政府軍は総攻撃を9月24日と決めたのです。

 23日午前1時から砲撃は中止され、海軍軍楽隊が士気を昂める演奏をしています。鹿児島県出身の政府軍の将官である大山巌(いわお)は、この夜、西郷の好きだった花火を打ち上げました。そしてこの日、薩軍内にも動きがあったのです。

 西郷先生をこのまま死なせてなるものかと、助命を請(こ)う軍使(ぐんし)2人が政府軍に出されました。西郷先生を自分たちと死なせてはならないという思いは、薩軍内では少なくありませんでした。

 西郷個人への敬愛の念と、自分たちの決起の根拠でもある西郷が「賊(ぞく)」として葬(ほうむ)られることへの慚愧(ざんき)の念もあったからです。しかし、当人の西郷や、側近の桐野らが拒(こば)んでいました。その中で、猛将の1人である辺見(へんみ)が、西郷先生を救う方法はないかと、河野主一郎(こうのしゅいちろう)に持ちかけたのです。村田新八(しんぱち)も賛同し、重ねて西郷に嘆願することになりました。

 桐野は反対でしたが、特に強く主張することはなかったようです(桐野には告げなかったという説もあります)。そこで河野は西郷だけを助命するというのでは、西郷本人が納得しないので、今回の決起につき、このまま死ねば終生、賊軍の汚名がつくので、自分が政府軍に行って、その理非曲直(りひきょくちょく)を明らかにしたいと申し出たのです。

 西郷の返答は「其方(そのほう)が見込(みこみ)の通りに尽(つ)くすべし」でした。軍使は自ら志願した山野田一輔(やまのだいっぽ)と河野に決まりました。両人とも薩摩の士族出身で、山野田は幕末に新撰組(しんせんぐみ)隊士を斬ったほどの剣士です。

 彼らは9月23日に政府軍の陣中に行き、参群(指令軍)の1人である川村純義(かわむらすみよし)と会っています。この時、河野は、西郷暗殺の非が戦争の原因であり、止(や)むを得ないものだったと述べました。川村は、暗殺疑惑を明らかにしたいなら、大久保や川路(かわじ)(東京警視庁大警視)を糾問(きゅうもん)すればいいのに兵を挙げたのは道を誤ったものと対応しています。

 西郷の助命については、天皇の大権(たいけん)であり、軍門に下って大命(たいめい)を待つべしと諭(さと)し、明朝の攻撃予告と、本日午後5時までの返答を言い渡しました。また、この時、山県が自ら認(したた)めたという西郷への手紙を託しています。河野は留(とど)まり、山野田が自陣へ戻ってその旨を西郷に告げましたが、「回答の要なし」と語ったのです。この時の山県の手紙は西郷への思いが込められたものでした。

「有朋(ありとも)(自分のこと)が見る所を以(もっ)てすれば、今日の事たる、勢(いきおい)の不得巳(やむをえんざる)に由(よ)るなり。君の素志(そし)に非(あら)ざるなり。有朋能(よ)く之(これ)を知る」

「君の名望を以(もっ)てするも、尚之(なおこれ)を制馭(せいぎょ)すべからざるに至(いた)る。而(しこう)して其名(そのめい。大義名分のこと)を問えば則(すなわ)ち曰(いわ)く、西郷の為にするなり。(中略)君が平生故旧に篤(あつ)きの情、空(むな)しく此(この)壮士輩をして、徒(いたずら)に方向を誤(あや)まりて死地に就(つ)かしめ、独(ひと)り余生を全(まっと)ふするに忍びず、是(これ)に於(おい)て其事(そのこと)の非なるを知りつつも、遂(つい)に壮士に奉戴(ほうたい)せられたるに非ずや」

 と決起が西郷の意志ではないことを理解する内容となっています。

 さらに、

「然(しか)らば則(すなわ)ち、今日の事たる、君は初めより、一死(いっし)を以(もっ)て壮士に与(あた)えんと期せしに外(ほか)ならざるが故(ゆえ)に、人生の毀誉(きよ)を度外(どがい)に措(お)き、復(ま)た天下後世の議論を顧(かえり)みざる而巳(のみ)。噫(ああ)、君の心事(しんじ)たる、寔(まこと)に悲しからずや」

 と西郷の立場に共感を示しつつ、自裁を勧めていたのです。

 山県という人は、のちに、陸軍元帥(げんすい)、総理大臣などを経て、「明治の元老(げんろう)」にもなり、位人臣(くらいじんしん)を極めながらも、権力欲と金権政治家の権化(ごんげ)として君臨しました。

 感情より、勘定(かんじょう)の御仁(ごじん)でしたが、この時の手紙は本心から西郷への思いが綴られていたように感じられます。しかし、西郷の脳裏では自裁はなく、戦場での死のみがあったのです。1877(明治10)年9月23日の夜、西郷らは最後の酒宴を開きます。

 酒を吞み、薩摩琵琶を弾き、歌を唄い、踊りながらの賑(にぎ)やかな宴(うたげ)でした。西郷のもとで、死出の旅路を共にしようとする、将兵の数は370人強となっていました(うち、銃を持っていたのは150人です)。

 対する政府軍は4万人の大群となっています。『太平記』で言えば、敗れるのは必定(ひつじょう)と知りつつ、大義のために死出の旅に出る楠公(なんこう)を描いた湊川(みなとがわ)の場面です(この場面、日本人の魂が表れています)。西郷は私学校党の者が、弾薬庫を襲撃した時から、自分の命を若い者に与えていました。

 それは西郷という人物の深い情によるものでした。側近中の側近である桐野は、自分に死に場所を与えてくれる人だ、という思いもあり、西郷を敬慕(けいぼ)し、命を捧(ささ)げようと生きてきましたが、その日が目前にやってきたのです。

 その夜、彼らの胸中は、いかなるものだったでしょうか。

『彼は決心したというのはいい言葉だ。一語で決心と解決という二つの意味を示している』
(アラン『幸福論』より)