ドスンと鈍い音がして尻餅をついた男の顔から闘争心が消えた。

「よし、それまでだ」

声の主は翔太だ。屋上の物置小屋の前にはベンチが何列も並べられ、1年の幹部候補たちが座っていた。翔太、マーボ、トミー、真吾の四人は最前列に陣取っている。真吾はノートを手にしていた。

少し離れた場所には西たち2年が十人ばかり座り、仲間同士で歓声をあげながら、賑やかに見入っていた。5月のゴールデンウイークの前、屋上では連日のように1年同士の戦いが展開されていた。

ジャッジは翔太だ。KOは別として、明らかに態勢が決した、どちらかが戦意喪失、本人の敗北宣告などをルールとして、あたかもスポーツの試合のようだった。

初めは総当たり戦の予定だったが、それでは何カ月もかかってしまうので、敗者復活戦を併用した、勝ち抜きのトーナメント方式とした。

いざやってみると、喧嘩のレベルの低さに、翔太は失望していた。この間まで小学生だったとはいえ、組み合うというより子ども同士の掴み合いに等しい者も少なくなかった。

こんな程度で意気がろうというのか、幹部として四つボタンの長ランを着ようというのかと、翔太は憤りさえ感じた程だった。

さらにその失望に追い打ちをかけたのは、根性、気迫の薄弱さである。対戦前から委縮してしまう者、自分が劣勢になると途端に精神世界で無条件降伏してしまう者が少なくなかった。こんな連中が、より弱い者には強者となり、虚勢やはったりで意気がっているかと思うと余計に怒りが湧いた。

こんなことは俺の目の届く中では絶対に許さない、翔太はその思いを懐きながら、目の前の闘争を眺めていた。

その失意を慰めるかのように、少ないながらも気迫の込もった者がいたことは、将来への明るい材料となっていた。

「おお、やっぱ、石丸、やるじゃん。おい、石丸、おめえ、つええじゃねえか」

マーボに声を掛けられた石丸が、ニカッと笑った。

「三上(みかみ)は今一、根性が足りねえな」

トミーの言葉に翔太がうなずく。そうして、翔太は真吾に何やら言って、メモさせている。

「これ、何よ?どういう意味だ?」

トミーは真吾のノートを覗き込んだ。各人に勝敗の他にP、K、組、S、〇、✕、△などの記号が付けられている。翔太はパンチがP、キックがK、組み合うのが組、スタミナがあるのがS、〇、✕、△は根性のことで、気迫・気力の有無、強さだと説明した。翔太は小学生の頃からデータ魔だった。

「鍛えていく時の根性、喧嘩の時の根性は大事だ。自分が劣勢になると、すぐにダメになる奴は、遠征にも使えないし、幹部の資格は無しだ。はったりや虚勢だけの奴はいらない」

翔太の語調は決然としていた。

「その通りだよな。やっぱ、最後まで向かっていく、根性ってのがねえ奴はダメだ」

マーボは我が意を得たりという表情だ。翔太は「大城、柴田」と次の二人の名前を呼んだ。場にいた男たちの間に、おお、というざわめきが起こった。

大塚巧(たくみ)は柏楊小、柴田和生(かずお)は西陵小の番長だった二人だ。ともに165センチくらいで、1年としては平均身長よりかなり大柄だ。体型もがっちりしている。

「おっ、これ、ゴールデンカードじゃん、2回戦にしちゃ」

「どっちだ、俺は柴田。おめえは?」

トミーが口火を切り、マーボはトミーを挑発するような口振りだ。

「おお、いいぞ、大塚だ。1000円な」

トミーが受けた。

「よっしゃ、決まり。こいつらはよ、大塚の方が強かったぜ」

「あっ、おめえ、こいつらとやってんだよな、そういえば。きったねえぞ。それじゃ、これは無しだ」

マーボが睨み返した。翔太は二人のやり取りを見て笑っている。滅多なことでは賭けないのでオブザーバーだ。

「そっか、気付きやがったか。翔太は、どっちだと見てる?」

トミーに訊かれた翔太は、1回戦の様子から大塚だろと反射的に応えた。

「ええ、大塚かよ、何でだよ?」

マーボは不服そうだった。

「二人は同じくらい喧嘩慣れしてるけど、どっちと言えば大塚の方が気が強い」

翔太はそう答えると二人に始め、と声を掛けた。本当の喧嘩ではないし、後にまで遺恨を残さないために、罵声や怒声は無しというルールだ。

浅黒い顔の大塚が迷わず、右の拳を繰り出し、色白の柴田の顔を突き刺した。

柴田は瞬時に顔を紅潮させて目の色を変えて左右の拳を振り回す。当たってはいるが、威力に欠けるのか、大塚は構わず左右の拳で殴りつけている。手数(てかず)は互角だが、押されているのは柴田の方だ。二人の喧嘩のスタイルは、小学生の域を抜け出たものになっていた。

「決まりだろ」

トミーがマーボに、どうだという表情を向けた。

大塚は、ここぞとばかりにラッシュする。柴田は大塚の両肩に手を掛けてクリンチ状態のまま投げようとしたが、大塚は動かず、尚も殴りつけている。

柴田が鼻血を出した。しかし、目には尚も闘志の色を漲(みなぎ)らせている。トミーが決まったと言わんばかりに、まだやらせるのか、と顔を向けたが、翔太は、もう少し、と言って二人を見ていた。

口と顎を真っ赤に染めた柴田は、手数の多い大塚が疲れてきたのを見ると、俄然、反撃に出た。大塚はスタミナ切れで防戦一方だ。

柴田のパンチが何発も入り、大塚の唇の端が切れて血が流れ始めた。それでも表情には萎(な)える様子は毫(ごう)も無い。

柴田が疲れてくるのに乗じて再び、パンチを繰り出し始めた。

「おっもしれっ、こいつら。結構、根性あんじゃん。柴田ってのも」

マーボは面白いとばかりに身を乗り出し、つられるようにトミーも前屈(かが)みになった。

やがて膠着状態となった時、翔太が止めた。

「これ、引き分けだけど、敢闘精神がよかったな。二人共、3回戦進出だ」

翔太の声が掛かった二人は、まだやれるという表情のまま、両膝に両手をついて屈み込み、ぜいぜいと大きく肩を揺らしていた。

シューブンと純が、リングドクターのようにちり紙を持って駆けつける。

「柴田、意外と気が強いぞ。見かけによらないな。真吾、二人に◎を付けといてくれ」

翔太が言うと、真吾は嬉しそうに印を付けた。

「天野(あまの)先輩、今年の1年の番長の菊山翔太です」

「翔太、こちらはな、俺たちの先輩の天野さんだ」

西に紹介され、翔太は菊山です、と会釈した。白いカウンターの向こうの厨房にいる大柄な若い男も、天野です、と笑顔で応じた。

それから西はマーボとトミーを副番長ですと紹介し、二人は天野と挨拶を交わしている。その間、佐野は微笑を浮かべながら端っこ座っていた。

翔太たちが連れて行かれたのは、椿町にあるテナントビル一階の『テオジニス』という小さな洋食屋だった。

カウンター十席、四人席のテーブルが三つだけの店で、レストランという程の高級感はないが、食堂よりはモダンで清潔な店だった。

上半分をクリーム色、下半分を緑色に塗られている壁には、コロッケ400円、カニクリームコロッケ470円、豚ロースカツ450円、ハンバーグ400円、カツレツ450円、カキフライ450円、海老フライ450円、カレーライス370円、カツカレー450円、オムライス420円、スパゲティミート400円、スパゲティナポリタン400円、ハヤシライス420円、ビーフシチュー480円などとたくさんのメニューが記された短冊が貼られている。

その中に1枚だけ、上半身が半裸で岩につながれた勇壮な男の絵が掲げられていた。

天野は180センチ程で、胸まである黒いエプロン姿から出ている腕は逞(たくま)しい。口髭を生やし、髪はスポーツ刈りで、色白の顔ということもあり、清潔感があった。

厨房の壁には、大きさの異なる五枚のフライパンが並んでいる他、各種の調理器具が掛けられている。

翔太たちは、脚の長い白くて丸いスツールに座って、カウンター席に座っていた。出入り口から離れた側の端の方である。

天野の横には、胸まである真っ赤なエプロン姿の若い女がいて、西が先輩の奥さん、この店のママでもあると紹介した。女は千波(ちなみ)です、よろしくね、と微笑んだ。

厨房内にいる二人に向かって左から佐野、西、翔太、マーボ、トミーの順に座っている。五人共、放課後なので長ラン姿だ。

西が、まずはここではカレーだというのでカレーライスを頼んだ。それにコーラ、翔太だけはファンタグレープだ。

「菊、天野先輩はな、俺たちの9期上の総副番だ。この菊と、隣の武田は今年の対面式の場で物を俺たちに投げ返した二人です。それでけじめを取りに行った加賀が菊にやられて、来年は2年で総番になる予定です」

西の説明に天野は、ほお、と翔太への視線に熱が込もった。

「菊、投げ返したのは、天野先輩の時以来なんだぞ」

「俺じゃなく茂だけどな、投げ返したのは」

天野は巨大なずんどうからレードルで、千波の差し出す、ライスの載った皿にカレーをかけながら話した。ライスの上にはカットされたカツがある。

「これ、初めてだから、ご祝儀な。カツ、うまいぞ」

天野が言うと、千波は五人の前にカツカレーを置いた。それから飲み物を出し、福神漬や辣韭(らっきょう)などの薬味の入った容器を並べた。

「あの、茂というのは、上林さんという人ですか?」

「そう。あれ、茂を知ってるのかい?」

「いいえ、浅野先生と桂先生が話してたもんで」

翔太は生活指導部での二人の教師とのいきさつを話した。

「茂は俺たちの時の総番だ。それも2年からの総番だった。ちょっと俺たちとモノが違う強さだった。今もバリバリの極道やってるけど。そうか、菊山君は、茂以来の2年の総番になりそうなのか。でも、あまり大きくないな。大体、中学くらいじゃ、体の大きさに比例するんだけどな、強さは」

天野の視線が翔太の体格を図るように動いた。

「先輩の時もそうでしたか。天野先輩もでかかったですか?」

カレーを口に入れたままの佐野の声だった。

「ああ。俺が一番、背が高かった。でも、ガタイのいいのは何たって茂だ。背もあったしな。ゴリラって陰で言われてたくらいだ、あいつは」

翔太たちは、その言葉に笑い声をあげた。

「イツコさん、ガンちゃん、元気かい?」

「はい。桂先生は担任、浅野先生は体育を受け持ってます。全然、うるさいこと言わないんです。特に浅野先生なんか喧嘩を面白そうに見てるような気がします」

翔太が報告すると、天野は口元に笑みを浮かべた。

「見てるような、でなく、好きなんだ、ガンちゃん。俺らの時なんて、他の学校とやって、補導されても第一声は「勝ったんだろな」だから。それで、もちろん、と言うと、喧嘩はやらん方がいいが仕方ない、誰かが負けましたなんて言ったら、負けるくらいならやるな、でゴツンだ。根性が足りんとかってな」

店内に笑い声が広がった。

「ガンちゃんも、大中に浅野ありって有名だった人だから好きなんだよな。ハギーは知ってる?」

萩原先生ですか、と確かめた翔太に天野はうなずいた。

「俺たち、ハギーが新任で来た年に入学したんだ。ガンちゃん2年目で、ハギーは一期下だ。ガンちゃんの影響で、トッぽくてなー、体育の時間でも、かったるいから、先生、柔道教えてって言うと、すぐにマットを敷いて俺たちをバンバン投げて楽しんでるんだよな、腕がなるなあ、とか言って」

再び、笑い声が上がった。

「上林さんて、極道やってんですか、どこの暖簾(のれん)ですか?」

「えーと、武田君か。オヤジさんか誰か、稼業人なのかい?」

マーボが、暖簾という言葉をだしたので、天野はピンと来たのだろう。

「はい、オヤジが義人会です。武田組の組長なんで」

「ええっ、武田組か。茂も義人会だ。中尾(なかお)組。知ってるかい?」

「はい。中尾の組長はオヤジと兄弟分です。じゃ、オヤジは上林さんのこと知ってるかもしれませんね」

「訊いてみたらいい」

「それが、今、別荘に行ってて。夏には帰って来ますけど」

「そうか、武田の親分の実子(じっし)か。将来の三代目候補の一人だよな、中尾の親分と」

「そうらしいですけど、詳しくはわかりません」

天野とマーボの話題は大中ならではのものだった。

西や佐野も話の輪の中に入ったが、親がヤクザ関係者でないのは翔太だけである。佐野の父親も現役のヤクザということだった。

天野が出してくれたカレーは、よく煮込んであり、翔太の嫌いな玉ネギも溶けて小さくなっていた。店の雰囲気も悪くなく、居心地がいい。マーボとトミーも気に入ったようである。

また、この時代でカツカレーは、モダンなメニューでもあった。

大中OBには、育った環境のせいか、ヤクザ以外に飲食店関係者も多く、その店を後輩たちに伝えるのも先輩の一つの務めになっていた。

食べ終わると、カウンターの下に設けられている棚に、たたんだ長ランを仕舞い込んで一服である。飲食店での喫煙は長ランを脱ぐことが暗黙の了解、掟になっていた。

天野が聞かせてくれる大中の武勇伝や歴史はどれも興味深く面白いものだった。誰が強いのか。どれくらい強いのか。単純すぎるテーマだが、歴代の何百人、何千人の男たちが、この一点に向かって己を切磋琢磨(せっさたくま)し、鎬(しのぎ)を削ったことに思いを馳(は)せる時、翔太は全身の血の滾(たぎ)りを感じずにはいられなかった。

俺が一番強い男になってやる。そのためにはどんな苦しい鍛錬でもやってやる、と闘志も新たにしていた。

天野と千波の、いつでもどうぞ、という声に見送られて店を出ると、うっすらとした夕闇の中で、ぽつり、ぽつりと原色のネオンが瞬き始めていた。その光を浴びながら、男たちは家路に就いた。

第14回終了


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