外務卿の文書を持ってくれば国交樹立というところまでいっていたのに覆(くつがえ)ったのは、清の挑戦に対する干渉があったからです。そこで森山は政府に対して、朝鮮との交渉には、清の意向を照会することも必要と具申(ぐしん)しましたが、政府からの回答はありませんでした。

森山は、寺島に対して自分が直接、「愚考」を述べたい、将来、「遺憾」のないよう議論を尽くしていただきたいので、と提案もしています。しかし、明確な回答はなく、9月3日に寺島は森山に朝鮮からの帰国命令を出したのです。他方、雲揚は5月25日から6月29日まで、朝鮮半島東海岸の航路を調査して、7月1日に長崎に帰還しています。

艦長の井上少佐は7月中に報告書を提出しました。その中では、朝鮮の森山に対する非礼を批判し、服制(洋装)にまで文句を言うとは「我が国」を斥けることを意味し、そのままにしておけない、朝鮮は日本にとって「要用」の地で、他国が攻めるならば「一朝」にしてその「有」(領有されるということ)になってしまい、「我が国」の発展は難しい、など述べていたのでした。

この井上に再度の朝鮮への「海路研究」の命令が出たのは9月12日です(同日、森山にも正式に帰国命令が出ています)。そうして、9月20日、江華島沖で測量をしていた雲揚は砲撃され、翌日と翌々日、井上は反撃しました。雲揚は朝鮮の砲台をことごとく撃破し、江華島付近の第一砲台のある永宗島(えいそうとう)に22人の陸戦部隊を上陸させ、数百人の朝鮮兵を征圧したのです。

戦闘は、日本側の圧勝で、たった1度の軍艦(それも小さな艦)で砲台の兵器まで持っていかれたことは、朝鮮政府にとって大きな衝撃となりました。この事件は、日本側(雲揚)による挑発とも言えます。朝鮮の砲台がある江華島や近隣の島の海で測量をするのは、国際法では立派な軍事行為です。

ペリーが江戸湾(東京湾)で測量したのと同じで、万国(ばんこく)公法の通用しない朝鮮だから関係ないとは言えません。ただし、軍事行為に対する違法性や、特に道義性という点では、この時代では欧米同様、決定的あるいは大きな問題とはされなかったのです。日本としては、いつまでも朱子学に固執(こしつ)して頑迷に振るまう朝鮮に対して、「最新の国際外交スタイル」で対応したと言えます。

日本は天皇を中心とした新体制に変わったのに、朝鮮は朱子学や、清を頂上とする中華思考・華夷(かい)秩序にこだわり、日本を侮辱しているのは見過ごせなかったとも言えるでしょう。砲撃の報告を受けた時、まっ先に木戸が使節に名乗り出ました。じつは、木戸は幕末からの「征韓論」者でした(明治政府内での最初の征韓論は、1868(明治元)年から翌年にかけて木戸によって唱えられたのです。これは師の吉田松陰の影響の他、戊辰(ぼしん)戦争後の士族対策の意味もありました)。

西郷の征韓論問題の時は、征韓論を唱えていた自分が反対側に回ることに、うしろめたさもあり、井上・槇村の件の始末と相俟(あいま)って欠席していたのです。名乗り出た木戸は、健康状態がすぐれないということで特命全権弁理大臣(大使)に黒田(清隆)と副使の井上馨(かおる)が使節となりました。

この人事は大久保によるものでしたが、野に下(くだ)っていた井上が政界に復帰したばかりなので、何か功績をという思いから親友の伊藤が大久保に頼んだのです。大久保は「和平を主」とする旨を強調し、黒田には「粗略の挙動」をとらぬように釘をさしています。

黒田は薩摩人らしい!?豪傑の士ですが、酒が入ると猛虎になる男でした。のちに酒の勢いで妻を殺したという疑いもかかりますが、その時は絶対権力者の大久保の一声(ひとこえ)で容疑なしとなりました。この件では、もともと奥さんは心臓が悪かった(それ自体、夫のせい?と思ったりして)、いや、あれ殺人だったと学界でも諸説あります。

井上の方は、大蔵省辞職後、郷里の山口県で会社経営(これが三井となり)をしたり、相変わらず金・金・金(カネ・カネ・カネ)の生活でしたが、官職や権力が恋しくなったのでしょう。自分の弟みたいな伊藤の大躍進も、井上の目には眩(まぶ)しく映っていたのです。黒田・井上のコンビとは、私にはニコニコしながらケンカしにいくようなものに映(うつ)ります。

両人共、「受ける」ということを知りません。「仕掛ける」のが大の得意で、「オレが、オレが」の人です(能力はありますが)。1875(明治8)年12月に任命された両人は、翌年1月6日に品川沖から6隻の!軍艦で出発します(儀仗兵(ぎじょうへい)という形で200人の兵隊を連れていたのです。他にも砲兵45人が乗り込んでいます)。

同じ頃、陸軍卿(きょう)の山県(やまがた)は下関(しものせき)へ移動しました。朝鮮への出兵要請があった時に備えるためです。黒田らが釜山(プサン)に上陸した1月16日、陸軍の増援を求めてきましたが、大久保が拒否しています。第一目標は平和的交渉だったからです。

しかし、大久保は同時に開戦準備にも着手しています。交渉が決裂した際には、「問罪の師」を差し向けて「軍国の政」をしくと岩倉に述べていました。

『講学の道は敬天愛人(けいてんあいじん)を目的とし、身を修するに克己(こっき)を以(も)って終始せよ』
(西郷隆盛)