまさ)、
森の石松(いしまつ)などの子分でも知られる
侠客(きょうかく)です。

歌もありますね「しみ(い)ずぅ
みなとのめい(いい)ぶ(う)つぅぅはぁあ
お茶のおぉ 香(かお)りぃとぉ
男伊達(だぁて)えぇ(失礼しました!)」

静岡、いい所です、特に清水は!

その清水の次郎長が窮地の山岡鉄舟(てっしゅう)の
道案内を買って出ました(漢と漢の道行きです)。
次郎長には数多の逸話がありますが、

この当時、清水港で討幕派が
幕府軍の兵の死体を海から引き上げて葬(とむら)うのを
禁じたことがありました。

誰もが討幕派の連中を恐れて静観するしかなかった時、
次郎長は既に仏(ほとけ)さんだからと
果敢(かかん)に遺体を引き上げて葬ったのです。

それを知る山岡は武士ではない次郎長を
一人の人物と認めたのでした。
またこの2人の交友は後もずっと続きますが
ある時、山岡が次郎長にこんなことを問いました。

「お前のために真に命をかけてくれる子分は何人いるか?」

言葉は厳密ではありませんが、
趣旨はこの通りです。
次郎長は答えました。

「私のために命をかけてくれる子分なんぞ、
いません。でも、
私が子分のために命をかけられます」

後世、明治天皇でさえ、相撲で投げ飛ばしたという
真偽不明の伝説を持つ山岡が
唸ったそうです。

次郎長は明治の世になって、
富士の裾野(すその)の開墾(かいこん)事業もしています。
その次郎長に案内(護衛)されて
山岡は西郷と会うことができました。
3月9日のことでした(1868年)。

場所は『松崎屋』という料亭です。
社会にいた時、静岡駅近くのこじんまりした寿司屋の傍にある
「西郷・山岡会見の跡」という碑を見に行きました。

真に肚(はら)の座った山岡と
陽明学の知行合一(ちこうごういつ)の人、
西郷との対面、
その空気を肌で感じてみたかったです
(興味のある人は、『山岡鉄舟の武士道』や、
頭山満の『幕末三舟』を読んでみてください。
西郷であれば『西郷南洲遺訓』がオススメです)。

山岡は幕府と慶喜の置かれている状況を
切々(せつせつ)と語り、
もし、主君の島津候がその立場なら黙っていられるか、
死を受け容(い)れられるかと問います。

情の人、西郷は山岡の心を真っ直ぐに受けとめ、
慶喜の処置について「新政府」での
検討を約束しました。
翌日の3月10日夜に、
山岡は江戸に着いています。

西郷さんから通行の安全についての
通達が出ていたからでした。
この2人の会談後に、
西郷が山岡鉄舟に対して
こんな所感を述べています。

「命もいらず、名もいらず、
官位も金もいらぬ人は、
艱難(かんなん)を共にして
国家の大業(たいぎょう)は
成し得られぬなり。
去(さ)れ共(ども)、かようの人は、
凡俗(ぼんぞく)の眼には
見得られぬぞと申さるるに付(つき)、
孟子(もうし)に
『天下の広居(こうきょ)に居(お)り、
天下の正位(せいい)に立ち、
天下の大道(たいどう)を行ふ、
志を得れば民と之(これ)に由(よ)り、
志を得ざれば独り其道を行ふ、
富貴(ふうき)も淫(いん)すること能(あた)はず、
貧賤(ひんせん)も移すこと能はず、
威武(いぶ)も屈すること能はず』
と云(い)ひしは、
今仰(おお)せられし如きの人物にやと問ひしかば、
いかにも其(そ)の通り、
道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也(なり)」

これは、『西郷南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』に
ある一説ですが、山岡鉄舟を許したものとされています。
命も名も官位も金もいらぬ人は、
始末(しまつ)に困るもので、
この始末に困る人でなければ、
艱難(非常に辛くて苦しいこと〉を共にして
国家の大業はできないという意味ですが、
山岡のみならず、
西郷もその一人と言えるでしょう。

西郷は若い頃に、禅の高僧として知られていた
無参(むさん)禅師の薫陶(くんとう)を受けて
禅の修行をしています(大久保も一緒でした)。

禅師は永平道元(えいへいどうげん)禅師の
高風(こうふう)を慕って修行した有徳の僧で、
島津家菩提寺(ぼだいじ)の
福昌寺(ふくしょうじ)第67代の住職です。
西郷が参禅したのは21歳からの4年間でした。

また、西郷は大久保、
伊地知正治(いちじまさはる)、
海江田信義(かいえだのぶよし)、
税所篤(さいしょあつし)、
吉井友実(よしいともざね)ら(のちに明治の世でも活躍する)と
『陽明学』を学んでいます。

陽明学は明代(みんだい)の
思想家『王陽明(おうようめい、1472年~1528年)』によって
大成されたもので、
朱子学(しゅしがく)を批判し、
徹底した実践重視の思想で
「知行合一」の教えでもあります。

卑小の身の私も、学生の頃から陽明学の信奉者で、
知行合一、思うところは必ずや実践すべし、
という信条を大事にしてきました。
大局にあるのは、口先だけで行動が伴(ともな)わない
「口舌(こうぜつ)の徒(と)」です。

信条のためなら、
命も何もいらないというのも変わりませんが、
西郷は山岡という人物に琴線(きんせん)を
ならされたのでした。

しかし、厳密に言えば、
この時点での西郷の胸中には、
慶喜に対しては厳罰しかないという思いがありました。
慶喜を完全に排除すること、
幕府の影響力を完全に払拭することが、
新しい政治体制(西郷の構想する下級武士も交えた合議制)には
不可欠だったのでした。
そして、3月11日に、西郷は江戸に向かいます。

西郷の江戸行きを山岡から知らされた勝は、
自ら会談して慶喜への寛大な処置を実現しようと決めました。
初めから戦いをする気はありませんが、
いざとなれば江戸市中を焼き払って
討幕軍を火の海の中で焼き尽くしてやる算段でした
(勝は、それまで、1月24日にロッシュを訪問して
軍事訓練の契約解除を申し入れ、
2月14日にはパークス公使と関係の深い
イギリス海軍教師団を訪れて、
フランスとの絶縁を報告しています)。

このあたり、あのナポレオンが、
ロシア遠征(1812年)で
モスクワの焼き打ちに遭(あ)って
60万という大軍を失って後退したのを、
勝が知っていて真似しようとしたようです。

この時、勝は江戸の町火消の頭(かしら)の
新門辰五郎(しんもんたつごろう)や
博徒・ヤクザに声を掛けています。
新門辰五郎は、慶喜の護衛をしていたこともある男ですし、
彼の娘は京都での慶喜の愛人でもありました。

2月14日、東山道(とうさんどう)の
先鋒隊(せんぽうたい)が江戸の板橋に着くと
江戸の町は騒がしくなります。
そんな中、3月13日・14日と西郷と勝は
歴史上、名高い会談をしたのです。

勝は、事前に西郷へ手紙を送りました
(使いの者が持っていったのです)。
戦いたくはないが、いよいよとなれば、
やらざるを得ない、
そうなれば外国から笑われるだけともいう内容でした。

当日、西郷は洋服に下駄、
勝は羽織袴(はおりはかま)という姿です。
この会談まで西郷は前述のように
慶喜厳罰論でしたが、勝との話し合いでは
激しい議論をすることもなく、
3月15日に予定していた江戸城総攻撃の中止を
傍にいた村田新八(しんぱち)と
中村半次郎(人斬り半次郎、のちの桐野利秋、剣の達人です)に
命じています。

会談の争点となったのは、勝からすれば
慶喜の謹慎場所であり、
西郷からすれば幕府の完全武装解除でした。
討幕側は、慶喜を岡山藩に預けるとしていますが、
勝は水戸藩にと希望したのです。

岡山藩主の池田茂政(もちまさ)は
徳川斉昭(なりあき)の子で、
慶喜の弟にあたりますが
(池田家に養子に入って池田家を継いだので)、
長州藩の復権を支持するなど、
徳川とは敵対関係で、
預けられた後の慶喜の安全が保証されません。

また、幕府に対して、
全ての兵器と軍備の引き渡しを要求していますが、
幕臣には従わない者もいて、
容易に了承できない事情がありました。

他では幕臣の身の振り方や、慶喜を支持して
薩長に敵対した諸侯の処置があったのですが、
これは双方ともに二義的(二の次)な
扱いをしています。

会談では結論が出ませんでした。
それなのに西郷は、なぜ、突如として
総攻撃を中止したのでしょうか。

学校の歴史教育や、
多くの書では触れていないか、
些細(ささい)なものとしていますが、
西郷たちにとって看過(かんか)できない事情ができたのです。

西郷・勝の第1回目の会談が行われた3月13日、
東海道先鋒総督のもとで参謀をしていた
木梨精一郎(長州藩)と肥前(ひぜん)大村藩の
渡辺清(きよし)が、
横浜の居留地に赴き、イギリスのパークス公使と会っています。
開戦となれば、負傷者が見込まれるので
病院設置の協力を申し入れたのでした。

その際、パークスは
「慶喜は恭順というのに戦争を仕掛けるとはいかがなものか」
と応対しました。それだけではなく
「戦争をするなら居留地の人民を
統轄(とうかつ)している所の領事に政府からの命令があるもので
何も来ていない、また、
居留地警衛(けいえい)の兵も来なければならないのに、
それもなく、開戦の道理もない」
という趣旨を怒気を込めて論難したのです。

これを聞かされた西郷は愕然とします。
イギリスを敵に回すことはできないという思いからでした。
じつは、パークスには、
横浜を清国の上海(シャンハイ)などと同じ
租界(そかい)にしたいという思惑もあったのです。
租界は日本の行政・司法権の
及ばない地となります。

そこで、戦争ともなれば、
戦火や狂った敗残兵の惨渦(さんか)が横浜にも及ぶことを
嫌ったのでした。また、
前述のイギリス海軍教師団に対する勝の工作が、
薩長びいきのパークスに功を奏した面も
皆無とは言えません。いずれにせよ、

防衛力・軍備の乏(とぼ)しい国は、
その主権さえないのと同じという見本になりました
(現代でも似たような状況にある日本ですが、
有事になって初めて気付くのでは、手遅れとなります)。

会談の後、西郷は太政官代(だじょうかんだい、新政府)のある
二条城(京都)に行き、会議が開かれます。
列席したのは「三条実美(さねとみ)」
「岩倉具視(ともみ)」
「大久保利通(としみち)」
「木戸孝允(たかよし)」
「広沢真臣(さねおみ、長州)」
「後藤象二郎(しょうじろう)」と西郷です。

西郷と木戸は寛大に死一等を減じてで、
大久保と岩倉は死罪というので
議論となりました。

頑張ったのは弁論に長(た)けた木戸でした
(この人は超強硬派の大久保に比べて穏健というか、
明治になっても大体は調整型、
バランス重視の人)です。

余談になりますが幕末では桂小五郎(かつらこごろう)
「逃げの小五郎」(剣術は強いらしいのですが)と呼ばれ
時にはこじきに扮装(ふんそう)して
逃げたりしています。

それを支えたのが京都三本木(さんぼんぎ)吉田屋の
芸妓(げいこ)の「幾松(いくまつ)」で、
維新後に結婚して正妻となりました(ちょっと脱線します)。

幕末の志士・浪士と遊里の女たちとの関係は
浅くないものでした。
尊攘運動では大物と称された者ほど、
遊里で豪遊したものです。

京都の夜の巷では、長州の人気が高かったのも、
その派手な金遣いにありました。
それだけではなく、遊女や芸妓らにとって
志士や浪士を助けたり、愛人となる
「勤王(きんのう)芸者」は
一種のステイタスでもあったのです。

木戸以外にも、伊藤博文と馬関芸者の
お梅(伊藤は最初の妻と離婚して、
この人を正夫人にしています)、
のちの外務大臣の陸奥宗光
(妻の病没後、新橋の芸者小鈴と結婚)
山県有朋(再婚相手が芸者老松)、
高杉晋作の愛妾も「おうの」という下関の芸者でした。

おうのは、知的障害を持った人で、
周囲は「高杉さんほどの人があんな女」と言ったそうです。
高杉は、「ぼんやりしたところが、心休まる」と
気に入っていたのでした。

高杉が28歳で亡くなると、
おうのは梅処尼(ばいしょに)という尼になり、
42年間も高杉の墓を守って
泉下(せんか)の人となったのです。

大久保にも茶屋の娘の「おゆう」がいて、
大久保暗殺(1878年)まで関係が続きました。
西郷にも茶屋の仲居(なかい)がいたのですが、
本人はこの話はしたくなかったとあります
(勝海舟の話では、この女性は通称を
「豚姫(ぶたひめ)」と呼ばれて、
体格の大きな人だったようです)。
閑話休題。

一方、会議の様子など、わかりようもない勝は、
この間に万一の時のことを考えて
工作活動を始めたのです。

この時の勝には、大手を振って歩けない事情ができていました。
幕臣の勝がしていること、
それは徳川幕府を信奉(しんぽう)する人間にとって、
何を意味しているかということです。

彼らにとって勝は慶喜を表舞台から消し、
幕府の政体自体をも幕引きしようとしています。
これは、佐幕派にとって、けしからん奴だ、
という怒りの対象であり、
暗殺の対象でもあるのでした。

そのため、江戸市中をのんびり歩くことも
ままなりません。いつ、佐幕派(親幕府)の武士に
斬られるかわからない身でした。
それでも、自分が生き延びられたら、
ここをうまく乗り越えられると信じて、
勝は思い切った策に出たのです。

『2匹の蛙がミルクの入った壺に落ちました。
1匹は「もう終わりだ」と泣き、
溺れ死ぬ覚悟をしました。
しかし、もう1匹は諦めず何度も脚をばたつかせると、
足が固い地面をとらえました。
何が起きたか? ミルクがバターに変わったのです』
(アルフレッド・アドラー心理学者)

みたつ・やまと●1959年生まれ。2件の殺人を犯し、長期刑務所に服役中。現在でも月100冊以上を読む本の虫で、これまでに8万冊以上を読破。初めて衝撃を受けたのは10代のときに出合ったロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』。塀の中にいながら、郵送によるやりとりで『人を殺すとはどういうことか』(新潮社)、『夢の国』(朝日新聞出版)などを著す。
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