ロシアも、イギリスと仲の悪いフランスと同盟を結んで備えたのです。

 この場合、ドイツはウィルヘルム2世が親類ということもあり、安心しきっています。
そうして満洲と朝鮮半島への進出を続けました。
 日英同盟では、両国のどちらかが第三国の一つの国と戦う時には中立を守り、二つ以上の国と戦う時には援助をして参戦することになっています。
 ロシアからの圧迫が強まる中、日本国内ではロシアをやっつけろという声が膨れ上がりました。

 戦争をすれば勝算がないともされていたのですが、当時もメディアが煽(あお)っています。
 ここまでロシアに好き勝手にされても戦わないとは、政府は腰抜けか、のように報じられて、三国干渉での屈辱を忘れていない国民は激しく怒っています。
 今なら、北朝鮮や、領海・領空侵犯を繰り返す中国(これが他の国ならとっくに攻撃してやめさせるのが常識です)に対して、やってしまえというのと同じでしょう。

 最後の最後まで反対したのは明治天皇と伊藤博文(ひろぶみ)でしたが、いざ、やるとなれば、伊藤という人は万全の手を打っています。明治天皇は「今回の戦いは朕(ちん)が志(こころざし)にあらず」と言いながらも、ここまで来た以上、仕方がないと語っていました。朕というのは、王族が使う一人称で「私・俺」の意味です。「朕の志」でなく「朕が志」というのも一つの文法の作法だと考えてください。

 1904(明治37)年2月8日、日本軍は仁川(じんせん)・旅順(りょじゅん)でロシア軍を攻撃して開戦しました。この戦争は、日清戦争とは比較にならないほどの多大な犠牲を出しています。陸の方では翌年1月に旅順を落とし、3月には双方で50万人ともされる大会戦に勝ちました。この勝利の日の3月10日が『陸軍記念日』となっています。この戦いの激しい様子は『肉弾』(中公文庫)という名作!! が文庫で出ているので読んでください。

 そうして、いよいよ、ロシアのバルナック艦隊と日本の連合艦隊の日本海海戦になります。1905(明治38)年5月27日(海軍記念日になりました)、勝敗を決する戦いは日本軍の圧勝で、今も世界各国の海軍で教科書にも載るパーフェクトゲームでした。この日本海海戦は、サラミスの海戦、レパントの海戦、トラファルガー沖海戦とともに世界四大海戦となりました。

 この圧勝劇が、その後の帝国海軍を精神主義のおかしな軍隊にしたとも言われています。そうして、8月からはアメリカのポーツマスという都市で日本とロシア双方の代表が、アメリカのセオドア・ルーズベルト(愛称テディ)大統領の仲裁で講和条約を結びました。ロシアは、韓国においての日本の政治・軍事・経済上の優越権を承認する、両国は鉄道守備隊を除いて全軍隊を満洲から撤退させる、ロシアは関東州(清の東北部)租借地と、長春(ちょうしゅん)・旅順(りょじゅん)間の南満州鉄道を日本に譲渡する、ロシアは北緯50度以南の樺太(からふと)と付属の島を日本に割譲する、沿海州(えんかいしゅう)漁業権を日本に与える、という条件でしたが、賠償金が取れなかったとメディアが政府を非難して9月5日に日比谷焼打(ひびややきうち)事件という暴動が起こりました。

 これは、日本の内情を知らされていないメディア(政府の機密はもれなかったのです)と国民の暴走で、内情では日本はもう戦争を続けるだけの力(金・軍備・兵員)がないのと同じだったのです。しかし、それをメディアや国民に知らせればロシアにも伝わり、当然、向こうは続けようとします。こんなことは常識ですが、メディアはわかっていません。ついでに言えば、安保法案や自衛隊の武器使用につき、野党やメディアが細かく質問するのも、世界の非常識でバカげた行為です。防衛のことでわざわざ手の内を知らせる国などありません!

 さて、この講和には、さまざまな背景がありました。

『武士道精神は損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする』
(新渡戸稲造)