美達さんから、年末のご挨拶がふくまれた
手紙が届きましたので、アップさせていただきます。
みなさま、どうかよいお年をお迎えください。(管)
さて、以前から訊かれます、細かい心の動き、煩悩、
今の考えていることなどについてですが、
煩悩ということでは、やはり、下獄した際にはありました。
それまで、努力したとはいえ、望むものは手に入れ、
希望することは実現してきた思いがあったので、
獄の全てがままならず、自己の欲望との乖離(かいり)に、
心が動かされたものです。
同囚に尋ねましても、みな同じだったと言います。
TVや雑誌で目にするのも不快でした。
という気持ちが半分ありました。
残り半分は出ないかも、父の他界後は、私もそれでよし、
とするかもな、という思いがあったのです。
それらのTVや記事を見ても何にも感じなくなりました。
自分の力でどうなるものでもないことは、考えません。
自分で何とかできるものであれば、万難を排して努力し、実現しますが、
そうでないものにつき、心が動くことはないのです。
どっちの場合でも即座に次の展開を考える癖がついています。
何かが成就しても喜びは、次へのことで消えますし、
(その代わり、次のことに進める、考えられる喜びと期待感はありますが)
失敗しても、すぐ次を考え始める性分なのです。
社会の出ないことについても、他人が思うほど深刻だとか
重大にとらえていないのです。
羨ましいという情動はなく、素直に喜べますし、
(普通は羨望や、軽い妬みなどあるらしいですが)
相手が私に気を遣うことも
(出所はしない私の前で社会のことを話さない、という人が
100人に2、3人くらいいます)、全く気にしないでくれ、と
心から言えます。
決めたら未練など、毛ほどもないのが自分の性格です。
ドーナツ(超のつく甘党なので)・ケーキを食べたい、と思っても、
それは他の人と違って実現はしない願望であって、
単に○○だったら、という淡いもので、
瞬時に消えますし、心に留(とど)まりません。
逆に出所できる同囚が、今すぐに叶(かな)わないと嘆く方が
気の毒に感じます。現実的に社会を考えないことにより、
満足できる部分の良さもありますし、
そのように考えられること自体、社会にいた頃より、
少しは成長したとも思えるのです。
自分でもこんなものか、と感じます。
小学校の時、母がいなくなってから、その時の状況の中で、
何とか最善を尽くす、という行動様式が身についたと思うのです。
理屈が通らないことに囚われ、心を激しく動揺させる、
気分をころころ変えるという特性を見てから、
余計に自分の傾向は強くなった気もします。
人は物事を成就できませんし、私の目指す生き方ではありません。
仮に、今、ここですぐに死ななければならない必要なり、
状況があった際でも、「あっ、そう」と瞬時に肚を決め、
「じゃあ」と笑って逝ける自分である、という思いが矜持です。
大事なのは自分自身が自分をどのように
評価できるか、ということですから。
どう生きるか、という理念なり、信条というのは、
思いだけで実際の行動に出なければ、ただの観念でしかなく、
口舌の徒でしかありません。
理念の信条は貫徹するというのが、私のルールです。
何も生み出すこともなく、誰の役にも立たず、
流されて生きるというのはしたくありません。
自身への思いでもあります。
ここにきて、アタラクシア(心の平穏)というのを知りましたが、
アパティア(不動心)をしっかり身につけるためにも、
訓練を重ねていきたいです。
今考えていることは(いつもですが)、努力することの意味です。
本来、己が持ってるはずの能力・可能性をどこまで出せるか、
使いきるかということになります。
生来、没頭する性分なので、睡眠も食事も不要と思う中でやっています。
それは単なる放恣(ほうし)であり、気ままであるだけで、
その時の状況の中で最善に生きようとする試みが、
人間の自由ではないかと思います。
心からそう考えるようになりました。
自分ではどうすることもできないことがあり(自らの意志を超えたものでもあり)、
そのためにも最善を尽くして天命を待つ、というわけです。
(こういう人が少なくありませんが)、ただの見栄や虚栄心であり、
その姿勢は自らをも偽るものでしかありません。
人生の幸福・満足についても、それは外に求めるものではなく、
己の内にあるものから求めるものと知りました
(かなり、回り道をしたのは、私の愚かさの表れですが)。
そして、同時に何か、社会のために役に立ちたい、立たなくてはという
外面への模索が、うまくつながることを望んでいます。
その質の変化を受け入れることではないでしょうか。
生活をしています。
先日の「まー君」や「れのあちゃん」のレビューではないのですが、
身体的、あるいは物理的障害があった際、
その人は真価を問われているのかもしれません。
大したことではありませんし、私自身、このくらいのことがある方が、
自らの性根や能力を試す機会だと自負しています。
日本の受刑者は獄にいる間は、とにかく何もできない、というのが
長い間の不文律になってましたが、
私はそれに従う気もなく、私だからこそできること、
私でなくてはできないことをやってみよう、という
不敵な笑みさえ心に持っているところです。
みんなに知ってほしいと願っています)
若い頃からの信条でした。
怒と哀につき、その表出を抑制することに成功しつつあります。
さて、先日、札幌のMARUZEN&ジュンク堂書店の方の
拙著へのレビューありました。(『女子高生サヤカ~』についてですが)
「おおっ、よくぞ、気がついてくれた」と思ったものです。
肩がガクッとなりましたが、そうなんですよね。
ただ、拙著への感想は「心のあり方の指南書」として成立するとも。
不思議に静かな気持ちになります。おすすめです」とありました。
その私の年末ですが、31日だけは普段、ニュース以外聴かない
(例外として日曜の午前中、FMのみ)ラジオで「紅白」を聴きます。
周囲の人たちのご多幸を窓の外に向かって祈ってから寝るのが
恒例となりました。
9連休ですが、31日と3日の入浴をはさみ、ひたすら読書と原稿書きの予定です。
(社会にいる頃より)
小説の出版も決まったこともあるので忙しい正月になるでしょう。
社会のみなさま、レビューを見てくれている方々には、良い年を迎えてほしいです。(美)