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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー

教養を深めたい、仕事に生かしたい――。
人として成長するために本を読みたいと思っても、何から読めばいいかわからないビギナーのためのブログ。
服役中の無期懲役囚・美達大和から届く書評を随時公開。
週2回をめどに更新していきます。


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「日本史の教養」第44回

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それは、1865年4月に、
アメリカで南北戦争が終わったからです。
膨大な量の銃器をはじめとした武器が残り、
日本に輸入されました。
軍艦も何十隻という単位で
グラバーは売っています。

薩長が手を結ぼうとしている中、
幕府は長州征伐の実行に着手しました。
5月16日(1865年)に将軍家茂(いえもち)が
江戸を出て25日に大阪城に着きます。
この時、家茂26歳です。

長州藩は「来るなら来いや!」と声明を出し、
やる気満々です。
何と言っても西洋式の武装によって、余裕があります。
慶喜、松平容保(かたもり)、定敬(さだあき)の
一会柔(いっかいそう)政権は、
長州征伐の勅許を求め、9月21日に出ました。

幕府は薩摩、熊本、久留米、広島など西の藩に
動員令をかけますが、薩摩は朝廷に抗議しています。
兵を動員するには大義がなければならん、
という主張です。

そこで一会桑の3人が再び、
朝廷に長州征伐の建言を採りあげてくれないならやめる
と言い出しました。
また、丁度その頃、兵庫の開港を約束通りしてくれと、
イギリス5隻、フランス3隻、オランダ1隻、
計9隻の軍艦が兵庫沖に停泊していたのです。

先導したのはイギリスの2代目公使のパークスでした。
この人は、清でのアロー号事件で
拉致に遭いながらも、
強引な外交をした人物です。

骨の髄から外国人が嫌いという孝明天皇は
拒否せよとの意向で、
公卿たちも慶喜に何とかしてくれと言いますが、
どうにもならず、かなり、もめるのですが、
正式な開国通商条約を認める
勅許が出されました。
これが、1865年10月のことでした。
勅許により、日本の国策は開国と正式に決まったのです。

さて、薩長の同盟では、両藩が虚勢か見栄なのか、
互いに言い出さずに進展しません。
龍馬は、武器も買って回してくれているのだから、
過去のことは水に流して日本のためにやりましょうと、
桂、品川弥二郎(しながわやじろう)、
三好軍太郎(みよしぐんたろう)らと
1866年1月8日、西郷の案内で
京都二本松の薩摩屋敷に行きました。

私用のため、不在にしていた龍馬が戻ってきたのは
1月20日でしたが、双方共、
肝心の同盟の話は切り出さず、ひたすら
薩摩の接待を長州が受けているだけだったのです。
互いに自分から切り出しては、
武士の面目にかかわる、という状態でした。

そこで日頃は明朗闊達(かったつ)で怒ることのない龍馬が
怒り出したのです
(この人は生涯で2回しか
怒ったことがないと言われています。
あと1回は自分の「いろは丸」が
紀州藩の船に衝突されて沈没した際の交渉の時でした。
龍馬は交渉で『万国法(ばんこくほう)』という
国際法を論じて高額の賠償金を取りました)。

自分たちは命を狙われながらも、
私利私欲のためでなく(これがいいですね)、
日本の将来のためにやっているのだ、と説き、
同盟にこぎつけたのでした。

日本の歴史の一大転換点となった
『薩長同盟』はこうして1866年1月21日に
成立したのです。
この時、桂は6つの条件をつけて盟約としました。

幕府との戦さが始まれば薩摩は、
すぐに2000人余の兵を出して
長州に加勢すること、から始まり、
万一、敗戦の時も1年や半年で長州が
潰滅することはないので
協力しあうこととなっています。

そして、最後が、冤罪(えんざい)をはらした後、
両藩は「皇国」のために尽力するのは言うまでもなく、
日本のために皇威(こうい)を発揚することを目的として
力を尽くすことを約束するとありました。

ここで皇国(こうこく)という言葉が出てきますが、
これは崇高な印象や意味を持ってはいません。
まだ、この頃は天皇や朝廷というのは、
一般人も含めて社会では幕府より下にある、
という認識でした。

例外としては水戸藩の編纂(へんさん)した
『大日本史』にあるように万世一系(ばんせいいっけい)の天皇が
国を統治してきたのが日本の歴史であり、
それが正統という思潮も
一部の武士層にはありました。

しかし、それはまだ普遍的ではなく、
朝廷や天皇の権威は、それは利用する側の都合で
変わりました。

本来(古代)の天皇の呼称は
「すめらみこと」ですが、
幕末の世ではミカド、禁裏(きんり)、内裏(だいり)
と呼ぶのが普通でした。

また、武士(主に)の間で皇室、天皇の尊さを広め、
啓蒙した書として北畠親房(きたばたちかふさ)の
『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』
があります。

「大日本(おおやまと)は
神国(じんこく)なり。
天祖(てんそ)はじめて基(もとい)をひらき、
日神ながく統(すべ)を伝え給(たま)う。
我国のみ此事(このこと)あり。
異朝には其(その)たぐいなし。
此故(このゆえ)に神国と云(い)うなり」

天に在る祖先が、この国を開き、
神の子孫が長く統治してきた。
他国にはない、故(ゆえ)に神国という。
この思想が浸透するのは、まだまだ、
先の話になるのです。

こうして、日本の歴史は新たな段階に入りますが、
第2次長州征伐が実際に始まったのは
1866年6月7日でした。
この日に再攻撃の命令が出たのです。

当時の世相は、戦さよりも別の理由で
騒然としていました。
それは米価の暴騰に始まるインフレによる生活苦です。
幕府の施策の失敗によって金(きん)の国外流出と
1860(万延元)年の
貨幣の改鋳(金の流出で小判の金の含有量を
3分の1にしたところ、当然、物価上昇、
インフレとなった)、農産物の主要な物品が優先的に
貿易に回ってしまう(高価格で買ってくれて儲かるので)ための
価格高騰など複合的原因があります。

通商条約を結ぶ際に金(きん)と銀との交換レートが
著しく日本に不利なのを見過ごしてしまったことも大きく、
少なくない書で、それが強調されていますが、
それだけではありません。

実は、江戸の経済はペリー来航以前から
社会構造的問題を孕(はら)んでいたのです。
まず前提として江戸時代は「米」が経済の中心でした。
幕府の歳入の核をなすのは
天領(てんりょう)と呼ばれた
全国の直轄地からの約400万石の年貢です。

米を作るのは農民でしたが、
中には税の課せられない商品作物を作って
利益をあげる農民も現れました。
中でも木綿は大きな収入となり、
木綿の普及に合わせて綿だけを作る農民も
増加したのです。

結果として米の生産が下がり、
米価は上がります。
加えて人口増加の停滞で農民が減ったり、
農業をやめる農民も増えるなど、
米の生産量は減る一方でした。

それにともない、年貢を収入源としていた
藩の財政も苦しくなります。
凶作にでもなろうものなら、大名といえども
借金だらけです。
参勤交代の費用すら捻出できない藩も
ありました。

そのような背景で各地で一揆(いっき)が起き、
諸藩は戦争どころではなくなったのです。
幕府もその窮状を見て、
遠方の藩の出兵は見合わせるように
通達しました。

そんな訳で長州征伐の出兵は足並みが揃わず、
出兵した藩も戦意は薄かったのです。
では、長州藩はどうだったのでしょうか。

『自分自身と和することのできぬ心が、
どうして他人と和する事ができようか。
そういう心は同じて
乱をなすより他に行く道がない』
(小林秀雄『私の人生観』より)

「日本史の教養」第43回

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この時点(1865=慶応元年 の春)での
日本の情勢を確認しておきます。
長州藩は朝敵(朝廷の敵)とされ、幕府と反目の途上にあり、
薩摩などの雄藩は
幕府とは別に政治体制及び日本の行く末を
模索しているところです。

外国の列強が迫る中で、
日本は四分五裂という状況にありました。
朝廷がわずかながら権威を回復しつつあっても、
それは軍もない張り子の虎のようで、
天皇は絶対的存在というより、
各陣営が上手に利用してやろうというのが
実情でした。

言ってみれば、今まさに船が沈みかけている時に、
船長は誰がいいと争っているようなものです。
沈んでしまえば元も子もありません。

「分割して統合する」
これはイギリスをはじめ、
列強が他国を植民地化・属国化する際に用いる手法です。
現地の人民同士を対立させて争わせる、
その後、どちらかを支援して実際の権力と権益を
手にするのは常道でした。

たとえば、
インドではヒンズー教徒とイスラム教徒の対立を作り、
マレーでは華僑(中国人)と
現地人のマレー人を対立させたイギリスに対し、
フランスもベトナムでは華僑とベトナム人を対立させて
統治しています。

これらの国々では独立後ものそのしこりが残り、
一方的な現地人優遇政策を施行した政府も
少なくありません。
イギリス、フランスは雄藩(イギリス)と
幕府(フランス)をそれぞれ支援して、
体制決定後は自国の権益を拡大したり、
可能なら属国化しようと
狙っていたのです。

こんな状況を見て、日本の将来を憂慮して
「なんとかせねば」と考えた
2人の人物がいました。
土佐藩脱藩浪士の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と
土方久元(ひじかたひさもと)です。
共に強烈な攘夷論者であり、初めから倒幕論者でした。

中岡は土佐(土佐、いい所ですねぇ!)で
陸援隊(りくえんたい)を作り(龍馬が海援隊を作っています)、
後に京都の近江屋(おうみや)で
龍馬と2人でいるところを暗殺されました。

他方、土方は三条実美(さねとみ)の側近で、
三条の思想から影響を受けています
(この人は明治の世で宮内大臣を務めました)。

2人の望みは、薩摩藩と長州藩の連合が主体となって、
「新生・日本」を創ることでした。
両藩共に、関が原の戦い(1600年)では
徳川家康に敵対した外様大名であり、
経済力も備えています(密貿易という収入がったので)。
政権を取りたい意欲もあって、人材も豊富です。

中岡は自著の『時勢論(じせいろん)』の中で
「国体を立て外夷の軽侮(けいぶ)を絶つには
両藩の和解こそ緊要」と書いていました。

京都での寺国屋事件(1862年)、八月十八日の政変(1863年)、
蛤御門の変(1864年)などで、
この両藩の反目は増すばかりでした(第34回〜第46回を参照)。
2人がこんなことを構想していた矢先に幕府が、
第2次長州征伐を布告しましたが、
薩摩藩は「今回は大義(正当な理由)がない」と
出兵を拒否します。

2人は、この機を逃してなるものかと動き始めたのです。
中岡は西郷のいる鹿児島へ、
土方は桂(小五郎のちの木戸孝允)か高杉のいる萩へ向かいました。
私は中岡と土方の心中を勝手に想像しますが、
壮大なヴィジョンを懐いて前進していく雄々しさと
風を感じて止みません。

2人には権力を握ろうという私心はなく、
攘夷という方向性は別として
日本の未来のためという大義(これぞ!大義です)という
熱誠の塊となっています。
人生意気に感ず、男子の本懐(ほんかい)ここにあり、
でしょうか。

幸か不幸か、萩には桂しかいなかったのでした。
高杉は目的を言わず、開国を声高に唱え、
仲間から命を狙われることになり、
四国に身を潜めていたのです。

開国は将来の攘夷のためにする(大攘夷)と説明せずに、
ただ開国とばかりに叫ぶので誤解されましたが、
こんなところも高杉の率直さゆえなのかもしれません。

それで土方は、藩の政事堂用掛(せいじどうようがかり)、
今なら外務大臣のような役職にあった桂と会談して、
藩主の許可まで取り付けました。
藩主は、状況によっては
三条実美のいる大宰府(だざいふ)に行くのもよかろう、
という返事です。

三条実美は、1863年の「八月十八日の政変」で七卿落ちとなり、
長州へ落ちのび、その後、
第1次長州征伐の降伏条件の一つで
大宰府に送られていました。
この人、朝廷内の攘夷派の大ボスという存在でした。

薩長同盟は、その後、すんなりいった訳ではなく、
紆余曲折(うよきょくせつ)があり、
もし、即断即決即行動の高杉だったなら、
「もう要らねえよ」となっていたでしょう。

桂は穏当な人柄で耐えました
(でもこの人、「逃げの小五郎」と言われて、
逃げる時は素早く、何度も命拾いしています。
この人と芸者の幾松の恋は良く語られているのですが、
結婚しましたね)。

以上の経緯で土方は桂を連れて、
下関の廻船(かいせん)問屋の
白石正一郎(しらいししょういちろう)の屋敷に
来ました。

白石は豪商で、各藩の志士・浪士たちの
大スポンサーでもあります。
この人の援助を受けた人物は
高杉(この人など、蔵がいくつも建つほどの資金をもらっては、
パーッと遣っています)、久坂、桂、西郷、龍馬、
真木和泉、吉村虎太郎、などなど10年間に
400人以上が世話になっていました。

奇兵隊の創設も白石が支援しています。
他藩のパトロンでは、
薩摩の豪商の森山新蔵(もりやましんぞう)も有名です。

そこで桂は、坂本龍馬と出会うことになりました。
1865(慶応元)年5月5日のことです。
この2人、前から剣術で知り合い(両人とも免許皆伝の腕)と
書かれてある書も多くありますが、
この白石の所で会ったのが初めてでした。

龍馬は、薩長が手を握って幕府を倒す案に賛同して
土方と桂を説得し始めます。
何と言っても両藩の関係は最悪でしたから
3日位かかったのです。

その後、西郷と桂の会談の約束(5月21日)に
西郷が藩の急用で欠席するなど、
桂の疑いの念を強めます。
ここでうまくまとめるのが龍馬の器量です。
「国の将来のために是非、手を結ぶべし、
どうか、俺に任せてくれ」
と宥(なだ)めました。

そこで桂は、「ならば薩摩の誠意を見せてほしい」と
ある提案をしたのです。
長州藩は幕府の敵となっているので、
外国との貿易ができず、武器を買おうとしても買えないので、
薩摩名儀で買って長州へ渡してほしい
という条件でした。

幕府との一戦のために備えるんですね。
この後、薩摩は長州から兵糧米(ひょうろうまい)を
受け取ることで話は成立します(6月24日)。

武器(軍艦も含めて)の購入は、
イギリス商人のグラバー商会からとなり、
少し前に日本初の会社として発足した
龍馬の「亀山社中(かめやましゃちゅう)」(のちの海援隊)が
仲介したのです。

グラバー商会は、清のアヘン貿易で悪名高い
イギリスのジャーディン・マセソン商会(第12回参照)の
日本代理店でもあります。
グラバー邸でも著名なグラバーは若い身で
上海を経由して日本に来たのです。
商品の武器は、ある事情でいくらでもありました。

『人生は胸おどるものです。
そして、もっとワクワクするのは
人のために生きるときです』
(ヘレン・ケラー)

『世界史をつくった海賊』 竹田いさみ

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『世界史をつくった海賊』
竹田いさみ
ちくま新書
760円+税
2011年2月刊

少し古いですが、抜群に面白く、
タメになる素晴らしい書なので紹介します。

私が本書を手にした理由は、今やっている「歴史の教養」で
イギリスの全盛期(パックス、ブリタニカ、イギリスによる平和)を
綴るにあたり、かねてからその源泉は
海軍の強さ(もちろん背景に経済力あっての)にあり、
その淵源(えんげん)は海賊にある、
という思いからでした。

それと、もう一点は、小学生低学年の頃から
『宝島』(これ、面白っ!)などの
海賊小説が好きだったからです
(『宝島』では主人公の少年の知恵と勇気がイイ)。

多くの類書や、歴史関係の書で、
参考文献として本書が多く出てくるので、
読まねばと期待が大きく膨(ふくら)んでいた中、
新書でこれほどの充実ぶりは、
宝を探し当てたような僥倖(ぎょうこう)を
与えてくれました。

冒頭では、イギリスの英雄にもなった
キャプテン、ドレークから始まり、エリザベス1世から、
貴族の称号を授与された活躍(略奪と)ぶりが
伝わってきました(ドレークの書は、他にも読んできたのですが、
著者のまとめ方は特筆ものでした)。

このドレーク、国家予算の3年分(日本の現代なら300兆円!)
もの稼ぎがあり、半分を女王に献上しています。
女王はお金儲けが大好き
(そうしなければならないほど、財政は苦しく)
で、公式上は「関与なんかしないわ」としながら、
しっかり出資や王室の船を
海賊船として提供しているのです。

ドレークからもらった
「配当金」30万ポンド(国家の年間予算20万ポンド)は、
借金返済と、後にできる「東インド会社」への
出資に充てています。

当時、イギリスという連合体ではなく、
1世はイングランドの女王でした。
イギリスの正式名称は
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国といい、
イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズが
統一(その後、アイルランドが一部を残して独立)された国です。

ウェールズは13世紀末に、
エドワード1世に征圧され併合となり
(プリンス、オブ、ウェールズという王太子の呼び方は
その時から)、1702年、アン王女即位後、
1707年にイングランドとスコットランドが合併されて
グレートブリテン(日本ではイギリスと称す)になりました
(アイルランドが加わり、
連合王国となったのは1801年です)。

エリザベス1世の時は(1558年~1603年まで)、
超大国スペインとの戦いなど、
イングランドは、綱渡りの状態でした。
スペインの無敵艦隊(アルマダ)との戦い(1588年)では、
ドレーク率いる海賊艦隊と王室海軍が連合して
破っています。

その後も海賊たちと女王の連携が』続き、
大英帝国になる基礎を築くのです。
海賊といっても、富豪であり、
オックスフォードやケンブリッジの出身者も多い、
エリートでした。

彼らが海上では何をどのように「略奪」するのか、
獲物としているスペイン(正しくは
スペイン王国でフェリペ2世の時代)との外交は
どうなってたのか、
そのためにスパイ網を作りあげた
ウォールシンガム卿(きょう)の手腕と
財政事情も上質の物語となっています。

以降、スパイスを巡る貿易、コーヒーと紅茶の物語、
奴隷貿易の実態と女王が公認し、
資金を出して推進したこと、など、
数十冊の情報がぎっしりと詰まっていて、
それが学者にありがちな味のない硬い文章ではなく、
平易ながら味の濃い文章で
綴られているのです。

巻末の参考文献を見ると、
私も読了した書が何冊もありましたが、
エピソードの選び方や文章は、
原本をはるかに凌(しの)ぐ面白さと
なっています。

ドレークは、マゼランに次いで世界で2人目の
世界一周をしているのですが、
マゼランと違って彼は生還しました。
まともな航海図のない時代、
海洋に乗り出して遠くに行くことは
本当の「冒険」でした。
それで、海賊は「探検家」とも
呼ばれていたのです。

そして、王室が認めた「略奪」をする船を
私掠戦(しりゃくせん)(Privateers プライヴェティア)
と呼び、合法(ただし、スペインなどに捕まった時は
「全く関知しないよ」ということで)と
されていました。

東インド会社(1600年設立)は、
1回の航海ごとに出資と配当が行われる
シンジケート方式でした
(オランダの東インド会社は、株式会社)。

創設時の代表者も7人の幹部も
みんな「立派」な海賊です。
初めは女王は、ノリ気ではありません。
「だって、まともな貿易なんて儲からないでしょ!」
これが本音だったからです。
それでも利幅の大きなスパイスを主力としたこと、
順調に航海(当時は事故が多かったので)できるように
なったことで、女王の懐(ふところ)も
豊かになっていきます(この東インド会社の経営悪化が、
アメリカ独立のきっかけとなるのですが、
『日本史の教養』でやるので
楽しみにしてください)。

スパイスは、金1グラムと同じ、
またはもっと高価とされたほど
珍重(ちんちょう)されましたが、
巷間で伝えられるような「食品の腐敗を防ぐ」
ためではありません。

医薬品という側面が大きかったのです。この辺も
本書は丁寧に説いていました。
胡椒(こしょう)、シナモン、ナツメグ(にくずく)、
クローブ(丁字(ちょうじ))、カルダモン、
クミン、ペパーミント、オレガノ、コリアンダー、
セージなど、18世紀頃から近代医学が発達するまで、
スパイスで治すとされていたのです。

原産地は限られていて、往復2年もかかり、
無事に帰還する船も少なく、
ゆえに高価でした。
その後、扱う商品はコーヒー、茶へと移るのですが、
イギリスでコーヒー、紅茶(緑茶も含めて)が
普及する過程の記述も興味深く読めます。

この時代のイングランドは、スペインの脅威を耐え忍びつつ、
女王と海賊たちが共にスペインと戦っていた様子が
窺(うかが)えました。

本書には、その歩みが絶妙のバランスと筆使いで
叙述されています。
他国の新鋭船を略奪し、自分たちの老朽船と
取り替えていくさまは、笑いを誘いましたが、
現代の私たちのモラルからは、
「うそっ!」というエピソードが満載です。

参考文献を見ても、読みたい書が目白押しで、
是非、みなさんもご一読ください!
時間を忘れさせてくれる1冊でした。

『仕事は首まで浸かるんじゃなくて、
鼻の下まで浸からないとダメだ』
(鍵山秀三郎、イエローハット創業者)

このレビューで美達が紹介した本


みたつ・やまと●1959年生まれ。2件の殺人を犯し、長期刑務所に服役中。現在でも月100冊以上を読む本の虫で、これまでに8万冊以上を読破。初めて衝撃を受けたのは10代のときに出合ったロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』。塀の中にいながら、郵送によるやりとりで『人を殺すとはどういうことか』(新潮社)、『夢の国』(朝日新聞出版)などを著す。
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『人生を変える読書 無期懲役囚の心を揺さぶった42冊』
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『女子高生サヤカが学んだ「1万人に1人」の勉強法』
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『牢獄の超人』
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『私はなぜ刑務所を出ないのか』
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『塀の中の運動会』
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『刑務所で死ぬということ』
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『人を殺すとはどういうことか(文庫)』
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『死刑絶対肯定論』
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『ドキュメント長期刑務所』
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『人を殺すとはどういうことか(単行本)』
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『夢の国』
朝日新聞出版
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