当時のロシアのGDPは日本の約12倍であり、軍隊の規模は世界最強の陸軍が300万人、予備役も含めるとそれ以上でした。対する日本の陸軍は全部(現役が19万人、予備役が23.5万人)をかき集めても42.5万人強であり、アジアに動員できるのは30万人というところです。世界の列強から見ても大人と子どもの喧嘩にしかなりません。

 そのような情勢の中で、世界一の強国だったイギリスとの同盟の話が出てきます。それまでのイギリスは「栄光ある孤立」といって他国と同盟を結ぶことはありませんでした。まして同盟というのは軍事同盟であり、通常は弱い国と結ぶものではなく、日本など相手にもされなかったのです。それが、ひょんなことから話が出ました。

 言いだしたのは、ドイツの皇帝、ウィルヘルム2世です。この人は父の1世と違って思慮が浅く、良い君主ではありませんでした。あの偉大な宰相ビスマルクと折り合いが悪く、クビにした愚か者でもあります。このウィルヘルムとロシアの皇帝(ツアーリ)のニコライ2世は祖母がイギリスのビクトリア女王という親類でしたが、そのヴィクトリア女王が1901(明治34)年1月22日に81歳で亡くなり、その葬儀に参列した折にウィルヘルム2世がイギリスに打診しました。日本の海軍なら、十分に同盟の役を果たすだろうと言っています。

 ロシアとドイツの君主は互いをニッキー、ウィリーと呼び合う仲です。それなのにウィルヘルムは一時的にロシアを不信に感じて、その天敵のイギリスと、ロシアを背後から牽制(けんせい)できる日本と三国で同盟を結ばないかと提案してきたのです。

 ロンドンに駐在していた林董(ただす)特命全権公使が、イギリスのランズダウン外相から同盟を持ちかけられて、すぐに日本に緊急電報が打たれました。日本としては、雲の上の国と同盟が結ばれるというグループと、いや、それならなんとかロシアと結ぼうというグループに分かれます。前者がニコポンの桂太郎(かつらたろう)首相であり、後者が元老(げんろう)の伊藤博文(ひろぶみ)・井上馨(かおる)です。二人とも、桂からすれば長州(山口県)の大先輩・上司になります。

 どっちにするともめている間に早々とドイツが降りました。残るイギリスには、その時、日本と同盟を結ぶ動機となる厄介(やっかい)な問題を抱えることになったのです。それが南アフリカで起こったボーア戦争でした。これはダイアモンド鉱山と採掘権を巡っての争乱で、いつものごとく侵略したイギリスが相手の頑強な抵抗をうけて、イギリスとしては珍しく苦戦していたのです。結局は勝ちますが、それまでの間、植民地のインドや、半植民地の清に何かあっても兵力を充(あ)てることができず、アジアの安全保障に支障が出ることになりました。

 そこで、イギリスの政治家・軍人が考えたのが北清事変(ほくしんじへん)での日本軍の精強さと、重律の厳しさでした。あの国ならアジアでの抑えが効くだろうというので1902(明治35)年1月30日に『日英同盟』が結ばれました。これは貧乏な家の娘が貴族で大富豪のもとへ嫁入りするのと同じだとたとえられています。当時の世界的地位を思えば、その通りでした。日本中が喜びと名誉の思いで沸き返ったとされています。白人以外の日本が白人最強のイギリスと同盟を結ぶというのは、時代的にも大変な出来事だったのです。

 イギリスには他にも最大の敵国ロシアが南下して満洲や朝鮮半島を押さえれば、清やインドに持っている自国の権益にもリスクが生まれる、ならばダメでもともと、極東の日本にロシアに対する防壁の役をさせようという目的もありました。イギリスという国は、ずっとこうして他国を利用して己の立場を守ってきたのです。
 
 このことは現代に至るまで微塵(みじん)も変っていませんし、自国ファースト、国益を第一にするというのは、このようなことなのです。

 この日英同盟によりロシアも動きます。

『人生で何にもまして耐えがたいことは、悪い天候が続くことではない。雲ひとつない好天が続くことだ』
(ヒルティ『幸福論』より)