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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー

教養を深めたい、仕事に生かしたい――。
人として成長するために本を読みたいと思っても、何から読めばいいかわからないビギナーのためのブログ。
服役中の無期懲役囚・美達大和から届く書評を随時公開。
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『ファイティング40、ママはチャンピオン』 鈴木一功

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『ファイティング40、ママはチャンピオン』
鈴木一功
新潮社
1500円+税

 コミカルな小説です。
 
 著者は演劇の演出家でした。設定は、演出家の妻が、舞台でボクサー役を演じますが、その役柄が気に入って、そのまま、本物のボクサーにになってしまいます。

 7歳と11歳の男の子の母親の山川佳代子は、活動的な母親でした。子供の学校においてもPTAの会長を務めていますが、彼女が口にするPTAは「プリティでタフなあたしたち」の略称です。

 彼女は、なんにでものめりこむタイプで、ボクシングもその気性で頭角を現します。わりとすぐに、ジムの会長から、その実力を見い出され、将来はチャンピオンへと、勧められるのです。

 夫としては、半信半疑ながらも、試合の旅に圧倒的な強さを見せつけられると、次第に心も動きます。夫はどちらかというと、頼りないというか、軟弱に描かれ、2人の男の子たちは、引っ込み思案という設定でした。

 そして、とうとう、ママは世界最強と呼ばれるライカと戦うことになります。褐色のダイヤモンドと異名をとるライカは強すぎて相手がいなかったのですが、ママの試合をビデオで見て、がぜんやる気になったのです。

 夫は止めますが、ママは、やるしかないと練習に励みました。この間、町内会の人や謎の居酒屋の主人など、脇を固めるキャラクターが愉快です。そうして、いよいよ、ライカとの試合当日を迎えます。

 夫も子供も、見るのが怖いと思いつつも、リングサイドに陣取り、周囲にはPTAや町内会の面々が見守っているという状態でした。リングに上がってきたライカは、見るからに強そうで、夫は不安に襲われつつ、妻の姿を見つめます。

 そして、ゴングが鳴り、試合が始まりました。ここからの描写が、グーッと盛り上がります。劣勢だったママも、次第に調子を出してくるのです。試合の結末は本書で確かめてもらいますが、さわやかな余韻が残りました。

 ママのキャラクターも「男らしく」ていいです。著者は演出家ということで、文章はさらっとしています。なるほど、小説はおくいう書き方もあるんだな、と未熟な私には勉強になりました。

 本書、コミカルでも、じーんときます。

 ところで、読者のなかの「キックボクサー」は、その後、どうでしょうか。パンチに磨きがかかったのですかね。楽しみでもあります。

『人生とは嵐が過ぎ去るのを待つことではない。雨の中でどんなふうにダンスするかを学ぶことだ』(ビビアン・グリーン、歌手)

 

このレビューで美達が紹介した本


「日本史の教養」第112回

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 年が明けた1871年1月28日にパリが陥落して停戦となります。

 2月26日にベルサイユで仮講和、5月10日にフランクフルトで正式な講和となりました。賠償金は、巨額の50億フラン、完済まで東部のアルザス、ロレーヌというフランスにとって重要な工業地帯を担保として占領され、フランス人に深い報復の念を抱かせたのです(これが第一次世界大戦後、ドイツの国家予算の25年分という、天文学的な賠償金の押しつけにつながりました)。

 ナポレオン3世は亡命しています。この仮講和までの間に、ドイツは統一をなし(裏でビスマルクの強力な運動により)、1月28日にウィルヘルム1世を初代のドイツ帝国の「皇帝」として、敵地のベルサイユ宮殿の「鏡の間」で即位式をしました(ドイツ帝国は、22の君主国家と3つの都市国家から成立したのです)。

 この時、ウィルヘルム1世とビスマルクは、皇帝の称号をめぐって対立し、ビスマルクの主張を押し通したので、式の間、2人は視線も合わさずにいたほどです(それでも、その後、2人は皇帝の死まで、ドイツ帝国の皇帝と宰相として名コンビを続けています)。

 統一に関して、最も強く反対したのは、バイエルン王のルートヴィヒ2世でした。バイエルンとは、現在のドイツのバイエルン州のことですが、ドイツ旅行では必ずといっていいほど登場するノイシュヴァインシュタイン城(美しい城です)のある地域を指します(この城も、この国王が築いたのです)。

 ルートヴィヒ2世は、南ドイツ諸邦の最有力者かつ、最も親オーストリアの王でした。ビスマルクは、多額の資金援助を約束して、統一に参加させました。その後、4月16日にドイツ帝国憲法を制定し、5月4日にビスマルクが正式に宰相になっています(それまでは伯爵だったのが、侯爵にもなりました)。

 この時から外交の魔術師とも言われるアクロバットのようなビスマルク外交が展開されるのですが、それについては1870年代から1900年までの欧米の歴史ということで、のちのち述べることにしましょう。

 残るはアメリカですが、南北戦争後は、国内整備と国力の増進に努めています。アメリカは、1823年に第5代大統領のモンローが、アメリカはヨーロッパに干渉しないから、ヨーロッパもアメリカに干渉しないでほしい」というモンロー主義によって、ヨーロッパの紛争には関与しませんでした(この『モンロー宣言』、じつのところは、イギリスがアメリカ大陸に他の国が入ってくるのを防ぐため、イギリス外相カニングがアメリカ大統領のモンローをたきつけて宣言させたのです)。

 と言いながらも、メキシコとの間に紛争をけしかけて、テキサス(1845年)やカリフォルニア(1848年)を割譲させていました。この頃のアメリカは、まだ大国強国ではありません。世界の大国は、イギリス、ロシア、プロイセン、フランス、オーストリアの時代でした。

 南北戦争後、アメリカは1869年に大陸横断鉄道を完成させ(レールの下の枕木1本につき、1人の中国人苦力=クーリー の死体が横たわっていると言われています)、太平洋上では清と日本を結ぶ蒸気船航路を運航させ、本格的にアジア(主に清と日本)との貿易に乗り出していたのです。

 このときのアメリカ(1870年前後)は、まだ、海外植民地への野心はありません。南北戦争は第25、26回でも述べたように、真の争点は奴隷制ではなく、国家体制のあり方(連邦制重視=フェデラリスト か国家重視か)でした。

 リンカーンの北軍は後者で、最強のイギリスを何とか敵にしたくない、ヨーロッパ諸国にも理解してほしいと、イギリス・フランスなどが既に制定していた奴隷解放宣言を出したのです(ヨーロッパでは、1814~1815年のウィーン会議の際に奴隷貿易禁止と奴隷解放の宣言を出しています)。

 時のイギリス首相、剛腕のパーマストンも奴隷解放主義だったので、ご機嫌をとる意図もありました。なんと言っても、パーマストンは強面(こわもて)の政治家で、アメリカ・ギリシャなど脅した経歴を持つ人です。おまけに「狂」のつく、植民地拡大主義者なので、怒らせれば世界最強のロイヤルネイビー(大英帝国海軍)がやって来ます。

 アメリカは、独立戦争で、イギリスに勝ったのではと思う人も多いことでしょう。しかし、勝ったのはアメリカを応援したフランスなど、諸国の支援と協力によるものでした。そんなわけで、アメリカは一国主義(そっとしておいてくれ、こっちも干渉しないから)を国是(こくぜ)としていたのです。

 加えて、初代大統領が退任する際に有名な『フェアウェル・アドレス(訣別演説)』の中で「アメリカは海外のことに関与してはいけない」という趣旨のことを述べていたこともありました。ワシントンの発言は、遠くローマの滅亡を鑑(かがみ)としていたのです。

 アメリカは建国時、政体をどうするのか、ワシントンやジェファーソンなど、建国の父(ファウンディング・ファーザー)たちは悩みました。王室のない共和制の国を創ることは、その時代としては壮大な冒険だったからです。

 建国の父たちの間では、やはり、王室を要するのでは、という議論もありました。しかし、その独立宣言には、どんな人間も(神の手によって)生まれながらに平等という文言があるだけに、共和制しかなかったのです。

 建国の父たちは、思案を重ね、古代のギリシャ・ローマの政治に行きつきました(それで、首都ワシントンには、ローマのように政治家や軍人の銅像が各交差点ごとに置かれているのです)。また、建国の父たちはイギリスでいえば大地主のジェントルマン階級の出自で、ラテン語は必需品という教養でした。

 そんな事情で、ギリシャ・ローマの政治と国家の栄枯盛衰について、深く学んでいたのです。ローマと同じ失敗はしない、ゆえに他国への干渉はせず、干渉も受けないことを国是としていました。そのような時代の世界の末席に日本も参加したのです。

 ただし、どの国が侵略的で、どの国がそうでないかなど、あとの時代に生まれたからわかるのであって、当の日本人にはわかりません。そのため、他のアジア諸国のように植民地化される(清も国土の大半は植民地状態でした)のではという恐怖感や、なんとかせねばという切迫した心情は持っているのが普通でした。

 その中での欧米視察は、列強の経済力・産業力・軍事力に合わせて、指導者の思想を知る上でも意義があったはずです。岩倉・大久保・木戸は、列強と日本との差や違いについて、時には呆然とし、時には追いつけそうと安堵しながら、冷静に見ています。

 同時に欧米の人々に、日本人の礼儀正しさや、知的好奇心と探究心の旺盛さや、民族の矜持などの誇りを持っていることを印象付けました。各国のメディアは、社交辞令はあるものの、清などの他国の民族とは比較にならないという高い評価で一致しています。

 一行は、ロシアという大国を視察するのを楽しみにしていました。ロシアといえば、イギリスに次ぐ大国です。樺太(カラフト)などの日本との国境問題もあり、一行としては王室・政治家との親善も兼ねて、その国のあり方をとくと見学しようと意気込んでいました。

 しかし、そこで異変が起こったのです。

『人間が犯す罪の中で最も大きいものは傲慢(ごうまん)だと申す者もおるが、拙者(せっしゃ)は地獄は恩知らずでいっぱいだという下世話(げせわ)に従って、それは忘恩(ぼうおん)であると主張したい』
(ドン・キホーテの言葉)

「日本史の教養」第111回

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 オーストリアに居住するドイツ人を含む大ドイツ主義と含まない小ドイツ主義です。

 ビスマルクは、なにかとプロイセンの提案にことあるごとに反対するオーストリア(ハプスブルク家という名門の王室を抱く伝統国)を除く小ドイツ主義を望んでいました。そのためには、統一のための障害(すぐに異議を主張したり、親オーストリアの諸侯国を扇動し、プロイセンに反抗させるので)であるオーストリアを黙らせなければなりません。

 ここから、ドイツ帝国樹立までのビスマルクの手法は、鮮やか、「あっぱれ!」としか言いようがないものでした。まず、諸侯国の中で、デンマークの属邦のようになっていたシュレースヴィヒ
とホルシュタインを取り戻すべく(この地は、ドイツ諸邦の北西の領地を分断していたこともあり)、1864年2月1日にデンマークに戦争を仕掛けました。この際、ビスマルクは、オーストリアを誘って参戦させているのです。

 日頃、仲の悪いオーストリアを誘ったのは、戦争への非難・非協力防止の他に大きな意図が隠されていました。それはオーストリアの軍事力と弱点を見極めるということでした。この点が、ビスマルクという政治家のリアリストたる所以(ゆえん)です。

 半年で勝利し(8月1日講和、正式調印10月31日)、先の2国の主権を回復しました。その後、オーストリアの軍事力を見極めたビスマルクは、相手を刺激するような政策と発言を重ねます。オーストリアでは、前々からプロイセンを格下と見てきたこともあり、1866年2月21日にプロイセンとの戦争に向けて動くことを決定したのです。

 これを受けてプロイセンでも2月28日に、ウィルヘルム1世臨御(りんぎょ。出席)の御前(ごぜん)会議を開き、開戦は「やむを得ない」という結論を出しました。そして、ビスマルクは、改めて小ドイツ主義に基づく統一を唱えます。オーストリアは6月11日にプロイセンと断交宣言を交わし、フランスの中立を確保した後、6月14日に戦端は開きました。

 ここに普墺(ふおう。プロイセンとオーストリア)戦争が始まったのです。そして、その結末は、わずか7週間でついてしまいます。俗に7週間戦争とも呼ばれるようになったのでした。勝因は、当時の最先端の技術である鉄道・電信・武器を総動員したことにありました。

 武器では連射に優(すぐ)れたドライゼ銃が活躍しています。他の大きな勝因は鉄道網を駆使した、迅速・大量の兵の動員でした。プロイセンからオーストリア国境まで、当時の常識を破るスピードだったのです。以後、ヨーロッパ各国では鉄道網と軍隊の関係が見直されました(日本もそれにならっています)。

 また、作戦についても、参謀のモデルとなったモルトケによる周到な立案が脚光を浴び、各国で作戦を担当する参謀局の独立や設置が相次ぎます。現代でも、参謀という職掌の淵源(えんげん)は、ドイツにありと言われているのです。この戦争で、オーストリアについたハノーファー王国、ザクセン王国、ヘッセン・カッセル選帝(せんてい)侯国も6月中に撃破されています。

 こうして、7月26日にニコルスブルクで仮講和、8月23日にプラハで正式調印となりました。講和では親オーストリアのドイツ連邦を解体し、オーストリアを除く新たな北ドイツ連邦を作り、オーストリアへ求めた賠償金は2000万ターラーという寛大な処分を課しています(それまでは、オーストリアの属国扱いだったハンガリーにも自治権を与えて、ハプスブルク家がオーストリアとハンガリー両方の王として「二重帝国」=これを「アウグスライヒ」とも称します となりました。古来から、東欧はハプスブルク家の領土でもあったのです。寛大な講和の真意は、次のフランスとの戦争に対してオーストリアを中立か味方にしておきたいからでした)。

 この戦争ののち、功労が大きいというので、ビスマルクは、国王ウィルヘルム1世から、40万ターラーの恩賜金をもらいました。議会もこれを承認し、以降、ビスマルクは議会をも味方につけています(ビスマルクはトゲの多い人で、議会とも友好的・協力的という関係になるまで、時間と苦労を重ねたのです。ついでに言えば、ウィルヘルム1世の王妃とも折り合いが悪く、王はビスマルクの実力を知っているだけに気苦労の連続でした。それでも、ビスマルクは王妃への態度を変えなかったのです。本当に頑固な人でしたが、政治家・外交家としての力量が図抜けていたからできたと言えます。国王には気の毒でしたが)。

 それでも、一部の侯国は、プロイセンに対して面従腹背(めんじゅうふくはい)で、ドイツ統一にはあと一歩及びません。オーストリアと親しく交わるフランスの存在も、なんとかしなければなりませんでした(オーストリアとフランスは、もともと王室同士の縁戚関係があったこともありました)。

 戦略家ビスマルクは寛大な講和で恩を売ったあと、時を待ちます。1868年9月にスペイン革命が起こり、女王イザベラ2世が追放されると、新政権は新しい国王の候補を探し始めました。最終的に白羽(しらは)の矢が立ったのは、プロイセン王室の血統であるホーエンツォレルン・ジークマリンゲン家の世子レオパルトでした。

 父のカール・アントンは気が進まなかったのですが、ビスマルクは勧めます。承諾したところ、フランスが介入してきました。理由は、ナポレオン3世の考えによるもので、東のドイツ諸邦と西のスペインの両方がホーエンツォレルン家になって挟まれることを嫌ったのです。同じ血統であれば、いざとなった時、互いに協力するのは歴史が証明しています。加えてナポレオン3世は、メキシコ遠征の失敗、ルクセンブルク危機(フランスへの反抗)など、外交の失敗が続いていました。

 そういうこともあり、プロイセン王国に対して、再び、ホーエンツォレルン家が候補にならないように働きかけたのです。これを伝えにきたのが、ベルリン駐在のフランス大使のベネディティ
でした。ベネディティは、ウィルヘルム1世との会談するにあたり、確約をもらってこいと命令を受けています。

 この命令はウィルヘルム1世が滞在していたエムスという都市に来ていたベネディティに電報で伝えられました。これに目をつけたのがビスマルクで、電報を偽装して、フランスがプロイセンに無理難題、不当な要求を突きつけていると公表したのです。冗談じゃないと怒ったのは、ナポレオン3世でした。

 彼は、落ち着いて、ことの理非曲直(りひきょくちょく)を冷静に正(ただ)せばよかったのにもかかわらず、老獪(ろうかい)なビスマルクの謀計(ぼうけい)にはまってしまったのです。それまでの外交の失敗を挽回する思惑もあったのでしょうが、公表から数日後の7月19日にプロイセンに宣戦布告をしてしまいました。

 ここで注目してほしいのは、戦争は急にできないということです。兵員・武器など計画し、準備するにはそれなりの時間を必要とします。その点、ビスマルクは、周到に準備していました。こうして1870年夏に普仏戦争が始まったのです。

 開戦間もなくの9月2日、セダンという都市の攻防戦で破れたナポレオン3世本人が捕虜にされるという惨状でした。9月4日、パリで国防政府が発足して、戦争は継続されています。そして、9月19日に、パリが包囲されました。

『私たちの過去に残されたものも、私たちの未来に待ち受けているものも、私たちの中にあるものと比べれば取るに足らない』
(ラルフ・ウォルドー・エマーソン)

みたつ・やまと●1959年生まれ。2件の殺人を犯し、長期刑務所に服役中。現在でも月100冊以上を読む本の虫で、これまでに8万冊以上を読破。初めて衝撃を受けたのは10代のときに出合ったロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』。塀の中にいながら、郵送によるやりとりで『人を殺すとはどういうことか』(新潮社)、『夢の国』(朝日新聞出版)などを著す。
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『人生を変える読書 無期懲役囚の心を揺さぶった42冊』
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『私はなぜ刑務所を出ないのか』
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『人を殺すとはどういうことか(文庫)』
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『人を殺すとはどういうことか(単行本)』
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