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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー

教養を深めたい、仕事に生かしたい――。
人として成長するために本を読みたいと思っても、何から読めばいいかわからないビギナーのためのブログ。
服役中の無期懲役囚・美達大和から届く書評を随時公開。
週2回をめどに更新していきます。


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『新軍事学入門』 飯芝智亮ほか

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『新軍事学入門』
飯芝智亮、佐藤優、内山進、
北村淳、佐藤正久
飛鳥新社
1500円+税
2015年9月刊

オビには、
「国家戦略なき日本政治を糺(ただ)す」
とありましたが
読了後、その言葉では、
まだまだ不足という感想でした。

著者のプロフィールを紹介すると
飯芝(元・陸軍大尉)
内山(米空軍予備役補佐大佐)
北村(米シンクタンク海軍戦略アドバイザー)
佐藤正久(参議院議員、元・陸上自衛隊一佐)
佐藤優(元・外務省)
となっています。

飯柴氏は実戦経験もある、第82空挺団出身者で、
第101空挺団と共に米軍の精鋭部隊にいた人です
(日本なら陸自の第1空挺団、
訓練の厳しさから、別名第1狂ってる団
と呼ばれている隊になるでしょう)。

内山氏はアメリカ空事指揮幕僚
大学卒のエリートで(中佐!)
イラクとアフガンでの実戦経験があります。

佐藤優氏を除けば、全員が軍人、
あるいは軍事・安全保障の
本物のプロです。

この人たちが、世界の先進国の中で
最も軍事・安全保障知識に欠けた
(そのうえ、日本国内でしか通用しない
幻想的平和主義信者の多い)
日本人に戦争をしないため、
仕掛けられないために何が必要かを
軍事学から解き明かしてくれます。

まず、国際政治とは2カ国以上の、
自国と外国が関連する政治のことで、
国際関係論とは
バランス・オブ・パワー、
双方の力の均衡(きんこう)と
述べていました。
それから、プリンシプル・オブ・ウォー、
戦争の原則を一つずつ説明します。

国際関係論は過去の戦争の勝敗の原因を
分析して法則を見出し、
国際政治学は戦争に至った、
あるいは抑止したプロセスを学び、
この二つを使って不幸にも戦争になった時、
勝つ方法を考えるのが軍事学です。

国家の最上位には、その国の指針となる
国家戦略があり、
これを実現するために
外交戦略が作られます。

政治の延長も、外交の最後の選択肢も
戦争です。
そこで万一のことを想定して準備し、
敵の先制攻撃を抑止する、
開戦をできるだけ回避するために
国家安全保障戦略が
必要となります。

この中で飯柴氏は自衛隊について
「専守防衛で攻撃能力がないので
絶対に勝てない、日米同盟でも
自衛隊が戦力を持たない限り、
米軍なるものが
外交、ソフトパワーの文化的影響力、
軍事力、経済力の4つであり、
日本には中国に
大きく遅れをとっていると言います。

外交を司(つかさど)る外務省については
佐藤優氏が語っていましたが、
知るほどに暗澹(あんたん)とした
気分になるばかりでした。

外務省といえば、親米、
新ロ(ロシアスクール)、
親中(チャイナスクール)などと、
自国の日本など一顧(いっこ)だにせず、
ひたすら相手国の言いなりになって、
媚びまくり、
その国の大使になるのが目標という、
情けなさです。

佐藤氏も外務省の人事戦略が
イコール外交戦略と認めていますが、
自国・国益より、一人の官僚の出世が優先し、
それによって
日本は国益を失うことも
珍しくないとありました。

「大きな日本国大使館があって、
毎日、みながムダな飯を食って、
意味のない会合を重ねて、
意味のない情報を本省に送っている」

こんな話が次々と出てきます。

この後は各人による、日米の同盟の危うさ、
自衛隊の欠陥と改善点、
中国に対する防衛など、現在も進行中の
諸問題が解析されていました。

尖閣諸島もその一つとなりますが
「安全保障における大原則は
やられたらやり返す(返せる)」ことを
普段から相手に認知させておく
ことです。

これも人間同士と変わらない、
「戦わないため」のルールとなります。
防衛には盾のみならず、
矛(ほこ)もいるのです。

中国のミサイル(日本に向けられた千発単位の)から
国を守るには、トマホーク(巡航ミサイル)千発で
足りると言いますが、
千発分の予算は、
たったの千億円(国民の生命・
国家を守ると思えば安価)で
足りるとされていました。

後半では日本の自衛隊の改編や装備について
分析されていますが、
相変わらず、アメリカから旧式(生産中止になった)の
武器を買わされているのです。

逆に自衛隊の武器は
スクラップにしないで他国に売るのが
望ましいとありました。

日本は仮想敵国が全て核武装している
という深刻な状況にあります。
せめて、何かあった際は、
核武装も辞さないというポーズも
必要と述べられていました。

以前、故・中川財務相が、
日本の核武装について語った際に、
アメリカのライス国防長官が、
本当に「即」やってきて
「大丈夫。アメリカの核の傘が日本を守るから」
という趣旨の発言をしています
(実際は嘘でしかありませんが)。

あの戦争で日本軍の精強さが、
アメリカをはじめ連合軍(特に中国)には、
いまだに恐怖と脅威に
なっているのです。

しかし、当事者の日本は、
平和憲法の幻想を信仰する人たちによって、
骨抜きにされています。

にもかかわらず、いざという時、
自衛隊には命をかけて任務に赴く人たちがいる
逸話が紹介されていました。

福島原発事故で、原子炉建屋への
散水飛行(危険な任務)の際、
北澤防衛相は幕僚長を伴った会見で
「この幕僚長が、決めたのだからね」
と強調して出動させています。

何と卑劣で浅ましい、責任回避でしょうか。
本書でも管首相を含めた
民主党の無策と無責任を批判してますが、
その中で危険な任務ゆえに
希望者から選ぶという隊長に対して、
全員が手を挙げていました。

本書は、安保法案を戦争法案と非難する、
現実と国際情勢が見えない人にも
是非、読んでほしいです。

「人生で何にも増して
耐えがたいことは、
悪い天候が続くことではない。
雲ひとつない
好天が続くことだ」
(セルティ「幸福論」より)

このレビューで美達が紹介した本

 

「日本史の教養」第34回

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1862年4月23日のことでした。
所は伏見(ふしみ)の船宿寺田屋です。
ここに30人あまりの尊攘派の浪士が集まりましたが、
久光は9人の刺客を送り込んだのでした。
狙いは自分の藩の者だけです。

 この時、薩摩藩の尊攘派の8人の浪士が
斬殺されました。
これが「寺田屋事件」ですが、
自分の藩士でさえ斬殺したことで、
京都の公卿らを恐怖に陥れます。 
 
久光は、他藩の浪士らも捕らえて、
京都から追放しました。
この直後、久光は戦慄(せんりつ)に包まれている
朝廷に自分が望む
公武合体案を出します。

 朝廷は即座に受け取り、その意向に添って
動いたのです。久光の挙兵上洛は、
それを進言した
誠忠組(せいちゅうぐみ・精忠とも)の
存在がありました。 

誠忠組とは薩摩の下級藩士約50人で組織され、
藩是の「挙動勤王」を標榜しています。
大久保一蔵(おおくぼいちぞう・後の利通)その一員です。 

大久保は、久光が囲碁好きというので、
囲碁を覚えて近付きました。
明治の世では、超現実主義者として、
職務には一片の情も交えない厳しさを持つ人ですが、
この当時に挙藩勤王を是としたのは、
現状と未来の展望の読み違いと言えます。 

明治維新では必ず引き合いに出される
西郷とは家も近所で
郷中(ごじゅう)仲間として
幼少の頃から付き合いがある仲でした。 
年齢は西郷が3歳上で、薩摩のしきたりに従って、
西郷を兄、大久保が弟のような間柄で
成長してきたのです(他には大山巌、川村純義、
東郷平八郎もいました)。 

久光の挙兵上洛には、西郷は明確に反対しています。
西郷は斉彬と共に江戸で、
開明的な諸候や藩士や幕閣との交際があったので
(この人の人徳のおかげで)、
先を見る目は確かでした。 

西郷が望んでいたのは、薩摩藩だけではなく、
諸藩の合衆連衡(がっしゅうれんこう)
だったのです。 

西郷は斉彬と江戸藩邸にいた3年間、
諸藩の間を自由に行き来して、
最新の国内・海外情報に触れるだけではなく、
賢候と称された優れた藩士たちの意見も
吸収していました。 

その過程で斉彬や松平春嶽(越後藩主)を中心として
諸藩が協調すれば、大きな力になり、
幕府を相手にしてもひけは取らない
という思いを懐いていたのです。

 西郷は、安政の大獄の前後も
大久保や他の藩士たちに、
軽挙妄動(けいきょもうどう)を戒める手紙を
再々、送っています。 
西郷自身は、開国は当然のことで、
勤王の支持者でした。

しかし、大久保をはじめ、
薩摩の中でしか暮らしていない藩士にとっては、
世界情勢などわかりません。
ひたすら、日本だけ、国内しか見えず、
腹中では攘夷であったのです。 

仮に大久保が西郷と同じように
江戸で自由に見聞を広めていたら、
先を見るに敏の彼のことゆえ、
西郷以上に開国派となっていたでしょう。 

西郷は、流刑(2回目の)前にも、
大久保に薩摩だけでの行動を慎めと
伝えていましたが、
動いてしまったのでした。

久光の提案を受けた朝廷は、その通りに実行すべく、
勅使(ちょくし・天皇の使者) 大原重徳(おおはらしげとみ)を
江戸に送ります。

 久光は勅使の警護という名目で
1000人の藩兵と大砲を引っ張って
江戸を目指したのです。
1862年6月に江戸に着いた大原と久光は
江戸城へ入ります。 

大原が提案した条件は次の通りでした。

1、攘夷について討議するため、
  将軍の家茂(いえもち)を上洛させること

2、五大老(ごたいろう)を置くこと
 (指名されているのは、島津、毛利、山内、前田、伊達の5人)

3、幕政を改革し、攘夷を決行すること。
  一橋慶喜を将軍後見職(こうけんしょく)に、
  松平春嶽を政事(せいじ)総裁職にすること 
 
後見職とは、将軍が幼少の時に代わって政務を担当し、
政事総裁職は、将軍を補佐する役職です。
少し前の幕府なら、こんな提案は考えられません。 

将軍が上洛したのも、
3代目の家光(いえみつ)以来になります。
そもそも、藩主でもない
久光(藩主の父というだけ)が、江戸城に来ること自体、
世が世ならありえないことでした。
 
大原は幕府と4回の会談の末、
この提案を呑ませています。
この時、京都の治安を守るために
京都守護職(しゅごしょく)が置かれて、
会津(あいづ)藩主の松平容保(かたもち)が
任命されました。 
 
いづれも、安政の大獄の際に処罰された
一橋派(幕府改革派)の面々でした。
慶喜・春嶽の2人が就任したのが、7月です。 
こうして幕政の実権は、一橋派が握りました。
と言っても、幕閣の中には、
開明的な2人がトップになって、
内心では喜ぶ者がいたようです。 

このコンビ、早速、改革に着手しています。
まずは、参勤交代の緩和です。
本来の目的は各藩に
巨費(参勤交代で江戸に来るには、
途轍もない費用がかかり、
藩の力が増すのを防ぐことです)を
遣わせることでしたが、
隔年を3年に1回として、人質の妻子も
江戸に留(とど)めておく必要はないとしました。
 
京都関係では、幕府が任命していた
京都御所の9つの門の警備を朝廷に任せ、
京都や奈良の御陵(墓)の修理に
幕府が費用を出すこととなっています。 
 
将軍の上洛は翌年の2月となりました。
軍制も西洋式を採用し、
政治犯を大赦によって釈放しています。 
死亡した者に対しては、
礼を以って会葬して、生存中の者には、
事犯前の状態に戻したのです。

この件では京都にいた攘夷派の浪士たちの間で、
何をしても許されるのでは、
という期待を持たせました。 

人村登用の面でも
勝海舟(阿部が全国から意見を募った際の
「海軍の充実を」という提案で注目されたのです)は
軍艦奉行並(ぶぎょうなみ・海軍次官)に、
大久保忠寛大(ただひろ)は
傍御用取次(そばごようとりつぎ)ぶ抜擢されています。 

他に細かい点では、和宮の呼称を
御台所(みだいどころ)から
和宮(かずのみや)様としました。 

これら一連の改革を文久の改革と呼びます。
久光にとっては、
「どうだ、わしの力は!」
というところでしょう。

久光は得意満面で薩摩へ戻りました。 
自らも5大老の1人となる権力と名誉を
手にしています。

藩士たちにしても、悪い気はしなかったはずです。
これで5大老の中の薩摩藩となれました。 
一行は江戸郊外の生麦(なまむぎ)村を、
そんな思いで通ったのでしょうが、
ここで行列を横切ったイギリス人を藩士が
「無礼者!」
と斬殺してしまいます。

これを「生麦事件」というのですが、
後に外交問題に発展しました
(この時、切ったのは海江田信義という
久光の側近でした。この人は明治になって
立法機関の元老院のメンバーとなってます。
また、弟の一人が桜田門外の変で
井伊を斬った薩摩の浪士でした)。 

賠償金も10万ポンド、日本の通貨にして
26万9千両!という、
とんでもない額を、幕府は要求されたのです
(1両10万なら、269億円!
イギリスのやり方が表れています)。 

ちょっとここで脱線を、お許しください。
私は仲間の1人に覚えやすくしてやろうというつもりで
「生麦・生米(なまごめ)・生卵(なまたまご)の生麦か」
と言いました(この早口言葉、今の若い人、知ってますか?)。

その後、テストがあり、答案を返してもらった後、
仲間の1人が大声で、
「えーっ、なんでバツなの、先生。
俺、ちゃんと答えを書いたのに、
これ、ばっちりと覚えたんだよ」と
叫んだのです。 

ここで当ブログの連載『仕事について』を
ずっと読んでくれた人のために補足すると、
この1人とはマーボでした。 

先生は呆れた(また、お前かあ。本物のバカだなと)顔で
「なんで、生卵事件なんだ、バカ」
と言いました。 教室内は大爆笑でした。 
マーボは自分も歴史に残る男になる、と
超低空飛行の成績でも
歴史は好きだったのです。
本人は「大して違わないのになあ」と
不満そうな表情をしていました。

このマーボ、勉強については数々の伝説というか、
この手の話を持ってます
(申し訳ないですが、マーボについて知りたい人は、
お手数でも『仕事について』を見てください)。

 私の時代、鎌倉幕府は「イイクニ作ろう」ということで
1(い)・1(い)・9(く)・2(に)、
1192年から始まったことになっていました
(近年では1185年の始まりとされているとか)。
マーボ、期待を裏切りません。 

「な、大和。覚えやすいな、このゴロ合わせ」と
得意そうだったのですが、
返ってきた答案用紙には
赤字で「バカ」と書かれていました。 
「先生、何でさあ、俺、しっかり覚えたのに」と
口を尖らせるマーボの答案用紙を見ると
「4192」とあったのでした。

「お前、2000年以上も先の話になってるだろ、
鎌倉幕府が。このバカ!」

と先生は、うんざりした表情です。 
マーボは、「おかしいな、よいくに作ろうだろ。
4192年でいいんだろ」と私を見て
首を捻っていました
(他にもオールコックをエースコックとか)。 
 
本題に戻ります。 

『決心する前に
完全な見通しをつけようとする者は、
決心することができない』
(アミュエル)

「日本史の教養」第33回

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まず、動き出すのは、長州藩でした。
1861(文久元)年5月のことです。
長州藩で150石どりの優秀な人物である
長井雅楽(ながい・うた)が国内の騒乱を鎮(しず)め、
日本の進路を決めようと提案したのが
「航海遠略(こうかいえんりゃく)策」でした。

その内容は、条約を破棄して
攘夷をするなどとは子どものやることであり、
条約を積極的に受けいれて、
朝廷と幕府が一体となって軍備を充実させるべき。
そのために海外に視察団を出して、
諸外国の長所を採用し、人心を安定させた後、
国家づくりをゆっくりと考えた方がよい、
というものです
(後世、伊藤博文がこの人こそ我が師と仰いだ、
来原良蔵が長井のために動いた
成果でもありました)。

藩の有力者の筆頭だった
周布政之助(すふまさのすけ)も認め、
藩主の毛利敬親(もうりたかちか)も承諾して、
朝廷に出しました。

藩全体としても、表立った反対はなく、
朝廷も賛意を示しています。
何らかの工作があったのか、
外国嫌いの天皇も了承していました。

長井は江戸に出て幕閣たちの賛同も
取りつけたのです。
長州としては、これを機に朝廷と幕府の仲介者として、
政権の一翼を担う目算がありました。

ただ、裏側では尊攘派の反対があり、
藩主の手前、公然と反対せず、
他藩の尊攘派と連絡を取り合い、
攘夷運動を盛り上げようと
策動していたのです。

その矢先に、坂下門外の変が起きて、
安藤が老中を罷免(ひめん・クビ)されると、
風向きはガラッと変わりました。

長州藩内で攘夷派(久坂が水戸藩士らと結託して)が
猛烈な工作をして、周布を転換させ、
藩主の意見も変えてしまったのです。

生来、「そうせい候」の藩主・敬親は、
主体的な主張をしない人物でしたが、
攘夷派藩士たちの熱の込もった具申(ぐしん)に
心が動いたと言えます。

この攘夷派には、久坂玄瑞(くさかげんずい)、
高杉晋作、木戸孝允(きどたかよし)など
幕末・明治維新期に活躍する面々がいました。

敬親はこの時に藩の改革を意図して、
身分の上下を超えた人材登用もしています。
松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ若者たち
(伊藤俊輔のち博文、山県小輔のち狂介のち有朋などが登用)が
抜擢(ばってき)される契機でした。

長井と来原は責任を問われて
1863(文久3)年2月に切腹しています。
これで公武合体の動きが後退したのです。
しかし、この時に颯爽と表舞台に出てきたのが
薩摩藩でした。

薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)は
藩主ではありません。
賢君だった先代の斉彬(なりあきら)の遺言で
異母弟の久光を藩主にすると、
藩の政情は不安定になるので久光の子の
忠義(ただよし)に譲るとしました。

どういう事情があるのかというと、
斉彬は父の斉興(なりおき)と正室(正夫人)の子で、
久光は斉興と側室のお由羅(ゆら)の子でした。
このお由羅が自分の産んだ久光を藩主にするため、
藩の保守派の調所広郷(ずしょひろさと)らを動員して
斉彬の排斥をしたのです。

歴史の書では「お由羅騒動」と呼ばれていますが、
こんなことがあり、斉彬がやっと藩主になったのは
43歳(1851)年のことでした。

当時の規則で各藩の正夫人と世子(せいし・後継者)は
人質として江戸に住むことになっていました。
考えると、人間なんか信用しないぞという
「性悪説」を徹底した幕府の厳しさが窺えます。

しかし、斉彬の英邁(えいまい・才知が優れている)さもあり、
越前藩の松平春嶽(慶永)、土佐藩の山内容堂、
宇和島藩の伊達宗城、肥前藩の鍋島閑叟、
尾張藩の徳川慶勝(よしかつ)、
幕閣で海外事情に精通していた岩瀬忠震(ただなり)、
川路聖謨(かわじとしあきら)、
大久保忠寛(ただひろ)、江川太郎左衛門、
高島秋帆(しゅうはん)、勝海舟(かいしゅう)らとの
知己(ちき)を得ました。

さらに、西洋兵学者の佐久間象山(しょうざん)とも接し、
海外の情報に明るくなったのです。
みなさんがよく知っている
西郷隆盛も斉彬の初めての参勤交代で
江戸に行く時に加えられ、
江戸藩邸では庭方役(にわかたやく)として
声を掛けられるようになりました。
(薩摩では上から、一門、門閥、一所持、寄合、
小番、新番、小姓組、与力の8段階により
藩士は身分を定められていましたが、
西郷は下から2番目の小姓組で28歳でした)。

3年間の江戸滞在中に斉彬からの信頼を厚くして、
帰藩の際には改革派の諸大名や幕府との
交渉役に特別に指名されています。

西郷は帰藩した後(1857年)、
斉彬の命令で京都に行って、
一橋慶喜を擁立する朝廷工作をしました。

西郷という人物が歴史上で
光を浴びるようになったのは、
斉彬という聡明な理解者のおかげでも
あったのです。

斉彬は惜しくも1858年夏に、
食あたりで亡くなっています。
西郷は久光と合わず、翌年初めに
奄美大島に流されました。
と言っても何かの科(とが)に問われたのではなく、
慶喜擁立運動(京都での)に対する
安政の大獄の追求を逃れるために、
薩摩藩が西郷を奄美大島に隠したのです。

そのために菊地源吾(きくちげんご)と改名し、
給与も支給しています。
それでも3年は長いし、初めの頃は
鍋釜、薪、油、塩も
支給されなかったようでした。

1862年2月には解かれて、鹿児島に帰っています。
しかし、4月には再度の島流しとなり、
徳之島、沖永良部島に送られ、
戻れるのは2年後でした。

理由は2つあります。
1つは、今後の薩摩藩の方針を久光に
書面を以って上申した際に、
前の藩主の斉彬との見識や貫禄のさを指摘して、
他藩との連携に支障があると
率直に伝えたからです。

次は、久光が藩士たちに、「尊王攘夷」を唱えて
他藩の者や浪士と交際することを
厳禁としましたが、鹿児島に戻された西郷は
翌月に尊王論で有名な
平野国臣と大坂で会っていたからでした。

久光自身の本音は開国ですし、
勤王でもあったのですが、世間の空気を読んで、
表面上だけは攘夷としていました。
薩摩藩としての方針は挙藩勤王です。

西郷の話を始めると、前には進まないので、
長州が揺り戻した後の
薩摩の動きについて述べましょう。

久光は攘夷の降りをしながらも、
肚(はら)の内では
公武合体を支持していました。
リアリストですから、今の時勢では
攘夷と言っておく方が、
何かとやりやすいと読んでいます。

ここで推測してほしいのは、久光という人、
一度は藩主になれるチャンスが
あった人です(前述のお由羅騒動)。

また、斉彬さえ余計な遺言を残さなければ
藩主として君臨(名目上も実質上も)できたのだ、
という思いを懐いています。
おまけに野心家であり、上に立ってなければ
気のすまない人でもありました。

長州が後退した今こそ、薩摩の出番だとばかりに、
唐突に1000人の藩兵を率いて、
大砲と共に入洛(京都に入る)したのです。
そして、不穏な動きを見せる浪士を
取り締まれという勅諚(ちょくじゅう)をもらい、
攘夷派の浪士たちを捕まえ、
薩摩の屋敷や旅館に閉じ込めるなどしました。

薩摩の中には、久光が尊攘派を支持している
と信じている者も多く、
久光の入洛を機に京都で騒乱を起こして、
薩摩が実権を握るのだと
計画まで立てていたのです。

彼らにとって、久光こそが指導者であり、
大将のつもりでいたのでした。
ところが、久光は逆に
徹底して取り締まったわけです。

尊攘派にしてみれば、なんでこうなるのだ、
という疑問が大きく膨らみ、
その後の対策を立てるために集まろう
ということになりました。
その数三十余人が集まった時、
その事件は起こったのです。

『人は幸運の時には
偉大に見えるかもしれないが、
真に向上するのは
不運の時である』
(シラー)

みたつ・やまと●1959年生まれ。2件の殺人を犯し、長期刑務所に服役中。現在でも月100冊以上を読む本の虫で、これまでに8万冊以上を読破。初めて衝撃を受けたのは10代のときに出合ったロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』。塀の中にいながら、郵送によるやりとりで『人を殺すとはどういうことか』(新潮社)、『夢の国』(朝日新聞出版)などを著す。
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