勧業目的は民業の保護育成にあり、輸出を促進して、輸入を抑えることにありました。次に勧業部門を農・工・商業として、農業を基本に、工・商業がこれに次ぐものとしています。これらの勧業行政では、恒久的事業と臨機的事業に分け、前者では試験場や「習字場(訓練所)」を作り、人々を習熟させようとしたのです。

 試験場には、養蚕(ようさん)・製紙(せいし)・畜産・穀物と果樹の栽培などがありました。穀物と果樹栽培は大久保も興味があり、芝の別荘に園芸場を設けています(別荘といっても、京都時代からの愛人の「おゆう」の居宅で、本妻と子どもたちを東京に呼び寄せて、役所が休みの日に、別荘に行っていました。他にも海運業や山林行政に力を入れていたのです。

 地方行政では、1875(明治8)年末に「府県職制(ふけんしょくせい)」を制定して、バラバラだった府と県の職制を統一しました。こうして、各府県に
第一課(庶務)
第二課(勧業)
第三課(租税)
第四課(警保)
第五課(学務)
第六課(出納(すいとう))
の六課制が定められたのです。勧業課の設置は、各地の勧業行政を活性化させています。

 1876(明治9)年には、大久保の指示で大規模な県の統廃合も実施され、合わせて地方長官任期の長期化を施行したのです。長官と住民の親睦と、地方行政の円滑化と長官への監督権の強化が目的でした。日本はこの大久保の殖産興業政策を土台として、以降、産業発展・富国強兵(ふこくきょうへい)の道をひた走るようになります。

 そのような中、大事件が起きたのです。1875(明治8)年9月20日、日本海軍軍艦『雲揚(うんよう)』が、朝鮮江華島(こうかとう)沿岸で朝鮮から砲撃を受けて交戦しました。雲揚は9年前にイギリスで造られた245トンの砲艦で、1871(明治4)年に長州藩から政府に献納されています。

艦長は井上良馨(よしか)海軍少佐でした。西郷(隆盛)が下野(げや)したあとも朝鮮との交渉は断続的に続けられていました。日本との国交、諸外国への開国に反対していた大院君(だいいんくん)が、国王の妃(きさき)の閔妃(びんひ。実質的ナンバーワンの女傑)に追われて下野した癸酉(きゆう)政変(1873(明治6年12月)後に、日本の台湾出兵での強さを知った朝鮮政府は、態度を軟化させてきたのです。

 1874(明治7)年5月頃より、日本も外務省官員・森山茂(もりやましげる)の働きと、それを支持する外務卿の寺島宗則のコンビにより、朝鮮側担当者と具体的交渉に進んでいました。

 同じ時期に、台湾出兵、その後の大久保の清への派遣が重なり、朝鮮問題はあと回しになったのですが、1874(明治7)年8月10日には寺島が三条太政(だじょう)大臣(首相)に「渡韓手続伺(うかがい)」「応接端緒手続(たんしょてつづき)案」「委任権限案」「委任状案」を出しています。

 ここでは、古くから朝鮮との外交・交易を担当してきた対馬(つしま)の宗(そう)氏派遣を上申し、「旧誼(きゅうぎ)」(古くからの付きあい)を前面に出し、「無用の弁論」はせず、穏やかに日本の維新変革の現状を諭(さと)して国交樹立の「端緒(たんしょ)」を得るようにと述べられていました。

 これも大久保派遣の一大事業で実行されず、現地で森山が直接、交渉しています。この森山は朝鮮側の反応が思いの外(ほか)、よかったので独断で交渉を進めました。その報告を携(たずさ)えて帰京した森山は、寺島から同じ外務省官員の広津弘信(ひろつひろのぶ)と両名で再度、朝鮮へ派遣されたのです。理事官が森山、副官が広津でした。

 歴史を学んでいると、幕末・明治の人は役人であっても、自分の権限と責任において、上級者の指示を待つことなく、使命を果たそうとするのだと伝わってきます。失敗したら責任を取るのみ、己の責任になるのが怖(こわ)くて「ことなかれ主義」の人が多い現代からは考えられませんね。任務に対する気概、あるいは己が国家を背負っているという矜持(きょうじ)か。明治の人は、胆(はら)があるというか、すわっているというか、偉いもんだと痛感します。

 森山らの交渉は1875(明治8)年3月になり、洋装での会見場正門通行(どちらも前例がなく)と、外務省文書の日本文使用で難行し始めました。そこで森山は広津を帰国させ、「声援」という形で軍艦の派遣を求めます。派遣理由は「海路測量」でした。

 外務省は4月29日に朝鮮側が接見延期を申し出て、それが「情理」に背(そむ)かないなら受け入れること、国交樹立の使節派遣に難色を示したならば、明治維新を祝賀する使節であってもよいので来日させること、それも拒否するならば、日本から使節を派遣することを指示しました。

 海軍次官の川村純義(すみよし)は、5月4日に「対馬から朝鮮への海路研究」を目的として軍艦『雲揚』『第二丁卯(ていぼう)』を派遣することを三条に届け出ています。

 この朝鮮の対応の変化には、ある事情があったのでした。

『1分間さえ休む暇のない時ほど、私にとって幸せなことはない、働くこと、これだけが私の生き甲斐である』
(ファーブル博士、昆虫学の権威)